004 : 2003年5月 第3週 平井 弘
または、妹ばかりの村に戻ってくる兄たちの墓標

いる筈のなきものたちを栗の木に
   呼びだして妹の意地っ張り

        平井 弘『顔をあげる』

 平井の短歌には「兄」と「妹」がよく登場する。しかし、それは平井の現実の兄弟姉妹ではなく、昭和11年(1936年)生まれの平井の少し上の世代と下の世代をさす短歌的比喩である。終戦のときに9歳だった平井の兄たちの世代は戦争に行き、戦死した者は二度と帰らなかった。村には自分と妹たちの世代が取り残された。これが平井の短歌に執拗に詠われる主題である。

 もう少しも酔わなくなりし眼の中を墜ちゆくとまだ兄の機影は
 空に征きし兄たちの群わけり雲わけり葡萄の種吐くむこう
 死んでいくものたちは眼をそらさないはず突き刺しておく妹と
 脛すこし淫らなるまで踏みいれて苺刈るおぼつかなき妹は

だから、掲載歌の「いる筈のなきものたち」とは、戦死して帰らない兄たちである。その兄たちを執拗に栗の木に呼び出す妹の行為には、どこか性的なところがある。畠に入って苺を刈る妹のむき出しの脛を見ている自分の眼差しにも性がにおう。それは若くして戦死し、結婚することも子を残すこともできなかった兄たちの世代の無念を、平井が自分のものとしているからである。

 死者たちの為しえざる愛継ぎしよりわれらに栗の木が騒ぐなり

 このように平井は重い主題を短歌に塗り込めているのだが、その歌の魅力は、主題の重さと均衡をとるかのように巧みに計算された、句跨りと字余りを基本とする散文的語法である。掲載歌で見てみると、「いるはずの(5) なきものたちを (7) くりのきに(5)」までの部分は定型に従っているが、下の句が「よびだしていも (7)うとのいじっぱり(8)」と、「いもうと」が句跨りになっていて、全体として字余りである。平井は同世代の村木道彦や少し下の福島泰樹らとともに、短歌に口語を取り入れる手法の開発という点で、短歌の歴史に大きな役割を果たした。平井の作り出した語法はその後、多く歌人の模倣するところとなった。『サラダ記念日』で一世を風靡し、ライトヴァースの旗手と目された俵万智は、平井の短歌について、「ヘタをすると中毒にかかってしまいそうな不思議なリズム感覚」(『短歌をよむ』岩波新書)と表現したが、俵もまた次のような歌を見れば、平井の語法から多くを学んだことは明らかである。

 外套の腕絡ませるようにしてなじりくる腹立てなくっていいの(平井弘)

 「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの(俵万智)

俵より上の世代に属する河野裕子の次の歌にもまた、平井の語法の影響は顕著である。

 例えば 羊のようかもしれぬ草の上に押さえてみれば君の力も(平井弘)

 たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてくれぬか(河野裕子)

特に平井の歌の魅力は、下の句に集中する散文的語法とともに、途中で口をつぐみ、残りはつぶやきとなって消えて行くような含羞に満ちたその言葉遣いにある。

 膝ひらいて搬ばれながらどのような恥しくない倒されかたが
 アキアカネ殺してなにも起こらねばましてひきとめなかっただけで

 塚本邦雄は平井を評して、「四半世紀後のライトヴァースを予言するような文体だが、この苦みは空前絶後である」とし、「再評価、再々評価されて然るべき、稀なる歌人の一人である」(『現代百歌園』)と絶賛した。しかし、第一歌集『顔をあげる』(1961年)の出版以後、平井は7年にわたって沈黙し、その後、冨士田元彦の奨めにより作歌を再開して第二歌集『前線』(1976年)を上梓したのち、そのまま「歌のわかれ」をしてしまう。

 兄が征き妹と私が残された村という独特の視座から戦後を凝視した平井は、まぎれもなく「遅れて来た青年」(冨士田元彦)であった。日本はやがて高度成長期を迎え、妹たちは村から都会に出て、団地に住みそれぞれの伴侶を得るとともに、兄たちは忘れ去られた。「もはや戦後ではない」と言われた日本のなかにおいて、平井はかつての自分の短歌のよりどころとした視座に替わる新しい視座を獲得することがついにできなかったのである。

