第361回 U-25短歌選手権

費やした年月だけがぼくならば ぶあついパンケーキを縦に裂く

からすまぁ「春風に備えて」


 昨年に続いて今年も角川『短歌』がU-25短歌選手権を開催した。前回と同様、告知から締め切りまで短い期間だったにもかかわらず、100篇の応募があったという。その結果が角川『短歌』8月号に掲載されている。審査員も昨年と同様、栗木京子、穂村弘、小島なおが務めている。

 優勝作品に選ばれたのはからすまぁの「春風に備えて」。不思議な筆名だが、からすまぁは東京大学理科二類の現役東大生で、「ひねもす」と「東京大学Q短歌会」に所属している。高校生の時から短歌を作り始め、NHK短歌やあちこちの新聞短歌に投稿し、団体として牧水短歌甲子園で優勝したこともあるようだ。

恋人が消えてくファミリーマートへと爪先は火のたましいになる

擦りリンゴのための切れ端ラップしてきみの裸のすべては知らず

ラピスラズリが瑠璃と呼ばれてみたときの砕ける雨のような安らぎ

 小島が5点の最高点を入れ、穂村が1点入れている。小島は100篇に似たような作風の歌が多かったが、「繊細で微妙な感情をやや屈折させて描いて」おり、「向日的に描こうとする詩性がある」と評価している。穂村も同じようなゾーンで書かれた短歌が多くて、順位付けが大変だったと述懐している。このあたりの審査員の感想が、現在の若い歌人の作風の傾向を反映していると思われる。からすまぁは昨年度も「少女戦士としての春」で応募したが入選を逃したので、今年は見事リベンジということになる。

 「心の花」の高良たから真実の「地には平和を」が準優勝に選ばれている。

荒馬のをらぬ我らが島々に兵士の歩幅広がる真夏

瑪瑙化よ 人類史なほ短ければいまだ兵士の化石はあらず

まなぶたは昼の光をとどめ得ず諦めに似て我がみひらけり

 高良は評論の分野で活躍しており、2022年に『短歌研究』主宰の第40回現代短歌評論賞を(同時受賞は桑原憂太郎)、2023年には『現代短歌』主宰の第4回BR賞を受賞している。高良は初めての応募での受賞である。栗木が4点、穂村が1点、小島が1点を入れており、その作風から幅広く支持を集めている。

 他の応募作と高良の短歌の肌合いの違いは一目瞭然だ。ほとんどの作品は口語(現代文章語)・新仮名遣だが、高良は文語(古語)で旧仮名である。また、「傷付きやすい〈私〉」を主題とするものが多い応募作の中で、「迫る戦争の脅威」という大きな主題を描いている点も特異と言えよう。高良が沖縄出身であることがその根底にあると思われる。ハッとしたのは上の二首目。「瑪瑙化」という現象は実際にはなく、瑪瑙の複雑な縞模様と脳髄との外見の類似を梃子とした想像の産物である。時にはこのような幻視は短歌に強い力を与えることもある。

 残りは審査員賞で、まず栗木京子賞は雨澤あめさわ佑太郎の「Take2」に与えられた。

フラットな朝を迎える食卓のコンフィチュールを掬うスプーン

信号の上に真っ赤なマフラーが垂れ下がりつつキューブリック忌

かつてそこにあったという彼の肖像画 乾いた指が暗闇を指す

 栗木が最高点の5点を入れている。栗木は審査方針として、感覚だけでなく、その場面の具体性とその人の感受性が自然な形で溶け合っているものを選びたいと述べているので、それに適った作品ということだろう。確かに引いた歌でも現場感がはっきりと描かれている。穂村は体言止めが多いと言い、小島は単語が立っているが、どの歌もアベレージ付近を推移していて、傑出した歌がなかったと感想を述べている。

 小島の「単語が立っている」という感想は慧眼と言うべきで、雨澤は「早稲田詩人」「インカレポエトリ」などに参加している詩人で、第31回詩と思想新人賞を「ノックする世界」という作品で受賞している人なのだ。詩と俳句の二足の草鞋はときどきあるが、詩と短歌のかけもちは珍しい。短歌ユニット「くらげ界」というのを作って活動しているという。そういう目で見ると、確かに言葉の切れが鋭いような気がするのだが、それは詩作からの影響かもしれない。

 穂村弘賞は池田宏陸ひろむの「bluebird」が受賞した。

君の長いポニーテールが揺れるたび水の匂ひがする夏はじめ

教室の水槽のフグ見るときの未来ぼやけるくらゐの視力

オーボエのリードは舟の形してしづかに風を待つ薄暑かな

 穂村が5点、栗木が1点入れている。穂村は「ベタな青春性のように見えて、実はメタ的な視点で構築されているのがおもしろい」と言い、点を入れなかった小島は「追い風の青春性みたいなものが、これまで多く受賞してきたからこそ、非常にこういう作品を見るのは難しい」と述べている。小島自身が眩しい青春性で角川短歌賞を受賞したので、その感想には実感が籠もっている。高校を舞台として音楽に打ち込む青春を描いた連作であり、詩的完成度はなかなか高い。

 池田宏陸は「鷹」に所属する俳人で、第4回俳誌協会新人賞神野紗希奨励賞を受賞している。「秒針にチクとタクある夜長かな」などという句がある。そういえば上に引いた三首目の「薄暑かな」は俳句的で、ふつうの歌人はここに切れ字は使わないだろう。俳句からの越境も頼もしい。

 小島なお賞は市島色葉しじまいろはの「追憶」に与えられた。市島は無所属である。

春はされども桜にまみれ僕たちの式典のみがなくなっている

濡れてはじめて冷やされていく結露した窓を拭って冷える指先

誰にでも救われないで居るために砂糖につかる夏蜜柑たち

 小島が4点を入れている。コロナ禍の日常を主題とした連作である。印象に残ったのは、「僕らの頃とは比較にならないほど精度の高い繊細さっていうのかな、加害性をゼロに近づけていこうとするとき、どうなるのか、それを見届けたいという気持ちがあって」という穂村の評だった。穂村の言う加害性のなさは、今の若い人たちの短歌を読むときに留意するべき特徴かもしれない。

 予選通過作品は21篇。結社、大学短歌会、同人誌、短歌ユニットなどに所属している人が11名、所属なしが10名という内訳である。昨年は前者が16名、後者が8名だったので、無所属の歌人が増えたことになる。大学短歌会で目につくのは、京大短歌が3名、東京大学Q短歌会が2名となっている。

 第66回角川短歌賞で佳作、第64回短歌研究新人賞で候補作に選ばれた折田日々希や、第65回短歌研究新人賞で最終選考候補作、第67回角川短歌賞で予選を通過した錫木ナツ(岡田夏美)も応募しているが、残念ながら今回は受賞には至らなかった。

 昨年に続き今年も選手権が開催されたのは喜ばしい。若手歌人が短歌を発表するまたとない機会なので、今後も継続して開催してもらいたいものだ。

      *        *        *

 『短歌研究』10月号で第4回塚本邦雄賞が発表された。最終選考の対象となったのは、大森静佳『ヘクタール』、永田紅『いま二センチ』、初谷むい『わたしの嫌いな桃源郷』、松本典子『せかいの影絵』、山田航『寂しさでしか殺せない最強のうさぎ』、吉田隼人『霊体の蝶』の6作で、選考の結果大森が受賞した。

 選評を読んでいて、大森作品を評する穂村弘の次の言葉に立ち止まった。

 この作者に限らず、自らの個性や方法や使命を自覚する直前の作品世界が最もピュアに見えるということは確かにある。そして、その世界を愛する読者ほど新たな一歩に違和感を抱くものだ。

 確かにその通りだと深く共感した。私の頭に浮かんだのは村木道彦である。今となっては伝説の短歌誌「ジュルナール律」に村木の「緋の椅子」十首が発表されたのは1965年のことであった。

するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら

めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子

水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうたえるただ麦畑

 平仮名と口語(現代文章語)の多用と、感傷すれすれの青春性と淡い憂愁、愛唱性に富んだリズムは多くの人を魅了した。現代の口語短歌の源流のひとつとされることもある。村木はこの時、確かに「自らの個性や方法や使命を自覚する直前」だったにちがいない。村木はそれを自覚した途端に自己模倣に陥り、「歌のわかれ」をして長く歌壇を去ることになったのである。短歌に限ったことではないが、実際に作る人しか触れえない創作の秘密というものがあるようだ。

 

第360回 濱松哲朗『翅ある人の音楽』

諦めたものから燃えて空色の地図を汚してゐるバツ印

濱松哲朗『翅ある人の音楽』

 本コラムを書くとき、まず冒頭の掲出歌をどれにしようかと考える。なるべくならば作者の個性をよく表す歌で好きなものを選びたい。付箋の付いた歌を読み返してすぐ決まる時もある。しかしあれこれ迷ってなかなか決まらないこともある。本歌集の場合はどうしようかと迷い、付箋の付かなかった歌を選んだ。それには後で説明する訳がある。

 巻末のプロフィールによれば、濱松は1988年生まれ。京都の立命館大学に在学中に「塔」に入会し、そののち「立命短歌」「穀物」に参加したという。2015年に「春の遠足」で現代短歌社賞の次席に選ばれているが、その歌は本歌集には収録されていない。『翅ある人の音楽』は今年(2023年)出版された第一歌集で、2014年から2021年までに制作された歌から420首を選び再構成したものだという。学友の小説家高瀬隼子、染野太朗、真中朋久が栞文を書いている。

 歌集を読み進んで私が付箋を付けたのは次のような歌だった。

耳鳴りに滲める声のとほくあれば黙秘のごとくゆふだちに入る

色彩の果てなる夜に鬼灯の実のうづきつつ照り深まらむ

氷とはみづとひかりの咎なるを鳥よこの世の冬を率いよ

遠近の窓に溶け合ふ明け方をひとふで書きの鴉つらぬく

砂に足さらして立てばくづれつつ定まる指と砂のかたちは

 一首目、耳鳴りという身体感覚にまず焦点が絞られ、次に遠くから響く音へと移ることにより空間が広がる。体の内部に耳を傾ける上句から一転して、下句では沛然と降る夕立の情景へと転じる。「黙秘のごとく」という喩が切り替わる世界の仲立ちをすると同時に、歌の中の〈私〉の心中にわだかまるものがあることを示す。上句から下句へと繋がる構成が優れている。

 二首目、昼間はさまざまな色の看板や幟旗がある町も、夜になると色は存在を潜め闇へと主権を譲る。人気のない路地の民家の玄関の乏しい照明に、赤く色づいた鬼灯が照らされている。「うづく」と「深まる」という動詞が、作者の心情を暗示している。

 三首目、上句にはかなりの詩的飛躍がある。氷が水からできているというのは常識の枠内である。しかし氷が光からできているというのは日常を超えた詩的把握だ。しかもそれが「咎」とは。一体何の罪を犯したというのだろう。読む人はそこに何らかの物語があることを予感し、かつそのように見立てる〈私〉の心情の機微に触れる気がする。下句は一転して、空高く飛翔する鳥への力強い呼びかけとなっている。

