087:2005年1月 第3週 照屋眞理子
または、私は夢見ている私が見る夢か

覚めてまたわが目とならむ双眼を
     しづかに濡らし今朝秋の水

         照屋眞理子『抽象の薔薇』
 不思議な歌である。「このふたつの眼は目覚めたときにまた私の目となる」という。この不思議さは、当然次のような疑問を生み出す。では私が眠っているあいだ、この目は誰の目だったのか。それは私ではない誰かの目であり、夢を見ていた他者の目である。うつつの世を生きる私にとって、夜な夜な訪れる夢は他界であり、他界からうつし世に帰還したとき、この目はふたたび私の目となり、現実を見る目となるのである。この一首は、存在への理知的眼差しという照屋の短歌世界の特質をよく象徴している。

 照屋眞理子は1951年(昭和26年)生まれで、歌誌「玲瓏」所属。第一歌集『夢の岸』に続き、『抽象の薔薇』は2004年に上梓された第二歌集である。俳句もよくし『月の書架』という句集があるそうだ。塚本邦雄麾下に犇めく才人の一人だから措辞の巧みさは当然として、栞に文章を寄せた尾崎まゆみはもっと驚くエピソードを伝えている。照屋が初めて作り「サンデー毎日」の短歌欄に投稿したのが「二人には二人の孤独休息の戦士に揺るる夜の濃紫陽花」という歌で、二度目に投稿した「檻のうちを豹は歩めりひたすらに見らるるための暗き意志もて」が「塚本邦雄賞」を射止めたというのである。照屋に習作の時期はなく、最初から歌人照屋眞理子として出現したことになる。塚本はその才能を愛でて、「照る月に屋根もしろがね眞珠(まだま)なす理外の花を子らは夢みつ」という照屋の名前を折り込んだ折り句を作って贈ったという。

 こういうことはあるものだ。私は以前にFMラジオで、歌手・鬼束ちひろがまだ宮崎で高校生の頃、自宅のラジカセで作り放送局に送りつけたデモテープを聴いたことがある。そのテープから流れて来たのは、まぎれもなく鬼束ちひろの歌の世界だった。鬼束は徐々に自分の世界を獲得したのではなく、最初から100%鬼束ちひろだったのだ。才能とはこういうものである。

 『抽象の薔薇』を通読して、私は韻文を読む楽しみを満喫した。私が満喫したのは「歌のしらべ」である。「短歌とは究極のところ『うた』であり、『しらべ』である」(岡井隆『朝狩』序)のは事実だが、その事実を確かめることのできないものも現代短歌のなかにはある。しかし照屋の短歌は、読む者の心のなかに韻文のリズムを作り出す。そのリズムに乗せて、無のかなたから意味が運ばれて来る。それが心地よい。何首か引用してみよう。

 天頂をいま羽ばたきに星鳴らす白鳥座かも耳盲ひて聴く

 鳥になぞへ空に放ちてその後を知らざれば今日も風中のこころ

 野に得たる青きことばは野に返し人語の街に帰り行くかな

 閉づるまぶたのうちに覚めつつ眼球のはや知れる今朝天体の秋

 ふとも背に目の気配在りまたたかぬ大き片目よ空虚(むなしぞら)とふ

 五首目の「空虚(むなしぞら)」など、「わが恋は空(むな)しき空にみちぬらし思ひやれども行くかたもなし」(古今集恋一)を連想させる。

 照屋の短歌を読んであらためて思い知らされるのは、「短歌とは五七五七七の三十一文字ではない」ということである。もっと正確に言うと、「五七五七七の三十一文字」は短歌という韻文形式の必要条件ではあっても十分条件ではない。律の韻文がやむなく形を取ったのが「五七五七七の三十一文字」なのであって、「五七五七七の三十一文字」が初期条件として存在していたわけではない。この形式が日本語の音数律からしていかに不自然な形式であるかは、岡井隆が『現代短歌入門』で縷々と述べているのでよく知られたことだろう。