 

【追記】
 平井はおそらく冨士田元彦の奨めで作歌を再開し、『現代短歌 雁』にこのところ毎号のように出稿している。しかし残念なことに現在の平井の作る短歌には、かつての輝きはない。

003 : 2003年5月 第2週 藤原龍一郎
または、夜の首都高速に降りしきる慚愧の雨

ああ夕陽 明日のジョーの明日さえ
       すでにはるけき昨日とならば

         藤原龍一郎『夢見る頃を過ぎても』
 著者は私と一歳ちがい。心は若いつもりでも、人が見れば立派な中年オジサンの年齢である。中学のときに「少年サンデー」「少年マガジン」が相次いで創刊された私たちの世代は、マンガ世代の走りにあたる。ちばてつやのボクシングマンガ『明日のジョー』は熱狂的に支持されたマンガである。主人公矢吹丈のライバル力石徹が死んだとき、本当に葬式を出したファンがいたことも記憶に残っている。しかし、このような背景知識だけでは掲載歌の意味は読みとれない。短歌は短詩形であるという制約から、たくさんのことを詠み込むことができないので、詠み込み残したことに寄りかかって成立するという逆説的な特殊性を持つ。

 著者の念頭にあるのは、1970年3月31日に起きた日航機よど号ハイジャック事件の犯人である日本赤軍の田宮高麿らが、「われわれは明日のジョーである」という声明を残して、北朝鮮に去ったことにちがいない。この事件の翌年に著者は早稲田大学に入学したはずである。時あたかも70年の日米安保条約自動延長の年を迎え、全国で大学紛争の嵐が吹き荒れていた。熱い理想を声高に語る政治の季節だった。それが72年の連合赤軍あさま山荘事件と、酸鼻を極めるリンチ同志殺害事件をきっかけに、左翼青年の理想は冷水を浴びせられたように急速に終息していく。だからこの歌に詠われた「明日」とは、矢吹丈が目指したボクシングの世界チャンピオンの明日と二重写しに重なる、当時の左翼青年が夢に描いた政治的理想の明日でもあるはずだ。

 第一歌集『夢見る頃を過ぎても』が出版されたのは1989年、日本がバブル経済に浮かれていた頃である。確かにもう青年の夢想ははるか遠い過去になってしまっている。著者はニッポン放送のラジオプロデューサーで、マスコミ業界の最前線にいる。「ギョーカイ」の軽薄さを自嘲を込めて描くと同時に、時代と添い遂げているという一抹の自負が混じる、固有名詞と現代風俗を取り込んだ独自の短歌世界を作り上げている。

 首都高の行く手驟雨に濡れそぼつ今さらハコを童子を聴けば
 パラダイス銀河をこえてワンナイト・ジゴロに至る、それだけの夜
 世紀末のそのAMの黄昏に「亡びて永遠(とわ)に」などと気どれば

 ハコは山崎ハコ、童子は森田童子。パラダイス銀河は光ゲンジの歌謡曲。森田童子は10年前、すでに忘れられた歌手だったが、野島伸司脚本のTVドラマ「高校教師」で主題歌に使われにわかに脚光を浴びた。今年、このドラマは藤木直人と上戸彩主演でリメイクされ、森田童子の主題歌もそのまま使われたが、あまり話題にならなかった。これらの歌に散りばめられた固有名詞は、もう今の若い人には注釈がないとわからないだろう。このことは、藤原の短歌が世代論を背景として成立しているということを意味する。だから、同世代の人間には痛切に共感できても、世代が異なればまた話は別なのである。

 『現代短歌の全景』(河出書房新社)の対談で、「あなたのつくっている夥しい固有名詞の氾濫した歌というのは、自分でとってもせわしないかたちで物語をつくって、それに自分で返して、たちまち消耗して捨てちゃってという、そういうマッチポンプ的な繰り返しですね」という小池光の発言に、「物語に対して応えながら、ただ応えるだけじゃなくて、その応える落差、応えるという作業の不毛さ自体が、あるメッセージになっている」と谷岡亜紀が引き継ぎ、「そこに泣きがあるわけよね。それで短歌のカタルシスを感ずるわけだ」と、再び小池が指摘しているのは、藤原の短歌世界の特質を余すところなく語っている。

