第368回 正岡豊『白い箱』

あの夏の拾い損ねたおはじきがためてるはずの葉擦れのひかり

正岡豊『白い箱』

 なんと30年振りの歌集だという。正岡の第一歌集『四月の魚』は1990年にまろうど社から刊行された。要望に応えて10年後に再刊されたものの、まもなく入手困難な幻の歌集となった。荻原裕幸の尽力により、『短歌ヴァーサス』6号 (2004年) に誌上歌集という珍しい形で再び世に出た。これがもう20年前のことである。続いて2020年に書肆侃侃房から現代短歌クラシックスの一巻として刊行され、ようやく多くの人の目に触れることとなった。数奇な運命を辿った歌集といえる。

 『四月の魚』の後記には、1979年ごろから作歌をはじめ、1989年に歌をやめるまでの十年間の作品を収めたとある。正岡は1962年生まれなので、17歳から歌を作り始め27歳で歌の別れをしたことになる。

 同じ後記に、歌集刊行と前後して安井浩司の句集『中止観』を読んでショックを受けたとある。その後、正岡は俳句の道に進んだようで、1992年に桐野利秋名義で第五回俳句空間新人賞を受賞している。そんな縁からか、歌集『白い箱』には俳人の高山れおなが帯文を寄せている。高山にとって正岡はまずもって、「沼になる寸前をきみにみられてしまう」、「鷹としてふいにけむりをさけるかな」の作者だという。『四月の魚』の中の連作題名の「その朝も虹とハモンド・オルガンで」も俳句になっている。『燿』という句集も出しているらしい。

 ちなみに安井浩司の『中止観』とは次のような句がある句集である。

山河の父よりかえる蟲の寺

夕空に稚児のまなこの無数かな

朱膳喰うはるかはるかな敗荷やぶれはす

 さて本題の『白い箱』である。30年振りに歌集を刊行することになった経緯は書かれていないが、いったんは短歌から離れたものの、その後作歌を再開して「かばん」に所属していた時期もあったようだ。版元は現代短歌社で装幀は花山周子。「白い箱」というタイトルはなかなか意味深長だ。私は現代芸術のミニマル・アートを思い浮かべた。歌集や短歌に過剰な意味付けを避けようとする態度が見て取れる。

音のない世界はなくてひとびとにしろがねのハモニカの午後の陽

鹿はもう撃たれて猪は食われ山小屋のけむりのうすみどり

みたこともないのにぼくの心臓のいろのゆうべの天の橋立

そこからは空の匂いや味がして黙って両足は水を掻いて

北斗七星 六つまで見つけられたのにそこまでで失明したような日々

 歌集冒頭付近から引いた。第一歌集『四月の魚』と基本的には連続する文体で、1990年当時このような文体で短歌を作るのは今から思えばとても先進的な試みだったように思われる。一首目では下句が「しろがねのハモ / ニカのごごのひ」と句割れになっていて、正岡が前衛短歌の遺産の継承者であることを示している。二首目も同様で「やまごやのけむ / りのうすみどり」が句割れだ。また五首目の初句は七音になっていて、下句は破調である。1990年というと、穂村弘の『シンジケート』が上梓され、ライトヴァースが話題になった頃だ。翌1991年には加藤治郎の『マイ・ロマンサー』が刊行され、荻原裕幸が新聞紙上に「現代短歌のニューウェーヴ」という文章を発表している。ニューウェーヴ短歌は、修辞の復権と記号短歌とバブル経済を背景とする明るさや洒脱さが特徴だが、正岡の短歌の文体はそれとはちがっていて、独自の道を開拓しているように見える。

 正岡はあとがきに次のように記している。短歌の世界では「韻律」や「定型」という概念が共有されているが、1980年前後から1990年あたりまで漠然と感じていたそれらの定義のようなものが何か別のものになったという感覚がある、と。近代短歌の基盤である韻律や定型という概念が溶けだしたことを肌で感じていたということだろう。

