194:2007年3月 第4週 石井辰彦
または、音楽的実験を追求する現代短歌のゆくへは

一掬(イツキク)の記憶を愛す。忘却は
  祝(ほ)ぐべき人間(ひと)の習慣(ならひ)なれども
       石井辰彦『全人類が老いた夜』

 石井辰彦は現代短歌シーンにおいては特異な作家と言ってよかろう。その特異さはこの歌集の題名にも現れていて、『全人類が老いた夜』というような題名は歌集の題名としてはあまり見られないタイプのものである。短歌の祖先である和歌の中核をなす主題であった花鳥風月とは完全に切れており、それは石井が近代短歌を跳び越えて現代短歌作者たらんとしているからである。この題名と同じタイトルの連作が巻頭に置かれており、この夜とは2001年9月に起きたアメリカ同時多発テロの夜のことであると知れる。

 窓といふ窓を(急いで)開けよ! ほら、天翔(あまがけ)る悪意を視るために

 隈もなく世界は霽れて…… 澄んだ目の・なんて・邪悪な・殉教者・なの?

I thought of those September massacres… とは、口遊(くちずさ)むには、辛き詩句

 人類の過失の歴史。それのみが真実かも? と惟(おもひ)みるかも

 空港も未来も封鎖。だつて、全人類一気に老ゆる夜(よる)、だぜ

 なにもかも潰(つひ)えて落ちよ。人類の静かに恐怖する真夜中に―

 一読してわかるように、歌の主題は同時多発テロが世界に撒き散らした恐怖とそれを継起とする世界の崩壊の静かな予感であり、特に難解な所はない。おおむね定型を遵守しながら時折破調を交え、文語・旧かなを基調としつつ時に口語が顔を出すというのも、現代の短歌作者に多く見られるパターンである。石井の短歌が特異なのは、通常の句読点だけでなく、丸パーレンや中黒や疑問符・感嘆符、三点リーダーや長ダッシやルビなど、考えつく限りの印刷記号を方法論的に短歌の構成要素として取り入れている点にある。読みの与えられない記号を短歌に取り入れる記号短歌は、1980年代のニューウェーブ短歌で数多く試みられ、やがて飽きられたのか姿を消した。石井の場合、単に目新しさからさまざまな印刷記号を取り入れたのではなく、短歌についての極めて方法論的考察に基づいていることは、評論集『現代詩としての短歌』を読めばわかる。

 石井がこの評論集のなかで提起している問題には次のようなものがある。

・現代短歌は古典和歌の韻律という財産を受け継ぎながらも、独自のリズムを探求すべきである

・現代短歌は抒情詩の複合体としての叙事詩である連作短歌をめざすべである。

・現代短歌は句読点を含めて記号の使用に積極的であるべきだ。

・詩は音楽をめざすのであり、現代短歌もまた音楽的実験を試みるべきだ。

・短歌は一行の詩である。詩は朗読されるべきものであり、短歌もまた朗読されるべきである。

 石井はこのような主張を展開するにあたって、主として西洋の古典詩学や現代音楽や写真や舞踏など事例を縦横無尽に引用し、しばしば衒学的な膨大な注を付している。その使用概念のほとんどが舶来のものであるため、ときおり「西洋かぶれ」と呼ばれることがあるとは石井自身の述懐である。上に並べた石井の主張の全部を検討することはできないので、記号の使用と韻律の問題を取り上げて考えてみたい。

 評論集『現代詩としての短歌』のなかの「主張する記号」で、石井は釋迢空の次の短歌を引用し句読点の効果を述べている。

 かたくなに 子を愛で痴れて、みどり子の如くするなり。歩兵士官を

 石井によれば、一字アキ→読点→句点と徐々に拡大する休止の連続が、作者の高まる心情を音楽のクレッシェンドのように表現しているということである。また自作を引用して

 「人間(ニンゲン)を賣る店ばかりにぎはへる(街」を炎がつつむ日を待ち)

では「 」と( )の両方に跨る「街」という語が、二重の帰属関係によって二倍の意味的重量を持つとし、

 ふたりづれの天使は邑(まち)の男たちに(實は!)輪姦(まは)されき。といふ傳承(つたへ)

では、パーレン内の(實は!)は耳元で囁くように、しかし感嘆符がついているので鋭く読まれることが期待されていると述べている。

 実に周到な配慮で感心するほかはないが、一読した印象はそれほど効果が上がっているのだろかうという懐疑的なものに留まる。迢空の歌では、意味は別として表記上では句読点よりも一字アキの方が断絶が深いように感じられる。また(街」の二重の帰属も、言われてみれば確かにそうも見えるが、「人間を賣る店ばかりにぎはへる街」と「街を炎がつつむ日を待ち」が別人の言説とも思えず、二倍の意味的重量の効果が私には感じられない。そして最後の(實は!)の読み方についての石井のコメントは、はからずも石井の短歌観を暴露しているのである。

