第355回 鯨井可菜子『アップライト』

鋤跡のわずかに残る冬の田をパンタグラフの影わたりゆく

鯨井可菜子『アップライト』

 電車が郊外の田園地帯を走っている。車窓から見える田畑に作物の緑はなく、地面には鋤の痕跡が平行に走っているという冬枯れの景色である。その鋤跡の残る土の上に電車のパンタグラフの影が射している。その影は地面の凸凹のせいで少し折れ曲がっているだろう。歌全体を包む季節感と移動の感覚がパンタグラフの影によって表現されている。詠まれているのはつまるところ時間の流れであり、その時間を生きる〈私〉もその背後に淡く揺曳している。

 もし上句を「鋤跡のはつか残れる冬の田を」とすれば文語(古語)の歌になり、いかにも和歌風の結句「わたりゆく」との相性がずっとよくなる。しかし作者の鯨井は基本的に口語(現代文章語)で歌を詠む歌人なので、もしそのように書き換えると個性がなくなってしまうだろう。

 穂村弘は『短歌ヴァーサス』2号(2003年)に書いた「80年代の歌」第2回で、紀野恵の「晩冬の東海道は薄明りして海に添ひをらむ かへらな」や、大塚寅彦の「をさなさははたかりそめの老いに似て春雪かづきゐたるわが髪」などの歌を挙げ、「このような高度な文体を自在に使いこなす若者は彼らを最後に絶滅した」と断じた。そして理由はわからないが、「80年代の終焉とともに若者たちは非日常的な言語にリアルな想いを載せるということが出来なくなったようだ」と続けている。その結果として、「それ以降の若者の歌はいわば想いと等身大の文体の模索に向かってゆくことになる」と指摘している。今から20年前に書かれた文章だが、穂村の指摘はまるで予言のようだ。手本とすべき先達を失った若者たちは今も自分の文体を模索しているというのが現状だろう。ちなみに大塚寅彦は1961年生まれで、紀野恵は1965年生まれである。このあたりがどうやら文語(古語)を駆使して作歌する歌人の下限らしい。

 鯨井可菜子は1984年生まれで、すでに第一歌集『タンジブル』(2013年、書肆侃侃房)がある。『アップライト』は昨年(2022年)上梓された第二歌集である。

 80年代に現れたライト・ヴァースとニューウェーヴ短歌がもたらした最大の変化は短歌の口語化(現代文章語化)だろう。もはや過去の助動詞「き」「けり」や完了の助動詞「ぬ」「つ」「たり」「り」とか、助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」の係り結びなどを使いこなす必要はなくなり、作歌のハードルはぐっと下がった。この文体上の変化と軌を一にして、短歌が描く主題の世界もまた多様化した。だが逆接的に聞こえるかもしれないが、主題の多様化によって、短歌が本来めざすものが影絵のようにあぶり出されたという気がしなくもない。鯨井の短歌が好んで描くのは、「自分の時間を懸命に生きる等身大の姿」である。

大戸屋のばくだん丼は早口のごゆっくりどうぞを背に受けながら

編集部にりんごとみかん配られてお地蔵さんのように働く

プレス証ぶら下げたまま大ホールの椅子のひとつにねむる試み

校正紙ひと月かけてめろめろになりゆくまでを働きにけり

会議室にダイオウイカの横たわり残業を減らすための会議よ 

 一首目、大戸屋のばくだん丼とは、鮪の刺身・納豆・オクラ・根昆布・山芋などのねばねば食品がてんこ盛りの丼である。スタミナが欲しい人が注文するものだ。店員は「ごゆっくりどうぞ」とマニュアル通りに客に言うが、昼食時で忙しいので早口になる。その声を背に受けて丼をかき込む。二首目、作者は医療関係の出版社に勤務している。社員の実家からダンボール箱で送られて来たのだろうか、りんごとみかんがみんなに配られる。会社でよくある風景だ。りんごとみかんを机に置くと、まるで道端の地蔵にお供え物をしたようになる。三首目は医学関係の学会に取材しに行ったのだろう。朝早く起きたせいか、研究発表が行われているホールの片隅で居眠りしている。四首目、雑誌の編集部の主な仕事は割り付けと校正だ。私も短歌誌などに原稿を書くと、校正刷がまっ赤になって戻って来ることがある。塚本邦雄の「塚」が異体字であることは知っていたが、「邦」も異体字であることはさる編集者の指摘で知った。校正のプロはかくも恐ろしい。五首目の「ダイオウイカ」は力なく座っている自分のことだろうか、それとも会議室に漂う妖気のようなムードの喩か。いずれにしても残業を減らすための会議が延々と続くのは虚しい。