 四首目は通勤電車の風景だろうか。明け方の車窓からは、遠くの山並みと近くの街並みが溶け合うように見えている。「遠近の」は「遠近の風景」が圧縮されたものである。〈私〉は朝早いこともあり、眠くて意識が覚醒していない。そんなぼんやりとした視野の中を一羽のカラスが鋭く横切る。その飛ぶ様は文字を一筆書きしたようで、何かを知らせる予兆のようでもある。「ひとふで書きの」という暗喩が効果的だ。

 五首目、裸足で浜辺に立っている。寄せる波が足を洗う度に足下の砂が流されて、姿勢がぐらぐらして定まらない。しかし何度かそんなことを繰り返すうちに、足の指がしっかりと砂を掴んで立つ。子供時代に夏の海辺で誰もが経験したことのある情景ながら、歌全体が人生における何かの喩と取ることのできる高階の意味作用を感じてもよい。

 上に引いた歌は端正な文語定型で、叙景(物や場面)と叙情(作者の心情)とが適切な配分比率で詠まれている。言葉に無理な負荷がかかっておらず、韻律の流れも滑らかである。このような歌を引いて、そこに作者の歌風と個性を見てもよいのだが、読み進むうちにそれは少しちがうのではないかと思うようになった。集中には次のような歌も多く見られるからである。

茫然の流しにむかひ梅干しの種のみ残る弁当あらふ

わが裡に互ひちがひに組みかへすわれの気配の夜ごと深まる

わたしにも凍える声のあることを笑へば笑ふほどにくるしい

同じ目をしてゐるわれに怯えたるみづからを逃さずわが目は

ふくらめばみな泡となる強欲をあるいは日々の嵩増しとなす

 一首目、切り取られた情景としては、台所の流しで弁当箱を洗っているのだが、作者が言葉によって表現したいのは「茫然」である。何か茫然とするほどの出来事があったのだ。残りはそれを実景として支える素材にすぎない。二首目の歌意は今ひとつ判然としない。何かの選択を迫られているのか、あるいは相反する感情が湧き上がっているのか。いずれにせよ作者の目は葛藤する心の内側だけを見ている。三首目、「凍える声」とは、何かに驚いて凍えた声なのか、それとも人に発する冷たい声なのか。いずれにせよ歌の〈私〉は制御できない感情に囚われている。四首目は鏡で自分の顔を見たのだろうか。それとも自分と同じ目をしている人を見たのだろうか。〈私〉が見つめているのは自分である。五首目では、自らの内部を見つめる余り、歌に詠むべき具体的な物が形を失っている。

 聞くところによると、油絵を志す画家の卵はまず自画像を描くという。画家は鏡に映る自分を描くことで、「見る」ことを学ぶのである。それにならって言うならば、ここに挙げた歌はすべて作者の自画像であると言ってよい。どうやら濱松は、「自分がどのような人間なのか」という問にいちばん関心があるようなのだ。もしそうだとすると、濱松にとっては名歌を作ることが目標なのではなく、自分を発見することが作歌の目標だということになるように思われる。付箋の付かなかった歌を冒頭の掲出歌に選んだのにはこのような経緯がある。

 歌集の題名ともなった「翅ある人の音楽」という連作は物語性に富む不思議な一連である。まず一首だけ別に置かれた次の歌が作品世界の扉を開く。

水鉄砲持ちゐし頃に出逢ひたるうすき翅ある人のまぼろし

 子供時代に翅のある人、つまり妖精と出逢ったというのだ。妖精と言えば、コティングリー妖精事件が名高いが、濱松はこの一連でひとつの物語の扉を開こうとしているようだ。

地図のうへに道は途絶えて逃げ水の角を曲がれといふナビの声

ひるがほの蔓に埋もるるバス停のわづかに西へ傾ぎたる音

をとこみなをとこのこゑになりゆくをかつてめたる鶏の爪痕

近づいて来ると判つてゐたものを、炭坑節にカンテラ揺れて

カセットテープの爪折られたる日のありてカストラートの晩年を聴く

アカペラの歌詞に息づく狩人かりびとは父亡きのちを森に棲むとふ

 地図にない道をナビに導かれて異界へと足を踏み入れる。そこには人がおらず、無数の湧水が溢れているという。随所に翅のイメージが揺曳しつつ、音楽堂で催される音楽と炭鉱のイメージが重なるという不思議な構成である。その合間に次のようなカタカナ書きの台詞が挟み込まれている。

 

男ノクセニ、女ミタイナ声を出シヤガツテ。

オマヘノ歌ハツマラナイ。女ノ歌ノ悪イトコロバカリ吸収シテヰル。

オマヘノ書イタモノヲ「名文」ダナンテ、ヨク言ヘタモノダ。

 

 非常に手の込んだ重層的な世界が構築されている。ひとつの手がかりは上に引いた三首目「をとこみな」にあるようだ。少年期を脱する時に起きる声変わりである。そして五首目の「カストラート」は、その昔、欧州で行われていた去勢によって高い声を保った歌手である。そこから推察するに、翅ある人のいる異界とは失ってしまった少年期のことではないだろうか。カタカナ書きの台詞はそのような夢の世界を壊そうとする外部からの声か。とても演劇的な連作となっている。

 濱松の歌の世界の重要な要素に音楽がある。

耳で聴く風景ならば雪原は最弱音のシンバルだらう

オルガンに灯る偽終止、頑張れば楽になるとふ属音ドミナントあはれ

単音は波のみなもと わたくしのいづみに足を晒すものたち

何度でも鳴りかへすから 色彩を一度うしなふための五線紙

フェルマータ 泣いてゐるのはわたしではなくてかつての庭の思ひ出

 濱松はよほど音楽に造詣が深いと見える。二首目の「偽終止」は、終わるとみせかけて解決以外のコードに移る手法をいう。「偽終止」「属音」「単音」「五線紙」「フェルマータ」などの音楽用語を、人生の様々な紆余曲折について語る喩として用いているが、基本的に音楽の世界は作者にとって良き世界である。そういう世界をひとつ持つことは大事なことだ。本歌集にはままならない人生に寄せた歌も多くあるが、そんなときに支えになるのが良き世界だろう。

またひとりここからゐなくになる春の通用口にならぶ置き傘

非正規で生きのびながら窓といふ窓を時をり磨いたりする

三か月単位にてわが就業はいのち拾ひをくりかへしたり

 最後に付箋の付いた歌の残りを引いておこう。

ああこれも真水の比喩か、透きとほるグラスに冷ゆるレモンの輪切り

暗殺をのちに忌日と呼び替へて年譜にくらく梔子ひらく

まばたきは記憶のふるへ 崩ゆるものみな灰白くわいはくの影をともなふ

お気に入りだつた絵本の鳥の名を呼ぶとき喉はもう燃えてゐて

滲みくる汗をぬぐへばわれになほ宿痾のごとく生よこたはる

水ぎはを裸足で逃げる 蹴散らした飛沫を掬ふための五線譜

たましひの速度に朽ちてあぢさゐの花曇天に錘のごとし

押し花の栞にはなの声のこり折をりに泥のおもてをなぞる


 

第359回 『西瓜』に集う歌人たち

クラビクラと呼ばるるときを知らぬままふたつの窪みはみづを拒みぬ

               佐藤せのか『西瓜』第六号 (2022年)

  調べてみると「クラビクラ」とは鎖骨のラテン名だという。claviculaは「小さな鍵」を意味する。その骨の形状から付けられた名だろう。私たちは生まれた時から小さな鍵を二つ胸に付けて暮らしていることになる。その鍵の奥には何が蔵されているのだろうか。この歌の前に「鎖骨の窪みを湖に喩ふる小説を思ひ出させて夜の鏡は」という歌が置かれている。小説では鎖骨の窪みに溜まった水を湖に喩えているのだが、掲出歌では鎖骨は水を拒んでいる。初句六音で四句も六音だが、四句は「ふたつ窪みは」でもいいかも知れない。発想も韻律も美しい歌である。

 『西瓜』は岩尾淳子、江戸雪、門脇篤史、楠誓英、染野太朗らが同人となって発行している同人誌である。2023年夏の現在までに九号が刊行されている。ふつう同人誌といえば、同人の短歌や評論作品を掲載するものだが、『西瓜』の大きな特徴は同人以外の人に誌面を開いている点にある。毎号「ともに」という欄で作品を募集していて、一人五首の投稿をすべて掲載するという太っ腹である。おまけに毎号四人の評者が「秀」「優」「良」の三段階の作品を選んで寸評する。この三段階はスイカの出来の階級だという。ちょっとした短歌道場のようになっており、腕試しをしたい人にはうってつけだ。読んでいて自分が付箋を付けた歌を評者も選んでいると、「やっぱりね」とちょっと得意な気分になる。投稿者の中には、中井スピカや小川ちとせのように見知った名も見られるが、ほとんどは筆名・変名で投稿している。ひょっとして名のある歌人が変名で投稿していることもあるかもしれない。今回は第六号から第九号までをざっと読んでみた。

 良いと思った連作を挙げてみよう。次は鈴木晴香が「優」に選び、江戸雪も総評で取り上げている。 

ありうべき光をさがす放課後のあなたはたぶん詩の書架にいる

            塩見佯「図書館の午後」『西瓜』第八号

片隅の読書カードに開かれた輪廻のような季節があった

青い背の植物図鑑を閉架より取り出す手つきで触れるあなたは

タイトルに君の不在と名のついてぼくのすべてのこれからの午後

図書館はいまも燃えゆくわが胸の群青ながるる川の傍にて 

 際立つのは連作意識の高さである。テーマは「あなた」と呼ぶ人への淡い思慕の念で、それに図書館と書物を絡ませている。放課後なのでおそらく高校だが、作者は大人で過去に戻って歌の世界を作っている。「詩の書架」「読書カード」「植物図鑑」「閉架」「タイトル」などの縁語を巧みに組み合わせて歌の世界を作りあげる手腕はなかなかのものだ。短歌を作り慣れている人でないとこうはいかない。検索してみると塩見佯はSNSなどネットで短歌や小説などを書いている人のようだ。五首目の炎上する図書館は古代アレクサンドリア図書館を思わせて美しい。

罫線を無視したくなるときもあり少し外れてゆく通学路

           小金森まき「ライン」『西瓜』第八号

教室の窓は水面の底だから口を開いて閉じて見上げる

石灰で引いたラインのようにすぐ消されてしまう死にたさだった

たましいが溺れないよう水中で歌をうたっているわたしたち

夢を追うことを諦めサンダルは夏の終わりに向かって走る

 テーマは学校を舞台とする青春の鬱屈である。やや既視感がなくもないが、ノートの罫線、通学路、運動場に石灰で引いたラインなどを喩の素材として短歌の世界を組み立てる手法は手堅い。三首目の「死にたさ」は言葉としてこなれていない。小金森は「うたの日」などで活動している歌人のようだ。

少女期のしめりを帯びし手のひらに十薬の白ほのかににほふ

               小野りす「庭」『西瓜』第八号

火の気配するゆうまぐれ祖母おほははの小枝のやうな外国煙草

雷魚日々乾びつつあらむ雨雲の過ぎたるのちの白き路上に

ほのぐらき八手の玉よ水びたしのこころにひらくみづいろの傘

金柑のあまたともれる庭にゐる さびしきものをかたへに置きて

 投稿作品のほとんどは口語(現代文章語)だが、稀に文語(古語)の投稿もあり、作者はそれなりの年齢の人と思われる。小野も「うたたね」や「うたの日」などの短歌サイトに作品を発表している。二首目の細い外国煙草はヴァージニア・スリムか。一首目の「少女」と「十薬」(ドクダミ)、二首目の「祖母」と「外国煙草」、三首目の「雷魚」と「雨雲」などの取り合わせがおもしろく、ひょっとしたら俳句の素養のある人かも知れない。調べの美しい歌である。

