第246回 八木博信『ザビエル忌』

わが顔を剃る人の胸かぐわしく死にたき日には来る理髪店

八木博信『ザビエル忌』

 

 第一歌集『フラミンゴ』(1999年 平成11年)以来、実に19年ぶりの第二歌集である。最近、このコラムでは久々に第二歌集を上梓した人を取り上げているが、これはただの偶然である。八木博信は1961年生まれで「短歌人」所属。第一歌集の後の2002年に「琥珀」で短歌研究新人賞を受賞。「琥珀」は第二歌集『ザビエル忌』(六花書林) の巻頭に収められている。カバーの絵はラファエロの「ベルヴェデーレの聖母」だ。ウィーンにある美術史美術館に展示されている。

 かつて私は『フラミンゴ』について次のように書き、下のような歌を引いた(2006年4月)。

 「八木の抱えるテーマは何だろうか。それは虚構の物語性の強いアイテムが散りばめられた現代の神話的空間を創生し、その中で生の残酷さや傷つけられた個の哀しみを詠うことだと思われる。」

追尾型魚雷に気づくとき遅し原潜レナの優しき乳房

南より怪獣は来る蛾に騎って歌う僕らのザ・ピーナッツ

シミばかりある背の女抱くとき激しく弾けよクロード・チアリ

壁紙の剥がれて匂いたつホテルカリフォルニアの接着剤が

地下室のメッサーシュミットお昼寝の園児が夢で帰るババリア

 『ザビエル忌』では『フラミンゴ』で顕著だった虚構に立脚する神話的世界はなりを潜め、それに取って代わるもうひとつの世界が顕現している。それはカバー絵の聖母に象徴されるキリスト教である。

炎帝を逃れて入れば教会の中まだ見えぬキリスト像が

日曜のたびに祈りて悔いなきや真夏にわれら両手冷たく

弟子の足を洗うキリスト俺もいま少女の膝の傷癒やしつつ

マリア像白き両手をひろげ立つタネも仕掛けもありませんよと

堕ちてくる者たちのため教会の絵の聖人は指さす天を

赤犬が門扉を抜けて入らんとす廃屋はわが貧しき心

 しかしこれらの歌を読んでわかるように、キリスト教に入信して一身に帰依しているというわけではなさそうだ。我が心の貧しさを感じてキリスト教に接近し、礼拝に通っても、キリスト像が見えなかったり、聖母マリア像が手品師のように見えたりと、なかなか屈折した立ち位置なのである。『フラミンゴ』では立ち上げた虚構世界が〈生の残酷さや傷つけられた個の哀しみ〉を詠う書き割りとしての背景を構成していたが、『ザビエル忌』では視線の方向が逆転して、学校生活やスポーツの場面といった日常の風景の中に〈罪の意識と救済を希求する物語〉を透視しようとしているかのようだ。その構図が最もよく感じられるのは「ペリー祭」と題された連作である。

スパイクを受け損なえば跪きて祈りのかたちするレシーバー

新しき運動靴で走りたし少年処刑を待つごとき足

棺桶のごとく並べる跳び箱に染み込んでいる汗かわきゆく

銃声で駆け出す君ら争えば百メートルの後に死がある

 生徒たちが体育祭でさまざまな競技を行なっているのだが、一首目ではアメリカンフットボールのレシーバーの姿勢に祈りを透視し、二首目では徒競走に出る少年と死刑囚の処刑が重ねられ、三首目では跳び箱と棺桶が、四首目では100m走のゴールと死とが結びつけられている。注意しなくてはならないのは、「祈りのかたち」はレシーバーの取る姿勢の喩ではあるのだが、そこには奇妙な主従の逆転現象があり、腰を落とすレシーバーが引き金となって、神に祈らずにはいられない私たちの生のあり様があぶり出されるという構図になっているのである。

 そのことは次のような歌群にさらに明らかに見てとれる。

食うためにひとつ職場に集いたるわれら貧しきさがさらしつつ

わが心貧しくどこを目指せども激しく揺れる離陸の翼

窓を拭く君のゴンドラ来て止まれわれらを救い出さぬとはいえ

獣らも俺も何かを諦めて来ている上野動物園に

粉砂糖ふりかけながら完成のケーキ地獄も雪ふるばかり

音悪きラジオに鳴ればエルヴィスとともに歌わん「明日への祈り」

 何ゆえにそのような人生観を持つに至ったかは詳らかにしないが、八木にとってこの世界は明るい未来と人々の慈愛に溢れた世界ではなく、「貧しき性をさらしつつ」食べるために働き、みんな「何かを諦めて」暮らしつつも、果てにある救済の希求を捨てることができない煉獄のような世界である。八木はそのような境涯を執拗に歌にしているのである。

