115:2005年8月 第1週 吉田 純
または、前衛短歌の私生児は蝙蝠傘に何を身籠もるか

ずぶ濡れの俺の背中に夕星が
     輝くという嘘を悲しむ

       吉田純『形状記憶ヤマトシダ類』(北冬社)
 吉田純 (あつし) は1976年 (昭和51年) 生まれ。『形状記憶ヤマトシダ類』は2004年に刊行された第一歌集である。1976年生まれといえば、生沼義朗(1975年生)、笹公人(1975年生)、永田紅(1975年生)、黒瀬珂瀾(1977年生)らと同世代の歌人である。この世代にとって1987年のサラダ現象のときはまだ10歳ほどだから短歌に意識はなく、18歳を人生の最初のメルクマールとすれば、1992年はまさにバブル経済崩壊の年である。この世代の若い人たちが短歌という伝統定型詩を志した時、当時の短歌シーンがどのような時代背景のもとにひとりひとりの目に映っていたか、これはとても興味のある問題である。

 歌集巻末の著者略歴によれば、大学院の日本文化研究科 (実質的には国文科と思われる) に学び、菱川善夫に師事するとある。菱川といえば、戦後の前衛短歌運動の最も熱心な伴走者として知られる批評家である。だから吉田が前衛短歌の遺産を出発点としたことは疑いない。

 前衛短歌もはや還暦近し 炬燵に眠る蝙蝠傘(こうもり)ひとつ

 ぬばたまの官衙の街へみごもれる蝙蝠傘(こうもり)さげてゆく男あり

 これらの歌に登場する蝙蝠傘は、塚本邦雄の「われの戦後の伴侶の一つ陰険に内部にしづくする蝙蝠傘も」という歌を下敷きとしている。だから「炬燵に眠る蝙蝠傘」は、かつての鋭い問いかけと革新的態度を失ってしまった前衛短歌への挽歌である。吉田は年老いた前衛短歌の旗手たちに代わって、自分がその松明を継承しようと決意する。だから「みごもれる蝙蝠傘」は、これから何を生み出すかはわからないがとにかく胎動し始めている胞衣であり、吉田はそれをひっさげて官衙の街へ突入しようとしているのである。みずからを「前衛短歌の私生児」と規定する吉田の決意の歌だろう。

 実際に歌集を読むと、視覚的喩、句割れ・句跨りの多用などの、いかにも塚本風の前衛短歌の語法と語彙を用いた歌がある。

 裕仁忌 精肉店の青年の咽喉(のみど)巻く鴇色の手拭

 侵略史の顔ぶれのみが愛されて ― 日本銀行券収集家

 銃口のごと颱風の眼が狙う嗜眠症なる盲目の蛇

 だが「炬燵に眠る蝙蝠傘」に挽歌を送る吉田が、前衛短歌そのままの語法を用いることに、今日的な意義が果してあるのだろうか。もしこれがオマージュまたはパスティーシュならば別なのだが、そうとは思えない以上、疑問を持たざるを得ない。

 みずからを「前衛短歌の私生児」と規定するとはどういうことだろうか。吉田の歌集の直前に高柳蕗子の『短歌の生命反応』を読んでいたので、どうしても高柳の本の影響が後を引いていた。そのせいでいささか偏った読み方になったかもしれない。高柳は『短歌の生命反応』所収の「めでさたの終わり」という文章の中で、「メデタム」という造語を提案している。「メデタム」とは「めでたさ」を喚起するアイテムのことをいう。では「めでたさ」とは何か。私たちの命は短くはかない。遠からず何の痕跡も残さずにこの世から消えてしまうと考えると怖ろしい。しかし、私の命は子供に継承されるとか、私がいなくなっても家系は脈々と存続するとか、国破れても山河ありとか、ちっぽけな「私」を超えるもっと大きなものに包まれると考えるとき、その怖ろしさはやわらぐ。私たちという「部分」がより大きな「全体」の一部であると感じることで慰められる。毎年正月が来るとなぜ「めでたい」か。それは自然が変わることのない周期でめぐってくるという不変性が保証されるからである。私たちはその不変性に癒されるのである。

 高柳はこの「めでたさ」の感覚は短歌に深く浸透しており、「メデタム」は短歌を自立させる必須アイテムだとする。

 春ここに生るる朝の日をうけて山河草木みな光あり  佐佐木信綱

 これは「メデタム」だらけの歌である。「春」「朝」「日」「山河」「草木」「光」これすべて「メデタム」だと高柳は言う。新年の宮中歌会始めなどは、その儀式的性格から言って「メデタム」を折り込んだ歌を作ることを状況的に拘束されていると言えるかもしれない。

 はるかなる撒水車よりくるごとく雪舞うわれらも宇宙の微塵  井辻朱美

 人間は宇宙のチリにすぎないとするこのような歌は、一見すると人間の卑小さや無常観を強調しているように見えるかも知れないが、これもまた「メデタム」によって最終的には人間を慰撫する歌である。なぜならわれら人間もまた、宇宙という巨大な摂理の一部として把握されており、なかんずく「雪」は高度の「メデタム」だからである。このような高柳の短歌観はとてもおもしろい。

 吉田の歌集に話を戻すと、吉田はみずからを「前衛短歌の私生児」と規定するくらいであるから、歴史意識を強く持っているはずである。吉田の歌のなかで過去の短歌の遺産はどのように扱われているのだろうか。

 蛍火を部屋にて放ちやる気分 ミュートしたまま空爆中継

 蹴り上げる空き缶 青に吸い込まれ自転周期に乗るまでの夢

 何かしら力持ちたき気分して飴玉ひとつ口中の月

 いつまでも俺を睨んでいる月の欠けた部分の暗い苛立ち

 朝の陽に空の埃は映されてまじりけのない始まりがない

 太陽のかげり堕ちつつゆくさまに群れる向日葵蒼ざめゆけり

 古来「蛍」は恋の象徴とされ、近代短歌では魂とのダブルイメージでよく詠われた。一首目は中東戦争におけるアメリカ軍の空爆のTV中継を描いている。TVが消音されているという点に「鳴かぬ蛍」の伝統的イメージとの連続性があり、爆撃で死ぬ人の魂を蛍火の明滅に喩えるのは近代短歌の継承だと言える。二首目、空き缶を青空に向かって蹴り上げるというのは、この上ない青春のイメージである。「青」も軌道を周回する「月」も近代短歌の「メデタム」であり、吉田は意外にも近代短歌が築き上げた「メデタム」銀行の預金をよく使っているのである。同じことは三首目にも言える。口に入れた飴玉は「月」に喩えられる。「丸さ」を機縁とする隠喩のみならず、ここには人間を見守る天体としての「月」が強力な「メデタム」として働いている。四首目になると趣はいささか異なる。この歌にも月は登場するが、クローズアップされているのは月の欠けた部分であり、それが私を優しく見守るどころか睨んでいる。五首目の「朝の陽」もこれと似ており、本来はご破算による世界の更新であるはずの朝の陽が、始まりを予告しないものとして否定的に捉えられている。六首目の「メデタム」は「太陽」と「向日葵」で、ヒマワリは天における太陽の地上における相関物として把握される。太陽が翳るのと同時に向日葵も蒼ざめるのだから、本来生命や希望のシンボルである「太陽」と「向日葵」はここでも否定的に捉えられている。

 やや詳しく見たように、短歌史の積み上げてきた歴史的厚みに対峙する吉田の戦略は、いささか足元がふらついていると言わざるを得ない。歌集の栞文で谷岡亜紀は、「否定の力を武器として、いま、この第一歌集をもって短歌という城塞に参入しようとする」と吉田の姿勢を評価した。「否定の力」というとき、そのベクトルの向く方向はふたつある。ひとつは近代短歌の「メデタム」のプラスをすべてマイナスに変えるという戦略である。上の引用歌でいうと四首目・五首目・六首目あたりがこれに該当するだろう。従来の近代短歌で「メデタム」として利用され、短歌に母のごとき安心感と慰藉作用を付与してきたアイテムを使いながらもその価値を反転する操作を通じて、近代短歌の遺産に「否定の力」を突きつける。このような戦略を描くことができる。

 しかしこれは成功するだろうか。ドンキホーテは敵に見立てた風車があってこそ、ドンキホーテたりえる。その意味でドンキホーテにとって、風車は自らの存在意義のために必要欠くべからざるものである。いくら槍を突き立てようとも、本当に相手が死んでしまっては困るのだ。吉田が採用した戦略はこのような根元的矛盾を孕んでいる。

 「否定の力」というとき、そのベクトルの向くもうひとつの可能性は、近代短歌の「メデタム」のプラスをマイナスに変えるのではなく、「メデタム」自体を中性化する作業を通じて、「メデタム」なしでも屹立することのできる新しい歌を志向する道である。吉田のこの歌集に収録された歌には、残念ながらこのような戦略の可能性を感じさせる歌は見ることができなかった。

 どっぷりとオリーブオイルに漬けられて沈む鰯のようだお前は

 わが意志に似て密かなる朝焼けの微熱の匂い坂上りゆく

 僕達の首に掲げる勲章 evian かたむけてみるとき naive 

 古着屋のコートの中に釘ひとつ誰(た)が握りしか錆びゆくまでに

 いずれも完成度の高い歌だと思う。しかし、愚かな人民を缶詰の鰯に喩えるのは常套の比喩であり、錆びた釘も歌謡曲にまで利用された挫折の比喩である。また「倦怠と怒りの向かう処知らず檸檬爆弾試したくなる」のような直球を放られると、バッターボックスにいるこっちがのけぞってしまう。

 「メデタムなしでも屹立する新しい歌を志向する」と言うことはたやすい。しかし高柳も言っているように、「メデタム」は日本語の隅々まで深く浸透している。歌人のなかにはこれを「日本語の貴重な遺産」として活用すべきと考える人も多いだろう。そんななかで「前衛短歌の私生児」として、過去の短歌との対決を主要な弾機として短歌世界に立ち向かうのならば、「否定の力」によるだけではなく戦略的に「メデタム」を中和する道を探るべきだろう。

 歌集題名『形状記憶ヤマトシダ類』は次の歌による。

 湿りたる昭和初年の闇を恋う形状記憶ヤマトシダ類

 ヤマトシダという植物名はもちろん創作である。現代の世にあってヤマトシダ類は本来の形をなくしてひっそりと棲息しているが、何かの折りに形状記憶機能が働き、昭和初年の闇の時代に持っていた本来のおぞましい形状を回復しようとする。ヤマトは日本であり、それは日本的心情と日本語とがないまぜになったものとして把握されている。そのような認識の地平に吉田は立っているのだろう。このような地平からどんな歌が繰り出されて来るのか。第二歌集に期待したい。

114:2005年7月 第4週 松平盟子
または、都会暮らしのシングル女性のお洒落な歌

魚を呑みのみていのちの深まれる
     黒鵜の胸が闇を動かしむ

          松平盟子『青夜』
 長良川での鵜飼いの情景を詠んだ歌である。短歌の定石どおり、「呑み」「のみて」と漢字と仮名で書き分けられているこの動詞は、単なる同一語句の反復だろうか。いやそうではあるまい。初句「魚を呑み」は眼前の事実の冷静な観察である。しかしそれを受けて続く「のみていのちの深まれる」はもはや観察ではなく、眼前の事実に触発された〈私〉の想いである。四句・五句の「黒鵜の胸が闇を動かしむ」も写実ではなく、「魚を呑み込んで、魚の死の分だけ命の深まった鵜が、まるで闇を動かしているように見える」と読むべきで、これも〈私〉の想いのフィルターがかかっている。だから「呑み」「のみて」の同じ動詞の反復は、31文字という限られた空間で文学しなくてはならない短歌形式から見て、反復による無駄であるどころか、「事実」と「想念」、「世界」と〈私〉のあいだを巧みに架橋しつつ、一首のなかに世界と〈私〉を一期の相関関係において、すなわち〈意味の一回性〉において定着することに貢献している。技巧の冴える歌と言えよう。

 松平盟子は1954年(昭和29年)生まれで、1977年に角川短歌賞を若干23歳で受賞して彗星のごとく短歌界にデビューした。当時1年目の新米国語教師で、作歌歴わずか1年ということも話題となった。なにしろサラダ現象の10年も前のことである。そのころは若い女性が短歌を作るのは珍しく、また次のように性愛を詠った官能性の濃い歌も交じっていたため、そのことも話題になったようだ。

