第69回 山田航「夏の曲馬団」その他

ああ檸檬やさしくナイフあてるたび飛沫けり酸ゆき線香花火
                          山田航「夏の曲馬団」 
 平成21年(2009年)に第55回角川短歌賞を受賞した連作「夏の曲馬団」冒頭の歌である。レモンを切ったときに切断面から飛び散る果汁の飛沫を線香花火に喩えたもので、特に難解な所はない。しかし初句が「ああ檸檬」である。現代短歌で「ああ」で始まる歌はそう多くない。
ああ夕陽 明日のジョーの明日さえすでにはるけき昨日とならば
                        藤原龍一郎
ああこんな処に椿 十年を気づかずにこの坂を通いぬ  佐佐木幸綱
ああかくも物の如くに犀は立ち疾走の衝動を踏んでいるのか
                      花山多佳子
 「ああ」は感動を表す間投詞としては、今では大仰に過ぎると感じられる。だから山田が掲出歌で初句に用いているのは意図的なのである。さらに「飛沫しぶけり」「酸ゆき」と古めかしい文語が続き、結句は昔懐かしい線香花火と来ればもうその意図性は明らかだろう。北海道の同人誌「アーク・レポート」3号のインタヴューで山田は、「寺山修司さん風にしようというコンセプトがありましたね」と率直に語っている。山田はやや古風でノスタルジーを感じさせる抒情の世界をコトバで構築することを狙ったのだ。「ああ檸檬」に始まる入り方といい「飛沫けり」の倒置法といい、現代短歌を十分に研究した跡が見られる筆の達者さである。
 山田航やまだわたるは1983年生まれ。角川短歌賞受賞のことばによれば、21歳の時に突然短歌が読みたくなって、書店で『寺山修司青春歌集』を買ったのだという。なぜ突然短歌が読みたくなったのか、興味あるところだが、たぶん自分でもうまく答えられまい。青春期特有の鬱屈が山田を寺山に向かわせたのだと思われる。続いて『一握の砂』と穂村弘『ラインマーカーズ』を買ったそうだ。書店に置いてある歌集を安い方から買っただけだということだが、『一握の砂』は除くとして、札幌の書店の品揃えがその後の山田の辿る道筋を決めたようだ。その道筋とは抒情とニューウェーブ短歌である。
 山田はその後、極めてユニークなことを始める。図書館に通って過去の短歌作品を大量に読み、ブログで短歌評論を始めたのである。短歌実作の前に短歌評論を手がけるのは珍しい。この評論は「トナカイ語研究日誌」として現在も続いているが、この評論活動が山田の短歌実作の糧となり、また過去の短歌に学ぶ姿勢を形成したことは疑いない。その後、2008年に同人誌「かばん」に入会。「アークの会」と「pool」でも活動している。特筆すべきは角川短歌賞を受賞したのと同じ2009年に、「樹木を詠むという思想」で第27回現代短歌評論賞を受賞したことである。角川短歌賞と現代短歌評論賞の同年ダブル受賞は前例がない。短歌界が山田の今後に大いに期待する所以である。
 さて、山田短歌の特質は何かということになると、まだ作風が固まっていない若い歌人の場合、これを見定めるのはなかなか難しい。次席の紅月みゆき「シュレディンガーの猫」と競り合った角川短歌賞の選考座談会では、「心の凹凸のようなものが自然な言葉で歌われている」(小島)、「あまりにも健康的過ぎずかつ神経質過ぎない (…)非常にナチュラル」(三枝)、「誰もが見ているけれど普段気がつかないようなことで、確かな目があってそれが抒情のふくらみになっている」(永田)などと評されている。何首か引いてみよう。
知らぬ間に解けてしまつた靴紐がぴちぴち跳ねて夏がはじまる
調律師のゆたかなる髪ふるへをり白鍵が鳴りやみてもしばし
楽器庫の隅に打ち捨てられてゐるタクトが沈む陽の方を指す
停車場にとんぼは浮かび夕焼けに鈍くきらめくあかがねの屋根
百葉箱のぞく仕事を半世紀続けたといふ母方の祖父
 こうして改めて眺めてみると、応募作品をまとめるに当たって山田が極めて意識的に戦略を練っていることがわかる。「どのあたりを狙うか」をうまく考えているのである。題名にもある「曲馬団」や、「調律師」「停車場」「百葉箱」「標本室」「路面電車」「映写技師」など、セピア色を帯びた言葉が並ぶ。その他にも絶滅しつつある洋書店や喫茶店が登場し、祖父や父の名も出る。しかし、上に引いた五首目の「母方の祖父」が実在するとか、四首目の夕焼けの停車場を山田が実際に見たなどとは思えない。これは山田が選び抜いた言葉たちによって作り上げた、コトバで出来た世界である。その手つきがあまりに巧みなので、まるでほんとうの世界のように見えているのである。短歌製作のこの手法において、山田は同じく若手でも野口あや子などのように、自分の感性の井戸からコトバを汲み上げるタイプとは明らかに異なる。
 「ああ檸檬」の歌で始まる連作「夏の曲馬団」は、次の歌で終わっている。
掌のうへに熟れざる林檎投げ上げてまた掌にもどす木漏れ日のなか
 林檎が優れて寺山的アイテムであることは言うまでもないが、冒頭の「ああ檸檬」で醸し出した青春性と心の翳りを、連作の掉尾を飾る林檎の歌で受けて締めくくる構成の巧みさも際だっている。「アーク・レポート」3号のインタヴューで山田は、以前は連作を作るときにはドラマ的な物語を構築しようとしていたが、ドラマ性を曖昧にして意図的に弛めた方がよいと考えるようになり、その実験として誕生したのが「夏の曲馬団」だと述べている。この連作観は卓見と言ってよかろう。たしかにあまりに物語的に構成された短歌連作は、虚構性が前面に出て、わざとらしさが目についてしまう。不思議なことだが、連作の中に他の歌とは調子のちがう歌やヘタな歌が混じっていたほうが、作者の肉声と息遣いが感じられてリアリティーが増す。「夏の曲馬団」にも、「人はみな空が恋しく壁面に空を映したビルを見上げる」のように、お世辞にも上手いとは言えない歌があり、選評で永田に「これじゃまるで中島みゆきだよ」と評されているが、こういう歌も混じっていた方がよいのである。
 今年(2011年)に入って同人誌「かばん」がぶ厚い新人特集号を出した。この号に山田は30首を寄稿し、荻原裕幸と東直子が評を書いている。「珈琲牛乳奇譚(ミルク増量ver.)」がその題名である。ちなみにver.はversionの略で、「珈琲牛乳奇譚」はすでに「pool」7号に発表しており、その改作版なので「ミルク増量ver.」となっているのだ。この連作を見ると「夏の曲馬団」の歌人とはまるで別人のようである。
カフェオレじやなくてコーヒー牛乳といふんだきみのそのやり方は
たばこ吸うまねしてぷうつと息を吐く望郷なんてぼくたちにはない
祈りではないんだらうな目を閉ぢて午後のベンチに凭れることも
でもぼくはきみが好きだよ焼け焦げたミルク鍋の底撫でてゐるけど
水飲み場の蛇口をすべて上向きにしたまま空が濡れるのを待つ
酔つ払へるカフェオレ「カルアミルク」なるものの噂で街はもちきり
 旧仮名による定型という作りは同じでも、ずっと口語的でポップ感が増している。評のなかで荻原は二点を指摘している。まず山田は西田政史のニューウェーブ短歌から多くを摂取しているということ、次に荻原が最も注目する五首目の歌によって、山田はニューウェーブの方法論と従来の秀歌観との間に何らかのつながりを見つけようとしているということである。第二の点について私はよくわからないのだが、「アーク・レポート」3号のインタヴューで山田は、荻原裕幸や西田政史らが好きだったので「玲瓏」に入会することも考えたと述べているのを見ると、確かに山田は西田政史の唯一の歌集『ストロベリー・カレンダー』を読んでいるのである。西田の歌を引いてみよう。
ヴォネガット二冊と猫を左手にTシャツのきみ暮らす部屋まで
レアチーズケーキに向かふくれなゐの火星を食べてきたやうな口
珈琲にミルク注ぎて「毎日がモカとキリマンジャロのほどの差ね」
 バブル経済の好景気を背景に豊かな生活を享受した時代の若者が、それでも感じざるを得ない虚無感がどこまでも明るくポップに表現されているのが西田の短歌である。山田はポスト・ニューウェーブ世代に属するのだが、ひとつ上の世代のニューウェーブ短歌が行ったことをその跡をたどるようにして咀嚼し、その成果を自分の抽斗に加えようとしているのだろう。上に引用した山田の「祈りではないんだらうな目を閉ぢて午後のベンチに凭れることも」という歌に注目すると、評で東が指摘しているように、従来の近代短歌では無意識の動作のなかに潜在的な祈りを読み取ろうとする傾向があったのに対して、山田は「祈りではないんだらうな」と否定的態度を取りながらも、断定はせずに含みを残しているところに、近代短歌と完全に切れた位置で作歌をしているのではない山田の微妙なスタンスが感じられる。
 山田の強みは過去の膨大な短歌の資産を渉猟して学んでいることにある。まだ作風が固まっているとは言えない歌人だが、いずれ短歌の鉱脈のなかから自分に繋がる言葉を発見するだろう。

