費やした年月だけがぼくならば ぶあついパンケーキを縦に裂く
からすまぁ「春風に備えて」
昨年に続いて今年も角川『短歌』がU-25短歌選手権を開催した。前回と同様、告知から締め切りまで短い期間だったにもかかわらず、100篇の応募があったという。その結果が角川『短歌』8月号に掲載されている。審査員も昨年と同様、栗木京子、穂村弘、小島なおが務めている。
優勝作品に選ばれたのはからすまぁの「春風に備えて」。不思議な筆名だが、からすまぁは東京大学理科二類の現役東大生で、「ひねもす」と「東京大学Q短歌会」に所属している。高校生の時から短歌を作り始め、NHK短歌やあちこちの新聞短歌に投稿し、団体として牧水短歌甲子園で優勝したこともあるようだ。
恋人が消えてくファミリーマートへと爪先は火のたましいになる
擦りリンゴのための切れ端ラップしてきみの裸のすべては知らず
ラピスラズリが瑠璃と呼ばれてみたときの砕ける雨のような安らぎ
小島が5点の最高点を入れ、穂村が1点入れている。小島は100篇に似たような作風の歌が多かったが、「繊細で微妙な感情をやや屈折させて描いて」おり、「向日的に描こうとする詩性がある」と評価している。穂村も同じようなゾーンで書かれた短歌が多くて、順位付けが大変だったと述懐している。このあたりの審査員の感想が、現在の若い歌人の作風の傾向を反映していると思われる。からすまぁは昨年度も「少女戦士としての春」で応募したが入選を逃したので、今年は見事リベンジということになる。
「心の花」の高良真実の「地には平和を」が準優勝に選ばれている。
荒馬のをらぬ我らが島々に兵士の歩幅広がる真夏
瑪瑙化よ 人類史なほ短ければいまだ兵士の化石はあらず
まなぶたは昼の光をとどめ得ず諦めに似て我がみひらけり
高良は評論の分野で活躍しており、2022年に『短歌研究』主宰の第40回現代短歌評論賞を(同時受賞は桑原憂太郎)、2023年には『現代短歌』主宰の第4回BR賞を受賞している。高良は初めての応募での受賞である。栗木が4点、穂村が1点、小島が1点を入れており、その作風から幅広く支持を集めている。
他の応募作と高良の短歌の肌合いの違いは一目瞭然だ。ほとんどの作品は口語(現代文章語)・新仮名遣だが、高良は文語(古語)で旧仮名である。また、「傷付きやすい〈私〉」を主題とするものが多い応募作の中で、「迫る戦争の脅威」という大きな主題を描いている点も特異と言えよう。高良が沖縄出身であることがその根底にあると思われる。ハッとしたのは上の二首目。「瑪瑙化」という現象は実際にはなく、瑪瑙の複雑な縞模様と脳髄との外見の類似を梃子とした想像の産物である。時にはこのような幻視は短歌に強い力を与えることもある。
残りは審査員賞で、まず栗木京子賞は雨澤佑太郎の「Take2」に与えられた。
フラットな朝を迎える食卓のコンフィチュールを掬うスプーン
信号の上に真っ赤なマフラーが垂れ下がりつつキューブリック忌
かつてそこにあったという彼の肖像画 乾いた指が暗闇を指す
栗木が最高点の5点を入れている。栗木は審査方針として、感覚だけでなく、その場面の具体性とその人の感受性が自然な形で溶け合っているものを選びたいと述べているので、それに適った作品ということだろう。確かに引いた歌でも現場感がはっきりと描かれている。穂村は体言止めが多いと言い、小島は単語が立っているが、どの歌もアベレージ付近を推移していて、傑出した歌がなかったと感想を述べている。
小島の「単語が立っている」という感想は慧眼と言うべきで、雨澤は「早稲田詩人」「インカレポエトリ」などに参加している詩人で、第31回詩と思想新人賞を「ノックする世界」という作品で受賞している人なのだ。詩と俳句の二足の草鞋はときどきあるが、詩と短歌のかけもちは珍しい。短歌ユニット「くらげ界」というのを作って活動しているという。そういう目で見ると、確かに言葉の切れが鋭いような気がするのだが、それは詩作からの影響かもしれない。
穂村弘賞は池田宏陸の「bluebird」が受賞した。
君の長いポニーテールが揺れるたび水の匂ひがする夏はじめ
教室の水槽のフグ見るときの未来ぼやけるくらゐの視力
