第54回 『現代詩手帖』特集「短詩型文学新時代」

 『現代詩手帖』6月号が「短詩型新時代 詩はどこに向かうのか」という意欲的な特集を組んでいる。黒瀬珂瀾編の「ゼロ年代の短歌100選」と高柳克弘編の「ゼロ年代の俳句100選」も掲載されており、ここ10年の短歌界と俳句界を俯瞰するのに好適なアンソロジーとなっている。また岡井隆・松浦寿輝・小澤實・穂村弘の座談会、城戸朱理・黒瀬珂瀾・高柳克弘の鼎談、平田俊子・穂村弘の対談という豪華なラインナップに加え、多くの若手歌人・俳人・詩人の論考とエッセーが収録されており、読み応え十分な内容である。
 現代詩では短歌・俳句を短詩型文学と捉えて領域横断的に俯瞰することで、詩に活力を取り戻そうという動きがある。現代詩は自由詩で形式の約束事がなく、一方短歌・俳句は伝統的定型詩というちがいがあるので、ポエジーを発生させる回路が異なり、そこが詩の拡大につながるのだろう。また詩人のなかには俳句を作る人がけっこういて、清水昶のように本格的な句集を持つ人もいる。最初の出発点は新聞俳句の投稿だったという人も多い。今回現代詩の側からの提案でゼロ年代の短歌と俳句を俯瞰する試みが行われたのはおもしろいことである。短歌の側からの提案で同様の試みができないのだろうか。座談会で岡井は短歌界と現代詩の交流がほとんどないことを嘆いている。
 ゼロ年代はおそらく最初は批評の世界で使われ始めた用語で、2000年から2010年を指す。新世紀を迎えた2001年に9.11同時多発テロが起きたことは象徴的で、世界はグローバル化と液状化とが同時進行しているようにも見える。この10年間に作られた短歌と俳句にはそれがどのように反映されているだろうか。
 黒瀬は、戦後の第二芸術論を乗り越えるために提唱された土屋文明の「生活即短歌」と近藤芳美の「今日有用の歌」というアララギ戦略と、これに対抗する前衛短歌という流れがあり、それを引き継いで行く形で修辞の変革が起きたというのが昭和30年代から60年代までの様相だとまとめた後に、肯定するにせよ否定するにせよ共有されていたそのような戦後短歌の価値観が分散してきたのがゼロ年代の特徴だとしている。つまり戦後短歌のテーゼが共有されていた時代から一歩違う位相に突入したということである。このような認識を踏まえて黒瀬はゼロ年代を過渡期と捉え、新旧の価値観が併存していることを示すように選歌したという。発表年代順に並べられた100首の短歌は、確かに作者の年齢層もばらばらで、伝統的な文語定型もあれば完全口語の歌もある。
たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔
                 飯田有子『林檎貫通式』01年1月
おそらくはつひに視ざらむみづからの骨ありて「涙骨オス・ラクリマーレ」                      塚本邦雄『約翰傳偽書』01年3月
目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき
        穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し〈ウサギ連れ〉』01年7月
神はいづこぞ晴れわたりたる海境にちかちかと千の針降りやまず
                雨宮雅子『昼顔の譜』02年7月
 最初期から何首かを引いた。これだけでも歌姿の多様性に頭がくらくらするほどである。完全口語の飯田の歌、前衛短歌の技法をほとんど留めない塚本の歌、加藤治郎が「短歌の死」と形容した穂村の話題作、これぞ伝統定型という雨宮の歌。こうして並べてみると、互いにほとんど接点がないようにすら見える。一首一首は読んだことのある歌でも、10年間という切り口で年代順に並べることで初めて見えて来る歌の風景というものがある。その意味で興味尽きないアンソロジーと言えるだろう。
 同時に100首に選ばれた作者のなかに物故者が多いことにもいやおうなしに気づく。斎藤史、塚本邦雄、上野久雄、高瀬一誌、春日井建、前登志夫、中澤系、近藤芳美、笹井宏之、竹山広、森岡貞香らはこの10年間に亡くなっている。このうち中澤系と笹井宏之は若くして亡くなっているが、他は名実ともに戦後短歌の担い手であった人たちである。世代交代が進んだことで、戦後短歌という認識が薄れたと黒瀬が言うのもうなずける。
 短歌界の混迷と対比的に驚かされるのは、俳句界の盛況ぶりである。「ゼロ年代の俳句100選」の選句を担当した高柳克弘は、先頃句集『未踏』で第一回田中裕明賞を受賞している。この賞は惜しまれつつ2004年に45歳の若さで他界した田中裕明を顕彰するために創設された賞であり、清新な高柳の句集はまことに第一回受賞にふさわしい。高柳の選句は今の俳句界の全体的傾向を表しているわけではないが、形式の可能性を拡大した句、つまり従来の表現史に新しいものを付け加えたものを意識して選んだと述べている。
《蝶来タレリ! 》韃靼ノ兵ドヨメキヌ  辻征夫『貨物船句集』
わたくしに烏柄杓はまかせておいて     飯田晴子『平日』
揚雲雀空のまん中ここよここ     正木ゆう子『静かな水』
にはとりの血は虎杖に飛びしまま      中原道夫『不覺』
気絶して千年氷る鯨かな    富田拓也『青空を欺くために雨は降る』
台風がいすわるウィトゲンシュタインも  坪内稔典『水のかたまり』
 一見してベテランも若手も新しい俳句表現に挑戦していることがわかる。その多彩さは混迷からはほど遠く、読んでいて楽しい限りである。城戸朱理と黒瀬珂瀾との鼎談で高柳は、自分の上の世代は伝統的な結社中心で、下の世代は俳句甲子園出身が多く結社とは離れた所で句作しており、自分はその裂け目を繋ぎたいと抱負を述べている。また自分はあくまで俳句の表現史というものを意識したいと続けている。「表現史を意識する」とは、それまでの表現技法をただ踏襲するのではなく、また歴史性をまったく無視してゼロから始めるのでもなく、歴史性を踏まえた上で自分がそれに何を付け加えることができるかを考えるということである。何という健全でまっとうな態度だろうか。俳句の将来は明るい。若手を中心とした論考とエッセーでも、歌人に較べて俳人の方が表現に踏み込んだ文章を書いている。ここでもどうも短歌の方が劣勢なのだ。奮起してもらいたいものである。
 俳人のエッセーで特におもしろかったのは、1969年生まれの関悦史の「現代詩読者から俳句作者への漸進的横滑り」だった。最初は現代詩を作り短歌も作ったことがある関は、最終的に詩と短歌を放棄して俳句のみを作るようになったという。その理由として関は次のような俳句特有の生理を挙げている。
「俳句は自由詩に比べ、世界とむき出しで対峙せずに済ませることも容易に出来る。結社や師弟といった制度を引きずり、前近代的技芸の枠に引きこもれるからばかりではない。説話論的持続を最低限に減殺し、断裂・飛躍を呼び込む形式自体に『世界対私』という枠組みを明るみへと溶融させる契機があるからである。それを初心者向け教育法に仕立てたのが高濱虚子の『花鳥諷詠・客観写生』で、これはいわば出来合いの自我・感情を去勢・無頭化した上で詠み手の真の主体を『花鳥』の擬似世界へと開かせるカリキュラムである。わずかな例外を除いて詩人・小説家の俳句が陳腐なのはこれに相当する手続きを怠り、既成の自我にじかに語らせた『短い短歌』にしてしまうからだ。(…)大我なり他界なりへと主体が開けていれば良い。自我が直接対決しないことがそのまま世界への向かい合いとなり得る回路もこの形式にはおそらくある」
 さすがは第11回俳句界評論賞を受賞した論客である。用語・概念の自分への引き寄せ方の強引さに説得力がある。上の文章で関は、短歌が基本的に私語りであるのに対して、俳句は出来合いの自我をいったんカッコに入れた上で、花鳥の擬似世界へと開く回路を用意しているという。関の言う花鳥の擬似世界とは、永田和宏が短歌創作における「虚数世界」と呼んだものとおそらくは同じものである(『表現の吃水』所収「虚数軸について」)。だとすれば短歌もベタな私語りであるはずもなく、新たな〈私〉への回路をその形式の裡に秘めているはずである。しかし関も言うように、短歌においてそれをなし続けるためには「作者の側に断固たる世界観とそれをリアライズする修辞を組織し続ける執念が必要」だというのもまた、認めなくてはならない事実だろう。短歌と俳句とはそのあたりの生理が異なるということか。
 インターネット上では俳句批評のホームページやブログが花盛りだそうである。短歌はそれほどでもない。どうも俳句の方が隆盛を迎えているらしい。これから少し俳句に目を向けてみようと思いつつ、短歌も負けないようにがんばってほしいと、短歌応援団の読者としては考えてしまうのである。

