113:2005年7月 第3週 資延英樹
または、定型を武器に現実を組み替える知的な歌

風の上に軌道はあらむひと方を
     指してすぎゆくひと群(むら)の星

      資延英樹『抒情装置』(砂子屋書房 2005年刊)
 結社「未来」に所属し、未来賞を受賞した歌人の第一歌集である。瀟洒な仏蘭西装に背抜きの箱入りというなかなか凝った装丁になっている。跋文は師の岡井隆が書いている。岡井が講師を勤めていた大阪の千里カルチャーセンターの短歌講座を受講し作歌を学んだそうだ。文句なく最優秀の生徒であったと岡井は書いている。しかし、資延はポッと出で短歌に出会ったわけではなかろう。京都大学英文科を卒業して後、さまざまな読書経験を通じて文学や思想と触れ合っていたことが、歌を読めばよくわかる。下地はあったわけだ。

 歌集題名の「抒情装置」というのは、最初は短歌のことかと思ったが、次の歌を見て思い違いであることが知れた。

 たそがれの抒情装置はぽつねんと裏の芝生に夕陽見てゐし

「抒情装置」というのは〈私〉のことなのだ。それは実生活を生きている〈私〉であると同時に、作者の作る短歌の中に言葉によって押し上げられる〈私〉でもある。「〈私〉とは抒情する装置である」という言上げの中には、短歌を叙情詩とみなす態度とともに、いやなかんずく、〈私〉の自立性・内在性を自明のこととしてきた近代に対する懐疑が感じられる。

 「古典和歌の偽作を作ってみたいという半端な動機」から短歌講座を受講したというだけに、掲出歌のような文語・旧仮名遣いの歌の姿はなかなか見事なものである。

 あからひく雲の流れはちぎれつつミケランジェロの指先のその

 さにつらふ乙女もすなる独楽(どくらく)の地軸をゆらす指にもあるかな

 ぬばたまの闇に羽ばたく鵺(ぬえ)として遣はされたる下達の具はや

 散りそめしさくらの下に吾が立てば愛車はすでに死ににけらしな

 「あからひく」「さにつらふ」などの枕詞や、「~あるかな」「~はや」「~けらしな」などの終止の形式は古典和歌そのものである。一首目の「指先のその」で余韻を残して止める手法や、二首目に漂うあえかなエロス感も注目される。しかし騙されてはいけない。これらの歌は古典和歌のパスティーシュなのである。四首目「散りそめし」のいかにも古典的に散る桜と廃車寸前のポンコツ車とのミチマッチの取り合わせを見れば、作者がパスティーシュとして作ろうとしている意図は明らかである。作者は〈私〉を抒情装置と捉えている割りには、その作歌態度は実に知的であり、ある限度を超えると知的遊戯の域に達することもある。

 伊集院雅子さん今ありとせばモンテビデオの遙か南に 題詠「ビデオ」

 系統樹たぐりてゆけば出るは出るは哺乳類から早坂類まで 題詠「類」

 濃い口をちと薄めればうす口になるちふものとはつゆあらなくに 題詠「濃」

 志低う構へて返り咲く男は黙つて札幌へ行け

 秋の田の呉田軽穂の名のもとに書かれし歌の数多くあり

 議事堂に雷落ちる画像出づひとまづここはコイヅミコイヅミ

 ムロアジと真鰺のちがひを言ひ合ひし議論はいつか亜細亜の曙

 最初の三首は「題詠マラソン」の出詠歌。一首目の伊集院雅子は白血病で夭折した夏目雅子、モンテビデオは南米ウルグァイの首都で、両者のあいだには何の関係もないが、ビデオ録画で今にその画像を留めている女優と、遙か南米で生きていてほしいというファンの願望が、地口ともつかぬ掛詞に込められている。二首目の早坂類は歌人ならば説明不要で知的な遊びの歌。三首目は「つゆ」が掛詞。「なるとふ」ではなくわざと「なるちふ」として、伝法な雰囲気を醸し出している。四首目の「男は黙つて」と来れば、続きは「サッポロビール」と相場が決まっているという共通認識を土台として作られた歌。五首目の「呉田軽穂」はミュージシャン松任谷由美(ユーミン)の筆名で、往年の銀幕の名女優「グレタ・ガルボ」から取ったもの。六首目の「コイヅミコイヅミ」は「クワバラクワバラ」のもじりで、とりあえず小泉首相を前面に押し立てておけば選挙に勝てる自民党を揶揄した歌。七首目は「ムロアジ」「マアジ」ときて「アジア」で落とす仕組み。言葉遊びも交えて古典和歌の語法も自在に援用し、定型という器に何を盛ることができるかを、楽しみながら実験しているように見える。これは「大人の遊び」である。「遊び」と呼んで貶しているわけでは毛頭ない。その逆である。

 「最近の若い者は」という年寄りの繰り言と同じようで気が引けるが、他に言い方がないのでしかたなく書くのだが、「最近の若い歌人」のなかには「セカイ系」といって、〈私〉を本来取り巻いている家族・地域・社会・国家といった文化装置をすっ飛ばして、〈私〉が直接に〈世界〉と接続しており、世界のただ中で〈私〉は絶対的に孤独であるというような歌を作る人がいる。そこまで行かなくても、どこかに終末感や孤独感の漂う短歌が若い歌人のあいだに多く見られる。この傾向に時代的 / 世代的理由がないわけではないが、今回はその話は措くとして、資延の作る短歌にその傾向がまったく見られないのが驚きと言えば驚きなのである。40の手習いで短歌を作り始めたという年の功も理由のひとつだろうが、それよりも思想書・文学書に親しみ、今日では死語となった人文的「教養」を深めた人格の作り方に由来する所が大きいのではなかろうか。ヘーゲルもヴェイユも孤独だったことを知れば、世の中の見方も変わろうというものである。 

 資延のそんな部分から繰り出されるのは、思想的と形容してもよい歌群である。

 世界からわたしを消すならそれはそれ世界のひとつのあり方である

 小池さんも世界は合鍵次第だとさう言つてゐた あかねさす昼

 日々自己に非ざるものを体外に排泄しゆく営みを言ふ

 一切の罪がひとつのあやまちの自己展開だなんて言ふな、ヘーゲル

 ゴム消しも妙であつたが黒板消しますますもつて Kafkaesque な

 はじめからノブがとれてたはずはないでももしこれがドアでなければ

 ホッブスの悪夢のあとのあしたからどうすることもできぬ霜月

 一首目はこの歌集の巻頭歌。逆編年体で編まれているので、最新の歌のひとつということになる。いさぎよい所信表明である。二首目の小池さんは小池光のことか。「合鍵次第で世界は開く」というのは、なかなか含蓄に富んだ言葉である。要はどれだけの数の合鍵を持ち合わせているかだ。三首目は主語が脱落しているが、「生活とは」が主語だろう。多田富雄の免疫論を想わせる一首である。五首目はこれ自体が奇妙な歌なのだが、ゴム消しは文字を消すのでゴムを消すわけではなく、黒板消しは黒板を消すのではないというネーミングの不条理をカフカ的と表現したものだろう。六首目もおもしろい歌で、ノブがなくて開かないドアは果してドアと呼ぶことができるのかという存在論的問いを歌にしている。七首目の「ホッブスの悪夢」はリヴァイアサンのことだろう。自己保存が招く闘争状態を回避するために作られる絶対的国家である。この歌は絶対的国家論以後の政治的不毛を詠んでいるのだろう。

 この歌集には単純に景物を述べた歌が極めて少ない。「神目(かうめ)駅右手に見つつ国道はゆるく左へ曲がりゆくなり」とか、「裏山に懸かる雲居のそのうへを漉し来る光の條(すぢ)なほくして」のように、一見したところ写実に基づく叙景歌のように見える歌もある。しかし資延の態度は観察を通して素直に景物を歌にするというものではなく、事物をいったんばらばらにして短歌定型のなかでもう一度組み立て直すという知的操作である。だから歌に詠まれたどの景物にも知的操作というフィルターがかかっているので、油断がならないのである。上にあげた歌でも「神目(かうめ)駅」という岡山県に実在する駅名を読み込みながら、単なる客観描写を超えた何かを企んでいるのではないかという疑念を振り払うことができない。

 この歌集の読後感を豊かなものにしているのは、上のような知的傾向の歌と並んで異なる傾向の歌もまた読むことができるというその多様性である。注目されるのは、次のような〈世界へと向かう歌〉である。

 はじまりもなければこことふ終り莫しいくさは左様のものに御座るな

 その日から着地決まらずにつぽんは痛いところをつかれましたな

 そは利器にあらで野蛮の極みとぞ見てゐしわれが持たされてある

 だれの目にもはつきりしてたはづれたらそれをボールといふのだ、ボール

 これの世に降る雨の色のくさぐさに野原は染まる国原染まる

 ミカエルが暗視装置に窺いてるユーフラテスの左岸の闇を

 いずれも最近の戦争を背景として作られた歌である。いつの間にか始まる戦争、知らないうちに荷担させられている戦争という、昔とは性格を殊にする現代の戦争の捉えどころのなさを詠っている。ボールの歌はいろいろな解釈が可能だが、上のような文脈に置いてやれば、作者の憤りが浮き彫りになる。最後の歌はイラク戦争に直接題を得たものだが、ミカエルがキリスト教で破壊を司る大天使であることを想えば、争いと憎しみの根の深さに暗澹とせざるをえない。

 『抒情装置』はこのように、古典和歌以来の文語定型の遺産を自家薬籠中のものとして短歌筋肉を鍛え上げた作者が、知的遊びも交えつつ定型という器にさまざまな物を盛る試みをしている最近では見かけることの少ない歌集である。「小池さん」の言葉を借りるならば、資延には「合鍵」がたくさんあるようだ。これは大事なことである。現代にあって誰も徒手空拳では短歌に挑むことはできないのだから。

 最後に特に好きな歌をあげておこう。

 ソマリアに足を向けつつあさなさな千切りしパンが食卓にある

 カッターの刃先を一枚折りとれば鋼の匂ふ夏のゆふぐれ

 象に亦、群れを離れて死にせむとする習ひあり 八月に礼(ゐや)

112:2005年7月 第2週 大野道夫
または、平たい日常のなかでボクタチは時代に脚から汚されて

この道のゆるやかな勾配気づく夜は
    花屋で一人 COSMOS を買う

          大野道夫『秋階段』
 この歌のポイントは言うまでもなく「ゆるやかな」という形容動詞にある。ふだん歩いている道だが、いつもは平らな道だと思って通っている。ところがある晩にふと勾配があることに気づく。心に翳りがあるからである。心の翳りが足取りの重さとなって現われているからである。だから柄にもなく花屋に入ってコスモスを買う。COSMOSとはギリシア語で「宇宙」の意味であり、その含意はわざわざローマ字書きされていることからも明らかだ。日々の塵埃にまみれて生きる卑小な私に大宇宙は遠く手の届かないものだが、せめて心屈する今夜はその名を冠したコスモスを買おう。そのような歌意だろう。この歌意を浮上させるのに、「ゆるやかな」という修飾語は効果的である。このように一首中にあって歌意に効果的に働く部分を、穂村弘は「短歌のくびれ」と呼んだことがある(『短歌があるじゃないか』)。「ゆるやかな」はこの「短歌のくびれ」の一例と言ってよい。ところが大野の短歌において、このようなくびれの例は実はあまり多くない。それは短歌的修辞の拒否というよりは、短歌を取り巻く状況に対する大野の現状認識に由来すると思われる。

 大野道夫は1956年(昭和31年)生まれで、「心の花」会員。佐佐木信綱は曾祖父、佐佐木幸綱は母の従兄弟にあたるという血筋である。晩年の信綱に何度か会ったことがあり、それをきっかけに自分も文学を志したと略歴にある。大学では社会学を学び、現在は大正大学で教鞭を取っている。専門は青年文化・社会運動・文化社会学だそうだ。第一歌集『秋階段』(1995年)、第二歌集『冬ビア・ドロローサ』(2000年)の他、『短歌の社会学』(1999年)という評論集があり、「思想兵・岡井隆の軌跡 短歌と現代・社会との接点」という評論で第7回現代短歌評論賞を受賞している。

