第320回 堀田季何『人類の午後』

義眼にしか映らぬ兵士花めぐり

堀田季何『人類の午後』

 邑書林から昨年 (2021年) の8月に刊行された堀田の句集『人類の午後』が俳句の世界で評判になっているという。同時に『星貌』という句集も刊行されているが、『星貌』は第三詩歌集、『人類の午後』は第四詩歌集と銘打たれている。『星貌』には付録として「亞刺比亞」という句集が収録されている。著者の解題によると「亞刺比亞」は、日本語・英語・アラビア語の対訳句集としてアラブ首長国連邦の出版社から2016年に刊行した第二詩歌集であり、『星貌』に収録されているのはその日本語の原句だという。すると本コラムでも取り上げた歌集『惑亂』(2015年) は第一詩歌集ということになる。

 『惑亂』のプロフィールでは堀田は春日井建最後の弟子で、中部「短歌」同人となっていたが、『人類の午後』のプロフィールでは「吟遊」「澤」の同人を経て、現在は「樂園」を主宰しており、現代俳句協会幹事という肩書まで持っているという。いつの間にか句誌を主宰していて、どうやら現在は短歌ではなく俳句を中心に活動しているらしい。おまけに「樂園」は有季・無季・自由律何でもありで、日本語の他に英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語などでも投句可能だという。幼少より外国で暮らし、他言語話者である堀田ならではの自由さだ。

 句集題名の『人類の午後』からは、ブライアン・オールディスのSF小説『地球の長い午後』(1962) が連想される。舞台は太陽が終末期を迎え、自転が停止した未来の地球である。太陽を向いた半球は熱帯、その裏側は極寒となり、人類の子孫たちは巨大化した植物や昆虫に怯えながら暮らしているという黙示録的な設定である。堀田の句集もまた、決して明るいとは言えない人類の未来を幻視しようとしているかのように思われる。

 跋文で堀田は次のように書いている。「句集全體は、古の時より永久に變はらぬ人間の様々なさが及び現代を生きる人間の懊悩と安全保障といふ不易流行が軸になつてゐる。」古代より変わらない人間の性とは「愚かさ」であろう。また次のようにも書いている。「時間も空間も越えて、人類の關はる一切の事象は、實として、今此處にゐる個の人間に接續する。」つまりずっと昔の事件も、遠く離れた異国で起きた出来事も、廻り廻って今ここにいる〈私〉と地続きだという認識である。

 堀田が跋に書いたことは、句にどのように表現されているだろうか。句集を一読してまず目に止まるのは次のような句である。

水晶の夜映寫機は砕けたか

息白く唄ふガス室までの距離

片陰にゐて處刑䑓より見らる

ヒトラーの髭整へし水の秋

花降るや死の灰ほどのしづけさに

 一首目の水晶の夜は1938年の11月にドイツで起きた反ユダヤ暴動で、割られ散乱した窓ガラスの輝きからこの名が付けられたという。二首目もナチスによるユダヤ人処刑の場面で、季語は「息白く」。三首目も処刑の場面で季語は「片陰」。四首目はかのヒトラーも理容院で髭を整えただろうという句。ヒトラーの髭をあたった理容師もいたはずだ。五首目は原爆あるいは水爆の死の灰を花に喩えた句。ムルロワ環礁での水爆実験と取ってもよいが、かの地には桜はないだろうから、そうすると幻視の句になる。

 堀田の言う、人間に関わる一切の事象は時空を超えて今ここに接続するというのはこういうことである。これは単に歴史的事件に素材を得たり、世界史的な時事問題を句に詠み込むということとはちがう。水晶の夜やガス室や死の灰という過去の出来事と、今ここにいて呼吸している私たちとは直に繋がっているのであり、私たちは過去の出来事に不断に思いを致さねばならぬということである。

 次のような句には、大きな出来事がより間近に迫っているような緊迫感が感じられる。

 

