017:2003年9月 第2週 高橋睦郎
または、わが血中を流れる罪深きフォワグラの苦き脂肪

やがてわれ解けては水に還らむと
   思ふまどろみは水の如かれ

        高橋睦郎

 高橋睦郎は現代日本を代表する詩人である。しかし、彼は中学生の頃から俳句と短歌を作る、九州在住の投稿少年だった。このあたり、津軽の地で俳句と短歌に明け暮れる高校生だった寺山修司と似ていなくもない。小林恭二は『俳句という遊び』(岩波新書)のなかで、現代詩の生みの親となった詩人たちには、年少の頃、句作か作歌の洗礼を受けているという共通点があると指摘している。それが、現代詩の特徴である吃音的性格を決定したのではないかという見方にはギクッとするものがある。

 その指摘の当否はさておき、高橋睦郎にはいくつかの句集と歌集があるのだが、そのほとんどが贈呈用の僅少部数私家版なので、なかなか入手することができない。しかし、句歌集『稽古飲食』が昭和62年に第39回読売文学賞を受賞したのをきっかけに、不識書院から普及版が出版され、多くの人の目に触れるようになった。掲載歌も同じ句歌集からである。前半は句集、後半は歌集という凝った構成の句歌集であるが、前半の俳句と後半の短歌の醸し出す世界がまったくちがうのがおもしろい。

 前半の「稽古」に収録された俳句が描くのは次のような世界である。

花のなき床には飾れ炭二三

双六を
 振りふりて上がれば京や雪ならん

ふるさとは盥に沈着(しづ)く夏のもの

ななくさや落ちて暗渠の水のこゑ

西脇順三郎逝く
 茗荷の根濡らしてすゑは忘れ川

捨靴にいとどを飼ふも夢の夢

 別の句集からも好きな歌を引いておく。

遅き日のまぼろしなりし水ぐるま 『旧句帖』

みちおしへいくたび逢はば旅はてん 『荒童抄』

 調べはあくまで美しくたおやかで、高雅かつ典雅風流の世界である。小林恭二が『俳句という遊び』のなかで、高橋の俳句世界を次のように読み解いている。曰く、「高橋が俳句を作るとき、そこには外的世界に求められるモチーフというものはなく、言葉がすべてである。上質の言葉を発見しそれを研磨しおえた時点で作品は完成する」と。なかなかに鋭い指摘である。こうして作り上げられた俳句の世界は、言葉だけで作り上げられた夢のように美しいものとなる。

 しかし、句歌集『稽古飲食』の後半「飲食」(おんじき) になると、その世界は一転し血と殺戮の支配する荒々しいものである。それは、テーマが生き物を殺して体内に摂取するのに他ならない、人の日常の「飲食」だからである。

うちつけに割つてさばしる血のすぢを鳥占とせむ春立つ卵

不死を病み永久(とは)癒ゆる無き汝に獻(まつ)る須臾にし腐(くた)る飯(いひ)と酒(くし)とを

腐(くた)りつつ馨る玉葱少年の指(おゆび)觸れなばおよびしろがね

死に到る食卓遙(はろ)か續きゐていくつかは椅子二脚をそなふ

にがだま胆嚢ひとつ肉の闇深く蔵せば歡語は盡きず

 どうやら高橋が捉えた飲食のテーマとは、竹林で賢人が飲みかつ食らいつつ歓談する類のさわやかな一夜ではなく、体内の闇に肉を取り込む人間の業のごとき営為であるようだ。そこには次のような作者の孤独もまた反映している。

いろくづの腸(わた)の醢(ひしほ)を古猫とあるじのわれと一皿に食ふ

飲食を置きて向き合ふ一人だにあらざれば言ふこは家ならず

 短距離走者と長距離走者とでは、走るときに用いる筋肉の質が異なるという。それと同じように、俳句と短歌とでは、同じ短詩形式であっても、言葉を繰り出すときに使う「筋肉」がちがうのだろう。17文字の俳句に比べ、31文字の短歌は文字数が多いぶんだけ、「外的世界に求められるモチーフ」が入り込みやすくなる。このちがいが、「稽古」と「飲食」の世界の質の差となっているのではないだろうか。俳句とちがって、高橋の短歌は、「美しい言葉を発見してそれを磨き上げる」だけでは構成されない過剰を内蔵しているようだ。

016:2003年9月 第1週 村木道彦
または、せいしゅんに立ちふさがるマシュマロと緋の椅子

ふかづめの手をポケットにづんといれ
   みづのしたたるやうなゆふぐれ

        村木道彦

 村木道彦は1965年に、『ジュルナール律』掲載の「緋の椅子」連作10首で歌壇に衝撃的なデビューを果たした。『ジュルナール律』というのは、中井英夫が編集責任の「A5版8頁という薄っぺらい」頒値50円の短歌雑誌で、7号まで出版されて消えたのだが、短歌ファンのあいだでは伝説的に語られている歌誌である。資金を提供したスポンサーは、京都にある精華大学の学長も務めた文化人類学者深作光貞である。

 意外に思われるかも知れないが、京都は短歌とゆかりの深い土地だ。その理由のひとつとして、京都大学教養部(当時 現在の京都大学総合人間学部)のドイツ語教員であった高安国世の主宰する歌誌『塔』が、数多くの俊英を輩出したということがあげられる。『塔』は現在では、やはり京大教授の永田和宏が主宰しており、指折りの有力な短歌結社である。ちなみに、永田の夫人は河野裕子で、その子は歌壇賞・現代歌人協会賞を受賞した永田紅である。血は争えない。また高安の影響下で京大短歌会が結成され、ここからも吉川宏志ら多くの歌人が出たことも特筆に値する。

