第57回 浦河奈々『マトリョーシカ』

ああマトリョーシカ開ければ無上なる怖さ 人より出でてまた人となる
                   浦河奈々『マトリョーシカ』
 マトリョーシカは素朴な表情の人形の中に人形が何重にも入れ子に入っているロシアの民芸品である。作者はそれを怖いと言う。下句「人より出でてまた人となる」は出産の喩と読むこともできるので、この歌を出産恐怖の歌と解することも可能である。本歌集には子がなく母になれないことへの屈折した心理を詠んだ歌も散見されるので、あながち間違った読みとも言えない。しかし本歌は出産という地平を超えて、表層の奥に隠されたものの開示への畏れの感覚を詠んだものと取りたい。作者は「白孔雀も月下美人も生きるとは展くことなり吾はくるしゑ」のように、自己を外へと開くことへの恐怖感を執拗に歌にしているが、それは表層の奥に隠されたものが露出することへの畏れでもある。この感覚が本歌集の底を流れる主調低音となっている。
 浦河奈々は「かりん」所属。2007年に短歌研究新人賞次席に選ばれ、本歌集により2009年に第10回現代短歌新人賞を受賞している。『マトリョーシカ』は2009年刊行の第一歌集で、翌年には二刷が出ているので多くの人に読まれたのだろう。跋文は米川千嘉子。
 女性歌人の歌集を読むと、「女の一生」のようにその人の人生の軌跡を辿ることができる場合が多い。本歌集も例外ではなく、次のように結婚・就職・夫の転職・転居など確かに人生の軌跡を示している歌がある。
貝のやうな家からわれを引き剥がし異性と暮らしてみたかつたのだ
虫食いの木の葉のやうなわたくしを覆ひ隠して履歴書を書く
隣には四人の子ゐて上階にみどりご産まれし社宅より出づ
教師へと転身したる君がゆく白ワイシャツにネクタイをして
 しかしこのような歌が本歌集の根幹をなすわけではなく、むしろ逆にこのような歌が途中に挿入されたエピソードであるかのごとく見えるところに、ネガとポジが逆転したような不思議な印象を受ける。では本歌集の根幹をなす歌はどのようなものかというと、それはずばり「生の苦しさ」を歌う歌である。
スマトラオホコンニャクの巨きな巨きなスカートよ怨恨すべて吐き出したまへ
咲くことが不安でたまらぬさくらのまへ何か銜えてとびゆく鴉
ふしくれ立つた胴ひとねぢりふたねぢり桜の大樹は生きてくるしゑ
 ちょうど先頃、小石川植物園でスマトラオオコンニャクが開花したことがTVニュースで流れていた。熱帯の花で強烈な腐臭がするという。この歌にも展開と開示への畏れが見られるが、スマトラオオコンニャクが内に抱えているものを怨恨と感じるところに作者の心理がある。腐臭は怨恨の発する臭いか。ちなみに告白への焦燥のなせる業か、特に初句字余りの歌が多いことにも気が付く。二首目と三首目は桜を詠んだ歌だが、ここまで桜に自己投影した歌も珍しかろう。客観写生からも花鳥諷詠からもほど遠いスタンスに作者はおり、歌に詠まれた桜はもはや桜の姿すらなしておらず、樹木のポーズを取った自己以外の何物でもない。この強烈な自己投影が浦河の歌の有り様を決定していると言ってよい。
 「生の苦しさ」の原因はいろいろある。母になれない嘆きを歌う歌がある。
母性とふ地下水脈のみつからぬ身体にまぼろしのリュート抱きしむ
社宅には濃密な母子のいぶき満ち立ち尽くしたる新妻われは
 また心理的不安感を詠んだ歌もあり、それはただちに心療内科や眠剤へと続く。
アイロンのランプ点滅してる間にすぐそこに来てゐる鬱の穴
まざまざと髑髏をつけた女神ゐる隣に立つて米研ぐわたし
わたくしに敵なんかゐないと言ひ聞かすカウンセラーは魔女に似てゐる
錠剤をちひさく割りて半月の白きを飲めば霧に沈める (注)
 この結果として次のような自己認識の歌が生まれる。
人間じんかんにおきてみつむる自我ひとつヱチゼンクラゲのやうに漂ふ
巨いなる遠景にして墨絵なる冬枯れの浦の住人われは
 このような歌は読んでいて息苦しくなるほどだが、浦河の歌がすべてこのようなトーンかと言えばそんなことはない。万象を自我で塗りつぶすような強烈な自己投影とは異なるスタンスから作られた歌があり、むしろこちらの方に作者の個性がよく表れているとも思えるのである。
三叉路のにんじん畑さみどりの繊き葉そよぎにんげんは居ず
にんげんのこころを統べる快楽を松浦亜弥は知つてゐるらむ
白衣纏ふアッシャー家のひと想ふとき烈しく湯気を噴く炊飯器
揖保乃糸ひたすら啜り上げてゐる夕べは暑く人間とおし
脳天の白髪のあたり見られつつ宅急便にシャチハタを押す
 一首目は人気のない人参畑を詠んだ歌だが、四句目まではほぼ完全な叙景で、結句に至って転調し主観判断となる。ぶっきらぼうな物言いが描かれた光景を際だたせ、どことなくおかしみのある静かな歌となっている。二首目、かつてアイドルの頂点を極めたアヤヤこと松浦亜弥は、ファンの心をわが手に掴む快楽を知っているにちがいないという歌だが、庶民的アイドルの松浦亜弥を引き合いに出したところがおもしろい。三首目の「白衣纏ふアッシャー家の女」は、ポーの短編「アッシャー家の崩壊」で、兄に生きながら棺桶に入れられる妹のマデリンである。アッシャー家の崩壊というゴシックロマンス物語と湯気を噴く炊飯器の取り合わせの妙がある。どことなく換骨奪胎の味のある歌である。四首目はそうめんを啜る夏の夕暮れの光景で、「夕べは暑く人間とおし」の納め方がうまい。五首目は解説不要でおかしみのある歌。
 なぜ上に引いたような歌をおもしろく感じ、作者の個性が表れていると感じるかというと、作者に余裕があり、歌と〈私〉の間に適切な距離が置かれているからである。必死に作った歌は怖い。切羽詰まって余裕がなくなっているからだ。うまく行けば確かにその必死さが読者の心に届くこともある。しかしその必死さが読者の首を絞めにかかることもある。浦河の目に世界と〈私〉は、ついに解明されることなく闇に沈むワンダーと映っている。そのことが歌を読んでいてよくわかる。それが浦河の抱えたテーマである。しかし一読者としては、世界がワンダーであることを詠んだ歌よりも、作り上げられた歌そのものがひとつのワンダーであるような、そんな歌を読んでみたいと切に願うのである。

