第364回 山科真白『鏡像』

鼻煙壺びえんこに悲しき魚は泳ぎゐて鳥より先に離りゆくらしも

山科真白『鏡像』

 鼻煙壺とは嗅ぎ煙草を入れる容器で、高さは10cmにも満たない中国の陶製のものが多い。形状や装飾の多彩さゆえ愛好家が多く、コレクションの対象となっている。私は大阪中之島の東洋陶磁器美術館で開催された陶芸家ルーシー・リーの展覧会を見に行った折りに、コレクターが寄贈した鼻煙壺の展示コーナーがありその存在を知った。掲出歌では鼻煙壺に魚と鳥が染め付けされている。並んで描かれた鳥よりも魚の方が絵の中から去るように思われたというのである。もとより絵の鳥や魚が動くはずもないが、歌の中の〈私〉はそのように感じる心持ちだったのだろう。鼻煙壺を詠んだ歌は初めて見た。そこに作者の言葉への拘りが感じられる。

 山科真白は「短歌人」と「玲瓏」に所属する歌人である。小説を故眉村卓に師事し、常藤咲ときとうさきという筆名で作品を発表しているという。『鏡像』は2019年に上梓された第一歌集で、存命だった眉村が帯文を寄せている。今回は2023年に出版された第二歌集『さらさらと永久とは』と併せて読んだ。こちらには塚本靑史が解題を書いている。

 小説は基本的にフィクション(虚構)である。虚構とはつまるところ嘘だ。嘘がなぜ人の心を動かすかというと、泥田に咲く蓮の花のように一片の真実がその奥に光っているからである。虚実皮膜という論もあるものの、小説の大部分は作者の想像力が生み出したものである。では小説を志す人が短歌を作るとどうなるか。勢い読者を虚の世界へと誘う歌となるのは必定だろう。

夢の戸を開ければ美しき夜のなかに孔雀が羽根をひろげゆくなり

ひつそりと象牙の塔にこもりたる博士の愛する鳥ぞせつなき

嘘吐きの八卦見はっけみより貰い来た極楽鳥花を窓際に置く

鳥偏の漢字を交互に書く遊び すみれいろのインク滴る

十字架を落とした夏のセーヌ川過去より速くみづは流れる

 巻頭の一連に「夢」という題が付されているのもむべなるかな。一首目は巻頭歌で、本歌集の基調となる旋律を低く奏でている。本歌集を開く人は夢の世界へ誘われると宣言しているのだ。虚である物語を構築するときは、意味性を豊富に身に纏った語彙が恰好の素材となる。二首目では「象牙の塔」と「博士」と「鳥」がそうだ。三首目の「八卦見」と「極楽鳥花」も同様である。極楽鳥花はストレリチアともいい、特異な形状と色彩が目を引く花である。名作アニメ「ダーリン・イン・ザ・フランキス」でも主人公が搭乗するロボットの名に使われていた。極めつきは四首目である。鳥を旁に持つ漢字は多くあるが、鳥偏の漢字は少ない。『大字源』(角川書店)で調べても、「鳦」(つばめ)「鴃」(もず)「鴕」(ダチョウ)「鵻」(こばと)など数えるほどしかない。まさに虚の世界に遊ぶ感がある。「ミラボー橋の下セーヌは流れ」と唄ったのはアポリネールだが、五首目にも強い物語性がある。

 文芸・芸術に題材を採った歌が多いのもまた、新たな扉を開くことを意図してのことだろう。

夢十夜目醒むるなかれ忽ちに百年過ぐと匂ひたる百合

亡き人の言葉の珠を呑み込めば乱れはじめる秋の眠りは

汝が脳に斧もて深く彫りこまむ打擲さるる百姓馬はも

必ずや望みの叶ふあら皮は要らぬと生きてけふも明日も

川端の「眠れる美女」に引かれゐる中城の歌、夜のきざはし

 一首目の「夢十夜」は幻想味の強い漱石の短編集。花瓶に活けた百合の匂いは夜に強まる。二首目は澁澤龍彦を詠んだ歌。澁澤は晩年病によって声を失った。それを真珠を呑み込んだせいだと見立て呑珠庵と号した。「ドンジュアン」はフランス語のドンファンのDon Juanに通ずる。澁澤の忌日を呑珠庵忌という。三首目はドストエフスキーの『罪と罰』に、四首目はバルザックの『あら皮』に寄せた歌。五首目の背後にある経緯は栞文で中地俊夫が解説している。川端康成は中城ふみ子の『乳房喪失』の序文を書いている。その縁からか、『眠れる美女』に中城の「不眠のわれに夜が用意してくるるもの がま・黒犬・水死人のたぐひ」という歌を一首引いているという。これらの歌に登場するラインナップを見ても、山科が虚数の世界を描く幻想的な作風の作家に惹かれていることは明らかである。

 しかしながら本歌集を最後まで読むとそれだけではないことがわかる。作者は結婚した妻であり、二人の男の子を持つ母である。集中には次のような子供を詠んだ日常詠もある。ここには虚の欠片もない。

吾の子は魔法を知らぬ白球は真直ぐに飛んで落ちてゆくなり

水仙を活けた部屋から聴こえくる吾子のショパンはフォルテに向かふ

 歌集題名は「鏡像にいつはりなきや吾の奥の永久とはに触れよとかひなを伸ばす」という歌から採られている。鏡に映った自分はほんとうの自分なのかと自問している。鏡に映る私は日々の暮らしを送り、夫と子供を持つ私である。しかし創作に打ち込んで虚の中から真実をつかみ出そうともがく私は目には見えないその奥にいる。どちらがほんとうの私なのだろうかと問うているのである。この歌に続いて次のような歌が置かれていて、その意味するところは説明を要しない。

(Hといふをんな 日常のわたし)

肉体を苛め抜きたるレッスンを終へてバレエのシューズを脱ぎぬ

(Mといふをんな 歌を詠むわたし)

脚韻を踏みて秋立つゆふぐれは小鳥のごとく歌を交わさむ

 第二歌集『さらさらと永久とは』は「玲瓏」に入会してから以後の歌を収録しているという。

詩画集を抱きて歌ふ火の匂ひくちなはのごとせまりてきても

廃船の千の足音曳きながら雲はちぎれて夏へと向かふ

禁といふ字をちひさき石に彫り篆刻教室ゆふぐれに閉ず

さびしらに白百合の香と抱いてゐる球体関節人形マリア

藻のあはひ鯰もひそむ襖絵の墨にも息あり夜の屋敷は

鐵舐てつなぶるのちに知りたる玻璃はり売りが罅入ひびいりグラスに注ぎゆく比喩

寓言と真珠をのせてこの夏は釣り合つてゐる金の天秤

ゆつくりと複式呼吸を繰り返しひそかにふかき乳糜槽にゅうびそう撫づ

 第一歌集を上梓してから長い中断があったのは作者に迷いがあったからだろう。しかし第二歌集にもはやその影はない。進むべき道を見定めたからであろう。二首目の廃船の跫音は空に轟く美しい幻想である。三首目は近傍に置かれた歌から三島由紀夫の『禁色』を踏まえた歌だとわかる。四首目の球体関節人形は天野可淡の作だろうか。五首目の鯰の襖絵は四条派の筆になるものか。八首目の乳糜槽とは、臍の少し上にあるリンバ節だという。初めて知った。どの歌にもどこまでも深く入って行きたくなるような奥行きがあり、読む人の想像力をいたく刺激する。なかなか眠りが訪れない熱帯夜の夏の夜に読むといいかもしれない。

 

第363回 2023年度角川短歌賞雑感

山鳥の骸をうづめ降る雪のきらら散らして白き扇は

渡邊新月「楚樹」

  今年度の第69回角川短歌賞には過去最多の870篇の応募があったという。その中で見事短歌賞を射止めたのが渡邊新月の「楚樹」50首である。振り仮名がないと読めない題名だが「しもと」と読む。渡邊は2002年生まれなので、誕生日を迎えていれば21歳の若い歌人である。東京大学文学部に在学中で、東京大学Q短歌会に所属している。国文学専攻で、将来は新古今和歌集などを研究する研究者を目差しているという。

 渡邊は中学生の頃から独学で短歌を作っていたようで、2018年第64回角川短歌賞では「冬を越えて」で佳作に選ばれている。この時はまだ高校生である。

君と僕を少し遠ざけ去っていく重力波あり極月ごくげつの朝

                 「冬を越えて」

生卵片手で割れば殻だけはこの手に残るきっともう春

 2019年の第65回角川短歌賞では「水光る」で、翌年「風の街」で、昨年2022年の第68回に「残響」で予選通過するも受賞には至らず、今年は満を持しての受賞である。また『ねむらない樹』4号(2020年)の第2回笹井宏之賞では、「秋を過ぎる」で野口あや子賞を受賞している。この頃は口語脈に所々文語を交えた繊細な感受性が感じられる若者らしい歌を作っている。

誰も誰もひとりなることのかなしみは受胎告知をしにゆく時も

                      「秋を過ぎる」

リノリウム二段飛ばしで上がり行く合唱部員の胸のみずうみ

 今年の受賞作は能の「葛城」に想を得たもので、作者は能に親しんでいるらしく謡曲のような語彙と語法が目立つ。連作題名の楚樹とは、姿を変えた葛城の女神が旅の修験者をもてなすために火にくべる木の枝のことである。

夕の笛まどろみを吹き此岸から遠く離れて月はのぼり来

朝の水掬へば白くさえかへりみづから砕くみづからの顔

影立たば影ぞその樹を立たしむるさむざむと空裂く梢かな

 これまでの角川短歌賞の受賞作とはかなり異なる作風であり、高踏的で取っつきにくいと感じる人も多いだろう。選考委員の票も真二つに割れていて、坂井修一と藪内亮輔が最高点の5点を入れた一方で、松平盟子と俵万智はまったく点を入れていない。受賞作を決める討論も長時間に亘り、激論の末にかろうじて受賞が決まった感がある。松平と俵の二人は、能の理解が本作の前提になっていることや、この世界観について行けない読者がいることなどを本作の難点として挙げているが、根底にあるのは日々の生活感情から発した歌ではなく、言葉によって作られた歌だという点だろう。このことは最近話題のChatGTPのようなAIがほんとうに言葉の意味を理解しているのかを考える時に問題にされる記号接地問題 (symbol grounding problem)【注】とよく似た所があるのがおもしろい。渡邊は「人生派」ではなく「コトバ派」の歌人である。ポスト・ニューウェーヴの時代が長く続いたので、「コトバ派」の歌人は久々に登場した感がある。

 次席には福山ろかの「眼鏡のふち」が選ばれた。福山は2004年生まれなので、誕生日が来ていれば19歳である。福山も渡邊と同じく東京大学Q短歌会に所属しているので、ワンツーフィニッシュの快挙である。過去に2021年の第15回全日本学生・ジュニア短歌大会で毎日新聞社賞を、第10回記念河野裕子短歌賞で俵万智賞を受賞している。また昨年の第68回角川短歌賞では次席に選ばれており、惜しくも2年連続で次席となった。おもしろい連作タイトルで、「どの感情もやがて忘れてしまうこと 眼鏡のふちを強く意識する」という歌から採られている。眼鏡の縁はいつも視界を区切っているけれども、私たちはふだんそのことを忘れている。つまり私たちが見ているものには意識しない制限がかかっているということだろう。福山にとって短歌とは、その制限を乗り越えて、ふだんは見えなくなっているものを見るためのツールということか。