 それは上に挙げた石井の主張の最後にある「短歌は朗読されるべきだ」という点に関係する。石井は積極的に短歌の朗読会を開いて自らの主張を実践しており、(實は!)についてのコメントは、明らかに朗読されるときの読み方の指定なのである。つまり、句読点や括弧や感嘆符・疑問符など石井が多用する印刷記号は、メロディーを構成する音符の他に作曲家が楽譜の余白に記入するクレッシェンド記号 (<)やフォルテ(f)やピアノ(p)や Tempo rubatoなどのリズム指示と同じように、「短歌を朗読 (演奏)するときには、このように読んで (演奏して) くれ」という作者の指示なのだ。ここまで自分の短歌の読まれ方に細かい指定をした歌人はいないだろう。

 しかしこのような態度にはいささか問題があると言わねばなるまい。大きく分けてふたつの問題を指摘できる。第一は、「作者はそこまで読みの方向性を拘束できるのか」という問題である。作者はもちろん作品の創造者であり、作品にたいして著作権を持つわけであるが、作品はこの世に生み出された瞬間から作者の手を離れて公共のものとなる。作者の手を離れなくては作品は作品たるを得ない。ここに創作をめぐる深い逆説がある。作品が作者の手を離れた瞬間から、読みは読者 (受容者) のものである。作者による自作解説が喜ばれない理由はここにある。〈読み〉とは意味解釈のうねる過程そのものであり、それは一種の〈共同幻想〉である。したがって、石井が自作に施す読みの指定は、作者から読者への過剰な介入なのである。そのために、うねうねとした行きつ戻りつの過程を経るのが常態である〈読者の読み〉のなかから作者の顔が立ち上がるのではなく、作者が歌の横から顔を出す結果を招いている。これは望ましい状態とは思えない。

 第二の問題は、石井が短歌における韻律やリズムの重要性を力説しているにもかかわらず、多用される印刷記号が読者に読みの過程における内的韻律の形成を阻害しているという点である。たとえば上に引いた「ふたりづれの天使は邑の男たちに(實は!)輪姦されき。といふ傳承」という歌から句読点と記号を除去し、ついでにムリ読みのルビも仮名にしてみる。

 ふたりづれの天使はまちの男たちに實はまはされきといふつたへ

原文と改作とを比較してみれば、改作の方が短歌本来の内的リズムが読んでいて無理なく心の中に流れることがわかる。音楽におけるクレッシェンド記号やフォルテ記号は演奏者のためのものであり、聴衆のためのものではない。短歌の読者は演奏者ではなく聴衆の立場にある。だから演奏指定記号は聴衆の音楽の受容の妨げになるのである。

 また次のような実験的作品を見れば、石井が短歌にたいしてどのようなスタンスを取っているのかがほの見えてくるだろう。本来はルビが振ってあるのだが、技術的理由により再現できないのをご容赦いただきたい

 えいいう えいいう  ぐんしう
 人間は人間を刺す〈人間はただ見る〉いつも〈世界〉は〈舞台〉
 
はいいう はいいう  くわんきやく        〈舞台〉は〈世界〉

最後の「〈世界〉は〈舞台〉」と「〈舞台〉は〈世界〉」は、線路が二股に分岐するように書かれているのだが、これも再現できない。石井がここで試みているのは、観客が同時に俳優となるような多層的な演劇のアナロジーである。単線的な歌の読みに飽きたらず、多層的・多岐的な意味形成を試みているのだ。

 石井は伝統的な短歌のあり方を痛烈に批判し、現代短歌は世界的文脈のなかで考えなくてはならないと説く。その主張はもっともなことである。しかし、短歌形式拡張の可能性を実験する時に石井が用いる手法は、20世紀において現代詩や現代音楽で試みられた手法の借用である。そして現代詩がその試みの果てに吃音的な袋小路状況に陥ったこと、また現代音楽が調生を解体して無調音楽となりいつのまにか溶解したことを見ると、果して石井の試みが豊かな果実を生み出すのかどうか、考え込んでしまうのである。

 最後に本質的な問がひとつ残った。石井は評論の冒頭に必ずと言っていいほど「短歌は一行の詩である」と繰り返している。ほんとうにそうだろうか。私はこの断定の内容に懐疑的である。もっと議論されてしかるべき問題であろう。