089:2005年2月 第1週 今橋 愛
または、詩と地続きのゆるい定型感覚から繰り出される薄い空気の歌

手でぴゃっぴゃっ
たましいに水かけてやって
「すずしい」とこえ出させてやりたい

          今橋愛『O脚の膝』
 この短歌批評ではずっと掲出歌を二行書きにしている。しかし今回の今橋の歌は、もともと原文が三行書きになっていて、私が恣意的に区切ったものではない。この多行書きが今橋の短歌にとってはとても重要なのだということから話を始めたい。

 今橋のプロフィールは、大阪市生まれで京都精華大学卒業、24歳の頃から短歌を作り始めるとしか明らかにされていない。しかし、歌集巻末に著者近影が掲げられているので、若い女性であることはまちがいない。京都精華大学といえば、過去には現代短歌のフィクサー深作光貞が学長を務め、岡井隆が教授で上野千鶴子も教鞭を執っていた大学である。しかし、今橋はこのような伝統から生まれた歌人ではない。結社には所属せず、2002年に「O脚の膝」100首で北溟短歌賞を受賞している。審査員は穂村弘水原紫苑。2000年に短歌研究社が開催した「うたう作品賞」コンテストで候補作に残った赤木舞が今橋のペンネームであったことに気づくのに、少し時間がかかった。「うたう作品賞」候補作も『O脚の膝』にそのまま収録されている。

 さて掲出歌だが、改行が句切れに対応していると想定すると、6・7・6・7・8の34音でかなり定型から外れている。ひながなの多用と口語文体は、最近の若い女性作者にはよく見られるもので、特に珍しいものではない。掲出歌は多行書きになっているが、集中にはふつうの一行書きの歌もあれば、二行もそれ以上の歌も混じっている。試しに二行書きと、それ以上の多行書きの歌を一首ずつ引用しておく。

 濃い。これはなんなんアボガド?
 しらないものこわいといつもいつもいうのに

 わかるとこに
 かぎおいといて
  ゆめですか

 わたしはわたし
 あなたのものだ

 今橋はなぜ多行書きにこだわるのだろうか。短歌を一行書きにするのが決まりになったのは明治からのことで、それ以前の古典和歌の時代には多行書きがふつうだったようだ。色紙や屏風などに書くときには、散らし書きといって平面に分散して書くことによって、視覚的印象を追求する技法もあった。日本語は世界でも珍しい音節文字である仮名を使っているので、右から書こうが左から書こうがどちらでもよく、散らして書いてもかまわないという自在な特性がある。散らし書きは屏風などに描かれた絵と短歌の複合的意味作用をめざしたものだといえる。明治になって一行書きにするようになったのは、短歌を文学として美術から独立させたいという意図に基づくものだ。もしそうならば現在では約束事となっている一行書きではなく多行書きを採用するということは、短歌の一首としての屹立をめざすのではなく、逆に短歌をそれ以外のジャンルと融合させるか、少なくとも地続きのものとして捉えていることになる。今橋の場合は、明らかに詩と地続きである。だからこの歌集に収録された作品は、果たして短歌として読むべきか、散文詩として読むべきか迷うものが多い。

 上にあげたアボガドの歌にしても、「濃いこれは なんなんアボガド しらないもの こわいといつも いつもいうのに」と区切れば、三句が6音に増音されている点を除いて定型に近い。しかし句切れと改行が一致していないので、一読したときに定型感が希薄である。二首目の「わかるとこに」も初句の一音字余りを除けば定型なのだが、句ごとに改行されると印象は短歌より詩に近くなる。

 手をふっても
 またねといっても
 次にかおをみないと
 かおをみたいのです

 四行書きのこの歌にしても、「次にかおを」で句切れがあるのだが改行と一致していないため、改行に忠実に読むと短歌として読むことが難しい。今橋にあってはかくのごとく、定型感覚は希薄なのである。おそらく定型という意識そのものが今橋の頭にないものと思われる。

 今橋の短歌 (のようなもの) に好意的な評価をしている奥村晃作は、「短歌研究」2005年2月号の今橋を論じた文章のなかで、短歌が短歌として成立する条件をふたつあげている。

 その一 フォルムを遵守すること
 その二 レトリックが一以上あること

 奥村はこの基準に照らして、今橋の次の一首目は短歌だが、二首目は短歌ではなく四行詩だと結論づけている。

 たくさんのおんなのひとがいるなかで
 わたしをみつけてくれてありがとう   「ラーラぱど」所収

 「水菜買いにきた」
 三時間高速を飛ばしてこのへやに
 みずな
 かいに。

 奥村の第一の条件にある「フォルム」とは定型のことだとして、第二の条件にある「レトリック」はいかようにも解釈できる。奥村は上の一首目「たくさんの」にレトリックが認められる根拠として、「口語である」「新かな遣いである」「ひらがな書きである」「句跨りがある」「字余りがある」をあげているが、これはどうだろうか。狭義のレトリックとして認められるのは「句跨り」くらいのもので、それも今橋の場合は意図的なレトリックではなく、結果として句跨りになったと見るほうが自然だろう。奥村はいささか今橋を買い被りすぎではないだろうか。ちなみに奥村が「短歌である」と認定した上の一首目はつまらないが、「短歌ではない」と認定された二首目のほうがずっとおもしろい。三時間高速を飛ばして水菜を買いに来るという設定そのものの荒々しさが、青春の一途さの喩として読める上に、最後の「みずな」「かいに」を平仮名書きして改行することによって、つぶやくような口調のなかに青春の傷つきやすさがせつないほど表現されている。水菜を手に握り締めて部屋の中に立っているイメージの結像力は抜群である。今橋のレトリックはここにこそ発揮されていると言うべきなのである。

 「うたう作品賞」コンテストと同じ号で、穂村弘は「棒立ちのポエジーと一周回った修辞のリアリティー」という議論を展開し、「棒立ちのポエジー」の例として次の歌を挙げている。

 あの人が弾いたピアノを一度だけ聴かせてもらったことがあります  加藤千恵

 そこにいるときすこしさみしそうなとき
 めをつむる。あまい。そこにいたとき               赤木 舞(今橋 愛)

 この変なドキッという感じの衝撃は巨大イカを知った時と似てる   脇川飛鳥

 穂村のいう「棒立ち」とは、近代短歌のレトリックがまるで使われておらず、ただ五・七・五・七・七の音数に合わせて言葉を並べただけのように見える歌のことである。「棒立ちのポエジー」派とは、意図して棒立ち歌を作っているわけではなく、それだけしか作れない「天然」の人を意味する。それに対して、「一周回った修辞のリアリティー」というのは、短歌的修辞を用いた歌も作れるのだけれども、あえてそれを避けて無防備な棒立ち歌を作る人のことである。徒競走で一周遅れの走者が先頭の走者と並んで走ることがあるように、「棒立ちのポエジー」派と「一周回った修辞のリアリティー」派は、一見すると区別できないような歌を作るという趣旨の議論である。

 穂村の判定では今橋は「棒立ちのポエジー」派に分類されている。後世になって過去の事例を断罪するのはルール違反であることを承知で言えば、穂村の判定は見事に外れていたと言うべきだろう。今橋は決して「棒立ちのポエジー」派ではなかったのである。そのことは『O脚の膝』所収の短歌 (のようなもの) が証明している。ただ今橋の作歌のスタンスが、短歌定型を守ることなど頭から考えておらず、多行書きの散文詩と地続きの、単なるスタイルのひとつ程度の意識に基づいていたということなのだ。穂村は「こんなふうにしてもいいよね」というゆるいジャンル意識を読み切れなかったのだろう。要するに、穂村は短歌にこだわりがあり、あくまで短歌のフィールド内で論じているが、今橋にはそんなこだわりは微塵もなく、よそのフィールドに勝手にはみ出していたということだ。

 穂村は『O脚の膝』の栞文のなかで、今橋の短歌(のようなもの) の特徴を次の三点にまとめている。

 a. 5W1Hに関する具体的な情報の欠落。
 b. 多行書きやランダムな旧仮名遣いや時制の混乱や文法からの逸脱を含む直感優位の言語操作。
 c. 言葉の単純さ。

このうち b. は「いろいろやってみる」という現代短歌と現代詩に共通する志向であるから、特に異とするには当たらない。a. に関してここでは特に指示詞のコ・ソ・アに注目してみたい。というのも指示詞は、話し手(書き手)と聞き手(読み手)の共通の了解を基盤に成立するものだからである。

 上にあげた赤木舞名義の「そこにいるとき」の「そこ」がどこをさすのか、作者だけが知っていて読者は知りようがない。これが今橋の典型的な指示詞の使い方である。

 おでこからわたしだけのひかりでてると思わなきゃここでやっていけない

 慣れすぎてやさしかった。あのへやに
 いつものようにあんなボサノヴァ

 もうちがうものになってる?
 太陽が。
 あのひあんなにまぶしかったのに

 一首目の「ここ」、二首目の「あの部屋」「あんなボサノヴァ」、三首目の「あのひ」はいずれも指示対象が読者にはわからないように使われている。これをよく知られた次の歌と比較してみよう。

 あの夏の数かぎりなきそしてまたたつたひとつの表情をせよ 小野茂樹

 小野の「あの夏」と今橋の「あのひ」は決定的にちがう。この差が近代短歌と今現在の短歌をへだてる差である。小野の歌でも「あの夏」がどの夏をさすのかという説明はないが、この歌が相聞歌でありまた恋が終った後の歌であるという歌意を踏まえれば、「あの夏」が私と恋人の恋がいちばん輝いていた夏だということは読者に了解されるように作ってあり、それが作歌と読みの約束事として成立していたのが近代短歌であることは言うまでもないことだろう。今橋の「あのひ」はこの約束事を軽やかに蹂躙している。ここから引き出すことができる結論は、次のふたつのどちらかである。

 その一 今橋のような作り方をする短歌は、作者と読者を結ぶ読みの回路を最初から無視しており、作者が作って満足すればいいという自己充足的短歌である。

 その二 今橋のような作り方をする短歌は、特化されるような感情や意味を伝えるものではなく、意図的に意味を曖昧にし措辞を攪乱することをひとつの技法に昇華し、読者の心の水面に正体のわからない波紋を広げることのみをめざした歌である。

 さて、どちらの結論が正しいのだろうか。私としてはその二が正しいことを願うばかりである。

 最後に印象に残った歌をあげておこう。

 きめたのでしんだひとですはなのなか
 こどもみたいにでてきたらこまる

 そのくちはなみだとどくをすいこんでそれでもかしこい金魚でしょうか

 きのう家。
 軽くこわれて かあさんは
 こんな日にだけ むらさきのしゃどうを

 ぼくは流す
 やさしいオンガク空のほう
 人生のリセットボタンおすとき

 一首目と二首目は童謡風の怖さがひらがな書きによって強められており効果的である。三首目は家庭崩壊を詠んだものと思われるが、この歌にも冷たいコワさがあり、今橋の個性は案外こういう所に表れているのかも知れない。四首目は若い世代を特徴づける「セカイ系」のゲーム感覚がよく現われている。早坂類や佐藤りえの短歌を読んでいても感じることだが、若い世代の作る歌にはまるで世界の終末に立ち会っているような空虚感が濃厚に漂っていて、息苦しくなることがある。その理由は短歌の世代論として一度真剣に論じてみる必要があるのかもしれない。

088:2005年1月 第4週 浜田蝶二郎
または、垂れ下がる二本の腕は満天の星の下に

垂直線もて天頂と結ばるる
    夜にポロシャツをまとへるが我

       浜田蝶二郎『からだまだ在る』
 私は二本の腕を垂らして、静かな夜の中に立っている。直立する私から垂直線を真上に引くと、そこは遙かな高みの天頂である。地上に立つ私は、痩せた身体にポロシャツをまとった卑小な存在にすぎない。天頂へと続く想像上の垂直線が視線を導く天球の広大さと、地上に立つ私の卑小さとの鋭い対比、天空の永劫と私の須臾の対比が際立つ。写実でもなく暗喩でもなく、事実を事実としてゴロリと投げ出すなかに、〈私〉が世界に対するときのスタンスが明確に刻印された歌と言えよう。