第31回 黒瀬珂瀾『空庭』

ああ吾は誰かの過去世まなかひに雪ふる朝を地の底として
                     黒瀬珂瀾『空庭』
 絢爛と黒い光を放つ第一歌集『黒燿宮』で2002年にデビューした黒瀬珂瀾の待望の第二歌集が出た。奥付に本年(2009年)6月5日発行の日付を持つ『空庭くうてい』である。著者から拝領したのは一週間前なので、おそらくこの文章が最初の批評になるだろう。第一歌集から閲すること7年の年月はやはり長く、才気溢るる一人の青年が時間という微粒子の中を泳ぐことで変貌するに十分な長さである。7年という時間は収録歌数にも反映されている。基本は1頁5首組で、前書き・目次・跋・後書きを除くと165頁あり、空白頁をざっと20と見積もって引くと145頁になる。単純に5を掛けると725となり、おおよそ700首という数を得る。花山周子の『屋上の人屋上の鳥』が出た時、収録歌数860首は茂吉以来と話題になったが、その数に迫らんとする歌数である。跋文は岡井隆。ソフトカバーの瀟洒な装幀はあのクラフト・エヴィング商會。自己陶酔的な青年のイラストが表紙を飾る第一歌集の黒を基調とした装幀と比較すると、驚くほどシンプルでおとなしい。人が現在いる位置は見えにくいが、以前いた位置と較べると見えやすくなる。過去の位置Aと現在の位置Bの差分を取ることで、見えてくるものがあるのだ。黒瀬の第二歌集『空庭』を読み解こうとする時も、この接近法は有効なのである。
 歌集題名の『空庭』は著者の造語で、Empty gardenとCelestial gardenの両方を意味するという。「空虚な庭、光あふれる庭としての世界を嘆き、希求する心を、この造語に託した」とあとがきにある。集中に題名の由来を示すと思われる一首がある。「Garden アフガン侵攻への一瞥」と題された連作中の一首である。
ガーデン」(ガーデン)が、眼の前にありわがうちに空虚満ちつつ初冬の晩暉
 水と緑の溢れる楽園のイメージは古代ペルシアに端を発するとされている。ならば同じ中東のアフガン侵攻が蹂躙される庭園の連想を導くのは自然だが、その庭園はひたすら空虚なものとして認識されている。第一歌集『黒燿宮』にも「回廊」や「薔薇」などの語の背後に庭園のイメージは揺曳しているが、はっきりと庭園に言及しているのは巻末の次の歌のみであった。
わがために塔を、天を突く塔を、白き光の降る廃園を
 この歌に「血の循る昼、男らの建つるもの勃つるものみな権力となれ」という別の歌を重ねると、「男性原理」「権力」「エロス」またその陰画としての「同性愛」などのキーワードが得られる。第一歌集において「庭園」は、希求する対象であると同時に、廃園の語が示すように、挫折・喪失の文脈において捉えられている。庭園がここで世界の喩であるとしても、その把握はあくまで観念的な範囲に留まる。振り上げるナイフはただ我が身を突くのみなのだ。ところが『空庭』においては庭園はただ観念の対象ではなく、アフガン侵攻という日付を持つ時事的文脈の中に置かれており、空想の紡ぎ出すものであることに変わりはなくても、そこに確かな現実との紐帯が認められる。この立ち位置の変化が『黒燿宮』から『空庭』への変化の中で最も意味深いものである。それは村上春樹がかつてのdetachment (離接)からattachment (接続)へと、世界への立ち位置を変化させたのと似ているかもしれない。この点に7年の年月がもたらした表現者黒瀬の成熟を見るべきだろう。
 制作年代が最も古い第四部には、『黒燿宮』を思わせる黒瀬調の歌が見られる。
俺は見た、我が掌に汝がこぼしたる精を 真夏の啓示としての
神々の捨てたまふこの苑にゐて朝日の塔を幾千と見む
汝が口を口もてふさぐ われの名を零さむとする暁の百合を
俺は飛ぶお前は落ちろ日輪を背にする街を抱く運河へ
銃だった、あれは確かに、緩徐調子アダージョの街との別れ際に見たのは
 硬質の質感を持つ漢語を組み合わせ暗喩を多用する詩法は前衛短歌譲りで、語の強度から滲み出る高踏的詩情は地上のものと言うよりは天空の領分である。これは額に汗して地上を歩く人の歌ではない。高踏的な言語への拘りは塚本邦雄と似た所もあるが、大いに異なる点は、塚本は俳句もよくしたのに対して、黒瀬は俳句に向かないところだろう。なぜなら黒瀬の歌の言葉は「物語」を呼び込んでしまうからである。人も知るように俳句は過剰な物語を嫌う。『黒燿宮』のあとがきに、「僕は物語を書き綴るつもりでした。(…)でも、ようやく最近になって気が付いたように思います。僕には語るべき物語は無いし、それを語る術も持たないということに」と黒瀬は書いているが、黒瀬の歌はこの言葉に反して物語を常に内包している。歌が何か大きなストーリーの断片のように見える。近代短歌の〈私〉は物語の地層に紛れて見えなくなり、物語を紡ぐメタ的〈私〉としてしか把握できなくなる。この点において、物語を内包せず近代短歌の〈私〉を前景化する吉川宏志と黒瀬は、現代短歌シーンにおいて180度対極的な作風の歌人と言えるだろう。
 しかし『空庭』の他の章においては黒瀬の変化が顕著に見られるのだ。
海ゆ戻れば居間には闇が膝をかかへて座せり、まるで日本だ
降嫁する人をことほぐ広告アドを書く 夜更けの塩の塊のため
枝々ゆ光はさむくこぼれつつ九段(POWERを!)坂のぼりゆく
ぽすころ、と宵の闇から鳴く声がする鳴き出すはつねに本国
