第40回 天草季紅『青墓』

食べてゐてふと明るさに気がつきぬわが負ふ影のなかより見つむ
                     天草季紅『青墓』
  掲出歌は、食事をしていてふと身の回りが明るいことに気づいたというのである。私の影の中から何かが私を見つめている。「見つむ」の主語は明示されていないが、前後の歌を読めばそれは死者だと知れる。「わが負ふ影」という措辞が〈私〉に陰影と重力を与える。彼方より死者が〈私〉を訪れたのか、それとも〈私〉が死者の界に彷徨いこんだのか、歌からは不明でありそれは実はどちらでもよいのだ。作者の描く歌の世界は死の光に照らされた世界であり、生者と死者が分かちがたく併存している世界だからである。
 天草季紅は1950年生まれ。「氷原」に入会して1986年に『夢の光沢』という第一歌集を出している。しかし『青墓』のあとがきによれば、一時期短歌から遠ざかり、その後筆名を改めて『Es』に参加したとあるので、過去の自分とは決別する気持ちがあったのだろう。現在『Es』誌上で短歌と評論の両方で活躍している。評論では2005年に『遠き声 小中英之』を上梓している。小中に傾倒するのは天草自身の作品の世界と通底するところがあるからである。
 ちなみに『Es』は一巻ごとに副題を変えるおもしろい雑誌で、試しに近年のものを拾うと、No.13『Es滾滾』No.14『Es叉路』No.15『Esカント゜』No.16『Es間氷期』No.17『Es白い炎』などである。『Es』に拠る歌人たちはリアリズムからは遠く、表現の強度を備えた新しい詩歌をめざしているようだ。
 歌集題名の『青墓』は街道の宿名から採ったとあとがきにある。美濃国不破郡垂井と赤坂の間の地名で、現在の大垣市内にあるらしい。ゆかしい地名だが、この語句はただちに「人間じんかん至る所青山あり」という文句を連想させる。冒頭に書いたように、天草の作品世界は死の光の照らす世界であり、歌集の中で母親や友人や愛猫の死が点々と影を落としている。
おそろしくつめたき手をして触れにくる人体くらき火をいだくかな
火床には骨にまじりて黒き花ある日は激せしこころのあたり
行くひとを待つ雨のなか渡り来し鳩の弔問おごそかなりし
龍の玉ひとつ悔なき嘆きせよこの世の海を逃れきるまで
すこしづつたましひ抜けてゆくねこがふはりふはりと水のみにゆく
なきがらを見るとはつねに見おろして悲しき一夜よりそひ眠る
 最初の二首は母親の死を詠った歌で、一首目は帯に印刷されており、本歌集の基調を示す歌と見なしてよい。「おそろしくつめたき手」とは死に瀕した人の手か。人体がいだく暗き火は生命に他ならない。二首目は火葬の場面を詠った歌。「黒き花」は作者の幻視だが、肉体とともに消滅する心の残滓を希求する気持ちが見せたものだろう。三首目は女優金久美子キムクミジャの死、四首目は闘病中の友人に寄せた歌。最後の二首は愛猫そらの死を詠んだ歌である。平仮名書きで読みのリズムを緩慢にし、あたかも愛猫の最後をできるだけ引き延ばそうとしているかのごとくである。また「なきがらを見るとはつねに見おろして」に残された者の悲しみが漂う。
 このように具体的な死を詠んだ歌以外の歌にも他界の光が揺曳し、歌の基底をなしている。
雲ひくく影をおとせば知るひとの降りくるごとし草生へ入りゆく
かへるとはひとりびとりの身にかへる中陰すぎて臘梅の花
水打つて空やはらげる裾野には虹の子供が来てゐて笑ふ
年ごとに彼岸花さく一画をいらくさ占めて眉うすき夏
床のうへ行き交ふなんの影の群れ日ざしにまぎれて入りきて蒼し
 どうやら天草においては生者の界と死者の界とは截然と分かれるものではなく、どこかで繋がっていて、日常身辺に常に死にし者たちの影が漂っているようだ。それは一首目の「知るひとの降りくるごとし」や五首目の「床のうへ行き交ふなんの影の群れ」に見て取れる。天草が評論を書いた小中英之もまた、「黄昏にふるるがごとく鱗翅目ただよひゆけり死は近からむ」の歌が示すように、体内に死を宿して生きた歌人であった。
 天草の拠る形式は文語定型短歌なのだが、本歌集では形式上の試みをしていることも注目される。
氾濫の夏こえがたき空に風立ち 黄葉のまづ散る一羽となりしひよどり
春の陽の集まるとなくかげろふあたり 淡きもの数多生れてくちびるとざす
朝の光は東方より 渚に及ぶ水のいろ 眠りのなかに見えそめて みどりご生るる時刻あり
花の終りし木蓮は 昏れゆく空につつまるる 静かなるもの美しく 夜は菩薩となりたまふ
 最初の二首は五・七・七・五・七・七の旋頭歌で、残りの二首は七・五の句を四度繰り返す和讃である。いずれも五・七・五・七・七の持つ完結感が希薄で、たゆたうようなリズムに乗って連綿と続く印象を与える。古代的もしくは宗教的な香りのするこれらの形式は、幽界と顕界とがない交ぜになった天草の作品世界と親和性が高く、独特の効果を上げていると言えるだろう。ちなみにリズムの持つ力は圧倒的で、これらの歌を読んだあとに通常の定型歌を読むとき、歌のリズムにただちに入ることができず苦労した。
 最後に印象に残ったその他の歌をあげておこう。
雨あがりまだ水にほふ朝空になんのしるしの眼や爪ひかる
日の光うつろふ柱に日暦の束なすじかんのかげもうつろふ
水底の鯉は記憶のかげりにて春のぼりくる死者をうべなう
日をかへすことりの羽はやはらかに花ともなりて咲くたかぞらに
花びらの開閉しづか血の河を領せしひかり天にうつろふ
古きページに声刻まれてゐたりけりまぎれず青しそのかきつばた

