第371回 吉村実紀恵『バベル』

リヤドロの陶器人形たおやかに諫死しており書架のくらみに

吉村実紀恵『バベル』 

 リヤドロはスペインの高級陶器メーカー。この少し前に「われよりも永きいのちをヤフオクで落札したり陶器人形」、「陶製のうなじは潔し恋に恋せし少女期の忌として置かむ」という歌がある。ヤフーオークションでリヤドロの陶器人形を落札し、恋に恋した昔の自分への戒めとして自室の書架に置いているのだ。それなのにまた先の見えない恋をしてしまった。陶器人形の冷たい目を見ていると、まるで諫死しているかのようだと詠っている。諫死とは、死を覚悟して王や皇帝をいさめることを言う。それでいて人形の姿はたおやかである。何かを見つめる眼差しが自分に返ってくる自己省察の深さがあり、それなりの人生経験を積んだ人にしか持ち得ないものだろう。

 吉村実紀恵は1973年生まれ。大学生の時に同人誌「解放区」に参加して歌作を始め、1997年の第40回短歌研究新人賞において「ステージ」で次席に選ばれている。そのすぐ後に第一歌集『カウントダウン』(1998年)、第二歌集『異邦人』(2001年)と矢継ぎ早に歌集を上梓した後、短歌の世界を離れている。その経緯は本歌集のあとがきに率直に記されている。

 グローバルな世界で働いてみたいとの想いから自動車メーカーに転職し、10年の間ビジネスの最前線で活躍する。「海外出張に行くことになった日の夜、空港の煌めく滑走路と、離着陸する機体を眺めながら、ようやくここまで来たという達成感に浸っていました」という言葉が当時の高揚感を物語っている。40歳を迎え思うところあって短歌の世界に戻り、「中部短歌会」に所属。『バベル』は2024年に上梓された第三歌集で、栞文は東直子が寄せている。

 第三歌集とはいうものの、前の歌集から22年の時が流れており、結社も変わり歌風も大きく変化しているので、新たな出発の歌集と捉えた方がいいだろう。というのも第一歌集『カウントダウン』はロック音楽に傾倒していた荒ぶる青春像を描いた歌集で、とても同じ作者の歌とは思えないほどだからだ。

 本歌集を通読して私が感じたのは「言葉の強度」ということである。それは何も激しい言葉遣いをするということではない。ややもすれば平板になりがちな日常言語を詩の言語へと昇華する言葉の強さというほどの意味だ。だらっと横に広がりがちな日々の言葉を、一行の詩へと直立させるにはどうすればよいかということである。

 比較的作者の顔が見える第II章から見てみよう。この章には仕事にまつわる歌が多く収録されている。

ものづくり神話の終わりゆくさまを見届ける一兵卒なりわれは

ものつくる心は知らず颯爽と〈ガイシ〉に集う若きエリート

力みつつ在庫管理を説くわれは時おり胸の社章たしかむ

灯を消せばあかるむ一脚の椅子ありき 貴女もロスジェネを生きしともがら

氷河期もリーマンも耐えて現在いまあるとグラスに移して飲むレッドブル

 一首目は自社開発を諦めて他社製品を使うことを決めた会議での感慨である。かつて日本はものづくり大国と言われていたが、新興国に押されて昔日の面影はない。二首目の〈ガイシ〉は外資系企業で、その多くは金融やITでものづくりとは無縁だ。三首目は海外出張して現地法人の従業員にレクチャーしている場面。自分は会社の代表としてここにいるという責任感が滲む。作者は就職氷河期と言われた時代に大学を卒業したいわゆるロスト・ジェネレーション、略してロスジェネ世代にあたる。就職氷河期、バブル経済崩壊、リーマンショックと続く厳しい時代を生きた世代だ。それなりの自負もあるだろう。五首目のレッドブルは「翼をさずける」というキャッチコピーで知られる栄養ドリンクで、残業して働くサラリーマンの必需品である。自らの置かれた立場を外から冷静に眺める視線を持つ良い職業詠だが、特に吉村ならではの個性というものはない。

 栞文で東が取り上げている身体性を表す歌を見てみよう。

何をもて天与の性と和解せむ遂にいのちを産むことなくて

海とひとつづきとならむ抱擁に肌をさすらうあまたの水母

水底にしづもれるごと抱き合えり君を鎧えるものを剥がして

人間の味するらしと柘榴食む惰性で愛を交わしたあとに

鳥の羽ほどの重さでうえになる君の心音にふるえるほどの

 子を成さぬ女性であることへの想いを詠う一首目、抱擁された体の感覚を無数の水母に喩える二首目、愛を交わすことを水底に沈むようと詠う三首目、交情の後の懈怠を柘榴に喩える四首目、自らの身体を鳥の羽に喩える五首目。いずれも女性の身体性と大人のエロスを詩的な言葉で表現している。このような歌も東が言うように、歌人吉村の個性を表すものと言えるかもしれない。

 しかしより注目に値するのはもう少し観念性へと傾いた歌群で、そこには生と死の相克を巡る思念が貼り付いているように感じられる。

死者もろともに抱かれているのかもしれずそのまなざしの遙けさゆえに

手を取りてふたり迷えり終着はされこうべ吊されて鳴る森

しらほねをこの世に座礁した船と思えばかなし海に降る雪

そばにいてくれればいいと来世まで自殺を延期し続けるひと

あの世よりこの世に流れ込むごとしエンドロールに亡き人の名も

次の世もおんなでありたし生と死の境に赤い口紅を置く

 どこかに近松の情死の道行きの音が遠くに響いているような歌である。たとえば五首目、映画が終わるとキャストやスタッフの名前を延々と連ねたエンドロールが流れる。その中にはもうすでにこの世にいない人の名も含まれている。この世とあの世はそれほど隔絶した世界ではなく、その境界はふと跨ぎ越すものかもしれない。そんな「人間の条件」に冷徹な眼差しを注ぎ、六首目ではその境界に女性の象徴であるルージュを置くと決然と詠っている。

庇護の手をふりほどきわが見上げたる空の高みに雲雀うしなう

かなしみの核に柘榴を実らせて拾うほかなし神の布石を

執拗に果肉をつぶす先割れの匙にいびつな顔をひろげて

純血の馬馳せゆかむ空のはて少年院は取り壊されて

 日常言語を詩の言語へと昇華させる言葉の強度を特に感じるのは上に引いたような歌群である。具体的な出来事や情景が詠まれているのではない。しかし歌の背後に重大な体験や大きな感情の揺れがあったことが想像される。それらをそのまま言葉にするのではなく、抽象と思弁の水準へと転轍することによって、言葉による短歌の美を実現しているように感じられる。このような歌に特に吉村の個性を見たい。 

閉園のチャイムに押されて歩き出すゆうぐれの血をもてあましつつ

 動物園の閉園間際の光景である。作者が特に好む時間は夕暮で、好みの風景は残照らしい。歌集題名のバベルは猥雑な東京のことだろう。東京を詠んだ都市詠にもよい歌が多い。

欠番の第VI因子によるものか血を吹くほどのかなしみあるは

 人間の身体には出血を止める働きが備わっている。血液の凝固には全部で12の因子が知られているが、そのうち第VI因子は欠番となっている。つまり番号は振ったものの存在しないということだろう。だから第VI因子が欠番だから出血が止まらないということは実はない。しかしそう思えるほど身体から悲哀が噴き出すのである。

 本歌集の装幀はまさに鮮血のような深紅である。歌集のどのページを開いても血が滲むように感じられるのは、まさに言葉の強度によるものだろう。

 

第370回 鈴木美紀子『金魚を逃がす』

野の花を挿せばグラスの底よりも深く沈んでしまう一輪

鈴木美紀子『金魚を逃がす』
  野原に咲いている花を摘んで持ち帰り、グラスに挿してテーブルに置く。それはよくあることだろう。しかし挿した花がグラスの底よりも深く沈むというのは現実にはあり得ない。こういう歌を前にしたとき、解釈の道筋はいくつかある。ひとつは歌が非現実的な夢か幻想の世界、もしくは平行世界を描いていると読むやり方だ。その場合、描かれた情景は現実には存在せず、作中の〈私〉の夢か幻視の生み出したものか、そうでなくとも〈私〉のいる今・ここにはないものとなる。その場合、非現実的な情景の持つリアリティや生々しい手触りが歌のポイントとなるだろう。

 もうひとつの解釈は、描かれた情景は何かの短歌的喩だとする見方だ。「〜のごとき」という直喩によらず、歌全体が歌の外部にある何物かの喩として働く。その何物かは作中の〈私〉もしくは作者が感じている心情であることが多い。その理由は短歌が本来抒情詩だからだ。その道を選ぶと、歌が表しているのは作者が心に抱く「深く沈み込む想い」となるだろう。

 本歌集は『風のアンダースタディ (2017年)に続く第二歌集である。版元はコールサック社で、詩人の文月悠光が帯文を寄せている。歌集題名は「病室の花瓶の水を替えるとき金魚を逃がしてしまった気がして」から採られている。この歌ではそんな気がするだけで、本当に金魚を逃がしたわけではないのに、歌集題名では「逃がす」という断定形になっている。

 前作『風のアンダースタディ』では、誰かの代役として人生を生きているような感覚を軸として鈴木の歌を論じたが、本作ではそのような感覚は影を潜めている。それに代わって本歌集から感じられるのは、作者の「境界を超える感応力」である。それは次のような歌に顕れている。

快速に乗り換えて行く。もうすでに滅びてしまった星の時間を

傘の柄をそっと持ち替えあのひとの昨夜の肩を濡らしてみたい

ひったりと手錠の代わりに嵌められた腕時計にはいくつの歯車

柩には入れてはならないものばかりきらめかせてゆく生と思えり

残された時間が表示されるはず改札抜けるたびに 手のひら

 一首目、中央線だろうか。途中の駅で普通列車から快速列車に乗り換える。通勤するときに誰でもすることだ。そうすることで数分から十数分だけ乗車時間が短くなる。作者の想いはここから、数千光年の宇宙の彼方で赤色矮星となり寿命を終えた星に飛ぶ。その最後の光が地球に届いた時にはもう星は存在しない。私が快速電車に乗り換えることで得た十数分の時間と滅びた星の時間との途方もない対比がある。

 二首目、昨日の夜、恋人と思しき人とひとつの傘に入って歩いていたのだろう。私は隣にいる恋人が濡れないように、そちら寄りに傘を差し掛けている。そのために自分の肩は少し雨に濡れている。傘を右手から左手に持ち替えると、恋人の肩は濡れてしまう。〈私〉は時間を超えてどうしてもそうしたくなっているという歌だ。

 三首目、腕時計を手錠になぞらえているのだから、一応手錠は腕時計の喩である。手錠は犯人を拘束するための器具だ。では腕時計は何を拘束するかというと、〈私〉の時間を拘束する。〈私〉は腕時計の示す時刻にしたがって、これから出社せねばならず、会議に出席しなくてはならない。手錠は空間的に人を拘束するが、腕時計は時間的に拘束する。どちらも腕に嵌めるところが共通点として働いている。