ウサマ・ビン=ラディンの眉の太さかな黒葡萄食む夜明けの餐に
ムスリムの愛か知らねど何者かに抱きすくめられ崩れゆくビル
国家対国家とならぬ戦ひのかたみに愛を打ち交はす頬
 一首目は渡辺白泉の名句「戦争が廊下の奥に立つてゐた」を髣髴とさせる歌。作者も意識しただろう。『黒燿宮』の舞台がどこでもよく、またどこでもない世界 (everywhere and nowhere)だったのにたいして、はっきりと日本を名指ししている点が注目される。二首目の「降嫁する人」は結婚して黒田清子となった紀宮清子内親王で、「塩の塊」はサラリー、つまり給与のこと。食うために書きたくもない広告コピーを書くという歌である。三首目の坂は靖国神社へと続く九段の坂。四首目の「ぽすころ」は、ポスト・コロニアリズムの略。列強による植民地収奪は見かけ上は終焉したものの、経済的・文化的収奪はなお続いているとする理論的立場をさす。五首目以降はアフガン侵攻を詠んだ連作から。黒瀬が愛を語るとき、それはしばしば暗い陰影を帯びる。
 『黒燿宮』に登場する王や権力は、言葉が創り上げた耽美的世界に奉仕するものであった。この点は三島由紀夫と似ているかもしれない。これにたいして『空庭』に登場する日本や国家はより具体性を帯び、私たちの住む現実世界に接近している。黒瀬は『空庭』のあとがきで、21世紀には世界は激変し、もはや誰一人20世紀の世界観に戻ることはできないと書いている。観念が生み出す耽美的世界から出発した黒瀬も、世界の事件と共振しそれに寄り添うことで世界に対する立ち位置を変化させ、同時に歌の質をも変化させたのだと思われる。
 同じ変化は日付のある歌の連作にも見ることができる。
12.14.00
はやう子を作れ、と言ふに頷けり 頷くほかになき昼下がり
12.14.50
大学の前に手を振る一滴の羊水もまだなさざる妻よ
12.16.00
短歌を作つてゐますと言はれおののけり闇にあわ立つビール温めり
1月5日 コンタクトレンズ紛失
見えすぎる世界もいやでコカコーラ飲みつつ歩む闘技場まで
1月7日 コンタクトレンズ発見
雪は雪待たず溶けゆき〈わたくしの輪郭〉などは見なくてよいぞ
 最初の三首は、塚本邦雄の訃報に接して実家に戻った旅行を詠んだ「六月の」と題された連作から。残りの二首は「去年今年」から。日付のある歌は河野裕子の歌集にもあり、小池光も『日々の思い出』で多く試みているが、詠まれているのはたいてい日常生活の小事であり、小事を掬い取るところに短歌の本質があるとする短歌観と表裏一体を成す。これは現実世界と似て非なるひとつの世界を言語によって構築する短歌観とは大きく異なる。黒瀬は今まで後者の短歌観に拠っていたので、日付のある歌を作るようになったこともまた前歌集からの大きな変化と言えよう。
 『黒燿宮』に多く見られたサブカルチャーとゲーム感覚に基づく歌は本歌集にも確かにあるが、その比率は以前よりはずっと低い。それに代わって『黒燿宮』には少なかった次のような作風の歌がかなりある。
酸漿の一輪白くうつむけるままに優しく知る海開き
抱き合ひて気付くわが身の冷たさをかなしみにつつ冬は終わるも
君去れば飲まれぬままに薄まれるコーヒーに浮く氷片ぼくは
勤めきし身を朝靄にまかせれば我が帰路に踏む硝子のひかり
物ひさぐ悲しみに満ちて花枯るる道端に水わづかかがよふ
 技巧者の黒瀬ゆえどの歌も上手い造りなのだが、以前のような外連味は影を潜め、短歌定型を意識した静かな歌である。青年の激情が壮年の沈思へと変化したのか。いやいや、ここはニーチェが提唱したアポロンとディオニソスという概念を借りて語るべきだろう。『黒燿宮』の基調は激情と混沌のエネルギーが支配するディオニソス的世界である。それから7年を経て、黒瀬は調和均衡と論理とが支配するアポロン的世界に接近してきたのではないか。あらゆる芸術にはアポロン的要素とディオニソス的要素の両方が必要なのは事実だ。しかしいずれが支配的になるかは、一人の芸術家においても時代や年齢により変化する。そういえば黒瀬の師であった春日井建もまた、ディオニソス的世界から出発してアポロン的世界へと移行した歌人と言えるかもしれない。
 制作年代が最も新しい第五章は作者のこの変化をよく感じさせる。
夜の底に開くみづうみ夜の底へ雪のひとひら沈めてしづか
ししむらを持つゆゑ飛べず春雪をかづけば無言なる遊園地
贄のごと気球を浮かせこの街は夜に入るかも星なき夜に
蛾を踏みてやはりわたくし 灯を落とし海底となるアトリウムにて
あてびとは吾よりしくサイダーを飲みて夏解げあき熟睡うまいをなせり
狭きわが棲みはつひにうつぼ舟 世界に万の雨降りそそぐ
夕映えをまとふ歌集は卓上に死せる浅蜊のごとくに開く
 世界を畏れて遁走したり破壊しようとするのではなく、静かに世界に手を伸ばすような歌である。惜しむらくは本歌集が7年という長い期間にわたっているためか、様々な傾向や作風の歌が混在しており、歌集全体を通観して集を代表する一首を選べと言われると、考え込んでしまうところがある。しかし全体を通読して、現在の黒瀬が辿り着いた地点は上に引いたような歌境ではないかと推測される。もっとも短歌技巧に長けた黒瀬のことゆえ、テーマや場に合わせてどんな歌でも作れるだろう。本集の最後の章は「金をくれるといふのならどんな歌でもよろこんで」と題されている。しかしどんな歌でも作れるということが歌人にとって幸いなことかどうかは、また別問題であることは言うまでもないのである。

