172:2006年9月 第4週 佐藤雅通
または、永遠の少年性

休日の鉄棒に来て少年が
   尻上がりに世界に入って行けり
        佐藤通雅『水の涯』

 少年が校庭の鉄棒で逆上がりの練習をしている。わざわざ登校日を避けて休日に来ているのは、クラスで自分だけ逆上がりができなくて、人目のない休日に一人で練習するためである。何度か試みるうちに、ようやく逆上がりができるようになる。それを「世界に入って行けり」と表現している。成長過程にある少年にとって、逆上がりができるようになるという些細なことであっても、それは世界に入って行くひとつの重要な階梯なのである。教師をしていた佐藤らしい観察であり、定型を遵守する作風には珍しく、下句が10・7という大幅な破調になっている。四句目の「尻上がりに世界に」はいきおい速度を上げて読むことになるが、そのリズムが逆上がりのスピードをミメーシス的に表現していて、成功した破調のよい例だろう。短歌においては破調すらシニフィアン (意味するもの) として働くのである。

 1943年生まれの佐藤には、第一歌集『薄明の谷』(1971年)を始めとして、第八歌集『予感』 (2006年) まで8冊の歌集がある。今回は、第一歌集『薄明の谷』完本の他、第二歌集『水の涯』、第三歌集『襤褸日乗』、第四歌集『アドレッセンス挽歌』からの抜粋を含む砂子屋書房刊行の『佐藤通雅集』を読んだので、佐藤の初期歌篇を中心に見たことになる。

 佐藤の歌の大きな特徴はその「少年性」である。この場合「少年性」とは、少年の眼と心の瑞々しさを失わないという意味であるが、失われた象徴的少年期に固着するという意味でもある。『薄明の谷』冒頭の「少年期抄」は、作者10代から20代初期に作られた歌だが、年齢的に少年を脱してそれほど間がない時期において、もうそのことは言えるのである。

 爆笑する中にて我も笑わんとすれば苦しきものが喉にこみあぐ

 すべてみな許容したき心もつ冷気の中に夕日沈むとき

 ひそかなる殺戮とげし野の朝にわが童顔をさらして歩く

 わが内より喪われゆくもの 恍惚と彫像めいて火の前に立つ

 凡愚の周囲への異和感と孤独感、きりきりと差し込むような自意識、その反面、無垢性を年齢とともに喪失しつつあるという危惧などの、10代の少年期に特有の内的感情の葛藤が、達者な手法で短歌に定着されている。〈社会化されてゆくことへの怖れ〉は青春短歌の普遍的なテーマのひとつだが、佐藤の特徴は、やがては平準化されてゆく周囲との異和や対立を、解消せずに内的に抱え込むことで自我を確立しようとした点にある。佐藤が少年期に固着し、何度も短歌に詠む理由がここにある。この葛藤こそが佐藤の歌のエネルギーなのである。

 シュプレヒコールはるかに聞こえる図書館に今日も埋めゆく「透谷ノート」

 あかされている敗退を覆いつつ人ら群れいるみぞれの構内

 憤り黙すすべなく上り来し屋上の隅に孔雀ふくれる

 鬱したるまま過ぎて行く青年期ならんか食卓に葡萄すきとおる

 拒絶しつつ孤立しつつわが視野にむしろすがしも朝の樹木は

 権力に背きゆきつつわれらかく清しくなれる肩・まだら雪

 60年安保闘争の直後の1961年に東北大学に入学し、学生運動を経験するが、指導層の観念性に異和を感じてやがて離れる。上に引いた歌はその頃の作だろう。キャンパスに響くシュプレヒコールを聴きながら、一人図書館に透谷ノートを書き綴る孤立感が佐藤の拠る場所である。佐藤は短歌人会に入会するが、それは「どこよりも権威がなく」「学割があり」「何だかむずかしい歌がいっぱいあった」からだという。しかしやがて脱会し、個人誌『路上』を創刊して現在に至っている。

