第76回 菊池孝彦『声霜』

しろき円をたもちて皿は暮れなづみ卓は卓として四方へとがる
                    菊池孝彦『声霜』
 夕暮れの室内の風景だろう。皿と卓があるので、家族が食事を摂るダイニング・キッチンと思われる。卓の上に置かれた白い丸皿は、その円形を保っているという。当然だろう。見ているうちに丸い皿が四角くなるなどということはないからである。テーブルは四角形で四隅が尖っている。それはよい。しかし「卓は卓として」とは何か。卓が卓ではないものとして在るということがありうるのか。
 どうも「あるかもしれぬ」と作者は考えているふしがある。それは作者が「存在の偶然性」という考えに捕らわれているからである。世界が現在在る姿で在ることに、どれくらいの必然性があるのだろうか。「もし恐竜が絶滅していなかったら」とか、「もし織田信長が本能寺で暗殺されなかったら」という歴史上のifもその中に含まれはするが、ここで言う必然性とはもう少し根源的なレベルのものを言う。
 目の前に湯飲み茶碗があるとする。使い込まれた茶碗は手に馴染み、内側には茶渋が付き、その形は見慣れた日常である。しかし茶碗をじっと見つめていると、だんだん奇妙な物に思えてくることがないだろうか。なぜこいつはこんな変な形をしているのだ、とふと思うと、茶碗の存在が異質なものとして迫ってくる。この茶碗は私とは関係なくこの世に絶対的に存在する。そう考えると突然奈落に突き落とされたように感じる。次の歌はそのような印象を詠ったものと思われる。
午睡より覚めきらぬわが網膜に映ず 部屋中の「物自体」
   半覚半睡のぼんやりした頭も手伝って、見慣れた物が絶対的存在として迫ってくる瞬間である。これはとても哲学的な歌なのだ。菊池はサルトルの小説『嘔吐』の主人公アントワーヌ・ロカンタンと近いところにいるのである。
 菊池孝彦は1962年生まれで、1989年より「短歌人会」所属。巻末の略歴にはこれだけが記されている。これ以上略すことができないほど短い略歴で、作者が自己を語ることを好まないことをよく示している。『声霜』は2010年刊行の第一歌集。栞文は香川ヒサ、米川千嘉子、小池光。栞文を香川に依頼しているのは、作者が自分の作風をよく認識していることを示していよう。香川もまた「テーブルのグラスがグラスであることの証人としてわれ在りたぶん」のように自己を排した哲学的な歌を作るからである。「声霜」は作者の造語で、この世に産み落とされた自分の精神のスイッチを入れたのは母の声であったろうとの思いを、「星霜」すなわち時間の流れと組み合わせたものである。
 自己を語らぬはずの作者があとがきではずいぶん多くを語っているが、師と仰ぐ高瀬一誌への思いと並んで次のように述べている。小池は『バルサの翼』のあとがきに、「ぼくは歌を〈作って〉来たのである。歌をうたったのでも、詠んだのでもなく、歌を作ったのである」と書いたが、自分はそれに倣って「私は歌を〈書いて〉来たのである。歌をうたったのでも、詠んだのでもなく、歌を書いたのである」と明記したいと。
 これはどういう意味だろうか。ふつう短歌の世界では「歌を詠む」と言う。「うたう」と言うこともある。それは短歌の先祖の和歌が韻律詩であり、声に出して詠じられたからである。またそれは短歌に自分の感情の揺れを表現するからでもある。感情は歌として声となって表出する。菊池が「歌を書く」と明記するのは、このすべてを否定する立ち位置から短歌を作ろうとしているからである。簡潔に言えば「自己の感情を詠わない」ということであり、自己表現としての短歌から遠く離れるということでもある。
 だから次のような歌が最も菊池的な歌だということになる。
宇宙塵も地球の塵もなひまぜに吹かれをり風つよき西より
存在の基準はどこにもあらざれば「たった一人」は揶揄のごとしも
堆き過去と未来に挟まれてセルロイド製下敷きのごとき現在
足跡はすでにいくつもしるされぬ曙光にひかりゐる路地の霜
ぽつねんと窓に映りし「われ」といふ者のまなざしわれを問ひかく
 一首目はただ西風が吹いているというだけの歌である。しかしその風には宇宙塵も地球の塵も混じっているとするところが、認識の歌を成立させる。二首目、私たちはよく「たった一人」言うが、一人と判定する基準はどこにあるか。私は一人でいるとき〈私〉といるのではないか。私は〈私〉から決して逃れることはできない。〈私〉とは自己意識である。だから「たった一人」とはまるでからかわれているようだという歌である。三首目、山のように積まれた本に挟まれた薄っぺらい下敷きのようなものが現在だという歌。菊池の認識の眼差しは主に三方向に向いている。〈物自体〉と〈私〉と〈時間〉である。そのいずれもが哲学上の深遠な謎を構成する。この歌は時間の歌で、私たちは現在に生きているが、決して現在を捉えることはできないという趣旨だろう。四首目は、夜明けの路地の霜に人の足跡がついているというだけの叙景歌だが、こうして並べてみると、どうしても深読みしたくなってしまう。事物の描写の背後に闇のごとき謎があると読めてしまうのである。菊池の意図がそうなら話は別だが、これはいささか困ったことかもしれない。五首目は三方向のうち〈私〉に眼差しが向いた歌。窓ガラスに映った私が私に対して「おまえは何ものだ」と問いかけるという設定はありふれているが、作者の興味をよく示してはいる。
 菊池の眼が〈私〉に向いたとき、先の五首目のような純粋な存在論的問いかけを押し上げることもあるが、ときに菊池は存在論的呪詛に傾くようだ。自分の出生を呪う気持ちのことである。
あかあかと夜は明けそめて日日にわが賜る生といふ災厄
世界にたった一人といふもこの街の破片のごとく歩みゆきたり
味噌汁に豆腐ぷかぷか生と死の虚実皮膜に照るゆふあかり
わたくしの出生届受理されしその時天眼てんげんは緑暗せり
微熱はらみてうすらさむきを机に向かふわれに生きたがらぬ部分見ゆ
 「私たちは故なくこの生に投げ出されている」いうのは、極めて実存主義的な考え方である。その悔しさが一首目や二首目に色濃く投影されている。三首目の豆腐は「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」という久保田万太郎の名句を思わせる。四首目の「天眼」は仏教用語で、すべてを見通す仏の眼をいうらしい。
 しかしながら菊池の眼が〈私〉を志向するとき、最も鋭く前景化するのは〈私〉の捉え難さだろう。次のような歌がそれをよく示している。
橋わたり来し白昼やわたくしを怪訝におもふそれも「わたくし」
このわれに従きくる影よをりあらばわれをこそ引き摺って行かれよ
盗人のごとく我が家に入り来ぬ寝息の傍をゆらめきながら
自己否定 否定さるべき自己が在るといふ誤謬もうつくしきかな
炎天の路上 過去形・現在形・未来形のボクらかぎろふ
 〈私〉と〈私という意識〉の二重性は一首目や二首目に明らかである。橋を渡っているのが私なのか、それともそれを怪訝に思っているのが私なのか、禅問答のようであり、深い哲学的主題でもある。獣が美しいのはこの二重性を持たないからだ。三首目のゆらぎにすぎない私や、否定すべき自己がないという認識も、同じ問題意識から来ていることは言うまでもない。四首目は時間軸に投影したときの〈私〉の多重性を詠ったもの。
 短歌に対してこのような立ち位置を選択すると、必然的に名歌・秀歌・絶唱から遠く離れてしまうことに注意しておこう。明治以来の近代短歌は、古典和歌の共同性と抽象性を捨てて、自我を具体的に詠う文芸となった。これは明治期における〈個〉の確立という国家レベルの目標と軌を一にする。しかし「自我の文芸」は「自我」の存在を前提とする。〈私〉がなければ〈私〉を詠うことができないのは自明である。〈私〉の存在に疑念を射かける菊池には、従って〈私〉の絶唱はあらかじめ禁じられているのである。くぐもった声でつぶやくような歌が多いのはこのためだと思われる。
 このように菊池の主題は〈物自体〉と〈私〉と〈時間〉なのだが、これらをない交ぜにすると必然的に私たちの前に立ちはだかる最大の謎である〈生〉と〈死〉へと辿り着く。これらはまた近代短歌の王道といえる主題でもある。
ひとりづつせんぐりせんぐり欠けてゆくその「順番」といふを思へり
体内といふなべて暗闇死してのちほの明るめり四肢の尖端さきより
あかときに誰がための流星ほししやうといひ未生みしやうといへる夢のあはひに
暗き通路の出口は知らず終端のほの明るきは出口にあらず
 先ほど菊池には絶唱は禁じられていると書いたばかりだが、多少訂正しなくてはならないかもしれない。上に引いた三首目など、語の斡旋といい韻律といい、十分絶唱と呼ぶ資格があるからである。しかしその拠って来るところは感情ではなく認識である。
 最後に歌を「書く」ことにこだわる菊池の述志の歌を引いて終わるとしよう。「短歌人会」には小池光や藤原龍一郎や生沼義朗のような男歌の伝統が脈々と流れているが、どうやら菊池ものその一端に連なる歌人のようだ。
びつしりと結露せる窓 短歌てふ「こころざし」朝のきららにかざ