おぼえていねから生きていけたりするわけじゃないわ 木肌を這う残り蝉

たとえば火星が木星に恋をしたのなら いきなり泳ぎだすオウム貝

書くことがついに昨日の三日月に届く クジラがはねる海原

わたしはあなたと別につながりたくはない 弁当箱につめる白飯

ありがとうやさしい気持ちにしてくれて たて続けに割る三枚の皿

 読んでいて俳句との親和性を感じるのは上に引いたような歌だ。いずれも上句で意味の取れることを詠んでおき、下句でポーンと遠くへ飛ばす。上句は〈私〉の想いで下句は叙景となってはいるものの、両者に関連性はない。その意味の遠さの中に詩のタネを探しているものと思われる。

 俳句ではこのように言葉を遠くに飛ばすことがある。沖積舎版の『攝津幸彦全句集』から引いてみよう。

夏山のどの抽斗も位牌なり

喪の家の階段すべるヴァイオリン

春深し稀ににはとり死者に肖て

 こういう句を読んだときに私たちの脳内では何が起きているのだろうか。脳細胞のシナプスはカリウムチャンネルを使って電気信号を流す。何度も信号が流れたシナプスは電気信号が流れやすくなる。それは私たちの迅速な認知と記憶の強化につながる。「お盆のような月」や「雪のように白い肌」のような言葉の組み合わせは、陳腐で何度も見聞きしているせいで、脳内ですばやく理解され処理される。ところが「喪の家の階段」と「ヴァイオリン」の組み合わせは新奇なため、今まで流れたことがないシナプス回路に電気信号が流れる。その処理の結果は、慣れ親しんだ既存の意味のストックに回収されず、異物として留まる。それは私たちが日常抱いている世界像をごく僅かに揺らす。意外な言葉の組み合わせは、使ったことのないニューロンを発火させ、世界像を更新するのである。

 上に引いた正岡の歌はすべて体言止めであることにも留意しよう。見かけ上は上句の〈私〉の想いを下句の叙景が受け止める形式になっているものの、両者の間には大きな断絶がある。まるで下句は単独で俳句として歩き出そうとするかのようだ。

 『白い箱』はまた愛の歌集でもある。正岡はあとがきでパートナーの入交佐妃に対する愛情と感謝の念を述べ、この歌集のいくつかの歌は佐妃との波のような月の満ち欠けのような日々の暮らしから生まれたと続けている。それはおそらく次のような歌を指すのだろう。

きみよりの言葉の雨か はつなつの木の花はみずみずしくひらき

いちはつの根で煮たタオルわたされる夏のひかりのようなくらしを

まるまったアサギマダラの幼虫よ 年ごとに増える二人の食器

伊吹山 重装備の登山の人とすれ違うコンビニにでも行くような妻

萩はすなわちかぜききぐさよほうき星みたいに自転車で妻がゆく

 イチハツの根は鳶尾根といい、漢方薬として使われる。五首目の「風聞草」は萩の古名。

 さて、正岡はこのような短歌を通じて何をなそうとしているのだろうか。再びあとがきを見ると、「それでもまだ『短歌』から自分が離れずにいるのは、結局『言葉では書けないものを言葉で書く』というところに、ひたすら執着しているからだと思う。何かわからないものがそこにある、という、その感覚。または直感。」と書かれている。つまりは、正岡にとって短歌とは、世界に満ちる静かな響きに感応する魂たらんとすることなのだろう。次のような歌にそれを強く感じるのである。 

六月の森の交響楽曲の一音として落ちるヤマモモ

山海にこの姿では通れないかがやく蝶の道あるという

四季咲きのベランダのその黄薔薇にはカメラにはうつらない光が

虹の口語 詩のリアス式海岸の波打ち際でわたす あなたに

 最後に特に心に残った歌を挙げておく。

ぼくらが明日海に出たとしても王宮の喫茶室では黒い紅茶が

ミツバチはささやいたりはしないから鎖骨の海で泳がす人魚

巨人ノ月ハ沈没船ノ丸窓ヲテラセリソノ奥ノ映写技師

月はわが街の記憶のうたかたの細部を照らしうちしずみゆく

雪渓はいまここにこの花もなき桜の下のわれののみどに

こころとは見えぬ虚空の水仙の夏の没日に逃げ惑う蝶

天道を牛車牽かれてゆく夏のわれらのまぶたのうちなるみどり

敦盛草の鈍き朱色を六月の雨はうてどもうてども静か

 