 もうひとつの理由は、他ならぬ深作光貞の存在である。自身歌人である深作は、実作よりも現代短歌の陰のフィクサーとして活躍し、いわゆる前衛短歌の発展に大きな貢献をした。岡井隆が精華大学教授に迎えられたのも、深作の推挽を抜きにしては考えられない。また現在東大教授である社会学者上野千鶴子も短歌を作る人だが、東大に移る前は精華大学に勤務しており、上野が作歌を始めたのも深作の直接の影響によるものだろう。その深作の最大の貢献とされるのが、自腹を切っての『ジュルナール律』の創刊と、その編集を黒鳥館主人・中井英夫に一任したことである。

 さて、村木の「緋の椅子」連作10首であるが、これほどに人口に膾炙し、あちこちで引用される短歌も珍しい。なかでも「緋色の椅子」の一首は、村木の代表歌とされている。

 するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら

 めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子

 水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうたえるただ麦畑

 黄のはなのさきていたるを せいねんのゆからあがりしあとの夕闇

 唯一の歌集『天唇』収録の他の連作からも引用しよう。

 黄昏 (こうこん)のひかりみちたり 時計店 無数に時はきざまれながら

 せいしゅんはあらしのごときなみだとも いわんかたなく夏きたりけり

 ものぐさに砂踏みゆけば馬が居る うまのにおいのごときゆうぐれ

 ややよごれているガラスごしみはるかす金のむぎばた 銀の憂愁

 あくまでもマシュマロのように軽い口語の使用、柔らかな印象を生み出すひらがなの多用、「するだろう」に見られるような斬新な区切れ、また歌全体に充満する若さに伴う倦怠感と憂愁、村木の歌のこれらの特徴は、その後現代短歌に燎原の火のように拡がることになるライト・ヴァースの元祖というのが定説となっている。その調べのなめらかさと愛唱性は際立っている。

 サラダ短歌の俵万智は、「村木道彦の作品に出会ったとき私は、もうすっかり「ハマってしまった」という状態だった」(『短歌をよむ』岩波新書)と述懐しているが、俵に限らず多くの人が村木の調べに「ハマって」しまう。麻薬のような魅力があるのだ。短歌がまだ古典文芸であった当時、これほどまでに若い人を惹き付ける要素を散りばめた短歌が世に出たことは奇跡に近い。

 村木を世に送り出した中井英夫が、その当時のことを回想した文章がある(「遠い潮騒-「ジュルナール律」のこと」現代歌人文庫『村木道彦歌集』)。それによると、次の号に新人作品を特集することになり、麻布にあった深作のマンションに、村木を含む5人の新人を集め、あらかじめ寄せられていた作品の手直しを頼んだという。作者に改作を命じたり、自分で短歌の並びを変えたりする中井にとっては当然の作業であった。ところが5人のうち、村木の寄せた「緋の椅子」連作10首だけが完璧な仕上がりで、手直しの余地はなく、他の4人が作り直しを命じられて呻吟するあいだ、村木ひとりはすることがなく部屋の中をうろうろしていたという。このとき村木は若干22歳で、慶応大学に通う学生であった。だから、「緋の椅子」連作10首は最初から、今あるままの形で存在していたのである。中井は「深作の情熱に導かれて突如として現われた美しい亡霊」と書いているが、無理もないことである。

 村木の歌が伝説的に語られるのは、このように世に出た経緯にのみよるものではない。村木はその後作歌をやめ、いわゆる「歌のわかれ」をしてしまったので、なおいっそう「緋の椅子」が白鳥の歌のように聞こえるのだろう。村木が短歌をやめた理由については、自分で語っているインタピューがある。

「それから後がいけませんね。野心も入る、気負いもある、無駄なファイトもある。それから駄目になります。不思議ですね。(…)歌というものがほとほとつまらなくなってやめたんです」(『短歌往来』第3号)
華々しくデビューしたスターが陥るスランプである。村木を世に送り出した中井自身が、次のような手厳しい批評をしている。

「4月号に「おうむ」6首、6月号に「風たつや」8首と引き続いて発表したもらったものの、「緋の椅子」の輝きはすでになく(…) 輝かしい香気は「緋の椅子」を限りに四散した」(「遠い潮騒 -「ジュルナール律」のこと」現代歌人文庫『村木道彦歌集』)
中井が村木に言ったという、「君はショート・ランナーだ」という言葉が、すでに村木の未来を予見していたのかも知れない。

 長い沈黙ののち、村木は1989年にふたたび作歌を再開している。再び歌に戻ってきた村木が作るのは次のような歌である。

 壮年に春は深しも翔けのぼる雲雀を蒼天の冥きに吸われ

 傷口をこころにもてばガラス戸の雨滴は花のごとくひろがる

 晩年へなべては迅し雨脚も傘もひとらも傾きてゆく

 生くるとは疲労に重ぬる疲労なり「広告求む」という広告塔

 村木のデビュー作「緋の椅子」は、「絶対に、永遠に、二十歳の歌」(正津勉)であった。しかし、人はいつまでも二十歳でいられるわけではない。静岡で高校教員としての人生を送りながら、作歌を再開した村木の短歌に、坂道をころがり落ちるように歳を重ねる人間の苦みばかりが目立つのも、また無理からぬことである。

塔のホームページ
京大短歌会のホームページ

015:2003年8月 第3週 夏の歌

 もう立秋を過ぎたので、暦の上では秋だから、歌人も秋の装いを整えなくてはならないのだろうが、それは暦の上だけのことである。京都では8月16日の大文字の送り火が終わると、夏がこれで終わったと言い合う習わしだが、まだ日中は35度を越える暑さである。というわけで、今回は夏の歌を取り上げてみることにする。