(注)「飲む」はほんとうは異なる漢字なのだが、文字コードの関係で表示できないのでご容赦いただきたい。

第56回 高柳克弘『未踏』

一月やうすき影もつ紙コップ
             高柳克弘『未踏』
 作者は一句における漢字と平仮名の配合、ひいては漢語と和語のバランスに腐心しているようだ。「うすき」「もつ」を漢字で「薄き」「持つ」としたら、「一月や薄き影持つ紙コップ」となるが、そうすると句の与える印象がかなり変わってしまう。平仮名で書くことによって、コップの影が柔らかくはかなげになり句の印象は深まる。また漢字よりも平仮名の方が読字時間が長いため、句は時間的長さを獲得し、一月の低い日光が作る影がテーブルに長く伸びた感じが内的に強化される。前衛短歌は雅語とは縁遠い生硬な漢語を歌に取り入れることによって、伝統的和歌に染みついた「奴隷の韻律」を克服し思想性を獲得することをめざしたが、高柳の行く道はそれとは逆で、俳句に柔らかな抒情性を回復することのようだ。
 掲句の描く場面は日常的なもので、取り立てて珍しいものはない。テーブルの上に紙コップが置かれているのだが、中身は飲んだ後で空と見たい。紙コップは部分的に光を透過するので、もともと濃い影はできない。加えて一月の陽光は弱々しく、ただでさえ薄い影がさらに薄くなっている。ただこれだけを詠んだ句なのだが、深い印象を残すのはなぜだろう。なぜだろうと問うところに、文芸としての俳句の拠って立つ根拠を露わにする弾機がある。そのひとつはありふれたことの発見だろう。ありふれていて誰も取り立てて言わなかったことを指摘されると、「ああ、そうか」と思う。自分が何も見ていなかったと気づく。焦点の合った眼鏡に掛け替えたような思いがする。しかしそれだけではない。ありふれた光景を新たな角度から眺めることによって、私たちは世界と存在についての認識を少し深める。認識が深まるということは、親和性が増すということである。私たちは前よりもほんの少し深く世界に参入することができる。その意味で掲句は、形象と存在について深い思索を残したモランディの静物画を思わせる雰囲気を湛えていると言ってよかろう。
 高柳克弘は1980年生まれ。「鷹」に入会して最晩年の藤田湘子の薫陶を受ける。23歳の最年少記録で俳句研究賞を受賞し、弱冠25歳で「鷹」の編集長に就任。2009年に上梓した『未踏』で第一回田中裕明賞を受賞している。「鷹」主宰の小川軽舟が行き届いた序文を寄せていて期待のほどを窺わせる。構成は俳句研究賞を受賞した2003年から2008年に至る編年体。巻頭の句「ことごとく未踏なりけり冬の星」が一時俳壇で議論の的になったようだ。冬空に輝く星に人類はまだ一度も到達していないという神野紗季のナイーブな読みから、星は句界に燦然と輝く俳句の先達を象徴し、作者は先人の境地に至らんとする若々しい抱負を述べているという解釈まで乱れ飛び、もし後者ならばそんな句をぬけぬけと巻頭に置くのはいかがなものかという意見まで出たようだ。『未踏』は青春句集である。作者はあとがきで「20代の墓碑として一集を編むことにした」と書いている。青春の墓碑とは常套句であるが、作者が本集を青春句集と認識していることを示している。冒頭の句もその文脈で理解すべきだろう。
 これ以外にもいかにも青春句という句が多くある。
卒業は明日シャンプーを泡立たす
大会の近づくクロールのしぶき
大欅夏まぎれなくわが胸に
わが拳革命知らず雲の峯
マフラーのわれの十代捨てにけり
イカロスの羽根冬帽に挿したきは
うみどりのみなましろなる帰省かな
 変に斜に構えずに正面から青春を受け止めるところに作者の美質を認めるべきだろう。「目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹」「夏井戸や故郷の少女は海知らず」などの句を残した寺山修司の例を引くまでもなく、近代俳句は青春性に彩られている。もともと近代短歌も青春の文学なのだが、短歌の世界で本集に匹敵するような青春歌集が出にくいところに、今の短歌が置かれている困難な現状が察せられる。
 しかし『未踏』は単なる若書きの青春句集ではない。小川軽舟は序文の末尾で、「やがて高柳君は、波郷や湘子がそうしたように、青春詠の時代を遠い故郷として捨て去り、見晴るかす荒地に足を踏み出すだろう」と書いているが、高柳はこれらの青春詠の局面をすでに脱しており、敢えて捨てずに収録したのはまさに墓碑とするためだと思われる。  高柳の俳句の特質は、揺らぎのない目で形象を捉え、そこに柔らかな抒情を乗せてゆく確かな措辞にある。冒頭で述べた漢字と平仮名のバランス感覚はそのひとつの現れである。そのことをよく示す句を引いてみよう。
ゆびさきに蝶ゐしことのうすれけり
雨よりも人しづかなるさくらかな
やはらかくなりて噴水了りけり
白桃の舌のちからにくづれけり
 いずれも平仮名の含有率が高く、それに平行するように内容も無音の微細な感覚を詠んでいる。蝶を指でつかむとき、潰さないように注意して力を込めないので、蝶をつかんでいる感覚自体が薄いものだが、蝶を放した後の指の感覚はさらにはかない。そんな極小の感覚を句にするところに、作者の世界に対する向き合い方が見える。二句目では雨の中の花見が詠まれているが、人語は絶えて無音の景が広がる。三句目は閉園時間を迎えて公園の噴水が停まる一瞬を詠んだものである。最後に噴き上がった水が後続を断たれて力なく落下する様を、「やはらかく」と表現したところがミソである。「了」の字もまた事が納まる様をよく表している。四句目は完熟した白桃を口に含んだときの感覚を詠んだもので、やはり微細な口中の感覚を取り立てている。高柳の拠る句誌「鷹」は「二物衝撃」という句作法を理論化した本家だそうだが、高柳の作風は強引な取り合わせや意味の飛躍からはほど遠く、無理のない自然な言葉の流れの上に細やかな抒情を漂わせている。無理のない言葉の流れの裏側に、どれほどの技巧が隠れているかは言うまでもない。
蝶ふれしところよりわれくづるるか
大景に雪降りわれに雪降りけり
てふてふや沼の深さのはかれざる
キューピーの翼小さしみなみかぜ
人形の頭のうしろ螺子寒し
 集中にとにかく蝶の句が多く、作者の偏愛を表している。一句目は蝶を詠んで〈私〉の危うさに及ぶ他とはやや趣を異にする句。二句目は広がる大景と極小の〈私〉の対比が眼目で句の丈が高い。四句目は私が特に愛する句だが、摂津幸彦の「南国に死して御恩のみなみかぜ」という名句を思い出す。キューピーの翼が存外小さいという発見と、これでは実際に飛ぶことはできまいという思いに、穏やかな南風が重なるところに軽い悲しみの情が漂う。六句目も人形の頭の後ろのネジという目につきにくい細かな物の発見が句の静かな抒情を支えている。
死に至るやまひの蝶の乱舞かな
キャラメルの角のゆるくて水澄める
春昼の卵の中に死せるもの
ランボオの肋あらはや蝶生る
缶詰の蓋に油や冬の滝
 一句目は「乱心のごとき真夏の蝶を見よ」という阿波野青畝の句を思わせる。本歌取りではないものの、作者も意識しているのかもしれない。「死に至る病」とは孤独の謂である。二句目は「水澄める」が秋の季語なので秋の景なのだが、まだ気温が高くキャラメルの角が柔らかいのだろう。「ゆるくて」と表現したところがミソ。四句目は「あばら」と「あらわや」に言葉遊びがある。五句目は『新撰21』の座談会で小澤實が絶賛していた句。ハイキングの昼食で開けた缶詰の蓋の裏側に油がついているのだが、このささやかな発見と山中の凜とした冬の滝の取り合わせが眼目なのだろう。いかにも小澤實風なのだが、私は高柳の句ではもう少し抒情的な句の方が好みである。
 『現代詩手帖』2010年6月号の特集「短詩型新時代」の城戸朱理・黒瀬珂瀾との鼎談で、高柳は「先代から受け継がれたものを後代に受け渡すことを自分の責務とするのか、それともいままでのものを打ち壊すべきなのか、もっと大衆に降りていってその叡智を拡散するのか、……いろいろなスタイルをとれるところがあって、それによって作家性というものが決まってくる」と述べた後で、自分としては表現史というものを意識して、自分の立ち位置を表現史のなかに求めていきたいと決意を述べている。その言葉やよしである。『未踏』ほど清新という言葉がふさわしい句集はあるまい。俳句の若手が元気だということを証明してくれる句集である。

鳩の影のもとに──高安国世中期短歌

 永田和宏編『高安国世アンソロジー』巻末の年譜によると、高安は昭和十七年(一九四二年)に旧制第三高等学校の教授となり、昭和二十四年(一九四九年)の学制改革による新制大学誕生とともに、京都大学教養部のドイツ語担当助教授に就任、昭和五十一年(一九七六年)に定年退官している。私事で恐縮だが、私が京都大学に入学し教養部で学んでいたときに、高安は同じ校舎でドイツ語を教えていたことになる。残念ながら私は第二外国語にフランス語を選択したので、先生に学ぶ機会は得られなかった。時は流れ、私が一九八〇年に教養部にフランス語教員として着任したときには、先生はすでに退官しておられた。先生と同じ校舎の廊下を歩き、同じ教室で授業をしたこともあったろうと思うと、人の縁とは不思議なものである。このような経緯から本来なら高安先生と書くべきなのだが、ここでは習慣に従い敬称を省かせていただくことにする。
 巻末のあとがきで、編者の永田和宏は高安の作歌活動を三期に分けている。土屋文明を師と仰いで生活の具体を写生的手法でリアルに詠った第一期、ドイツ文学や前衛短歌の影響を受けて、「日常の連続の上にではなく、非連続の刹那に詩」を求めるようになった第二期、自然の懐に溶解するようにして、自己や自然を相対化する視線を研ぎ澄ました第三期という区分である。第一期が第六歌文集『北極紀行』まで、第二期が第七歌集『街上』から第九歌集『朝から朝』、第三期がそれ以後となる。私に与えられた課題は、『北極紀行』から『朝から朝』までの歌集を読むことなので、ほぼ第二期に相当する。
 第一期の作品には、自身の病、生活上の不如意、妻との感情のすれ違い、子の障碍、人生への懐疑などが、写実的手法でリアルに詠われている。近代短歌の王道の人生のための歌であり、人生を映す歌である。
 何を求め生くる命ぞこの夕べまぼろしきこゆミサ・ソレムニス 『眞實』
 咳き込みてしたたる汗は配給のブイヨンスープの皿に落ちたり
 昭和三十五年に上梓された歌文集『北極紀行』には、三年前のドイツ旅行に題材を得た歌が収められている。当時はふつうの人が海外旅行をするのは難しかった時代で、この渡欧は高安には貴重な体験だったにちがいない。
 北極を指し限りなく飛ぶ夜空眼よりも低き星一つあり
 岩山のかこむ砂漠に塩のごとこごりて消ゆる行方なき河
 扉ひたと閉じたる石の家々に鍵一つ頼りに夜ふけを帰る
 新しい風物に接し、それまでの身めぐりの歌よりも視線が遠くに伸びたことが歌から感じられる。それと同時にドイツの石造りの家と街路の硬質性と立体性に、高安は強い印象を受けたにちがいない。リルケは『マルテの手記』でパリの建物の持つ立体性と人を拒絶する冷たい質感を詩的に描いたが、高安もドイツに滞在してこれと似た認識を得たことは想像に難くない。この体験が『街上』の骨格をなす都市詠へと発展したのではないだろうか。
 『街上』はそれまでの歌集との断絶を感じるほど歌の質が異なる。最も顕著な相違は、都市というテーマと短歌表現への新しい明確な意思である。
 鉄骨の奥深く誘うごときものすでになく明るき石の壁見ゆ
 シャボン玉街に流るるかくまでに跡をとどめぬ風の産卵
 街上の変身ひとつ窓無数に瞠きて被覆去りし建物
 わが前の空間に黒きものきたり鳩となりつつ風に浮べり
 一首目に顕著に見られるように、都市の持つ立体性に着目した歌は、ドイツ体験が高安にもたらした変化が生み出したものであろう。三首目の「窓無数に瞠きて」に見られる窓を眼に喩える表現はリルケを思わせる。またシャボン玉を風の産卵に喩えた表現は、アララギ的なリアリズムから遠く、新たな短歌表現を求める姿勢を感じさせる。
 このような作歌傾向が第八歌集『虚像の鳩』においてひとつの頂点を極めることに大方の異論はあるまい。
 翅うすく飛ぶものとむしろ濃き影と錯綜すためらいまたすばやく
 広場すべて速度と変る一瞬をゆらゆらと錯覚の如く自転車
 羽ばたきの去しりおどろきの空間よただに虚像の鳩らちりばめ
 今日よく引用されるこれらの歌は、昭和三十九年から四十年の日付を持つ「夏・楽章」「速度」「初冬のフーガ」と題された連作にあり、高安の新しい短歌言語への試みはこの短い期間にピークを迎えたと推察される。「見えるもの」を詠うのではなく、眼前の形象を通してそのかなたに暗示される非在の本質へと迫ろうとする作歌姿勢は、研究するリルケへの傾倒と深い理解に由来するものだろう。外国文学が短歌に与えた影響について論じられることは少ないが、この時期の高安の達成はその幸福な果実と見なしてよいのではなかろうか。しかし高安のこの新しい短歌言語への試みの時期は存外短かったようだ。『虚像の鳩』の前半には、地下街・都市のビル街・工事現場の鉄骨などを題材とした歌が多くあり、都市の孤独に沈潜する姿が見られ、それが右に引用した歌でピークを迎えるのだが、歌集後半になると都市を離れて自然に沈潜する歌が多くなる。この傾向は第九歌集『朝から朝』においてさらに強まるのである。
 水芭蕉葉のやわらかき明闇に谷地ひろびろと光りふる雨
 目に見えぬ船たおやかに近づくと微かにきしむ白き桟橋
 非在の影への眼差しは残るものの、都市の壁から滲み出るような孤独への思いは少なくなり、自然の中に自己を溶解させてゆく姿勢と、水面に無限に広がる波紋のごとき安らかさが感じられる。読者としては、『虚像の鳩』の中期に示された新しい表現への意思がさらに長く持続していたならば、どのような歌が生まれただろうかという想像につい駆られてしまうが、歴史に「たら・れば」が禁物であることは言うまでもない。それと同時に、人生の軌跡に沿うようにして歌の変貌と深化を達成することのできた時代の幸福を、多少の羨望を込めて眺めざるをえないのである。