第75回 小池民男『時の墓碑銘』とジョゼフ・コーネルについて

美しき脚折るときに哲学は流れいでたり 劫初馬より
                  水原紫苑
 最近、心に残った二冊の本がある。その一冊は、小池民男『時の墓碑銘(エピタフ)』(朝日新聞社 2006)という。小池は朝日新聞の記者・論説委員で、一時期天声人語も担当していたことがある。この本は2005年から06年にかけて朝日新聞の断続的に連載された文章を一冊にまとめたもの。私は小池の書くものを新聞連載時から愛読していた。そのスタイルは、現代史のなかで発せられた警句や詩の一節を冒頭に掲げ、それにまつわるエピソードやその句が私たちに問いかける意味などを、新聞記者として世界中を駆け回った体験と、古今東西の書物の渉猟によって浮き彫りにするというものである。ひとつひとつは決して長い文章ではなく、単行本にして2頁半程度、字数にして約1500字にすぎない。やってみればわかるが、1500字で読む人の心に何かを残す内容の文章を書くというのは、並大抵のことではない。文章は短ければ短いほど書くのが難しい。全人格と全教養を傾注して呻吟することなしに書けるものではない。
 本書で小池が引く句はさまざまなジャンルに及ぶ。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)、「絶望は虚妄だ、希望がそうであるように」(魯迅)、「此人等信念もなく理想なし」(東郷茂徳)などの思想家・政治家の残した言葉が多いのは、著者が新聞記者なので当然と言える。だがそれと並んで詩歌・文芸からの引用も多く、詩歌をめぐる随想にも味わい深いものがある。例えば「幾時代かがありまして、茶色い戦争ありました」(中原中也)の「茶色い戦争」の意味がはじめて分かったというエピソードが書かれている。ある酒の席での音楽評論家・吉田秀和の「それは中国大陸の大地や砂塵のことです」という指摘によるのだが、吉田はこれを中原の下宿に泊まった時に本人の口から聞いたという。中原中也といえば、作品が国語の教科書にも載る歴史上の人物とつい考えてしまうが、生身の本人を知る人がまだ生きていることに軽い驚きを覚え、自分と歴史が繋がっていると少し感じる瞬間である。
 なかには「テレビカメラはどこかね」(佐藤栄作)のように、その愚かさによって人の記憶に残った句もあるが、引用された言葉のほとんどは天空に輝く星辰のようだ。なかでも私の心に残ったのは、北米最後のインディアン(ネイティブ・アメリカン)のイシが死の間際にささやいた言葉「あなたは居なさい、ぼくは行く」である。イシはヤヒ族の最後の生き残りで、ある日人前に現れて保護され、サンフランシスコの人類学博物館の中で5年間の残りの人生を生きた。その記録は人類学者D・クローバーの妻T・クローバーの著書『イシ 北米最後の野生インディアン』(岩波書店)に詳しい。ちなみにクローバー夫妻の娘が長じてSF作家のアーシュラ・ル・グィンになったことにも、そこになにがしかの因縁を感じてしまうのである。
 小池の文章の主題の多くは、世界を覆う暴力と死と人間の愚かさに関するものだ。決して心躍るものではないが、深夜に一節ずつ読むと心に食い込む。小池が最後の連載を書いたわずか22日後に食道ガンで死去したことも、本書に異様な重みを与えている。まさに一冊の書物が著者の墓碑銘となったわけだ。記者たるもの、以って瞑すべしと言うべきか。
 ちなみに冒頭に掲げた水原の歌が引かれているのは、テンポイントやキーストンなど悲劇の競馬馬を回想した味わい深い文章の中である。
 もう一冊は一年も前なので最近のものではなく、展覧会の図録だから本ですらない。昨年(2010年)の4月から7月まで千葉県の川村記念美術館で開催されていた「ジョゼフ・コーネル×高橋睦郎 箱宇宙を讃えて」という展覧会の図録である。ジョゼフ・コーネル(1903-1972)は、裕福な商人の家庭に生まれるも父親が破産して一家は没落、ニューヨークのクイーンズにある小さな木造家屋に住んで、織物会社に勤務しながら自宅の地下室で作品を作った芸術家である。いや、芸術家と呼べるのかどうかもよくわからない。町を歩いては古道具屋や古書店に入り浸り、そこで買い集めた写真の切り抜きや、浜辺で拾った貝殻などを、手製の小さな木箱に入れたのがコーネルの作品だからである。アメリカのシュルレアリスムの元祖とされることもあるが、実際の作品は中学生の図画工作レベルのものだ。しかしそこには不思議な魅力があり、人を惹き付けるものがある。川村記念美術館2Fの展示会場に上がると、「この世あるいは箱の人」と題された高橋睦郎のコーネル讃が壁一面に書かれている。展示作品にもひとつひとつ高橋睦郎の詩が添えてあり、観覧者はそれを手に取って見ることができるという趣向。薄暗い会場には「ピアノ」というコーネル作品に仕込まれたオルゴールの音楽が低く流れていた。
 展示設計と図録を手がけたのは高橋睦郎と縁の深い半澤潤という人である。文字は活版印刷で、8頁の折ごとに小口を切らず袋とじにするフランス装。紙は手触りのある厚手の紙で、活字もやや不揃いで掠れがあり、全体に古書のようなレトロな雰囲気が充満している凝った装丁である。ショップには小口を切るペーパーナイフまで販売されていて、私も必要ないのについ買ってしまった。展覧会を紹介する単なる図録ではなく、それ自体がジョゼフ・コーネル×高橋睦郎のひとつの作品であり、物としての存在感が強烈に漂うところが只者ではない。ひとつひとつ手作りなので多く作ることができず、展覧会の会期半ばで完売したらしい。知り合いの編集者でコーネル愛好家の人が会期の後半に行って買えず、悔しがっていた。
 展覧会を見終わり、バスとJRを乗り継いで本郷の定宿に戻って間もなく、かねてより療養中の母が亡くなったと連絡が入り、急ぎ京都に戻った。そのため私にとって忘れられない展覧会となったのである。

第74回 長谷川櫂『震災歌集』

人々の嘆きみちみつるみちのくを心してゆけ桜前線
               長谷川櫂『震災歌集』
 東日本を襲った大震災の直後から、新聞歌壇やインターネットには震災短歌が多く寄せられた。大きな出来事は人の心を動かし、心の動きが歌を生み出す。関東大震災の時にも震災短歌が生まれ、先の大戦の後にも戦争短歌や原爆短歌が生まれた。それは歌の生理からして自然な成り行きだろう。
 俳人の長谷川櫂が歌集『震災歌集』を緊急出版した。俳句と短歌の境界を越えて行き来する人はいなくはないが、今まで短歌を発表してこなかった俳人がいきなり歌集を出すのは異例だろう。震災の夜から荒々しいリズムで短歌が次々と湧き上がってきた、という述懐がまえがきに見える。なぜ俳句ではなく短歌だったのだろう。本書は慟哭と憤怒の書である。大きな出来事に遭遇して嘆き悲しみ、事に当たった指導者たちの不手際や無能を目の当たりにした著者は、体温が上がったのだ。体温が上昇したときに俳句は作れない。俳句は低体温の文芸だからである。普段より赤みを増した血液が動脈をドクドクと打つときには、短歌という詩型が召喚される。俳句は言葉を手裏剣のように的に当てる片道通行の文芸だが、短歌は虚空に投げ出した言葉がブーメランのように弧を描き、手許に戻って自分の心を反照する文芸である。震災の夜に長谷川のなかに短歌が溢れ出たのは、このような経緯によるものではないだろうか。
津波とは波かとばかり思ひしがさにあらず横ざまにたけりくるふ瀑布
夢ならず大き津波の襲ひきて泣き叫ぶもの波のまにまに
乳飲み子を抱きしめしまま溺れたる若き母をみつ昼のうつつに
かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子ありはらからあるを
夥しき死者を焼くべき焼き場さへ流されてしまひぬといふ町長の嘆き
 歌集冒頭から引いた。日本人のみならず世界の人が息を呑み、涙に打ち震えたあの光景を、長谷川は雅語を交えた文語定型のなかに定着している。長谷川は単に自らの嘆きと怒りを歌にぶつけたのではあるまい。ここには未曾有の惨事を記録して後世に伝えようという意思が感じられる。そのことは著者が、「死ねる子を箱におさめて親の名をねんごろに書きて路に捨ててあり」という窪田空穂の震災短歌を集中で引用していることからも推察される。このことは『震災歌集』という直截なネーミングを見てもわかるだろう。
 出来事が余りに大きすぎると、それを三十一字に納めることが困難となる。だから引用した一首目のように、集中には字余りの歌が数多い。ところが読んでいて、字余りがまったく歌の瑕疵とは映らない。それは読者の私が震災の悲嘆に感応して言葉の向こう側に行ってしまったからではなく、字余りが作者の心から溢れ出たものの様をそのままに表しているからだろう。いや、というよりも、三十一字に納められなかったという事実そのものが、大きな重みを持って迫って来るからだと言うべきかもしれない。ここには形式の持つもう一つの意味が潜んでいるようにも思われる。
ラーメン屋がラーメンを作るといふことの平安を思ふ大津波ののち
ゲーセンに子どもがあふれてゐることの平安を思ふ大津波ののち
かかる瑣事に今までかまけてゐたるかとはたと驚く大津波ののち
 短歌連作では引用歌のように同じ結句を持つ歌を並べることがある。その機能を詮索することは他日に期するとして、私は読んで「ああ、これは連祷 (litanie)なのだ」と感じた。連祷とはキリスト教のミサ聖祭で、司祭の唱える祈りに詠隊が決まった文句を繰り返す祈りの形式である。同じ結句の反復は寺院の堂宇に響く声明のごとき鎮魂の祈りなのである。これもまた短歌という言葉の有り様が可能にする重みとして受け取るべきだろう。
 長谷川は言葉のプロなので、震災と津波に接した個人的な慨嘆には終わらない。
その母を焼き死なしめし迦具土の禍々つ火の裔ぞ原発
火の神を生みしばかりにみほと焼かれ病み臥せるか大和島根は
新年をかかる年とは知らざりきあはれ廃墟に春の雪ふる
たれもかも津波のあとをオロオロと歩くほかなきか宮沢賢治
鶴となり白鳥となりはるかなる東国へ還れ防人の魂
 最初の二首は、現代科学の粋を集めたはずの原発の惨状を、古事記にこと寄せて詠んだもの。三首目は大伴家持の歌を本歌とし、四首目は宮沢賢治、五首目は柿本人麻呂が下敷きになっている。原発は果たしてプロメテウスの火かと自問するとき、時空を超えて古事記の神話的世界が現代に甦る。また東国に思いを馳せれば、宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』が脳裏をよぎり、奥の細道を歩いた芭蕉や、万葉集の防人の古事が思われるのである。私たちは言葉の世界に生きているが、その言葉は当然ながら現代の言葉だけではなく、過去に放たれた膨大な言葉でもあるのだ。
 歌集には慟哭だけでなく、憤怒もまた満ちている。
原発をかかる人らに任せてゐたのかしどろもどろの東電の会見
おどおどと首相出てきておどおどと何事かいひて画面より消ゆ
国ぢゆうに嘆きの声はみつといへど政争をやめぬ牛頭馬頭のやから
大津波襲ひしあとのどさくさに円買ひあさる餓鬼道のやから
 このような歌が優れた歌となり得ないことは、著者も百も承知の上である。「そんなこと、お前に言われたくない」と言うだろう。しかし長谷川はそれを承知で作っているので、そこにはやむにやまれずということに加えて、「この醜態を記録しておきたい」という願いがこもっているのである。
 このように本歌集は時事詠に分類できるのだが、時事詠に収まらない心打つ歌も少なくない。いくつか引いておこう。
みちのくのとある海辺の老松は棺とすべく伐られきといふ
被爆しつつ放水をせし自衛官その名はしらず記憶にとどめよ
如何せんヨウ素セシウムさくさくの水菜のサラダ水菜よさらば
日本列島あはれ余震にゆらぐたび幾千万の喪の灯さゆらぐ
みちみてる嘆きの声のその中に今生まれたる赤子の声きこゆ
 最後に不思議な歌を一首引く。
嘆き疲れ人々眠る暁に地に降り立ちてたたずむ者あり
 このたたずむ者とは誰か。人の悲惨を哀れんだ神だろうか。それはわからないが妙に心に残る歌である。