 通り雨たちまちすぎてあさがほ
     紺のほとりに髪洗ひおり
             辺見じゅん

 これは盛夏ではなく初夏の歌だろう。歌全体に漲る爽やかさは、けだるい午後の盛夏ではなく、爽快な朝を持つ初夏の印象が強い。朝顔の紺色が洗っている髪に移るかのごとくである。
 東京の下町には路地に朝顔が多い。京都では絶えて見られない習慣である。朝顔は突然変異が起きやすく、さまざまな色と形を楽しむに好適なのだという。外来種のヘブンリー・ブルーは、まるで造花のようにまっ青な花を一日中咲かせており、しかも9月末ころまで花が見られる。歌に詠まれた花にまつわる季節感も、今昔の感がある。

 ひろしまと書けばすなわちその文字燃ゆ
            野田 誠

 もともと8月の盂蘭盆は祖先の霊を迎える行事であり、夏は死者の記憶と結びついている。山口県の三隅町という町に住んでいた私の祖父が亡くなったのは、ちょうど盂蘭盆の時期であった。通夜の途中に表に出ると、道から川に向かって点々と松明が灯っており、祖霊を迎える火に見送られて祖父の霊が始源に帰って行くのかと思った。8月は原爆と終戦記念日の月であり、夏は死者を思う季節なのである。掲載句は一度読むと忘れることができない句。書くだけでその文字がめらめらと燃え上がるほど、その記憶は鮮烈である。

 にくしみよかなしみよいまゆうやみを
   しろき夏衣(なつい)のかぜのはらみよ
             村木道彦

 5・7・5・7・7の定型を守っているのだが、どうしても破調の歌に見えてしまう不思議な歌である。「にくしみ」「かなしみ」「ゆうやみ」「かぜのはらみ」と、「み」の音でたたみかけるようなリズムを作っている。内容もよくわからない不思議な歌だが、白い夏服が風をはらんでいるというのは、美しい光景である。この場合、どうしても女性の白いワンピースでなくてはならない。ウエストには薄いブルーのベルトがいいだろう。ああ、しかし夏服という言葉も死語になってしまった。街を行く若者は、おしなべてストリート・ファッションで、カーゴパンツにTシャツか、タンクトップかカミソールである。白いワンピースに麦藁帽子という服装は、もう回想のなかにしか存在しない。タンクトップやカミソールでは、風ははらまないのだ。

 あれは火だと忘れるほどに冷酷に
     みどりが散ってゆきたる花火
              井辻朱美

 夏の花火を詠んだ歌は多い。花火はたいていの場合、華やかさとはかなさの両面をもつものとして把握される。試みに『岩波現代短歌辞典』の「花火」の項を引くと、次のような歌が載っている。

 音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪われている 中城ふみ子

 ゆがみたる花火たちまち拭ふとも無傷の空となることはなし 斎藤 史

 くらぐらと赤大輪の花火散り忘れむことを強く忘れよ 小池 光

乳ガンで若くして死んだ中城の歌には、華やかなるべき花火から疎外された自身の生がある。斎藤の歌は、花火を空につけられた傷と見る特異な感覚がある。斎藤の歩んだ人生の無縁ではなかろう。小池の歌は、一瞬の花火と長の記憶とを、二重の否定で結びつけているところに、力強さが感じられる。

 落葉を重ねるようにシャツ脱げば
      雨の残香部屋中に満ちる
              天道なお

 作者は『短歌研究』800号記念企画「うたう作品賞」に入選した若い歌人。タイに旅行したときの連作のなかの一首である。この入選で注目され、天野慶、脇川飛鳥とともに、携帯短歌「テノヒラタンカ」に参加している。いわゆる「マスノ一派」の歌人である。ホームページは http://tenblo.seesaa.net/
 熱帯地方の夏の午後に来るスコールの雨だろう。その雨に濡れたシャツから、雨の匂いがする。こういう感覚的な短歌に私は弱いのである。「濡れた髪拭わぬままに横たわる夜半の憂いは水の香帯びて」もよい。

 暑ければ夕方ちらと思ふのみ
    用あらば文たまへ青(ブルウ)の
             紀野 恵

 徳島の姫・紀野には夏の名歌が多い。けだるい夏の午後には、好きな男のことを考えるのさえおっくうである。少し涼しくなった夕方に、ちらっと考えるだけである。用があれば手紙をくれという、実に高飛車な女性の態度だが、これが紀野の基本的なトーンである。「青」に「ブルウ」とルビを振るのだが、これは英語のblueでなく、フランス語のbleuでなくてはなるまい。

 紀野には夏の歌が多いので、もう一首。

 夏の水玻璃にあふれてあふことの
       希れなる人に蜜を手渡す
             紀野 恵

 玻璃に溢れる冷水を思い浮かべるだけで消夏になろう。玻璃の器は江戸切り子か、はたまたラリックのアール・ヌーポーの器か。そこに満たす水は、どうしても北山の奥、龍神の住まう貴船の水源の水でなくてはならぬ。

014:2003年8月 第2週 高野公彦
または、夜の中へと身を浸す裸形の生命者

白き霧ながるる夜の草の園に
    自転車はほそきつばさ濡れたり

           高野公彦『汽水の光』
 1941年生まれの高野の短歌は、同世代の他の歌人の歌とともに、「微視的観念の小世界」(篠弘)と批判されたことがある。「小さい私的な思念をよりどころにして」、美しいが小さくまとまりがちであり、「時代にたいする歴史的感覚を喪失しがちだ」という趣旨の批判である。篠はもちろんリアリズム短歌の視座から、批判の意味をこめて「微視的観念の小世界」と形容したのであるが、私にはこれはむしろ褒め言葉のように聞こえる。処女歌集『汽水の光』の跋文で、大岡信が「意識の夜の中へ身を浸して」おり、「内面へのかがみこみが著しい」と表現したその短歌の資質は、すでにこの時点で十全に発揮されていると言えるだろう。若い時に近親者の死を多く経験し、般若心経に親しんだという高野にとって、「すべての人間は死といふものに向かつて時間の座標の上をゆつくりと (しかし確実に) 移動してゐる裸形の生命者」(『地球時計の瞑想』) にすぎないとする認識が、歌の随所に通奏低音のように響いている。