「塔」2010年7月号(2010年7月15日発行)に掲載

第55回 『新撰21』

 今回の「橄欖追放」は短歌ではなく俳句なので、橄欖追放は短歌コラムを自称するのをこの際止めて、短詩型コラムと改称したほうがよいかもしれない。それはさておき今回取り上げる『新撰21』(邑書林)は昨年12月に刊行されて大いに話題を集めた若手俳人アンソロジーである。21人の作者は年齢順に配置されており、最年少は18歳、最年長は40歳。各人について俳人による小論が付されていて、巻末には選者の筑紫磐井・対馬康子・高山れおなにゲストの小澤實を加えた選評座談会がある。何でも小澤は2000句を超す収録句のゲラを徹夜して一晩で通読し、座談会に臨んだそうだ。私は本書を二日かけて一気読みしたのだが、ものすごく疲れた。作風の振幅の大きい作者が並列されていると、作品の世界にピントを合わせるために脳を酷使するのが原因だろう。
 座談会での発言によると、俳句の世界では「平成無風」という言い回しがあるそうで、平成の世を迎えて20年間俳壇にはたいした事件もなく無風と言われているらしい。しかしどうして本書を読むと、若手で才能のある作者がたくさん現れていることがわかる。ひとつには、松山市青年商工会議所主催の俳句甲子園や、愛媛県文化振興財団主催の芝不器男俳句新人賞のような新人発掘の場が増えたことが原因だろう。事実、本書に収録されている作者の中で年少の人たちのうち、藤田哲史・山口優夢・谷雄介は俳句甲子園、佐藤文香・神野紗希・富田拓也は芝不器男俳句新人賞で入賞している。松山生まれや松山在住の人も多い。さすがは俳句の聖地である。翻って短歌はと考えると、盛岡で開催されている短歌甲子園という催しはあるものの、それほどの知名度はなく、新人発掘の場に乏しいのではないか。角川短歌賞や歌壇賞や短歌研究新人賞のハードルはおそろしく高い。それを除けばあとは結社誌の若手を対象とする賞しかないのではないか。俳句の若手が元気なのは、こんなところに原因がありそうである。また『新撰21』の刊行を記念して大規模なシンポジウムが開催されたらしい。ブログで見聞記を見ると、ベテランと若手が入り交じって登壇して議論する趣向だったようだ。俳壇全体として若手を育てようという心意気が感じられる。短歌界はと振り返って考えると、1987年に俵万智が『サラダ記念日』で一大ブームを巻き起こしたとき、激しいバッシングが起きたことは記憶に鮮しい。どうも俳句とは様子が違うようだ。
 本書に収録された21人の作者を一人一人論じるのは無理なので、通読して感じたことを二三書いてみたい。まず一読して吃驚したのは、平成の世に失われて久しいと思われていた風狂無頼が、ガラパゴスのように俳句の世界で生き残っていたことである。まずは1985年生まれの谷雄介。
金屏風倒れ北方の春のごとし
レコードの針立ち尽くす晩夏かな
白魚に腸といふ翳りあり
春深し折鶴卓より落ちゆくとき
梨丸し銀河と銀河はなれつつ
 飯田哲弘の手になる小論によると、優等生であった谷は俳句と出会ってから、豚小屋のごとき寮の一室に閉じ籠もり新宿ゴールデン街に入り浸る自堕落詩人になってしまったという。これには谷が師と仰ぐ北大路翼の影響が大きいようだ。その北大路がまた小学校5年生で山頭火の自由律俳句に出会いのめり込んだというとんでもない人物で、北大路も『新撰21』に選ばれている。北大路の師は今井聖だから、北大路は加藤楸邨の孫弟子ということになる。師系は否めぬものである。
迷子センターアロハの父が謝り来
足上げてふぐり冷やしぬ夏の月
たましひの寄り来ておでん屋が灯る
 私の勝手な想像だが、短詩型文学の世界には型式が短くなればなるほど人生派の傾向が強まり、それが高じると風狂無頼の道に至るという法則があるような気がする。和歌の世界では西行を嚆矢として風狂の例は多いが、近代短歌になってからは若山牧水のような放浪歌人はいるものの比較的おとなしい。ところが俳句の世界では新興俳句・自由律俳句が世捨て人だらけで、種田山頭火・尾崎放哉・住宅顕信らがその筆頭だろう。谷雄介と北大路翼は明らかにこの系譜に連なる悲惨と栄光の道を歩む俳人である。その道でがんばってもらいたいものだ。
 次に驚いたのは読んでまったく意味の取れない句を作る人がいて、また巻末の座談会の選者たちがそれを一向気にする風情もなく、「これはわかりませんね」などと言いつつ選に入れていることである。その最右翼は1983年生まれの外山一機とやまかずきと1970年生まれの九堂夜想くどうやそうだろう。
どの路地もむかし御国の浮き寝鳥   外山一機
千年をころがる母や桜餅
兄を吊る眉間にπを輝かし