出窓からこぼれるようにゆるやかに揺らめく冬の床の陽光

             永井駿「迷信」『西瓜』第七号

体温をゆっくり渡すやや冷える部屋の毛布のアンバー色に

ピラミッドの石のひとつをキャラメルとすり替えるため書く設計図

秋だけが口を開いていたことにだれもきづかなかったくせして

迷信のような歩調で老いてゆく風の鳴き声ばかり聞く日も

 永井は第64回短歌研究新人賞の最終選考を通過した歌人である。言葉の連接に無理がなく、柔らかく紡いでいくような手触りに個性を感じる。ただ歌に詠まれている若者特有の緩い不全感は、現代の短歌のあちらこちらでお目にかかるものという気もしなくもない。

細やかに組み立てられたランドリーラックを壊す夏のゆふぐれ

             岡本恵「結束」『西瓜』第六号

背の低い母の世界に沿うやうに散りばめられた工夫をほどく

締められたねぢを緩めてほんたうは何を壊してゐるのだらうか

振り向いた鏡のかほのさびしさに色をなくした海馬を探す

回収のために束ねたランドリーラックであつた父の骨たち

 嶋田さくらこが「優」で取っている。読み始めた時は何のことかよくわからないが、最後の一首に達してようやくわかる。父親が亡くなって実家を引き払うのか、子供が片付けをしているのである。洗濯機を囲うように設置されたランドリーラックは、背が低い母親に使いやすいようにあちこちに工夫が凝らしてある。しかしそれも無用になり、解体された白い金属の棒はまるで父親の遺骨のようだというのである。私も親の家を片づけたことがあるので身につまされる。

天と地のあわいに揺れて揺れながら扉を開く短夜がある

          優木ごまヲ「寄港地」『西瓜』第九号

見返してやるって誰のためだろうそのまたの名を遊び紙とも

何本か指を挟んで栞なら赤い糸でも割とまっすぐ

清らかなのどを信じてゆくためになぞる小口の汚れいくつか

背を押せば押されたのだと気付くとき書架はあしたのための寄港地

 これは本のパーツの名称を詠み込んだ歌で、「天」〔地〕「扉」「見返し」「遊び紙」「栞」「のど」「小口」「背」はすべて本のパーツの名称だ。こういう才気に走った短歌を嫌う向きもあるが、短歌にはこういう遊びの要素もあって、「唐衣着つつ慣れにし」のような折り句もその一種である。短歌の修辞の面から見ると、これは「本」というお題を中心として放射状に広がる縁語の空間を渉猟することになるので、案外正統的な作歌法と言えるかもしれない。連作の最後を書架と寄港地で納めているのもよい。イベールの交響詩曲が背後で低く響いているとなおよい。

 あとは印象に残った歌を挙げておこう。

姿見をのせたトラックゆっくりと遠ざかりたり小雨ふる昼  山名聡美

窓際にひかりを溜めて不在とはまばたくたびに影を見ること  早月くら

ブローカ野へしみこんでゆく風鈴は夏を喪いつづける音叉  西鎮

ネクタイを緩めゆきたり休職をすすむる精神科医のまなこは  敦田眞一

鳩の眼はくうを見つめる。僕たちはrain checkをまた告げられて 中井スピカ

冬の陽がやわらかいのはシーグラスとよく似た仕組み 遠い眼球  早月くら

水音の平らなりけり秋の日にひつそり遊んでゐる子供たち  福田恭子

遠ざかる夕暮れとして二粒だけもらえた肝油のオレンジ あわい  西鎮

春を待つ公衆電話鳴り止まず受話器を上げる手のひらはまだ  初夏みどり

地続きの空がとぎれる季節には記憶の森からくるカラスたち  相川弘道

或る夏に取り出せなかつたビー玉が生きながらへてゐる喉仏で  暇野鈴

なにもかも手遅れにして去ってしまう快速電車の淡いひかりは  遠野瑞希

とほくちかく楽はながれてさらさらと古きフィルムに降りつづく雨  小野りす

みなぞこは此処 薄明るい真昼間の壁に映画を浅くうつして  早月くら

 『西瓜』に投稿して来るのは短歌結社に所属しておらず、主にネットを短歌の発表の場としている人が多いようだ。穂村弘の『短歌ください』でもそうだったが、一人で短歌を作っている人がこんなにいるということに驚く。昨今の「短歌ブーム」のせいで短歌人口は増えているのかもしれない。そういう人たちに『西瓜』の投稿欄は恰好の場を提供しているのだろう。

 

第358回 蝦名泰洋『ニューヨークの唇』

秋深し桔梗の色の海を渡る移動サーカスの象の姉妹に

蝦名泰洋『ニューヨークの唇』 

 初句の「秋深し」は、「秋深し隣は何をする人ぞ」という芭蕉の句にも使われている季語の常套句なので、この季語で歌を始めるには相当な勇気が必要だろう。季節は晩秋である。さて、次はどのように展開するのかと思っていると、「桔梗の色の海を渡る」と続く。桔梗の色は濃い紫なので、渡っている海は深い大洋だろう。ちなみに桔梗は初秋の季語。この歌のポイントは次の「移動サーカス」である。この語句で一気に意味の広がりが生まれる。トラックに乗って町から町へと移動するサーカス団は、昔は曲馬団とも呼ばれていた。次のような歌がある。

風の夜のサーカス小屋に獣らが眠れば夢にてるアフリカ

                 渡辺幸一『霧降る国』

サーカスはすでに隣の町におり閑散とせし空き地に遊ぶ

                  小塩卓哉『風カノン』

 サーカスを主に特徴づけるのは、絶えず町から町へと移動する漂泊性と芸を見せる動物だろう。小塩の歌は前者に、渡辺の歌は後者に焦点を当てている。両者はあいまってサーカスを非日常的な異界とする。超人的な空中ブランコや綱渡りも耳目を引くが、子供たちが夢中になるのは何といっても動物で、中でもライオンや虎や象はスター級だ。蝦名の歌ではサーカス団の象の姉妹が海を渡っている。大洋を行くのだから大きな貨客船だろう。結句の「象の姉妹に」まで来て、倒置法により初句の「秋深し」へと帰還する。象の大きな耳に秋風が吹いているのだ。映像のくきやかな歌だが、それ以上に私が感じるのは「物語性」である。その物語はブラッドベリのSFファンタジーとどこかで繋がっているようにも感じられる。

 『ニューヨークの唇』は今年 (2023年) 6月に書肆侃侃房から出版された歌集だが、出版に至るいささか特異な経緯に触れておかねばならない。作者の蝦名は1956年生まれ。1985年頃から作歌を始め、1991年には短歌研究新人賞候補になっている。1993年に第一歌集『イーハトーブ喪失』、1994年に詩集『カール ハインツ ベルナルト』を刊行するが、病を得て2021年に泉下の人となる。本歌集の編者の野樹かずみは蝦名と長らく親交があり、折々に蝦名から送られて来る短歌の預かり役になっていたという。蝦名の死後、残された歌稿の出版を決意し、クラウドファンディングで資金を集めて刊行に至ったという。巻末のあとがきに野樹が蝦名に寄せる熱い想いが綴られている。本歌集には野樹が編集した『ニューヨークの唇』と第一歌集の『イーハトーブ喪失』、それに二人で詠んだ両吟集から蝦名の歌を拾い挙げた「カムパネルラ」が収録されている。なお、二人の共著に『クアドラプル プレイ』(書肆侃侃房、2021年)がある。この刊行も蝦名の死後である。

 田島邦彦他編『現代短歌の新しい風』(ながらみ書房、1995年)に蝦名の『イーハトーブ喪失』から50首が収録されており、編者の一人の藤原龍一郎が短評を寄せていている。藤原は、「どの一首をとっても、この歌人が短歌型式の機能と生理を知りつくし、オリジナリティーあふれる修辞と韻律を駆使する力の持ち主であることは、すぐわかるだろう。実際、ここにあげた歌は、ニューウェーヴの代表としてしばしばとりあげられる何人かの若手歌人の作よりも、技術的にも表現意識的にも、格段にすぐれているように私には思える」と賛辞を贈っている。ちなみに『イーハトーブ喪失』と同時期に刊行された歌集には、西田政史『ストロベリー・カレンダー』、早川志織『種の起源』、大滝和子『銀河を生んだように』、尾崎まゆみ『微熱海域』、中津昌子『風を残せり』などがある。1991年は荻原裕幸が新聞紙上に「現代短歌のニューウェーヴ」という論考を発表した年で、その後、短歌シーンはライトヴァースとニューウェーヴの波に洗われることになる。そういう時代である。

 さて、『ニューヨークの唇』から何首か引いてみよう。

捨てられたヴィオラのf字孔からも白詰草の芽は出でにけり

はね橋の近くの画家は待っている見えないものが渡りきるのを

失った無人探査機を捜せ無人探査機その2で

地図屋への地図を並べる地図屋への地図を並べる地図屋はどこだ

ザムザこそ詩人の鑑胴乱に蝶入れたまま行くピクニック

海を見るたびに涙が出るようにセットされてる未成年ロイド

 いくつかのキーワードで蝦名の短歌を読んで行きたいのだが、まず強く感じられるのはすでに指摘した「物語性」である。結婚を祝うようにヴィオラのf字孔からクローバーの花が咲いたり、跳ね橋を目に見えないものが渡っていたり、人造人間が海を見ると涙が出るように設定されていたりするのは、まるで何かの物語の一部のようだ(ちみなみ「未成年ロイド」の「ロイド」は、アンドロイドの「ロイド」で、「似たもの」の意味で使われている。したがって「未成年ロイド」は未成年を模した人造人間ということになる)。

 物語性は次のような歌にも強く感じられる。

音叉庫にギリシア銅貨の墜ちる音わが鎖骨さえ共鳴りのする

いっせいに孔雀の群れが羽根ひろげる贋の銀貨が積もる広場に

貨物船に虹積む積み荷職人の太き声する朝の波止場に

 どれもまるでショート・ショートのような味わいがある。大事なのは、ここに置かれた言葉たちが、ふつう短歌で担わされる役割から解放されているように感じられることである。それはどういうことだろうか。次の歌と較べてみよう。

螢田てふ駅に降りたち一分のかんにみたざる虹とあひたり

                      小中英之『翼鏡』

無花果のしづまりふかく蜜ありてダージリンまでゆきたき日ぐれ

 小中の高名な一首目で字面が語っているのは、螢田という珍しい名前の駅ですぐに消えた虹を見たという事実だけである。しかし夏の夜に冷たく明滅する蛍火のイメージと、淡く空に消える夏の虹とが相まって、世界の美しさを前にした人の世のはかなさが水字のように浮かび出る。二首目も同じ構造で、イチジクに満ちる蜜は世界の豊かさの喩であり、遠くインドのダージリンまで行きたいと思っても、行く時間は残されていないのが〈私〉の現実である。作者は虹やイチジクを描きたいと望んでいるのではなく、それらを通して「人の世のはかなさ」「生の一回性」を詠んでいるのである。「叙景を通して叙情に至る」のが和歌以来の歌の王道であり、歌に置かれた「虹」や「無花果」という言葉は、短歌という蒸留装置を経由することで、最終的には「生の一回性」を指示するという高階の意味作用を果たしている。この高階の意味作用こそが通常の短歌において言葉が担っている役割に他ならない。読者の立場から言うと、「短歌を読む」ということはこの高階の意味を感受することだということになる。

