第62回 56回角川短歌賞雑感

 『短歌』11月号に恒例の角川短歌賞の受賞作が掲載された。今年の短歌賞は「塔」「京大短歌」所属大森静佳の「硝子の駒」が受賞した。平成元年生まれ21歳の若い歌人の受賞をまずは喜びたい。永田和宏、三枝昂之、小島ゆかり、梅内美華子の4人の選考委員全員が丸を付け、うち2人が二重丸つまり一位に推したというほぼ満票の受賞であることが、大森の歌の質を証明していよう。「時分の花」という言葉があるが、若い時にしか作れない歌というものがある。「硝子の駒」50首のように静かで控え目な恋の歌は、青春時代にしか作ることのできない歌だろう。
冬の駅ひとりになれば耳の奥に硝子の駒を置く場所がある
カーテンに遮光の重さ くちづけを終えてくずれた雲を見ている
祈るようにビニール傘をひらく昼あなたはどこにいるとも知らず
 大森の短歌は基本的には口語ベースでときどき文語が混じる文体で、きちんとした定型のなかに、一首目の三句六音、二首目の二句切れ一字空け、三首目の初句六音など、一本調子にならないように工夫がされている。端正で品のよい歌風で、選考委員の全員が推したのも無理はない。
レシートに冬の日付は記されて左から陽の射していた道
返信を待ちながらゆく館内に朽ちた水車の西洋画あり
一年と思う日の暮れ樹の匂う名前の駅で待ち合わせれば
 大森の巧さはこのような歌によく表れている。レシートにある冬の日付は過ぎ去った時間を表しており、そこに心の痛みがあることが暗示される。また「左から」の具体性がこの歌によく効いていることも見逃せない。俳句や短歌は微小な具体性に拘泥して広大な普遍に到る詩型である。二首目でメールの返信を待っている相手はもちろん恋人で、作者は美術館にいるのだが、目にしたのは朽ちた水車の絵で、それが恋の行方を暗示している。ここでは「水車」を選んだ選択と、「西洋画」というやや古風な言葉が効いている。三首目は恋人と出会って一年目の記念日なのだろう。「樹の匂う名前の駅」という表現に若さとおだやかな感情が感じられる。
 大森本人の責任ではないのだが、このような口語ベースの歌の欠点は、結句の文末表現が単調になるという点だろう。「場所がある」「雲を見ている」「君と見に行く」「背中を照らす」のような動詞の終止形は単調で、これは現代日本語の大きな欠点とされている。この単調さを避けるために体言止めにしたり、「海を呼びつつ」「壁にもたれて」「川へのバスに」など工夫がされているが、これにも限界がある。口語短歌について一考を要する課題だろう。
 今年度の角川短歌賞は水準が高かったと思うが、私が吃驚したのは次席に選ばれた小原奈実だ。
カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン
仰向けに蝉さらされて六本の鉤爪ふかし天の心窩へ
水溜まりに空の色あり地のいろありはざまに暗き水の色あり
 一首目では室内からカーテンを鎖した窓を見ているのである。庭を鳥が飛び鳥の影がカーテンをよぎる。影が去った後にカーテンの白さが一層際だつという情景を詠んだものだが、その着眼点もさることながら「はやし速かりし」の疾走感のある措辞が見事である。二首目は夏が終わって路上で屍骸をさらす蝉を詠んだ歌。「心窩」とはみぞおちの部位と辞書を引いて初めて知った。極小の蝉と極大の天の対比が残酷さを際だたせる。三首目は雨が上がった後の水溜まりを三層に分けているのである。表面に空が映り、底に地面の土の色があり、その中間に溜まった水があるという。いったい誰が水溜まりをこのように三層に分けて観察することなど考えつくだろうか。つくづく感心してしまう。おまけに小原は平成3年生まれで弱冠19歳なのである。19歳にしてこの文語能力もなかなかのものだ。大塚寅彦、紀野恵らは若くして文語を駆使した短歌を作ったが、その後そのような歌人は絶えて久しい。小原には大いに期待したいものだ。
いずこかの金木犀のひろがりの果てとしてわれあり 風そよぐ
てのひらのくぼみに沿いしガラス器を落とせるわが手かたちうしなう
切り終えて包丁の刃の水平を見る目の薄き水なみだちぬ
 一首目の〈私〉を花の香りが風にのって届く境界線とする把握も秀逸である。二首目は選評で永田和宏が絶賛した歌。高校の化学実験の情景だが、フラスコかビーカーを持っているとき掌はある形をしているが、ガラス器を落としてしまうと掌が形状を保てなくなるという点に着目したのがすばらしい。また韻律もとてもよく、一読して記憶に残る。私がいちばん驚いたのは三首目の歌。俎で何かを切った後の包丁を水平に持ち鋭い刃を凝視する。そのとき眼球の表面を覆っている涙の水分が波立ったというのである。ありえないことである。しかし現実にはありえないことでも詩的真実を伝えることがある。小原はふつう人の気づかない細部に着目する能力があることに加えて、細部から一種の幻視を拡げる異能もあるようだ。頼もしい限りである。
 今年度の角川短歌賞で最も異彩を放つのは平田真紀の「サムシング」だろう。選評で永田が「選者に対する挑戦だ」と言い、審査員特別賞をあげたいとして大いに推した人である。その作風は特異という他はない。
唐茄子に見えなくもなし六畳にかれこれ三日放置されいる
剥いたまま放っておいて干からびてある日茶匙のようになりたり
やわらかになるまで長くかかりたり先端は原形をとどめず
 平田はわざと主語の「何が」を隠して作っているので、全体がなぞなぞのような不思議な感触の歌になっている。50首全部この調子なのがすごい。これで歌集を一冊編むのは苦しいだろうが、類例のないおもしろさなのは確かである。また「何が」を隠すことによって、放置された物体の不気味な存在感や茶匙のように変色した物の質感などだけが前面に出ることもおもしろい。ふつう属性は対象に帰属する。リンゴという対象が「赤い」という属性を持つのである。対象を離れて属性はない。ところが平田の歌では対象が消されているため、属性だけが空中に浮遊しているかのごとき不思議な感覚がある。異才と言えるだろう。本年度と昨年度の短歌研究新人賞に応募したフラワーしげると並んで、今後注目すべき歌人と言えよう。