第138回 野口る理『しやりり』

薄氷に壊れる強さありにけり
          野口る理『しやりり』
 俳句は発見の文芸という一面を持っており、掲出句の魅力はひとえに発見の斬新さにある。冬の日、水溜まりか池の表面に薄氷が張っている。その厚さは実に薄く、表面の光の反射具合で水面ではなく氷が張っているのだと認識できる程度である。試しに木ぎれで表面をつつく。すると木ぎれはすっと水中に入るかと思えば、氷を割り、割れた氷は硬質の氷片となって散る。こんな薄い氷にも木ぎれの加える力に抗して割れるだけの強さがあったんだ、という発見である。ちなみに水溜まりの氷を木ぎれでつつくというのは、子供が冬の朝によくやる行為である。この無邪気さとまっすぐな好奇心が野口の俳句の魅力のひとつだろう。
 最近、若手俳人の活躍が目立つが、野口はその一翼を担う一人で、1986年生まれ。邑書林の俳句アンソロジー『俳コレ』に参加し、『しやりり』は第一句集。野口はプラトンを研究する哲学の徒で、修士論文の題目は「『パイドン』におけるミュートス - プラトン哲学の再考」だという。御大高橋睦郎が栞文を寄せている。句集題名は集中の「友の子に友の匂ひや梨しやりり」から。梨を齧る時の擬音語である。句集は編年体で編まれており、2003年から始まっているので、17歳の作である。あとがきによると、高校生の時に瀬戸内寂聴の文学塾に参加して初めて作った俳句を瀬戸内に褒められたが、「俳句なんてやめて小説を書きなさい」と言われたのに反発したのが俳句の道に入るきっかけだったという。「やめろ」と言った瀬戸内に感謝すべきかもしれない。
 さて、野口の俳句は王道を行く有季定型・旧仮名遣で、句風は清新な感受性を迸らせるなかにも、どこか留守番を命じられて無人の部屋で一人遊びしているような邪気のなさを感じさせるところがある。
 2003-2006の章より。
抱きしめるやうに泳ぐや夏の川
ひつじ雲もう許されてしまひけり
串を離れて焼き鳥の静かなり
遠くから見てゐるものに春の海
うららかにしづかに牛乳捨てにけり
バルコンにて虫の中身は黄色かな
海賊のやうにメロンをほほばれる
出航のやうに雪折匂ひけり
 韻律は悪いがおもしろいのは三句目で、串に刺されているときは並んで枝に止まる鳥のように見えても、串から外されると単なる鶏肉片に見えるということか。四句目は年齢を感じさせないほどの完成度で、栞文に高橋が書いているように「春の海」は動かない。六句目は野口の無邪気な好奇心を感じさせる句で、バルコニーに落ちていた虫の死骸を試しに踏んづけたら、にゅっと黄色い中身が出たのだろう。『俳コレ』の選を担当した関悦史が解説文に書いていた。いっしょに吟行に行った際にカマキリの卵を見つけ、野口が「これ潰したらどうなりますか」と聞いたので慌てて止めさせたという。最後の句は高柳克弘が特に好きと推した句。
 2007-2010の章より。
初雪やリボン逃げ出すかたちして
御影供や黄な粉は蜜に馴染み初む
茶筒の絵合はせてをりぬ夏休み
象死して秋たけなはとなりにけり
秋川や影の上には魚のゐて
襟巻となりて獣のまた集ふ
 一句目は自選十句にも入れているので自信作なのだろう。意味を問われると詰まってしまうが結像が美しい。二句目の御影供みえいくは弘法大師の忌日である3月21日に大師の図像を飾って行う供養で春の季語。茶店で食べた菓子にかかっている黄粉と黒蜜である。粉体である黄粉は粘りけのある黒蜜と最初は混じらないが、時間が経過するとやがて黒蜜と混じり合う。微細な変化と時間の経過が詠まれている。三句目が冒頭に書いた無人の家で一人遊びしているような空気の句で、特に意味のないところが好きな句である。四句目、確かに動物園の人気者である象が死ぬのは秋がふさわしい。五句目、ほんとうは水中に魚がいるから水底に影ができるのだが、その順序関係を逆転することによって知覚主体の発見が表現されている。
