第297回 高木佳子『玄牝』

生けるもの皆みずからを負ひながら歩まむとするこの砂のうへ

高木佳子『玄牝』

  この歌集を一読して、言葉には浮き上がる言葉と沈む言葉があることをあらためて知った。浮き上がる言葉とは、例えば主体の生の横溢の余りに口から弾け出す勢いのある言葉である。浮き上がる言葉は天を目指して上昇する。一方、沈む言葉とは、その重さゆえ受け取る側の心の中にどこまでも沈んでゆく言葉である。言葉には重さがある。本歌集を特徴づけているのは他ならぬ言葉の重さであろう。

 『玄牝』は『片翅の蝶』(2007年)、『青雨記』(2012年)に続く第三歌集である。歌集題名は「げんぴん」と読む。あとがきによれば、玄牝とは『老子』に登場する原初の世界であり、万物を生み出す混沌だという。このようなタイトルを付ける動機は二つ考えられる。一つは万物の根源へと遡行したいという内的欲求、いま一つは現在の世界が原初の混沌のように見えるという感慨で、高木の場合は後者にちがいない。

 第一歌集『片翅の蝶』には妻として母として「悩める〈私〉」の私的感情が色濃く投影されており、第二歌集『青雨記』は〈私〉を離れ対象を見つめる眼から、それを超えて幻視に到る過程が見られたが、第三歌集『玄牝』に到って著者はさらに作風を変化させて歌境を深めた感がある。それは次のような歌に表れている。

舗道いしみちはしまし光を折らしめて影を濃くするけふの暑さに

たちまちに黒の土嚢が充ちゆけり負はむとしたる人間の荷が

しかたなく此処にゐる女どうしても此処にゐる我が同じ土掻く

荒れし野の繋がりながらひとしきり叫ぶごとしも磐城平は

にくきほど海は光ぬ忘却のうすくれなゐの浜のひるがほ

 高木は2011年に発生した東日本大震災と、それによる東京電力福島原発の苛酷事故に見舞われた福島県に住んでいる。現在の住所はいわき市である。福島原発事故は前作の『青雨記』の後半部にすでに影を落としていたが、その影はいっそう濃さを増して本歌集の全体を覆っている。その影は、上に引いた一首目の陽光が作り出す影にも投影されている。二首目の土嚢は放射能に汚染された土を取り除いて入れるためのものである。それは人間が負わなくてはならない荷なのだ。三首目、汚染された土地にしかたなく住み続ける者もいれば、著者のようにその土地に住み続ける決意をした人もいる。海の光が憎いのは、もちろん全てを流し去った津波を思い出すからである。いずれの歌も、住む土地をこんなにした者を声高に糾弾するのではなく、この土地に住み続けなくてはならない人間の姿を重い言葉で描いている。

 高木が言葉の軽さを嫌っていることは、次の「合歓」と題された連作の歌を見てもわかるだろう。

花びらの流るるやうな示威列をとほく眺めつ手を翳しつつ

みづからもパノブティコンの中にゐて歩みてゐるを知らぬ稚なさ

このくにと叫ばるるときわが痛む罅荒れはあり このくにとは何

連帯と思ひてやまぬ人群れへ合歓はしきりに睫毛を揺らす

 示威列とはデモ行進のことである。おそらくは東京電力の責任を糾弾し、被災した人達への連帯を叫ぶデモなのだろう。しかしデモ隊のシュプレヒコールの言葉は高木にはあまりに軽く聞こえるのである。二首目のパノブティコンとは、一望監視システムと訳される。獄舎が放射状に配されていて、中央の監視所から全体が見渡せる監獄の配置をいう。日本でも旧網走監獄で採用されていた。これを国家の監視システムの喩として用いたのはミッシェル・フーコーである。高木の目にはデモ隊の若者たちはあまりに稚なく見える。それは自らが目には見えないパノブティコンの中にいることに気づかないからである。

 そのように土地に留まる作者は、周囲から好奇の目で見られたり、あからさまに疎外されることがある。これもまたある決意をした人間が、苦い水のように甘受しなくてはならない宿命である。

戸の表に刻みつけくる×のあり「われわれではない」と頷きあひて

あなたのいふ「人の住めない処」に住みをれば何やらわれは物の怪のやう

佳子ちやんはつよいのねえと言ふときに鈍く歪みゆく口角

揺るるなく蔑みのこゑ受けゆかむ声の向かうの木斛見つつ

 一首目の×記号は何のために付けているのかわからないが、周囲と同調しない者、まつろわぬ者の印なのだろう。二首目の「人の住めない処」は、いまだに放射能の影響が残っている地域である。一説では、高濃度の放射能が残留する立ち入り禁止区域は動物が跋扈すると聞くが、それも考えさせられる話である。三首目、知人が意志の強さを指摘するとき、その口角は歪んでいる。四首目は他人の侮蔑に負けないという意志の表明である。