 翻って蝦名の短歌を見ると、ほとんどの歌でこの高階の意味作用を見ることができない。たとえば上に引いた二首目の「はね橋の」の歌で、「はね橋」や「画家」や「見えないもの」といった言葉が共鳴しあって指示する高階の意味は考えるのが難しい。

 では蝦名の短歌の言葉たちはいかなる役割を与えられているのだろうか。それは言葉の組み合わせと単語が持つ豊かな共示作用によって、〈私〉の生きる現実とは異なる世界を作り出すことにある。なぜ現実と異なる世界を作り出そうとするかというと、蝦名がまちがえてこの世に生まれて来たと感じているからである。そのことを思わせる歌はたくさんあるが、二首だけ引いておこう。

影青く君の右頬照らすのはあれは地球という名の異邦

ああ天に翼忘れて来し日より踊り初めにき歌い初めにき

 一首目では〈私〉も〈君〉も地球ではない星から地球を眺めており、地球は故郷ではなく異邦である。それは作者がこの世に対して持つ違和感に由来する。二首目は堕天使の歌で、文学では貴種流離譚という形を取ることが多い。このように蝦名の短歌において、言葉は「現実の異化」という機能を果たしている。蝦名の短歌が磁力のように発する物語性はそこに由来する。言葉が高階の意味作用を持たず、現実の異化に奉仕しているということは、蝦名の本質が歌人ではなくむしろ詩人であったことを意味するように思われる。

 現実の異化から派生するキーワードがいくつかある。まず上に引いた四首目「地図屋への」に見られる迷宮への嗜好を挙げておこう。この歌では「地図屋への地図」が無限に入れ子になっており、最終的に目的の地図屋へは辿り着けない。三首目「失った無人探査機」にもその傾向があり、探査機その1を探査機その2が探し、その2をその3が探すというように無限に連鎖は続く。

 また蝦名の歌には地図や地理に関する語彙と、何かを探している人がよく登場する。

いつまでも欠けたピースを探してる空の方途を明日も真似そ

あの子は黄色い飛行機を探しているわたしもおなじことをしている

十字架が十字架を背負う言葉とはあの足跡が消える砂浜

音叉庫の一律の闇をさまよえり父がなくした母音さがして

サーカスを追って迷子になったままわれに帰路あるごとき夕焼け

地図になき市の東に生かされて身を一枚の日輪が焼く

 地図・地理への嗜好は「ここではないどこか」への憧憬と結びつき、何かを探すのは大きな物を失ったか、あるいは最初から持たない状態でこの世に生まれ落ちたからに他ならない。蝦名の〈私〉はこの世に送り込まれた流刑者なのだ。

 このような蝦名の短歌世界をよく表す歌をいくつか引いておこう。

桟橋は廃墟となりて数本の杭がかたむき僕を待っている

                 『ニューヨークの唇』

かなしみにほほえむべけれいちい樹をチェスの駒へと彫りあげる秋

病む人のゴブラン織りの膝掛けに読みさしのまま夜明けのカフカ

古い詩がふとよみがえる紫の唇の麻酔が醒める夕暮れ

信号の青に流れる曲ながら雨の中にてシュトラウス冷ゆ

渡らんとして倒れたる黒馬のあばら骨から透ける海峡

                『イーハトーブ喪失』

緑色の受話器は海に沈みつつ呼べどとこしなえの通話中

そして視野を花びら覆いめくるめく通過儀礼のごとき季節は

安住の枇杷の梢に星の実は光れりわれにかくまで遠く

街角をノアの方舟通過するごとし日蝕の午の翳りは

 野樹も挙げている次の歌は蝦名が理想とする境地をよく表している

そこにはだれもいないのにそこには詩人もいないのにそこにも白い

花が咲きそこには読者もいないのにそこにも探した跡がある

 この二首は続けて読むと一連の文章になる。歌人は一首の完結性を重んじるので、ふつうこういうことはしない。蝦名の詩人の資質がなせる業である。蝦名の夢想する天上世界には、詩人も読者もいないのに詩の白い花が咲き、しかもそれを誰かが探した痕跡が残されているという。無名の詠み人と言葉を求める人とが密やかに交錯する白い世界が、蝦名の歌の言葉たちが最終的に指し示すものである。

 

第357回 安田茜『結晶質』

かなしいね人体模型とおそろいの場所に臓器をかかえて秋は

安田茜『結晶質』

 人体模型は小学校の理科室に置かれていることが多い。理科室にはたいてい分厚いカーテンがあり、戸棚の中にはホルマリン漬の動物があったりして、ちょっと恐い雰囲気が漂っている。私の世代では人体模型と聞くとどうしても中島らもの『人体模型の夜』を想起してしまう。

 初句「かなしいね」は口語の会話体なので、誰かに話しかけているか、さもなくば独り言である。誰かがいきなり「悲しいね」と言ったら、そばにいる人は「どうして悲しいの?」と訊ねるだろう。悲しみの契機が述べられていないからである。俳句や短歌は詩の一種なので、「○○が××して△△になった」と順序立てて説明してはいけない。それでは散文になってしまう。飛躍は散文ではタブーだが、詩では金貨である。「かなしいね」と初句を読んだ読み手の頭の中には大きな「?」が灯るはずだ。ここでは倒置法が使われていて、二句以下がその疑問に答えてゆくのだが、その答もストレートではない。人間が人体模型と同じ場所に臓器を抱えているというのは逆で、人間と同じ場所に臓器があるように人体模型を作っているのである。だからここには発想の転倒があり、これもまた詩の大事な材料だ。結句を「秋は」と言いさしで終えているのも巧みである。余韻が残るからで、余韻もまた詩の素材だ。散文では言い残してはだめで、主題についてすべて言い切ることが求められるが、詩ではすべてを語ってはいけない。残余を読者にゆだね、読者の心の中でさらに膨らんでゆくのが良い詩である。

 しかし一首を読み了えても読み手の心には疑問が残る。なぜ人体模型と同じ場所に臓器があることが悲しいのだろう。同じ場所に臓器があるのは当然ではないか、と。このように世の常識を揺さぶるのもまた詩の役割である。人体模型と同じ場所に臓器があることがなぜ悲しいのか。読者はあれこれ想像を巡らせるだろう。体内の臓器の位置に至るまで自分の謎は明らかにされているのが悲しいのか、それとも模型と同じ場所に臓器を持つ凡庸さが悲しいのか、いやむしろ逆に人体の臓器の位置を示すために晒されている模型が悲しいのか、答はいくつも考えられる。その想像のひろがりが詩のもたらす効果だとも言えるかもしれない。

 安田茜は1994年生まれの若い歌人である。京都の立命館大学に入学し、何のクラブに入ろうかと考えていた時、キャンパスに置かれていた看板の短歌に衝撃を受け立命短歌会に入会したという。大学短歌会は4月の新入生入学の時期によく短歌を書いたビラなどを配って入部勧誘するが、けっこう効果はあると見える。本歌集には収録されていないが、『立命短歌』第2号 (2014年) に安田の「海と食卓」が掲載されている。

静けさにしまう写真や紙切れの本当に燃やすことなどなくて

ひかりとは手に取れぬものと言いながらあなたの部屋の本をかさねる

 安田はその後、京大短歌会に入会している。『京大短歌』22号(2015年)に初めて安田の名が見え、「twig」と題された連作を寄せている。この連作はいくつかの歌を削除して本歌集にも収録されている。

ひるのゆめ 林檎がむかれてゆくときのらせんは逆光にのびてゆく

地続きで季節はすぎる各々の木に伸びてゆくいちまいの影

 安田は塔短歌会にも所属し、2016年に塔新人賞を受賞。2022年には第4回笹井宏之賞の神野紗希賞を受賞している。現在は同人誌『西瓜』を拠点としているようだ。『結晶質』は今年(2023年)に上梓された第一歌集。白を基調とした装幀が瀟洒だ。神野紗希と江戸雪と堂園昌彦が栞文を寄せている。将来を嘱望される若手歌人という布陣である。

 若い歌人の第一歌集を取り上げて論じることには特有の難しさがある。若年故に自分の作風と文体がまだ固まっておらず、発展途上にあることが多いからである。第二歌集で化けることだってある。そのため小池光のように「第二歌集がいちばん大事」と主張する人もいるくらいだ。確かにそれは一理ある。

 本歌集を一読して私がいちばん感じたのは、作者は「言葉」と「感情」という短歌を構成する二つの極の間を揺らいでおり、「言葉」に寄せるかそれとも「感情」に寄せるか、様々な配合を試行しているのではないかということである。その「揺らぎ」がこの歌集に清新な魅力を与えているようにも感じられる。

 本歌集第II部には学生時代に作った歌が収録されている。

冬らしい冬の真昼に泣くときのなみだがぬくい とてもうれしい

感情はきづかず襞になってゆく空を切り込みとんでゆく鳶

かなしみにきっかけあれどわけはない サドルの凍る自転車を押す

 一首目にはあまり短歌的修辞は施されておらず、感情の直接的表現が未だ幼さを感じさせる。この歌は「感情」寄りで「言葉」に体重がかかっていない。二首目、「感情はきづかず襞になってゆく」に小さな発見がある。感情は時間とともに折り畳まれるのだ。下句は一転して空を飛ぶ鳶の叙景になっていて、取り合わせという修辞が用いられている。このため一首目と較べるとやや「言葉」寄りになっている。三首目も同様で、「兆す悲しみにきっかけはあっても理由はない」という思いを述べる上句と、一字空けした下句の叙景が取り合わせとなっている。しかし景は感情の映像的代替物と見なすこともまだ可能だ。

 一方、次のような歌では直接的な「感情」の表現は抑制されて、「言葉」を組み合わせてひとつの世界を描こうとする姿勢が鮮明である。

サッカーの少年たちは円になるスポンジケーキ色のゆうぐれ

ことばまでまだまだ遠いゆうぐれの小庭に忘れられたなわとび

ひとつの冬や夏をすごしたリビングに水のかたちはグラスのかたち

 一首目、市民グラウンドでサッカークラブの少年たちがその日の練習を終えて円陣を組んでいる。傾く夕日はスポンジケーキ色というから、やや黄味を帯びた色だろう。ここには特に〈私〉の「感情」は表現されておらず、「言葉」の作り出す詩情が溢れている。二首目は短歌を素材としたメタ短歌の観を呈しており、上句で「感情」が、下句で「言葉」による叙景が置かれている。「忘れられたなわとび」が喩かどうかは微妙なところだ。三首目、下句の「水のかたちはグラスのかたち」に小さな発見がある。「水は方円の器に従う」のだから、そのときに入れられた器の形が水の形である。この歌も「言葉」の持つ力によってひとつの世界を現出させようとするタイプの歌である。なお一首目には「スポンジケーキ╱色のゆうぐれ」という句跨がりがあり、三首目は初句七音で、どちらにも短歌的修辞が施されていることにも留意しよう。