 

137:2006年1月 第1週 正岡 豊
または、前衛短歌の後衛は透明な抒情へ

きみがこの世でなしとげられぬことのため
    やさしくもえさかる舟がある

             正岡豊『四月の魚』

 正岡は1962年(昭和37年)生まれで、十代の頃から早熟振りを発揮して短歌を作っていたらしい。歌集『四月の魚』は1990年にまろうど社から刊行されたが、すぐに入手不可能になり、歌壇でもそれほど話題にならず幻の歌集と化した。『短歌ヴァーサス』第6号 (2004年) が誌上歌集という異例の形で『四月の魚』を復刊し、荻原裕幸の選による歌集刊行以前の歌45首を添えて再び世に出ることとなった。

 「四月の魚」はフランス語の poisson d’avril (ポワソン・ダヴリル)の日本語訳で、4月1日に魚をかたどった紙切れをこっそり人の背中に張り付けて興じるフランスの習慣から来ている。いわゆるエイプリル・フールなのだが、BBC放送が真面目な顔をしてデタラメなニュースを報じるイギリスなどとはちがって、フランスではこの日に嘘をつくという習慣はない。poisson d’avril の起源は定かではないが、魚はキリスト教ではイエスのシンボルのひとつであり、おそらくはキリスト教以前に遡る生命と春の再生を祝う行事に由来するのだろう。

 掲出歌は現代の口語短歌の特徴のひとつである平仮名と漢字の意識的な配合 (多めの平仮名と少なめの漢字) により、全体として淡い透明な印象を与える歌である。「きみ」という二人称が使われているが相聞歌ではなく、「ぼく」との関係もまた短歌からきれいに拭い去られている。「きみがこの世でなしとげられぬこと」とは何かは明かされず、またそれが「やさしくもえさかる舟」とどう関係するのかも語られない。しかし、「この世でなしとげられぬこと」という否定の相における世界の把握、「もえさかる舟」という破壊と消滅のイメージによって、静かな諦念と喪失感が一首から滲み出る、そのような歌の作りになっている。しかし、抵抗のない読後感と平易な語り口に騙されてはいけない。初句「きみがこの世で」の7音の破調と、下句「やさしくもえさ / かるふねがある」の句跨りを見てもわかるように、正岡は前衛短歌の語法を我がものとし、それを口語脈で実現しようとしているのである。

 正岡の短歌の個性は次のような歌によく現われている。

 [1] 夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ

 [2] みずいろのつばさのうらをみせていたむしりとられるとはおもわずに

 [3] もうじっとしていられないミミズクはあれはさよならを言いにゆくのよ

 [4] ネル・フィルターひたされている水にわが朝日がうつるP・K・ディック忌

 [5] 生きてなすことの水辺におしよせてざわめきやまぬ海螢の群れ

 [6] 天像は冷えゆく秋の枯草の虚空に浮かぶわが月球儀

 [7] 薔薇とその季節を生きてもろともにほろぶ時間の水際に立てり

 [8] クリーニング屋の上に火星は燃ゆるなり彼方に母の眠りがみえし

 『四月の魚』に収録された順番どおりに並べたが、一見してわかるようにうしろの歌ほど文語脈で上に行くほど口語に変化している。だから作歌時期は下ほど古く上ほど新しいのではないかと考えられる。だからこちらも順番を逆にして論じてみよう。