第39回 関口ひろみ『あしたひらかむ』

ししむらを借りてたましひ傷めるをさくらまばゆき闇に還さむ
              関口ひろみ『あしたひらかむ』
  作者の関口ひろみは1961年生まれで、1988年に歌林の会に入会して馬場あき子に師事している。『あしたひらかむ』は1998年刊行の第一歌集。掲出歌では、肉体を借りて魂が傷んだというから、魂が先に存在し、現世においてかりそめに肉体に宿ったということだろう。それを闇に返すという。その闇を「さくらまばゆき」と形容するのは短歌的修辞である。その実体は、私たちがそこからやって来て、そこへ帰ってゆく、決して知ることを得ない領域である。短歌的工夫を凝らして作られた歌だが印象に深く残る。
 実は『あしたひらかむ』の前にある若い人の歌集(と称するもの)を読んでいた。しかしその言葉の平板さと作品世界の幼稚さに辟易して途中で投げ出した。時間を無駄にしたのも業腹である。おさまらぬ腹の虫を抱えつつ『あしたひらかむ』を読み始めるや、干天の慈雨のごとくに言葉が染み込み、波だった心が平らかに静まる。ああ、短歌はやはりこうでなくてはならない。
 さて関口の作風であるが、馬場あき子麾下の歌林の会にふさわしく、古典の素養に裏打ちされた端正な言葉遣いによる本格定型短歌である。
公園に泣きゐしをさな新緑はふたつのまみをしたたりて落つ
を容れず拒まず海は銀ねずのまなぶた薄くひらきゐるなり
ひと恋へばたちまち濁る鏡かな虚空燦々夏はわたるを
きみへ漕ぐ櫂とはつひにならざりしかひなを二本さげて佇む
虫のこゑかそか残れるあかときを樹はみづからの翳より目覚む
 歌集冒頭近くから引いた。あとがきに「I章の歌を作っていたころは、ひたすらたましいを鎮めたく、(…)古風といわれるのを恐れないでつくろうと」とあり、習作期を脱しつつ主題を模索し表現を試みていた時期の作と思われる。作者には「たましいをしずめる」逼迫した必要があり、それは二首目の「吾を容れず拒まず」に遠く感じられる。作者の凝らした短歌的工夫は、一首目の「ふたつの眸をしたたりて落つ」や、二首目の「まなぶた薄くひらきゐるなり」に顕著であり、あえて古風な表現は三首目の「ひと恋へば」と鏡と夏の取り合わせに看て取れる。
昏るる田に火色ひらめきむらぎもの心の在り処たまゆら照りつ
ささなみの眠りのにたてり万葉の相聞に咲く沖つ藻の花
夏麻引くいのち傾けひひややけき山手線に舟漕ぐわれは
手酌してゑふに似るなり閑吟集 空櫓の音がころりからりと
わがこころ浦渚うらすの鳥ぞ 地下ホームに銀の車輌が風を起こし来
 一首目の「むらぎもの」や三首目の「夏麻引なつそびく」はよく知られた枕詞であり、古風を恐れぬ姿勢はここにも見える。二首目の「ささなみの」は本来は大津・志賀・比良などの地名や、波が寄ることから「夜」にかかる枕詞で、「夜」から「眠り」へと続いている。四首目の「空櫓」は水に浅く入れた櫓のことで、下句の「空櫓の音がころりからりと」は閑吟集からの引用。五首目の「浦渚」は浦辺にある州のことで、「わが心浦州の鳥ぞ」は古事記からの引用である。これらの歌はおそらく言葉から発想された歌で、実景から出発したものではなく、狭義のリアリズムに立脚していない。
 もちろん本歌集には言葉の世界に遊ぶ歌だけではなく、作者の身辺生活に材を得た歌もある。作者は出版社の校正部で働いているらしく、次のような歌がある。
フィットネス特集の校正刷ゲラ配られて校正室は定番の春
流れもののやうに集へる校正者おのれを隠しつつおのれ濃し
校正者のさかしらがほは疎まれて消さるべきメモこまごま記す
 フィットネスが定番になるのはコートを脱ぎ捨てる春を迎えた女性誌だろう。おもしろいのは二首目で、校正係が流れ者のような人たちだとは知らなかった。校正係は表に出ない黒衣役なので「おのれを隠しつつ」なのだが、その実個性豊かなので「おのれ濃し」なのである。三首目には校正係の心情がよく出ている。私も仕事柄書いた原稿を校正されることが多いが、大手出版社や新聞社の校正係の仕事にはいつも舌を巻く。誤字脱字や送り仮名の不統一は言うまでもなく、人名表記や年号の間違いに始まり、TV番組「笑っていいとも!」には最後に感嘆符が必要なことまで指摘してくれる。私はいつも校正係の訂正はほぼそのまま受け入れているが、人によっては「さかしらな!」と怒り出す人もいるのだろう。
 また歌集後半を中心に次のような瑞々しい相聞歌もある。
きみを恋ふわれはもつともわれなるか草のもみぢをまみに充たしぬ
いつ逢ひても見慣れざる貌きみはもちおのが寒さのうちに棲むなり
きみとゐる春の茶房にやはらかく水押す鳥の胸おもひたり
きみの黙のみなもとに掌をふれたきをフォークにパスタからめゐるのみ
手を洗へばみちくるうしほきみがゐてわがゐる暮らしかりそめならず
 作者は恋に不器用な自分を感じているらしく、相手との距離感に淋しさを感じているようだ。「きみ」と詠われている人かどうかは不明ながら、やがて作者は結婚して五首目のようなふたりの暮らしを始めるところで歌集は終わっている。第一歌集としては抜群の完成度を備えた歌集と言えよう。関口は2008年に第二歌集『ふたり』を上梓している。難しい病を得て療養生活を送っているらしく闘病詠が中心である。作者には切実な主題だが、読んでいると辛い。
 『あしたひらかむ』は構成の手を加えてはいるが、ほぼ編年体で編まれている。注目した歌に付箋を付けてゆくと、付箋は前半に多く後半に進むほど少なくなった。これはどういうことだろう。ふつう年月を経るにつれて作者の技量は向上し、歌境は深まるはずではないか。これについて考えるところがあった。
 同じ時期に穂村弘の対談集『どうして書くの?』を読んだ。長嶋有との対談で穂村は次のように発言している。
 「いま時代全体の趨勢として『ワンダー (驚異)』よりも『シンパシー(共感)』ですよね。読者は驚異よりも共感に圧倒的に流れる。ベストセラーは非常に平べったい、共感できるものばかりでしょう。以前は小説でも、平べったい現実に対する嫌悪感があったから、難解で驚異を感じる、シュールでエッジのかかったものを若者が求めていた。でも今は若者たちも打ちのめされているから、平べったい共感に流れるのかな。(…) すると、詩歌にあるような、言葉と言葉同士が響きあう衝撃みたいなもの、俳句でいう切れになるような感覚は、圧倒的に読みにくいという話になりますよね」
 私は穂村よりさらに上の世代なので、もちろん文学はワンダーの世界を構築するものと思っている。穂村の発言を読んであらためてそうなのかと再認識したのは、一読者として短歌を読むときにも私はシンパシーよりもワンダーという態度で臨んでいるということだ。若い作者の短歌に不満を感じることがあるのも同じ理由で、短歌でも若い作者はシンパシーに傾斜しているのは明らかである。関口の第一歌集を読んでいて、むしろ前半の方に付箋の付く歌が多くあったのはこのような理由による。するとこれは作者の技量の向上とか歌境の深化という問題ではない。もちろん作者関口の責任でもなく、その歌の価値を貶めるものでもない。関口は短歌をより自分に引きつけて捉えるようになっただけである。
 俳句や短歌などの短詩型文学では、〈読み手=作り手〉という構図が成立する。私のように自分では短歌を作らず読むだけという純粋読者はほとんどいない。私が短歌にワンダーを求めるのは読者としての私の嗜好にすぎない。と、ここまで言うと議論は終わってしまうのだが…。言葉でワンダーを立ち上げる短歌を読みたいと思うのである。

第38回 眉村卓『霧を行く』

過去追ひて眼鏡に障子歪みをり 
眉村卓『霧を行く』


  今回取り上げるのは歌集ではなく、今年(2009年)7月に深夜叢書社から刊行されたSF作家として名高い眉村卓の句集である。長大なあとがきによれば、眉村は高校生のときから俳句を作っており、赤尾兜子の知遇を得て句誌「渦」に投稿するなど、断続的に句作は続けて来たが、このたび句集としてまとめることになったという。一説によれば俳句人口は短歌人口の10倍はいるという話で、各界で句作に親しむ人は多い。しかしあとがきに綴られた人生の軌跡を見ると、眉村にとって俳句は小説家の余技ではなく、自身の文学的営為により深く埋め込まれたもののようだ。
 帯文に署名はないものの、おそらく深夜叢書社社主で自身俳人でもある斎藤愼爾の手になるものと思われるが、次のように書かれている。「日本SF史上に不滅の金字塔を樹立した泉鏡花文学賞作家は、高校時代から半世紀に亘り俳句界を疾走してきた前衛俳人でもある。生と死をめぐる象徴的、神秘的、幻想的、夢幻的、そして根源的な情念の表白の結晶、ここに成る。」そして次のような句が抜粋されている。

木犀の香の闇ふかし別れ来て
灯の中に鬼灯夢も暗からむ
亡妻佇つ桜もつとも濃きところ
冬麗や切絵のごとき姫路城

 眉村の句を「象徴的、神秘的、幻想的、夢幻的」と評するのは、「蝶殺めおれば日月入れ替わる」「月光の創かくれなし蟻地獄」などの句のある斎藤愼爾自身の美学に基づく判断である。帯文の抜粋句もまた同じ美学に基づいて選ばれている。
 斎藤の指摘はそれとして、私が眉村の句を読んで強く感じるのは濃密な物語性である。あとがきで眉村は、SFの本質はセンス・オブ・ワンダーであるとの説に触れ、「SF的感覚を援用して言えば、私の俳句とは、時空の集約が感じられるものでありたい」と述べている。俳句の王道は二物衝撃だが、二物の出会いによる衝撃に止まらず、宇宙をクルミの大きさに閉じこめるように、時空が圧縮されたような感覚をめざすということだろう。その圧縮された時空間に物語が匂い立つのは、ショート・ショートという得意ジャンルを持つSF作家の故にちがいない。たとえば次の句はどうだろう。

氷菓出て転職依頼ためらひつ
獄塔出て異郷の蜂がつきまとふ
風花や女がくだる螺旋階
ぶらんこがどこかで軋み濠の昼
終着駅近しまだ在る冬の虹

 一句目、「氷菓出て」はアイスクリームが食卓に出されたという意味だから、誰かの家にお邪魔しているか、レストランでの情景だろう。自分は転職を頼みに来ているのだが、どうしても言い出せないという、一片の人生風景を切り取ったような句である。季語は氷菓で夏。二句目、「獄塔」は監獄の塔屋で、どこかよその国で昔監獄として使われていた建物を観光しているのだろう。監獄ゆえに幽閉されていた人物の物語が立ち上がり、「異郷の蜂」にも意味がまとわりつく。季語は蜂で春。三句目、螺旋階段を下りる女性には、色鮮やかなワンピースを着ていてほしい。階段を下りる回転動作にワンピースの裾が広がって美しい弧を描くという高度に視覚的な句。螺旋階段を下りる女というだけで一編の掌編小説のようだ。季語は風花で冬。四句目、濠とあるので皇居のお濠のような城の環濠が目に浮かぶ。ぶらんこは春の季語なので、うららかな春の昼である。そこにぶらんこが軋む。近所に公園があれば子供がぶらんこに乗って遊んでいてもおかしくはない。しかし「どこかで」の一語が句に潜む危うさをあぶり出す。五句目、終着駅まで列車に乗っている男がいるのだが、「まだ在る」により男がずっと虹を見ているという時間の流れが句に生まれている。虹は夏の季語だがここでは冬。このように一句17音に凝縮された時空間にどこか物語が感じられるのである。
 眉村は句友から「言葉の使い方が俳句のそれとはどこか違う」と言われたそうだ。それはこのような眉村の句に潜む物語性に関係するのかもしれない。この間の事情を詳らかにするのは私の手には余るが、ざっくり言って近代俳句の骨法は写実であり、現代俳句はそれに言葉の彫琢が加わる。

白葱のひかりの棒をいま刻む  黒田杏子
腐みつつ桃のかたちをしていたり  池田澄子
万緑や死は一弾を以て足る  上田五千石

 白葱を光りの棒と見たとき黒田の句は生まれたのであり、腐ってゆく桃にまぎれもない桃の形を見たとき池田の句は生まれたと言える。カメラが対象に肉薄し、眼前の極小の対象をこれ以外にないという見方で的確に捉えた瞬間に、ベクトルが反転してそこに極大の世界が生まれる。また現代俳句のひとつの特徴として、上田の句のように情け容赦のない断言が定型を屹立させるというものがある。いずれも言葉を削ぎ落としてゆくことで到達する世界である。これにたいして眉村の俳句では、言葉を削ぎ落とすのではなく、逆に物語を呼び込むような言葉の選び方がされている。このことが「言葉の使い方が俳句のそれとはどこか違う」ということにつながるのではないだろうか。
 掲出句「過去追ひて眼鏡に障子歪みをり」はこれだけ読むと解読が難しいが、眉村の妻が病を得て亡くなった直後の歌である。