第68回 笹井宏之『てんとろり』

雨によく似たいきものが小さめのくるみを割っている冬の庭
                 笹井宏之『てんとろり』 
一昨年(2009年)一月に急逝した笹井宏之の第二歌集『てんとろり』が、遺歌集として九州の書肆侃侃房から出版された。Book Parkのオンデマンドでしか買えなかった第一歌集『ひとさらい』も、同時に同じ出版社から出た(この場合は再版になるのだろうか)。まずはこのことを喜びたい。『てんとろり』の巻末には加藤治郎の哀切な「あとがき」と、編集の労を取った中島裕介の「製作ノート」が付されている。このように亡くなった歌人の遺稿を整理・編集して出版できるのは、短歌結社の持つ力のひとつだろう。結社に属さず単騎で歌を作っている歌人なら、すべての作業を遺族か友人が行なうしかない。
 『てんとろり』には笹井が本名の筒井宏之名義で佐賀新聞に発表していた歌も収録されている。これらの歌は笹井本人の判断で、第一歌集『ひとさらい』には収められなかったものだという。加藤と中島の判断でこれらの歌が今回収録され、歌人笹井の全貌を知ることができるようになったのは喜ばしい。その理由は「読者がそれを読めるから」というだけに留まらない。もっと大きな意味があるのである。
 芸術家が死を迎えたとき、残された人間がしなくてはならないことがふたつある。作品の散逸を防ぐことと、作品を正しく後世に伝えることである。絵画や彫刻の場合は、遺族が美術館にまとめて寄贈したり、志あるコレクターが買い集めることで、散逸を防止することができる。短歌の場合は、雑誌などの媒体に発表されたり、作ったまま筐底に残されて、歌集に収録されていない歌を掘り起こし、作られた時の姿で後世に伝えなくてはならない。その際に重要になるのが本文校訂である。
 文学作品は作者が最初に書いた形で世に出るとは限らない。まず作者自身が推敲して最初の原稿に手を入れる。新聞小説の王者バルザックは、初稿に真っ赤になるまで手を加えるので、新聞社泣かせだったそうだ。次に編集者が手を加えることもある。中井英夫はよくこれをした。また印刷されるときの誤植もある。つまり作品は世に出るまでのいくつかの段階で異同が生じるのである。本文校訂とはこれらの異同を精査して定本を作る作業をいう。しかしここに問題が横たわっている。何を「真の作品の姿」と認定するかという問題である。作者自身が最初の原稿Aに大幅に手を加えた原稿Bを出版社に渡したとする。世に出るのは原稿Bである。しかし残った原稿Aはどうだろうか。最初の原稿は作者の原初的発想を伝えていないだろうか。また井伏鱒二のように代表作『山椒魚』が全集に収録される際に、終結部を削除してしまった人もいる。このとき削除前の形を真の姿とするのか、それとも削除後のものを定本とするのか。
 このように文学作品は流布し印刷される度ごとに姿が変化する。だからこそ作者がこの世を去ってまだ時間が経過しておらず、作品の散逸と変形が進行していない時に、作品の真の姿を伝える定本を残すことが大事なのである。今後笹井の作品に言及する時には、今回出版された二冊の歌集が定本となるだろう。
 『てんとろり』に収録された筒井宏之名義の作品を読んで驚いた。次のような作品が並んでいるのである。
いくとせも鏡のなかを歩みゐる我とけふまた目を合わせけり (2006.6.22)
花冷えの竜門峡を渡りゆくたつたひとつの風であるわれ (2007.4.19)
ひとときの出会ひのために購ひし切符をゆるく握りしめたり (2007.5.10)
伝へたきひとがゐるゆゑこの歌にあかときの両翼はひらきぬ (2007.6.14)
顔をあらふときに気づきぬ吾のなかに無数の銀河散らばることを (2008.5.15)
 旧仮名を用いた定型短歌で、『ひとさらい』の基調をなすニュー・ウェーブ短歌とはまるで別物である。歌の後に付した発表時期に注目してほしい。笹井が第4回歌葉新人賞に応募したのは2005年6月で、10月に賞を獲得し、第一歌集『ひとさらい』が上梓されたのは2008年1月のことである。だから佐賀新聞に発表されたこれらの作品は、『ひとさらい』以前の習作というわけではなく、『ひとさらい』と同時期に平行して作られたもので、それ以後のものすらある。これはどう考えればよいのか。最も可能性が高いのは、笹井が発表媒体によって戦略的に語法を変えたということだろう。つまり笹井はほっておいても井戸の底から言葉が湧き上がって来るという天然型や、天から言葉が降って来るという巫女系憑依型の歌人ではなく、極めて意識的に文体を作り上げた作者だということになる。もちろん穂村の言う「棒立ちのポエジー」でもないことは言うまでもない。上に引いた歌を見ても、近代短歌の骨法をよく学んで自分のものにしていることがわかる。笹井がこういう歌も作ろうと思えば作れる人だったということは大きな発見である。これによって笹井の他の歌の見方が変わる。これしかできないというのと、他のこともできるがこれを選択したというのでは、そのあり方の意味が違うからである。
   上に引いた歌には近代短歌の根幹をなす〈私〉と〈視点〉があることにも注意しよう。一年前にこのコラムに書いた笹井宏之論でも指摘したことだが、笹井の歌の特徴は、「日常的話し言葉と平仮名の多用、かなり緩い定型意識、特定の視点の不在、それと連動する短歌的〈私〉の希薄化、薄く淡い抒情」であり、特に視点の不在による〈私〉の希薄化が著しい。このことは『てんとろり』にも共通して言えることである。
雪であることをわすれているようなゆきだるまからもらうてぶくろ
うつくしいみずのこぼれる左目と遠くの森を見つめる右目
折鶴の羽をはさみで切り落とす 私にひそむ雨の領域
ゆめをみる水槽として純白の魚を一尾むねへしずめる
あめいろの空をはがれてゆく雲にかすかに匂うセロファンテープ
 語としての「私」や「あなた」は歌の中にあっても、それが視点主体として機能していない。だから歌の情景が誰の目から見たものか判然としない。これが逆に、極限まで希薄化した〈私〉がエーテルのように世界全体に薄くただよっているような効果を生んでいる。また例えば一首目の「雪であることをわすれているような」のように、まるで序詞のように名詞にかかる連体修飾句が多用されていて、この語法もまた笹井の世界構築の手法として生かされている。これもまた90年代に短歌の世界で起こった「修辞ルネサンス」(加藤治郎)の流れの中にあり、現代の新しい序詞と見なせるのではないだろうか。連体修飾句の多用の結果、体言止めの歌が多くなることは以前の文章でも指摘したところである。ランダムに拾ったら、五首中四首が体言止めの歌になった。また結句が用言の場合でも、「まちがえる」や「シーツをかける」のようにル形(終止形)が用いられており、これが歌と世界の接続を回避していることもすでに指摘したとおりである。このような語法が押し上げる世界は、どこか幻想的で夢の中のようでもあり、笹井に細心に選ばれた雪や雲や魚のようなシンボル的アイテムが静かに浮遊する世界である。その世界を冷気のような切なさと悲しみがうっすらと覆っている。
 『ひとさらい』には、「フライパンになりませんかときいてくる獅子座生まれの秋田生まれの」とか「くわがたを折り曲げている寝室に近い将来猫が産まれる」のように、どうにも意味の取れない歌がかなりあった。以前に書いたコラムでは、意味の束縛を脱して言葉の連接によるポエジーをめざすと、あまりに言葉が飛躍しすぎてこのような歌になると書いたが、『てんとろり』ではこのような意味の取れない歌はぐんと少なくなっている。
夕立におかされてゆくかなしみのなんてきれいな郵便ポスト
折り鶴をひらいたあとにおとずれる優しい牛のようなゆうぐれ
スパゲティ素手でつかんだ日のことを鮮明に思い出しまちがえる
 『てんとろり』に収録された歌はこのように、ほぼ定型に沿って作られており、意味解釈を阻止する言葉の飛躍も比較的少ない。どうやら笹井は言葉の連接によるポエジーの立ち上げの段階を脱して、言葉とイメージの純化の方向へと踏み出したようだ。現代短歌のこのような試行の先に何が待っているのか、もう見ることができないのが残念でならない。
 『てんとろり』は主として「未来」に発表した歌が中心になっている。またほぼ同時期に『えーえんとくちから 笹井宏之作品集』(PARCO出版)も出版されたが、こちらは未見である。最初に書いたように、こうして三回忌に残された作品の定本が出たのは喜ばしい。しかしこれで全部だろうかという疑問が残る。聞くところによると、笹井はネット投稿から歌歴を始めたという。とすると初期の作品はネットにのみ掲載されたものもあり、中にはそのサイトがもはや存在しないものもあるかもしれない。本文校訂は文学作品の命だが、インターネット時代を迎えて本文校訂に新たな課題が生まれたと言えるかもしれない。日本文学史上、未完成の遺稿がフロッピーディスクのデジタルデータとして発見された初めての文学者は安部公房だそうだが、今や遺稿がインターネット上に発見される時代を迎えたのである。短歌の断片が電脳空間のどこかをいつまでも漂っているというのも、どこか笹井の作品世界に似合っているという気がしてくるのが不思議である。