第3回 [sai] 歌合始末記

 すべては一通のメールから始まった。
 2005年の暮れも押し詰まった11月のことである。同人誌[sai]で歌合を企画しているので、判者になってくれないかという依頼が黒瀬珂瀾氏から舞い込んだ。[sai]は黒瀬珂瀾氏をはじめとして、石川美南、今橋愛、生沼義朗、島なおみ、高島裕、正岡豊、玲はる名、鈴木暁世らを立ち上げメンバーとして発足した短歌同人誌で、2005年の9月に第1号が出ている。この歌合は第2号に向けての企画なのだという。
 いきなりの依頼に驚いた。「歌合の経験がないのはもちろんのこと、ルールも知らないので、とても判者が務まるとは思えない」ととっさの返事をしたのだが、黒瀬氏からは「参加するメンバーもルールを知らないのは同様で、真剣な遊びと考えてもらえばよい」との答えが返って来た。逡巡の末に受諾したのは、おもしろそうだという単純な好奇心もさることながら、それまで姿を見たことのない歌人という人種に会えるという魅力に抵抗できなかったからである。
 私は2003年から自分のホームページで「今週の短歌」と題して素人短歌批評(のようなもの)を毎週書いていた。しかし純粋読者を目指す私の短歌との付き合いは本を通してのものに限られており、生身の歌人に会ったことは一度もなかったのだ。私にとって歌人とは、言葉の魔術を巧みに操る超人のように思えるので、歌人とじかに会うのは恐ろしいが、会ってみたいという誘惑も抗しがたかったのである。
 そうこうするうち12月11日(日)の歌合当日を迎えることとなった。待ち合わせ場所は京都駅の七条側改札口である。黒子役で黒瀬珂瀾夫人の鈴木暁世さんが目印に[sai]を一冊手に持って待っているという。ホームページに実物そっくりの似顔絵を掲載しているので、先方が私を見つけるのはかんたんだ。少し早めに待ち合わせ場所に到着してあたりを観察するが、私は歌人たちの顔を知らないのできょろきょろするばかりだ。ふと見ると改札口を出た所に、並々ならぬ存在感を発散させている男性がいるなと思っていたら、参加メンバーの一人、北の歌人・高島裕氏であった。やがて参加者が続々と到着し、とりあえず昼食をとることになる。あいにく日曜の時分時で飲食店はどこも混雑している。京都駅を出て向かいにある京都タワービル地階の食堂に入る。こんなとき自然とリーダーとなってみんなを引率するのは黒瀬珂瀾氏で、そのカリスマ性はすごいなと横から観察する。昼食が終わったところで、歌人たちはふたつのチームに分かれて作戦会議に入る。私は判者なので会議には加わらず、手持ちぶさたで所在がない。作戦会議が終了し、地下鉄に乗って会場へ移動する。会場は四条烏丸を少し北上した所にあるウィングス京都である。楽屋裏のような場所を通って予約した会議室にたどり着き、いよいよ歌合わせの幕が切って落とされた。
 今回の歌合のルールはこうである。方人(かたうど)は東方が生沼義朗、高島裕、光森裕樹、玲はる名、西方が石川美南、今橋愛、黒瀬珂瀾、土岐友浩、司会は鈴木暁世、判者は不肖私。東方には「ゆりかもめ」、西方には「チーム赤猫」というニックネームがつく。参加者にはあらかじめお題が出ており、「パパイヤ」「たんす」「半島」「姉」の4つを詠み込んだ歌を準備している。方人は一首ずつを出して一騎打ちの対戦をする。残りのメンバーは念人(おもいびと)となって、自軍の歌を弁護し敵軍の歌を攻撃する。ひとしきりの議論の後で、判者の私が判辞(裁定理由)とともに勝ち負けを宣告するという手順で、小林恭二『短歌パラダイス』(岩波新書)のルールにほぼ則っている。『短歌パラダイス』では高橋睦郎が判者として見事な裁定を下しているが、もとより私にはそんな能力も権威もないので、心臓に汗をかく思いである。
 最初のお題は「パパイヤ」で、対戦者は「ゆりかもめ」から光森裕樹、「チーム赤猫」から石川美南。
 光森裕樹は「京大短歌会」OBで、現在は東京でIT関係の仕事をしており所属結社なし。2005年に「水と付箋紙」50首で角川短歌賞の次席に選ばれている。何首か引いてみよう。
 しろがねの洗眼蛇口を全開にして夏の空あらふ少年
 てのひらは繋がるかたちと知るゆふべ新京極に影をうしなふ
 はさまれし付箋にはつかふくらみて歌集は歌人の死をもて終はる
 80年代後半からの修辞全盛を通過した目で見れば、古典的とも言える端正な作りで、手堅い骨格のなかに清新な抒情を漂わせる作風である。しかし欲を言えば、歌の中にひっかかりが少なく、すらすらと結句まで読めてしまう。そんなところが、選考委員の河野裕子の「感じのいい歌ですが、迫力がないのね」という発言に繋がるのだろう。日本語にもっと負荷をかけて、言葉を撓ませることもときには必要ではなかろうか。
 かたや「チーム赤猫」の石川美南は『砂の降る教室』(2003年)でデビューした若手の注目株である。最近東京で「さまよえる歌人の会」なる組織を結成したらしい。水原紫苑に「口語とも文語とも判別がつかない文体」と評された石川の歌も引用しておこう。
 窓がみなこんなに暗くなつたのにエミールはまだ庭にゐるのよ
 いづれ来る悲しみのため胸のまへに暗き画板を抱へてゐたり
 カーテンのレースは冷えて弟がはぷすぶるぐ、とくしやみする秋
 さて、お題「パパイヤ」の出詠歌である。
  タイ内陸部、チェンマイ
 パパイヤを提げて見てをり瞑想のまへに僧侶がはづす眼鏡を  光森裕樹