第73回 松村正直『短歌は記憶する』

 大学の中庭に面した研究室から眺めていると、強い風にあおられるように桜の花びらが木を離れて空高く舞い上がり、光りながらひらひらと落ちていく。眺めていて飽きることのない光景だが、それ見る気持ちの中には震災の犠牲者を悼む想いがいくぶんかある。今年の桜がいちだんと美しく感じられるのはそのせいかもしれない。
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 『早稲田短歌』40号の巻頭に新会長就任インタビューが掲載されている。長らく会長を務めた佐佐木幸綱が、2008年の定年を機に会長職を辞することになった。早稲田短歌会は予算を伴う正式なサークルなので、どうしても会長が必要らしい。まず内藤明に頼もうということになったが、内藤がすでにちんどん研究会 (何の研究会だろう) の会長なので兼務できないことがわかり、数年前に早稲田大学の文化構想学部に教員として着任していた堀江敏幸に白羽の矢が立ったという。堀江といえば「熊の敷石」で芥川賞を受賞した作家であり、面識はないが私と同じ仏文業界の人間である。これには驚いた。早稲田短歌会は新人会員がひきも切らず入会していると聞く。新会長を戴いてのますますの発展を祈りたい。
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 さて、今回取り上げるのは歌集ではなく、松村正直の評論集『短歌は記憶する』(六花書林 2010年)である。松村はすでに歌集『駅へ』(2001年)と『やさしい鮫』(2006年)を上梓しており、大所帯の結社「塔」の結社誌の編集長を務めている。本書は松村の最初の評論集で、同人誌「D・arts」や「路上」「塔」などに掲載された文章が収録されている。油の乗りきった働き盛りを感じさせる活動ぶりである。
 歌人のなかには短歌を作ることに専念し、歌論を書かない人もいる。しかし明治の近代短歌成立以来、歌論と短歌実作が車の両輪のごとく併存してきたことは周知の事実である。現代短歌を牽引してきた三枝昂之、永田和宏、小池光といった歌人たちの仕事においても、歌論は重要な位置を占めている。その理由はおそらく、近代においては (まして現代においては) 何人も無自覚的に歌人であることができないからだろう。現代の歌人は「今なぜ短歌を作るのか」「短歌とは自分にとって何か」という問題を抱え込んでしまっている。だからその問いに答えようとすると、必然的に歌論を書かねばならないのだ。
 松村の歌論へのスタンスは、『短歌は記憶する』という本書のタイトルがよく示している。短歌にはその歌が作られた時代が刻み込まれており、その意味で時代の記憶装置である、とする短歌観である。だからこの評論集には、第三章にいささかの歌人論が収録されてはいるものの、一人の歌人の作品世界に深く分け入って、その美学と作風を詳細に論じるというスタイルの歌論はない。本書の中核を成すのは、第一章「時代と短歌」と第二章「戦争の記憶をめぐって」である。
 第一章「時代と短歌」には、「サブカルチャーと時代精神」「ゴルフの歌の百年」「短歌に見る家屋の変遷」「仁丹のある風景」の4つの文章が収められている。松村がこのようなテーマに立ち向かうときのスタンスは、「短歌は時代を記憶する。人々の記憶をなまなましく封じ込めている。だから、短歌を読むことによって、時代の持つ雰囲気がまざまざと甦ってくるのだ」というあとがきの言葉に象徴されている。では、このようなスタンスから繰り出される手法はどのようなものか。それは、その時代についての文献を可能な限り渉猟し、忘却された些細な事実を丹念に拾い出すという手法である。これは考古学者か文献学者の方法に他ならない。
   たとえば「サブカルチャーと時代精神」でその例を見よう。松村は、「ああ夕陽 明日あしたのジョーの明日さえすでにはるけき昨日とならば」という藤原龍一郎の有名な歌を取り上げ、TVアニメ化された原作の劇画のタイトルは「あしたのジョー」と「あした」が平仮名表記なのに、藤原の歌では「明日」と漢字表記になっている齟齬に着目する。しかもこの歌が後にアンソロジーや現代短歌文庫の藤原龍一郎集に収録されたときには、表記が原作どおりの「あした」に直されている。これは単なる誤記の訂正だろうかという疑問を梃子に、松村は探偵よろしく推理の隘路に入り込むのである。そして短歌の製作年代を手がかりに、藤原の歌の源流には「明日のジョー昨日の情事蓮の花咲いてさよなら言いしひとはも」という福島泰樹の歌があり、さらに、1970年によど号をハイジャックした赤軍派の「我々は”明日のジョー”である」という宣言にたどり着くのである。
 また「短歌に見る家屋の変遷」では、「鏡なすガラス張窓影透きて上野の森に雪つもる見ゆ」など、子規の歌にガラス窓を詠んだ歌が多いことに注目する。そしてこのガラス窓は、1899年(明治32年)に弟子の高浜虚子らによって据え付けられたものであること、国産ガラスは明治36年に初めて製造されたので、当時は輸入品しかなく高価なものであったことを探り出す。子規が喜んでガラス窓を詠んだ歌を多く残したのには、このような事情があったのである。ガラスはもとはビードロ、あるいはギヤマンと呼ばれており、ガラスという言葉自体も明治時代になって普及した新しい言葉だったという。短歌を時代の記憶装置と見る松村の短歌観がよく発揮された探索だ。
 なかでも私が楽しんだのは「仁丹のある風景」で、琺瑯看板でお馴染みの仁丹のヒゲ男の顔は、京都の町名表示板には必ず付いていたものだ。この文章で松村は、仁丹の野立て看板の減少から説き起こし、製造元の森下仁丹の歴史や広告戦略に触れ、昔の短歌にいかに仁丹の広告塔を詠んだものが多いかを明らかにしている。今では見られないが、昔は天を突くような巨大な仁丹の広告塔があったらしい。町歩きと建築探偵が趣味の私には、仁丹の広告がかつて日本の風景の一部を形作っていたことは、とりわけ興味深く感じられる。その名残りは京都の町名表示板に残る仁丹のヒゲ男として、今でも見ることができる。
 仁丹と戦争との関わりは、第二章「戦争の記憶をめぐって」への橋渡しの役割を果たしているだろう。第二章で松村は、短歌に詠まれた軍馬がたどった運命、靖国神社、終戦記念日、ヒロシマなど、戦争と短歌の関わりという難しい問題にも切り込んでゆく。街歩き好きの私には「サンシャインビルの光と影」がとりわけ興味深かった。池袋のサンシャインビルが先の大戦の戦犯が勾留・処刑された巣鴨プリズンの跡地に建設されたということは知っていたが、松村の調査はここでも周到で細かい。隣接した小公園がかつての刑場で、そこにひっそりと記念碑が建っていることは知らなかった。
 『塔』2011年3月号に谷村はるかが本書の書評を書いている。あるトピックをめぐる短歌を集めてそこから見えて来るものをあぶり出す松村の手法を、谷村は「輪切り手法」と呼び、その調査の周到さは認めているものの、おおむね批判的立場に終始している。谷村の論点は二つある。その一は、本書における松村の短歌の読みが外堀から埋めるような読み方で、短歌の内実に迫っていない浅い読みだという点。その二は、松村がしばしば「日本人」を短歌の読みの枠組みとしていることで、もっと根源的な「人間」を枠組みとすべきだという批判である。
 いずれも一見するともっともな批判で、谷村と同じ土俵で反論することは難しい。しかし松村の土俵は谷村と同じではない。批判その一について言うと、松村の本書における関心事は短歌の読み自体ではなく、短歌と時代との関わりである。そこから「輪切り手法」が生まれたのだから、谷村の批判は、「そんなことに関心を持つな」と松村に言うに等しい。その二についても似たことが言える。私たちはもちろん人間として生きているのだが、同時に日本人としても生きており、それ以外に、会社の社員だったり、町内会の役員だったり、はたまた誰かの愛人として生きていたりするのである。以下のもろもろを省略して、いちばん大きな枠組みだけで生きろと言うのは不当である。短歌がその他もろもろの細部を掬い上げるのに適した詩型であることは、多くの人が認めるところではないか。
 松村は結社誌「塔」でずっと「高安国世の手紙」を連載している。結社「塔」の創設者であった高安が残した手紙をたんねんに読み解く作業だが、そこでも松村の関心の中心は時代との関わりである。「塔」の2010年12月号の年間回顧座談会で、大辻隆弘はこの松村の連載に注目し、高安が戦争にノータッチだった理由の一つがドイツ文学専攻だったからだと書いたことに言及している。なるほどと納得させられる指摘で、もし敵国だったフランス文学専攻だったら弾圧され、ノータッチではいられなかっただろう。戦後になって桑原武夫が「第二芸術論」を著して俳句や短歌などの伝統詩型を攻撃したのは、桑原がフランス文学専攻だったことと無関係ではない。
 しばしば言われることだが、真実は細部に宿る。『短歌は記憶する』はそのことを改めて教えてくれる書物である。蛇足ながら造本の良さも印象に残る。 