第67回 鎌倉千和『ゆふぐれの背にまたがりて』

ゆふぐれの背にまたがりて駆けてゆくきのふの街に手をふりながら
            鎌倉千和『ゆふぐれの背にまたがりて』 
  日々の暮らしでポッカリと時間の空くことがある。夕食までの20分とか就寝までの30分とかという時間が空くと、まとまったことをするには足りないし、かと言ってボンヤリ過ごすのももったいない。そういう時に私が好んでするのは、ウィスキーをちびりちびりと舐めながら事典を読むことである。書架に揃っている三省堂の『現代短歌事典』『現代俳句事典』『現代詩事典』を引っ張り出して、どこでもよいから開いたページを読む。どこから始めてもいいし、どこで終わってもよいというのが、この読み方の利点である。そうやって偶然に出会ったのが今回の掲出歌だ。
 一読して語調の柔らかさと韻律の滑らかさに引きつけられる。どこにもごつごつとした無理なところがない。31音の定型は[4・1][2・5][3・2][4・3][2・5] の韻数律に分配されており、上句と下句でそれぞれ[多・少] と[少・多] が規則的に交替しているのが、滑らかな韻律を生み出している秘密である。また硬質な漢語がなく、平仮名を多用していることも柔らかい印象をさらに強めている。意味の面に目を移すと、夕暮れの背に跨るという幻想的なイメージが鮮烈な印象を与えている。作歌の基本が写実ではなく、心の中に独自の世界を持っている人だろうなと想像できる。
 もっと読んでみたいと思ったが、『ゆふぐれの背にまたがりて』は1978年出版の歌集で入手は困難だ。こんなときに便利なのが三枝昂之・田島邦彦編『処女歌集の風景』(ながらみ書房 1987)である。この本は戦後生まれの歌人の第一歌集からの抜粋で編まれたアンソロジーで、鎌倉の『ゆふぐれの背にまたがりて』も抜粋が収録されている。今回は併せて第三歌集『薔薇感覚』(沖積舎) も入手して読んだ。
 鎌倉千和かまくらちわは1950年生まれ。國學院大學に学び「國學院短歌」を経て、岡野弘彦の創刊した「人」に加わる。「人」の終刊後は「短歌人」に所属。第一歌集『ゆふぐれの背にまたがりて』、第二歌集『地の緑に向きて降りよ』(1983年)、第三歌集『薔薇感覚』(1987年) がある。
 鎌倉の第一歌集が出た1978年(昭和53年)はどういう年だろうか。時局的には70年安保闘争と学園紛争は数年前に終息し、日本が高度消費社会へと向かい始めた頃である。日本社会が安定感を強めて行く時期に当たり、10年後にはバブル経済の時代を迎えることになる。1978年に出版された歌集には、岡井隆『天河庭園集』、宮柊二『忘瓦亭の歌』、岡野弘彦『海のまほろば』、玉城徹『われら地上に』、小池光『バルサの翼』、花山多佳子『木の下の椅子』などがある。宮(1912年)、岡野(1924年)、玉城(1924年)、岡井(1928年)など、1910年代(大正初期)から20年代(大正末期から昭和初期)生まれの戦中派歌人が円熟期を迎え、その一方で数年前から歌壇に登場して来た一群の歌人たちを篠弘が「微視的観念の小世界」と評したのもこの年である。もう少し後に女歌のうねりが起るも、87年のサラダ現象で吹き飛ばされることになる。おおよそこのような時代背景である。
 こんな時代背景の中に『ゆふぐれの背にまたがりて』を置いて読むと、実に不思議な感覚を味わうことになる。時代のうねりとはまったく関係なく、時代を超越しているからである。
のぼりきる坂はろばろとゆふぐれは孔雀の羽にかさなりて展ぶ
菜の花も散りぬと聞くに首ながきむすめのあゆむ街は明るし
ゆふぐれとゆふやみのあはひ支へゆく橋あり薔薇をもちてわたらむ
昏れ方を風生れたれば杉の秀のあたりかなしみよりも透れり
ゆふやけのきはまれるとき「架橋」とふかくもうつくしきことばおもひぬ
 歌人を乱暴に「人生派」と「コトバ派」とに二分すると、鎌倉はコトバ派に属する。人生派の主要なテーマは、小池光がいみじくも指摘したように広義の「恨み」であるから、人生派の人はおおむね次のような歌を作る。
肉体の重さに針は揺れている おのれを量る夜更けのへや
           武藤雅治『指したるゆびは撃つために』
乗り超えることの険しさ峙てる崖いつだってひとつしかない
             武井一雄『わが裡なる君へ贈る歌』
 同じ1978年に出版された歌集から引いた。これら人生派の歌の基調をなす自己凝視が言葉の圧の高さを生み出している。一方、コトバ派の歌人は逆のベクトルから発想し、コトバを組み合わせることによって現実とは異なるひとつの世界を浮上させようとする。その究極の形態が「芸術のための芸術」(l’art pour l’art)を標榜したボードレールの球体世界である。さて鎌倉の歌を見ると五首目に「架橋」という言葉があり、鎌倉が浜田到に傾倒していることがわかる。このことが鎌倉の歌を読み解くひとつの鍵になるだろう。浜田はリルケの詩を好み、震えるような繊細な詩想の中に天上的世界を幻視した特異な歌人である。鎌倉は確かにコトバ派の歌人ではあるが、言葉の組み合わせの彼方に現出する透明な何物かを希求していると言えそうである。
 このことは鎌倉の「夕暮れ偏愛」にも現れている。上に引いた歌は二首目を除いてすべて夕暮れの歌であることに注意しよう。夕暮れは昼の世界が退いて夜の世界が訪れる境界で、物の形がおぼろげになる時間帯である。昼にも夜にも属さない、曖昧で両義的な特異時間である。夕暮れを好む人は、昼の強い光にくまなく照らされた現実世界(リアル)でもなく、夜の闇に包まれた夢と幻想の世界(イマジネール)でもない、いずれとも決めがたいそのあわいに心惹かれるのだ。上に引用した二首目「ゆふぐれとゆふやみのあはひ支へゆく橋あり薔薇をもちてわたらむ」がこのことをよく表していよう。ここでは昼と夜の境界よりもさらに細かい夕暮れと夕闇の境界に焦点が合わされており、そこに橋が架かっているという。この橋は浜田の「架橋」の橋と相似形である。歌の中の〈私〉はこの橋を薔薇を抱えて渡るという。薔薇は浜田へのオマージュであると同時に、自らの短歌営為を象徴するものでもあろう。
胸くらくいだきて飛ばむゆふまぐれ眼閉ずれば持つまぼろしの羽
ゆふやみもともにすくへば両の掌に息づくやうにみづは匂ひぬ
人界を踏みしめて立つまさびしきあなうらといふをわれは持つなり
ほそきくび虚空にのべてとぶ鷺の眼にてぶだういろに匂ふゆふやみ
すれちがひたる少年の香あはき罪に似て蓼ひとむらの吹かれてゐたり
 こう考えてみると鎌倉の歌においては、形式(韻律)が意味にまことによく奉仕していることがわかる。前衛短歌が多用した硬質な漢語や句割れ・句跨りなどの定型の再構築の試みは、「オリーブ油の河の中にマカロニを流したやうな」短歌定型の韻律を人工的に堰き止めることで、歌に思想性を付与せんとする試行であった。鎌倉が目指しているのはこれとは逆の道である。短歌定型の滑らかな韻律に言葉を嵌め込むことで、そのかなたに現実とも幻想とも区別のつかない心象に彩られた世界を立ち上げること、これが鎌倉が第一歌集で目指したことだと思われる。鎌倉の歌は「まぼろしの羽」への希求を詠ったものなのである。だからこうしてできた歌の世界が時代のうねりを超越しているのは当然のことと言えよう。
 第三歌集『薔薇感覚』は第一歌集から9年の年月を経て編まれたもので、沖積舎の企画した現代女流短歌双書の一巻として上梓された。第一歌集の統一された歌の世界はすでになく、作者が年齢を重ねるとともに歌にリアルが流入して来たものと思われる。
二十世紀こんこんと暮るるとおもひつつ息深くゐる闇の樹の下
あゆみ入ればいよよ濃く揺るる炎昼に太く描くべしわれの輪郭
この日頃いよよ虚ろなれば我それに徹してもみむからだを据ゑて
これの世を超えて漂泊さすらふおほいなる羽ばたきありぬ風のもなかに
遠くみゆる鉄橋を電車過ぐるなり暮れゆけば骨笛のやうなる電車
 『ゆふぐれの背にまたがりて』に色濃く漂っていた幻想的な雰囲気は影を潜め、それと軌を一にするように夕暮れ偏愛も姿を消している。それに替わって一首目の闇や二首目の炎昼と作者の〈私〉が頭をもたげて来る。これがざらざらとしたリアルの手触りなのだろう。
 鎌倉が第三歌集を出した同じ87年に『サラダ記念日』が一大ブームを巻き起こし、話題の中心はライト・ヴァースに舵を切ることになる。同年に加藤治郎が『サニー・サイド・アップ』、翌88年に荻原裕幸が『青年霊歌』、90年に穂村弘が『シンジケート』を世に問い、ニュー・ウェーブ短歌の流れが本格的に始まるのである。そんな流れから見ると鎌倉の第三歌集はいささか離れた場所にあると言えるだろう。
 しかしこのような短歌史的な背景を勘案したとしても、第一歌集『ゆふぐれの背にまたがりて』の作りだした世界の独自性はいささかも揺らぐことはない。フェミニズムと女歌の隆盛、ニュー・ウェーブ短歌の勃興といった後に続く時代の流れからは超然としてその世界は立っている。まるで異星から降り落ちて来た鉱物のようだ。上に引いた「ゆふやみもともにすくへば両の掌に息づくやうにみづは匂ひぬ」をそっと口ずさむと、多く用いられているya・yu・yoの半母音とmとnの鼻子音が歌全体を柔らかく包み、ゴツゴツしたr音や濁音が最小限に抑えられているため、流れるようになだらかな韻律が生まれている。現代の若手歌人の作る歌からこのような韻律は失われている。鎌倉の歌を読むと、「短歌は単なる一行詩ではない」ということをあらためて思い知らされるのである。

第66回 田中濯『地球光』

おごそかなダンスに雪は生まれおり輝きはあれ午後の世界に
                  田中濯『地球光』
 2011年の元旦は京都市内でも一面の銀世界となった。久しぶりのまとまった量の降雪である。新年を迎えて清々しい気持ちになれるように、雪の歌を選んでみた。初句に「おごそかな」とあるので、作者は自然現象に畏敬の念を抱いているのだろう。その気持ちが下句の静かな祈念を素直に導いている。
 古典和歌は言うに及ばず、近代短歌にも雪を詠ったものは数多い。いくつか思いつくままに挙げてみよう。
いづくより生まれ降る雪運河ゆきわれらに薄きたましひの鞘 
                         山中智恵子
高層の窓に降る雪生まれ来ていまだをさなしその黒瞳くろめ見ゆ
                         水原紫苑
つきぬけて虚しき空と思ふとき燃え殻のごとき雪が落ちくる
                       安永蕗子
子の口腔くちにウエハス溶かれあは雪は父の黒き帽子うすらよごしぬ
                             小池光
 山中の歌は「降る雪」「運河ゆき」のリフレインのような韻が特徴的で、下句の前衛短歌ならではの観念的喩が忘れがたい。水原の歌は雪に黒目を見るという、作者一流の幻視的ヴィジョンが鮮烈な印象を与えている。安永の歌では四句の増音が効果的に心の焦燥を表現している。また小池の歌では、同じ雪が子供の口の中ではウエハースとなり、父親である作者には帽子を汚すものとなるという対比が鮮明である。また四句目で限界に近い増音に挑戦している。かくも雪は歌人の想像力を刺激してきたと言えるだろう。
 さて掲出歌に戻る。作者の田中濯は1976年生まれで、京大短歌会を経て「塔」所属。2007年に歌壇賞次席に選ばれている。『地球光』は2010年に出版された第一歌集である。栞文は小池光、真中朋久、大口玲子。歌集題名は集中の「冷え締まる無人の空を眺めおり月光・地球光さゆらぐあたり」に由来する。
 『地球光』という題名を見たとき、頭がクラッとするくらいの印象を受けた。確かに日光があり月光があれば、地球光もあるはずだ。ただし地球光を浴びるとき、私たちは地球にいるのではない。いちばん想像しやすいのは月面にいる場合である。日の出、月の出があれば、地球の出もあるだろう。日蝕、月蝕があれば、地球蝕も考えられる。ただし、私たちが月から見ているとして、月が太陽と地球の間に位置しても、月の直径は小さいので月の影が地球を隠すまでには到るまい。月の影が地球を横切る程度だろう。だから地球喰は無理な話である。しかし地球が月と太陽の間に入ったら、地球は太陽を完全に隠してしまい、完全な日蝕になるだろう。こんなことをあれこれ考えていると、ふだん私たちが馴染んでいるこの世界の座標系がぐらりと揺らぐ思いがする。歌集題名の由来となった歌の「月光・地球光さゆらぐあたり」とは、月が反射する光と地球が反射する光が出会う宇宙空間という意味だろう。美しいイメージである。
 歌集に添えられたプロフィールによると、田中は一度「歌のわかれ」を経験している。歌集は三部構成で、第一部が「歌のわかれ」以前の20代の歌、第二部と第三部が歌の世界に復帰してからの30代の歌という編年形式である。
 第一部に収録された初期の歌を読んでいて気づくのは、作者が独特のシンタクス(統辞)を用いていることである。
親指がささって卵ゆるみつつでもいつか花のようにひらく
たほたほと移される春の小麦粉の粉にはなれぬあたりが飛べり
口論に脱ぎ捨てられし靴下が副詞のように添えられており
接地するさなかにわれはありふれてはいないわれの死を忘れだす
パスポート胸に抱えて歩くころ部屋にひっそり立つ紅茶淹れメリオール
 例えば一首目を見てみよう。親指がささるのは卵だろうが、なぜ卵がゆるむのかわからない。そもそも「ゆるむ」という動詞は、結び目・寒さ・地盤・警戒などを主語に取るので、ふつう卵は主語に立たない。また「花のようにひらく」の主語が卵かどうかも定かではない。ふつう卵は開かないからである。言語学ではこういう事態を動詞の項の選択制限違反と呼ぶ。二首目の上句が表現しているのは、買ってきた小麦粉を袋から容器に移している光景だろう。「粉にはなれぬ」の主語が明示されていないが、近代短歌のコードでは〈私〉を補填することになる。それはよいとして、わからないのは「あたりが飛べり」である。「あたり」が「周囲」だとすると、周囲は飛ばないのでおかしい。三首目でわからないのは、初句の「口論に」の係り方である。「脱ぎ捨てられし」に係るとすると、ふつう口論しているときに靴下を脱いだりしないから変になる。「添えられており」に係るとすると、誰かと口論している場面に靴下が添え物のようにころがっているということになり、一応は解釈が成り立つ。しかし妙な情景ではある。四首目でまずわからないのは「接地するさなかに」だ。「接地」には航空機などの着陸と、電気製品のアースの両方の意味がある。まさか買ってきた洗濯機をアースしているのではないだろうから、飛行機が空港に着陸する場面と考えよう。「ありふれてはいないわれの死」は交換不能の私の死と理解することにして、なぜ「われの死を忘れだす」のか。ふつうなら危険性の高い着陸の場面で死を意識するのではないか。五首目で面妖なのは「ころ」の用法である。ふつうは「若かりし頃」のように幅のある時間帯をさすか、「電車が吉祥寺駅を出たころに、一台の車が甲州街道を疾走して来た」のように、ふたつの離れた場面の時間的同時性を表す。もし後者の用法だとすると、誰かがパスポートを抱えて歩く場面と、紅茶淹れが立っている場面が離れて並列していることになるが、その関係性が不明である。ちなみに「メリオール」とは、筒型のガラス製容器に茶葉と湯を入れて、ピストンを押し下げて抽出する紅茶淹れのこと。しかしこのようにわからないなりにも、引用した歌から何らかのポエジーが感じられることは事実である。ふつうポエジーは統辞の圧縮によって生まれるが、田中は日本語の関節をはずすような特異なシンタクスによってポエジーを立ち上げようとしていたのかもしれない。
 しかしこのような詩法は第一部に限られており、「歌のわかれ」から復帰した第二部以降の歌にはあまり見られない。あとがきによるとこの間は実人生でも空白期だったようで、何かしらの出来事があったと想像される。第二部以降には作者の〈私〉とその想いが表に現れる歌が多く見られるようになる。
丘はあり坂はあれども山のなき東京に来て首までは浸る
水銀のはつか染みいる抗体は春を越えたり新しきまま
閉ざされし店から曲がり近道は坂になりたりむかし畳屋
関西の訛りあらわに軽やかな春服を着てあらわれるかも
今日撫でし野良猫の名をつぎつぎと挙げるあなたの眉美しき
春ごとに繰り返したる「須磨返り」いつしか止みて今日の葉桜
 作者は学生時代を過ごした京都から東京に転居している。一首目はその感想である。作者は自然科学系の研究者なので、二首目のような題材を詠んだ歌が散在する。水銀の染みた抗体が春を迎えるというイメージは美しい。四首目と五首目は関西から女友達が会いに来た場面だろう。清新な相聞歌である。六首目の「須磨返り」は、源氏物語を読む人が須磨の巻あたりで飽きてしまって投げ出すことをいう。四首目と五首目と六首目は集中で並んでいるので、「須磨返り」は源氏物語のことではなく、いつもある程度までしか深まらなかった男女の関係の喩と取っておこう。第一部と第二部以降の歌の質の差はこのように明らかであり、「歌のわかれ」の空白期が作者にとって重大な転機であったことがわかる。
 上にも述べたように田中は自然系の研究者で、現在の専門は「癌の足場非依存的増殖および乳癌の抗癌剤探索」だという。自然系の研究者ならではの次のような歌がある。
酵母には死骸とう語があたるかとしばし考えるとろとろのとろ
隅々に空気を満たしフラスコが薄い 光に隠れてゆけり
張力にととのえられし水滴が湧くめり冬の光たわめて
尻見つつ階段あがる菌破砕プロトコールを考えながら
Chiminiは敵なるかはるか巴里は箱庭のように我が脳にあり
磨かれし陶器のなかに純水はあるらん純とう言葉のゆえに
 酵母は発酵・醸造に広く用いられているが、もちろん寿命があってやがて死ぬ。溶液に浮遊する死んだ酵母を死骸と呼んでよいかと問いかけているのが一首目である。水滴が球形もしくはそれに近い形状をとるのは表面張力による。三首目では水の垂れる蛇口を詠んでいるのだろうが、なかなか美しい見立てである。四首目の「プロトコール」は手順のこと。五首目には「論文の競争相手」という詞書がある。自然科学の世界は先に発表した者の勝ちで、二着目以降には何の価値もないという厳しい世界である。六首目の「磨かれし陶器」は実験で用いる容器だろう。「純」という言葉が「純水」をあらしめているというのは倒錯的な見方であるが、100%の純水はありえないので、確かに言葉によって純水だと見なしているという側面は否定できない。このように少しひねった歌に作者の個性が表れているように思う。
 栞文を読んでいておもしろいことがあったので書いておこう。小池は作者の田中とは30歳ちがっていて、これほど年齢が離れると短歌が乗っかる知識がちがうと述べ、例として次の歌を引いている。
もう十五年むかしの九十年代はエヴァさえあればよからんと思う
 小池が「エヴァ」で脳裏に浮かぶのは、女優のエヴァ・ガードナーとヒットラーの愛人であったエヴァ・ブラウンだけだという。しかしこの歌のエヴァはどちらともちがうようなので、困った小池はインターネットで検索し、ああでもないこうでもないと思案している。だがもちろんこれは1995年から96年にかけて放映されたTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のことだ。ファンは「エヴァ」と略称していたのである。確かにこういったサブカル系の知識はファンが細分化されるだけに伝わりにくいとは思うが、それにしても社会現象にまでなった『新世紀エヴァンゲリオン』を小池が知らなかったのには少し驚いた。
 田中はあとがきで、「私にとって短歌を続けることは、悲しみの体験を重ねることと同義である。それは一度『歌のわかれ』を経た者にとってのみ等しく訪れる体験である」と述べている。しかし歌のわかれをする人は決して少なくない。大学生の時に学生短歌会に所属して歌を作っている人も、卒業・就職とともに歌から離れることが多い。少ないのはいったん歌のわかれをして、もう一度歌に戻る人だろう。田中は戻って来た珍しい例だ。その体験を糧に今後も歌を作り続けてほしいものである。
 最後に印象に残った歌を挙げておこう。ちなみに一首目で三崎坂を行く入道は永井荷風である。
まひるまに三崎坂ゆく無造作に墨滴ながすぬばたまのたい
背後から髄に打ち込まれし鍬よ豊かなり常夏のクメール
面長になりたるような雪達磨草生のなかに沈みゆきたり
かがやきて暮れぎわくれば肩の骨鳴らすわが生深くなりしか
秋の野に自死おもうときコンタクトレンズの曇りふいに兆せり
みずたまりまたぎしときに小さなる花筏ひとつしずかに越えて

