住宅顕信
歌人はどうだろうか。『現代短歌事典』(三省堂)のコラム「高齢歌人列伝」によれば、歌人は長生きということになっていて、藤原俊成の数えで91歳、佐佐木信綱91歳、土岐善麿94歳、土屋文明100歳、斎藤史92歳となかなかすごい。もっとも歌人のなかにも、杉山隆18歳(転落死・自殺?)、岸上大作21歳(自殺)、坂田博義24歳(自殺)、安藤美保24歳(転落死)、相良宏30歳(結核・心臓神経症)、中城ふみ子32歳(乳ガン)、小野茂樹34歳(事故死)と夭折歌人がいないとは言えない。古典和歌は別として、現代短歌は「悲劇性」と無縁であるどころか親和性が強いのだが、今回は短歌ではなく俳句を取り上げたので、この点には触れない。
昨年だったか、俳句の大きな賞を受賞した30代の女性が新聞で紹介されていた。インタヴューで「俳句を始めたきっかけは」と訊ねられて、「俳句をやると長生きするからと叔母さんに勧められて」と答えていて、思わず笑ってしまった。確かに俳句をひねる人というと、宗匠帽などかぶった高齢の人が目に浮かぶ。小林恭二が「俳句と悲劇」という短文を、「俳句という文芸は一般にあまり悲劇と関係がないと思われている」という一節で初めているのは、そのような一般に流布したイメージを前提としてのことである。ところが、小林によると俳句と悲劇が無縁なわけではなく、新興俳句と自由律俳句はけっこう悲劇まみれだというのである。新興俳句では西東三鬼ら京大俳句会の人たちが戦時中弾圧を受けたことがある。自由律俳句では、「分け入っても分け入っても青い山」の種田山頭火と、「咳をしても一人」の尾崎放哉のふたりが世捨て人同然の壮絶な人生を送ったことがよく知られている。
さて住宅顕信(すみたく けんしん)である。10代はツッパリ不良、16歳で年上の女性と同棲、22歳で出家得度して結婚、23歳で白血病を発病、離婚して子供を引き取り病室で養育、25歳で病死した人である。その人生は劇的の一言に尽きる。この経歴を一度知ってしまうと、頭から離れなくなる。顕信の俳句を読むときに、この経歴を離れて読むことはどうしてもできないのである。
顕信は白血病を発病し入院生活を送るようになってから、俳句を始めた。尾崎放哉に心酔して自由律俳句を作ったが、病がその筆を奪うまでの句作期間は2年に満たない。掲載句「ずぶぬれて犬ころ」は代表作とされている一句である。
句集のなかには闘病生活を詠ったものが多い。
レントゲンに淋しい胸のうちのぞかれた
洗面器の中のゆがんだ顔をすくいあげる
夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
降り始めた雨が夜の心音
しかし、病気という個人的悲劇を離れて、普遍性を持つ句もまた数多い。そこに淋しさの影が色濃く感じられるのは無理からぬことである。胸を打つ句がある。
若さとはこんなに淋しい春なのか
月が冷たい音落とした
影もそまつな食事をしている
捨てられた人形が見せたからくり
俳句は省略の芸術である。短歌とちがって、一句にできるだけたくさんのことを盛り込もうとはしない。逆にいらないものを削ぎ落とそうとする。この句作上の技法が人生に投影されるとき、一切を捨てて放浪の旅に出るという生き方に逢着するのだろうか。人生のミニマリスムである。自ら望んでそのような生き方をした山頭火と放哉、そのような生き方を強いられた顕信が、ともに自由律俳句という形式を選んだのは偶然ではあるまい。文学としての形式が短ければ短いほど、実人生と作品の距離は縮まり、ついには同一化するに至るのである。
このミニマリスムに徹すると、時として次のような幸福感に満ちた句に出逢うのだろう。ここには突き抜けた先にある無を見つめて肯定する目がある。
お茶をついでもらう私がいっぱいになる
何もないポケットに手がある
没後2年たって1988年に句集『未完成』(彌生書房)が刊行される。私はある日、偶然丸善で手に取った『住宅顕信読本』(中央公論新社)でその存在を知り、一読して衝撃を受けた。聞けば今でも命日には顕信を愛する人たちが集まって法要を行なっていて、生地岡山には句碑も建てられたという。
最後に句碑にも刻まれた代表作。
春風の重い扉だ