 故人を火葬するときに、死出の旅路の供に杖や草鞋や、三途の川を渡るための硬貨の絵などを柩に入れることがある。その他に愛読していた本や好きだった菓子などを入れることもある。しかし、金属製の眼鏡やアクセサリーは入れてはいけないとされる。四首目は、ネックレスや指輪やブレスレットなど、柩に入れられないものばかりを光らせて〈私〉は現世を生きていると詠う。幽明の境のこちら側とあちら側との対比が鮮明だ。

 五首目は鉄道の改札の光景である。改札口にPASMOなどのプリペイドカードやスマホを触れると、引き落とし額と残額が一瞬表示される。この歌は残額の表示と同じように、私に残された生の時間が手のひらに表示されるという空想を詠んだものだ。毎日出勤のために電車に乗車するたびにPASMOの残額は減ってゆく。それは目に見える。しかし毎日出勤するごとに私の生の残り時間が減ってゆくことは目には見えない。この歌は私たちの生の真実を可視化しているのだ。

 上に引いた歌に現れる「快速」「星」「手錠」「柩」などのアイテムは、歌の中で効果的に働いてはいるが、通常の意味での喩とは少しちがう。五首目では喩たるべきプリペイドカードは詠まれてすらいない。たとえば一首目では、歌の中の〈私〉が快速に乗り換える世界と星が死滅する世界とが互いに両立しながら、天文学的な空間的・時間的距離を越えて接続されているように感じられる。他の歌では接続されるのは、今日と昨日、空間と時間、生と死、プリペイドカードの残額と残りの生だ。そしてこれらすべてから炙り出されるように浮かび上がるのは、「生の一回性」という主題だろう。 

どうしてもわたしの指のとどかない背中の留め金 夜空にひかる

珈琲のペーパーフィルターひらかせて遠い星砂あふれさせてる

濃くしてと頼めば百円増しになるレモンサワーのようなくちづけ

鬼百合のはなびらほろりと散るあわいあなたの舌の薄さを惜しむ

蘇生措置しているみたいに胸元を押し洗いするモヘアのセーター

 「境界を超える」とまでは行かなくても、鈴木の短歌では喩が大きな役割を果たしている。一首目の背中の留め金は手の届かない理想の喩だろう。二首目はドリップコーヒーを淹れている場面で、「遠い星砂」が注がれた熱湯に盛り上がるコーヒー粉の喩となっている。三首目では結句の「くちづけ」以外のすべてが喩で、一種の序詞のように働いている。四首目は鬼百合の花びらが恋人の舌の喩という珍しい例だ。五首目は直喩で、押し洗いを心臓マッサージに喩えており、ここにも生のあちこちに見え隠れする死が顔を覗かせている。

 歌と実人生の距離が近い「人生派」歌人の場合、歌集に収録された歌を順番に読んでゆくと、職場の情景や恋人との出会いや失恋などが詠まれていて、作者の暮らしと人となりが何となくわかることが多い。しかし上に引いた歌を見てもわかるように、鈴木の歌にはそういう意味での私生活がほとんど詠まれていない。地名などの固有名もまったく見当たらない。その意味で鈴木は「人生派」ではないのだが、かといって「コトバ派」かというとそう呼ぶのはためらわれる。コトバ派の歌人は、言葉の組み合わせが生み出す美を追究するものだが、鈴木の歌にそのような指向は見られない。どちらでもない第三のジャンルに名前を付けなくてはならないようで、それを仮に「生の真実派」と呼んでおく。 

前世のあなたの骨かもしれなくて時間を旅した宇宙塵ふる

〈検針済〉の小さな紙片が遺書のよう新品の綿のシーツの白さに

骨よりも白い真昼の月だからオニオンスライス真水にさらす

会話なき夕べのテーブル間引かれた水菜の蒼をしゃきしゃきと食む

みずうみで溺れてしまう夕ぐれに取り込むリネンのシーツがつめたい

 どの歌にもその背景に見え隠れしてかすかに死のイメージが揺曳している。一首目の「骨」、二首目の「遺書」、三首目も「骨」、四首目の「間引かれた水菜」、五首目の「溺れてしまう」がそうだ。二首目の〈検針済〉は、売り場に並べられた蒲団に縫い針を挿すという犯罪が起きたため、検査済で安全であることを示すラベルである。ここには日常に潜む悪意も感じられる。

 鈴木は「未来」に所属して加藤治郎の選を受けており、穂村弘の「短歌ください」にも投稿している。 

酒、みりん、醤油のようにわたしたち1:1:1の三角関係

         穂村弘『短歌ください その二』(KADOKAWA)

5歳までピアノを習っていましたとあなたの指に打ち明けるゆび

 この歌の頃はまだ鈴木の個性は顕れていないが、本歌集に収録されている歌は加藤治郎や穂村弘などの選を受けるポスト・ニューウェーヴ世代の歌のテイストとかなりちがう。「生の一回性」をめぐる「生の真実」を詠う作風は、世代を飛び越えてたとえば小池光の次のような歌に連なるようにも思われる。 

夏至の日の夕餉をはりぬ魚の血にほのか汚るる皿をのこして

                     『廃駅』

春ほそきあめくだる園の水のうへ自然死を待つ白鳥うかぶ

ひつそりと生馬のやうな夕闇がゐたりポストのうしろ覗けば 

 『金魚を逃がす』に収録された歌にはたくさん付箋が付いた。そのうちからいくつか引いておこう。 

押しあてた胸は互いにやさしくて打ち上げ花火の遠い残響

むね肉に刃をそわせひらきゆく わたしのなかの驟雨が匂う

遅刻してスクリーンの前を横切った見知らぬ誰かの影こそ主役

アスファルト「止まれ」の文字は消えかけてペトリコールを香らせていた

括られるよろこびの果て花束をばらせば香るオープンマリッジ

 三首目には第一歌集『風のアンダースタディ』によく見られた、私は誰かの代役を生きているという感覚がまた見える。プラトンによれば、私たちはイデアの影にすぎないので、そのように感じるのには理由があるかもしれない。四首目のペトリコールとは、雨が降り出した時に匂う香りのこと。雨の降り出し時には特有の匂いがすることは感じていたが、名前が付いているとは知らなかった。五首目のオープンマリッジとは、配偶者以外の人との性的関係を許容する結婚の形態のこと。「括られるよろこび」とは結婚を指し、「花束をばらせば」とはオープンマリッジの自由な関係か、その果てに訪れる離婚を指しているのだろう。上句と下句の連接が巧みだ。どの歌にも詠まれている情景と呼応する世界があり、それが鈴木の短歌の大きな魅力となっている。

 小池光は確かどこかで「歌人には第二歌集こそ大事」と発言していた。その意味で本歌集は鈴木の歌人としての充実を示すものとなっている。

 

第369回 中井スピカ『ネクタリン』

二塁手になるはずだったマスターがシェーカーを振る腕の残像

中井スピカ『ネクタリン』

 おもしろい歌だ。シェーカーを振っているのはバーのマスターだろう。白いワイシャツに黒いベストに蝶ネクタイあたりが定番の服装だ。高校野球の選手で甲子園にまで行き、将来はプロの野球選手をめざしていたが、怪我でもしたのか願いは叶わず、今はバーのマスターをしている。しかしシェーカーを振る目にも留まらぬ腕の動きに、かつての球児の片鱗が残っているという歌である。「残像」は修辞の誇張法だが、球児の姿とマスターの姿が二重写しになる効果も認められる。歌の背後に人生のドラマがある。

 中井スピカは1975年生まれの歌人で、「塔」所属。2022年の第33回歌壇賞を「空であって窓辺」で受賞している。『ネクタリン』は受賞作を含む第一歌集。東直子、江戸雪、山下洋が栞文を寄せている。

グリーンとだけ呼ばれてる受付のグリーン三つに水を与える

北浜のビル群滲む川面にはブラックバスの背がひるがえる

退職希望慰留失敗8ポイントぐらいのフォントで隅に小さく

なかもずと千里中央往復し海溝のごとき睡眠をとる

もうあいつ辞めさせろという声響く向かいで書類の端を合わせる

 歌集の冒頭近くから引いた職場詠である。「塔」は遠くアララギの系譜に連なる結社なので、あまり〈コトバ派〉の歌人はおらず〈人生派〉が大半を占めている。中井もその一人で歌は人生にかなり近い。

 中井の文体は多少の文語(古語)が混じるものの、大部分は口語(現代文章語)である。口語で短歌を作る際の問題点は二つあって、一つは文末処理、もう一つは助詞だ。ランダムに選んだつもりだが、気づいてみれば上の五首中四首が動詞の終止形で終わっている。

 横道に逸れるが、終止形であって現在形ではない。日本語にはフランス語のような現在形がない。フランス語では (1) の現在形は習慣的現在も、今の現在も表す。

 (1) Pierre prend une douche. ピエールはシャワーを浴びる/ 浴びている。

英語では、状態動詞の現在形は今の現在を表すが、運動動詞の現在形は習慣的現在しか表せない。

 (2) Peter is sick. ビーターは病気だ。(状態動詞)

 (3) Peter takes a shower (every morning). 

   ピーターは(毎朝)シャワーを浴びる。(運動動詞)

 今現在を表すには進行形にしなくてはならない。

 (4) Peter is taking a shower.  ピーターはシャワーを浴びている。

 日本語は感覚動詞 (5) 、思考動詞 (6) 、自発のレル・ラレル (7)や、状態動詞 (8)の終止形は今の現在を表す。

 (5) 肩が痛い。

 (6) 私もそう思う。

 (7) 春の訪れが感じられる。

 (8) 机の上に猫がいる。

 しかし動詞の大部分を占める運動動詞の終止形は、これから起きることを表し、本当の現在を表すことができない。

 (9) 太郎は東京に行く。

 このため上に引いた歌の一首目「水を与える」は、これから与えるという未来の出来事か、いつも与えることにしているという習慣的現在の意味になり、今起きていることという出来事感が薄い。

 そう思って集中を探してみると、文語の助動詞を使った歌がいくつかある。

台風の逸れたあしたにユトリロの巡回展は幕を開けたり

歩道橋から見下ろせば誰も誰も虚ろな制服揺らしておりぬ

中庭を覗けば客は入れ代わり同じラム肉焼いて食いおり

 一首目は完了の助動詞「たり」、二首目も完了の「ぬ」を使って、過去・完了を表している。また三首目は補助動詞「おり」を使って動作が進行中であることを表している。どうやら中井は出来事が過去や完了の場合、意識的に文語の助動詞を使っているようだ。口語ではしにくいことを感じているのだろう。

 口語の二つ目の問題は助詞である。文語は漢文脈の影響もあって、助詞を使わないことがよくある。特に主題の「は」、主格の「が」はあまり使わない。

 昔、男ありけり。

 綸言汗のごとし。

 文語が基本の俳句も同様である。

靑嵐過ぎてなんだか小さき家  野口る理

帯解いて五体崩るる鰯雲  山田露結

 これとは逆に口語では助詞を省くといかにも省いた感が強くなる。上の四首目「なかもずと千里中央往復し海溝のごとき睡眠をとる」では、「なかもずと千里中央[を]往復し」が本来であり、音数合わせとわかる。「ごとき」という文語を使っているのでなおさらだ。やはり口語短歌の問題は助詞と助動詞に集約されるようだ。

