第393回 藪内亮輔『心臓の風化』

くちづけのたびに朽ちゆく遠い木をもついつからか死よりも遠く

藪内亮輔『心臓の風化』 

 昨年(2024年)八月に書肆侃侃房から上梓された著者第二歌集である。藪内の紹介はもはや必要ないと思うが、京大短歌会・塔短歌会に所属し、2012年に「花と雨」で満票を獲得して角川短歌賞を受賞。第一歌集『海蛇と珊瑚』(2018年)で現代歌人集会賞を受賞。2020年から角川短歌賞の選考委員を務めている。

 藪内の短歌を批評したもののなかでは、瀬戸夏子の『はつなつみずうみ分光器』(左右社、2021年)が抜群におもしろい。瀬戸によれば、藪内は並み居る年長歌人を唸らせる優等生としてデビューしたが、そのうち岡井隆の作風を丸バクリと見紛うほどに模倣した短歌を作り始めたという。

詩は遊び? いやいや違ふ、かといつて夕焼けは美しいだけぢやあ駄目だ

アルティメットチャラ男つて感じのきみだからヘイきみのなかのきみだらけヘイ

 「花と雨」路線を期待していた大人たちは失望したかもしれないが、極度に素直なのが藪内の美質だと瀬戸は言う。藪内は岡井の影響をたっぷり浴びた後に、元の基本路線に戻ったようだ。

 そこで本書である。版元の書肆侃侃房も本歌集を出版するに当たって、いささかの勇気が必要だったろう。本書には死が充満しているからだ。死が充満した書物は危険物である。詞書風の短い散文が添えられた第1部のWeatheringは、おそらくロシアによるウクライナ侵攻を機に作られたものだろう。ちなみにweatheringは英語で「風化」を意味する。

冬雨は靴を濡らしき みづからの骨ほどの本抱えてゆけば

凄惨な晩餐われら屍体のみ皿にならべてその皿の白

懐王は雲雨うんうと夢に契りたり淋しきぬかをゆめにあはせて

人類は原爆の花植ゑむとす撃つがはからはすべてが供花くげ

あなたは燃えて夕暮れしいす一本の桜、劫初ごうしょゆここでひとりで

 一読して意味の取りにくい歌もある。こういう歌を読むときは、選ばれた難しい単語が誘発するイメージと、そのイメージ同士が衝突して飛び散る火花を心に感じるのがよい。一首目はわかる。冬の雨に濡れながら、本を小脇に抱えて歩いている。それが字面の意味だ。しかし「みづからの骨ほどの」という喩の不穏さによって、場面は暗い方へと暗転する。二首目は家庭の夕食の場面だ。皿に盛られた肉も魚も見方を変えれば死体である。この歌の遠くには「夏至の日の夕餉をはりぬ魚の血にほのか汚るる皿をのこして」という小池光の歌が響いている。私たちの生の不穏さを差し出す歌である。三首目の懐王は中国の楚の時代の王で、暗愚の王として知られている。朝は雲に夕には雨になる女性と夢の中で契ったという故事から、雲雨は男女の情交を意味するという。王の夢の儚さに心を寄せている。四首目の「原爆の花を植ゑむとす」は多少わかりにくいが、「原爆の花」はキノコ雲の喩で、「原爆の花を植えようとする」は原爆を落とそうとするという意味だろう。供花は仏前・霊前に供える花だから、全体として恐ろしい皮肉になっている。ここには核兵器の使用も辞さないことを匂わせたロシアのプーチン大統領の影が揺曳している。五首目の「弑す」は、臣下が君主を殺したり、子が親を殺したりすることを意味する。「劫初」はこの世の始まりのこと。読み下すと「あなたは一本の桜で、この世の初めからここに一人で立っており、夕暮になると燃え上がって誰か目上の人を殺す」というくらいの意味か。しかし意味だけ取っても興ざめだ。小高い岡に立つ樹齢百年を超す一本桜が満開を迎え、夕映えに燃え上がるように光っている光景を脳裡に思い浮かべるのがよろしかろう。