 第二歌集『東京哀傷歌』(1992年)になると、短歌にまぶされた自嘲と虚無は、一転して挽歌の色合いを深くする。

 オキシフル泡だつ昨日ぬばたまの闇の浅川マキのうたえば
 深海のごとく空気は澱みたりもし存(ながら)えて在らば 岸上
 かつて天井桟敷のありし一角に夏の雨ふる 永遠(とわ)なる雨か

「オキシフル泡だつ昨日」は一見奇矯な比喩に見えるが、福島泰樹の「潮騒と分ち難しもわがこころいざオキシフル泡立つ海へ」を本歌取りしている。浅川マキは全共闘世代に支持されたアングラ歌手で、いつも全身黒装束で歌っていた。だから「ぬばたま」なのである。次の歌の「岸上」は、「血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする」など、60年安保闘争に参加して政治と愛を高らかに詠い、21歳で自殺した岸上大作である。次の歌の天井桟敷は、言うまでもなく寺山修司の実験演劇集団のことだ。60年代の前半に物心つき、60年代後半から70年代に青春を過ごした世代には説明不要のことがらばかりで、そこから強く立ち上って来る濃密な時代の空気は、あの時代のみんながひとしく呼吸していたものである。藤原の作る歌がすべて挽歌の色合いを帯びる所以である。

 藤原は短歌だけでなく俳句も作る人らしく、『貴腐』という伝説的句集があるという。最新歌集は『花束で殴る』(柊書房)。

藤原龍一郎のホームページ
http://www.sweetswan.com/ryufuji/tanka.cgi
http://www.sweetswan.com/19XX/

002:2003年5月 第1週 寺山修司
または、地理的想像力と劇場的〈私〉

マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし
     身捨つるほどの祖国はありや
           寺山修司『空には本』
 実験劇団「天井桟敷」の主催者として、「アングラ」という言葉がまだ生きていた70年代を駆け抜けた寺山は、1983年に持病のネフローゼから腎不全を発症し、5月4日鬼籍の人となった。享年47歳。今年は没後20周年に当たる。太宰治は桜桃忌、芥川龍之介は河童忌など、文学者ゆかりのアイテムを冠した命日があるが、「私の墓は私のことばであれば十分」と書いた寺山の命日には名前がない。

 詩・小説・演劇・映画と多彩な展開を見せた寺山の文学的出発は、10代に故郷青森で始めた俳句と短歌である。寺山は弘前に生まれ、すぐに青森市に越しているが、津軽地方は今でも文学の盛んな土地柄だ。

 寺山が若い頃短歌を作っていたことなど、私も昔は知らなかった。奇妙な厚底靴をはいて、ときどきTVに登場し、「天井桟敷」を通して前衛的な演劇論を展開する寺山しか知らなかった。寺山の短歌との出会いは、試験監督のときに偶然見つけた、大学の教室の壁に書かれた落書きである。

 青空はわがアルコールあおむけにわが選ぶ日日わが捨てる夢

見たときには誰の短歌か分からなかった。寺山のごく初期の歌だと知ったのは、ずいぶん経ってからのことである。それまでずっと記憶にの底に残っていた。まぶしいほどの青春のひとコマである。「チェホフ祭」50首で寺山を世に送り出した中井英夫が「したたる美酒」と形容した、この甘酸っぱいまでの過度の青春性は、寺山の初期短歌の魅力のひとつであり、多くの人がはまってしまうツボだろう。

 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは手をひろげていたり

 知恵のみがもたらせる詩を書きためて暖かきかな林檎の空箱

 森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし

 『寺山修司・斎藤慎爾の世界』(柏書房)で、佐佐木幸綱が詳細に分析しているように、寺山の短歌の他にない特徴は、「引用とコラージュ」と「私の虚構化」であった。

 事実、掲載歌の下敷きには、「一本のマッチをすれば湖は霧」(富沢赤黄男)、「めつむれば祖国は蒼き海の上」(同)があったとされる。この作法は歌壇の批判の的となったが、塚本邦雄は「原典を自家薬籠中のものとして自在に操り、藍より出た青より冴冴と生れ変わらせる、この本歌取りの巧妙さ。」と褒め称えた。