外箱に国語辞典をしまうとき手のひらにすっと洩れてくる空気

手のひらに何度もふれているはずの表紙の口づけの絵に気づく

花弁にはふれず挿す薔薇 空き瓶の底の厚みに接するまでを

 3点を入れた藪内は、「写実的表現からドライな情感を作っていくのが面白い」と評し、5点を入れた俵は、「日常の些細なところに詩を見つけてつくる力が素晴らしい」と褒めている。点数を入れなかった松平は、自分は韻律を重視するので、下句の強引な句跨がりが認められないと述べている。たとえば上に引いた「表紙の口づ / けの絵に気づく」のようなパターンである。坂井は玉石混淆なところと安易な直喩が多くて採れなかったとする。福山のような作風だと意味を重視するので、どうしても句跨がりが生じてしまう。福山の短歌は、最近よく見かける「口語によるリアリズムの更新」(by山田航)タイプの歌ともちがっていて、知的処理とポエジーを両立させているところが優れているように思う。

 佳作が4人いるのも異例なことで、選考委員の評価・好みが分かれていることを示している。一人目は永井駿の「水際に立つ」である。永井は1989年生まれで、「塔」「苗」「△」所属。永井はかつては「長井めも」という筆名で短歌を作っていて。2021年に短歌研究新人賞予選通過、2022年に歌壇賞予選通過、同年角川短歌賞予選通過、2023年歌壇賞予選通過という実績がある。

トーストに海岸線を生み出したわたしの歯牙に波と歳月

譲り合う無人の席に忘れ物また遠ざかる夏の集会

テーブルに残されていたパンくずを手で掃くやがて送られる手で

 5点を入れた松平は、リテラシーが高い作者で、繊細な感覚が皮膚の内に隠れていると高く評価している。点数を入れなかった藪内も坂井も最後まで残した連作だったと褒めている。解せないのは何かのツアーに出掛けた折のことを詠んだ連作だろうが、どこだか場面がわからないと選考委員がみんな言っていることだ。

LapinラパンともLièvrリエーヴルeとも呼ばれない人の住まない島のうさぎは

火に焼かれ無害化される貯蔵庫の煤降りしきる古い処理日に

ガスマスクひび割れたまま展示室 穴ばかりある身体と思う

 これを読めば、舞台は旧日本軍が毒ガスを製造していた広島県の大久野島のことだとすぐわかる。無住となった島にウサギが繁殖して、ウサギの島として人気がある。フランス語でlapinは飼いウサギでlièvreは野ウサギを指す。そうわかって読むと、テーマ性のはっきりした連作として立ち上がる。場面がわかっていたら選考委員の評価も少し変わったかもしれないので残念だ。

 二人目の佳作は揺川ゆりかわたまきの「透明じゃない傘をひらいて」である。揺川は2000年生まれ。現在は無所属だが、今年3月の卒業まで東京大学Q短歌会に所属していた。3人も受賞者を出して東京大学Q短歌会はぶっちぎりの圧勝である。

湿り気がやわらかく指を拒みおり入社前夜の髪乾かせば

冬が死んで時給がうまれるこの部屋にふさわしく効いているエアコン

生きることの傷口みたいに花水木ほの赤く咲く街路うつくし

 1点を入れた俵は、「常に自分の目の前の世界の奥を見ている感じ」に好感が持てると述べ、3点を入れた松平は、「借り物の表現や、たくさん勉強して形から入った物言いで詠むのではなく、まず日常を生きる自分があって感受するものを余計な慮りなく短歌に託そうとする姿勢が小気味よい」と評している。坂井と藪内は点を入れていない。このあたり選考委員の短歌観がはっきり分かれていることをよく示している。揺川の短歌は、大学を卒業して社会人になったものの、新しい身分と職場に馴染めない違和感を軸としていて、若者らしい歌となっている。

 三人目の佳作は齋藤英明の「狼はアルトに」である。齋藤は1999年生まれで、「かりん」所属。一橋大学大学院言語社会研究科に学ぶ学徒である。

過ぎゆきてなほただならぬ雨季の香匂へる舌に桃崩るるは

つむる眼に手を置きやればまなうらはさらに暗みて春ゆふまぐれ

てをつなぐ 水脈にさからふ朽ちかけの櫂のはやさでゆび差しあへり

 藪内だけが4点を入れている。「全体的にむせ返るような、気怠いような雰囲気が充満して」いて、「ストーリーもあまりないのですが、あるひとつの抒情みたいなものを伝えて」いると評価している。坂井もすごく巧いので採ろうか迷ったと言い、俵も「耳のいい人」と述べている。松平は読者を選ぶ歌で、皮膚感覚として受け入れられない人もいるだろうと否定的な感想を述べている。個人的には私は上に引いた三首が特に好きで、たいへん実力のある人だと思った。いずれ賞を取る人だろう。

 四人目の佳作は鈴木すみれの「先生が好き」である。鈴木は2004年生まれで無所属。2021年に第13回角川全国短歌大賞で「短歌」編集部賞を受賞している。

席順で指してくときは指す前に目を見てくれる そこに賭けてる

世界一すごい花束のつもりで手渡している期末レポート

またやって 銀の地球儀抱きしめてせかいせいふく、って笑うやつ

 藪内が2点、松平が4点を入れている。松平は、タイトルはちょっと拙いと思ったが、先生に憧れる十代の女の子の素直な感情を綺麗にきっちり描けていると評し、藪内は、読んでみると修辞が巧く、意外に繊細なところもあって、単純な作者ではないと述べている。坂井は、妄想が半分以上入っていて、ライトノベルの域を脱しないとし、俵も、タイトルは身もふたもないが、等身大の表現がこうなんだという説得力があり、点数を入れてあげればよかったと振り返っている。

 全体を見廻してみると、生活実感に根差していて率直に感情を詠む歌を評価する松平と俵に対して、抽象度が高かったり構成に知的な工夫があったりする歌に点数を与える坂井と藪内という構図がはっきり見えてくる。これから角川短歌賞に応募しようとする人は、そのことを意識した「傾向と対策」が必要だろう。選考座談会最後の総評で藪内は、前年に次席だったので、翌年応募する際には、作者が男とわかる歌を入れ、それぞれの選考委員が採りそうな抒情の歌を混ぜ、前年の委員たちの要望をよく読むといった対策を入念に重ねて見事受賞に至ったと述べているとおりである。

 

【注】記号接地問題については、今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』(中公新書)を読むとよくわかる。もともとはコンピュータや人工知能の分野で問題にされたものだが、作歌における作者の姿勢に当てはめてもおもしろいかもしれない。あなたの短歌の言葉はほんとうに接地しているか、というように。

 

第362回 睦月都『Dance with the invisibles』

壺とわれ並びて佇てる回廊に西陽入りきてふたつ影伸ぶ

睦月都『Dance with the invisibles』

 待望のと言うべきか、睦月都の第一歌集『Dance with the invisibles』が出版された。版元はKADOKAWAで、装幀は花山周子、栞には水原紫苑、東直子、染野太朗が文を寄せている。およそ考えられる最強の組み合わせで、歌人睦月に寄せる期待の大きさが感じられる。中身に入る前にタイトルと造本に立ち止まりたい。

 歌集題名のDance with the invisiblesは、「目に見えないものたちとのダンス」という意味だろう。もし定冠詞がなくてDance with invisiblesだったら、何だかわからない不特定の目に見えぬものたちだが、定冠詞があるのでそれと特定されている不可視のものたちである。つまりそのものたちは作者に馴染のあるものたちなのだ。それが何かは詳らかにしないものの、ずっと作者の傍らにいたものと思われる。

 花山の装幀は基本的にモダンデザインだが、本書は異なるテイストの装幀である。表表紙のダンスをする三人の少女、周囲を取り巻く花柄、扉の見返しの博物誌の一葉のような図が、廃園の図書室に置き忘れられた古い写本のような雰囲気を本書に与えている。添えられた解説のラテン語を読み解くと『貝類誌』とあり、何かの貝の幼生を描いた図らしい。

 睦月は2017年に「十七月の娘たち」で第63回角川短歌賞を受賞している。その年の次席にはカン・ハンナ、佳作には辻聡之や知花くららがいる。受賞から6年経っての第一歌集である。待望の、とはそういう意味だ。

 角川短歌賞の選考座談会を読み直してみると、睦月を推したのは小池光と東直子である。特に小池は二重丸を付けていて、「様式美がある」「歌の骨格、形に美しさがある点では、今回の応募作品の中では一番な気がする」「一言で言えば『詩』がある」と称賛している。東も「ポエジーという点では一番ある作品だと思いました」と評している。二人の選考委員の意見は一致して、睦月の短歌の「ポエジー」「詩」を評価しており、本歌集を通読した人もまた同じ感想を抱くに違いない。栞文で染野は、「この歌集の歌の韻律や質感にまず没入させられ、没入に気づいてあわてて距離を取り、でも気づけばまだ没入し、とくりかえしてなんとか読みおえ」たと述懐している。私も同じで、読み始めるや歌の世界に吸い込まれ、歌に導かれるままに広大な世界をあちこちと彷徨い、読み終えてこの国に別れを告げるのが惜しいほどだった。歌集を読んでそんな濃密な経験をすることはそう多くはない。

 睦月の短歌の美質は何と言っても詩想の豊かさと深さではないかと思う。それは集中のどの歌を取っても感じられる。

灯油売りの車のこゑは薄れゆく花の芽しづむ夕暮れ時を

昨日と今日がまちがひさがしの絵のやうにならぶ九月の朝の食パン

春の雨ぬがにそそぎゆるやかに教会通りをくだりゆきたり

われにある二十の鱗すなはち爪やはらかに研ぎゐるゆふべ

腕の傷さらして小径歩むとき傷より深く射せる木漏れ日

 一首目は巻頭歌で栞の裏にも印刷されている。歌の季節は冬だが、春はそう遠くはない春隣か。町にストーブ用の灯油を売る車がやって来る。たいていはお決まりの音楽を流している。やがて車は遠ざかり、売り声も薄れてゆく。ここまでが出来事の描写である。この歌の詩想の鍵は「花の芽しづむ」にある。冬の最中にあって木々は春の芽吹きを用意している。それを「しづむ」と表現したのである。わたしは思わず『短歌パラダイス』(岩波新書)屈指の名歌「家々に釘の芽しずみ神御衣かむみそのごとくひろがる桜花かな」という大滝和子の歌を思い出した。

 二首目は朝の食卓を詠んだ歌。食卓に毎日並ぶ食パンは、昨日のものと今日のものと見分けがつかない。それは日々の暮らしの単調さの象徴である。それはまちがい探しのようなのだが、その単調さを嘆くのではなくむしろ慈しむ眼差しが感じられる。秋冷の感じられる九月という時間設定もよい。

 三首目は春の雨の情景。「消ぬがに」は万葉でも使われた古語で、「消えてしまいそうになるほど」の意。この歌のポイントは「ゆるやかに」だろう。古い教会のある通りは坂道になっている。古くから人の住む閑静な住宅地なのだ。しめやかに降る春の雨がゆっくりと流れてゆく。無音の中で世界が微光を発しているようだ。

 四首目は生物の進化に思いを馳せた歌。私の祖先はかつて水に棲む魚だったとするならば、手足に20ある爪はさしずめ残った鱗だろうという想像を膨らませている。女性が身体を歌に詠むとき、そこには柔らかさとある情感が醸し出される。

 その一方で五首目は同じく身体を詠みながら、痛みを感じさせる歌である。「腕の傷」は階段で転んで擦りむいた傷かもしれないが、ひょっとしたらリストカットの痕かもしれない。その傷を隠さずに晒すのはある決意を感じさせる。木漏れ日が傷より深く射すというのは、その傷を負った痛みがまだ癒えていないからだろう。