第72回 佐藤弓生『薄い街』

暮れながらたたまれやまぬ都あり〈とびだすしかけえほん〉の中に
                    佐藤弓生『薄い街』
 本書は昨年(2010年)末に刊行された佐藤弓生の第三歌集である。本コラムの前身「今週の短歌」で2004年8月に第一歌集『世界が海におおわれるまで』を、そして「橄欖追放」としてリニューアルした第一回目の2008年4月に第二歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため』を取り上げているので、佐藤は今回で三度目となり、本コラム最多登場である。
 歌集題名の『薄い街』とは不思議なタイトルだが、巻末近くで稲垣足穂の短編に由来することが明かされる。「この街は地球上に到る所にあります。ただ目下のところたいへん薄いだけです」という引用があり、次に「手ぶくろをはずすとはがき冷えていてどこかにあるはずの薄い街」という歌が、あたかも稲垣の引用にたいする反歌のごとくに置かれている。どうやらこの「反歌」が本歌集のコンセプトらしい。本歌集で引用されているのは泉鏡花、安西均、澁澤龍彦、吉田秀和、シュペルヴィエルなどで、このような構成によって一巻が言葉の交響曲のようにも感じられる。
 さて、本歌集の内容だが、私は通読してこの歌集は〈声〉をめぐる主題と変奏ではないかと感じた。どこからか声がする。その声はこの世のどこからか聞こえて来るのかもしれないし、この世ならぬ場所から聞こえて来るのかもしれない。低く流れるその声に〈私〉はじっと耳をすます。そのような印象を受ける歌が多い。たとえば次の歌にははっきりと声が登場している。
満天にいま噎せかえる沈黙の、死後の朝より呼ぶ声きこえ
ドードーの声はしらねどほろぶべき歌ドードーの声もてうたう
毛穴おしひらかるる春おしなべて木々はくるしき声もつものを
こよなし とアジサシならぬ声すれば今宵こよなく美しい鳥
おひさま、とつぶやく声に中陰を泳いでおいでわたしの睡魔
風かつて声帯をもてかく云えり──おれはことばといっしょに死ぬよ。
あとすこし、すこしで星に触れそうでこわくて放つ声──これが声
 「死後の朝」とあるから一首目の声はこの世の外から聞こえる声だろう。二首目のドードーはもう絶滅した鳥なので、誰もその鳴き声を知らない。しかしその知らないはずのドードーの声で歌うという断言が世界の反転を生む。三首目では木の声が詠われているが、これは自然の人格化であり、逆方向の人間の自然化と並んで佐藤の歌にはよく見かける対象把握である。四首目は「こよなし」「こよい」「こよなく」の音連鎖がひとつの眼目である歌だが、「アジサシならぬ声」とは不思議な声である。このことは五首目の歌にも言えて、いったい誰の声なのかわからない。ちなみに「中陰」とは仏教用語で、死んで次の生に転生するまでの期間をいい、四十九日のことである。六首目は風の声で、「おれはことばといっしょに死ぬよ」は澁澤龍彦の『高丘親王航海記』からの引用。
 これらの歌を見てもわかるように、誰の声なのかとか、どこから聞こえて来るのかなどと問うても無駄なのだ。それは世界に満ちている声なのである。作者はその声にそっと耳をすます。そのとき口から流れ出る歌には、悲しみとかすかな滅びの予感が刻印されている。
 世界に満ちている声は、果てしない日常を生きる我ら凡夫の耳には聞こえない。そんなものに耳を傾けていたら仕事にならないからである。詩人の仕事は我ら凡夫に代わって秘やかな声を聴くことである。私たちが詩人にたいしていささかの無軌道や放埒を大目に見るのはこのためである。
 佐藤の作風については過去二回のコラムで詳しく論じたので、ここで繰り返すことはしないが、本書を読んであらためて感じるのは佐藤の短歌における〈私〉の設定の自在さである。いやむしろ融通無碍と言うべきか。古典和歌の持つ普遍性・抽象性・集団性から、明治の短歌革新を経て個別性・具象性・個人性へと転轍して以来、近代短歌は〈私〉の一貫性を基軸としており、それは今でも変わらない。若手歌人においてもほとんどはそうである。例として若手の実力派・澤村斉美の歌を引いてみよう。
グラウンド・ゼロの廻りをわが行けばからびし飛蝗足を追い越す
              澤村斉美「視界のアメリカ」『豊作』4号
かはきゆくみづのかたちを見てゐれば敷石の上ひかりうしなふ
絵はとほく言葉に隔てられてをりノートの中の冷たきひかり
 これらの歌には明確な視点に支えられた一貫した〈私〉がある。言葉のすべてはたとえ遠くに飛ばされても、最終的には一人の〈私〉へと送り返されるという構造になっている。ところが佐藤の歌の〈私〉はときに風となり、ときに虫となり、あるいは他人になって、あらゆる時空に出現するのである。
まてんろう 海をわたってわたしたち殖えてゆくのよ胞子みたいに
エリス・アイランドの霊のひとつなるわたくしでした 日本ここに生まれて
新世界交響曲は耳に雪触れくるようでしたか、ジョバンニ
いっせいにミシンのペダル踏む学園あたしは赤い暗号を縫う
酢のような夕映えだからここにいるぼくらは卵生だった きっとね
 一首目の「わたしたち」はヨーロッパから大西洋を渡って新大陸に移民した人たちで、エリス島は入国管理事務所のある島だった。歌の中の〈私〉は移民のなかの一人かと思えば、二首目では日本に生まれたとなっている。三首目では『銀河鉄道の夜』の主人公に語りかけていて、四首目では女学園の生徒らしく、五首目の「ぼくら」が誰なのかはまったくわからない。ファンタジーと言ってしまえばそれまでなのだが、短歌を徹底して一人称の文学だと考える立場からは批判があるだろう。
 同じことは時間についても言える。佐藤の歌には未来を懐かしみ過去を前望するような転倒した時間がある。
階段にうすくち醤油香る朝わたしがいなくなる未来から
星動くことなき夜のくることもなつかし薄き下着干しつつ
ぜったいに来ない未来のなつかしさバナナフィッシュの群れのまにまに
ほがらかに喪服の群れがくだりくる朝のメトロに 生はなつかし
 一首目では未来から醤油の香りが匂って来るのだが、その未来には私はもういない。存在と非在とが捻れた時空間のなかで共存しているかのような奇妙な感じか残る。また二首目の「星動くことなき夜」というのは地球が自転を止める遙かな未来だが、それが「なつかしい」というのも転倒した時間意識である。同じように三首目でも未来がなつかしいと断定されている。「バナナフィッシュ」はサリンジャーの小説『バナナフィッシュにうってつけの日』に登場する架空の魚だから、ここにも反転された非在の世界がある。バナナフィッシュの名前を多くの人は吉田秋生の名作コミックで知った。四首目に登場する喪服の群れは葬儀を連想させ、「生はなつかし」は死後からこの世を眺める目線だろう。
 佐藤はこのように時空を自在に遊弋する。佐藤が逍遙する街とは、どこにでもある街でありながら、同時にどこにもない街であり、それが「薄い街」ということなのではないかと思われる。それは詩精神がすくい取った世界であり、現実世界と似ていながら、現実世界と同一のものではない。誰もが日常目にしていながら、誰一人目に入っていない、そのような時空間かと思われる。佐藤が歌によってこのような世界を眼前に現出させるときに用いている手法は、すでに上でも述べたように意味の反転と時空の捻れといった手法である。このようにして出現する世界は、永田和宏がかつて『表現の吃水』(1981年)で美しい数学の比喩を用いて「虚数平面」と呼んだ世界とそれほど隔たっているとは思えない。佐藤の作風はリアリズムから遠く離れているにもかかわらず。
 理屈はこれくらいにして、あらためて本歌集に収められた秀歌を鑑賞しよう。
老いやすき少年のごと春昼はおのずとたわむ背骨をもてり
ふなべりのあかりが呑まれゆくあたりほら、ほんとうの夜があそこに 
フリューリンク、と歌うみどりのわたつみにピアノはしずみるいるいしずみ
塩壺の匙のむらさき深海に腐蝕されゆく船のたよりに
ハンカチをひらけばうすくひるがえり横切る夜を墜ちないで、鳥
舌先を愚者フールみたいにつきだせば冬のおわりのあおぞらにがい
虚空からつかみとりては虚空へとはなつ詩人の手つき花火は
はなびらはよこにながれる春の日の橋わたりゆくわが傍らを
 一首目の「春昼しゅんちゅう」は俳句の季語で、のんびりと時間の流れる春の午後のこと。少年が老いやすいのはもちろん時間が早く流れるからであり、時間の経過を骨の変形によって描いている。時間が主題の一首である。二首目は幻想的な風景を描いているが、「あかりが呑まれ / ゆくあたり / ほら、ほんとうの」の句割れがささやくような肉声を感じさせ魅力的だ。なべて歌においては破調やリズムの破れが息遣いを感じさせるのはおもしろいことである。三首目で誰かが歌っているのはドイツ語の歌曲だろう。下句の「しずみるいるいしずみ」の平仮名の連続が、どこで切れるのか一瞬とまどうところがこの歌の魅力となっている。海に無数のピアノが沈んでゆくというイメージも鮮烈。四首目はほとんど言葉だけでできているような歌で、このような歌の魅力を説明するのは難しい。『俳句という遊び』(岩波新書)で藤田湘子が「よそながら音なき日あり龍の玉」という三橋敏雄の句を評して、「意味もクソもないすべての言葉が龍の玉という季語に奉仕していて、それだけの句だが、それでいながら読み終わった後に龍の玉が見えてくるんだ」と言い放ったのを思い出す。佐藤の歌ではもちろん「塩」「海」「船」の縁語と、「匙のむらさき」と「腐蝕」の共鳴関係が意味のネットワークを巧妙に作っていて、そこから立ち上がるイメージが歌のすべてだろう。五首目では上句のハンカチのイメージと、下句の鳥への呼びかけとの対比が寓話的世界を作っている。佐藤の文体はほぼ100%文語から文語と口語の混合まで幅広いが、六首目はほぼ口語の歌。英語でfoolと発音するとき、唇が丸まって前に突き出される身体感覚も、歌の意味に寄与しているだろう。七首目は現代短歌のフィクサーだった中井英夫へのオマージュ。詩人の営為のすべてを語っているような言葉である。八首目は永井陽子の秀歌「あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡に花びらながれ」と遠く響き合う歌。上句の平仮名の連なりが読字時間を引き延ばして、春の駘蕩とした雰囲気を生み出し、「はなびら」「春」「日」「橋」のh音が心地よいリズムを作り出している。こういう歌を読むと、日々の塵埃で脳にできてしまったシワが伸びるような気がする。
 歌集巻末に引用文献と音盤の書誌情報があるので、佐藤の手引きに従って引用された小説や詩を読んでみるのも一興だろう。私もそう言えばフィリップ・K・デイックの『流れよわが涙、と警官は言った』がダウランドのFlow my tearsからの引用だったことを久しぶりに思い出した。埃を被った文庫本を書架の奥から探し出してみようか。