 長くなったが中井の短歌に戻る。さきほど引いたのは職場詠だが、それに限らず中井の歌の素材は、日々の暮らしでふと感じる違和感や居心地の悪さが中心である。

代わりなら幾らでもいて赤々と脚入れかえてゆくフラミンゴ

陰口を拒めないままテーブルのアクアパッツァが冷めきっている

石膏のピエタみたいに湯に浸かる婚活っていう略語の致死量

イランイラン部屋に香らせ閉じこもる世界と折り合えない秋の縁

がむしゃらに自分が嫌い五十枚一気につらぬく穴あけパンチ

 一首目、自分の仕事の代わりならいくらでもいるという淋しさが、左右の立ち脚を交互に入れ替えるフラミンゴに投影されている。二首目は女友達とのランチの風景だろう。友達が誰かの陰口をきいていて、無視することもできないのでいやいや付き合っている。三首目、ピエタは死んだキリストを膝に抱く聖母マリアの悲嘆の図である。そんなピエタに喩えるくらいだから、作中の〈私〉は婚活に相当疲れているのだろう。四首目のイランイランはタガログ語で「花の中の花」という意味だそうだ。強い香りを持つ。その香りを漂わせた部屋に閉じこもるほどの出来事があったのだろう。五首目のような威勢の良い歌もある。穴あけパンチで五十枚の紙に穴を空けるのは相当な力がいる。

 集中で目を引くのは母との関係を詠んだ歌である。

胃に肺に土足で踏み込む母がいてそこにマティスの絵などを飾る

別々の準急に乗っているようにパラレルのまま母さん、またね

スプーンをすぐにスプーンとわからない母が自分を置き忘れそう

IHの薄さばかりを繰り返す母に教える湯の沸かし方

母はもうお金を認識できなくてエッジの効いた自由を暮らす

 近ごろは「毒親」とか「毒母」という言葉もあるようだが、作者と母親との関係はなかなか微妙なようだ。親は最も近い肉親であるだけに、距離の取り方が難しいこともある。親子だからといって、性格が合うとは限らない。しかし病を得て認知症の症状が出た母を見る眼差しは、それまでとは少し異なるようにも感じられる。金銭の観念を失った母親を「エッジの効いた自由」と表現するのも新しい。

 歌集後半で作者はパートナーとなる人と出会い、やがて一緒に暮らすようになり結婚する。

唇の色もそれぞれ違うこと君に言いつつコーラル選ぶ

ふたりでもふたりの孤独 たまご二個スジとちくわは一つと頼む

イの音で始まり終わる君の名を呼べば形は笑う口もの

帰る場所をなくしてふたり顔を寄せ洗濯機の配置を話し合う

七回がダブルプレーで終わるころ婚姻届の判子が乾く

 おでんの注文や洗濯機の配置などに生活感が漂う。「ああやっと親の戸籍を去ってゆく私に夏の逆光よあれ」という歌に作者の実感が溢れている。

なめされて表紙となったヤギ達が最後に鳴いた夏のくさはら

天辺へゆけば鳥にも届くだろう時を刻んで鳴るハイハット

遺伝子が引き継がれずに消えるとき遙か砂地でウミガメ孵る

少年と呼ばれてみたい夏の日の膝のかさぶたまためくっては

秋の花ひとつピアノに閉じこめてそれからずっと雨の木曜

逞しきグラファイトその翼持ちカラスが天にとても近い日

 付箋の付いた歌を引いた。こう並べてみて気が付いたが、どうやら私は眼前の現実そのものよりも、それを起点として遠くに想いを飛ばす歌が好きなようだ。歌の中に時間的あるいは空間的な広がりがあり、私たちが生きるこの世界の広さが感じられるからだろう。それは私の個人的な好みである。本歌集には現実にぶつかり、現実にぶつけるタイプの歌が多いが、それもまた作者の好みである。

 


 

第368回 正岡豊『白い箱』

あの夏の拾い損ねたおはじきがためてるはずの葉擦れのひかり

正岡豊『白い箱』

 なんと30年振りの歌集だという。正岡の第一歌集『四月の魚』は1990年にまろうど社から刊行された。要望に応えて10年後に再刊されたものの、まもなく入手困難な幻の歌集となった。荻原裕幸の尽力により、『短歌ヴァーサス』6号 (2004年) に誌上歌集という珍しい形で再び世に出た。これがもう20年前のことである。続いて2020年に書肆侃侃房から現代短歌クラシックスの一巻として刊行され、ようやく多くの人の目に触れることとなった。数奇な運命を辿った歌集といえる。

 『四月の魚』の後記には、1979年ごろから作歌をはじめ、1989年に歌をやめるまでの十年間の作品を収めたとある。正岡は1962年生まれなので、17歳から歌を作り始め27歳で歌の別れをしたことになる。

 同じ後記に、歌集刊行と前後して安井浩司の句集『中止観』を読んでショックを受けたとある。その後、正岡は俳句の道に進んだようで、1992年に桐野利秋名義で第五回俳句空間新人賞を受賞している。そんな縁からか、歌集『白い箱』には俳人の高山れおなが帯文を寄せている。高山にとって正岡はまずもって、「沼になる寸前をきみにみられてしまう」、「鷹としてふいにけむりをさけるかな」の作者だという。『四月の魚』の中の連作題名の「その朝も虹とハモンド・オルガンで」も俳句になっている。『燿』という句集も出しているらしい。

 ちなみに安井浩司の『中止観』とは次のような句がある句集である。

山河の父よりかえる蟲の寺

夕空に稚児のまなこの無数かな

朱膳喰うはるかはるかな敗荷やぶれはす

 さて本題の『白い箱』である。30年振りに歌集を刊行することになった経緯は書かれていないが、いったんは短歌から離れたものの、その後作歌を再開して「かばん」に所属していた時期もあったようだ。版元は現代短歌社で装幀は花山周子。「白い箱」というタイトルはなかなか意味深長だ。私は現代芸術のミニマル・アートを思い浮かべた。歌集や短歌に過剰な意味付けを避けようとする態度が見て取れる。

音のない世界はなくてひとびとにしろがねのハモニカの午後の陽

鹿はもう撃たれて猪は食われ山小屋のけむりのうすみどり

みたこともないのにぼくの心臓のいろのゆうべの天の橋立

そこからは空の匂いや味がして黙って両足は水を掻いて

北斗七星 六つまで見つけられたのにそこまでで失明したような日々

 歌集冒頭付近から引いた。第一歌集『四月の魚』と基本的には連続する文体で、1990年当時このような文体で短歌を作るのは今から思えばとても先進的な試みだったように思われる。一首目では下句が「しろがねのハモ / ニカのごごのひ」と句割れになっていて、正岡が前衛短歌の遺産の継承者であることを示している。二首目も同様で「やまごやのけむ / りのうすみどり」が句割れだ。また五首目の初句は七音になっていて、下句は破調である。1990年というと、穂村弘の『シンジケート』が上梓され、ライトヴァースが話題になった頃だ。翌1991年には加藤治郎の『マイ・ロマンサー』が刊行され、荻原裕幸が新聞紙上に「現代短歌のニューウェーヴ」という文章を発表している。ニューウェーヴ短歌は、修辞の復権と記号短歌とバブル経済を背景とする明るさや洒脱さが特徴だが、正岡の短歌の文体はそれとはちがっていて、独自の道を開拓しているように見える。

 正岡はあとがきに次のように記している。短歌の世界では「韻律」や「定型」という概念が共有されているが、1980年前後から1990年あたりまで漠然と感じていたそれらの定義のようなものが何か別のものになったという感覚がある、と。近代短歌の基盤である韻律や定型という概念が溶けだしたことを肌で感じていたということだろう。

おぼえていねから生きていけたりするわけじゃないわ 木肌を這う残り蝉

たとえば火星が木星に恋をしたのなら いきなり泳ぎだすオウム貝

書くことがついに昨日の三日月に届く クジラがはねる海原

わたしはあなたと別につながりたくはない 弁当箱につめる白飯

ありがとうやさしい気持ちにしてくれて たて続けに割る三枚の皿

 読んでいて俳句との親和性を感じるのは上に引いたような歌だ。いずれも上句で意味の取れることを詠んでおき、下句でポーンと遠くへ飛ばす。上句は〈私〉の想いで下句は叙景となってはいるものの、両者に関連性はない。その意味の遠さの中に詩のタネを探しているものと思われる。

 俳句ではこのように言葉を遠くに飛ばすことがある。沖積舎版の『攝津幸彦全句集』から引いてみよう。

夏山のどの抽斗も位牌なり

喪の家の階段すべるヴァイオリン

春深し稀ににはとり死者に肖て

 こういう句を読んだときに私たちの脳内では何が起きているのだろうか。脳細胞のシナプスはカリウムチャンネルを使って電気信号を流す。何度も信号が流れたシナプスは電気信号が流れやすくなる。それは私たちの迅速な認知と記憶の強化につながる。「お盆のような月」や「雪のように白い肌」のような言葉の組み合わせは、陳腐で何度も見聞きしているせいで、脳内ですばやく理解され処理される。ところが「喪の家の階段」と「ヴァイオリン」の組み合わせは新奇なため、今まで流れたことがないシナプス回路に電気信号が流れる。その処理の結果は、慣れ親しんだ既存の意味のストックに回収されず、異物として留まる。それは私たちが日常抱いている世界像をごく僅かに揺らす。意外な言葉の組み合わせは、使ったことのないニューロンを発火させ、世界像を更新するのである。

 上に引いた正岡の歌はすべて体言止めであることにも留意しよう。見かけ上は上句の〈私〉の想いを下句の叙景が受け止める形式になっているものの、両者の間には大きな断絶がある。まるで下句は単独で俳句として歩き出そうとするかのようだ。

 『白い箱』はまた愛の歌集でもある。正岡はあとがきでパートナーの入交佐妃に対する愛情と感謝の念を述べ、この歌集のいくつかの歌は佐妃との波のような月の満ち欠けのような日々の暮らしから生まれたと続けている。それはおそらく次のような歌を指すのだろう。

きみよりの言葉の雨か はつなつの木の花はみずみずしくひらき

いちはつの根で煮たタオルわたされる夏のひかりのようなくらしを

まるまったアサギマダラの幼虫よ 年ごとに増える二人の食器

伊吹山 重装備の登山の人とすれ違うコンビニにでも行くような妻

萩はすなわちかぜききぐさよほうき星みたいに自転車で妻がゆく

 イチハツの根は鳶尾根といい、漢方薬として使われる。五首目の「風聞草」は萩の古名。

 さて、正岡はこのような短歌を通じて何をなそうとしているのだろうか。再びあとがきを見ると、「それでもまだ『短歌』から自分が離れずにいるのは、結局『言葉では書けないものを言葉で書く』というところに、ひたすら執着しているからだと思う。何かわからないものがそこにある、という、その感覚。または直感。」と書かれている。つまりは、正岡にとって短歌とは、世界に満ちる静かな響きに感応する魂たらんとすることなのだろう。次のような歌にそれを強く感じるのである。 