 睦月の短歌の特質のひとつは、日常の風景と大きな世界とが不意に接続される詩想の飛躍である。

さみしさに座るキッチン ほろびゆく星ほろびゆく昼のかそけさ

春の夜によそふシチューのごろごろとこどもの顔沈みゐるごとく

アルカリの匂ひたちたる夜のスープ啜りつつ恋ふ土星の重力

黄昏のSpotifyより流れくる死者の音楽、死者未満の音楽

まぼろしが滅びてしまふまでの間の牡蠣にレモンを搾りゆくなり

 一首目では、赤色矮星が爆発して死を迎える何万光年も彼方の世界と台所とが、〈私〉の想いを梃子として繋がっている。二首目ではシチューの中のジャガイモやニンジンとどこか遠い世界で溺れる子供が、三首目ではスープの芳香と土星の重力が不思議な糸で結ばれる。四首目はなるほどと納得させられる歌。モーツアルトもスカルラッティもこの世にいない死者である。しかし現在存命の作曲家もまたいずれは死者となる宿命だ。五首目の幻が何かは定かではないが、ひょっとしたらこの世界というまぼろしかもしれない。想いを通して接続される世界がしばしば悲傷の色濃いことも注目される。

 レズビアンや女性への思慕を詠んだ歌も集中に散見される。

春の二階のダンスホールに集ひきて風をもてあますレズビアンたち

女の子は好きになつたのはいつ、と 水中でするお喋りの声

わたしの彼女になつてくれる? 穂すすきのゆれてささめく風の分譲地

香水をたがひに交換して秋の夜を抱く 耳のうしろがひかる

グラスの底に残る琥珀酒飲み干してあしたは女の子と踊る約束

 香水の貸借りは女性特有のことなので、どこか密やかで甘やかな雰囲気があり、歌に柔らかさを与えている。

 睦月の歌にはほとんど人物が登場しない。それは睦月にとって短歌が端的に〈私〉と〈世界〉を架橋するものだからだろう。例外的に母と妹が歌に詠まれているが、生きている人間の生々しさがなく、どこか童話の中の人物のようでもある。

娘われ病みて母きみ狂ひたまふ幾年まへの林檎樹の花

いもうとの靴借りてゆく晩春のもつたり白き空の街へと

お母さんわたし幸せなのと何度言つても聞こえぬ母よ 銀杏ふる日の

秋なれば光澄みつつある昼を妹の婚告げられてゐつ

 三首目の母は、結婚せず子も成さない娘を嘆く母である。そこに僅かに母子の関係性が見て取れる。付箋の付いた歌を見てみよう。

柄杓星そそぐ憂ひの満ちるまに猫をかかへて切る猫の爪

わが生まぬ少女薔薇園を駆けゆけりこの世の薔薇の棘からむに

ゆりの花すこし目で追ひ、はづしたり 外して戻る夏の会話に

鍵屋に鍵ひしめく夜よ 輪廻するたましひの待合室のごとくに

誰の記憶からも逃れたき夜明け前塩化コバルトの空滲みたり

糸通しにられし銀の横顔の婦人つめたし月面のごとくに

 一首目の柄杓星は北斗七星のことで、「柄杓星そそぐ」は「憂ひ」を導く詞書きである。二首目は角川短歌賞を受賞した「十七月の娘たち」の中の一首で、選考座談会ではこの「娘」は何かがひとしきり話題になった。しかしこうして見るとそれは明らかで、婚をなさず生むことのない幻想の娘である。三首目は、誰かが持って歩いている花束の百合をちらと見て、友達とのおしゃべりに戻ったというだけの歌なのだが、なぜそれがかくも魅力的なのだろう。それをうまく説明することができないのがもどかしい。「すこし目で追ひ、」に読点が打たれているのは、ここで少し間を取ってほしいという作者の意図である。この間が絶妙で歌を生きたものにしている。「はづしたり」の後の一字空けでさらにひと呼吸置くことになる。この呼吸のコントロールが歌の魅力の秘密ではなかろうか。四首目は鍵屋の夜の光景を詠んだファンタジー風の歌で、これを見て「眼鏡屋は夕ぐれのため千枚のレンズをみがく(わたしはここだ)」という佐藤弓生の歌を思い出した。「醫師は安樂死を語れども逆光の自轉車屋の宙吊りの自轉車」という塚本邦雄の歌もあり、「○○屋」を詠んだ歌を集めると面白いかもしれない。鍵屋を詠んだ歌は初めて見た。

 五首目、睦月の歌には時折理系の用語が混じる。この歌の問題は「塩化コバルト」の空が何色かである。『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、塩化コバルトの分子式はCoCl2。「淡靑色、葉片状の吸湿性結晶。湿った空気に触れると淡紅色に変る」とある。つまり通常は薄い青色なのだが、湿ると薄い紅色になるのだ。それを踏まえるとこの歌の空は夜明け前の靑色から朝焼けの紅色に変化したとも読める。

 六首目の糸通しとは、針の目に糸を通すための器具で、指でつまむ部分に婦人の顔のレリーフがあるのだ。糸通しと婦人と月とが女性性という共通の特徴によって並べられ、呼応する世界線を形作っている。

 2023年はまだ2ヶ月半ほど残っているので気が早いことは承知の上だが、少なくとも今年目にしたうちで最も内容充実した歌集であることは疑いない。

 

第361回 U-25短歌選手権

費やした年月だけがぼくならば ぶあついパンケーキを縦に裂く

からすまぁ「春風に備えて」


 昨年に続いて今年も角川『短歌』がU-25短歌選手権を開催した。前回と同様、告知から締め切りまで短い期間だったにもかかわらず、100篇の応募があったという。その結果が角川『短歌』8月号に掲載されている。審査員も昨年と同様、栗木京子、穂村弘、小島なおが務めている。

 優勝作品に選ばれたのはからすまぁの「春風に備えて」。不思議な筆名だが、からすまぁは東京大学理科二類の現役東大生で、「ひねもす」と「東京大学Q短歌会」に所属している。高校生の時から短歌を作り始め、NHK短歌やあちこちの新聞短歌に投稿し、団体として牧水短歌甲子園で優勝したこともあるようだ。

恋人が消えてくファミリーマートへと爪先は火のたましいになる

擦りリンゴのための切れ端ラップしてきみの裸のすべては知らず

ラピスラズリが瑠璃と呼ばれてみたときの砕ける雨のような安らぎ

 小島が5点の最高点を入れ、穂村が1点入れている。小島は100篇に似たような作風の歌が多かったが、「繊細で微妙な感情をやや屈折させて描いて」おり、「向日的に描こうとする詩性がある」と評価している。穂村も同じようなゾーンで書かれた短歌が多くて、順位付けが大変だったと述懐している。このあたりの審査員の感想が、現在の若い歌人の作風の傾向を反映していると思われる。からすまぁは昨年度も「少女戦士としての春」で応募したが入選を逃したので、今年は見事リベンジということになる。

 「心の花」の高良たから真実の「地には平和を」が準優勝に選ばれている。

荒馬のをらぬ我らが島々に兵士の歩幅広がる真夏

瑪瑙化よ 人類史なほ短ければいまだ兵士の化石はあらず

まなぶたは昼の光をとどめ得ず諦めに似て我がみひらけり

 高良は評論の分野で活躍しており、2022年に『短歌研究』主宰の第40回現代短歌評論賞を(同時受賞は桑原憂太郎)、2023年には『現代短歌』主宰の第4回BR賞を受賞している。高良は初めての応募での受賞である。栗木が4点、穂村が1点、小島が1点を入れており、その作風から幅広く支持を集めている。

 他の応募作と高良の短歌の肌合いの違いは一目瞭然だ。ほとんどの作品は口語(現代文章語)・新仮名遣だが、高良は文語(古語)で旧仮名である。また、「傷付きやすい〈私〉」を主題とするものが多い応募作の中で、「迫る戦争の脅威」という大きな主題を描いている点も特異と言えよう。高良が沖縄出身であることがその根底にあると思われる。ハッとしたのは上の二首目。「瑪瑙化」という現象は実際にはなく、瑪瑙の複雑な縞模様と脳髄との外見の類似を梃子とした想像の産物である。時にはこのような幻視は短歌に強い力を与えることもある。

 残りは審査員賞で、まず栗木京子賞は雨澤あめさわ佑太郎の「Take2」に与えられた。

フラットな朝を迎える食卓のコンフィチュールを掬うスプーン

信号の上に真っ赤なマフラーが垂れ下がりつつキューブリック忌

かつてそこにあったという彼の肖像画 乾いた指が暗闇を指す

 栗木が最高点の5点を入れている。栗木は審査方針として、感覚だけでなく、その場面の具体性とその人の感受性が自然な形で溶け合っているものを選びたいと述べているので、それに適った作品ということだろう。確かに引いた歌でも現場感がはっきりと描かれている。穂村は体言止めが多いと言い、小島は単語が立っているが、どの歌もアベレージ付近を推移していて、傑出した歌がなかったと感想を述べている。

 小島の「単語が立っている」という感想は慧眼と言うべきで、雨澤は「早稲田詩人」「インカレポエトリ」などに参加している詩人で、第31回詩と思想新人賞を「ノックする世界」という作品で受賞している人なのだ。詩と俳句の二足の草鞋はときどきあるが、詩と短歌のかけもちは珍しい。短歌ユニット「くらげ界」というのを作って活動しているという。そういう目で見ると、確かに言葉の切れが鋭いような気がするのだが、それは詩作からの影響かもしれない。

 穂村弘賞は池田宏陸ひろむの「bluebird」が受賞した。

君の長いポニーテールが揺れるたび水の匂ひがする夏はじめ

教室の水槽のフグ見るときの未来ぼやけるくらゐの視力

オーボエのリードは舟の形してしづかに風を待つ薄暑かな

 穂村が5点、栗木が1点入れている。穂村は「ベタな青春性のように見えて、実はメタ的な視点で構築されているのがおもしろい」と言い、点を入れなかった小島は「追い風の青春性みたいなものが、これまで多く受賞してきたからこそ、非常にこういう作品を見るのは難しい」と述べている。小島自身が眩しい青春性で角川短歌賞を受賞したので、その感想には実感が籠もっている。高校を舞台として音楽に打ち込む青春を描いた連作であり、詩的完成度はなかなか高い。

 池田宏陸は「鷹」に所属する俳人で、第4回俳誌協会新人賞神野紗希奨励賞を受賞している。「秒針にチクとタクある夜長かな」などという句がある。そういえば上に引いた三首目の「薄暑かな」は俳句的で、ふつうの歌人はここに切れ字は使わないだろう。俳句からの越境も頼もしい。

 小島なお賞は市島色葉しじまいろはの「追憶」に与えられた。市島は無所属である。

春はされども桜にまみれ僕たちの式典のみがなくなっている

濡れてはじめて冷やされていく結露した窓を拭って冷える指先

誰にでも救われないで居るために砂糖につかる夏蜜柑たち

 小島が4点を入れている。コロナ禍の日常を主題とした連作である。印象に残ったのは、「僕らの頃とは比較にならないほど精度の高い繊細さっていうのかな、加害性をゼロに近づけていこうとするとき、どうなるのか、それを見届けたいという気持ちがあって」という穂村の評だった。穂村の言う加害性のなさは、今の若い人たちの短歌を読むときに留意するべき特徴かもしれない。