 ことほど左様に現実というものはやり切れないものである。関西弁なら「やってられへん」とつぶやくところだ。鯨井の作る短歌はこのようなやり切れない現実にぶつかってもがく〈私〉を好んで主題にする。それは現代短歌が口語化(現代文章語化)してハードルが下がり大衆化するのにともなって、新たな感性を呼び込んだためだろう。そのような変化を背景とする鯨井の短歌は、ひと言で言うならば「フツーの私が現実を生き延びるための応援歌」という性格が顕著だ。

 そのようなことがよく感じられるのは、たとえば「担々麺」と題された日付のある歌である。日付は省略する。

スカートのホックゆるめて二十五時担々麺の汁全部飲む

落ちている片手袋を見ておればワゴン車の来て二度踏んでゆく

午後三時 今日は有休なんですと前髪切られながら答える

「本当に出るんですか?」と問われおり予想問題集の読者に

つらければやめたっていいと君は言う春の川辺にわたしはしゃがむ 

 作者はよほど担々麺とインド映画の『バーフバリ』が好きなようだが、それはまあよいとして、歌の描く〈私〉は平日に美容院に髪を切りに行ってやましさを覚えながら、今日は有休なんですと言い訳し、医師の国家試験の問題集の予想問題が本当に出題されるのかと読者から電話で詰問されてぐっと詰まるというような日々を送っている。穂村弘は『はじめての短歌』(河出文庫、2016年)などでしきりに、「生きる」と「生きのびる」はちがうと説き、短歌は「生きる」ためにあるものだとしているが、鯨井の短歌を読むとその手前の「行きのびる」ステージで奮闘しており、短歌はそのステージをクリアするための応援歌のように見えるのである。余談ながら二首目の「道に落ちている片手袋」の愛好者はけっこういて、ネット上にサイトがいくつもある。現代のトマソンのひとつかもしれない。

 本歌集は編年体で構成されているのだが、第5部はちょうど新型コロナウィルス感染が広がった時期の歌を収録している。

トイレットペーパーこんもり送られて母は香りつき叔母は香りなし

パソコンを立ち上げて歯をみがきつつ勤務開始のメールを送る

レッスンの動画が届く 先生のうしろに映る部屋のカーテン

次亜塩素酸水配るお知らせが日焼けて残るスナックのドア

 一首目を読んで「そうだった」と記憶を新たにした。新型コロナウィルスの感染が広がった頃、買い溜め騒ぎが起きて、まるで1970年代のオイルショックのようだと報じられた。地方のスーパーにはまだ製品が残っているので、親戚に頼んで買って送ってもらうのだ。二首目は在宅勤務の一コマ。三首目は小池都知事が放ったStay homeのかけ声でみんな外出を控えるようになり、することがないので自宅でZoomで何かレッスンを受けているのだ。四首目はマスクと並んで一時品薄になった手指の消毒液の配布のお知らせである。

 当時は新聞歌壇でもこのような歌が山のように投稿された。短歌には「時代の記録」という性格があるので、時局や大事件に反応した短歌は常に作られている。しかし時代が刻印された歌は時が経ると理解が難しくなる。20年後の若者に一首目の歌を見せたらまず理解してもらえないだろう。現代歌人協会は『2020年 コロナ禍歌集』(2021年)、『続コロナ禍歌集 2011年〜2022年』(2022年)を相次いで刊行している。このようなアンソロジーは時代の記録として貴重である。巻末に添えられた大井学の手によるコロナ禍をめぐる出来事の年表は記録として価値が高く、私たちがいかにすばやく物事を忘れるかを思い知らせてくれる。

 鯨井は名歌をめざしているわけではないので、集中で特によいと思った歌を選び出すことには意味がない。そのかわりにいちばん鯨井らしいと感じた歌を一首引いておこう。

玄界灘の波濤めがけて走り出すともだちのいま生きている背中

 ここには「むきだしの〈今〉」と、その〈今〉を生きている〈私〉がある。現代の若い人たちの作る短歌の動向のひとつは、このような「むきだしの〈今〉」をコトバで定着することにあるようだ。