 君の髪に十指差しこみ引きよせる時雨の音の束のごときを

 汝が肩を咬みて真朱(まあか)き三日月を残せし日より夏はじまりき

 むねとむね二条のくらき海溝をのぞかぬやうに重ねあふなり

 オジサンたちはびっくりしたというわけだ。

 「コスモス」を経て、歌誌「プチ★モンド」を主宰。80年代のなかばから記号短歌は大流行したが、結社名や歌誌名に記号が入っているのは他にはあるまい。黛まどかの句誌「東京ヘップパーン」と双璧をなすオシャレさである。確かに松平の短歌には銀座、ロゼワイン、シャンパン、フォワグラ、薔薇ジャムなどの語彙が登場し、都会的で現代的な風俗が巧みに詠われている。

 カクテルは 「Between the Sheets」うつぶせの背をゆっくりと夏闇に反る

 マドレーヌあまく舌を焼く二十代いつか終りにさしかかりゐて

 三十代日々熟れてあれこの夜のロゼワインわれを小花詰めにす

 子の眠る黄金時間わがためにカフェ・オ・レ淹れむジノリのカップに

 田舎臭さはどこにも見られない。明治以来の近代短歌を振り返って見ても、ここまで土着性の田舎臭さを払拭した例は珍しいのではないか。松平の短歌は消費社会を背景とする都会の現代風俗を短歌素材の基盤とした点で、それまでになかった新しい短歌だと言えるかもしれない。現在長野県知事である田中康夫が『なんとなくクリスタル』で文芸賞を受賞したのは1985年のことだが、小説の舞台設定は1980年になっていた。カタログ小説の走りといわれたこの小説には、モノの名前が無数に散りばめらている。松平が短歌界に登場した頃には、日本社会にすでに消費社会の気分が漂っていたのであり、松平はその申し子と言える。

 第二歌集『青夜』(1983年) は作者の人生の一大事、結婚と出産が大きなウェイトを占めている。女性歌人の場合、歌集の構成が自分の人生の歩み「女の一生」とシンクロしていることが多い。『青夜』も部立てで逆編年体を採ってはいるものの、この例に漏れない。

 十月十日(とつきとをか)わが生(よ)にただ一度つながるる緒よそを奔(はし)る光速の血よ

 玉の緒といふ語うつくしわれとわが胎児をつなぐその命の緒

 レモン甘く煮て黄金の蜜を生むむらぎもの飢ゑあした満たすため

 いのち得てぬくきからだよコスモスの韻(ひび)かふ坂を陽炎(かげろ)ひあゆむ

 宇宙よりつづくこの闇を肺臓へ送りぬ闇はわがいのち燃やす

 これの世を初めて映す子のまなこ青鈍の淵に万象そよぐ

 『青夜』を貫くトーンは身体と生の肯定である。子供を身籠もると同時に、自分の身体性を強く意識するようになり、自分を生んだ母もこうだったのかと血縁の時系列的連帯感を感じ、また卵から胎児へと成長する我が子を通して生物としての進化の過程に思いをはせる。身体の絶対的肯定に至らないはずがない。一首目と二首目では、自分と胎児をつなぐ紐帯を通して命を感じている。三首目の「むらぎもの飢ゑ」は黄金で満たすべきものと捉えられている。なぜなら自分の身体が祝祭だからである。五首目では宇宙の闇すらも自分の命を燃やすものと見なされている。パスカルもびっくりというところだ。

 このような身体と生の全面的肯定は、男性の苦手とするところでもある。同じ我が子の生誕を詠んでも、男だと次のようになる。子供が浮かぶ羊水はどこか不吉に暗いのである。

 さくらばな空に極まる一瞬を児に羊水の海くらかりき 小池 光

 『青夜』で示された身体と生の全面的肯定から見て、松平がその後与謝野晶子の研究に打ち込むようになり、何冊か著書を著すのは自然な流れだと言えるだろう

 第三歌集『シュガー』(1989年) には第二子の誕生も詠まれているが、いささか趣がちがってくる。『青夜』には夫を詠んだ歌が少ない。そのうち一首は夫その人ではなく、爪として登場するのみである。最後の歌など夫はまるで放牧される羊のように詠まれている。

 あらうらに切り捨てられし爪をふむ剛し鋭し夫の一端

 君とわがあはひの空(くう)を密度こく撓めて出づる形を子とよぶ

 梅雨寒の屋ぬちに鶏(とり)のガラを煮るとろとろと夫とふ男待ちつつ

 朝ごとに男放ちやり夜な夜なを戻り来かはゆし男とふもの

 『シュガー』では夫の歌が増えるのだが、それは次のような調子においてである。

 夫より呼び捨てらるるは嫌ひなりまして〈おい〉とか〈おまへ〉とはなぞ

 茄子一本たひらげて胃をさすりたりこむづかしきこと男よ語るな

 甘皮をうつすらと剥がすやうにして男の矜持そこねゐる快

 梨をむくペティ・ナイフしろし沈黙のちがひたのしく夫(つま)とわれゐる

 アリナミンよりほほゑみが効くなんて言の葉で妻が喜ぶと思ふか

 男に向けられた眼差しはかくのごとく醒めている。男の私としては心穏やかには読めない歌である。特に四首目「梨をむく」の「沈黙のちがひたのしく」のくだりなんぞかなりコワい。このようにして残念ながら結婚生活は破綻し、松平は夫・子供と離別して独りになる。『シュガー』はその予兆に満ちた歌集で、読んでいて作者の家庭の行く末ばかりが気になってしまうが、それとは関係なく次のようなよい歌もある。

 春雨はさくらはなびら抱きて落つさくらのいのち濡れておちゆく

 霜月の朝風に銀の骨組みのかすかふるへて自転車醒めぬ

 クリムトの画集より鬱金てりはえてわが首まことにあらはになせり

 火食(くわしよく)する罪あれば塩ふるわが手一片の肉こよひ浄まれ

 水にさす茎の長短 花の死はかすかなれども茎ながきより

 第四歌集『プラチナ・ブルース』(1990年)は第一回河野愛子賞を受賞している。だが松平の歌にそれまでのような輝きが見られないのは残念なことである。

 霧雨にメリーゴーラウンドぬれそぼちわれのうちなる母子草萎ゆ

 木綿(コットン)のパスローブにて余熱の身ざっくりさらりくるまれている

 大都市の綺羅のすきまの薄闇に女と猫の日常はあり

 白絹のような仏蘭西わいん飲む土曜の夕べひとの夫と

 中国の硯と墨をすりあわせ幽暗の香はふかきしずもり

 ラウェンダーうすむらさきの星くずのような花なり星の香甘し

 それまでの文語旧仮名から新仮名に改めたせいだけではなかろう。歌の世界を技巧を用いて構成してゆくという、『青夜』にははっきりと見ることができた作歌態度が消え失せて、日常生活に題材を採った身辺詠になってしまっている。家庭と子供を失い、猫を友として大都会に生きる現代女性という作者の境遇から醸し出されるものはあるが、それだけでは物足りない。なかんずく気になるのは喩の平板さである。一首目の雨に濡れたメリーゴーラウンドという像的喩、四首目の「白絹のような」や六首目の「星くずのような」という直喩に新味はない。というのも『青夜』には次のような斬新な喩がたくさんあったからである。

 そらのはて濁りゐて朱き肉片のごとき陽が潤むわが受胎の日

 夜の海のをりをり裂けてほのじろき臓腑のごとき波は見ゆ首夏

 枯すすき黒く凍れる原をふく死魚のなまこのごときみぞれなり

 くやしみの断面のごと岸壁は赫くひらたく日に焦がさるる

 現代短歌文庫版『松平盟子歌集』(砂子屋書房)に俳人坪内稔典の批評が収録されている。もともと歌誌「プチ★モンド」に掲載された文章だが、そのなかで坪内は松平にはっきりと苦言を呈している。坪内によれば松平の短歌の新しさはその「通俗性」にあった。松平はその通俗性を、斬新な比喩と語法を駆使し乗り越えることで魅力を発揮していた。歌はもともと雅の世界のものであるが、現代においては通俗性を武器としないと力を持ち得ないと坪内はいう。だから短歌にとって通俗性は排するべきものではなく、利用するべきものなのである。その典型は言うまでもなく与謝野晶子である。しかるに『シュガー』以後の松平は、絵に描いた通俗性そのものになってしまっているというのが坪内の批評である。本人の主宰する歌誌にこのような辛口の批評を書くのは珍しいことかもしれないが、上に引用した喩の平板さを見れば、坪内の批評は確かにその通りで賛成せざるをえない。私は最後に第七歌集『オピウム』を通読したが、付箋のついた歌は次の四首のみであった。

 水をそそぐ刻々を水ささやくにグラスの虚ろ溺れてゆけり

 雨やみて夕けむる刻魂は人より半歩遅れてあゆむ

 白鳥は万の星々吐き終えて夕べの翼しずかにたたむ

 散り沈む桜に添いて魂魄の銀の陰りが地を照らしたり

113:2005年7月 第3週 資延英樹
または、定型を武器に現実を組み替える知的な歌

風の上に軌道はあらむひと方を
     指してすぎゆくひと群(むら)の星

      資延英樹『抒情装置』(砂子屋書房 2005年刊)
 結社「未来」に所属し、未来賞を受賞した歌人の第一歌集である。瀟洒な仏蘭西装に背抜きの箱入りというなかなか凝った装丁になっている。跋文は師の岡井隆が書いている。岡井が講師を勤めていた大阪の千里カルチャーセンターの短歌講座を受講し作歌を学んだそうだ。文句なく最優秀の生徒であったと岡井は書いている。しかし、資延はポッと出で短歌に出会ったわけではなかろう。京都大学英文科を卒業して後、さまざまな読書経験を通じて文学や思想と触れ合っていたことが、歌を読めばよくわかる。下地はあったわけだ。

 歌集題名の「抒情装置」というのは、最初は短歌のことかと思ったが、次の歌を見て思い違いであることが知れた。

 たそがれの抒情装置はぽつねんと裏の芝生に夕陽見てゐし

「抒情装置」というのは〈私〉のことなのだ。それは実生活を生きている〈私〉であると同時に、作者の作る短歌の中に言葉によって押し上げられる〈私〉でもある。「〈私〉とは抒情する装置である」という言上げの中には、短歌を叙情詩とみなす態度とともに、いやなかんずく、〈私〉の自立性・内在性を自明のこととしてきた近代に対する懐疑が感じられる。

 「古典和歌の偽作を作ってみたいという半端な動機」から短歌講座を受講したというだけに、掲出歌のような文語・旧仮名遣いの歌の姿はなかなか見事なものである。

 あからひく雲の流れはちぎれつつミケランジェロの指先のその

 さにつらふ乙女もすなる独楽(どくらく)の地軸をゆらす指にもあるかな

 ぬばたまの闇に羽ばたく鵺(ぬえ)として遣はされたる下達の具はや

 散りそめしさくらの下に吾が立てば愛車はすでに死ににけらしな

 「あからひく」「さにつらふ」などの枕詞や、「~あるかな」「~はや」「~けらしな」などの終止の形式は古典和歌そのものである。一首目の「指先のその」で余韻を残して止める手法や、二首目に漂うあえかなエロス感も注目される。しかし騙されてはいけない。これらの歌は古典和歌のパスティーシュなのである。四首目「散りそめし」のいかにも古典的に散る桜と廃車寸前のポンコツ車とのミチマッチの取り合わせを見れば、作者がパスティーシュとして作ろうとしている意図は明らかである。作者は〈私〉を抒情装置と捉えている割りには、その作歌態度は実に知的であり、ある限度を超えると知的遊戯の域に達することもある。

 伊集院雅子さん今ありとせばモンテビデオの遙か南に 題詠「ビデオ」

 系統樹たぐりてゆけば出るは出るは哺乳類から早坂類まで 題詠「類」

 濃い口をちと薄めればうす口になるちふものとはつゆあらなくに 題詠「濃」

 志低う構へて返り咲く男は黙つて札幌へ行け

 秋の田の呉田軽穂の名のもとに書かれし歌の数多くあり

 議事堂に雷落ちる画像出づひとまづここはコイヅミコイヅミ

 ムロアジと真鰺のちがひを言ひ合ひし議論はいつか亜細亜の曙

 最初の三首は「題詠マラソン」の出詠歌。一首目の伊集院雅子は白血病で夭折した夏目雅子、モンテビデオは南米ウルグァイの首都で、両者のあいだには何の関係もないが、ビデオ録画で今にその画像を留めている女優と、遙か南米で生きていてほしいというファンの願望が、地口ともつかぬ掛詞に込められている。二首目の早坂類は歌人ならば説明不要で知的な遊びの歌。三首目は「つゆ」が掛詞。「なるとふ」ではなくわざと「なるちふ」として、伝法な雰囲気を醸し出している。四首目の「男は黙つて」と来れば、続きは「サッポロビール」と相場が決まっているという共通認識を土台として作られた歌。五首目の「呉田軽穂」はミュージシャン松任谷由美(ユーミン)の筆名で、往年の銀幕の名女優「グレタ・ガルボ」から取ったもの。六首目の「コイヅミコイヅミ」は「クワバラクワバラ」のもじりで、とりあえず小泉首相を前面に押し立てておけば選挙に勝てる自民党を揶揄した歌。七首目は「ムロアジ」「マアジ」ときて「アジア」で落とす仕組み。言葉遊びも交えて古典和歌の語法も自在に援用し、定型という器に何を盛ることができるかを、楽しみながら実験しているように見える。これは「大人の遊び」である。「遊び」と呼んで貶しているわけでは毛頭ない。その逆である。