 少年のわが身熱をかなしむにあんずの花は夜も咲(ひら)きおり

 精霊ばつた草にのぼりて乾きたる乾坤を白き日がわたりおり

 あきかぜの中のきりんを見て立てばああ我といふ暗きかたまり

 小池光は、高野の歌のエッセンスは「見立て」にあり、歌の中に俳句が一句潜んでいるというおもしろい解釈を出している(『街角の事物たち』五柳書院)。確かに掲載歌では、公園に忘れられた自転車が、翼を閉じてうずくまる鳥に見立てられている。鳥は翼を閉じて休息しているようにも見え、また濡れた翼はもう二度と羽ばたかないようにも感じられる。

 高野の見立ての極みは、次の代表歌に見られる。

 ふかぶかとあげひばり容れ淡青(たんじょう)の空は暗きまで光の器

 ここでは、ひばりが舞い上がる空が上下反転されて、ひばりを入れる容器に見立てられている。それを「光の器」と呼んだところがこの上なく美しいのはもちろんだが、空を上下反転するダイナミックな空間構成もまた見事と言えよう。このような空間構成の力業は、「精霊ばつた」では、草にとまった小さなバッタとゆっくり移動する日輪という、異常に拡大された遠近法的対比として現われている。まるで望遠カメラを使ったようなこの遠近感覚は、次の歌に顕著である。まるで宇宙空間に浮かぶ地球を人工衛星から眺めているような感覚がある。

 みどりごは泣きつつ目ざむひえびえと北半球にあさがほひらき

 次の歌は本来の意味の見立てではないが、見えないはずのものを見る感覚が新鮮である。

 夜の暗渠みづおと涼しむらさきのあやめの記憶ある水の行く

 あやめを活けた花瓶の水か、あやめの花が咲く水辺を通って来た水か、とにかく水にあやめの記憶が残るという見方は新しく清冽である。ちなみに、「水の歌」のところで触れたが、ここにも「みづ」「水」と、かなと漢字で二度同じ語が反復されている。短歌を読むと歌から歌への連想が湧くのだが、これまたついでに書いておくと、暗渠と花の取り合わせは、どうしても塚本邦雄の次の歌を連想させずにはおかない。

 暗渠の渦に花揉まれをり識らざればつねに冷えびえと鮮(あたら)しモスクワ

013:2003年7月 第4週 穂村 弘
または、真夜中に菓子パンをほおばる爆弾犯

夏空の飛び込み台に立つひとの
    膝には永遠のカサブタありき

             穂村 弘
 穂村が初めて短歌と出逢ったのは、札幌の旭屋書店で偶然に手にとった『國文學』によってだという。その中に塚本邦雄の次の歌があった。「輸出用蘭花の束を空港へ空港へ乞食夫妻がはこび」穂村はこの歌に脳を直撃されるような衝撃を受けたという(『短歌』角川書店、2002年10月号)。当時、漠然と「言葉の呪的機能」について夢想を巡らしていた穂村は、言葉がその呪的機能によって世界を変えてしまうということが現実に存在することを知った。この原体験から穂村の短歌観は発している。評論集『短歌という爆弾』(小学館)の冒頭にある「絶望的に重くて堅い世界の扉をひらく鍵、あるいは呪文、いっそのこと扉ごと吹っ飛ばしてしまうような爆弾」としての短歌という発想は、この原体験の直接の申し子なのである。

 爆弾犯は下宿の四畳半に閉じこもり、なるべく隣人と顔を合わせないようにして、孤独に夜ごと爆弾製造にいそしむ。彼が通うのは近所のコンビニであり、そこで買うのは甘い菓子パンばかりである。エッセー集『世界音痴』(小学館)を読むと、このような爆弾犯のイメージと穂村の実生活は、あまりかけ離れてはいない、いやむしろピッタリすることがわかっておもしろい。勤め帰りにスーパーに寄って、割引シールの貼られたトロの刺身のパックを手にとり、「俺の人生はこれで全部なのか?」と叫ぶくだりは、涙なしには読むことができない。

 塚本邦雄の短歌に衝撃を受けて作歌を始めた穂村が作るのは、しかし次のような歌なのである。

 サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

 ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は

 「酔ってるの? あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

 ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり

 最近の穂村は次のような歌まで作るようになった。『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(この歌集のタイトルからして相当なものだとおわかりだろう)から引用する。

 目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ ほんかくてき

 天才的手書き表札貼りつけてニンニク餃子を攻める夏の夜

 整形前夜ノーマ・ジーンが泣きながら兎の尻に挿すアスピリン

 巻き上げよ、この素晴らしきスパゲティ(キャバクラ嬢の休日風)を

 舌出したまま直滑降でゆくあれは不二家の冬のペコちゃん

 かくして山田富士郎のように、穂村を「短歌界のM君」と呼ぶ人まで現われるようになった(『現代短歌100人20首』邑書林に所収の「「歌壇」の変容について」)。M君とは、1988年から89年にかけて、猟奇的な幼児殺人事件を引き起こした宮崎勤のことである。山田が言いたいのは、幼児的全能感を肥大させたまま大人になり、社会化されなかった自我形成において、M君と穂村には共通する点があるということだろう。ずいぶんな言われようである。