 

第126回 堀合昇平『提案前夜』、木下龍也『つむじ風、ここにあります』、鯨井可菜子『タンジブル』

雑踏の中でゆっくりしゃがみこみほどけた蝶を生き返らせる
          木下龍也『つむじ風、ここにあります』
 九州の書肆侃侃房から若い歌人の歌集を世に出す「新鋭短歌シリーズ」第1期全12冊の刊行が始まった。監修者は加藤治郎と東直子。書肆侃侃房は急逝した笹井宏之の歌集『ひとさらい』『てんとろり』を出した出版社で、その縁で今回の版元を引き受けたものと思われる。若手歌人が歌集を出すのは経済的にもなかなか難しいことなので、今回のシリーズの企画を喜びたい。第一回配本は、堀合昇平『提案前夜』、木下龍也『つむじ風、ここにあります』、鯨井可菜子『タンジブル』の3冊で、今回は3冊をまとめて取り上げる。歌集3冊の一気読みはなかなかキツいが、あとがきの隅々まで読んだ。
 堀合昇平は1975年生まれで、2008年から未来短歌会に所属して、加藤治郎の選を受けている。2011年に未来賞を受賞した実力派である。コンピュータメーカーに勤め人として勤務している。なぜ短歌に興味を持ったのか、いつから作歌しているのかは詳らかではないが、近代短歌の本流を行く堂々とした作風である。
結び目をほどけば匂い立つ汗を見果てぬ明日の手がかりとする
全身が痺れるような提案のキラーフレーズ浮かばぬ夜は
ああ我の周辺視野に口づけの角度で眠るかなしいおとこ
ああ夏は行方も知れぬ夕暮れにじいちゃんと飲むドクターペッパー
ゼリー菓子の包みをひらく指先のざわめき止まず 炉の冷えるまで
敗北の暗喩のごとき夕立のなか噛みくだすミントタブレット
 『提案前夜』の大部分を占めるのは、上に引いた最初の3首のような職場詠である。作者はコンピュータメーカーの社員として、社内で企画を提案し顧客にシステムを営業販売する仕事をしている。『提案前夜』という不思議な題名は、2首目のような社内会議での企画提案を明日に控えた眠れない夜をさす。1首目の果てしなく見返りのない労働の汗、2首目の不眠の夜の煩悶、3首目の悲しい職場風景、このようなものが作者の歌の主題である。いつから日本の会社は社員を死ぬまで働かせるようになったのか知らないが、大手企業でもブラック化しつつある現代の労働風景を執拗に歌にしている。厳しい労働環境に生きる作者にとって、短歌は心の拠り所であり、深夜、家族が眠る家に帰宅し独り歌を作ることによって、心の悪魔祓いをしているのだろう。
 4首目と5首めは、祖父の葬儀のために岩手県の海岸地方に帰郷した折りの歌である。4首目では祖父とドクターペッパーのちぐはぐな取り合わせが、祖父を失った悲しみをよく表現している。5首目は火葬場で遺体が焼き上がるまでを待つ親族たちの光景。今回呼んだ3冊の歌集に共通して登場するアイテムが、6首目のミントタブレットすなわちクリスプなのがおもしろい。時代は清涼感を求めているのか。
 堀合の作風はニューウェーブ風というより、はるかに近代短歌に距離が近く、腹にズシンと響く歌である。なかでも次のような歌に作歌技術と感性の冴えを感じる。
新月の夜の更けゆけば停止線わずかに越えて停まるプリウス
選択に余地あることの幸せは 洗顔フォームを伸ばす手のひら
たましいのごとき一枚をひきぬけば穴暗くありティッシュの箱に
 木下龍也は1988年生まれ。結社には属さず、山口県に住みながら穂村弘の「短歌ください」などに短歌を投稿している無結社、ネット系歌人である。2012年全国短歌大会大会賞受賞。男性歌人がスーツを着てグラビア雑誌よろしく写真に納まっている「短歌男子」(2013)にも参加している。『つむじ風、ここにあります』は非常におもしろく読み、付箋もたくさん付いた。
花束を抱えて乗ってきた人のためにみんなでつくる空間
中央で膝を抱える浴槽の四方のバブが溶け終わるまで