 安田はこのように、歌一首の中での「感情」(想い)と「言葉」のいろいろな含有割合の間で揺らぎながら歌を作っているように感じられる。だとするとこの方法論はとても古典的な近現代短歌の手法だということがわかる。安田の作風は、現在の若手歌人の中でひとつの流れとなりつつある「口語によるリアリズムの更新」(by 山田航)とはかなり異なる場所にあるのである。

今日は寒かったまったく秋でした メールしようとおもってやめる する

                              永井祐

 永井の歌では短歌の中の〈私〉の「今」がだらだらと続いているようだ。このような時間把握に基づくと、短詩型文学に求められる結像力、つまりある情景を鮮明に描くことはほぼ不可能になってしまう。結像力は視点の固定と、それを可能にする時間の固定を前提としているからである。永井らはもちろんそれは承知の上だろうが。

たましひの夏いくたびか影れてプールの底までの鐡梯子 

                  塚本邦雄『緑色研究』

 最後に特に心に残った歌を挙げておこう。

どうしようもないことだらけ硝子壜煮沸消毒する夜もすがら

蒼穹のこころすべてを否定するちからで逃げる葦毛の馬は

きずついたゆめの墓場へゆくために銀紙で折るぎんのひこうき

橋をゆくときには橋を意識せずあとからそれをおもいだすのみ

祈りとはおおげさだけどはなびらをにぎる右手をひらいてみせて

濡れたってなんにも困らない日々にあえて差す傘 紺色の傘

象の絵がうすいグレーで描いてある灰皿 ここにもいない神様

完璧のかたちさびしく照り映えてアル=ケ=スナンの製塩工場

もう二度と閉じられない瞼のように降ってつもってゆくぼたん雪

 八首目のアル=ケ=スナン (Arc-et-Senans) の製塩工場は、フランスのブザンソン郊外に現存する18世紀の製塩工場で、世界遺産に指定されている。王室建築家のニコラ・ルドゥーの設計による美しい建物である。ルドゥーは円形の理想都市をめざしたが、主に資金不足から半円形に留まったという。完璧な形に淋しさを感じるのもまた詩心というものだろう。

 


 

第356回 久保茂樹『ゆきがかり』

子は腕に時計を画いていつまでもいつまでもそは三時を指せり

久保茂樹『ゆきがかり』 

 先日送られて来た『かばん』6月号をばらばら眺めていたら、ある同人の歌に目が留まった。「夕映えの蝙蝠」と題された一連である。

 

フラゴナールの少女が遊んでゐたやうな花満開のときは過ぎつつ

かさぶたが枯れて剥がれる傷のやうに町工場跡均なされてをり

手の甲の静脈あをくみだらなればわづかに逸れてゆく話題ある

 

 「フラゴナールの少女」とは短歌であまり見ない喩だが、その喚起するイメージは明るくくきやかだ。作者は久保茂樹といい、『ふたり歌集 箱庭の空』青磁社から抜粋と注がある。検索してみると『ゆきがかり』という歌集がありさっそく注文した。久保茂樹と小川ちとせの共著の『ふたり歌集 箱庭の空』は版元品切れのようで、『かばん』編集部を通じて作者に連絡したところ、贈呈をいただいた。短歌の世界はいまだに贈呈文化が生きている。ありがたいことである。さっそく二冊を通読した。

 心を打つ歌集にはときどき出会うし、瞠目すべき歌集もたまにはある。しかし、おもしろい歌集というのは存外少ないものだ。久保の第一歌集『ゆきがかり』(砂子屋書房、2009年)はおもしろい歌集である。プロフィールがないので経歴はわからないが、久保は「塔」に所属する歌人で、同時に『かばん』に参加している。

 さて、「おもしろい歌集」とは何か。正面切って定義せよと言われるとそれはちと難しい。あとがきによれば、巻頭歌の「自転車と妻はいづこへ行きしやら土曜午すぎ晴れのち曇り」という歌を見て永田和宏は「不用意な言葉遣いがあるけれど、ちょっとおもしろい」と評したそうだ。永田はどの点をおもしろいと感じたのだろうか。

 まず歌集の題名を見てみよう。「ゆきがかり」とは、『日本国語大辞典』によれば、「行きかかるついで、行く途中」、「行ってその場にさしかかること」、「物事がすでに進行していること、また、進行している物事に関係してすでにやめられない状態であること」を意味する。本歌集の題名はこのうち三つ目の意味に該当すると思われる。一見するとこの題名は集中の、「ゆきがかりなればそのまま往き過ぎるしばし泣く声の耳にのこるも」という歌の初句から採られているように見える。その前には「をさな子とその母らしきが揉めてをり立ち止まるなく過ぎゆきにけり」という歌が置かれていて状況がわかる。母親と幼い子供が何かで揉めている場面にたまたま行き会わせたのだ。しかし歌集題名の『ゆきがかり』はこの歌のみならず、歌集全体に漂う作者の人生観を象徴するものとなっている。それは「この世のことはなべてゆきがかり」という達観である。それは次のような歌に感じられる。 

悶えつつ足をちぢめてゆく烏賊を屋台に我はひとりみてをり

「ひどい」から「ひとでなし」までゆつくりと天動説の空は夕映え

 一首目では夜店の屋台の鉄板の上で丸ごとの烏賊が焼かれている。烏賊は鉄板の熱で悶えるように身をよじる。その様子が見ている〈私〉の喩かというと、そうとも感じられない。烏賊が鉄板の上で焼かれるは烏賊の事情であり、それもゆきがかりなのだ。二首目はたぶん女性に罵られているのだろう。最初は「ひどい」から始まって、やがて「ひとでなし」へとエスカレートしてゆく。その様子はまるで天球がひと晩かけて東から西へとゆっくり移動するかのようだ。どちらの歌にも何かを嘆いたり憤慨したりする様子はなく、「そういうものだ」と受け入れる姿勢が感じられる。本歌集の解説を書いた笠原芳光は、この歌集には独自の思想性、新鮮度、ユーモアがあると評している。確かにそのとおりだ。しかしその思想性は、ヘーゲル哲学のように体系的に構築されたものではなく、体感によって会得した町場の哲学である。

 「この世のことはなべてゆきがかり」という姿勢からは、「24時間戦えますか」というような頑張りや目標に向かって邁進する努力は生じにくい。作者の姿勢はその対極にあり、いい感じの脱力とユーモアはその重要な成分である。 

うらやまし畳のあとがついてますと宅配の人わが頬を指す

清原が三振したるときのまも売り子は声を変えることなし

いまだ日のあたりゐるらし出来たてのエビシウマイのやうな浮き雲

ディテールにこだはる国のゆふぐればあと五分ですと風呂がいふなり

円居といふ死語に句点を打つ如し電子レンジのその終止音

前かごのティッシュ五箱を盾として警告色のスパッツが来る 

 一首目では宅配の配達員に今まで昼寝をしていたことを見抜かれている。二首目は球場での野球の試合風景。ビールの売り子には清原がホームランを打とうが三振しようが自分の商売には無関係だ。空の雲を眺めても頭に浮かぶのは詩的な感興ではなく、まるで蝦焼売のようだという俗な連想である。四首目以下には軽い文明批評も感じられる。最近は風呂や冷蔵庫がしゃべるのだが、はたして湯が満ちるまで「あと五分です」というアナウンスは必要か。電子レンジで冷凍食品をチンするようになり、家庭の円居は消滅した。ちなみに現在では電子レンジの終了音は「ピー、ビー」という電子音で、もはや「チン」とは言わない。六首目は作者の住む東大阪のおばちゃんの姿である。どの歌にもユーモアが含まれていて、読むとついニヤッとしたくなる。

 そのような姿勢は身の回りの人たちを詠んだ歌にも感じられる。何と言ってもおもしろいのは妻を詠んだ歌だろう。 

ラーメンをただに鍋からたべをれば扉に倚りて妻ゐたりけり

浴室を古き歯ブラシに研ぎをる妻よ細部にこだはる勿れ

メモの字の踊らむばかりのありさまのかほども妻を縛つてゐたか

わたくしのことは今日からぜつたいに歌にしないで 今朝言はれたり

きみが逝くと困るたとへば銀行の暗証番号は誰に聞くんだ

 三首目は友人と出かけるという妻のメモが残っていたという歌。中年に差し掛かった男にとって妻は最大の鬼門である。心当たりある人は多かろう。「私のことは歌にしないで」ときつく言われても、三首目のように歌にしてしまうのが歌人の業というものだ。

 本歌集には近代短歌の王道の写実に徹した歌も少なくない。 

パンの耳なくなり鳩ら飛びゆくに片足のなき一羽残れり

おほ鬼の臍の緒のごとひからびてひね大根が捨てられてをり

烏賊を洗ふやうに子どもの手をあらふ軟骨のゆび透きとほるまで

車道側の枝はきびしく払はれて街路樹はみなうしろむきなり

ささぶねの杭に堰かれてゆつくりと艫を捩らせ流れゆきたり

 どの歌にもふだん注目されることなく話題にされることもない、弱いもの、幼いもの、小さなものへ深い愛情が感じられて心を打たれる。「この世のことはなべてゆきがかり」であるからこそ、見過ごされがちなものもまた私に関わりのあることなのだろう。

 『ふたり歌集 箱庭の空』からも何首か引いておこう。

 

エアコンが壊れてゐたりエアコンは春をしづかに壊れてゐたり

湯舟より出てゆくひとのあかあかとそびらに水の文字流れたり

老人の見送りたるは誰ならむ喪服の裾に躾糸みゆ

助手席に雨の匂ひときみが乗りたちまちこゆくなるひだり側

みどり色は好きな色だよきみの手の用紙はうすく透けてゐたりき

 

 五首目の緑色の用紙はもちろん離婚届である。塚本邦雄の歌に登場するのはうすみどりの頼信紙だが、久保の手にかかるとこのように変身する。この目線の低さが久保の持ち味だろう。『ふたり歌集 箱庭の空』の小川ちとせの歌には触れる余裕がなかった。またの機会を待ちたい。

 

第355回 鯨井可菜子『アップライト』

鋤跡のわずかに残る冬の田をパンタグラフの影わたりゆく

鯨井可菜子『アップライト』

 電車が郊外の田園地帯を走っている。車窓から見える田畑に作物の緑はなく、地面には鋤の痕跡が平行に走っているという冬枯れの景色である。その鋤跡の残る土の上に電車のパンタグラフの影が射している。その影は地面の凸凹のせいで少し折れ曲がっているだろう。歌全体を包む季節感と移動の感覚がパンタグラフの影によって表現されている。詠まれているのはつまるところ時間の流れであり、その時間を生きる〈私〉もその背後に淡く揺曳している。

 もし上句を「鋤跡のはつか残れる冬の田を」とすれば文語(古語)の歌になり、いかにも和歌風の結句「わたりゆく」との相性がずっとよくなる。しかし作者の鯨井は基本的に口語(現代文章語)で歌を詠む歌人なので、もしそのように書き換えると個性がなくなってしまうだろう。