位置について よーい終はりのわたしたち とてもきれいなだけの夕暮れ

ぬひぐるみ身体全体縫はれをり縫はれねばならずまづ虚無を抱き

安置所モルグから引き出してくる自転車は骨ばかりにて矢鱈と光る

窓のの雨もやつれてくるころに死は訪れて身をかたうせむ

飛ぶ鳥は自らを打つ雨音をのみ聴くだらう死へ墜ちるまで

 かなり危険物の歌を引いた。一首目は私たちの生の短さを詠んだ歌で、生を徒競走に喩えている。それはいわば「位置について、用意」の次に「ドン」と言う前に終わるほどの短さということだろう。二首目、縫いぐるみは全身を針で縫われているが、その中心には虚無があるという。三首目の死体安置所は自転車置き場の喩だろう。自転車の骨は車輪のスポークのこと。四首目を読むとどうしても岡井隆の「生きがたき此ののはてに桃ゑて死もかうせむそのはなざかり」という歌を思い浮かべてしまう。このあたりには岡井の影響が色濃く感じられる。五首目は鳥の歌で、鳥は歌人に好まれる素材だ。この歌にも死が暗い影を落としている。

 かと思えば次のような美しい歌もある。

ひとびとは傘をわづかに傾けて咲かせてゆきぬ淡い雨へと

なみだまで届かなかつた表情で服にほの光る冬の釦を

刮目せよ一縷のたましひ草花はそれぞれの燃える生を俯き

秋昏れて訣れむとする胸と胸その断崖へ紅葉ちりやまぬ

この世には花を拾へばつめたさに雨を思へるゆびさきがある

未だなき季節のもとへ雨よゆけ足には薄きさくらばなしき

 これらの歌は「花と雨」路線そのもので、一読してうっとりするほどの美しさだ。しかしこのような歌ばかりで歌集を編むことができなかった理由はあとがきが明かしている。それによると藪内は高校生の頃からタナトフォビア(死恐怖症)に苛まれているという。やがて訪れる死とともに世界が消滅する恐怖に居ても立っても居られなくなる強迫神経症の一種である。

 確かに死は恐ろしい。深夜に目覚めて死の思いに取り憑かれる人は少なくなかろう。死の恐怖にどう対処するか。死の向こうにもう一つの生を信じる宗教を持っていればよいのだが、そうではない人のために腹案がふたつある。

 ひとつは物理学の質量保存則に訴える方法である。質量保存則とは、燃焼などの化学反応の前後で物質の総重量が変わらないという法則である。その理由は原子は不変だからだ(ただし、ウラニウムのように原子量が大きく自然崩壊する元素は除く)。私が死んで火葬に付されたとして、身体の70%を占める水は水蒸気となり、他の炭素や水素や窒素なども空気中に蒸散する。残った骨の主成分は炭酸カルシウム (CaCO3)である。それらの総量を加算すると生前の私の体重と一致する。空中に飛散した分子はやがて雨となり地上や海中に落下する。そして植物や動物に吸収されて他の生物の一部となる。私を構成する原子はひとつも失われることなくただ形を変えるだけだ。道端に咲いているタンポポの中に元は私の身体の一部だった原子があると想像すると楽しいではないか。

 もうひとつは生物学を援用するやり方だ。ペットとして人気があるハムスターの寿命は約2年と短い。それは個体を早く成熟させるためで、ハムスターは生後6ヶ月で出産可能になる。寿命を短くして子孫を多く残すという戦略を採用したのだ。種の繁栄のためには個体の早い死が必要とされる。死は生の一部としてあらかじめ組み込まれているのだ。それが生きるということの有り様である。

 私たちの身体を構成する細胞は常時分裂している。細胞分裂が早いのは、毛髪・爪・口内などの粘膜・腸壁などで、口の中にできた傷の治癒が早いのはこのためだ。骨も7年くらいで細胞が入れ替わっているそうだ。しかし細胞は無限に分裂することができない。細胞にはテロメアという回数券のようなものがあり、その回数券を使い切ってしまうとそれ以上分裂できなくなり、やがてアポトーシスを迎える。テロメアがあるのはおそらくDNAのコピーミスの蓄積を防ぐためだろう。このように生命の中には死がプログラミングされている。

 そのことをよく示す言葉を残したのが浄土真宗の宗教者である清沢満之きよさわまんし (1863〜1903)である。清沢は真宗大学(現在の大谷大学)の初代総長を務めた人だが、若い頃に当時は不治の病だった結核にかかり、死の恐怖と戦ううちに次のような思いに至ったという。曰く「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。」

 死が意味を持つためには、〈私〉を超えるものの存在を認めなくてはならないようだ。宗教ではそれは神であり来世で、物理学や生物学では自然を統べる大いなる原理である。そのことは短歌についても形を変えて当てはまるかもしれない。〈私〉を超えるものに向かって呼びかけるとき、短歌は大きな力を持つように思えるからである。