 セレクション歌人『大野道夫集』の巻末に谷岡亜紀がていねいな解説を書いているが、谷岡もまさにそうしたように、大野の短歌を語るときにはどうしても時代と社会背景に触れないわけにはいかない。大野の短歌がそのような文脈での読みへと読者を導いているからである。大野は「もはや戦後ではない」と言われて高度成長が始まった年に生を受け、60年安保闘争のかすかな記憶を持って育つ。自筆による略歴には、東大安田講堂事件・ケネディ大統領暗殺事件・ビートルズ来日など、当時の社会を彩った出来事が淡く点描のように綴られている。1975年に大学に入学。卒業論文のテーマに東大闘争を選び、元全共闘議長山本義隆に会いに行ったとあるから、社会と政治への関心は殊の外強かったと推察される。それと平行して、芥川賞を受賞した庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読んで感動したとも書かれている。

 要約すると大野は「遅れて来た世代」なのである。東大安田講堂事件の時には13歳で、ベトナム戦争がアメリカの敗北という形で終結した1975年に大学に入学している。自分より上の世代が入れ込んだ政治運動・大学闘争に強い共感を抱きつつも、もはやその波には完全に乗り遅れている。『赤頭巾ちゃん気をつけて』が描いたのは、東京山の手の中流よりやや上の階級 (お手伝いさんがいる) に属し、都内屈指の進学校 (学校群制度以前の日比谷高校) に通う主人公のサエナイ日常であるが、そこに描かれた心情はまぎれもなく政治の季節の次にやって来た「やさしさの世代」のものである。大野の精神形成はこのような社会的背景と心情的傾向のもとに行なわれたのである。

 ここで『秋階段』から歌を引いてみよう。 

 ニッキあめ平和憲法民主主義シュートを打てばあおあおと空

 リキドウ! と叫べば画面駆け抜けてヤンキーを討つ第三国人

 「新宿へ終結ヲセヨ!」僕らはただ校庭遊び合言葉にて

 「勝利する」ことなくすぎし睦月の夜ML全集売りに出かける

 学生が踏む銀杏にむせ返る青春期(アドレッセンス)をやや過ぎたれど

 夕映えるALTAの画面老人(おいびと)の手術のニュース厳かに流る

 大野の短歌には「平和憲法」「民主主義」「社会主義」などの硬い思想語が頻出するが、それを字義通り受け取ってはならないだろう。一首目にあるように、平和憲法も民主主義もニッキあめや広場での草野球と同列に置かれているのであり、手に持って振ればカラカラと音がするほど中身は軽い。リキドウは日本国民が熱狂したプロレスの力道山だが、大野はリアルタイムで見てはいないのではないか。戦後の日本を代表するキャラクターの一人である。三首目、「新宿へ終結ヲセヨ!」は全共闘運動かもしくは新宿フォークゲリラの反戦運動だろう。「僕らはただ校庭遊び合言葉にて」の部分に、時代が自分の横を通り過ぎて行ってしまったという感覚がある。四首目、MLはもちろんマルクス・レーニンのこと。大野は大学院に進学して研究生活に入るのだが、大学院とオーバー・ドクターの期間は、長く引き延ばされた青年期であり、文字通りモラトリアム期間である。五首目は踏みつけられた銀杏の臭いに仮託して、引き延ばされた青春の憂鬱が詠われている。六首目は「天皇下血」と題された連作の冒頭の歌。昭和という時代の終焉を意味する天皇の病気も、新宿アルタの大型画面に報じられるどこか遠いニュースとしてしか意識されない。

 このように大野の短歌は、高度資本主義社会とモラトリアム社会を背景とするのっぺらぼうの平たい日常の描写の中に、「平和憲法」「民主主義」「社会主義」「戦争」「テロリズム」などのかつて「大きな物語」に属していた語彙を、不調和を知りつつ溶かし込むことで、平たい日常に浮遊する不定形な〈私〉を描き出すと同時に、MLに代表される「大きな物語」が今日完全に失効していることを、いささかの愛惜と自虐の念を込めて淡々と述べている。それは次のような歌にも明らかである。

 漱石を読めば細き雨降りて精神(ガイスト)もなく暮れてゆく昭和

 ゆらゆらとゆれるわたくし 私(わたくし)を確認(アイデンティファイ)するパスポートの紙

 北京(ペイチン)に血の雨が降る日曜に 意味不明瞭なる日本人われ

 生き恥を輝かせ着く光沢の友の賀状は家族に満ちて

 ユニットバス膝を抱えて君は言う「もうボクたちにシソウは来ない」

 昭和に精神(ガイスト)なしとすれば、来たる平成の世にそんなものがさらにないことは言を待たない。二首目は海外詠だが、「ゆらゆらとゆれるわたくし」に大野が感じる〈私〉の不定形さが滲み出ている。三首目は天安門広場事件を詠んだものである。戦車の前に立ちはだかった中国の学生と、TVの前の何とも形容できないぐにゃぐにゃの自分とが対比されている。四首目は近年増えつつある家族写真をプリントした年賀状を詠んだものだが、家族を「生き恥」と表現しているところに大野の屈折が感じられる。五首目は読解は必要ないほどそのまんまである。

 第二歌集は『冬ビア・ドロローサ』と題されている。「ビア・ドロローサ」とは「苦しみの道」の意で、キリストが磔刑のために歩いたゴルゴタの丘への道をさす。エルサレムへ旅した旅行詠から採られたものである。

 結晶はグラスにしめり地の塩とならんと思(も)いき若き日もすぎ

 うすきうすき毒ガスの朝歯止めなき人生を欲り飲む生卵

 親不知削られる午後その底の底の私の白は輝く

 雪合戦のなかの石粒みぞれ降る世界に脚から汚されしボクら

 散骨は静の海へ 地球(テラ)浮かぶ大空へ降るわれという粉

 一首目は青春の夢を振り返る歌。二首目は地下鉄サリン事件に題材を採った歌。事件で大勢の人命を奪った毒ガスと同じようなガスが、気がつかないほど薄く日常世界を被っているという。三首目は歯の治療を詠んだものだが、削られた底の底にまだ〈私〉の白すなわち無垢がわずかに残っているという認識は、希望と言うにはあまりに苦い。四首目は雪合戦だと思っていたら実は石粒が降っていたというところに、世界に絡め取られてしまったという感覚がある。五首目は死後の〈私〉が粉末となって大空に舞う様子を想像している歌で、美しくもまた哀しい。

 『冬ビア・ドロローサ』で特に注目されるのは、曾祖父佐佐木信綱の『思草』への返歌として構成されている連作「戦争と革命の世紀の縁で」である。

 亜細亜の地図色いかならむ百年(ももとせ)の後をし思(も)へば肌へいよだつ
  核弾頭は赤丸小さき手が電子手帳に描(か)く世界地図

 破れたる傘(からかさ)さして子らがゆく時雨そぼふる古き駅路
  ビニール傘もなくしていたのかボクタチは口語のお天気雨の真下で

 世人皆我をうとめる世なれどもわれに友あり酒といへる友
  電話待つ時間はすぎて掌(て)のなかで人肌をこえ冷めてゆく酒

 『思草』は1903年、日露戦争開戦の前年に出版されている。だから一首目の信綱の歌にある「亜細亜の地図」は明治日本の富国強兵による膨張政策を背景としている。「百年後の日本はどのように雄飛しているだろうか」と未来への期待を込めた歌である。それから100年後の世界を生きる大野が返す歌は、東西冷戦は終結したにもかかわらず核兵器がむしろ拡散する危険な世界を詠んでいる。100年の時を隔てた信綱の歌を背景に置くことで、現代の世界の危なさや不安定さを影絵のように浮き上がらせるという大野の意図が見える。二首目の信綱の歌はどこか懐かしい古い日本ののどかな風景である。これに対して大野の歌は徹底的に現代的であり、傘(からかさ) vs. ビニール傘、時雨 vs. お天気雨、文語 vs. 口語の対比を通して、現代の「ボクタチ」の置かれている孤児のような状況を詠っている。三首目の信綱の歌は孤立のなかにも酒を愛する矜持と自足の歌である。一方、大野が返すのは、あてどもなく誰れかからの電話を待つ間に、燗酒が冷えてしまったという歌で、『ゴドーを待ちながら』的状況を念頭に置いたものであろう。曾祖父がちょうど一世紀前に詠んだ歌に返歌を返すという構成を考案することで、大野は「時間の流れ」を、そしてそれよりも「時代の流れ」を短歌のなかに取り込んで表現することに成功している。

 そして大野はこのような返歌を信綱の本歌に対置させてゆくという作業を通じて、明治以来の近代短歌が詠み込んできた自然と社会はもはやなく、それに支えられてきた〈私〉の形もまた現代に生きる「ボクタチ」からは遙か遠いものになったことを示しているのである。「ボクタチ」はこのように、日常性という希薄な毒ガスがたちこめている平べったい時代を生きなくてはならない。それこそが現代の私たちに課せられた「ビア・ドロローサ」である。大野はこのように言いたいのではなかろうか。

 しかし、とここで私は考え込んでしまう。果してこれでいいのだろうか。100年前の近代短歌を代表する信綱がいささかの気楽さと明治的おおらかさを含むとはいえ、ボジティブに力強く提示しているある〈価値〉に対して、それとは異なる別の〈価値〉を同じように力強く提示することなく、過去の価値の陰画をネガティブに弱々しく差し出すことしかできないのは、不幸なことではないのだろうか。こんなことを言うと、「いや、だから不幸だと言っているんですよ」と大野から言い返されるかもしれない。「時代にまみれる」というのはこういうことなのだ。大野の歌のひとつひとつに〈時代〉が貼り付いている以上、それは避けがたいことなのかもしれない。

111:2005年7月 第1週 下村光男
または、行為を封鎖された青春のロマンチシズム

暁(あけ) 死してねむるわが裡(うち)こうこつと
     霜ふれり霜ふりの牛肉(ビーフ)に

            下村光男『少年伝』
 下村光男の第一歌集『少年伝』は、 1976年に角川書店の「新鋭歌人叢書」の一巻として上梓された。短歌史において伝説的叢書である「新鋭歌人叢書」の残りの巻は、成瀬有『遊べ、櫻の園へ』、小野興二郎『てのひらの闇』、杜沢光一郎『黙唱』、小中英之『わがからんどりえ』、玉井清弘『久露』、辺見じゅん『雪の座』、高野公彦『汽水の光』である。この叢書はよく売れたらしい。今日の出版事情では考えにくいことである。また篠弘がこの叢書で世に出た歌人たちを、「微視的観念の小世界」と評したこともよく知られている。

 掲出歌は初句で「暁」一字二音で一字空けを入れ、「死してねむる」に句跨りを作り、四句目でも「霜ふれり」の力強い断定を句中に置くという、韻律的に工夫を凝らした作りになっている。歌意としては、青年が自己の内部を見つめる内向的視線と、睡眠と恍惚とが結合した一種ナルシシズムに溢れた世界を描いている。特におもしろいのは「霜ふりの牛肉に」という喩で、霜降り肉が眼前にちらちら揺曳することで、青年期の肉の哀しさを描く下村の短歌世界に、像的喩として肉感的手触りが与えられている。

 下村光男は1946年(昭和21年)生まれだから、戦後の団塊の世代である。父親は医師であったが、医学に進むことを拒んで、國學院大學に入学し古代史を学んでいる。高校時代から短歌に興味を持ち、特に釈迢空(折口信夫)の歌に魅せられたとあとがきにある。「少年伝」50首で1968年(昭和43年)に角川短歌賞次席に選ばれている。第一歌集はこの連作題名をそのまま歌集題としたものである。

 連作「少年伝」はそのまま歌集に収録されているが、例えば次のような歌が並んでいる。

 肩なめてことばすくなにあゆむ父医を継がざりしことにはふれで

 いたずきを知ってか誰も来ずひと日かつてこがれし虚空みていつ

 草原を駆けくるきみの胸が揺れただそれのみの思慕かもしれぬ

 ひたぶるの天のなみだか野のいっぽん杉にわが眼におつるあまつぶ

 この朝(あした)おのれ目醒めていくごとく 天 柑橘に充ちつつありたり

 われいつかことばボールに充たしめてこの黙(もだ)ふかき天へ打つべし

 父の期待に背いて医学の道に進まなかったことへの拘泥、幼いときに亡くなった母への思慕、結核を病んだことによる孤独、青春期の淡い性欲、詩歌の世界に関わることへの自負と矜持など、青年期の心の揺れと孤独が、文語律ながら平仮名を多用した文体を駆使して詠われている。多量の感傷と浪漫性を内包した青春の絶対的な輝きと翳りがここにある。1960年代はまだ青春が輝いていた時代であり、「青春歌」という表現が意味を持っていた。現代においてこのようなキラキラした青春歌を作るのはむずかしい。