 浜田蝶二郎は1919年(大正8年)生まれで、2002年没。小・中学校の教員を長く勤め、歌誌「醍醐」編集委員長。歌集は計8冊を数え、『からだまだ在る』は第7歌集に当たる。私は「歌壇」2004年5月号の特集「最近、おもしろい歌集を読みましたか」で、三枝浩樹が浜田の遺歌集となった『わたし居なくなれ』を紹介しているのを読み、初めて浜田の名を知った。『からだまだ在る』は1997年、浜田76歳のときの歌集である。『現代短歌辞典』(三省堂)の記事によれば、幼少より病弱で若くして肺結核を病み、そのため生と死に思いを寄せ、実存的思索を深めたという。例えば次のような歌が並んでいる。

 現象に過ぎざる我かふくみたる茶を呑みくだしなどもして

 ここにわれ投げ出されあるといふ不思議老骨きしむことは無けれど

 身の嵩(かさ)は消ゆるものにてまだ消えずバスタブの湯をあふれさせたり

 この両手袋さぐれど終はるとき持つといふことその他も終はる

 燃え続けをらねばならずある日ふと何ものか火をつけられしゆゑ

 公園のベンチにもたれ「現在」を去らせ「現在」をもらひ続ける

一首目の「私は現象に過ぎない」という認識は、現象が終れば私もまた終るということを意味する。須臾の間の現象が茶を呑んでいる〈私〉とは何かという問い。これは「ほんとうの私」を模索して彷徨する若者の抱く問いとは次元を異にする、遙かに存在論的な問いである。浜田の真骨頂はこのような存在論的思索を、身体を通して発見するところにある。二首目は、「われわれは故なくこの生に投げ出されている」という存在論的不条理の感覚を、下句の「老骨きしむことは無けれど」という老人のつぶやきが受け止めている。そこに軽みがある。三首目のポイントは、この身はいずれ消えてなくなるという〈知識〉と、バスタブに満ち溢れた湯に浸かっている〈感覚〉との乖離だろう。感覚は遂に知識に追いつけず、死とは実感できないものだという認識がここにある。四首目も袋のなかを手でさぐるという具体的な身体感覚と死との隔たりがテーマだが、この両手を持つということも終るという感覚が斬新である。五首目に詠まれているのもまた存在論的不条理だが、浜田の思想は神なき世界の不条理ではなく、私をこの世に投げ出した超越者をどこかに感じているようだ。六首目は時間の不思議を詠ったもので、私たちはたちまちに過ぎ去る「現在」を生きることしかできず、「現在」という檻のなかに捕われていると見ている。このように浜田の短歌はきわめて思想的・哲学的な歌なのだが、それを短歌技法としての喩に訴えることなく、身体感覚を通して詠っているところに特徴があると言えるだろう。

 生老病死は短歌の永遠のテーマであるから、自らの死を間近に意識した老境の歌は決して少なくない。

 彼の世より呼び立つるにやこの世にて引き留むるにや熊蝉の声  吉野秀雄

 死ぬるときああ爺ったんと呼びくれよわれの堕地獄いさぎよからん  坪野哲久

 肉叢は死にはんなりとひつそりと水のくちびるを受けやしぬらむ  河野愛子

 疲労つもりて引出ししヘルペスなりといふ 八十年生きれば そりやぁあなた  斎藤 史

 吉野の歌は心臓発作の危篤状態から脱した時の歌で、生死の境を彷徨った後の仏教的達観の趣がある。プロレタリア短歌の闘志として戦った坪野の歌は、晩年になっても威勢がよい。河野もまた病気に苦しんだ歌人だが、この歌には清明な死生観が滲み出ている。斎藤は自らの老いをあからさまに、やや露悪的に詠っている。

 しかしこれらの歌と比較したとき、浜田の短歌は一般に流布したイメージの「老境歌」に回収できないものがある。収録された歌のなかには死への怖れを詠んだものがほとんどなく、自らの存在の消滅を必定の理としてむしろ歓迎する歌もある。

 もらひたる「現在」をお返しして終へんわが色に染めて持つ「現在」を

 とりたてて言ふほどならず生まれ来てやがて消え失せん愉快ゆかい

 このような心持ちを続けるのに何よりも必要なのはユーモアである。浜田の歌にはユーモアが溢れていて、読んでいて楽しい。

 計らひを超えしありがたきリズムかな空腹感の定時に湧くは

 へこをせし昔男は知らざらむズボンに前あきのファスナーあるを

 そのむかしブッダ・西行の捨てしもの妻の背ひらくとファスナーを引く

 たべものがうまく入って抜けてゆく我の大事にて世界の些事にて

 こういう歌を見ると、作者はなかなか食えない老人かと思う。私もできることならばこういう老人になりたいものだが、無理かもしれない。

 浜田の短歌を通読していると、短歌技法として写生を重んじるかそれとも暗喩による象徴的技法に頼るかといった議論は、余り意味のないものに思えてくるから不思議である。たとえば次のような歌はどうだろうか。

 ひつかむり着たるポロシャツ けさの顔抜けて胸と背になじむポロシャツ

 さしたる事が詠まれているわけでなく、かといってそれが何かの喩となっているわけでもない。意図的なただごと歌ともまたちがう。こういうのを「自在の境地」というのだろうか。

 短歌的に見れば、集中の次のような歌が秀歌とされるのかもしれない。

 銃口の無き街の涼 をみなごの腋(わき)より垂るる二すぢの滝

 花ぞのにかがめばうなじに陽のやはし隣に永遠が来てゐるやうな

 事実、『現代短歌辞典』(三省堂)の浜田の項目を執筆した槇弥生子は、二首目を浜田の代表歌としてあげている。しかし、浜田が短歌的に突出しているのは、存在論的懐疑を身体感覚のなかに肉化したような、誰にも真似のできない短歌ではないだろうか。上にあげたポロシャツの歌など、短歌的常識を突き抜けて迫るものがあるように思うのである。

087:2005年1月 第3週 照屋眞理子
または、私は夢見ている私が見る夢か

覚めてまたわが目とならむ双眼を
     しづかに濡らし今朝秋の水

         照屋眞理子『抽象の薔薇』
 不思議な歌である。「このふたつの眼は目覚めたときにまた私の目となる」という。この不思議さは、当然次のような疑問を生み出す。では私が眠っているあいだ、この目は誰の目だったのか。それは私ではない誰かの目であり、夢を見ていた他者の目である。うつつの世を生きる私にとって、夜な夜な訪れる夢は他界であり、他界からうつし世に帰還したとき、この目はふたたび私の目となり、現実を見る目となるのである。この一首は、存在への理知的眼差しという照屋の短歌世界の特質をよく象徴している。

 照屋眞理子は1951年(昭和26年)生まれで、歌誌「玲瓏」所属。第一歌集『夢の岸』に続き、『抽象の薔薇』は2004年に上梓された第二歌集である。俳句もよくし『月の書架』という句集があるそうだ。塚本邦雄麾下に犇めく才人の一人だから措辞の巧みさは当然として、栞に文章を寄せた尾崎まゆみはもっと驚くエピソードを伝えている。照屋が初めて作り「サンデー毎日」の短歌欄に投稿したのが「二人には二人の孤独休息の戦士に揺るる夜の濃紫陽花」という歌で、二度目に投稿した「檻のうちを豹は歩めりひたすらに見らるるための暗き意志もて」が「塚本邦雄賞」を射止めたというのである。照屋に習作の時期はなく、最初から歌人照屋眞理子として出現したことになる。塚本はその才能を愛でて、「照る月に屋根もしろがね眞珠(まだま)なす理外の花を子らは夢みつ」という照屋の名前を折り込んだ折り句を作って贈ったという。

 こういうことはあるものだ。私は以前にFMラジオで、歌手・鬼束ちひろがまだ宮崎で高校生の頃、自宅のラジカセで作り放送局に送りつけたデモテープを聴いたことがある。そのテープから流れて来たのは、まぎれもなく鬼束ちひろの歌の世界だった。鬼束は徐々に自分の世界を獲得したのではなく、最初から100%鬼束ちひろだったのだ。才能とはこういうものである。

 『抽象の薔薇』を通読して、私は韻文を読む楽しみを満喫した。私が満喫したのは「歌のしらべ」である。「短歌とは究極のところ『うた』であり、『しらべ』である」(岡井隆『朝狩』序)のは事実だが、その事実を確かめることのできないものも現代短歌のなかにはある。しかし照屋の短歌は、読む者の心のなかに韻文のリズムを作り出す。そのリズムに乗せて、無のかなたから意味が運ばれて来る。それが心地よい。何首か引用してみよう。

 天頂をいま羽ばたきに星鳴らす白鳥座かも耳盲ひて聴く

 鳥になぞへ空に放ちてその後を知らざれば今日も風中のこころ

 野に得たる青きことばは野に返し人語の街に帰り行くかな

 閉づるまぶたのうちに覚めつつ眼球のはや知れる今朝天体の秋

 ふとも背に目の気配在りまたたかぬ大き片目よ空虚(むなしぞら)とふ

 五首目の「空虚(むなしぞら)」など、「わが恋は空(むな)しき空にみちぬらし思ひやれども行くかたもなし」(古今集恋一)を連想させる。

 照屋の短歌を読んであらためて思い知らされるのは、「短歌とは五七五七七の三十一文字ではない」ということである。もっと正確に言うと、「五七五七七の三十一文字」は短歌という韻文形式の必要条件ではあっても十分条件ではない。律の韻文がやむなく形を取ったのが「五七五七七の三十一文字」なのであって、「五七五七七の三十一文字」が初期条件として存在していたわけではない。この形式が日本語の音数律からしていかに不自然な形式であるかは、岡井隆が『現代短歌入門』で縷々と述べているのでよく知られたことだろう。

 短歌としての必要条件しか満たしていない歌と、十分条件まで満たした歌は、並べてみればそのちがいがすぐにわかる。照屋はもちろん後者であり、前者の見本としては例えば次のような歌がある。

 こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう  枡野浩一

 ローソンに足りないものをだれひとり思い出せない閉店時間

 奥村晃作は「マスノ短歌はなぜ厳密に三十一音で、字余りが起こらないのか」という興味深い疑問を投げかけた(『短歌ヴァーサス』1号)。奥村はこの問いに答えていないが、その答はかんたんで、もし字余りを起こすと、マスノ短歌はもはや「短歌」として読むことができなくなるからである。短歌の中に固有の韻律が感じられるときには、字余りや字足らずの破調は短歌形式にとって障害にはならない。五七五七七を墨守していなくても、韻律が全体をまとめ引き締める役割を果たすので、歌はばらばらに解体することを免れるからである。このとき歌は五七五七七という「外在的制約」によってまとまるのではなく、韻律という「内在的要因」によって凝集する。マスノ短歌にはこの内在的韻律がない。だから五七五七七が絶対に譲ることのできない最後の一線になる。マジノ線のようにここを突破されたら総崩れになるのである。「五七五七七の三十一文字」とは、指を折りながら音数を数える「数合わせ」のパズルではない。古今の名歌に字余り字足らずが多いこともよく知られたことである。

 ここに枡野の短歌を引いたことは本人の不名誉にはならないだろう。枡野は意図的に短歌固有の韻律を消し去って、「渋谷の電光掲示板に映ったときにおもしろい短歌を作りたい」と考えているからである。それはスーパーフラットなキャッチコピーのような短歌である。そのような短歌にとって短歌固有の韻律は、歌の内部に入り込むことを過度にうながすので、すみやかな意味の伝達を阻害し邪魔になるのだろう。

 さて、照屋の短歌に話を戻すと、際立った特徴がふたつある。「存在にたいする理知的懐疑」と、その結果として生まれる「短歌に詠われた世界の構造の複雑さ」である。前者を示しているのは例えば次のような歌である。

 皮膚一枚のうちそと淡く暮れゆくをいづれ空とふいづれを虚とふ

 ここにゐる! ここにゐるとき本当にわたしはかしこにゐないのだらうか

 手、足、首、骨、血潮、いつたいいくつの言葉で出来てゐるか「わたし」は

 けふはもう私は私を早仕舞してさてここに居るのは誰

 〈私〉の内と外は皮膚一枚で区切られているが、その外部と内部のどちらが虚でありどちらが実であるか、これが一首目の問いかけである。仮に私の感じる生々しい実感こそ真と観ずれば、外的世界は流転する現象世界にすぎない。しかし私の実感を外的世界の刺激が投射されたものと見れば、〈私〉は様々な刺激が流れ込む空虚な「場」にすぎなくなる。二首目は現実世界に暮らす〈私〉とは別に、もうひとりの〈私〉がいるかもしれないという。三首目は、〈私〉は実は「言葉」で出来ているのであり、もし言葉を失ったら〈私〉は〈私〉であり続けられるのだろうかという疑問だろう。