 「最近の若い者は」という年寄りの繰り言と同じようで気が引けるが、他に言い方がないのでしかたなく書くのだが、「最近の若い歌人」のなかには「セカイ系」といって、〈私〉を本来取り巻いている家族・地域・社会・国家といった文化装置をすっ飛ばして、〈私〉が直接に〈世界〉と接続しており、世界のただ中で〈私〉は絶対的に孤独であるというような歌を作る人がいる。そこまで行かなくても、どこかに終末感や孤独感の漂う短歌が若い歌人のあいだに多く見られる。この傾向に時代的 / 世代的理由がないわけではないが、今回はその話は措くとして、資延の作る短歌にその傾向がまったく見られないのが驚きと言えば驚きなのである。40の手習いで短歌を作り始めたという年の功も理由のひとつだろうが、それよりも思想書・文学書に親しみ、今日では死語となった人文的「教養」を深めた人格の作り方に由来する所が大きいのではなかろうか。ヘーゲルもヴェイユも孤独だったことを知れば、世の中の見方も変わろうというものである。 

 資延のそんな部分から繰り出されるのは、思想的と形容してもよい歌群である。

 世界からわたしを消すならそれはそれ世界のひとつのあり方である

 小池さんも世界は合鍵次第だとさう言つてゐた あかねさす昼

 日々自己に非ざるものを体外に排泄しゆく営みを言ふ

 一切の罪がひとつのあやまちの自己展開だなんて言ふな、ヘーゲル

 ゴム消しも妙であつたが黒板消しますますもつて Kafkaesque な

 はじめからノブがとれてたはずはないでももしこれがドアでなければ

 ホッブスの悪夢のあとのあしたからどうすることもできぬ霜月

 一首目はこの歌集の巻頭歌。逆編年体で編まれているので、最新の歌のひとつということになる。いさぎよい所信表明である。二首目の小池さんは小池光のことか。「合鍵次第で世界は開く」というのは、なかなか含蓄に富んだ言葉である。要はどれだけの数の合鍵を持ち合わせているかだ。三首目は主語が脱落しているが、「生活とは」が主語だろう。多田富雄の免疫論を想わせる一首である。五首目はこれ自体が奇妙な歌なのだが、ゴム消しは文字を消すのでゴムを消すわけではなく、黒板消しは黒板を消すのではないというネーミングの不条理をカフカ的と表現したものだろう。六首目もおもしろい歌で、ノブがなくて開かないドアは果してドアと呼ぶことができるのかという存在論的問いを歌にしている。七首目の「ホッブスの悪夢」はリヴァイアサンのことだろう。自己保存が招く闘争状態を回避するために作られる絶対的国家である。この歌は絶対的国家論以後の政治的不毛を詠んでいるのだろう。

 この歌集には単純に景物を述べた歌が極めて少ない。「神目(かうめ)駅右手に見つつ国道はゆるく左へ曲がりゆくなり」とか、「裏山に懸かる雲居のそのうへを漉し来る光の條(すぢ)なほくして」のように、一見したところ写実に基づく叙景歌のように見える歌もある。しかし資延の態度は観察を通して素直に景物を歌にするというものではなく、事物をいったんばらばらにして短歌定型のなかでもう一度組み立て直すという知的操作である。だから歌に詠まれたどの景物にも知的操作というフィルターがかかっているので、油断がならないのである。上にあげた歌でも「神目(かうめ)駅」という岡山県に実在する駅名を読み込みながら、単なる客観描写を超えた何かを企んでいるのではないかという疑念を振り払うことができない。

 この歌集の読後感を豊かなものにしているのは、上のような知的傾向の歌と並んで異なる傾向の歌もまた読むことができるというその多様性である。注目されるのは、次のような〈世界へと向かう歌〉である。

 はじまりもなければこことふ終り莫しいくさは左様のものに御座るな

 その日から着地決まらずにつぽんは痛いところをつかれましたな

 そは利器にあらで野蛮の極みとぞ見てゐしわれが持たされてある

 だれの目にもはつきりしてたはづれたらそれをボールといふのだ、ボール

 これの世に降る雨の色のくさぐさに野原は染まる国原染まる

 ミカエルが暗視装置に窺いてるユーフラテスの左岸の闇を

 いずれも最近の戦争を背景として作られた歌である。いつの間にか始まる戦争、知らないうちに荷担させられている戦争という、昔とは性格を殊にする現代の戦争の捉えどころのなさを詠っている。ボールの歌はいろいろな解釈が可能だが、上のような文脈に置いてやれば、作者の憤りが浮き彫りになる。最後の歌はイラク戦争に直接題を得たものだが、ミカエルがキリスト教で破壊を司る大天使であることを想えば、争いと憎しみの根の深さに暗澹とせざるをえない。

 『抒情装置』はこのように、古典和歌以来の文語定型の遺産を自家薬籠中のものとして短歌筋肉を鍛え上げた作者が、知的遊びも交えつつ定型という器にさまざまな物を盛る試みをしている最近では見かけることの少ない歌集である。「小池さん」の言葉を借りるならば、資延には「合鍵」がたくさんあるようだ。これは大事なことである。現代にあって誰も徒手空拳では短歌に挑むことはできないのだから。

 最後に特に好きな歌をあげておこう。

 ソマリアに足を向けつつあさなさな千切りしパンが食卓にある

 カッターの刃先を一枚折りとれば鋼の匂ふ夏のゆふぐれ

 象に亦、群れを離れて死にせむとする習ひあり 八月に礼(ゐや)

112:2005年7月 第2週 大野道夫
または、平たい日常のなかでボクタチは時代に脚から汚されて

この道のゆるやかな勾配気づく夜は
    花屋で一人 COSMOS を買う

          大野道夫『秋階段』
 この歌のポイントは言うまでもなく「ゆるやかな」という形容動詞にある。ふだん歩いている道だが、いつもは平らな道だと思って通っている。ところがある晩にふと勾配があることに気づく。心に翳りがあるからである。心の翳りが足取りの重さとなって現われているからである。だから柄にもなく花屋に入ってコスモスを買う。COSMOSとはギリシア語で「宇宙」の意味であり、その含意はわざわざローマ字書きされていることからも明らかだ。日々の塵埃にまみれて生きる卑小な私に大宇宙は遠く手の届かないものだが、せめて心屈する今夜はその名を冠したコスモスを買おう。そのような歌意だろう。この歌意を浮上させるのに、「ゆるやかな」という修飾語は効果的である。このように一首中にあって歌意に効果的に働く部分を、穂村弘は「短歌のくびれ」と呼んだことがある(『短歌があるじゃないか』)。「ゆるやかな」はこの「短歌のくびれ」の一例と言ってよい。ところが大野の短歌において、このようなくびれの例は実はあまり多くない。それは短歌的修辞の拒否というよりは、短歌を取り巻く状況に対する大野の現状認識に由来すると思われる。

 大野道夫は1956年(昭和31年)生まれで、「心の花」会員。佐佐木信綱は曾祖父、佐佐木幸綱は母の従兄弟にあたるという血筋である。晩年の信綱に何度か会ったことがあり、それをきっかけに自分も文学を志したと略歴にある。大学では社会学を学び、現在は大正大学で教鞭を取っている。専門は青年文化・社会運動・文化社会学だそうだ。第一歌集『秋階段』(1995年)、第二歌集『冬ビア・ドロローサ』(2000年)の他、『短歌の社会学』(1999年)という評論集があり、「思想兵・岡井隆の軌跡 短歌と現代・社会との接点」という評論で第7回現代短歌評論賞を受賞している。

 セレクション歌人『大野道夫集』の巻末に谷岡亜紀がていねいな解説を書いているが、谷岡もまさにそうしたように、大野の短歌を語るときにはどうしても時代と社会背景に触れないわけにはいかない。大野の短歌がそのような文脈での読みへと読者を導いているからである。大野は「もはや戦後ではない」と言われて高度成長が始まった年に生を受け、60年安保闘争のかすかな記憶を持って育つ。自筆による略歴には、東大安田講堂事件・ケネディ大統領暗殺事件・ビートルズ来日など、当時の社会を彩った出来事が淡く点描のように綴られている。1975年に大学に入学。卒業論文のテーマに東大闘争を選び、元全共闘議長山本義隆に会いに行ったとあるから、社会と政治への関心は殊の外強かったと推察される。それと平行して、芥川賞を受賞した庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読んで感動したとも書かれている。

 要約すると大野は「遅れて来た世代」なのである。東大安田講堂事件の時には13歳で、ベトナム戦争がアメリカの敗北という形で終結した1975年に大学に入学している。自分より上の世代が入れ込んだ政治運動・大学闘争に強い共感を抱きつつも、もはやその波には完全に乗り遅れている。『赤頭巾ちゃん気をつけて』が描いたのは、東京山の手の中流よりやや上の階級 (お手伝いさんがいる) に属し、都内屈指の進学校 (学校群制度以前の日比谷高校) に通う主人公のサエナイ日常であるが、そこに描かれた心情はまぎれもなく政治の季節の次にやって来た「やさしさの世代」のものである。大野の精神形成はこのような社会的背景と心情的傾向のもとに行なわれたのである。

 ここで『秋階段』から歌を引いてみよう。 

 ニッキあめ平和憲法民主主義シュートを打てばあおあおと空

 リキドウ! と叫べば画面駆け抜けてヤンキーを討つ第三国人

 「新宿へ終結ヲセヨ!」僕らはただ校庭遊び合言葉にて

 「勝利する」ことなくすぎし睦月の夜ML全集売りに出かける

 学生が踏む銀杏にむせ返る青春期(アドレッセンス)をやや過ぎたれど

 夕映えるALTAの画面老人(おいびと)の手術のニュース厳かに流る

 大野の短歌には「平和憲法」「民主主義」「社会主義」などの硬い思想語が頻出するが、それを字義通り受け取ってはならないだろう。一首目にあるように、平和憲法も民主主義もニッキあめや広場での草野球と同列に置かれているのであり、手に持って振ればカラカラと音がするほど中身は軽い。リキドウは日本国民が熱狂したプロレスの力道山だが、大野はリアルタイムで見てはいないのではないか。戦後の日本を代表するキャラクターの一人である。三首目、「新宿へ終結ヲセヨ!」は全共闘運動かもしくは新宿フォークゲリラの反戦運動だろう。「僕らはただ校庭遊び合言葉にて」の部分に、時代が自分の横を通り過ぎて行ってしまったという感覚がある。四首目、MLはもちろんマルクス・レーニンのこと。大野は大学院に進学して研究生活に入るのだが、大学院とオーバー・ドクターの期間は、長く引き延ばされた青年期であり、文字通りモラトリアム期間である。五首目は踏みつけられた銀杏の臭いに仮託して、引き延ばされた青春の憂鬱が詠われている。六首目は「天皇下血」と題された連作の冒頭の歌。昭和という時代の終焉を意味する天皇の病気も、新宿アルタの大型画面に報じられるどこか遠いニュースとしてしか意識されない。

 このように大野の短歌は、高度資本主義社会とモラトリアム社会を背景とするのっぺらぼうの平たい日常の描写の中に、「平和憲法」「民主主義」「社会主義」「戦争」「テロリズム」などのかつて「大きな物語」に属していた語彙を、不調和を知りつつ溶かし込むことで、平たい日常に浮遊する不定形な〈私〉を描き出すと同時に、MLに代表される「大きな物語」が今日完全に失効していることを、いささかの愛惜と自虐の念を込めて淡々と述べている。それは次のような歌にも明らかである。