 もう少し歌を引用してみよう。

 よみがえるなんの記憶や 虹 みいる青年ふかくにも滂沱たり

 おお なんの種子か無数に飛ぶからにあかね野われは馳せてきたるを

 わかく死ぬ相いくたびもいわれきてうつせみ茫といたり夜の淵

 孤立いま堕ちたるものにふさわしく地平うたれてわがゆくみぞれ 

 いしだたみ蜥蜴しゅしゅっとあらわれてやがてかくれてゆけり孤独に

 ゴッホ忌のかなた戦げる糸杉の おお その深き空間の〈あお〉こそ

 虹を見て泣く青年の感傷、夭折への怖れと憧れ、孤立感と裏腹の矜持などがこれらの歌の主題である。これは「独り遊びの青春」であり、病気のせいもあって「行為を封鎖された青春」の像である。下村がこのように篠に「微視的観念の小世界」と評されたほど自己の内面に沈潜するには、それなりの理由があったのである。このような内向性は同時代の歌人にも共有されていた。 

 やりどなき心にとほく街の空かがやく塔を残し暮れたり  成瀬有

 ひとり聴く潮騒さみし春の湯に泡たてあらふせいねんの髪  小池光

 平仮名で「せいねん」と書くところに時代特有の甘さが感じられる。少し先輩にあたる村木道彦も「せいねん」と書いて世の人を魅了した。しかし1960年代後半は政治の季節でもあった。政治にコミットした歌人たちは一方で次のように詠っていたのである。 

  機動隊去りたるのちになお握るこの石凍てし路面をたたく  
        福島泰樹『バリケード・一九六六年二月』1969年

  スクラムの思想もろともかかえたる腕ひえびえと若き精悍 
        三枝昂之『やさしき志士たちの世界へ』1973年

 世界の変革を夢見て権力と対峙する青春のすぐかたわらで、下村のように「独り遊びの青春」を詠う歌が作られていたことは興味深いことである。しかし両者に共通するのはロマンチズムであることに異論はなかろう。このようなロマンチズムもまた、現代の若い人が持ちにくくなったもののひとつである。

 下村の作歌上の特徴としては、文語律定型に対するさまざまな試みがあげられよう。1960年代に短歌を作るということは、戦後の第二芸術論とそれに対抗するように編み出された前衛短歌の斬新な語法をすでに既知のものとして出発するということである。「自分はそれに何を付け加えることができるか」という問いはなかなか重いものであるはずだ。それはとりあえず次のような韻律から遠く逃れる不断の努力でなくてはなるまい。

 ともしびをうかべてよるの隅田川ふと大正のろまんこおしも

 『少年伝』のなかでは珍しい例である。これは塚本邦雄が「オリーブ油の河にマカロニを流したような」と表現した韻律に属する。下村はこのような韻律から逃れる工夫をいろいろ試みていて、特に歌集後半にその例が多数散見される。

 Oよ懺悔のいま詮もなきこころにて垂るるいくすじわれのなみだは

 ゆうべ 牛蒡を煮しむるにおいながれつつ飢えはしずかにきざすかなしも

 やしろ炎上しゆき 火の夜半 恍惚と翁いちにんみはりいたりき

 さなり世智などあらぬされども裡ふかくほのぼのとわが感性はあれ

 1首目では初句「Oよ懺悔の」が7音であり上句にかなり破調感がある。2首目では初句6音の「ゆうべ牛蒡を」を意味を優先して「ゆうべ」で区切っているために、意味と韻律にずれがありそれがかえって一首の存在感を増している。3首目はもっと破調感が強く、7・7・5・7・7に加えて句跨りがある。4首目も同じである。このような韻律上の試みにも注目しておくべきだろう。それは余りになめらかな短歌の韻律を堰き止めて、そこに生まれる抵抗感を手掛かりとして、リズムと意味の一回限りの新しい拮抗関係を創り出すという試みである。

 下村は1987年に第二歌集『歌峠』を出版しているが、その歌作はそれほど多くはない。現在の歌壇であまり話題になることもない。しかし『少年伝』後半に収録された次のような歌を読むと、記憶されもっと読まれるべき歌人だという感を深くするのである。

 食(お)すと焼くしおじゃけ塩を噴きながら垂りくる茫とわれのなみだは

 こんめいのきみもひとりのモーゼにてゆく詩歌この杳き死地をさし

 くちなわの目見やさびしくなに瞠る 彼方 エデンのごとく昏れつつ

 みはるかす穢土のゆうぐれふとしもよわれもかえりてゆきたし永劫(とわ)へ

110:2005年6月 第5週 谷岡亜紀
または、劇的〈私〉が立ち上げるもうひとつの現実

おれの中の射殺魔Nは逃げてゆく
   街に羞(やさ)しい歌が溢れても

            谷岡亜紀『臨界』
 短歌で〈私〉をさす一人称にはいろいろあるが、文語では多くは「われ」「我」「吾」などが使われている。最近の口語短歌では「私」「ぼく」が多い。谷岡のように「おれ」を使う人はあまりいない。「おれ」を使ってサマになるのは福島泰樹藤原龍一郎くらいだが、調べてみたら意外なことに藤原は「われ」を使っていた。「おれ」は口語なので文語脈には乗りにくいのだろうが、藤原はハートにおいては「おれ」の歌人だと思う。無頼性を強調するこの人称詞を使う歌人に共通するのは、その激しい抒情性である。それも一歩まちがえば、夜の酒場の演歌が繰り広げる酒と涙と女の世界に通じる、通俗的な香りすら漂う抒情性である。この点において谷岡もまた例外ではない。

 掲出歌の射殺魔Nとは、1968年10月11日に東京プリンスホテルのガードマンを22口径の短銃で射殺したのを皮切りに、合計4人を殺して死刑判決を受けた永山則夫のことである。当時永山は19才だった。網走の寒村で生まれ貧困だった永山に寺山修司は強い関心を抱き、著書『幸福論』などで永山を論じた。永山本人は寺山に反発し『無知の涙』を書いた。永山はその後、1997年8月1日に48才で刑死している。谷岡は自分のなかに射殺魔Nを感じ、その存在に自らの存在を部分的に重ねている。この歌は「夜のリング」と題され、「30歳にしてボクシングを始めた」という詞書のある連作のなかの一首である。だからボクシングを始めることで、自らの内包する暴力性から解放されたと読める。上句「おれの中の射殺魔Nは逃げてゆく」が谷岡らしいが、実は下句「街に羞しい歌が溢れても」の抒情性の方にこそ谷岡らしさが感じられる。

 谷岡亜紀は1959年生まれ。歌集に『臨界』(1993年 現代歌人協会賞受賞)と『アジア・バザール』(1999年)がある。あとがきによれば『臨界』には、1980年から1991年までに作られた歌が収録されているということだが、この作歌年代にまず驚かざるをえない。『臨界』には次のような歌が並んでいるからである。

 黄昏の世界がおれに泳がせる50mプール32秒で

 繁栄という幻想を武装してジェットコースター奈落へ向かう

 開戦の前夜のごとく賑える夜の渋谷に人とはぐれぬ

 壊れたるビル街を過ぎ居住区へ柩のごとき車で帰る

 恋愛のことばかりなる番組の外、鮮しき悪夢待つ街

 核施設構内の立つ塔の上にすばやく黒き人影動く

 遠き恐怖(テロル)の日々を知らざる少女らが朝の渚に拾う骨貝

 爆風に砕かれキラキラ街に降るために夜を冷えている千の窓

 『臨界』が描くのは都市東京なのだが、世界はすでに黄昏を迎えており、見かけ上の繁栄は幻想に過ぎないとの認識が執拗に示されている。1980年から1991年までといえば、日本経済が上り坂を迎えやがてはバブル景気へと至る時期である。1983年には東京ディズニーランドが開園し、1984年には日本の貿易収支の黒字が過去最高となっている。このように繁栄する日本という時代を背景として谷岡が描くのは、繁栄のかなたに幻視する負の影である。世界はすでに黄昏を迎えており、東京は廃墟と化した街、あるいは廃墟と化すことを待っている街である。核施設内には核テロを予感させる人影が走る。また最後の歌は爆弾テロによって砕け散るビルの窓を詠ったものだが、1974年に起きた反日武装戦線〈狼〉による丸の内三菱重工爆破事件を思わせる。『臨界』はこのように、廃墟・暴力・テロリズム・戦争の影が充満した世界なのである。言い換えれば谷岡は都市東京を戦場として捉えているということになる。

 80年代は好景気を背景とした明るい気分のライト・ヴァースが勃興した時代としても知られている。

 サンダルはぜったいに白 君のあと追いつつ夏の光になれり  干場しおり

 きんのひかりの化身のごとき卵焼き巻き了へて王女さまの休日  山崎郁子

 バブル経済の気分をよく伝えている歌である。一方でこのような歌が作られていた時代に、谷岡はどうして都市の影に暗く廃墟を幻視するような歌を詠ったのだろうか。その秘密は谷岡が早稲田大学文学部に在学中から小劇場演劇に熱中していたという事実にある。当時はちょうど野田秀樹の率いる「夢の遊民社」や劇団「そとばこまち」などの小劇場が力をつけ初めていた頃である。そして小劇場系演劇の得意とする手法のひとつに、「現実を演じつつそのかなたに幻視される世界を浮上させる」というものがある。想像するに、谷岡の短歌の手法はここから来ているのであり、谷岡の歌はとても「演劇的」な作り込みがされた歌なのである。

 『臨界』の代表歌として知られる「毒入りのコーラを都市の夜に置きしそのしなやかな指を思えり」にも同じことがいえるだろう。これは1984年に起きた「グリコ・森永事件」に想を得た歌である。谷岡が思いを馳せているのは、都市の夜に毒入りコーラを置く無差別テロリストの心に生れた闇であり、彼が都市に抱いている怒りと復讐の念に、谷岡は同じ思いを持つ者として共感しているのである。

 この演劇的手法は谷岡の作歌手法と修辞と深い関係がある。それは短歌における〈喩〉をめぐる問題である。谷岡の手法が「現実を演じつつそのかなたに幻視される世界を浮上させる」というものである以上、現実から幻視される世界へとスイッチしつつ接続する手段として〈喩〉は最適の手段となる。

 見下ろせば別れ出会いも軽い街軽金属のごとく雨降る

 朝焼けに解凍されてクレパスの絵本の町のごとく明けゆく

 人類の徒労楽しき日の暮れに銭湯の絵のごときフジヤマ

 来たる日の核シェルターとなる地下の駅に土曜の恋人を待つ

 一首目の「軽金属のごとく」を例えば「レモンピールのごとく」と入れ替えてみれば、まったく佇まいの異なるおシャレな歌になる。この歌に不吉な影を落としているのは、戦闘機の素材として用いられている軽金属という語の醸し出す禍々しい意味である。二首目では「クレパスの絵本の町のごとく」という喩によって、明けつつある町から現実感が剥奪され、夢幻の町へと変化する。三首目は現実の富士山を銭湯のペンキ絵のようだと見ることにより、同じ効果を生みだしている。四首目は厳密には喩ではないが、地下鉄の駅を「来たる日の核シェルターとなる」と性格づけることにより、重層的な現実を生み出している。このようにあるものの姿とその将来の姿とを同時に提示するのは、修辞学でメタレプシスと呼ばれている技法の一種であり、谷岡の演劇的手法のひとつして用いられている。このように谷岡の作歌技法にあっては、〈喩〉に極めて明確な役割が与えられていることに注目すべきだろう。

 『臨界』で示されているもうひとつの世界はアジアである。

 難破船が並ぶメナムの川向こうのスラムの屋台に食う豚の耳

 河原にて死体を燃やす人ありき 灰は昏れゆく川に還(かえ)さる

 なまじりの涙を蠅に吸われつつ皮膚爛れたる美女横たわる

 神という圧倒的な光量を浴びて苦行僧(サドゥー)のいま川に入る

 インドに旅して「圧倒的な光量を浴び」たのはむしろ谷岡本人だろう。しかし谷岡がインドに旅したのは、今どきよくある「自分探し」のためではない。そうではなく「アジアから日本を撃つ」視座を内在化するためである。このテーマは第二歌集『アジア・バザール』へとそのまま引き継がれている。