妻元気並木の辛夷咲き始め
紫陽花よ妻確実に死へ進む
西日への帰途の彼方に妻はなし
妻逝きし病院を訪ふ秋の雲
際限もなく銀杏散る明る過ぎる

 ふつうは「妻元気」とは書かないから、すでに病が進行していることが知れる。一連は慟哭の句であり、最後の句の「明る過ぎる」もこの文脈で見れば哀切の句となる。掲出句の過去は妻が生きていた過去であり、眼鏡に障子が歪むというのも悲しみの表現であろう。次のような句も印象に残る。

哀歓の涯は枯木に触れゐたる
雨後黒く馬と藁塚まじり佇つ
永くバス待ちて案山子の視野の中
草にまぎれ得ぬ秋蝶をみつめをり
春愁や不意に鉄橋轟々と
路地幻視秋の夕日が嵌め込まれ
剃られつつ刃を感じゐる五月かな
加速する時間の雫鬱王忌

 最後の句の鬱王忌は赤尾兜子忌のこと。「大雷雨鬱王と会うあさの夢」の句のある兜子は鬱病に苦しみ自死している。「加速する時間の雫」は兜子に捧げるSF作家のオマージュだろう。ふつうの俳句作家の発想ではない。
 眉村の父の村上芳雄は夕刊紙の記者をしており、歌人だったという。父は短歌で息子は俳句というわけだが、おもしろいことに眉村の長女の村上知子は短歌を作っており、旅行記の散文と短歌を組み合わせた『上海独酌』(新人物往来社、2004年)という著書がある。歌を二三引いてみよう。

既に死にたなびく君の魂をつなぎとめむと秋刀魚焼きたり
大叔父の残せし煙草ピース菊の紋誰も昭和を喫いきれぬまま
水引の花は穂先を天の川星の高みに詠記すなり

 短歌と俳句とジャンルは違え、三代に亘って短詩型文学の血が脈々と流れているのは興味深い。親子の継承がほとんどない小説や詩と、短歌や俳句という短詩型文学の生理の差だろう。その生理の差とは、言葉の中に込められる〈私〉の分量と位相に集約される。言葉の中に〈私〉が塗り込められる機序はいかに、というのが積年の私の疑問なのだが、それはまた別の話である。

第37回 柏原千恵子『彼方』

おほ空に色かよひつつ桐さけり消ぬべく咲けり消ぬべく美しも
                 柏原千惠子『彼方』
 柏原千惠子さんが今年2009年6月に徳島の病院で亡くなった。享年89歳の長逝である。第三歌集に収録する歌をまとめて、あとがきを長女の三久潤子さんに口述筆記するところまで準備が進んでいたのだが、出版された歌集を見ることなく亡くなられた。したがって『彼方』は遺歌集ということになる。柏原さんは「未来」同人だが、中央に背を向けて徳島を離れず、歌誌「七曜」を主催しておられた。歌集に『水の器』『飛去飛来』があり、『彼方』は第三歌集ということになる。華やかな受賞歴とは無縁ながらも、素晴らしい歌を作っておられた。ご冥福をお祈りしたい。
 掲出歌は大木となり空の高みに紫の花を咲かせる桐を詠んでいる。その様を「おほ空に色かよひつつ」と表現する広大な空間感覚が、柏原の歌の特徴のひとつである。花は短い命を終えてやがて散る。「咲く」ことの中には「散る」ことがあらかじめ内包されている。花はそのようなものとして在る。語調の静かさが印象に残る歌である。
 私は角川『短歌』平成16年8月号の「101歌人が厳選する現代秀歌101首」という特集で、紀野恵が挙げていた「とぶ鳥を視をれば不意に交じりあひわれらひとつの空のたそがれ」という歌で柏原を知った。鳥とそれを見る〈私〉とが交じり合うという主客混淆の感覚が、スケールの大きな空間把握の中で表現されている秀歌である。この歌に出会ったときは、一首が不意に私を打つという感覚に見舞われたが、『彼方』を通読して作者の歌境の深化に震える思いすら感じたのである。柏原の独特な主客混淆の感覚は、この歌集にもまた散見される。
山峡に瀧みれば瀧になりたけれなりはてぬればわれは無からむ
聲なくて見てをるわれとこゑなくてひたゆく雁と朝あけむとす
硬貨とり落して拾はぬ拾へざる戸外にわれはわれを捨てゆく
とほざかる感じのしばしつづきつつ桐の花あるままを歩めり
 一首目、〈私〉が瀧になればもう〈私〉はなく〈私〉が瀧であるというのだが、「なりはてぬれば」という完了形が示すように、完全になりきるまでは〈私〉のいくぶんかは瀧であり、瀧のいくぶんかは〈私〉なのである。柏原の歌では「視る」ことが大きなウェイトを占めているが、どうやら「視る」こと即、対象の一部と同化するという感覚を持っていたと思われる。二首目では雁と〈私〉の混淆ではなく平行共存が歌われているが、天の雁と地のわれとに深い呼応があることは言うまでもない。三首目、誤って戸外に硬貨を落としてそのままにするのだが、〈私〉を捨ててゆく気持ちがするというのである。四首目は少し不思議な歌だが、咲いている桐の花から〈私〉が遠ざかると読みたい。歩を進めるという空間移動を「とほざかる感じのしばしつづきつつ」と自身の内的感覚に変換して表現するところに、独自の感性を感じるのである。
 『彼方』は歌誌「七曜」に長年にわたって発表した歌を集めたものだと推察されるが、老境に入るにつれて「〈私〉を超えるもの」と「存在と非在の往還」という境地が加わったものと見える。
内に向くものかもまして冬の夜は知らざる界の奥深きまで
冬の夜を細りほそりて卓上に鉛筆はありぬいづくより来し
見えざればまして迫りて夕ぐれの海は一枚の手紙とおぼし
在らずして在るもののごとゆふぐれのかなかなのこゑ空に華やぐ
刈田未明鴉一羽がわたりをりゆるぎなく低く遠世わたれる
 一首目の「内に向く」は内面を凝視することだが、冬の夜はどこまで深く降りてゆくのか知れぬほどで、その果てにあるものはもはや〈私〉ではあるまい。二首目、卓上にころがる鉛筆は確かにそこに在るのだが、その存在は非在の感覚と背中合わせである。三首目、夕暮れの海は見えないからこそ迫って来るのであり、時に非在は存在よりも生々しい。四首目、姿は見えず鳴き声だけが聞こえる蝉を「在らずして在るもののごと」と表現している。五首目は、稲刈りの終わった冬田の上を鴉が低く飛ぶ光景を詠んだ歌だが、結句に至り転調して、この世のものではない光景に転じている。先に柏原の歌の特徴として「スケールの大きな空間表現」を挙げたが、ここに至って「〈私〉を超えるもの」と「存在と非在の往還」という次元が加わり、その歌の世界はますます重層的かつ多元的なものになっているのである。
 その一方で次のような歌もある。
この町のひとつのビルの片面が夕日浴びをりしばらくのこと
いづこにか在るゆえ映る古びたる外国の街の海岸通り
雨戸より落ちしは守宮おちたれば落ちたるものの體重の音
曇るとも晴るるともなきはるぞらに高らかに犬の声になく犬
 一首目はビルの片面が夕日を浴びているという、ごく日常的な当たり前の光景を詠んだ歌である。それが結句の「しばらくのこと」によって、毎日繰り返される日常風景から今ここでしか経験できないかけがえのない景色へと転じる。そこに浮上するのは「生の一回性」の感覚に他ならない。二首目でTVの画面に映る外国の風景は、どこかにあるから映っているのだという、これまた当たり前のことが詠われている。しかしそれがたまらなく愛おしいことに思えるのは何故だろう。落ちたヤモリが体重相応の小さな音を立てるのも、犬が犬の声で鳴くのも当たり前のことである。しかし、私たちが日頃当然のこととして看過していることを、殊更に取り立ててこのように表現されると、私たちの目に入っていなかった世界が浮上する。それはほとんど魔術的と言ってもよいのである。
 柏原は晩年は体が不自由になり、老人ホームに入所していたらしく、体の不如意を詠った歌も集中にはある。しかしそれにも増して視線を遠く虚空に、また時には非在の世界へと遊ばせる歌が多く、感性の自在さと言葉の斡旋の巧みさは驚くばかりである。
傷口に集りをれる血球のざはめくまでに夏のゆふぐれ
夕映えにひととき早き真澄には柿の裸のこずゑの自在
おもおもと緋桃はひらく夜の底のまぶたのうらのときじくの花
「ハルシオン」しづかに溶けよ概念の青き藻屑の夜のねむりに
水のような光のような自由欲りわれらがわれにかへるゆふぐれ
 いずれも絶唱というにふさわしい。なかでも最後の歌は、作者が不自由な状況に置かれていただけに心に染みる。作者は歌集題名のごとく彼方へと去り、私たちには三冊の歌集が残された。あらためてご冥福を祈りたい。