 漱石を読めば細き雨降りて精神(ガイスト)もなく暮れてゆく昭和

 ゆらゆらとゆれるわたくし 私(わたくし)を確認(アイデンティファイ)するパスポートの紙

 北京(ペイチン)に血の雨が降る日曜に 意味不明瞭なる日本人われ

 生き恥を輝かせ着く光沢の友の賀状は家族に満ちて

 ユニットバス膝を抱えて君は言う「もうボクたちにシソウは来ない」

 昭和に精神(ガイスト)なしとすれば、来たる平成の世にそんなものがさらにないことは言を待たない。二首目は海外詠だが、「ゆらゆらとゆれるわたくし」に大野が感じる〈私〉の不定形さが滲み出ている。三首目は天安門広場事件を詠んだものである。戦車の前に立ちはだかった中国の学生と、TVの前の何とも形容できないぐにゃぐにゃの自分とが対比されている。四首目は近年増えつつある家族写真をプリントした年賀状を詠んだものだが、家族を「生き恥」と表現しているところに大野の屈折が感じられる。五首目は読解は必要ないほどそのまんまである。

 第二歌集は『冬ビア・ドロローサ』と題されている。「ビア・ドロローサ」とは「苦しみの道」の意で、キリストが磔刑のために歩いたゴルゴタの丘への道をさす。エルサレムへ旅した旅行詠から採られたものである。

 結晶はグラスにしめり地の塩とならんと思(も)いき若き日もすぎ

 うすきうすき毒ガスの朝歯止めなき人生を欲り飲む生卵

 親不知削られる午後その底の底の私の白は輝く

 雪合戦のなかの石粒みぞれ降る世界に脚から汚されしボクら

 散骨は静の海へ 地球(テラ)浮かぶ大空へ降るわれという粉

 一首目は青春の夢を振り返る歌。二首目は地下鉄サリン事件に題材を採った歌。事件で大勢の人命を奪った毒ガスと同じようなガスが、気がつかないほど薄く日常世界を被っているという。三首目は歯の治療を詠んだものだが、削られた底の底にまだ〈私〉の白すなわち無垢がわずかに残っているという認識は、希望と言うにはあまりに苦い。四首目は雪合戦だと思っていたら実は石粒が降っていたというところに、世界に絡め取られてしまったという感覚がある。五首目は死後の〈私〉が粉末となって大空に舞う様子を想像している歌で、美しくもまた哀しい。

 『冬ビア・ドロローサ』で特に注目されるのは、曾祖父佐佐木信綱の『思草』への返歌として構成されている連作「戦争と革命の世紀の縁で」である。

 亜細亜の地図色いかならむ百年(ももとせ)の後をし思(も)へば肌へいよだつ
  核弾頭は赤丸小さき手が電子手帳に描(か)く世界地図

 破れたる傘(からかさ)さして子らがゆく時雨そぼふる古き駅路
  ビニール傘もなくしていたのかボクタチは口語のお天気雨の真下で

 世人皆我をうとめる世なれどもわれに友あり酒といへる友
  電話待つ時間はすぎて掌(て)のなかで人肌をこえ冷めてゆく酒

 『思草』は1903年、日露戦争開戦の前年に出版されている。だから一首目の信綱の歌にある「亜細亜の地図」は明治日本の富国強兵による膨張政策を背景としている。「百年後の日本はどのように雄飛しているだろうか」と未来への期待を込めた歌である。それから100年後の世界を生きる大野が返す歌は、東西冷戦は終結したにもかかわらず核兵器がむしろ拡散する危険な世界を詠んでいる。100年の時を隔てた信綱の歌を背景に置くことで、現代の世界の危なさや不安定さを影絵のように浮き上がらせるという大野の意図が見える。二首目の信綱の歌はどこか懐かしい古い日本ののどかな風景である。これに対して大野の歌は徹底的に現代的であり、傘(からかさ) vs. ビニール傘、時雨 vs. お天気雨、文語 vs. 口語の対比を通して、現代の「ボクタチ」の置かれている孤児のような状況を詠っている。三首目の信綱の歌は孤立のなかにも酒を愛する矜持と自足の歌である。一方、大野が返すのは、あてどもなく誰れかからの電話を待つ間に、燗酒が冷えてしまったという歌で、『ゴドーを待ちながら』的状況を念頭に置いたものであろう。曾祖父がちょうど一世紀前に詠んだ歌に返歌を返すという構成を考案することで、大野は「時間の流れ」を、そしてそれよりも「時代の流れ」を短歌のなかに取り込んで表現することに成功している。

 そして大野はこのような返歌を信綱の本歌に対置させてゆくという作業を通じて、明治以来の近代短歌が詠み込んできた自然と社会はもはやなく、それに支えられてきた〈私〉の形もまた現代に生きる「ボクタチ」からは遙か遠いものになったことを示しているのである。「ボクタチ」はこのように、日常性という希薄な毒ガスがたちこめている平べったい時代を生きなくてはならない。それこそが現代の私たちに課せられた「ビア・ドロローサ」である。大野はこのように言いたいのではなかろうか。

 しかし、とここで私は考え込んでしまう。果してこれでいいのだろうか。100年前の近代短歌を代表する信綱がいささかの気楽さと明治的おおらかさを含むとはいえ、ボジティブに力強く提示しているある〈価値〉に対して、それとは異なる別の〈価値〉を同じように力強く提示することなく、過去の価値の陰画をネガティブに弱々しく差し出すことしかできないのは、不幸なことではないのだろうか。こんなことを言うと、「いや、だから不幸だと言っているんですよ」と大野から言い返されるかもしれない。「時代にまみれる」というのはこういうことなのだ。大野の歌のひとつひとつに〈時代〉が貼り付いている以上、それは避けがたいことなのかもしれない。

111:2005年7月 第1週 下村光男
または、行為を封鎖された青春のロマンチシズム

暁(あけ) 死してねむるわが裡(うち)こうこつと
     霜ふれり霜ふりの牛肉(ビーフ)に

            下村光男『少年伝』
 下村光男の第一歌集『少年伝』は、 1976年に角川書店の「新鋭歌人叢書」の一巻として上梓された。短歌史において伝説的叢書である「新鋭歌人叢書」の残りの巻は、成瀬有『遊べ、櫻の園へ』、小野興二郎『てのひらの闇』、杜沢光一郎『黙唱』、小中英之『わがからんどりえ』、玉井清弘『久露』、辺見じゅん『雪の座』、高野公彦『汽水の光』である。この叢書はよく売れたらしい。今日の出版事情では考えにくいことである。また篠弘がこの叢書で世に出た歌人たちを、「微視的観念の小世界」と評したこともよく知られている。

 掲出歌は初句で「暁」一字二音で一字空けを入れ、「死してねむる」に句跨りを作り、四句目でも「霜ふれり」の力強い断定を句中に置くという、韻律的に工夫を凝らした作りになっている。歌意としては、青年が自己の内部を見つめる内向的視線と、睡眠と恍惚とが結合した一種ナルシシズムに溢れた世界を描いている。特におもしろいのは「霜ふりの牛肉に」という喩で、霜降り肉が眼前にちらちら揺曳することで、青年期の肉の哀しさを描く下村の短歌世界に、像的喩として肉感的手触りが与えられている。

 下村光男は1946年(昭和21年)生まれだから、戦後の団塊の世代である。父親は医師であったが、医学に進むことを拒んで、國學院大學に入学し古代史を学んでいる。高校時代から短歌に興味を持ち、特に釈迢空(折口信夫)の歌に魅せられたとあとがきにある。「少年伝」50首で1968年(昭和43年)に角川短歌賞次席に選ばれている。第一歌集はこの連作題名をそのまま歌集題としたものである。

 連作「少年伝」はそのまま歌集に収録されているが、例えば次のような歌が並んでいる。

 肩なめてことばすくなにあゆむ父医を継がざりしことにはふれで

 いたずきを知ってか誰も来ずひと日かつてこがれし虚空みていつ

 草原を駆けくるきみの胸が揺れただそれのみの思慕かもしれぬ

 ひたぶるの天のなみだか野のいっぽん杉にわが眼におつるあまつぶ

 この朝(あした)おのれ目醒めていくごとく 天 柑橘に充ちつつありたり

 われいつかことばボールに充たしめてこの黙(もだ)ふかき天へ打つべし

 父の期待に背いて医学の道に進まなかったことへの拘泥、幼いときに亡くなった母への思慕、結核を病んだことによる孤独、青春期の淡い性欲、詩歌の世界に関わることへの自負と矜持など、青年期の心の揺れと孤独が、文語律ながら平仮名を多用した文体を駆使して詠われている。多量の感傷と浪漫性を内包した青春の絶対的な輝きと翳りがここにある。1960年代はまだ青春が輝いていた時代であり、「青春歌」という表現が意味を持っていた。現代においてこのようなキラキラした青春歌を作るのはむずかしい。

 もう少し歌を引用してみよう。

 よみがえるなんの記憶や 虹 みいる青年ふかくにも滂沱たり

 おお なんの種子か無数に飛ぶからにあかね野われは馳せてきたるを

 わかく死ぬ相いくたびもいわれきてうつせみ茫といたり夜の淵

 孤立いま堕ちたるものにふさわしく地平うたれてわがゆくみぞれ 

 いしだたみ蜥蜴しゅしゅっとあらわれてやがてかくれてゆけり孤独に

 ゴッホ忌のかなた戦げる糸杉の おお その深き空間の〈あお〉こそ

 虹を見て泣く青年の感傷、夭折への怖れと憧れ、孤立感と裏腹の矜持などがこれらの歌の主題である。これは「独り遊びの青春」であり、病気のせいもあって「行為を封鎖された青春」の像である。下村がこのように篠に「微視的観念の小世界」と評されたほど自己の内面に沈潜するには、それなりの理由があったのである。このような内向性は同時代の歌人にも共有されていた。 

 やりどなき心にとほく街の空かがやく塔を残し暮れたり  成瀬有

 ひとり聴く潮騒さみし春の湯に泡たてあらふせいねんの髪  小池光

 平仮名で「せいねん」と書くところに時代特有の甘さが感じられる。少し先輩にあたる村木道彦も「せいねん」と書いて世の人を魅了した。しかし1960年代後半は政治の季節でもあった。政治にコミットした歌人たちは一方で次のように詠っていたのである。 

  機動隊去りたるのちになお握るこの石凍てし路面をたたく  
        福島泰樹『バリケード・一九六六年二月』1969年

  スクラムの思想もろともかかえたる腕ひえびえと若き精悍 
        三枝昂之『やさしき志士たちの世界へ』1973年

 世界の変革を夢見て権力と対峙する青春のすぐかたわらで、下村のように「独り遊びの青春」を詠う歌が作られていたことは興味深いことである。しかし両者に共通するのはロマンチズムであることに異論はなかろう。このようなロマンチズムもまた、現代の若い人が持ちにくくなったもののひとつである。

 下村の作歌上の特徴としては、文語律定型に対するさまざまな試みがあげられよう。1960年代に短歌を作るということは、戦後の第二芸術論とそれに対抗するように編み出された前衛短歌の斬新な語法をすでに既知のものとして出発するということである。「自分はそれに何を付け加えることができるか」という問いはなかなか重いものであるはずだ。それはとりあえず次のような韻律から遠く逃れる不断の努力でなくてはなるまい。

 ともしびをうかべてよるの隅田川ふと大正のろまんこおしも

 『少年伝』のなかでは珍しい例である。これは塚本邦雄が「オリーブ油の河にマカロニを流したような」と表現した韻律に属する。下村はこのような韻律から逃れる工夫をいろいろ試みていて、特に歌集後半にその例が多数散見される。

 Oよ懺悔のいま詮もなきこころにて垂るるいくすじわれのなみだは

 ゆうべ 牛蒡を煮しむるにおいながれつつ飢えはしずかにきざすかなしも

 やしろ炎上しゆき 火の夜半 恍惚と翁いちにんみはりいたりき

 さなり世智などあらぬされども裡ふかくほのぼのとわが感性はあれ

 1首目では初句「Oよ懺悔の」が7音であり上句にかなり破調感がある。2首目では初句6音の「ゆうべ牛蒡を」を意味を優先して「ゆうべ」で区切っているために、意味と韻律にずれがありそれがかえって一首の存在感を増している。3首目はもっと破調感が強く、7・7・5・7・7に加えて句跨りがある。4首目も同じである。このような韻律上の試みにも注目しておくべきだろう。それは余りになめらかな短歌の韻律を堰き止めて、そこに生まれる抵抗感を手掛かりとして、リズムと意味の一回限りの新しい拮抗関係を創り出すという試みである。