 うるはしきルーティンワーク犇めけるパパイヤのたね身に飼ひながら  石川美南
 光森の歌はタイ旅行に取材したもので、一見すると単なる叙景歌に見える。歌合参加者がこの歌についてどのような発言をしたかは[sai]第2号の記録に譲るとして、私には高島裕の示した解釈が印象深かった。眼鏡は近視の人がこの世の事物を見るために必要なものであり、この世を暫時離脱する瞑想に入る僧侶には必要のないものである。眼鏡を外す行為は、見える世界から見えない世界への移行の喩であり、この歌にはそのような仏教的世界観が表現されているというのである。高島が自軍の念人であることを差し引いても優れた読みと言えよう。
 一方の石川の歌は働く日常がテーマである。この歌のポイントは「犇めける」という表現で密集する種の様子を描写した点と、パパイヤの種を外在的事物として詠むのではなく、体内の感覚の喩として提示した点にある。その感覚はルーティンワークに象徴される卑小な日常性に対する焦燥だろう。
 題詠では「パバイヤ」という題が十分生かされているか、「パパイヤ」でなくても成立する歌ではないかといった点が、歌の優劣を判定するポイントとして重視される。光森の歌をめぐっても、ひとしきりそのような議論が続いた。私は議論に参加する立場にないので黙って聞いていたが、後日思いついたのは、パパイヤの形状と、黄色い果肉の中に黒い種がぎっしり詰まっている内部構造が重要ではないかということだ。パパイヤの外見はやや括れた卵形をしているが、卵はしばしば宇宙や再生のシンボルとされる。また内部に詰まった種はビッグバンのごとき爆発的な生産力を暗示する。するとパパイヤ自体を転成を繰り返す宇宙の暗喩とみなせるのではないか。ならば僧侶が眼鏡を外す行為が象徴するこの世からの離脱と、パパイヤが体現する宇宙的次元はよくマッチするのである。
 判定は東方の光森を勝ちとした。僧侶が眼鏡を外すという何気ない情景に精神性を詠み込んだ光森の手腕と、倒置法による手堅い措辞を多としたのである。石川の歌もおもしろいが、二句切れなのか三句切れなのか判然とせず、上句の調子があまりよくない。これで東方「ゆりかもめ」チームが一勝となる。
 次のお題は「たんす」。方人は東方が生沼義朗、西方が今橋愛である。生沼は短歌人会所属。『水は襤褸に』(2002年)で日本歌人クラブ新人賞を受賞して注目を浴びた歌人であり、荒廃を抱え込む現代都市東京を背景とする神経症的な抒情に持ち味がある。
 ペリカンの死を見届ける予感して水禽園にひとり来ていつ
 塩辛き血の腸詰を喰いながらわがむらぎものさゆらぎはじむ
 嚥下するピリン錠剤 精神の斜面(なだり)にしろき花咲かすため
短歌人会には現代では珍しく「男歌」の系譜が脈打っているように感じるが、生沼も確実にその衣鉢を継ぐ一人だろう。
 一方の今橋は『O脚の膝』(2003年)で北溟短歌賞を受賞した若手で、『短歌研究』800号記念臨時増刊の「うたう作品賞」には赤本舞の名前で投稿していた。多行書きで場所を取るので『O脚の膝』から1首だけ引用する。
 「水菜買いにきた」
 三時間高速をとばしてこのへやに
 みずな
 かいに。
 独特な言葉の浮遊感と、現代詩と淡く接続した詩想は、明治以来の近代短歌の作歌原理と完全に切れている印象が強い。その個性はとうてい他人が真似できるものではなく、ヘタに短歌のお勉強などしないよう切に願いたくなる作風である。
 さて、生沼と今橋のタンスの歌に移ろう。
 人生の荷物を背負うこと思い、タンスかつげばタンスは重い  生沼義朗

 うかがって うすくわらっておりました
 たんす ながもち どの子がほしい?  今橋 愛
 生沼の歌は今回のお題と波長が合わなかったのか、いつもの調子が出ないようで、敵軍からは人生の荷物をたんすで象徴するのは陳腐だとか、「思い」「重い」の脚韻もうさんくさいだとかさんざん攻撃されていた。ちょっと反論しにくいのが気の毒である。自軍の東方の念人もほめあぐねている感があった。また「本当にたんすをかつげるのか」という話題にも花が咲いたが、その昔、TBSの「ベストテン」で演歌歌手の大川栄策がかついでいるのを見たことがあるのでその点は心配ない。
 今橋のたんすの歌は、上句の主語が意図的に消去され、下句にわらべ歌を引用して、人気のない大きな日本家屋で座敷童が白昼に戯れているような不思議な印象を生み出している。初句「うかがって」が「伺って」なのか「窺って」なのかひとしきり議論があったが、これは「窺って」だろう。
 題詠で重要なのは、題の持つ意味場の潜在力をいかに引き出すかという点と、日常的文脈に回収されていない意味や結合をいかに発見できるかという点である。今回の対決では、生沼の歌の「人生の荷物」と「たんす」の取り合わせはいささか平凡に堕した感が否めない。今橋の歌は、日常的什器であるたんすから滲み出る不気味さの感覚をよく捉えている。実力派の生沼には気の毒な結果となったが、判定は西方の今橋の勝ちとした。ここでコーヒーが運ばれてきて、いったん休憩となる。
 次のお題は「半島」。なかなか手強いお題だが、今回の歌合わせ白眉の勝負となった。お題から放散される意味場の強度が歌人の創作意欲を刺激したと見える。東方は玲はる名、西方は黒瀬珂瀾である。
 東方の玲はる名は「短歌21世紀」所属。歌集に『たった今覚えたものを』(2001年)があり、印刷媒体よりもインターネット上で活躍している歌人である。今回の歌合でもずっと膝の上にノートパソコンを置いて何か打ち込んでいた。何首か引いておく。
 便器から赤ペン拾う。たった今覚えたものを手に記すため
 冬の間は忘れ去られる冷蔵庫の製氷皿のごときかわれは
 体には傷の残らぬ恋終わるノンシュガーレスガム噛みながら
 かたや黒瀬珂瀾は『黒耀宮』(2002年、ながらみ書房出版賞)の耽美的世界で注目された歌人で、「中部短歌」を経て現在は「未来」所属。批評会やシンポジウムなどの常連と言ってよいほど短歌シーンで活躍している。短歌の未来を担う逸材であることはまちがいない。得度したとも聞いているので、私が万一のときには一面識もない坊さんより、黒瀬氏に経をあげてもらいたいものだ。
 咲き終へし薔薇のごとくに青年が汗ばむ胸をさらすを見たり 『黒耀宮』
 世界かく美しくある朝焼けを恐れつつわが百合をなげうつ
 父一人にて死なせたる晩夏ゆゑ青年眠る破船のごとく
 さて両者の「半島」の出詠歌である。
 半島に夕暮れどきを 半熟の卵で汚れたスカートに銃を  玲はる名