 最後の[6]~[8]は「天象街」と題された連作に含まれていて、この一連は完全に文語定型となっている。「天象街」はもちろん造語だが、浜田到の「天使街」を連想させ、浜田と同様に天上的幻想を交えた美的昇華を強く感じさせる作風である。[6]は秋の空に浮かぶ月を詠んでおり、秋の名月とくれば古典和歌の共同的美意識にたやすく回収されそうな歌題であるが、月球儀は本来月を模したものであるのに、実物と模型の関係を逆転し、空にかかる月を月球儀と見立てることで古典和歌の地平から軽々と身をかわし、それに「わが」と所有形容詞を冠することで、作者の署名落款を墨痕鮮やかに残している。

 [7]は「薔薇」「季節」「時間」と、押しとどめようもなく流れ去るものを並列し、最後に「水際に立てり」とすべてを一人称で受け止めることで、時間という誰に取っても等しく流れるものを〈私〉が引き受け、それによって世界の定めを鮮やかに浮かび上がらせている。中山明の「歳月は餐をつくして病むもののかたへに季節(とき)の花を置きたり」という歌をどことなく連想させる歌である。

 [8]はクリーニング屋の上に輝く火星という意外な取り合わせがまず目を引く。火星大接近の時期ならば地球からも大きく見え、また赤い星だから燃えているようにも見える。ここまではやや幻想的匂いはするものの叙景であり、下句は一転して「彼方に母の眠りがみえし」と回想調の個人的述懐に移行している。この語法はとても前衛短歌風であり、後でも触れるように菱川善夫が「辞の断絶」と呼んだ塚本邦雄の語法を彷彿とさせ、不思議な感覚を呼び覚ます歌となっている。

 [5]では海螢が詠まれているが、海螢は水辺に押しよせることはあっても、ざわめくことはない。ざわめいているのは〈私〉の心であり、海螢は心像の喩である。生きることの迷いを海螢に事寄せて詠うこの語法は驚くほど古典的である。

 ここまで見た段階で言えることは、正岡が前衛短歌以後の語法を確実に吸収して自家薬籠中のものとしており、それと平行的に歌の背後に立つ〈私〉が明確に見える歌を作っていたということである。例えば[5]の歌には海螢を見つめる〈私〉が確固として存在し、その〈私〉は多少のずれはあるものの作者自身と重ね合わせて読解してもまちがいではないと了解される、そのような〈私〉である。

 しかし正岡の作歌態度は大きく変化を見せたようだ。上に引用した歌群を上へと遡ってみよう。[4]ではネル・フィルターが水に浸されているというのだから、コーヒーを淹れた後である。朝日が差しているのだから朝食の風景と考えてよい。P・K・ディックは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』などの作品で知られる米国のSF作家である。するとP・K・ディックの忌日に朝食のコーヒーを飲んでいる情景ということになるのだが、もうここに来ると歌の背後に立つ〈私〉の輪郭は、「わが」という所有形容詞があるにもかかわらず、その位相が判然としないものに変容している。[6]の「わが月球儀」の「わが」の力強さと比較してみればその差は明らかである。

 そして[1]~[3]の最初の3首である。これらの歌には「いつ・どこで・誰が・何を」したかという具体的記述が意図的にかつ徹底的に拭い去られている。いかなる現実の出来事や場面や人と人との関係性からも遊離して、これらの歌は取り返しのつかない喪失感・別れの気配・悲劇の予感といった漠然とした感情だけを言葉のかなたに浮かび上がらせる、このような作りになっている。これらの歌の透明感と詩性は圧倒的であり、電脳短歌イエローページの別室「e短歌salon」で2001年5月1日から20日までの間に開かれた『四月の魚』のネット批評会でも、[1]~[3]の傾向の歌が多くの人から支持されていた。上に引用した[5]~[8]の傾向の歌よりも[1]~[3]のような作りの歌を好きな歌として挙げていた人が多かったのである。それが正岡の歌人としての個性として高く評価されているということだろう。

 その評価に異論はない。また正岡のこのような歌がとても美しいこともまた事実である。しかし、もう少し長い短歌史的観点から見てみると、私はそこに一抹の危惧を感じないわけにはいかないのであり、以下その危惧を中心にして書いてみたいと思う。