 短歌としての必要条件しか満たしていない歌と、十分条件まで満たした歌は、並べてみればそのちがいがすぐにわかる。照屋はもちろん後者であり、前者の見本としては例えば次のような歌がある。

 こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう  枡野浩一

 ローソンに足りないものをだれひとり思い出せない閉店時間

 奥村晃作は「マスノ短歌はなぜ厳密に三十一音で、字余りが起こらないのか」という興味深い疑問を投げかけた(『短歌ヴァーサス』1号)。奥村はこの問いに答えていないが、その答はかんたんで、もし字余りを起こすと、マスノ短歌はもはや「短歌」として読むことができなくなるからである。短歌の中に固有の韻律が感じられるときには、字余りや字足らずの破調は短歌形式にとって障害にはならない。五七五七七を墨守していなくても、韻律が全体をまとめ引き締める役割を果たすので、歌はばらばらに解体することを免れるからである。このとき歌は五七五七七という「外在的制約」によってまとまるのではなく、韻律という「内在的要因」によって凝集する。マスノ短歌にはこの内在的韻律がない。だから五七五七七が絶対に譲ることのできない最後の一線になる。マジノ線のようにここを突破されたら総崩れになるのである。「五七五七七の三十一文字」とは、指を折りながら音数を数える「数合わせ」のパズルではない。古今の名歌に字余り字足らずが多いこともよく知られたことである。

 ここに枡野の短歌を引いたことは本人の不名誉にはならないだろう。枡野は意図的に短歌固有の韻律を消し去って、「渋谷の電光掲示板に映ったときにおもしろい短歌を作りたい」と考えているからである。それはスーパーフラットなキャッチコピーのような短歌である。そのような短歌にとって短歌固有の韻律は、歌の内部に入り込むことを過度にうながすので、すみやかな意味の伝達を阻害し邪魔になるのだろう。

 さて、照屋の短歌に話を戻すと、際立った特徴がふたつある。「存在にたいする理知的懐疑」と、その結果として生まれる「短歌に詠われた世界の構造の複雑さ」である。前者を示しているのは例えば次のような歌である。

 皮膚一枚のうちそと淡く暮れゆくをいづれ空とふいづれを虚とふ

 ここにゐる! ここにゐるとき本当にわたしはかしこにゐないのだらうか

 手、足、首、骨、血潮、いつたいいくつの言葉で出来てゐるか「わたし」は

 けふはもう私は私を早仕舞してさてここに居るのは誰

 〈私〉の内と外は皮膚一枚で区切られているが、その外部と内部のどちらが虚でありどちらが実であるか、これが一首目の問いかけである。仮に私の感じる生々しい実感こそ真と観ずれば、外的世界は流転する現象世界にすぎない。しかし私の実感を外的世界の刺激が投射されたものと見れば、〈私〉は様々な刺激が流れ込む空虚な「場」にすぎなくなる。二首目は現実世界に暮らす〈私〉とは別に、もうひとりの〈私〉がいるかもしれないという。三首目は、〈私〉は実は「言葉」で出来ているのであり、もし言葉を失ったら〈私〉は〈私〉であり続けられるのだろうかという疑問だろう。

 これは言うところの「存在の不安」だろうか。いやそうではあるまい。照屋の短歌においては、〈私〉の実体性や唯一性や一貫性にたいする懐疑が繰り返し提示されているが、そのような疑いを抱く〈私〉は確固として存在しているからである。「疑う〈私〉」の存在は疑えぬとは、まさしくデカルトである。この一点において照屋の存在懐疑は、例えば次のような歌に見られる現代社会における人間存在の希薄感とは一線を画している。

 むらぎもの空白だけが液晶の画面に写り削除するべく  菊池裕

 定常化されてしまったみみなりのむこうもこちらも世界であると  中澤系

 存在にたいする懐疑は「入れ子構造の世界観」を生み出す。例えば次のような歌である。

 夢に鳥となりて夢見る人間(ひと)たりしむかしの夢のうすきまなぶた

 名付くれば消ゆるばかりをなべてなべて在りて在らざる夢の内外(うちそと)