 これは言うところの「存在の不安」だろうか。いやそうではあるまい。照屋の短歌においては、〈私〉の実体性や唯一性や一貫性にたいする懐疑が繰り返し提示されているが、そのような疑いを抱く〈私〉は確固として存在しているからである。「疑う〈私〉」の存在は疑えぬとは、まさしくデカルトである。この一点において照屋の存在懐疑は、例えば次のような歌に見られる現代社会における人間存在の希薄感とは一線を画している。

 むらぎもの空白だけが液晶の画面に写り削除するべく  菊池裕

 定常化されてしまったみみなりのむこうもこちらも世界であると  中澤系

 存在にたいする懐疑は「入れ子構造の世界観」を生み出す。例えば次のような歌である。

 夢に鳥となりて夢見る人間(ひと)たりしむかしの夢のうすきまなぶた

 名付くれば消ゆるばかりをなべてなべて在りて在らざる夢の内外(うちそと)

 薄目して夢が私を見つつあらししばしを水に魚となりゐつ

 わが泪もて君をのごはむ水底の魚の睡りに降る雨のごと

 照屋の第一歌集の題名が『夢の岸』であったことからもわかるように、集中に「夢」がよく出て来る。またこれが「私が眠って夢を見ている」というような単純な構造ではない。一首目、「夢のなかで鳥になる」のはよくあることである。しかしこの一首は「夢のなかで鳥になった人間が、その世界でまた夢を見ている」とも読める。また三首目では「私が夢を見る」ではなく、「夢が私を見る」と主客転倒が起きている。四首目で水底で眠る魚はどうやら夢を見ているのだが、その夢のなかでは雨が降っている。魚の外側には水があり、魚の見る夢のなかにも水があるという構造である。私はこの歌を読んで良寛の作と伝えられている次の歌を思い出した。この歌は仏教の宇宙観を表わしているそうだ。

 あわ雪の中に顕ちたる三千大世界(みちおほち)またその中に沫雪ぞ降る

 照屋の歌が単に現実を生きる〈私〉を詠うのではなく、〈私〉が〈私〉であることの懐疑を弾機として入れ子構造の複雑な世界を立ち上げていることが、照屋の歌に奥行きと広がりを与えている。読者は照屋の歌を読むときに、迷路を辿ってちがう世界にふっと出たような、あるいはジェットコースターに乗せられて上下の感覚をなくしたような、酩酊と昂奮を味わうのである。

 まだ言い残したことは多い。歌に詠み込まれた「原口統三」「藤田敏八」「若松孝二」「プロコル・ハルム」などの固有名詞は、時代を共有した者としては懐かしい。また「摂津幸彦うつつは知らね茜さす真昼の空に降る星の声」は、平成8年に49歳の若さで他界した俳人摂津幸彦への挽歌だろう。摂津は次のような秀句を残している。

 南浦和のダリヤを仮のあはれとす
 南国に死して御恩のみなみかぜ
 少年の窓やはらかき枇杷の花

 つい先日も同じく俳人の田中裕明が45歳の若さで鬼籍に入ったのも惜しまれる。俳句をたしなむと長生きするのではなかったろうか。これに限らず『抽象の薔薇』には死者を思う歌が多い。

 死者に死者のつれづれあらむときをりを帽子目深に白日を来る

 八月は死者の見る夢こぼれては陽の揚羽月のおほみずあを

 このごろを死者に親しくわがあればなべてうつくし現し世のこと

 死んでしまつたあなたと忘れてゐた私と風化したのはどちらか 桟橋に腰掛けて

 最後は珍しく大幅な破調の歌だが、死者は記憶のなかで永遠に風化せず、むしろ風化してゆくのは生きている私たちの方だという認識は苦い。しかし死者を詠うときも、照屋は過度の湿っぽさや暗さに流れることがない。句集『月の書架』所収の「いつかカランと骨になる日よ風の秋」という句が示しているように、どこか乾いた思い切りのよさがある。

 最後に言わずもがなのことを一言述べてみたい。見て来たように照屋の歌はいずれもしらべの美しい歌なのだが、例えば加藤治郎の次のような歌を見てどう思うだろうか。

 いま俺は汚い歌が欲しいのだ硝子の屑のかなたの牛舎 『マイ・ロマンサー』

 「定型の波打ち際」に身を浸して、常に短歌形式の拡大を目指してきた加藤が欲する汚い歌というのは、文字通り汚いという意味ではなく、古典和歌から近代短歌の革新を経由しても大きく変わることのなかった短歌的韻律と短歌的抒情からはみ出そうとする歌というほどの意味であろう。定型という形式との格闘は歌人の宿命である。照屋が完成させた自分の韻律豊かな定型短歌を、今後どのように展開してゆくのか、興味のあるところである。

086:2005年1月 第2週 成瀬 有
または、岬の思想

サンチョ・パンサ思ひつつ来て何かかなし
        サンチョ・パンサは降る花見上ぐ

           成瀬有『遊べ、櫻の園へ』

 成瀬有の代表歌となると、どうしてもこの一首を挙げることになる。『短歌WAVE』2003年夏号の特集でも、成瀬はこの歌を代表歌三首のひとつに選んでいる。自分でも気に入っているものと思われる。成瀬が選んだ残りは次の二首である。

 水界の峠は越えよ舞ふ白きひとひらの身のかなしくば、鳥

 思ひみる人のはるけさおもかげはしづけき秋のひかりをまとふ

 上の歌には成瀬の短歌世界を構成するキーワードのひとつ「峠」が含まれており、掲出歌のどこか物憂げな調子から一転して、強い呼びかけを含むトーンの高い歌である。

 さて掲出歌だが、初句六音で三句も六音の増音なのに破調感は余りない。この歌についてよく指摘されるのは、上三句と下二句の切れにおける視点の入れ替わりだろう。上三句ではサンチョ・パンサは思う対象であり、主体はあくまで表現されていない〈私〉である。ところが下二句の主体はいつのまにかサンチョ・パンサにスイッチされている。上三句では〈私〉が「何かかなし」と感じているが、下三句ではあたかも〈私〉がサンチョ・パンサに成り代ったかのように、漠然とした悲しみを抱きながら櫻の花を見ているのである。

 成瀬は1942年(昭和17年)生まれ。國學院大學で岡野弘彦の知遇を得て作歌を初めている。第一歌集『遊べ、櫻の園へ』は 1976年に、角川書店の「新鋭歌人叢書」のうちの一巻として上梓された。ちなみにこの「新鋭歌人叢書」の残りの巻は、小野興二郎『てのひらの闇』、杜沢光一郎『黙唱』、小中英之『わがからんどりえ』、玉井清弘『久露』、辺見じゅん『雪の座』、高野公彦『汽水の光』、下村光男『少年伝』である。篠弘がこの叢書で世に出た歌人たちを、「微視的観念の小世界」と評したことはよく知られている。この表現は、現実や時代と格闘し対峙することなく、自己の内面に沈潜する内向的傾向をさしたものであり、篠は当時30代の若手男性歌人たちの現実への関わりの淡さ、社会性・歴史性の後退、孤独感の深まりに対して警鐘を鳴らしたのである。これに替わって篠が称揚したのは、72年に『森のやうに獣のやうに』でデビューした河野裕子に見られた「体性感覚」である。この「体性感覚」はやがて、80年代に活躍する女性歌人によって歌のなかに肉化されることになる。このあたりから短歌シーンは大きく舵を切り、女性歌人の活躍が目立つようになるのである。

 『遊べ、櫻の園へ』から何首か引用してみよう。

 夜(よ)の雨の気配なぎ来つ樹々ふかくひそみて鳥も息づくらむか

 日の夕べ珈琲の香のたちくるをかみしみにつつ街に入り来(く)も

 このたゆき心は遺(や)らむ歩道橋に眼つぶりて聞く衢(ちまた)のとよみを

 つぶやくは夜(よ)の鳥かわれか生くるなればこの遺(や)りがたきむなしさは来つ

 玻璃窓に雨滴いくすぢもかがよひて鋭(と)く垂るる夜(よ)をひとりわが醒む

 やりどなき心にとほく街の空かがやく塔を残し昏れたり

 集中には「夜」「雨」「窓」「靄」「懈(たゆ)し」「佇む」「見てゐる」といった単語が頻出する。使用された単語の偏りはそのまま、作者成瀬の心の傾きである。これを繋げると〈私〉は、「雨の夜に言いようのない倦怠感を心に抱いて佇み、暗い窓の外に流れる靄を見ている」となるが、これはそのまま成瀬の作品世界の正確な描写になっている。何ゆえのここまで深い倦怠感なのだろうか。もちろん作者の持って生まれた性向もあるだろうが、作品が作られた時代の空気もまたそこに反映しているにちがいない。『遊べ、櫻の園へ』の後記には、「ここ二年間ほどの作品を中心にして、制作時に関係なく新たに構成した」とあるから、1973年頃から二年間の歌作ということになる。この時期、60年代後半に昂揚した学生運動はすでに終息し、72年には連合赤軍浅間山荘事件が起こり世間を震撼させる。73年に第一次石油ショックが起こり、74年には戦後初めて経済成長がマイナスになる。つまり社会主義革命の理想は同志リンチ事件という結末を迎え、信じられる大きな物語は終焉する。それと同時に日本経済が高度成長から不況に転じた時期に当たる。成瀬の歌に漂う深い倦怠感と無力感は、このような時代の空気を背景としていると考えられる。

 『遊べ、櫻の園へ』には、詩人の吉増剛造が解説を寄せている。吉増は成瀬の短歌世界を、「ほとんど地上すれすれのところを飛ぶつばめ」のようであり、葛原妙子や宮柊二のような魔力を発する凸型ではなく、「ゆるやかな凹型の地形を見せている」と評している。詩人の感受性は的確であり、「身を沈める姿にさらに想像的な凹みをもたらす言葉」という評言もまた、成瀬の短歌の傾向をよく言い当てていると言える。

 作歌上の特徴としては、「歌が歌でありうるのは結局その持つ音楽性をおいて他にはない」と後記にあるように、文語定型の韻律を重んじた作歌になっている。前衛短歌は「奴隷の韻律」から逃れるために、句割れ・句跨りによる短歌的韻律の解体を志向したが、成瀬は釈迢空 (折口信夫) から岡野弘彦へと続く系譜につならる歌人なので、前衛短歌の方向性とは逆に、万葉集から綿々と続く短歌的韻律を信じ、それに賭けているのである。現代歌人は多かれ少なかれ前衛短歌の影響を受けているものだが、成瀬はその中にあって数少ない例外と言えるかもしれない。そのためもあって、やや古風な歌という印象を受けるのもまた事実なのである。『遊べ、櫻の園へ』の二年前の1974年には、村木道彦の『天唇』が刊行されており、同じく青年の漠然とした憂愁を詠っても、村木の歌は明確に口語ライトヴァースの方向を向いている。両者を並べて見れば、その歌ことばの質感の違いは歴然とする。

 疲れたるまなこもてみよガラス戸の水一滴のなかのゆうぐれ  村木道彦

 歩めるはこの憂さを遣らはむのみなるか花すさぶ風に吹かれまぎるる  成瀬有

 村木の歌をあらためて読むと、同じ青春の倦怠でも豊かな時代に生きる青年の憂愁を先取りしているようで、80年代になって盛んになるどこか底抜けに明るい口語短歌の出現を予言しているようですらある。これに対して成瀬の倦怠感はもっと内向が深く、臓腑に沈むものがある。