第65回 柴田千晶『セラフィタ氏』と俳句作品

 藤原龍一郎さんから『セラフィタ氏』という本が送られて来たのは、ずいぶん前のことになる。柴田千晶の現代詩と藤原の短歌のコラボレーションという珍しい企画で、黄色く巨大な花芯と赤い花弁を持つ花が描かれた表紙のどぎつさと、「派遣OL、東京漂流」という帯文の惹句にいささかたじろいで、パラパラと中身を見ただけで、書架に配していた。ずいぶん前のことである。
 邑書林から出版されたU40の若手俳人のアンソロジー『新撰21』が大評判となり、シンポジウムまで開かれたのを受けて、このたびU50の俳人を集めた『超新撰21』が上梓された。収録された俳人を眺めていると、何と柴田千晶の名があるではないか。がぜん興味を惹かれて収録された柴田の俳句を読み、その勢いで書架から『セラフィタ氏』を引っ張り出して読んだ。俳人柴田、恐るべし。柴田は現代詩人でありながら、マンガの原作や映画脚本も書き、俳句も作る人だったのである。
 『超新撰21』のプロフィールによると、柴田は1960年横須賀生まれ。この横須賀が大きな意味を持つ。1988年に現代詩ラ・メール新人賞を受賞。97年に「街」に入会して、今井聖に師事している。句集に『赤き毛皮』、詩集に『空室1991-2000』がある。『セラフィタ氏』で横浜詩人会賞受賞。
 今井聖は加藤楸邨門下で、人生探求派の伝統を継ぐ俳人だが、その麾下には北大路翼のような自由律俳句の影響色濃い無頼派の俳人がいる。柴田は自由律ではないものの、独自の切り口から人生探究派に入る俳人のようだ。俳句作品から見てみよう。
夜の梅鋏のごとくひらく足
片栗の花大腿は真昼なり
快楽はオートマティック紫荊
からつぽの子宮明るし水母踏む
まはされて銀漢となる軀かな 
円山町に飛雪私はモンスター
機関車の突き刺さりたる春障子
色情霊憑いていますと青葉木菟
 柴田の俳句作品と現代詩に共通するテーマは、現代の性愛と肉体の不毛である。そのような傾向の強い句を選んであげてみたが、『超新撰21』巻末の座談会で小澤實が述べているように、「何もここまで言わなくても」という拒否感を感じる人も多いだろう。一句目の「夜の梅」は伝統俳句の季題で始まるかと思えば、「鋏のごとくひらく足」は性行為の場面であり、その描き方の突き放した無機的なところに特徴がある。三句目のように快楽をオートマティックと捉えるのが、肉体と快楽とが乖離した作者の心を表していよう。四句目は「水母踏む」のぐにゃりとした皮膚感覚がポイント。五句目の「まはされて」は輪姦されるという意味だが、それによって身体が天の川になるという見方も尋常ではない。肉体と意識の乖離が甚だしい。六句目の「円山町」は渋谷のラブホテル街で、『空室1991-2000』はこの町で起きた東電OL殺人事件に想を得た詩集だというから、作者には馴染みの深い土地である。七句目については『超新撰21』巻末の座談会で、高山れおなが卓抜な読みを披露している。障子に突き刺さっている「機関車」が男根の比喩であるのは、石原慎太郎の『太陽の季節』に由来するが、ここではあさっての方向を向いて突き刺さっていることが、家族における世代の更新という機能を失った性を暗示するという。またこの機関車は横須賀線の比喩でもあるというのが高山の読みだ。横須賀線は行き止まりの支線であるにもかかわらず、帝都東京と軍港横須賀を結んでいたため特別扱いされたという。そういえば柴田には、「臨界工業地帯の虚空夜光虫」や「瘡蓋のやうな横須賀花曇」のように、横須賀を暗く詠んだ句があり、高山の読みには深く納得させられる。
 俳句でここまで性愛を前面に押し出した作家が北大路翼以外にいるのかどうかよく知らないが、短歌の世界では林あまりと川上史津子の例が頭に浮かぶ。
夕焼けが濃くなってゆく生理前
 ゆるされるなにもつけないSEX  林あまり『ナナコの匂い』
このいまのあなたの匂い
 くんくんとただくんくんとこのいまのため

聴きたいの我慢出来ずに洩らす声もっといっぱいなめてあげるね
                川上史津子『恋する肉体』 
両脚を縛られ吊られさるぐつわ敢えて志願の人工人魚
 しかしこれは柴田とはまったく異なる世界であることに注意しよう。林には男の対立項としての女という意識が強くあり、また性愛は快楽をもたらすものである。川上の短歌には暴力的な性の場面が描かれてはいるものの、それほど背徳的な匂いもせず、どこかコミック的で可愛くすらある。しかし柴田が描く性愛の世界では、主体=〈私〉と快楽とが完全に切断されていて、主体=〈私〉は醒めた目で快楽を眺めているだけである。これが「円山町に飛雪私はモンスター」との自己認識を生むのであり、描かれた性の不毛性を際だたせている。その即物性には慄然とせざるをえない。神戸の少年Aこと酒鬼薔薇事件以来、マスコミがこぞって使う便利な言葉に「心の闇」というのがあるが、柴田の乾いた即物的性愛の表現の背後には、何かの闇が横たわっているように感じられる。
 しかし他の素材による柴田の俳句では、これとは別の相貌をも見せていて興味深い。
冬川のごとし繋がれ眠る父
春の蝿父の背骨をのぼりゆく
臨終の男根浄む桜かな
曼珠沙華私の骨の中に父
雪の漁港「花火あります」と玻璃に
今は死後と告げられさうな梅雨夕焼け
銀漢や髪洗ふ手の一つ増ゆ
馬跳びの一人は死霊大枯野
 四句までは病床にあった父親が亡くなるまでを詠んだものである。写実を超えて言葉が肉に喰い入るような鬼気迫るものがある。五句目の人気のない漁港にそぐわない花火の張り紙の侘びしさといい、六句目の死後を思わせるような夕焼けといい、柴田の句は私たちをふとこの世を超えた別の世界に連れて行ってくれるような味わいがある。七句目や八句目のシュールな世界もまた同様であり、どこかこの世を突き抜けた感がある。
 さて、『セラフィタ氏』の方だが、こちらは東京で派遣社員として働く女性に、ある日、セラフィタと名乗る男から謎のメールが来て、それをきっかけに現実とも妄想ともつかぬ世界に引き込まれてゆくという内容の散文詩で、随所に藤原龍一郎の短歌が挟まれている。女性は『空室1991-2000』の作者ということになっているので、柴田自身かその分身であり、セラフィタ氏は『空室1991-2000』の中の一篇のある場面に通り過ぎた男らしく、詩の世界と現実と妄想とが分かちがたく通底しているあたり、柴田の俳句の世界と通じるものがあるかもしれない。現代詩の批評は私の手に余るもので控えることにして、藤原の短歌をいくつか引いておこう。
雨降ればオフィスの午後は沈鬱に沈み深海魚として前世
センサーのIDかざし読み取られたるすべてこそ、愛こそすべて
都市という巨人の昏き静脈は病みて風水乱れ乱れて
脱出と逃亡とその曖昧な差異こそ日々のうたかた、されど
白黒のニュース映画の雨が降る画面に男女 深き淵より
 一貫して都市生活者の慚愧と抒情を詠み続けて来た藤原の短歌は、都市の荒涼と幻想をくぐもった声で奏でる柴田の散文詩に実によくマッチする。藤原の短歌でよく雨が降るのは、藤原の基調がハードボイルドだからである。「深き淵より」De profundisは神を失った現代人の霊歌である。「ああ主よ、われ深き淵より汝を呼べり」は、柴田の詩と俳句のなかに、風の音に混じって切れ切れに聞こえる叫びのようでもある。

