声聞く七月某日真昼
村上きわみ『fish』
掲載歌の村上きわみもその一人で、1961年生まれ北海道在住、北限短歌会とラエティティアに所属している歌人。『短歌ヴァーサス』には、「かみさまの数え方」30首を寄稿している。印象に残った歌を拾ってみよう。
夜の斧しんから冷えてもう誰も神様のことを言わなくなった
足首を沼地にしずめ待っているいっせいに歌い出す鳥たちを
光らせておきましょう 皿におそろしい色の豆料理が盛られても
みずうみにゆきましょう次の日曜日 紺色のスパイ手帳を捨てに
さかなから歌を教わるはずだった 「ください」と喉ひらけば水泡
俵万智の『サラダ記念日』以後、いっせいに短歌を作り出した若い女性の例に漏れず、短歌の定型をおおむね守りつつ、口語とひらがなを多用して、まるで独り言あるいは日記のように書かれる短歌とひとくくりにすることができるかも知れない。しかし、私はそれとは微妙にずれる印象を持った。「夜の斧」「紺色のスパイ手帳」や、ここにはあげなかった歌にある「踵からねむる人」「理髪師の縦縞のシャツ」「えいえんの三角帽子」といった表現に、もう少し短歌的に練られた技巧を感じるからである。そこで歌集『fish』(ヒヨコ舎)を取り寄せて読んでみた。
『短歌研究』創刊800号記念臨時増刊号「うたう」(2000年12月)で、作品賞の選評をしている穂村弘が、「棒立ちのポエジー」と「一周まわった修辞のリアリティー」というおもしろい概念を提案している。穂村は加藤千恵の「あの人が弾いたピアノを一度だけ聴かせてもらったことがあります」という歌が、よい歌なのかそうでないのか決められなくて困ったという。穂村が「棒立ちのポエジー」と呼ぶ種類の短歌を作る人は、「天然でこれしか書けない人」のことである。つまり「素」の人であって、和歌・短歌の膨大な伝統とは完全に切れており、短歌的技巧とは無縁な人である。その人の作る歌がおもしろいとすれば、それは技巧や作為によるものではなく、その人自身がおもしろい人だからである。一方、「一03わった修辞のリアリティー」とは、「定型をよく知っているんだけど、意識してもう一度、平凡なものの鮮度を回復しようとしている」人の歌の作り方をいう。こっちはわざと周回遅れのランナーのふりをしているので、一見したところ「棒立ちのポエジー」と区別がつきにくいのである。村上きわみの「銀紙を裂いてあげます やさしくて狂いそうです 野蛮なんです」などという歌を見ると、ひょっとしてこれは穂村の言う「棒立ちのポエジー」かと思うのだが、実はそうではなく、「一周まわった修辞のリアリティー」の方である。なぜなら、村上の歌集『fish』を読むと、実に短歌的な次のような歌があるからである。
しかれども飲食(おんじき)清(すが)し魚汁は頭蓋、目の玉、腸(わた)もろともに
はかなきは水棲のもの一対の朱(あけ)の扇を呼吸器とせり
小笠原義肢装具店しんとして米町袋小路夕刻
ほろほろと肝臓(レバー)食みつつふと思う扱いにくき人の二、三を
明け方の夢なお著(しる)く色彩をとどめて犬の舌まがまがし
少年が横抱きにして届けくる黄の水仙ふとなまなまし
「しかれども」「もろともに」「まがまがし」「著(しる)く」などの文語が的確に使われており、塚本邦雄の「山川呉服店」を思わせる「小笠原義肢装具店」という固有名を効果的に用いている。また句跨りの破調は立派に前衛短歌のものになっている。これは短歌の修辞を知っている人の歌である。
これらの歌に共通する感覚は、「世界の開示が見せる非日常の異物感」の発見ということができるだろう。それは次の歌に象徴的に歌われている。
出刃たてて鰍(かじか)ひらけば混沌はいまだ両手にあふれるばかり
出刃包丁で魚の腹を割いたとき、両手にあふれる臓物を混沌と表現するのは、それが生きているときに外から見た魚の美しさと調和からは想像もできないものだからである。同じことは、魚の鰓を赤い扇のようだと感じるとき、また垂れ下がった犬の舌に不気味さを感じるときにも言える。また夕暮れ時に袋小路に迷い込んで、小笠原義肢装具店の看板を見つけたときの感覚も、同じく見慣れたはずの世界が一瞬変貌する感覚である。ここにあるのは、定型に基づきながら「世界の開示が見せる非日常の異物感」を詠む、短歌の王道を行くような短歌世界である。
しかし、村上の歌集には、このような短歌とならんで次のような歌も溢れている。こちらは現代のライトヴァースの典型とも言える、誰だかわからないが確かに誰かに向けられた女子高生のつぶやきのような歌だ。
西陽さすあたりに下肢を投げ出してvaginaゆっくりあたためてやる
懐かしいような泣きたくなるような空だつないだ指をほどけば
「どれくらいキライかというとずぶずぶになるまで熟したアボカドくらい」
作者のホームページを見ると、最近作った短歌がアップされているが、だいたい同じような傾向の歌である。
点をいくつも打ってここからはわかりやすいお別れのはじまり
よく通る声をしていた靴紐をきれいにむすぶ指先だった
至急至急と打電しました(死んでゆく螢のように)スグ来ラレタシ
するときはむごい心であたらしい星のうまれる音聴きながら
これを見ると、村上はかつての文語定型による王道的短歌を意図的に捨てたようだ。しかし、だからといって最近の歌が、穂村の言う「一周まわった修辞のリアリティー」と呼べるほど成功しているかというと、これはなかなかむずかしい。私は「しかれども」の一連のような村上の短歌を、また読んでみたいと思ってしまうのである。
村上きわみのホームページ