 成瀬の反前衛・反近代の傾向は、第二歌集『流されスワン』(1982年)ではさらに自覚的な形を取る。たとえばこんな風である。

 哭(ね)に泣けるけものながらにわが在(あ)らむきよき初源(はじめ)を常見むがため

 など裂ける目と問ふをとめにたはれしがほとりと朽ちるごと老いし身や

 夜の山のとよみ切れぎれの夢に聞こゆ悲にかなしめるをぐなのこゑか

 『流されスワン』の冒頭は、ヤマトタケルと「ひめ」との対話による歌劇の形を採っており、このような構成においても特異な歌集と言える。題名の「スワン」とは、白鳥に姿を変えたヤマトタケルのことだと知れる。『遊べ、櫻の園へ』では青年の捉えようのない倦怠感を低い韻律で詠った成瀬は、『流されスワン』に至って心を古代に飛ばしてより強靱な韻律を求めようとしたと考えられる。実際、『遊べ、櫻の園へ』の流れるようなつぶやくような韻律は、『流されスワン』ではずっとハイトーンの韻律へと変化している。

 ふかぶかと闇し垂るれば焚く火すらこゑに荒(すさ)びを放たむものを

 吹く雪のくらき明りにそそりたちしづみゆきつついま都市は荒野(あらの)

 時代意志といへるはげしきに会はむと行く夢ぬちの男 怒号(おらび)つつ―嗚呼 

 そして今まではなかった次のような時代や政治を詠った歌も、歌集の終りに配置されている。

 すべもなくもの懈き身を歩まする昭和末期のキホーテひとり

 かの夏の空の青きを言ひ継ぎしのみに果てたるらしも「戦後」は

 かの夏に失ひしものはた得しものを統(す)べ得ずてまつりはてたるはいつ

 残照にほのか明るむ道を来て分たず わが経(ふ)る時代(とき)、戦後以後

 「かの夏」とはもちろん先の大戦が終った夏である。これらの歌を収録した章の始めには、戦後の社会事件が詞書のように列挙されている。成瀬が短歌を時代をで向き合わせようとしたことは明らかだ。篠に「微視的観念の小世界」と評され、時代や現実との関わりの希薄さを批判された内向の世代のひとりである成瀬は、『流されスワン』で遙か古代へと心を通わせると同時に、これらの歌ではっきりと戦後の時代批判を展開している。それは『遊べ、櫻の園へ』では従者としての傍観者サンチョ・パンサの立場にあった自分が、主人公のドン・キホーテへと変化していることからもわかる。

 記紀古代へと心を飛翔させ時代を遡行する精神と、戦後日本の社会と人心の荒廃を批判する精神とは、実はひとつにして不可分であることに注意しよう。成瀬は古代への遡行と呪術的韻律の獲得をめざしたとき、はっきりと反近代の精神として自己を規定した。そして古代の人々の精神のあり様に身を沿わせたとき、戦後日本を逆光のように照射する視座を獲得したのである。

 『遊べ、櫻の園へ』に「岬にて」と題された章がある。そこには次のような歌がすでに見られる。

 みんなみの洋(わた)の青澄む想ひ持ちて醒めをり今宵鳥啼き渡る

 浜木綿の葉むらの蒼く漂へる死にたるもののひくく哭くこゑ

 南洋の海の青さは古代への憧憬であり、海から聞こえて来る死者の声は過去の呼び声である。成瀬が獲得したのは「岬の思想」なのだ。岬は陸の突端にあり海を望む位置にある。岬から振り返れば、海の視点で陸が見える。岬は反近代の拠点として低く屹立するのである。

 最後に成瀬の近作をいくつかあげておこう。角川『短歌』2004年6月号所収の「鎮花祭」と題された連作である。

 咲きそむる並木の桜ほのぼのとかかる世をすら花明かり美(は)し

 あれは確か幼くて聞くあるはずのなき出で立ちを送る声、声

 かの神もこの神も千年を飽くなくてかかる殺戮を許す不思議

 散りいそぐ花ほうほうと人の世は夕べ中空(なかぞら)とろりと澱む

 「出で立ちを送る声」は出征兵士を見送る声、「かかる殺戮」はイラク戦争を踏まえての歌である。ここにはもう『遊べ、櫻の園へ』のやり場のない倦怠感は影も形もない。人の世を見つめる覚めた眼差しがあるだけだ。

085:2005年1月 第1週 井辻朱美
または、結晶世界は時間の腐食を受けないか

きたる世も吹かれておらんコリオリの
        力にひずむ地球の風に

           井辻朱美『コリオリの風』
 コリオリ (Coriolis)とは19世紀のフランスの科学者。物理学ではコリオリの力で知られている。コリオリの力とは、本当は自転運動による回転系である地球を、あたかも静止系であるかのように見なすとき働く見かけ上の力をいう。コリオリの力は地球上のすべての物体に働き、極で最大で赤道ではゼロとなる。うんと長い紐に重りをつけて高い天井から吊し、南北方向に振り子運動をさせると、細長く切ったピザのような振り子面は、横方向に力を受けていないのにゆっくりと回転する。これが「フーコーの振り子」であり、コリオリの力を実際に確かめることのできる装置として知られている。ずっと前にTVでこれを利用したいたずらを見たことがある。アフリカの赤道地帯で、赤道から1m北に水を張った洗面器をおき、水の上に細い木切れを浮かべる。すると木切れはゆっくり回転する。今度は赤道から1m南に洗面器を置くと、木切れは逆方向に回転するというものである。確かにコリオリの力は北半球と南半球では逆方向に働くが、赤道付近ではその力はゼロなので、これはもちろん巧妙ないたずらなのである。掲出歌では来世においてもコリオリの力を受けて風が吹くのだろうと詠まれており、このように地球時間という壮大なスケールで世界を見るその見方が井辻の独壇場である。

 井辻は1955年(昭和30年)生まれ。東京大学理学部で人類学を学んでいるので、もともとは理系の人であり、歌のなかで自然史や古生物学や遺伝学などの用語が頻出するのは、この経歴に由来する。大学院は教養学部の比較文学科に進学しており、私と同様いわゆる「文転」をしていることになる。ちなみに文科系から理科系への転身は稀なため、これと対になるべき「理転」という言葉はない。1978年に「水の中のフリュート」で短歌研究新人賞受賞。「かばん」を活動の場としており、第一歌集『地球追放』以下現在までに5冊の歌集がある。また井辻はファンタジーの作歌・翻訳家としても知られていて、現在は白百合女子大学児童文学科の教員でもある。

 私事で恐縮だが、『コリオリの風』は私が初めて買った歌集なので記憶が鮮明だ。当時私には本の購入年月日を書き込んでおくという習慣があった。書き込みによれば、『コリオリの風』を買ったのは1993年5月11日である。初版が同年の1月11日だから、初版が世に出てちょうど4ケ月目に買い求めたことになる。京都の丸善書店で購入し、その足で三条堺町のイノダコーヒーに行き、レトロ感溢れる店内で香り高いコーヒーを飲みながら読み始めたことをよく覚えている。

 『コリオリの風』は河出書房新社刊行の「〔同時代〕の女性歌集」シリーズの一巻であり、このシリーズでは干場しおり『天使がきらり』、俵万智『かぜのてのひら』、早坂類『風の吹く日にベランダにいる』などが出版されている。「〔同時代〕の女性歌集」と銘打ったのは、明らかに1987年のサラダ現象を意識してのことだろう。そのころは女性歌人による口語短歌が歌壇内部のみならず、広く一般社会の注目を浴びたので、大手出版社でこのような企画が立てられたものと思われる。このような企画自体が今から見れば隔世の感があるが、シリーズに納められた歌集に一貫して流れるライトな感覚も、時代の空気を反映している。

 さて井辻の歌だが、上にもすでに述べたように、空間的には地球を遙かに超えた宇宙空間を舞台とし、時間的にはジュラ紀から現代を通り越して遙か未来にまで拡がるという、実に壮大なスケールで展開する。

 杳(とお)い世のイクチオステガからわれにきらめきて来るDNAの破片 『コリオリの風』

 瑠璃紺の始祖鳥の胸かがやきて宇宙空間に降れるこなゆき

 あかつきの星メアリー西風に吹かれていくたび地球をめぐる

 シリウスをわが星となしたるはじめより帆柱の上に凍れるつらら

 次の歌の舞台は現実の世界ではなく、ファンタジーの王国である。

 われもまた異土の木の卓打ちながら来む世の綺羅のものがたりせむ 『水晶散歩』

 〈嗚呼エアレンデルあかるき天使〉かの世より隔世遺伝のことばをつたふ

 しっくい壁に黒き木骨が食いこみてルーン文字のごときに夕映え

 夏の緒のごとき長髪なびかせて嵐が丘をおりくるたましひ

 管見の限りでは井辻の短歌が短歌界で取り上げられ批評されることは少ないが、それは結社系歌人ではなく同人誌に拠っているからとか、ファンタジー作家と二足のわらじを履いているからなどというつまらない理由からではなく、井辻の短歌が批評しにくいからだろう。岡井隆は『現代百人一首』(朝日出版社)で井辻を取り上げて、その歌の近づきにくさは「ファンタジー小説とよく似た自閉的な完結感」から来ると断じている。確かにその通りで、井辻の作る歌の世界は作者の〈私〉からも読者の私からも遠い白鳥座のかなたにあり、美術館の壁に飾られた一幅の絵画を遠くから鑑賞するごとくに味わうしかなく、読者の側から歌の中に感情移入したり、歌の中に作者の〈私〉を見いだして共感したりという読み方が不可能なのである。

 たとえば次のような近代短歌の文脈内で作られた歌と較べてみれば、そのちがいは一目瞭然である。

 あせるごと友は娶りき背より射す光に傘の内あらはなり  小野茂樹

 しぐれ降る夜半に思へば地球といふわが棲む蒼き水球かなし  島田修二


 小野の歌には、自分より先に結婚した友人を前にしての心の動揺と、傘の内すなわち心の中が露わになる含羞を自覚する〈私〉が確かにいて、読者は反発するにせよ共感するにせよ、歌に顕れた〈私〉との心理的距離を測らざるをえない。島田の歌はもっと直接的訴えを含んでいて、しぐれの降りしきる夜半の孤独な物思いから浮かび上がるのは暗い想念に沈む中年の〈私〉である。このように「近代短歌は自己の表現である」というテーゼが有効な歌においては、〈私〉の位置取りや世界に対する距離や、それを短歌に組み上げてゆく技法などが、短歌的批評の対象となる。しかしすでに述べたように、井辻の歌にはこのような短歌と〈私〉との関係性が不在であるため、近代短歌のテーゼを前提とした批評が不可能なのである。

 このことは井辻の歌の作り方にも反映している。一例をあげると、「いづくなるカカオの色の手のために水よりのぼる蓮の王笏」に代表されるように、上句と下句とがなめらかに連続して一首をなしており、上句と下句とが対立し反照し合うということがない。短歌の語法が「問と答の合わせ鏡」(永田和宏)であり、「事物の叙述と心情の叙述の対応の中から世界を一回性の意味によって屹立させる」(三枝昂之)ことを目標とするのなら、歌をふたつの区分する「切れ」がなくてはならない。しかるに井辻の歌には上に見たように「切れ」がなく、一首全体があたかも一幅の絵であるかのように我々の前に提示されている。このため〈私〉という隘路を辿って歌の中に入り込むことができず、「近づきにくい」という印象を与えるのだろう。入れる人はスッと入れるのだろうが、入れない人は永遠に接近を拒まれる。そのような構造になっていると思われる。

 もうひとつ歌集を通読して気づくのは、井辻の作品世界に変化がないことである。第一歌集『地球追放』から第五歌集『水晶散歩』に至るまで、次に挙げた抽出歌が示しているように、実に一貫していて揺るぎがない。

 宇宙船に裂かるる風のくらき色しづかに機械(メカ)はうたひつつつあり 『地球追放』

 竜骨という名なつかしいずれの世に船と呼ばれて海にかえらむ     『水族』

 水球にただよう子エビも水草もわたくしにいたるみちすじであった   『吟遊詩人』

 アキテーヌはまだ見ぬ故郷いくたびか森ふきぬけし藍のたましい    『コリオリの風』

 ゆたゆたと泡盛りあがるグリーンティー宇宙樹より来るみどりの時間  『水晶散歩』

歌人の歩みは歌集ごとに異なった趣を見せるのがふつうであり、なかには小池光のように初期歌集の世界を自分の手で壊してしまい、その瓦礫のなかから新たな世界を拓こうとする人もいる。井辻の作品世界に目立った変化が訪れないのは、作者が現実世界の住人であるよりは、ファンタジーの世界の住人であるためだろう。ファンタジーの世界は想像力が作り出した世界であり、鉱物結晶のように硬く閉ざされていて経年変化せず劣化することもない。想像力は時間の腐食を受けないのだ。