白骨の反りと冬虹と揺らげよ     九堂夜想
くちなわよ酢を手遊びの天皇すめらぎ
天位ふと蝶の重心崩れおり
 外山には「シルル紀を来て雨具屋のうすみどり」、九堂には「みずうみへ子はかくし持つ蝶の骨」のように、ときどきハッとするような印象的な句がある。しかしおおむね難解である。ところが座談会では九堂について、「現代俳句の若手作家に、意味のわからない句を作る元気がまだ残っているという、その意味でも貴重な人でしょう」と高山が言い、「意味がわからないとをあえて続けることが大事ですね」と小澤が受けている。意味がわからなくてもよいのである。これは短歌ではちょっと考えられない。歌会では出詠歌の意味が取れないとか、読む人によって意味がブレるというのはマイナス点と見なされる。意味のわからない歌を評価する評価軸が存在しないのである。これには新興俳句・無季俳句によって俳句が大きな表現上の転換を経験したことが大きく関わっているだろう。また俳句はその型式上の短さから飛躍を本質的に内包しており、どれほど遠い地点に着地できるかが句の丈と格に関わるという事情もあろう。そこから句が一つのイメージを結像することなく、異質のコトバとコトバが軋み合う場に発光する美と立ち上がる詩にすべてを賭けるという外山や九堂のような作風も生まれるのだと思われる。
 21人の異なる作風の俳句を読んで大いに楽しんだが、なかでも強く印象に残ったのは田中亜美である。田中は1970年生まれで「海程」に所属し金子兜太に師事している。ドイツ文学の研究者で、パウル・ツェランが専門だと聞く。
はつなつの櫂と思ひしかひなかな
地下水のやうなかなしみリラ満ちぬ
日雷わたくしたちといふ不時着
舌深く差し込める闇蝶凍つる
アルコール・ランプ白鳥貫けり
 透明感のある詩情と微かなエロスの場に〈私〉を強く打ち出す作風で、おそらく俳句王道の本格俳句とはかなりずれるものだろう。本格俳句とは集中で老成すら感じさせる村上鞆彦の「棺桶の畳つづきの冬野かな」のようなものと思われる。小澤實は田中について「花鳥諷詠からは一番遠い作者」と評したそうである。さもありなん。しかし田中の句の立ち上げる詩情は素晴らしく、鉛筆で丸を付けていたら丸だらけになってしまった。まだ句集がないようで、まとまった句を読むことができないのが残念である。句集刊行が待たれる。
 集中で句界のプリンスの風情を漂わせる高柳克弘については、別の稿で論じたい。また今年の年末を目途に、同じ選者によるU50の『超新撰21』の刊行が準備されているようで楽しみだ。短歌の世界では2007年に『太陽の舟 新世紀青春歌人アンソロジー』(北溟社)が刊行されているが、それほど話題を集めたとも思われない。短歌界でも若手新人にもっと光を当てる企画が待たれるところである。

第54回 『現代詩手帖』特集「短詩型文学新時代」

 『現代詩手帖』6月号が「短詩型新時代 詩はどこに向かうのか」という意欲的な特集を組んでいる。黒瀬珂瀾編の「ゼロ年代の短歌100選」と高柳克弘編の「ゼロ年代の俳句100選」も掲載されており、ここ10年の短歌界と俳句界を俯瞰するのに好適なアンソロジーとなっている。また岡井隆・松浦寿輝・小澤實・穂村弘の座談会、城戸朱理・黒瀬珂瀾・高柳克弘の鼎談、平田俊子・穂村弘の対談という豪華なラインナップに加え、多くの若手歌人・俳人・詩人の論考とエッセーが収録されており、読み応え十分な内容である。
 現代詩では短歌・俳句を短詩型文学と捉えて領域横断的に俯瞰することで、詩に活力を取り戻そうという動きがある。現代詩は自由詩で形式の約束事がなく、一方短歌・俳句は伝統的定型詩というちがいがあるので、ポエジーを発生させる回路が異なり、そこが詩の拡大につながるのだろう。また詩人のなかには俳句を作る人がけっこういて、清水昶のように本格的な句集を持つ人もいる。最初の出発点は新聞俳句の投稿だったという人も多い。今回現代詩の側からの提案でゼロ年代の短歌と俳句を俯瞰する試みが行われたのはおもしろいことである。短歌の側からの提案で同様の試みができないのだろうか。座談会で岡井は短歌界と現代詩の交流がほとんどないことを嘆いている。
 ゼロ年代はおそらく最初は批評の世界で使われ始めた用語で、2000年から2010年を指す。新世紀を迎えた2001年に9.11同時多発テロが起きたことは象徴的で、世界はグローバル化と液状化とが同時進行しているようにも見える。この10年間に作られた短歌と俳句にはそれがどのように反映されているだろうか。
 黒瀬は、戦後の第二芸術論を乗り越えるために提唱された土屋文明の「生活即短歌」と近藤芳美の「今日有用の歌」というアララギ戦略と、これに対抗する前衛短歌という流れがあり、それを引き継いで行く形で修辞の変革が起きたというのが昭和30年代から60年代までの様相だとまとめた後に、肯定するにせよ否定するにせよ共有されていたそのような戦後短歌の価値観が分散してきたのがゼロ年代の特徴だとしている。つまり戦後短歌のテーゼが共有されていた時代から一歩違う位相に突入したということである。このような認識を踏まえて黒瀬はゼロ年代を過渡期と捉え、新旧の価値観が併存していることを示すように選歌したという。発表年代順に並べられた100首の短歌は、確かに作者の年齢層もばらばらで、伝統的な文語定型もあれば完全口語の歌もある。
たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔
                 飯田有子『林檎貫通式』01年1月
おそらくはつひに視ざらむみづからの骨ありて「涙骨オス・ラクリマーレ」                      塚本邦雄『約翰傳偽書』01年3月
目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき
        穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し〈ウサギ連れ〉』01年7月
神はいづこぞ晴れわたりたる海境にちかちかと千の針降りやまず
                雨宮雅子『昼顔の譜』02年7月
 最初期から何首かを引いた。これだけでも歌姿の多様性に頭がくらくらするほどである。完全口語の飯田の歌、前衛短歌の技法をほとんど留めない塚本の歌、加藤治郎が「短歌の死」と形容した穂村の話題作、これぞ伝統定型という雨宮の歌。こうして並べてみると、互いにほとんど接点がないようにすら見える。一首一首は読んだことのある歌でも、10年間という切り口で年代順に並べることで初めて見えて来る歌の風景というものがある。その意味で興味尽きないアンソロジーと言えるだろう。
 同時に100首に選ばれた作者のなかに物故者が多いことにもいやおうなしに気づく。斎藤史、塚本邦雄、上野久雄、高瀬一誌、春日井建、前登志夫、中澤系、近藤芳美、笹井宏之、竹山広、森岡貞香らはこの10年間に亡くなっている。このうち中澤系と笹井宏之は若くして亡くなっているが、他は名実ともに戦後短歌の担い手であった人たちである。世代交代が進んだことで、戦後短歌という認識が薄れたと黒瀬が言うのもうなずける。
 短歌界の混迷と対比的に驚かされるのは、俳句界の盛況ぶりである。「ゼロ年代の俳句100選」の選句を担当した高柳克弘は、先頃句集『未踏』で第一回田中裕明賞を受賞している。この賞は惜しまれつつ2004年に45歳の若さで他界した田中裕明を顕彰するために創設された賞であり、清新な高柳の句集はまことに第一回受賞にふさわしい。高柳の選句は今の俳句界の全体的傾向を表しているわけではないが、形式の可能性を拡大した句、つまり従来の表現史に新しいものを付け加えたものを意識して選んだと述べている。
《蝶来タレリ! 》韃靼ノ兵ドヨメキヌ  辻征夫『貨物船句集』
わたくしに烏柄杓はまかせておいて     飯田晴子『平日』
揚雲雀空のまん中ここよここ     正木ゆう子『静かな水』
にはとりの血は虎杖に飛びしまま      中原道夫『不覺』
気絶して千年氷る鯨かな    富田拓也『青空を欺くために雨は降る』
台風がいすわるウィトゲンシュタインも  坪内稔典『水のかたまり』
 一見してベテランも若手も新しい俳句表現に挑戦していることがわかる。その多彩さは混迷からはほど遠く、読んでいて楽しい限りである。城戸朱理と黒瀬珂瀾との鼎談で高柳は、自分の上の世代は伝統的な結社中心で、下の世代は俳句甲子園出身が多く結社とは離れた所で句作しており、自分はその裂け目を繋ぎたいと抱負を述べている。また自分はあくまで俳句の表現史というものを意識したいと続けている。「表現史を意識する」とは、それまでの表現技法をただ踏襲するのではなく、また歴史性をまったく無視してゼロから始めるのでもなく、歴史性を踏まえた上で自分がそれに何を付け加えることができるかを考えるということである。何という健全でまっとうな態度だろうか。俳句の将来は明るい。若手を中心とした論考とエッセーでも、歌人に較べて俳人の方が表現に踏み込んだ文章を書いている。ここでもどうも短歌の方が劣勢なのだ。奮起してもらいたいものである。
 俳人のエッセーで特におもしろかったのは、1969年生まれの関悦史の「現代詩読者から俳句作者への漸進的横滑り」だった。最初は現代詩を作り短歌も作ったことがある関は、最終的に詩と短歌を放棄して俳句のみを作るようになったという。その理由として関は次のような俳句特有の生理を挙げている。
「俳句は自由詩に比べ、世界とむき出しで対峙せずに済ませることも容易に出来る。結社や師弟といった制度を引きずり、前近代的技芸の枠に引きこもれるからばかりではない。説話論的持続を最低限に減殺し、断裂・飛躍を呼び込む形式自体に『世界対私』という枠組みを明るみへと溶融させる契機があるからである。それを初心者向け教育法に仕立てたのが高濱虚子の『花鳥諷詠・客観写生』で、これはいわば出来合いの自我・感情を去勢・無頭化した上で詠み手の真の主体を『花鳥』の擬似世界へと開かせるカリキュラムである。わずかな例外を除いて詩人・小説家の俳句が陳腐なのはこれに相当する手続きを怠り、既成の自我にじかに語らせた『短い短歌』にしてしまうからだ。(…)大我なり他界なりへと主体が開けていれば良い。自我が直接対決しないことがそのまま世界への向かい合いとなり得る回路もこの形式にはおそらくある」
 さすがは第11回俳句界評論賞を受賞した論客である。用語・概念の自分への引き寄せ方の強引さに説得力がある。上の文章で関は、短歌が基本的に私語りであるのに対して、俳句は出来合いの自我をいったんカッコに入れた上で、花鳥の擬似世界へと開く回路を用意しているという。関の言う花鳥の擬似世界とは、永田和宏が短歌創作における「虚数世界」と呼んだものとおそらくは同じものである(『表現の吃水』所収「虚数軸について」)。だとすれば短歌もベタな私語りであるはずもなく、新たな〈私〉への回路をその形式の裡に秘めているはずである。しかし関も言うように、短歌においてそれをなし続けるためには「作者の側に断固たる世界観とそれをリアライズする修辞を組織し続ける執念が必要」だというのもまた、認めなくてはならない事実だろう。短歌と俳句とはそのあたりの生理が異なるということか。
 インターネット上では俳句批評のホームページやブログが花盛りだそうである。短歌はそれほどでもない。どうも俳句の方が隆盛を迎えているらしい。これから少し俳句に目を向けてみようと思いつつ、短歌も負けないようにがんばってほしいと、短歌応援団の読者としては考えてしまうのである。