包丁を買う若者の顔つきをちゃんと覚えておくレジ係
生前は無名であった鶏がからあげクンとして蘇る
鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい
救急車の形に濡れてない場所を雨は素早く塗り消してゆく
 木下の持ち味は、平易な口語でポエジーを立ち上げる言語感覚と、見過ごしそうな生活の些事を冴えた感覚で捉えることにより、奇想の世界を瞬間的に現出させる力だろう。たとえば1首目、エレベーターか電車の車内風景である。花束が潰れないように、少しずつ譲り合って場所を空けてあげる。木下もやさしさ世代の一人である。2首目、炭酸入浴剤のバブが溶けるまで、身体を縮めて浴槽に入っているという日常の光景だが、ありそうな光景ながらなにかおかしい。3首目は無差別殺傷事件を踏まえたもの。4首目は思わずくすっと笑ってしまう歌だが、名前も付けてもらえなかったブロイラーが、唐揚げになって店頭にならぶと、「からあげクン」という名前を与えられる。一種の現代文明への皮肉としても読める。5首目では鮭おにぎりを鮭の死と表現したところがポイントである。
 木下の短歌を読んでいると、学生がゲバ棒を握って政治運動にのめり込んでいた時代ははるか遠くなったと改めて実感する。ここには「大きな物語」はいっさいない。恋人らしき女性以外は、他者は一人も登場しない。堀合の短歌が心に残すザラザラ感とは対極にある、蒸留されたような静かな世界である。この歌集から一首選べと言われたら、次の歌を選びたい。静かな悲鳴が感じられる歌である。
なぜ人は飛び降りるとき靴を脱ぎ揃えておくのだろうか鳩よ
 鯨井可菜子は1984年生まれ。「かばん」と尾崎左永子の「星座」に所属。歌集題名の『タンジブル』(tangible)は英語で「手で触れられる、手応えのある」という意味。鯨井の短歌は、現代社会で働く女性の辛さ、女性ならではの恋愛、そしてやや想像をたくましくした抒情の、3つの領域に展開している。
試されることの多くて冬の街 月よりうすいチョコレート噛む
夕闇に赤い自分を編む羊このまち統べるごとしユザワヤ
阿佐ヶ谷の画家の家にて昼下がりファム・ファタールが茹でるそうめん
お別れの茶会のあとのガレットの屑やわらかに春雨の降る
めそめそと暮らせば部屋は蛾に好かれ桔梗は枯れて茄子は腐った
朝の駅 人は群れなし大きなるカスタネットの中を歩めり
夏の朝かばんの底に二つ三つゼムクリップの散りて光れり
 1首目、現代に生きる勤労女性なら共感するだろう。「月よりうすい」という喩が効いていて、こう表現されるとまるで月が芝居の書き割りのようだ。2首目のユザワヤは手芸用品の専門店。「赤い自分を編む羊」というのは、羊がセーターになった自分を編んでいるのだろうか。不思議な感じのする歌である。3首目は想像だけで作った歌だが、阿佐ヶ谷という地名と大時代なファム・ファタール (femme fatale 宿命の女)とそうめんの取り合わせが絶妙。4首目は抒情的な歌で、後に酒瓶と煙草の吸殻の散らばる男の会合とはちがって、女性の茶会は優雅である。この歌集には女性らしい相聞の歌も多くあるのだが、5首目はそのなかでもやけっぱち感の強い歌で、こういうテイストの歌も捨てがたい。6首目の大きなカスタネットとは自動改札機だろう。通路を遮断してはまた開く様子をカスタネットに喩えた歌である。7首目は説明不要の抒情的な歌。
 鯨井の基本は口語だが、定型感覚がしっかりとしているので、同人誌系の作家にありがちな定型無視のぐだぐだ短歌は少ない。次の歌に見られるような明るく清潔な抒情が持ち味かと思う。ボードレールの詩を思い出してしまった。
窓になる前のひと日よ 麗らかに街を運ばれゆくガラス板
 ぼやぼやしているうちに第2回配本の歌集3冊が出版された。シリーズ企画はこの勢いが命だろう。この3冊はまた機会を改めて取り上げることにしたい。