第36回 尾崎朗子『蝉観音』

カフェの壁あまりに白しエンダイヴこの苦さこそわれを在らしむ
                   尾崎朗子『蝉観音』
 短歌を読むときの理想的な形は、私の前に一冊の歌集があり他には何もないという状態である。とりわけ目の前の歌集と表紙に印刷された著者名以外に、予備知識が一切ないことが望ましい。私は何の予備知識も持たず、裸の心で歌に出会う。これが理想である。嗚呼しかし、なかなかこうはいかない。要りもせぬ知識や雑多な情報を知らぬ間に身につけてしまっている。しかし今回取り上げる尾崎朗子については、幸い何の予備知識もない。白紙の心で歌の世界に踏み入る喜びを味わうことができた。
 米川千嘉子の解説によれば、尾崎は1999年に「かりん」に入会し、2001年には結社内の「かりん賞」を受賞している。2008年に上梓された『蝉観音』は第一歌集である。掲出歌のエンダイヴはときにチコリとも呼ばれる外国野菜で、白菜をうんと小型にしたような紡錘形の形状をしている。ほぼ純白で葉先がほんのり黄色い。欧州ではサラダかグラタンにして食する。生のままざく切りにし、干しぶどうを混ぜてドレッシングで和えると美味しい。その特徴は苦みであり、歌でもその味覚に焦点が当てられている。カフェの壁の白さとエンダイヴの白さが照応しているのだが、「あまりに白し」とあるから〈私〉はその白さを受け止め切れない心理状態にあるのだろう。口に感じるエンダイヴの苦みだけが〈私〉の存在の証だという実存的な歌である。「この苦さ」という近称の指示表現が強さを生んでいる。叙景よりは叙情、なかんずく〈私〉に執した立ち位置であり、それは収録されたほぼすべての歌に共通する特徴でもある。
円満はあきらめに似てリビングにはつか漂ふ熟柿のかをり
ぎざぎざの微妙に異なる鍵七つ持ちゐるあなたが持たぬわたしく
薄目して月見れば月ふたつありあなたに一つわれにも一つ
うららかな春に戸籍を作りたり筆頭者われに続くものなし
生ぬるき水道水を火にかけて中途半端をくつくつ沸かす
画材屋で槐多のガランス求めたり逃げごしなこの恋に塗らむと
 最初の四首は離婚の歌で、気持ちのすれ違いから離婚に至るまでの心の動きがかなり率直に詠まれている。表面的には円満に見えても実は心が通わない夫婦の状態を象徴する熟柿の退廃的な香りや、すれ違う心を象徴する鍵のぎざぎざなどに一応短歌的な工夫は施されてはいるのだが、作者のねらいはそこにはないだろう。これは芸術的完成をめざす歌ではなく、自己を確認し鼓舞するための歌だからである。芸術至上主義者は芸術の無用性をおのれの勲章とするが、尾崎の歌の向かうベクトルは逆方向である。風邪薬のごとくに有用な歌なのだ。たとえば上にあげた五首目や六首目の歌を見るとそのことはよくわかる。水道水の生ぬるさは自己の優柔不断の喩であり、作者はそれを何とかしようと鼓舞している。六首目のガランス (garance)はフランス語で植物のアカネまたは茜色の染料のこと。茜色の絵の具を塗ることで村山槐多の絵の激しさを自分の恋に与えようとしている。このように歌の中に〈私〉のすべてを投げ込もうとするのは、女性の歌のひとつの特徴かもしれない。
顔知らぬ父の記憶を燻らせむ十五歳じふごのわれのいとなむ煙草忌
われ産みし人のうはさを聞くゆふべ肉じやが煮すぎてじやが崩れたり
祖母の家祖母逝きたれば消え去りぬ更地売地のわが本籍地
産まぬこと決めてをりしが初夏の軒のつばめの子ひとつ盗ろか
モルヒネのポジ借りられず「骨転移」特集記事の余白埋まらず
 両親の離婚か父親の早世によって作者には父親の記憶がなく、また訳あって祖母のもとで育てられたことが歌から透けて見える。このため最初の三首のような血縁をめぐる歌があり、それはかなり重い。二首目は秀歌で、「肉じやが煮すぎてじやが崩れたり」の下句は、小笠原和幸の「ただ二人この家に住む日が来たら継母よ蜆が煮え立っている」の下句と遠く呼び交わす趣がある。作者は働く女性であり、歌から察するに雑誌か新聞に関わる仕事に就いているようだ。次に引くのはそんな働く女性の日常を描いた歌である。
闘牛の角あはせのごと乗り込める朝の車輌にひとの声なし
駅前のストアは終電まで開いて今夜の豆腐は木綿と決めぬ
蜻蛉をつきしたがへてわたくしを奪還しにゆく日曜の朝
東京タワーには東京タワーの疲れあるらしく踏ん張つてゐて経絡凝る
多摩川にその身さらして都鳥きつつなれにしもの脱ぎすてよ
 労働はときに心を磨り減らすが、三首目以下のように女子の覚悟を詠う歌が多い。「蜻蛉をつきしたがへて」はそのかみの女王のごとき風格である。四首目は東京タワーの疲労に自己を託した歌。東京タワーにも経絡があるという見立てがおもしろい。五首目は業平の歌に心情を託した決意の歌である。近年、男性の歌より女性の歌にいさぎよい歌が見られるのも時代の流れか。
 「アポトーシス」「細胞年齢」などおそらく仕事で接したと覚しき単語が歌にうまく取り入れられている点も見逃すべきではないが、食へのこだわりを感じさせる歌に特に目が行く。掲出歌もそうだが食材を詠んだ歌がかなりある。飲食は人間の基本的行為だが、歌の中では食べ物にも心情がからまっているのであり、その心情の多くは恋である。
底冷えのする夜もづく酢すすりたりひとつの沼を飲み込む心地
黄金なすカルボナーラのしつこくて右肩さがりに暮れてゆく秋
別れても冷奴など食むならむめうがきりりと食みて泣くらむ
奈落には奈落の息抜きありぬべし 石焼ビビンバぐちやぐちや混ぜる
 最後に特に注目した歌を引いておく。
瑪瑙玉みがきみがけり雨月の夜わが掌中に木星はあり
むらさきの胡桃の雌花ひらきたりつつましくわれら交感せしのち
鶏卵を割ればひとすぢの血のありぬ満ちることなき月を抱へて
みづからの泪に渇き癒すとふ砂漠のとかげのその泪はや
酢にひたし蓮のカルマをぬぐひたり ああ今生では添えぬのだらう
腐蝕せしのちにあらはる線勁し銅版画の鳥われより発てよ
 最後の歌は巻末に置かれた歌で、腐蝕した後の線こそ勁いという言挙げに作者の決意を見るべきだろう。作者の歌の力が十分に発揮された第一歌集である。

