いささか遅きに失した感は拭えないが、今回は昨年 (2021年)の『現代詩手帖』10月号を取り上げたい。「定型と╱の自由 ― 短詩型の現在」という特集を組んでいるからである。同誌は2010年の6月号でも「短詩型新時代 ― 詩はどこに向かうのか」という特集を組んでいたので、それから約10年を経ての再び短詩型特集となる。
2010年の特集では、「滅びからはじめること ― 岡井隆とゼロ年代の詩歌」と題された松浦寿輝(詩人)・小澤實(俳人)・穂村弘(歌人)とゲストの岡井隆の座談会、黒瀬珂瀾による「ゼロ年代の短歌100選」、高柳克弘によるゼロ年代の俳句100選」、城戸朱理・黒瀬珂瀾・高柳克弘の「いま短詩型であること ― 短歌・俳句100選をめぐって」という鼎談が主な内容であった。当時は21世紀を迎えて10年が経過し、「ゼロ年代」という世代による括り方が話題になっていたので、それを踏まえての企画だったと思われる。
2021年10月号の特集では、巻頭に「俳句・短歌の十年とこれから ― 現代にとっての詩歌」という題目で、佐藤文香(俳人)・山田航(歌人)・佐藤雄一(詩人)の三人による座談会が置かれている。しかしよく考えてみると、現代詩の雑誌が定型の特集を組むのはいささか奇妙なことだ。なぜなら現代詩は自由詩であり、定型詩ではないからである。なぜ現代詩が短歌や俳句のような定型詩に秋波を送るかというと、現代詩自身がある種の行き詰まり感を覚えているからだろう。
座談会に佐藤文香と山田航が呼ばれたのは、佐藤が『天の川銀河発電所 ― 現代俳句ガイドブック Born after 1968』(2017年)、山田が『桜前線開架宣言 ― 現代短歌日本代表 Born after 1970』(2015年)という一対をなすアンソロジーを編んでいるからである。両方とも左右社から刊行されている。ちなみに左右社からは瀬戸夏子の『はつなつみずうみ分光器 ― 現代短歌クロニクル after 2000』(2021年)も出ていて、これに小池正博編著『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2021年)を加えると、ほぼ現在の短詩型文学の全貌を見渡すことができる。アンソロジーは文芸の発展にとって重要なものであり、特に入門者に便利なものなので、このように優れたアンソロジーが陸続と刊行されたのは喜ばしいことだ。
座談会で山田は2000年代の短歌の動向を次のように総括している。まず加藤治郎・穂村弘・荻原裕幸による『短歌ヴァーサス』の創刊 (2013年)と、同誌による歌葉新人賞によって斉藤斎藤、永井祐、宇都宮敦ら若手歌人が輩出したことを挙げる。山田は当時の短歌のテーマは「主体からいかに自由になるか」であったとする。作者と作中主体の分離を高度に体現したのが笹井宏之だったが、笹井の死と短歌自動生成装置を考案した星野しずるによって2000年代の短歌は終了し、2010年代に登場した歌人たちがそれを乗り越えてゆく。山田は2000年代以降の短歌のポイントは口語によるリアリズムの復権だとして、永井祐や鈴木ちはねの名を挙げている。「口語によるリアリズムの更新」は近年の山田の持論で、『短歌研究』2021年7月号では山田が企画・立案した特集を組んでいるほどだ。座談会での山田による2000年代の短歌の動向のまとめは、いささか我田引水の感がなくもない。
佐藤による2000年代の俳句動向のまとめも興味深い。佐藤が編纂した『天の川銀河発電所』以降、「俳句好きによる俳句の時代」が訪れたという。それは「俳句の参照性」を軸に、積み上げられたものの上で俳句が書かれるべきだという考え方だという。佐藤が名前を挙げているのは、生駒大祐、岡田一実、西村麒麟、安里琉太、小津夜景といった作家たちである。生駒大祐『水界園丁』、小津夜景の『フラワーズ・カンフー』 は確かによい句集だった。
