「フランス語100講」第1講 人称 (1)

 フランス語を学び始めると、すぐに動詞の活用が出てきます。動詞の活用語尾は人称と数によってちがうと習います。次は最初に習う第1群規則動詞aimerの直説法現在形の活用です。

                      単数             複数

       1人称    j’aime              nous aimons

       2人称   tu aimes          vous aimez

       3人称   il / elle aime   ils / elles aiment

 でもどうしてフランス語の動詞の語尾は人称と数によって形がちがうのでしょうか。日本語では次のように主語の人称や数によって動詞の形が変わることはありません。

       1人称 私は歩く。

       2人称 君は歩く。

       3人称 田中さんは歩く。

 疑問を抱くのは当然ですが、教室で先生に質問するときっと煙たがられるでしょう。この疑問に答えるのはなかなか難しいからです。

 英語やフランス語やドイツ語などのヨーロッパの言語(まとめてインド・ヨーロッパ語、または印欧語と呼びます)は文法を作る過程で人称という概念を深く組み込みました。それは「誰がするのか」、つまり行為の主体を重んじる考え方があったからだと考えられます。フランスでは、サン・テグジュペリ空港(Aéroport Saint-Exupéry リヨンの旧サトラス空港)とかヴィクトル・ユゴー広場(Place Victor Hugo 全国にあります)のように、公共施設や通りに個人の名前を付けることが多いのですが、これも業績を個人に帰する考え方が根付いているからです。一方、日本ではオリンピックで金メダルを獲ったとき、「支えてくれたスタッフや応援してくれたみなさんのおかげです」などと言って、栄誉を分散し個人が突出することを嫌います。ですから日本では佐藤栄作空港とか、志賀直哉通りのような命名はなじみません。日本語はこのような日本人の心性を反映して、「誰がするのか」をあまり表に出さない文法を作り上げました。日本語に見られるこの「行為主体の背景化」は、これからも「フランス語100講」のあちこちで話題になることと思います。

 人称が1人称・2人称・3人称の3つしかないのはなぜかというのも疑問と言えば疑問です。(注1)この問題を考えると、「人称とは何か」という奥深い問題に突き当たります。ちょっと考えてみましょう。

 まず1人称とは何でしょうか。それは「話している人」です。もしPaul君が « Je mange au resto-U. »「僕は学食で食べるよ」と言ったとしたら、jeはPaul君をさします。2人称は「話しかけられた人」です。Paul君がJeanneさんに « Je t’aime à la folie. » 「僕は君のことが死ぬほど好きなんだ」と言ったとしたら、t’ (te)はJeanneさんをさします。つまりjeとtuが誰をさすかを決めているのは「話す」という行為です。話す行為を言語学では「発話」(énonciation) と呼びます。1人称と2人称はこの発話の場に参加している人をさすのです。

 これにたいして3人称は発話の場の外にいる人・物をさします。

 

       (1) Tu sais que Paul va au Japon ?

   ポールが日本に行くって知ってる?

       — Ah, oui. Il est amoureux d’une Japonaise.

   ああ、あいつ日本女性にお熱なんだよ。

 

 上の会話ではIl (=Paul) はその場にいない人です。その場にいる人をさして il / elleを使うと失礼だとされるのはこのためです。その場にいる人をあたかもいないかのように扱うことになるからです。

 ここから重要な事実を導くことができます。私たちは1人称・2人称・3人称と並べて考えがちですが、{1・2 人称}と{3人称}のあいだには大きな断絶があるのです。両者はまったく異なる原理によって定義されているからです。{1・2 人称}は「発話行為」によって定義されますが、{3人称}はそうではありません。

 このことに改めて私たちに注意を促したのは、フランスの言語学者エミール・バンヴェニスト (Émile Benveniste 1902〜1976) でした。バンヴェニストは次のように書いています。(注2)