 鳥葬のボクシンググローブ転がりて激しく暮れてゆくゴミの島

 夜の街のアリスに告げる伝言をポケベルに打つ「はるまげどん」と

 大陸の性器としての植民地その行き止まり半島酒店(ホテル・ペニンシュラ)

『アジア・バザール』の掉尾には「キャロル」と題された連作がある。「重大な事が発表されるのでテレビをつけて待機しなさい」という当局のお触れを詞書として始まる。

 籠りいる真冬の正午絶え間なくヘリコプターの音の降り来る

 賛美歌を大音量で奏でつつ水辺を目指す重装の群れ

 殺気立つ日暮れの駅の雑踏に呑まれ名前を呼び合う家族

 「すみやかにかつ整然と」と絶叫を繰り返しいるラジオを消して

 大規模な都市テロが起きたのかそれとも核攻撃があったのか、それはわからないのだがとにかく都市の大騒乱を想定した連作である。主題性の強い歌人として知られている谷岡の作品のなかでも、特に主題性の強い連作だと言える。「キャロル」は1998年に短歌研究新人賞候補となった高島裕の「首都赤変」とよく似ている。「首都赤変」もまたどこか新世紀エヴァンゲリオンを思わせる市街戦蜂起の物語をシナリオとする連作であった。谷岡には『〈劇〉的短歌論』という著作がある。また『現代短歌の全景』(河出書房新社)所収の座談会でも、司会の小池光が「受けて返しているという構造が短歌の内部論理だと思うんです」という発言に対して、「私は『対立』と『葛藤』とによる〈劇〉性と言いたいですね」と切り返しているところからもわかるように、谷岡は短歌における「〈劇〉性」を自らの作歌の基盤に据えている。〈劇〉性の高じるあまり、時としていささかオーバーな身振りになりすぎることがあるとはいえ、このような視座から短歌を作り続けている歌人は他にあまりいないだけに注目に値すると言えるだろう。

 「キャロル」は近未来の黙示録とでも言うべき連作であるが、黙示録の世界を首都東京に現出させようとした1995年のオウム真理教教団による地下鉄サリン事件を題材とした歌がないのは奇妙と言えば奇妙である。谷岡は想像力によって作り出された演劇的空間に惹かれるので、現実に起きてしまった出来事の前では沈黙せざるをえないのだろうか。また『アジア・バザール』には、結婚して子供ができ父となった自分を詠う歌も収録されている。こちらは演劇的というわけにはいかず、ふつうの父親の歌になっている。これもまたいたしかたない。

 常に大状況における問題意識と切り離せない谷岡の短歌であるが、私はそのような歌と並んで、意外にピュアな抒情が溢れる次のような歌もまた好きなのである。

 魚たりし夢に目覚めて食う夏の果実の酸にそよぐ体は

 一冊の恋を読み終え疲れたる瞳を初秋のプールに冷やす

 この秋をおまえは淡く色付いて初めて受ける雨の口づけ

 夏の恋まだ稚(わか)ければ軽やかにラムネの硝子玉を鳴らして

 近代リアリズムが開発した〈私〉、前衛短歌運動が提案した虚構性の強い〈私〉の賞味期限が切れつつある現在、現代の状況を反映する新しい〈私〉が求められている。谷岡の短歌はその主題性の強さが目立つが、新たな〈私〉を造形する試みとも理解することができるのではないだろうか。

109:2005年6月 第4週 大野誠夫
または、戦後風景のなかに咲いたロマネスクの花

兵たりしものさまよへる風の市(いち)
   白きマフラーをまきゐたり哀し

         大野誠夫『薔薇祭』
 冒頭の「兵たりしもの」という表現がすでに哀しい。敗戦で日本は武装解除され、兵隊は「兵たりしもの」、つまりなれの果てと化した。当時白いマフラーをまいていたのは航空兵で、兵隊のなかのエリートだった。それだけに自失した幽鬼のようになって闇市をさまよう姿は痛々しく、敗戦直後の日本の世相の一断面を活写して記憶に残る歌となっている。下句が8・8音と増音となっているのも、結句の「哀し」という短い主情表現にたどり着くまでを引き延ばすことで強調する効果が感じられる。

 私が何もわからず短歌を読み始めたとき、戦後歌人を大勢収録したアンソロジーのなかで特に惹かれたのが大野誠夫 (おおの のぶお) であった。次のような歌が特に印象に残った。

 クリスマス・ツリーを飾る灯の窓を旅びとのごとく見てとほるなり

 絶望に生きしアントン・チェホフの晩年をおもふ胡桃割りつつ

 ジヤズ寒く湧きたつゆふべ墜ち果てしかの天使らも踊りつつあらむ

 北向きのホテルの窓に青き卓レモンを積みて宵のひかりよ

 音しづかにジープとまりぬいのち脆き金魚を買ひて坂下りゆく

 宵々をピアノをたたく未亡人何か罪深く草に零(こぼ)る灯

 これらの歌を収録した第一歌集『薔薇祭』は昭和26年 (1951年) に出版された。塚本邦雄は「焦土にひらいた短歌の花の小さな祝祭であった」と評し、「彼のリアルとひきかえに獲得した美が、朔太郎のパロディ臭をもつ、大正末期的な甘い頽廃に彩られたものであるにしても、敗戦直後の、現代短歌生誕混迷期の、かけがえのないフェスティバルであった」と総括している。

 大野に関してよく指摘されるのがその「物語性」「ドラマ性」であり、その傾向は上に引用した歌にも濃厚に感じられる。一首目の「クリスマス・ツリーを飾る灯の窓」が象徴する豊かさと幸福を横目に見ながら、「旅びとのごとく見てとほる」〈私〉には、自らを世間的幸福とは無縁な存在と規定する自己演出がある。「汚れたるヴイヨンの詩集をふところに夜の浮浪の群に入りゆく」という山崎方代の歌に通じる自己演出である。二首目を代表歌として『現代百歌園』で引用した塚本邦雄は、「ロマネスクと呼ぶべき短歌が、この人の手によって生まれ出たのだ」と述べている。もっともその直後に、「たとえ風俗小説的世界に止まったとは言え」と続けているが。三首目に登場するジャズは、進駐軍と共に日本に持ち込まれた戦後風俗である。しかしジャズは「熱く湧きたつ」のではなく、逆に「寒く湧きたつゆふべ」と詠まれているところに、大野の戦後風景を見つめる目の苦さがある。四首目は逆に暗さのなかに明るさを感じさせる歌であり、言うまでもなくレモンという小道具は青春性とロマンチシズムの象徴であるが、このあたりに大野の「甘さ」を見る人もいるのだろう。五首目はまるでショート・フィルムのような映像を感じさせる歌。もともと画家を志したことのある大野は、短歌における視覚的美に敏感であった。若い人のために言っておくと、当時ジープといえぱそれは進駐軍のGIのことである。六首目あたりに塚本は「風俗小説的世界」を感じるのだろう。「未亡人」は戦後珍しくはなかったが、「罪深く」と並べて用いられると、とたんにドラマ性が生まれる。大野はこのような短歌の作り方に巧みであった。

 大野は加藤克巳、近藤芳美、宮柊二、前田透らとともに、終戦直後に結成された「新歌人集団」に属しており、合同歌集『新選五人』(昭和26年)に参加している。「新歌人集団」そのものには、特に全員に共通する明確な主張はなかったと言われているが、大野は「美の飢渇 – ひとつの批評基準」(『人民短歌』昭和22年6月)という文章のなかで次のように述べている。

「現代短歌の乏しさも存在の薄弱さも、美感の喪失からきている。このはげしい美の飢渇に気づいているものが、案外少いというのも、時代の混乱のためであろう。美を失った真実の探求 – 糞リアリズムと呼ばれた、あの乾燥した現象描写の卑俗さも、そこからくる (…) 」

 昭和22年と言えば、近藤芳美が「新しき短歌の規定」を世に問う一方で、小野十三郎が「短歌的抒情に抗して」を発表して、短歌否定論を展開した年である。翌年には戦後リアリズム短歌を代表する近藤の『埃吹く街』が出版されている。こんな時代のなかで、「糞リアリズム」をこきおろし、「美の復権」を吹聴する大野は傍流の位置を免れることはできなかったろう。篠弘などは『現代短歌史 I 戦後短歌の運動』(短歌研究社)の中で、大野の短歌のリアリズム的側面を取り上げて評価するという的外れなことをしているほどである。

 初期の歌を収録した『花筏』(1966年)には、25歳で地主であった生家を出奔し、新聞記者となって文学を志すという、ある意味でオーソドックスな上京物語が歌にされている。

 何か言ひたき父なりしならむわれに向けし眉おもおもと曇りてありき

 海峡をわたれる時し何ゆゑか胸つきあぐるものがありたり

 エレベーターの箱の隅に息鎮めをり新聞記者われは事件を襲ふいま

大野の生家は茨城県にあり、上京するのに海峡を渡ることはない。ここにすでに虚構があり自己劇化がある。その短歌に濃厚な「物語性」といい、故郷を捨てて文学に志す姿といい、後年の寺山修司を思わせるものが感じられる。また次のような歌などは、まるで映画のワンシーンのようであり、大野の絵画的手法は最初からあったことがわかる。

 息喘ぎ荷馬車の馬が倒れをりながながと市電が停れるさきに

 鶏(とり)の香の沁みつきにけむ石畳男と語る眼の鋭しも

 『薔薇祭』には次のような、戦後を濃厚に感じさせる風俗描写があり、からっと広がる空に漂う虚無感が特徴的である。敗戦直後という時代背景と、大野が志向するロマネスクとが、ぴったりと寄り添うことで生まれた歌である。

 神さへも見失ひつつ何もなき裸形をつつむぼろぼろの衣(きぬ)

 すべもなくけふは売らなと携へし弦(いと)切れし楽器・仏蘭西革命史など

 西欧のあたらしき思潮説くをとめ煙草は染まるその唇紅に

 煙草火を借ると寄りきし少年の髭伸びて丸め持つ妖婦伝

 今回は『行春館雑唱』(1954年)、『胡桃の枝の下』(1956年)、『山鴫』 (1965年)、『象形文字』 (1965年)までの抜粋を収録した自選歌集『羈鳥歌』を読んだので、そこまでしか追いかけていないが、印象に残った歌をあげておく。

 忘られて銀髪ひかる俳優がひとりシートに寝てゐる夜汽車 『行春館雑唱』

 淡あはとみづきの花の散るあたり孔雀は啼けり埃の奥に

 酒場にて働く少女を妻として露地裏に蝶の絵を描き暮らす

 花曇る空に灰色の扉ありいづこの国の呪文をつづる      『胡桃の枝の下』

 数知れぬ爬虫の背(せな)は濡れながら薔薇腐れゆく垣をめぐりぬ

 蒼白の娼婦歩めり裾原の真昼の道に物音は死す

 砲声のとどろく夜に繃帯を白くして無人の街来たるわれ   『山鴫』

 人知れず脱皮を終へてしばらくは光のなかにうづくまりをり

 あたらしき怒りの花の種子微塵わが手を放れ光りつつ散る

 蝶追ひて見知らぬ森の路ゆきぬ子の背を隠す夏草の花  『象形文字』

 段丘に人ゐて石の壁を打つ虚しき秋のひかりみなぎる

 厨芥(ちゅうかい)の凍らむとするひとところ人のいとなみのはや襤褸めく

 『薔薇祭』を特徴づける自己劇化とドラマ性は、『行春館雑唱』ではまだ見られるものの、次第に薄れてゆく。それに代わって目立つようになるのは、五首目「数知れぬ」に代表される、幻想と写実とがないまぜになったような対象の立ち上げ方をした歌である。無数の爬虫類と腐る薔薇という取り合わせはリアリズムであるはずがなく、かといって作者の純粋な心象風景と割り切ることもできない。六首目「蒼白の」でも山裾の道の真昼の静けさは現実のものであっても、その風景のなかに娼婦を配することで、光景は一気に幻影色を強めることになる。これは大野が最初から持っていた虚構的傾向がさらに深化したものと言えるだろう。七首目「砲声の」あたりになるとさらに幻想味が増して、まるでキリコの絵でも見ているようである。『象形文字』にはこのような傾向の歌が多くあり、「段丘に」の歌などその不思議な味わいのせいで一読したら忘れられない。