 下村は1987年に第二歌集『歌峠』を出版しているが、その歌作はそれほど多くはない。現在の歌壇であまり話題になることもない。しかし『少年伝』後半に収録された次のような歌を読むと、記憶されもっと読まれるべき歌人だという感を深くするのである。

 食(お)すと焼くしおじゃけ塩を噴きながら垂りくる茫とわれのなみだは

 こんめいのきみもひとりのモーゼにてゆく詩歌この杳き死地をさし

 くちなわの目見やさびしくなに瞠る 彼方 エデンのごとく昏れつつ

 みはるかす穢土のゆうぐれふとしもよわれもかえりてゆきたし永劫(とわ)へ

110:2005年6月 第5週 谷岡亜紀
または、劇的〈私〉が立ち上げるもうひとつの現実

おれの中の射殺魔Nは逃げてゆく
   街に羞(やさ)しい歌が溢れても

            谷岡亜紀『臨界』
 短歌で〈私〉をさす一人称にはいろいろあるが、文語では多くは「われ」「我」「吾」などが使われている。最近の口語短歌では「私」「ぼく」が多い。谷岡のように「おれ」を使う人はあまりいない。「おれ」を使ってサマになるのは福島泰樹藤原龍一郎くらいだが、調べてみたら意外なことに藤原は「われ」を使っていた。「おれ」は口語なので文語脈には乗りにくいのだろうが、藤原はハートにおいては「おれ」の歌人だと思う。無頼性を強調するこの人称詞を使う歌人に共通するのは、その激しい抒情性である。それも一歩まちがえば、夜の酒場の演歌が繰り広げる酒と涙と女の世界に通じる、通俗的な香りすら漂う抒情性である。この点において谷岡もまた例外ではない。

 掲出歌の射殺魔Nとは、1968年10月11日に東京プリンスホテルのガードマンを22口径の短銃で射殺したのを皮切りに、合計4人を殺して死刑判決を受けた永山則夫のことである。当時永山は19才だった。網走の寒村で生まれ貧困だった永山に寺山修司は強い関心を抱き、著書『幸福論』などで永山を論じた。永山本人は寺山に反発し『無知の涙』を書いた。永山はその後、1997年8月1日に48才で刑死している。谷岡は自分のなかに射殺魔Nを感じ、その存在に自らの存在を部分的に重ねている。この歌は「夜のリング」と題され、「30歳にしてボクシングを始めた」という詞書のある連作のなかの一首である。だからボクシングを始めることで、自らの内包する暴力性から解放されたと読める。上句「おれの中の射殺魔Nは逃げてゆく」が谷岡らしいが、実は下句「街に羞しい歌が溢れても」の抒情性の方にこそ谷岡らしさが感じられる。

 谷岡亜紀は1959年生まれ。歌集に『臨界』(1993年 現代歌人協会賞受賞)と『アジア・バザール』(1999年)がある。あとがきによれば『臨界』には、1980年から1991年までに作られた歌が収録されているということだが、この作歌年代にまず驚かざるをえない。『臨界』には次のような歌が並んでいるからである。

 黄昏の世界がおれに泳がせる50mプール32秒で

 繁栄という幻想を武装してジェットコースター奈落へ向かう

 開戦の前夜のごとく賑える夜の渋谷に人とはぐれぬ

 壊れたるビル街を過ぎ居住区へ柩のごとき車で帰る

 恋愛のことばかりなる番組の外、鮮しき悪夢待つ街

 核施設構内の立つ塔の上にすばやく黒き人影動く

 遠き恐怖(テロル)の日々を知らざる少女らが朝の渚に拾う骨貝

 爆風に砕かれキラキラ街に降るために夜を冷えている千の窓

 『臨界』が描くのは都市東京なのだが、世界はすでに黄昏を迎えており、見かけ上の繁栄は幻想に過ぎないとの認識が執拗に示されている。1980年から1991年までといえば、日本経済が上り坂を迎えやがてはバブル景気へと至る時期である。1983年には東京ディズニーランドが開園し、1984年には日本の貿易収支の黒字が過去最高となっている。このように繁栄する日本という時代を背景として谷岡が描くのは、繁栄のかなたに幻視する負の影である。世界はすでに黄昏を迎えており、東京は廃墟と化した街、あるいは廃墟と化すことを待っている街である。核施設内には核テロを予感させる人影が走る。また最後の歌は爆弾テロによって砕け散るビルの窓を詠ったものだが、1974年に起きた反日武装戦線〈狼〉による丸の内三菱重工爆破事件を思わせる。『臨界』はこのように、廃墟・暴力・テロリズム・戦争の影が充満した世界なのである。言い換えれば谷岡は都市東京を戦場として捉えているということになる。

 80年代は好景気を背景とした明るい気分のライト・ヴァースが勃興した時代としても知られている。

 サンダルはぜったいに白 君のあと追いつつ夏の光になれり  干場しおり

 きんのひかりの化身のごとき卵焼き巻き了へて王女さまの休日  山崎郁子

 バブル経済の気分をよく伝えている歌である。一方でこのような歌が作られていた時代に、谷岡はどうして都市の影に暗く廃墟を幻視するような歌を詠ったのだろうか。その秘密は谷岡が早稲田大学文学部に在学中から小劇場演劇に熱中していたという事実にある。当時はちょうど野田秀樹の率いる「夢の遊民社」や劇団「そとばこまち」などの小劇場が力をつけ初めていた頃である。そして小劇場系演劇の得意とする手法のひとつに、「現実を演じつつそのかなたに幻視される世界を浮上させる」というものがある。想像するに、谷岡の短歌の手法はここから来ているのであり、谷岡の歌はとても「演劇的」な作り込みがされた歌なのである。

 『臨界』の代表歌として知られる「毒入りのコーラを都市の夜に置きしそのしなやかな指を思えり」にも同じことがいえるだろう。これは1984年に起きた「グリコ・森永事件」に想を得た歌である。谷岡が思いを馳せているのは、都市の夜に毒入りコーラを置く無差別テロリストの心に生れた闇であり、彼が都市に抱いている怒りと復讐の念に、谷岡は同じ思いを持つ者として共感しているのである。

 この演劇的手法は谷岡の作歌手法と修辞と深い関係がある。それは短歌における〈喩〉をめぐる問題である。谷岡の手法が「現実を演じつつそのかなたに幻視される世界を浮上させる」というものである以上、現実から幻視される世界へとスイッチしつつ接続する手段として〈喩〉は最適の手段となる。

 見下ろせば別れ出会いも軽い街軽金属のごとく雨降る

 朝焼けに解凍されてクレパスの絵本の町のごとく明けゆく

 人類の徒労楽しき日の暮れに銭湯の絵のごときフジヤマ

 来たる日の核シェルターとなる地下の駅に土曜の恋人を待つ

 一首目の「軽金属のごとく」を例えば「レモンピールのごとく」と入れ替えてみれば、まったく佇まいの異なるおシャレな歌になる。この歌に不吉な影を落としているのは、戦闘機の素材として用いられている軽金属という語の醸し出す禍々しい意味である。二首目では「クレパスの絵本の町のごとく」という喩によって、明けつつある町から現実感が剥奪され、夢幻の町へと変化する。三首目は現実の富士山を銭湯のペンキ絵のようだと見ることにより、同じ効果を生みだしている。四首目は厳密には喩ではないが、地下鉄の駅を「来たる日の核シェルターとなる」と性格づけることにより、重層的な現実を生み出している。このようにあるものの姿とその将来の姿とを同時に提示するのは、修辞学でメタレプシスと呼ばれている技法の一種であり、谷岡の演劇的手法のひとつして用いられている。このように谷岡の作歌技法にあっては、〈喩〉に極めて明確な役割が与えられていることに注目すべきだろう。

 『臨界』で示されているもうひとつの世界はアジアである。

 難破船が並ぶメナムの川向こうのスラムの屋台に食う豚の耳

 河原にて死体を燃やす人ありき 灰は昏れゆく川に還(かえ)さる

 なまじりの涙を蠅に吸われつつ皮膚爛れたる美女横たわる

 神という圧倒的な光量を浴びて苦行僧(サドゥー)のいま川に入る

 インドに旅して「圧倒的な光量を浴び」たのはむしろ谷岡本人だろう。しかし谷岡がインドに旅したのは、今どきよくある「自分探し」のためではない。そうではなく「アジアから日本を撃つ」視座を内在化するためである。このテーマは第二歌集『アジア・バザール』へとそのまま引き継がれている。

 鳥葬のボクシンググローブ転がりて激しく暮れてゆくゴミの島

 夜の街のアリスに告げる伝言をポケベルに打つ「はるまげどん」と

 大陸の性器としての植民地その行き止まり半島酒店(ホテル・ペニンシュラ)

『アジア・バザール』の掉尾には「キャロル」と題された連作がある。「重大な事が発表されるのでテレビをつけて待機しなさい」という当局のお触れを詞書として始まる。

 籠りいる真冬の正午絶え間なくヘリコプターの音の降り来る

 賛美歌を大音量で奏でつつ水辺を目指す重装の群れ

 殺気立つ日暮れの駅の雑踏に呑まれ名前を呼び合う家族

 「すみやかにかつ整然と」と絶叫を繰り返しいるラジオを消して

 大規模な都市テロが起きたのかそれとも核攻撃があったのか、それはわからないのだがとにかく都市の大騒乱を想定した連作である。主題性の強い歌人として知られている谷岡の作品のなかでも、特に主題性の強い連作だと言える。「キャロル」は1998年に短歌研究新人賞候補となった高島裕の「首都赤変」とよく似ている。「首都赤変」もまたどこか新世紀エヴァンゲリオンを思わせる市街戦蜂起の物語をシナリオとする連作であった。谷岡には『〈劇〉的短歌論』という著作がある。また『現代短歌の全景』(河出書房新社)所収の座談会でも、司会の小池光が「受けて返しているという構造が短歌の内部論理だと思うんです」という発言に対して、「私は『対立』と『葛藤』とによる〈劇〉性と言いたいですね」と切り返しているところからもわかるように、谷岡は短歌における「〈劇〉性」を自らの作歌の基盤に据えている。〈劇〉性の高じるあまり、時としていささかオーバーな身振りになりすぎることがあるとはいえ、このような視座から短歌を作り続けている歌人は他にあまりいないだけに注目に値すると言えるだろう。

 「キャロル」は近未来の黙示録とでも言うべき連作であるが、黙示録の世界を首都東京に現出させようとした1995年のオウム真理教教団による地下鉄サリン事件を題材とした歌がないのは奇妙と言えば奇妙である。谷岡は想像力によって作り出された演劇的空間に惹かれるので、現実に起きてしまった出来事の前では沈黙せざるをえないのだろうか。また『アジア・バザール』には、結婚して子供ができ父となった自分を詠う歌も収録されている。こちらは演劇的というわけにはいかず、ふつうの父親の歌になっている。これもまたいたしかたない。

 常に大状況における問題意識と切り離せない谷岡の短歌であるが、私はそのような歌と並んで、意外にピュアな抒情が溢れる次のような歌もまた好きなのである。

 魚たりし夢に目覚めて食う夏の果実の酸にそよぐ体は

 一冊の恋を読み終え疲れたる瞳を初秋のプールに冷やす

 この秋をおまえは淡く色付いて初めて受ける雨の口づけ

 夏の恋まだ稚(わか)ければ軽やかにラムネの硝子玉を鳴らして

 近代リアリズムが開発した〈私〉、前衛短歌運動が提案した虚構性の強い〈私〉の賞味期限が切れつつある現在、現代の状況を反映する新しい〈私〉が求められている。谷岡の短歌はその主題性の強さが目立つが、新たな〈私〉を造形する試みとも理解することができるのではないだろうか。

109:2005年6月 第4週 大野誠夫
または、戦後風景のなかに咲いたロマネスクの花

兵たりしものさまよへる風の市(いち)
   白きマフラーをまきゐたり哀し

         大野誠夫『薔薇祭』
 冒頭の「兵たりしもの」という表現がすでに哀しい。敗戦で日本は武装解除され、兵隊は「兵たりしもの」、つまりなれの果てと化した。当時白いマフラーをまいていたのは航空兵で、兵隊のなかのエリートだった。それだけに自失した幽鬼のようになって闇市をさまよう姿は痛々しく、敗戦直後の日本の世相の一断面を活写して記憶に残る歌となっている。下句が8・8音と増音となっているのも、結句の「哀し」という短い主情表現にたどり着くまでを引き延ばすことで強調する効果が感じられる。

 私が何もわからず短歌を読み始めたとき、戦後歌人を大勢収録したアンソロジーのなかで特に惹かれたのが大野誠夫 (おおの のぶお) であった。次のような歌が特に印象に残った。