第64回 齋藤芳生『桃花水を待つ』

聖典を我は持たねば菊花茶をまるき茶碗にひらきゆくのみ
              齋藤芳生『桃花水を待つ』
 聖典とはイスラム教のクルアーン(コーラン)をさす。作者は訳あってイスラム圏の国に住んでいるのである。異郷に暮らす日本人の常として、言語・文化・宗教のちがいに孤独感を感じている。殊に自分は聖典を持たない、つまり確固たる信仰がないという点に彼我の深い溝を痛感する。菊花茶は中国茶の一種で、乾燥させた菊の花が入っており、湯を注ぐと花が茶碗の中で開くという趣のある茶である。お茶は軽くて保存が利くので海外生活に持参しやすいし、中国人は世界の至る所にいるので中国食品は手に入りやすい。作者は宿舎の自室で一人菊花茶を淹れているのだろう。茶碗に浮かぶ菊の花は日本の喩であり、また開く花と信仰の不在とが鋭い対比をなしている。
 齋藤芳生よしきは1977年生まれで、歌林の会に所属。2007年に「桃花水を待つ」50首で第53回角川短歌賞を受賞している。『桃花水を待つ』は受賞作を含む第一歌集。跋文は川野里子。桃花水とうかすいとは、桃の花の咲く時期に起きる川の増水を意味するという。水への思いが溢れた歌集である。
 歌人としての齋藤には二つの核がある。故郷福島と日本語教師として暮らしたアブダビである。本歌集は福島とアブダビを二つの焦点とする楕円のような構成をなしている。
 ふるさとの川の濁りに羽化したるカゲロウは吹雪よりも激しき 
 鼻濁音濃く残しいる女子校に高村智恵子も我も通いき
 体温の高き生き物ふくふくと鳩は廃ビルに巣をかけ殖える
 残雪は兎のかたち春まだき吾妻小富士を飛び越えて消ゆ
 待つことはもう止めている自転車は絡みつくへくそかずらも解かず
 角川短歌賞を受賞した連作から引いた。「カゲロウ」「吹雪」「残雪」「吾妻小富士」などに色濃い地方性が感じられる。作者は故郷福島に愛着を感じているのだが、五首目に見られるように、どこにも行けないという若者特有の不全感も抱いている。角川短歌賞受賞の連作ではこの不全感はそれほど前面には出ず、わずかに感じられる程度なのだが、受賞時にはすでに勤めを辞めてアブダビに赴任することが決まっていたという。
   故郷は離れてこそ郷愁が深まる。アラブ首長国連邦の首府アブダビに暮らす作者には、そのことが痛いほど感じられたにちがいない。異郷も異郷、日本とは対極的な炎暑と砂漠の土地である。歌集第一部の故郷詠は助走であり、第二部は海外詠で占められている。
簡潔な水の変化よ朝方の窓を開ければ眼鏡が曇る
水彩よりも油彩の似合うアブダビの炎天の街の香り高き花
ガーベラの茎も待つなり週に一度宅配さるるオアシスの水
子沢山の国にしあれば子らの着る白き民族衣装のひかり
粉のように細かき砂の紛れ込む台所何度拭いてもひとり
吹き終えてすべての風が眠る場所なれば砂漠に瞳を閉じてみる
 異国で暮らして初めて気づくのは、日本との湿度と光の差である。日本は温帯モンスーン気候帯に属するので、特に夏は高温多湿であるが、アブダビは高温の乾燥地帯である。極端な小雨で湿度が引くく、日中の光は強烈なはずだ。そんな気候でも一日の変化はあり、朝方はたぶん海からの風で湿度が高いのだろう。だから一首目で詠まれているように、外気で眼鏡が曇るのである。また植相のちがいも目につきやすい。日本の草花は色も淡くかそけき花が多いが、熱帯地方の花の色彩は強烈である。だから水彩より油彩ということになる。土地と気候の差に細やかに気づくこのような歌が並んでいる。
 しかし最も大きな驚きは砂漠だろう。砂と砂漠を詠った歌が多くある。サン・テグジュペリも言っているように、砂漠は人を瞑想的にするようだ。どこかに内省を誘うものがあるのだろう。短歌と砂漠と言えばすぐに頭に浮かぶのが三井修の『砂の詩学』(1992)という先例である。
髪の根に砂を溜めつつ街に来て市場スークにオレンジ一キロを買う 
                          『砂の詩学』
街抜けて砂漠に入ればおおいなる風の道ありて風が響めり
暮れなずむ砂漠を流れゆく砂に人界の白き紙もまじれり
「歌詠みに砂漠は合わぬ」簡潔に書かれし文にひとひこだわる
 商社マンだった三井は中東の砂漠地帯で多くの年月を過ごした。四首目にあるように、緑の多い日本で湿り気を帯びた花鳥風月を詠ってきた和歌・短歌に、苛烈な乾燥砂漠地帯はいかにも異質である。三井自身もこんな土地で歌が作れるのかと自問したにちがいない。それでも歌を作ってやるという矜恃から生まれたとしか思えない。三井の人と自然を見つめる確かな目が生み出した成果と言えよう。
 さて齋藤の場合はどうかと言うと、やはりここは年齢と人生経験の差からか、齋藤がこだわるのはどうしても自分ということになる。異国の土地で暮らす寄る辺のなさが斎藤が歌を汲み出す井戸であり、また歌が異郷の暮らしの支えになったと思われる。
濁ったまま海まで流れて行きたくはなくて、故郷の川のようには
この国に蒔かれたる我は種子として雨を待ちつつ午睡より醒む
旱天に砂まみれなる私の矜恃を保つために飲む水
 歌集第三部には日本に帰国してからの歌が収められている。異郷を見た後で故郷を見る目は当然ながら変容している。それが旅の意味と言えよう。
ナツメヤシの実などを土産に見上げればやわらかなりき故郷の雨は
にっぽんは「甘さひかえめ」が過ぎたれば皆口角が下がりいるなり
久々に見れば不可思議にっぽんのランドセルはどうして赤いのか
 私も日頃から甘さ控えめがよいのなら菓子など食うなと思っているのだが、アラブ圏の菓子は油と蜜をたっぷり使った物が多くて、歯に沁みるほど甘い。これに慣れて日本に帰国したら、日本の菓子など甘さがないも同然だろう。また小学生がみんな赤や黒のランドセルで通学するのも、日本ならではの光景である。故郷をこのような目で見つめる齋藤にとって、桃花水を待つとは川の増水のように新しい自分へと押し出してくれる何かを待つ心が題名にもこめられているのだろう。
 作者は日本語教師という職業柄、耳が言葉に敏感になる。言葉を主題とした歌にも着目した。
ふるさとの方言地図を縦に割り私の声を湿らす川は
滅びゆく方言あれば盛りゆく方言ありて地図の凹凸
「オハイオウ」が「おはよう」になる瞬間を見し日本語の授業、二回目
くしゃみしそうな顔で見ているカタカナで名を書かれればくすぐったいか
 作者は二重に言語の境界を感じたはずだ。まず東京に出た地方出身者として方言と標準語の境界、そして海外に赴任してアラビア語と日本語の境界である。上に引いた歌はその境界意識から生まれた歌だが、貴重な経験をした歌人としてもう少し深く掘り下げてもよいテーマではないかとも感じた。
 さて、自己に不全感を抱いている人は何らかの方法で自己拡大を図る。それには大きく分けて二つの方法がある。地理と歴史である。空間軸と時間軸と言ってもよい。齋藤が選択したのは空間軸の方である。若い人にはこの選択肢がよく選ばれる。気になるのは最近もう一つの時間軸という次元を選ぶ人が少ないことだ。この意味で最後に、齋藤が角川短歌賞を受賞した折に佳作に選ばれた岩田憲生(玲瓏、1947年生)に触れておきたい。
朱鳥あかみとり元年のことおとうとの屍をまへに姉は泣き伏す
父帝の愛を求めて愛されず伊勢の能煩野のぼのに身をほろぼせり
一葉の烏賊墨セピアにゑまふ童顔の守銭奴シャイロックこそわが祖父なりき
ターナーの水といへどもそのひかり炎群なしつつ帆船かしぐ
黄色わうじきにわがまなうらを炙りけるゴヤ晩年の射玉ぬばたまの家
 一首目の朱鳥元年のこととは大津皇子の事件をさす。二首目はヤマトタケルである。三首目のシャイロックはシェークスピアの「ヴェニスの商人」、四首目のターナーはイギリスの風景画家、五首目の家はゴヤが晩年を過ごした家で、我が子を食らうサトゥルヌスなどの「黒い絵」が壁に描かれている。岩田が古今東西の文学・絵画・音楽に親炙し、想像力によってその広い世界を逍遙しているのは明らかである。このように体験と写実ではなく、想像力によって自己を拡張する方法もあるのだ。岩田は「玲瓏」所属で1947年生まれなので、流派も年齢も齋藤とはずいぶんちがう。しかし空間軸のみによる自己拡大には限度がある。一方、時間軸によるそれは無限である。こう言うと若い人には「また古典を読めですかぁ」と言われてしまいそうだが、「つるつるのゴーフル」(by穂村弘)にならないためには、私たちの背後には膨大な時間が流れていることを知るしかないのもまた事実なのである。