 予選通過作品は21篇。結社、大学短歌会、同人誌、短歌ユニットなどに所属している人が11名、所属なしが10名という内訳である。昨年は前者が16名、後者が8名だったので、無所属の歌人が増えたことになる。大学短歌会で目につくのは、京大短歌が3名、東京大学Q短歌会が2名となっている。

 第66回角川短歌賞で佳作、第64回短歌研究新人賞で候補作に選ばれた折田日々希や、第65回短歌研究新人賞で最終選考候補作、第67回角川短歌賞で予選を通過した錫木ナツ(岡田夏美)も応募しているが、残念ながら今回は受賞には至らなかった。

 昨年に続き今年も選手権が開催されたのは喜ばしい。若手歌人が短歌を発表するまたとない機会なので、今後も継続して開催してもらいたいものだ。

      *        *        *

 『短歌研究』10月号で第4回塚本邦雄賞が発表された。最終選考の対象となったのは、大森静佳『ヘクタール』、永田紅『いま二センチ』、初谷むい『わたしの嫌いな桃源郷』、松本典子『せかいの影絵』、山田航『寂しさでしか殺せない最強のうさぎ』、吉田隼人『霊体の蝶』の6作で、選考の結果大森が受賞した。

 選評を読んでいて、大森作品を評する穂村弘の次の言葉に立ち止まった。

 この作者に限らず、自らの個性や方法や使命を自覚する直前の作品世界が最もピュアに見えるということは確かにある。そして、その世界を愛する読者ほど新たな一歩に違和感を抱くものだ。

 確かにその通りだと深く共感した。私の頭に浮かんだのは村木道彦である。今となっては伝説の短歌誌「ジュルナール律」に村木の「緋の椅子」十首が発表されたのは1965年のことであった。

するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら

めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子

水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうたえるただ麦畑

 平仮名と口語(現代文章語)の多用と、感傷すれすれの青春性と淡い憂愁、愛唱性に富んだリズムは多くの人を魅了した。現代の口語短歌の源流のひとつとされることもある。村木はこの時、確かに「自らの個性や方法や使命を自覚する直前」だったにちがいない。村木はそれを自覚した途端に自己模倣に陥り、「歌のわかれ」をして長く歌壇を去ることになったのである。短歌に限ったことではないが、実際に作る人しか触れえない創作の秘密というものがあるようだ。

 

第360回 濱松哲朗『翅ある人の音楽』

諦めたものから燃えて空色の地図を汚してゐるバツ印

濱松哲朗『翅ある人の音楽』

 本コラムを書くとき、まず冒頭の掲出歌をどれにしようかと考える。なるべくならば作者の個性をよく表す歌で好きなものを選びたい。付箋の付いた歌を読み返してすぐ決まる時もある。しかしあれこれ迷ってなかなか決まらないこともある。本歌集の場合はどうしようかと迷い、付箋の付かなかった歌を選んだ。それには後で説明する訳がある。

 巻末のプロフィールによれば、濱松は1988年生まれ。京都の立命館大学に在学中に「塔」に入会し、そののち「立命短歌」「穀物」に参加したという。2015年に「春の遠足」で現代短歌社賞の次席に選ばれているが、その歌は本歌集には収録されていない。『翅ある人の音楽』は今年(2023年)出版された第一歌集で、2014年から2021年までに制作された歌から420首を選び再構成したものだという。学友の小説家高瀬隼子、染野太朗、真中朋久が栞文を書いている。

 歌集を読み進んで私が付箋を付けたのは次のような歌だった。

耳鳴りに滲める声のとほくあれば黙秘のごとくゆふだちに入る

色彩の果てなる夜に鬼灯の実のうづきつつ照り深まらむ

氷とはみづとひかりの咎なるを鳥よこの世の冬を率いよ

遠近の窓に溶け合ふ明け方をひとふで書きの鴉つらぬく

砂に足さらして立てばくづれつつ定まる指と砂のかたちは

 一首目、耳鳴りという身体感覚にまず焦点が絞られ、次に遠くから響く音へと移ることにより空間が広がる。体の内部に耳を傾ける上句から一転して、下句では沛然と降る夕立の情景へと転じる。「黙秘のごとく」という喩が切り替わる世界の仲立ちをすると同時に、歌の中の〈私〉の心中にわだかまるものがあることを示す。上句から下句へと繋がる構成が優れている。

 二首目、昼間はさまざまな色の看板や幟旗がある町も、夜になると色は存在を潜め闇へと主権を譲る。人気のない路地の民家の玄関の乏しい照明に、赤く色づいた鬼灯が照らされている。「うづく」と「深まる」という動詞が、作者の心情を暗示している。

 三首目、上句にはかなりの詩的飛躍がある。氷が水からできているというのは常識の枠内である。しかし氷が光からできているというのは日常を超えた詩的把握だ。しかもそれが「咎」とは。一体何の罪を犯したというのだろう。読む人はそこに何らかの物語があることを予感し、かつそのように見立てる〈私〉の心情の機微に触れる気がする。下句は一転して、空高く飛翔する鳥への力強い呼びかけとなっている。

 四首目は通勤電車の風景だろうか。明け方の車窓からは、遠くの山並みと近くの街並みが溶け合うように見えている。「遠近の」は「遠近の風景」が圧縮されたものである。〈私〉は朝早いこともあり、眠くて意識が覚醒していない。そんなぼんやりとした視野の中を一羽のカラスが鋭く横切る。その飛ぶ様は文字を一筆書きしたようで、何かを知らせる予兆のようでもある。「ひとふで書きの」という暗喩が効果的だ。

 五首目、裸足で浜辺に立っている。寄せる波が足を洗う度に足下の砂が流されて、姿勢がぐらぐらして定まらない。しかし何度かそんなことを繰り返すうちに、足の指がしっかりと砂を掴んで立つ。子供時代に夏の海辺で誰もが経験したことのある情景ながら、歌全体が人生における何かの喩と取ることのできる高階の意味作用を感じてもよい。

 上に引いた歌は端正な文語定型で、叙景(物や場面)と叙情(作者の心情)とが適切な配分比率で詠まれている。言葉に無理な負荷がかかっておらず、韻律の流れも滑らかである。このような歌を引いて、そこに作者の歌風と個性を見てもよいのだが、読み進むうちにそれは少しちがうのではないかと思うようになった。集中には次のような歌も多く見られるからである。

茫然の流しにむかひ梅干しの種のみ残る弁当あらふ

わが裡に互ひちがひに組みかへすわれの気配の夜ごと深まる

わたしにも凍える声のあることを笑へば笑ふほどにくるしい

同じ目をしてゐるわれに怯えたるみづからを逃さずわが目は

ふくらめばみな泡となる強欲をあるいは日々の嵩増しとなす

 一首目、切り取られた情景としては、台所の流しで弁当箱を洗っているのだが、作者が言葉によって表現したいのは「茫然」である。何か茫然とするほどの出来事があったのだ。残りはそれを実景として支える素材にすぎない。二首目の歌意は今ひとつ判然としない。何かの選択を迫られているのか、あるいは相反する感情が湧き上がっているのか。いずれにせよ作者の目は葛藤する心の内側だけを見ている。三首目、「凍える声」とは、何かに驚いて凍えた声なのか、それとも人に発する冷たい声なのか。いずれにせよ歌の〈私〉は制御できない感情に囚われている。四首目は鏡で自分の顔を見たのだろうか。それとも自分と同じ目をしている人を見たのだろうか。〈私〉が見つめているのは自分である。五首目では、自らの内部を見つめる余り、歌に詠むべき具体的な物が形を失っている。

 聞くところによると、油絵を志す画家の卵はまず自画像を描くという。画家は鏡に映る自分を描くことで、「見る」ことを学ぶのである。それにならって言うならば、ここに挙げた歌はすべて作者の自画像であると言ってよい。どうやら濱松は、「自分がどのような人間なのか」という問にいちばん関心があるようなのだ。もしそうだとすると、濱松にとっては名歌を作ることが目標なのではなく、自分を発見することが作歌の目標だということになるように思われる。付箋の付かなかった歌を冒頭の掲出歌に選んだのにはこのような経緯がある。

 歌集の題名ともなった「翅ある人の音楽」という連作は物語性に富む不思議な一連である。まず一首だけ別に置かれた次の歌が作品世界の扉を開く。

水鉄砲持ちゐし頃に出逢ひたるうすき翅ある人のまぼろし

 子供時代に翅のある人、つまり妖精と出逢ったというのだ。妖精と言えば、コティングリー妖精事件が名高いが、濱松はこの一連でひとつの物語の扉を開こうとしているようだ。

地図のうへに道は途絶えて逃げ水の角を曲がれといふナビの声

ひるがほの蔓に埋もるるバス停のわづかに西へ傾ぎたる音

をとこみなをとこのこゑになりゆくをかつてめたる鶏の爪痕

近づいて来ると判つてゐたものを、炭坑節にカンテラ揺れて

カセットテープの爪折られたる日のありてカストラートの晩年を聴く

アカペラの歌詞に息づく狩人かりびとは父亡きのちを森に棲むとふ

 地図にない道をナビに導かれて異界へと足を踏み入れる。そこには人がおらず、無数の湧水が溢れているという。随所に翅のイメージが揺曳しつつ、音楽堂で催される音楽と炭鉱のイメージが重なるという不思議な構成である。その合間に次のようなカタカナ書きの台詞が挟み込まれている。

 

男ノクセニ、女ミタイナ声を出シヤガツテ。

オマヘノ歌ハツマラナイ。女ノ歌ノ悪イトコロバカリ吸収シテヰル。

オマヘノ書イタモノヲ「名文」ダナンテ、ヨク言ヘタモノダ。

 

 非常に手の込んだ重層的な世界が構築されている。ひとつの手がかりは上に引いた三首目「をとこみな」にあるようだ。少年期を脱する時に起きる声変わりである。そして五首目の「カストラート」は、その昔、欧州で行われていた去勢によって高い声を保った歌手である。そこから推察するに、翅ある人のいる異界とは失ってしまった少年期のことではないだろうか。カタカナ書きの台詞はそのような夢の世界を壊そうとする外部からの声か。とても演劇的な連作となっている。

 濱松の歌の世界の重要な要素に音楽がある。

耳で聴く風景ならば雪原は最弱音のシンバルだらう

オルガンに灯る偽終止、頑張れば楽になるとふ属音ドミナントあはれ

単音は波のみなもと わたくしのいづみに足を晒すものたち

何度でも鳴りかへすから 色彩を一度うしなふための五線紙

フェルマータ 泣いてゐるのはわたしではなくてかつての庭の思ひ出

 濱松はよほど音楽に造詣が深いと見える。二首目の「偽終止」は、終わるとみせかけて解決以外のコードに移る手法をいう。「偽終止」「属音」「単音」「五線紙」「フェルマータ」などの音楽用語を、人生の様々な紆余曲折について語る喩として用いているが、基本的に音楽の世界は作者にとって良き世界である。そういう世界をひとつ持つことは大事なことだ。本歌集にはままならない人生に寄せた歌も多くあるが、そんなときに支えになるのが良き世界だろう。