 高木の歌が、大震災の余波と原発事故の影響がいまだ残る土地に暮らす人を描くとき、それはある特定の災害や特定の土地の話ではなく、すべての人が負うべき宿命という普遍的地平に昇華される瞬間がある。

剥がれたる土にねぢれてくちなはは皮脱がむとす声をもたずに

砂の原みづを含みてをりしかば発ちゆくものの跡は遺りぬ

くるしみは澱のごとくに沈みたり木斛の樹は疾く暮れゆけり

生きて在る人らのうへに陽は白し眩しみにつつまなこは閉ぢらる

夕光を目陰して見る人間はもはや明日の見ゆると言はず

 歌を作るきっかけはある特定の出来事であるかもしれないが、その出来事を起点として人間の負う宿命へと昇華させるのは言葉の力である。このような歌を読むとき、私の脳裏にしきりに浮かぶのは聖書の黙示録である。同じような印象を抱く人は多いのではないかと思う。

 

左右なき軍手に土は浸みゆきて炙り出さるる両の手のひら

此の岸と彼の岸とにまふたつに人は裂かれて河は膨らむ

桐の実のくらくりたる夕のへよ少年は言ふそのくらきこと

炎の輪さかのぼりゆき煙草を挟む指の股にぞにじりよりたる

瞠きて何をかを見む目のまへを甘納豆の糖はこぼれる

冬の田に倒れふしゐる鍬のあり在るそのことに冷えまさりつつ

握りゆく土われにあり握りかへすごとく手にある ただ今をある

 

 一首目、軍手に左右はないが、作業してゆくと土の汚れによって左右が炙り出されるようにわかるようになる。二首目此の岸と彼の岸は此岸と彼岸、つまりこの世とあの世の喩であることは言を待たない。四首目と五首目は葛原妙子を彷彿とさせる微細描写が光る。六首目は鋤き終えた田に鍬が残されていて、鍬の存在が寒さを一層感じさせるという歌。七首目は解説の必要がない決意表明である。

 いずれも心の奥底に染み入るような歌だが、最後に次の巻頭歌を挙げておきたい。本歌集の基調を示す歌と思うからである。

うるほへる花群のごと人をりて揺れなまぬなり夏の朝を

 私が思い浮かべるのはcondition humaineというフランス語の表現である。これを「人間の条件」と訳したのは誤訳である。ほんとうは、人としてこの世に生まれたからには、異土の乞食であれ王侯貴族であれ等し並みに負わねばならぬ宿命・定めを意味する。夏の朝に吹く風に揺れているのは、福島に暮らす人ばかりではない。それはこの世に生を受けた者すべてなのである。

 