「われわれの用語法から人が考えがちなこととは反対に、これらの人称[=1人称、2人称、3人称]は均一なものではない。これがまず初めに明らかにされねばならない点である。(…)人称は《わたし》と《あなた》の立場にのみ本来的なものであるということが結論される。三人称とは、その構造自体によって、動詞屈折の非=人称形なのである」  (「動詞における人称関係の構造」)

「それでは、わたしまたはあなたが指向する《現実》とは何か? それはもっぱら《の現実》なのであるが、これはきわめて特異なものである。わたしは、名詞的記号の場合のように対象の用語ではなく、《話し方 locution》の用語によってしか定義することができない。(…)こうして、代名詞という形の上の類のなかで、《三人称》といわれるものは、その機能と性質から、わたしあなたとは完全に異なったものなのである。」  (「代名詞の性質」)

 上の引用の《の現実》の「話」とは paroleのことですが、発話 (énonciation) と置き換えてもかまいません。locutionも同じものを指しています。要するに、「jeとtuは発話行為によって定義されるが、il / elleはそうではなく、人称と呼ぶのは適切ではない。非=人称 (non- personne)と呼ぶべきだ」ということです。

 ここでひとつの疑問が頭に浮かびます。1・2人称を定義しているのは「発話行為」ですが、もし3人称が発話行為に基づかないならば、3人称を定義しているのは何でしょうか。

 ここでまた新しい用語を導入しましょう。「直示」(deixis)と「照応」(anaphore) です。直示とは、何かを指差して Donnez-moi ça.「これ下さい」と言うときの指示代名詞çaのように、外界にある物を直接にさすことをいいます。これにたいして、Il y a une pomme dans le frigo. Tu peux la manger.「冷蔵庫にリンゴがあるよ。それを食べてもいいよ」と言うとき、人称代名詞の la は前に出てきた une pommeをさしています。これが照応です。直示は目の前にあるものを直接にさし、照応は先行文脈にあるものをさします。イギリスの言語学者ハリディとハサンの書いた本(注3)では、直示は「外界指示」(exophore)、照応は「内部指示」(endophore) とも呼ばれています。直示がさすものは外の世界にあり、照応がさすものは言葉の中にあるからです。

 1・2人称の代名詞は、指差しこそしませんが、発話行為を媒介として話し手・聞き手を直接にさすので直示的です。jeとtuには直示的用法しかありません。ですから「代名詞」(pronom)という呼び方は、ほんとうはふさわしくないのです。「名詞の代わり」に使われるのではないからです。

 一方、3人称は前に一度話題になった単語を受ける照応用法が基本です。これがほんとうの「代名詞」です。

 

       (2) Ce matin, j’ai vu Paul. Il était avec une étudiante italienne.

        今朝、僕はポールに会った。彼はイタリア人の女子学生といっしょだった。

 

 上の例文の Ilは前の文のPaulをさしています。このときPaulを人称代名詞ilの先行詞 (antécédent) といい、Paul → il の指示のバトンタッチを照応過程と呼びます。ここからわかるように、3人称の代名詞 il / elleの指示を定義しているのは、1・2人称のように発話行為ではなく、先行詞を含む先行文脈という言葉の世界なのです。

 これでなぜ3人称の代名詞だけが物もさすことができるのかがわかります。

 

       (3) Voici mon sac ; il est noir. — Voilà ta serviette ; elle est grise.

   ここに私のかばんがあります。それは黒いです。あそこに君の書類

   かばんがあります。それは灰色です。

 

 この例文は、3人称代名詞は物もさすことがあり、先行詞の名詞の性と一致することを示すためのものです。(注4)3人称の代名詞は照応により、先行文脈の名詞を受けるので、もし先行詞が物を表す名詞なら、il / elleも物をさすことができるわけです。

 残る問題は、はたして3人称代名詞は直示的に用いることができるかという疑問です。3人称の il / elleに外界指示用法はあるのでしょうか。この点については文法書にはあまりはっきりと書かれていません。ただし目黒士門『現代フランス語広文典』(白水社)には、3人称代名詞は照応が基本であり先行詞を持つとしたあとで、「ある場面ですでに了解されている人やものを指す」として指呼的用法があると書かれています。次がその例文ですが、どういう場面なのか書かれていないのでよくわかりません。