 もっとすごいのもある。石田比呂志は、自分の作歌生活40年が穂村の歌集の出現によって抹殺されるかも知れぬという恐怖感を語り、「本当にそういうことになったとしたら、私はまっ先に東京は青山の茂吉墓前に駆けつけ、腹かっさばいて殉死するしかあるまい」と述べている(現代短歌『雁』21号)。今どき「腹かっさばいて殉死」とはすごい。つまりは石田は穂村の短歌を、「頭から」「完全に」否定しているのである。

 おもしろいのはこのエピソードを紹介しているのが穂村自身だという点だ。「一読してショックで頭の中が白くなった」とは書かれているものの(『現代短歌最前線 下』北溟社)、石田比呂志の激烈な批判に、穂村は反論しようとしない。むしろ自分の歌のなかに、いやおうなくはだかの自分が現われているということを、ややあきらめを込めて認めている。穂村のなかで何かが壊れていると感じるのは、このようなときである。

 とはいえ、『短歌はプロに聞け』(本の雑誌社)で、沢田康彦主宰のFAX短歌会「猫又」に投稿される素人短歌を添削する穂村の批評は冴えている。また、言葉がピシリと決まったときの穂村の短歌には、確かに本人が爆弾と呼ぶほどの起爆力があるのもまた事実なのである。

 ねむるピアノ弾きのために三連の金のペダルに如雨露で水を

 卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピン抜けば朝焼け

 限りなく音よ狂えと朝凪の光に音叉投げる七月

穂村弘のホームページ
http://www.sweetswan.com/0521/syndicate.cgi

012:2003年7月 第3週 水の歌

つつましき花火打たれて照らさるる
   水のおもてにみづあふれたり

        小池 光

 まだ梅雨が明けないが、気温はもう初夏である。夏が来ると水を感じる。夕立が来て、ほてった道路に雨が落ちると、少し日向くさい水の匂いがする。船のデッキを洗うと、木と水の混じった匂いがする。夏の思い出は、水の記憶と結びついている。

 水は地球上でもっともありふれた多量に存在する物質であり、私たちの体の70%は水でできている。水は私たちの外にも内にも等しく存在するのである。短歌でも水はさまざまに詠われていて、印象に残る歌が多い。

 掲載歌には水という言葉が二度出てくる。短歌で同じ言葉を繰り返すときには、一度目は漢字で、二度目はひらがなでというのが作歌の常套手段である。繰り返しによる単調さを避けるためであろう。しかし小池の歌では、漢字とかなのちがいにはもう少し深い意味があるようだ。『岩波現代短歌事典』でこの歌を取り上げた加藤治郎によれば、漢字の「水」は「闇のなかで意識の奥に後退していた水」で、かなの「みづ」は「花火に照らされたとき、はじめて眼前にリアルに」現われた水だという。場面はたぶん花火をしている河原か何かであり、目の前が川だとは知っていても、暗いので見えないのだ。「水」はそこにあることを私が知識として知っていたものであり、概念としての水である。しかし、花火の光が照り映えることにより、そこに目に見えるものとして「みづ」が現出する。光を反射することで、はじめて自らの存在を開示するという水の性質がそこにある。それを「水のおもてにみづあふれたり」と表現するのが、小池の短歌技法の冴えである。

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 他界より眺めてあらばしづかなる
      的となるべきゆうぐれの水

                 葛原妙子

 あちこちで引用される「幻視の女王」葛原の代表作のひとつである。水原紫苑は、水はいのちの源、生の証であり、自分がこの世に存在する事実を映し出す鏡であるため、死の国の魔手か狙う恰好の標的となると読み解いている。小池は、雨上がりの水たまりを見ているだけの歌だと、そっけない。作者自注によれば、フライパンの底に水が溜まっているのを見て思いついた歌だということだが、そこから「他界より眺めてあらば」という発想を引き出すところが、幻視の女王たるゆえんである。

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 水につばき椿にみづのうすあかり
     死にたくあらばかかるゆふぐれ

             松平修文『水村』

 偶然だがこの歌でも水は二度、それも漢字とかなの順番で現われている。おまけに椿も同じように二度登場し、今度はかな・漢字と逆の順番だから、いっそう手が込んでいる。水と椿が漢字とかなを交代しながら交錯するところに、音だけでなく視覚にも訴えるリズム感が生まれる。作者の松平は日本画家・美術評論家で、幻想的歌風を得意としているが、掲載歌には少し退廃的なはやり歌のような趣があり、一読すると忘れられない味わいがある。また上の句の「うすあかり」は、久保田万太郎の絶唱「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」を思い出させる。松平には水を詠んだ歌がたくさんあり、気に入りの題材だったらしい。自身の歌集の題名も『水村』である。そういえば、荒川洋治の詩集にも『水駅』というのがあった。『水村』からいまいくつかの歌を引く。

 水の辺にからくれなゐの自動車 (くるま)来て烟のような少女を降ろす

 床下に水たくわへて鰐を飼ふ少女の相手夜ごと異なる

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 背にひかりはじくおごりのうつくしく
         水から上がりつづけよ青年

         佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』

 この歌では水は松平の歌のように人を死に誘うものではない。プールから上がる青年の背中に煌めく水は、青年の生命力を輝かせるものである。水は器の方形に従うというが、場面によって死の象徴とも生のシンボルともなる。人は水から上がり続けることはできないのだが、この歌のようにそう命令されてしまうと、まるで録画の同じ場所を何度も再生して見ているような錯覚を起こすところがおもしろい。

 *   *   *   *   *   *   *   *

 最後にこれも美しい水の歌を。ここでも水という言葉が二度使われていて、ここまで来るととても偶然とは思えない。水にはそのような歌い方を誘う何かがあるのだろうか。

 水風呂にみずみちたればとっぷりと
        くれてうたえるただ麦畑

              村木道彦『天唇』

水風呂が一杯になり、外には夕暮れの麦畑が拡がっているというそれだけの光景を詠んだ歌だが、静かな童話的とも言えるリズム感が残す印象には忘れがたいものがある。名歌と言えよう。この歌は村木の歌壇デビューとなった『ジュルナール律』第3号(1965)に掲載された「緋の椅子」10首に含まれていた歌である。