またひとりここからゐなくになる春の通用口にならぶ置き傘

非正規で生きのびながら窓といふ窓を時をり磨いたりする

三か月単位にてわが就業はいのち拾ひをくりかへしたり

 最後に付箋の付いた歌の残りを引いておこう。

ああこれも真水の比喩か、透きとほるグラスに冷ゆるレモンの輪切り

暗殺をのちに忌日と呼び替へて年譜にくらく梔子ひらく

まばたきは記憶のふるへ 崩ゆるものみな灰白くわいはくの影をともなふ

お気に入りだつた絵本の鳥の名を呼ぶとき喉はもう燃えてゐて

滲みくる汗をぬぐへばわれになほ宿痾のごとく生よこたはる

水ぎはを裸足で逃げる 蹴散らした飛沫を掬ふための五線譜

たましひの速度に朽ちてあぢさゐの花曇天に錘のごとし

押し花の栞にはなの声のこり折をりに泥のおもてをなぞる


 

第359回 『西瓜』に集う歌人たち

クラビクラと呼ばるるときを知らぬままふたつの窪みはみづを拒みぬ

               佐藤せのか『西瓜』第六号 (2022年)

  調べてみると「クラビクラ」とは鎖骨のラテン名だという。claviculaは「小さな鍵」を意味する。その骨の形状から付けられた名だろう。私たちは生まれた時から小さな鍵を二つ胸に付けて暮らしていることになる。その鍵の奥には何が蔵されているのだろうか。この歌の前に「鎖骨の窪みを湖に喩ふる小説を思ひ出させて夜の鏡は」という歌が置かれている。小説では鎖骨の窪みに溜まった水を湖に喩えているのだが、掲出歌では鎖骨は水を拒んでいる。初句六音で四句も六音だが、四句は「ふたつ窪みは」でもいいかも知れない。発想も韻律も美しい歌である。

 『西瓜』は岩尾淳子、江戸雪、門脇篤史、楠誓英、染野太朗らが同人となって発行している同人誌である。2023年夏の現在までに九号が刊行されている。ふつう同人誌といえば、同人の短歌や評論作品を掲載するものだが、『西瓜』の大きな特徴は同人以外の人に誌面を開いている点にある。毎号「ともに」という欄で作品を募集していて、一人五首の投稿をすべて掲載するという太っ腹である。おまけに毎号四人の評者が「秀」「優」「良」の三段階の作品を選んで寸評する。この三段階はスイカの出来の階級だという。ちょっとした短歌道場のようになっており、腕試しをしたい人にはうってつけだ。読んでいて自分が付箋を付けた歌を評者も選んでいると、「やっぱりね」とちょっと得意な気分になる。投稿者の中には、中井スピカや小川ちとせのように見知った名も見られるが、ほとんどは筆名・変名で投稿している。ひょっとして名のある歌人が変名で投稿していることもあるかもしれない。今回は第六号から第九号までをざっと読んでみた。

 良いと思った連作を挙げてみよう。次は鈴木晴香が「優」に選び、江戸雪も総評で取り上げている。 

ありうべき光をさがす放課後のあなたはたぶん詩の書架にいる

            塩見佯「図書館の午後」『西瓜』第八号

片隅の読書カードに開かれた輪廻のような季節があった

青い背の植物図鑑を閉架より取り出す手つきで触れるあなたは

タイトルに君の不在と名のついてぼくのすべてのこれからの午後

図書館はいまも燃えゆくわが胸の群青ながるる川の傍にて 

 際立つのは連作意識の高さである。テーマは「あなた」と呼ぶ人への淡い思慕の念で、それに図書館と書物を絡ませている。放課後なのでおそらく高校だが、作者は大人で過去に戻って歌の世界を作っている。「詩の書架」「読書カード」「植物図鑑」「閉架」「タイトル」などの縁語を巧みに組み合わせて歌の世界を作りあげる手腕はなかなかのものだ。短歌を作り慣れている人でないとこうはいかない。検索してみると塩見佯はSNSなどネットで短歌や小説などを書いている人のようだ。五首目の炎上する図書館は古代アレクサンドリア図書館を思わせて美しい。

罫線を無視したくなるときもあり少し外れてゆく通学路

           小金森まき「ライン」『西瓜』第八号

教室の窓は水面の底だから口を開いて閉じて見上げる

石灰で引いたラインのようにすぐ消されてしまう死にたさだった

たましいが溺れないよう水中で歌をうたっているわたしたち

夢を追うことを諦めサンダルは夏の終わりに向かって走る

 テーマは学校を舞台とする青春の鬱屈である。やや既視感がなくもないが、ノートの罫線、通学路、運動場に石灰で引いたラインなどを喩の素材として短歌の世界を組み立てる手法は手堅い。三首目の「死にたさ」は言葉としてこなれていない。小金森は「うたの日」などで活動している歌人のようだ。

少女期のしめりを帯びし手のひらに十薬の白ほのかににほふ

               小野りす「庭」『西瓜』第八号

火の気配するゆうまぐれ祖母おほははの小枝のやうな外国煙草

雷魚日々乾びつつあらむ雨雲の過ぎたるのちの白き路上に

ほのぐらき八手の玉よ水びたしのこころにひらくみづいろの傘

金柑のあまたともれる庭にゐる さびしきものをかたへに置きて

 投稿作品のほとんどは口語(現代文章語)だが、稀に文語(古語)の投稿もあり、作者はそれなりの年齢の人と思われる。小野も「うたたね」や「うたの日」などの短歌サイトに作品を発表している。二首目の細い外国煙草はヴァージニア・スリムか。一首目の「少女」と「十薬」(ドクダミ)、二首目の「祖母」と「外国煙草」、三首目の「雷魚」と「雨雲」などの取り合わせがおもしろく、ひょっとしたら俳句の素養のある人かも知れない。調べの美しい歌である。

出窓からこぼれるようにゆるやかに揺らめく冬の床の陽光

             永井駿「迷信」『西瓜』第七号

体温をゆっくり渡すやや冷える部屋の毛布のアンバー色に

ピラミッドの石のひとつをキャラメルとすり替えるため書く設計図

秋だけが口を開いていたことにだれもきづかなかったくせして

迷信のような歩調で老いてゆく風の鳴き声ばかり聞く日も

 永井は第64回短歌研究新人賞の最終選考を通過した歌人である。言葉の連接に無理がなく、柔らかく紡いでいくような手触りに個性を感じる。ただ歌に詠まれている若者特有の緩い不全感は、現代の短歌のあちらこちらでお目にかかるものという気もしなくもない。

細やかに組み立てられたランドリーラックを壊す夏のゆふぐれ

             岡本恵「結束」『西瓜』第六号

背の低い母の世界に沿うやうに散りばめられた工夫をほどく

締められたねぢを緩めてほんたうは何を壊してゐるのだらうか

振り向いた鏡のかほのさびしさに色をなくした海馬を探す

回収のために束ねたランドリーラックであつた父の骨たち

 嶋田さくらこが「優」で取っている。読み始めた時は何のことかよくわからないが、最後の一首に達してようやくわかる。父親が亡くなって実家を引き払うのか、子供が片付けをしているのである。洗濯機を囲うように設置されたランドリーラックは、背が低い母親に使いやすいようにあちこちに工夫が凝らしてある。しかしそれも無用になり、解体された白い金属の棒はまるで父親の遺骨のようだというのである。私も親の家を片づけたことがあるので身につまされる。

天と地のあわいに揺れて揺れながら扉を開く短夜がある

          優木ごまヲ「寄港地」『西瓜』第九号

見返してやるって誰のためだろうそのまたの名を遊び紙とも

何本か指を挟んで栞なら赤い糸でも割とまっすぐ

清らかなのどを信じてゆくためになぞる小口の汚れいくつか

背を押せば押されたのだと気付くとき書架はあしたのための寄港地

 これは本のパーツの名称を詠み込んだ歌で、「天」〔地〕「扉」「見返し」「遊び紙」「栞」「のど」「小口」「背」はすべて本のパーツの名称だ。こういう才気に走った短歌を嫌う向きもあるが、短歌にはこういう遊びの要素もあって、「唐衣着つつ慣れにし」のような折り句もその一種である。短歌の修辞の面から見ると、これは「本」というお題を中心として放射状に広がる縁語の空間を渉猟することになるので、案外正統的な作歌法と言えるかもしれない。連作の最後を書架と寄港地で納めているのもよい。イベールの交響詩曲が背後で低く響いているとなおよい。

 あとは印象に残った歌を挙げておこう。

姿見をのせたトラックゆっくりと遠ざかりたり小雨ふる昼  山名聡美

窓際にひかりを溜めて不在とはまばたくたびに影を見ること  早月くら

ブローカ野へしみこんでゆく風鈴は夏を喪いつづける音叉  西鎮

ネクタイを緩めゆきたり休職をすすむる精神科医のまなこは  敦田眞一

鳩の眼はくうを見つめる。僕たちはrain checkをまた告げられて 中井スピカ

冬の陽がやわらかいのはシーグラスとよく似た仕組み 遠い眼球  早月くら

水音の平らなりけり秋の日にひつそり遊んでゐる子供たち  福田恭子

遠ざかる夕暮れとして二粒だけもらえた肝油のオレンジ あわい  西鎮

春を待つ公衆電話鳴り止まず受話器を上げる手のひらはまだ  初夏みどり

地続きの空がとぎれる季節には記憶の森からくるカラスたち  相川弘道

或る夏に取り出せなかつたビー玉が生きながらへてゐる喉仏で  暇野鈴

なにもかも手遅れにして去ってしまう快速電車の淡いひかりは  遠野瑞希

とほくちかく楽はながれてさらさらと古きフィルムに降りつづく雨  小野りす

みなぞこは此処 薄明るい真昼間の壁に映画を浅くうつして  早月くら

 『西瓜』に投稿して来るのは短歌結社に所属しておらず、主にネットを短歌の発表の場としている人が多いようだ。穂村弘の『短歌ください』でもそうだったが、一人で短歌を作っている人がこんなにいるということに驚く。昨今の「短歌ブーム」のせいで短歌人口は増えているのかもしれない。そういう人たちに『西瓜』の投稿欄は恰好の場を提供しているのだろう。

 

第358回 蝦名泰洋『ニューヨークの唇』

秋深し桔梗の色の海を渡る移動サーカスの象の姉妹に

蝦名泰洋『ニューヨークの唇』 

 初句の「秋深し」は、「秋深し隣は何をする人ぞ」という芭蕉の句にも使われている季語の常套句なので、この季語で歌を始めるには相当な勇気が必要だろう。季節は晩秋である。さて、次はどのように展開するのかと思っていると、「桔梗の色の海を渡る」と続く。桔梗の色は濃い紫なので、渡っている海は深い大洋だろう。ちなみに桔梗は初秋の季語。この歌のポイントは次の「移動サーカス」である。この語句で一気に意味の広がりが生まれる。トラックに乗って町から町へと移動するサーカス団は、昔は曲馬団とも呼ばれていた。次のような歌がある。

風の夜のサーカス小屋に獣らが眠れば夢にてるアフリカ

                 渡辺幸一『霧降る国』

サーカスはすでに隣の町におり閑散とせし空き地に遊ぶ

                  小塩卓哉『風カノン』

 サーカスを主に特徴づけるのは、絶えず町から町へと移動する漂泊性と芸を見せる動物だろう。小塩の歌は前者に、渡辺の歌は後者に焦点を当てている。両者はあいまってサーカスを非日常的な異界とする。超人的な空中ブランコや綱渡りも耳目を引くが、子供たちが夢中になるのは何といっても動物で、中でもライオンや虎や象はスター級だ。蝦名の歌ではサーカス団の象の姉妹が海を渡っている。大洋を行くのだから大きな貨客船だろう。結句の「象の姉妹に」まで来て、倒置法により初句の「秋深し」へと帰還する。象の大きな耳に秋風が吹いているのだ。映像のくきやかな歌だが、それ以上に私が感じるのは「物語性」である。その物語はブラッドベリのSFファンタジーとどこかで繋がっているようにも感じられる。