 クリスマス・ツリーを飾る灯の窓を旅びとのごとく見てとほるなり

 絶望に生きしアントン・チェホフの晩年をおもふ胡桃割りつつ

 ジヤズ寒く湧きたつゆふべ墜ち果てしかの天使らも踊りつつあらむ

 北向きのホテルの窓に青き卓レモンを積みて宵のひかりよ

 音しづかにジープとまりぬいのち脆き金魚を買ひて坂下りゆく

 宵々をピアノをたたく未亡人何か罪深く草に零(こぼ)る灯

 これらの歌を収録した第一歌集『薔薇祭』は昭和26年 (1951年) に出版された。塚本邦雄は「焦土にひらいた短歌の花の小さな祝祭であった」と評し、「彼のリアルとひきかえに獲得した美が、朔太郎のパロディ臭をもつ、大正末期的な甘い頽廃に彩られたものであるにしても、敗戦直後の、現代短歌生誕混迷期の、かけがえのないフェスティバルであった」と総括している。

 大野に関してよく指摘されるのがその「物語性」「ドラマ性」であり、その傾向は上に引用した歌にも濃厚に感じられる。一首目の「クリスマス・ツリーを飾る灯の窓」が象徴する豊かさと幸福を横目に見ながら、「旅びとのごとく見てとほる」〈私〉には、自らを世間的幸福とは無縁な存在と規定する自己演出がある。「汚れたるヴイヨンの詩集をふところに夜の浮浪の群に入りゆく」という山崎方代の歌に通じる自己演出である。二首目を代表歌として『現代百歌園』で引用した塚本邦雄は、「ロマネスクと呼ぶべき短歌が、この人の手によって生まれ出たのだ」と述べている。もっともその直後に、「たとえ風俗小説的世界に止まったとは言え」と続けているが。三首目に登場するジャズは、進駐軍と共に日本に持ち込まれた戦後風俗である。しかしジャズは「熱く湧きたつ」のではなく、逆に「寒く湧きたつゆふべ」と詠まれているところに、大野の戦後風景を見つめる目の苦さがある。四首目は逆に暗さのなかに明るさを感じさせる歌であり、言うまでもなくレモンという小道具は青春性とロマンチシズムの象徴であるが、このあたりに大野の「甘さ」を見る人もいるのだろう。五首目はまるでショート・フィルムのような映像を感じさせる歌。もともと画家を志したことのある大野は、短歌における視覚的美に敏感であった。若い人のために言っておくと、当時ジープといえぱそれは進駐軍のGIのことである。六首目あたりに塚本は「風俗小説的世界」を感じるのだろう。「未亡人」は戦後珍しくはなかったが、「罪深く」と並べて用いられると、とたんにドラマ性が生まれる。大野はこのような短歌の作り方に巧みであった。

 大野は加藤克巳、近藤芳美、宮柊二、前田透らとともに、終戦直後に結成された「新歌人集団」に属しており、合同歌集『新選五人』(昭和26年)に参加している。「新歌人集団」そのものには、特に全員に共通する明確な主張はなかったと言われているが、大野は「美の飢渇 – ひとつの批評基準」(『人民短歌』昭和22年6月)という文章のなかで次のように述べている。

「現代短歌の乏しさも存在の薄弱さも、美感の喪失からきている。このはげしい美の飢渇に気づいているものが、案外少いというのも、時代の混乱のためであろう。美を失った真実の探求 – 糞リアリズムと呼ばれた、あの乾燥した現象描写の卑俗さも、そこからくる (…) 」

 昭和22年と言えば、近藤芳美が「新しき短歌の規定」を世に問う一方で、小野十三郎が「短歌的抒情に抗して」を発表して、短歌否定論を展開した年である。翌年には戦後リアリズム短歌を代表する近藤の『埃吹く街』が出版されている。こんな時代のなかで、「糞リアリズム」をこきおろし、「美の復権」を吹聴する大野は傍流の位置を免れることはできなかったろう。篠弘などは『現代短歌史 I 戦後短歌の運動』(短歌研究社)の中で、大野の短歌のリアリズム的側面を取り上げて評価するという的外れなことをしているほどである。

 初期の歌を収録した『花筏』(1966年)には、25歳で地主であった生家を出奔し、新聞記者となって文学を志すという、ある意味でオーソドックスな上京物語が歌にされている。

 何か言ひたき父なりしならむわれに向けし眉おもおもと曇りてありき

 海峡をわたれる時し何ゆゑか胸つきあぐるものがありたり

 エレベーターの箱の隅に息鎮めをり新聞記者われは事件を襲ふいま

大野の生家は茨城県にあり、上京するのに海峡を渡ることはない。ここにすでに虚構があり自己劇化がある。その短歌に濃厚な「物語性」といい、故郷を捨てて文学に志す姿といい、後年の寺山修司を思わせるものが感じられる。また次のような歌などは、まるで映画のワンシーンのようであり、大野の絵画的手法は最初からあったことがわかる。

 息喘ぎ荷馬車の馬が倒れをりながながと市電が停れるさきに

 鶏(とり)の香の沁みつきにけむ石畳男と語る眼の鋭しも

 『薔薇祭』には次のような、戦後を濃厚に感じさせる風俗描写があり、からっと広がる空に漂う虚無感が特徴的である。敗戦直後という時代背景と、大野が志向するロマネスクとが、ぴったりと寄り添うことで生まれた歌である。

 神さへも見失ひつつ何もなき裸形をつつむぼろぼろの衣(きぬ)

 すべもなくけふは売らなと携へし弦(いと)切れし楽器・仏蘭西革命史など

 西欧のあたらしき思潮説くをとめ煙草は染まるその唇紅に

 煙草火を借ると寄りきし少年の髭伸びて丸め持つ妖婦伝

 今回は『行春館雑唱』(1954年)、『胡桃の枝の下』(1956年)、『山鴫』 (1965年)、『象形文字』 (1965年)までの抜粋を収録した自選歌集『羈鳥歌』を読んだので、そこまでしか追いかけていないが、印象に残った歌をあげておく。

 忘られて銀髪ひかる俳優がひとりシートに寝てゐる夜汽車 『行春館雑唱』

 淡あはとみづきの花の散るあたり孔雀は啼けり埃の奥に

 酒場にて働く少女を妻として露地裏に蝶の絵を描き暮らす

 花曇る空に灰色の扉ありいづこの国の呪文をつづる      『胡桃の枝の下』

 数知れぬ爬虫の背(せな)は濡れながら薔薇腐れゆく垣をめぐりぬ

 蒼白の娼婦歩めり裾原の真昼の道に物音は死す

 砲声のとどろく夜に繃帯を白くして無人の街来たるわれ   『山鴫』

 人知れず脱皮を終へてしばらくは光のなかにうづくまりをり

 あたらしき怒りの花の種子微塵わが手を放れ光りつつ散る

 蝶追ひて見知らぬ森の路ゆきぬ子の背を隠す夏草の花  『象形文字』

 段丘に人ゐて石の壁を打つ虚しき秋のひかりみなぎる

 厨芥(ちゅうかい)の凍らむとするひとところ人のいとなみのはや襤褸めく

 『薔薇祭』を特徴づける自己劇化とドラマ性は、『行春館雑唱』ではまだ見られるものの、次第に薄れてゆく。それに代わって目立つようになるのは、五首目「数知れぬ」に代表される、幻想と写実とがないまぜになったような対象の立ち上げ方をした歌である。無数の爬虫類と腐る薔薇という取り合わせはリアリズムであるはずがなく、かといって作者の純粋な心象風景と割り切ることもできない。六首目「蒼白の」でも山裾の道の真昼の静けさは現実のものであっても、その風景のなかに娼婦を配することで、光景は一気に幻影色を強めることになる。これは大野が最初から持っていた虚構的傾向がさらに深化したものと言えるだろう。七首目「砲声の」あたりになるとさらに幻想味が増して、まるでキリコの絵でも見ているようである。『象形文字』にはこのような傾向の歌が多くあり、「段丘に」の歌などその不思議な味わいのせいで一読したら忘れられない。

 大野には「風俗派」「浪漫派」「虚構派」「芸術派」など、さまざまなレッテルが貼られてきたらしい。『現代短歌大事典』(三省堂)に記事を執筆した弟子の松平修文は、大野の本質は「虚構派」「芸術派」だと断定している。しかし、弟子は自分が継承した傾向を師匠に見るものである。松平の「水の辺にからくれなゐの自動車(くるま)来て烟のような少女を降ろす」のような歌は、大野の「虚構派」「芸術派」の傾向をさらに押し進めたものとして位置づけられるのだろう。

 塚本邦雄は次のような大野の歌を引いて、「前衛短歌作歌群の何人かは、このあたりに激励されて、ひそかに翼を収めていたはずである」と述べている。

 紫蘇の葉の低むらがりに光差しみづからを恃む心ぞ熱き  『薔薇祭』

 幾千の花かがやかす椿の木風なき午後を渇きに堪へず

 写実一辺倒のリアリズムを批判して「美の復権」を訴えた大野の短歌は、芸術性と反写実を旗印とした前衛短歌運動に影響を与えたということだろう。しかし実際に歌集を読んでみると、大野の作歌態度はどっちつかずのところがある。『象形文字』のなかにすら、次のような身辺雑記的な歌が見られる。

 ものごころつきしより限りなく甘え来し父病みしかば寂しかりけむ

 とはいえ大野の体質のなかに存在するロマネスク志向は、塚本邦雄や寺山修司によって吸収されていったのだろう。この傾向は形を変えて、藤原龍一郎の言う「ギミック」へと連なるように思うのだがどうだろうか。

108:2005年6月 第3週 キリンの歌
または、昏れゆく世界と滅びゆく動物は瞠め合い

あきかぜの中にきりんを見て立てば
     ああ我といふ暗きかたまり

            高野公彦
 きりんは動物園でおなじみの首の長い動物で、短歌の表記では「きりん」「キリン」「麒麟」のいずれも見られる。漢字表記の麒麟は、本来は古代中国の想像上の動物で、オスが麟メスか麒なのだそうだ。徳の高い王や聖人が世に出たときに姿を見せると伝承されている。キリンビールのラベルに印刷されているのがこれである。

 『岩波現代短歌辞典』の「きりん」の項には、次の二首が引用されている。

 秋風(しゅうふう)に思ひ屈することあれど天(あめ)なるや若き麒麟の面(つら)  塚本邦雄 (追悼)

 春の日の麒麟のような山のかげに僕の生まれた村が見える  中野嘉一

 二首ともにジラフの姿形を示しながら、その背後に想像上の麒麟を想起させると解説がある。塚本の歌は天を仰ぐジラフの姿を通して、思い屈して面を伏せる〈私〉と天空をめざす麒麟との対比が詠われている。しかし中野の歌には麒麟の影はなく、動物園のジラフのような山の姿が詠われているだけではないかとも思う。

 日本に最初にキリンが来たのはいつのことなのだろうか。象は江戸時代にやって来ているが、キリンはもっと遅いような気がする。いずれにせよ短歌に登場するのは明治以降の近代短歌においてであることはまちがいない。だとすると歌語・歌枕としては比較的歴史が浅く、歌の共同主観的世界においてそれほど決まった象徴的意味が付与されていないことになる。ならば歌人はそれぞれの見方に基づいて、独自の象徴性をキリンに付与すればよいのだが、おもしろいことに現代短歌においては一定の偏りが見られる。

 掲出歌では〈私〉は秋風の吹く動物園でキリンを見ているのだが、対象に注ぐ眼差しはいつか反転して、〈私〉を「暗きかたまり」と感じている。夜の歌人である高野の歌の世界のなかでは、キリンが〈私〉の存在様態を把握する契機として捉えられている。このように〈私〉のほの暗い側面を意識させるキリンは、その存在の悲劇性において描かれていると考えてよい。

 昔からそこにあるのが夕闇か キリンは四肢を折り畳みつつ  吉川宏志

 若き日の苦しからむかびしびしと首打ちかはす麒麟を見れば  小池光

 サファリパークは淋しい冬になるだらういつか麒麟が滅びしのちは  松原未知子

 吉川の歌でもキリンは、春の日の射すのどかな動物園ではなく、迫り来る夕闇と並べられて描かれている。キリンはふつう立ったまま眠るらしいが、熟睡するときには座って首を後ろ足に載せるという。「四肢を折り畳む」動作は眠りに入ることを予感させると同時に、戦線を離脱し挫折することとにも通じ、夕闇に四肢を折り畳むキリンには、どこか沈み行く世界を思わせるところがある。