 穂村弘は『短歌ヴァーサス』2号(2003年)に書いた「80年代の歌」第2回で、紀野恵の「晩冬の東海道は薄明りして海に添ひをらむ かへらな」や、大塚寅彦の「をさなさははたかりそめの老いに似て春雪かづきゐたるわが髪」などの歌を挙げ、「このような高度な文体を自在に使いこなす若者は彼らを最後に絶滅した」と断じた。そして理由はわからないが、「80年代の終焉とともに若者たちは非日常的な言語にリアルな想いを載せるということが出来なくなったようだ」と続けている。その結果として、「それ以降の若者の歌はいわば想いと等身大の文体の模索に向かってゆくことになる」と指摘している。今から20年前に書かれた文章だが、穂村の指摘はまるで予言のようだ。手本とすべき先達を失った若者たちは今も自分の文体を模索しているというのが現状だろう。ちなみに大塚寅彦は1961年生まれで、紀野恵は1965年生まれである。このあたりがどうやら文語(古語)を駆使して作歌する歌人の下限らしい。

 鯨井可菜子は1984年生まれで、すでに第一歌集『タンジブル』(2013年、書肆侃侃房)がある。『アップライト』は昨年(2022年)上梓された第二歌集である。

 80年代に現れたライト・ヴァースとニューウェーヴ短歌がもたらした最大の変化は短歌の口語化(現代文章語化)だろう。もはや過去の助動詞「き」「けり」や完了の助動詞「ぬ」「つ」「たり」「り」とか、助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」の係り結びなどを使いこなす必要はなくなり、作歌のハードルはぐっと下がった。この文体上の変化と軌を一にして、短歌が描く主題の世界もまた多様化した。だが逆接的に聞こえるかもしれないが、主題の多様化によって、短歌が本来めざすものが影絵のようにあぶり出されたという気がしなくもない。鯨井の短歌が好んで描くのは、「自分の時間を懸命に生きる等身大の姿」である。

大戸屋のばくだん丼は早口のごゆっくりどうぞを背に受けながら

編集部にりんごとみかん配られてお地蔵さんのように働く

プレス証ぶら下げたまま大ホールの椅子のひとつにねむる試み

校正紙ひと月かけてめろめろになりゆくまでを働きにけり

会議室にダイオウイカの横たわり残業を減らすための会議よ 

 一首目、大戸屋のばくだん丼とは、鮪の刺身・納豆・オクラ・根昆布・山芋などのねばねば食品がてんこ盛りの丼である。スタミナが欲しい人が注文するものだ。店員は「ごゆっくりどうぞ」とマニュアル通りに客に言うが、昼食時で忙しいので早口になる。その声を背に受けて丼をかき込む。二首目、作者は医療関係の出版社に勤務している。社員の実家からダンボール箱で送られて来たのだろうか、りんごとみかんがみんなに配られる。会社でよくある風景だ。りんごとみかんを机に置くと、まるで道端の地蔵にお供え物をしたようになる。三首目は医学関係の学会に取材しに行ったのだろう。朝早く起きたせいか、研究発表が行われているホールの片隅で居眠りしている。四首目、雑誌の編集部の主な仕事は割り付けと校正だ。私も短歌誌などに原稿を書くと、校正刷がまっ赤になって戻って来ることがある。塚本邦雄の「塚」が異体字であることは知っていたが、「邦」も異体字であることはさる編集者の指摘で知った。校正のプロはかくも恐ろしい。五首目の「ダイオウイカ」は力なく座っている自分のことだろうか、それとも会議室に漂う妖気のようなムードの喩か。いずれにしても残業を減らすための会議が延々と続くのは虚しい。

 ことほど左様に現実というものはやり切れないものである。関西弁なら「やってられへん」とつぶやくところだ。鯨井の作る短歌はこのようなやり切れない現実にぶつかってもがく〈私〉を好んで主題にする。それは現代短歌が口語化(現代文章語化)してハードルが下がり大衆化するのにともなって、新たな感性を呼び込んだためだろう。そのような変化を背景とする鯨井の短歌は、ひと言で言うならば「フツーの私が現実を生き延びるための応援歌」という性格が顕著だ。

 そのようなことがよく感じられるのは、たとえば「担々麺」と題された日付のある歌である。日付は省略する。

スカートのホックゆるめて二十五時担々麺の汁全部飲む

落ちている片手袋を見ておればワゴン車の来て二度踏んでゆく

午後三時 今日は有休なんですと前髪切られながら答える

「本当に出るんですか?」と問われおり予想問題集の読者に

つらければやめたっていいと君は言う春の川辺にわたしはしゃがむ 

 作者はよほど担々麺とインド映画の『バーフバリ』が好きなようだが、それはまあよいとして、歌の描く〈私〉は平日に美容院に髪を切りに行ってやましさを覚えながら、今日は有休なんですと言い訳し、医師の国家試験の問題集の予想問題が本当に出題されるのかと読者から電話で詰問されてぐっと詰まるというような日々を送っている。穂村弘は『はじめての短歌』(河出文庫、2016年)などでしきりに、「生きる」と「生きのびる」はちがうと説き、短歌は「生きる」ためにあるものだとしているが、鯨井の短歌を読むとその手前の「行きのびる」ステージで奮闘しており、短歌はそのステージをクリアするための応援歌のように見えるのである。余談ながら二首目の「道に落ちている片手袋」の愛好者はけっこういて、ネット上にサイトがいくつもある。現代のトマソンのひとつかもしれない。

 本歌集は編年体で構成されているのだが、第5部はちょうど新型コロナウィルス感染が広がった時期の歌を収録している。

トイレットペーパーこんもり送られて母は香りつき叔母は香りなし

パソコンを立ち上げて歯をみがきつつ勤務開始のメールを送る

レッスンの動画が届く 先生のうしろに映る部屋のカーテン

次亜塩素酸水配るお知らせが日焼けて残るスナックのドア

 一首目を読んで「そうだった」と記憶を新たにした。新型コロナウィルスの感染が広がった頃、買い溜め騒ぎが起きて、まるで1970年代のオイルショックのようだと報じられた。地方のスーパーにはまだ製品が残っているので、親戚に頼んで買って送ってもらうのだ。二首目は在宅勤務の一コマ。三首目は小池都知事が放ったStay homeのかけ声でみんな外出を控えるようになり、することがないので自宅でZoomで何かレッスンを受けているのだ。四首目はマスクと並んで一時品薄になった手指の消毒液の配布のお知らせである。

 当時は新聞歌壇でもこのような歌が山のように投稿された。短歌には「時代の記録」という性格があるので、時局や大事件に反応した短歌は常に作られている。しかし時代が刻印された歌は時が経ると理解が難しくなる。20年後の若者に一首目の歌を見せたらまず理解してもらえないだろう。現代歌人協会は『2020年 コロナ禍歌集』(2021年)、『続コロナ禍歌集 2011年〜2022年』(2022年)を相次いで刊行している。このようなアンソロジーは時代の記録として貴重である。巻末に添えられた大井学の手によるコロナ禍をめぐる出来事の年表は記録として価値が高く、私たちがいかにすばやく物事を忘れるかを思い知らせてくれる。

 鯨井は名歌をめざしているわけではないので、集中で特によいと思った歌を選び出すことには意味がない。そのかわりにいちばん鯨井らしいと感じた歌を一首引いておこう。

玄界灘の波濤めがけて走り出すともだちのいま生きている背中

 ここには「むきだしの〈今〉」と、その〈今〉を生きている〈私〉がある。現代の若い人たちの作る短歌の動向のひとつは、このような「むきだしの〈今〉」をコトバで定着することにあるようだ。

 

第354回 澤本佳步『カインの祈り』

患いて街を離れたわたくしをやさしく照らすヤコブの梯子

澤本佳步『カインの祈り』

 本歌集の巻頭歌である。ヤコブの梯子とは、冬の日に空を覆う厚い雲の切れ目からスポットライトのように地上に差し込む一条の陽光をいう。それは天国へと続く梯子のように見える。この歌とこれに続く「この病は主の栄光を現すと語ったイエスに縋りつくのみ」という歌によって、作者の置かれた境遇がほぼわかる。簡明にして十分な自己表現であり、歌集の序章としてこれに優るものはなかろう。

 作者の澤本は1972年生まれ。あとがきによると、歌集出版に至る経緯がいささか特異である。澤本はどうやら一人で短歌を作っていたらしいが、通っている教会員から歌集出版を薦められたという。教会のパンフレットなどに短歌を掲載していて、それが教会員の目に触れたのだろう。やがて歌集『ダスビダーニャ』の作者の西巻真とネット上の交流があり、その薦めもあって同じ明眸社から刊行するに至ったという。堀田季何、富樫由美子、西巻真が栞文を寄せている。歌集題名は集中の「幾人を煩わせたか省みるほどに切なるカインの祈り」から取られている。カインは旧約聖書の登場人物で、アダムとイブの子供であり、神に愛された弟のアベルを嫉妬から殺した人である。カインは罪人の原型として捉えられており、その名を歌集題名に入れた作者の心情も窺うことができる。

 献本を頂いた折に添えられていたお手紙にもご自身が精神の病を患っていると記されており、本歌集のあとがきにもそう書かれているので、それを踏まえて本稿でもそのことに触れる。澤本の短歌を理解するために欠かせない要素だからである。しかし言うまでもないが、それが短歌の評価を左右することはない。また上に引用した歌からもわかるように、作者はキリスト者であり信仰に生きる人である。この「病と信仰」が澤本の短歌を刻印する二つの大きな印章である。

健常に見えると励ますやさしさの底を流れる偏見を嗅ぐ

展望を問うのひかり稼がねば無為に過ごしているとばかりに

死を希うつぶやき口に押し戻し浴槽みがく新涼の昼

充血の眼にて追うハンセン病歌集に見えるめしい生活たつき

 一首目、自らの病を告げた人から「健常者に見える」という言葉が返って来て、その背後に精神病者に対する偏見を感じたという歌である。二首目は将来の展望を訊ねる人の残酷さを詠んだ歌である。このように病は自身の体の内部に留まるものではなく、周囲の人たちとの関係性という側面も持っていることがよくわかる。三首目は希死念慮の歌。死を願う暗い想念と、磨き上げられた浴槽の輝きや新涼の候の清々しさの対比がまばゆい。四首目のハンセン病はかつて癩病と呼ばれていて、病状が進行すると失明することがあった。そんな人はどのように暮らしを立てていたか知りたくて目が充血するほど歌集を読むという歌である。いずれも切れば血が出るような歌であり、読んでいて一瞬言葉に詰まる。

 精神の病ではかかる医師が重要な役割を果たすと聞く。ここにもまた病と周囲の人々との関係性がある。医師の診療を受ける場面を詠んだ歌も少なくない。

教会はほどほどにとの墨付に煙たがりつつ安堵も少し

信心と妄想分かてぬ医師に就き九年目に聞く父君ふくんが僧と

いずれ来る死を主のもとへ帰る日と恐れぬわれに医師の頷く

教会を排した亡き院長と真逆にわれの信仰を褒む

マンモという語が出てこずに合わせる手 無花果めきて主治医の前に

 一首目にあるように、信仰もけっこうだがほどほどにするようにと忠告する医師がいるのだろう。病は入信のきっかけとなることも多い。一首目の医師と同じ人だろうか、二首目の医師は宗教を妄想だと考えている。しかし聞いてみれば何と父親が僧侶だったという。医師にも親への反発があるのだろうか。三首目では医師は作者の信仰を否定することなく受け容れている。四首目にあるように、先代の院長は信仰は精神疾患に有害だと断じていたが、現在の院長は宗教を認めているようだ。作者は乳癌を発症して片方のリンパ節を切除している。検査のためにマンモグラフィーを受診しようとしているのだが、名前が出てこないので、乳房を両側から挟む仕草で伝えようとしている。両手を合わせた形がイチジクに似ているというが、イチジクは聖書にも登場し、キリスト教と馴染みの深い果物である。