本特集でおもしろかったのは、「詩人に聞く『刺激を受けた歌集・句集』」というアンケートである。詩人がこんなに歌集・句集を読んでいるのかという素朴な驚きがまずあった。そして句集より歌集を挙げた人が多かったのも意外だった。というのも詩人で短歌も作るという人は、詩人で俳句も作る人よりも少ないからである。今年の3月に泉下の人となった清水哲夫や『貨物船句集』の辻征夫は詩人で句集もある。感覚としても現代詩の生理は俳句の持つ言葉の飛ばし方と親和性が高いように思う。なのに歌集を読む詩人が多いというのは驚いた。
アンケートに答えて挙げられている歌集・句集はばらけているが、句集では小津夜景『フラワーズ・カンフー』を挙げた詩人が二人いた。また歌集では服部真里子の『行け広野へと』と答えた人が二人いた。千種創一を挙げた人も二人いたのだが、『千夜曳獏』と『砂丘律』とで割れている。あとは笹井宏之『えーえんとくちから』、大森静佳『カミーユ』 、藪内亮輔『海蛇と珊瑚』、𠮷田恭大『光と私語』 など短歌の世界でも話題なった歌集ばかりで、詩人もよく情報収集していることがわかる。弱冠17歳で中原中也賞を受賞した文月悠光は、狩野悠佳子名義で同人誌『穀物』などに短歌を書いており、短歌愛が止まらないのか、「一冊を」と指定されているにもかかわらず十冊も歌集を挙げている。筆頭に掲げたのは平岡直子の『みじかい髪も長い髪も炎』だった。
ほとんどの詩人が名前を挙げたのは話題になった歌集や賞を受賞した歌集ばかりだが、おやと思ったのは木下こう『体温と雨』(砂子屋書房)という知らない歌集を挙げた人がいたことである。引用されていた歌に惹かれて買い求めようかとも思ったが、古書価が高くて断念した。
夢の手もうつつの指もかなしけれ白ひといろの花瓶を洗ふ
ひえゆけば祈りの指も仄白き灯のかたちせむ雪ふりたまふな
アンケートの第2問「詩作をする上で短歌・俳句の定型を意識することはあるか、影響を受けることはあるか」という問いに対する回答も興味深い。例えば鈴木一平は次のように答えている。
優れた詩は、みずからにおいてのみ固有なものでありながら、当のテキストから転用可能な思考の論理を持っているように思います。このとき、俳句や短歌がその名に付随する定型概念を負っていることは、個人的にかなり重要なことだと感じます。というのも、定型は具体的な作品を通してのみ知覚される(定型そのものを純粋に知覚することができない)にもかかわらず、あたかも当の作品から独立して「定型なるもの」が存在しうることの確信を読み手に与えるからです。
詩人たち一人一人の回答を読むとさまざまなことを考えさせられてこちらの思考も深まって行く。それがおもしろい。
本特集のおそらく目玉企画は歌人と俳人に詩を作らせるというものである。歌人から大森静佳、千種創一、井上法子、川野芽生が、俳人から鴇田智哉、小津夜景、中嶋憲武、生駒大祐が挑戦している。千種創一は「遊ぶための園」という題名で、中東での過激派組織の指導者殺害という架空の新聞記事と、それに基づいた散文詩を寄せている。井上法子の作風はもともと現代詩に近い所にあるので、「沈石」(いかり)と題された詩はどこかの詩集に収録されていても不思議はない。
そらにはらわた
水は喃語をあやつって
玻璃には
いくつかの皮脂
かもめたちとぶ
わたしは岸を食み
朝、
たちどころに破れる郷里
こうして書き写していると、井上の詩はどこか自由律の短歌にも見えて来るから不思議である。
無垢は
あなたが足を踏み出すとき
かわりに失われる新雪ではない。
という一節から始まる川野芽生の「その炎の白」はいかにも川野らしい断定に満ちた詩になっていて、短歌の世界と通底しているところがおもしろい。
現代詩の詩人たちが「定型」を強く意識していることが感じられる特集である。