第32回 『風通し』の歌人たち

 最近、若い歌人による同人誌が盛んに創刊されている。すでに6号を迎える「pool」は別として、「豊作」「[sai]」「町」「風通し」など目白押しである。共通する特徴は、結社・流派などにこだわらず、横断的に若い人たちが寄り集まって作っているところか。同人誌は若い人たちの切磋琢磨に格好の場であり、歓迎すべき傾向だろう。今回はその中から2008年11月創刊の「風通し」を取り上げてみたい。1号の同人は、我妻俊樹、石川美南、宇都宮敦、斎藤、故・笹井宏之、棚木恒寿、永井祐、西之原一貴、野口あや子。最年長の我妻が41歳、最年少の野口が22歳と年齢に幅があり、世代論で輪切りにできる構成ではない。あとがきの「説明しよう」によれば、「風通し」は1号ごとのメンバーで1号ごとに企画を立ち上げる「そのつど誌」とある。つまり固定メンバーによる同人誌ではなく、演劇の世界でいうブロジェクト方式なのだ。ということは次号の同人はがらりと顔ぶれが変わることもあり、縁起でもないことを言って恐縮だが、次号はもう出ないという可能性だってあるということだ。若人ならではの大胆さとエネルギーに脱帽しよう。おまけに創刊号の企画はなんと連作歌会なのだ。同人は30首の連作を提出し、インターネット掲示板で一ヶ月にわたる相互批評をしている。「みなさんもやってみるといいが、想像以上のやるんじゃなかったである」とあとがきにあるように、心身ともに相当大変だったことは想像に難くない。各人の個性が光る連作もおもしろいが、それ以上に興味深いのは相互批評の書き込みで、各人の短歌観とともに現在の短歌シーンが置かれている状況が如実にあぶり出されている。
 意欲的構成の連作という点で特筆に値するのは、何と言っても石川美南の「大熊猫夜間歩行」と斉斎藤の「人体の不思議展 (Ver.4.1)」だろう。両方とも大量の詞書を駆使した作品で、ここで何首か抜き出して批評することが不可能な構成になっている。石川の作品は、「四月三十日、上野動物園最後のジァイアント・パンダ、リンリンが死んだ。」という書き出しで始まり、一昨年の7月に起きたリンリン脱走事件という架空の物語を、詞書と短歌で織り上げたものである。短歌だけを部分的に抜き出してみる。
異界より取り寄せたきは氷いちご氷いかづち氷よいづこ
目を閉ぢて開ければ宙に浮かびゐる正岡子規記念球場しづか
枝豆のさや愛でながら〈パンダの尾は白か黒か〉についての議論
夏の夜のわれらうつくし目の下に隈をたたへてほほえみあへば
街灯の赤きを浴びて思ひ出す懐かしいメキシコの友だち
手を振つてもらへたんだね良かつたねもう仰向きに眠れるんだね
真夜中の桟橋に立ちやさしげな獣に顔を噛まれたること
 上野公園を脱走してから、アメ横を通り御徒町を過ぎて、ヨドバシカメラの角を曲がり、万世橋から竹芝桟橋までの夜間歩行の行程を、石川は自分で歩いて確かめてみたそうだ。目撃証言を詞書として挟み、連作もこの行程をたどって進行する。最初は新聞報道のように始まり、酔漢の証言や学生のコンパの場面によって徐々に情景が具体性を増し、終盤に至って作中の〈私〉がパンダに優しく顔を噛まれるという場面で、一連の事件の意味を自ら引き受けるという構成は圧巻で、不覚にも涙したほどだ。最後の歌を除いて歌にパンダが登場せず、目撃証言とそれに遠く近く寄り添う歌という構成を取り、終始パンダを不在の対象として描くことによって、連作全体に神話的雰囲気を漂わせることに成功している。思えばすでに第一歌集『砂の降る教室』所収の快作「完全茸狩りマニュアル」などで、「世界を異化する視線」を駆使していた石川であるが、ここへ来てその才能はますます発揮されているようだ。
 連作批評では2点に議論が集まっている。歌の背後に想定される発話主体が、リンリンなのか目撃者なのか、それとも最後に登場する作中の〈私〉なのかよくわからないという点と、詞書が多すぎて「歌をストーリーに捧げてしまっている」(野口)という意見である。前者については、発話主体の未分化な感じは、「近代的リアリズムとべっこ(ママ)のより始原的なリアリズムを立ち上げようとしている」という宇都宮の分析はやや先走り過ぎの感があるが、確かに近代短歌の〈私〉ではない発話主体として読んで抵抗を感じない。後者については、「『プライベートな個別な私』の感情からの離脱」であり、「一首の背景に『特殊な顔の私』を代入しない」ことが物語のなかに歌を作る意義だとする棚木の意見が、発話主体の未分化性の議論とからむ形で印象に残る。棚木の意見にたいして、「『プライベートな個別な私』しか書けない私にとっては、そんな姿勢に歯がゆさを感じてしまう」という野口の反論に、はしなくも野口の作歌姿勢が露呈しているところが興味深い。
 我妻の指摘するように、物語作家としての作者の資質が存分に発揮された作品であることはまちがいないが、心配な点もある。この作品の延長で石川が散文の世界に行ってしまうのではないかという心配である。もしそうすると「みんな散文に行っちまう。」(大辻隆弘『時の基底』)ということになり、困った事態となる。ぜひ短歌の世界に留まってほしい。
 斉斎藤の「人体の不思議展 (Ver.4.1)」は、本物の死体を様々に標本展示して話題になった展覧会の見聞記という体裁を取っており、石川作品以上に大量の詞書を用いている。こうなると詞書の方が作品の骨格で、歌はその所々に挿入されている感すらある。詞書は、「いらっしゃいませ(カチカチ)」のような現場レポート風のもの、「プラストミック標本の作製法」という展覧会の目録からの引用、「悪いことして死んだヤツとかじゃない」「な」という観覧者の会話などから成る。特におもしろいのは、次のように詞書と歌とが連続して地続きになっている構成である。
 「おそらくこれは、標本になってからの凹みでしょう、
中国から来たものでわかりませんが、立ててたんでしょう針金か何かで」

また一歩記憶になってゆく道にわたしは見たいものを見ていた
 のだろうか。
 (詞書さらに続く)
 斉藤は極めて自覚的な演出者なので、歌と詞書のこのような関係性を意図的に構成したものと考えられる。歌をいくつか引く。
「アセトンに漬けたろか」的なツッコミが嫁とのあいだで流行る四、五日
たましいの抜けきらぬ今しばらくは人目に触れる旅をかさねる
腹が立つ、臆面もなく腹は立ちわたしを駆けめぐるぬるい水
死因の一位が老衰になる夕暮れにイチローが打つきれいな当たり
どのレジに並ぼうかいいえ眠りに落ちるのは順番ではない
 さらにいまひとつの仕掛けは、〈私〉が見た新生児の輪切り標本をもう一度見に行くと会場に見あたらず、係員にたずねてもそんな展示はないと言われ、嫁にたずねてもよく覚えていないと言われたというエビソードである。これまた作品中に虚空間を作るべく斉藤が連作に施した周到な仕掛けであることは言うまでもない。
 批評では、詞書が主になり歌が従になっている構成への疑問や、人体をここまで見せ物にしてよいのかという倫理観や死生観の反省といった主題性の突出をどう評価するかに議論が集中している。「いろんなことを考えるいいきっかけにしたいぼくらはよいこに並ぶ」という連作冒頭の歌からして、「展示方法にご批判もありましょうが、これを生死や献体の問題などを考えるきっかけにしていただければ」的な主催者側の理屈を逆手に取っているのだから、斉藤のスタンスは二重三重に捻れていて一筋縄ではいかない。同人たちもこの点をどう評価してよいのか決めあぐねている感がある。方法論的には、「斉藤さんの作品の特徴として、すでに世の中にカタマリ化して流通している言葉を定型の中に頻繁に引用する」というのがあり、そうすることで「定型のはたらきを失調させる」とする我妻の指摘にうなずく。同時にカタマリ化して流通している言葉を嵌め込むことで、定型の存在をいっそう意識させる点に斉藤の戦略があるのではないかとも思う。斉藤は近代短歌という制度をあぶり出したいのである。
 斉斎藤は一度本格的に論じてみたくなる歌人だが、まだ誰もその本質を剔抉することに成功していないように思える。それは斉藤と短歌の関係が、すぐさま見極められないように周到に韜晦の煙幕に隠されているからである。「人体の不思議展 (Ver.4.1)」もそのうな地点から放たれた変化球なので、評価は様々だろうが問題作であることはまちがいない。同人たちによる掲示板への書き込みの量が、それを雄弁に語っている。
 残りの連作については短評に留める。
けむりにも目鼻がある春の或る日のくだものかごに混ぜた地球儀 
                       我妻俊樹「案山子!」
歯みがきは過去のどこかに始まっていつかは消える 人より早く
片方のサンダルだけがリボンになってほどけて終わる花道をゆく

さびしさの音の粒さえみえそうな夜もわたしはどうせまるがお
              宇都宮敦「昨晩、君は夜釣りへいった」
はなうたをきかせてくれるあおむけの心に降るのは真夏の光
まちがった明るさのなか 冬 君が君の笑顔を恥じないように

手品師が手に品をのせやってくる 冬の日曜日の午後三時
                  笹井宏之「ななしがはら遊民」
太刀魚を夜のシンクに横たえてなんだかよくわからないが泣いた
みぞれ みぞれ みずから鳥を吐く夜にひとときの祭りがおとずれる

こころのことを語れぬほどに暗かった二次会の店 朝に思えば
                       棚木恒寿「秋の深度」
わが内を流るる河に沈みしは鉄の斧なりすでに光らず
近道、裏道ふやしてゆけぬわが性質(たち)をふかく感じて今朝の通勤

一年は六月のまだ一日でパスタのあとにパイの実を食う
                永井祐「ぼくの人生はおもしろい」
コーヒーショップの2階はひろく真っ暗な窓の向こうに駅の光
去年の花見のこと覚えてるスニーカーの土の踏み心地を覚えてる

海を見ぬ日々が私を造りゆく缶のキリンを凹ませながら
                      西之原一貫「夏の嵩」
にわか雨過ぎたる昼のデスクにて加へられし朱の嵩を見てをり
来ぬものをあの日のわれは待ちながら埃の雨のなかに立ちけり