 作者は病のため一般の就職を諦めて作業所に通っている。次は作業所での労働詠である。

スプーンの検品をしてかじかんだ手が編み物の毛糸を慕う

百円の工賃の重み噛みしめる仕事を終えてジュース買うとき

ダンボールの組み立てさえも褒めてくれる作業所にいて優しさに馴る

生き死にを茶化せるわれを遠のいて昼餉の卓につく僚友メンバー

 いずれも歌意は明らかで説明の用はない。バブル経済が破綻してからの低成長社会を生きるゼロ金利世代(by穂村弘)は非正規雇用が多く、そのような社会事情を背景として「生きづらさ」を詠む短歌が一時増えた。鳥居の言う「生きづら短歌」で、映画化もされた萩原慎一郎の『滑走路』がその代表格だろう。しかし生きづらさの原因はいじめや貧困や非正規雇用だけではない。病もまたその原因のひとつである。上に引いたような作業所の歌を読んでいると、まるで現代版の『蟹工船』を目の当たりにしているような錯覚を覚える瞬間がある。

 私が本歌集を通読して頭に浮かんだのは旧訳聖書の「ヨブ記」である。ヨブは義の人であるにもかかわらず、次々と災厄に見舞われる。「神がもし私を愛しているのならば、なぜ私にこのような試練をお与えなるのか」というのは答のない問である。

 病に苦しむ澤本が向かうのは神への信仰である。

クリスマスギフトを夫君ふくんに選びつつ迷う信徒の眼差やさし

身内にも「気が狂った」と言われた主イエスはわれと痛みを分かつ

御言葉みことばを繰りつつ卑語に親しんだわが舌の罪知るラリるれろ

橋わたる車のフロントガラスへと神の指が刷きゆくすじ雲を

 教会にはさまざまな人が集う。教会は裁きの場ではなく赦しの場である。教会員との交流と教会活動は作者にとってかけがえのない大切なものだろう。二首目は大工だったイエスが突然神の福音を説き始めた時、周囲から気がふれたと見なされたというエピソードに自らの境遇を重ねた歌である。

 自ら望まぬ境遇に陥ったとき、人が辿る道程にはいくつかのパターンがあるという。まずは怒りである。自分はちっとも悪くないのに、なぜこんな目に遭うのかと、社会に怒りをぶつけ天を呪う。二つ目は自責と迷いである。こんなことになったのは、あの時のあの行動が原因なのではないかと、思念の迷路を彷徨し自分を責める。三つ目は受容であるが、ここに至る道は平坦ではない。「自分がこうなったことには私には知り得ぬ意味がある」という境地に達するにはある種の悟りが必要だろう。宗教がその用をなすことは言うまでもない。ヨブもまたこれは神が私に与えた試練だと考えたのである。

 ここまで主に作者の置かれた境遇を軸に歌を見ていたが、それを離れて純粋に歌を眺めても見るべき点は多い。それは物事の細やかな観察と、それを歌へと組み立てる技倆である。

 

作業所の南瓜をもらい帰りくる重みに幾度も持つ手を換えて

ギャルソンのワンピースに空く虫食いに遠ざかりゆく春の後姿うしろで

陽炎のうごく路へと持ち出したトラクトにある教の字いびつ

単4の電池はずせば後方しりえうくヴォイスレコーダーは添水そうずのように

幻聴の顕ちては消える速さもて検索かける午睡のiPhone

 

 一首目、作業所からカボチャをもらって帰宅する道すがら、カボチャを持つ手をときどき換える。手の感覚がよく詠まれている。「重み」はなくてもよい。二首目のギャルソンはDCブランドのコムデギャルソンだろう。自分はもうこんなワンピースを着ることはないという寂しさが虫食い穴と逝く春で表現されている。三首目のトラクトとは、宗教や政治で訴えることを書いて配布するパンフレットのこと。「宗教」か「キリスト教」と印刷されている「教」の活字が歪んでいるのだ。四首目の「添水」は日本庭園によくある鹿威しのことで、辞書を引いて初めて知った。竹筒に水が溜まると重みで頭が下がり、元に戻るときに「カーン」と音のするものである。この歌ではボイスレコーダーの電池を外すと、まるで鹿威しのように尻が浮くことが詠まれている。よくこんな連想が働くと感心する。五首目の上句は喩なのだが、そこに使われているのが「幻聴」であることが特異である。目にも留まらぬ速さでネット検索しているのだろう。

 澤本は代読ボランティアをしている。そのことを詠んだのが次の歌である。

 

裡に読む音調いつかsyllableより山茶花になりきたる〈手のひら〉

 

 日本語のアクセントの問題で、少し解説が必要だろう。音の上がり下がりを↗と↘で表すと、標準語ではsyllableは「シ↘ラブル」で、山茶花は「さ↗ざ↘んか」となる。この歌ではもともとは「て↘のひら」と読んでいたのが、いつしか「て↗の↘ひら」と読むようになったと言っているのである。アクセントに迷った時に頼りになるのが『NHK日本語発音アクセント新辞典』(NHK出版、2016年)である。この辞典で「てのひら」を引くと、第一候補が「て↘のひら」で第二候補が「て↗の↘ひら」となっている。第一候補が最も推奨されるアクセントなのだが、第二アクセントで発音する人もいる。この細かい変化に自ら気づき、それを適格な言葉で表現していて注目した。

 何のために歌を詠んでいるのかよくわからない歌集もままある中で、歌を詠むことの切実さを強く感じられる歌集である。「文学は人を救う」と大きな声で言うことにはいささかのためらいもあるが、短歌が人を救うことがあるのはまちがいない。

 


 

第353回 水原紫苑『快楽』『天國泥棒』

美しきナイフ買ひたしページ切り天球のごときまなこ切るべし

水原紫苑『快楽』

 その昔、欧州では本は簡易製本の仮綴本で販売されていた。購入者は買った本を製本屋に出して、革表紙に金箔押しなど好みの装幀をする。仮綴本はページを裁断せずに売られていた。これをアンカット本、またはフランス装という。買った人が読む時に自分で切らなくてはならない。このために発達したのがペーバーナイフである。私が学生時代に買ったガリマール社の小説本はフランス装だった。それをナイフで切ると、大人の世界に足を踏み入れたような誇らしい気がしたものだ。今ではフランス装の本は売っていないので、ページを切るのは古書を買った時に限る。ちなみに2010年にDIC川村記念美術館で開催されたジョゼフ・コーネル展のカタログは、高橋睦郎の賛を収録したフランス装という凝った造本だった。私は千葉県の佐倉までこの展覧会を見に行きカタログも買ったのだが、もったいなくてまだページを切っていない。

 掲出歌の上句で詠われているのは、買った小説本のページを切るのに美しいナイフが買いたいということだ。一方、下句の「天球のごときまなこ」で私が思い浮かべたのは、幻想的な画風の画家オディロン・ルドンの「キュクロプス」と「エドガー・ポーへ」という作品だ。前者にはギリシア神話の一つ目の巨人が、後者には気球のように空に浮かぶ眼球が描かれている。ページを切ったナイフの返す刀で巨大な眼球を横に切り裂くという。これを喩と取れば、ページを切って小説の作品世界に参入するには、相手の眼球を切るほどの覚悟が必要だというほどの意味が浮上するが、水原の歌としてこれではあまりおもしろくない。水原の歌の魅力は、現実世界と思念の世界を強引に接続するところにある。だから下句はナイフからの連想でふと脳裏に浮かんだ思念と取っておく。

 『快楽』は2022年暮に上梓された水原の第十歌集である。標題は古語で「けらく」と読む。2020年から2022年までに詠んだ753首を収録した大部の歌集で、通読するのにものすごく時間がかかる。この歌集は第57回超空賞と第21回前川佐美雄賞をダブル受賞している。それから半年も経ないうちに『天國泥棒』が出版された。こちらはフランス堂のHPに1年間毎日連載された短歌日記をまとめたものである。標題の天国泥棒とは、それまでやりたい放題の人生を送った人が死ぬ間際に天国に行く事を願って受洗することを言うらしい。こちらには念願叶ってフランスに旅行した折の旅行詠が多く収録されている。今回は『快楽』と『天國泥棒』の二冊を続けて読んだのだが、歌の質の違いが感じられてなかなか興味深かった。

 『快楽』を読んで気の付いたことが三つほどある。ひとつはキリスト教への言及のある歌が多いということだ。歌集の表紙の写真がシテ島のサント・シャペルのステンドグラスなので、いやでもそのことを感じない訳にはいかない。

 

聖靈がをとめを犯す瞬間をいくたびも想ふ受洗戀ひつつ

もつれあひわれら入りゆくシャルトルの大聖堂へ靑き蝶たち

馬小屋のヨセフくれなゐの心臓を天に向けつつはたらきやまず

基督の妻なるマリー・マグダレナ髪ふりみだし聖母に向かふ

無原罪のマリアを生みしアンナその老いたる産道くらぐらとして

ふらんすの身軆に沁むカトリックふれなむとして黄なるてのひら

 

 かつて水原は能や歌舞伎などの日本の古典芸能に親炙していたが、現在は聖書を通じてキリスト教の世界に接近しているようだ。しかしその心理は一首目にあるように受洗を願いつつも、六首目のように東洋人である自分を自覚するという具合で、複雑に折り畳まれていることが感じられる。しかしながら信仰は魂の問題なので、これ以上触れないこととしよう。

 もうひとつ感じたのは、父母への感情の屈折である。父母を詠んだ歌も集中のそこここに散見される。

 

二・二六事件に心寄せたりしちちのみの父よ老いて天ちやんとよびき

ちちのみの父虐げし報いにやいのりの羅典語こゑとならずも

わたくしは三たび否みき 父の愛 母の愛 きみの愛 朝焼

母よりも白犬さくら愛せしよ犬のごとく死なむわれなりければ

ちちのみの父をなみせしわれは今ささがにの蜘蛛に蔑せられける

冥界ゆわが名を呼べる父のこゑいくさびとなる底昏きこゑ

 

 水原は先の大戦で父親が皇軍兵士だったことにわだかまりを抱いているようだ。しかし当時は徴兵制があり、該当する年齢の男子はみんな召集されたものだ。私の父も海軍に召集されて海防艦に乗っていた。第一歌集『ぴあんか』に、「母は北、父は南に生まれしが今宵の河のなどかげりゆく」のように父母を詠んだ歌はあるが、本歌集で詠まれた父母はより影が濃い。

 三つ目は今までの水原の歌にはあまり登場しなかった政治と時局の歌である。

 