戦争と戦争の閒の朧かな

ミサイル來る夕燒なれば美しき

ひややかに砲塔囘るわれに向く

基地抜けてやまとの蝶となりにけり

法案可決蝿追つてゐるあひだ

 

 一首目、人類の歴史は戦争の歴史であり、平和に見える現在は先の戦争と次の戦争の間に挟まれた一時に過ぎないという句。二首目、北のかの地より飛来するミサイルとも、未来の戦争と取ってもよい。三首目、自分の方向に向けられる戦車の砲塔は、迫り来る戦争の喩である。四首目、米軍基地の中を飛んでいるときはアメリカの蝶だが、基地を抜けると日本の蝶になるという句。五首目を読んで、安部内閣が国会を通過させた安保関連法案を思い浮かべる人は多かろう。

 人類を襲うのは戦争の脅威ばかりではない。自然災害もまた人類の午後の予兆でもある。

 

地震なゐ過ぎて滾滾と湧く櫻かな

花疲れするほどもなし瓦礫道

や死者のぬかからうしほの香

草摘むや線量計を見せ合つて

 

 一首目や二首目はどこの場所の光景でもよいのだが、どうしても東日本大震災が日本を襲った春に咲いた桜を思い浮かべてしまう。三首目も津波で流された人の額であろう。四首目は大震災に続いて起きた原子力発電所の苛酷事故によって大量に飛散した放射性物質を詠んだ句である。私たちはかの春にベクレルやシーベルトという聞き慣れない単位を覚えてしまった。

 このような時事問題を詠んだ句が読者にとって押しつけがましくないのは、堀田が主義主張を声高に詠むのではなく、出来事をいったん受け止めて、それを心の中で沈潜させて得た上澄みを、「花疲れ」や「草摘む」などの伝統的な有季俳句の季語の世界にまぶして提示しているからである。栞文を寄せた高野ムツオは、「言葉に蓄えられた伝統的情趣をことごく裏切り拒絶し」、「これまで誰も見たことがなかった季語世界が出現する」と評している。

 もちろん本句集に収められているのはこのような句ばかりではなく、伝統に根差した有季定型の自然詠もあるが、そこにもおのずから独自の世界がある。

 

花待つや眉間に力こめすぎず

花篝けぶれば海の鳴るごとし

一頭の象一頭の蝶を突く

戀貓の首皮下チップ常時稼働

檸檬置く監視カメラの正面に

 

 三首目は機知の歌だ。私は大学で言語学概論を講じる時、「フランス語やドイツ語にある男性名詞と女性名詞の区別を皆さんは不思議だと思っているかもしれませんが、日本語にも同じような名詞クラスはあるのですよ」と言って、物を数える時に用いる助数詞の話をすることにしている。鉛筆は一本、箸は一膳、靴や靴下は一足、箪笥は一棹、烏賊や蟹は一杯で、大きな動物と蝶は一頭と数える。大きな象と小さな象が同じ数え方をすることで並ぶ面白さである。四首目の猫の首に埋め込まれたICチップは近未来的で、五首目の町中到る所にある監視カメラは現代的光景である。

 特に印象に残った句を挙げておく。

 

小米これは生まれぬ子の匂ひ

月にあり吾にもあるや蒼き翳

匙の背に割り錠劑や月時雨

エレベーター昇る眞中に蝶浮ける

うち揚げられしいをへと夏蝶とめどなし

落ちてよりかヾやきそむる椿かな

うすらひのうら魚形うをなりこううごく

蟻よりもかるく一匹づつに影

薔薇は指すまがふかたなき天心を

人閒を乗り繼いでゆく神の旅

 