くろぶちのめがねのおとこともてあそぶテニスボールのけばけばの昼 
               野口あや子「学籍番号は20109BRU」
野口あや子。あだ名「極道」ハンカチを口に咥えて手を洗いたり
小説を見せろとじりじり詰め寄れば燕のごとく飛び立つおとこ
 我妻と宇都宮はともに無所属の歌人で、宇都宮は第4回歌葉新人賞次席になっている。早稲田短歌会出身の永井祐も加えてこの三人は、完璧にニューウェーブ以後の短歌シーンの空気を当然のものとして呼吸している人たちである。そんななかに、「音」「京大短歌会」出身で第一歌集『天の腕』を持つ棚木と、「京大短歌会」「塔」の西之原が混ざると非常に奇異な感じを与える。棚木と西之原は文語定型に則り、近代短歌の作りと読みのコードを前提としている歌人で、手堅い作りの抒情歌は安心して読める。一方、我妻・宇都宮・永井の作品は、いったいどのようなコードで読んだらよいのかわからない。そもそもコードの存在自体を否定しているのかもしれない。もしそうなら究極の一回性の文芸ということになる。
 我妻が棚木の作品について次のように評している。「作中人物が歌に収まる姿勢のようなものが気になる」、「カメラ目線とまでは行かなくても、カメラ=短歌のフレームを作中人物が意識している」、「そのような向き合い方でフレームに接していることへの疑いのなさ」が問題だというのである。我妻も宇都宮もなかなかの論客であることを相互批評で示しているが、ここは斉藤に解説をお願いしよう。斉藤は『短歌ヴァーサス』11号に、「生きるは人生とちがう」という文章を書いている。そのなかで、「私は身長178cmである」というときの「私」を客体用法、「私は歯が痛い」というときの用法を主体用法と区別し、短歌の〈私〉は両者の複合体であるという。この事情を次の歌を引いて分析している。
飛ぶ雪の碓氷をすぎて昏みゆくいま紛れなき男のこころ 岡井隆
 上句は〈私〉、下句は「岡井隆」であるという。敷延すれば、「飛ぶ雪の碓氷をすぎて昏みゆく」は主体用法の〈私〉の目に映った風景である。一方、「いま紛れなき男のこころ」は自分を客体視した客体用法である。このように近代短歌の手法は、「作中主体が見ている風景を、作中主体の(人生の翳りを帯びた)背中をも構図にふくめ、ななめうしろから撮る」ことだと斉藤は言う。つまり〈私〉が映り込んだ情景を、〈私〉込みで斜め上方から切り取る視線が近代短歌の視線なのである。我妻の「カメラ=短歌のフレーム」はこのことを指している。そして〈私〉がいけしゃあしゃあと映り込んでいる風景が我慢ならないと言っているのである。我妻の発言は近代短歌の作歌と読みのコードをまるごと否定することに他ならない。
 では我妻らが肯定するコードとは何か。ここでもまた斉藤に頼ることになるが、同じ「生きるは人生とちがう」のなかで宇都宮の発言が紹介されている。
「『ふつう』の反対って『特別』とかじゃないですか。で、なんていうのかな、『特別』っていうことを声高に叫んでも、特別にならないような気がしてて。(…) そういう風の特別さって感じじゃ特別にならないと思うんです。ふつうに存在してるていうことの特別さっていう。自分のいる空間に他の人は立てないわけじゃないですか、ぜったい。っていう風な意味での特別さっていうものを書いてるんで」(宇都宮敦ロングインタビュー、永井祐HPより)
 異常だとか特殊な能力があるとか特異な体験をしたという「特別さ」を排除し、ここにふつうに生きているという「かけがえのなさ」をこそ「特別」と見なすわけだ。これはひとつの価値観なので、それはそれでよい。問題はその価値観からどのような作歌と読みのコードが導かれるかである。実作を読む限り、そこに近代短歌のコードに取って代わるコードを見いだすことは難しい。しかし、「『短歌のひと』特有のポーズの決め方に私も長々と葛藤していた」という野口の発言や、「短歌的な『私』がア・プリオリには成立しないという理屈、というよりは感覚が、『風通し』に参加されている皆さんの世代では身体化されているのだろうということもひしひしと感じています」という近代短歌サイドの西之原の発言を見ると、近代短歌の「斜め後方からの視線」は若い人たちには嘘くさいポーズと感じられているようだ。近代短歌側としては、これは是非考えなくてはならない問題だろう。もしこの感覚が燎原の火のごとく広まれば、近代短歌は死滅するからである。
 永井らの歌の読み方について、「永井さんの歌はロックだなあと思いながら僕は読んでいます (あるいはロックだなあと思いながら読むとおもしろいと思っている)」と宇都宮は発言している。ロックだなあというのは、「本当のことを歌いに来たんだぜ」とか「負けねえよ」とかいう意味だ。忌野清志郎とか尾崎豊を思い浮かべておけばそう遠くはなかろう。そうか、そう言われてみれば、「噴水の音がうるさくなってくる 話していると夕方になる」(永井祐)という歌なんて、音を当てればそのままロックの歌詞になりそうだ。しかしそれは短歌とは別物である。
 相互批評を読んでいて仰天したのは、「私は自分が歌人であるはずがないと思っている」という野口の発言である。というのも4月20日付の橄欖追放で、「青春の心拍として一粒のカシスドロップ白地図に置く」という野口の歌を引き、「カシスドロップは短歌の喩で、この歌は歌人としての野口の覚悟の表明と読みたい」と私は書いたのだが、これでは完全な読み違いということになってしまうからだ。これは困る。だから野口の発言を、「自分はまだ歌人だと胸を張って言えるほどのレベルには達していない」という自己認識の表明と勝手に解釈しておくことにしよう。野口の歌についての「短歌は気合いだ」という発言にうなずく。また歌ではなくその背後にいる作者に感情移入して読んでしまうことを「作者萌え」と同人たちは表現しているが、なかなか便利な言葉である。どこかで使わせてもらうことにしよう。
 「風通し」はこのように気鋭の若手歌人たちによる刺激的な同人誌である。通読するのにものすごく時間がかかったが、それは内包されている問題量の嵩の多さに由来する。近いうちにぜひ2号の刊行を期待したい。

第31回 黒瀬珂瀾『空庭』

ああ吾は誰かの過去世まなかひに雪ふる朝を地の底として
                     黒瀬珂瀾『空庭』
 絢爛と黒い光を放つ第一歌集『黒燿宮』で2002年にデビューした黒瀬珂瀾の待望の第二歌集が出た。奥付に本年(2009年)6月5日発行の日付を持つ『空庭くうてい』である。著者から拝領したのは一週間前なので、おそらくこの文章が最初の批評になるだろう。第一歌集から閲すること7年の年月はやはり長く、才気溢るる一人の青年が時間という微粒子の中を泳ぐことで変貌するに十分な長さである。7年という時間は収録歌数にも反映されている。基本は1頁5首組で、前書き・目次・跋・後書きを除くと165頁あり、空白頁をざっと20と見積もって引くと145頁になる。単純に5を掛けると725となり、おおよそ700首という数を得る。花山周子の『屋上の人屋上の鳥』が出た時、収録歌数860首は茂吉以来と話題になったが、その数に迫らんとする歌数である。跋文は岡井隆。ソフトカバーの瀟洒な装幀はあのクラフト・エヴィング商會。自己陶酔的な青年のイラストが表紙を飾る第一歌集の黒を基調とした装幀と比較すると、驚くほどシンプルでおとなしい。人が現在いる位置は見えにくいが、以前いた位置と較べると見えやすくなる。過去の位置Aと現在の位置Bの差分を取ることで、見えてくるものがあるのだ。黒瀬の第二歌集『空庭』を読み解こうとする時も、この接近法は有効なのである。
 歌集題名の『空庭』は著者の造語で、Empty gardenとCelestial gardenの両方を意味するという。「空虚な庭、光あふれる庭としての世界を嘆き、希求する心を、この造語に託した」とあとがきにある。集中に題名の由来を示すと思われる一首がある。「Garden アフガン侵攻への一瞥」と題された連作中の一首である。
ガーデン」(ガーデン)が、眼の前にありわがうちに空虚満ちつつ初冬の晩暉
 水と緑の溢れる楽園のイメージは古代ペルシアに端を発するとされている。ならば同じ中東のアフガン侵攻が蹂躙される庭園の連想を導くのは自然だが、その庭園はひたすら空虚なものとして認識されている。第一歌集『黒燿宮』にも「回廊」や「薔薇」などの語の背後に庭園のイメージは揺曳しているが、はっきりと庭園に言及しているのは巻末の次の歌のみであった。
わがために塔を、天を突く塔を、白き光の降る廃園を
 この歌に「血の循る昼、男らの建つるもの勃つるものみな権力となれ」という別の歌を重ねると、「男性原理」「権力」「エロス」またその陰画としての「同性愛」などのキーワードが得られる。第一歌集において「庭園」は、希求する対象であると同時に、廃園の語が示すように、挫折・喪失の文脈において捉えられている。庭園がここで世界の喩であるとしても、その把握はあくまで観念的な範囲に留まる。振り上げるナイフはただ我が身を突くのみなのだ。ところが『空庭』においては庭園はただ観念の対象ではなく、アフガン侵攻という日付を持つ時事的文脈の中に置かれており、空想の紡ぎ出すものであることに変わりはなくても、そこに確かな現実との紐帯が認められる。この立ち位置の変化が『黒燿宮』から『空庭』への変化の中で最も意味深いものである。それは村上春樹がかつてのdetachment (離接)からattachment (接続)へと、世界への立ち位置を変化させたのと似ているかもしれない。この点に7年の年月がもたらした表現者黒瀬の成熟を見るべきだろう。
 制作年代が最も古い第四部には、『黒燿宮』を思わせる黒瀬調の歌が見られる。
俺は見た、我が掌に汝がこぼしたる精を 真夏の啓示としての
神々の捨てたまふこの苑にゐて朝日の塔を幾千と見む
汝が口を口もてふさぐ われの名を零さむとする暁の百合を
俺は飛ぶお前は落ちろ日輪を背にする街を抱く運河へ
銃だった、あれは確かに、緩徐調子アダージョの街との別れ際に見たのは
 硬質の質感を持つ漢語を組み合わせ暗喩を多用する詩法は前衛短歌譲りで、語の強度から滲み出る高踏的詩情は地上のものと言うよりは天空の領分である。これは額に汗して地上を歩く人の歌ではない。高踏的な言語への拘りは塚本邦雄と似た所もあるが、大いに異なる点は、塚本は俳句もよくしたのに対して、黒瀬は俳句に向かないところだろう。なぜなら黒瀬の歌の言葉は「物語」を呼び込んでしまうからである。人も知るように俳句は過剰な物語を嫌う。『黒燿宮』のあとがきに、「僕は物語を書き綴るつもりでした。(…)でも、ようやく最近になって気が付いたように思います。僕には語るべき物語は無いし、それを語る術も持たないということに」と黒瀬は書いているが、黒瀬の歌はこの言葉に反して物語を常に内包している。歌が何か大きなストーリーの断片のように見える。近代短歌の〈私〉は物語の地層に紛れて見えなくなり、物語を紡ぐメタ的〈私〉としてしか把握できなくなる。この点において、物語を内包せず近代短歌の〈私〉を前景化する吉川宏志と黒瀬は、現代短歌シーンにおいて180度対極的な作風の歌人と言えるだろう。
 しかし『空庭』の他の章においては黒瀬の変化が顕著に見られるのだ。
海ゆ戻れば居間には闇が膝をかかへて座せり、まるで日本だ
降嫁する人をことほぐ広告アドを書く 夜更けの塩の塊のため
枝々ゆ光はさむくこぼれつつ九段(POWERを!)坂のぼりゆく
ぽすころ、と宵の闇から鳴く声がする鳴き出すはつねに本国
ウサマ・ビン=ラディンの眉の太さかな黒葡萄食む夜明けの餐に
ムスリムの愛か知らねど何者かに抱きすくめられ崩れゆくビル
国家対国家とならぬ戦ひのかたみに愛を打ち交はす頬
 一首目は渡辺白泉の名句「戦争が廊下の奥に立つてゐた」を髣髴とさせる歌。作者も意識しただろう。『黒燿宮』の舞台がどこでもよく、またどこでもない世界 (everywhere and nowhere)だったのにたいして、はっきりと日本を名指ししている点が注目される。二首目の「降嫁する人」は結婚して黒田清子となった紀宮清子内親王で、「塩の塊」はサラリー、つまり給与のこと。食うために書きたくもない広告コピーを書くという歌である。三首目の坂は靖国神社へと続く九段の坂。四首目の「ぽすころ」は、ポスト・コロニアリズムの略。列強による植民地収奪は見かけ上は終焉したものの、経済的・文化的収奪はなお続いているとする理論的立場をさす。五首目以降はアフガン侵攻を詠んだ連作から。黒瀬が愛を語るとき、それはしばしば暗い陰影を帯びる。
 『黒燿宮』に登場する王や権力は、言葉が創り上げた耽美的世界に奉仕するものであった。この点は三島由紀夫と似ているかもしれない。これにたいして『空庭』に登場する日本や国家はより具体性を帯び、私たちの住む現実世界に接近している。黒瀬は『空庭』のあとがきで、21世紀には世界は激変し、もはや誰一人20世紀の世界観に戻ることはできないと書いている。観念が生み出す耽美的世界から出発した黒瀬も、世界の事件と共振しそれに寄り添うことで世界に対する立ち位置を変化させ、同時に歌の質をも変化させたのだと思われる。
 同じ変化は日付のある歌の連作にも見ることができる。
12.14.00
はやう子を作れ、と言ふに頷けり 頷くほかになき昼下がり
12.14.50
大学の前に手を振る一滴の羊水もまだなさざる妻よ
12.16.00
短歌を作つてゐますと言はれおののけり闇にあわ立つビール温めり
1月5日 コンタクトレンズ紛失
見えすぎる世界もいやでコカコーラ飲みつつ歩む闘技場まで
1月7日 コンタクトレンズ発見
雪は雪待たず溶けゆき〈わたくしの輪郭〉などは見なくてよいぞ
 最初の三首は、塚本邦雄の訃報に接して実家に戻った旅行を詠んだ「六月の」と題された連作から。残りの二首は「去年今年」から。日付のある歌は河野裕子の歌集にもあり、小池光も『日々の思い出』で多く試みているが、詠まれているのはたいてい日常生活の小事であり、小事を掬い取るところに短歌の本質があるとする短歌観と表裏一体を成す。これは現実世界と似て非なるひとつの世界を言語によって構築する短歌観とは大きく異なる。黒瀬は今まで後者の短歌観に拠っていたので、日付のある歌を作るようになったこともまた前歌集からの大きな変化と言えよう。
 『黒燿宮』に多く見られたサブカルチャーとゲーム感覚に基づく歌は本歌集にも確かにあるが、その比率は以前よりはずっと低い。それに代わって『黒燿宮』には少なかった次のような作風の歌がかなりある。
酸漿の一輪白くうつむけるままに優しく知る海開き
抱き合ひて気付くわが身の冷たさをかなしみにつつ冬は終わるも
君去れば飲まれぬままに薄まれるコーヒーに浮く氷片ぼくは
勤めきし身を朝靄にまかせれば我が帰路に踏む硝子のひかり
物ひさぐ悲しみに満ちて花枯るる道端に水わづかかがよふ
 技巧者の黒瀬ゆえどの歌も上手い造りなのだが、以前のような外連味は影を潜め、短歌定型を意識した静かな歌である。青年の激情が壮年の沈思へと変化したのか。いやいや、ここはニーチェが提唱したアポロンとディオニソスという概念を借りて語るべきだろう。『黒燿宮』の基調は激情と混沌のエネルギーが支配するディオニソス的世界である。それから7年を経て、黒瀬は調和均衡と論理とが支配するアポロン的世界に接近してきたのではないか。あらゆる芸術にはアポロン的要素とディオニソス的要素の両方が必要なのは事実だ。しかしいずれが支配的になるかは、一人の芸術家においても時代や年齢により変化する。そういえば黒瀬の師であった春日井建もまた、ディオニソス的世界から出発してアポロン的世界へと移行した歌人と言えるかもしれない。
 制作年代が最も新しい第五章は作者のこの変化をよく感じさせる。
夜の底に開くみづうみ夜の底へ雪のひとひら沈めてしづか
ししむらを持つゆゑ飛べず春雪をかづけば無言なる遊園地
贄のごと気球を浮かせこの街は夜に入るかも星なき夜に
蛾を踏みてやはりわたくし 灯を落とし海底となるアトリウムにて
あてびとは吾よりしくサイダーを飲みて夏解げあき熟睡うまいをなせり
狭きわが棲みはつひにうつぼ舟 世界に万の雨降りそそぐ
夕映えをまとふ歌集は卓上に死せる浅蜊のごとくに開く
 世界を畏れて遁走したり破壊しようとするのではなく、静かに世界に手を伸ばすような歌である。惜しむらくは本歌集が7年という長い期間にわたっているためか、様々な傾向や作風の歌が混在しており、歌集全体を通観して集を代表する一首を選べと言われると、考え込んでしまうところがある。しかし全体を通読して、現在の黒瀬が辿り着いた地点は上に引いたような歌境ではないかと推測される。もっとも短歌技巧に長けた黒瀬のことゆえ、テーマや場に合わせてどんな歌でも作れるだろう。本集の最後の章は「金をくれるといふのならどんな歌でもよろこんで」と題されている。しかしどんな歌でも作れるということが歌人にとって幸いなことかどうかは、また別問題であることは言うまでもないのである。