 『ニューヨークの唇』は今年 (2023年) 6月に書肆侃侃房から出版された歌集だが、出版に至るいささか特異な経緯に触れておかねばならない。作者の蝦名は1956年生まれ。1985年頃から作歌を始め、1991年には短歌研究新人賞候補になっている。1993年に第一歌集『イーハトーブ喪失』、1994年に詩集『カール ハインツ ベルナルト』を刊行するが、病を得て2021年に泉下の人となる。本歌集の編者の野樹かずみは蝦名と長らく親交があり、折々に蝦名から送られて来る短歌の預かり役になっていたという。蝦名の死後、残された歌稿の出版を決意し、クラウドファンディングで資金を集めて刊行に至ったという。巻末のあとがきに野樹が蝦名に寄せる熱い想いが綴られている。本歌集には野樹が編集した『ニューヨークの唇』と第一歌集の『イーハトーブ喪失』、それに二人で詠んだ両吟集から蝦名の歌を拾い挙げた「カムパネルラ」が収録されている。なお、二人の共著に『クアドラプル プレイ』(書肆侃侃房、2021年)がある。この刊行も蝦名の死後である。

 田島邦彦他編『現代短歌の新しい風』(ながらみ書房、1995年)に蝦名の『イーハトーブ喪失』から50首が収録されており、編者の一人の藤原龍一郎が短評を寄せていている。藤原は、「どの一首をとっても、この歌人が短歌型式の機能と生理を知りつくし、オリジナリティーあふれる修辞と韻律を駆使する力の持ち主であることは、すぐわかるだろう。実際、ここにあげた歌は、ニューウェーヴの代表としてしばしばとりあげられる何人かの若手歌人の作よりも、技術的にも表現意識的にも、格段にすぐれているように私には思える」と賛辞を贈っている。ちなみに『イーハトーブ喪失』と同時期に刊行された歌集には、西田政史『ストロベリー・カレンダー』、早川志織『種の起源』、大滝和子『銀河を生んだように』、尾崎まゆみ『微熱海域』、中津昌子『風を残せり』などがある。1991年は荻原裕幸が新聞紙上に「現代短歌のニューウェーヴ」という論考を発表した年で、その後、短歌シーンはライトヴァースとニューウェーヴの波に洗われることになる。そういう時代である。

 さて、『ニューヨークの唇』から何首か引いてみよう。

捨てられたヴィオラのf字孔からも白詰草の芽は出でにけり

はね橋の近くの画家は待っている見えないものが渡りきるのを

失った無人探査機を捜せ無人探査機その2で

地図屋への地図を並べる地図屋への地図を並べる地図屋はどこだ

ザムザこそ詩人の鑑胴乱に蝶入れたまま行くピクニック

海を見るたびに涙が出るようにセットされてる未成年ロイド

 いくつかのキーワードで蝦名の短歌を読んで行きたいのだが、まず強く感じられるのはすでに指摘した「物語性」である。結婚を祝うようにヴィオラのf字孔からクローバーの花が咲いたり、跳ね橋を目に見えないものが渡っていたり、人造人間が海を見ると涙が出るように設定されていたりするのは、まるで何かの物語の一部のようだ(ちみなみ「未成年ロイド」の「ロイド」は、アンドロイドの「ロイド」で、「似たもの」の意味で使われている。したがって「未成年ロイド」は未成年を模した人造人間ということになる)。

 物語性は次のような歌にも強く感じられる。

音叉庫にギリシア銅貨の墜ちる音わが鎖骨さえ共鳴りのする

いっせいに孔雀の群れが羽根ひろげる贋の銀貨が積もる広場に

貨物船に虹積む積み荷職人の太き声する朝の波止場に

 どれもまるでショート・ショートのような味わいがある。大事なのは、ここに置かれた言葉たちが、ふつう短歌で担わされる役割から解放されているように感じられることである。それはどういうことだろうか。次の歌と較べてみよう。

螢田てふ駅に降りたち一分のかんにみたざる虹とあひたり

                      小中英之『翼鏡』

無花果のしづまりふかく蜜ありてダージリンまでゆきたき日ぐれ

 小中の高名な一首目で字面が語っているのは、螢田という珍しい名前の駅ですぐに消えた虹を見たという事実だけである。しかし夏の夜に冷たく明滅する蛍火のイメージと、淡く空に消える夏の虹とが相まって、世界の美しさを前にした人の世のはかなさが水字のように浮かび出る。二首目も同じ構造で、イチジクに満ちる蜜は世界の豊かさの喩であり、遠くインドのダージリンまで行きたいと思っても、行く時間は残されていないのが〈私〉の現実である。作者は虹やイチジクを描きたいと望んでいるのではなく、それらを通して「人の世のはかなさ」「生の一回性」を詠んでいるのである。「叙景を通して叙情に至る」のが和歌以来の歌の王道であり、歌に置かれた「虹」や「無花果」という言葉は、短歌という蒸留装置を経由することで、最終的には「生の一回性」を指示するという高階の意味作用を果たしている。この高階の意味作用こそが通常の短歌において言葉が担っている役割に他ならない。読者の立場から言うと、「短歌を読む」ということはこの高階の意味を感受することだということになる。

 翻って蝦名の短歌を見ると、ほとんどの歌でこの高階の意味作用を見ることができない。たとえば上に引いた二首目の「はね橋の」の歌で、「はね橋」や「画家」や「見えないもの」といった言葉が共鳴しあって指示する高階の意味は考えるのが難しい。

 では蝦名の短歌の言葉たちはいかなる役割を与えられているのだろうか。それは言葉の組み合わせと単語が持つ豊かな共示作用によって、〈私〉の生きる現実とは異なる世界を作り出すことにある。なぜ現実と異なる世界を作り出そうとするかというと、蝦名がまちがえてこの世に生まれて来たと感じているからである。そのことを思わせる歌はたくさんあるが、二首だけ引いておこう。

影青く君の右頬照らすのはあれは地球という名の異邦

ああ天に翼忘れて来し日より踊り初めにき歌い初めにき

 一首目では〈私〉も〈君〉も地球ではない星から地球を眺めており、地球は故郷ではなく異邦である。それは作者がこの世に対して持つ違和感に由来する。二首目は堕天使の歌で、文学では貴種流離譚という形を取ることが多い。このように蝦名の短歌において、言葉は「現実の異化」という機能を果たしている。蝦名の短歌が磁力のように発する物語性はそこに由来する。言葉が高階の意味作用を持たず、現実の異化に奉仕しているということは、蝦名の本質が歌人ではなくむしろ詩人であったことを意味するように思われる。

 現実の異化から派生するキーワードがいくつかある。まず上に引いた四首目「地図屋への」に見られる迷宮への嗜好を挙げておこう。この歌では「地図屋への地図」が無限に入れ子になっており、最終的に目的の地図屋へは辿り着けない。三首目「失った無人探査機」にもその傾向があり、探査機その1を探査機その2が探し、その2をその3が探すというように無限に連鎖は続く。

 また蝦名の歌には地図や地理に関する語彙と、何かを探している人がよく登場する。

いつまでも欠けたピースを探してる空の方途を明日も真似そ

あの子は黄色い飛行機を探しているわたしもおなじことをしている

十字架が十字架を背負う言葉とはあの足跡が消える砂浜

音叉庫の一律の闇をさまよえり父がなくした母音さがして

サーカスを追って迷子になったままわれに帰路あるごとき夕焼け

地図になき市の東に生かされて身を一枚の日輪が焼く

 地図・地理への嗜好は「ここではないどこか」への憧憬と結びつき、何かを探すのは大きな物を失ったか、あるいは最初から持たない状態でこの世に生まれ落ちたからに他ならない。蝦名の〈私〉はこの世に送り込まれた流刑者なのだ。

 このような蝦名の短歌世界をよく表す歌をいくつか引いておこう。

桟橋は廃墟となりて数本の杭がかたむき僕を待っている

                 『ニューヨークの唇』

かなしみにほほえむべけれいちい樹をチェスの駒へと彫りあげる秋

病む人のゴブラン織りの膝掛けに読みさしのまま夜明けのカフカ

古い詩がふとよみがえる紫の唇の麻酔が醒める夕暮れ

信号の青に流れる曲ながら雨の中にてシュトラウス冷ゆ

渡らんとして倒れたる黒馬のあばら骨から透ける海峡

                『イーハトーブ喪失』

緑色の受話器は海に沈みつつ呼べどとこしなえの通話中

そして視野を花びら覆いめくるめく通過儀礼のごとき季節は

安住の枇杷の梢に星の実は光れりわれにかくまで遠く

街角をノアの方舟通過するごとし日蝕の午の翳りは

 野樹も挙げている次の歌は蝦名が理想とする境地をよく表している

そこにはだれもいないのにそこには詩人もいないのにそこにも白い

花が咲きそこには読者もいないのにそこにも探した跡がある

 この二首は続けて読むと一連の文章になる。歌人は一首の完結性を重んじるので、ふつうこういうことはしない。蝦名の詩人の資質がなせる業である。蝦名の夢想する天上世界には、詩人も読者もいないのに詩の白い花が咲き、しかもそれを誰かが探した痕跡が残されているという。無名の詠み人と言葉を求める人とが密やかに交錯する白い世界が、蝦名の歌の言葉たちが最終的に指し示すものである。

 

第357回 安田茜『結晶質』

かなしいね人体模型とおそろいの場所に臓器をかかえて秋は

安田茜『結晶質』

 人体模型は小学校の理科室に置かれていることが多い。理科室にはたいてい分厚いカーテンがあり、戸棚の中にはホルマリン漬の動物があったりして、ちょっと恐い雰囲気が漂っている。私の世代では人体模型と聞くとどうしても中島らもの『人体模型の夜』を想起してしまう。

 初句「かなしいね」は口語の会話体なので、誰かに話しかけているか、さもなくば独り言である。誰かがいきなり「悲しいね」と言ったら、そばにいる人は「どうして悲しいの?」と訊ねるだろう。悲しみの契機が述べられていないからである。俳句や短歌は詩の一種なので、「○○が××して△△になった」と順序立てて説明してはいけない。それでは散文になってしまう。飛躍は散文ではタブーだが、詩では金貨である。「かなしいね」と初句を読んだ読み手の頭の中には大きな「?」が灯るはずだ。ここでは倒置法が使われていて、二句以下がその疑問に答えてゆくのだが、その答もストレートではない。人間が人体模型と同じ場所に臓器を抱えているというのは逆で、人間と同じ場所に臓器があるように人体模型を作っているのである。だからここには発想の転倒があり、これもまた詩の大事な材料だ。結句を「秋は」と言いさしで終えているのも巧みである。余韻が残るからで、余韻もまた詩の素材だ。散文では言い残してはだめで、主題についてすべて言い切ることが求められるが、詩ではすべてを語ってはいけない。残余を読者にゆだね、読者の心の中でさらに膨らんでゆくのが良い詩である。

 しかし一首を読み了えても読み手の心には疑問が残る。なぜ人体模型と同じ場所に臓器があることが悲しいのだろう。同じ場所に臓器があるのは当然ではないか、と。このように世の常識を揺さぶるのもまた詩の役割である。人体模型と同じ場所に臓器があることがなぜ悲しいのか。読者はあれこれ想像を巡らせるだろう。体内の臓器の位置に至るまで自分の謎は明らかにされているのが悲しいのか、それとも模型と同じ場所に臓器を持つ凡庸さが悲しいのか、いやむしろ逆に人体の臓器の位置を示すために晒されている模型が悲しいのか、答はいくつも考えられる。その想像のひろがりが詩のもたらす効果だとも言えるかもしれない。