第53回 一ノ関忠人『帰路』

わが居間の鏡にむかひひとり踊る狂へるにあらず狂はざるため
                 一ノ関忠人『帰路』
 時刻は家人の寝静まった深夜だろう。居間の鏡に向かって一人踊る。狂人のごとき振る舞いに見えるが、そうではなく自分を狂気から守るためだという。作者は重病に罹り、いつ終わるとも知れぬ療養生活を余儀なくされている。絶望したり自暴自棄になる時もあろう。そんな時に自らを押し止めるために鏡に向かって踊る踊りは、さぞやひょうげたものにちがいない。集中屈指の鬼気迫る歌である。
 一ノ関忠人は國學院大學に学び岡野弘彦に師事した歌人。『帰路』(2008年 北冬舎)は、『群鳥』『べしみ』に続く第三歌集である。後記によれば、一ノ関は2005年9月に悪性リンパ腫を発症、突然入院を命じられ長い療養生活を送ることになる。『帰路』はこの療養生活のあいだに作られた作品をまとめたものである。題名の『帰路』は、「此ノ生ノ帰路愈茫然タリ」という蘇東坡の詩から取られたもの。いつまでも往路と信じていたら、もう帰路を歩いていたという思いが籠められている。
 療養と短歌といえばすぐに子規が頭に浮かぶが、一ノ関もそのことを意識していて、次のような歌を作っている。
わが病牀六尺の歌頭髪の脱毛始まれば笑ふほかなし
一畳ほどのベッドがわれの栖なりおとろへたれどわれ此処にあり
病牀六尺こそ我が世界のすべてという境遇に心ならずも置かれた作者にとって、歌の持つ意味を改めて噛み締めた日々だったにちがいない。本書には短歌以外に、長歌と独吟による連歌に加え、幼い娘に読み聞かせたと覚しき童話風の散文詩も収録されている。
 一ノ関はもともと万葉集以来の和歌の伝統を踏まえた古格漂う歌を作る歌人だが、悪性リンパ腫という命に関わる病を得たことにより、自分と歌の距離がさらに縮まったのではないかと思われる。「死と短歌は不可分のもの」という短歌観を持つ作者なので、にわかに死が身近に迫るものとして意識されることで、〈私〉と歌が不即不離の関係に立つことになったのであろう。自ら望んだことではないものの、そこに反復することのかなわぬ生の一回性が濃厚に漂うことになったのは事実である。そのような地平から立ち上がる歌はことごとく絶唱である。
右脇よりドレインに抜ける濁り水わが胸に棲む夕やけの色
断崖に立つはわれなり覗き込む淵は色なくぞつと寂しき
点滴の針より落つるひとしづくふたしづく命の水のごとしも
内視鏡に胃の腑さぐられゑづくなりわが秘めしものあばかれゆかむ
やがてこの髪も抜け険しき表情にわが笑むときは子よ近づくな
 病を得たやり場のない怒り、療養の淋しさ、絶望感などを盛る器として、文語定型の持つ力を感じさせる作品である。内なる深淵を覗き込むような歌とならんで、病床からわずかに見える風景を詠んだ歌もある。
きのふよりけふ稲の穂の重く垂れ刈りしほ近し窓に見てをり
新館の屋上に二羽のセキレイが秋の日を浴びきらめきて見ゆ
ベランダの小さき水盤に雀二羽あたり窺ひしばしして去る
やがて太りゆく月しろもなほ寒き姿に青き空わたりをり
杖つきて立ち止まりあふぐ青き空いつもの時間に飛ぶ一機見ゆ
 いずれも情景を素直に詠んだ写実的短歌であり、作者の病気を思わせるような語句は一切ない。にもかかわらずこれらの歌が集中に置かれたとき、心に染み入るような重い意味を持つのはどうしてだろうか。一首目の「きのふよりけふ」により、作者は毎日窓外の稲田を見つめていることがわかる。五首目の「いつもの時間」も作者が毎日同じ空を見ていることを示している。これらはすべて作者が同じ場に縛られていることを暗示する。二首目のセキレイと三首目の雀の歌もまた、作者が狭い空間に縛られていることを表すと言ってよい。たとえふだんから見慣れた光景であっても、自由を制限された境遇から改めて眺めると、そこに自ずから自由への希求の念が込められるのだろう。しかしこれらの短歌の読みが提起するものはそれだけではないようだ。
 『現代短歌の全景 男たちの歌』(1995年 河出書房新社)の座談会で、小池光が「おもむろに夜は明けゆきて阿蘇山にのぼる煙を見ればしづけき」という歌を引いて、このような歌がポンと出されたとき、どのような読みが成立するかと問いかけている。歌意は明らかで歌そのものの中に意味はありそうで実はない。作者の伊藤保が19歳でハンセン病療養所に入所した最初の夜に作った歌だという背景に置かれたとき、全然違う歌が出て来る。それが短歌の内部構造だと小池は言う。何かを受けて返すという構造が短歌の内部論理であり、何かとの落差で詩型が成り立っていると小池は続けている。
 これは長歌に対する反歌として和歌が成立したという歴史的経緯にその深源を求めるべきかもしれない。伊藤の歌の場合、受けるのは自らが置かれた境涯であり、返された歌の写実的風景は受けたものを地とすることで、初めて図として成立するということになろう。上に引いた一ノ関の写実的な歌が、描かれた風景を超えて何かの意味を放射するものとして読むことができるのも、小池の言う「受けて返す」という詩型の構造が発揮されているからと考えられる。
 療養生活でのささやかな喜びを詠んだ歌もまた同じ構造に基づくことは言うまでもない。
アンパンの臍噛みなにかうれしくて妻と語りぬ冬の夜の部屋
心地よくわれは聞くなりコトワザのたぐひ唱ふる子の声のリズム
賜はるはぶんたん表皮の黄色の輝り春よ早く来よ飛ぶやうに来よ
ふつうアンパンの臍を噛んで喜ぶようなことはしない。そんなことが嬉しいのは病気という境遇に置かれているからである。短歌や俳句のような短詩型はその短さゆえに、大きなことを詠みづらく小さなことに向いている。小さなことの喜びが十全に歌われた歌である。
 歌集最初の章は「2005/9/17」と病気の告知を受けた日付のみから成り、作者にとってのこの事実の重みを物語っている。『群鳥』で挽歌に冴えを見せた作者は、本歌集で療養歌に新境地を開いたと言ってよい。一日も早い快癒を願うばかりである。