第30回 林和清『匿名の森』

卓上の静物画ナチュールモルト 断つまでは果実のなかに流れゐる時間
                     林和清『匿名の森』
 静物画は英語では still life (動かぬ生)といい、フランス語では nature morte (死せる自然)という。セザンヌの静物画は木のテーブルに載せられた果物が多いが、その伝統は17世紀フランドル画派に遡る。市民生活の勃興とともに絵画が宗教から切り離され、日常生活の点景を描くようになった。テーブルに山積みにされた果物・魚・肉や煌めく銀器は当時の静物画で好まれた画題で、町人階級の現世肯定的思想の絵画的表現であった。静物画を nature morteと称するのは象徴的で、そこにあるのは生きた自然ではなく、万象の流転から切り離されたものだ。私たちは生命の流れから切り離された果物や魚を食べ、生命の流れを維持している。それを作者は時間の切断という局面において把握した。第三句「断つまでは」に洞察と断定が宿る。
 『匿名の森』は2006年に上梓された林の第三歌集である。本歌集の特異な構成は、2005年6月9日の塚本邦雄の死去が林にとっていかに大きな出来事であったかを物語る。第一部は「2005年6月9日以前」、第四部が「2005年6月9日以降」と題されており、春夏秋冬の部立で構成された第二部「四季」と第三部「羇旅」が間に挟まれるように置かれている。歌人・林の人生が2005年6月9日という日付で生木を裂くように真っ二つに分断されたことを示す構成である。
 以前「今週の短歌」時代に林の短歌を取り上げたとき、「異界との交通」をその特色と断じた。『匿名の森』でもそれは不変である。林の暮らす世界は普通の人が生きる世界よりわずかに広い。林の意識はたわやすく現世うつしよの外側へと滲み出るのである。例えば次のような歌がそうだ。
焼けてしまった骨のあかるさ思ふとき陶工が壺をまた叩き割る
死後の世にもビニールありてとき来れば寒風に青くはためいてゐる
ここでさへ誰かが死にき漆器屋のうるしにうつる八月の街
いまでないいつかの時を歩みつついつもの朝の駅へとむかふ
いまここにわたくしはゐて緑なす五月の古墳の中にもゐる
垣間見のおももちをもて覗きあるく白いシャネルや暗いカルチェ
うつせみの祭にはあらぬ蛭子鉾、逆髪鉾、弱法師鉾、路地に立てり
 一首目は歌集冒頭「骨原」の連作から。この前に「なめらかに舗道へ歩きだすあなた数本の骨の残像とともに」という歌があり、現世に歩く人もすでに林の眼には骨と映っている。焼けた骨の象徴する死後の明るさと、散らばる陶片の取り合わせが印象的である。二首目は死後の世界にも青いビニールがあるだろうという想像を詠ったもの。私事ながら私は青いビニール袋が大嫌いだが、結句の「青くはためいてゐる」は意外に明るく肯定的でこれなら許せるかもしれない。三首目の「ここでさへ誰かが死にき」は、京都で暮らす者には日常的感覚としてよくわかる。町のあちこちに墓碑のごとくに「○○遭難の跡」という石碑が立っているのだ。その多くは幕末のものだが、漆器屋の近くに立っていたのも同類の石碑だろう。千年の都京都では時間がうず高く堆積しており、その片鱗が町の至る所に顔を覗かせている。四首目は現代と昔の時間の交錯を詠ったもので、作者は今駅に向かって歩いていても、今ではない別の時間を同時に生きているのである。五首目も同工の歌。六首の「垣間見かいまみ」は平安朝文学でお馴染みだろう。家の垣根の隙間から中を覗くことで、多くは男性が女性を覗き見た。きらびやかなシャネルやカルチェのブランド店を平安貴族の垣間見に譬えており、ここでもまた千数百年の時間の隔たりは一気に越えられている。七首目は現実の祇園祭にはない鉾を想像で路地に立てた歌。逆髪さかがみ弱法師よろぼしは能の演目。蛭子ひるこは古事記か。このように林は些細な出来事をきっかけに現世を抜け出して死後の世界を見、また時間を遡って時の旅人となるのである。その自在さは瞠目に値しよう。
 そんな林にとって人との死別は幽明境を分かつ出来事であり、現実には泉下に下った人とは触れあえぬことを思い知らされる時でもあろう。かくして林の詩想は挽歌において最もよく羽ばたくのである。
よみがへるどの記憶にもリンネルの手触りがありまた薫りたつ
枕上まくらがみに夜毎流るる瀬音あり「死せる皇子のためのパヴァーヌ」
海へ還る月を見てゐたあの夜から目に嵌めたまますごすいろくづ
目を鎖せばいくたびも逢ふことができる花を枕にねむる女神と
かつて豊饒の咽喉ふさぎしは何なるかその一塊の午後の黒さは
師のうちに海ありたりき両の肩に貝殻骨の白きかひがら
 最初の二首は春日井建への挽歌。「リンネルの手触り」の比喩が秀逸で、春日井のイメージをよく伝えている。「死せる皇子のためのパヴァーヌ」はもちろんラヴェルの「死せる王女のためのパヴァーヌ」の写し。パヴァーヌは羽根を広げた孔雀の堂々たる歩みを模した舞曲で、歌の背後に絢爛たる孔雀のイメージも揺曳する。三首目は宮尾壽子、四首目は冬野虹への追悼と詞書にある。両親を理不尽な事故で失った男の子が、それ以後は世界を歪ませて映す眼鏡を外すことがなかったという、昔どこかで読んだ話を思い出す。最後の二首は師であった塚本邦雄への挽歌。一首目は師の死因である呼吸不全を詠んだもの。二首目の前には「おそらくはつひに視ざらむみづからの骨ありて涙骨オス・ラクリマーレ」という塚本の歌を詞書とした歌がある。涙骨という名前の骨が本当にあるのかどうか知らないが、言葉に強い美学を持つ塚本らしいこだわりで、林の歌はそれを受けて貝殻骨に思いを託した骨上げの歌である。
 人体を覆う皮膚の下に骨を幻視し、都の路地の辻々に冥界を透視する林だが、幻視を誘うきっかけは日常のごく些細な感覚で、なかでも嗅覚にこだわりがあると見た。嗅覚は原始的感覚でありその喚起力は大きい。
白いやうな擦れたやうなこのにほひ足組みかへるあなたの方から
ダムに落とした一滴のの味がするハーブのお茶を飲み干したあと
木箱より引きいだすとき雛らはこの家のくらがりの香をはなつ
 一首目の擦れたような臭いは骨の臭いである。二首目は嗅覚ではなく味覚だが、まるでプルーストのマドレーヌの挿話の現代における陰画のようだ。三首目では一年に一度取り出す雛人形の臭いが生々しい。確かに「古い臭い」というのはあるもので、それは時間の臭いかもしれない。ちなみに「雛」は音数から「ひひな」と読みたい。 このような林の異界的感覚は時に奇想の歌を生み出すこともある。
白く濡れたゆふぐれの雪散りかかる将校の猿の毛皮のコート
死につづけてゐるのも体力この春も式部の墓へ散りかかる花
ひと息にひらく扇よけざやかにきみが界、わが界とをわかつ
午後四時のミルスクスタンド白秋の手が垂れて壜を置けり空より
音を観る神がゐたのさ秋の朝のはりはりうすい空気を渡り
 一首目を見てすぐ頭に浮かんだのは、雪の連想から二・二六事件の皇道派青年将校か、満州国で暗躍した陸軍将校が身に纏ったコートだ。しかし猿の毛皮は使わないだろうから奇想にはちがいない。二首目、生き返らず死に続けているのにも体力がいるという逆転の発想。三首目は王朝和歌、それも後京極良経あたりを彷彿とさせる歌である。古典に精通した林ならではの手さばきと言えよう。四首目、空から秋が手を垂れて牛乳瓶を置くというのも奇想である。ちなみに近現代短歌には空から手や紐が垂れて来るという歌が多いのはなぜだろう。五首目、秋のピーンと張り詰めたような空気を形容するに「音を観る神」は秀逸。
 第一歌集『ゆるがるれ』、第二歌集『木に縁りて魚を求めよ』と較べるとやや口語脈の歌が多くなったかと感じるが、林の異界感覚はかくも健在である。ちなみに歌集題名『匿名の森』には、森は優れて異界の象徴であり、〈私〉は匿名の存在として森に隠れるという意味が込められているのだろう。モーリス・ブランショならば同じことを「非人称の〈私〉」と言うところである。
 折から古い屋敷の庭に泰山木の花が咲いている。乳白色の大きな花が開ききった様を見ると、それはまるで夢の形のようだ。異界への入り口は至る所に開いているのである。

