光森裕樹は1979年生まれ。京大短歌会を経て現在は無所属の独立系歌人である。「空の壁紙」で2008年に第54回角川短歌賞受賞。第一歌集『鈴を産むひばり』(2010年)で第55回現代歌人協会賞受賞。2012年の第二歌集『うづまき管だより』は電子ブックの形で発表された。『山椒魚が飛んだ日』は昨年12月末に書肆侃侃房より「現代歌人シリーズ」の一冊として出版された第三歌集に当たる。編年体で371首が収録されている。
歌集タイトルの『山椒魚が飛んだ日』は集中の「婚の日は山椒魚が2000粁を飛んだ日 浮力に加はる揚力」から取られている。飼育している山椒魚を水槽ごと飛行機で運んだのだ。だから水槽の水の浮力に加えて飛行機の揚力も働くのである。作者は会社を辞めて東京を引き払い、石垣島に移住し結婚して子供が生まれた。いずれも人生の一大事であり、それがそのまま本歌集の主題となっている。大きな主題があることがそれまでの二冊の歌集とのちがいである。
やはりはうしやのうでせうかと云ふこゑのやはりとはなに応へつつ、否と
蝶つがひ郵便受けに錆をればぎぎぎと鳴らし羽ばたかせたり
南風の湿度に本は波打ちぬ文字は芽吹くか繁りて咲くか
琉歌かなしく燦たり候石垣島万花は錆より艶ひにほふも
島そばにふる島胡椒さりしかりさりと小瓶を頷かせつつ
みごもりを誰にも告げぬ冬の日にかんむりわしをふたり仰ぎつ
六コンマ一の単位は光年か医師より授かる星図のごときに
たまひよのほほ笑むたまごは内側に耳くち持たむまなぶた持たむ
人名用漢字一覧を紙に刷り鉱石箱のごとく撫でたり
うたびとの名をまづ消してゆくことを眠りにちかき君はとめたり
其のひとが屈みこむ秋、胸そこの枯れ葉に火を打つ名はなんだらう
歌から読み解くと出産は難産だったようで、入院と手術を必要とし、生まれた子はすぐに保育器に入れられたようだ。集中の圧巻は何といってもこの緊迫した出来事を詠んだ一連だろう。
陣痛の斧に打たるる其の者の夫なら強くおさへつけよ、と
点滴の管のかづらが君を這ひあがりゆくのを吾は掻き分く
砕けつつ樹のうらがへる音をたてぼくらはまつたき其のひとを産む
保育器はしろく灯りて双の手の差し入れ口を窓越しに見つ
うしなはずして何を得むかたぶかぬ天秤におく手と目と口と
吾子のため削がるる手足目鼻口耳肉なれば此の手を終に
第一歌集『鈴を産むひばり』を取り上げたときは、「世界の情的把握よりは知的把握に優れている」と評したのだが、それから6年が経過して、歌の中の「人生成分」の比重が増したようだ。現代短歌には近代短歌から継承した「人生成分」に加えて、「知的成分」と「空想成分」もあり、その配合の割合は歌人それぞれだ。光森の歌はどちらかといえば「人生成分」が少なく「知的成分」の割合が多かったのだが、移住、結婚、子供の誕生という人生の大事を経験すればこの変化は当然と言えよう。とはいえそこは言葉の手練れの光森のことなので、GANYMEDE59号に寄せた「トレミーの四十八色」題された連作では、48のプトレマイオス星座にこと寄せてそれぞれに異なる色を詠み込むという離れ業を見せている。
斬り落とすメドゥーサの首より散りゆける蛇よ流星群の山吹
戦闘馬車壁画に彫られ牽く馬を弓にて狙ふ馭者の亜麻色
このような技巧を駆使した歌もまた見所ではあるのだが、歌の中に想いが沈むような静かな歌が読後の印象に残った。
隣宅のドアノブの雪おちてをりさてもみじかき昼餉のあひだに
島時間の粒子を翅からこぼしつつ空港跡地は蝶ばかりなり
其のひとの疾き心音はなつかしく雨ふりどきのなはとびの音
ああ、雪 と出す舌にのる古都の夜をせんねんかけて降るきらら片
0歳を量らむとしてまづ吾が載りて合わせぬ目盛りを0に
ことばもてことば憶ゆるさぶしさを知らざる唇のいまおほあくび
ドラム式洗濯機のなか布の絵本舞はせて夏をうたがはずあり
ことに六首目は印象深い。最初は目の前にある物を指さして「おはし」と親が言うことで幼児は物の名を覚える。現物学習である。このとき「おはし」という言語記号は指示対象と取り持つ「手触り」や「感触」や「重さ」などの豊かな身体的関係を内に包含する。しかし、年齢が進むに従って現物学習の機会は減り、「○○とは××のことだよ」と言語を用いて言語を教えるようになるにつれて、現実との豊かな身体的関係は失われてゆく。子供の成長は喜ばしいことだが、その影に一抹の淋しさを感じることがあるのはそのためだろう。言葉に敏感な歌人ならではの歌である。
音声学者の教えるところによれば、生まれたばかりの嬰児はどのような言語の音でも発音できるのだそうだ。生後の言語の学習とは、その発音レパートリーを自分の母語の音へと狭め、他の音は捨てる過程と見ることもできる。成長とは可能性の縮減なのである。
第一歌集『鈴を産むひばり』は帯なし、帯文なし、栞文なしのないない尽くしだったが、『山椒魚が飛んだ日』は書肆侃侃房より「現代歌人シリーズ」の一冊として出版されたせいか、帯も帯文も著者プロフィールもちゃんとある。小豆色の表紙の落ち着いた色と手応えのある厚さの帯が印象的な装幀だ。奥付によると昨年の12月21日の刊行なので、昨年度の歌壇の回顧には間に合わないが、今年の収穫として記憶されるだろう一冊である。