 『フラミンゴ』では作者の私生活を感じさせるような歌は皆無だったが、本歌集では多くみられるのも変化のひとつである。

鮮やかに指を切られき新学習指導要領めくらんとして

伝令のように平らな胸しく水兵セーラー服で告げにくる愛

親友がたちまち敵になる少女たちの脂が溶け合うプール

「条件を満たす」のが好き数学の問題文もさびしさの詩

監獄に似て壁高き女子校の技術家庭科室の塩壺

教え子の嘘を許せばメルカトル図法の赤き日本列島

 こういった歌を読んで作者はキリスト教系の中学校か高校の先生をしているのかと思ったが、そうではないようで、あとがきによれば、作者は学習塾の講師や家庭教師を生業としていた時期があったため歌に少年少女がよく登場するのだという。いずれにしてもこのような職場詠は第一歌集には皆無だったので、歌風の変化と言えるだろう。

 もうひとつのジャンルは映画・絵画・小説などに題材を得た歌で、作者は特に映画が好きなようだ。

チャールトン・ヘストン痴呆極まれど俺の心の中の「エル・シド」

愛されぬ数かぎりなき父のためジョゼ・ジョバンニの暗黒映画

妊娠中絶の保育士点描のジョルジュ・スーラの砂場に埋もれ

うすものに守られるのみセバスチャン矢傷血小板の欠乏

「青い影」を歌い終わればスタジオの真横を過ぎる貨物列車よ

熱病死われにも来たれベニスより遠し 亜細亜の東海の磯

 「エル・シド」は1961年に制作されたアメリカ映画、ジョゼ・ジョバンニはフランスの小説家・映画監督。原作が映画化された『冒険者たち』はアラン・ドロンとリノ・ヴァンチュラ出演の名作である。口笛のテーマ曲が印象的だ。ジョルジュ・スーラはフランス印象派の画家で点描画法で名高い。セバスチャンは聖セバスチャンで、矢に射られた姿で繰り返し西洋絵画に描かれている。三島由紀夫が好んだことでも知られる。「青い影」はプロコルハルムのヒット曲。最後はトーマス・マンの名作『ベニスに死す』だが、ここでは1971年に公開されたルキノ・ヴィスコンティの映画の方だろう。作者は私より年齢がひと回り下だが、ほぼ同じ時代を生きてきたので共感できる。ここに挙げられた固有名のそれぞれが発する匂いや体温があったのだ。しかし今の若い人たちが読んだら何のことかわからないかもしれない。

 最後にいつものように心に残った歌を挙げる。

野良犬の死体見てきて手をかざす焚火にゆれるわれらの影が

艦隊の南下は静か子供たちをだます授業の教師の声も

傘ひらく刹那 匂うものありて哀しみばかり昂まる朝

列車すぎ沈みしあとの枕木がもどる幽かに己の位置へ

定食屋うなだれている父たちが食らう撃ちぬかれたる蓮根

眼病の瞼を閉じている我に来よゲルニカの燃え上がる馬

デパートの地下に燃ゆるは薔薇色で腐敗をひたに待てるサーモン

わが処女地いずこにありや地図投影いかにすれども大地は歪む

 ちなみに奇しくも今日12月3日はフランシスコ・ザビエルが中国で亡くなった日、つまりザビエル忌である。

 

150:2006年4月 第1週 八木博信
または、ヴァーチャルな神話的空間で残酷さと美しさを詠う

廃されし管制塔まで書きに行き
     詩を放つとき世界は眠り

         八木博信『フラミンゴ』
 歌集の巻頭歌である。管制塔というから空港だろうが、もはや廃港となってがらんとした無人の空間に静寂と光だけが充満しているのだろう。そこに行って詩を書いて放つという。管制塔から詩を記した紙を風に放つこともできるし、電源が生きているならば航空無線で送信することも考えられる。いずれにせよそうして〈私〉が詩を放つとき、世界は眠っているのである。〈私〉が詩を送り出すのは世界の眠りを覚ますためか、はたまた世界を眠らせるためなのか、そのあたりは判然としない。しかし、広い空域を管理するべき管制塔は世界を統べる塔の喩であり、その高みから詩を放つというのは、ある種の志を感じさせる。やや作者に引きつけて解釈すると、作者自身の述志とも取れなくはない。「書きに行き」の措辞に甘さがあるが、一首全体が立ち上げる世界は魅力的である。