 ひとづまのごと国を恋ふ少年にしなやかに勃つ半島のあれ  黒瀬珂瀾
   ふたりが詠んだ歌は期せずして強いエロスの磁場を発散するものとなった。玲の歌は「夕暮れどきを」と「スカートに銃を」と、二重の希求体を並置して高いテンションを付与し、「スカート」の女性性に「銃」という男性性を対置することで、歌の内部に緊張感を演出している。また「夕暮れ時」を権力の凋落、「半熟の卵で汚れた」を抑圧・陵辱、「銃」を闘争の喩と読むならば、政治的な解釈も可能な歌である。歌合では実際にそのような解釈を示す人もいた。二句切れの不安定さもここでは歌にこめられた切迫した希求感を強める効果がある。
 一方黒瀬の歌は、「人妻」と「少年」の対置が醸し出す「禁忌」と「隔たり」を、「少年」と「国」の関係へ投影し、「勃つ」と「半島」の連接が性的暗喩を生む構造になっている。直喩と暗喩を駆使した技巧的な歌であり、黒瀬の得意とする同性愛的世界である。
 「半島」というお題が二人の歌でこれほどの物語性を押し上げるのには驚く。海に向かって突き出しているという形状もさることながら、半島がしばしば政治的軋轢や戦闘の舞台となったという歴史的経緯も、この語に強い意味的磁場を付与しているのだろう。  さて判定である。事前になるべく「持ち」(引き分け)は出さないようにと言われていたのだが、こういう秀歌が出そろうと判者の心は千々に乱れる。考えた末、この対決ばかりは甲乙付けがたく、よって持ちとすることとした。
 歌合もいよいよ大詰めを迎え、最後のお題は「姉」である。東方「ゆりかもめ」チームからは高島裕、西方「チーム赤猫」からは土岐友浩。労働で鍛えた頑丈そうな高島の体格と、神経質そうな痩せた土岐の体格が対照的な対戦である。別に体格で勝負するわけではないけれど。
 高島は「首都赤変」で1998年の短歌研究新人賞候補に選ばれて注目された歌人で、「未来」に所属していたが現在は無所属。歌集に『旧制度(アンシャン・レジーム)』、『嬬問ひ』、『雨を聴く』、『薄明薄暮集』がある。最近は故郷の富山の風土に沈潜するような歌を作っているらしい。北国の人らしく寡黙だが、歌の解釈を述べるときの冷静にして的確な意見は印象に残った。
 蔑 (なみ) されて来し神神を迎えへむとわれは火を撃つくれなゐの火を
                『旧制度(アンシャン・レジーム)』
 森の上 (へ) にふと先帝の顕ち給ふ苦悶のごとく微笑のごとく
 雪の野に横たふわれの掌のなかで灯る青あり青はいもうと 『嬬問ひ』
 一方の土岐友浩は京大短歌会所属の現役大学生。2005年の第3回歌葉新人賞では「Cellphone Constellations」で、2006年の第4回歌葉新人賞では「Freedom Form」で最終候補作品に選ばれている。最近、Web歌集「Blueberry Field」を上梓したので、何首か引用しておこう。
 首もとのうすいボタンをはずしたらゆびさきにのりうつったひかり
 ウエハースいちまい挟み東京の雑誌をよむおとうとのこいびと
 こいびとの黄色い傘をもったままイルミネーションへ移る心は
 土岐の世代にとってはニューウェーブ短歌はすでに歴史であり、その資産は組み込み済みのものとして作歌を始めるのだろう。
 ふたりの「姉」の出詠歌は対照的な歌となった。
 姉歯、とふ罪人の名を愛でながら夕餉の魚を咀嚼してをり  高島 裕

 かろうじてきれいな川をふたりして見る 姉にしてお茶をくむひと  土岐友浩
 高島の歌には今となってはいささか解説が必要である。歌合の少し前、姉歯一級建築士による建築強度偽装問題が発覚して大騒ぎになったので、これは時事的な歌なのである。お題の「姉」が姉歯という固有名として詠み込まれている。題詠ではお題をストレートに詠み込まず、少しずらして詠むというやり方もあって、これもアリなのだ。描かれているのは男の孤独な夕食の場面で、「罪人の名を愛でながら」にどこか屈折した心理が読み取れる。また「咀嚼してをり」には、世の出来事に対して距離を置いた即物的な反応が暗示されている。全体として静かな中に鬱屈した心情を体臭のように発散させるよい歌だと思う。また「姉歯」の「歯」と「咀嚼」とが遠く呼応しているという指摘もあった。
 土岐の姉の歌は解釈をめぐっていろいろな議論があった。なかなか読みにくい歌である。「ふたりして見る」とあるので、女性と「私」が川を見ているのだろう。「お茶をくむひと」は死語となった感のある「お茶汲みOL」か。「姉にして」も本当の姉か、姉のような人か解釈が分かれる。私など最初は、川を見下ろす旅館の二階で女性がお茶を淹れている場面を想像してしまったが、みんなの読みはそうではないらしい。テーマは年上の女性に対する淡い恋情と、まもなく関係が壊れるという予感あたりだろうと推測される。
 歌合では一首ずつで勝負を決めるので、一首の屹立性が弱くまた結像力に欠ける口語短歌は不利である。「決まった」という感じが薄いからだ。口語短歌における連作の重要性とも関係する問題だろう。
 判定は高島の勝ちとした。土岐の若さも高島の作歌経験のぶ厚さを突破するには少し勢いが不足したようだ。
 都合四番の勝負の結果、東方「ゆりかもめ」チームが2勝1引き分け、西方「チーム赤猫」が1勝1引き分けで、東方の勝ちである。「ゆりかもめ」チームは快哉を叫び、[sai]歌合はお開きとなった。
 開始が予定時間より遅れたので、会場を出ると京都の町はもう暮れ方である。これから喫茶店に行くという歌人たちと別れて、疲労困憊した私は一人家路についたのであった。