第63回 青磁社創立10周年記念シンポジウム見聞記

青磁社シンポジウム「ゼロ年代短歌を振り返る」
 11月7日(日)に立冬とは思えないうららかな陽気のなか、京都会館会議場で青磁社創業10周年記念シンポジウム「ゼロ年代短歌を振り返る」が開かれた。大きな会議場がほぼ満員になる盛況ぶりだった。短歌出版でがんばっている出版社が創業10年を迎えたことは喜ばしい。私は歌人の方々とほとんど面識がないので、会場では永田淳さんにお祝いを述べたあと、松村正直さんと魚村晋太郎さんにご挨拶し、田中槐さんが数列前におられるなと認識した程度で、あとはさっぱりわからない。
 第一部は高野公彦の講演「ゼロ年代短歌の動向」。私は高野公彦と小池光の初期短歌が現代短歌の精粋だと思っているので、演壇の高野を遠くからでも初めて見られたことに満足した。
 第二部は「缶コーヒー・肉・アマゾン その他」という奇妙な題の吉川宏志と斉藤斎藤の対談。二人は買ってきた缶コーヒーを机に並べて、「最近、缶コーヒーのネーミングがおもしろいよね」という枕から話は始まった。誰がこの二人を対談させようと思いついたのかは知らないが、途中からグダグダの会話になり、肉の話は出たものの、ついに最後までアマゾンの話は出なかったので、なぜアマゾンなのか未だに謎である。にもかかわらず私にはこの対談はとてもおもしろかった。それは対話を通して歌人としての吉川と斉藤の体質の差が浮き彫りになったからで、なかんずく斉藤の本質がよく見えたからである。
 吉川はまず「自販機のなかに伊右衛門も若武者も眠らせて二ン月の雪は降り積む」(久々湊盈子)、「下痢止めの〈ストッパ〉といふ名づけにも長き会議のありにけんかも」(大松達知)といった歌を引いて、言葉にまつわるおもしろさが見られる歌を論じたが、議論が途中から予期せぬ方向に進んだので、吉川がゼロ年代短歌の動向をどう総括して見ているのかはわからない。これに対して斉藤は「〈特別〉から〈ふつう〉へ、〈わがまま〉から〈なかよし〉へ」と題した第一章で、「牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ」(宇都宮敦)という歌を引いて、ゼロ年代以前の短歌の方法論は「特別なレトリックで特別なことを詠う」もしくは「特別なレトリックで日常を詠う」のに対して、ゼロ年代の歌人はそのような方法論に嘘くささを感じて、「ふつうのレトリックでふつうの日常を詠う」態度へとシフトしたと指摘した。いわゆる短歌の「棒立ち化」で、この点は第三部のバネルデッスカッションでも話題になった。続いて第二章「下がって」では、「3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって」という中澤系の歌を引いて、「電車が通過します。危険ですからお下がりください」という駅のアナウンスは、形式は依頼表現だが実は命令なのだと述べたが、時間の不足からか斉藤の趣旨はよく理解できなかった。第三章「肉」では、吉川が最近しきりに「ふるさとの牛が殺されゆく今を我はドリルで歯を削られる」のような食肉屠殺に関する歌を作っていることを取り上げた。吉川の故郷宮崎での口蹄疫騒ぎがその背景の一つにあろう。このあたりから斉藤の鋭い突っ込みが始まったのである。斉藤は、「考えれば十センチ以上の生き物を殺していない我のてのひら」のような歌を作るくらいなら、ヴェジェタリアンになろうと考えたことはありませんか、と吉川に問うたのである。
 吉川は返答に窮して一瞬口籠もった。その後も斉藤の問いかけを受けて議論を盛り上げようとはしなかった。斉藤の質問の真意を測りかねたのかもしれない。しかし私には斉藤の質問の意味がよくわかった。斉藤は吉川に向かって、「あなたは思想 (=言葉)と行動が一致していない。それでいいのか」と迫ったのである。第三部にパネリストの一人として登壇した穂村弘は、「斉藤斎藤さんの対談相手に選ばれたのが僕でなくてよかった」と述懐していたので、穂村にも斉藤の質問の意味が突き刺さったのだろう。吉川はこれに対して、自分も確かに歌を作りながらその一方で資本主義に加担して金儲けの片棒を担いでいるが、そのような矛盾を内蔵することで歌はむしろ豊かになるのではないか、と答えていた。大人の答えである。
 私はこのやり取りを聞いて、ようやく今まで掴みかねていた斉藤斎藤の本質を垣間見た気がした。斉藤は原理主義者(ファンダメンタリスト)なのである。ここで言う原理主義とは、思想 (=言葉)と行動との完全な一致を個人のレベルにおいて厳格に要求する立場を言う。
腹が減っては絶望できぬぼくのためサバの小骨を抜くベトナム人
                        『渡辺のわたし』
勝手ながら一神教の都合により本日をもって空爆します
 このような歌を作る斉藤を、かねてより倫理観の強い人だとは感じていたが、その漠然とした印象はまちがってはいなかったわけだ。しかし原理主義が厳しい道であることはもちろん、危険な道であることもまた覚えておかなくてはなるまい。個人の生の態度としての原理主義の行き着く所は畢竟、革命(=テロ)か宗教しかない。思想 (=言葉)と行動の不一致を劇的に解消するには、世界を根底から変革するか、自分を根底から変えるかのどちらかしかないからである。そしてその二つはほとんど同じ性質のものである。だから斉藤がある日、墨染めの衣をまとって現れても私は驚かないだろう。それにしても斉藤は弁が立つ。現代短歌シーンで屈指の能弁であることはまちがいない。
 第三部のパネルデッスカッション「ゼロ年代短歌を振り返る」は、穂村弘、松村由利子、広坂早苗、川本千栄をパネリストとして、島田幸典の司会で進行した。島田の事前の要請によりパネリストたちは、(1)ゼロ年代の注目すべき課題、(2)印象に残った作品、(3)ゼロ年代を通じて明らかになった課題、の三点をまとめた資料を用意していた。穂村は資料には歌を並べただけで、島田の要請には当日口頭で応える形を取ったが、松村は(1)として新しい「私性」、他者との距離の取り方を、(3)に「われ」の本質・位置と、仮名遣いと漢字を挙げた。広坂は(1)として文語と口語の問題を挙げ、川本は(1)に口語化の流れの中での文語の行方、不安定な自我、老い・介護を、(3)に理屈の歌と理の通らない評論とを資料に挙げた。後日こうしてじっくり資料を見直してみると、パネリストたちの関心は、ゼロ年代ににわかに不安定化しフラット化した短歌の〈私〉と口語化の問題に集中していたことがわかる。司会役の島田の周到な準備により、討議が予定されていた流れで進行していたら、ゼロ年代の短歌を総括する展望が得られていたかも知れないが、誰も知るとおり集団での討議は生き物であり、島田には気の毒だったが予定どおりの展開にはならなかったのである。
 最初に発言した穂村は、『短歌研究』誌四月号の作品季評での印象的な体験から話を始めた。評者の久々湊盈子・永井祐・穂村のあいだで、栗木京子の作品の評価が真っ二つに割れたというのである。久々湊と穂村は、「みづからの体のほかは知らざりし乙女にて夜々数学解けり」のような歌をよいとしたが、永井は「身をゆすりながらバナナを食む子をり花火を持てる荒川の土手」を選んだという。穂村の目には永井が選んだ歌は、措辞の短歌的必然性に弛みがあり、言葉が動く歌と見えた。この経験から穂村は、永井に代表されるゼロ年代歌人の感覚を次のように推測した。永井たちは、従来共有されてきた短歌のレトリックによってポエジーを立ち上げる秀歌性を嘘くさいものと感じて拒否していて、自分たちにとってのリアル(=ふつうの日常)がポエジーの必然性に吸収されることを否定しているのであると。永井たちにとってのリアルとは、「牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ」のような歌のフラットさだけがすくい取れるものだということで、これは第二部の吉川と斉藤の対談でも取り上げられたポイントである。
 その後、松村・広坂・川本ら他のパネリストが準備した資料に基づいて発言したのだが、途中から議論は予期せぬ方向に展開した。「牛乳が…」のような歌のほうがリアルだと言っているのは誰なんですか、という川本の発言がきっかけである。川本が威勢のよい関西弁で滔々と述べたのは、おおむね次のようなことである。
 短歌がフラット化し修辞が棒立ちになったのは、そもそも2001年に『短歌研究』が創刊800号記念に行ない、穂村弘・加藤治郎・坂井修一が審査員を務めた「うたう作品賞」からである。この企画から盛田志保子、加藤千恵、赤本舞(今橋愛)らが世に出た。また『短歌ヴァーサス』を舞台として自分たちの手で歌葉作品賞を作り、審査員を務めたのも穂村である。これらの賞に応募してきた若い歌人たちの歌を「棒立ちのポエジー」と評して、短歌のフラット化を推し進めた張本人は穂村ではないか。『短歌研究』誌四月号の作品季評で永井と評価が割れたことをショックだと言っているが、そのような事態を招いたそもそもの責任は穂村にあるのではないか。
 川本は自分の資料の「理の通らない評論」の項目に穂村の文章を引いていたくらいだから、もともと期するところがあったのかもしれない。かなりきつい調子で以上のようなことを述べた。これにたいして穂村はいつもの小さ目の声で低く語る調子で、次のようなことを述べるに留まった。
 囲碁や将棋には「定石」というものがある。定石とは局所的な盤面において、こう打ったほうが勝率が高くなるという経験則の集合である。しかし定石は最初からあったわけではなく、棋士が長年にわたって積み重ねてきたものである。短歌も同じで、こう作ったほうがよい歌になるという定石があるが、これも最初からあったわけではなく、近代短歌以降に蓄積されたものである。永井たちの棒立ち歌をよい歌だと感じられないとすれば、それは受け取る私たちのなかにそれに反応する回路がまだできていないからである。もし回路ができれば新たな定石となる可能性があると僕は考えていた。ところがなぜか短歌には、ひとつの定石が別の定石と反発して受け入れないという生理がある。今起きているのはそのようなことではないだろうか。
 こうして壇上の穂村が槍玉に挙げられた訳だが、これはむしろ本人にとって名誉なことだろう。加藤治郎・荻原裕幸とタッグを組んでニューウェーブ短歌を推し進めてきたのが穂村であり、川本が苦々しげに述べたように、穂村が「枝毛姉さん」の歌を取り上げればみんながこぞって論じ、穂村が「水菜」の歌を褒めると他の人たちも注目するというように、90年代後半からの短歌評論シーンで穂村は中心的役割を果たしてきたからである。「短歌のくびれ」「棒立ちの歌」「修辞の武装解除」「命の使いどころのない酸欠世界」など、穂村はキメ科白の達人でもある。しかし短歌の棒立ち化・フラット化を前にして、伝統的近代短歌派の歌人は苦々しい思いを噛み締めていたはずで、それが当日、川本の口を借りて噴出したと見ることもできよう。
 さて短歌の棒立ち化と、その背景にある新しい(と見えなくもない)〈私〉像をどう考えるべきか。シンポジウム当日は考えがまとまらなかったが、後日次のような考えに到った。私はこの状況に対して二つの見方が可能だと思う。一つはこの現象はローライズパンツ(または腰パン)のようなものだとする見方である。ローライズパンツとは、股上の浅いズボンをわざと下にずらして穿くファッションで、ヒップホップの流行とともに若者にはやった。下着のパンツが見えることもあり、年長者からは「だらしがない」ファッションとして評判が悪い。しかし若者の目から見ると、年長者のきちんとした服装は「カッコ悪い」のである。つまりこれは世代間闘争ということだ。世代間闘争には原理的に解決策はない。年長者が死に絶えることで問題が消滅するだけである。だからもし棒立ち短歌が世代間闘争の一種であるのなら、私たちにできることは何もない。ファッションがいつまでも続かず新しいファッションに置き換えられて行くように、棒立ち短歌も見過ぎて飽きられたら消えて行くだろう。
 もう一つの見方はもう少し大きな視野に立って、近代とそれを支えてきた〈私〉像が液状化を起こして溶解し始めており、棒立ち短歌はその表れではないかとする見方である。哲学者ミッシェル・フーコーはすでに80年代に、私たちがふつう考えている「人間」像は近代の産物であり、浜辺の砂に書いた文字が波に洗われて消えるように、いつかは消えてしまうだろうと予言した。これは大きすぎる問題で私にはほんとうにそうなのかどうか判断がつかないが、もしこの見方が正しいとするならば、やはり私たちにできることは何もない。大規模なパラダイム・シフトは文明規模で起きる現象であり、私たちが個人レベルで何をしてもそれは蟷螂の斧である。私たちは昨日と変わらず自分たちの小さな生を生きるしかない。
 司会の島田が最後にまとめと総括をあきらめてパネルディスカッションは終了した。企画した人たちが意図した方向には進まなかったかもしれないが、以上のようなことを考えさせられたという意味で、十分におもしろい討議だったと言えるだろう。

