天草季紅『青墓』
天草季紅は1950年生まれ。「氷原」に入会して1986年に『夢の光沢』という第一歌集を出している。しかし『青墓』のあとがきによれば、一時期短歌から遠ざかり、その後筆名を改めて『Es』に参加したとあるので、過去の自分とは決別する気持ちがあったのだろう。現在『Es』誌上で短歌と評論の両方で活躍している。評論では2005年に『遠き声 小中英之』を上梓している。小中に傾倒するのは天草自身の作品の世界と通底するところがあるからである。
ちなみに『Es』は一巻ごとに副題を変えるおもしろい雑誌で、試しに近年のものを拾うと、No.13『Es滾滾』No.14『Es叉路』No.15『Esカント゜』No.16『Es間氷期』No.17『Es白い炎』などである。『Es』に拠る歌人たちはリアリズムからは遠く、表現の強度を備えた新しい詩歌をめざしているようだ。
歌集題名の『青墓』は街道の宿名から採ったとあとがきにある。美濃国不破郡垂井と赤坂の間の地名で、現在の大垣市内にあるらしい。ゆかしい地名だが、この語句はただちに「人間至る所青山あり」という文句を連想させる。冒頭に書いたように、天草の作品世界は死の光の照らす世界であり、歌集の中で母親や友人や愛猫の死が点々と影を落としている。
おそろしくつめたき手をして触れにくる人体くらき火をいだくかな最初の二首は母親の死を詠った歌で、一首目は帯に印刷されており、本歌集の基調を示す歌と見なしてよい。「おそろしくつめたき手」とは死に瀕した人の手か。人体がいだく暗き火は生命に他ならない。二首目は火葬の場面を詠った歌。「黒き花」は作者の幻視だが、肉体とともに消滅する心の残滓を希求する気持ちが見せたものだろう。三首目は女優金久美子の死、四首目は闘病中の友人に寄せた歌。最後の二首は愛猫そらの死を詠んだ歌である。平仮名書きで読みのリズムを緩慢にし、あたかも愛猫の最後をできるだけ引き延ばそうとしているかのごとくである。また「なきがらを見るとはつねに見おろして」に残された者の悲しみが漂う。
火床には骨にまじりて黒き花ある日は激せしこころのあたり
行くひとを待つ雨のなか渡り来し鳩の弔問おごそかなりし
龍の玉ひとつ悔なき嘆きせよこの世の海を逃れきるまで
すこしづつたましひ抜けてゆくねこがふはりふはりと水のみにゆく
なきがらを見るとはつねに見おろして悲しき一夜よりそひ眠る
このように具体的な死を詠んだ歌以外の歌にも他界の光が揺曳し、歌の基底をなしている。
雲ひくく影をおとせば知るひとの降りくるごとし草生へ入りゆくどうやら天草においては生者の界と死者の界とは截然と分かれるものではなく、どこかで繋がっていて、日常身辺に常に死にし者たちの影が漂っているようだ。それは一首目の「知るひとの降りくるごとし」や五首目の「床のうへ行き交ふなんの影の群れ」に見て取れる。天草が評論を書いた小中英之もまた、「黄昏にふるるがごとく鱗翅目ただよひゆけり死は近からむ」の歌が示すように、体内に死を宿して生きた歌人であった。
かへるとはひとりびとりの身にかへる中陰すぎて臘梅の花
水打つて空やはらげる裾野には虹の子供が来てゐて笑ふ
年ごとに彼岸花さく一画をいらくさ占めて眉うすき夏
床のうへ行き交ふなんの影の群れ日ざしにまぎれて入りきて蒼し
天草の拠る形式は文語定型短歌なのだが、本歌集では形式上の試みをしていることも注目される。
氾濫の夏こえがたき空に風立ち 黄葉のまづ散る一羽となりしひよどり最初の二首は五・七・七・五・七・七の旋頭歌で、残りの二首は七・五の句を四度繰り返す和讃である。いずれも五・七・五・七・七の持つ完結感が希薄で、たゆたうようなリズムに乗って連綿と続く印象を与える。古代的もしくは宗教的な香りのするこれらの形式は、幽界と顕界とがない交ぜになった天草の作品世界と親和性が高く、独特の効果を上げていると言えるだろう。ちなみにリズムの持つ力は圧倒的で、これらの歌を読んだあとに通常の定型歌を読むとき、歌のリズムにただちに入ることができず苦労した。
春の陽の集まるとなくかげろふあたり 淡きもの数多生れてくちびるとざす
朝の光は東方より 渚に及ぶ水のいろ 眠りのなかに見えそめて みどりご生るる時刻あり
花の終りし木蓮は 昏れゆく空につつまるる 静かなるもの美しく 夜は菩薩となりたまふ
最後に印象に残ったその他の歌をあげておこう。
雨あがりまだ水にほふ朝空になんのしるしの眼や爪ひかる
日の光うつろふ柱に日暦の束なすじかんのかげもうつろふ
水底の鯉は記憶のかげりにて春のぼりくる死者をうべなう
日をかへすことりの羽はやはらかに花ともなりて咲くたかぞらに
花びらの開閉しづか血の河を領せしひかり天にうつろふ
古きページに声刻まれてゐたりけりまぎれず青しそのかきつばた