六月の森の交響楽曲の一音として落ちるヤマモモ

山海にこの姿では通れないかがやく蝶の道あるという

四季咲きのベランダのその黄薔薇にはカメラにはうつらない光が

虹の口語 詩のリアス式海岸の波打ち際でわたす あなたに

 最後に特に心に残った歌を挙げておく。

ぼくらが明日海に出たとしても王宮の喫茶室では黒い紅茶が

ミツバチはささやいたりはしないから鎖骨の海で泳がす人魚

巨人ノ月ハ沈没船ノ丸窓ヲテラセリソノ奥ノ映写技師

月はわが街の記憶のうたかたの細部を照らしうちしずみゆく

雪渓はいまここにこの花もなき桜の下のわれののみどに

こころとは見えぬ虚空の水仙の夏の没日に逃げ惑う蝶

天道を牛車牽かれてゆく夏のわれらのまぶたのうちなるみどり

敦盛草の鈍き朱色を六月の雨はうてどもうてども静か

 

 

第367回 源陽子『百花蜜のかげりに』

庭から呼ぶ生きものの声あるような苔盛りあがる美しい冬

源陽子『百花蜜のかげりに』

 居間のテーブルの上に置かれたフルーツバスケットに一顆の洋梨がある。果皮が緑色のラ・フランスではなく、茶色のジェネラル・ルクレールだ。ルクレール将軍は、ナチス・ドイツに占領されていたバリに連合軍とともに入城し、パリを解放した英雄で、パリの通りにその名を残している。縄文土偶のように腰の張った洋梨は、夕光に照らされて輝く。内部には芳醇な果汁が満ちているが、それは時間が生み出したものだ。梅雨の雨、夏の日照り、秋の台風を経験し、樹上でゆっくりと熟す以外にそれを生み出すものはない。源の歌集を読んでそんなことを感じた。

 源陽子は1955年生まれ。「未来」で近藤芳美や岡井隆に師事したとプロフィールに書かれているので、近代短歌のまさに本流にいたことになる。これまでに四冊の歌集がある他、歌誌『鱧と水仙』の創刊にも参加している。余談ながら従前より不思議に思っていたのだが、なぜ歌誌には『柊と南天』とか『羽根と根』のように、『○○と××』という題名が多いのかしらん。

 さて、源の歌集のタイトルに注目しよう。百花蜜という単語は『広辞苑』には立項されていないが、レンゲ蜜やアカシア蜜のように単一の花から採られた蜂蜜ではなく、蜂がいろいろな花から集めた蜜を言う。集中の「百花蜜の褐色やまた琥珀色あつまる蜜の一様ならず」という歌からわかるように、人間もまた様々に異なっているのが自然であるとする考え方が根底にある。今風に言えば「多様性」(diversity)である。

 佐伯裕子が栞文を寄稿しているが、佐伯は源の「未来」入会時からの知り合いらしい。そして集中の次のような歌が懐かしいと書いている。

ブラウスのウェストをさらう腕に似た風に巻かれぬ春の路上に

暮れきらぬ光の粒が樹のうえに押し上げられて溺れゆきたり

 佐伯は源の歌風を「光線をまとう色香」と表現し、二首目のように自然の情景を人間界に引っ張ってきて、最後にエロスを醸しだすのが初期の頃からの源の歌の特色だと続けている。一首目では春の突風をウェストを抱きとめる男性の腕に喩えている。男性は歌の〈私〉をさらってどこかに連れて行こうとしているのだ。二首目は陽が傾くにつれて陽の当たる場所が少しずつ樹の上方へ移る様を詠んでおり、結句の擬人化は光が樹を離れて空へと溶け込む様子を描いているのだろう。どちらにも人と自然との距離感の表現に、情に傾くよりも知的処理が施されているように思える。佐伯のように源の歌に色香やエロスを感じる人もいるかもしれないが、私はどちらかと言えば知的な処理を感じるのである。

てのひらに天の気、地の気うけて立つ庭の真下は中央構造線

全身に心臓を打つ青蛙濡れたヤツデの葉の奥におり

今日われは庭師脚立踏みしめて一段ごとにアリアは澄めり

こまごまと果樹の手入れの道具箱兄の軒下整然として

夜の空へ発つ観覧車秋ぐちの地上の暑き空気も詰めて

 一首目にあるように源は和歌山県に暮らしている。中央構造線は紀ノ川を作り、海を隔てて徳島県の吉野川まで伸びている。自然の豊かな環境なのだろう。二首目は庭の青蛙を詠み、三首目では庭師となって庭の手入れをしている。お兄さんは果樹栽培をしているようだ。根っからの都市生活者である穂村弘は、短歌の背景にある現代社会を「酸欠世界」と呼び、吉川宏志や小島ゆかりは一人用の高性能酸素ボンベを背負っているようだと書いた。(『短歌の友人』、p. 104)同時に穂村はかつて世界に酸素が溢れていた時代には特別の工夫は要らなかったが、酸欠世界の現代では歌をリアル・モードに切り替えるための構文の工夫が要るとも述べている。

 では源のように自然豊かな土地に暮らしていると格別の工夫は必要ないかといえば、当然ながらそんなことはない。人間と自然(リアル)との関係性を組み立てて歌に仕立てるにはやはり工夫は要るのである。例えば二首目では、「青蛙濡れたヤツデの葉の奥におり」は客観描写だが、上句の「全身に心臓を打つ」はそうではない。心臓の脈動で蛙の皮膚が波打つ様を、助詞の「に」と「を」をやや破格な使い方をしてうまく表現し、私はそう感じたと言っているのだ。三首目では、「今日われは庭師脚立踏みしめて」が場面の描写で、「一段ごとにアリアは澄めり」が主情の表現である。オペラのアリアを歌いながら脚立を登るにつれて、自分の歌声が遙か遠くにまで響くのだ。五首目の工夫は「発つ」の漢字を選ぶことで、あたかも観覧車が飛行機のように夜空に舞い上がるような幻視を一瞬生み出した点にある。

 集中には栃木県で一人暮らす老いた母親を詠んだ歌も多い。

チラシ広告の裏面のしろき宇宙ため母に八十一歳の夏

舞う写真、賞賛の額を住む壁にめぐらせひとり母の老年

ありがとうと電話をすぐに切りたがり母の草地が喰われゆくらし

もう舞わぬ床に洋梨ならべられ黄熟を待つ時間が青し

寂しさがつくりし顔にココガイイここが安心と言わしめ我ら

 遠方に暮らす親の介護は多くの人が抱える悩みである。。源の母親は舞踊の師匠をしていたらしく、おそらく気丈な女性なのだろう。故郷を離れることを嫌がり一人暮らしをしていたのだが、五首目にあるように、それもかなわなくなり老人施設に入所する。しかし子供としては親を施設に託すことに後ろめたい気持ちを感じてしまうのである。これも多くの人が経験することだ。このような歌は意味(内容)が勝っているため、形式の工夫は前面には出ない。

 一方、私が作者の個性を感じるのは次のような歌である。

瓦斯ボンベ換えんと高く声をあげ青年後期の人らし音す

踏切の保線工事の三人のひとりが若く立ち上がりおり

朝の陽にけばすなわち陰となる背に連なりてあじさいが咲く

搬送をおえたる帰路の救急車ゆるやかに昼の坂をくだれり

にわか雨過ぎてもどりし蝉声に砂の上の地図もう乾きゆく

 いずれも主情を押さえた叙景歌である。一首目、都市ガスが来ていないので、プロパンガスを使っているのだろう。業者がガスボンベの交換に近所を訪れている。この歌のポイントは「青年後期」である。姿は見えないが声の調子から判断して、それほど若くはないが中年でもない。そのような年齢を「青年後期」とまで細かく限定することはふつうしない。そこに独自の物の見方がある。二首目も同様で、三人の工夫が保線工事をしているという日常的情景を詠んでいるのだが、三人のうち一人だけが若いことに着目している。保線工事の情景を歌に詠むという発想がすでに独自だが、一人だけ若いと描くことでリアルが立ち上がる。ぐっと解像度が増すのである。三首目は「大阪北新地」と題された一連の中の歌で、都市の裏路地の光景を詠んでいる。ここでは路地の片側だけに紫陽花が咲いていることに着目しているのだ。四首目は、救急搬送を終えた救急車が病院から帰路に就く様を歌にしたもの。救急搬送は一刻を争うのでサイレンを鳴らしスピードを上げて走るが、帰りはゆっくり走る。「ゆるやかに昼の坂を」という語句がそれをよく表している。五首目の季節は夏。蝉の鳴き声がにわか雨で一時止む。そして雨があがるとまた勢いよく鳴き始める。それと同時に砂を濡らしていた雨水は乾き始める。ポイントは「もう」だろう。客観描写のこの歌の中で唯一作者が顔を覗かせているのは「もう」である。そこには「思ったよりも早く」という発見がある。五首の歌が示しているのは、源が独自の観察眼で現実を捉えて、それを適切な措辞を用いて歌に組み立てることで、〈私〉とリアルの関係性を構築しているということである。

 帯に刷られた自選五首に次の歌がある。

帰りたい場所なくいずれ清流の時間の岸辺だけがあざやか

 集中ではその隣に次の歌が置かれている。

ひとはみな小さな炎を手に囲みはるかに組まれし粗朶までをゆく

 流れゆく時間の豊かさを深く感じさせる歌集である。

 

第366回 川﨑あんな『triste』

透き至るものの綺麗さはなちつゝ立つ空き瓶のゆふぐれは あき

川﨑あんな『triste』

 川﨑あんなには、『あのにむ』(2007年)、『さらしなふみ』(2010年)、『エーテル』(2012年)、『あんなろいど』(2013年)、『ぴくにっく』(2015年)、『EXIT』(2017年)の六冊の歌集があるので、2023年に左右社から刊行された本歌集は第七歌集ということになる。二〜三年ごとに歌集を出版しており、スランプなどとは無縁の健筆ぶりである。前の歌集と同じく本歌集にもあとがきやプロフィールはなく、〈私〉の消去は徹底している。実は川﨑は歌人であると同時に彫刻家でもあり、『KAWASAKI Anna作品集』(美術出版社、2011年)でその作品を見ることができる。

 歌集題名のtristeはフランス語で「悲しい、侘しい」の意味。今までの歌集と異なる点は、一葉の写真が添えられていることである。地下室のような場所でガウンを纏った人形の白黒写真で、クレジットにはHans Bellmer, La Poupée, 1938とある。ハンス・ベルメールはドイツの美術家・写真家・人形作家で、等身大の関節人形を作ったことで知られている。

 このコラムで川﨑の歌集を論じるのは『エーテル』と『あんなろいど』に続き三度目になる。最初は作者についての情報がなく、川﨑の短歌に触れた文章も吉川宏志の青磁社のブログくらいしかなかった。しかし瀬戸夏子『はつなつみずうみ分光器』(左右社、2021年)でついに『あのにむ』が取り上げられた。こうして川﨑の短歌が多くの人に知られるのは喜ばしいことである。そのなかで瀬戸は、川﨑の短歌では音連続が重要で、意味が淡いことが歌集のムードを作りあげていると指摘している。それはその通りである。しかし第一歌集から16年を経て、川﨑の短歌は新たな独自の文体を志向しているように見える。それは次のような文体である。