第35回 笹公人『抒情の奇妙な冒険』

デンジマスク作り終えたる青年のハンダゴテ永遠とわに余熱を持てり
                  笹公人『抒情の奇妙な冒険』
 念力短歌の笹公人が放つ第三歌集である。歌集としては異例なことに、早川書房の「ハヤカワSFシリーズ Jコレクション」叢書の一巻として刊行された。ということは笹の短歌はもはやSFの領域に突入したのかと思われる。しかし巻末の栗木京子の解説は至極まっとうな歌集の解説である。また「寺山修司は『架空の私』を、笹公人は『他人のノスタルジイ』を手に入れた」という山田太一の帯文は、さすがに笹の本質を突いて鋭い。寺山修司の抒情を最も色濃く現代に受け継いでいるのは、喜多昭夫と笹公人だと思うからである。ただし、喜多は寺山の青春短歌の抒情に、笹は想像力による自己変身願望により比重がかかっているという違いはあるが。短歌がフラット化して短歌的抒情からますます遠くなる現代短歌シーンにあって、やや変則球ながら正面から抒情を詠う笹は独自のスタンスを築きつつあると言えるだろう。
 歌集題名の『抒情の奇妙な冒険』は、週刊少年ジャンプに連載された荒木飛呂彦のマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』のもじりである。笹自身はこのマンガに特に思い入れがあるわけではなく、題名だけを借用したらしい。スタンドと呼ばれる超能力を持つ登場人物の戦いが中心のマンガだが、数々の奇抜なスタンドを考案する想像力と、ありえない姿勢を取る人物画の魅力と、散りばめられた洋楽へのオマージュなどから、特に美術系の若者に熱狂的な支持を得た。登場人物のポーズをまねる「ジョジョ立ち」なる言葉も誕生し、毎週集まってポーズを競うサークルまであると聞く。かく言うわが家にも全63巻が揃っており、第5部のイタリアを舞台とするエピソードのゆかりの地をめぐる旅行を家族でしたほどなのだ。 
 さて掲出歌だが、「デンジマスク」はTVの戦隊もの電子戦隊デンジマンの登場人物がかぶる戦闘用ヘルメットだろう。青年はそのマスクを自作しているのだから、週末に秋葉原でコスプレをするオタク青年で、場所は木造アパート2階の四畳半がふさわしい。ラジオ工作の必須アイテムのハンダゴテは役割を終えて机に置かれているのだが、ハンダゴテが放散する余熱は言うまでもなく青年の熱い魂の喩である。下句「ハンダゴテ永遠に余熱を持てり」の8・7音の収め方が短歌的にうまい。
 歌集巻頭に置かれた「大きなる手があらわれてちゃぶ台にタワーの模型を置きにけるかも」という歌が、「大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも」という北原白秋の歌の本歌取りであることからも推察されるように、笹はある意味で現代短歌というより近代短歌の流れの中に位置すると言ってよい。というのも現代短歌は音数律の組み替え・暗喩の多用・枕詞などのレトリックの復活など、短歌の表現面の革新に腐心してきたが、笹の興味は表現面にはなく、短歌という古い革袋にどのような酒を入れるかという点にあるからである。古い革袋に古い酒を入れてはおもしろくない。しかし短歌的抒情は古い酒である。これをいかに新しく見せて古い革袋に入れるかに工夫が必要だ。その工夫は今までは念力というキーワードだったのだが、今回笹はあえて念力を封印して、新しい試みに挑戦している。それが山田太一の帯文にあった「他人のノスタルジイ」なのだ。この歌集では過ぎ去った昭和という時代への郷愁が、全体を支える文化装置として採用されていることがわかる。
ベーゴマのたたかう音が消えるとき隣町からゆうやみがくる
しのびよる闇に背を向けかき混ぜたメンコの極彩色こそ未来
人攫いのうわさが少女を暗くして真っ赤に燃える東京タワー
東京に負けた五郎の帰り来て大工町の名はまた保たれる
鉄人を地下に隠して夕暮れる博士の洋館やかたは蔦に覆われ
 巻頭の「四丁目の夕焼け」と題された章から引いた。この題名そのものが映画「Always 三丁目の夕日」のもじりであることは言うまでもない。歌に登場する「ベーコマ」「メンコ」は、1975年生まれの笹にはすでに過去形の遊びだろう。「東京に負けて地方に戻る」という図式もまた高度成長期特有のものである。「鉄人」は横山光輝のマンガ「鉄人28号」だから、笹はリアルタイムで見てはいない。だからこれらの短歌に散りばめられたアイテムは笹自身のものではなく、「他人のノスタルジイ」なのである。ちなみに「大工町」は寺山へのオマージュかと思われる。
鞘鳴りの音にふりむけば花の森 MISHIMAに降りる武士の魂
鉄球が俺の部屋までぶっ壊す夢から醒めて外は大雪
暑中見舞いのハガキをくれたお姉さん陽炎のなかで永遠とわに微笑む
廃駅に兆せる凶事のまぶしさに金田一耕助が手を振る
 一首目は三島由紀夫割腹事件に材を採ったもので、「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに畿とせ耐へて今日の初霜」という三島の辞世と、初期作品「花ざかりの森」と映画「MISHIMA」の題名を詠み込んだ凝った作りである。二首目は連合赤軍浅間山荘事件、三首目はキャンディーズ解散、四首目は角川映画の金田一耕助シリーズで、70年代から80年代にかけての時事を背景としている。四首目はひょっとして、「廃駅をくさあぢさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり」という小池光の歌を踏まえているのか。
 なぜ笹は古い革袋に抒情という古い酒を盛るのに「他人のノスタルジイ」という仕掛けを必要としたのか。その背景には、リアリズム近代短歌における〈私〉イコール「作者の私」という図式がすでに壊れていることがあるだろう。この点において笹は寺山の直系の子孫と言ってよい。寺山は新しい〈私〉を立ち上げるために、経歴の塗り替え・地理的遁走・犯罪といった物語を創作した。これらに替わるものが笹においては念力であり「他人のノスタルジイ」だと言えるだろう。抒情を詠うにはどうしても〈私〉が要る。フラット化した現代社会に抒情の芯となる手応えのある〈私〉が見あたらないならば、時代や場所をずらして作り出すしかない。こういうことだろうと考えられる。先に表現面において笹は近代短歌の流れの中にいると書いたが、この〈私〉の位相に関しては笹はまぎれもなく現代短歌の地平にいるのである。
 この点に関しては少し気になることがなくもない。2008年度の短歌研究賞受賞作「楽しい一日」や受賞後第一作「チャイムが違うような気がして」で、穂村弘がやはりノスタルジーという文化装置を濃密に用いていることである。
グレープフルーツ切断面に父さんは砂糖の雪を降らせていたり
                         「楽しい一日」
もう一度やってくれたら真剣にみるからラーマ奥様インタビュー
超特急ひかりの鼻に散らばった2年2組のプリクラたちは
ザリガニが一匹半になっちゃった バケツは匂う夏の陽の下
                 「チャイムが違うような気がして」
夕闇の部屋に電気を点すとき痛みのようなさみしさがある
魚肉ソーセージを包むビニールの端の金具を吐き捨てる夏
 穂村の歌が単純な子供時代の回想ではないことは言うまでもないが、歌に散りばめられたアイテムは確かに懐かしさを演出する子供時代のものである。笹の場合ほど明らかなゲーム世界の設定という訳ではないが、共通する匂いがあると感じるのは私だけだろうか。現代短歌があまりのフラットさに耐えかねて、時間の流れを漂流し始めたということなのだろうか。
 さて笹の方は「他人のノスタルジイ」によって抒情を発生させることに成功したのか。
あしひきの山下清におにぎりを持たせたという曾祖母トメは
鳥占の鳥を逃がした老師いてきらめく正月の中華街
町はいま既視感デジャ・ヴュの火事のほの明かり だれもかれもが顔をなくして
えんぴつで書かれた「おしん」の三文字にベータのテープを抱きしめており
 これらの歌を読むと確かにここには短歌の抒情がある。「おしん」の歌など涙が出そうだ。ただ笹の場合、昭和という時代設定やサブカルチャーなどのアイテムが余りに露出しすぎているので、不真面目だと感じる人もいるかもしれないのが心配だ。私は笹が不真面目だなどとはまったく思わないが。
 ほぼ同時期に笹は『念力短歌トレーニング』(扶桑社)を刊行している。こちらはブログの「笹短歌ドットコム」に寄せられた念力短歌を笹師範がコメントし、模範作を提示する趣向になっている。編集担当は扶桑社に移った藤原龍一郎らしい。知らなかったがこのブログには急逝した笹井宏之や『5mほどの果てしなさ』の松木秀も投稿していたのだ。笹井は念力短歌でも透明感溢れる笹井ワールドであるところがさすがだ。
グリズリーに跳ねあげられた紅鮭の片方の眼に映る夕虹  笹井宏之
ひとしれず海の底へと落とされた大王烏賊のなみだを思う
鉄筋にリサイクルされるUFOという身も蓋もなさもSFとして  松木秀
『にぎやかな未来』の世界で一番に売れる「4分33秒」
 このブログに集められた短歌を見ても、枡野浩一のマスノ短歌教と並んで笹の念力短歌が、今の時代に短歌を作ろうという若い人たちの一部を確実に引き寄せていることがわかる。
 先日このコラムで取り上げた寺山修司の遺稿集『月蝕書簡』に次のような歌がある。これに笹の短歌を並べてみてもあまり違和感がない。
少年が目を洗いいるたそがれを鞍馬天狗が帰る蹄音  『月蝕書簡』
包帯を巻かれて消えしわが指が恋し小学校の吸血鬼かな
六本木の黒人の喧嘩止めにゆく 魔太郎風の薔薇のシャツ着て
                     『抒情の奇妙な冒険』
花子さんの手をふりほどき逃げてきた少女の髪は焚き火のにおい
 歌集あとがきで笹は、念力という看板を外したことで自分は歌人として新たな冒険の時代に入ったと書いている。抒情をめぐる冒険の今後が期待される。