 しかし、と私は考えてしまう。ダイヤモンドの結晶のように腐食劣化しないということは、それ以上深化することもないということだ。私たちは現実の出来事に出会い傷つき、別れや挫折を経験して、たましいの奥行きが深くなる。その深化は短歌に反映されるはずだ。また、縁起でもないことを言うようで恐縮だが、結晶世界にもやがては死の影がさす。古代の箴言の言うごとく「われアルカディアにもあり」である。そのときもなお井辻は〈私〉の不在の歌を作り続けるのだろうか。井辻が次のような絶唱を作るときは訪れるのだろうか。

 今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅  小中英之

 飲むみづの身にあまくしてたましひはいづくみ山のいづみさまよふ  上田三四二

 生きがたき此の生の果てに桃植ゑて死も明かうせむそのはなざかり  岡井 隆

 いや、それまでは井辻の繰り広げる硬質であくまで透明なかなたの世界を楽しんでおくことにしよう。最後に井辻の想像力がツボにはまったときに生まれる美しい歌をいくつかあげておこう。

 大唇犀(だいしんさい)しずかに足を曲げるとき松花江(スンガリ)の水つめたかりけり

 ビッグバンの光ほろほろ海に降りぼくらは終わりだけを待っていた

 一本の樹木が水を吸い上げて空となるべく鳴りはじめたり

 中国の茶器の白さが浮かぶ闇ここ出でていづれの煉獄の門

 オルゴールがかなでるときはどの曲もたましひばかりの終(つひ)のかがやき

084:2004年12月 第5週 江畑實とレモンの歌
または、青春の光芒はレモンの果皮の輝きのなかに

下宿までいだく袋の底にして
     發火點いま過ぎたり檸檬

         江畑 實『檸檬列島』
 江畑の短歌を論じるとき、歌集題にもなったこの歌をどうしても外すわけにはいくまい。季刊現代短歌『雁』55号の「わたしの代表歌」でも、歌人本人がこの一首を自らの代表歌としている。この歌はもちろん、梶井基次郎が大正12年に発表した短編小説『檸檬』の本歌取りである。小説の主人公は、京都は寺町通りに現在も営業を続ける果実店八百卯で檸檬一顆を購い、当時は寺町通りにあった丸善の本の上に密かに置き、立ち去った後にその爆発を夢想するという小説である。江畑の歌はその骨格と精神を継承してはいるが、発火点を過ぎた時限爆弾のように抱える檸檬は爆発せず、若者の不全感が色濃くなっている。塚本邦雄はこの歌を『現代百歌園』で取り上げて、「いつ突然爆発して、彼を、あるいは世界を変貌させるか、あるいは半永久的に、「不発」のまま、可能性を保留し続けるか、予断を許さない」と書いた。それはこの歌に込められた青春の夢想と鬱屈の行く先のことであると同時に、第一歌集『檸檬列島』でデビューした若き歌人江畑の未来のことでもあっただろう。

 江畑は1954年(昭和29年)生まれ。1983年(昭和58年)に「血統樹林」で角川短歌賞を受賞し、第一歌集『檸檬列島』はその翌年の刊行である。巻末の後記によれば、作歌を始めた23歳から29歳までの短歌を収録しているという。もともと詩を書いていたが、塚本邦雄の前衛短歌に傾倒し短歌を作り始めたようだ。高安国世の主宰する「塔」に所属したのち、1986年の歌誌「玲瓏」創刊から6年間編集長を務めている。「塔」は遠くアララギの流れをくむ歌派なので、「塔」から「玲瓏」へという経歴はちょっと不思議な気もする。

 塚本の短歌に傾倒して作歌を始めたとあって、『檸檬列島』が圧倒的な塚本の影響下にあるのは当然のことである。例えば次のような歌がある。

 うつむきし瞬時踏繪のイエス見ゆ色盲檢査紙の極彩に

 冩さるるときはカメラの暗闇に笑みつつわれの逆磔

 公園の眞晝縄跳びせる圓のなかに老婆とならむ少女は

 一首目の「踏繪」「色盲檢査紙」や、二首目の「逆磔」はいかにも塚本好みの語彙であり、三首目は言うまでもなく「少女死するまで炎天の縄跳びのみづからの圓驅けぬけられぬ」と呼応している。縄跳びの円から出られない少女は、やがて老婆となるのであろう。塚本という巨人の発する磁場はかくも強力で、そばに近づく人を自らの磁性に染め上げるのだ。考えて見れば怖ろしいことである。塚本に引き寄せられた人の永遠の課題は、その引力圏からいかにして脱出するかである。

 この歌集は青春歌集であり、いかにも青春の光と影の揺曳する次のような歌がある。

 かがまりて澤の水飮むわかものの背に夭折の翼透き見ゆ

 友の名を呼びあやまりて眞二つに切らるる林檎ほどの含羞

 霜月の風にみだるる韻律をもてわれは詩の友をうらぎる

 ほほゑみに死の影させり青年がふいに繪日傘さしかけられて

 夭折へのほのかな憧れ、同世代の友人との微妙な関係、死への畏れと表裏一体をなす憧憬、これらは誰しも青春期に通過する心の波風であり、こういう主題が文語旧字体の端正な定型で詠われるとき、あらためて短歌という韻文は青春と相性がよい形式であることを痛感する。青春の光芒が一瞬のことであればこそ、このような歌はその短い時期にしか作ることができない歌であり、後に残されたときにもう手の届かない光を放つ。失われたものはなべて美しい。錯覚もまた青春の一属性として許される。江畑が第一歌集を上梓した80年代前半は、まだ「青春歌」という形容が実質を伴って生きていた時代なのだ。現代の若い歌人たちは、このような「青春歌」を作ることができるだろうか。この問は言わずと知れた修辞的疑問文であり、答は明らかである。

 江畑は塚本から句割れ・句跨りの前衛短歌語法を受け継いだに留まらず、主題の選択措定においても前衛短歌の手法を採用している。

 消息立ちし父ありいまも薄氷(うすらひ)をわたるあらうら熱きたびびと

 春晝の母の逐電まないたに水母(くらげ)がなかばまできざまれて

 一首めの「消息立ちし父」を必ずしも〈私〉の父と解釈する必要はないが、仮にそう取ったとしても作者自身の父親が蒸発したわけではない。二首目の逐電した母についても同じことである。これは寺山修司が当時の歌壇からさんざん批判された〈虚構の私〉の措定による「私性の拡大」の一例であり、この手法により江畑の主題選択は矮小化された生活者の〈私〉の視界に映るものに留まらず、想像・観念の世界に遊んで自在である。

 終末へ世界は熟るる鮮烈に割れて石榴のごとし地球儀

 食卓の銀器するどしわが父は転生せしや冬のローマに

 江畑の拡大された〈私〉が万物形象にいかなるものを視て、歌を立ち上げるか。それをよく示しているのが次のような歌だと思われる。

 摩滅せしきのふの音盤(デイスク)厭きはててただにめぐれる渦に薔薇おく

 鋭きひかり射し入る眞夏わが部屋の死假面(デス・マスク)一塊の殘雪

 炎天下よりさしのぞく氷柱の心(しん)に幽閉されゐたる百合

 一首目、レコードに聴き飽きるというのは日常の出来事だが、江畑は空しく回転するレコードに薔薇を置くのである。もちろんこれは現実の薔薇ではなく、中井英夫が「虚空を一閃して薔薇を掴み出す」と言った薔薇であり、これが江畑の美学の象徴と言ってよい。これを「キザだ」「わざとらしい」と感じるか、それとも「カッコいい」と感じるかで感性が二種類に分かれる。現代の短歌は日常化傾向が著しいので、前者の受け取りかたをする方が多いかもしれない。二首目、真夏の部屋に残雪があるというのもいかにも非現実的な設定だが、それを自分のデス・マスクと捉える眼差しに、目に見える日常現実を超える幻視のまなざしがある。三首目の氷柱の百合もまた同様であり、豪華な結婚披露宴に飾られそうなオブジェだが、もちろん江畑が詠んでいるのは非在の百合なのである。

 生活者の平板な現実から歌の世界に飛翔するにはどうすればよいか。江畑が後記で記しているように、それは「言葉のもつ力」による他はないと感じるところに、「コトバ派」歌人の面目がある。言葉で世界を立ち上げるには、剛腕の修辞が必要である。江畑が、そして前衛短歌の多くの歌人が拠ったのは、修辞学で言うところの撞着語法(oxymoron オクシモロン) である。撞着語法とは修辞学の技法のひとつで、「熱い氷」「輝く闇」のように、語義的に相反する語を組み合わせることをいう。

 天の底群青に澄み若武者の凧がはらめる寒の熱風

 舌頭(ぜつとう)に炎(ほむら)だちたり削り氷(ひ)のにがみ清少納言に捧ぐ

 沸點の水の眞中にひえびえとニクロム線の眞紅の螺旋

 一首目の「寒の熱風」、二首目の「炎だち」と「氷」、三首目の「沸點の水」と「ひえびえと」がこれに相当する。撞着語法は俳句でいう「二物衝撃」とよく似た効果を生む。「熱い氷」や「輝く闇」は語義矛盾であり、この世に存在しないものである。存在しえないものを敢て言い立てるのは、そこに現実には有り得ない虚構世界を浮上させるために他ならない。「炎だつ氷」はその内包する矛盾を弾機として、現実世界の対象を指向する記号であることを停止し、虚空間を指し示す記号へと転化するのである。こうして立ち上げられた虚空間は、作者の美学と観念を存分に投影する暗幕として働くのである。

 江畑はその後、第二歌集『梨の形の詩学』(1988年)、第三歌集『デッド・フォーカス』(1998年)を上梓しており、近々「セレクション歌人」シリーズから「江畑實集」が刊行予定である。私は古書店で『檸檬列島』を見つけて読んだだけで、第二歌集・第三歌集は未読であるので、第一歌集以後の江畑の歩みを知らない。

 『現代短歌200人20首』(邑書林)に江畑は、すべて未収録の歌を寄せている。ちなみに村木道彦も同じ態度を取った。そこには自己模倣に陥るまいとする果敢な試みが看取される。

 高層のビジネス街と呼ばれゐし廃墟のあたり蜃気楼顕つ

 ゆふぞらに思ひゑがけりきらきらとひとを轢くうつくしき車輪

 二十一世紀廃品処理場のすみに累(かさ)なるクローンの死屍

 一見してわかるように、第一歌集に濃厚だった耽美的傾向はずいぶん薄らいでいる。どうやらこの世界は自己の美学だけで塗りつぶすには、あまりに世紀末的様相を深めているようでもある。また角川『短歌』2004年10月号の特集「角川短歌賞50年のすべて」には、「時の泡」と題した次のような近作を寄せている。テーマは三島由紀夫事件と仏教にいう唯識のようだが、私にはよくわからない。

 逡巡の足許くきやかに映す月のいづこに豊饒の海

 血まなこに殿上人を競はせし皇位 めくらむばかりの虚構

 壮大なる虚無の肌(はだへ)に触れさしめ唯識は人を行為へ誘(おび)く

 さて、「レモンの歌」である。江畑は掲出歌以外にも、次のようなレモンの歌を詠んでいる。

  陽溜りに重ねし書物そこに置くわが曝涼の不発の檸檬

  檸檬切るしづくたちまち傷に沁む指より生命(いのち)かけめぐる戀

 レモンは果物のなかでもとりわけ象徴性が高い。その紡錘形の形状、手の中に収まる大きさ、ポスターカラーで塗ったような鮮やかな黄色、強い香気と鮮烈な酸味などがその理由であり、また昔から輸入果物である点もモダンな雰囲気を醸し出している。小池光は『現代歌まくら』(五柳書院)の「レモン」の項では、次の歌を引用している。