チェスト、其のなかを薔薇いろのものあらざるは元より の

もはや替へどきとも残りすくななる石鹸 の薄さほどの

今世紀晩夏のころを醸せるはねぬなはのmonsieur むしぅゔぁるさん

ぶるうぐれいなるとーんに翳る木陰と山影とそのなかをはひれる のひと

みなとえをとはにゆくひとありとふは今もあなすたしあ・にこらえゔな・ろまのゔぁ

 以前から川﨑は文語(古語)・旧仮名遣で短歌を作っているのだが、ここへ来て新たに加わった文体の特徴の一つは平仮名の多用である。上に引いた歌でもわかるように、カタカナ語まで平仮名で綴っている。これはどういう効果をもたらすか。

 表意文字である漢字は、脳が行なうパターン認識によって、音の層を経ずに意味に到達する。このため読字時間が短い。一方、表音文字である仮名には意味がなく、音のみを表している。必ず音の層を経て意味に届く。一文字一音節(モーラ)であるため、漢字に較べて読字時間が長くかかる。おまけに漢字仮名混じり文だと「社長は / 午後には / 東京に / 居るだろう」のように、内容語は漢字で書き機能語は仮名で書くので、文節の区切りがはっきりわかる。ところが平仮名がずらっと並ぶと、どこで文節が切れるのかがわからず行きつ戻りつするために、勢い読字時間が長くなる。読者は音と意味の境界層をふらふらとさまよって、思いがけず歌の中に長く滞在するのである。この「音と意味を隔てる境界層の浮遊」が川﨑の狙いであることはほぼ間違いない。

 川﨑の新たな文体のふたつ目の特徴は「統辞の脱臼」である。「統辞」(syntax)とは、単語を適切な順序で並べて文を作ることを言う。たとえば上に引いた一首目を見てみよう。まず「櫃」で切って読点が打たれているのが普通ではない。川﨑は助詞の「に」を体系的に「を」に置き換えるので、「其のなかを」は普通ならば「其のなかに」となるべきところである。次に「薔薇いろのものあらざるは元より の」で一字空けて置かれている助詞「の」が宙吊りになり、連接する対象を奪われている。これは言いさしどころではなく、もはや意図的に統辞がずらされているのである。同じことは二首目の「の薄さほどの」や四首目の「のひと」にも言える。

 三首目には珍しい「ねぬなはの」という枕詞が使われている。「ジュンサイを繰って採る」という意味から、「来る」「苦し」にかかるとされている。ところがこの歌では次にフランス語のmonsieurという語が置かれている。このような珍しい枕詞を挟むと、文節の切れ目がさらにわかりにくくなり、読者の行きつ戻りつが増える。またここにはmonsieur「ムッシュー」と「無臭ヴァルサン」の音遊びがある。殺虫剤の「バルサン」はふつうは「バ」と表記されているが、Varsanと綴るのでご丁寧に原音を復元して用いている。

 五首目のアナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノーヴァは、ロシア革命でニコライ2世とともに銃殺された皇女アナスタシアである。「私こそアナスタシア」と称する偽物が多く出たことでも知られている。この歌ではもっぱら音連続のおもしろさから置かれているように思われる。

冬瓜とままンのあはひをある風邪さういへば咳二つ三つして

いつもする音とはちがふ〈ふりうす〉のえんじん音にまぎるゝおとの

ぱあぷるのRody来たるは何時の日のときかともふも宅配便に

あぶら抜き決まつてするは油揚のいまをながれてゆくなる油分

見つゝあり夜の裡に雪は降りしやうと起きいでて窓をあければ

には早すぎるからもう少しねむりたいと潜る蒲団のなかのすいみん

 いずれも川﨑の作歌の自由さと軽みとユーモアがよく出ている歌である。一首目の「ままン」とは何だろう。冬瓜とままンの間にある風邪とは。二首目はたぶん愛車のプリウスのことを詠んでいる。三首目のRodyは馬の形をした子供用のバランスボールのこと。五首目と六首目は並んで置かれていて、おそらく首は繋がっているのである。六首目は口語体になっている。

 いつもとは違うエンジン音とか油揚の油抜きとかまだ眠いとか、歌に詠まれているのはどうでもよいような些事ばかりである。肉親の死も海の向こうの戦争も安保関連法案もない。これは川﨑の短歌が意味という軛から逃れようとしているからである。

 言語は意味(シニフィエ)と形式(シニフィアン)とからなる。形式はふつう音か文字だが、韻文の場合はこれに韻律が加わる。明治以来の近代短歌は自我の詩たらんとしてきたために意味の比重が高い。比較のために新聞歌壇の投稿歌を引く。

麻酔なくスマホのライトにメス握る医師の腕には包帯まかれ

         瀬口美子(朝日歌壇 2023年12月17日)

もやし一つ一つ異なる向きに寄りあへるものの集積の白皿のうへ

                  川﨑あんな『triste』

 瀬口の歌は今まさに地上戦が行われているイスラエルのガザ地区の病院の様子を詠んだものである。ニュース映像を見て作った歌と思われる。ほぼ定型の短歌だが、一首の伝える意味が形式よりも勝っている。一方、川﨑の厨歌は、皿に盛ったもやしが一本一本異なる方向を向いていることに注目している。言われてみればそのとおりだが、殊更に言うほどのことでもない。意味は極めて薄く量が少ない。意味の含有量が少ないと、それに反比例して形式の重みが増す。意味の軛から解き放たれた短歌形式は、中ががらんどうの梵鐘のように形式の持つ音を響かせることになる。

 このような選択がもたらす帰結のひとつは名歌主義との離別である。意味と形式とが緊密に絡み合って一首として屹立するのが名歌だとすると、川﨑の短歌のように中身を空洞する作風は名歌とは無縁である。読者はそれに替わって、短歌という形式を纏った言葉が〈私〉を離れて虚空に反響する美しい音を聴くことになる。それはたとえば次のような歌から響いている。

夕髪ははなちたりけるいろあひの淡きを蒐め為るまとめがみ

あといくひ幾日とかぎりあるもののしらゆりのいく束をおもひやるは眞夜 の

手にするまではふあんの未知をある春のサイズのはるはさんぐわつ

なだらかなる道はくだれり灰白の縞合ひは為すぱらそるまでを

 


 

第365回 金川宏『アステリズム』

鏡面に揺るる水銀 カデンツァのゆび砕くごと冬はゆくべし

金川宏『アステリズム』 

 巻末のプロフィールによれば、著者の金川宏は1953年生まれの詩人・歌人である。一時「コスモス短歌会」に在籍したことがあるようだ。前歌集『揺れる水のカノン』(2018年)のあとがきによると、70年代半ばから80年代にかけて短歌を作っており、角川短歌賞の候補になったこともあるという。1983年に第一歌集『火の麒麟』、1988年に第二歌集『天体図譜』を上梓している。しかしあとがきで著者はこれを、「凡庸を絵に描いたような人生のなかでの、ただひとつの間違い」と書いている。書き溜めた短歌を筐底深く仕舞い込み、友人との交流から刺激を受けて『揺れる水のカノン』として刊行するまで、実に30有余年が経過している。「歌の別れ」は珍しくないが、短歌を離れてこれほど時間が経ってから再び短歌に戻るというのはそうあることではない。 

 第一歌集と第二歌集は入手不可能になっているが、黒瀬珂瀾がプログ「しづかに羽をこぼす毎日」で第一歌集『火の麒麟』を紹介している。それによると次のような歌が収録されていたらしい。また跋文は松平修文だという。

酔ひ醒めて戻り来れば神のごと月の光は椅子を占めゐつ

地の涯て焚かるるごとき夕映えや母を呼ぶべく咽喉ひらきをり

晩餐の果てたるのちの月光つき射せる卓にか黒し父の臓腑は

血の暗喩、微量のむらさき、少年の詩歌焚きゐつやよひきさらぎ

口に血のにほふゆうべを疾駆する従ふものはみな夭き死者

 歌の選び方に耽美嗜好の黒瀬のバイアスがかかっているかもしれないが、それにしてもかなりの耽美ぶりである。歌集が出版された1983年がどういう時代だった短歌年表などで振り返ると、1982年には大塚寅彦が「刺青天使」で短歌研究新人賞を受賞し、加藤治郎が「スモール・トーク」で受賞するのは1986年である。1984年には紀野恵の『さやと戦げる玉の緒の』、栗木京子の『水惑星』、中山明の『猫、1・2・3・4』が出版され、1985年には仙波龍英の『わたしは可愛い三月兎』が世に出ている。俵万智が「八月の朝」で角川短歌賞を受賞するのは3年後の1986年である。あちこちでライトでポップな短歌が頭をもたげ始め、やがてライトヴァースとニューウェーヴの時代を迎えるとば口という時代である。『火の麒麟』は前衛短歌の血飛沫を総身に浴びた歌集であり、当時の短歌シーンの動向に背を向けて、超然と孤高を保っているようにも見える。

 第三歌集『揺れる水のカノン』は、短歌と詩を並列した詩歌集という体裁を採っている。短歌部分から何首か引用してみよう。 

鞦韆に微睡めばめぐり深ぶかと草を沈めてたそがれるみづ

おほいなる銀の胸鰭ゆふばえて風こそ渉れ死は近からむ

ひとときをこの世にありしなぐさめにひとみの奧処おくがかりがねわたる

きみのあぶくとぼくのあぶくが壜の先端でまじはるなんて死んだあと

樹のあはひぬけて半身透りゆく九月のキリン黄昏を統ぶ

 歌集の構成からも短歌と詩を接続しようとする意図が感じられる。『火の麒麟』のおどろおどろしい漢字の羅列と較べると、はるかに接近しやすく日常的な言葉が増えている。時々口語の混じった歌もあり、第一歌集の痙攣する美意識から、より日常的な詩の世界へと着地したようだ。また集中には「マドリガル」「カノン」「ジーグ」「Intermezzo」などの音楽用語が頻出していて、音楽との親和性も感じられる。

 『アステリズム』は2023年刊行の第四歌集である。歌集題名の「アステリズム」(asterism)には、「星群、星座」という意味と、「星彩、星状光彩」という意味がある。後者は宝石などの結晶の頭を磨くと星のような形で生じる反射光をいう。つまりは夜空に輝く星と、宝石の内部に輝く星である。どちらの意味か決める必要はない。歌集はその冠を戴き、天空と宝石のあわいを漂う。栞文には、歌人の三田三郎、H氏賞詩人の峯澤典子、川柳の小池正博が寄稿している。ジャンルの壁を越境しようという姿勢がここにも感じられる。

 『アステリズム』にも短歌と詩を並置したものが見られるが、前歌集に較べると詩が少なく短歌の分量がずっと増えている。4部に分かれた構成になっているが、あとがきがないのでどのような方針で歌を配しているのかわからない。読んでいて気づいたのは、最後の第IV部に来ていきなり古典和歌のような歌が多くなっていることである。たとえば次のような歌がそうだ。

夕づける野の空たかくかがやきてしるべのごときギンヤンマゆく

傘ふたつ野に消えゆきて春浅き墓のほとりは薄日射したり

ほほゑみははばたきに似てけふそらにはるけき永遠とはのことば失ふ

さざなみのにとほざかる夢の橋こときれてのち揺らぐ言葉ロゴス

そののちもみやこはとほく風のなかべられてゆく草のオルガン

 「夕づける」や「夢の橋」と来ればこれはもう美の共同体に支えられていた古典和歌の世界である。歌集最後の第IV部に置かれた歌が現時点での最終形態だとすると、作者は古典回帰を果たしたのかと疑ってしまう。しかし実際はそうではなく、歌の配列は編年体によらず、自由に構成されているとみえる。というのも歌集冒頭近くには次のような歌が並んでいるからである。