 大野には「風俗派」「浪漫派」「虚構派」「芸術派」など、さまざまなレッテルが貼られてきたらしい。『現代短歌大事典』(三省堂)に記事を執筆した弟子の松平修文は、大野の本質は「虚構派」「芸術派」だと断定している。しかし、弟子は自分が継承した傾向を師匠に見るものである。松平の「水の辺にからくれなゐの自動車(くるま)来て烟のような少女を降ろす」のような歌は、大野の「虚構派」「芸術派」の傾向をさらに押し進めたものとして位置づけられるのだろう。

 塚本邦雄は次のような大野の歌を引いて、「前衛短歌作歌群の何人かは、このあたりに激励されて、ひそかに翼を収めていたはずである」と述べている。

 紫蘇の葉の低むらがりに光差しみづからを恃む心ぞ熱き  『薔薇祭』

 幾千の花かがやかす椿の木風なき午後を渇きに堪へず

 写実一辺倒のリアリズムを批判して「美の復権」を訴えた大野の短歌は、芸術性と反写実を旗印とした前衛短歌運動に影響を与えたということだろう。しかし実際に歌集を読んでみると、大野の作歌態度はどっちつかずのところがある。『象形文字』のなかにすら、次のような身辺雑記的な歌が見られる。

 ものごころつきしより限りなく甘え来し父病みしかば寂しかりけむ

 とはいえ大野の体質のなかに存在するロマネスク志向は、塚本邦雄や寺山修司によって吸収されていったのだろう。この傾向は形を変えて、藤原龍一郎の言う「ギミック」へと連なるように思うのだがどうだろうか。

108:2005年6月 第3週 キリンの歌
または、昏れゆく世界と滅びゆく動物は瞠め合い

あきかぜの中にきりんを見て立てば
     ああ我といふ暗きかたまり

            高野公彦
 きりんは動物園でおなじみの首の長い動物で、短歌の表記では「きりん」「キリン」「麒麟」のいずれも見られる。漢字表記の麒麟は、本来は古代中国の想像上の動物で、オスが麟メスか麒なのだそうだ。徳の高い王や聖人が世に出たときに姿を見せると伝承されている。キリンビールのラベルに印刷されているのがこれである。

 『岩波現代短歌辞典』の「きりん」の項には、次の二首が引用されている。

 秋風(しゅうふう)に思ひ屈することあれど天(あめ)なるや若き麒麟の面(つら)  塚本邦雄 (追悼)

 春の日の麒麟のような山のかげに僕の生まれた村が見える  中野嘉一

 二首ともにジラフの姿形を示しながら、その背後に想像上の麒麟を想起させると解説がある。塚本の歌は天を仰ぐジラフの姿を通して、思い屈して面を伏せる〈私〉と天空をめざす麒麟との対比が詠われている。しかし中野の歌には麒麟の影はなく、動物園のジラフのような山の姿が詠われているだけではないかとも思う。

 日本に最初にキリンが来たのはいつのことなのだろうか。象は江戸時代にやって来ているが、キリンはもっと遅いような気がする。いずれにせよ短歌に登場するのは明治以降の近代短歌においてであることはまちがいない。だとすると歌語・歌枕としては比較的歴史が浅く、歌の共同主観的世界においてそれほど決まった象徴的意味が付与されていないことになる。ならば歌人はそれぞれの見方に基づいて、独自の象徴性をキリンに付与すればよいのだが、おもしろいことに現代短歌においては一定の偏りが見られる。

 掲出歌では〈私〉は秋風の吹く動物園でキリンを見ているのだが、対象に注ぐ眼差しはいつか反転して、〈私〉を「暗きかたまり」と感じている。夜の歌人である高野の歌の世界のなかでは、キリンが〈私〉の存在様態を把握する契機として捉えられている。このように〈私〉のほの暗い側面を意識させるキリンは、その存在の悲劇性において描かれていると考えてよい。

 昔からそこにあるのが夕闇か キリンは四肢を折り畳みつつ  吉川宏志

 若き日の苦しからむかびしびしと首打ちかはす麒麟を見れば  小池光

 サファリパークは淋しい冬になるだらういつか麒麟が滅びしのちは  松原未知子

 吉川の歌でもキリンは、春の日の射すのどかな動物園ではなく、迫り来る夕闇と並べられて描かれている。キリンはふつう立ったまま眠るらしいが、熟睡するときには座って首を後ろ足に載せるという。「四肢を折り畳む」動作は眠りに入ることを予感させると同時に、戦線を離脱し挫折することとにも通じ、夕闇に四肢を折り畳むキリンには、どこか沈み行く世界を思わせるところがある。

 オスのキリンが互いに首を打ち合わす動作はネッキングと呼ばれていて、オス同士の勢力争いの行動らしい。小池の歌ではネッキングをするキリンを見ている〈私〉が、「若き日の苦しからむか」という思いを抱くのだが、それは生殖年齢という若さゆえのキリンの苦しさを思うと同時に、若さに由来する人間の苦しさに思いを馳せることにもつながっている。

 松原の歌ではキリンが絶滅した未来を思い、キリンのいない世界の淋しさを思っているのだが、ここでもまたキリンは絶滅の可能性を感じさせる悲劇性において描かれている。

 熱たかき夜半に想へばかの日見し麒麟の舌は何か黒かりき  中城ふみ子

 あみめきりん茫洋とせるまなざしの霜月檻のうちより暮れて  中津昌子

 膝を折るきりんの檻に背をつけて雨より深いくちづけをして  ひぐらしひなつ


 中城の歌では、病気で熱を出している夜中のことを詠っているが、熱のある夜は思考が混乱するのが常であり、高熱のときには幻覚を見ることもある。そんなときに昔見たキリンのことを思い出している。思い出すのはキリンの黒い舌である。キリンの全身ではなく舌だけが思い出されているところにこの歌のポイントがあり、その舌の黒さは過去の生活への作者の悔恨のようにも受け取れる。

 中津の歌の「あみめきりん」というのはもともとある言い方ではなく、キリンの皮膚の模様が網目状をしていることを描写したものだろう。キリンは何を考えているのかわからない眼差しをしている。「檻のうちより暮れて」は外よりも檻の中の方が早く暗くなるということだが、取り立てて理由はないものの、全体に寂寥感の漂う歌となっている。

 ひぐらしの歌集はその題名が『きりんのうた。』であるが、実はキリンを詠んだ歌はこの一首しかない。この歌では恋人同士がキリンの檻の前でキスをしていて、読みのポイントは「雨より深い」なのだが、恋人たちの背後ではキリンが膝を折っている。健康に暮らしているキリンは膝を折ることがない。水を飲む時でも前肢を伸ばしたまま大きく広げるので膝は折らない。だからキリンが膝を折るという行為には、どうしても負のイメージがつきまとう。そのイメージは檻の前でキスしている恋人たちにもいやおうなく投影されるのである。

 首と首互みに鳴らす子きりんの股間きららに風薫る夕  加藤孝男

 紙コップ熱きを妻に手渡せりキリンの首は秋風を漕ぐ  吉川宏志

 たとうれば留守番電話のやさしさにキリンは立てり秋草を踏み  同

 おまえにも麒麟にもない喉ぼとけ曝し歩まんマフラーほどいて  同

 梅雨晴れの白き陽のさす柵のなか夢遊病者のキリンがあゆむ   同

 加藤の歌のキリンには珍しく悲劇性はない。ネッキングをするキリンと、その長い足のあいだを通り抜ける風との取り合わせにより、むしろ華やかさが感じられる歌である。

 吉川宏志はキリンが好きなのか、キリンの歌をたくさん詠んでいる。一首目は第一歌集『夜光』所収の歌なので、恋愛から結婚に至る初々しさという文脈のなかで読むことになる。秋の一日動物園に行き、自動販売機で買ったコーヒーの熱い紙コップを妻に手渡す。背後にいるキリンはしきりに首を動かしている。のどかな光景であり、ここにはキリンの過度な象徴性はない。二首目にはこれとはやや異なる感情移入が認められる。秋の草を踏んで立つキリンを留守番電話のやさしさに喩えているのだが、キリンは攻撃性に乏しく受動的存在として描かれている。三首目、「喉ぼとけのないお前」とは女性なのでたぶん妻のことだろう。自分は男なので喉ぼとけがあるが、冬の寒さのなかでマフラーをあえてほどいて歩こうという決意に富んだ歌である。四首目の舞台は梅雨晴れの日差しの中なのだが、キリンは夢遊病者として描かれている。これらの歌のなかでは強く主張はされていないものの、作者がキリンに自己の姿を投影しているように読むことができるだろう。

 短歌にいちばんよく詠まれた動物は何だろうか。調べたわけではないのでわからないが、たぶん「鳥」ではなかろうか。しかし多くは「鳥」と表わされていて、種別までは特定しない場合が多い。そこまで細かく特定すると、逆に不要な象徴性を歌に呼び込むことになるからだろう。それと較べたとき、キリンの帯びている強い象徴性は明らかであり、現代短歌において独自の地位を占めていると言えるかもしれない。

107:2005年6月 第2週 吉川宏志
または、微分された喩的照応は微細撮影のなかに

アヌビスはわがたましいを狩りに来よ
      トマトを囓る夜のふかさに

吉川宏志『青蝉』
 
 アヌビスは古代エジプトの神で死を司り、黒犬の姿で描かれることが多い。この歌で〈私〉はアヌビス神に「わがたましいを狩りに来よ」と呼び掛けている。つまり自ら死を願っていることになる。下句は一転して〈私〉がトマトを囓っているという日常的風景が歌われているがそれは表面的なことで、「夜のふかさに」の結句に沈み込むような沈思の世界が開けている。アヌビス神は真っ赤な首輪をしていて、それは歌の中の「トマト」の赤さと呼応する。黒犬の赤い首輪と、漆黒の夜にトマトの赤さ、上句と下句はともに、「黒・赤」という色彩のコントラストを基本に作られていて、なかなか技巧的な作品なのである。そして吉川宏志が技巧派であることは、誰もが知っていることだ。

 吉川は1969年 (昭和44年)生まれ。故郷宮崎の高校の先生に志垣澄幸がいて、吉川が京都大学文学部に進学するにあたり、永田和宏への紹介状を書いてもらったという。これを機に休眠中であった京大短歌会が復活し、梅内美華子・林和清島田幸典・前田康子らが参加して、京大短歌会のひとつの黄金時代を迎えることになる。当然のことながら「塔」短歌会に入会し、現在も編集委員を務めている。第一歌集『青蝉』(1995年、現代歌人協会賞)、第二歌集『夜光』(2000年、ながらみ現代短歌賞)、第三歌集『海雨』(2005年)がある。

 私が初めて吉川の短歌を読んだのは『新星十人』(立風書房1998年)という10人の歌人を集めたアンソロジーだった。短歌を読み始めたばかりの私には、吉川の短歌は正直言って「とても地味」なものとしか映らなかった。それもそのはずである。『新星十人』には、荻原裕幸(1962生)、加藤治郎(1959生)、紀野恵(1965生)、坂井修一(1958生)、辰巳泰子(1966生)、林あまり(1963生)、穂村弘(1962生)、水原紫苑(1959生)、米川千嘉子(1959生)といった個性豊かな面々が顔を揃えていたのである。この顔ぶれの中で目立つのは容易なことではない。しかも吉川は最年少で第一歌集を出したばかりである。『新星十人』には「現代短歌ニューウェイブ」という副題が冠せられていて、ライトヴァースや記号短歌など表現上の新しさを感じさせる他の歌人と並んだとき、吉川の一見地味な短歌はあまり「ニューウェイブ」という印象を与えない。むしろ古風な近代短歌と言ってもいいくらいである。しかし第三歌集『海雨』と前後して、邑書林のセレクション歌人シリーズから『吉川宏志集』が刊行されたのを期に、今回すべてを通読して吉川の歌人としての実力を改めて感じることができた。

 「塔」短歌会は1954年に高安国世を中心に発足した結社であり、高安はもともとアララギ派の歌人であったから、「塔」短歌会も写実を作歌の基本とするアララギの流れを汲んでいる。この意味でも吉川は「塔」の本流を行く歌人と言ってよい。吉川のように手堅く隙のない短歌を作る人は、とても批評しにくい。こういう時にはキーワードで攻めるにかぎる。私が考えたのは「一字空けの人」というキーワードである。