第52回 尾崎まゆみ『明媚な闇』

うちがはにこもるいのちの水の色の青条揚羽みづにひららく
               尾崎まゆみ『明媚な闇』
 アオスジアゲハは羽全体が黒で、その中央に鮮やかなパステルカラーの青緑色の帯をまとっている。掲出歌はその帯の色を体内の水の色と見立てて表現した。「ひららく」は古語でひりひり痛いの意。羽を打ち飛ぶ様を、体内に抱える水に痛い思いをしていると見立てたものと読む。「ひららく」には蝶がひらひらと舞い飛ぶイメージが重ねられている。「うちがはにこもるいのちの水の色の」までは青条揚羽を導く序詞で、その調子も古典的で今様を思わせるゆったりとしたリズム感がある。三句六音の破調も手伝って、短歌定型の様式性が強く感じられる歌となっている。
 『明媚な闇』は昨年(2009年)末に上梓された尾崎の第五歌集。尾崎については本コラム「橄欖追放」の前身の「今週の短歌」で2003年7月に取り上げている。2005年に塚本邦雄が泉下の人となってからは、尾崎は魚村晋太郎林和清と並んで玲瓏の中心的歌人として活躍している。『明媚な闇』は「短歌研究」に連載した短歌を中心に、ほぼ編年体で構成された歌集である。
 あとがきに書かれているように、この歌集は作者の居住する神戸とその前に広がる瀬戸内の海を主要なテーマとしており、主題性が濃厚に感じられる。
水にまじはるひかりの春のすこし甘い苅藻川てふ風のかよふ道
瑠璃色の鵯越をまつすぐに空のふかみへ落ちてゆくなり
藻塩焼き残りし「枯野」海底にしづめてひびく潮のさやさや
時の道ときにつながる大観寺無量光寺の源氏稲荷に
 モダン都市神戸は古事記・万葉集を始めとして、伊勢物語・源氏物語・平家物語などの物語の舞台として、歴史の刻印を深く留める土地でもあり、その意味で神戸は「土地の精霊」(genius loci)に満たされた場所である。尾崎は土地の精霊に導かれて現在に過去を読み込む手法で歌を作っており、一首に物語の記憶を注入することによって、短歌言語と詩想の豊饒さを実現することに成功している。
 テーマ批評的に分析するならば、本歌集に最も頻繁に登場するのは水と光と闇である。なかでも闇は歌集題名に現れていることからもわかるごとく、現在の作者の心の有り様を端的に表現するものと思われる。
記憶には明るいはうと暗いはう、生きてゐるわたくしが思へば
水仙の芽は小指ほど暗闇をいだきては伸びあがるかたちに
からだ沁みとほるひびきはあたしから足首までの暗闇
ものを見るときのくらさにはなびらの散る雲母きららなす時の切れ端
空響くアレグロの風はたはむれに明媚な闇をふきぬけてゆく
 光と闇は生まれながらに双生児であり、光あれば闇ありまた闇あれば光がある。一首目を見れば尾崎の闇は主として記憶に由来することが知れる。遠くは1995年に阪神地方を襲った大震災の記憶であり、近くは師の塚本邦雄の逝去の痛みである。この世に人として生きる以上、光と闇をもろともに抱えねばならないという思いが作者にあり、それが歌となって迸る。三首目下句の減音破調が独特のリズムを生んでおり、また四首目の「雲母なす」と五首目の「空響く」が枕詞的に使われている点も注目される。
 師の塚本邦雄は前衛短歌の旗手から古典和歌の世界へと華麗に転身して見せたが、尾崎のまた古典への傾倒を深めているようだ。それは本歌集では頭韻による連作に見られる。例えば「ひいやり剥がす」と題された連作では、冒頭に「さつきまつ花橘の香をかげば昔の人の袖のかぞする」という古今和歌集の歌が引用され、この歌の31文字から始まる歌が連作として構成されている。ただし最後の歌は「す」で始まり「る」で終わるので、合計30首による連作となる。いかにも新古今風の言語技法である。また第一歌集『微熱海域』、第二歌集『酸っぱい月』に散見された破調・句割れ・句跨りの前衛短歌的技法による個性的なリズム感も本歌集では影を潜め、塚本が開発した初句七音の歌はときおり見られるものの、古典調の流麗なリズムが全体を覆っている。
みづに文字書くように掻く真昼間のプールに水のからだ浮かべて
皮膚いちまい隔ててきつつ馴れにしはじんわり沁みるみづの揺らめき
さねさしさがを音にくづした超絶といはれる指のためのシャコンヌ
ひとすぢのひかりはがねの感触の来てやはらかく指にまつわる
白真弓春の弓張ありあけのあはく光を曳きて帰らな
 一首目の「書く」と「掻く」の言葉遊び、二首目の「きつつ馴れにし」の業平からの引用、三首目の本来は相模に掛かる枕詞「さねさし」、四首目の「ひとすぢ」「ひかり」「はがね」のh音の連続、五首目の「春」に掛かる枕詞の「白真弓」、「真弓」「弓張」の同音連続などの技法によって、言葉が日常言語の地平を離れて歌物語と古典和歌の歴史的地平へと押し上げられてゆく。読者は言葉のひとつひとつの曲がり角を曲がるたびに、日常的意味を超えた言葉自体の放つ光に触れる思いがする。
 歴史性を離れた歌群のなかでは、水泳やダンスをテーマとする身体性に基づく歌をおもしろく読んだ。「情熱の冥き」と題された歌群から引く。
薔薇の花びらの揉みあふ廃園に情熱の冥きつちふまずあり
わたくしのからだをまとふ骨はあり薄くひろがる肌にまみれて
初めてのステップを踏む人魚姫切りさかれたるやうな足首
ひかりを舐めて移る翳りをうしろへと摺り足シャッセ流れて締める足首
尾鰭またたゆたうやうにふうはりと立つ足首の先のふたひら
 何の説明もなく一首目を読んだら、歌意を取るのに苦労することだろう。上句「薔薇の花びらの揉みあふ廃園に」にとりたてて意味はなく、イメージ喚起のために置かれているのであり、「情熱」を導く長い序詞と見なしてもよい。「つちふまず」でダンスが詠まれていると知れる。二首目は体の中に骨があるという関係を逆転し、骨が体をまとうと捉えた点がおもしろい。ただ「まみれる」の使い方はどうだろうか。三首目はダンスのステップを陸に上がった人魚姫の足取りに喩えた歌。四首目でも「ひかりを舐めて移る翳りを」は序詞的な置かれ方をしており、本歌集では尾崎は短歌の様式性を強く意識しているようだ。五首目は足先を魚の尾鰭に喩えた歌。ほとんど意味がなく短歌定型のみが虚空に自立しているかのごとき趣があり、作者の重んじる所が見えるような歌である。「たゆたう」「ように」「ふうわり」のu音の連続が柔らかくゆったりしたリズムを作り出している点も見逃せない。
 最後に装訂に触れると、担当したのは今までに数々の美しい本を世に送った間村俊一。表紙装画は上ラインラントの画家の手になるLittle Garden of Paradise (1410年頃)という素朴な絵で、高い壁に囲まれ花が咲き乱れ小鳥が歌う楽園図である。拙宅のすぐ近くに恵文社一乗寺店という京都で最もユニークな書店のひとつがあり、ときどき「美しい本」というミニフェアを催すことがある。電子書籍の黒船襲来が叫ばれるこの時代に、美しい本をデジタル的にではなくアナログ的に手にすることは、人の世に数少ない喜びのひとつである。