 [1]~[3]のような歌の作り方は、正岡以外にもかなりの数の今の歌人に見られるひとつの流れである。伝統的短歌結社に所属せず、同人誌とインターネットを活躍の舞台とし、現代詩とゆるやかに接続している歌人にこの傾向が強い。その代表格として早坂類の名をあげておこう。

 ぼんやりとしうちを待っているような僕らの日々をはくらかす音楽(おと)

 いとおしく思いますから歯並びの美しいことなどなど全部

 わたくしは当て所無く祈りをし わたくしは走る ひとりの朝に

 早坂の短歌にもまた「いつ・どこで・誰が・何を」したかという具体的情報は決定的に欠落しており、「想い」だけが充満している。作者が何らかの想いを抱いくきっかけとなった出来事や情景が現実に存在していたとしても、それらはきれいに拭い去られて言葉から滲み出すような孤独な想いだけが差し出されて読む人に届けられる。このような歌の作り方は早坂だけでなく、玲はる名・佐藤りえ今橋愛・飯田有子・雪舟えま達の若手歌人に共通した手法であり、また『ラスト・トレイン』の中山明にすでにその先蹤を見ることもできよう。ちなみにネット上でのみ存在する中山の第三歌集『ラスト・トレイン』の歌稿が編まれたのは1991年のことであり、正岡の『四月の魚』刊行の翌年であることに、時代の符合を感じないわけにはいかない。

 ながれてゆく風景の色 ぼくはただあなたのゆめをみてゐるだけだ

 いつかきた夢の坂道 よそよそしいふりをしてゐるきみの家まで

しっぽの先まで餡が詰まった鯛焼きのように、一首全体をひとつの想いが満たしていて、何首も続けて読むと息苦しくなるほどである。頭の天辺から足の先まで「一首全体がひとつの想い」というこのような歌のあり方が、とりもなおさず私に危惧を覚えさせる原因なのだ。

 ここで短歌史をひもとくと、戦後の第二芸術論の流れに位置する臼井吉見は「短歌への訣別」(『展望』昭和21年)のなかで「短歌形式が今日の複雑な現実に立ちむかふ時、この表現的無力は決定的であるがそれよりも重要なのは、つねに短歌形式を提げて現実に立ちむかふことは、つねに自己を短歌的に形成せざるを得ないとういふ事実である」と断じ、その論拠として宣戦布告の時と無条件降伏の時に歌人たちがほとんど見分けのつかない歌を作っているという事実を指摘している。

 一億の民ラジオの前にひれ伏して畏さきはまりただ声をのむ  (開戦時)

 大きなる時に会いつつ はふりくる勇みの涙 のごひにのごふ (終戦時)

臼井たちの「短歌滅べ」という短歌滅亡論に対して塚本邦雄らの前衛歌人が採った戦略は、歌のなかに異質のものを持ち込むことで短歌的韻律に流れない抵抗感を作り出す工夫と、菱川善夫が「辞の断絶」と呼んだ次のような語法であった。

 壮年のなみだはみだりがはしきを酢の壜の縦ひとすぢのきず

笠原伸夫が「勦滅的前衛短歌論」(『短歌』昭和41年)という文章で、この塚本の歌の「を」という助詞の係り方が曖昧であり、「あいまいな辞の定着力からくる上句と下句の関係は、あいまいなイメージを構成するものでしかないだろう」と批判したのを受けて、「あいまいさを招かざるを得ぬ詩句の構成と辞の用法のうちにこそ、塚本の詩法の存立の本質はのぞき得るもののようにおもわれる」と菱川は切り返し、続けて「一個の人間の内にある矛盾と対立の意識こそ、かかる辞の断絶の技法を支える基底であろう」と書いた。(「実感的前衛短歌論 – 『辞』の変革をめぐって」『短歌』昭和41年、後に『現代短歌美と思想』に収録)