松野志保歌集『Too Young to Die』書評:砕け散った世界に生きる二人の少年の物語

  歌人が第一歌集の出版まで漕ぎつけるのはたいへんなことだと聞く。しかしもっと重要なのは第二歌集だとも言われる。第一歌集ではまだ萌芽的であった歌人の個性が、第二歌集で確立されるからである。二〇〇二年に『モイラの裔』でデビューした松野志保がこのたび世に問うた第二歌集『Too Young to Die』は、その意味で期待を裏切らない一冊となっている。
 ワカマツカオリの描く少年のイラストが飾る表紙と、ヴィヴィアン・ウエストウッドの店の名前から採ったという歌集題名が前景化する主題は「少年」である。少年性は一人称を「ぼく」で通した『モイラの裔』にすでに胚胎していたが、『Too Young to Die』でこの主題はさらに深化され、「二人の少年」というより明確な像を結ぶに至った。
いつか色褪せることなど信じないガーゼに染みてゆくふたりの血
この夜の少しだけ先をゆく君へ列車よぼくの血を運びゆけ
ぼくたちが神の似姿であるための化粧、刺青、ピアス、傷痕
脱ぎ捨てる乳白のシャツこの胸に消えない傷をつけてほしいと
 ほのかに血とエロスの匂いのする耽美的な少年の世界が、想像力を飛翔させ、歌想を汲み出す源泉となっているのは疑いない。この世界につらなる作品には確かにツインで登場する少年が多い。ヘッセ『デミアン』のジンクレールとデミアン、宮澤賢治『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラ、萩尾望都『ポーの一族』のエドガーとアラン、荒川弘『鋼の錬金術師』のエドとアルなど、枚挙に暇がない。なぜ少年は二人でやって来るのか。その理由にはアンビバレントな要素が内在していることに注意しよう。二人という最小対の関係は、ジンクレールとデミアンのように、時に導師と弟子の二項関係を形成し、十九世紀西欧に成立した成長物語ビルトゥングス・ロマンの基盤となる。二人の少年は対関係を梃子に成長しやがて大人になる。しかし、別の斜面においては、二人という対関係は外部世界を故意に遮断し、内部に閉じこもる繭化コクーニングの危険も孕んでいる。この場合、少年は成長するのではなく、逆に成長して大人になることを頑なに拒否する。松野の短歌に登場する二人の少年は、どうやら後者のようなのだ。
創を持つ果実の甘さ鳥籠の外の世界がこわれるときも
どこへ往くことも願わぬふたりには破船のようにやさしい中庭パティオ
繭に閉じこもる甘美さと行き場のなさがむせ返るように共存している。そして『Too Young to Die』が描いてみせる繭化した二人の少年を取り巻く世界は、黙示録的終末観が色濃く漂う世界なのである。
またひとつピアスの穴をやがて聞くミック・ジャガーの訃報のために
癒されたいわけじゃなかったこの傷のほかには何も持たないぼくら
ひび割れた鏡に映る世界その欠片ひとつひとつを雨が打つ
灰の降りやまぬ世界に生まれたから灰にまみれて抱き合うぼくら
炉心隔壁シュラウドがひび割れてゆく幾千の夜をひたすらその身に溺れ
 ではなぜ松野はこの主題に拘泥するのだろう。もちろんそこには個人的嗜好が働いている。同人誌『Es空の鏡』に寄稿した「元やおい少女の憂鬱」と題された文章のなかで、松野は自分の「やおい」的傾向を率直に告白している。「やおい」とは、「ヤマなし」「オチなし」「意味なし」の頭文字を繋げたもので、元来は少年同士の恋愛を主題とする少女マンガの一ジャンルであるBL (boy’s love) をさす。「やおい」の世界は、少女たちの想像力と物語を希求する秘やかな願望の回収装置として働いてきた。
 このような個人的嗜好レベルの事情を、短歌という創作の地平に引き上げて考えると、「やおい」的世界に深源を持つ「少年性」という主題は、歌の中にひとつの仮構的世界を構築し、日常世界から失われたロマンを育む土壌となっている。それゆえに、この土壌から滋養を吸収する松野の短歌は、近代短歌のセオリーであった写実からは遠く、身辺詠も職場詠も家族詠も見られない。家族も友人も登場せず、舞台はどこであってもよく、どこでもない場所である。
 松野の短歌が描くこのような世界設定が、電脳仮想空間で展開されるRPG(ロール・プレイング・ゲーム)に酷似しているという点に注意しよう。その点に私は一抹の危惧の念を覚えざるをえないのである。
 なぜ危惧の念を覚えるかというと、RPGの世界はつまるところ「セカイ系」だからである。「セカイ系」とは、平凡な日常(近景)と世界の命運に関わる大事件(遠景)とを直結する思考様式をさし、その特徴は、家族・地域・社会といった〈中景〉がすっ飛ばされるという点にある。家族・地域・社会などの中間項は、〈私〉にストレスフルな拘束を課す鬱陶しい装置だが、本来は〈私〉と〈世界〉とを媒介する役割を果たしている。「セカイ系」はこの中間項を大胆に省略する。「セカイ系」の思考様式が出現したのは、哲学者リオタールのいう世界を解釈する「大きな物語」が二十世紀終盤に消滅したためであることは確かだろう。短歌の世代論的には、一九七〇年代始めに生まれた団塊ジュニア世代からその傾向が強く見られる。十代後半の思春期にバブル経済の崩壊を目撃した世代で、七三年生まれの松野はこの世代に属している。
 短歌がこの世を生きる〈私〉の表現であるならば ― そうではないという考え方ももちろんありうるが ―、〈私〉はどこかでこの世と切り結ばねばならない。そして、ここでいう「この世」のなかには、家族・地域・社会などのストレスフルな中間項も含まれることは言うまでもないのである。
 この歌集には次のような歌がある。
探知機をするりと通過するぼくの頭の中に爆弾がある
朝ごとのメトロ 併走する黒い馬の群その呼吸聞きつつ
わが言葉、貧しき地上に片翼の天使を繋ぐ鎖であれと
 私は次のように解釈した。平凡な日常を送る近景の〈私〉の頭の中には、遠景の世界を変革する爆弾がある。それは通勤電車に併走する黒馬の群としても形象化される。松野は想像力のなかで、このように近景と遠景をしばしば平行世界として描いている。ここに端的に松野の世界観が現れていると見たい。
 しかし私はここで次のように考えてしまうのである。遠景を変革・爆破するべき黒馬の群は、永遠に通勤電車と平行に走っているだけでは十分ではない。荒い息を吐く黒馬の群はいつかは通勤電車の線路と交差しなくてはならない。交差したところに松野の新たな歌が生まれるのではないか。そのように思えるのである。
 右に引用した最後の歌は、松野が短歌に賭ける思いを宣言した歌だろう。その志やよしである。松野がこの歌集で明確に形象化した「二人の少年」が、今後どのような方向に向かうのか、注意深く見守りたいと思う。



2009年8月『文藝月光』創刊号

都市と〈私〉が立ち現れるとき

 一九九一年に吉野の第一歌集『空間和音』が上梓されたとき、歌壇では賛否両論の声が上がったという。批判の急先鋒は藤原龍一郎で、「短歌の言葉に対する葛藤のなさへの不満」を出版記念会で吉野にぶつけている。藤原が槍玉にあげたのは、「ほくほくはやきいも ぽくぽくは木魚 ああ、ぼくたちは啄木が好き」「せっくすをしたいと思う すこしずつ水の季節がやって来るから」といった歌で、慚愧の念に裏打ちされた都会的抒情を身上とする藤原の目からすれば、吉野の歌は言葉と戯れる児戯に見えたのだろう。短歌的抒情を、恋愛・離別・生死などの人生における特別な時間に噴き上がるものと見なすならば、確かに吉野の短歌にはそのような意味での抒情は希薄である。八七年の『サラダ記念日』に始まるライトヴァース論争や、九〇年の荻原裕幸のニューウェーブ宣言を皮切りに、陸続と出版されたライトでポップな短歌の潮流という文脈に、吉野の歌集も位置づけられたのかもしれない。
 しかし、吉野は次のように述べていることに注目しよう。

「われわれはもっと大切にしなければならないと思う。日常。辞書的にいえば、つねひごろ、ふだんといった意味を持つことば。なんだかとても平凡な感じがする。とはいえ、現実の日常はけっして単純ではなく、その水準や相は多様である。この多様な水準や相をていねいに捉えようとする意志が、いま弱まっているのだと思う」
              (「日常と真向かうための」初出『合歓』二二号)

 これは吉野の生活信条であると同時に、短歌論ともなっている。平凡な日常の多様な相をていねいにすくい取ること、そこに見えて来るものがあると吉野は言いたいのである。次の歌はこのようなスタンスから生まれたものと思われる。

腐りたるトマトを捨てし昨日のことふと思い出す地下鉄に乗り  『空間和音』
冷蔵庫の上に一昨日求めたるバナナがバナナの匂いを放つ
自らの重さを思う目覚ましの鳴る十分前にめざめたる時
ぼくの目の高さ、コップに注ぎたる水の高さ そろり揃える

 いずれも詠われているのは日常の瑣事である。腐ったトマトを捨てたことなど、取り立てて歌にするほどのことではない。またバナナがバナナの匂いを放つのは当たり前のことだ。しかしこのような瑣事をすくい上げて、そこに注意のダイヤルを合わせるとき、浮かび上がって来るある確かな手触りが、これらの歌には感じられる。またこの手触りと相関して、手触りを感じ取る〈私〉もまた浮上する。生態心理学の教えるごとく、自己の知覚と環境の知覚は相補的だからである。このことは三首目にとりわけよく感じられる。目覚まし時計が鳴る前に目覚めるというありふれた日常的経験に劇的なものは何もない。しかしこの経験は自分の身体の重さという自己知覚へと意識を送り返すのである。四首目は吉野の方法論をそのまま歌にしたかのようだ。目の高さとコップの水の高さを揃えることによって見えて来るものがある。吉野はそう言いたいようだ。
 『空間和音』にすでに現れているこのような作歌姿勢は、第二歌集『ざわめく卵』に至っていっそう深化の度を増したようだ。モノの形象と都市の風景という新たな要素が加わっているからである。

秋の日のかがやきの中ふかくふかく見えてくるもの東京の辺に 『ざわめく卵』
目の前の裸木の群れゆっくりとわれをあふれて風景となる
人間のかたちとなって泣いている五月もしくは下闇のなか
椅子というかたちを見せているものの影伸びている君の足元
信州ゆ来たる特急わが前にかたちとなれば静止してゆく

 最後の歌に注目しよう。特急が私の前に止まったのではない。私の前に止まったものが特急となるのである。知覚の転倒とも見えるこのような把握の理由は何か。ふだん私たちは、知識と経験により構成された参照枠によって外界を見ている。たとえば公園にはベンチや砂場や水飲み場がある。ちらっと見たものをベンチと認識するとき、私たちはモノの性質や形状を仔細に吟味しているのではなく、公園にあるものはベンチだという参照枠に依存して判断している。多忙な毎日を送る現代の都市生活者であればあるほど、モノの形の前に留まることなく、便利な参照枠による認識でことを済ませている。吉野はこのような参照枠をできるだけ取り払い、形象が立ち現れる瞬間を捉えようとしているのである。同じ態度は右に引いた三首目と四首目にも現れている。このような態度を取ってこそ、東京という都市の周辺にもふかくふかく見えてくるものがあると吉野は言いたいのだ。
 まちづくりに関わる仕事に従事している吉野は、「短詩型と都市は双子の兄弟ではないか」とセレクション歌人『吉野裕之集』のあとがきに書いている。短歌と同様に都市もまた、日常のゆらぎと重層的な時間の堆積の中に立ち現れるものと理解されているのだろう。
 『吉野裕之集』の巻末に『ざわめく卵』以後の歌を集めた「胡桃のこと II」が置かれている。その最後、すなわち『吉野裕之集』全体の掉尾を飾るのが次の歌であることは、意味深いことである。