第29回 谷村はるか『ドームの骨の隙間の空に』

つばめ空の真中で止まる島の昼その静けさで壊せわたしを
        谷村はるか『ドームの骨の隙間の空に』
 今回取り上げるのは、今年(2009年)3月に出たばかりの谷村はるかの第一歌集である。谷村は2006年度短歌研究新人賞に同名の連作で応募し、惜しくも候補作に終わっている。同年の受賞は野口あや子の「カシスドロップ」。珍しくヒロシマと原爆のテーマを正面から詠って話題になった。選考座談会でもそのことがひとしきり話題になっている。
 短歌賞の選考座談会を読んでいつも感じることだが、どうして選考委員は候補作の作者の実年齢にこだわるのだろう。2006年短歌研究新人賞の座談会でも、「かなしみのみなもとのひと遠い空にひとりいるから孤独ではない」という谷村の歌を取り上げて、選考委員の馬場あき子は「この人は原爆で恋人を亡くしていて、そしてずっと年老いて、なおかつ自分の恋人が奪われた広島を離れず生きているという、そういう感じがするんですね」と発言している。実際には谷村は昭和46年(1971年)生まれで、2006年当時は35歳である。被爆体験もないし、いわんや戦争体験もない。平成16年の角川短歌賞で、当時17歳だった小島なおが受賞したときの選考座談会でも、作者はほんとうに17歳なのかという点に議論が集中していた。選考委員の米川千嘉子は、ほんとうに17歳なのだろうかと疑問に思って評価を保留にしてしまったとさえ述べている。
 なぜここまで年齢にこだわるのかという理由を推測するのはそれほど難しいことではない。若年の受賞者が出た時の社会的な話題性は当面措くとして、実人生を詠うことが明治以来の近代短歌の王道なので、どうしても歌の背後に作者本人を捜してしまうのだろう。作者の実人生という裏打ちがなければ、歌の価値が減じるというわけである。しかし短歌は文学の一形式であり、文学はその飛翔力の多くを想像力に負っている。過度に実年齢にこだわるのは、短歌の表現力を狭めてしまうことにならないか。
 谷村は現在「短歌人」所属。元朝日新聞の記者で、福井支局・広島支局と移動を重ね、記者と歌人の二足のわらじを履くことに耐えかねて遂に退社、短歌を生活の中心に据えるため現在は派遣社員として働いているという。根性の座った歌人である。経歴を知らずにまず歌集を読み、後で経歴を知ってなるほどと腑に落ちるところがあった。それは住んだ街への思い入れの深さである。単に転勤でたまたま住むことになった街にこれほど愛憎を深く持つことはあまりない。ふつう街は単なる仕事の場であり、日常の風景に過ぎないからである。しかし、新聞記者ならば、その街に暮らす人と深く交わり、街の歴史と交差する機会も多かろう。『ドームの骨の隙間の空に』は、街への想いと人への想いが交錯し混じり合い、遂には見分けがたくなる瞬間をすくい上げ、時には投げつけたような歌集となっている。
 短歌研究新人賞候補作となった連作「ドームの骨の隙間の空に」から引いてみよう。
遡りも下りもしない川の水の 夕凪 この街に長い残照
八月以外の十一か月の広島にしずかな声の雨は降りくる
慣れてないふたりは「幸せ」の前で浅い呼吸をくりかえしていた
いっそまったく違う街になってしまえば 何度も何度も咲く夾竹桃
ある日は通しある日は撥ねたわたしというこの容れ物のこの卑怯な皮は
 この五首の中に谷村の短歌の特徴はすべて凝縮されている。その一は、上に述べた街への想いと人への想いの交響であり、街を詠っているのか人を詠っているのか判然としないほど両者は混じり合っている。谷村の歌に純粋な叙景はなく純粋な叙情もない。叙景は即叙情であり、その逆もまた真なのである。あとがきで谷村は、「それぞれの街と会話し、感情の深い部分で交わった」と言い、この歌集は恋文集のようなものだと述べている。
 その二は、街や人への思い入れがそのまま自分へと反照し、「私はこれでいいのか」という自己反省となって戻って来る点である。これは上に引いた五首目に顕著に感じられる。冒頭の掲出歌の「壊せわたしを」の結句や、「枯らしたのはおまえだという声にただ抗いたくて水撒く真夏」にもそのことは見える。街に対して人と同じように友情や恋慕の気持ちを抱く傾向は少女の頃からあったと、谷村はあとがきで述べている。この性向が高じると、人に代わって街のすべてを引き受けようという、途方もない意志が芽生えることになる。次の歌はそのような気持ちから生まれたものだろう。
送るホームで憚りもせず触れあえばそうそう、もっと、と死者たちの声
諍ったまま運命の朝を送り出した人もいるそのぶんまでいだ
 しかし他人に代わって街のすべてを引き受けることなど、到底なしうることではない。その街が重い歴史を持ち、死者の影が揺曳する街ならばなおさらのことである。だから谷村の試みは挫折する。挫折しながら何度も何度も繰り返す。破綻するべく運命づけられている行為を、それを知りつつなお繰り返すのは実存的営為に他ならず、そこに谷村の抒情の深い地層があるのだ。
 谷村の短歌の特徴のその三は、口語ベースの歌の律にある。栞文を寄稿した短歌人会の大先輩・藤原龍一郎は、谷村の短歌において五七五七七のリズムは内在律としてのみ意識されており、短歌界に現在流布している口語短歌とは似ても似つかないと述べている。藤原はそれ以上詳しく分析してはいないが、おそらく次のようなことが言いたいのだろう。谷村の文体の対極に位置するのは、例えば「月並みなことを言うけど幸せは過ぎ去ってから気がつくものだ」という加藤千絵の歌である。この歌では五七五七七は厳密に守られている。その意味では形式上は確かに短歌である。しかしここではリズム形式が外在律として外側から枷を掛けているにすぎず、短歌に必須の歌の内部から発生する内的リズムが完全に欠如している。現代の一部の口語短歌がフラットだと言われる所以である。谷村の歌の律はこれとはまったく異なる。ゆるやかに定型を守りつつも、字余り・字足らずの破調を多く含み、時にうねり時に疾走する内的リズムの変化が多いのである。このことは上に引いた「いっそまったく違う街になってしまえば 何度も何度も咲く夾竹桃」などの歌をつぶやいて見れば感じられよう。
会えば争うような気がして行かれない黒い川面を渡るこうもり
どの卓も同じ角度で完璧なビニールの薔薇咲く尼崎アマの店
父ちゃんと娘の前にひとつずつニュートーキョー大ジョッキは置かれ
おまえより多くの町で生きてきたおまえより辛いカレーを食って
昼ビール汗となり伝う首すじを許そう許しあおう死ぬまでを
 作者は昼間からビールを飲み、激辛カレーを食べ、球場で声を涸らして応援し、博多の祭りで踊り狂うという、男性的で行動的な性格であるらしい。一言で言えばハードボイルドなのである。そういえばハードボイルド小説では街がもうひとつの主人公となっていることが多い。ロバート・B・パーカーのスペンサー・シリーズが描くボストン、ローレンス・ブロックの元アル中探偵マット・スカダー・シリーズの舞台ニューヨーク、そしてマイクル・コナリーのハリー・ボッシュ・シリーズのロサンゼルスは、作品を読む大きな楽しみとして街が克明に描かれている。ハードボイルド小説の神髄は「卑しい街を行く孤独な騎士」だと誰かが言っていたが、谷村にも次の歌がある。野球観戦の歌である。
一晩中呼びつづけたい名のために濁った街を抜け球場へ
同じ月に照らされた夜を、同じ雨に包まれた夜を、記念日として
 「濁った街」と知りつつその街を愛し、安酒場でビールを呷る。これはハードボイルド以外の何物でもない。これに雨と夜を加えれば完璧な道具立てとなる。なぜハードボイルドになるかというと、それは心の底に慚愧の想いがあるからだろう。このため時に谷村の歌には破れかぶれの感じが漂うのだが、それが致命的な破綻とならず、かえって強さを感じさせるところがいかにもおもしろいのである。
 もちろん集中には次のような美しい歌もある。
諦めの海に浮かんだわたしたちは島、緩衝の水めぐらせて
この街に雪降るたびに降ったよと知らせるたびにそれはこいぶみ
東京のビール工場の屋上に海を嗅ぐわれら海の上に棲む
いま何かに赦されて会うわたしたち匂いのしない汗を流して
ブラインドにスライスされた青空を疲れ目は細く遠く探すよ
 しかし谷村の歌の真骨頂は、街への愛憎を恋歌へと昇華するその独特な気持ちの有り様にある。専業歌人の覚悟を固めた谷村が今後どのような歌を詠むのか楽しみなことだ。