第71回 大木あまり『星涼』

真桑瓜戦時の父の手紙かな
       大木あまり『星涼』
 若い人はもう真桑瓜マクワウリを知らないかもしれない。果皮が薄黄色か白色の瓜である。現在ほどさまざまなメロンの品種が出回る以前、口に入る瓜類はこれしかなかった。だから掲句は昭和のノスタルジーを感じさせる。真桑瓜は夏の季語だから、季節は夏である。昭和の夏の事件といえばヒロシマ・ナガサキの原爆と終戦記念日だろう。これに盂蘭盆会も加わる。夏は鎮魂の季節である。庭先で真桑瓜を食べながら、古い箱から父親の手紙を取り出して読み返している。戦時中に出征先から家族に送った手紙である。
 この父とは詩人の大木惇夫である。大木惇夫は1941年に招集を受けて、ジャワに配属されている。敵前上陸の際に乗艦が魚雷攻撃を受け、九死に一生を得たという。大木惇夫はなかんずく「戦友別杯の歌」で記憶されている詩人である。俳優の森重久彌はこの詩をことに好み全編暗誦したと聞く。
言ふなかれ 君よ、わかれを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言はん、(後略)
 戦後、大木惇夫は戦争協力文学者のレッテルを貼られ、不遇のうちに1977年に没している。私は学生時代に男声合唱をやっていたので、大木惇夫の詩は馴染みが深い。男声合唱の作曲家として神様的存在の多田武彦が大木惇夫の詩を好み、合唱曲をいくつか残しているからである。たとえば「雨の日に見る」がそうで、今でも詞も曲も全部覚えている。
冬、ほのぐらい雨の日は
朱欒ざぼんが輝く、
朱欒が
これは目をひらいて見る夢なのか。

街燈は ぬれている、
泥靴は喘いでいる、
風は雀をふっ飛ばしている、
人間の後ろ姿はいそいでいる、
歌は絶えている、
電線は攣っている、
枯木はふるえている、
わたしの身体は凍えている、
わたしは祈りをわすれている、
そうして、わたしはただ見る、
ほのぐらい雨の影のなかに
ぽっかり朱欒が浮かぶのを 輝くのを。
 俳人大木あまりは大木惇夫の実娘である。本業は画家のようだが、母親に勧められて俳句を始め、「河」で角川源義に師事している。その後、「人」「夏至」「古志」などを経て、現在は無所属。石田郷子らと同人誌「星の木」を立ち上げて、主にそこを発表の場としている。
 『俳句という遊び』(岩波新書 1995)の中で小林恭二は大木を評して、「ひと言で言って絢爛と呼びたいような書きぶり」であり、「どこにでもあるような言葉も、一旦彼女の手に触れられると、内面に持っていた色が解放されて、見たこともない鮮やかな光沢を放ち始めるのである」と書いた。『星涼』は第五句集で、大木はこの句集により読売文学賞を受賞している。版元のふらんす堂では重版がかかっているようだ。句集では珍しいことである。
 さて大木の作風は有季定型である。現代俳句の中には、遠く離れた言葉を結合させて、言葉と言葉の軋みが火花のように生み出す美を追究するような作風もあるが、大木の俳句はこのような立場からはほど遠い。どこまでも言葉の配列に無理がなく、抽象語は極力避けて日常の自然な言葉から作られている。新人の注目株である神野紗希は、特に好む俳人として大木と正木ゆう子を挙げているが、わかる気がする。
盆のもの引きつつ早き潮かな
赤梨を振るやかすかに水の音
新宿はひつそり木の実降るところ
逝く夏や魚の気性を玻璃ごしに
毒の針しづかに立てて貝の秋
 一句目の「盆」は盂蘭盆会で夏の季語。「盆のもの」は精霊流しか、小さな舟に供物を入れて流すものをさす。それが海に出て引き潮に乗って流されていく様を詠んだもの。この世に戻って来た故人の霊との再びの別れの時である。「引きつつ」が効いている。二句目の「赤梨」は豊水や幸水などの名で知られる果皮が赤茶色の梨のこと。もちろん秋の季語である。梨を振ったところでほんとうに水の音がするわけではない。しかし梨はことに果汁の豊富な果実であり、詩的誇張として納得できる。三句目、新宿のような大都会にも公園や民家の庭先に実のなる木はある。しかしそれに気づく人は少ないので「ひつそり」なのだろう。身めぐりの日常に寄せる細やかな視線が感じられる句である。四句目、「魚の気性」とあるが、「糞引いて闘魚あらそふ夜明けかな」の句もあり、どうやら水槽の中で飼われているのは闘魚らしい。五句目、貝の中には確かにサキシトキシンという毒を持つものもあるが、毒針を立てる貝は寡聞にして知らない。しかし秋の浜辺で静かに毒針を立てる貝というのは美しい心象風景である。
 大木が俳句に手を染めるきっかけとなったのは自身の病らしい。俳句と病気には深い縁があり、それこそ正岡子規の脊椎カリエスに始まり、松本たかしの神経衰弱、住宅顕信の白血病など枚挙に暇がない。病気と死は大木にとって親しい主題である。
花の種柩に入る約束を 
百合の柩閉めても百合の匂ひけり
願わくは滴りこそを死水に
病歴に似てながながと蛇の衣
笹粽家にて死ぬるつもりなし
わが死後は空蝉守になりたしよ
星涼しもの書くときも病むときも
 例えば二句目、死者を見送るために柩に百合の花を入れたのだろう。出棺を迎えて柩を閉じても百合の香りが匂うという描写は鮮烈である。季語は百合で夏。三句目の「滴り」は、岩や苔から滴るしずくをいい夏の季語である。滴りこそを我が死に水にしたいという美しい覚悟の句。しかしこのように病気や死を詠んでも、大木の句は悲愴感や虚無感とは徹底的に無縁である。意のままにならぬものがありながらも世界を静かに受け入れて、対象をありのままに見つめる眼差しがある。
愛猫は火薬の匂ひして月夜
さより食うて血の一滴まで詩人 (注)
見つめあふことかなはざる雛かな
口笛やあの日も水に花びらが
水馬つるむや影のなきごとく
 大木は愛猫家として知られており、猫はよく登場する主題である。火薬の匂いというところに危険な香りがする。二句目は塚本邦雄を詠んだ句かとも思うのだがどうだろう。さより・独活・牡蛎は塚本が特に好んだ食材である。本句集には雛の句も多い。男雛と女雛は並んで正面を向いており、決して見つめ合うことがないというのも、言われて初めて気づくことである。四句目は珍しくやや主観に流れた句だが、「口笛」が郷愁を誘い淡い記憶の場面のようである。五句目の「水馬」は「みずすまし」と読み、アメンボのことで夏の季語。アメンボの軽やかさを捉えて間然とするところがない。
 最後にもう一句。
死ぬまでは人それよりは花びらに
 「花びら」とはもちろん桜の花びらのことである。言葉のなだらかな配列にまったく無理がない。高い技巧をもってして初めて可能なことである。大木の俳句では中心に季語があり、かといって他のすべてが季語に奉仕するというのでもなく、言葉の中で季語が生きている。一読して世界が更新されるような気がするところに、優れた短詩型文学の醍醐味がある。そんなことを思わせてくれる句集である。

(注)「さより」は原文では魚偏に「箴」と書く漢字だが表示できないのでご容赦いただきたい。

第70回 豆本愛、またはアナログれくいえむ

  先日、大阪の中之島にある東洋陶磁器美術館で陶芸家ルーシー・リー展を見た。亡命先のロンドンで活動したリーの繊細な造形と深みのある色彩を十分に堪能した。しかしこの展覧会には思わぬ余録が付いていたのだ。神は時に思わぬ偶然を用意してくれる。美術館の目に付きにくい片隅で、鼻煙壺コレクションが展示されていたのだ。鼻煙壺びえんことは、かぎ煙草を入れるミニボトルで、17世紀末頃から中国で盛んに製作されたという。材質は陶器・ガラス・象牙・金属など多岐にわたり、美しい彩色や彫刻・象眼などが施されている。誰でもひと目見たら魅了されることまちがいない。そして多くの人が「私も集めて並べてみたい」と考えるだろう。私も初代ファミリーマート社長を務めた沖正一郎氏のコレクションを時間を忘れて見入ってしまい、そう思ったのである。
 人は鼻煙壺のようなミニチュアの細工物を見ると、本能的に愛玩し蒐集してみたくなる。ミニカーしかり、電車の模型しかり、人形や箱庭やドールハウスしかりである。なぜだろう。美しい細工が施されていたり、実物が細部まで精巧に再現されているということもあるが、いちばんの理由は「小さい」ということではないだろうか。物の大小は相対的な概念である。ゾウは私たちには大きく見えるが、クジラや絶滅したマンモスに比べれば小さい。私たちは動物園でゾウを眺めて「大きいなあ」と言うとき、無意識のうちに自分の身体を基準にして比較しているのだ。私たちは小さいものに愛情を感じる。リスやハムスターのような小動物は人気があるし、最近はチワワやミニチュアダックスのような小型犬がブームである。だから鼻煙壺もふつうの陶器などよりも小さいというところに魅力の本質があるのだ。もし鼻煙壺が花瓶ほどの大きさになって飾り棚に置かれていたら、私たちはそれほどの魅力を感じないだろう。
 本の世界では豆本というものがある。正確な定義はないが、掌に納まるほどの大きさの本を総称してそう呼ぶ。豆本の世界も奥深いもので、その筋にはちゃんとコレクターがいるようだ。読書にはまったく向かない豆本を作るのも、小さい物への愛情のなせる業にちがいない。
 私の手許には短歌関係の豆本がいくつかある。とても楽しいのは歌人村上きわみと川柳作家なかはられいこの「まめきりん」だ。蛇腹式の豆本で、表紙裏にはマーブル紙の装飾もあり、ビーズの付いた紐でくくるようになっている凝った造本である。内容は二人の散文詩に村上の短歌となかはらの川柳が挿入されたもの。
うずまきをほどけばきんいろの翼 なかはられいこ
さようなら竜王の牙
 (火のように (遠い雷 (お別れします  村上きわみ
 ずっと豆本サイズで出版されているのが、川添英一責任編集の「流氷記」で、すでに54号を数えている。
橋あれば橋渡りゆく安威川に白鷺一羽足浸し佇つ  川添英一
 野口綾子の『トウキョウガーリーシック』は豆本よりはやや大きい掌サイズである。現代を生きる若い女性の奔放な口語短歌。
かみしめる白い歯ばかり削られてひらいた足のあいだにはまた
とどこおるあたしを無視してのびていくつめまるく切り揃えれば
 これも掌サイズなのは石川美南が仕掛け人の『夢、十夜』で、石川に加えて佐藤弓生・謎彦・平井弘・光森裕樹の共作。夏目漱石の初期小説でロマン主義の色濃い『夢十夜』を下敷きに短歌を詠むというなかなかおもしろい趣向だ。
常夜灯つけつぱなしで寝る吾の夢にさぶしきつちふまずあり  光森裕樹
気が散つてならぬ視界の片隅に付箋一枚ふるへてゐたる  石川美南
リア・ディゾンそつくりさんを一夜づつ取つ替へ夏のゑにつきを画く
                              謎彦
額をまたいだけはひの暗がりをははとおもひこんだまでのこと  平井弘
金網のかなたレグホンほのしろくうすくらがりにうかみておりぬ
                            佐藤弓生
 話題を転じるが、昨今の出版界は電子本の話題で持ちきりである。Apple社のiPad発売が引き金となり、各社タブレット型パソコンや電子リーダーをこぞって発売し、電子本の配信サービスも本格的に動き始めた。出版界では電子本の普及は黒船到来か否か、紙版の本は果たして生き残れるのかが焦点となっている。
 本のコンテンツのデジタル化の恩恵は否めない。最大のメリットは迅速な検索を可能にすることだが、視覚面も忘れてはなるまい。弱視などの視覚障害者や老眼に悩む人にとって、本の電子化は福音にちがいない。電子本では画面の選択によって文字の大きさを自由に変えられるからである。
 しかしあらゆる技術の進歩には光と陰が伴う。今でもパソコン画面上で長時間にわたって本や論文を読むことが苦手な私は、紙版の本から電子本に移行することは決してないだろう。また電子本にはいくつか欠点があることも事実である。電子本の最大の欠点は、今自分がどのあたりを読んでいるのかわからなくなることだと、内田樹がどこかで書いていた。紙版の本だとページ数を確認するまでもなく、めくられたページの厚さで最初の方なのか終わりの方なのかは物理的に確認できる。また電子本では画面に表示されている文字の大きさを大きくするとページ数が増え、小さくすると減るという。紙版の本では固定されているページ数が電子本では変幻自在なのだ。これでは自分が現在何ページ目を読んでいるかということが意味を持たなくなる。本のコンテンツが文字データの塊になってしまうのである。
 このことが持つ意味は決して小さくない。私は拙著『新版 文科系必修研究生活術』(ちくま学芸文庫)に読書術の心得のひとつとして、「本はできれば図書館から借りずに自分で買って読みなさい」と書いた。その理由は、借りて読んだ本は記憶に残らないからである。これは体験的事実であり、共感してくれる人も多いと思う。確かに借りて読んだ本は記憶に残りにくい。その理由はいくつかある。ひとつは、自分で買って読んだ本ならば、大事な部分に傍線を引いたり、余白に書き込みをしたりして読むが、借りた本ではこれができないことである。また自分で買った本ならば読んだ後、書架に並べておく。必要に応じてまた手に取ることもできるし、そうしないまでも背表紙は常に目に入る。これが記憶の強化を助けるようだ。つまり自分で買った本は物理的実体として手近に残るということが、内容の定着に必要なのである。電子化された本は文字データの塊なので、物理的実体がない。この点で私たちの記憶への残り方において、紙版の本とは異なるであろうことは、ほぼまちがいないと思われる。
 電子本の世界では豆本が成立しないことは言うまでもない。そもそも造本という概念が消滅するのである。もし私がそのことを嘆いたら、それはグーテンベルク世代、つまり旧世代の単なるノスタルジーにすぎないと言われてしまうだろう。しかしそれはちがう。私たちが豆本に感じるのは、私たちの身体を無意識の基準とする「小さい」という身体的感覚である。それは私たちの感性の奥深い所につながっている。電子本の文字データには私たちの相対的感覚が通用しない。デジタルデータは二進法のゼロと1からなる絶対的世界である。電子本の最大の欠点は、身体感覚の喪失である。私はそう思うのだが、あまりそのことを指摘した人はいないのはなぜだろう。