011:2003年7月 第2週 小中英之
または、薔薇園にただよい続ける魂の蝶

黄昏にふるるがごとく鱗翅目
   ただよひゆけり死は近からむ

       小中英之『わがからんどりえ』
 2000年6月に刊行された『現代短歌事典』(三省堂)の小中英之の項目には、1937年生まれとあり~の右側は空白である。この記号は存命中を意味するが、この記述はもう正確ではない。小中は2001年暮れに、虚血性心不全で他界しているからである。自宅玄関で死後2日目に発見されたという。

 第一歌集『わがからんどりえ』は1979年著者が42歳の年の刊行であるが、すでにここには死への思いが充満している。小中は若い頃から不治の病に冒されていて、宿痾との戦いのうちに短歌は生まれた。俗に宗教に入信する動機は「生病老死」であるという。生きることに戸惑い、病に苦しみ、老いを恐れ、死を間近にすると、人は神を求めるようになるということだろう。不思議なことに短歌を作る動機もまた同じであるように私には思える。「文学は死を胚胎している」と述べたのは、モーリス・ブランショだが、短歌と死は双子の兄弟のようによく似ている。掲載歌の、黄昏にふらふらと力なくただよう蝶は、身内に確実な死を抱える小中が自分自身を見つめる目に他ならない。

 月射せばすすきみみづく薄光りほほゑみのみとなりゆく世界

 氷片にふるるがごとくめざめたり患むこと神にえらばれたるや

 螢田てふ駅に降りたち一分の間にみたざる虹とあひたり

「螢田」の歌は小中の代表作とされている歌で、『現代短歌事典』(三省堂)も、篠弘・馬場あき子編『現代秀歌百人一首』(実業之日本社)もこの歌を引いている。地名に織り込まれた螢といい虹といい、小中の視線ははかなく消えるものに向けられる。その視線の透明さ、言葉遣いの端正さにおいて、小中は現代歌人の中でも群を抜いている。

 刈られたる男の髪の燃えつきて夜の集落に理髪店閉づ

 射たれたる鳥など食みて身の闇にいかばかりなる脂のきらめくや

 夕かげるまでを雀の群ありてあな内向の一羽際立つ

 身内に宿痾を抱える小中の目に映るものは、すべて自己の内面の表象へと転じる。歌に詠まれた事物は、事物であって事物ではない。それは自己の内にあるものが外へと転じたものである。

 今年の3月に、第一歌集『わがからんどりえ』、第二歌集『翼鏡』以降の小中の歌をすべて収めた遺稿集『過客』(砂子屋書房)が刊行された。歌の仲間であった辺見じゅんが巻末に思いのこもった文章を寄せている。辺見が中国旅行に発つ前日に、小中は薔薇の花を持って辺見宅を訪れたそうである。これから旅行で留守にするのに花はもったいないと言うと、小中は「花は帰ってきたときに待っていてくれるよ」と言ったという。辺見が中国から帰って来ると、確かに花はまだしおれずに待っていたが、小中は帰りを待たずその間に不帰の客となったという。

 芹つむを夢にとどめて黙ふかく疾みつつ春の過客なるべし

 むらぎもに含むくすりを毒として存在理由ゆふぐれにけり

 朝顔に終ひの花咲き巡礼の鈴の音にも秋深むなり

010:2003年7月 第1週 松村正直
または、現代の一所不住の短歌は西へ東へ

あなたとは遠くの場所を指す言葉
      ゆうぐれ赤い鳥居を渡る

         松村正直『駅へ』
 「山のあなたの空遠く」で知られるように、日本語のア系統指示詞は遠称であり、遠くを指す言葉である。それはいいのだが、作者は「赤い鳥居を渡る」と言う。鳥居はふつう「くぐる」もので、「渡る」のは橋である。とするとこの歌では鳥居が、こちら側とあちら側を結びかつ隔てる橋と捉えられていることになる。ゆうぐれという逢魔が時に鳥居を渡るというのは、作者があちら側に行くということであり、そこに非日常的な不思議な空気が流れるのである。

 処女歌集『駅へ』(ながらみ書房,2001年)の「あとがき」によれば、作者は22歳のときに「いろいろな町に住んでみたい」と思い、東京を離れて北海道から九州までフリーターをしながら転々と移り住んだという。放浪歌人の種田山頭火は乞食坊主となって各地を流浪したが、現代版の一所不住はフリーターという生き方を選ぶのである。収録された歌のなかには、しがらみのない一人暮しの自由さと淋しさが詠われている。しかし、ここには山頭火のような壮絶さや悲愴感はなく、あくまで淡々としている。

 二年間暮らした町を出ていこう来た時と同じくらい他人か

 温かな缶コーヒーも飲み終えてしまえば一度きりの関係

 天井の広さすなわちこの部屋の広さ どこに何を置こうが

 波音に眠れないのだ街灯が照らす私も私の影も


この歌集のいちばんの特徴は、ほぼ制作順に歌が並べられている点である。だから歌集を繙く読者は、作者の作歌態度と短歌技法の深化と同時に、作者をとりまく人間関係の変化もまた感じ取る仕掛けになっている。初めのうちは孤独の影が深かった歌の世界にも、少しずつ「他者」の匂いがするようになる。

 君の手の形を残すおにぎりを頬張りたいと思う青空

 ああ君の手はこんなに小さくてしゃけが二つとおかかが三つ

 君がもうそこにはいないことだけを確かに告げて絵葉書が着く

やがて作者は「結婚しない・就職しない・定住しない」という誓いを破り、結婚することになる。ただし同居はしない結婚のようだ。まだ他者のいる世界に踏み込むことができないのである。