 八木博信は1961年 (昭和35年)生まれで「短歌人」所属。「琥珀」で平成14年度の短歌研究新人賞を受賞している。『フラミンゴ』(フーコー)は1999年発行の第一歌集である。八木にはこの他に、句集『弾道』(弘栄堂書店)、詩集『デジタルハート』(新風舎)があり、短歌・俳句・現代詩を越境して往来している人のようだ。

 あとがきに、「十代の後半短歌開始時から既に私の歌句には、身辺雑記的なものはあまりなく、虚構と創作が多くを占めていました」とあるように、八木の歌には生活詠や日常詠は皆無であり、言葉を素材として立ち上げる文学空間の中に美と残酷と抒情を現出せしめようとするのである。その意味において〈虚構の私〉を詠った寺山修司との精神的近親関係は深く、また私性の拡大を図った前衛短歌と一脈通じる所もある。

 八木の抱えるテーマは何だろうか。それは虚構の物語性の強いアイテムが散りばめられた現代の神話的空間を創生し、その中で生の残酷さや傷つけられた個の哀しみを詠うことだと思われる。

 追尾型魚雷に気づくとき遅し原潜レナの優しき乳房

 南より怪獣は来る蛾に騎って歌う僕らのザ・ピーナッツ

 シミばかりある背の女抱くとき激しく弾けよクロード・チアリ

 壁紙の剥がれて匂いたつホテルカリフォルニアの接着剤が

 地下室のメッサーシュミットお昼寝の園児が夢で帰るババリア

 八木が立ち上げる神話的空間の素材の多様さは驚くばかりである。一首目の「原潜レナ」の出典は不明だが、二首目は映画化された懐かしい怪獣モスラ、三首目は日本に帰化したギタリストのクロード・チアリ、四首目はイーグルスの名曲ホテルカリフォルニア、五首目は第二次大戦の戦闘機の名機メッサーシュミットが登場する。

 かつて吉川宏志は、アララギ短歌で植物がよく取り上げられたのは、「作者と読者のあいだで、植物を通じた繊細なコミュニケーションが成り立っていた」からであり、「植物を〈写生〉することは、このコミュニケーションを成立させる基盤であった」と論じたことがある(『塔』1996年3月号)。これに倣って言うならば、八木の短歌に頻出する固有名は、作者と読者の間である種のコミュニケーションを成立させる基盤となっていることになる。それはいかなるコミュニケーションか。結社という閉じられた人的空間の内部でのみ成立する了解や、短歌的伝統という歴史的土壌を基盤とする了解に対する信頼が崩れた現代において、作者と読者の間で「ああ、そうだよね」的コミュニケーションが可能なのは、映画や芸能や音楽を包含したゴッタ煮的に猥雑な都市伝説の集合である。だから八木は多くの人が聞いたことのあるアイテムを取り上げて換骨奪胎し、本来それが置かれていた文脈とは異なる文脈に投げ込むことで異化効果を生み出し、読者とのコミュニケーションを担保するのである。しかしそこに成立するのはもはやアララギのような「繊細なコミュニケーション」ではありえず、しばしば暴力的でショッキングなコミュニケーションとなる。

 本来それが置かれていた文脈や歴史性を剥奪する手法は、次のような歌に特に強く現われている。

 成熟を拒絶したまま老衰のピーター=パンの勃起が止まぬ

 半眼の肺魚に目撃されながら斧振り下ろすラスコリニコフ

 奴隷船に拉致されながら待っている書かれるときをクンタ=キンテは

 ダンカンを殺してきたる手を洗うマクベス新宿西口便所

 風俗街を駆け抜けてゆくジョギングで後ろ姿の西行法師

 まるで世界文学全集のような光景が展開するが、ピーター・パンは老衰し、マクベスは新宿西口便所で手を洗っている。このように元の物語を離れ、本来の文脈から抜き出されて別の文脈に置かれると、そのアイテムは異化され神話化される。それが特に強く感じられるのは五首目の歌で、西行法師が吉野の桜吹雪の下を歩くという本来の文脈から引き剥がされて、歌舞伎町の風俗街を走らされることで、異化された虚構の神話的空間が生まれるのである。ちなみに固有名の氾濫は「短歌人」の先輩に当たる藤原龍一郎の特徴でもある。

 喪しあれやこれやを初秋のたとえばボニー&クライド

 首都高の行く手驟雨に濡れそぼつ今さらハコを童子を聴けば

 しかし藤原において固有名は、ノワールの香りのする都市的抒情を醸成する要素であるのに対して、八木においてはひたすら神話化された空間を形成するのである。このヴァーチャルな都市空間を漂うのは、次のような人物たちである。