昭和天皇いまだ裁かれずそのすゑを崇むる不條理、太陽のごと

改憲を許さじと思ふひるさがり毛蟲のたえなるフォルムに見入る

天皇制、自衛隊容認のリベラルを訝しむとき露草濡るる

戦争は海彼にあらず夾竹桃あかあかと咲く脳髄ゆ來る

そらみつ大和の僭主ティラン大和に死にてんげり あはれにあらずただあな、とのみ

裁かれて無惨の生を全うせよ それのみに希ひし延命のこと

國葬はくにを葬る秋ならばかへらざるべし血の蜻蛉島あきつしま

 

 憲法九条遵守と言いつつ天皇制と自衛隊を容認するリベラル政治勢力を痛烈に非難する歌が続く。「改憲を望まずさあれ第一条のみは認めがたしも象徴は言葉」と断じる歌もあり、水原の舌鋒は鋭い。特に驚いたのは五首目以下の安部元首相暗殺事件を詠んだ一連である。連作の題名は「僭主ティラン」という。内閣の史上最長不倒を達成し、首班を辞してからも党内に隠然たる勢力を保持していた安部元首相を古代ギリシアの僣主になぞらえたものである。

 しかし集中で最も多く詠まれているのは疑いなく愛犬さくらだ。

 

わが愛をうたがひにける白犬かさくらといふ名の罪を負はせし

白犬を喪ひしより飲食おんじきは華やぐ常に最後の晩餐

パリの橋そのいづれかに出會ふらむ亡き犬きよらなる物乞として

亡き犬の匂ひ残れるうつそみのあはれといふは雪月花のほか

亡き犬のクローンはつか夢見たるわれを罰せむ立枯れ紫陽花

亡き犬は高貴なる他者に在りにしを妻とよびたりゆるさるべしや

 

 旅立った白犬さくらに寄せる作者の愛情はひとかたならぬものであり、体に犬の幻臭を感じ、クローン技術によって犬をこの世に甦らせることを夢想すらしている。

 5月21日の朝日新聞の短歌時評で小島なおは、最も水原紫苑を感じる歌として「夏生みし虹の娘が瞬間の生にあらがふ脚のいとしさ」という歌を挙げている。今にも消えようとする夏の虹を詠んだ歌である。しかし私がいちばん水原らしいと感じるのは次のような歌だ。

 

バケツまた存在にして倒立のゆゑよし問へり師走廿日朝

 

 12月20日の朝、起きてみるとバケツが上下逆さまに置かれているのを見て、なぜ逆さまなのかと自問したという歌だ。バケツが天地逆になっているというような些末なことを存在論の謎としてかくも格調高く詠めるのは水原を措いて他にいないだろう。かと思えば「ふらんすにゆきたけれどもあかねさすふらんす文學はわれを救はず」のようにストレートな歌が時々混じっているのも楽しい。

 『天國泥棒』は短歌日記なので日々の暮らしが詠まれていて興味深い。「機中なるわれはわが家に遺言書テスタマン置きて來にけりねむらざる犬よ」という歌のある8月15日から水原はフランスに滞在していて、本書の後半はフランスの旅行詠となっている。

 

ノートルダム大聖堂は羞ぢらふその胸處むなどあたり男が登る

ルーヴルの硝子のピラミッドあやにくにかがやかずけりたれも入れぬ

 

 ノートルダム大聖堂は2019年4月に火災に遭い現在は修復工事中である。登る男は作業員だろう。ルーブル美術館の入口はイオ・ミン・ペイが設計したガラスのビラミッドだが、当日は休館日だったのだろう。今も変わっていなければ休館日は確か火曜日だった。本書は短歌日記なので、『快楽』に較べてわかりやすい歌が多い。とはいえ次のような水原らしい高踏的な歌も収録されている。

 

曼珠沙華な咲きそ咲きそ黑海にオウィディウスの泪流るる秋は

 

 『快楽』と『天國泥棒』の両方を読めば、水原の豊穣な短歌世界を満喫できること請け合いである。


 

第352回 小川楓子『ことり』

ドアノブの磨れてとほくに春の潮

       小川楓子『ことり』

  ドアノブの表面が磨れているのだから、素材はおそらく金属だろう。昔の洋館ではよく真鍮のドアノブが使われていた。無人の古いお屋敷を思い浮かべる。そこにはドアノブが磨れるほどの長い時間が流れたのだ。途中から景は一転して海の景色となる。春の大潮は3月初旬に訪れる。屋敷の窓から海が見えると取ってもいいが、ここでは洋館の一室に佇む視点人物が遠くの海に思いを馳せていると取っておく。そうすると薄暗い室内から春光溢れる海の景色へと場面が転換する。暗と明、静と動、室内と屋外の対比が感じられる。そして句の背後に何かの物語を想像したくなる。そのように読む人を誘う句ではなかろうか。

 小川楓子は1983年生まれ。「海程」に入会して金子兜太に師事する。後に山西雅子の「舞」に入会。『ことり』は2022年5月に刊行された第一句集である。版元は港の人。ハトロン紙でくるんであるが、版元の方針で帯はない。小川の俳句はすでに『超新撰』(邑書林、2010)、佐藤文香編著『天の川銀河発電所』(左右社、2017)で読んでいるが、まとまった句集として改めて読むとまた印象が少しちがう。

 通読して気づくのは季語に植物が多いことである。おそらく作者は植物が好きなのだろう。

沖まで来よスイートピーにむせながら

クロッカスになつてしまふよあなたから

あぢさゐの開きはじめの海光り

桔梗と切りつぱなしの風を待ち

皇帝ダリア雨降りさうで降らなさう

 一句目のスイートピーは晩春の季語。文久年間にすでに日本に渡来していたという。松田聖子の「赤いスイートピー」が有名だが、実はスイートピーに赤いものはないらしい。春らしい浮き浮きした気分の句で、この明るさが小川の身上だ。二句目のクロッカスも春の季語。ナルキッソスが水仙になるのはギリシア神話だが、この句ではクロッカスになるというのがおもしろい。近藤芳美に「クロッカス咲かむとしつつ黄のつぼみ光を包む如きこの夜半」という歌があるように、清新な印象を与える花である。三句目の紫陽花は夏の季語。紫陽花ほど短歌や俳句に詠まれた花はなかろう。山口優夢の「あじさゐはすべて残像ではないか」という句はよく知られている。四句目の桔梗は「きちこう」と読み秋の季語。この句には意味の転位がある。切りっぱなしなのは実は桔梗なのだが、それを風の方に付け換えたのがおもしろい。五句目のダリアは夏の季語。昔、ダリアはよく家の庭に植えられていたが、近ごろはあまり見かけない。ダリアと言えば「南浦和のダリアを仮のあはれとす」という攝津幸彦の句が頭に浮かぶ。この五句目のように会話体の話し言葉を交えるのも小川の得意技のようだ。会話体を使うと句の背後に人物と体温を感じさせる効果がある。

 季語は俳句の世界に入る回転ドアのようなもので、季語をくぐってこのように自由に連想を広げることができる。かつてフランスの文芸批評家ジュリア・クリステヴァは、テクスト同士が結び合う関係性を「間テクスト性」(intertextualité) と呼び一世を風靡したが、何のことはない、日本の韻文ではそれこそ古今集の昔から和歌は他の和歌との関係性に基づいて作られていて、読み手もそれを心得ていた。「間テクスト性」は日本の文芸の際だった特性なのである。

 小川の俳句の特徴のひとつに、まるで作者の息に合わせるかのように句が伸び縮みすることが挙げられる。集中のほとんどの句は五・七・五の定型なのだが、ときどき次のような句が混じる。

たれも想はず茶摘籠いつぱいに

胸のなかより雉を灯して来りけり

夏霧の馬車はかなしみを乗せない

わらへつて言ふから泣いちやへががんぼ

永日のきみが電車で泣くからきみが

 一句目は意味で区切ると七・五・五となる。二句目は七・七・五、三句目は句跨がりになっていて、意味で切ると五・八・四となる。四句目は五・八・四、五句目は五・七・七である。ずっと五・七・五の定型句が並んでいると、まるで自動運転の電車に乗って運ばれているような錯覚を覚えることがある。塚本邦雄が言った「オリーブ油にマカロニを流したような」状態である。しか途中に上のような句が混じっていると、読む人の定常的リズムが崩れて、舗道の敷石につまずいたようになる。そのリズムの崩れの中に、作者の息遣いと個の体温がふと感じられることがある。歌舞伎役者がよく言うように「型があっての型破り」であり、俳句でも定型あっての破調である。着物を着慣れた人は着崩すのがうまい。

 人気TV番組「プレバト」の俳句コーナーの師匠、毒舌先生こと夏井いつきがいつも言っているように、俳句には「詩の欠片」が必要である。俳人はどうやって詩の欠片を見つけ出すのだろうか。これに悩む人は多かろう。この問には三つの答が考えられる。一つ目は「詩の欠片は日常の暮らしの中にある」という答である。アスファルトの車道と歩道の間に在来種のタンポポが一輪花をつけている。朝まだき軒下に蜘蛛が掛けた巣の糸に朝露が光っている。日常の暮らしを見つめればそこに詩の欠片があるというわけだ。しかしものを見ても心が動かなければそこに詩の欠片はない。だから二つ目の答は「詩の欠片は私たちの心の中にある」というものだ。タンポポは外界という現実の世界にあるが、私たちが「あっ、タンポポが咲いている」と認識しなければタンポポというものはない。そこにあるのは単なる黄色のかたまりである。さらに進んで三つ目の答も考えられる。車道と歩道の隙間にけなげに咲いているタンポポを詩の欠片に昇華するためには、それを言葉にしなくてはならない。それも単なる言葉ではなく五・七・五の韻文に落とし込むのである。そのとき私たちが頼るのは、今までに覚えた言葉と、読んできた俳句という言葉の宇宙である。その広大無辺の言葉の宇宙の中を渉猟し、ぴたりと収まる言葉を探す。言葉と言葉が共鳴しあうことも、ぶつかって火花を散らすこともある。だから第三の答は「詩の欠片は言葉の中にある」ということになる。

 言い換えれば、一つ目の答は「現実」、二つ目の答は「現実の認知(認識)」、三つ目の答は「言語化」となる。この三つのプロセスのどれに重点を置くかで、句に向き合う姿勢に違いが生まれる。一つ目と二つ目は不要で、三つ目だけで十分だという向きもあろう。しかしいずれにしても詩の欠片が生まれるには、このプロセスを通ることが多いだろう。

開けられぬ雨の包みを木犀を

銀紙にみなふれてゆく冬帽子

わが産みし鯨と思ふまで青む

たふれたる樹は水のなか夏至近し

ありつたけの夏野菜はてしなくわたし

雨はまだゼラニウム散る駐車場

渡り鳥シーツに椅子の影落ちて

 特に気になった句を集めた。比較的わかりやすいのは五句目の「ありつたけの」や七句目の「渡り鳥」だろう。情景が想像しやすく、詩的飛躍が抑えられているので、日常的な意味との接続がまだできる。一方、一句目「開けられぬ」は言葉同士の距離が相当離れている。欠けているものを補って読むこともできるかもしれない。それは外からの物語の補填である。しかしこのまま読んで、語が喚起するイメージを摺り合わせるようにして読んでも十分に美しい。

 若葉風の時候の今、雨上がりの静かな庭で日曜日の昼下がりに読みたくなる句集である。