ちかくの苑にねむるくちなは
多田零『茉莉花のために』
多田は平成元年より「短歌人」会員で、2002年に上梓された『茉莉花のために』は第一歌集である。栞には小池光、大辻隆弘、河野裕子が文章を寄せている。ちなみに「茉莉花」には「まつりくわ」とルビが振ってあり、ジャスミンの異名である。ジャスミンは5月初旬に芳香の強い白い花を多数咲かせる。集中には梔子を詠んだ歌も多く、作者はどうやら白く香りの濃厚な花がお好みのようだ。ジャスミンや梔子の強い芳香は肉感的である。『茉莉花のために』もまたある意味でとても肉感的な部分を含んだ歌集なのである。
新人が第一歌集を出すときによく挟み込まれる栞は、新人を世に送り出す推薦文であるとともに、歌集を読み解くガイドの役割を果たす。参考になるのでありがたいと思う反面、歌の読みの方向を縛られてしまい邪魔だと感じることもないではない。多田零の『茉莉花のために』の場合、小池は多田の歌には「生身の肉を素足で踏んだような感触」があると言う。大辻は小津安二郎が岸恵子を評した「身もちが悪い」という言葉を引用して、多田の歌も身もちが悪いと評している。これは端正な文体の奥の方に、匂うような身体感覚があるという褒め言葉である。河野は一読したとき「踏み応えのない歌集だと感じた」が、再読して不思議な感覚のただよう歌だと思ったと感想を述べている。いずれも多田の歌人としての資質の一面を的確に捉えた評言だと思うが、私は少しちがうことも多田の歌に感じたので、そのことを書いてみたい。
私がまず注目するのは次のようにピシッと焦点の合った描写の冴える歌群である。
石は階(きだ)のかたちに折れてつづきゆくみづのきはよりみずうみのなか
卯月なり電灯のひも揺れてゐるただ鈍色の昼のあかるさ
風の縁(ふち)のふれゆくらしも天花粉こぼれてゐたる椅子のあしもと
さきほどの月の色くだり来しとして紅鮭の身にまな板濡るる
みづたまりの水にひかりの襞生(あ)れて鉄橋の上(へ)を貨車は過ぎゆく
あゆみゆきて真黒き猫の尾の長さ地にふれさうになりつつ触れず
一首目は石段が水際から湖の中にまで続いている光景を詠んだただそれだけのものだが、このような歌にこそ言葉を日常から浮上させる多田の資質を強く感じてしまう。詠み込まれる素材が日常卑近の些細な事柄であればあるほど、歌言葉はそれと反比例するかのように日常の地平を離れて詩空間へと浮遊する。平仮名の多用もこの歌では効果的で、童謡のようなリズムを生んでいる。二首目、陰暦卯月の昼のほの暗さが題材だが、「電灯のひも揺れてゐる」の暗示する所在なさ、「ただ鈍色の」のとりとめなさが倦怠感をうまく表現している。三首目、椅子の足許に天花粉がこぼれている、それだけの情景である。それを「風の縁のふれゆくらしも」と表現して一編の詩となしている。単なる風とはせず「風の縁」とまで一歩踏み込んで表現した所がこの歌のミソであり、それによって結像力が増していることにも注目しよう。四首目、さきほど見た赤っぽい月の色とまな板の上の紅鮭とを対比させた歌である。不思議な感覚どころか、極めて知的な見立ての歌だと言えよう。五首目、貨車の通過で水たまりの表面が波立ったというだけの光景であり、この歌のポイントは波を「ひかりの襞」と表現したところにある。物体の「動き」によって「ひかり」の存在が改めて意識されるところが作者の発見。六首目は黒猫の尻尾を詠んだ歌。初句が「あゆみきて」ではなくわざわざ六音の「あゆみゆきて」としてあるのは、黒猫が歩み去るところでなければ尻尾がよく見えないからで、尻尾で猫を代表させているところにこの歌の表現としての価値がある。
栞文のなかで多田の歌を小池は「淡彩であわあわしい」と、河野は「ふわふわと頼りない」と評しているのだが、私にはどうもそれがよくわからない。私の感覚がおかしいのだろうか。上に引いたような歌は焦点の決まった描写、知的な見立て、的確な措辞を駆使して、何の意味もない日常のひとコマを詩へと昇華した優れた歌だと思う。