オーボエのリードは舟の形してしづかに風を待つ薄暑かな
穂村が5点、栗木が1点入れている。穂村は「ベタな青春性のように見えて、実はメタ的な視点で構築されているのがおもしろい」と言い、点を入れなかった小島は「追い風の青春性みたいなものが、これまで多く受賞してきたからこそ、非常にこういう作品を見るのは難しい」と述べている。小島自身が眩しい青春性で角川短歌賞を受賞したので、その感想には実感が籠もっている。高校を舞台として音楽に打ち込む青春を描いた連作であり、詩的完成度はなかなか高い。
池田宏陸は「鷹」に所属する俳人で、第4回俳誌協会新人賞神野紗希奨励賞を受賞している。「秒針にチクとタクある夜長かな」などという句がある。そういえば上に引いた三首目の「薄暑かな」は俳句的で、ふつうの歌人はここに切れ字は使わないだろう。俳句からの越境も頼もしい。
小島なお賞は市島色葉の「追憶」に与えられた。市島は無所属である。
春はされども桜にまみれ僕たちの式典のみがなくなっている
濡れてはじめて冷やされていく結露した窓を拭って冷える指先
誰にでも救われないで居るために砂糖につかる夏蜜柑たち
小島が4点を入れている。コロナ禍の日常を主題とした連作である。印象に残ったのは、「僕らの頃とは比較にならないほど精度の高い繊細さっていうのかな、加害性をゼロに近づけていこうとするとき、どうなるのか、それを見届けたいという気持ちがあって」という穂村の評だった。穂村の言う加害性のなさは、今の若い人たちの短歌を読むときに留意するべき特徴かもしれない。
予選通過作品は21篇。結社、大学短歌会、同人誌、短歌ユニットなどに所属している人が11名、所属なしが10名という内訳である。昨年は前者が16名、後者が8名だったので、無所属の歌人が増えたことになる。大学短歌会で目につくのは、京大短歌が3名、東京大学Q短歌会が2名となっている。
第66回角川短歌賞で佳作、第64回短歌研究新人賞で候補作に選ばれた折田日々希や、第65回短歌研究新人賞で最終選考候補作、第67回角川短歌賞で予選を通過した錫木ナツ(岡田夏美)も応募しているが、残念ながら今回は受賞には至らなかった。
昨年に続き今年も選手権が開催されたのは喜ばしい。若手歌人が短歌を発表するまたとない機会なので、今後も継続して開催してもらいたいものだ。
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『短歌研究』10月号で第4回塚本邦雄賞が発表された。最終選考の対象となったのは、大森静佳『ヘクタール』、永田紅『いま二センチ』、初谷むい『わたしの嫌いな桃源郷』、松本典子『せかいの影絵』、山田航『寂しさでしか殺せない最強のうさぎ』、吉田隼人『霊体の蝶』の6作で、選考の結果大森が受賞した。
選評を読んでいて、大森作品を評する穂村弘の次の言葉に立ち止まった。
この作者に限らず、自らの個性や方法や使命を自覚する直前の作品世界が最もピュアに見えるということは確かにある。そして、その世界を愛する読者ほど新たな一歩に違和感を抱くものだ。
確かにその通りだと深く共感した。私の頭に浮かんだのは村木道彦である。今となっては伝説の短歌誌「ジュルナール律」に村木の「緋の椅子」十首が発表されたのは1965年のことであった。
するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら
めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子
水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうたえるただ麦畑
平仮名と口語(現代文章語)の多用と、感傷すれすれの青春性と淡い憂愁、愛唱性に富んだリズムは多くの人を魅了した。現代の口語短歌の源流のひとつとされることもある。村木はこの時、確かに「自らの個性や方法や使命を自覚する直前」だったにちがいない。村木はそれを自覚した途端に自己模倣に陥り、「歌のわかれ」をして長く歌壇を去ることになったのである。短歌に限ったことではないが、実際に作る人しか触れえない創作の秘密というものがあるようだ。