第28回 横山未来子『花の線描』

一日のなかば柘榴の黄葉のあかるさの辺に水飲み場みゆ
               横山未來子『花の線描』
 
 掲出歌は「柘榴のある水彩画」と題された連作の中の一首なので、絵に描かれた風景だと思われる。「一日のなかば」とあるので、小昼時か昼過ぎのよく晴れた日である。季節は木々の葉が色づく秋で、一首前の歌により舞台は公園と知れる。公園ならば人気があるはずだが、この歌の静謐さからは人の気配が感じられない。キリコの絵のように不思議な静けさがあたりを支配している。黄葉した柘榴と公園の水飲み場だけが描かれた歌だが、単なる叙景に留まらず、その背後にこの光景を見ている視線が強く感じられるのは何故か。私がまっさきに感じたのは「末期の眼」に映った光景という印象である。それは歌集を半ばまで読み進む過程で、歌の意味の重層化によって私の心の中に積み重なった意味の堆積が生み出したものかもしれない。
 横山についてはこのコラムの前身である「今週の短歌」という、今から思えば実に芸のない散文的なタイトルの短歌批評コラムで2004年12月に取り上げている。横山は1972年生まれで「心の花」所属。1996年に「啓かるる夏」で第39回短歌研究新人賞受賞。歌集に『樹下のひとりの眠りのために』(1998年)、『水をひらく手』(2003年)があり、『花の線描』は2007年刊行の第三歌集にあたる。表紙の花の線描画は作者本人の手になるもので、ブックデザインは4歳上の姉の未美子さんが手がけている。歌集作りのこういう細部に宿る意味は大きい。これが意味するのは姉妹の仲の良さと、家族に支えられた作者本人の生き方だろう。セレクション歌人『横山未來子集』(邑書林)の作者近影もお姉さんの撮影したとてもいい写真だった。第一歌集から第三歌集まで4~5年の間隔で歌集刊行が続いており、横山がたゆみなく短歌の道を歩いていることがわかる。今回『花の線描』を通読して、作者が成長し歌境を深化させていることが確認できる。端正な文体で彫啄された清潔な横山の歌の世界は変化していないが、明らかに深みが増している。
 では横山の歌の世界はどのように深化したか。それはあらゆる人間の成長がそうであるように、世界における自分の位置づけ、すなわち〈私〉と世界との距離を測定する作業を通じて、自分とは何かを自覚する過程である。横山は静謐な思考と自己への沈潜という内的作業によりこれを果たしたが、キリスト者である横山にはイエスの言葉もそれに与っていることは想像に難くない。この内的沈潜から横山が導き出した観念、そして本歌集『花の線描』を貫くライトモチーフは「時の重み」である。
時の重みおのおの負ひて地中へと入りゆくごとき雪を見て経る
 なぜ時の重みなのか。それは生来の病弱ゆえ車椅子の生活を余儀なくされている作者には、他の人とはやや異なる時間が流れているからだろう。横山にとって時間は人よりわずかに重いのである。
去年の冬のわが知らざりしわれとして来て蝋梅のかうにまじりぬ
卯の花の咲き撓みゐるゆたかさよたれもたれもが時をこぼせり
野分過ぎし道に黄葉もみぢば乾きをりひととせはわれを此処に連れ来つ
人あらぬ春の白日花びらに時の至りて土へ落ちゆく
まばたきの間に暮れゆけるけふの日のわが掌のうへの赤き鶏卵
 時間をテーマにした歌を書き出してみた。一首目、今年の私は去年の私が知らない誰かであるという逆転された時間意識の中に、時の旅人としての人間の姿が描かれている。二首目、卯の花は純白の小さな花をつけ、細い枝は花の重みに撓む。しかし花の時間は短く、雨など降ればすぐ地面にこぼれてしまう。下句「誰もたれもが時をこぼせり」にはこの世の誰も逃れることのできない摂理の自覚があり、この自覚が歌に清澄な透明感を与えている。一首目にも見られることだが、横山の中では自分が動くという感覚より、私が何かに動かされるという感覚の方が強いようだ。この感覚は三首目の下句「ひととせはわれを此処に連れ来つ」に如実に現れていて、〈私〉は時間に運ばれる存在として把握されている。四首目は桜を詠んだ歌だが、ポイントはもちろん「時の至りて」にある。ここには自然の摂理の自覚と同時に、微量の諦念すら感じられる。五首目は時間の流れの速さと、生命の象徴である鶏卵との対比が眼目である。
 冒頭に「末期の眼」と書いた。川端康成の文章に「末期の眼」と題されたものがある。ふだん見慣れた風景であっても、死を目前に控えた末期の眼で見ると洗われたように美しく見えるという趣旨だったと思う。歌人の中で末期の眼を最も感じさせるのは小中英之だろう。
黄昏にふるるがごとく鱗翅目ただよひゆけり死は近からむ 
                 『わがからんどりえ』
海よりのひかりはわれをつつみたりつつまれて臨終いまはのごとく眼を閉づ
                     『過客』
 宿痾を抱えていた小中にとって死は身近な親しい存在であった。遺歌集『過客』のあとがきに、小中が終生詠い続けたのは季節の過客の自覚と死への親しさだったと佐佐木幸綱が書いている。横山はまだ若いが生来の病弱ゆえ、自分を終わりへと導く時の重さの自覚が透徹した眼差しを与えたようだ。それが本歌集における歌境の深化をもたらしたものと思われる。まさに人は「季節の過客」、横山もまた小中と同じくそう言っているようだ。
 「時の重さ」の変奏として「空間の重さ」もまた横山の着目するところのようだ。
鳥にわづか果皮剥かれたる柑橘の冬の空間に重くみのれり
熱のなきひかりを生みて手底たなぞこに在りぬあらざるごとき軽さ
けふ冬となれる光よ音たててわれの行く手をに熟柿は落ちぬ
 重く実る柑橘も地上に落ちる熟し柿も、時間の経過のなせる業であり、このとき時の重さと空間の重さは結び合う。二首目は蛍を詠んだ歌で、ここでは重さの対極にある軽さが生命の短さの象徴となっている。
 横山の歌の特徴のひとつに、ふつうの意味における生活詠や職業詠がないことがあげられる。買い物籠のキャベツや職場のうるさい上司といったものは横山の歌にはまったく登場しない。自宅にいることの多い生活上の制約に起因するものではあろうが、それだけではないように思う。身めぐりを詠ってもそこに具体性を持たせることは可能なはずである。しかし横山の歌には人名・地名など具体性を感じさせる固有名が極端に少なく、事物は「鳥」「花」「湖」「町」「友」といった抽象的カテゴリーに昇華されているのだ。
薄紙は椅子にかかれり春の花を巻き締めてゐし疲れを残し
雪を残し今朝のあかるさ漆黒の翼ひろぐる鳥流れたり
をねだりゐし燕の子らの眠りゆき夜の空気のうつくしき町
地のうへの枯れ葉踏みゆく音しるく湖の縁冷えはじめたり
 生活に密着した具体性がほとんど見られないため、どこか童話や神話のごとき非人称的空間を漂う趣がある。しかし具体性の欠如が横山の歌の瑕疵かというとそうではなく、逆にそのために歌は作者個人の具体性を離れ、抽象と普遍の空間へと飛翔することになる。横山が「かなしみ」と書くとき、それは第一義的には〈私〉の悲しみなのだが、歌に詠まれたときには〈私〉の手を離れ、誰のものでもある「かなしみ」になるのである。例外的に具体性を感じさせるのは「あらせいとう」などの花の名と猫の描写で、作者が花と猫に寄せる深い愛情を偲ばせる。
 歌集巻末に収録されている百首連作「四つの窓のある部屋」は、同人誌「三蔵」2号に発表されたもので、「東の窓」「南の窓」「西の窓」「北の窓」にそれぞれ春夏秋冬の季節の歌を配している。一首ずつ引いてみよう。
立てかけられし斧の柄も朽ちゆくほどに永き日花の影は揺れゐつ
逃れられぬわが輪郭の見ゆる日を影もろともに動かむとせり
きのふに似る今日と思へる黄昏の窓の傍への塩のあかるさ
天上とおもふ位置より降りて来ぬ冬の小鳥の嘴を出づるこゑ
 古典和歌の部立を思わせる構成だが、ここにも確実に時間は流れており、歌集全体の中に置いても決して調和を乱すことはないのである。
 最後に特に印象に残った歌を引いておこう。
見えぬものを遠くのぞみて歩むとき人の両腕しづかなるかな
てのひらに湿りて在りし夏蜜柑の色ながれ出づ視野をはなれて
神の息のごとくに風の鳴れる朝しんしんとひとは行き交ふ四方よも
しばらくを蜜吸ひゐたる揚羽蝶去りゆきて花浮きあがりたり
粉のやうに薄日にひかる秋雨の甕を満たせるまでのわが生

第27回 澤村斉美『夏鴉』

かはきゆくみづのかたちを見てゐれば敷石の上ひかりうしなふ
                  澤村斉美『夏鴉』
 「黙秘の庭」で平成18年(2006年)に第52回角川短歌賞を受賞した澤村斉美の第一歌集が出版された。本欄「橄欖追放」の前身「今週の短歌」では、2006年11月に「黙秘の庭」と同人誌「豊作」に発表された歌を取り上げて論評している。その末尾に私は、「まだ歌集を持たない若い作者だが、これからの自分を『歌人』と規定する決意があるか否かが今後を決める。心のなかの名刺に『歌人』と肩書きをつけるかどうかである」と書いた。澤村はどうやら心の名刺に「歌人」と書く道を選択したようである。歩き始めたばかりの若い歌人に、米川千嘉子と「塔」の先輩の島田幸典と花山多佳子が栞文を寄稿している。いずれも若い歌人に向ける眼差しは温かい。
 それにしても青春の第一歌集の題名が『夏鴉』というのは異色である。米川によると「夏鴉」は俳句の季語で、灼熱の夏の暑さと鴉の旺盛な生命力が俳句に詠まれて来たという。『岩波現代短歌辞典』には、近代短歌で鴉は「死と再生のシンボル、幸福と不幸、希望と不安」の両義性を持つものとして描かれて来たとある。現代短歌で鴉と言えば、すぐに大塚寅彦の名が頭に浮かぶ。大塚の鴉は投影された〈私〉が十分に染み渡った対象で、本来の意味での客体とはもはや呼べない存在と化している。
烏羽玉の音盤ディスクめぐれりひと無きのちわれも大鴉を飼へるひとりか
らうらうと鴉は鳴けよ銃身の色なるはしを冬空に向け
選ばれて鴉となりし者ならむゆらりと初冬の路に降り来て
 これに対して澤村の描く鴉はまったく異なる位相に位置する。
逆光の鴉のからだがくつきりと見えた日、君を夏空と呼ぶ
帰らないつもりの家へ帰りゆく鴉のからだ黒いだらうか
顔痺れ薄き複写を読み返すからす鳴いてるこんな時間に
美しき友を見送りこの町はわれを住まはす 鴉降りる路地
あをあをと天の映れる水の弧にずり落ちさうに夏鴉立つ
 澤村の描く鴉は自己投影の対象ではなく、迷いつつ送る日々の折節に姿を見せる点景であり、どこか自分を見ている存在でもあるかのようだ。一首目は歌集冒頭の歌で、青春の光と影が鮮やかで、これが歌集の基調低音となっている。迷いつつ送る日々に浮き沈みがあるのは常で、歌の中に「浮く」「沈む」という語が多く含まれていることに気づく。
ばか欲望が降つてくるわけないだらう麦茶のパック湯に沈まずに
深い深い倦怠感のプールへと投げる花束浮いたではないか
白犀は心の水の深きまで沈みつ水の春は熟れゆく
雑踏にあるときの人の肩の線ふかく沈みゆきそののちに浮く
 眼差しの先にある対象の浮き沈みは、日々を送る心の動きと微妙に共振しつつ描かれており、純粋な叙景でも叙情でもなく、そのあわいを行く近代短歌のメインストリートを作者は歩いている。
 『短歌研究』2009年5月号の作品季評で黒瀬珂瀾が、嵯峨直樹が「ペールグレーの海と空」で短歌研究新人賞を受賞したときの評価に言及している。黒瀬は「髪の毛をしきりにいじる空を見る 生まれたらもう傷ついていた」という嵯峨の歌を取り上げて、「あまりにも『世界の中心で愛を叫ぶ』の冒頭の『朝、目が覚めると泣いていた』という、既にイメージとして世間で成立してしまっている抒情のサンプルみたいなものにそのまま乗っかってしまっているのではないか」という批判をしたことがある。この黒瀬の批判は、「それぞれの作者はそれぞれに個性を抱え、違った味わいを持っているはずなのだが、あるときシャッフルしてみるとみな一様に同じ抒情に繋がっている、という風景になる」という川野里子の危惧へと接続しているだろう(『短歌ヴァーサス』5号)。
 この「生まれたらもう傷ついていた」という感覚もしくは気分を共有する若手歌人は今日少なくない。澤村の歌集を通読して、この感覚が微塵も見られないことにむしろ驚く。この差は、横浜に住みWebデザイナーという時代の先端の職業に就いている嵯峨と、学生が大事にされる古都京都で大学生活を送った澤村の生活環境の違いも影響してはいるだろうが、基本的には本人の感覚の差と歌の把握の違いに帰着しよう。「生まれたらもう傷ついていた」派は、ややもすれば〈私〉と歌の間に垂直の関係を立てる傾向があり、〈私〉を座標軸の原点として「近景=〈私〉」と「遠景=〈世界〉」が無媒介的に直結する世界を構築することがままある。その極端な形はRPGゲームにも似た「セカイ系」短歌だろう。澤村はこのような傾向からはほど遠く、この歌集にも家族・大学・職場・友人といった「中景=〈世間〉」が細やかに描かれている。この中景が近代短歌の主戦場だったことは言うまでもない。
喪主として立つ日のあらむ弟と一つの皿にいちごを分ける
夏が来る頃にはここを去つてゐる 未来完了で関はる職場
噴水のひらいてとぢる歌ありき二十五歳の君のWordに
さくら湯の休みの札に遭ひしのち工場前の銀の湯へ行く
一月に病みしかばそこでとどまりし研究ノート 日付は火曜
 今回歌集を通読して特に優れていると感じたのは、貿易センタービルを崩落させた9.11テロの後にNYを訪問した折の連作「視界のアメリカ」である。羈旅歌はややもすれば外国で目にした景物の物珍しさに引きずられがちだが、美術史の学徒であった作者はNYの美術館に所蔵された日本美術を見て回り、彼我の文化の間に横たわる溝に深く想いを沈めている。
長針がことりと9に持ち上がりヴェセイ通りストリート影は踏み出す
アメリカにとりて日本はうす暗し見えぬところで水が流れる
やはらかくナショナリズムをやり過ごす窓から雲は見上げられたり
視界は雨でぐづぐづビルもぐづぐづの写真に黒き筋が流れる
足首を避けつつ流れゆく水のごとしmuseumのなかの日本は
蜻蛉はあらはれよ ゐよ なだらかに夏の思ひのくづれるみづに
ひつたりと血を落としゐるわが身体昨夜更くるまでアメリカにあり
 9.11テロへの想いも含めて全体が「水」の印象を軸に構成されている。この連作で作者は、自分の歌の基調である「中景=〈世間〉」を少しはみ出して「遠景=〈世界〉」に踏み込んでいる。しかしその領野は既存の道標がなく茫漠とした空間である。そこで歌の意識が散乱しないためのアリアドネの糸として「水」のイメージを用いたのだろう。結果としてその試みは成功しており、非常に構成意識の高い連作として結実している。栞文で島田も、身近に接して来たそれまでの澤村の短歌の印象を強く揺さぶった連作だったと回想している。
 「中景=〈世間〉」に属する題材を詠む澤村の修辞は手堅いが、特に突出したところがなく印象はおとなしい。日々の想いを寄せる歌としてはそれでよいかもしれない。しかし心の名刺に「歌人」と記したからには、その殻を破る世界をこれから作り出さねばならないだろう。「視界のアメリカ」はその端緒を開く試みとして受け取り、これからを見守りたい。