 セレクション歌人シリーズ『吉川宏志集』に谷岡亜紀が吉川宏志論を書いているが、谷岡がまず注目したのは吉川の初期作品である。

 伯林(ベルリン)にルビふるごとき夜の雪 教室にまだきみは残れり

 ガリレオの鉄球木球ふたすじにわれと落ちゆくひとの欲しかり

 サルビアに埋もれた如雨露 二番目に好きな人へと君は変われり

 谷岡が着目しているのは上句と下句とがたがいに「像的喩」または「意味的喩」として機能する歌の姿である。叙景と叙情、事物と人事を上句と下句に配置し、そのあいだに喩的関係を組み立てるのは、吉川の師である永田和宏の「問と答の合わせ鏡」論のヴァリエーションであり、和歌・短歌の王道と言ってもよい。加えて「伯林にルビふるごとき」という直喩、「ガリレオの鉄球木球ふたすじに」というやや舌足らずな比喩は、直喩を作歌の基本に据える吉川の資質をすでによく示している。吉川が直喩をよく使うことはたびたび指摘されていることである。

 死亡者名簿の漢字の凹凸が噛みあうように隣り合いたり

 ガラス壺の砂糖粒子に埋もれゆくスプーンのごとく椅子にもたれる

 しばらくの静謐ののち裏返るミュージックテープは魚のごとしも

 炭酸のごとくさわだち梅が散るこの夕ぐれをきみもひとりか

 なぜ吉川は直喩を多用するのか。それは写実を基本とする作歌方法において、直喩は読者をハッとさせる一首の核となる発見を導くからである。永田和宏は評論集『喩と読者』で比喩論を展開し、「能動的喩」という概念を提唱している。「能動的喩」とは、すでにある比喩関係をなぞるものではなく、「世界が秘めている意味、潜在性として蔵している価値、それらを一回性のものとして剔抉してくれるような喩」である。要するに、それまで考えられなかったAとBの結びつきにより、読者が新しい発見をし、世界の認識を更新するような比喩ということだ。喩が成立するためには、「喩えるもの」と「喩えられるもの」とが分離されて提示される必要がある。そしてそのあいだに喩的緊張関係を作り出すために「一字空け」が効果的なのである。第一歌集『青蝉』には一字空けがかなり見られる。一字空けは句切れを作り出し、喩的関係を強調する。ただし吉川においては一字空けのない歌においても、句切れの鮮明さは際立っている。だから「一字空けの人」というキーワードは、「句切れの鮮明な人」というほどの意味と取っていただきたい。

 句切れのない文体を三枝昂之は「流れの文体」と呼んだことがある。吉田弥寿夫によると、句切れのない文体はモノローグ的であり、「集団から疎外された単独者の文体」なのだそうだ(『雁』4号)。たとえばすぐ頭に浮かぶのは次のような文体である。

 目のまえに浮くカナブンが虹をだし動かなくなるまでをみていた  伴風花

 ゆれているうすむらさきがこんなにもすべてのことをゆるしてくれる  今橋愛

 ここには何かを見て何かを感じ、また何かを感じては何かを見るという〈私〉と世界の往復運動がない。〈私〉と世界とがお互いを照らし出すという相互関係がない。それにかわって言いしれぬ孤独だけがある。このような文体から紡ぎ出される歌の世界には〈私〉だけがいて他に何もいない風景が広がっている。それは私たちの認識が、外的事物 (=世界)と知覚者 (=私) のあいだで展開する相互行為の織物としてできあがっているということを忘れているからだ。〈私〉とはその相互行為の織物の肌理として析出される何物かである。だから〈私〉と無関係な世界はなく、世界と無関係な〈私〉もない。それはどちらも語義矛盾である。このようなことを念頭に置きつつ「一字空けの人」吉川の歌を眺めると、「流れの文体」の歌の世界とのちがいが際立って感得される。

 ガラス戸にやもりの腹を押しつけて闇は水圧のごときを持ちぬ   『青蝉』

 似ていると思うは恋のはじめかなボート置場の春の雷(いかづち)

 夕闇にわずか遅れて灯りゆくひとつひとつが窓であること

 ひのくれは死者の挟みし栞紐いくすじも垂れ古書店しずか    『夜光』

 ふるさとで日ごとに出遭う夕まぐれ林のなかに縄梯子垂る

 あみだくじ描(か)かれし路地にあゆみ入る旅の土産の葡萄を提げて

 一首目、上句は室内からヤモリの白い腹を見た「叙景」であり、下句は外の闇に水圧のようなものを感じた観察者の〈私〉の想念である。景物の観察を契機として〈私〉の想念が生み出される。その機序を「問と答の合わせ鏡」の枠組みのなかに収めたこのような歌の短歌的完成度は極めて高いものと言わなくてはならない。二首目、今度は想念が先に来て叙景が下句に付けられており、全体として恋の予感を暗示する青春の歌となっている。三首目、上句「夕闇にわずか遅れて灯りゆく」に吉川らしい微細な発見が表現されていることに注意しよう。私たちは日暮れと同時に電灯を点すのではない。いつのまにかあたりが暗くなったことに気がついてから電灯を点すのだ。だから点灯は闇の訪れにわずかに遅れるのである。この「わずかな遅れ」を発見し表現するところに吉川の真骨頂がある。四首目、古本から栞紐が垂れているのは単なる観察であるが、それを「死者の挟みし」と感じたのは作者の主観である。それを薄暮の世界に配置したこの歌の静謐感は深い。五首目、吉川は故郷の宮崎に帰郷したときの歌をたくさん詠んでいるが、これはちょっと不思議な味わいの歌。林の中に垂れる縄梯子というのが不思議で忘れ難い。六首目、句切れは明確だがこの歌には上句・下句の喩的緊張関係はない。全体が〈私〉の行為の描写として描かれているのだが、ピントの合い方に手際が冴える。路地に子供が描いたものと思われるあみだくじが残っている。この狭い路地で幸運と不運との決定が偶然によって下されたのである。だからこの路地はもうふつうの路地ではない。〈私〉はそこに葡萄を下げて歩み入る。このごく日常的な光景のなかに神話的香りすらただよっている。

 吉川の歌を読んでいるとときどき、特殊なカメラを用いた微細撮影を見ているように感じられることがある。

 傘立ては竹刀置場に使われて同じ高さに鍔は触れあう    『青蝉』

 バグダッド夜襲を終えし機の窓に白人なれば顔のほの浮く

 中途より川に没する石段の、水面までは雪つもりおり

 円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる

 くだもの屋の台はかすかにかたむけり旅のゆうべの懶きときを  『夜光』

 竹刀の鍔が同じ高さに触れ合うというのは当たり前だが、言われてみてそうかと気づく。二首目は米軍空爆の模様を夜間撮影したTV映像を見て作ったものだろうが、ほの浮く白い顔に焦点が当たっている。三首目は水面までは雪が積もっているという小さな発見、四首目は金魚が水から出てはじめて濡れるという発見が歌の核となっている。五首目はもっと精妙で、旅行先で見た青果店の陳列台がわずかに傾いているというだけなのだが、この歌では「かすかに」がポイントであることは言うまでもない。

 『短歌研究』2005年4月号の作品季評で穂村弘が吉川の歌に触れ、「必ずどの歌にもポイントがあり、そういう詩的なポイントを作ろうという意識が高い」と述べている。穂村はさらに言い進んで、「どこかにポイントを作れば歌が成立すると思っているふしがあり」、「パーツを持って来て作るやり方にどこかニヒルな感じがする」と述べている。同席した一ノ関忠人と日高堯子は穂村の見方に賛成していない。私もあまりニヒルな感じはしないのだが、「どの歌にもポイントがある」というのはその通りであり、ポイント制で採点すると吉川の打率はかなりの高率になるだろう。

 さて、最新歌集の『海雨』だが、第一歌集・第二歌集で見られた鮮明な句切れは、『海雨』に至って逆に目立たなくなる。しかしそれは後退ではなく前進であり、喩的照応をさらに一層歌のなかに巧みに溶け込ませている。

 五階より見れば大きな日なたかな墓の透き間を人はあゆめり

 水のあるほうに曲がっていきやすい秋のひかりよ野紺菊咲く

 冬の日は器ばかりが目立つかな茶碗に藍の草なびくなり

 木のまわりだけが昨日の感じして合歓の花咲く川の向こうに

 うすあかきゆうぞらのなか引き算を繰り返しつつ消えてゆく鳥

 このような歌を読むと、吉川はもうピシッと決まる像的喩を組み立てることにあまり興味はなく、むしろ喩的照応をさらに微分して日常的叙景のなかに溶解させようとしているかのようである。ここまで来ると短歌の初心者にはその味わいを読み取ることがなかなか難しいかもしれない。その安定感と破綻のない文体にはますます磨きがかかっていて、おそらくプロのあいだでは評価の高い歌集になることはまちがいあるまい。

『レ・パピエ・シアン』の歌人たち

 京都の寺町二条に三月書房という本屋がある。その古ぼけた外観といい、奥にある風呂屋の番台のような帳場といい、古本屋を思わせる風情だが、れっきとした新本書店である。その地味な外観とは裏腹に、三月書房は知る人ぞ知る伝説的な有名書店なのだ。京都に住む読書好きの人で、三月書房を知らない人はいない。世の中の流行から超然とした独自の基準による選本がその理由である。

 三月書房はまた短歌関係の本の品揃えでも知られており、短歌の同人誌も数多く店頭に置いている。『レ・パピエ・シアン』も三月書房で見つけた月刊同人誌のひとつである。ブルーの紙を使った瀟洒な雑誌で、同人誌らしく手作り感がにじみ出ている。短歌好きが集まって、ああだこうだと言いながら同人誌を作るのは、きっと楽しい遊びにちがいないと考えながら、手に取ってみた。

 結社は主宰者の短歌観に基づく求心力をその力の源泉としているため、いきおい参加者の作歌傾向が似て来る。それにたいして同人誌は気が合う仲間で作るもので、作歌傾向はばらばらでもかまわないというよい意味でのルーズさが身上である。『レ・パピエ・シアン』も同人誌らしく、堂々たる文語定型短歌からライトヴァース的口語短歌まで、さまざまな傾向の短歌が並んでいる。同人のなかでいちばん名前を知られているのは、たぶん大辻隆弘だろう。しかし、私は今まで名前を知らなかった歌人の方々をこの同人誌で知ったので、気になった短歌・惹かれた短歌を順不同で採り上げてみたい。2004年1月号~3月号からばらばらに引用する。

 この同人誌でいちばん気になった歌人は桝屋善成である。 

 底ひなき闇のごとくにわがそばを一匹の犬通りゆきたり

 悪意にも緩急あるを見せらるる厨のかげに腐る洋梨

 なかんづくこゑの粒子を納めたる莢とし風を浴びをるのみど

 紛れなく負の方角を指してゆくつまさきに射す寒禽の影

 手元の確かな文語定型と、吟味され選ばれた言葉が光る歌である。なかでも発声する前の喉を「こゑの粒子を納めたる莢」と表現する喩は美しいと思った。テーマ的には日々の鬱屈が強く感じられる歌が多い。日々の思いを文語定型という非日常的な文体に載せることで、日常卑近の地平から離陸して象徴の世界まで押し上げるという短歌の王道を行く歌群である。愛唱歌がこれでいくつか増えた。

 病む人のほとりやさしゑ枕辺を陽はしづやかに花陰はこぶ  黒田 瞳

 みなぎらふものを封じて果の熟るる子の頭ほどの固さかと思ふ

 さかしまに木を歩ませばいく千の夜世わたらむよそびら反らせて

 凍み豆腐やはらにたきて卵おとす卵はゆるゆる濁りてゆくを

 黒田も文語定型派だが、言葉遣いにたおやかさを感じさせる歌が多い。漢字とかなの配分比率、やまとことばの駆使、歌に詠み込まれた感興の風雅さが特に際立つ。今の若い人にはなかなかこういう歌は作れない。ある程度の年齢の方と想像するがいかがだろうか。「さかしまに」の歌の木が歩くというのは、マクベスのバーナムの森を思わせ、幻想的である。「夜世わたらむ」と定型七音に収めず、「夜世わたらむよ」と八音に増音処理したところに余韻を残す工夫があると思った。美しい歌である。