第62回 56回角川短歌賞雑感

 『短歌』11月号に恒例の角川短歌賞の受賞作が掲載された。今年の短歌賞は「塔」「京大短歌」所属大森静佳の「硝子の駒」が受賞した。平成元年生まれ21歳の若い歌人の受賞をまずは喜びたい。永田和宏、三枝昂之、小島ゆかり、梅内美華子の4人の選考委員全員が丸を付け、うち2人が二重丸つまり一位に推したというほぼ満票の受賞であることが、大森の歌の質を証明していよう。「時分の花」という言葉があるが、若い時にしか作れない歌というものがある。「硝子の駒」50首のように静かで控え目な恋の歌は、青春時代にしか作ることのできない歌だろう。
冬の駅ひとりになれば耳の奥に硝子の駒を置く場所がある
カーテンに遮光の重さ くちづけを終えてくずれた雲を見ている
祈るようにビニール傘をひらく昼あなたはどこにいるとも知らず
 大森の短歌は基本的には口語ベースでときどき文語が混じる文体で、きちんとした定型のなかに、一首目の三句六音、二首目の二句切れ一字空け、三首目の初句六音など、一本調子にならないように工夫がされている。端正で品のよい歌風で、選考委員の全員が推したのも無理はない。
レシートに冬の日付は記されて左から陽の射していた道
返信を待ちながらゆく館内に朽ちた水車の西洋画あり
一年と思う日の暮れ樹の匂う名前の駅で待ち合わせれば
 大森の巧さはこのような歌によく表れている。レシートにある冬の日付は過ぎ去った時間を表しており、そこに心の痛みがあることが暗示される。また「左から」の具体性がこの歌によく効いていることも見逃せない。俳句や短歌は微小な具体性に拘泥して広大な普遍に到る詩型である。二首目でメールの返信を待っている相手はもちろん恋人で、作者は美術館にいるのだが、目にしたのは朽ちた水車の絵で、それが恋の行方を暗示している。ここでは「水車」を選んだ選択と、「西洋画」というやや古風な言葉が効いている。三首目は恋人と出会って一年目の記念日なのだろう。「樹の匂う名前の駅」という表現に若さとおだやかな感情が感じられる。
 大森本人の責任ではないのだが、このような口語ベースの歌の欠点は、結句の文末表現が単調になるという点だろう。「場所がある」「雲を見ている」「君と見に行く」「背中を照らす」のような動詞の終止形は単調で、これは現代日本語の大きな欠点とされている。この単調さを避けるために体言止めにしたり、「海を呼びつつ」「壁にもたれて」「川へのバスに」など工夫がされているが、これにも限界がある。口語短歌について一考を要する課題だろう。
 今年度の角川短歌賞は水準が高かったと思うが、私が吃驚したのは次席に選ばれた小原奈実だ。
カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン
仰向けに蝉さらされて六本の鉤爪ふかし天の心窩へ
水溜まりに空の色あり地のいろありはざまに暗き水の色あり
 一首目では室内からカーテンを鎖した窓を見ているのである。庭を鳥が飛び鳥の影がカーテンをよぎる。影が去った後にカーテンの白さが一層際だつという情景を詠んだものだが、その着眼点もさることながら「はやし速かりし」の疾走感のある措辞が見事である。二首目は夏が終わって路上で屍骸をさらす蝉を詠んだ歌。「心窩」とはみぞおちの部位と辞書を引いて初めて知った。極小の蝉と極大の天の対比が残酷さを際だたせる。三首目は雨が上がった後の水溜まりを三層に分けているのである。表面に空が映り、底に地面の土の色があり、その中間に溜まった水があるという。いったい誰が水溜まりをこのように三層に分けて観察することなど考えつくだろうか。つくづく感心してしまう。おまけに小原は平成3年生まれで弱冠19歳なのである。19歳にしてこの文語能力もなかなかのものだ。大塚寅彦、紀野恵らは若くして文語を駆使した短歌を作ったが、その後そのような歌人は絶えて久しい。小原には大いに期待したいものだ。
いずこかの金木犀のひろがりの果てとしてわれあり 風そよぐ
てのひらのくぼみに沿いしガラス器を落とせるわが手かたちうしなう
切り終えて包丁の刃の水平を見る目の薄き水なみだちぬ
 一首目の〈私〉を花の香りが風にのって届く境界線とする把握も秀逸である。二首目は選評で永田和宏が絶賛した歌。高校の化学実験の情景だが、フラスコかビーカーを持っているとき掌はある形をしているが、ガラス器を落としてしまうと掌が形状を保てなくなるという点に着目したのがすばらしい。また韻律もとてもよく、一読して記憶に残る。私がいちばん驚いたのは三首目の歌。俎で何かを切った後の包丁を水平に持ち鋭い刃を凝視する。そのとき眼球の表面を覆っている涙の水分が波立ったというのである。ありえないことである。しかし現実にはありえないことでも詩的真実を伝えることがある。小原はふつう人の気づかない細部に着目する能力があることに加えて、細部から一種の幻視を拡げる異能もあるようだ。頼もしい限りである。
 今年度の角川短歌賞で最も異彩を放つのは平田真紀の「サムシング」だろう。選評で永田が「選者に対する挑戦だ」と言い、審査員特別賞をあげたいとして大いに推した人である。その作風は特異という他はない。
唐茄子に見えなくもなし六畳にかれこれ三日放置されいる
剥いたまま放っておいて干からびてある日茶匙のようになりたり
やわらかになるまで長くかかりたり先端は原形をとどめず
 平田はわざと主語の「何が」を隠して作っているので、全体がなぞなぞのような不思議な感触の歌になっている。50首全部この調子なのがすごい。これで歌集を一冊編むのは苦しいだろうが、類例のないおもしろさなのは確かである。また「何が」を隠すことによって、放置された物体の不気味な存在感や茶匙のように変色した物の質感などだけが前面に出ることもおもしろい。ふつう属性は対象に帰属する。リンゴという対象が「赤い」という属性を持つのである。対象を離れて属性はない。ところが平田の歌では対象が消されているため、属性だけが空中に浮遊しているかのごとき不思議な感覚がある。異才と言えるだろう。本年度と昨年度の短歌研究新人賞に応募したフラワーしげると並んで、今後注目すべき歌人と言えよう。

第61回 遠藤由季『アシンメトリー』

澄むものと響きあいたるあきあかね君の頭上を群れて光れり
                  遠藤由季『アシンメトリー』
 まだ気温が25度を越す夏日もあるが、列島を襲った今年の記録的な炎暑はようやく去り、アキアカネの群れ飛ぶ季節となった。日本の短詩型文学の伝統に従い、季節感の合う歌を選んでみた。この歌の工夫のすべては初句・二句にある。アキアカネの群れ飛ぶ様を「澄むものと響きあいたる」と表現し、はっきりと名指すことを避けて「澄むもの」としたことで、一首に余韻と広がりが生まれている。高い空に鰯雲が薄く流れる、ピンと張り詰めたような秋の空気を感じることができる。
 遠藤は1973年生まれで「かりんの会」に所属。本書にも収録されている「真冬の漏斗」で2004年に第一回中城ふみ子賞を受賞。『アシンメトリー』は第一歌集で、坂井修一がていねいな跋文を寄せている。全体が4章からなり、「モノ」「ジ」「トリ」「テトラ」とギリシア語の数字を冠する。歌集題名は「翅ひろげ飛び立つ前の姿なす悲という文字のアシンメトリー」から採られている。雪の結晶をデザインした表紙は著者自身の手になるもので、「遠藤由季」名義で絵本もあるが同一人物かどうかわからない。
 さて、遠藤の歌の特徴を一言で言えと言われれば、それはおそらく「相聞」ということになるだろう。
想う人あるさみしさにざぼんより柚子に冬至のこころ寄せやる
ふくよかな裸身をさらすはまぐりの澄みたる椀に汝はくちづけぬ
君とわれ時おり光を投げあえり眼鏡をかけて本読む午後に
暗き星を関節ごとに灯しても春の星座となれぬふたりは
 本来、相聞は思慕の心を投げかけ合う相互的交通だが、自己表現を中心に置き〈私の歌〉となった近現代短歌では相互性は消滅して、しばしば一方通行の想いの表現となる。遠藤の歌も例外ではなく、本歌集の相聞のほとんどは相手に届かぬ想いを詠ったものである。その意味ではもはや相聞ではなく、一人称の歌と見るほうが適切なのかもしれない。たとえば一首目で心を寄せる対象は柚子という物体で、二人称は不在である。二首目と三首目には「汝」「君」が登場し、確かにここには二人称がいる。しかし四首目になるとまた二人称は星座のなかに消えてしまう。だから遠藤の相聞は実は徹底的な一人称の歌なのである。
 それは当然ではないかと思われるかもしれない。明治時代の短歌革新によって〈私〉の表現形式となった近代短歌が一人称の歌になるのは当然ではないかと。しかし、「〈私〉の表現」と「一人称短歌」とはイコールではない。事実、近代短歌をリードしたアララギが表現手段としたのは客観写生であり、そこに一人称の入り込む余地はない。だから短歌が「〈私〉の表現」であることは、歌のなかに一人称が充満することを意味しない。
 遠藤の歌にはときに過剰に一人称が溢れている。次の歌などどうだろう。
春をふくむふくよかな胸もたずして冬枝のような息ばかり吐く
いつ見ても濡れている花 約束の頓挫する日に咲く梔子
一首目の「春をふくむふくよかな胸」も主観性の濃い表現だが、何より一人称を強く感じさせるのは結句の「息ばかり吐く」である。「息を吐く」なら客観描写だが、「息ばかり吐く」は主観的で一人称的表現である。二首目の「いつ見ても濡れている花」にも一人称が強く感じられる。いつも花を見ている〈私〉がいなければ、「いつ見ても濡れている花」とは言えないからである。このような世界の見方と語法は客観写生からは遠く、セピア色に染まる古い写真のように、世界のすべてが一人称色に染まっているかのようである。
 このことは傾向の異なる他の歌人の歌と遠藤の歌を並べてみるとよく感じられるだろう。
露骨なるかんじの空にかかげ佇つ脳の奧処に海馬はありて
            鳴海宥『BARCAROLLE [舟唄] 』
しずみゆく船のようなるゆうぐれに鉄柵ありて鳥とまりおり
                 吉川宏志『西行の肺』
慎みてわれ喰まむとすうつしみを離れたる肉のさえざえとあり
                   喜多昭夫『青霊』
鳴海の歌はダリのシュルレアリズムを思わせる世界像に多分に知的なポエジーを立ち上げており、吉川の歌は確かな目による写実に静かな情感を滲ませていて、喜多は得意の飲食の歌に清冽な抒情を詠っている。いずれも「私は世界をこのように見る」という意味において「〈私〉の表現」であるが、一人称性は抑制されている。
 遠藤のように一人称性が濃厚な歌の問題点は、ややもすれば世界の把握とそれを表現する語法が甘くなることだろう。それは特に下句に表れる。
破られる運命にあり約束も紙もわたしを傷物にして
雪を掬いじんじんと熱くなりゆく手これっぽっちの心も掬えず
煩わしい約束終わりユニクロをのびのびと着る夜のわたくし
剥き出しの配管みたいな純粋さ壁に隠しておけばよかった
これらの歌の下句はあまりにそのまんまであり、歌に必要な詩的昇華を経ているとは思えない。〈私〉のストレートな表現が歌となるのではなく、〈私〉は変成と組み替えと再創造という玄妙不可思議な過程を経て初めて芸術表現となる。
 一方、遠藤の次のような歌では、この錬金術が成功しているように見える。それはこれらの歌を支える〈私〉がそのまんまの〈私〉ではなく、世界の把握と表現とを志向することで、〈私〉の普遍化の水際へと接近しているからである。
朝ごとに光のほうへ右折するバスの終点へ行きしことなく
首長きものはさみしえ白鳥の舟をふたりで漕ぐ水際まで
ぴったりと寒鮃黒く黙しいる魚屋過ぎればわが影の無く
音のすべて遠く聞きおり自転車が激しく風に倒される辺で
雨のけはい小さな町にはりつめて隣町へと洩れてゆく午後
自らの影切り放ち飛び立てる鳥の翼をひかりと見つむ
もちろん遠藤の相聞のなかにもよい歌がないわけではない。また短歌を自らの生の軌跡の私的な記録と見なす見方もあるだろう。しかし短歌を〈私〉の玩具に終わらせないためには、これらの歌が示しているような方向をめざすべきではないだろうか。