第113回 高木佳子『青雨記』

刈られたる草の全きたふれふし辺りの空気あをみ帯びたり
                 高木佳子『青雨記』
 高木佳子たかぎ よしこは1972生まれで「潮音」に所属。2005年に「片翅の蝶」で「短歌現代」新人賞と「潮音」新人賞を受賞。この一連を収めた第一歌集『片翅の蝶』(2007年)で日本歌人クラブ新人賞を受賞している。『青雨記』(2013年)はそれ以後の作を収録した第二歌集である。
 確か小池光だったと思うが、次のようなことをどこかに書いていた。歌人にとって大事なのは第二歌集である。第一歌集はそれまでに作り溜めた歌を集めれば出せる。それを青春の記念や一生の思い出として、そこで終わる人も多くいる。ほんとうに歌人として立つのは第二歌集においてである。確かこんな内容だった。
 実は私は『片翅の蝶』も出版された時すぐに読んだのだが、読み進むうちに息苦しくなり、途中で巻を閉じてしまった。歌から滲み出るあまりの閉塞感に圧倒されてしまったのである。
いつよりか無援となりて驟雨にも寄るべき軒を見い出せずゐる
妻として撮らるるときに目をそらすわれの理由を誰か質せよ
父母の血は閉ざさむと若き日に立てし誓いひのかく脆きかな
われに優位を誇示するごとく高らかに笑ひ声あぐる三人子の母
脂臭き歯の向かう側その生を飲みこみて来し父よ語れよ
 『片翅の蝶』の主旋律は出産と子の成長という女性の物語なのだが、妻の座に安住する自分への不安、子を持つことへの畏れ、父との根深い確執など、負の感情が横溢する歌集だった。確かに歌集後半まで読み進めば、「をのこ児の髪はいつでもみじかくて深まりてゆく櫛のあめいろ」のように、心穏やかに子供の成長を見つめる歌もあって、閉塞から解放へ、闇から光へという構成の歌集であることが知れる。私は途中で挫けてしまったわけだ。ただそのことを差し引いても、『片翅の蝶』収録の歌には叙景が少なく、主情に大きく傾いた歌集だという印象が強い。反アララギ、反写実の立場を貫いた太田水穂の「潮音」の影響もそこには働いているかもしれない。
 ところが『青雨記』を一読して驚いた。作風ががらりと変わっているのである。
てのひらに蟻歩ましめてのひらに限りのあれば戻りきたりぬ
いちまいの花びら咬みて小鳥遊びそのはらびらのあまたなる傷
つよき陽射しうけとめかねて夾竹桃に寄れば夾竹桃にならむよ
いつくしく薄暮となりて青鷺はとけゆくごとく片脚に立つ
金木犀および少女ら香りけふの日をうしなひながら生きつつあらむ
 『片翅の蝶』の至る所に顔を覗かせていた「悩める〈私〉」はすっかり影を潜めて、対象に寄り添う視線が勝る歌になっている。歌は景物(=対象)とそれを見る〈私〉(=主体)との出会いを契機として生まれるものであるが、その際に対象の側に比重を置くか、それとも主体の側に比重を置くかで歌の性格が大きく異なる。対象に比重を置いた歌がいわゆる客観写生であるが、100%対象側ということは理論上あり得ない。なぜなら対象を認識するには主体の能動的活動が必要で、対象描写には必然的に主体の把握が混じるからである。逆に主体に比重を置いた歌はロマン的かつ抒情的性格を色濃くすることになり、その中には幻想的世界を描くものもあるだろう。『片翅の蝶』には主体に比重が置かれた歌が多く見られたが、『青雨記』では振り子が反対側に振れるように主体を離れた歌が中心となっている。
 では高木は対象に即した写実に転向したのかといえば、ことはそれほどかんたんではない。上に引いた一首目を見てみよう。自宅の庭か公園で、戯れに蟻を手の平に乗せている情景が描かれている。手の平は狭いため、端まで行った蟻がまた戻る。それだけを詠んだ歌である。これは客観写生だろうか。そうではあるまい。「てのひらに限りのあれば」は主体側の認識である。では子規の「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」はどうか。「藤の花ぶさみじかければ」も同様に主体側の認識だから同断ではないか。子規の歌の核は対象認識にあり、歌意は対象の認識と認識した主体という契機に回収されるが、高木の歌ではそこに回収されない何かが残る。それは「てのひら」の反復によって生じる非現実感である。リフレインは童謡でよく用いられる手法で、現実を虚構の世界へと転轍する作用がある。対句的定型が反復されることによって、その話は現実のことではなく昔々ある所で起きたとさ、へと変換されて時空を超える。よく見ると上に引いた二首目にも「はなびら」の反復がある。
 おまけに一首目は蟻、二首目は小鳥が嘴で花びらに付けた傷という、超微細世界である。これが高じると「つばさより鱗粉こぼれ紋白の揚がりゆくなり幾らかかろく」となって、こぼれた鱗粉の分だけ体重が軽くなっただろうというマイクログラムの世界になる。ここまで行くともはや幻視の世界である。そう考えれば「潮音」には葛原妙子がいたことが思い出されないだろうか。高木は第一歌集『片翅の蝶』の主情的歌風を脱して客観写生へと向かったのではなく、対象と主体の二項対立という図式を超える幻視の領域へと踏み出したのだろう。そう考えれば次のような歌も了解できるのである。
透きとほるそれら雨滴のふくらみてあをく動きつ傘の傾きに
しづみゆく糖の崩れを見送りぬアールグレイのその深さまで
skypeにみづうみの映ゆすぎゆきに潜水士帰らざりしみづうみ
ゆくらかに点灯夫来て空の鳥海の魚を灯すゆふぐれ
琥珀石透かすいつときゆふぐれは右の眼にのみ訪れぬ
 四首目の点灯夫の歌や五首目の琥珀石の歌はうっとりするほど美しい。高木は第二歌集に至って独自の歌の世界を確立したと言えるだろう。
 最後になったが高木は福島県いわき市の在住であり、東日本大震災で爆発事故を起こした福島第一原子力発電所による放射能被害を受けた。歌集巻末には原発事故を詠んだ歌が置かれている。
見よ、それが欠伸をすればをののきて逃げまどふのみちひさき吾ら
海嘯ののちの汀は海の香のあたらしくして人のなきがら
繊すぎる雨の降りきてをさなごのやはき身体を汚しゆくなり
 いずれも一読して沈黙するしかない歌である。あとがきに「雨は、青葉を潤すものとしての雨から、汚染される悪しき雨へと変わった」とあり、いまだに除染作業が進まない地元の現状が窺われる。この苛酷な体験が高木の短歌をどのように変えるかは今後を見守るしかあるまい。