 ビルの中を上昇するエレベータに一頭の蝶が浮いているという四句目の浮遊感が美しい。また七句目は、冬の寒い日に池に氷が張り、その氷を通して泳ぐ緋鯉の紅が透けて見えるというこれまた美しい句である。私がその宇宙的なスケールの大きさに感心したのは最後の句だ。進化生物学の一部には、私たち人間を含めて生物は遺伝子の乗り物であるという考え方がある。これは個体の生と死よりも、種の存続と繁栄に重点を置く考え方だ。親から遺伝子を受け継ぎ、それを子へと伝えることによって種は存続する。川の浅瀬に飛び飛びに配置された石を飛んで渡る子供の遊びがある。これと同じように、私たちは遺伝子を後世に伝えるための置き石にすぎないというのである。置き石を飛んで渡るのは句では神と表現されているが、これはもちろんキリスト教のような人格神ではない。この世界を統べる自然科学的な原理である。

 『惑亂』の評の最後に私は「堀田の句集が読みたいものだ」と書いた。その願いは満たされたのだが、今度は堀田の次の歌集が読みたいものだ。瞑目して待つことにしよう。


 

第173回 堀田季何『惑亂』

ぬばたまの黒醋醋豚を切り分けて闇さらに濃く一家團欒
                  堀田季何『惑亂』
 ふつうは何かを表現したいと願う人が、数ある表現手段のなかから短歌という短詩型文学形式を選び取るのだが、稀ではあるが逆に短歌に選ばれる人がいるのではないかと思えてならない。他の芸術に例を求めると、音楽ならモーツアルト、近代詩ならランボー、小説ならラディゲ、あるいはサガンの名が頭に浮かぶ。短歌ならば石川啄木がそれに当たるだろう。こういう人たちは、刻苦勉励努力してその芸術形式の頂点を極めたという印象がない。気がついたらいつのまにかもう頂点で遊んでいるのである。そしてその人生にどこか悲劇的な影がある点も共通している。堀田季何の第一歌集『惑亂』をさっと見て私の脳裏に去来したのはこのような感想だった。
 堀田季何(ほった きか)は1975年生まれ。中部短歌会に所属し、晩年の春日井建に師事。たちまち頭角を現して、中部短歌新人賞と第二回石川啄木賞(2009年)を受賞している。現在中部「短歌」同人。プロフィールはここで終わらない。小澤實に師事して俳句を学び、現在「澤」の同人であり、澤新人賞と芝不器男俳句新人賞齋藤愼爾奨励賞まで受賞しているのである。おまけに海外で暮らしていた中学生の頃から英語詩を書いているというのだから驚愕するほかはない。俳句を英訳して海外への普及に努めてもいるようだ。
 しかし『惑亂』のあとがきで自分の来歴を語る口調は苦痛に満ちている。自分のこまれでの人生はまさしく惑乱の日々であったというのだ。いかなる仕儀にによるものかは詳らかではないが、母一人子一人の母子家庭で長く海外で暮らし、「数十カ国の人間に接し」、「数十種の仕事に手を染め」、「数十の疾患に罹り」、「今も五指に余る疾患と五指に余る障碍を抱へてゐる」と綴られている。なるほどこれでは惑乱するほかはあるまいと納得する。『惑亂』は書肆侃侃房の「新鋭短歌シリーズ」の一巻として上梓され、中部短歌會叢書第277篇とされている。跋文は中部短歌會主宰の大塚寅彦。異色ながらブラウン大学で堀田と共に学んだ俳優の平岳大が前書きを寄せている。
 さて、世代的に堀田がどんな年代に属するかと探してみると、1975年生まれの歌人には生沼義朗、永田紅、笹公人などがいる。黒瀬珂瀾が2歳下の1977年生まれだが、『現代短歌最前線新響十人』(北溟社 2007年刊)に収録されている歌人とほぼ同世代と言ってよい。しかしながら、旧仮名遣と旧漢字を用いた文語定型という形式面でも、また美意識の面においても、堀田の孤立は際だって見える。いくつか歌を引くが、OSの関係で旧漢字を表示できず新字になっているのを断っておく。