第60回 越境への誘い – 科学と短歌

 諏訪兼位かねのり『科学を短歌によむ』(岩波科学ライブラリー, 2007)と、松村由利子『31文字のなかの科学』(NTT出版、2009)を同時に読んだ。諏訪は名古屋大学理学部長や日本福祉大学学長を務めた地質学者で、松村は『鳥女』で現代短歌新人賞を受賞した歌人であると同時に、元毎日新聞記者で科学畑の取材をしていた人である。本書で2010年度の科学ジャーナリスト賞を受賞している。
 同じように科学と短歌の関係に焦点を当てながら、2冊の本の切り口は異なっている。諏訪の本のテーマは、科学者がどのように短歌を詠んできたかであり、科学者は短歌の作者の位置にある。引用されている歌に詠まれている題材は科学に限らない。一方、松村の本は科学が短歌にどのように詠まれているかという点に焦点を当てており、作者は必ずしも科学者ではなく、そうではない例の方が多い。しかし詠まれている素材は広義の自然科学に関わるテーマである。このように位置取りの異なる2冊の本は、一部が重なるベン図式のように、重複部分を持ちながらも独自の方向への広がりを見せていて、同時に読むことで興味が増幅される2冊だと言えるだろう。
 人間を理科系と文科系に二分するのは日本特有の習慣だと言われるが、理科系に属する人が文学に傾倒する例は珍しくない。明治時代の近代文学成立以後、いちばん多いのは医者が文学に越境するケースだろう。森鴎外に始まり、小説では木々高太郎、山田風太郎、加賀乙彦、なだいなだ、藤枝静男、渡辺淳一、北杜夫、海堂尊らがおり、短歌でも斎藤茂吉、上田三四二、原田禹雄、浜田到、岡井隆などの名前がすぐに頭に浮かぶ。医学以外の理科系の分野で短歌や俳句などの短詩型文学に手を染める人も少なくない。二足のわらじで活躍する人としては、細胞生物学者の永田和宏と娘の紅、計算機科学者の坂井修一らがいるが、諏訪の本を読むと、実に多くの理科系の人が短歌を作ってきたことがわかる。明治時代の物理学者・石原純は現代の私たちには馴染みがないが、有名どころではノーベル賞を受賞した物理学者・湯川秀樹も短歌を詠んでおり、『深山木』という歌集がある。
天地あめつちもよりて立つらん芥子の実も底に凝るらん深きことわり
わかれさす光かそけき深山木の道ふみわけし人し偲ばゆ
 「深きことわり」とは森羅万象を統べる自然法則であり、「深山木の道ふみわけし人」は果てしのない科学の探究という道に踏み込んだ研究者の喩である。「わかれさす光」は生い茂った枝の間から射す光で深山の描写だが、光の研究に没頭しニュートン・リングに名を残したニュートンとも遠く響き合うようにも感じる。湯川の短歌はこのように、自然の哲理の深奥に思いを馳せた歌となっている。
 同じ物理学者では、戦前に渡仏しジュリオ・キュリーのもとで放射線の研究に携わった湯浅年子も短歌を詠んだ人である。戦前のパリにはパリ短歌会があったそうで、湯浅も参加していたという。
帰る船なしときゝつゝ秘やかに躍る心を母許しませ
神さびてたちます老いし師の君の白き実験着の目にしるきかも
 一首目は日本に残した父の訃報に接した際に詠まれた歌で、当時は日本とフランスを結ぶのは30日かかる船旅であった。長期の留学は親の死に目に会えないことを意味したのである。「躍る心」は帰国の船がないことを口実として、研究に没頭できることを喜ぶ後ろめたさを表している。二首目は師のジュリオ・キュリーを詠んだものと思われる。
二た月を黙してすごしぬアフリカの夜のサバンナ雷鳴轟く  松沢哲郎
青そらの星をきわむとマウナケア動きそめにしすばるたたえむ
                      藤田良雄
やわらかき冬の光が身に沁みて生きよ生きよと我を温む  柳澤桂子
 松沢は京都大学霊長類研究所教授で、天才チンパンジーのアイに関する研究で知られている。この歌はアフリカでの類人猿のフィールド調査の折のもの。二ヶ月にわたる沈黙というかんたんな記述に研究者の苦労が知れる。藤田は天文学者で宮中歌会始の召人も務めた歌人。「すばる」はハワイのマウナケア山頂に建設された大型天体望遠鏡で、2000年に稼働したときの研究者としての喜びが率直に詠われている。柳澤は生命科学者で、長年原因不明の難病に苦しんだ。それゆえの生きる喜びの歌である。
 『科学を短歌によむ』は著者の諏訪の選歌にもよるのだろうが、「科学者が短歌を詠む」というタイトルの方がふさわしい。上に引用した歌の多くは、自然科学者でなくとも誰でも感じる喜怒哀楽を歌にしたものである。言うまでもなく自然科学者にも日々の感情生活があり、希望もあれば失望もある。それを歌にするとき自然科学者に特有のことはなにもないことが、本書に引かれた歌を読むとよくわかる。
 これにたいして松村由利子『31文字のなかの科学』は、自然科学がテーマとして詠まれた歌を取り上げていて、諏訪の本を補完する内容になっている。こちらからも何首か引用してみよう。
レンズ下にしく狂える細胞は”花むしろ様配列ストリフォルム“という名を持てり                                久山倫代
 「狂える細胞」とは悪性腫瘍細胞のことで、暴走して無限に分裂を繰り返す。そんな禍々しい細胞の姿に「花むしろ様配列」という美しい名があることに驚く。短歌に自然科学を詠むときに発揮される力のひとつは、このように美しいコノテーションを持つ自然科学の用語が開く世界だろう。私たちはふだんは肉眼で見、耳で音を聞く世界に暮らしているが、科学の探査プローブは肉学では見えない微視的世界や何万光年離れた世界をも射程に入れる。そこで展開される生命や自然の様相が、ふだんは日常世界に立脚している短歌の世界を広げてくれることは確かである。
検索をすればたやすくゆきあたる顔写真ありHelaその人  永田紅
 ヒーラ細胞とは1951年に培養されたヒト由来の細胞株で、爾来半世紀以上にわたって実験室で用いられている。Henrietta Lacksという女性から採取されたものだが、本人は同年に死亡しても細胞はまだ生き続けている。永田が歌に詠んだHelaその人とは、この当人のことである。検索によってたやすく顔写真までわかるのも驚きだが、それより死者の細胞が半世紀以上にわたって死後に生き続けるところに驚きがある。このワンダーを短歌がうまく取り入れることができるだろうか。
体内に海抱くことのさびしさのたとへばランゲルハンス島という島
                            大辻隆弘
 大辻が詠う体内の海とは、海水と塩分濃度がほぼ等しいという血液の循環のこと。ランゲルハンス島とは膵臓内にあってインシュリンを作る器官。それを知らずに聞くと北海のどこかに実在する島のようにも聞こえる。それを逆手にとった『ランゲルハンス島の午後』というエッセー集が村上春樹にある。安西水丸のイラストが素敵だ。大辻の歌は海という極大と身体器官という極小を対比させたなかなかの名歌だと思う。
宇宙塵いくたび折れて届きたる春のひかりのなかの紫雲英田  玉井清弘
 宇宙塵とは宇宙に浮遊している星間物質のこと。光は真空を直進するが、微小固体である宇宙塵にぶつかると散乱する。そんな散乱をどれくらいくぐり抜けて地球に到達した春の光だろうかと、作者は田んぼに咲くれんげ草を見ながら思っているのである。宇宙塵へと思いを馳せるところが歌の骨格を大きくしている。
神様とわたしどんどん遠ざかる夜ごと赤方偏移のしらべ  佐藤弓生
 佐藤はSFも書いているので、歌の発想のどこかに科学に触れるところがある。赤方偏移(redshift)とは光の波長が長い方、つまりスペクトルの赤い方へとずれることをいう。音におけるドップラー効果と同じで、光源が遠ざかっていることを意味し、星の放つ光が赤方偏移を示していることが膨張宇宙論の根拠とされた。だから佐藤の歌では私と神様がだんだん遠ざかると詠われているのだが、もちろんここには私の心が神から離れてゆくということも重ねられている。赤方偏移という言葉にはどこか悲しい響きがある。膨れ続けるこの宇宙は、いつか収縮に転じると考えられている。
時限装置のテロメア持たされ生れしゆゑ人もけものもしずかに歩め
                          松川洋子
 テロメアとは染色体の端に見つかった構造体で、回数券の綴りのように一枚ずつ使われることで、細胞の寿命を決定しているという。つまり回数券を使い果たしたら寿命が尽きたことになる。だから松川の歌では時限装置と詠われているのである。テロメアを持つのは人間も動物も変わりない。私たちはいつか使い終わる回数券を持たされて、この世に放り出されたのである。その理不尽さに対する感慨が、「人もけものも閑かに歩め」という下句に静かに表現されている。
 自然科学は顕微鏡や望遠鏡によって、肉眼では目に見えない微視的世界や巨視的世界を私たちの認識のもとに置くことを可能にした。それは同時に私たちの感覚世界が飛躍的に拡大したことを意味する。しかし肉眼を超える世界を思い描くには、いささかの想像力を必要とする。歌人たちは想像力を駆使して、このように私たちの感覚世界を広げることに成功していると言えるだろう。厳密な論理と証明を旨とする自然科学とポエジーは相容れないように見えるかもしれないが、決してそんなことはない。
 ランゲルハンス島はこの器官を発見した19世紀のドイツの医学者ランゲルハンスの名を冠しているが、人の名前が付いた科学用語は少なくない。パブロフの犬は実在の実験動物だが、実在しないものもたくさんある。「マックスウェルの悪魔」は、分子の運動に細工することで熱力学第二法則を成り立たなくする想像上の仮定で、「シュレジンガーの猫」は量子力学が前提とする確率論的世界観を表現するために考案された思考実験をさす。「ディラックの海」は物理学者のディラックが考案した陽電子で満たされた空間だが、どこかポエジーを感じさせる。巻き貝の形状を表すフィボナッチ数列など、とても詩的だと思うのだが。なかでも私が美しいと感じるのは「チェレンコフ光」である。チェレンコフ光とは、電荷を帯びた荷電粒子がその物質中での光速より速い速度で運動したときに出る青白い光をいい、ロシアの科学者チェレンコフによって発見された。その青白い光も美しいが、「チェレンコフ光」という音の響きがとても美しいと思う。
 しかし現実にはチェレンコフ光とは人を殺す禍々しい光である。1999年に東海村の核燃料処理施設で臨界事故が起きたとき、被爆した作業員がみた青白い光がチェレンコフ光であった。今野はこの事故を次のように歌に詠んでいる。
とことはにウランは少女の名であればあな青白き光不意打ち  今野寿美
 最後に諏訪の本にも松村の本にも引かれていないが、私が心打たれた歌を一首引いておきたい。1966年に起きた全日空機事故の調査報告に納得せず、独自の事故調査を『最後の30秒』という著書にまとめた東大教授・山名正夫の歌である。
はるのそら とはのなみだの ひとつゆを いまなきひとの たまのみまえに