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黒瀬珂瀾歌集『黒燿宮』書評:〈絶対的不可能〉を希求する悲劇性

 まず表紙のデザインが目を引く。黒一色で、蔓植物に首を絡まれた長髪の美青年の絵がある。蔓植物は青年の首を絞めようとしているのだが、青年は抗うどころか恍惚として迫り来る死を受け入れている。この表紙絵の青年は、黒い服、とりわけJ.P. ゴルティエを好んで着るという黒瀬本人だろう。いや、このように言うことは著者が周到に張り巡らした陥穽に陥っていることになる。表紙絵の青年は、著者が「他者からこのように見られたい」と望む自己像であり、黒瀬が入念に作り上げた「歌人黒瀬珂瀾」という〈虚構の私〉に他ならない。歌会に化粧をして現われ、NHKの番組にスカートをはいて登場したという黒瀬は、髪型や服装もまた歌人の構成要素であると考える演劇的歌人であり、黒瀬の作り上げた短歌宇宙はひとつの劇場なのだ。表紙の絵はそのことを教えてくれる。

 表紙絵には作品世界のテーマの主音も現われている。青年特有のナルシシズムと死への誘惑と官能である。

 The world is mine とひくく呟けばはるけき空は迫りぬ吾に

 わがために塔を、天を突く塔を、白き光の降る廃園を

 からみあふぼくらを常に抱く死とは絶巓にして意外と近し

 「巴里は燃えてゐるか」と聞けば「激しく」と答へる君の緋き心音

 復活の前に死がある昼下がり王は世界をご所望である

 「世界は我が物」と呟くのは青年の倨傲である。これを声高に叫んだらヒトラーになってしまう。しかし青年は低く呟く。世界が我が物であるのは、自らの主観の中でしかないことを知っているからである。青年は「わがために塔を」と叫ぶ。塔は世界を統べる権力の象徴である。しかし、その塔が建つのは打ち捨てられた廃園の中なのである。これらの歌は、黒瀬の作品世界を貫くひとつのベクトルを示している。それは「あらかじめ失われた愛」であり、「瓦解するべく建てられた塔」である。これは〈絶対的不可能の希求〉と言えよう。絡み合う二人が死を間近に感じるのは、快楽の頂点が死と触れ合うように、プラスの頂点がいきなりマイナスに転じるという逆説的構造がそこにあるからである。世界を支配する権力への渇望が、全世界を焼き払う破壊衝動に転じるのもまた、同じ理屈による。同性愛のモチーフが頻出するのも、それが結婚というゴールのない〈不可能な愛〉だからに他ならない。黒瀬が縦横に引用する三島由紀夫、ジル・ド・レ、サド、バタイユらの文学もまた、〈絶対的不可能の希求〉を重要な縦糸としたことを想起すればよい。

 黒瀬の描く短歌世界には、パゾリーニやヴィスコンティの映画、マーラーの音楽、バルテュスの絵画と並んで、若者のサブカルチャーがよく登場することも特筆に値する。

 エドガーとアランのごとき駆け落ちのまねごとに我が八月終る

 June よ June、君が日本に一文化なる世を生きてわが声かすむ

 darker than darkness だと僕の目を評して君は髪を切りにゆく

 エドガーとアランは、萩尾望都の少女マンガ『ポーの一族』に登場する不死を運命づけられた吸血鬼の少年。Juneは1978年創刊の雑誌で、美少年同性愛もの(いわゆる「やおい」)の舞台となった。darker than darknessはヴィジュアル系バンド BUCK-TICHが1993年にリリースしたアルバムのタイトルである。このようにハイカルチャーとサブカルチャーが同じ地平で扱われていることに、世界で最も大衆化された消費社会である現代日本の典型的な光景を見る思いがする。

 ではこのような世界に住む歌人にとって抒情とは何か。ここにもアンビバレントが顔をのぞかせる。絶対的不可能を希求する矜持と、自らの営為の不毛性の自覚が背中合せに同居することになるからである。ここに歌集の主調低音である悲劇のトーンが生まれる。

 穢れ、時にきらびやかなり。汝は傷を受け燔祭におもむきたまふ

 血の循る昼、男らの建つるもの勃つるものみな権力となれ

 ふと気付く受胎告知日 受胎せぬ精をおまへに放ちし後に

 砂漠なる雨のごとしも指の間ゆ自涜の果ては落ちて冷めゆく

 『黒燿宮』の代表歌として「地下街を廃神殿と思ふまでにアポロの髪をけぶらせて来ぬ」を挙げた菱川善夫に、硬派の批評家である山田富士郎は激しく反発した(季刊『現代短歌雁』五六号)。いかにも黒瀬が意図した劇場的で耽美的意匠を施したこのような歌ではなく、山田は歌集後半に多い「少女らは光の粒をふりまきぬクラミジアなど話題にしつつ」のようなおとなしい歌を代表歌としている。では黒瀬本人はどうかといえば、同じ号の特集「わたしの代表歌」では意外なことに、「明け方に翡翠のごと口づけをくるるこの子もしづかにほろぶ」を挙げている。華麗な耽美的意匠の少ない静かな歌である。黒瀬の短歌に溢れる演技性と耽美的装飾は、おそらくは計画的にデザインされた意匠なのであり、その背後には等身大の二十代の青年の清新な抒情が隠されているのではないだろうか。私が集中で最も心に沁みると感じるのもまた、このような歌なのである。