 オスのキリンが互いに首を打ち合わす動作はネッキングと呼ばれていて、オス同士の勢力争いの行動らしい。小池の歌ではネッキングをするキリンを見ている〈私〉が、「若き日の苦しからむか」という思いを抱くのだが、それは生殖年齢という若さゆえのキリンの苦しさを思うと同時に、若さに由来する人間の苦しさに思いを馳せることにもつながっている。

 松原の歌ではキリンが絶滅した未来を思い、キリンのいない世界の淋しさを思っているのだが、ここでもまたキリンは絶滅の可能性を感じさせる悲劇性において描かれている。

 熱たかき夜半に想へばかの日見し麒麟の舌は何か黒かりき  中城ふみ子

 あみめきりん茫洋とせるまなざしの霜月檻のうちより暮れて  中津昌子

 膝を折るきりんの檻に背をつけて雨より深いくちづけをして  ひぐらしひなつ


 中城の歌では、病気で熱を出している夜中のことを詠っているが、熱のある夜は思考が混乱するのが常であり、高熱のときには幻覚を見ることもある。そんなときに昔見たキリンのことを思い出している。思い出すのはキリンの黒い舌である。キリンの全身ではなく舌だけが思い出されているところにこの歌のポイントがあり、その舌の黒さは過去の生活への作者の悔恨のようにも受け取れる。

 中津の歌の「あみめきりん」というのはもともとある言い方ではなく、キリンの皮膚の模様が網目状をしていることを描写したものだろう。キリンは何を考えているのかわからない眼差しをしている。「檻のうちより暮れて」は外よりも檻の中の方が早く暗くなるということだが、取り立てて理由はないものの、全体に寂寥感の漂う歌となっている。

 ひぐらしの歌集はその題名が『きりんのうた。』であるが、実はキリンを詠んだ歌はこの一首しかない。この歌では恋人同士がキリンの檻の前でキスをしていて、読みのポイントは「雨より深い」なのだが、恋人たちの背後ではキリンが膝を折っている。健康に暮らしているキリンは膝を折ることがない。水を飲む時でも前肢を伸ばしたまま大きく広げるので膝は折らない。だからキリンが膝を折るという行為には、どうしても負のイメージがつきまとう。そのイメージは檻の前でキスしている恋人たちにもいやおうなく投影されるのである。

 首と首互みに鳴らす子きりんの股間きららに風薫る夕  加藤孝男

 紙コップ熱きを妻に手渡せりキリンの首は秋風を漕ぐ  吉川宏志

 たとうれば留守番電話のやさしさにキリンは立てり秋草を踏み  同

 おまえにも麒麟にもない喉ぼとけ曝し歩まんマフラーほどいて  同

 梅雨晴れの白き陽のさす柵のなか夢遊病者のキリンがあゆむ   同

 加藤の歌のキリンには珍しく悲劇性はない。ネッキングをするキリンと、その長い足のあいだを通り抜ける風との取り合わせにより、むしろ華やかさが感じられる歌である。

 吉川宏志はキリンが好きなのか、キリンの歌をたくさん詠んでいる。一首目は第一歌集『夜光』所収の歌なので、恋愛から結婚に至る初々しさという文脈のなかで読むことになる。秋の一日動物園に行き、自動販売機で買ったコーヒーの熱い紙コップを妻に手渡す。背後にいるキリンはしきりに首を動かしている。のどかな光景であり、ここにはキリンの過度な象徴性はない。二首目にはこれとはやや異なる感情移入が認められる。秋の草を踏んで立つキリンを留守番電話のやさしさに喩えているのだが、キリンは攻撃性に乏しく受動的存在として描かれている。三首目、「喉ぼとけのないお前」とは女性なのでたぶん妻のことだろう。自分は男なので喉ぼとけがあるが、冬の寒さのなかでマフラーをあえてほどいて歩こうという決意に富んだ歌である。四首目の舞台は梅雨晴れの日差しの中なのだが、キリンは夢遊病者として描かれている。これらの歌のなかでは強く主張はされていないものの、作者がキリンに自己の姿を投影しているように読むことができるだろう。

 短歌にいちばんよく詠まれた動物は何だろうか。調べたわけではないのでわからないが、たぶん「鳥」ではなかろうか。しかし多くは「鳥」と表わされていて、種別までは特定しない場合が多い。そこまで細かく特定すると、逆に不要な象徴性を歌に呼び込むことになるからだろう。それと較べたとき、キリンの帯びている強い象徴性は明らかであり、現代短歌において独自の地位を占めていると言えるかもしれない。

107:2005年6月 第2週 吉川宏志
または、微分された喩的照応は微細撮影のなかに

アヌビスはわがたましいを狩りに来よ
      トマトを囓る夜のふかさに

吉川宏志『青蝉』
 
 アヌビスは古代エジプトの神で死を司り、黒犬の姿で描かれることが多い。この歌で〈私〉はアヌビス神に「わがたましいを狩りに来よ」と呼び掛けている。つまり自ら死を願っていることになる。下句は一転して〈私〉がトマトを囓っているという日常的風景が歌われているがそれは表面的なことで、「夜のふかさに」の結句に沈み込むような沈思の世界が開けている。アヌビス神は真っ赤な首輪をしていて、それは歌の中の「トマト」の赤さと呼応する。黒犬の赤い首輪と、漆黒の夜にトマトの赤さ、上句と下句はともに、「黒・赤」という色彩のコントラストを基本に作られていて、なかなか技巧的な作品なのである。そして吉川宏志が技巧派であることは、誰もが知っていることだ。

 吉川は1969年 (昭和44年)生まれ。故郷宮崎の高校の先生に志垣澄幸がいて、吉川が京都大学文学部に進学するにあたり、永田和宏への紹介状を書いてもらったという。これを機に休眠中であった京大短歌会が復活し、梅内美華子・林和清島田幸典・前田康子らが参加して、京大短歌会のひとつの黄金時代を迎えることになる。当然のことながら「塔」短歌会に入会し、現在も編集委員を務めている。第一歌集『青蝉』(1995年、現代歌人協会賞)、第二歌集『夜光』(2000年、ながらみ現代短歌賞)、第三歌集『海雨』(2005年)がある。

 私が初めて吉川の短歌を読んだのは『新星十人』(立風書房1998年)という10人の歌人を集めたアンソロジーだった。短歌を読み始めたばかりの私には、吉川の短歌は正直言って「とても地味」なものとしか映らなかった。それもそのはずである。『新星十人』には、荻原裕幸(1962生)、加藤治郎(1959生)、紀野恵(1965生)、坂井修一(1958生)、辰巳泰子(1966生)、林あまり(1963生)、穂村弘(1962生)、水原紫苑(1959生)、米川千嘉子(1959生)といった個性豊かな面々が顔を揃えていたのである。この顔ぶれの中で目立つのは容易なことではない。しかも吉川は最年少で第一歌集を出したばかりである。『新星十人』には「現代短歌ニューウェイブ」という副題が冠せられていて、ライトヴァースや記号短歌など表現上の新しさを感じさせる他の歌人と並んだとき、吉川の一見地味な短歌はあまり「ニューウェイブ」という印象を与えない。むしろ古風な近代短歌と言ってもいいくらいである。しかし第三歌集『海雨』と前後して、邑書林のセレクション歌人シリーズから『吉川宏志集』が刊行されたのを期に、今回すべてを通読して吉川の歌人としての実力を改めて感じることができた。

 「塔」短歌会は1954年に高安国世を中心に発足した結社であり、高安はもともとアララギ派の歌人であったから、「塔」短歌会も写実を作歌の基本とするアララギの流れを汲んでいる。この意味でも吉川は「塔」の本流を行く歌人と言ってよい。吉川のように手堅く隙のない短歌を作る人は、とても批評しにくい。こういう時にはキーワードで攻めるにかぎる。私が考えたのは「一字空けの人」というキーワードである。

 セレクション歌人シリーズ『吉川宏志集』に谷岡亜紀が吉川宏志論を書いているが、谷岡がまず注目したのは吉川の初期作品である。

 伯林(ベルリン)にルビふるごとき夜の雪 教室にまだきみは残れり

 ガリレオの鉄球木球ふたすじにわれと落ちゆくひとの欲しかり

 サルビアに埋もれた如雨露 二番目に好きな人へと君は変われり

 谷岡が着目しているのは上句と下句とがたがいに「像的喩」または「意味的喩」として機能する歌の姿である。叙景と叙情、事物と人事を上句と下句に配置し、そのあいだに喩的関係を組み立てるのは、吉川の師である永田和宏の「問と答の合わせ鏡」論のヴァリエーションであり、和歌・短歌の王道と言ってもよい。加えて「伯林にルビふるごとき」という直喩、「ガリレオの鉄球木球ふたすじに」というやや舌足らずな比喩は、直喩を作歌の基本に据える吉川の資質をすでによく示している。吉川が直喩をよく使うことはたびたび指摘されていることである。

 死亡者名簿の漢字の凹凸が噛みあうように隣り合いたり

 ガラス壺の砂糖粒子に埋もれゆくスプーンのごとく椅子にもたれる

 しばらくの静謐ののち裏返るミュージックテープは魚のごとしも

 炭酸のごとくさわだち梅が散るこの夕ぐれをきみもひとりか

 なぜ吉川は直喩を多用するのか。それは写実を基本とする作歌方法において、直喩は読者をハッとさせる一首の核となる発見を導くからである。永田和宏は評論集『喩と読者』で比喩論を展開し、「能動的喩」という概念を提唱している。「能動的喩」とは、すでにある比喩関係をなぞるものではなく、「世界が秘めている意味、潜在性として蔵している価値、それらを一回性のものとして剔抉してくれるような喩」である。要するに、それまで考えられなかったAとBの結びつきにより、読者が新しい発見をし、世界の認識を更新するような比喩ということだ。喩が成立するためには、「喩えるもの」と「喩えられるもの」とが分離されて提示される必要がある。そしてそのあいだに喩的緊張関係を作り出すために「一字空け」が効果的なのである。第一歌集『青蝉』には一字空けがかなり見られる。一字空けは句切れを作り出し、喩的関係を強調する。ただし吉川においては一字空けのない歌においても、句切れの鮮明さは際立っている。だから「一字空けの人」というキーワードは、「句切れの鮮明な人」というほどの意味と取っていただきたい。

 句切れのない文体を三枝昂之は「流れの文体」と呼んだことがある。吉田弥寿夫によると、句切れのない文体はモノローグ的であり、「集団から疎外された単独者の文体」なのだそうだ(『雁』4号)。たとえばすぐ頭に浮かぶのは次のような文体である。

 目のまえに浮くカナブンが虹をだし動かなくなるまでをみていた  伴風花

 ゆれているうすむらさきがこんなにもすべてのことをゆるしてくれる  今橋愛

 ここには何かを見て何かを感じ、また何かを感じては何かを見るという〈私〉と世界の往復運動がない。〈私〉と世界とがお互いを照らし出すという相互関係がない。それにかわって言いしれぬ孤独だけがある。このような文体から紡ぎ出される歌の世界には〈私〉だけがいて他に何もいない風景が広がっている。それは私たちの認識が、外的事物 (=世界)と知覚者 (=私) のあいだで展開する相互行為の織物としてできあがっているということを忘れているからだ。〈私〉とはその相互行為の織物の肌理として析出される何物かである。だから〈私〉と無関係な世界はなく、世界と無関係な〈私〉もない。それはどちらも語義矛盾である。このようなことを念頭に置きつつ「一字空けの人」吉川の歌を眺めると、「流れの文体」の歌の世界とのちがいが際立って感得される。

 ガラス戸にやもりの腹を押しつけて闇は水圧のごときを持ちぬ   『青蝉』

 似ていると思うは恋のはじめかなボート置場の春の雷(いかづち)