第51回 嵯峨直樹『神の翼』

君の着るはずのコートにホチキスを打てば室内/ひどくゆうぐれ
                   嵯峨直樹『神の翼』
 嵯峨は1971年生まれで、中学生の時に短歌に出会っている。岩手県の旧渋民村の宝徳寺で遊座英子に短歌の手ほどきを受けたという。宝徳寺は石川啄木の父が住職に任ぜられて一家で住んだ寺である。嵯峨は啄木の故郷で短歌と出会ったことになる。進学した高校の国語の先生が村木道彦だったという田中槐のケースにも驚くが、嵯峨も短歌と出会うべくして出会ったということだろう。無縁の衆生である私などには想像することすら難しい。短歌が嵯峨の肉体に食い込む様が目に見えるようだ。嵯峨はその後「未来」に所属して岡井隆に師事し、2004年に「ペールグレーの海と空」で第47回短歌研究新人賞を受賞している。『神の翼』は受賞作を収録し2008年に刊行された第一歌集。跋文は岡井隆が執筆し、栞文は「未来」の先輩格の加藤治郎と穂村弘が文章を寄せている。ニューウェーブの血脈を意識しての人選と思われる。ペールグレーのグラデーションをなす表紙に白い翼が浮き上がる装幀も美しい。
 読み進むうちに何かおかしいという感覚が、遠くでかすかに鳴っている目覚まし時計のように執拗について回る。歌集半ばあたりまで読み進んで気がついた。嵯峨の描く情景の切り取り方が独特なのである。たとえばこうだ。
あかい紐引くと闇夜に包まれた 髪の毛先が頬をくすぐる
胸もとに冷たい鼻を感じれば雨のはじめのしずくを思う
通販の下着モデルのトルソーで慰めた手がつり革つかむ
長髪にかくれて小さなキスをするあたたかな息ちかく感じて
幸福を探り続ける左手が細い煙草を箱から抜いた
半そでのむきだしの腕と触れ合えば君は確かに僕ではないが
一首目の髪の毛先、二首目の鼻、三首目の手のように、身体の部分が断片化されて提示され、持ち主である人間の全体が見えないのである。このことは四首目以下にも言える。「キッチンに淡い光が差し込んで姉は野菜の水滴はらう」のように、カメラを引きで写して全身が見えるように描いた歌はむしろ少ない。まるで暗闇から身体の一部だけがぬっと現れるようである。たとえば次のような歌と比較してみればその相違は明らかだろう。
弟よ電車にあればワイシャツに光あふれて青年となる
                      佐藤通雅『薄明の谷』
ぶつぶつと言いて自転車漕ぐ男過ぎゆけば背に子どもが居たり
                      吉川宏志『西行の肺』
作者の視線は他者としての人間全体を把握しており、それは視覚的把握に留まらず、歌の〈私〉と対象との心理的距離や関係性にまで及んでいる。私たちが日常行う他者把握はこういうものであり、「家族」「近所の人」「職場の同僚」「見知らぬ人」などの関係性を常に含む。ところが嵯峨の短歌においては、他者が断片化されているのみならず、関係性もまた剥奪されており、上に引いた歌に登場する髪や鼻や手の持ち主と〈私〉の関係が明らかでないだけに、いっそう不穏な印象を与えるのである。
 この描写法の源流がニューウェーブ短歌にあることは、まずまちがいなかろうと思われる。
ほそき腕闇に沈んでゆっくりと「月光」の譜面を引きあげてくる  
                          加藤治郎
海からの光がとどくひややかな雨がおさえるわたくしの舌
 ニューウェーブ的語法の最良の果実のひとつと思われるこれらの歌において、腕や舌などの身体部位は自立性を付与され、そのことが全身から成る総体的人間の重みからの解放と、それに基づく感覚的語法の確立を可能にしたのである。嵯峨はこのニューウェーブ短歌の語法を学び自分の物としたのではないか。
 この語法は嵯峨の短歌から滲み出る世界観と双生児の関係にある。
髪の毛をしきりにいじり空を見る 生まれたらもう傷ついていた
午前1時の通勤電車大切な鞄ひしゃげたままの僕たち
海へいく道路の脇の自販機で買ったコーラはまだぬるかった
街じゅうの監視カメラに注視されて撰ばれてある恍惚とする
僕たちは過剰包装されながら受け入れられておとなしくなる
赤んぼの頃から俺のおしっこはおむつを宣伝するために青い
 一首目から三首目に表現されている漠然とした不全感、四首目から六首目に表現されている自分たちを取り巻く不可視のシステムと無菌社会。「僕たち」や「俺」を主語とする歌のほとんどは、このような現実認識を表明している。先に指摘した身体の断片化と関係性の喪失は、このような世界観と不即不離の関係にあるだろう。思想は語法を生み、語法は思想に形を与えるという点から見れば、嵯峨の語法は選ばれるべくして選ばれたものとも言える。
 しかし短歌が抒情詩であるという観点から見れば、嵯峨の思想と語法はどちらかと言えばぬるい抒情につながることもまた事実である。
霧雨は世界にやさしい膜をはる 君のすがたは僕と似ている
霧雨の降りしきる路 終バスは名前の消えたバス停に着く
三月のビニール傘にわたくしをころさぬほどの雨降りそそぐ
 嵯峨の短歌の中ではよく雨が降っているのだが、その多くは霧雨であり決して強い雨ではないのが特徴的である。短歌によく雨が降る歌人に藤原龍一郎がいるが、藤原の雨はもっと鋭く肺腑を抉る強い雨である。
油膜浮く運河の水面打つ雨の「夜の淫らな鳥」や言葉や  
                   藤原龍一郎『花束で殴る』
六月の雷雨自虐へとなだれこむわが日々を撃つわが日々を撃て
 ラテンアメリカ文学の名作ドノソの『夜の淫らな鳥』や現代短歌の歌枕である六月に思いを馳せる藤原の抒情は、全身を振るわせるような激しい抒情である。これと比較すると嵯峨の短歌が押し上げる抒情は、どうしてもぬるいと感じられてしまう。おそらく嵯峨はそのことを意識しており、自分たちの世代はぬるい抒情しか持てない世界に生きているのだと言いたいのかもしれない。
 嵯峨の短歌のもうひとつの特徴は、垂直方向の偏愛である。
ペットボトルの空気の球を垂直に上げながら飲むミネラルウォーター
垂直に合わせた羽を微動させ葉の先端にとまる紋白
上からの指示で降りゆく 経血のぬるく滴るような世界へ
上昇とともに抱き合う密室の階数表示を片目に見つつ
夕立に潤いながら垂直のマリアは密かにねじれはじめる
人群れて白き階段登りゆく 空にキリンの首折れている
 垂直方向に上方が理想や憧憬の方向で、下方が転落と失意の方向なのはわかりやすい比喩である。おもしろいのは嵯峨の短歌に水平方向の移動がほとんど見られないことである。常々、地理的想像力を言い、故郷からの遁走によって自己を解放し実現しようとしたのは寺山修司であった。垂直方向の移動は同じ場所に留まっての憧憬であるが、水平方向の移動は出自からの離脱であり空間的解放である。嵯峨の短歌に水平方向の移動が少ないことが、行き場のなさをいっそう強調しているように思え、読んでいて胸ふたぐような息苦しさを感じるのである。

第50回 藤島秀憲『二丁目通信』

金柑は小鳥のために捥がずにおく ひよどり、君は遠慮せよ
                藤島秀憲『二丁目通信』
 この歌集でいちばん受けた歌がこれである。私はマンション住まいだが、幸いかなり広いテラスがあり、家人がプランターでいろいろな植物を育てている。冬になると食料の乏しくなった山からヒヨドリとメジロが餌を求めて飛来する。リンゴやミカンの切れ端を木に刺しておくと、目ざとく見つけて寄って来る。わが家では声も姿も愛らしいメジロが人気なのだが、メジロが食べていると決まって乱暴者のヒヨドリがやって来てメジロを追い散らす。ヒヨドリは食いが荒いので、立ち去った後には何も残らない。だからヒヨドリには少し遠慮してほしいのである。誰しも同じ思いなのだと感得した。
 藤島秀憲は「心の花」所属。2005年に「二丁目通信」で短歌研究新人賞候補になり(その年の受賞者は奥田亡羊)、2007年に第25回現代短歌評論賞を「日本語の変容と短歌 ─ オノマトペからの一考察」により受賞している。第一歌集『二丁目通信』は2009年の出版で、さいたま文芸賞短歌部門で準賞を受賞。藤島は「短歌研究」の時評欄も書いており、短歌実作と評論の両方ができる歌人である。
 本歌集を繙くと、例えば次のように母親の介護と死、認知症の父親の世話、自身の失業と離婚など、重いテーマの歌がずらりと並んでいる。
介護用トイレに母の残しいし尿を捨てたり葬儀の後を
風呂場にて裏返しして洗うなり父の下着という現実を
ロッカーとデスクの抽斗空にする作業をまたもしているわれは
ピータンの好きな女になっていた 前妻もいる赤い円卓
 ここから跋文を寄せた佐々木幸綱のように、この歌集は読みようによっては介護歌集とも読めるという感想が生まれる。確かにそのような読み方も可能であり、また年老いた親の介護という現実が厳しいものであるのは疑いない。しかしその一方で、この歌集を単純なリアリズムに基づいて人生の不如意を詠ったものと取るのは危険だろう。そのヒントはあとがきにある。あとがきで藤島は、自分は三丁目に住んでおり、二丁目に住んでいる〈われ〉は三丁目の私とそっくりであると書いている。そっくりではあるが同じではない。二丁目と三丁目のちがいが現実と虚構の間の虚実皮膜であり、藤島の文芸の核心はそこにある。また藤島はこの点について極めて意識的な歌人なのではないかと思うのである。
 この歌集には夥しい固有名が登場するのだが、藤島の文芸を理解する手かがりになる人名が二つある。
コーヒー代節約二ヶ月ついにわが開く『山崎方代全歌集』
一生を晩年として過ごしたる小中英之を読んでいる 秋
 山崎は先の大戦で負傷して右目はを失明、左目の視力もほとんどなくなり、復員してからも定職と家庭を持たず、無用者として生涯を過ごした。「手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る」などの山崎方代の歌と藤島の歌の親和性は明らかである。また小中英之は若い頃から宿痾を抱え、死神と同道するがごとき生を送った歌人である。「雨期の花舗『末期の眼』にて眺むれば赤道直下航く船の見ゆ」のように、自らの死を見据えた透徹した文体を持つ。小中にとって自分の生は常に晩年であり、「俗世から退いて身を持する者のもつ頑なさとはかなさを、鎧のように身にまとっていた」(『過客』の辺見じゅんによる追い書き)という。山崎も小中も自ら選んだものではない事情によって人生から降りた人である。藤島は山崎と小中の二人の境涯に親しいものを感じ、自分を同類の者に擬することによって歌の根拠を確かめようとしているのではないか。介護や失業などの厳しい現実を歌に詠みながら、過度に深刻に陥らない軽みを感じさせるのは、この藤島の立ち位置に理由があるものと思われる。
ライオンズマンション脇の舗装路の止まれの〈まれ〉に雪凍てており
何百回夢に訪れくる母か納豆に醤油をかけすぎと言う
仏壇に苺六粒供えしが一時間後は三粒になりぬ
縁側の日差しの中に椎茸と父仰向けに乾きつつあり
あおむけの蝉のごとくにもがきおり今宵のわれはこむらがえりに
 藤島が好んで歌に詠むのは大事件ではなく、例えば一首目にある道路のペイントの止まれの〈まれ〉に雪が凍結しているというような、徹底して日常のどうでもよいような些事である。目線を低くし、日々のトリビアルな出来事に拡大鏡を当てるようにして、ペーソスとユーモアをまぶしながら詠むのが藤島の手法なのだ。だからこれらの歌の〈われ〉は等身大かそれよりやや小さめに描かれているが、決して現実の藤島ではない。
 藤島の短歌のもう一つの特徴は、歌の中に物語が塗り込められていることである。跋文で佐々木は啄木の手法を継承・発展させようとしていると指摘しているが、直近の手本は寺山修司だろう。
老婆ふたり暮らす家より泣き声と笑い声どっと起こる春宵
漢文の教師の家の日の丸がのたりと垂れてしずかな旗日
傘立てに三本の杖 おじいさん二人が「きょうの料理」見ている
首のない男女が金を受け渡すシャッター半分下ろされた店
 これらの歌に詠われている光景は妙に具体的で、まるで掌編小説のようなドラマを内包している。例えば一首目で老婆二人が暮らす隣家から泣き声と笑い声が起きるとは、一体いかなる事件が起きたのかと考えてしまう。また三首目では、老人二人に杖が三本と数が合わないところがミソで、残りの一本の持ち主はどこへ行ったのか。見ている番組が「きょうの料理」というところに不穏な気配がある。四首目でシャッターを半分下ろした店で金を受け渡ししている男女はただならぬ関係だろう。いくらでも想像が膨らむのである。歌に物語を織り込むのは、例えば福島泰樹や笹公人のように、ふつう浪漫の回復を目的とするのだが、藤島の場合はちょっと違っていて、虚実皮膜の異空間である非在の二丁目を立ち上げるためではないかと思われる。このことは固有名を詠み込んだ歌にも言えることである。
ああ行ってしまったバスに揺られていんマルヤマ人形店の広告
綱吉は出るか出ないか話し合うカーブ・ミラーの下の女生徒
お祭りの日だけ近所の人になる二軒となりの大泉さん
肩こりを叩くにちょうど手ごろなり かどや純正ごま油の壜
 ラッセルの指示理論によれば固有名は記述の束であり、背後に大量の意味を内包している。固有名には意味がずるずると付いて来る。「マルヤマ人形店」や「かどや」がどんな店か読者にはわからなくても、そこには意味を含んだ空間が形成され、物語が誘因されるのである。
 藤島が好んで数字を詠み込むのも他の理由からではない。
駐車場まで四十七歩なり五十二キロの父を背負えば
二本立て映画に二回斬られたる浪人は二度「おのれ」と言えり
伊右衛門のペットボトルとともに浮く鴨の三羽と白鷺の二羽
白鳥はあまり遠くを見ずに飛び年金手帳の厚みは二ミリ
銀行の二十五日の列の中十秒ごとに二歩ずつ進む
 数字は具体性を帯び、地を這うようなリアリティーを生む。しかしながら偏執的とも思える具体性への嗜好は、アララギ的生活即歌のリアリズムをめざしたものではない。現代絵画のハイパーリアリズムがかえって魔術的夢幻性を実現するのと同様に、これらの数字もまた虚実皮膜の異空間である非在の二丁目を作り上げているのである。
 一読してすっと意味の通じる平易な口語短歌の見かけの裏に、周到に仕掛けられた文芸装置がある。見かけに騙されてはいけないのである。