ゆっくりとやって来るものおそらくはその名を発語せぬままに待つ

 やって来る何かを性急に名付けて参照枠に収めるのではなく、その何かがゆらぎの中を潜り抜けて自ら名を告げるまでじっくりと待つ。これが『ざわめく卵』以降にさらに深化の度を増した吉野の現在のスタンスなのだと思われるのである。


「桜狩」132号、2009年7・8月号掲載

第34回 森井マスミ『不可解な殺意』

森井マスミ『不可解な殺意』(ながらみ書房)
 昨年四月の短歌コラム「橄欖追放」の再開の弁では、「歌集だけでなく歌書・歌論なども取り上げてみたい」と偉そうに書いたものの、その成果が上がっていない。今までに取り上げた歌書は大辻隆弘氏の『子規への溯行』ただ一冊である。その理由はかんたんで、歌集と比較して歌書は読むのに時間がかかり労力を要するからである。つまりは筆者が怠惰だということに尽きる。しかし短歌批評の不在が叫ばれる昨今、歌集にも増して歌書の出版は注目されてしかるべきだろう。というわけで今回は森井マスミ『不可解な殺意』(2008年12月刊行)を取り上げることにする。
 森井は昭和43年生まれ。現在、愛知淑徳大学教員で日本近代文学・演劇の研究者であると同時に、かつて近畿大学で教鞭を執っていた塚本邦雄に師事し傾倒した歌人であり、「玲瓏」編集委員。2004年に「インターネットからの叫び 『文学』の延長線上に」で現代短歌評論賞を受賞。『不可解な殺意』はこの論文を含めて、『短歌研究』などの短歌総合誌に掲載された評論に、書き下ろし論文を加えた構成になっている。帯文は佐佐木幸綱。まずは気鋭の論者による短歌評論集が世に出たことを喜びたい。
 最初に注意を引かれるのが本書のタイトルである。歌書に『不可解な殺意』というタイトルは異例だろう。副題に「短歌定型という可能性」とあるが、それがなければまるでミステリー小説の題名と言われてもおかしくない。この点に注目したい。他の歌書のタイトルはと傍らの書架を見れば、岡部隆志『言葉の重力』、三枝昂之『気象の帯、夢の地殻』、小笠原賢二『拡張される視野』、永田和宏『表現の吃水』などが並んでいる。タイトルに勝手に注釈を加えると、(短歌における)言葉の重力であり、(短歌によって)拡張される視野であり、(短歌の)表現の吃水だから、これらのタイトルの文言はすべて隠された冠のように(短歌)を戴いている。いずれもタイトルは短歌の〈内部〉にかかっている。同じ操作を森井の本に施すと、(短歌における)不可解な殺意となるので、まるで歌人が殺意を抱いているかのようである。しかしもちろんそれはちがう。「不可解な殺意」とは、記憶に新しい秋葉原無差別殺人事件のように、犯行後の「誰でもよかった」という犯人の自供に象徴される、現代社会に漂っている殺意をさす。だから「不可解な殺意」は短歌の内側ではなく、外側に存在するものだ。類書と違って短歌の〈外部〉をタイトルに据えたところに、現在の短歌状況に対する著者の認識が象徴的に示されている。この選択が本書の評価を左右するだろう。
 本書は四部構成になっている。第一部は書き下ろしの「文学の残骸 オタク・通り魔・ライトノベル」に代表される短歌を取り巻く状況論、第二部は筆者の傾倒する塚本邦雄と菱川善夫についての論考、第三部と第四部は歌人論と短歌鑑賞に当てられている。本書のどの部分を読んでおもしろいと感じるかで、読者ははっきりと分かれるにちがいない。伝統的な近代短歌派の人は、第三部と第四部の歌人論・短歌鑑賞を評価するだろう。ニューウェーブ短歌以降の若い歌人は、第一部の状況論を切実な思いで読むことだろう。本書に問題ありとすれば、それは塚本邦雄と菱川善夫をめぐる論考が手放しの讃辞に終始している点だが、そのことは不問に付す。著者が本書に『不可解な殺意』というタイトルを付けたということは、歌の〈外部〉を著者が重視していることを意味する。だから著者の力瘤がいちばん入っている第一部の状況論を中心に見てみたい。
 森井の考察は広汎に及ぶが敢えて要約すると、村上龍や高橋源一郎ら小説家の論考を引用して森井が確認するのは、大きく分けて次の2点である。第一は現代社会が共同体のシステムを崩壊させたため、個が孤立して剥き出しになっているという社会状況で、第二は近代文学のコード(高橋や穂村弘のようにOSと呼んでもよい)の耐用年数が切れたという文学状況である。森井はこのような認識の下で、インターネット上の「書きっぱなし」の言葉とそれへの共感に終始するレスに見られる物語を享受する力の低下と想像力の弱体化、その反作用として現れた感情の前景化とそれに起因する短歌の読みの困難さ、さらには短歌定型の弛みと韻律の崩壊などを論じている。教えられることも多く、なるほどと納得させられる箇所もたくさんある。それを認めた上での話だが、気になる点もいくつかある。
 まず森井の論はある意味で新たな「短歌滅亡論」として読めるという点である。滅亡論という用語が刺激的に過ぎるなら、短歌の危機に警鐘を鳴らす短歌危機論と言い換えてもよい。篠弘によれば今までに四つの大きな滅亡論があったという。明治43年の尾上柴舟の「短歌滅亡私論」、大正15年の釈迢空の「歌の円寂する時」、昭和初期の斎藤清衛・藤巻景次郎らによる滅亡論、そして戦後の第二芸術論である。篠の言うように「近代短歌は滅亡論との戦い」だったのは歴史的事実である。だから滅亡論自体は珍しいものではなく、近現代短歌は逆に滅亡論を糧として生きのびて来たとする逆説も成り立つ。さらに小笠原賢二は『終焉からの問い』の中で、「昭和三十年代以降の高度経済成長期の “平和と繁栄の時代”は、短歌の存立基盤を着々と侵蝕し揺るがし続けていた」と1992年に指摘している。したがって森井の短歌危機論は目新しいものではなく、小笠原がすでに着目した歴史的変化の着地点と見なすことができる。その上で明治以来の短歌滅亡論から小笠原までの論者の主張と森井の論を比較して、どこが同じでどこが異なっているかを知りたいものだ。というのも私たちはよく過去を忘却して現在を発見したと思い込みがちだからである。「あまが下、新しきものなし」などと賢しらに言うつもりはないが、人間のすることはそう変わらないものである。
 さらに気になるのは、作品はどこまで社会的状況によって規定されるのかという点である。極端な決定論の立場なら「芸術作品は社会状況の関数である」となろうが、さすがにイポリット・テーヌを思わせるこのようなテーゼを頭から信じる人はいるまい。かといって「芸術作品と社会状況の間に相関はない」と言い切る人もいないだろう。この両極端の立場の間に無数の中間的立場がありうる。森井の論法は、「現代社会に不可解な殺意が蔓延しているのはXのせいであり、現代短歌の現状もXのせいである」という推論を基盤としている。Xに代入されるのが「日本的共同体システムの崩壊」の場合、推論の前段「現代社会に不可解な殺意が蔓延しているのはXのせいだ」には馴染むが、後段「現代短歌の現状もXのせいだ」には少なからぬ違和感を覚える。社会状況と作品をあまりに直結しているからである。ここには隠された決定論がある。そしてあらゆる決定論と同じく、これは媚薬のように危険な香りがする。
 このことは森井の次のような文体にも感じられるのである。
「ところで、ポストモダンにおける物語の消滅は、一方では近代的な規範を内面化した『私』の消滅と平行している。そしてその後にやってくるものは、データベース的な想像力によって生成される、キャラクターとしての『私』であり、純文学からライトノベルへの移行が、不可逆的な流れであることは、先に述べた通りである」(p.89)
 この文の内容が東浩紀の分析に依拠していることは措くとして、連続する滝のような文から文への跳躍に目の眩む思いがする。文と文の間を隔てる論理的な隙間をもっと細かく刻むべきではないのか。そしてその作業は、現代の短歌作品の内奥に分け入るていねいな読みと分析によって支えられるべきではないのだろうか。第三部と第四部の歌人論・短歌鑑賞ではきちんと行われている読みと分析が、第一部において同じ精度でなされているとは思えないのである。上の引用部分の主張を読むと、私もたぶんそうなのだろうなと思う。それは私が東浩紀や大塚英志の本を読んでいるからである。しかしこのような言挙げは短歌の〈外部〉の変容によって〈内部〉の現況を説明しようとする試みであり、〈内部〉の細やかな読みに支えられて生まれた美しい抽象ではない。その間に大きな距離を感じてしまう読者がいることが問題点と言えないだろうか。
見えぬものを遠くのぞみて歩むとき人の両腕しづかなるかな
                    横山未来子『花の線描』
逃れられぬわが輪郭の見ゆる日を影もろともに動かむとせり
神の息のごとくに風の鳴れる朝しんしんとひとは行き交ふ四方よも
 横山の歌を読むと作品世界に入り込んだその瞬間、私の脳の中に銀河の輝く広大な宇宙が広がるような気がする。私は思わず「ああ」とため息を漏らす。極小の形式の中に極大の世界を宿す、これが言葉の力だ。ここには消滅などしていない〈私〉があり、ポストモダンの遊技性から遠く離れた静かな祈りの言葉がある。言葉の力の回復はこのような作品をひとつひとつ積み上げて、一人一人の中で行なうことによってしか達成されることはないのではないか。