 君の住む町の夜明けへ十二時間かけてフェリーで運ばれて行く

 主食にはなりそうもない品々がままごとのように並ぶ食卓

 ぼくたちやがて一緒に暮らすだろうそれがいつかと君は聞くけど

歌集の最後に近くなって、作者がなぜ意図的に一所不住の人生を選択したかが明かされるのだが、推理小説のネタばらしのようになるので、ここには書かない。一見すると気楽なフリーターという生き方を選んだ現代のどこにでもいる青年のように見えるが、実は心に重いものを抱えていたのだということが最後にわかる。

 もういくつか気になった歌をあげておこう。

 自転車が魚のように流れると町は不思議なゆうやみでした

 ゆうぐれは行方不明の道ばたのくぼみに残る昼間の光

 大地深く降り沈む雪軽さとは軽い重さのことでしかなく

 夢かたり終えれば妙に寒々と梅酒の梅が露出している

歌集のなかには「ゆうぐれ」「ゆうやみ」の歌が目につく。孤独と寂寥を一日のうちで最も身に染みて感じる時間だからか。しかし、作者はそれもあくまでライトに淡々と詠うのである。平井弘、村木道彦らに始まり、俵万智の成功で燎原の火のごとく短歌界に拡がったライト・ヴァースは、放浪歌人の歌にもその影を落としているのである。
 

009:2003年6月 第4週 住宅顕信
または、人生の究極のミニマリスム

ずぶぬれて犬ころ

     住宅顕信
 「画家の長命、詩人の短命」という言葉がある。確かに画家には長生きの人が目に付く。105歳で亡くなった小倉遊亀は別格として、秋野不矩は享年93歳、富岡鉄斎88歳、ピカソ92歳、平櫛田中は彫刻家だが107歳、梅原龍三郎98歳、面構えシリーズで有名な片岡珠子は98歳で存命のはずである。一方、詩人はというと、ラディゲの20歳を筆頭として、立原道造が25歳、石川啄木が26歳、中原中也が30歳、津村信夫が35歳である。確かに夭折という言葉は詩人という言葉と相性がいい。

 歌人はどうだろうか。『現代短歌事典』(三省堂)のコラム「高齢歌人列伝」によれば、歌人は長生きということになっていて、藤原俊成の数えで91歳、佐佐木信綱91歳、土岐善麿94歳、土屋文明100歳、斎藤史92歳となかなかすごい。もっとも歌人のなかにも、杉山隆18歳(転落死・自殺?)、岸上大作21歳(自殺)、坂田博義24歳(自殺)、安藤美保24歳(転落死)、相良宏30歳(結核・心臓神経症)、中城ふみ子32歳(乳ガン)、小野茂樹34歳(事故死)と夭折歌人がいないとは言えない。古典和歌は別として、現代短歌は「悲劇性」と無縁であるどころか親和性が強いのだが、今回は短歌ではなく俳句を取り上げたので、この点には触れない。

 昨年だったか、俳句の大きな賞を受賞した30代の女性が新聞で紹介されていた。インタヴューで「俳句を始めたきっかけは」と訊ねられて、「俳句をやると長生きするからと叔母さんに勧められて」と答えていて、思わず笑ってしまった。確かに俳句をひねる人というと、宗匠帽などかぶった高齢の人が目に浮かぶ。小林恭二が「俳句と悲劇」という短文を、「俳句という文芸は一般にあまり悲劇と関係がないと思われている」という一節で初めているのは、そのような一般に流布したイメージを前提としてのことである。ところが、小林によると俳句と悲劇が無縁なわけではなく、新興俳句と自由律俳句はけっこう悲劇まみれだというのである。新興俳句では西東三鬼ら京大俳句会の人たちが戦時中弾圧を受けたことがある。自由律俳句では、「分け入っても分け入っても青い山」の種田山頭火と、「咳をしても一人」の尾崎放哉のふたりが世捨て人同然の壮絶な人生を送ったことがよく知られている。

 さて住宅顕信(すみたく けんしん)である。10代はツッパリ不良、16歳で年上の女性と同棲、22歳で出家得度して結婚、23歳で白血病を発病、離婚して子供を引き取り病室で養育、25歳で病死した人である。その人生は劇的の一言に尽きる。この経歴を一度知ってしまうと、頭から離れなくなる。顕信の俳句を読むときに、この経歴を離れて読むことはどうしてもできないのである。

 顕信は白血病を発病し入院生活を送るようになってから、俳句を始めた。尾崎放哉に心酔して自由律俳句を作ったが、病がその筆を奪うまでの句作期間は2年に満たない。掲載句「ずぶぬれて犬ころ」は代表作とされている一句である。

 句集のなかには闘病生活を詠ったものが多い。

 レントゲンに淋しい胸のうちのぞかれた

 洗面器の中のゆがんだ顔をすくいあげる

 夜が淋しくて誰かが笑いはじめた

 降り始めた雨が夜の心音

しかし、病気という個人的悲劇を離れて、普遍性を持つ句もまた数多い。そこに淋しさの影が色濃く感じられるのは無理からぬことである。胸を打つ句がある。

 若さとはこんなに淋しい春なのか

 月が冷たい音落とした

 影もそまつな食事をしている

 捨てられた人形が見せたからくり

 俳句は省略の芸術である。短歌とちがって、一句にできるだけたくさんのことを盛り込もうとはしない。逆にいらないものを削ぎ落とそうとする。この句作上の技法が人生に投影されるとき、一切を捨てて放浪の旅に出るという生き方に逢着するのだろうか。人生のミニマリスムである。自ら望んでそのような生き方をした山頭火と放哉、そのような生き方を強いられた顕信が、ともに自由律俳句という形式を選んだのは偶然ではあるまい。文学としての形式が短ければ短いほど、実人生と作品の距離は縮まり、ついには同一化するに至るのである。