第26回 野口あや子『くびすじの欠片』

せんせいのおくさんなんてあこがれない/紺ソックスで包むふくらはぎ
                野口あや子『くびすじの欠片』
 平成17年に「セロファンの鞄」で第48回短歌研究新人賞次席(新人賞は奥田亡羊)、翌18年に「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞を受賞した野口あや子の第一歌集『くびすじの欠片』が先頃出版された。野口は1987年(昭和62年)生まれなので、新人賞次席は18歳、新人賞受賞は19歳の出来事である。歌集あとがきによれば、15歳の頃独学で短歌を作り始めたらしい。「幻桃」に所属し、後に「未来」に入会。加藤治郎率いる「彗星集」でも活動している。
 短歌賞は選評を読むのがおもしろい。選者は選評を語って自分自身の短歌観を露呈するからである。「セロファンの鞄」の選評では、石川不二子はほぼ全否定、岡井隆は「甘ったれてる」と言いつつもまあ好意的、佐佐木幸綱は「うそっぽいところがおもしろい」と言い、穂村弘はかなり評価が高い。「カシスドロップ」の時は、高野公彦が「みずいろの風がまぶたを撫でるからゆっくり握る朝顔の種」を引いて、意外性のある下句に着地させるところがうまいと、高野らしい技術的な評価を述べている。
 『くびすじの欠片』の跋文で加藤治郎が、自分の王宮を言葉で築くタイプの歌人と、他者とどう関わってゆくかを問い続けるタイプの歌人がいて、野口は後者だと書いている。現代ならば前者の代表格は紀野恵か黒瀬珂瀾あたりだろう。しかし言葉の技巧を駆使するこのタイプの歌人は今では減少傾向にあるようだ。まして自我が不定形な若い時には、誰しも自分に関心が集中する。勢い自分を中心に据えた短歌になりがちである。しかし野口の短歌が全編そうかというと、必ずしもそうとも言えない。近代短歌の核心である対象に迫る視線にキラリと光るものがある。
つまるような想いで僕を乗せている助手席の窓ほそくほそくあけ
熱帯びたあかるい箱に閉ざされてどこへも行けないポカリの「みほん」
塵白く陽射しに浮かぶ理科室でわたしの細胞ゆっくりうごく
母親に結われしいびつなシニヨンのおくれ毛をみる合わせ鏡に
梅雨明けの自転車の輪が描いていく二本のほそいやわらかい線
 例えば一首目、テーマは青春ただ中の恋愛で、自分を「僕」と呼ぶ女性が男の運転する車の助手席に乗っているという場面設定はよくあるものだが、この歌のキモは下句の「助手席の窓ほそくほそくあけ」にある。二人の間に漂う緊張を逃がす窓を「ほそくほそく」と表現したところに、景物と心情を繋ぐ確かな糸がある。二首目、自動販売機を「熱帯びたあかるい箱」と表現することで、機械が放散する熱と光がまず前景化される。次に「見本」を「みほん」と平仮名書きでカッコにくくって、ニセモノ感と閉塞感が滲み出すようにしてある。閉じこめられた偽物の見本に自己を投影していることは言うまでもない。三首目のキモは下句で自己を細胞レベルで認識しているところにある。細胞はもちろん理科室と縁語関係にあり、青春を体内感覚で表現しているのだろう。四首目で作者の眼が注がれているのは「いびつな」というシニヨンの形と「おくれ毛」で、このふたつのポイントに着目したとき、もう既に歌は完成していたと言ってよい。それに加えて「合わせ鏡」である。鏡が青春の自意識の表象であることは言うまでもない。相当に技巧の入った歌なのだ。五首目は雨が上がったばかりのまだ柔らかい地面の上に、自転車の前輪と後輪が別々に描く軌跡を詠んだものだが、その軌跡を「二本のほそいやわらかい線」と表現するところに詩情がある。
 これらの歌を見ると、表面的な平明さの裏側に相当な工夫と技巧が隠されていることがわかる。そのポイントは何だろうか。それは歌に詠まれた現実がほんの少し歪んでいるという点である。上に引いた四首目では、いびつなシニヨンとおくれ毛がそれに当たる。逆説的に聞こえるかもしれないが、現実に付与された微少な歪みが、現実をよりリアルに感じさせる機能を果たしている。それは絵に描いたような新築マンションのモデルハウスに生活感がなく、無味無臭の非現実的な感じを受けるのと似ている。テーブルに傷を付け、絨毯に染みを付け、ドアの立て付けを少し悪くし、壁の色をくすませると、とたんに生活感が出てリアルになる。それと同じである。そして歌に詠まれた現実の特有の歪み方に、現実をそのように見た、もしくはそのようにしか見られなかった〈私〉が否応なしに刻印されるのである。そこに作者の手が感じられる。野口はこの現実の歪ませかたがうまい。例えば「片思いなど忘れなよ薄紅のすこし湿ったえびせんを噛む」の「すこし湿った」がうまいのである。
 若さにはしばしば大胆さと不安定さが同居する。この歌集にも爆弾の導火線のようなきな臭い匂いの漂う歌がところどころに見られる。
ふくらはぎオイルで濡らすけだものとけものとの差を確かめるため
ヴァンパイアの眼をした人と過ごす午後鉄観音茶きりきりと飲む
左手首に包帯巻きつつ思い出すここから生まれた折り鶴の数
やや重いピアスして逢う(外される)ずっと遠くで澄んでいく水
くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる
檻を恋う小鳥の声で鳴きながら安定剤をはんぶんに割る
 一首目に漂うエロス、二首目の状況の危うさは大胆さと併走する。三首目の包帯はリストカットの跡だろう。四首目のカッコのくるまれた部分は内的独白である。六首目のように安定剤と眠剤も何度か登場する。一歩まちがえばという若さをどう手なずけて行くかが注目される。五首目では首筋を自分から切り離して、独自に動くものとして捉えたところがポイントだろう。
 短歌のような韻文においては文体が世界観である。野口にはもう自分の文体がある。これは注目されてよい点である。歌人はみな歌のどこでキメるかというポイントを持っているはずだ。野球の投手の持つ決め球のようなものである。野口の場合、どうやらそれは下句にあるようだ。
なにもかも決めかねている日々ののち ばしゅっとあける三ツ矢サイダー
恋人の悪口ばかり言いながら持て余している桃のジェラート
どのおとこも私をあいしませんように父の背中に塗るステロイド
みずいろの風がまぶたを撫でるからゆっくり握る朝顔の種
ええすきよ、なお軽々と口にして夏椿からこぼれる花粉
 これらの歌では上句と下句の意味的連接の粗密に差はあるものの、おおむね上句から意味的に飛躍のある下句を配し、下句は「〈動詞〉する〈名詞〉」の形式を取っている。野口は短歌の生理をよく知っているのである。永田和宏の「合わせ鏡」の比喩を持ち出すまでもなく、短歌や俳句のような短詩型文学においては、「切れ」が短い一首・一句の中に大きな空間を作り出し、ひいては詩を浮上させる役割を果たす。例えば上に引いた一首目では、上句は「逡巡と停滞」、下句は「決断と前進」と対を成しており、効果的に用いられた擬音とともに「三ツ矢サイダー」が喩となっている。
 最後に短歌研究新人賞の対象となった「カシスドロップ」から一首。
青春の心拍として一粒のカシスドロップ白地図に置く
カシスドロップは短歌の喩で、この歌は歌人としての野口の覚悟の表明と読みたい。『くびすじの欠片』はその覚悟を十分に表した歌集となっている。

第25回 中島裕介『Starving Stargazer』

真白の光を作るため青きセロファンを挿す この視界にも
         中島裕介『Starving Stargazer』
 「時計仕掛けの抒情 Clockwork lyrics ─ 中島裕介の世界」

 2008年11月に刊行された中島裕介の第一歌集『Starving Stargazer』はいろいろな意味で異色の歌集と言っていいだろう。まず外箱には人気漫画家・浅田弘幸の描く少女のイラストが配されている。箱から取り出した歌集本体は横長変形版で、歌はすべて横書きである。また歌の多くは日本語と外国語(ほぼ英語と少しのフランス語とイタリア語)の対で構成されていて、外国語の歌が本文で日本語がルビだという。並んでいるのは日々の折々の歌ではなく、意識的に構成された構築的な詩だと考えたほうがいいようだ。
 中島は1995年に作歌を始め、京大短歌会を経て現在は「未来」所属。加藤治郎の選歌欄「彗星集」の有力メンバーである。栞文は栗木京子、加藤治郎と、2008年に角川短歌賞を受賞した同じく京大短歌会OBの光森裕樹が寄稿している。栗木は「手ごわい歌集だ」と言い、加藤治郎は「私は混乱し、当惑し、そして興奮している」と告白し、光森は「中島らしい仕掛けに、にやりとしてしまう」と述べているが、いずれも破格の形式を持つ中島の短歌を前にして、どこを取り上げて評してよいのか言葉を模索している印象が漂う。この歌集については万来舎のホームページで江田浩司が二回にわたって文学的知識を駆使した見事な評論を展開しているので、私などがあまり付け加えることはないのだが、なかなか楽しい中島の短歌世界を少し探索してみたい。
 歌集冒頭から引く。
 ベツレヘムに導かれても東方で妻らは餓える天動説者
Staring at the star of Bethlehem, she’s a starving stargazer!