 泥濘にレモン沈める夕ぐれの心のなかに塔は直(すぐ)立つ  百々登美子

 催涙ガス避けんと秘かに持ち来たるレモンが胸で不意に匂えり  道浦母都子

 竪穴に落ちたのか俺が穴なのかレモンの皮をここに捨てるな  吉川宏志

 百々の歌では、泥濘に沈んでもその鮮やかな色を失わないレモンが、汚れることのないものの象徴である。その昔、機動隊の催涙ガスを浴びたとき、レモン汁が効果的だと信じられていた。たとえそれが俗信に過ぎないとしても、レモンの青春性は学生運動に相応しい小道具だったのである。吉川の歌では、レモンの皮が突然頭上から降って来た情景が詠まれている。とぼけたような諧謔味があると同時に、深遠な問も潜んでいそうな奇妙な味わいの歌である。この他にもレモンは多く歌に詠まれている。

 檸檬搾り終えんとしつつ、轟きてちかき戦前・遙けき戦後  岡井隆

 わが指の触れしレモンはいく時もなくて腐りぬ円卓のうえ  佐伯裕子

 あばかれてゆくかも知れぬ愛ゆえにレモン一顆を掌にのせており  江田浩司

 早春のレモンに深くナイフ立つるをとめよ素晴らしき人生を得よ  葛原妙子

 一顆のレモン滴るを受くる玻璃の皿てのひらにあるは薄ら氷に似る  同

 裁られたるレモンの香り明るめばしばらくののち戻り来る夜  横山未来子

 あるときは明るさと青春性の象徴であり、またあるときは悔恨と腐食の象徴である。このようにさまざまな意味を読み込むことができるという点が、まさにレモンの象徴性の高さの所以なのだろう。ちなみにレモンは南イタリアに行くと街路樹になっていて、日本のものより二回りほど大きなゴツゴツした実がその辺にいくらでも実っている。ヨーロッパ人にとってレモンは、太陽と南国と情熱の代名詞である。短歌においてあまりそのような意味づけが見られないのは、やはり日本人にとって実っているところを見たことのない輸入果物であり、その由来ではなく視覚・味覚の印象のみが鮮烈に訴えかけたからだろう。

083:2004年12月 第4週 大口玲子
または、助走なしの全力疾走短歌は傷ついて

夕映えに逆らふごとく耐へゐるか
  君の眼に棲む水鶏(くひな)を放て

         大口玲子『海量』
 歌人の輩出数において早稲田大学は群を抜いている。篠弘、藤原龍一郎福島泰樹、三枝昂之、小島ゆかり、俵万智など数え切れないほどである。大口もまた早稲田大学文学部に入学し、佐佐木幸綱の「心の花」に入会した歌人である。1998年に「ナショナリズムの夕立」で角川短歌賞を受賞、第一歌集『海量』で現代歌人協会賞を受賞するという華々しいデビューを果たしている。大口は1969年生まれだから、角川短歌賞受賞はまだ19歳の大学在学中である。続く第二歌集『東北』では、第一回前川佐美雄賞を受賞している。ちなみに『海量』は「ハイリャン」と読み、中国語で大酒飲みのことを言う。早稲田大学卒業後、日本語教師になり、中国に赴任した経験から出た題名である。これまたちなみに作者の名前は「おおくち りょうこ」と読むのが正しい。

 『海量』の解説で佐佐木幸綱が書いていることだが、大口は高校時代剣道少女であり、早稲田では「思惟の森の会」という農業経験を通じて農家の人たちと交流するサークルの熱心なメンバーであったという。もともとアウトドア派なのである。『海量』にはこのような自然と人間との触れ合いから生まれた歌が多く見られ、それが大口の短歌の特色ともなっていることは、誰しも認めるところであろう。

 精神の青葉若葉を揺らしつつ山頂までの下見を終へつ

 チェーンソーでいつしんに樹木切りながら我は快楽の底にしゐたり

 下草を刈りすすむ人の広き背をときどき隠す木々の骨格

 中国で日本語教師として働いていたときや、外国から来た留学生に日本語を教えるときの心の屈折を詠んだ歌もまた、大口の個性を示す歌として引用されることが多い。

 起立して中国国歌を聞きおれば剥かれゆく蜜柑のごとき我かも

 答へられぬ学生に深く立ち入れば星選ぶやうに助詞選びをり

 日本語で君の心を区切りたればその曖昧さを君は指弾す

 二ヶ月だけ若い恋人との相聞も、若く傷つきやすい青春の恋愛歌としての清新さに満ちている。恋人はどうやら新聞記者らしい。

 たつた二か月若かりき君は若きまま今も我が名を呼び捨てにして

 かぎりなく遠くなりゆくものとして喉仏ふるふさまを見てをり

 くちびるを押し開かるるごと苦し雨夜ひとりの名前を呼べば

 しかし大口の個性の強さはむしろ飲食と飲酒の歌にある。私は次のような歌をとてもおもしろく読んだ。

 南湖の量、否、海の量の酒を飲み語らむと逢ふ夕暮れはよし

 空腹を抱へ山より戻り来しゆふべゆふべのどんぶり飯よ

 言葉より深く信ずるスヂ肉をながくながく煮て犬とわけ合ふ

 作者の名を隠して提示したら、誰も女性歌人の歌とは思わないだろう。大口の個性はこのように、手弱女振りとか纏綿たる情緒といった、伝統的に女歌の特色とされて来た枠組みを自在に跳び越えて、自己と現実の向き合う様を大胆かつ細心に詠うところにあると思われる。

 ところが私は第一歌集『海量』をおもしろく読みながらも、心のどこかで解決のつかないような居心地の悪さというか、不安定感を感じていた。ネット検索で前川佐美雄賞の選考評を見つけ、審査員のひとり三枝昂之の「助走なしの全力疾走」という大口評を読んだとき、なるほどと腑に落ちるところがあった。大口の短歌は、方法論なしの全力疾走体当たりなのである。ここで方法論というのは、作歌にあたっての技術的方法論という意味もあるが、むしろ〈私〉と短歌と現実のあいだの距離の取り方という、生き方にかかわる部分が大きい。

 やめてゆく学生の前で鳥のごとく我は日本語を啄み泣けり

 炎昼に母語は汗して立つものを樹皮剥ぐごとき剥奪思ふ

 「助走なしの全力疾走」に由来する振幅の大きさがこのような歌を生み出すのだが、トレーナーの指導なしで練習しすぎる高校野球の投手が肩を壊しがちなように、方法論のない全力疾走は体のどこかに無理が来る危険性を孕んでいる。

 その予感は第二歌集『東北』で不幸にも的中する。大口は結婚して東北に移り住むのだが、抑うつ状態を発症して入院を繰り返すようになる。歌集前半には新天地に住む新しい経験を詠んだ歌が並んでいるが、次第に歌に孤独の影が深くなるのである。

 こともなげに桜花を散らす風に吹かれ孤独の砂ぶくろわれにあり

 約束を一つも持たず人と居てわれはもうじき三十歳になる

 分析し尽くされわが精神は秋青空に透きて見えざる

この歌集の圧巻は何と言っても、抑うつ状態で入院中に詠んだとおぼしき次のような歌を収めた連作である。

 夜ごと泣く妻とはなりて 東京が怖い。短歌が、点滴が怖い

 はさみ、シェーパー取り上げられてもまだ我は刃物秘め持つ気がしてならず

 ミカちやんが突然壊れガラス割るかくもあつけなく人は壊るる

 遠山光栄「脳病院にて」どのやうに歌書き留めてゐしかと思ふ

 やすやすと我は壊れずマットレスと便器だけの保護室を見学す

 短歌技法という観点から見れば、直截でストレートに過ぎる歌がある。第一首など短歌になっていない叫びのようなものである。これらの歌において、大口の〈私〉はひりひりと剥き出しの肌でまさに現実と肉薄していると言えるだろう。しかし、こういう歌は読む方もつらい。

 『東北』後半にはあまり広がりのない歌が多い。好きな歌につける付箋は『海量』後半にはたくさん付いたが、『東北』後半に至って少なくなるのは読んでいて淋しい。『海量』巻末の連作「ほたる放生」や、『東北』の「ヒロシマ私の恋人」に見られるような、主題意識と方法論の明確な歌においても大口は才を見せているが、「助走なしの全力疾走」だけでなく、このような方向をもう少し意識的に押し進めていればと考えてしまうのである。

 つらぬきて沢流るると思ふまで重ねたる胸に螢をつぶす

 夏至の日の思ひ撓めりほたるほたる螢の水をゆふべ飲みにき

 惜しみつつ振り落としたるほたる地に息づくやうに明滅しをり

 区別できぬふたついのちと思ふまで抱かるるたび灰にまみれて

 水は死者を映せるかいま簡潔に肉の輪郭不確かに浮く

 真夏汗して人を抱き敷き立秋の向かうに燃ゆる都市の名を呼ぶ

082:2004年12月 第3週 吉岡生夫
または、ユーモアを錫杖として中年を生きる草食獣

ワン・タッチの傘をひろげてゆかむかな
        男の花道には遠けれど

        吉岡生夫『勇怯篇 草食獣・そのIII
 傘を片手でひと振りして広げ、折からの雨にかざして退場する。背で泣いてる唐獅子牡丹。歌舞伎にもこういうシーンはありそうだが、この場合は東映ヤクザ映画の高倉健かもしれない。傘はもちろん蛇の目傘で、表は真っ赤に塗られているのがよい。男のカッコよさと孤独が滲み出るシーンで、観客はここでグッとくる。しかし掲出歌はそんなカッコよさからはほど遠く、広げる傘はスーパーで千円で売られているワン・タッチ傘である。高倉健の男の花道がカッコよければよいほど、それとはほど遠い中年男の自分の現実との落差が際立つ。掲出歌はその落差をかすかなユーモアをまぶしつつ冷静に見つめている。昂揚して詠い上げるような調子はどこにもない。これが吉岡の歌の基本的なトーンである。

 吉岡生夫は1951年 (昭和26年) 生まれで「短歌人」に所属。新人賞などの華々しい受賞歴はなく、私は邑書林の「セレクション歌人」シリーズで初めてその名を知り歌を読んだ。「セレクション歌人」は藤原龍一郎と谷岡亜紀の責任編集で、もしこの二人がその任になければ吉岡に一巻が当てられることはなかったかも知れない。谷岡は1959年生まれで今年45歳、藤原は1952年生まれで52歳、吉岡は53歳である。みんな立派な中年男だ。青春の抒情は短歌のしらべに載せやすいが、髪が薄くなり腹の出た中年男が短歌を作るのはなかなか難しい。もうキラキラした青春は詠えないが、かといって老境の枯淡からはほど遠い。マイホームの住宅ローンは背中に重く、職場では中間管理職という板挟みの立場である。作り出された短歌には日常の疲労感と人生の苦みが添加される。イチゴのショートケーキが大好きなお子さまにはその味わいがまだわからない大人の味の短歌となる。

 第一歌集『草食獣』、第二歌集『続 草食獣』、第三歌集『勇怯篇 草食獣・そのIII』、第四歌集『草食獣 第四篇』、第五歌集『草食獣 第五篇』と並べればわかるように、すべての歌集の題名は「草食獣」となっていて、これはいささか異例なことだろう。この題名の由来は次の歌に明らかである。

 ガリヴァを絵本でよみし頃おもひ草食人種といふを念(おも)へり

 草食人種とは、スウィフトの『ガリバー旅行記』に登場する馬の姿をした人種フイヌムのことである。『草食獣』という歌集題は吉岡本人の発案ではなく、「短歌人」の先輩歌人である小池光がとある酒席で示唆したものだという。「草食人種」は動物を殺して食べ血を流すことのない平和的な種という、肯定的な意味合いを帯びて使われている。しかし、命名の理由はそれだけではなく、作者本人があとがきで次のように書いている。

「加えて、自らの手を血で汚すことのなかった潔癖さと引き換えに、なんら、この現実世界とかかわりをもたなかったのだ、という、いわば緩衝地帯に身をおいた青春のくやしさを記念して、とでもいっておいた方が妥当なようである」

 第一歌集刊行時に28歳だった吉岡が抱いた「緩衝地帯に身をおいた青春のくやしさ」とは何だったのだろうか。吉岡の父は警察官であり、鑑識業務に従事していて1971年に殉職している。