 『薄明の谷』(1971年)でスタートを切った佐藤の歌人としての歩みを見ると、時代は変わったという感を深くする。小池光は、「70年頃に短歌をやっているということは恥ずかしいことだった」という意味の発言している(『現代短歌の全景』河出書房新社)。同じ頃に短歌と出会った藤原龍一郎も同意しているので、世代に共有された感覚なのだろう。『薄明の谷』には歌集としては例外的に長い自序が付されており、その中で佐藤は一時短歌を捨てようとしたことがあると告白している。その理由は、「旧物の典型みたいな形式にすがりついているのはぶざまに思われたし、現代における存在意義がはなはだ疑わしかったから」だという。また「『自分は短歌に魅力を感じる人間だ』と宣言することは、科学的合理的風潮の前にあってははなはだ弱々しい歌のこころに居直るに等しく、日本的なものを不当におおいかくしていた近代のつぎはぎ文明に宣戦布告するに等しかった」と続けている。

 つまり佐藤には二重の葛藤があったということになる。ひとつは上にも述べた〈社会化されてゆくことへの怖れ〉を核とする周囲との異和と対立であり、もうひとつは短歌という「旧物の典型みたいな形式」を「科学的合理的風潮」の時代にあえて選択するという対立である。しかしすでに述べたことではあるが、この葛藤こそが佐藤の歌のエネルギーなのであり、息の長い歌作を支えた基盤である。しかるに現代にあっては、「短歌をやることが恥ずかしいこと」だと感じさせる時代の圧はなく、〈公的状況〉と〈私的状況〉の対立もまた雲散霧消した。山田富士郎は『短歌と自由』のなかで、「1970年頃を境に、公的状況が私的状況に優先するかのように見える時代が完全に終わってしまった」と的確に指摘している。このような時代の歩みのなかでは佐藤の歌は、沈潜と鬱の度合いを深めるしかないのだが、事実そのとおりに展開しているように見受けられる。

 このような佐藤の歌であるから、純粋な叙景というものはなく、景物を詠んでもその背後には葛藤する〈私〉が重く沈潜している。

 月明かり乏しき駅は幻にあらずや雁の逆しまに落つ

 ダリア畑で昼間捕えし黄揚羽のさむざむとしてはつなつは来る

 薄暮 狼のように橋渡ればあおむけのまま売られる自転車

 地震過ぐる水田にあれば眼の廃いて難民のごとき歩みはするも

 蜻蛉の羽のきららに一日充つわが裏にして素枯れたる墓地

 『薄明の谷』の「Kへ 十年後の返歌」と題された連作のKは岸上大作であり、「R どこへ行った」という連作のRは歌を捨てて失踪した岡井隆のことである。

 市街戦へしぶきして行く暁のK眼鏡の奥の何とかぼそき

 病むものの辺にかえらざるDr.R されば吐血のごとき霜月

 また『襤褸日乗』に「向日葵は空高々と領したる若くして汝は父を逝かせし」という歌があるが、これは「倒れ咲く向日葵をわれは跨ぎ越ゆとことはに父、敗れゐたれ」という小池光の歌への返歌であり、「〈脱出〉はつひに成らざる水際に立ちて燿ふペンギンの胸」は有名な塚本邦雄の歌を踏まえており、「商店を通りすがひて硝子戸を磨く中年あれは樽見か」は福島泰樹の「樽見 君の肩に霜ふれ 眠らざる視界はるけく火群ゆらぐを」にこと寄せた歌である。佐藤がどのような歌人を視野に置いて作歌していたかをうかがわせる。

 前衛短歌からイメージ的喩の技法の影響を受けつつも、佐藤の作歌は端正な定型であり、短歌の韻律を熟知した歌の作りには狂いというものがない。なかでも次のような抒情的の歌の瑞々しさがとりわけ印象に残った。

 軟水にバラ洗われていたりけり批判書一つ書かんあかつき

 蝶一つ大麦の畦越えしゆえわれは研ぎつぐ白き剃刀

 ダリア畑でダリア焼き来し弟とすれちがうとき火の匂うなり

 ひたひたと渚に燃ゆる馬見えて 秋 遠国の死者にまじれる

 夜半ながら起きて一杯の水を飲むある係累を断つ思ひにて

 夕暮は病をもてるもののとき茱萸売りの声海より来たる

 しかしながら、佐藤の短歌を特徴づける「少年性」を最もよく表しているのは、次のような歌群であろう。

 生きている不潔というや村一つ水引草のあたり風立ち

 生きてゐることもあるひは徒労かとかの日汚れて電車にありき

 表現は退路をわれに許さざる冷たき飯に湯を注ぎたる

「生きることは汚れることだ」という悲しい断定が佐藤の心の奥底にある。それがまた佐藤を教育論や童話研究へと押しやる動機ともなっているのだろう。

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