猫の骨が透けてみえるようなひかりで組み立ててみる午後からのこと

たえず小さな叫喚さけびにみちて涸れ井戸の騙し絵トロンプ・ロイユを昇る月球

感嘆詞に追いつくまでもう秋の気配を翳らせているきみのゆび

なんの旗か雨昏うこんのなかにはためきてけぶるがにみゆしろききざはし

みずたまりが発光し羽化したばかりの女の子が溺れている地下駐車場

 定型をほぼ守っている第IV部の歌に較べると、韻律がより自由で破調を恐れない作風である。たとえば一首の上句は19音あり、意味で区切ると「ねこのほねが / すけてみえるような / ひかりで」と6・9・4となる。二首目の上句は「たえずちいさな / さけびにみちて / かれいどの」で7・7・5である。五首目に至ってはもう韻律を頼りにして区切ることすらできない。これは明らかに一行詩である。

 短歌と一行詩を区別するものは何か。これは答えるのがなかなかに難しい問である。すぐに思いつくのは五・七・五・七・七の韻律だろう。しかし増音・減音の破調は珍しくないし、前田夕暮らが目指した自由律短歌というものもある。近現代短歌に限っていえば、歌の中の〈私〉の比重という答もある。近現代短歌は「自我の詩」であり、「私性」を基盤とする。しかし近代的自我の確立以前の古典和歌に「私性」は乏しい。「駒とめてなほ水かはん山吹の花の露そふ井手の玉川」という藤原俊成の和歌に近代的な「私性」は見られない。一首の意味の収斂と結像力という見方もできる。ときには短歌的喩の力も借りつつ、短歌は一首としてひとつの意味へと収斂し、その意味を支える視覚像を結ぶ。「夏至の日の夕餉をはりぬ魚の血のほのか汚るる皿をのこして」という小池光の短歌を例に取ると、この歌はただひとつの場面を描いており、全体としてその指向する意味は「生の不安」だろう。一般に詩は、このようにひとつの場面がひとつの意味に収斂することがない。むしろ詩では、日常的でない意外な言葉の組み合わせと統辞法の脱臼を駆使して、イメージを散乱させることでポエジーを生み出そうとする。例えば次の例がそうだろう。

尖塔を支えている蔓草

犬の影の疾駆

拇指のような雲が影を落とす 朝の奏楽

石の恋人の黒い靴下どめ

 入沢康夫詩集『倖せ それとも不倖せ・続』所収「古い夏の絵はがき」

 一行詩と短歌を区別は、上に挙げた要因のどれかというわけではなく、おそらく全部が異なる配合比率に基づいて競合することによってかろうじて感じられるのだろう。

 金川の短歌を見てみよう。

みずのなかに繁っているのはひとのこえ饗宴ガラすぎてウォルター・デラ・メアの冬

 韻律は七・八・五・五・十一で破調だが、中央の五・五にかろうじて短歌的韻律が残っている。ふつう水の中に繁っているのは水草だが、それを「ひとのこえ」にずらし、次に「饗宴すぎて」へと統語と意味が飛躍する。この飛躍が詩の成分だ。そして結句はイギリスの児童文学と怪奇小説の作家のウォルター・デラ・メアへとまた飛ぶ。一首全体としてひとつの視覚像を結ぶことがなく、ひとつの意味へと収斂することもない。むしろ外部へと拡散することで、世界を構成する様々な意味へと繋がろうとしているようにすら見える。また短歌の背後に見えるただ一人の〈私〉という私性からはるかに遠いことも、金川の短歌を一行詩へと寄せている要因である。

 最後に美しい歌をいくつか引いておこう。

パッサカリアの波紋たちたり鳥墜ちて昏き緑の日々の鏡面

ひかりにも墓場があって布をめくるときいっせいに飛び立つ、鴫は

ビルのあわいあゆみいたれば夕光ゆうひかりおんがくのごとうつしみに

弓兵の眼をして見ているきみの背中を縦に流れてゆくひかりの河

ミクソリディアン音階かけのぼってゆくひとひらの雪きみのゆびさき

かつて発したかたちのままに唇から放電している最後の間投詞

 五首目のミクソリディアン音階とは、ドレミファソラ♭シドのように、シの音が半音下がっている旋法をさす。帯文にも書かれているが、金川の好みの語彙は、鳥、火、光、水、鏡、樹のようだ。短歌として読んでも、一行詩として読んでもよい。入念に選んで配列された言葉の中に没入すると、この世界にどこか似ている不思議なワールドに迷い込んだような気分にさせられる。そんな歌集である。

 

第364回 山科真白『鏡像』

鼻煙壺びえんこに悲しき魚は泳ぎゐて鳥より先に離りゆくらしも

山科真白『鏡像』

 鼻煙壺とは嗅ぎ煙草を入れる容器で、高さは10cmにも満たない中国の陶製のものが多い。形状や装飾の多彩さゆえ愛好家が多く、コレクションの対象となっている。私は大阪中之島の東洋陶磁器美術館で開催された陶芸家ルーシー・リーの展覧会を見に行った折りに、コレクターが寄贈した鼻煙壺の展示コーナーがありその存在を知った。掲出歌では鼻煙壺に魚と鳥が染め付けされている。並んで描かれた鳥よりも魚の方が絵の中から去るように思われたというのである。もとより絵の鳥や魚が動くはずもないが、歌の中の〈私〉はそのように感じる心持ちだったのだろう。鼻煙壺を詠んだ歌は初めて見た。そこに作者の言葉への拘りが感じられる。

 山科真白は「短歌人」と「玲瓏」に所属する歌人である。小説を故眉村卓に師事し、常藤咲ときとうさきという筆名で作品を発表しているという。『鏡像』は2019年に上梓された第一歌集で、存命だった眉村が帯文を寄せている。今回は2023年に出版された第二歌集『さらさらと永久とは』と併せて読んだ。こちらには塚本靑史が解題を書いている。

 小説は基本的にフィクション(虚構)である。虚構とはつまるところ嘘だ。嘘がなぜ人の心を動かすかというと、泥田に咲く蓮の花のように一片の真実がその奥に光っているからである。虚実皮膜という論もあるものの、小説の大部分は作者の想像力が生み出したものである。では小説を志す人が短歌を作るとどうなるか。勢い読者を虚の世界へと誘う歌となるのは必定だろう。

夢の戸を開ければ美しき夜のなかに孔雀が羽根をひろげゆくなり

ひつそりと象牙の塔にこもりたる博士の愛する鳥ぞせつなき

嘘吐きの八卦見はっけみより貰い来た極楽鳥花を窓際に置く

鳥偏の漢字を交互に書く遊び すみれいろのインク滴る

十字架を落とした夏のセーヌ川過去より速くみづは流れる

 巻頭の一連に「夢」という題が付されているのもむべなるかな。一首目は巻頭歌で、本歌集の基調となる旋律を低く奏でている。本歌集を開く人は夢の世界へ誘われると宣言しているのだ。虚である物語を構築するときは、意味性を豊富に身に纏った語彙が恰好の素材となる。二首目では「象牙の塔」と「博士」と「鳥」がそうだ。三首目の「八卦見」と「極楽鳥花」も同様である。極楽鳥花はストレリチアともいい、特異な形状と色彩が目を引く花である。名作アニメ「ダーリン・イン・ザ・フランキス」でも主人公が搭乗するロボットの名に使われていた。極めつきは四首目である。鳥を旁に持つ漢字は多くあるが、鳥偏の漢字は少ない。『大字源』(角川書店)で調べても、「鳦」(つばめ)「鴃」(もず)「鴕」(ダチョウ)「鵻」(こばと)など数えるほどしかない。まさに虚の世界に遊ぶ感がある。「ミラボー橋の下セーヌは流れ」と唄ったのはアポリネールだが、五首目にも強い物語性がある。

 文芸・芸術に題材を採った歌が多いのもまた、新たな扉を開くことを意図してのことだろう。

夢十夜目醒むるなかれ忽ちに百年過ぐと匂ひたる百合

亡き人の言葉の珠を呑み込めば乱れはじめる秋の眠りは

汝が脳に斧もて深く彫りこまむ打擲さるる百姓馬はも

必ずや望みの叶ふあら皮は要らぬと生きてけふも明日も

川端の「眠れる美女」に引かれゐる中城の歌、夜のきざはし

 一首目の「夢十夜」は幻想味の強い漱石の短編集。花瓶に活けた百合の匂いは夜に強まる。二首目は澁澤龍彦を詠んだ歌。澁澤は晩年病によって声を失った。それを真珠を呑み込んだせいだと見立て呑珠庵と号した。「ドンジュアン」はフランス語のドンファンのDon Juanに通ずる。澁澤の忌日を呑珠庵忌という。三首目はドストエフスキーの『罪と罰』に、四首目はバルザックの『あら皮』に寄せた歌。五首目の背後にある経緯は栞文で中地俊夫が解説している。川端康成は中城ふみ子の『乳房喪失』の序文を書いている。その縁からか、『眠れる美女』に中城の「不眠のわれに夜が用意してくるるもの がま・黒犬・水死人のたぐひ」という歌を一首引いているという。これらの歌に登場するラインナップを見ても、山科が虚数の世界を描く幻想的な作風の作家に惹かれていることは明らかである。

 しかしながら本歌集を最後まで読むとそれだけではないことがわかる。作者は結婚した妻であり、二人の男の子を持つ母である。集中には次のような子供を詠んだ日常詠もある。ここには虚の欠片もない。

吾の子は魔法を知らぬ白球は真直ぐに飛んで落ちてゆくなり

水仙を活けた部屋から聴こえくる吾子のショパンはフォルテに向かふ

 歌集題名は「鏡像にいつはりなきや吾の奥の永久とはに触れよとかひなを伸ばす」という歌から採られている。鏡に映った自分はほんとうの自分なのかと自問している。鏡に映る私は日々の暮らしを送り、夫と子供を持つ私である。しかし創作に打ち込んで虚の中から真実をつかみ出そうともがく私は目には見えないその奥にいる。どちらがほんとうの私なのだろうかと問うているのである。この歌に続いて次のような歌が置かれていて、その意味するところは説明を要しない。

(Hといふをんな 日常のわたし)

肉体を苛め抜きたるレッスンを終へてバレエのシューズを脱ぎぬ

(Mといふをんな 歌を詠むわたし)