 公務死をとげて勝ちたる亡父のためわれのてにある一輪の菊

 ステージの父の遺影のまつられてあるところまで行かねばならぬ

 父とわが呼びたる骨をひろはむとするに殺めしごとく崩れつ

 警官を犬と呼びたる長髪の友の弁舌さはやかなりし

 1960年代の後半から全国に吹き荒れた学生運動の嵐は、同時代に青春を送った若者にさまざまな形で刻印を残した。この時代に警察官を父親に持つというのは、今からは想像できないほど複雑な立場に身を置くことになる。ヘルメットを被りゲバ棒を振るう活動学生は一部に限られてはいても、若者一般の心情は多かれ少なかれ反体制的であり、親の敵のように髪を長くしていた。そんな若者にとって警察官は「権力の走狗」であり、まっさきに指弾攻撃されるべきものである。吉岡は学生運動に参加することも、かといって父の側に立つこともできなかった。だから父の死に直面して「自ら殺めしごとく」という感情を抱かねばならなかったのだろう。それが「緩衝地帯に身をおいた青春のくやしさ」である。この体験はおそらく吉岡に深く刻印され、吉岡が世界と関わるやり方を決定づけたと思われる。それは何かを声高に主張することなく、人畜無害な草食獣としてひっそりと市井に暮らすという道である。

 略歴によれば高校一年生の頃から短歌を作り始め、あちこちに投稿するようになったとある。おそらく初期の作と思われる次のような作品には、年齢相応の青春の抒情が漲っている。

 ちちははのいのりのごときうみなりのなかをゆくとき血こそかがやけ

 奔放に生きたきわれを捨てがたし雨中に海をみてもどるとき

 ああひとはうまれながらのかなしみをもつゆゑくらくほほゑみにけり

 ああわれをまきこむやうな音ののちあがる遮断機のうへの空

 村木道彦ばりのひらかなを多用した童謡を思わせる語法である。四首目に揺曳する死の予感もまた青年に特有のものであり、青春時代には死すらも憧憬や抒情の対象になる。しかし、吉岡の真骨頂はこのようなトーンにあるのではない。

 きみよそのみどりご抱きて撮られゐる青葉地獄のなかの一齣

 定年の日まで勤める庁舎かとみあげて夜の襟を高くす

 万歳の腕のかたちをかなしめり頭よりセーター脱ぐときの闇

 頸のみをうつして足れりネクタイを朝ごと締める柱の鏡

 一首目の歌を『現代百歌園』で採り上げた塚本邦雄は、「きみ よそのみどりご」と区切る読みの可能性に言及し、ぞっとするような「劇」の存在を指摘したが、これはうがちすぎかもしれない。二首目で20代にして定年を思うとは、いささか老成しすぎている。三首目、万歳は降伏の姿勢であり、セーターに頭をすっぽりとくるまれた姿勢に降伏と闇を見る視点が注目される。四首目には後年ますます顕在化する、生活の細部に注目する吉岡の視線が顕著である。

 なんといっても吉岡独自の個性が確立したのは第三歌集『勇怯篇 草食獣・そのIII』で、「セレクション歌人」に完本収録されていることもその証左とみてよい。

 さてもをどりの名手といはむ鉄板のお好み焼きにふる花がつを

 妻と子と母がすわれば空をとぶかたちとなりぬ電気カーペット

 印影の徐徐に大きく太くなりすなはち件の決済終はる

 負けてこそヒーローならむふりかぶるときの江川の耳はピクルス

 神のごとわれは立ちたり円型の蛍光燈を頭にいただきて

 一首目と二首目にはユーモアがただよう。吉岡は「セレクション歌人」に収録された長塚節についての文章のなかで長塚の滑稽趣味を指摘し、それが後世に評価されなかったことを残念だとしている。単なる生活詠に終らせず短歌を歌として成立させ、しかも青春の昂揚や抒情からは遠い中年という人生の砂漠のような地点でいかにして歌のしらべを響かせるかという困難な課題に直面して、吉岡が出した答がここにある。ひとつは「生活の些事をすくいあげること」であり、もうひとつはその些事の観察を提示するやり方における「ユーモア」である。三首目は作者の勤務していた市役所の風景であるが、役職の下の者は印鑑が小さく、上級職になるほど大きくなる印鑑が決裁書にずらりと並ぶ。当たり前といえば当たり前なのだが、その事実が拾い上げられてこのように詠われると、そこにユーモアと若干の皮肉が生じる。それは四首目で江川投手の大きな耳をピクルスに譬えるときも同じである。五首目は居間の円形の蛍光灯を取り替えている風景だが、蛍光灯を頭上にかざす自分を神のようだとする表現は、最初にあげた掲出歌の発想と似たところがあるが、掲出歌とちがって「男の花道には遠けれど」という感慨が消去されている分だけ、吉岡の作歌態度が深化したことを示している。

 このように「生活の些事をすくいあげる」眼差しは、ときに次のような歌を生み出す。

 消しゴムのある鉛筆は書きて消し書きては消してまた書くものぞ

 この歌は、「ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く」という奥村晃作の「ただごと歌」と、その発想と語法において極めて近い地点にいると言ってよい。

 しかし吉岡はただ発想のおもしろさのみによってこのような歌を作っているのではないだろう。「一人の女の運命を狂はせしことさへなくてバスに揺らるる」のような歌の影に揺曳する慚愧の想い、「殺意などふともわきくる中年の背中がありぬ冬のホームに」のような歌から滲み出る凶悪な感情を内心に感じながら押し殺しつつ、変わり映えのしない中年の日常を生きているのである。そんななかから生み出される次のような歌には、きらりと光って私たちの生を照らす何かが感じられるのである。

 その中の闇もろともに流れゆく空缶たのし浮きて沈みて

 ロビンソン・クルーソーならむうつぶせに朝をめざめて渚のごとし

 幽界の汀すなはち電車くるときホームに散る波の花


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081:2004年12月 第2週 横山未来子
または、反射率と屈折率の生み出す硬質の抒情

胸もとに水の反照うけて立つ
     きみの四囲より啓(ひら)かるる夏

        横山未来子『樹下のひとりの眠りのために』
 「きみ」と呼ばれている男は、川のほとりに立っているのだろう。日光が川面に照り映えて、その反照が男の胸を明るく照らしている。男は〈私〉の憧れの人である。男の周囲が周りの風景から切り取られたかのように鮮やかに私の目に映る。そうして夏が始まると〈私〉が感じているのは、もちろん〈私〉の恋のゆえである。男に寄せる〈私〉の想いが、夏の日差しと水の匂いを背景として際立つ相聞歌である。

 横山は1972年生まれで「心の花」所属。1996年(平成8年)に掲出歌を含む「啓かるる夏」で短歌研究新人賞を受賞している。ちなみに、前年1995年の受賞は田中槐、1994年は松村由利子、1993年は寺井淳であり、陸続と才能が世に出た頃だったことがわかる。ちなみに目黒哲朗が一年年上で1971年生まれ、佐藤真由美・佐藤りえ・玲はる名が1973年生まれで少し年下になる。この世代は『サラダ記念日』が出版された1987年に15歳前後だから、俵万智によって始めて短歌と出会った世代と言ってもよい。このために口語短歌が、なかでも会話体短歌が当たり前になるのがこの世代からなのだが、横山はそんな中にあってひとり我が道を行くように端正な文語律の歌を作り続けている。その歌風は古典的と言ってもよく、硬質の抒情と透明感溢れる歌の世界は、同世代のなかで際立っている。

 若い女性の例に漏れず、横山の短歌のモチーフの中心は相聞なのだが、そのモチーフを歌にするとき目立つのは、言葉の選択の細やかさと、自分を見つめる眼差しの確かさである。言葉の選択の細やかさは、横山の言語感覚の鋭さを証明しており、自分を見つめる眼差しの確かさは、年齢に似合わない老成と言ってもよい世界観に発している。歌集あとがきによると、車椅子での生活をしているとあり、横山の置かれた境遇が大人びた世界観を生み出したのかも知れない。「モラトリアム」と言われ「ピーターパン症候群」と呼ばれ、大人になれない若者が増加した現代にあって、これはなかなかに希有なことである。

 横山の短歌世界を言い表すのに「反射率と屈折率の短歌」という表現を使ってみたい。それはひとつには、第一歌集『樹下のひとりの眠りのために』、第二歌集『水をひらく手』を通じて、水と光に関する歌がとても多いという理由からだが、それだけではない。横山の短歌が作者の心の反射率と屈折率を実に木理細やかに詠っているからである。それは第一歌集『樹下のひとりの眠りのために』冒頭に近い次の歌からすでに顕れている。

 ボート漕ぎ緊れる君の半身をさらさらと這ふ葉影こまかし

 ボートを漕いでいる男の体に日光が当たり木の葉の影が映る。それを「さらさらと這ふ」と表現したところに動きと爽やかさがあり、季節は春か初夏だと思わせる。ここには光の反射があり、その反射を見ている〈私〉がいるのだが、その光の反射は〈私〉の心のきらめきの反映でもある。

 瞬間のやはらかき笑み受くるたび水切りさるるわれと思へり

 シャツの背に五月の光硬ければ追ひかくる日のなしと思へり

 青草に膝をうづめて覗きこむ泉にわれは映らざるなり

 スポークに夏の夕光散らしつつ少年の漕ぐ自転車過ぎつ

 一首目、男が微笑む度に自分が水切りされるように感じる。「水切り」は洗った野菜を水切りするの意とも取れ、石を川面に投げる水切りの意とも取れるが、後者と取るほうがいいだろう。自分が水切りされる石のように感じられるというのだが、ここでは〈私〉は心躍って反射する石そのものである。しかしどうも横山の恋は実らぬ恋だったようだ。二首目、男のシャツの光の反射は一転して、自分を拒む光と捉えられている。三首目、〈私〉が覗きこんでいる泉とは、相手の男の心の泉であろう。自分はその泉に映らないという片恋である。四首目は相聞歌ではないのだが、スポークに光る夏の夕方の光は反射そのものであり、横山は世界がこのような形を取って立ち顕れるとき最も歌心を動かされるのである。

 では屈折の方はどうか。次のような歌に屈折を感じることができよう。

 月と藻のゆらめきまとふ海馬(うまうま)となりたり君の前にうつむき

 冬芽もつ枝くぐりつつ再会を薄日のやうに恃みてゐたり

 手渡さぬままのこころよ口中のちひさき氷嚥みくだしたり

 昼と夜を経てふりむかば硝子器の影のあはさとならむ逢ひかも

 水に差す手の屈折を眺めゐる夏のゆふぐれや過去のゆふぐれ

 一首目、男の前でうつむくのは自分の心が伝えられないからであり、心が相手に届く前にまるで屈折するかのように地に落ちる、そのような歌がたくさんある。二首目、再会は冬の薄日のようにはかなく望みのないものであり、横山は自分の恋をそのようなものとあらかじめ見なしているようである。三首目には屈折し相手に届かない心が口に含む冷たい氷として詠われている。四首目では、男との恋はまるでガラス器に反射する光のようにはかないものかもしれないと詠まれている。ガラスに反射する光は屈折するのであり、この屈折する光が横山の歌にたゆたいと奥行きを与えている。五首目には、手を水に入れて屈折する有様を眺めている自分が詠まれており、この一首は横山の眼差しを象徴する歌といえるだろう。

 世界に対する自分の位置取りという点から見て横山の短歌にもうひとつ特徴的なのは、自己が屹立する存在として事物と対峙するのではなく、自分を何物かが通過する媒質と捉える身体感覚であろう。この感覚は次のような歌に顕著に看て取れる。

 胡弓の音凪ぎたる後もふるふ闇わが諦めはかりそめならむ

 眠られず君は寝がへりうちゐるかわが夢の面(も)のときに波立つ

 秋草のなびく装画の本かかへ風中をゆくこの身透くべし

 両腕をひらきて迎へゐるわれをまつすぐ透過してゆくひとか

 抱へもつ壺の内にて水は鳴り予感せりとりのこさるる日を

 一首目、鳴りやんだ胡弓の弦の振動は闇とともに〈私〉の体をも震わせており、それはまだ体内に残る恋人への思いと共振する。ここでは〈私〉は振動する媒質と捉えられている。二首目、遠くにいる恋人を想う夢のなかで、〈私〉は波立つ媒質である。三首目では、自分が風の通り抜けるほど透明な媒質になりたいという願いが詠われている。四首目は媒質であることの悲しさが表面に出ており、恋人は自分の体にぶつかることなくそのまま透過してしまう。五首目の「抱へもつ壺」は本当の壺ではなく、自分の身体と心の比喩だろう。そこにもまた水が満たされており、心の動きは水の波動として知覚されている。