 2011-2013の章より。
吾のせゐにされたし夏のかなしみは
ふれずとも気配ありけり種袋
霧吹きの霧となるべし春の水
はつなつのめがねはわたくしがはづす
己身より小さき店に鯨売られ
一指にて足る六花殺むるは
 野口も年頃となりこの頃恋人ができたらしい。それまでの句のほとんどは事物の句であったが、このあたりから人が登場する。一句目の悲しみを抱いているのはもちろん私ではない。四句目の眼鏡も自分の眼鏡ではなかろう。微妙にエロティックな句である。五句目の「己身」は「おのがみ」と読むのかと思ったら、「こしん」という読みがあるらしい。「鯨」は「げい」と読みたい。小さな魚屋で鯨肉が売られている情景だが、自分の体より小さな店というところにおかしみがある。おかしみは俳句の大切な要素である。六句目の「六花」は雪の結晶のこと。ポイントは「殺むる」にある。ちなみに北海道にある六花亭のマルセイバターサンドは美味しい。
 野口は神野紗希・江渡華子と三人でスピカというグループを結成して活動している。栞文で高橋が書いていた鈴木真砂女のお店をときどき手伝っているという俳句三人娘というのはこの三人のことだろう。『しやりり』をスピカのオンラインショップで購入すると野口ま綾 (姉と思われる)の特製ポストカードがおまけで付き、句集には野口の揮毫が入るのだそうだ。しまった。私はふらんす堂で買ってしまったので何も付いてこなかった。スピカのサイトで買えばよかった。

第92回 『俳コレ』

初雪やリボン逃げ出すかたちして
            野口る理
 今回は短歌ではなく俳句の世界に遊びたい。週間俳句編の『俳コレ』(邑書林)が滅法おもしろい。昨年(2011年)12月23日に初版が出て、8日後の大晦日にもう再版されているので、きっとよく売れたのだろう。中身の充実ぶりを見ればそれもうなずける。
 俳句甲子園組の活躍もあって、俳句の世界がやたら元気だ。2009年12月には21世紀にデビューしたU-40世代の俳句を集めた『新撰21』(邑書林)が、翌年の2010年12月にはU-50世代の『超新撰21』(邑書林)が上梓され話題を集めた。『新撰21』と『超新撰21』は自撰100句に小論を付すという同形式で、巻末に編者による座談会が配されている。一方、『俳コレ』はいささか趣向がちがう。ウェブマガジン『週間俳句』編集部が入集作家を選定し、依頼を受けた撰者が100句を選んでいる。つまり自撰ではなく他撰なのである。小論も撰者が書いている。
 短歌や俳句などの短詩型文学の大きな特徴は撰があることだと、私はかねてより考えている。「撰ぶ」ということは「捨てる」ということを意味する。
 同じ撰でも自撰と他撰とでは意味合いが異なる。自撰は当然、作り手である自分がよいと思ったものを撰ぶのだから、撰は創作行為の最終段階である。しかし他撰はちがう。他人が作者とは異なる眼と美意識に基づいて撰ぶのだから、作者がよいと思った作品が選ばれなかったり、その逆も当然起こりうる。これは創作行為の最終段階を他人に委ねるというとである。最後まで自分で作らず、「最後はアナタにお願いネ」ということだ。
 芸術を作者の個性の発露と見なす芸術観から見れば、これは許し難い行為である。最初から最後まで一貫して自分で製作するからこその個性だからだ。他人の手が介入すれば、もうそれは純粋な一人の個性ではない。
 しかし、芸術をしばしば特異な天才である作家の個性の発露と見なす芸術観は、19世紀中葉に欧州で台頭したロマン主義が考案したもので、たかだか150年足らずの歴史を持つにすぎない。その閉塞感が20世紀になって強く感じられるようになり、ジョン・ケージの偶然性の音楽や、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングが発明されたことは人の知るところである。