脚韻を踏みて秋立つゆふぐれは小鳥のごとく歌を交わさむ

 第二歌集『さらさらと永久とは』は「玲瓏」に入会してから以後の歌を収録しているという。

詩画集を抱きて歌ふ火の匂ひくちなはのごとせまりてきても

廃船の千の足音曳きながら雲はちぎれて夏へと向かふ

禁といふ字をちひさき石に彫り篆刻教室ゆふぐれに閉ず

さびしらに白百合の香と抱いてゐる球体関節人形マリア

藻のあはひ鯰もひそむ襖絵の墨にも息あり夜の屋敷は

鐵舐てつなぶるのちに知りたる玻璃はり売りが罅入ひびいりグラスに注ぎゆく比喩

寓言と真珠をのせてこの夏は釣り合つてゐる金の天秤

ゆつくりと複式呼吸を繰り返しひそかにふかき乳糜槽にゅうびそう撫づ

 第一歌集を上梓してから長い中断があったのは作者に迷いがあったからだろう。しかし第二歌集にもはやその影はない。進むべき道を見定めたからであろう。二首目の廃船の跫音は空に轟く美しい幻想である。三首目は近傍に置かれた歌から三島由紀夫の『禁色』を踏まえた歌だとわかる。四首目の球体関節人形は天野可淡の作だろうか。五首目の鯰の襖絵は四条派の筆になるものか。八首目の乳糜槽とは、臍の少し上にあるリンバ節だという。初めて知った。どの歌にもどこまでも深く入って行きたくなるような奥行きがあり、読む人の想像力をいたく刺激する。なかなか眠りが訪れない熱帯夜の夏の夜に読むといいかもしれない。

 

第363回 2023年度角川短歌賞雑感

山鳥の骸をうづめ降る雪のきらら散らして白き扇は

渡邊新月「楚樹」

  今年度の第69回角川短歌賞には過去最多の870篇の応募があったという。その中で見事短歌賞を射止めたのが渡邊新月の「楚樹」50首である。振り仮名がないと読めない題名だが「しもと」と読む。渡邊は2002年生まれなので、誕生日を迎えていれば21歳の若い歌人である。東京大学文学部に在学中で、東京大学Q短歌会に所属している。国文学専攻で、将来は新古今和歌集などを研究する研究者を目差しているという。

 渡邊は中学生の頃から独学で短歌を作っていたようで、2018年第64回角川短歌賞では「冬を越えて」で佳作に選ばれている。この時はまだ高校生である。

君と僕を少し遠ざけ去っていく重力波あり極月ごくげつの朝

                 「冬を越えて」

生卵片手で割れば殻だけはこの手に残るきっともう春

 2019年の第65回角川短歌賞では「水光る」で、翌年「風の街」で、昨年2022年の第68回に「残響」で予選通過するも受賞には至らず、今年は満を持しての受賞である。また『ねむらない樹』4号(2020年)の第2回笹井宏之賞では、「秋を過ぎる」で野口あや子賞を受賞している。この頃は口語脈に所々文語を交えた繊細な感受性が感じられる若者らしい歌を作っている。

誰も誰もひとりなることのかなしみは受胎告知をしにゆく時も

                      「秋を過ぎる」

リノリウム二段飛ばしで上がり行く合唱部員の胸のみずうみ

 今年の受賞作は能の「葛城」に想を得たもので、作者は能に親しんでいるらしく謡曲のような語彙と語法が目立つ。連作題名の楚樹とは、姿を変えた葛城の女神が旅の修験者をもてなすために火にくべる木の枝のことである。

夕の笛まどろみを吹き此岸から遠く離れて月はのぼり来

朝の水掬へば白くさえかへりみづから砕くみづからの顔

影立たば影ぞその樹を立たしむるさむざむと空裂く梢かな

 これまでの角川短歌賞の受賞作とはかなり異なる作風であり、高踏的で取っつきにくいと感じる人も多いだろう。選考委員の票も真二つに割れていて、坂井修一と藪内亮輔が最高点の5点を入れた一方で、松平盟子と俵万智はまったく点を入れていない。受賞作を決める討論も長時間に亘り、激論の末にかろうじて受賞が決まった感がある。松平と俵の二人は、能の理解が本作の前提になっていることや、この世界観について行けない読者がいることなどを本作の難点として挙げているが、根底にあるのは日々の生活感情から発した歌ではなく、言葉によって作られた歌だという点だろう。このことは最近話題のChatGTPのようなAIがほんとうに言葉の意味を理解しているのかを考える時に問題にされる記号接地問題 (symbol grounding problem)【注】とよく似た所があるのがおもしろい。渡邊は「人生派」ではなく「コトバ派」の歌人である。ポスト・ニューウェーヴの時代が長く続いたので、「コトバ派」の歌人は久々に登場した感がある。

 次席には福山ろかの「眼鏡のふち」が選ばれた。福山は2004年生まれなので、誕生日が来ていれば19歳である。福山も渡邊と同じく東京大学Q短歌会に所属しているので、ワンツーフィニッシュの快挙である。過去に2021年の第15回全日本学生・ジュニア短歌大会で毎日新聞社賞を、第10回記念河野裕子短歌賞で俵万智賞を受賞している。また昨年の第68回角川短歌賞では次席に選ばれており、惜しくも2年連続で次席となった。おもしろい連作タイトルで、「どの感情もやがて忘れてしまうこと 眼鏡のふちを強く意識する」という歌から採られている。眼鏡の縁はいつも視界を区切っているけれども、私たちはふだんそのことを忘れている。つまり私たちが見ているものには意識しない制限がかかっているということだろう。福山にとって短歌とは、その制限を乗り越えて、ふだんは見えなくなっているものを見るためのツールということか。

外箱に国語辞典をしまうとき手のひらにすっと洩れてくる空気

手のひらに何度もふれているはずの表紙の口づけの絵に気づく

花弁にはふれず挿す薔薇 空き瓶の底の厚みに接するまでを

 3点を入れた藪内は、「写実的表現からドライな情感を作っていくのが面白い」と評し、5点を入れた俵は、「日常の些細なところに詩を見つけてつくる力が素晴らしい」と褒めている。点数を入れなかった松平は、自分は韻律を重視するので、下句の強引な句跨がりが認められないと述べている。たとえば上に引いた「表紙の口づ / けの絵に気づく」のようなパターンである。坂井は玉石混淆なところと安易な直喩が多くて採れなかったとする。福山のような作風だと意味を重視するので、どうしても句跨がりが生じてしまう。福山の短歌は、最近よく見かける「口語によるリアリズムの更新」(by山田航)タイプの歌ともちがっていて、知的処理とポエジーを両立させているところが優れているように思う。

 佳作が4人いるのも異例なことで、選考委員の評価・好みが分かれていることを示している。一人目は永井駿の「水際に立つ」である。永井は1989年生まれで、「塔」「苗」「△」所属。永井はかつては「長井めも」という筆名で短歌を作っていて。2021年に短歌研究新人賞予選通過、2022年に歌壇賞予選通過、同年角川短歌賞予選通過、2023年歌壇賞予選通過という実績がある。

トーストに海岸線を生み出したわたしの歯牙に波と歳月

譲り合う無人の席に忘れ物また遠ざかる夏の集会

テーブルに残されていたパンくずを手で掃くやがて送られる手で

 5点を入れた松平は、リテラシーが高い作者で、繊細な感覚が皮膚の内に隠れていると高く評価している。点数を入れなかった藪内も坂井も最後まで残した連作だったと褒めている。解せないのは何かのツアーに出掛けた折のことを詠んだ連作だろうが、どこだか場面がわからないと選考委員がみんな言っていることだ。

LapinラパンともLièvrリエーヴルeとも呼ばれない人の住まない島のうさぎは

火に焼かれ無害化される貯蔵庫の煤降りしきる古い処理日に

ガスマスクひび割れたまま展示室 穴ばかりある身体と思う

 これを読めば、舞台は旧日本軍が毒ガスを製造していた広島県の大久野島のことだとすぐわかる。無住となった島にウサギが繁殖して、ウサギの島として人気がある。フランス語でlapinは飼いウサギでlièvreは野ウサギを指す。そうわかって読むと、テーマ性のはっきりした連作として立ち上がる。場面がわかっていたら選考委員の評価も少し変わったかもしれないので残念だ。

 二人目の佳作は揺川ゆりかわたまきの「透明じゃない傘をひらいて」である。揺川は2000年生まれ。現在は無所属だが、今年3月の卒業まで東京大学Q短歌会に所属していた。3人も受賞者を出して東京大学Q短歌会はぶっちぎりの圧勝である。

湿り気がやわらかく指を拒みおり入社前夜の髪乾かせば

冬が死んで時給がうまれるこの部屋にふさわしく効いているエアコン

生きることの傷口みたいに花水木ほの赤く咲く街路うつくし

 1点を入れた俵は、「常に自分の目の前の世界の奥を見ている感じ」に好感が持てると述べ、3点を入れた松平は、「借り物の表現や、たくさん勉強して形から入った物言いで詠むのではなく、まず日常を生きる自分があって感受するものを余計な慮りなく短歌に託そうとする姿勢が小気味よい」と評している。坂井と藪内は点を入れていない。このあたり選考委員の短歌観がはっきり分かれていることをよく示している。揺川の短歌は、大学を卒業して社会人になったものの、新しい身分と職場に馴染めない違和感を軸としていて、若者らしい歌となっている。

 三人目の佳作は齋藤英明の「狼はアルトに」である。齋藤は1999年生まれで、「かりん」所属。一橋大学大学院言語社会研究科に学ぶ学徒である。

過ぎゆきてなほただならぬ雨季の香匂へる舌に桃崩るるは

つむる眼に手を置きやればまなうらはさらに暗みて春ゆふまぐれ

てをつなぐ 水脈にさからふ朽ちかけの櫂のはやさでゆび差しあへり

 藪内だけが4点を入れている。「全体的にむせ返るような、気怠いような雰囲気が充満して」いて、「ストーリーもあまりないのですが、あるひとつの抒情みたいなものを伝えて」いると評価している。坂井もすごく巧いので採ろうか迷ったと言い、俵も「耳のいい人」と述べている。松平は読者を選ぶ歌で、皮膚感覚として受け入れられない人もいるだろうと否定的な感想を述べている。個人的には私は上に引いた三首が特に好きで、たいへん実力のある人だと思った。いずれ賞を取る人だろう。

 四人目の佳作は鈴木すみれの「先生が好き」である。鈴木は2004年生まれで無所属。2021年に第13回角川全国短歌大賞で「短歌」編集部賞を受賞している。

席順で指してくときは指す前に目を見てくれる そこに賭けてる

世界一すごい花束のつもりで手渡している期末レポート

またやって 銀の地球儀抱きしめてせかいせいふく、って笑うやつ

 藪内が2点、松平が4点を入れている。松平は、タイトルはちょっと拙いと思ったが、先生に憧れる十代の女の子の素直な感情を綺麗にきっちり描けていると評し、藪内は、読んでみると修辞が巧く、意外に繊細なところもあって、単純な作者ではないと述べている。坂井は、妄想が半分以上入っていて、ライトノベルの域を脱しないとし、俵も、タイトルは身もふたもないが、等身大の表現がこうなんだという説得力があり、点数を入れてあげればよかったと振り返っている。

 全体を見廻してみると、生活実感に根差していて率直に感情を詠む歌を評価する松平と俵に対して、抽象度が高かったり構成に知的な工夫があったりする歌に点数を与える坂井と藪内という構図がはっきり見えてくる。これから角川短歌賞に応募しようとする人は、そのことを意識した「傾向と対策」が必要だろう。選考座談会最後の総評で藪内は、前年に次席だったので、翌年応募する際には、作者が男とわかる歌を入れ、それぞれの選考委員が採りそうな抒情の歌を混ぜ、前年の委員たちの要望をよく読むといった対策を入念に重ねて見事受賞に至ったと述べているとおりである。