第49回 杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

晴れ上がる銀河宇宙のさびしさはたましいを掛けておく釘がない
                 杉崎恒夫『パン屋のパンセ』
 杉崎恒夫は1919年生まれ。1982年に前田透の「詩歌」に参加、2年後の1984年に不慮の事故で前田が急逝したため「詩歌」終刊とともに「かばん」に参加、爾来25年にわたって最長老会員として「かばん」に短歌を発表してきた。1987年に第一歌集『食卓の音楽』を上梓して以来歌集の刊行がなく、「かばんブックス」の企画で第二歌集を編集中の昨年永眠されたという。享年90歳。ご冥福をお祈りしたい。第二歌集『パン屋のパンセ』は井辻朱美・高柳蕗子ら「かばん」会員の編集により、2010年4月に刊行されたばかりである。井辻朱美・松村由利子・穂村弘が栞に暖かい文章を寄せており、杉崎が周囲から愛された人物であったことがわかる。メルヘン風の町並みを描いたカバー絵も歌集の中身とよくマッチしている。
 歌集題名は「パンセパンセパン屋のパンセ にんげんはアンパンをかじる葦である」という歌から採られている。「パンセ」は17世紀フランスの哲学者 Blaise Pascalの残した断章録だが、フランス語ではごく普通に使う「考え、思い」という意味の語である。パスカルの「人間は考える葦である」を「にんげんはアンパンをかじる葦である」とひねるところに、作者杉崎の権威を嫌い市井の生活を暖かく見る目が感じられる。杉崎は三鷹にある東京天文台(旧国立天文台)に長く勤務したという。掲出歌は天文台勤務という職業とつながりのある歌だが、平明な口語短歌のなかに透明な詩情を滲ませる杉崎の作風をよく表している。
 収録された歌は編者たちの手により春夏秋冬の四季の順番に配列されている。恋の部こそないが、勅撰和歌集の部立と同じである。春の部からいくつか引いてみよう。

観覧車は二粒ずつの豆の莢春たかき陽に触れては透けり
爆発に注意しましょう玉葱には春の信管が仕組まれている
高貴なるムスカリ・ボトリオイデスは伯爵家のような長き名をもつ
噴水の立ち上がりざまに見えているあれは噴水のくるぶしです
濁音を持たないゆえに風の日のモンシロチョウは飛ばされやすい
滄海に自在のくじらを泳がせて地球は春の軌道をめぐる

 観覧車のゴンドラと豆の莢、玉葱と手榴弾、噴水と踝の例が示すように、杉崎の目線は日常的事物の中に「おや、これは」と呟く発見を見いだしている。このささやかな見立てが成功したとき、そこにメルヘンのような詩的世界が立ち上がる。井辻朱美は栞文のなかでこれを「杉崎マジック」と呼び、その本質は初期化されたまっさらなフレームを作ってその中に事物を配置することによって、世界が独立浮揚するというプロセスだと分析している。確かに杉崎の短歌は歌の〈外部〉を感じさせず、ひとつひとつが独立の小世界のようだ。例えば一首目を例に取ると、切り取られた四角いフレームの中に2基ずつ対になった観覧車のゴンドラと降り注ぐ陽光だけが静かにあり、それ以外の物の気配がない。また二首目は話しかけるような口語口調なので、ふつうはそこに話し手がいるはずなのだが、実際に受ける感じはまるで絵本の1ページのようだ。これは絵本の語りであり、そこに話し手はいない。杉崎は過剰な〈私〉を消去することで、まるで物が中空にボツリと浮かんでいるような静謐な画面を作り出している。
 過剰な〈私〉を消去すると書いたが、だからと言って杉崎が世界を眺める目線がなくなるわけではない。例えば次のような歌には、日常ふと感じる寂しさやふとした疑問などが、詩的昇華を経て表現されている。このつぶやきのようなユーモアもまた杉崎の魅力である。

気付きたる日よりさみしいパンとなるクロワッサンはゾエアの仲間
選ばれしものはよろこべシャボン玉をふくらましいる空気の役目
ゆっくりと桜を越ゆる風船に等身大の自由あるなり
駅前にたつ青年が匕首のごとく繰り出すティッシュペーパー
目の前を時計回りにめぐりいるもと回遊魚のまぐろのにぎり

 一首目のゾエアはエビやカニの幼生のプランクトンのこと。ある日ふと、三日月型のクロワッサンはゾエアと同じ形をしていることに気付く。その日からクロワッサンがさみしく感じられるというのである。二首目ではシャボン玉をふくらましている空気にも、喜ばしい役目があると言い、三首目ではふわふわと飛ぶ風船に自由を感じている。こんな所に杉崎の生活信条や一種の述志を読み取ることもできる。四首目は街頭のティッシュペーパー配りの手つきが、まるで道行く人に匕首を突きつけているようだと、その押しつけがましさを感じている。五首目は回転寿司の歌。「もと回遊魚」には思わず笑ってしまった。回転寿司の歌と言えば、小池光の「回転の方向はそれ左回り穴子来て鮪来てイカ来て穴子」などの一連の歌があるが、杉崎の歌もこれと並ぶ佳作と言えよう。
 次はいささか機知を働かせた歌。

コバルトのとかげ現れ陽を返すÇセ セディーユのお前のシッポ
わが胸にぶつかりざまにJeジュとないた蝉はだれかのたましいかしら

 セディーユというのは、フランス語でcの文字の下に付くニョロとした記号のこと。とかげの体がCの文字のように曲がり、尻尾がセディーユの形に見えるのである。記号と言えば、「丈たかき斥候ものみのやうな貌をしてフォルテが杉に凭れてゐるぞ」という永井陽子の歌があるが、ともに形に着目した機知の歌である。二首目のje はフランス語の一人称代名詞。蝉の鳴き声がje「私」と聞こえるのである。杉崎はよく蝉を歌にしており、夏の短い期間やかましく鳴いて命を終える蝉を愛おしんでいたようだ。「仰向けに逝きたる蝉よ仕立てのよい秋のベストをきっちり着けて」という歌も集中にある。
 次の歌は自分の死に思いを馳せたものだろう。

ビオラには二つの∫字穴がある一つは死んだぼくにあげます
ぼくの去る日ものどかなれ 白線の内側へさがっておまちください
星空がとてもきれいでぼくたちの残り少ない時間のボンベ

 一首目についてご子息の杉崎明夫さんが、父親は若い頃に結核を患って肺が片方機能しないことを明かし、この歌は動かない自分の肺を詠んだものに思えてならないと書いている。二つある∫字穴が左右一対の肺臓に見えるからである。二首目や三首目に見られる死への思いにも激しさは微塵もなく、静謐な思念と思いやりに溢れている。
 「バゲットを一本抱いて帰るみちバゲットはほとんど祈りにちかい」と詠む杉崎にとって、短歌とは一種の祈りであり、薄暗さを増す夕暮れに一本の蝋燭を点すような行為だったにちがいない。それにしても高齢になるまでみずみずしい詩心とやわらかい目線を保ち続けたのは驚くべきことである。杉崎の短歌を読んでいると、歳を取るのも悪いことばかりではないと思えて来る。またそんな杉崎の思いを受け止め続けた短歌というささやかな詩型も、あらためて愛おしいものに思えるのである。