   日本の短詩型文学である和歌や俳句はもともと芸術を作者の個性の発露と見なす芸術観とは無縁だったが、短歌は明治の革新運動によってその毒を一身に浴びてしまった。その後遺症は今も続いている。ところが俳句はいささか事情がちがう。その形式のあまりの狭小さゆえ、ロマン主義的個性を入れ込む余地がなかったためだろう。
 それと比例するように撰の持つ比重も異なっており、短歌より俳句のほうが撰を重視する。おそらく俳句は多く作って多く捨てるからだろう。『俳コレ』が他撰による100句を集めていることには、上に述べたような意味合いから見てとりわけおもしろいのである。
 前置きはこれくらいにして収録された句を見よう。
 野口る理は1986年生まれで、所属なし。プラトンについての修士論文を書いている(あるいはもう書いた)哲学専攻の大学院生らしい。撰は関悦史。
襟巻きとなりて獣のまた集ふ
出航のやうに雪折匂ひけり
アネモネや動物病院あれば街
茶筒の絵合はせてをりぬ夏休み
秋立つやジンジャーエールに透ける肘
 全体として若々しく世界に対する好奇心に溢れた句が並ぶ。特に最後の句などユーミンの歌詞の一節のようだ。四句目のように、することがなくても無聊をかこつことなく、何かに楽しみを見つけているような感じがよい。掲出句の「初雪やリボン逃げ出すかたちして」も詩情溢れる句だが、二句目は座談会で高柳克弘が特に好きだと述べた句。「雪折」は雪の重みに絶えかねて折れた枝のことで冬の季語。清新という語がこれほどふさわしい句もない。
 福田若之わかゆきは1991年生まれで、現在大学生で所属なし。次の小野あらたもそうだが開成高校出身である。開成高校と言えば東京の御三家のひとつに数えられる進学校だが、俳句甲子園の優勝常連校でもある。最近『俳句のための文語文法入門』という本を出した国語教師の佐藤郁良の薫陶の賜物だろう。撰は佐藤文香。
鶴ひくに一縷の銀も残さゞる
朧夜やどれだけ磨いても遺品
歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて
僕のほか腐るものなく西日の部屋
白鳥を三人称の距離に置く
 今回読んだ『俳コレ』前半の10人のうち私が最も注目した作者である。最初の二句を含む「あをにもそまず」は高校時代の作だという。俳句甲子園でこんな句を出されたら他の高校はたまらない。「鶴ひく」は暖かくなって鶴が北国へ帰ることで春の季語。しかし福田はこの完成度を捨てて、新たな方向に舵を切ったようだ。三句目以下は新傾向の句。従来の俳句的世界に安住せず、世界に対して知的な処理を加えている。座談会で池田澄子が「危うさが素晴らしい」と発言しているのは、そのあたりの変化を捉えたものと思われる。今後に期待される逸材と見た。
 小野あらたは1993年生まれで「銀化」所属。石田波郷俳句大会新人賞を受賞している。撰は山口優夢。
薄紙にキャラメル匂ふ花の昼
タンカーの積荷を昇る蝶白し
栗飯の隙間の影の深さかな
秋の暮カレーに膜の張りにけり
返り花新体操の濃き化粧
   小論で山口が「即物的トリビアリズム」と評しているのが的を射ている。栗飯のご飯と栗の隙間とか、カレーの表面に張った膜のように、日常のどうでもよいような細かい情景に虫眼鏡を当てるような作風である。そしてそこに投影されている主観的心情というものがない。ただ細部の描写があるだけである。