朝なさな血痰吐けば冠したし赤ら引くてふ枕詞を
決潰の目玉をすする食卓に秋のひかりは淫のごとしも
紫貽貝の毒そのひとつドウモイ酸に脳侵さるる夢見て脳は
熱ありて白川夜船を漕ぎゆけば沈没前の(あした)のひかり
龍井(ロンジン)茶のふかきみどりを滴滴と(のみど)におとす時さはにあれ
わがむくろ土に崩れてももとせの時しめぐらば黒百合よ咲け
 衒学趣味と耽美的傾向において黒瀬にいささか似るところがあるが、口語・フラット・低体温全盛の現代短歌シーンに置いてみると、異色というほかはない。ある日、突然に外惑星から飛来して地上に落ちた隕石のようだ。その隕石はもちろん黒光りしているのである。
 あとがきに数十の疾患に罹ったとあるように、堀田は生来病弱であったようで、幼少から死を身近に感じていたにちがいない。そのことは上に引いた一首目、三首目、六首目に見てとれる。死と疾患を抱える自己の身体は、堀田の重要な主題である。また病弱な少年は読書と空想に耽溺するものだ。堀田の文学の根はそのあたりに存したと考えられる。
エジプトに緑の季節ありしころ獅身女(スフィンクス)をば撫でし神の手
彗星の回帰するたび痩せてゆくわが全身像(シルエット)レンズにさらす
ヒルベルト空間すでにおとろへてある日名残の雪降りだすも
他の天体と意味ある角度なさぬとき月は空白(ボイド)の時を(かな)しむ
銀河てふ環の断面を環の中の星より観たり銀河(びと)われ
 一首目ではナイル川の流域に緑が溢れていた古代に思いを馳せ、二首目では宇宙空間を数十年の周期で旅する彗星を思い、三首目では微分方程式を解くヒルベルト空間を持ち出すという多彩さである。四首目は占星術のことかと思うが、英語のvoidは宇宙空間・虚空を意味することも押さえてある。五首目では夏の夜空の銀漢を詠んでおり、夜空に帯のように見える天の川はレンズ状の環であり、われわれの住む地球もまた銀河の中に位置するので、その意味でわれわれは銀河人だと言っているのである。
 このような歌について、跋文を書いた大塚寅彦は、「宇宙的なスケールの思考が、そのまま自身の生命と身体性につながる思念に重なっており、従来の死生観を詠んだ観念歌とは一線を画すものと言える」と述べている。それは確かにそうなのだが、私が思いを馳せるのは、堀田がどのようにしてこのような世界観を獲得したのかということである。それはおそらく読書と空想から得たものだろう。だからブッキッシュというのが堀田の短歌のもうひとつの特徴である。ちなみに英語のbookishには、「本好きな」という意味以外に、「学者ぶった」「(実際的でなく)机上の」や、「文語調の、堅苦しい」という意味もあり、このすべてが当てはまるのである。
自らを嘘吐きと述べしエピメニデスその言説を吾は信じつ
むらきもの蛭子の神の産みのおや伊邪那美こそをにくめよ海鼠
レヴィ=ストロース読むなかれ。どの構造もよめばよむほど土台が揺ぐ
智天使(ケルビム)の不可思議の火に囲まれて楽園(エデン)は待ちをりわれの帰還を
非凡とはやがて悲しきものと()ふつきのわぐまの白化個体(アルピノ)のごと
 集中の歌の至る所にギリシア・ローマ神話や聖書や世界中の文学・伝承への言及が見られ、塚本邦雄を思わせるものがある。博覧強記の証ではあるが、人によっては衒学趣味と取る人もいよう。また上の四首目と五首目には強い自意識と矜恃が見てとれるのだが、これもまた読書に耽る知的に早熟で孤独な少年時代を過ごした人間によく見られるものである。
 異才の登場と言ってよい。堀田の短歌はその含有する微量の毒によって輝く。その肉体が抱える疾患に屈することなく、さらに詩作を続けてほしいと願うばかりである。もうひとつ欲を言えば堀田の句集を見てみたい。この願いが遠からず叶うことを願いつつ稿を閉じよう。