 母を蘇らせむと兄は左脚、弟は身体全てを捧ぐ  服部一行

 最大の禁忌〈人体錬成〉に失敗す幼き兄弟は

 哀しみに冷えゆく〈機械鎧 (オートメイル)〉とふ義肢の右腕、義肢の左脚

 なかでも異色なのは、服部一行の「鋼の錬金術師」と題された連作だろう。TVアニメ化もされた荒川弘の同名マンガに題材を採った作品だが、「人体錬成」「機械鎧」(アーマー / モビルスーツ)というテーマは、サブカルチャーと直結している。同人誌『ダーツ』2号が「短歌とサブカルチャーについて考えてみた」という特集を組んでいるが、確かに今の短歌の世界ではサブカルチャーを詠み込むことは珍しくないのかも知れない。しかし、サブカルチャーをどういうスタンスで短歌に取り入れるかは、歌人の姿勢によってずいぶん異なる。藤原龍一郎の「ああ夕陽 明日のジョーの明日さえすでにはるけき昨日とならば」には、時代と世代への強い固着があり、批評性が濃厚である。黒瀬珂瀾の「darker than darkness だと僕の目を評して君は髪を切りにゆく」には、流行の現代を生きる青年のひりひりした自己感覚がある。服部の連作は原作マンガの物語の忠実な再現に終始していて、サブカルチャーを素材とすることへのさらなる掘り下げが必要なのではないだろうか。

 渡部光一郎もなかなかの異色歌人である。

 中井英夫は江戸っ子にてしばしば指の醤油を暖簾もて拭き

 見習いは苦汁使いに巧みにて主人の女房をはやくも寝取る

 豆腐屋「言問ひ」六代目名水にこだわり続けたりと評判

 江戸落語を思わせるような威勢のいい言葉がぽんぽんと並んだ歌は、俗謡すれすれながらもおもしろい。言葉の粋とリズムが身上の短歌なのだろう。ちなみに2004年2月号は「都々逸の創作」特集だが、渡部はさすがに「椿つや葉樹(ばき)つんつら椿めのう細工と見てござる」と達者なものである。

 その他に惹かれた歌を順不同であげてみよう。同人誌らしく、文語定型の歌、口語の歌、文語と口語の混在する歌とさまざまである。

 わが額にうつうつとまた影生(あ)れて ふるへる朝のふゆの吐息よ 角田 純

 軋まないようにゆっくり動かして重たき今年の扉を閉じぬ  藤井靖子

 重ねたのは仮止めとしての問いの板だからだろうか神を忘れて 小林久美子

 抽出にさよならだけの文あるにまた会ふ放恣の盃満たさむと 酒向明美

 携帯を持たぬ我は今やっと時を操る力を手にする  渋田育子

 忘れゆく想ひのあはき重なりに花はうすくれなゐの山茶花 矢野佳津

 角田の「わが額に」の口中に残る苦みも短歌の味わいである。ただし、なぜ一字あけが必要なのかよくわからない。完全な定型に字あけは必要ないのではないか。右に引いた藤原龍一郎の歌では、「ああ夕陽」のあとの一字あけは必然である。

 藤井の歌は年末風景を詠んだものだが、文語と口語が混在している。結句を「閉じぬ」で終えたのは、短歌的文末を意識したからだろうが、「軋まないようにゆっくり動かして重たい今年の扉を閉じる」と完全な口語短歌にしても、その味わいはあまり変わらないように感じる。日常雑詠のような藤井の連作のなかで、この歌だけ印象に残ったのだが、その理由はひとえに「重たき今年の扉」という措辞にある。村上春樹のモットーは「小確幸」(小さくても確かな幸せ)だが、それにならえば「小さくてもハッとする発見」が短歌を活かす。

 小林の歌は「舟をおろして」という連作の一首で、手作りで舟を作っている情景を詠んだもののようだが、「仮止めとしての問いの板」という喩に面白みがあると思った。またそこから「神を忘れて」となぜ続くのか、論理的には説明できないのだが、忘れられない魅力がある。短歌は完全に解説できてしまうと興趣が半減する。どうしても謎解きで説明できないものが残る短歌がよい歌ではないだろうか。

 酒向の歌は一首のなかに、まるでドラマのようなストーリーを詠み込むことに成功している。いったんは別れた男女の恋が再び燃え上がるのだが、「放恣の盃満たさむ」という措辞にエロスが溢れている。下句が「また会ふ放恣の(八) / 盃満たさむと(九)」と十七音(盃を「はい」と読めば十五音)だが、破調を感じさせない。

 渋田の歌はいささか言葉足らずなのだが、「携帯を持たなかった私が持つようになって、やっと時間を操る力を手に入れた」と読んだ。携帯は現代生活のあらゆる場面に浸透しているが、その力を「時を操る力」と表現したところがおもしろいと思った。

 矢野の歌は連作を通読すると同僚の数学教師の死を追悼する歌だとわかる。「花はうすくれ/なゐの山茶花」と句跨りになっているが、調べの美しい歌で記憶に残った。



『レ・パピエ・シアン』2004年5月号掲載

106:2005年6月 第1週 多田 零
または、控えめな文体のなかに世界の手触りを感じさせる歌

剃刀をつつみながらにみづ流れ
  ちかくの苑にねむるくちなは

      多田零『茉莉花のために』
 よく短歌の批評に「不思議な」という用語が使われる。他に取り立てて言うことがないときに使うこともある便利な用語だが、多田の場合は最大級の誉め言葉として「不思議な」という言葉が当てはまると加藤治郎が書いている。確かに多田の歌集を一読したとき、「不思議な」という感覚を覚えないでおくことは難しい。例えば掲出歌。洗面台に剃刀が置いてあり、その上に蛇口から水が流れている光景だろう。「つつみながら」と表現しているので、水はあたかも剃刀の鞘のようでもある。一字空けを隔てて下句があるが、下句は上句と空間的にも意味的にも呼応しない。場所はどこか近くの庭であり、そこに蛇が眠っているという。自宅の洗面台と近所の庭、剃刀と蛇とがこのように対置されると、そこに磁場が生まれ、短歌的喩の関係が浮上する。一切登場しない〈私〉は、目の前の剃刀を見て近くに潜む蛇を思っているのか、剃刀が蛇のようだと感じているのか、それはわからないままに、読者はそこに何やら非日常的で不穏な気配を感じる。今は眠っている蛇が目覚めたとき、どのような惨劇が起きるだろうかとドキドキしてしまう。「とほくの苑」ではなく「ちかくの苑」であるところにまた、切迫した何かを感じる。この歌はそのように読まれるべく巧みに構成されているのである。

 多田は平成元年より「短歌人」会員で、2002年に上梓された『茉莉花のために』は第一歌集である。栞には小池光、大辻隆弘、河野裕子が文章を寄せている。ちなみに「茉莉花」には「まつりくわ」とルビが振ってあり、ジャスミンの異名である。ジャスミンは5月初旬に芳香の強い白い花を多数咲かせる。集中には梔子を詠んだ歌も多く、作者はどうやら白く香りの濃厚な花がお好みのようだ。ジャスミンや梔子の強い芳香は肉感的である。『茉莉花のために』もまたある意味でとても肉感的な部分を含んだ歌集なのである。

 新人が第一歌集を出すときによく挟み込まれる栞は、新人を世に送り出す推薦文であるとともに、歌集を読み解くガイドの役割を果たす。参考になるのでありがたいと思う反面、歌の読みの方向を縛られてしまい邪魔だと感じることもないではない。多田零の『茉莉花のために』の場合、小池は多田の歌には「生身の肉を素足で踏んだような感触」があると言う。大辻は小津安二郎が岸恵子を評した「身もちが悪い」という言葉を引用して、多田の歌も身もちが悪いと評している。これは端正な文体の奥の方に、匂うような身体感覚があるという褒め言葉である。河野は一読したとき「踏み応えのない歌集だと感じた」が、再読して不思議な感覚のただよう歌だと思ったと感想を述べている。いずれも多田の歌人としての資質の一面を的確に捉えた評言だと思うが、私は少しちがうことも多田の歌に感じたので、そのことを書いてみたい。

 私がまず注目するのは次のようにピシッと焦点の合った描写の冴える歌群である。

 石は階(きだ)のかたちに折れてつづきゆくみづのきはよりみずうみのなか

 卯月なり電灯のひも揺れてゐるただ鈍色の昼のあかるさ

 風の縁(ふち)のふれゆくらしも天花粉こぼれてゐたる椅子のあしもと

 さきほどの月の色くだり来しとして紅鮭の身にまな板濡るる

 みづたまりの水にひかりの襞生(あ)れて鉄橋の上(へ)を貨車は過ぎゆく

 あゆみゆきて真黒き猫の尾の長さ地にふれさうになりつつ触れず

 一首目は石段が水際から湖の中にまで続いている光景を詠んだただそれだけのものだが、このような歌にこそ言葉を日常から浮上させる多田の資質を強く感じてしまう。詠み込まれる素材が日常卑近の些細な事柄であればあるほど、歌言葉はそれと反比例するかのように日常の地平を離れて詩空間へと浮遊する。平仮名の多用もこの歌では効果的で、童謡のようなリズムを生んでいる。二首目、陰暦卯月の昼のほの暗さが題材だが、「電灯のひも揺れてゐる」の暗示する所在なさ、「ただ鈍色の」のとりとめなさが倦怠感をうまく表現している。三首目、椅子の足許に天花粉がこぼれている、それだけの情景である。それを「風の縁のふれゆくらしも」と表現して一編の詩となしている。単なる風とはせず「風の縁」とまで一歩踏み込んで表現した所がこの歌のミソであり、それによって結像力が増していることにも注目しよう。四首目、さきほど見た赤っぽい月の色とまな板の上の紅鮭とを対比させた歌である。不思議な感覚どころか、極めて知的な見立ての歌だと言えよう。五首目、貨車の通過で水たまりの表面が波立ったというだけの光景であり、この歌のポイントは波を「ひかりの襞」と表現したところにある。物体の「動き」によって「ひかり」の存在が改めて意識されるところが作者の発見。六首目は黒猫の尻尾を詠んだ歌。初句が「あゆみきて」ではなくわざわざ六音の「あゆみゆきて」としてあるのは、黒猫が歩み去るところでなければ尻尾がよく見えないからで、尻尾で猫を代表させているところにこの歌の表現としての価値がある。

 栞文のなかで多田の歌を小池は「淡彩であわあわしい」と、河野は「ふわふわと頼りない」と評しているのだが、私にはどうもそれがよくわからない。私の感覚がおかしいのだろうか。上に引いたような歌は焦点の決まった描写、知的な見立て、的確な措辞を駆使して、何の意味もない日常のひとコマを詩へと昇華した優れた歌だと思う。

 「フシギ系感覚」の歌としては次のようなものがあげられるだろう。

 「人形の夢と目覚め」を路地にきく いま左右(さう)の手の交差のこころ

 けさ夢に命ぜられたり〈鬣と尾のどちらかを体につけよ〉

 赤き手ぶくろ昼の電車に振られゐるしきりに振らるる枯園にむき

 少年悉達(しつた)の髪の肌ざはりかすかに指に付箋紙にほふ

 人形であつたとしてもこの雨の音はわたしに溜まりてゆきぬ

 一首目はまるで謎のような歌で、「人形の夢と目覚め」が何の事かわからないし、「左右の手の交差」も意味不明である 
(注)

(注)「人形の夢と目覚め」は、Theodor Oestenという作曲家の作ったピアノ曲だという指摘が読者からあった。「左右の手の交差」とはピアノを引く時に右手と左手が交差するという単純な意味だったことになる。だからこれは不思議な歌ではなかったことになる。短歌の読みにはこのように外的知識が必要なことがあり、知識がないと読みちがいをするという見本のようで恥ずかしい限りである。自戒の意味も込めて原文をそのまま残しておく。
どうも夢の話が出てくるとこの傾向があるようで、二首目も夢の話でこちらは意味はわかる。「動物になれ」と誰かに言われているのであり、作者には動物感覚への密やかな憧れがあるようだ。三首目、電車の中で外に向かって赤い手袋を振っている人がいるという歌だが、これも白昼の謎のような印象を残す。四首目、少年悉達とは釈迦の少年時代のことだが、付箋紙に少年悉達の髪の肌触りを感じているというのだろうか。五首目もまた謎めいた歌で、「雨の音が私に溜まる」という表現が意表を突いているし、「私が人形であっても」という想像もまた不思議なものである。