 暗渠の渦に花揉まれをり識らざればつねに 冷えびえと鮮しモスクワ

 暗渠に浮かぶ花とモスクワのあいだには本来何の関係もない。しかしこのように意味的に断絶した上句と下句が一首のなかで喩的関係を取り結び、そこに歌の外部へと打ち出される批判力が生まれる。このように一首のなかに意図的に抵抗感と折れ目を作り出すことで、「短歌的抒情」に流されて「つねに自己を短歌的に形成せざるを得ない」という短歌滅亡論からの批判に答えようとした、前衛短歌の修辞的意義がおおむねこのように総括されているのは、よく知られているところである。短歌定型という詩型について執拗な考察を重ねている永田和宏の言葉を借りるならば、「自己否定の回路はいつでも開いた状態のまま、表現の可能性を探る」(「自己否定の回路」『喩と読者』所収)という認識が、短歌という形式と修辞そのものに働きかける必要があるということなのだ。

 ここまでの考察を踏まえて正岡や早坂の短歌をもう一度見てみよう。 

 みずいろのつばさのうらをみせていたむしりとられるとはおもわずに  正岡

 ぼんやりとしうちを待っているような僕らの日々をはくらかす音楽(おと)  早坂

  平仮名を中心に作られたこれらの歌は透明感に溢れている反面、一首のなかに抵抗感も折れ目もなく、初句から結句までがひとつの水の流れのように読み手に受容される。ここには辞を断絶させることによって、〈私〉が短歌的抒情に満たされることを決然と拒否し、世界に対する批判力を歌に与えようとした前衛短歌の面影はない。このように一首全体がひとつの想いに充満している短歌は、世界に対して閉じられているのであり、それは結局のところ作者自身に対しても閉じられているのである。このような餡の詰まった鯛焼きスタイルの短歌には、まるで申し合わせたかのように〈他者〉が不在であり、一様に孤独なつぶやきのような表情を湛えているのはこのためである。この種の短歌が作者自身に対しても閉じられているのはなぜかというと、他者不在の孤独な空間からの発語ののちに、作者が次にどこに行けばよいのかがまったくわからないからである。

 正岡豊は『四月の魚』を上梓したのち、「歌のわかれ」をしてしばらく短歌から遠ざかっていた。中山明も『ラスト・トレイン』を白鳥の歌として短歌と訣別してしまった。この二人が「歌のわかれ」を選択せざるを得なかったという事実は、作者自身が自らを他者の希薄な空間に閉じこめてしまったと感じたからではないかと思えてならないのである。

 ニューウェーヴ短歌のプロデューサー格である荻原裕幸は、正岡豊と『四月の魚』を評して、次のような的確な俯瞰を示している。

「たとえば、山崎郁子、早坂類、東直子、それから男性歌人で言えば穂村弘。1990年代の短歌の世界に広がっていった彼らの作品には、生きる切なさの核を、そこだけとりだして見せてくれるといった、独特の共通感覚がある。この感覚は、正岡豊にも通じるものがある。」
 「生きる切なさの核を、そこだけとりだして見せてくれる」とは言い得て妙である。しかし「そこだけ取り出した」切なさは、いわば雑菌にまみれた現実とは切り離されて純粋培養された切なさである。人も知るように純粋培養された無菌環境では、人間は自家中毒するか自己免疫疾患に陥る危険と隣り合わせなのだ。第二芸術論があれほど激しく批判した「短歌的抒情」に、歴史の溝を軽々と越えて再び回帰してしまうおそれがないとは言えない。

 正岡の短歌がそうだと言っているのではない。『四月の魚』に収録された歌は文体も多様であり、固有名の活用、詞書きの効果、隠された引用など、ここでは論じることができなかった様々な工夫が歌に施してある。そういった全体像を見なければ公平を欠くのは明らかである。しかしながら、『四月の魚』が優れた歌集であり、最初の出版からすでに15年が経過しているにもかかわらず、現在でもなお現代短歌に刺激を与えることができる歌集であることを十二分に認めた上で、敢て上に述べたような危惧の念を覚えたことを書き留めておかなくてはならないと感じたのである。