 ピアノひとつ海に沈むる映画見し夜明けのわれの棺を思ふ

 線路にも終わりがあると知りしより少年の日は漕ぎいだしたり

 父一人にて死なせたる晩夏ゆゑ青年眠る破船のごとく

 女学生 卵を抱けりその殻のうすくれなゐの悲劇を忘れ

 

『短歌』(中部短歌会) 2004年2月号掲載

024:2003年10月 第5週 黒瀬珂瀾
または、塔の廃墟のかたわらに破船のように眠る青年

わがために塔を、天を突く塔を、
   白き光の降る廃園を

        黒瀬珂瀾『黒耀宮』(ながらみ書房)

 歌集はふつう、ながらみ書房・沖積舎・不識書院・砂子屋書房といった短歌専門の小規模な出版社から出版され、印刷部数も少ないので書店には並ばない。日販・東販といった取次店を通した本の流通経路に乗らないので、その辺の本屋さんで注文しても届かない。これだけ本や雑誌が溢れている現代日本で、多くの人に知られることなくひっそりと流通しており、めったに手に入らないという珍しい種類の本なのである。まるで、代価をもって人に購われることを拒否するかのようだ。

 ところが最近珍事が起きた。歌集が大学生協の書籍売り場に平積みになったのである。これはたいへん珍しいことである。その平積みになったのが、黒瀬珂瀾の『黒耀宮』であった。作者の名前は「くろせ からん」と読む。なぜ大学生協の書籍売り場に平積みになったのかというと、1977年生まれの若い作者が、関西の某国立大学文学部の現役大学院生だからである。

 作者プロフィールによれば、黒瀬は三宅千代が主宰する子供の短歌誌『白い鳥』に参加して短歌を作り始めた、とある。子供の短歌誌などというものがあるとは知らなかった。その後、中部短歌会に所属して、春日井建に師事している。『黒耀宮』は黒瀬の処女歌集で、春日井が跋文を寄せているところは、まずは型どおりと言えよう。しかし、中身はなかなか型どおりというわけにはいかないのである。

 十代の儀礼にかかり死ぬことの近しと思へばわれは楽しも

 血の循る昼、男らの建つるもの勃つるものみな権力となれ

 咲き終へし薔薇のごとくに青年が汗ばむ胸をさらすを見たり

 鶸(ひは)のごと青年が銜(くは)へし茱萸(ぐみ)を舌にして奪ふさらに奪はむ

 これらの歌に登場するキーワードを眺めると、どこかデジャ・ヴュを見る思いがする。それは、師の春日井が1960年に上梓した伝説的歌集『未青年』を代表する次のような歌のことである。

 火の剣のごとき夕陽に跳躍の青年一瞬血ぬられて飛ぶ

 火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐きしか死顔を持てり

 童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり

 中井英夫は、「紫陽花いろに病む太陽の下、現代の悪を負う少年ジャン・ジュネの歌」と評し、三島由紀夫は「うら若い裸の魂が、すりむけて血を流している」と述べ、「われわれは一人の若い定家をもった」とまで激賞した。春日井の歌の世界が黒瀬の歌に通底していることは、一見して明らかである。「薔薇」「青年」というキーワードから立ち上がる同性愛の耽美的世界への惑溺は両者に共通しており、評者の三島もまたこの系譜に連なることはよく知られている。また、第一首目の「十代の儀礼」は、もちろん三島の名作『午後の曳航』で、世界が無意味であることを証明するために少年たちが行なう殺人儀礼であり、黒瀬はその犠牲となることを願っているのである。このように、黒瀬の詠う短歌の世界は、そそり立つ塔の示す権力への憧れと、同性愛と死への願望に彩られている。

 春日井の『未青年』は、当時の三島を驚喜させるほど十分に衝撃的だったはずだ。それは歌集が出版された1960年という時代を考えなくてはならない。まだビートルズ以前の世界で、若者は黒いズボンと白いワイシャツ以外に着るものを持たなかった時代である。森茉莉が男の同性愛を扱った『恋人たちの森』を書いたのがようやく1962年だが、当時はマイナーな異端的作品と受け取られたはずである。

 しかし、時代は変わった。黒瀬の描く耽美的世界が既視感しか生まないのは、黒瀬のせいではなくむしろ時代のせいだろう。1974年萩尾望都『ポーの一族』、1975年竹宮恵子の『風と木の詩』に始まる少女マンガの同性愛ものは、1978年のJUNE創刊とともに大流行し、俗に「やおい」と呼ばれる一大ジャンルを生んだ。「やおい」とは、「ヤマなし、落ちなし、意味なし」の略語で、物語上の必然性もなく男の同性愛の場面を描く少女マンガをさす。やおい物の氾濫とともに、少なくともメディアの上では男の同性愛はタブーでなくなり、奇妙なことに少女たちの消費の対象となったのである。もちろん、黒瀬がやおいだと言っているのではない。黒瀬が描く世界を受け取る私たちの準備がすでに出来すぎてしまっていて、どうしても「どこかで見た」という既視感が付きまとうということなのである。まるで予行演習しすぎた運動会で、ようやく本番当日を迎えたようなものだ。このよう見方があながち独断でないことは、黒瀬自身の次の歌が示している。

 エドガーとアランのごとき駆け落ちのまねごとに我が八月終る

エドガーとアランは、萩尾望都の連作『ポーの一族』に登場する、不死を運命づけられた吸血鬼の少年である。黒瀬の世界の源泉は、春日井・三島・サドやジル・ド・レだけでなく、萩尾・竹宮・栗本薫なのである。

 耽美的装飾が入念に施された歌よりも、次のような歌の方がむしろ新鮮に心に届くように、私には感じられる。

 ピアノひとつ海に沈むる映画見し夜明けのわれの棺を思ふ

 世界かく美しくある朝焼けを恐れつつわが百合をなげうつ

 水飲みし夢より覚めて渇くとき生死はともに親しき使徒か

 天使魚に与ふる餌の真白くて真白くて君は白きもの欲る

 線路にも終わりがあると知りしより少年の日は漕ぎいだしたり

 父一人にて死なせたる晩夏ゆゑ青年眠る破船のごとく

 女学生 卵を抱けりその殻のうすくれなゐの悲劇を忘れ

 これらの歌には上質の抒情があり、青年期の脆い自我と世界の危うい関係を、まるで振動する薄い蝉の羽のように、かそけき微動として私たちの耳に伝えている。短歌にこれ以上のことが望めようか。

 

黒瀬珂瀾のホームページ