第69回 山田航「夏の曲馬団」その他

ああ檸檬やさしくナイフあてるたび飛沫けり酸ゆき線香花火
                          山田航「夏の曲馬団」 
 平成21年(2009年)に第55回角川短歌賞を受賞した連作「夏の曲馬団」冒頭の歌である。レモンを切ったときに切断面から飛び散る果汁の飛沫を線香花火に喩えたもので、特に難解な所はない。しかし初句が「ああ檸檬」である。現代短歌で「ああ」で始まる歌はそう多くない。
ああ夕陽 明日のジョーの明日さえすでにはるけき昨日とならば
                        藤原龍一郎
ああこんな処に椿 十年を気づかずにこの坂を通いぬ  佐佐木幸綱
ああかくも物の如くに犀は立ち疾走の衝動を踏んでいるのか
                      花山多佳子
 「ああ」は感動を表す間投詞としては、今では大仰に過ぎると感じられる。だから山田が掲出歌で初句に用いているのは意図的なのである。さらに「飛沫しぶけり」「酸ゆき」と古めかしい文語が続き、結句は昔懐かしい線香花火と来ればもうその意図性は明らかだろう。北海道の同人誌「アーク・レポート」3号のインタヴューで山田は、「寺山修司さん風にしようというコンセプトがありましたね」と率直に語っている。山田はやや古風でノスタルジーを感じさせる抒情の世界をコトバで構築することを狙ったのだ。「ああ檸檬」に始まる入り方といい「飛沫けり」の倒置法といい、現代短歌を十分に研究した跡が見られる筆の達者さである。
 山田航やまだわたるは1983年生まれ。角川短歌賞受賞のことばによれば、21歳の時に突然短歌が読みたくなって、書店で『寺山修司青春歌集』を買ったのだという。なぜ突然短歌が読みたくなったのか、興味あるところだが、たぶん自分でもうまく答えられまい。青春期特有の鬱屈が山田を寺山に向かわせたのだと思われる。続いて『一握の砂』と穂村弘『ラインマーカーズ』を買ったそうだ。書店に置いてある歌集を安い方から買っただけだということだが、『一握の砂』は除くとして、札幌の書店の品揃えがその後の山田の辿る道筋を決めたようだ。その道筋とは抒情とニューウェーブ短歌である。
 山田はその後、極めてユニークなことを始める。図書館に通って過去の短歌作品を大量に読み、ブログで短歌評論を始めたのである。短歌実作の前に短歌評論を手がけるのは珍しい。この評論は「トナカイ語研究日誌」として現在も続いているが、この評論活動が山田の短歌実作の糧となり、また過去の短歌に学ぶ姿勢を形成したことは疑いない。その後、2008年に同人誌「かばん」に入会。「アークの会」と「pool」でも活動している。特筆すべきは角川短歌賞を受賞したのと同じ2009年に、「樹木を詠むという思想」で第27回現代短歌評論賞を受賞したことである。角川短歌賞と現代短歌評論賞の同年ダブル受賞は前例がない。短歌界が山田の今後に大いに期待する所以である。
 さて、山田短歌の特質は何かということになると、まだ作風が固まっていない若い歌人の場合、これを見定めるのはなかなか難しい。次席の紅月みゆき「シュレディンガーの猫」と競り合った角川短歌賞の選考座談会では、「心の凹凸のようなものが自然な言葉で歌われている」(小島)、「あまりにも健康的過ぎずかつ神経質過ぎない (…)非常にナチュラル」(三枝)、「誰もが見ているけれど普段気がつかないようなことで、確かな目があってそれが抒情のふくらみになっている」(永田)などと評されている。何首か引いてみよう。
知らぬ間に解けてしまつた靴紐がぴちぴち跳ねて夏がはじまる
調律師のゆたかなる髪ふるへをり白鍵が鳴りやみてもしばし
楽器庫の隅に打ち捨てられてゐるタクトが沈む陽の方を指す
停車場にとんぼは浮かび夕焼けに鈍くきらめくあかがねの屋根
百葉箱のぞく仕事を半世紀続けたといふ母方の祖父
 こうして改めて眺めてみると、応募作品をまとめるに当たって山田が極めて意識的に戦略を練っていることがわかる。「どのあたりを狙うか」をうまく考えているのである。題名にもある「曲馬団」や、「調律師」「停車場」「百葉箱」「標本室」「路面電車」「映写技師」など、セピア色を帯びた言葉が並ぶ。その他にも絶滅しつつある洋書店や喫茶店が登場し、祖父や父の名も出る。しかし、上に引いた五首目の「母方の祖父」が実在するとか、四首目の夕焼けの停車場を山田が実際に見たなどとは思えない。これは山田が選び抜いた言葉たちによって作り上げた、コトバで出来た世界である。その手つきがあまりに巧みなので、まるでほんとうの世界のように見えているのである。短歌製作のこの手法において、山田は同じく若手でも野口あや子などのように、自分の感性の井戸からコトバを汲み上げるタイプとは明らかに異なる。
 「ああ檸檬」の歌で始まる連作「夏の曲馬団」は、次の歌で終わっている。
掌のうへに熟れざる林檎投げ上げてまた掌にもどす木漏れ日のなか
 林檎が優れて寺山的アイテムであることは言うまでもないが、冒頭の「ああ檸檬」で醸し出した青春性と心の翳りを、連作の掉尾を飾る林檎の歌で受けて締めくくる構成の巧みさも際だっている。「アーク・レポート」3号のインタヴューで山田は、以前は連作を作るときにはドラマ的な物語を構築しようとしていたが、ドラマ性を曖昧にして意図的に弛めた方がよいと考えるようになり、その実験として誕生したのが「夏の曲馬団」だと述べている。この連作観は卓見と言ってよかろう。たしかにあまりに物語的に構成された短歌連作は、虚構性が前面に出て、わざとらしさが目についてしまう。不思議なことだが、連作の中に他の歌とは調子のちがう歌やヘタな歌が混じっていたほうが、作者の肉声と息遣いが感じられてリアリティーが増す。「夏の曲馬団」にも、「人はみな空が恋しく壁面に空を映したビルを見上げる」のように、お世辞にも上手いとは言えない歌があり、選評で永田に「これじゃまるで中島みゆきだよ」と評されているが、こういう歌も混じっていた方がよいのである。
 今年(2011年)に入って同人誌「かばん」がぶ厚い新人特集号を出した。この号に山田は30首を寄稿し、荻原裕幸と東直子が評を書いている。「珈琲牛乳奇譚(ミルク増量ver.)」がその題名である。ちなみにver.はversionの略で、「珈琲牛乳奇譚」はすでに「pool」7号に発表しており、その改作版なので「ミルク増量ver.」となっているのだ。この連作を見ると「夏の曲馬団」の歌人とはまるで別人のようである。
カフェオレじやなくてコーヒー牛乳といふんだきみのそのやり方は
たばこ吸うまねしてぷうつと息を吐く望郷なんてぼくたちにはない
祈りではないんだらうな目を閉ぢて午後のベンチに凭れることも
でもぼくはきみが好きだよ焼け焦げたミルク鍋の底撫でてゐるけど
水飲み場の蛇口をすべて上向きにしたまま空が濡れるのを待つ
酔つ払へるカフェオレ「カルアミルク」なるものの噂で街はもちきり
 旧仮名による定型という作りは同じでも、ずっと口語的でポップ感が増している。評のなかで荻原は二点を指摘している。まず山田は西田政史のニューウェーブ短歌から多くを摂取しているということ、次に荻原が最も注目する五首目の歌によって、山田はニューウェーブの方法論と従来の秀歌観との間に何らかのつながりを見つけようとしているということである。第二の点について私はよくわからないのだが、「アーク・レポート」3号のインタヴューで山田は、荻原裕幸や西田政史らが好きだったので「玲瓏」に入会することも考えたと述べているのを見ると、確かに山田は西田政史の唯一の歌集『ストロベリー・カレンダー』を読んでいるのである。西田の歌を引いてみよう。
ヴォネガット二冊と猫を左手にTシャツのきみ暮らす部屋まで
レアチーズケーキに向かふくれなゐの火星を食べてきたやうな口
珈琲にミルク注ぎて「毎日がモカとキリマンジャロのほどの差ね」
 バブル経済の好景気を背景に豊かな生活を享受した時代の若者が、それでも感じざるを得ない虚無感がどこまでも明るくポップに表現されているのが西田の短歌である。山田はポスト・ニューウェーブ世代に属するのだが、ひとつ上の世代のニューウェーブ短歌が行ったことをその跡をたどるようにして咀嚼し、その成果を自分の抽斗に加えようとしているのだろう。上に引用した山田の「祈りではないんだらうな目を閉ぢて午後のベンチに凭れることも」という歌に注目すると、評で東が指摘しているように、従来の近代短歌では無意識の動作のなかに潜在的な祈りを読み取ろうとする傾向があったのに対して、山田は「祈りではないんだらうな」と否定的態度を取りながらも、断定はせずに含みを残しているところに、近代短歌と完全に切れた位置で作歌をしているのではない山田の微妙なスタンスが感じられる。
 山田の強みは過去の膨大な短歌の資産を渉猟して学んでいることにある。まだ作風が固まっているとは言えない歌人だが、いずれ短歌の鉱脈のなかから自分に繋がる言葉を発見するだろう。