 共生のための矯正の、嬌声のクレゾールに包まれている
The more I dose the dog with a drug, the less my drive to dive is … Really?
 一首目は歌集題名となった歌で、starving stargazerは直訳すれば「星を見つめる餓えた人」だが、意味よりもstar-の頭韻が印象に残る。さて、英語の歌に日本語のルビを添えたこの形式を、中島は「多声のコンポジション」Composition of plural voicesと名付けているのだが、問題はその言を額面通りに受け取ってよいかである。一首目の英語は訳せば「ベツレヘムの星に出演して、彼女は星を見つめる餓えた人だ」(注1)となり、日本語の歌と直訳の関係にはない。というかほとんど別ものである。意味ではなく4回登場する star-の頭韻が全体を導いていることは確かだ。二首目も訳せば「私が犬に薬を投与すればするほど、私の飛び込みへのドライブはますます… 本当に?」となり、ほとんど意味をなさない。ここでも全体が d-の頭韻から紡ぎ出されている。つまり英語の歌はほとんどが語呂合わせと言葉遊びなのだ。日本語の歌でも二首目の「共生」「矯正」「嬌声」の語呂合わせがあるが、全体として英語ほどではない。
 読者の側から言えば、英語を本歌とし日本語をそのルビとして読むことはほとんど不可能で、実際そのように読んだ人はいないだろう。栗木は「辞書を片手に読んでゆくうちに頭がクラクラしてきた」と正直に漏らしているが無理もない。私も日本語の歌を主として読み、英語は後から目を走らせる程度に留めた。だから「英語が本歌、日本語はルビ」というのが本気だとしたら、作者の意図は失敗していることになる。しかし中島ほどの周到な人がそんなことをするはずがない。「英語が本歌、日本語はルビ」というのは作者一流の韜晦と見なすのがよい。ここで考えなくてはならない問題は、なぜ語呂合わせを主調とする英語の歌を添えたのか、歌集全体の構成の中で中島が「多声のコンポジション」と呼ぶ構成がどのような機能を果たしているのかである。
 もう少し見てみよう。
 覗き込む僕を模様にする君は悪夢のような万華鏡以て
Please keep me keen to kiss a knight of knowledge in a Kafkaesque Kaleidoscope.
 手のひらに汲みし清水の内に吾の金魚を育ていつしかいつか
In the soup,
I soaked myself through potage soup in the manner of a sour sovereign.
 共犯の想いに凪いだ海水をただ奪われる二十代である
Nevertheless I was exiled from third dimension by the third degree.
 ここに引いたような歌は、旧来の短歌の読みのコードで読むことも可能だろう。たとえば一首目の「覗き込む僕を模様にする君」は想いの届かない恋人で、彼女は「悪夢のような万華鏡」で私を翻弄する。二首目の手のひらに汲んだ清水で金魚を育てる〈私〉は、広大な世界に疎外された孤独な青年像を美しく描いている。三首目もまた青年期特有の喪失感をテーマにした歌と読める。いずれもよい歌だ。もし英語の歌が間に挿入されておらず、日本語の歌だけが並んでいたら、どこぞのキラキラした青春歌集と見まがうばかりである。
 しかし騙されてはいけない。中島はあとがきで、「〈私性に拠らない短歌〉〈他者と共にある短歌〉を私は求め続ける」と自分の立場をはっきり宣言している。だから上に引いたような歌から浮上する少し孤独な現代の青年像は、決して作者の〈私〉へと収斂することはない。旧来の読みのコードを阻止するために、作者は周到にさまざまな仕掛けを施している。間に挟まれた語呂合わせの英語の歌の機能はここにこそあると見るべきなのだ。語呂合わせの英語の歌は、意味性を拒む頭韻と記号の連なりとして、今では恥ずかしいポストモダン的用語を用いれば「純粋な表層」として、日本語の歌から滲み出る意味を乱反射し、意味が私性へと収斂することを阻止しているのである。
 では私性へと収斂しない歌の抒情はどこへ行くのか。〈私〉への係留から解き放たれた純粋な詩空間へと放たれて行くのである。それはどこかモーリス・ブランショの「非人称的な文学空間」と似通っている。中島は大学で現象学を研究していたというから、あながち突飛な連想でもあるまい。それはまたマラルメが『骰子一擲』Un coup de dé で夢想した詩の純粋空間にも似ているのである。「自ら骰子として一擲す 目をイカサマなくらいに開けて」という歌がそれを明かしている。stargazerが見つめる星空の空間は、ひょっとしたらその比喩かもしれない。
 最近の現代短歌のひとつの傾向として「しぶとい〈私〉」というのがあるかもしれない。『渡辺のわたし』の斉藤斎藤はその筆頭格だろう。韜晦の煙幕を張ってなかなか尻尾を掴ませず、〈私〉をさまざまな仕掛けの奥に押し込める。それは近代短歌がややもすれば安直な私性に寄りかかって成立してきたという認識に立脚したひとつの戦略的態度なのだろう。斉藤が決して正面から撮影した写真を出さないのはその象徴である。中島もまた近代短歌の私性に対して戦略的態度を取った結果がこの歌集として結実したと見るべきだろう。
 この歌集に収録された歌が一筋縄で行かないのは、あちこちに他の作品やサブカルへの言及が織り込まれていることからも来る。
デュラハンは首を抱える作業してレゾンデートルに今日も涙す
「悪魔さえ聖書を引ける、身勝手に…」A・エスコバルに手紙を出した
船内からの静かの海という闇を眺めて、猛スピードで寡婦は
星型のピアスを失くした僕たちの喧嘩の最中、逆襲の「「じゃあ…」」
かつてトゥーランドットだったけど、誰も目覚めてはならぬ朝が来る
デジカメのような目をした電気羊が見ている夢は優しいだろう
 デュラハンは西欧伝説の首なし騎士。レゾンデートル raison d’être はフランス語で存在理由。この辺は序の口だ。A・エスコバルはコロンビアのサッカー選手で、ワールドカップでオウンゴールをやってしまったため、帰国してからレストランで食事中に射殺された。「猛スピードで寡婦は」は長嶋宥の芥川賞受賞作「猛スピードで母は」のもじり。「逆襲の「「じゃあ…」」」は、TVアニメ機動戦士ガンダムの「逆襲のシャア」のもじり。トゥーランドットは本当は「誰も寝てはならぬ」で、「電気羊」はフィリップ・K・ディックの名作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』から。これ以外にもまだまだ私が気づいていないアイテムがあるだろう。どこかに回文が隠してあるのではないかと目を凝らしたが、さすがにそれはないようだ。歌集題名のStargazerからして、2006年に放映された機動戦士ガンダムSEED C.E.73 STARGAZERにあり、時系列的な齟齬がなければここから取ったのかと思うほどである。
 歌に散りばめられたこれらのアイテムもまた、時空の穴のように他の作品への通路として私性を乱反射し、機械仕掛けの詩空間を構成するのである。バフチンに端を発し、フランスの批評家J.クリステヴァによって世に広まった「間テクスト性」intertextualitéの概念を中島が知らないはずはない。
 ほぼ編年体という歌集の後半には、「多声のコンポジション」でなく日本語の歌だけが並んでいる。少し引いてみよう。
あの夏を乱反射する銀紙の上からチョコを一口だけ割る
suica持て自動改札を進むとき触れてはならぬ心のあらめ
屋上の錆びた手摺に縋るとき朱きペンキの欠片だけが手に
こめかみに熱は宿れる 跳弾のような指を当てられるたび
気がつけば飛び去っていた飛行船の卓上カレンダーはまだ夏
 青春期の微熱と透明感への憧憬を内蔵したなかなか抒情的な歌群だが、「多声のコンポジション」を通過した読者が既にこれらの歌を旧来のコードで読むことができなくなっているとしたら、作者に座布団一枚なのである。私はどうかというと、私は旧弊な人間なので、効果のほどはいささかビミョーというところだろうか。オジさんにはかんたんに術は効かないのである。
 歌集には正誤表が挟まれていた。これだけ技法を駆使すると避けがたい事だろう。教師根性のなせる業で、いくつかフランス語のまちがいに気がついた。mêmement (p.25)は「同じく」を意味するが古語で今では使わない。Il y a deux médicament (p.39)ではmedicamentの語尾に複数の-sが必要。révolutions per minute (p.45)のperはparのまちがい。
 この歌集に対する評価がどのようなものであれ、現代短歌の多様性をまざまざと感じさせてくれる意欲的な歌集であることはまちがいない。

 (注1)この読みにたいして松村正直さんから、staringはstar「出演する」ではなくstare「見つめる」の分詞形ではないかとのご指摘があった。確かに構文的には starならば続く前置詞はatではなくonの方が適切で、stareと考えるとatと接続がよい。しかし staring, star, starving, stargazerと並ぶと、最初の語は「ステァーリング」ではなく「スターリング」と発音した方が頭韻がきれいに並ぶ。いずれを取るか悩ましいところだ。

第24回 黒田和美『六月挽歌』

八月の雨てのひらに受けてゐる誰にも属してをらぬ冷たさ
         黒田和美『六月挽歌』
  乱暴を承知で現代短歌の傾向を二種類に分けると、「抒情の歌」と「認識の歌」に分かれるだろう。もとよりこれは程度の問題なので、抒情の歌にも認識のいくばくかはあり、認識の歌にも抒情は流れる。いずれが優勢かという度合いの計量にすぎない。「抒情の歌」は多く「人生派」と重なり、「認識の歌」は「コトバ派」と重なることが多いが、レベルを異にする分類であるため完全には一致しない。
 「抒情の歌」と「認識の歌」のいずれが歴史的に古いかと言えば、もちろん「抒情の歌」の方が古い。古典和歌の永遠の主題は挽歌と恋歌であり、人の死と恋愛が最も人の心を揺さぶる経験であることは言を俟たない。「認識の歌」は明治時代の短歌革新によって生み出された近代の産物である。後京極良経の絶唱「手にならす夏の扇と思へどもただ秋風のすみかなりけり」にも発見はあるが、視覚優位の近代の認識とは趣を異にする。
 現代短歌シーンを見渡すと、現代はどうやら「認識の歌」が優勢なようである。山折哲雄が『「歌」の精神史』で嘆いたように、抒情がカラカラに干涸らびているとまでは思わないが、抒情があっても振れ幅が小さいためそう見えるのだろう。そんな現代短歌シーンで振れ幅の大きな抒情の歌に出会うと、同時代の短歌でありながら古代の歌の密やかな昏がりに触れる思いがする。黒田和美『六月挽歌』(洋々社)を読んでそんなことを考えた。
 略歴によると黒田は1943年生まれ。1961年に早稲田大学に入学。まもなく早稲田短歌会に入会して短歌を作り始める。福島泰樹と同期である。卒業後は劇団関係の仕事をし、NHKの名作人形劇「ひょっこりひょうたん島」の制作にも関わっていたという。その間短歌から離れていたが、1983年に福島が歌誌「月光」を創刊すると、それを機に短歌に復帰。その後長く福島の盟友として伴走することになる。『六月挽歌』は2001年刊行の第一歌集だから、作歌歴は長いがずいぶん遅くに歌集を出したことになる。跋文はもちろん福島泰樹で、「黒鍵を叩き続けよ」と題された多く回想からなる20ページにわたる長文である。
 私は2007年9月29日に開かれた松野志保さんの『TOO YOUNG TO DIE』批評会で、黒田さんに一度だけお目にかかったことがある。その時は批評会の世話役として忙しく立ち働いていらしたので、二言三言言葉を交わしたのみである。黒田さんはその翌年の2008年7月27日に急逝された。ご冥福をお祈りする。
 『六月挽歌』に収録された歌の多くは、冒頭の分類に従えば「抒情の歌」で、しかも日常からの振れ幅が大きいため、しばしば激情の歌に近づく。たとえば次のような歌である。
六月のアート・フィルムずたずたに裁断されしままラッシュ・バックせよ
六月の挽歌うたはば開かれむ裏切りの季節ひとりの胸に
塵埃の定かならざる漂泊を世界のフレーム悪魔に委ねよ
道行きは如何にか咲かぬ花あらばこの世の外に思ひ遂げむと
挑戦のまなざし受けて閉ざしたる白粉ケース二度と開かず
 命令形と断定を多用するこのテンションの高さは、現代短歌では珍しくなった。現代の若い歌人の作る歌はもっとフラットで体温が低い。黒田の短歌のテンションの高さと詠われた世界の非日常性は、黒田が政治が熱を帯びた季節に青春を送ったことと無関係ではない。黒田や福島が早稲田大学を卒業する1966年に、早稲田大学は早大学費闘争に突入し、バリケード・ストライキに入る。福島の第一歌集『バリケード・1966年2月』はこの闘争の挫折体験から生まれたものであり、集中の「樽見 君の肩に霜ふれ 眠らざる視界はるけく火群ゆらぐを」に代表される浪漫主義は、闘争に参加した左翼学生の心情を表白したものである。その後、福島は泉下の人に成り代わって無念を詠う独自の挽歌のスタイルを確立する。黒田の歌集も題名が示すようにやはり挽歌なのであり、黒田が福島の強い影響のもとに作歌していたことをうかがわせる。ちなみに題名の「六月」が、1960年の安保闘争で当時東大文学部の学生だった樺美智子の亡くなった6月をさすことは言うまでもない。「六月」は現代短歌の新たな歌枕である。
 三部に分けられた歌集の第一部は特に挽歌の色合いが濃い。亡くなった人が直接に詠われているからである。
前つ世のアテネ・フランセに「愛慾の罠」駆け逝きし大和屋竺
遙かなり天象儀館も大和屋も星の藻屑を集め燿う
六月の雨かも知れぬ打たれたる肩に紫陽花色の痣あり
降る雪の如くにありにし優しさに神代辰巳逝きて帰らず
晒す身はもはや持たねば白妙のたましひ纏へ一条さゆり
熱き雨無念を孕み八月は永山則夫の死より始まる
 固有名詞のコラージュが60年代のカウンター・カルチャーを記憶に炙り出す。大和屋竺(やまとや あつし)は映画監督・脚本家で、代表作は「荒野のダッチワイフ」。天象儀館は荒戸源次郎が1972年に設立した前衛演劇集団。神代辰巳(くましろ たつみ)も日活ロマンポルノの監督で、「四畳半襖の下張り」など多くの作品を残した。一条さゆりは関西で活躍した伝説のストリッパー。永山則夫は1968年に連続ピストル射殺事件を起こし1997年に処刑された元死刑囚。黒田は日活ロマンポルノの助監督をしていた白川健夫と一時結婚しており、白川は大和屋の弟子だったという。だからこれらの歌に登場する固有名詞は、60年代カウンター・カルチャーの単なる記号ではなく、作者の身近にいた人たちなのである。鎮魂の念がひときわ深いのも頷ける。ちなみに三首目は福島の「あじさいに降る六月の雨暗くジョジョーよ後はお前が歌え」への返歌の趣きがある。
 このような挽歌群を歌集冒頭に据えた作者の意図からうかがえるのは、黒田の歌の主題が〈私〉と〈日常〉の出会う場所にあるのではないということである。黒田の視線は〈日常〉を越えて、魂が最も激しく燃焼する時空間をさまよう。だから黒田の短歌を作っている言葉は、〈日常〉の景物を指示するのではない。その意味 (=内包) を突き破って魂の昂揚を指示する。少なくともそのように意図されている。視線が遠くをさまようのが浪漫派の浪漫派たるゆえんである。
 しかしこの歌集に収められているのはこのような歌だけではない。もう少し身近な世界を見つめた次のような歌もある。
ひとり生(あ)れひとり死すとふ人界に蔓からませて開く朝顔
わが裸身白くちひさく畳まれて君のてのひら深く眠らむ
卓上に文旦ひとつ置きて出づ惹かるるごとく戻り来むため
立ち尽くす誇あらばや風のなか一糸纏わぬ冬の木立よ
ゆらゆらと見えしか生死の境目は昼餉の椀に牡丹肉浮く
 黒田の歌は身近な世界を詠っても、「朝顔」「裸身」「文旦」「冬の木立」「牡丹肉」といった単語に過剰なまでの情念が塗り込められている。情念は一首において完結しているため、連作という形式を取りながらも一首一首の屹立性が高いのも特徴である。
 掲出歌も含めこのような歌から浮かび上がるのは、意志強く毅然と生きる一人の女性の姿だろう。それは一首目の「ひとり生れひとり死す」や、四首目の「立ち尽くす誇あらばや」といった言挙げによく現れている。60年代に学生運動やカウンター・カルチャーの攻撃的な前衛性の中で自己に目覚めた女性が、自分の生き方を貫くのは大変なことであったに違いない。今から40年前の日本社会は女性に対してずっと保守的な社会だった。「ひとり生れひとり死す」という覚悟も大げさではなかったのである。
 黒田はこの歌集を編むにあたって、83年に「月光」に参加するまでに作った歌をまったく収録していない。ふつうならばそのような歌は、初期歌編として巻末にでも収めるのが常道である。それらの歌をばっさりと切り捨てるところにも、毅然とした覚悟のほどがうかがわれる。
 しかし福島はそれらの歌を惜しんだようだ。跋文のなかで変色した古い「早稲田短歌」に掲載された黒田の歌を懐かしそうに引用している。
たわやすく軽音楽になじみおり茶房にひとり入ることも知り
たじろがず眉上げて受くまぶしき陽 後手にドア締めたるのちは
明日もまた生きねばならぬ前髪をかき上げくらき椅子より立てり
焦がれいるものは視野より去り易し仰むきてなお昏き冬空
短調(モール)のみ選ぶ哀しみに措くギターの弦はいつまでも張詰めていん
口腔にソーダー残る暦繰れば誰かなるべし六月花嫁(ジューン・ブライド)
 青春に付きものの微量の自己陶酔を含むこれらの歌の清新な抒情は、黒田が早稲田短歌時代にすでに短歌の技法を我がものとしていたことを示している。それと同時に現代よりもずっと純朴だった当時の青年像をよく示している。これらの歌の抒情は、『六月挽歌』の歌が放散する慚愧と苦みをいまだ持たないだけに、いっそう輝くのである。これらの歌もまた黒田の短歌として記憶しておきたい。
 それにしても『六月挽歌』の中ではよく雨が降る。降る雨が浪漫派の証であり、涙の代わりであることは言うまでもない。