 水や空気のような媒質は自ら動くことができない。外部から力を受けたときにだけ、波動としてそれを伝えるのである。だから媒質は徹底的に受動的存在なのだ。横山が自分を媒質と見なすとき、自分からは外部や他者に働きかけることのできない弱い存在だと認識しているのだろうか。いや、そうではあるまい。

 風に乗る冬の揚羽にわが上に一度かぎりの一秒過ぐる

 一生のうちのひとひのひとときを夕雲に薔薇いろの湧き消ゆる

 木の生きし月日は残り背後にてうすむらさきに地を覆ふ光(かげ)

 上の最初の二首は、一度限りの現在という時間は取り返しようもなく自分にも揚羽にも流れているとする時間認識を詠っている。そこには自分と揚羽を区別せず、どちらもこの世に生かされている存在だと見る眼差しが感じられる。また三首目は、紫の花を咲かせていた桐の木が道路拡張工事のために切り倒されるまでを詠んだ連作の最後の歌なのだが、切り倒された桐の木の生きた日々を紫の残光として幻視しており、ここには存在のはかなさと同時に、それを超えて連続するものへの強い希求がある。このような強い希求を持つ人を決して弱い存在だと見なすことはできないだろう。自己と世界の関係のこのような把握は、横山が20歳のときに受洗したキリスト者だということと深く関係していると思われる。だから横山の短歌は世界への祈りなのであり、声を荒げることがなくてもその静かな祈りは深く人の心に届くのである。

横山未来子のホームページ「水の果実」へ

080:2004年12月 第1週 高柳蕗子
または、意味の脱臼のかなたに浮上する短歌的意味

抱き癖の大王イカを寝かしつけ
       僕を殺しに戻る細い腕

         高柳蕗子『潮汐性母斑通信』
 高柳蕗子は1953年(昭和28年)生まれ。同人誌「かばん」を活動の場としており、短歌結社には所属していない。もし結社に入っていたならば、高柳のような短歌は「ちょっとあなた、いいかげんにしたら」と主宰から言われていただろう。第一歌集『ユモレスク』、第二歌集『回文兄弟』、第三歌集『あたしごっこ』に続いて、今年 (2004年)に第四歌集『潮汐性母斑通信』が上梓された。「潮汐性」とは潮の満ち干に関係するとの意で、「母斑」とは先天的なアザやホクロの類の意味だから、この題名は「潮の満ち干で生じる先天的アザのお知らせ」という意味になるが、まるで意味をなさない。このような「意味の脱臼」が高柳の最も得意とする技である。掲出歌も意味不明だが、「抱き癖」「大王」のダ頭音、「癖」「イカ」「つけ」の脚音のリズムの軽快さに加えて、上句のユーモラスな情景と下句の不吉な場面の対比が鮮やかで、不思議と意味を超えて読ませてしまう歌になっている。

 第一歌集『ユモレスク』が出版されたのは1985年のことである。穂村弘は『短歌ヴァーサス』第5号の連載「80年代の歌」のなかで高柳の『ユモレスク』を採り上げている。穂村はあからさまに言ってはいないけれど、それまでの号で論じた歌集に対する論評から類推すると、『ユモレスク』もまた80年代のバブル景気の過剰な消費気分を背景として生まれた歌集だと言いたいようだ。サラダ旋風の2年も前にこのような歌集が世に出ていたのは、驚きと言えば驚きである。どんな調子か『ユモレスク』からちょっと引用してみよう。

 殺人鬼出会いがしらにまた一人殺せば育つ胃癌の仏像

 吸血鬼よる年波の悲哀からあつらえたごく特殊な自殺機

 布教終え行ってしまった神父らの不快な息で滅ぼされた街

 骸骨ら他には何もないからと大骨小骨贈りあう聖夜

 これらの歌に通常の意味を読み取る解読を期待してはいけない。言葉遊び・イメージの連鎖・奇想・物と観念の意外な出会い、これらの要素が組み合わされることで作り出される不思議な情景や、星新一のショート・ショートを思わせる奇抜な物語が、定型短歌という形式を借りて展開されているのである。

 蕗子の父の高柳重信は俳句界の重鎮で、三行書きの俳句を作ったことでも知られている。

 身をそらす虹の       船焼き捨てし
 絶巓            船長は
     処刑台       泳ぐかな

 重信には『蕗子』という題名の句集があり、『ユモレスク』にも「パパへ」という章があるくらいだから、父娘の結びつきは相当強いものだと考えてよいだろう。俳句にはもともと「二物衝撃」という句作法がある。本来はつながりの少ないふたつの物を並置することで、意味的な衝撃力を生じさせることを言う。シュルレアリスム詩人のロートレアモンが言った「解剖台の上でのミシンとこうもり傘の出会い」と同じことである。形象の文学である俳句は、一句の衝撃と結像度の鮮明さで勝負するところがあり、必ずしも意味に依存しない。この俳句の句作法が蕗子の作歌法に大きな影響を与えていると考えられる。事実、蕗子の短歌に見られる奇想や奇抜なイメージや、時に生じる滑稽味は、俳句との連続性を感じさせるのである。

 早起きの老人ばかりの暗殺団不吉なことは内緒にされる 『ユモレスク』

 密航の少年が股間に蜜柑ぬくめて潜むスカバソの港  『回文兄弟』

 鼻つまみ詩人ペッシカス追放し市民の樟脳臭い懊悩  同

 あだぶらる電柱の兄横たえて検温すれば花野かだぶら  『潮汐性母斑通信』

 「早起きの老人ばかりの暗殺団」は、季語なし切れ字なしだが、これだけでも俳句として読める。老人ばかりなので、誰それが死んだなどという不吉な噂は隠すというが、職業が暗殺団だけに滑稽である。二首目と三首目は逆読みした言葉を埋め込んだ連作で、「スカバソ」は「ソバカス」、「ペッシカス」は「スカシッペ」を反転したもの。二首目の「股間」「蜜柑」、三首目の「樟脳」「懊悩」の語呂合わせも凝っている。四首目は架空の枕詞を詠み込んだ連作から。「あだぶらる」がそれなのだが、この歌ではご丁寧に、結句の「かだぶら」と呼応して「あぶらかだぶら」となるように作られている。

 それでは高柳の短歌はすべて言葉遊び・語呂合わせ・奇抜なイメージの競演を目的として作られたもので、そのようなものとして言葉の表層において味わえばよく、その奥に作者の人生や境涯に直結するような短歌的意味を期待するべきではなく、また読み取ろうとする鑑賞態度もまちがいなのだろうか。どうもそう言い切れない所が事情を複雑にしているのである。

 問題の在所ははっきりしている。それは高柳が一見単なる言葉遊びとも見える言語活動を、短歌定型という器において展開しているという点にある。韻文定型には定型としての「場」が備わっている。そもそも物理学において「場」の概念は、そこに置かれた物体に作用を及ぼす空間とされており、「重力場」「電磁場」などがそれに当たる。「場」には場の特性が備わっていて、そこに置かれた物体に等しく作用を及ぼすのである。これを定型短歌に適用すると、韻文定型という「場」におかれた言葉は、それらが本来持っていた意味とは異なる意味作用を、場によって引き出されるということになる。だから高柳の短歌がどれほど場に起因する意味作用を逃れようとしてもそれは不可能であり、どうしても「意味」が生じることは避けがたく、それはまた必然的に「短歌的意味」として受領されることになるのである。だから次のような歌に出会うと、私の視線は表層の言葉の戯れにではなく、その背後に送り返す意味に向かうことになる。

 自転車で「不幸」をさがしにゆく少年 日は暮れてどの道もわが家へ 『ユモレスク』

 流刑星姿かわいい生き物をブタと名づけて喰う悲しみ         同

 文献は焼かれあるいは散逸しどの星もみな地球をなのる        同

 胸深く抱きとめてしまった鶏を放すため月に駈け登る伯父       同

 日常の安穏に不満な少年は不幸を探しに行くのだが、夕暮れの不安が迫ると足は我が家へと向かうという一首目は、甘酸っぱい青春歌の趣さえある。二首目はレイ・ブラッドベリの火星ものの短編を思わせる味わい。流刑地の星にいた生き物にブタと名づける行為は、不味い動物を我慢して食べるためのごまかしとも、余りに愛らしい動物なので罪悪感をごまかすためとも取れる。三首目もブラッドベリ風で、惑星移民史の意図的隠蔽の結果、どの星も人類の故郷である地球を名乗るようになったという皮肉である。四首目を例に取ってもう少し詳しく分析すると、「胸深く抱きとめてしまった鶏」という形象が定型短歌という「場」におかれると、それはもはや字義的意味に解釈されることはなく、定型の場の作用の結果、本質的な多義性の海をたゆたうようになる。この形象を定まった岸に繋留することはできない。この鶏が字義どおりの鶏でないとするならば、それを何物かの〈喩〉として解釈するという定型の場の圧力が、読者としての私の解釈を誘導することになる。「抱きとめてしまった」という措辞からは、「そうするべきでなかった」という言外の意が感じられる。だから「胸深く抱きとめてしまった鶏」は、例えば「何物かへの禁断の愛情」の〈喩〉となり、ここに高柳好みのブラッドベリ風の設定を加味するならば、「詩歌が禁じられた国」で禁を犯してしまった伯父の物語を私がこの歌に読み取ることを妨げるものは何もないということになる。言うまでもないがこれは多様な読みの一例に過ぎないし、作者が意図した意味だというわけでもない。そう読めてしまうということである。

 『潮汐性母斑通信』にも様々な言葉遊びや語呂合わせ短歌が並んでいるが、長いあとがきが意外にマジで驚いた。高柳はそのなかで、生まれなかった自分の兄について語っている。生まれなかった兄とは次のようなことである。蕗子が生まれたとき、父の重信は男の子の名前しか用意していなかった。明らかに男子の誕生が期待されていたのである。蕗子はその事実を知ったとき、生まれ損ねた兄に負けたという敗北感と同時に、自分の存在に対する不確定感を抱いたという。蕗子はこの消化しきれない感情と折り合いをつけるために、自らが抱く存在の不確定感を非在の兄に押しつけ、兄を向こう側に葬ることによって自分の誕生の正当化を図るという解決法を見い出した。これが次のような歌となって現われる。

 てのひらに星揉みこめばはきくまのいちばん弱い兄はけらいに  『潮汐性母斑通信』

 花野 ああ倒れ込むとき兄の胸が凍りながら鳴るアコーディオン  同

 傍受せり 裏の世に兄は匿われ微吟する「二一天作ノ五」     同

 両親の全的存在承認を得ることができない子供の不全感と、それを想像上で解消するために考案された非在の兄という物語は、わかりやす過ぎるほどである。しかし、このトラウマが高柳の作歌の原動力となっていて、すべての歌がこのトラウマとの関係で読まれるべきだというような、俗流フロイトの単純な図式ではもちろんない。生まれ損ねた兄の影が揺曳する歌が散見されるということにすぎないのだが、「コトバ派」の歌人だと思っていた高柳に、このような一面があるのは意外と言えば意外である。

 最後に特に印象に残った歌をあげておこう。これらの歌には「言葉の戯れ」を遙かに超えて、短歌的意味が感じられるのである。

 いつの日か命取りとなるその音痴海図の上で爪切る船長       『ユモレスク』

 人類の長い余生の庭先に夢見心地に卵抱く鳥             同

 不倒翁みごと魚腹に葬られ 水の中ではおくれる喝采         同

 花を摘む花占いにみせかけてパパの昔の恋人ちぎる          同

 生涯を逆さに辿る長い夢終えた死者から海底を離れ         『回文兄弟』

 一度でも人のこころに触れたものは燃やせばわかるどーりーどーりー 『潮汐性母斑通信』

 忘れられた兄よ 母を泣く黒服に混じって一人まっぱだかの月     同

 穂波 このさきに心臓ひとつもなしと聴診器を胸から掴み去る     同

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