第68回 笹井宏之『てんとろり』

雨によく似たいきものが小さめのくるみを割っている冬の庭
                 笹井宏之『てんとろり』 
一昨年(2009年)一月に急逝した笹井宏之の第二歌集『てんとろり』が、遺歌集として九州の書肆侃侃房から出版された。Book Parkのオンデマンドでしか買えなかった第一歌集『ひとさらい』も、同時に同じ出版社から出た(この場合は再版になるのだろうか)。まずはこのことを喜びたい。『てんとろり』の巻末には加藤治郎の哀切な「あとがき」と、編集の労を取った中島裕介の「製作ノート」が付されている。このように亡くなった歌人の遺稿を整理・編集して出版できるのは、短歌結社の持つ力のひとつだろう。結社に属さず単騎で歌を作っている歌人なら、すべての作業を遺族か友人が行なうしかない。
 『てんとろり』には笹井が本名の筒井宏之名義で佐賀新聞に発表していた歌も収録されている。これらの歌は笹井本人の判断で、第一歌集『ひとさらい』には収められなかったものだという。加藤と中島の判断でこれらの歌が今回収録され、歌人笹井の全貌を知ることができるようになったのは喜ばしい。その理由は「読者がそれを読めるから」というだけに留まらない。もっと大きな意味があるのである。
 芸術家が死を迎えたとき、残された人間がしなくてはならないことがふたつある。作品の散逸を防ぐことと、作品を正しく後世に伝えることである。絵画や彫刻の場合は、遺族が美術館にまとめて寄贈したり、志あるコレクターが買い集めることで、散逸を防止することができる。短歌の場合は、雑誌などの媒体に発表されたり、作ったまま筐底に残されて、歌集に収録されていない歌を掘り起こし、作られた時の姿で後世に伝えなくてはならない。その際に重要になるのが本文校訂である。
 文学作品は作者が最初に書いた形で世に出るとは限らない。まず作者自身が推敲して最初の原稿に手を入れる。新聞小説の王者バルザックは、初稿に真っ赤になるまで手を加えるので、新聞社泣かせだったそうだ。次に編集者が手を加えることもある。中井英夫はよくこれをした。また印刷されるときの誤植もある。つまり作品は世に出るまでのいくつかの段階で異同が生じるのである。本文校訂とはこれらの異同を精査して定本を作る作業をいう。しかしここに問題が横たわっている。何を「真の作品の姿」と認定するかという問題である。作者自身が最初の原稿Aに大幅に手を加えた原稿Bを出版社に渡したとする。世に出るのは原稿Bである。しかし残った原稿Aはどうだろうか。最初の原稿は作者の原初的発想を伝えていないだろうか。また井伏鱒二のように代表作『山椒魚』が全集に収録される際に、終結部を削除してしまった人もいる。このとき削除前の形を真の姿とするのか、それとも削除後のものを定本とするのか。
 このように文学作品は流布し印刷される度ごとに姿が変化する。だからこそ作者がこの世を去ってまだ時間が経過しておらず、作品の散逸と変形が進行していない時に、作品の真の姿を伝える定本を残すことが大事なのである。今後笹井の作品に言及する時には、今回出版された二冊の歌集が定本となるだろう。
 『てんとろり』に収録された筒井宏之名義の作品を読んで驚いた。次のような作品が並んでいるのである。
いくとせも鏡のなかを歩みゐる我とけふまた目を合わせけり (2006.6.22)
花冷えの竜門峡を渡りゆくたつたひとつの風であるわれ (2007.4.19)
ひとときの出会ひのために購ひし切符をゆるく握りしめたり (2007.5.10)
伝へたきひとがゐるゆゑこの歌にあかときの両翼はひらきぬ (2007.6.14)
顔をあらふときに気づきぬ吾のなかに無数の銀河散らばることを (2008.5.15)
 旧仮名を用いた定型短歌で、『ひとさらい』の基調をなすニュー・ウェーブ短歌とはまるで別物である。歌の後に付した発表時期に注目してほしい。笹井が第4回歌葉新人賞に応募したのは2005年6月で、10月に賞を獲得し、第一歌集『ひとさらい』が上梓されたのは2008年1月のことである。だから佐賀新聞に発表されたこれらの作品は、『ひとさらい』以前の習作というわけではなく、『ひとさらい』と同時期に平行して作られたもので、それ以後のものすらある。これはどう考えればよいのか。最も可能性が高いのは、笹井が発表媒体によって戦略的に語法を変えたということだろう。つまり笹井はほっておいても井戸の底から言葉が湧き上がって来るという天然型や、天から言葉が降って来るという巫女系憑依型の歌人ではなく、極めて意識的に文体を作り上げた作者だということになる。もちろん穂村の言う「棒立ちのポエジー」でもないことは言うまでもない。上に引いた歌を見ても、近代短歌の骨法をよく学んで自分のものにしていることがわかる。笹井がこういう歌も作ろうと思えば作れる人だったということは大きな発見である。これによって笹井の他の歌の見方が変わる。これしかできないというのと、他のこともできるがこれを選択したというのでは、そのあり方の意味が違うからである。
   上に引いた歌には近代短歌の根幹をなす〈私〉と〈視点〉があることにも注意しよう。一年前にこのコラムに書いた笹井宏之論でも指摘したことだが、笹井の歌の特徴は、「日常的話し言葉と平仮名の多用、かなり緩い定型意識、特定の視点の不在、それと連動する短歌的〈私〉の希薄化、薄く淡い抒情」であり、特に視点の不在による〈私〉の希薄化が著しい。このことは『てんとろり』にも共通して言えることである。
雪であることをわすれているようなゆきだるまからもらうてぶくろ
うつくしいみずのこぼれる左目と遠くの森を見つめる右目
折鶴の羽をはさみで切り落とす 私にひそむ雨の領域
ゆめをみる水槽として純白の魚を一尾むねへしずめる
あめいろの空をはがれてゆく雲にかすかに匂うセロファンテープ
 語としての「私」や「あなた」は歌の中にあっても、それが視点主体として機能していない。だから歌の情景が誰の目から見たものか判然としない。これが逆に、極限まで希薄化した〈私〉がエーテルのように世界全体に薄くただよっているような効果を生んでいる。また例えば一首目の「雪であることをわすれているような」のように、まるで序詞のように名詞にかかる連体修飾句が多用されていて、この語法もまた笹井の世界構築の手法として生かされている。これもまた90年代に短歌の世界で起こった「修辞ルネサンス」(加藤治郎)の流れの中にあり、現代の新しい序詞と見なせるのではないだろうか。連体修飾句の多用の結果、体言止めの歌が多くなることは以前の文章でも指摘したところである。ランダムに拾ったら、五首中四首が体言止めの歌になった。また結句が用言の場合でも、「まちがえる」や「シーツをかける」のようにル形(終止形)が用いられており、これが歌と世界の接続を回避していることもすでに指摘したとおりである。このような語法が押し上げる世界は、どこか幻想的で夢の中のようでもあり、笹井に細心に選ばれた雪や雲や魚のようなシンボル的アイテムが静かに浮遊する世界である。その世界を冷気のような切なさと悲しみがうっすらと覆っている。
 『ひとさらい』には、「フライパンになりませんかときいてくる獅子座生まれの秋田生まれの」とか「くわがたを折り曲げている寝室に近い将来猫が産まれる」のように、どうにも意味の取れない歌がかなりあった。以前に書いたコラムでは、意味の束縛を脱して言葉の連接によるポエジーをめざすと、あまりに言葉が飛躍しすぎてこのような歌になると書いたが、『てんとろり』ではこのような意味の取れない歌はぐんと少なくなっている。
夕立におかされてゆくかなしみのなんてきれいな郵便ポスト
折り鶴をひらいたあとにおとずれる優しい牛のようなゆうぐれ
スパゲティ素手でつかんだ日のことを鮮明に思い出しまちがえる
 『てんとろり』に収録された歌はこのように、ほぼ定型に沿って作られており、意味解釈を阻止する言葉の飛躍も比較的少ない。どうやら笹井は言葉の連接によるポエジーの立ち上げの段階を脱して、言葉とイメージの純化の方向へと踏み出したようだ。現代短歌のこのような試行の先に何が待っているのか、もう見ることができないのが残念でならない。
 『てんとろり』は主として「未来」に発表した歌が中心になっている。またほぼ同時期に『えーえんとくちから 笹井宏之作品集』(PARCO出版)も出版されたが、こちらは未見である。最初に書いたように、こうして三回忌に残された作品の定本が出たのは喜ばしい。しかしこれで全部だろうかという疑問が残る。聞くところによると、笹井はネット投稿から歌歴を始めたという。とすると初期の作品はネットにのみ掲載されたものもあり、中にはそのサイトがもはや存在しないものもあるかもしれない。本文校訂は文学作品の命だが、インターネット時代を迎えて本文校訂に新たな課題が生まれたと言えるかもしれない。日本文学史上、未完成の遺稿がフロッピーディスクのデジタルデータとして発見された初めての文学者は安部公房だそうだが、今や遺稿がインターネット上に発見される時代を迎えたのである。短歌の断片が電脳空間のどこかをいつまでも漂っているというのも、どこか笹井の作品世界に似合っているという気がしてくるのが不思議である。