 

【注】記号接地問題については、今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』(中公新書)を読むとよくわかる。もともとはコンピュータや人工知能の分野で問題にされたものだが、作歌における作者の姿勢に当てはめてもおもしろいかもしれない。あなたの短歌の言葉はほんとうに接地しているか、というように。

 

第362回 睦月都『Dance with the invisibles』

壺とわれ並びて佇てる回廊に西陽入りきてふたつ影伸ぶ

睦月都『Dance with the invisibles』

 待望のと言うべきか、睦月都の第一歌集『Dance with the invisibles』が出版された。版元はKADOKAWAで、装幀は花山周子、栞には水原紫苑、東直子、染野太朗が文を寄せている。およそ考えられる最強の組み合わせで、歌人睦月に寄せる期待の大きさが感じられる。中身に入る前にタイトルと造本に立ち止まりたい。

 歌集題名のDance with the invisiblesは、「目に見えないものたちとのダンス」という意味だろう。もし定冠詞がなくてDance with invisiblesだったら、何だかわからない不特定の目に見えぬものたちだが、定冠詞があるのでそれと特定されている不可視のものたちである。つまりそのものたちは作者に馴染のあるものたちなのだ。それが何かは詳らかにしないものの、ずっと作者の傍らにいたものと思われる。

 花山の装幀は基本的にモダンデザインだが、本書は異なるテイストの装幀である。表表紙のダンスをする三人の少女、周囲を取り巻く花柄、扉の見返しの博物誌の一葉のような図が、廃園の図書室に置き忘れられた古い写本のような雰囲気を本書に与えている。添えられた解説のラテン語を読み解くと『貝類誌』とあり、何かの貝の幼生を描いた図らしい(注)。

 睦月は2017年に「十七月の娘たち」で第63回角川短歌賞を受賞している。その年の次席にはカン・ハンナ、佳作には辻聡之や知花くららがいる。受賞から6年経っての第一歌集である。待望の、とはそういう意味だ。

 角川短歌賞の選考座談会を読み直してみると、睦月を推したのは小池光と東直子である。特に小池は二重丸を付けていて、「様式美がある」「歌の骨格、形に美しさがある点では、今回の応募作品の中では一番な気がする」「一言で言えば『詩』がある」と称賛している。東も「ポエジーという点では一番ある作品だと思いました」と評している。二人の選考委員の意見は一致して、睦月の短歌の「ポエジー」「詩」を評価しており、本歌集を通読した人もまた同じ感想を抱くに違いない。栞文で染野は、「この歌集の歌の韻律や質感にまず没入させられ、没入に気づいてあわてて距離を取り、でも気づけばまだ没入し、とくりかえしてなんとか読みおえ」たと述懐している。私も同じで、読み始めるや歌の世界に吸い込まれ、歌に導かれるままに広大な世界をあちこちと彷徨い、読み終えてこの国に別れを告げるのが惜しいほどだった。歌集を読んでそんな濃密な経験をすることはそう多くはない。

 睦月の短歌の美質は何と言っても詩想の豊かさと深さではないかと思う。それは集中のどの歌を取っても感じられる。

灯油売りの車のこゑは薄れゆく花の芽しづむ夕暮れ時を

昨日と今日がまちがひさがしの絵のやうにならぶ九月の朝の食パン

春の雨ぬがにそそぎゆるやかに教会通りをくだりゆきたり

われにある二十の鱗すなはち爪やはらかに研ぎゐるゆふべ

腕の傷さらして小径歩むとき傷より深く射せる木漏れ日

 一首目は巻頭歌で栞の裏にも印刷されている。歌の季節は冬だが、春はそう遠くはない春隣か。町にストーブ用の灯油を売る車がやって来る。たいていはお決まりの音楽を流している。やがて車は遠ざかり、売り声も薄れてゆく。ここまでが出来事の描写である。この歌の詩想の鍵は「花の芽しづむ」にある。冬の最中にあって木々は春の芽吹きを用意している。それを「しづむ」と表現したのである。わたしは思わず『短歌パラダイス』(岩波新書)屈指の名歌「家々に釘の芽しずみ神御衣かむみそのごとくひろがる桜花かな」という大滝和子の歌を思い出した。

 二首目は朝の食卓を詠んだ歌。食卓に毎日並ぶ食パンは、昨日のものと今日のものと見分けがつかない。それは日々の暮らしの単調さの象徴である。それはまちがい探しのようなのだが、その単調さを嘆くのではなくむしろ慈しむ眼差しが感じられる。秋冷の感じられる九月という時間設定もよい。

 三首目は春の雨の情景。「消ぬがに」は万葉でも使われた古語で、「消えてしまいそうになるほど」の意。この歌のポイントは「ゆるやかに」だろう。古い教会のある通りは坂道になっている。古くから人の住む閑静な住宅地なのだ。しめやかに降る春の雨がゆっくりと流れてゆく。無音の中で世界が微光を発しているようだ。

 四首目は生物の進化に思いを馳せた歌。私の祖先はかつて水に棲む魚だったとするならば、手足に20ある爪はさしずめ残った鱗だろうという想像を膨らませている。女性が身体を歌に詠むとき、そこには柔らかさとある情感が醸し出される。

 その一方で五首目は同じく身体を詠みながら、痛みを感じさせる歌である。「腕の傷」は階段で転んで擦りむいた傷かもしれないが、ひょっとしたらリストカットの痕かもしれない。その傷を隠さずに晒すのはある決意を感じさせる。木漏れ日が傷より深く射すというのは、その傷を負った痛みがまだ癒えていないからだろう。

 睦月の短歌の特質のひとつは、日常の風景と大きな世界とが不意に接続される詩想の飛躍である。

さみしさに座るキッチン ほろびゆく星ほろびゆく昼のかそけさ

春の夜によそふシチューのごろごろとこどもの顔沈みゐるごとく

アルカリの匂ひたちたる夜のスープ啜りつつ恋ふ土星の重力

黄昏のSpotifyより流れくる死者の音楽、死者未満の音楽

まぼろしが滅びてしまふまでの間の牡蠣にレモンを搾りゆくなり

 一首目では、赤色矮星が爆発して死を迎える何万光年も彼方の世界と台所とが、〈私〉の想いを梃子として繋がっている。二首目ではシチューの中のジャガイモやニンジンとどこか遠い世界で溺れる子供が、三首目ではスープの芳香と土星の重力が不思議な糸で結ばれる。四首目はなるほどと納得させられる歌。モーツアルトもスカルラッティもこの世にいない死者である。しかし現在存命の作曲家もまたいずれは死者となる宿命だ。五首目の幻が何かは定かではないが、ひょっとしたらこの世界というまぼろしかもしれない。想いを通して接続される世界がしばしば悲傷の色濃いことも注目される。

 レズビアンや女性への思慕を詠んだ歌も集中に散見される。

春の二階のダンスホールに集ひきて風をもてあますレズビアンたち

女の子は好きになつたのはいつ、と 水中でするお喋りの声

わたしの彼女になつてくれる? 穂すすきのゆれてささめく風の分譲地

香水をたがひに交換して秋の夜を抱く 耳のうしろがひかる

グラスの底に残る琥珀酒飲み干してあしたは女の子と踊る約束

 香水の貸借りは女性特有のことなので、どこか密やかで甘やかな雰囲気があり、歌に柔らかさを与えている。

 睦月の歌にはほとんど人物が登場しない。それは睦月にとって短歌が端的に〈私〉と〈世界〉を架橋するものだからだろう。例外的に母と妹が歌に詠まれているが、生きている人間の生々しさがなく、どこか童話の中の人物のようでもある。

娘われ病みて母きみ狂ひたまふ幾年まへの林檎樹の花

いもうとの靴借りてゆく晩春のもつたり白き空の街へと

お母さんわたし幸せなのと何度言つても聞こえぬ母よ 銀杏ふる日の

秋なれば光澄みつつある昼を妹の婚告げられてゐつ

 三首目の母は、結婚せず子も成さない娘を嘆く母である。そこに僅かに母子の関係性が見て取れる。付箋の付いた歌を見てみよう。

柄杓星そそぐ憂ひの満ちるまに猫をかかへて切る猫の爪

わが生まぬ少女薔薇園を駆けゆけりこの世の薔薇の棘からむに

ゆりの花すこし目で追ひ、はづしたり 外して戻る夏の会話に

鍵屋に鍵ひしめく夜よ 輪廻するたましひの待合室のごとくに

誰の記憶からも逃れたき夜明け前塩化コバルトの空滲みたり

糸通しにられし銀の横顔の婦人つめたし月面のごとくに

 一首目の柄杓星は北斗七星のことで、「柄杓星そそぐ」は「憂ひ」を導く詞書きである。二首目は角川短歌賞を受賞した「十七月の娘たち」の中の一首で、選考座談会ではこの「娘」は何かがひとしきり話題になった。しかしこうして見るとそれは明らかで、婚をなさず生むことのない幻想の娘である。三首目は、誰かが持って歩いている花束の百合をちらと見て、友達とのおしゃべりに戻ったというだけの歌なのだが、なぜそれがかくも魅力的なのだろう。それをうまく説明することができないのがもどかしい。「すこし目で追ひ、」に読点が打たれているのは、ここで少し間を取ってほしいという作者の意図である。この間が絶妙で歌を生きたものにしている。「はづしたり」の後の一字空けでさらにひと呼吸置くことになる。この呼吸のコントロールが歌の魅力の秘密ではなかろうか。四首目は鍵屋の夜の光景を詠んだファンタジー風の歌で、これを見て「眼鏡屋は夕ぐれのため千枚のレンズをみがく(わたしはここだ)」という佐藤弓生の歌を思い出した。「醫師は安樂死を語れども逆光の自轉車屋の宙吊りの自轉車」という塚本邦雄の歌もあり、「○○屋」を詠んだ歌を集めると面白いかもしれない。鍵屋を詠んだ歌は初めて見た。

 五首目、睦月の歌には時折理系の用語が混じる。この歌の問題は「塩化コバルト」の空が何色かである。『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、塩化コバルトの分子式はCoCl2。「淡靑色、葉片状の吸湿性結晶。湿った空気に触れると淡紅色に変る」とある。つまり通常は薄い青色なのだが、湿ると薄い紅色になるのだ。それを踏まえるとこの歌の空は夜明け前の靑色から朝焼けの紅色に変化したとも読める。

 六首目の糸通しとは、針の目に糸を通すための器具で、指でつまむ部分に婦人の顔のレリーフがあるのだ。糸通しと婦人と月とが女性性という共通の特徴によって並べられ、呼応する世界線を形作っている。

 2023年はまだ2ヶ月半ほど残っているので気が早いことは承知の上だが、少なくとも今年目にしたうちで最も内容充実した歌集であることは疑いない。

【追記】
 本歌集は第68回現代歌人協会賞を受賞した。(2024年6月2日追記)
【注】
「かばん」2024年6月号が『Dance with the invisibles』の特集を組んでいる。その中で装幀を手がけた花山周子へのメールインタビューが掲載されている。作者と相談しながら装幀を決めてゆくプロセスが明かされていて興味深い。花山によると見返しの博物画はナメクジの解剖図だということである。(2024年7月4日追記)