第33回 寺山修司『月蝕書簡』

とぶ鳥はすべてことばの影となれわれは目つむる萱草に寝て
                  寺山修司『月蝕書簡』 
 寺山修司の未発表歌集『月蝕書簡』が2008年2月に唐突に刊行され、読書界で一時話題になった。周知のように寺山は、現代短歌の黒衣・中井英夫の推挽を受けて「チエホフ祭」50首で短歌研究新人賞を受賞して短歌界に登場した。その後、『空には本』(1958年)、『血と麦』(1962年)、『田園に死す』(1965年)の三冊の歌集を上梓し、1971年にそれらをまとめ未刊歌集『テーブルの上の荒野』を加えた『寺山修司全歌集』を刊行した後は短歌を発表していない。「歌の別れ」をしたのである。昭和の多くの文学青年と同じく、寺山はまず俳句と短歌という短詩型文学から入り、新聞・雑誌に投稿を繰り返す投稿少年として出発した。寺山はその後、劇団天井桟敷を中心とする前衛演劇や映画の世界に活動の場を移し、二度と短歌の世界に戻って来なかった、というのが巷間流布されていたストーリーだった。ところが実際には寺山はその後も短歌を作っていたというのだから、読書界は驚いた。寺山の協力者であった田中未知が遺稿を編纂し、あとがきに刊行までに至る経緯が田中自身の筆で説明されている。佐佐木幸綱が解説の筆を執り、歌稿の吟味は谷岡亜紀が担当したとある。寺山は1983年に亡くなっているので、没後四半世紀を経て世に出た歌ということになる。
 田中未知の解説によると、1973年に当時文芸誌『海』の編集長だった吉田好男に勧められたのがきっかけのようだ。その後、人文書院の谷誠二から書き下ろし歌集出版の提案があり、このような経緯が一連の流れとなって、再び作歌に手を染めたらしい。1981年に『現代詩手帖』で辺見じゅんと対談した折に、寺山は次のように発言している。
「勧められて300首作ろうと思ったんです。さしあたって100首を「短歌」に載せようということで作り始めたんだけど、やっぱりできない。数はあるんですよ。でも、自分の過去を自分自身が模倣して、技術的に逃げ込むわけでね、なるほど見た目には悪くないかもしれないけど、これは自分自身の何か新しいことを語る語り口として、20年振りで短歌を作るということに値するかどうかと考え始めたら、だんだん自信がなくなってきてね」
 結局は未発表のままに終わったのは、このあたりに理由があったと推察される。作者本人が葬るつもりで筐底深く残されていた歌稿を、掘り返して刊行することの是非については、さまざまに意見があるだろう。未発表原稿が世に出ることによって作者の知られざる一面が明らかになり、作者の文学世界への理解が深まるという場合もあるだろう。しかし今回は残念ながらそれが当てはまるケースではない。帯文に「文学史は読み換えられるだろう」とあるが、文学史に残るのは「1971年以後も寺山は短歌を作ろうとした」という記述に留まるにちがいない。
 短冊型に切られた紙片に書かれた歌が60首ほどあり、これらは一応完成稿と判断したという。残りは大判の画帖になぐり書きのように書かれており、資料写真が数葉添付されている。「目かくしとんぼ」「医療器具売る」「四畳半亡命者」「一挺身」など、言葉の断片に留まるものもある。小島ゆかりが毎日新聞の「今週の本棚」に「虚構の〈われ〉の痕跡をとどめて」という書評を書いているが、「痕跡」と言わざるをえなかったところが悲しい。また未完成の歌を含む画帖を眺めていると、小島の言うように「作歌工房に許可なく入り込んでしまった」ような印象を受けるのも事実である。
 なかでも目につくのは、かつての寺山の短歌に登場した語句やイメージの再登場である。
一粒の麦生きのびて離郷する帽子の庇にはずみおり
月暗くなるのを待ちて洗うべし身におほえなき雲雀の血ゆえ
鏡台がぎらりと沖に浮きながらまぼろしの姉夜ごと溺死す
かくれんぼの鬼のままにて死にたれば古着屋町に今日も来る父
面売りの売れのこりたる面ひとつ母をたずねて来し旅の果て
 「一粒の麦」「帽子」「雲雀」「血」「古着屋町」といった語彙や父と母のイメージには、誰でも既視感を感じるだろう。良く言えば寺山ワールドを構成する言葉たちなのだが、悪く言えば手持ちのカードでまた勝負していることになる。辺見じゅんとの対談で寺山自身が語っていた「自己模倣」である。ひとつの世界を確立してしまうと、それを壊すことが難しくなる。寺山ワールドにもう一度浸りたい人は嬉しいだろうが、新しい一歩を期待する人には期待外れとなろう。
 今回の刊行の最大の意味は、寺山の作歌過程の一端が明らかになったことではないだろうか。寺山は前衛短歌の中に新しい〈私〉を持ち込んだとされている。近代短歌の前提となる「作者≒〈私〉」という図式から解放された地点に浮上するロマネスクな〈私〉である。『月蝕書簡』の草稿が世に出て判明したのは、寺山の〈私〉は徹頭徹尾言葉でできていたということだ。寺山の作歌過程は言葉の組み替えであった。そのことは『月蝕書簡』のなかに既刊行歌集に収録された歌を組み替えたものが散見されることからもわかる。
壜詰の蟻をながしてやる夜の海は沖まで占領下なり  『月蝕書簡』
壜詰の蟻を流してやりし川さむざむとして海に注げり
                       『テーブルの上の荒野』

みずうみを撃ちたるあとの猟銃を寝室におき眠る少女は  『月蝕書簡』
みずうみを見てきしならん猟銃をしずかに置けばわが胸を向き 
                            『血と麦』
 寺山は作歌をやめた後の1975年に句集『花粉航海』を上梓している。収録されている句は主に高校時代から書きためたものだが、なかに『月蝕書簡』草稿と類似するものがある。
父親になれざりしかば曇日の書斎に犀を幻視するなり  『月蝕書簡』
父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し              『花粉航海』

午前二時の玉突き場に父を待つ義足をはめし悪霊ひとり  『月蝕書簡』
午後二時の玉突き父の悪霊呼び             『花粉航海』

腐刻画の寺院や父の癌すすみ川は北へと流れやまずも  『月蝕書簡』
癌すすむ父や銅版画の寺院              『花粉航海』

眼帯の中に一羽の蝶かくし受刑のきみを見送りにゆく  『月蝕書簡』
眼帯に死蝶かくして山河越ゆ             『花粉航海』

父といて父はるかなり春の夜のテレビに映る無人飛行機  『月蝕書簡』
テレビに映る無人飛行機父なき冬            『花粉航海』
 時系列的にはちょうど『海』の吉田好男の勧めで再び短歌に手を染めた時期と一致する。短歌として日の目を見なかったものを、俳句に転用したものと思われる。並べてみると俳句の方が出来がよい。寺山はこのように画帖に書き溜めた語句を並べ換え組み替えて短歌を作った。寺山の「ロマネスクな〈私〉」とはこのような言葉の組み替えに他ならない。寺山の〈私〉は言葉でできていたのである。
 思えばそもそも寺山の短歌には模倣疑惑が付きまとっていた。「わが天使なるやも知れず寒雀」(西東三鬼)から「わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る」を紡ぎ出し、「人を訪はずば自己なき男月見草」(中村草田男)から「向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男」を鋳造した寺山は、発表当時から批判を浴びた。寺山のこのような手法の背後には、「もともとあらゆる物語は書かれつくされてしまっているのである。これから作者の仕事は、消すという手仕事でしかない」(『月蝕機関説』)という認識が横たわっていた。それと同時に「私は空っぽだ」という欠落感が寺山の意識を浸していた。寺山自身が自己の経歴について多くの虚構と嘘を張り巡らせたのはこのことと無関係ではあるまい。
 では今回の『月蝕書簡』の刊行が、現代短歌シーンに何らかのインパクトを与えるかと考えてみると、どうもそれはないように思われる。その大きな理由は、前衛短歌が既に歴史の一部となり、80年代中期からのライト・ヴァースの勃興、90年代のレトリックの時代、続くネット短歌の時代を通過して、短歌の背後に横たわるべき〈私〉はもう十分過ぎるほどばらばらに壊れているからである。寺山が提示した「ロマネスクな〈私〉」は、まだ近代短歌のコードが支配権を持っていた戦後の一時期においては新鮮な試みだっただろう。しかし、いかなるものも時間の流れから無垢ではありえない。
 寺山の短歌は「寺山病」という言い回しがあるほど、若者が一時期熱中する魅力を湛えている。その魅力を味わうには既刊行歌集を読むだけで十分だろう。思潮社版の「寺山修司コレクション1 全歌集全句集」が入手しやすく、さらに『寺山修司・斉藤慎爾の世界』(柏書房)と塚本邦雄『麒麟騎手』(沖積舎)が手許にあれば言うことはない。
 最後に印象に残った歌を『月蝕書簡』からいくつか引いておこう。
一夜にて老いし書物の少女かな月光に刺す影のコンパス
男湯に陽がさしこめばたゆたえる義父のあぶらに身をひたすかな
ビー玉一つ失くしてきたるおとうとが目を洗いいる春のたそがれ
父に似し腹話術師の去りしあと街のかたちにたそがれも消ゆ
酔いて来し洗面台の冬の地図鏡のなかで割れている父