 暴食と吐瀉繰り返す恋人のためにコンビニ閉じないでくれ

 鮫のように奪ってしまえ万引きの少女が逃げる楕円の街へ

 オートバイ後部座席で愛をいう少女小鳩を殺したばかり

 螺子をきる少年のなか造られているか機械仕掛けの家族

 出来たてのスケートリンク傷つけるため美しき少女のエッジ

 爆竹で子猫を殺す午後寒く今夜は塾に来るのか少女

 過食と拒食を繰り返す恋人、万引き少女、小鳩を殺した手で愛を囁く少女、機械仕掛けの家族を持つ少年など、八木の投影する神話的空間に登場するのは、いずれも傷ついた者、または傷つける者であり、両者は等価である。歌舞伎町を駆け抜ける西行法師と万引き少女が違和感なく同時に存在する空間が八木の世界であり、歌を読み進む読者はそのような仮想空間に引きずり込まれることになる。

 このような神話的空間の住人として〈私〉が詠われるとき、〈私〉もまた無垢ではありえず観察者の立場に留まることもできない。ただし、次の歌に詠われている〈私〉はもちろん現実の作者ではなく、構築された神話的世界に参入した〈私〉であることは言うまでもない。

 わが薄き血と肉暖まれ冬の朝日を受けている売血所

 マリア像美しければ自涜の夜思い出すかな俺も牧師も

 テレクラの少女の唄うエルビスが俺まで届く公衆電話

 社会的適応できぬまま今日も自伝を書かんコクヨ履歴書

 歌集に親族を詠んだ次のような歌もあるのだが、これもまた家族詠と見なすことはできず、やはり入念に作り上げられた仮想世界での家族の姿である。八木はここでかなり抒情の方向に向かっているが、寺山修司の世界との親近性を指摘することもできるだろう。寺山もまた虚構の家族を詠ったことは周知の通りである。

 空ばかり見ていた父よ癌進む者は翼を持ちたきものか

 思うところのものにはなれず妹の出ているアダルトビデオは観ざる

 教師たる姉の幸遠ざかるときわれの暗算いまだに遅し

 今日も職なき叔父豆を煮詰めおり貧しき思想濃くなるばかり

 手術用鋏をくれし医者という母と男の失恋らしき

 ふつうはここまで大胆にヴァーチャルな神話空間を立ち上げたりはしないのだが、その手法において八木は一面では笹公人の念力短歌 (引くサービス精神) に通じるところがあり、また小泉史昭の虚実皮膜 (引く言葉の水芸) にも近い地点にいると言えるかもしれない。いわゆるニュー・ウェーブ短歌とは一線を画したこれらの歌人たちの方向性は注目される。それは修辞による〈私〉の押し上げ方のひとつの方向を示しているからである。なぜか全員男性ばかりなのだが。

 それ自体がレプリカントのようにいささか作り物めいた印象を残す歌のなかにあって、次のような歌群は従来の近代短歌のコードで読み解くことができる抒情性を備えていて、これはこれでなかなか美しい。

 新しき恋を語れば口紅に汚されているコーヒーカップ

 吹き荒ぶ海に落とした長靴に書かれてありしただ僕の名が

 コーヒー豆挽く音遠くコクトーのひとふでがきのような言い訳

 寺町に愛育てつつ北向きの窓開けて見る一面の墓

 シャボン玉昇りゆくかなチェリーナの皮膜のなかにわが息臭く

 セメントで固まる軍手火に投ずわれを呼ぶその手型のままに

 あとはただ海渡るだけ半島の自動演奏ピアノに寄れば

 特に五首目など美しいと思うのだが、チェリーナって何だろう。六首目も歌意はよくわからないままに、「半島」と「自動演奏ピアノ」というアイテムの結合にはいたく想像力を刺激するものがある。

 ちなみに八木の俳句は次のようなものらしい。

 金星の支配逃れて俺滅ぶ    『弾道』

 猟師なら通草黙せるまま食べる

 わが足下深く地球の汽笛鳴る

 俺も走る虎になりたき夜明け前

 流鏑馬の射る矢が残す同位角

 短歌に較べて俳句はより瞬発力と才気を必要とする詩型のようだから、八木のような資質は俳句に向いているかもしれない。

 近作からもいくつか引いておこう。『短歌人』2005年8月号より引く。

 ストリッパー憲法記念サービスデー音叉のごとき両脚をあげ 

 滅びゆくものは右へと旋回す戦艦大和面舵いっぱい

 空港をめぐるデルタに千人の致死量の毒しみだすカエル

 首と首うちあう麒麟の目はやさし愛とはもっとも戦いに似る

 『フラミンゴ』に較べればヴァーチャルな神話空間的性格は薄くなっているが、これが八木の新しい方向性なのかどうかはまだわからない。その才気に注目して見守りたいものである。