 薄目して夢が私を見つつあらししばしを水に魚となりゐつ

 わが泪もて君をのごはむ水底の魚の睡りに降る雨のごと

 照屋の第一歌集の題名が『夢の岸』であったことからもわかるように、集中に「夢」がよく出て来る。またこれが「私が眠って夢を見ている」というような単純な構造ではない。一首目、「夢のなかで鳥になる」のはよくあることである。しかしこの一首は「夢のなかで鳥になった人間が、その世界でまた夢を見ている」とも読める。また三首目では「私が夢を見る」ではなく、「夢が私を見る」と主客転倒が起きている。四首目で水底で眠る魚はどうやら夢を見ているのだが、その夢のなかでは雨が降っている。魚の外側には水があり、魚の見る夢のなかにも水があるという構造である。私はこの歌を読んで良寛の作と伝えられている次の歌を思い出した。この歌は仏教の宇宙観を表わしているそうだ。

 あわ雪の中に顕ちたる三千大世界(みちおほち)またその中に沫雪ぞ降る

 照屋の歌が単に現実を生きる〈私〉を詠うのではなく、〈私〉が〈私〉であることの懐疑を弾機として入れ子構造の複雑な世界を立ち上げていることが、照屋の歌に奥行きと広がりを与えている。読者は照屋の歌を読むときに、迷路を辿ってちがう世界にふっと出たような、あるいはジェットコースターに乗せられて上下の感覚をなくしたような、酩酊と昂奮を味わうのである。

 まだ言い残したことは多い。歌に詠み込まれた「原口統三」「藤田敏八」「若松孝二」「プロコル・ハルム」などの固有名詞は、時代を共有した者としては懐かしい。また「摂津幸彦うつつは知らね茜さす真昼の空に降る星の声」は、平成8年に49歳の若さで他界した俳人摂津幸彦への挽歌だろう。摂津は次のような秀句を残している。

 南浦和のダリヤを仮のあはれとす
 南国に死して御恩のみなみかぜ
 少年の窓やはらかき枇杷の花

 つい先日も同じく俳人の田中裕明が45歳の若さで鬼籍に入ったのも惜しまれる。俳句をたしなむと長生きするのではなかったろうか。これに限らず『抽象の薔薇』には死者を思う歌が多い。

 死者に死者のつれづれあらむときをりを帽子目深に白日を来る

 八月は死者の見る夢こぼれては陽の揚羽月のおほみずあを

 このごろを死者に親しくわがあればなべてうつくし現し世のこと

 死んでしまつたあなたと忘れてゐた私と風化したのはどちらか 桟橋に腰掛けて

 最後は珍しく大幅な破調の歌だが、死者は記憶のなかで永遠に風化せず、むしろ風化してゆくのは生きている私たちの方だという認識は苦い。しかし死者を詠うときも、照屋は過度の湿っぽさや暗さに流れることがない。句集『月の書架』所収の「いつかカランと骨になる日よ風の秋」という句が示しているように、どこか乾いた思い切りのよさがある。

 最後に言わずもがなのことを一言述べてみたい。見て来たように照屋の歌はいずれもしらべの美しい歌なのだが、例えば加藤治郎の次のような歌を見てどう思うだろうか。

 いま俺は汚い歌が欲しいのだ硝子の屑のかなたの牛舎 『マイ・ロマンサー』

 「定型の波打ち際」に身を浸して、常に短歌形式の拡大を目指してきた加藤が欲する汚い歌というのは、文字通り汚いという意味ではなく、古典和歌から近代短歌の革新を経由しても大きく変わることのなかった短歌的韻律と短歌的抒情からはみ出そうとする歌というほどの意味であろう。定型という形式との格闘は歌人の宿命である。照屋が完成させた自分の韻律豊かな定型短歌を、今後どのように展開してゆくのか、興味のあるところである。