 小野の俳句を読んでいると、短歌と俳句とではおもしろがるポイントがちがうようだという感を深くする。もし短歌で「栗飯の隙間の影の深さかな」と情景描写が上句に来れば、下句では「問と答の合わせ鏡」(永田和宏)のように、その描写によって喚起される主観的心情が述べられることが多い。たとえば「行春の銀座の雨に来て佇てり韃靼人セミヨーンのごときおもひぞ」という宮柊二の歌を見れば、〈情景描写〉- 〈心情〉という構図は明らかである。下句がないと短歌にならない。この構図の上に短歌的喩が成立するのであり、たとえ一首全部が情景描写であっても、背後にはその描写が送り返す作者の心情という余剰的意味が揺曳すると読むのが短歌の約束事である。  しかし小野の句を見てもわかるように、俳句においては情景描写は単に描写であるにすぎず、いかなる心情の喩でもない。俳句ではいかに鋭利な刃物で現実を鋭く切り取るかが問われるのであり、着眼点のよさ(「そういうことってあるある」)と切り取り角度の鋭さ(「うまいっ」と膝をポン)が評価のポイントとなる。小野の「薄紙にキャラメル匂ふ花の昼」の句などを見ると、この作者にはミクロン単位の薄さとミリグラム単位の重さを素手で感じ取る異能が備わっているようにすら見える。おもしろい。
 松本てふこは1981年生まれで、「童子」同人。ボーイズラブ系のコミックを出す出版社に勤務しているらしい。撰は筑紫磐井。おそらく集中で撰の効果が最も発揮されているのは松本だろう。撰者の筑紫は「童子」ならばおそらく採らない句ばかり選んだと明言しているからである。
田楽に我等一緒に棲まむかと
下の毛を剃られしづかや聖夜の子
読初の頁おほかた喘ぎ声
飽食の時代の鴨として浮ける
永き日の汝が脇息になりたしよ
 小野の句の次に松本の句を見ると、俳句というジャンルの振れ幅の大きさに驚く。集中で最も感情のこもる作風で、放恣に流れる一歩手前。「会社やめたしやめたしやめたし落花飛花」というハチャメチャな句まである。一句目や五句目のように男女のことを詠むことが多いのも特徴だ。二句目は盲腸か何かの手術の前の病院だろうが、このように風雅に遠いアイテムも多い。四句目など藤原龍一郎が作りそうだ。筑紫が91句を選び、松本に9句は自分で撰ぶようにと言ったら、松本は「春寒く陰部つるんとして裸像」のような句を撰んでいるので、作者と撰者の阿吽の呼吸による確信犯かと思われる。
 矢口こうは1980年生まれで、「鷹俳句会」を経て「銀化」所属。撰は相子智恵。
腥き人間として泳ぎたる
脱捨しセーターわれを嗤ひをり
自殺せずポインセチアに水欠かさず
あと二回転職をして蝌蚪になる
夢の無き時代の栗を拾ひけり
 矢口のテーマはワーキングプアの生き難い時代の現実である。これもまた今の俳句の多様性を表しているのだろう。「電話なりゐたりグッピー死にゐたり」のように電話がアイテムとしてよく登場するのも、他者との繋がりへの希求かと思うと切ない。一方、「台風や隣りて家の灯り合ふ」のように暖かみのある句もある。
 南十二国みなみ じゅうにこくは1980年生まれで「鷹」同人。撰は神野紗希。
青空のうへはまつ暗揚雲雀
鏡みな現在映す日の盛
人類を地球はゆるし鰯雲
ロボットも博士を愛し春の草
遺跡ふと未来に似たり南風
 特異な作風で、宇宙的視点とジュブナイルSFを思わせる俳句である。一句目の「青空のうへはまつ暗」というのは、地球の成層圏を突き抜けて宇宙空間に出たときのことを言うのだろうが、もちろん雲雀はそこまで上昇することはないので俳句的想像である。鏡が現在を映すとか、遺跡が未来に似ているというのも、はっとさせるユニークな視点と言えよう。大柄で伸びやかな句風である。
 林雅樹は1980年生まれで「澤」同人。撰は上田信治。
春の風フジタツグハル髪がヘン
万緑や僕はキリスト君はシャカ
我を打つ女教師若し喉に汗
枯野にて曾良が芭蕉を羽交締め
ぶらんこに背広の人や漕ぎはじむ
 これはまたユニークな俳句だ。一句目のフジタツグハルは画家の藤田嗣治で、おかっぱ頭がトレードマーク。二句目の元ネタは中村光のコミック「セイント☆おにいさん」、四句目は増田こうすけの「ギャグマンガ日和」だから、コミックやサブカルを躊躇なく俳句に取り入れている。小論の上田によれば、林の俳句は顰蹙俳句と呼ばれているそうで、あえて「皮を剥いたカエル」とか「内臓の出たゴキブリ」を持って来て「お芸術」になりがちな俳句に反・芸術をぶつける作風だそうである。短歌における森本平のようなポジションか。こういう道を取る人はしんどいだろうなと思うが、どの道を行くかは人の好きずきである。読む人は奇想と諧謔を楽しめばよい。五句目は名句だと思う。「漕ぎはじむ」が効果的。