 安田茜は1994年生まれの若い歌人である。京都の立命館大学に入学し、何のクラブに入ろうかと考えていた時、キャンパスに置かれていた看板の短歌に衝撃を受け立命短歌会に入会したという。大学短歌会は4月の新入生入学の時期によく短歌を書いたビラなどを配って入部勧誘するが、けっこう効果はあると見える。本歌集には収録されていないが、『立命短歌』第2号 (2014年) に安田の「海と食卓」が掲載されている。

静けさにしまう写真や紙切れの本当に燃やすことなどなくて

ひかりとは手に取れぬものと言いながらあなたの部屋の本をかさねる

 安田はその後、京大短歌会に入会している。『京大短歌』22号(2015年)に初めて安田の名が見え、「twig」と題された連作を寄せている。この連作はいくつかの歌を削除して本歌集にも収録されている。

ひるのゆめ 林檎がむかれてゆくときのらせんは逆光にのびてゆく

地続きで季節はすぎる各々の木に伸びてゆくいちまいの影

 安田は塔短歌会にも所属し、2016年に塔新人賞を受賞。2022年には第4回笹井宏之賞の神野紗希賞を受賞している。現在は同人誌『西瓜』を拠点としているようだ。『結晶質』は今年(2023年)に上梓された第一歌集。白を基調とした装幀が瀟洒だ。神野紗希と江戸雪と堂園昌彦が栞文を寄せている。将来を嘱望される若手歌人という布陣である。

 若い歌人の第一歌集を取り上げて論じることには特有の難しさがある。若年故に自分の作風と文体がまだ固まっておらず、発展途上にあることが多いからである。第二歌集で化けることだってある。そのため小池光のように「第二歌集がいちばん大事」と主張する人もいるくらいだ。確かにそれは一理ある。

 本歌集を一読して私がいちばん感じたのは、作者は「言葉」と「感情」という短歌を構成する二つの極の間を揺らいでおり、「言葉」に寄せるかそれとも「感情」に寄せるか、様々な配合を試行しているのではないかということである。その「揺らぎ」がこの歌集に清新な魅力を与えているようにも感じられる。

 本歌集第II部には学生時代に作った歌が収録されている。

冬らしい冬の真昼に泣くときのなみだがぬくい とてもうれしい

感情はきづかず襞になってゆく空を切り込みとんでゆく鳶

かなしみにきっかけあれどわけはない サドルの凍る自転車を押す

 一首目にはあまり短歌的修辞は施されておらず、感情の直接的表現が未だ幼さを感じさせる。この歌は「感情」寄りで「言葉」に体重がかかっていない。二首目、「感情はきづかず襞になってゆく」に小さな発見がある。感情は時間とともに折り畳まれるのだ。下句は一転して空を飛ぶ鳶の叙景になっていて、取り合わせという修辞が用いられている。このため一首目と較べるとやや「言葉」寄りになっている。三首目も同様で、「兆す悲しみにきっかけはあっても理由はない」という思いを述べる上句と、一字空けした下句の叙景が取り合わせとなっている。しかし景は感情の映像的代替物と見なすこともまだ可能だ。

 一方、次のような歌では直接的な「感情」の表現は抑制されて、「言葉」を組み合わせてひとつの世界を描こうとする姿勢が鮮明である。

サッカーの少年たちは円になるスポンジケーキ色のゆうぐれ

ことばまでまだまだ遠いゆうぐれの小庭に忘れられたなわとび

ひとつの冬や夏をすごしたリビングに水のかたちはグラスのかたち

 一首目、市民グラウンドでサッカークラブの少年たちがその日の練習を終えて円陣を組んでいる。傾く夕日はスポンジケーキ色というから、やや黄味を帯びた色だろう。ここには特に〈私〉の「感情」は表現されておらず、「言葉」の作り出す詩情が溢れている。二首目は短歌を素材としたメタ短歌の観を呈しており、上句で「感情」が、下句で「言葉」による叙景が置かれている。「忘れられたなわとび」が喩かどうかは微妙なところだ。三首目、下句の「水のかたちはグラスのかたち」に小さな発見がある。「水は方円の器に従う」のだから、そのときに入れられた器の形が水の形である。この歌も「言葉」の持つ力によってひとつの世界を現出させようとするタイプの歌である。なお一首目には「スポンジケーキ╱色のゆうぐれ」という句跨がりがあり、三首目は初句七音で、どちらにも短歌的修辞が施されていることにも留意しよう。

 安田はこのように、歌一首の中での「感情」(想い)と「言葉」のいろいろな含有割合の間で揺らぎながら歌を作っているように感じられる。だとするとこの方法論はとても古典的な近現代短歌の手法だということがわかる。安田の作風は、現在の若手歌人の中でひとつの流れとなりつつある「口語によるリアリズムの更新」(by 山田航)とはかなり異なる場所にあるのである。

今日は寒かったまったく秋でした メールしようとおもってやめる する

                              永井祐

 永井の歌では短歌の中の〈私〉の「今」がだらだらと続いているようだ。このような時間把握に基づくと、短詩型文学に求められる結像力、つまりある情景を鮮明に描くことはほぼ不可能になってしまう。結像力は視点の固定と、それを可能にする時間の固定を前提としているからである。永井らはもちろんそれは承知の上だろうが。

たましひの夏いくたびか影れてプールの底までの鐡梯子 

                  塚本邦雄『緑色研究』

 最後に特に心に残った歌を挙げておこう。

どうしようもないことだらけ硝子壜煮沸消毒する夜もすがら

蒼穹のこころすべてを否定するちからで逃げる葦毛の馬は

きずついたゆめの墓場へゆくために銀紙で折るぎんのひこうき

橋をゆくときには橋を意識せずあとからそれをおもいだすのみ

祈りとはおおげさだけどはなびらをにぎる右手をひらいてみせて

濡れたってなんにも困らない日々にあえて差す傘 紺色の傘

象の絵がうすいグレーで描いてある灰皿 ここにもいない神様

完璧のかたちさびしく照り映えてアル=ケ=スナンの製塩工場

もう二度と閉じられない瞼のように降ってつもってゆくぼたん雪

 八首目のアル=ケ=スナン (Arc-et-Senans) の製塩工場は、フランスのブザンソン郊外に現存する18世紀の製塩工場で、世界遺産に指定されている。王室建築家のニコラ・ルドゥーの設計による美しい建物である。ルドゥーは円形の理想都市をめざしたが、主に資金不足から半円形に留まったという。完璧な形に淋しさを感じるのもまた詩心というものだろう。

 


 

第356回 久保茂樹『ゆきがかり』

子は腕に時計を画いていつまでもいつまでもそは三時を指せり

久保茂樹『ゆきがかり』 

 先日送られて来た『かばん』6月号をばらばら眺めていたら、ある同人の歌に目が留まった。「夕映えの蝙蝠」と題された一連である。

 

フラゴナールの少女が遊んでゐたやうな花満開のときは過ぎつつ

かさぶたが枯れて剥がれる傷のやうに町工場跡均なされてをり

手の甲の静脈あをくみだらなればわづかに逸れてゆく話題ある

 

 「フラゴナールの少女」とは短歌であまり見ない喩だが、その喚起するイメージは明るくくきやかだ。作者は久保茂樹といい、『ふたり歌集 箱庭の空』青磁社から抜粋と注がある。検索してみると『ゆきがかり』という歌集がありさっそく注文した。久保茂樹と小川ちとせの共著の『ふたり歌集 箱庭の空』は版元品切れのようで、『かばん』編集部を通じて作者に連絡したところ、贈呈をいただいた。短歌の世界はいまだに贈呈文化が生きている。ありがたいことである。さっそく二冊を通読した。

 心を打つ歌集にはときどき出会うし、瞠目すべき歌集もたまにはある。しかし、おもしろい歌集というのは存外少ないものだ。久保の第一歌集『ゆきがかり』(砂子屋書房、2009年)はおもしろい歌集である。プロフィールがないので経歴はわからないが、久保は「塔」に所属する歌人で、同時に『かばん』に参加している。

 さて、「おもしろい歌集」とは何か。正面切って定義せよと言われるとそれはちと難しい。あとがきによれば、巻頭歌の「自転車と妻はいづこへ行きしやら土曜午すぎ晴れのち曇り」という歌を見て永田和宏は「不用意な言葉遣いがあるけれど、ちょっとおもしろい」と評したそうだ。永田はどの点をおもしろいと感じたのだろうか。

 まず歌集の題名を見てみよう。「ゆきがかり」とは、『日本国語大辞典』によれば、「行きかかるついで、行く途中」、「行ってその場にさしかかること」、「物事がすでに進行していること、また、進行している物事に関係してすでにやめられない状態であること」を意味する。本歌集の題名はこのうち三つ目の意味に該当すると思われる。一見するとこの題名は集中の、「ゆきがかりなればそのまま往き過ぎるしばし泣く声の耳にのこるも」という歌の初句から採られているように見える。その前には「をさな子とその母らしきが揉めてをり立ち止まるなく過ぎゆきにけり」という歌が置かれていて状況がわかる。母親と幼い子供が何かで揉めている場面にたまたま行き会わせたのだ。しかし歌集題名の『ゆきがかり』はこの歌のみならず、歌集全体に漂う作者の人生観を象徴するものとなっている。それは「この世のことはなべてゆきがかり」という達観である。それは次のような歌に感じられる。 

悶えつつ足をちぢめてゆく烏賊を屋台に我はひとりみてをり

「ひどい」から「ひとでなし」までゆつくりと天動説の空は夕映え

 一首目では夜店の屋台の鉄板の上で丸ごとの烏賊が焼かれている。烏賊は鉄板の熱で悶えるように身をよじる。その様子が見ている〈私〉の喩かというと、そうとも感じられない。烏賊が鉄板の上で焼かれるは烏賊の事情であり、それもゆきがかりなのだ。二首目はたぶん女性に罵られているのだろう。最初は「ひどい」から始まって、やがて「ひとでなし」へとエスカレートしてゆく。その様子はまるで天球がひと晩かけて東から西へとゆっくり移動するかのようだ。どちらの歌にも何かを嘆いたり憤慨したりする様子はなく、「そういうものだ」と受け入れる姿勢が感じられる。本歌集の解説を書いた笠原芳光は、この歌集には独自の思想性、新鮮度、ユーモアがあると評している。確かにそのとおりだ。しかしその思想性は、ヘーゲル哲学のように体系的に構築されたものではなく、体感によって会得した町場の哲学である。

 「この世のことはなべてゆきがかり」という姿勢からは、「24時間戦えますか」というような頑張りや目標に向かって邁進する努力は生じにくい。作者の姿勢はその対極にあり、いい感じの脱力とユーモアはその重要な成分である。 

うらやまし畳のあとがついてますと宅配の人わが頬を指す

清原が三振したるときのまも売り子は声を変えることなし

いまだ日のあたりゐるらし出来たてのエビシウマイのやうな浮き雲

ディテールにこだはる国のゆふぐればあと五分ですと風呂がいふなり

円居といふ死語に句点を打つ如し電子レンジのその終止音

前かごのティッシュ五箱を盾として警告色のスパッツが来る 

 一首目では宅配の配達員に今まで昼寝をしていたことを見抜かれている。二首目は球場での野球の試合風景。ビールの売り子には清原がホームランを打とうが三振しようが自分の商売には無関係だ。空の雲を眺めても頭に浮かぶのは詩的な感興ではなく、まるで蝦焼売のようだという俗な連想である。四首目以下には軽い文明批評も感じられる。最近は風呂や冷蔵庫がしゃべるのだが、はたして湯が満ちるまで「あと五分です」というアナウンスは必要か。電子レンジで冷凍食品をチンするようになり、家庭の円居は消滅した。ちなみに現在では電子レンジの終了音は「ピー、ビー」という電子音で、もはや「チン」とは言わない。六首目は作者の住む東大阪のおばちゃんの姿である。どの歌にもユーモアが含まれていて、読むとついニヤッとしたくなる。