 夕闇にわずか遅れて灯りゆくひとつひとつが窓であること

 ひのくれは死者の挟みし栞紐いくすじも垂れ古書店しずか    『夜光』

 ふるさとで日ごとに出遭う夕まぐれ林のなかに縄梯子垂る

 あみだくじ描(か)かれし路地にあゆみ入る旅の土産の葡萄を提げて

 一首目、上句は室内からヤモリの白い腹を見た「叙景」であり、下句は外の闇に水圧のようなものを感じた観察者の〈私〉の想念である。景物の観察を契機として〈私〉の想念が生み出される。その機序を「問と答の合わせ鏡」の枠組みのなかに収めたこのような歌の短歌的完成度は極めて高いものと言わなくてはならない。二首目、今度は想念が先に来て叙景が下句に付けられており、全体として恋の予感を暗示する青春の歌となっている。三首目、上句「夕闇にわずか遅れて灯りゆく」に吉川らしい微細な発見が表現されていることに注意しよう。私たちは日暮れと同時に電灯を点すのではない。いつのまにかあたりが暗くなったことに気がついてから電灯を点すのだ。だから点灯は闇の訪れにわずかに遅れるのである。この「わずかな遅れ」を発見し表現するところに吉川の真骨頂がある。四首目、古本から栞紐が垂れているのは単なる観察であるが、それを「死者の挟みし」と感じたのは作者の主観である。それを薄暮の世界に配置したこの歌の静謐感は深い。五首目、吉川は故郷の宮崎に帰郷したときの歌をたくさん詠んでいるが、これはちょっと不思議な味わいの歌。林の中に垂れる縄梯子というのが不思議で忘れ難い。六首目、句切れは明確だがこの歌には上句・下句の喩的緊張関係はない。全体が〈私〉の行為の描写として描かれているのだが、ピントの合い方に手際が冴える。路地に子供が描いたものと思われるあみだくじが残っている。この狭い路地で幸運と不運との決定が偶然によって下されたのである。だからこの路地はもうふつうの路地ではない。〈私〉はそこに葡萄を下げて歩み入る。このごく日常的な光景のなかに神話的香りすらただよっている。

 吉川の歌を読んでいるとときどき、特殊なカメラを用いた微細撮影を見ているように感じられることがある。

 傘立ては竹刀置場に使われて同じ高さに鍔は触れあう    『青蝉』

 バグダッド夜襲を終えし機の窓に白人なれば顔のほの浮く

 中途より川に没する石段の、水面までは雪つもりおり

 円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる

 くだもの屋の台はかすかにかたむけり旅のゆうべの懶きときを  『夜光』

 竹刀の鍔が同じ高さに触れ合うというのは当たり前だが、言われてみてそうかと気づく。二首目は米軍空爆の模様を夜間撮影したTV映像を見て作ったものだろうが、ほの浮く白い顔に焦点が当たっている。三首目は水面までは雪が積もっているという小さな発見、四首目は金魚が水から出てはじめて濡れるという発見が歌の核となっている。五首目はもっと精妙で、旅行先で見た青果店の陳列台がわずかに傾いているというだけなのだが、この歌では「かすかに」がポイントであることは言うまでもない。

 『短歌研究』2005年4月号の作品季評で穂村弘が吉川の歌に触れ、「必ずどの歌にもポイントがあり、そういう詩的なポイントを作ろうという意識が高い」と述べている。穂村はさらに言い進んで、「どこかにポイントを作れば歌が成立すると思っているふしがあり」、「パーツを持って来て作るやり方にどこかニヒルな感じがする」と述べている。同席した一ノ関忠人と日高堯子は穂村の見方に賛成していない。私もあまりニヒルな感じはしないのだが、「どの歌にもポイントがある」というのはその通りであり、ポイント制で採点すると吉川の打率はかなりの高率になるだろう。

 さて、最新歌集の『海雨』だが、第一歌集・第二歌集で見られた鮮明な句切れは、『海雨』に至って逆に目立たなくなる。しかしそれは後退ではなく前進であり、喩的照応をさらに一層歌のなかに巧みに溶け込ませている。

 五階より見れば大きな日なたかな墓の透き間を人はあゆめり

 水のあるほうに曲がっていきやすい秋のひかりよ野紺菊咲く

 冬の日は器ばかりが目立つかな茶碗に藍の草なびくなり

 木のまわりだけが昨日の感じして合歓の花咲く川の向こうに

 うすあかきゆうぞらのなか引き算を繰り返しつつ消えてゆく鳥

 このような歌を読むと、吉川はもうピシッと決まる像的喩を組み立てることにあまり興味はなく、むしろ喩的照応をさらに微分して日常的叙景のなかに溶解させようとしているかのようである。ここまで来ると短歌の初心者にはその味わいを読み取ることがなかなか難しいかもしれない。その安定感と破綻のない文体にはますます磨きがかかっていて、おそらくプロのあいだでは評価の高い歌集になることはまちがいあるまい。

『レ・パピエ・シアン』の歌人たち

 京都の寺町二条に三月書房という本屋がある。その古ぼけた外観といい、奥にある風呂屋の番台のような帳場といい、古本屋を思わせる風情だが、れっきとした新本書店である。その地味な外観とは裏腹に、三月書房は知る人ぞ知る伝説的な有名書店なのだ。京都に住む読書好きの人で、三月書房を知らない人はいない。世の中の流行から超然とした独自の基準による選本がその理由である。

 三月書房はまた短歌関係の本の品揃えでも知られており、短歌の同人誌も数多く店頭に置いている。『レ・パピエ・シアン』も三月書房で見つけた月刊同人誌のひとつである。ブルーの紙を使った瀟洒な雑誌で、同人誌らしく手作り感がにじみ出ている。短歌好きが集まって、ああだこうだと言いながら同人誌を作るのは、きっと楽しい遊びにちがいないと考えながら、手に取ってみた。

 結社は主宰者の短歌観に基づく求心力をその力の源泉としているため、いきおい参加者の作歌傾向が似て来る。それにたいして同人誌は気が合う仲間で作るもので、作歌傾向はばらばらでもかまわないというよい意味でのルーズさが身上である。『レ・パピエ・シアン』も同人誌らしく、堂々たる文語定型短歌からライトヴァース的口語短歌まで、さまざまな傾向の短歌が並んでいる。同人のなかでいちばん名前を知られているのは、たぶん大辻隆弘だろう。しかし、私は今まで名前を知らなかった歌人の方々をこの同人誌で知ったので、気になった短歌・惹かれた短歌を順不同で採り上げてみたい。2004年1月号~3月号からばらばらに引用する。

 この同人誌でいちばん気になった歌人は桝屋善成である。 

 底ひなき闇のごとくにわがそばを一匹の犬通りゆきたり

 悪意にも緩急あるを見せらるる厨のかげに腐る洋梨

 なかんづくこゑの粒子を納めたる莢とし風を浴びをるのみど

 紛れなく負の方角を指してゆくつまさきに射す寒禽の影

 手元の確かな文語定型と、吟味され選ばれた言葉が光る歌である。なかでも発声する前の喉を「こゑの粒子を納めたる莢」と表現する喩は美しいと思った。テーマ的には日々の鬱屈が強く感じられる歌が多い。日々の思いを文語定型という非日常的な文体に載せることで、日常卑近の地平から離陸して象徴の世界まで押し上げるという短歌の王道を行く歌群である。愛唱歌がこれでいくつか増えた。

 病む人のほとりやさしゑ枕辺を陽はしづやかに花陰はこぶ  黒田 瞳

 みなぎらふものを封じて果の熟るる子の頭ほどの固さかと思ふ

 さかしまに木を歩ませばいく千の夜世わたらむよそびら反らせて

 凍み豆腐やはらにたきて卵おとす卵はゆるゆる濁りてゆくを

 黒田も文語定型派だが、言葉遣いにたおやかさを感じさせる歌が多い。漢字とかなの配分比率、やまとことばの駆使、歌に詠み込まれた感興の風雅さが特に際立つ。今の若い人にはなかなかこういう歌は作れない。ある程度の年齢の方と想像するがいかがだろうか。「さかしまに」の歌の木が歩くというのは、マクベスのバーナムの森を思わせ、幻想的である。「夜世わたらむ」と定型七音に収めず、「夜世わたらむよ」と八音に増音処理したところに余韻を残す工夫があると思った。美しい歌である。

 母を蘇らせむと兄は左脚、弟は身体全てを捧ぐ  服部一行

 最大の禁忌〈人体錬成〉に失敗す幼き兄弟は

 哀しみに冷えゆく〈機械鎧 (オートメイル)〉とふ義肢の右腕、義肢の左脚

 なかでも異色なのは、服部一行の「鋼の錬金術師」と題された連作だろう。TVアニメ化もされた荒川弘の同名マンガに題材を採った作品だが、「人体錬成」「機械鎧」(アーマー / モビルスーツ)というテーマは、サブカルチャーと直結している。同人誌『ダーツ』2号が「短歌とサブカルチャーについて考えてみた」という特集を組んでいるが、確かに今の短歌の世界ではサブカルチャーを詠み込むことは珍しくないのかも知れない。しかし、サブカルチャーをどういうスタンスで短歌に取り入れるかは、歌人の姿勢によってずいぶん異なる。藤原龍一郎の「ああ夕陽 明日のジョーの明日さえすでにはるけき昨日とならば」には、時代と世代への強い固着があり、批評性が濃厚である。黒瀬珂瀾の「darker than darkness だと僕の目を評して君は髪を切りにゆく」には、流行の現代を生きる青年のひりひりした自己感覚がある。服部の連作は原作マンガの物語の忠実な再現に終始していて、サブカルチャーを素材とすることへのさらなる掘り下げが必要なのではないだろうか。

 渡部光一郎もなかなかの異色歌人である。

 中井英夫は江戸っ子にてしばしば指の醤油を暖簾もて拭き

 見習いは苦汁使いに巧みにて主人の女房をはやくも寝取る

 豆腐屋「言問ひ」六代目名水にこだわり続けたりと評判

 江戸落語を思わせるような威勢のいい言葉がぽんぽんと並んだ歌は、俗謡すれすれながらもおもしろい。言葉の粋とリズムが身上の短歌なのだろう。ちなみに2004年2月号は「都々逸の創作」特集だが、渡部はさすがに「椿つや葉樹(ばき)つんつら椿めのう細工と見てござる」と達者なものである。

 その他に惹かれた歌を順不同であげてみよう。同人誌らしく、文語定型の歌、口語の歌、文語と口語の混在する歌とさまざまである。

 わが額にうつうつとまた影生(あ)れて ふるへる朝のふゆの吐息よ 角田 純

 軋まないようにゆっくり動かして重たき今年の扉を閉じぬ  藤井靖子

 重ねたのは仮止めとしての問いの板だからだろうか神を忘れて 小林久美子

 抽出にさよならだけの文あるにまた会ふ放恣の盃満たさむと 酒向明美

 携帯を持たぬ我は今やっと時を操る力を手にする  渋田育子

 忘れゆく想ひのあはき重なりに花はうすくれなゐの山茶花 矢野佳津

 角田の「わが額に」の口中に残る苦みも短歌の味わいである。ただし、なぜ一字あけが必要なのかよくわからない。完全な定型に字あけは必要ないのではないか。右に引いた藤原龍一郎の歌では、「ああ夕陽」のあとの一字あけは必然である。

 藤井の歌は年末風景を詠んだものだが、文語と口語が混在している。結句を「閉じぬ」で終えたのは、短歌的文末を意識したからだろうが、「軋まないようにゆっくり動かして重たい今年の扉を閉じる」と完全な口語短歌にしても、その味わいはあまり変わらないように感じる。日常雑詠のような藤井の連作のなかで、この歌だけ印象に残ったのだが、その理由はひとえに「重たき今年の扉」という措辞にある。村上春樹のモットーは「小確幸」(小さくても確かな幸せ)だが、それにならえば「小さくてもハッとする発見」が短歌を活かす。

 小林の歌は「舟をおろして」という連作の一首で、手作りで舟を作っている情景を詠んだもののようだが、「仮止めとしての問いの板」という喩に面白みがあると思った。またそこから「神を忘れて」となぜ続くのか、論理的には説明できないのだが、忘れられない魅力がある。短歌は完全に解説できてしまうと興趣が半減する。どうしても謎解きで説明できないものが残る短歌がよい歌ではないだろうか。

 酒向の歌は一首のなかに、まるでドラマのようなストーリーを詠み込むことに成功している。いったんは別れた男女の恋が再び燃え上がるのだが、「放恣の盃満たさむ」という措辞にエロスが溢れている。下句が「また会ふ放恣の(八) / 盃満たさむと(九)」と十七音(盃を「はい」と読めば十五音)だが、破調を感じさせない。

 渋田の歌はいささか言葉足らずなのだが、「携帯を持たなかった私が持つようになって、やっと時間を操る力を手に入れた」と読んだ。携帯は現代生活のあらゆる場面に浸透しているが、その力を「時を操る力」と表現したところがおもしろいと思った。

 矢野の歌は連作を通読すると同僚の数学教師の死を追悼する歌だとわかる。「花はうすくれ/なゐの山茶花」と句跨りになっているが、調べの美しい歌で記憶に残った。



『レ・パピエ・シアン』2004年5月号掲載