 寺山の短歌が青春の愛唱性を失うにつれ、それと反比例するように「私の虚構化」が顕著になる。

 亡き母の真赤な櫛で梳くきやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり

 新しき仏壇買いに行きしまま行方不明のおとうとと鳥

実際には母がまだ生きていても亡き母と歌い、弟がいなくても行方不明になる。寺山の「私」は短歌のなかで演劇化された虚構の私である。寺山の身振りはどこまでも演劇的なのである。ここでハッと気づいて振り返り見直してみると、初期短歌に詠われた鮮やかな青春もまた、寺山の演出であったことが理解される。この演劇性もまた、若者を引きつけてやまない寺山短歌の特徴だといえよう。青春とは、自己と人生の過剰なまでの劇化の時期だからである。

 寺山が精力的に短歌活動をしたのは、「チェホフ祭」でのデビューから10年余りに過ぎない。30歳の声を聞くと同時に、寺山は歌を捨てて二度と帰ることはなかった。寺山もまた「歌の別れ」をした歌人なのである。寺山が歌を捨てたのは、「短歌をこのへんで止めないと、私の問題ばかりにこだわって、歴史感覚の欠如した人間になってしまう」と感じたからであり、短歌はどれほどみじめな自分を詠おうと、結局は「自己肯定」になる文学形式だと断じたからである。

 逆説的なことだが、歌を捨て歌に封印をすることによって、寺山の残した短歌はますます輝きを増すことになった。

 時まさに処女作品に『われに五月を』という題名をつけた寺山が愛した五月である。

001:2003年4月 第4週 小野茂樹
または、輝き続ける永遠の夏の抒情

あの夏の数かぎりなきそしてまた
   たつたひとつの表情をせよ

        小野茂樹『羊雲離散』

 作者は昭和11年生まれ。角川書店・河出書房新社で編集者として勤務していたが、昭和45年にタクシーで帰宅途中に事故死。享年34歳。掲載歌は作者の代表歌として知られ愛唱されている。

 誰もが指摘するのが小野の歌の相聞的性格であるが、この歌にはその特質が余すところなく現われている。相聞とは手紙などで相手の様子をたずねあうことであり、転じて相手に対する愛情を表明する対人的性格の強い歌をいう。この相聞の呼びかけ的性格の強さは、結句の「表情をせよ」という命令形にも強く感じられる。

 「あの夏」とはどの夏か。それは私とあなたが楽しいひとときを過ごした記憶のなかにある夏であり、読者はその夏の経験を持たないにもかかわらず、ことばの力によってその経験に参入する。その夏はおそらくは短く終わった夏にちがいない。どこにもはっきりと書かれてはいないが、「あの夏」と特定的に表現されることで、その夏は記憶のかなたに遠ざかり、あたりには炎熱が収まり秋風の立つ晩夏の空気が感じられる。君は私のもとをすでに去ったのである。

 君は数かぎりなく様々な表情を私に見せてくれたが、今あらためて記憶のなかに君の顔を思い浮かべようとすると、様々な表情はひとつに集約され、最後にひとつの忘れがたい表情が残る。そんな風に解釈できる。

 『現代秀歌百人一首』(篠弘、馬場あき子編 実業之日本社)でこの歌を論じた小池光は、「君は実にゆたかなさまざまな陰翳を帯びた表情をみせてわたしの心をときめかせたが、その数かぎりない思い出はついに一つの表情に還元されてゆくのであった。その表情をもう一度みせてほしい、わたしはそれを忘れないから、と彼女に呼びかけている。(…)
高調した恋愛感情のもたらす純粋な気分としてごく感覚的に受け止めればよい。」として、私の彼女の関係が終わったとは解釈していない。

 しかし、私は「あの夏」という表現に、どうしても記憶のかなたの短い夏を感じてしまう。夏は熱く燃え上がると同時に、その暑さの頂点において、すでに終わりを予感させる。長い夏は暑苦しいだけだが、短い夏は感傷の契機となるのである。

 塚本邦雄『現代百歌園』(花曜社)は、小野の代表歌として、「あせるごと友は娶りき背より射す光に傘の内あらはなり」を選んでいる。また岡井隆『現代百人一首』(朝日新聞社)は、「体刑の庭よりひとりまぬがれて帰り来たれば友欲し購ひても」を採っている。前衛短歌運動の立て役者であった二人がともに、青春の自意識の屈折を読み込んだ歌を選んでいるところが興味深い。