 そのような姿勢は身の回りの人たちを詠んだ歌にも感じられる。何と言ってもおもしろいのは妻を詠んだ歌だろう。 

ラーメンをただに鍋からたべをれば扉に倚りて妻ゐたりけり

浴室を古き歯ブラシに研ぎをる妻よ細部にこだはる勿れ

メモの字の踊らむばかりのありさまのかほども妻を縛つてゐたか

わたくしのことは今日からぜつたいに歌にしないで 今朝言はれたり

きみが逝くと困るたとへば銀行の暗証番号は誰に聞くんだ

 三首目は友人と出かけるという妻のメモが残っていたという歌。中年に差し掛かった男にとって妻は最大の鬼門である。心当たりある人は多かろう。「私のことは歌にしないで」ときつく言われても、三首目のように歌にしてしまうのが歌人の業というものだ。

 本歌集には近代短歌の王道の写実に徹した歌も少なくない。 

パンの耳なくなり鳩ら飛びゆくに片足のなき一羽残れり

おほ鬼の臍の緒のごとひからびてひね大根が捨てられてをり

烏賊を洗ふやうに子どもの手をあらふ軟骨のゆび透きとほるまで

車道側の枝はきびしく払はれて街路樹はみなうしろむきなり

ささぶねの杭に堰かれてゆつくりと艫を捩らせ流れゆきたり

 どの歌にもふだん注目されることなく話題にされることもない、弱いもの、幼いもの、小さなものへ深い愛情が感じられて心を打たれる。「この世のことはなべてゆきがかり」であるからこそ、見過ごされがちなものもまた私に関わりのあることなのだろう。

 『ふたり歌集 箱庭の空』からも何首か引いておこう。

 

エアコンが壊れてゐたりエアコンは春をしづかに壊れてゐたり

湯舟より出てゆくひとのあかあかとそびらに水の文字流れたり

老人の見送りたるは誰ならむ喪服の裾に躾糸みゆ

助手席に雨の匂ひときみが乗りたちまちこゆくなるひだり側

みどり色は好きな色だよきみの手の用紙はうすく透けてゐたりき

 

 五首目の緑色の用紙はもちろん離婚届である。塚本邦雄の歌に登場するのはうすみどりの頼信紙だが、久保の手にかかるとこのように変身する。この目線の低さが久保の持ち味だろう。『ふたり歌集 箱庭の空』の小川ちとせの歌には触れる余裕がなかった。またの機会を待ちたい。

 

第355回 鯨井可菜子『アップライト』

鋤跡のわずかに残る冬の田をパンタグラフの影わたりゆく

鯨井可菜子『アップライト』

 電車が郊外の田園地帯を走っている。車窓から見える田畑に作物の緑はなく、地面には鋤の痕跡が平行に走っているという冬枯れの景色である。その鋤跡の残る土の上に電車のパンタグラフの影が射している。その影は地面の凸凹のせいで少し折れ曲がっているだろう。歌全体を包む季節感と移動の感覚がパンタグラフの影によって表現されている。詠まれているのはつまるところ時間の流れであり、その時間を生きる〈私〉もその背後に淡く揺曳している。

 もし上句を「鋤跡のはつか残れる冬の田を」とすれば文語(古語)の歌になり、いかにも和歌風の結句「わたりゆく」との相性がずっとよくなる。しかし作者の鯨井は基本的に口語(現代文章語)で歌を詠む歌人なので、もしそのように書き換えると個性がなくなってしまうだろう。

 穂村弘は『短歌ヴァーサス』2号(2003年)に書いた「80年代の歌」第2回で、紀野恵の「晩冬の東海道は薄明りして海に添ひをらむ かへらな」や、大塚寅彦の「をさなさははたかりそめの老いに似て春雪かづきゐたるわが髪」などの歌を挙げ、「このような高度な文体を自在に使いこなす若者は彼らを最後に絶滅した」と断じた。そして理由はわからないが、「80年代の終焉とともに若者たちは非日常的な言語にリアルな想いを載せるということが出来なくなったようだ」と続けている。その結果として、「それ以降の若者の歌はいわば想いと等身大の文体の模索に向かってゆくことになる」と指摘している。今から20年前に書かれた文章だが、穂村の指摘はまるで予言のようだ。手本とすべき先達を失った若者たちは今も自分の文体を模索しているというのが現状だろう。ちなみに大塚寅彦は1961年生まれで、紀野恵は1965年生まれである。このあたりがどうやら文語(古語)を駆使して作歌する歌人の下限らしい。

 鯨井可菜子は1984年生まれで、すでに第一歌集『タンジブル』(2013年、書肆侃侃房)がある。『アップライト』は昨年(2022年)上梓された第二歌集である。

 80年代に現れたライト・ヴァースとニューウェーヴ短歌がもたらした最大の変化は短歌の口語化(現代文章語化)だろう。もはや過去の助動詞「き」「けり」や完了の助動詞「ぬ」「つ」「たり」「り」とか、助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」の係り結びなどを使いこなす必要はなくなり、作歌のハードルはぐっと下がった。この文体上の変化と軌を一にして、短歌が描く主題の世界もまた多様化した。だが逆接的に聞こえるかもしれないが、主題の多様化によって、短歌が本来めざすものが影絵のようにあぶり出されたという気がしなくもない。鯨井の短歌が好んで描くのは、「自分の時間を懸命に生きる等身大の姿」である。

大戸屋のばくだん丼は早口のごゆっくりどうぞを背に受けながら

編集部にりんごとみかん配られてお地蔵さんのように働く

プレス証ぶら下げたまま大ホールの椅子のひとつにねむる試み

校正紙ひと月かけてめろめろになりゆくまでを働きにけり

会議室にダイオウイカの横たわり残業を減らすための会議よ 

 一首目、大戸屋のばくだん丼とは、鮪の刺身・納豆・オクラ・根昆布・山芋などのねばねば食品がてんこ盛りの丼である。スタミナが欲しい人が注文するものだ。店員は「ごゆっくりどうぞ」とマニュアル通りに客に言うが、昼食時で忙しいので早口になる。その声を背に受けて丼をかき込む。二首目、作者は医療関係の出版社に勤務している。社員の実家からダンボール箱で送られて来たのだろうか、りんごとみかんがみんなに配られる。会社でよくある風景だ。りんごとみかんを机に置くと、まるで道端の地蔵にお供え物をしたようになる。三首目は医学関係の学会に取材しに行ったのだろう。朝早く起きたせいか、研究発表が行われているホールの片隅で居眠りしている。四首目、雑誌の編集部の主な仕事は割り付けと校正だ。私も短歌誌などに原稿を書くと、校正刷がまっ赤になって戻って来ることがある。塚本邦雄の「塚」が異体字であることは知っていたが、「邦」も異体字であることはさる編集者の指摘で知った。校正のプロはかくも恐ろしい。五首目の「ダイオウイカ」は力なく座っている自分のことだろうか、それとも会議室に漂う妖気のようなムードの喩か。いずれにしても残業を減らすための会議が延々と続くのは虚しい。

 ことほど左様に現実というものはやり切れないものである。関西弁なら「やってられへん」とつぶやくところだ。鯨井の作る短歌はこのようなやり切れない現実にぶつかってもがく〈私〉を好んで主題にする。それは現代短歌が口語化(現代文章語化)してハードルが下がり大衆化するのにともなって、新たな感性を呼び込んだためだろう。そのような変化を背景とする鯨井の短歌は、ひと言で言うならば「フツーの私が現実を生き延びるための応援歌」という性格が顕著だ。

 そのようなことがよく感じられるのは、たとえば「担々麺」と題された日付のある歌である。日付は省略する。

スカートのホックゆるめて二十五時担々麺の汁全部飲む

落ちている片手袋を見ておればワゴン車の来て二度踏んでゆく

午後三時 今日は有休なんですと前髪切られながら答える

「本当に出るんですか?」と問われおり予想問題集の読者に

つらければやめたっていいと君は言う春の川辺にわたしはしゃがむ 

 作者はよほど担々麺とインド映画の『バーフバリ』が好きなようだが、それはまあよいとして、歌の描く〈私〉は平日に美容院に髪を切りに行ってやましさを覚えながら、今日は有休なんですと言い訳し、医師の国家試験の問題集の予想問題が本当に出題されるのかと読者から電話で詰問されてぐっと詰まるというような日々を送っている。穂村弘は『はじめての短歌』(河出文庫、2016年)などでしきりに、「生きる」と「生きのびる」はちがうと説き、短歌は「生きる」ためにあるものだとしているが、鯨井の短歌を読むとその手前の「行きのびる」ステージで奮闘しており、短歌はそのステージをクリアするための応援歌のように見えるのである。余談ながら二首目の「道に落ちている片手袋」の愛好者はけっこういて、ネット上にサイトがいくつもある。現代のトマソンのひとつかもしれない。

 本歌集は編年体で構成されているのだが、第5部はちょうど新型コロナウィルス感染が広がった時期の歌を収録している。

トイレットペーパーこんもり送られて母は香りつき叔母は香りなし

パソコンを立ち上げて歯をみがきつつ勤務開始のメールを送る

レッスンの動画が届く 先生のうしろに映る部屋のカーテン

次亜塩素酸水配るお知らせが日焼けて残るスナックのドア

 一首目を読んで「そうだった」と記憶を新たにした。新型コロナウィルスの感染が広がった頃、買い溜め騒ぎが起きて、まるで1970年代のオイルショックのようだと報じられた。地方のスーパーにはまだ製品が残っているので、親戚に頼んで買って送ってもらうのだ。二首目は在宅勤務の一コマ。三首目は小池都知事が放ったStay homeのかけ声でみんな外出を控えるようになり、することがないので自宅でZoomで何かレッスンを受けているのだ。四首目はマスクと並んで一時品薄になった手指の消毒液の配布のお知らせである。

 当時は新聞歌壇でもこのような歌が山のように投稿された。短歌には「時代の記録」という性格があるので、時局や大事件に反応した短歌は常に作られている。しかし時代が刻印された歌は時が経ると理解が難しくなる。20年後の若者に一首目の歌を見せたらまず理解してもらえないだろう。現代歌人協会は『2020年 コロナ禍歌集』(2021年)、『続コロナ禍歌集 2011年〜2022年』(2022年)を相次いで刊行している。このようなアンソロジーは時代の記録として貴重である。巻末に添えられた大井学の手によるコロナ禍をめぐる出来事の年表は記録として価値が高く、私たちがいかにすばやく物事を忘れるかを思い知らせてくれる。

 鯨井は名歌をめざしているわけではないので、集中で特によいと思った歌を選び出すことには意味がない。そのかわりにいちばん鯨井らしいと感じた歌を一首引いておこう。

玄界灘の波濤めがけて走り出すともだちのいま生きている背中

 ここには「むきだしの〈今〉」と、その〈今〉を生きている〈私〉がある。現代の若い人たちの作る短歌の動向のひとつは、このような「むきだしの〈今〉」をコトバで定着することにあるようだ。