198:2007年4月 第3週 棚木恒寿
または、薄くメランコリーを含んで自己を見つめる歌

ブイ揺れて取り残さるる夏蝶を
     喩となす前に君に差し上ぐ
        棚木恒寿『天の腕』

 ブイとあるので海の風景だろう。夏の海と蝶の取り合わせは青春の風景である。作者は歌人なので、この光景を喩として歌の素材にしようとするが、その前に「君」と呼ばれている女性に捧げるというのである。短歌という文芸に関わる人間と生身の現実との微妙な関係性が背景にあり、清新な抒情という言葉がぴったりの歌である。このような歌を青春時代に作り得た歌人は幸福と言えるだろう。

 作者は昭和49年(1974年)生まれで、高校生の時に教員であった玉井清弘の影響で短歌を作り始めたらしい。田中槐の高校では村木道彦が国語の教師をしており、大松達知の高校には奥村晃作がいたというから、出会いというのは恐ろしい。私も高校時代に国語の苫名康先生という方のおかげで文芸に開眼した。高校生の心はまだ可塑性に富んでいるので、先生の影響力は大きい。私は大学の教員をしているが、私なりに学生の人生の進路を変えるような教師でありたいと思っている。棚木はその後、当然のように「音」短歌会に入会し、現在は滋賀県の高校で数学の教師をしているという。棚木の高校からも将来の歌人が生まれるのだろうか。『天の腕』は2006年に上梓された第一歌集。栞文には京大短歌会の先輩である島田幸典吉野亜矢内藤明が寄稿している。

 棚木と同世代では、1975年生まれに生沼義朗、永田紅、笹公人がおり、1973年生まれには玲はる名、佐藤りえがいる。この世代の人たちは大学に入学する18歳前後にバブル経済がはじけソ連が崩壊するという歴史的大事件に遭遇し、その後の「失われた10年」を青春時代として生きている。いま名前をあげたなかでは、永田はその経歴から、笹はその作風からやや異質だが、その他の歌人の作る歌には程度の差はあれ「失われた10年」の影が差している。棚木の場合はどうだったのだろうか。京都の大学の理工系学部に学び、卒業して高校の教師としての日々を送る。『天の腕』に収録された歌を読むと、京都という風土のせいか、時代の落す影は薄く、自分の立ち位置を原点とする比較的狭い日常をていねいに掬い上げる歌風の歌が多い。

 検閲にむかし残業ありしかな採点にわれは魅了されゆく

 メモ用紙置きて去りにし一人居て朝顔の花に載るほどの文字

 急いて食む駅のカレーの黄はあわれ揺れてるだろうわがのどぼとけ

 こおり水注がれて立つ魔法瓶しばしば生を帯ぶる音せり

 すこやかにわが数式は伸びゆけり教室に生徒(こ)のおらぬ時間は

 家族のために水汲みにゆく太郎居ず次郎静かに眠る五限目

 追い詰めし追い詰められし寂しさに水漬くなりわが内の蒼鷺

 逆年順に配された歌集の始めには、教師としての日々に題材を得た歌が多く並ぶ。1首目は、生徒の答案を職員室で遅くまで採点しながら、いつの時代かの検閲官に思いを馳せている。そこには採点に検閲に通じる何かを感じる心の傾きがあるが、採点は決して苦役ではなく作者を魅了するものである。2首目のメモ用紙を置いて行ったのは生徒だろうか。「朝顔の花に載るほどの」という増音を感じさせない喩が美しい。3首目は駅の立ち食いカレーの光景だろう。確かに安食堂のカレーは黄色く、作者はそれをかき込んでいる自分を意識している。5首目は生徒のいない教室の黒板に数式を書いているのだろう。高校の先生もなかなか大変な仕事のようで、6首目は授業中の生徒の居眠り、7首目は作者をしばしば襲うらしい鬱屈の気分を詠んでいる。一読してわかるように、どの歌もあくまで端正な文体で、言葉を操る確かな修辞力に支えられており、あえて名付ければ「抒情と含羞の歌人」と呼べるかもしれない。

 もしかしてトマトの糖度に比べつつ受け入れたのか君のからだを

 落されしサンドイッチの耳のごと夕暮れは来る君抱きし後

 モンキチョウあるいは葩(はな)の影過ぎてローマ字協会ビル壁しろし

 疲れざる靴を購めてのちふかく靴の進化をかなしみにけり

 学帽は路上に置かれたるように旧世紀より残りぬ 空へ

 かまきりの斧の弱さに気づくかな少年が向きを変うる時の間

 短歌の修辞の中心は言葉の取り合わせであり、何と何を取り合わせるかで映像の衝撃力や喩の新鮮さが決まる。棚木の歌には取り合わせの妙味を感じさせるものが多くある。たとえば1首目の「トマトの糖度」の喚起する神経に届く甘美さ、2首目の「落されしサンドイッチの耳のごと」という喩の巧みさ、3首目の「モンキチョウ」と「ローマ字協会」の配合などがそれである。特に「モンキチョウ」と「ローマ字協会」の取り合わせには深い魅力を感じるが、それは蝶の飛ぶ様とローマ字の字体、とりわけ筆記体との間に、形態上の類似があるからだろう。このような喩を一度経験すると、蝶が飛ぶ様がまるで空間にローマ字を綴っているように見えて来る。4首目は足が疲れないという触れ込みのハイテク靴を購入し、そののち靴の進化を哀しむという歌だが、靴という日常的で具体的な事物が歌の中で存在感がある。5首目では、今や絶滅危惧種になった学生帽の喚起する昔と今という時間軸の懸隔に、路上と空という空間軸の懸隔が重ね合わされており、不可思議な魅力がある。6首目は、少年が世界の秘密に触れる瞬間を定着した美しい歌。怖いと感じていたカマキリの斧が実はそれほどの脅威ではないという発見は、少年が大人への一歩を踏み出す瞬間であり、1首全体がひとつの喩となっている。

 次のように静謐ななかにうっすらと諦観とメランコリーの漂う抒情的な歌はなかなか美しい。

 下降して底(そこひ)に届くひとひらよ水槽のごとく景ありにけり

 水際には死ぬために来し蜂の居てあわれわずかにみだりがわしき

 水色の郵便受けに萩なだれ静かに圧してくる高気圧

 曲がりたる自転車の鍵をポケットにせんだんの小花咲くところまで

 溜められし雨水に残る死のにおい凡庸のわが庭に撒かるる

 雄ごころのうすく流るるわが体夕焼けのなか階を下れり

 作者は「失われた10年の影を曳きつつ、ここまで青春に決着をつけられずにきた」と述懐し、「本書によって『若さ』に訣別したいと思う」とあとがきで決意を述べている。京都はなかなか青春と別れることができない街である。しかし第一歌集を世に問うことで、作者は新たな一歩を踏み出しただろう。棚木の大人としての日常から、今後どのような歌が生まれるのか期待したい。