 私が特によいと感じた歌は次のような歌であった。

 薄明のうつはにそそぐ茶のみどり鴆(ちん)にこころは向きてゐたるを

 髪ほどき入水に向かふをみなゐむシクラメン蒼白にありてゆふやみ

 ひつたりと素足にて床に立つ今を位置さだめたる足裏(あうら)のほくろ

 おほきなる門の奥より音きこゆ引きずられつつ鎖太しも

 デカンタのみづと蛇口はひともとの硝子のごときみづにつながる

 わがからだ遠のきながらなはとびの縄がアスファルトを打つのみ聞こゆ

 一首目、鴆とは中国にいるという鳥の名で、羽には毒がありそれを浸した酒は人を殺すとされている。だから「鴆にこころは向きてゐたる」とは、毒で人を殺したいと思っているということである。夜明けに茶を淹れる静かさと殺意との対比が怖ろしい。二首目は見立ての歌で、夕闇に光るシクラメンを入水に向かう女性に譬えたものである。三首目も多田の個性をよく感じさせる歌ではないかと思う。立ち位置を定めるのが足の裏のほくろだというのだが、ほくろのような微細なものへ注ぐ視線と、それを元にして一首の歌の世界が構成されてゆく様がよい。四首目もおもしろい歌で、犬が鎖を引きずっているのだが、犬はどこにも見えず鎖だけが動いているような奇妙な感覚が残る。五首目は蛇口から水をデカンタに入れている歌だが、「ひともとの硝子のごときみづ」によって蛇口とデカンタが繋がっていると詠んでいるのである。入れ終り卓上に置いたデカンタの中の水が、まだ水道の蛇口と繋がっているかのような幻想の残るところがこの歌の手柄だろう。六首目はなわとびの歌だが、自分の体が上昇するのと同時に縄が地面を打つという逆方向の動きとともに、「打つのみ聞こゆ」によって一瞬無音の世界が構成されるところにこの歌の奥行きが感じられる。

 このように多田の歌には、描かれた世界に触れる手触りに独特の感触がある。ブュフォンの「文は人なり」Le style, c’est l’homme. という箴言を引くまでもなく、歌人は文体と措辞をもって世界を表現するのであり、文体と世界観とは歌人において同義語である。多田の短歌文体は、多田の世界の見方そのものを表わしている。世界に触れる手触りのこの独特の感触を一度感じたら、たとえ署名がなくても多田の短歌を別人のものと取り違えるおそれはあるまい。これを個性と呼ぶのである。


多田零のホームページ「かをりうた

105:2005年5月 第4週 西勝洋一
または、後退戦を戦う男は霧雨の降りしきる海を見つめて

まぎれなく〈季〉うつろうと虎杖(いたどり)の
        群生ぬけて海にむかえり

          西勝洋一『コクトーの声』
 砂子屋書房の現代短歌文庫から『西勝洋一集』が出版されたのは、去年 (2004年) の3月のことである。西勝は1942年生まれで、「短歌人」「かぎろひ」会員。北海道は旭川で教員を勤め、北方から歌を作り続けている。第一歌集『未完の葡萄』 (1970年)、第二歌集『コクトーの声』 (1977年)、第三歌集『無縁坂春愁』 (1990年)、第四歌集『サロベツ日誌抄』 (1998年)がある。『西勝洋一集』には『コクトーの声』 完本の他、他の歌集から抜粋が収録されている。今回通読していろいろなことを考えさせられたが、そのひとつは短歌の「時代性」と「歴史性」ということである。

 短歌の時代性とは何か。それは歌が時代を反映することではなく、歌が時代といかに切り結ぶかということだ。作歌の根拠が時代の動向に深く根ざすとき、その深部から詠い出される歌には模倣できないリアリティーが生まれる。たとえば次のような歌である。

 さびしいこと誰もいわないこの村にこの日素枯れてゆく花があり 『未完の葡萄』

 森うごく予兆すらなく冬空へ少女が弾けるショパン〈革命〉

 ライラック揺れる坂道朝ごとに病むたましいの六月来る

 わが裡にはためく旗よいつの日か憎しみ充ちてちぎれ飛ぶまで

 総身は冷えて佇ちたる かすみつつ渚の涯につづくわが明日

 野葡萄の熟れてゆく昼 状況をまっしぐら指す矢印の朱(あけ)

 1942年生まれの西勝はやや年少の60年安保世代であり、「革命」「状況」「六月」などのキーワードが示すように、左翼運動に身を投じたことが歌から窺われる。第一歌集『未完の葡萄』には、上にあげた四首目「わが裡に」のように、高いトーンで自分を鼓舞する歌があり、かと思えば次のように敗北感と屈折の歌もある。

 展(ひら)かるる明日(あした)あるべき日曜日 午後るいるいと花の凋落

 凛烈の朝の路上に卑屈なる笑みして あれも〈かつての闘士〉

 短歌としての完成度をここで云々するつもりはない。私がこのような歌を読んで強く感じるのは、大文字で書かれるような〈時代の状況〉と、状況と正面から衝突した青春と、その衝突の摩擦から生じる熱気とがあって生まれて来た歌の数々であり、叱責を恐れずに言えば、それはある意味で「幸福な時代」だったということである。言葉が指すべき〈現実〉が厳然としてあり、抒情が生み出されるべき〈心情〉が疑いなくそこにある。〈言葉〉―〈現実〉―〈心情〉が何十年に一度かの惑星直列のように一直線に並んでひとつの方向を照射するときにしか、このような歌は生まれないだろう。「これではあまりにストレートすぎる」という思いを抱きつつも、ある種の羨望に似た気持ちを禁じることができない。現代の私たちはこの惑星直列的状況から遙か遠くに来てしまった。短歌的状況論から言うと、『未完の葡萄』が上梓された1970年以後、「内向の世代」を経て不思議に明るい80年代を迎え、やがてバブル景気とともにサラダ現象とライトヴァースの隆盛を迎えて、ケータイ短歌というものが登場して今日に至っている。〈言葉〉―〈現実〉―〈心情〉という直列関係は、テクノロジーと修辞のかなたに溶暗してしまった。

 しかし、である。〈言葉〉―〈現実〉―〈心情〉の直列は、そのあまりのストレートさ故に、時代のの刻印から逃れることができないという宿命を背負う。第二歌集『コクトーの声』の後書きで、西勝は「『未完の葡萄』後半部をつつんだあの明るい断言の日々が、急に気恥ずかしく思い返されてきた」「発語の困難さを自覚したのはそのような時からであり、それが時代が失語の夕暮れに向かって歩みを始めた時と重なっていたことを知るのはもっと後になってからのことである」と述懐している。ある時代に深くコミットした人間は、時の移ろいとともに後に取り残される。これが残酷な「歴史性」である。では失語の黄昏のなかで歌人としての西勝はどのような方向に向けて歩みだしたか。「〈個〉の発見」(『コクトーの声』後書き)という方向だと本人は述べている。『未完の葡萄』で時代と権力と群集へと向かった歌人は、『コクトーの声』ではただ独り雨の降りしきる海と向かい合う。

 潮迅き海を見ている 街々をただ過ぎしのみうつむきながら

 わが日々のどこも流刑地 ゆうぐれて海だけ騒ぐ町を往きたり

 渚は雨 その薄き陽にてらされて壮年の道みゆるおりおり

 その海にかつてかかりし虹のこと喪の六月を過ぎて思える

 岸辺打つ波散ってゆく闇ながらわが言葉あれしずかに苦く

 わが死後の海辺の墓地に光降る秋を想えり少し疲れて

 『未完の葡萄』を特徴づけるのは「樹木」であった。「樹々よりもずっとさびしく佇ちながら降る雪の中ゆくえ知らざる」など、樹木を詠った歌が多い。樹木は佇立し天に向かって伸びる生命として象形され、青春とやや青い思想の喩にふさわしい。西勝とほぼ同世代の三枝浩之の初期歌集にもまた樹木の歌が多いのは偶然ではあるまい。「視界よりふいに没するかなしみの光 暗澹と樅そそりたち」のような歌を見れば、樹木に付託された象徴性は明らかだろう。

 『コクトーの声』では一転して海が頻々と登場する。樹木は西勝の自我と思想とを形象するものであったが、海はそうではない。海は失語の時代を迎え中年にさしかかった〈私〉の想いを反照するものであり、時に慰藉として働く。『未完の葡萄』で西勝は、「わが視野にまだ見える敵 撃ちながら撃たれて秋の石くれとなる」と詠んだ。「敵」が明確な形として存在し、「敵を撃つ」という思想がリアリティーを持ちえた時代である。『コクトーの声』に寄せた長文の評論のなかで三枝昂之は、西勝は「後退戦を戦う」ことを余儀なくされたのであり、『未完の葡萄』から『コクトーの声』に至る軌跡は、「敗北の現場をも喪失してゆく過程である」と述べた。厳しい批評であり時代認識である。後退戦を戦うなかで、西勝の想いは屈折し内向してゆく。皮肉なことにその反転が美しい歌を生むのである。次のような歌がある。

 〈目覚めへの旅〉終るなき道の辺に突風ののち折れしダリア    

 冬野 するどく鳥発(た)ちゆきてこころざしいつか捨てゆく恐れ持ちたり

 かぎりなく失語の闇に降りしずむ雪あらばわが朋とこそ呼ぶ

 論ひとつ我らをつなぐ幻想にふかぶかと暮れてゆく陸橋よ

 疾走ののち少女の汗まみれ淫蕩のわが六月越えて

 聴きとめていく俺だけは此処に居て移ろう日々の微(かす)かな声も

 一読して「近代短歌だ」と感じる。それは歌の背後に「ウラミ」が付着しているからである。小池光は俵万智のサラダ短歌の新しさは「ウラミが付着してない」ことだという斬新な見方を示した(『短歌研究』 2004年11月号)。小池の文章を読んだとき、ある意味で目からウロコが落ちる思いがしたものだ。ここで言う「ウラミ」とは、貧困・病気・劣等感・挫折・嫉妬など、自らの不遇や不随意感の原因となっているものに対する鬱屈した感情である。近代短歌の背後には多かれ少なかれこの「ウラミ」が付着しているのであり、その鬱勃たる感情が作歌の原動力となった面は否定できない。

 しかしこれは何も近代短歌に限ったことではなく、古典和歌の時代も同じではなかったろうか。伊勢物語のスーパーヒーロー在原業平は、平城天皇の孫という血筋にもかかわらず、藤原氏の陰に隠れて従四位上の官位しか得られなかった。文徳天皇の第一皇子の惟喬親王は母が紀氏の出であったため、生後わずか九ヶ月の第四皇子惟仁親王の立太子を指をくわえて見るほかなかった。鬱勃たる思いを抱く惟喬親王が水無瀬の別荘に遊んだ時、業平も同行して有名な「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」という歌を詠んだ。居合わせた一人は「散ればこそいとど桜は愛でたけれうき世に何か久しかるべき」と返した。だからこれらは単に桜を詠んだ歌ではない。当然皇位を継ぐはずであった親王に対する愛惜と無念を詠んだ歌である。まさに「ウラミ」の歌なのだ。

 唐木順三は『無用者の系譜』のなかで業平を論じ、「身をえうなき者に思ひなして」というのが業平の人物像とその歌のキーワードであり、自らをこの世に容れられない「無用者」と思いなすことによって、現実世界が変貌をきたし、そこに新しい世界、現実とは次元を異にする抽象・観念の世界が拓かれたと断じている。

 唐木の論法を西勝の歌の世界に当てはめるならば、『コクトーの声』は「身をえうなき者に思ひなし」た無用者の歌だと言える。業平や惟喬親王の場合は、宮廷における権力闘争に敗北したことが自らを無用者と観ずる原因だが、西勝の場合は政治闘争の敗北と時代に取り残されたことが原因である。しかしながら原因にちがいはあれ、状況的また心情的には非常によく似ている。

 『コクトーの声』の後書きのなかで、三枝昂之が「定型詩短歌は、その変質の過程で、共同体から疎外された一人の人間の魂を歌うものとして、形式を完成させた」と言っているのは、このことに他ならない。三枝は次のように続けている。

 「だがそれと同時に、投げかけあった問いや応えや唱和が〈われわれ〉の間を往き交って生きた歌になりえた対の片歌の構造を、そうした複数の人間が行うべき問いと応えと唱和をたった一人の人間がみずからの内部で強引に果して世界の意味をその中に閉じこめるという、詩的暴力の構造にと変えてしまった」
 短歌定型について深い思索をめぐらしている三枝ならではの言葉である。ならばもし三枝の言う所が正しければ、『コクトーの声』に収録された西勝の歌がすべて孤独の歌であることは、なんら不思議なことではないのである。