第67回 鎌倉千和『ゆふぐれの背にまたがりて』

ゆふぐれの背にまたがりて駆けてゆくきのふの街に手をふりながら
            鎌倉千和『ゆふぐれの背にまたがりて』 
  日々の暮らしでポッカリと時間の空くことがある。夕食までの20分とか就寝までの30分とかという時間が空くと、まとまったことをするには足りないし、かと言ってボンヤリ過ごすのももったいない。そういう時に私が好んでするのは、ウィスキーをちびりちびりと舐めながら事典を読むことである。書架に揃っている三省堂の『現代短歌事典』『現代俳句事典』『現代詩事典』を引っ張り出して、どこでもよいから開いたページを読む。どこから始めてもいいし、どこで終わってもよいというのが、この読み方の利点である。そうやって偶然に出会ったのが今回の掲出歌だ。
 一読して語調の柔らかさと韻律の滑らかさに引きつけられる。どこにもごつごつとした無理なところがない。31音の定型は[4・1][2・5][3・2][4・3][2・5] の韻数律に分配されており、上句と下句でそれぞれ[多・少] と[少・多] が規則的に交替しているのが、滑らかな韻律を生み出している秘密である。また硬質な漢語がなく、平仮名を多用していることも柔らかい印象をさらに強めている。意味の面に目を移すと、夕暮れの背に跨るという幻想的なイメージが鮮烈な印象を与えている。作歌の基本が写実ではなく、心の中に独自の世界を持っている人だろうなと想像できる。
 もっと読んでみたいと思ったが、『ゆふぐれの背にまたがりて』は1978年出版の歌集で入手は困難だ。こんなときに便利なのが三枝昂之・田島邦彦編『処女歌集の風景』(ながらみ書房 1987)である。この本は戦後生まれの歌人の第一歌集からの抜粋で編まれたアンソロジーで、鎌倉の『ゆふぐれの背にまたがりて』も抜粋が収録されている。今回は併せて第三歌集『薔薇感覚』(沖積舎) も入手して読んだ。
 鎌倉千和かまくらちわは1950年生まれ。國學院大學に学び「國學院短歌」を経て、岡野弘彦の創刊した「人」に加わる。「人」の終刊後は「短歌人」に所属。第一歌集『ゆふぐれの背にまたがりて』、第二歌集『地の緑に向きて降りよ』(1983年)、第三歌集『薔薇感覚』(1987年) がある。
 鎌倉の第一歌集が出た1978年(昭和53年)はどういう年だろうか。時局的には70年安保闘争と学園紛争は数年前に終息し、日本が高度消費社会へと向かい始めた頃である。日本社会が安定感を強めて行く時期に当たり、10年後にはバブル経済の時代を迎えることになる。1978年に出版された歌集には、岡井隆『天河庭園集』、宮柊二『忘瓦亭の歌』、岡野弘彦『海のまほろば』、玉城徹『われら地上に』、小池光『バルサの翼』、花山多佳子『木の下の椅子』などがある。宮(1912年)、岡野(1924年)、玉城(1924年)、岡井(1928年)など、1910年代(大正初期)から20年代(大正末期から昭和初期)生まれの戦中派歌人が円熟期を迎え、その一方で数年前から歌壇に登場して来た一群の歌人たちを篠弘が「微視的観念の小世界」と評したのもこの年である。もう少し後に女歌のうねりが起るも、87年のサラダ現象で吹き飛ばされることになる。おおよそこのような時代背景である。
 こんな時代背景の中に『ゆふぐれの背にまたがりて』を置いて読むと、実に不思議な感覚を味わうことになる。時代のうねりとはまったく関係なく、時代を超越しているからである。
のぼりきる坂はろばろとゆふぐれは孔雀の羽にかさなりて展ぶ
菜の花も散りぬと聞くに首ながきむすめのあゆむ街は明るし
ゆふぐれとゆふやみのあはひ支へゆく橋あり薔薇をもちてわたらむ
昏れ方を風生れたれば杉の秀のあたりかなしみよりも透れり
ゆふやけのきはまれるとき「架橋」とふかくもうつくしきことばおもひぬ
 歌人を乱暴に「人生派」と「コトバ派」とに二分すると、鎌倉はコトバ派に属する。人生派の主要なテーマは、小池光がいみじくも指摘したように広義の「恨み」であるから、人生派の人はおおむね次のような歌を作る。
肉体の重さに針は揺れている おのれを量る夜更けのへや
           武藤雅治『指したるゆびは撃つために』
乗り超えることの険しさ峙てる崖いつだってひとつしかない
             武井一雄『わが裡なる君へ贈る歌』
 同じ1978年に出版された歌集から引いた。これら人生派の歌の基調をなす自己凝視が言葉の圧の高さを生み出している。一方、コトバ派の歌人は逆のベクトルから発想し、コトバを組み合わせることによって現実とは異なるひとつの世界を浮上させようとする。その究極の形態が「芸術のための芸術」(l’art pour l’art)を標榜したボードレールの球体世界である。さて鎌倉の歌を見ると五首目に「架橋」という言葉があり、鎌倉が浜田到に傾倒していることがわかる。このことが鎌倉の歌を読み解くひとつの鍵になるだろう。浜田はリルケの詩を好み、震えるような繊細な詩想の中に天上的世界を幻視した特異な歌人である。鎌倉は確かにコトバ派の歌人ではあるが、言葉の組み合わせの彼方に現出する透明な何物かを希求していると言えそうである。
 このことは鎌倉の「夕暮れ偏愛」にも現れている。上に引いた歌は二首目を除いてすべて夕暮れの歌であることに注意しよう。夕暮れは昼の世界が退いて夜の世界が訪れる境界で、物の形がおぼろげになる時間帯である。昼にも夜にも属さない、曖昧で両義的な特異時間である。夕暮れを好む人は、昼の強い光にくまなく照らされた現実世界(リアル)でもなく、夜の闇に包まれた夢と幻想の世界(イマジネール)でもない、いずれとも決めがたいそのあわいに心惹かれるのだ。上に引用した二首目「ゆふぐれとゆふやみのあはひ支へゆく橋あり薔薇をもちてわたらむ」がこのことをよく表していよう。ここでは昼と夜の境界よりもさらに細かい夕暮れと夕闇の境界に焦点が合わされており、そこに橋が架かっているという。この橋は浜田の「架橋」の橋と相似形である。歌の中の〈私〉はこの橋を薔薇を抱えて渡るという。薔薇は浜田へのオマージュであると同時に、自らの短歌営為を象徴するものでもあろう。
胸くらくいだきて飛ばむゆふまぐれ眼閉ずれば持つまぼろしの羽
ゆふやみもともにすくへば両の掌に息づくやうにみづは匂ひぬ
人界を踏みしめて立つまさびしきあなうらといふをわれは持つなり
ほそきくび虚空にのべてとぶ鷺の眼にてぶだういろに匂ふゆふやみ
すれちがひたる少年の香あはき罪に似て蓼ひとむらの吹かれてゐたり
 こう考えてみると鎌倉の歌においては、形式(韻律)が意味にまことによく奉仕していることがわかる。前衛短歌が多用した硬質な漢語や句割れ・句跨りなどの定型の再構築の試みは、「オリーブ油の河の中にマカロニを流したやうな」短歌定型の韻律を人工的に堰き止めることで、歌に思想性を付与せんとする試行であった。鎌倉が目指しているのはこれとは逆の道である。短歌定型の滑らかな韻律に言葉を嵌め込むことで、そのかなたに現実とも幻想とも区別のつかない心象に彩られた世界を立ち上げること、これが鎌倉が第一歌集で目指したことだと思われる。鎌倉の歌は「まぼろしの羽」への希求を詠ったものなのである。だからこうしてできた歌の世界が時代のうねりを超越しているのは当然のことと言えよう。
 第三歌集『薔薇感覚』は第一歌集から9年の年月を経て編まれたもので、沖積舎の企画した現代女流短歌双書の一巻として上梓された。第一歌集の統一された歌の世界はすでになく、作者が年齢を重ねるとともに歌にリアルが流入して来たものと思われる。
二十世紀こんこんと暮るるとおもひつつ息深くゐる闇の樹の下
あゆみ入ればいよよ濃く揺るる炎昼に太く描くべしわれの輪郭
この日頃いよよ虚ろなれば我それに徹してもみむからだを据ゑて
これの世を超えて漂泊さすらふおほいなる羽ばたきありぬ風のもなかに
遠くみゆる鉄橋を電車過ぐるなり暮れゆけば骨笛のやうなる電車
 『ゆふぐれの背にまたがりて』に色濃く漂っていた幻想的な雰囲気は影を潜め、それと軌を一にするように夕暮れ偏愛も姿を消している。それに替わって一首目の闇や二首目の炎昼と作者の〈私〉が頭をもたげて来る。これがざらざらとしたリアルの手触りなのだろう。
 鎌倉が第三歌集を出した同じ87年に『サラダ記念日』が一大ブームを巻き起こし、話題の中心はライト・ヴァースに舵を切ることになる。同年に加藤治郎が『サニー・サイド・アップ』、翌88年に荻原裕幸が『青年霊歌』、90年に穂村弘が『シンジケート』を世に問い、ニュー・ウェーブ短歌の流れが本格的に始まるのである。そんな流れから見ると鎌倉の第三歌集はいささか離れた場所にあると言えるだろう。
 しかしこのような短歌史的な背景を勘案したとしても、第一歌集『ゆふぐれの背にまたがりて』の作りだした世界の独自性はいささかも揺らぐことはない。フェミニズムと女歌の隆盛、ニュー・ウェーブ短歌の勃興といった後に続く時代の流れからは超然としてその世界は立っている。まるで異星から降り落ちて来た鉱物のようだ。上に引いた「ゆふやみもともにすくへば両の掌に息づくやうにみづは匂ひぬ」をそっと口ずさむと、多く用いられているya・yu・yoの半母音とmとnの鼻子音が歌全体を柔らかく包み、ゴツゴツしたr音や濁音が最小限に抑えられているため、流れるようになだらかな韻律が生まれている。現代の若手歌人の作る歌からこのような韻律は失われている。鎌倉の歌を読むと、「短歌は単なる一行詩ではない」ということをあらためて思い知らされるのである。