 

       (4) Elle est très fatiguée.  彼女はたいへん疲れている。

       (5) Il n’a pas tort de se plaindre.  彼が文句を言うのはもっともだ。

 

 留学中にソルボンヌ大学 (Université Paris-Sorbonne)の図書館でコピー機に並んでいた時、私の前でコピーをしていた学生が振り向いて次のように言ったことがあります。

 

       (6) Elle ne marche plus. こいつ故障しちゃったよ。

 

 代名詞のElleが la photocopieuse「コピー機」をさしているのは明らかです。これが目黒先生のご本に書かれていた「ある場面ですでに了解されている人やものを指す」用法ですね。

 しかしここで考えてみましょう。3人称代名詞のelleはその場にあるコピー機を直接さしているのでしょうか。それはありえません。なぜならコピー機に性別はないからです。性別があるのはコピー機ではなく、photocopieuseというフランス語の単語です。ですからelleは口には出されなかったla photocopieuseという先行詞を受けていると考えざるをえません。それらならばこれは直示の用法ではなく、照応の用法ということになるでしょう。

 「真の代名詞には必ず先行詞がある」と強く主張するのはベルギーのアントワープ大学のタスモフスキー教授です。(注5)私はこの考え方に賛成なのですが、ひとつ問題があります。コピー機の話のときに、物には性別はないと書きました。しかしさしているのが人ならどうでしょう。人には性別があります。次のような例がすぐ思いつきます。

 

       (7)[高校の校長室のドアをノックしようとしている人に]

          Vous ne pouvez pas le voir. Il est en vacances.

      彼には会えませんよ。休暇中です。

 

 この場合、隠れた先行詞 le proviseur「校長」があるのだとすることも可能でしょう。しかしタスモフスキーはよく似た例で、もし校長が女性だったら Vous ne pouvez pas la voir. Elle est en vacances.のように、女性形の代名詞 laelleの方が好まれるとしています。この性の一致は先行詞との一致ではなく、代名詞がさしている人の性別との一致です。困ったタスモフスキーは、代名詞がさしているのが人の場合、 [homme] / [femme]という隠れた先行詞があるのだと主張していますが、いかにも苦しい説明ですね。3人称代名詞に直示用法があると認めているのとほとんど同じです。

 「代名詞が先行詞なしで使われたときは必ず人をさす」というのは、これからも何度かお話することになる話題です。目黒先生の文法書の例 (4) (5) がどちらも人をさす例なのは偶然ではないのです。             (この稿次回に続く)

 

(注1)言語学では第4人称という用語が使われることがある。しかしこれは1・2・3人称以外に人称があるということではなく、間接話法の主語の指示にかかわる問題である。次の文で従属節の主語elleは主節の主語のClaireを指す。

   i) Claire a dit qu’elle avait fait ses devoirs. クレールは宿題を済ませたと言った。

 もしクレールがマリーを指して「彼女は宿題を済ませた」と言ったとしても、それを間接話法にしてi)のように言うことはできない。言語によってはクレールとは別の人を指す代名詞があり、それを第4人称ということがある。これは間接話法における話者指示 (logophore) の問題であり、もうひとつ人称があるということではない。

(注2)Problèmes de linguistique générale , Gallimard, 1966、岸本通夫監訳『一般言語学の諸問題』みすず書房、1983.

(注3)M.A.K.Halliday & R. Hasan, Cohesion in English, Longman, 1976, 安藤貞雄訳『テクストはどのように構成されるか – 英語の結束性』ひつじ書房、1997.

(注4)京都大学フランス語教室編『新初等フランス語教本 文法編』白水社.

(注5)Tasmowski-De-Ryck, Liliane et S. Paul Verluyten, “Linguistic control of pronouns”, Journal of Pragmatics 1 (4), 1982 ; Tasmowski, Liliane et S. Paul Verluyten “Control machanisms of anaphora”, Journal of Semantics 4, 1985.