「フシギ系感覚」の歌としては次のようなものがあげられるだろう。
「人形の夢と目覚め」を路地にきく いま左右(さう)の手の交差のこころ
けさ夢に命ぜられたり〈鬣と尾のどちらかを体につけよ〉
赤き手ぶくろ昼の電車に振られゐるしきりに振らるる枯園にむき
少年悉達(しつた)の髪の肌ざはりかすかに指に付箋紙にほふ
人形であつたとしてもこの雨の音はわたしに溜まりてゆきぬ
一首目はまるで謎のような歌で、「人形の夢と目覚め」が何の事かわからないし、「左右の手の交差」も意味不明である
(注)。
(注)「人形の夢と目覚め」は、Theodor Oestenという作曲家の作ったピアノ曲だという指摘が読者からあった。「左右の手の交差」とはピアノを引く時に右手と左手が交差するという単純な意味だったことになる。だからこれは不思議な歌ではなかったことになる。短歌の読みにはこのように外的知識が必要なことがあり、知識がないと読みちがいをするという見本のようで恥ずかしい限りである。自戒の意味も込めて原文をそのまま残しておく。どうも夢の話が出てくるとこの傾向があるようで、二首目も夢の話でこちらは意味はわかる。「動物になれ」と誰かに言われているのであり、作者には動物感覚への密やかな憧れがあるようだ。三首目、電車の中で外に向かって赤い手袋を振っている人がいるという歌だが、これも白昼の謎のような印象を残す。四首目、少年悉達とは釈迦の少年時代のことだが、付箋紙に少年悉達の髪の肌触りを感じているというのだろうか。五首目もまた謎めいた歌で、「雨の音が私に溜まる」という表現が意表を突いているし、「私が人形であっても」という想像もまた不思議なものである。
私が特によいと感じた歌は次のような歌であった。
薄明のうつはにそそぐ茶のみどり鴆(ちん)にこころは向きてゐたるを
髪ほどき入水に向かふをみなゐむシクラメン蒼白にありてゆふやみ
ひつたりと素足にて床に立つ今を位置さだめたる足裏(あうら)のほくろ
おほきなる門の奥より音きこゆ引きずられつつ鎖太しも
デカンタのみづと蛇口はひともとの硝子のごときみづにつながる
わがからだ遠のきながらなはとびの縄がアスファルトを打つのみ聞こゆ
一首目、鴆とは中国にいるという鳥の名で、羽には毒がありそれを浸した酒は人を殺すとされている。だから「鴆にこころは向きてゐたる」とは、毒で人を殺したいと思っているということである。夜明けに茶を淹れる静かさと殺意との対比が怖ろしい。二首目は見立ての歌で、夕闇に光るシクラメンを入水に向かう女性に譬えたものである。三首目も多田の個性をよく感じさせる歌ではないかと思う。立ち位置を定めるのが足の裏のほくろだというのだが、ほくろのような微細なものへ注ぐ視線と、それを元にして一首の歌の世界が構成されてゆく様がよい。四首目もおもしろい歌で、犬が鎖を引きずっているのだが、犬はどこにも見えず鎖だけが動いているような奇妙な感覚が残る。五首目は蛇口から水をデカンタに入れている歌だが、「ひともとの硝子のごときみづ」によって蛇口とデカンタが繋がっていると詠んでいるのである。入れ終り卓上に置いたデカンタの中の水が、まだ水道の蛇口と繋がっているかのような幻想の残るところがこの歌の手柄だろう。六首目はなわとびの歌だが、自分の体が上昇するのと同時に縄が地面を打つという逆方向の動きとともに、「打つのみ聞こゆ」によって一瞬無音の世界が構成されるところにこの歌の奥行きが感じられる。
このように多田の歌には、描かれた世界に触れる手触りに独特の感触がある。ブュフォンの「文は人なり」Le style, c’est l’homme. という箴言を引くまでもなく、歌人は文体と措辞をもって世界を表現するのであり、文体と世界観とは歌人において同義語である。多田の短歌文体は、多田の世界の見方そのものを表わしている。世界に触れる手触りのこの独特の感触を一度感じたら、たとえ署名がなくても多田の短歌を別人のものと取り違えるおそれはあるまい。これを個性と呼ぶのである。
多田零のホームページ「かをりうた」