 太田うさぎは1963年生まれで「雷魚」「豆の木」「蒐」同人。撰は菊田一平。
西日いまもつとも受けてホッチキス
水遊び足の間を葉の流れ
酢洗ひの鰺も谷中の薄暑かな
都鳥よろづのみづにふれてきし
ふたしかなものに毛布の裏表
 伸びやかで姿のよい句を作る人である。引いたうちで最も俳句的なのは三句目だろう。ちなみに「酢洗い」とは、酢でしめる前に食材を酢で洗って水っぽさを抜くこと。「鰺も」の助詞「も」がいかにも俳句的で上手い。ひんやりした厨の空気まで感じられるようだ。「歪ませて過去はうるはし雛あられ」のように、少し知的に捻った句もある。
 山田露結ろけつは1967年生まれ。「銀化」同人。撰は山田耕司。
レジスター開きて遠き雪崩かな
閂に蝶の湿りのありにけり
用もなく人に生まれて春の風邪
対岸は花火の裏を見てゐたる
給油所をひとつ置きたる枯野かな
 一句目は俳句お得意の二物衝撃で、この言葉の飛躍が俳句の生理である。林雅樹の小論を書いた上田信治は、「俳句は、その出自より、挨拶性と芸術性、水平志向と垂直志向の二つの力の相克によって、思わぬ回転が加わり明後日を指して飛ぶという特質を持つ」と書いている。俳句のユニークなところは、明後日を指して飛んでしまっても、「いやぁ、えらいところまで飛びましたなあ」という態度で、そこに面白味を見ようとする点にある。そこが短歌と異なる。二句目は特に好きな句。五句目も枯野という俳句的素材に給油所を置くところがおもしろい。現代の新しい風雅か。
 雪我狂流ゆきがふるは1948年生まれ。俳号も変わっているが、作風もそれに劣らずユニークで集中随一と言ってよい。撰は鴇田智哉。
もつともだ薄荷の花が白いのは
あーと言ふあ~と答へる扇風機
昼寝にはじやまな天使の羽根であり
回りてはゆつくり沈む冬の螺子
穴と穴合へば一味や去年今年
 天然というか自在というか、あたりまえのことをそのまま詠んでおもしろいという作風である。二句目「あー」は扇風機の前での発声で、「あ~」は羽根の回転による音の変化を表す。子供がよくやる遊びで、それを大の大人がやっているところが俳句的と言えば言える。五句目は蕎麦屋の一味唐辛子入れの容器で、蓋と容器の穴が合って初めて中身が出るという様子。どの句を読んでも実に楽しく、俳句の世界は広いなあと痛感する。短歌ではこれほど楽しい歌ばかり並んでいることはめったにない。少し眉間に皺の寄る真面目な文芸になりすぎたためか。
 齋藤朝比古は1965年生まれで「炎環」同人。撰は小野裕三。
うすらひの水となるまで濡れてをり
缶切に使はぬ尖り夜の秋
ところてん敗れしごとく押しださる
羽根閉ぢて天道虫のひと粒に
裂ける音すこし混じりて西瓜切る
 座談会で編集部が「俳句の国に暮らしている人なんです」と言い、それを受けて上田が「メランコリックな味わいがあるのは、その俳句の国がすでに失われたものだという感じがあるからだ」と述べているのがおもしろい。たしかにどこかうっすらとした悲しみの漂う句風である。たとえば二句目、缶切りにはいろいろな形の刃が付いていることがあるが、たいていはいちばん大きな刃しか使わない。残りの刃は一度も使われないままになる。そこを突いた句で、冷静に観察する眼に確かにうっすら悲しみがある。そう思うと残りの句にも似たような印象が出てくる。日常の細かいことにいとおしさを見ていると思われる。
 とまあこのように現代俳句は実に多様な展開を見せていて楽しいのだが、もうすでに長くなったので後半は次回に回したい。