第23回 吉野裕之『ざわめく卵』

ゆっくりとやって来るものおそらくはその名を発語せぬままに待つ
              吉野裕之「胡桃のこと II」『吉野裕之集』
  歌集を開いて読む。眼は文字を追っているが、どうしても歌の中に入れないことが、ある。風邪で熱っぽいせいか、前の晩に酒を過ごしたためか、書庫の移転で本を運び筋肉痛になったからか、わからない。まるで歌が硬質ゴムでできたドアのように、こちらの入り込もうとする力を、跳ね返す。歌を読む能力が突然消えたのかと、あせる。それでも読み進む。読む速度を変えてみる。途中で立ち止まってみる。そうか、と気がつく。今日の体調が作り出す私の身体のリズムと、たまたま開いた歌集に群れる歌のリズムが、合わなかったのだ。息を合わせなくては。歌の中にひっそりとたたみ込まれている呼吸のリズムと、読む私のリズムとを、ひったりと寄り添うようにして、合わせる。すると今までは文字の並びにすぎなかったものに、呼吸が生まれ、時間が流れ出す。こうして初めて、歌はその秘密のすべてを語りだす。今回、吉野裕之の第二歌集『ざわめく卵』(砂子屋書房、2007)を読んで、こういう体験をした。
 この体験を通じてわかったのは、短歌は「時間の文芸」だということだ。「何を言うか。小説にも時間の流れはあるじゃないか」という意見もあるだろう。もっともである。例えば、池澤夏樹『きみのためのバラ』所収の短編「都市生活」は、主人公の「彼」が飛行機に乗り損ねて当地に一泊することになり、遅い夕食を取るために入ったレストランでの、初対面の女性と交わす会話を軸とする物語だ。読者は主人公に寄り添ってその場面を追体験するが、そこには空港から出て、レストランに入り、食事と会話を終えて店を出るまでの時間が、確かに流れている。しかしこれは、物語の中に流れる時間で、読者の読みに流れる時間ではない。一編の短編を15分で読んでも、1時間かけて読んでも、物語の中に流れる時間は、伸び縮みしない。「物語の時間」ではない「読みの時間」というものがある。短歌の場合には、こちらの方が決定的に重要なのだ。だから、「短歌が時間の文芸だ」と言うとき、その時間とは、歌の中に流れている時間(たとえば作者の人生の時間)ではなく、読み手が歌の読みにかける時間であり、取るリズムをいう。それはまた、歌に寄り添う時間でもあり、歌がこのように読んでほしいと誘っている時間でもある。その誘う声に耳を傾けなければ、歌の読みというものは、おそらくない。
 『ざわめく卵』からほぼ一年後の2008年に、セレクション歌人『吉野裕之集』(邑書林)が出た。第一歌集『空間和音』と『ざわめく卵』からの抄録に、それ以後の歌と散文が収められている。巻末に藤原龍一郎が作者論を書いている。それによると、第一歌集『空間和音』の出版記念会で藤原は、「短歌の言葉に対する葛藤のなさへの不満」を根拠に、吉野の歌を全面否定する発言をしたそうである。おお恐い。藤原が攻撃するのは、例えば次のような歌だ。
春の海マンモスのたりのたりしてときおりぼくに微笑んでいる
ほくほくはやきいも ぽくぽくは木魚 ああ、ぼくたちは啄木が好き
序文を寄せた師の加藤克己が心配した、「しらけの時代の、いささか無抵抗感に過ぎるところ」が、藤原の逆鱗に触れたものと見える。『吉野裕之集』のあとがきで、「十年以上も歌集をまとめなかった。まとめることができなかった、といったほうが正しい」と吉野が述懐している背景には、このような事情もあったと推察される。
 『吉野裕之集』所収の「日常と真向かうための」という文章の中で、吉野は次のように書いている。
「われわれはもっと大切にしなければならないと思う。日常。辞書的にいえば、つねひごろ、ふだんといった意味を持つことば。なんだかとても平凡な感じがする。とはいえ、現実の日常はけっして単純ではなく、その水準や相は多様である。この多様な水準や相をていねいに捉えようとする意志が、いま弱まっているのだと思う」
 これはそのまま吉野の姿勢の表明と取っていいだろう。そして第二歌集『ざわめく卵』はその実践編と考えてよい。だからこの歌集には、激しい抒情も鋭い社会批判もなく、ただ淡々と日常が並んでいるのである。『空間和音』にときどき見られた、いかにも若者風のポップな感覚や言葉遊びはすっかりなりを潜めている。
そのおもて夕日を映す運河わが背景として選ばれている
声をあげ目覚めたときを部屋がありしばらくののち手が現るる
くちびるの端で留めたフレーズが立ち上がりくる秋の階段
六人で酔うテーブルにあっけらかんと運ばれてくるひとの痛みが
秋の日のかがやきの中ふかくふかく見えてくるもの東京の辺に
このようにして連結ははじまりぬ人の消えたる駅の構内
 さっと読み飛ばすと気がつかない細部に、日常をすくい取ろうとする視線と、それを定着しようとする言葉の工夫が見てとれる。
 一首目ではそれは主に下句にある。上句の夕日を映す運河はありふれた風景である。それを「わが背景」と形容することは、背景の運河込みの〈私〉を見るもうひとつの視線を想定させる。「選ばれている」にも〈私〉以外の主体が感じられる。もしかしたら、運河をバックに〈私〉を写真に収めようとしている人がいるのかもしれない。こうして夕日を映す運河が背景に選ばれることによって、都市に生活する〈私〉が切り取られる。しかし、これが風景を選ぶという能動的働きかけではなく、受動的であることに注意しておこう。
 二首目は朝の覚醒の瞬間である。夢でも見ているのか、まず声が出る。発声から覚醒へと移行して、次に自分の手の知覚が立ち戻る。この歌では、「目覚めたときを部屋があり」の助詞「を」と「が」が効果的で、まだ自己と周囲の知覚が定まらない覚醒の瞬間をよく伝えている。
 五首目は特に具体的な光景が詠まれているわけではない。だから何が「見えてくる」のかは読者にはわからない。しかし「ふかくふかく」と三句目を増音して作り出したリズムのなかに聞こえる作者の息づかいに合わせることで、そこに確かに何か見るべきものがあるのだと感じられるのである。
 六首目は深夜の駅構内での列車の連結作業を詠んだものである。ここでの工夫は、冒頭の「このようにして」のいきなり感だろう。この措辞によって、一首の描く風景が〈私〉を離れたところに成立する都市風景として提示されるのではなく、〈私〉がその中に含み込まれた風景として描かれるのである。
 これらの歌に共通する姿勢は、都市に住む〈私〉の目に映ずる風景を、「すでにあるもの」として描くのではなく、「立ち現れるもの」として微細に描くということだろう。「すでにあるもの」としての風景は、実は私が見ているものではなく、既成概念として私が見させられているものである。公園にベンチがあるとする。「ベンチがある」という私の認識は、既成の参照枠 (reference frame)に基づく判断である。私の参照枠の公園のなかには、ベンチやゴミ箱や水飲み場や砂場がすでに登録されている。だから「ベンチがある」という認識は、参照枠に照らしたものにすぎない。吉野は意識的にこの参照枠を遠ざけて、生々しく目の前に立ち現れるものとして、風景を描こうとしているようだ。そのことを推察させる歌が、いくつも集中にはある。
人間のかたちとなって泣いている五月もしくは下闇のなか
椅子というかたちを見せているものの影伸びている君の足元
信州ゆ来たる特急わが前にかたちとなれば静止してゆく
切断がなされるような音がするビルの上なる空の中にて
「人間が泣いている」のではなく、何かが「人間のかたちとなって泣いている」という捉え方に、吉野の方略がある。二首目の「椅子というかたち」も同じである。三首目はより進んでいて、自分の前に停止して初めて何かが特急列車となるという描き方には、頭が軽くくらっとする認識の落差が埋められている。四首目の「切断がなされるような音」にも同じことが言える。吉野の言う「この多様な水準や相をていねいに捉えようとする意志」は、このような歌い方に現れていると考えてよい。
 ここで掲出歌に戻ろう。これは「胡桃のこと II」の最後に置かれている歌である。
ゆっくりとやって来るものおそらくはその名を発語せぬままに待つ
 日常の風景はゆっくりとやって来る。そしてそれは最初は名を持たぬものである。その名を性急に発語することは、風景を既存の参照枠に押し込めることになる。だから向こうからその名を明かすまで待つのである。
 吉野の歌を読む読者もまた、歌がささやきかける時間に寄り添うようにして、じっと待たなくてはならない。性急に自分のリズムで読んではいけない。こうすることで得られる体験もまた、歌のみが与えることのできるものである。