 このミニマリスムに徹すると、時として次のような幸福感に満ちた句に出逢うのだろう。ここには突き抜けた先にある無を見つめて肯定する目がある。

 お茶をついでもらう私がいっぱいになる

 何もないポケットに手がある

没後2年たって1988年に句集『未完成』(彌生書房)が刊行される。私はある日、偶然丸善で手に取った『住宅顕信読本』(中央公論新社)でその存在を知り、一読して衝撃を受けた。聞けば今でも命日には顕信を愛する人たちが集まって法要を行なっていて、生地岡山には句碑も建てられたという。

 最後に句碑にも刻まれた代表作。

 春風の重い扉だ

008:2003年6月 第3週 紀野 恵
または、言葉の織りなす世界への信頼

文に代へ碧瑠璃(へきるり)連らね贈り来し
       人によ夏の氷(ひ)の言葉遣る

             紀野 恵『架空荘園』
 蒸し蒸しする梅雨時を迎えたので、すがしい歌を一首。手紙のかわりに贈られて来たのは、ブルーのガラスでできたネックレスだろうか。ブルーという色も、瑠璃という語感も爽やかである。贈ってきたのは男性にちがいない。ところが受け取った本人は、「夏の氷の言葉」を返すという。夏の氷のように冷たい言葉というほどの意味か。短歌は「私性の文学」であり、主語が明示されていなくても、それは「私」に決まっている。この歌の「私」は、男性のファンと思われる人から贈り物を貰っても、氷のようにつれない言葉を書き送る驕慢な女性なのである。やすやすと異性になびかない誇り高さと、語法の古典的な高雅さの相乗効果が、クリスタルのような硬質の世界を作り出している。作者紀野恵の短歌世界を代表する歌である。

 紀野は1965年(昭和40年)生まれ。小池光・今野寿美・山田富士郎編『現代短歌100人20首』(邑書林)は、現代を代表する歌人100人を選び、生年順に並べるといういささか残酷な編集方針で作られたアンソロジーであるが、最年少の永田紅から最年長の浜田康敬までが並ぶなかで、紀野は前から14番目に位置している。若いのである。しかも、1982年で角川短歌賞次席に選ばれたのが弱冠17歳で、デビュー当時から天才の名を欲しいままにした人である。

 紀野の短歌の特徴は、年齢とは不釣り合いな新古今風の王朝的古典語法と、他に類を見ない歌柄の大きさである。

 あづま路は遠しさもあれこの度の内つ海さへ越えぬ夢路は

 約せしはあぢさゐ色の絵空事絵日傘さしていづちに行かむ

 片肺のすこし翳れる秋よそれ空を斜めに見てをりたるは

 傾けむ国ある人ぞ妬ましく姫帝によ柑子差し上ぐ

 白き花の地にふりそそぐかはたれやほの明るくて努力は嫌ひ

岡井隆は、紀野の天才を認めつつも、古典語法を駆使あるいは濫用する紀野ら「新古典派」をさして、「現代の奇景」(『現代百人一首』)と評した。塚本邦雄もまた、「警戒すべきは、稀用古語を頻用することと、そのための古典臭とも言うべき癖であろう」(『現代百歌園』)と苦言を呈しているのだが、紀野はそんな批評にまったく頓着せず、自らの路線を邁進しているところが確信犯的である。

 60年代後半から70年代にかけて登場した紀野の上の世代の男性歌人たちが、「微視的観念の小世界」(篠弘)に拘泥して「内向の世代」と呼ばれたのとは対照的に、紀野の短歌世界は「矮小化された私」にこだわらない大きな広がりを感じさせる。

 檸檬(リモーネ)が滴り白布薄染みをかこちがほなる夏ゆふまぐれ

 凍てし夜のふねにはりはり食みゐたる春菊サラダ薄く苦き生(よ)

 夢ぬちに繊月懸かりゐたりけり不確かに橋渡るありけり

『現代短歌100人20首』では、取り上げた歌人に「作歌信条を30字以内で書く」ことを求めていて、これがなかなか面白い。最年少の永田紅の「定型を信頼して作りつづける」という初々しいが優等生的なものもあれば、小池純代の「歌わなければからだにわるい」とか、小池光の「信条、そういうものはない」のように人を食ったものもある。一筋縄ではいかない人たちである。かと思えば村木道彦の「神も思想も信じない現代人の、人間自体に対する祈りが歌である」というしみじみしたものもある。紀野は、「言葉それ自体の持つ意味(世界の意味)をつかまえること」という言葉を信条として寄せている。ここには、「言葉それ自体の持つ意味」イコール「世界の意味」であるという、絶対的とも言える言語に対する信頼が感じられる。おそらく紀野にとって短歌とは、現実を写生するものではなく (アララギ派的リアリズムの否定)、日々の喜びや悲しみを託する器でもなく(反生活実感、私小説としての短歌の否定)、言葉によって世界を作り出す方法論なのである。

 最後に私が特に好きな歌をあげておく。

 ポケットに煙草を探す路地裏に点すときわづか掌のうちは聖

 天蓋はただいちにんのために在る花折る人の孤絶のために

 神も死にたまふ夜あらむ夏が死ぬ夕暮れ吾れは鳩放ちやる

 うるわしきそらとふものもあるものを黄金(くがね)の水をくみたまへまず

 わがうへに夏在るや今うたがひは青蕣(あさがほ)の如く発(ひら)かむ

 わうごんの花びら漬くる酒を賜べ半地下室にまよふ夕光(ゆふかげ)

紀野は夏の歌を作るときに、特にその技が冴え渡るような気がする。