137:2006年1月 第1週 正岡 豊
または、前衛短歌の後衛は透明な抒情へ

きみがこの世でなしとげられぬことのため
    やさしくもえさかる舟がある

             正岡豊『四月の魚』

 正岡は1962年(昭和37年)生まれで、十代の頃から早熟振りを発揮して短歌を作っていたらしい。歌集『四月の魚』は1990年にまろうど社から刊行されたが、すぐに入手不可能になり、歌壇でもそれほど話題にならず幻の歌集と化した。『短歌ヴァーサス』第6号 (2004年) が誌上歌集という異例の形で『四月の魚』を復刊し、荻原裕幸の選による歌集刊行以前の歌45首を添えて再び世に出ることとなった。

 「四月の魚」はフランス語の poisson d’avril (ポワソン・ダヴリル)の日本語訳で、4月1日に魚をかたどった紙切れをこっそり人の背中に張り付けて興じるフランスの習慣から来ている。いわゆるエイプリル・フールなのだが、BBC放送が真面目な顔をしてデタラメなニュースを報じるイギリスなどとはちがって、フランスではこの日に嘘をつくという習慣はない。poisson d’avril の起源は定かではないが、魚はキリスト教ではイエスのシンボルのひとつであり、おそらくはキリスト教以前に遡る生命と春の再生を祝う行事に由来するのだろう。

 掲出歌は現代の口語短歌の特徴のひとつである平仮名と漢字の意識的な配合 (多めの平仮名と少なめの漢字) により、全体として淡い透明な印象を与える歌である。「きみ」という二人称が使われているが相聞歌ではなく、「ぼく」との関係もまた短歌からきれいに拭い去られている。「きみがこの世でなしとげられぬこと」とは何かは明かされず、またそれが「やさしくもえさかる舟」とどう関係するのかも語られない。しかし、「この世でなしとげられぬこと」という否定の相における世界の把握、「もえさかる舟」という破壊と消滅のイメージによって、静かな諦念と喪失感が一首から滲み出る、そのような歌の作りになっている。しかし、抵抗のない読後感と平易な語り口に騙されてはいけない。初句「きみがこの世で」の7音の破調と、下句「やさしくもえさ / かるふねがある」の句跨りを見てもわかるように、正岡は前衛短歌の語法を我がものとし、それを口語脈で実現しようとしているのである。

 正岡の短歌の個性は次のような歌によく現われている。

 [1] 夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ

 [2] みずいろのつばさのうらをみせていたむしりとられるとはおもわずに

 [3] もうじっとしていられないミミズクはあれはさよならを言いにゆくのよ

 [4] ネル・フィルターひたされている水にわが朝日がうつるP・K・ディック忌

 [5] 生きてなすことの水辺におしよせてざわめきやまぬ海螢の群れ

 [6] 天像は冷えゆく秋の枯草の虚空に浮かぶわが月球儀

 [7] 薔薇とその季節を生きてもろともにほろぶ時間の水際に立てり

 [8] クリーニング屋の上に火星は燃ゆるなり彼方に母の眠りがみえし

 『四月の魚』に収録された順番どおりに並べたが、一見してわかるようにうしろの歌ほど文語脈で上に行くほど口語に変化している。だから作歌時期は下ほど古く上ほど新しいのではないかと考えられる。だからこちらも順番を逆にして論じてみよう。

 最後の[6]~[8]は「天象街」と題された連作に含まれていて、この一連は完全に文語定型となっている。「天象街」はもちろん造語だが、浜田到の「天使街」を連想させ、浜田と同様に天上的幻想を交えた美的昇華を強く感じさせる作風である。[6]は秋の空に浮かぶ月を詠んでおり、秋の名月とくれば古典和歌の共同的美意識にたやすく回収されそうな歌題であるが、月球儀は本来月を模したものであるのに、実物と模型の関係を逆転し、空にかかる月を月球儀と見立てることで古典和歌の地平から軽々と身をかわし、それに「わが」と所有形容詞を冠することで、作者の署名落款を墨痕鮮やかに残している。

 [7]は「薔薇」「季節」「時間」と、押しとどめようもなく流れ去るものを並列し、最後に「水際に立てり」とすべてを一人称で受け止めることで、時間という誰に取っても等しく流れるものを〈私〉が引き受け、それによって世界の定めを鮮やかに浮かび上がらせている。中山明の「歳月は餐をつくして病むもののかたへに季節(とき)の花を置きたり」という歌をどことなく連想させる歌である。

 [8]はクリーニング屋の上に輝く火星という意外な取り合わせがまず目を引く。火星大接近の時期ならば地球からも大きく見え、また赤い星だから燃えているようにも見える。ここまではやや幻想的匂いはするものの叙景であり、下句は一転して「彼方に母の眠りがみえし」と回想調の個人的述懐に移行している。この語法はとても前衛短歌風であり、後でも触れるように菱川善夫が「辞の断絶」と呼んだ塚本邦雄の語法を彷彿とさせ、不思議な感覚を呼び覚ます歌となっている。

 [5]では海螢が詠まれているが、海螢は水辺に押しよせることはあっても、ざわめくことはない。ざわめいているのは〈私〉の心であり、海螢は心像の喩である。生きることの迷いを海螢に事寄せて詠うこの語法は驚くほど古典的である。

 ここまで見た段階で言えることは、正岡が前衛短歌以後の語法を確実に吸収して自家薬籠中のものとしており、それと平行的に歌の背後に立つ〈私〉が明確に見える歌を作っていたということである。例えば[5]の歌には海螢を見つめる〈私〉が確固として存在し、その〈私〉は多少のずれはあるものの作者自身と重ね合わせて読解してもまちがいではないと了解される、そのような〈私〉である。

 しかし正岡の作歌態度は大きく変化を見せたようだ。上に引用した歌群を上へと遡ってみよう。[4]ではネル・フィルターが水に浸されているというのだから、コーヒーを淹れた後である。朝日が差しているのだから朝食の風景と考えてよい。P・K・ディックは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』などの作品で知られる米国のSF作家である。するとP・K・ディックの忌日に朝食のコーヒーを飲んでいる情景ということになるのだが、もうここに来ると歌の背後に立つ〈私〉の輪郭は、「わが」という所有形容詞があるにもかかわらず、その位相が判然としないものに変容している。[6]の「わが月球儀」の「わが」の力強さと比較してみればその差は明らかである。

 そして[1]~[3]の最初の3首である。これらの歌には「いつ・どこで・誰が・何を」したかという具体的記述が意図的にかつ徹底的に拭い去られている。いかなる現実の出来事や場面や人と人との関係性からも遊離して、これらの歌は取り返しのつかない喪失感・別れの気配・悲劇の予感といった漠然とした感情だけを言葉のかなたに浮かび上がらせる、このような作りになっている。これらの歌の透明感と詩性は圧倒的であり、電脳短歌イエローページの別室「e短歌salon」で2001年5月1日から20日までの間に開かれた『四月の魚』のネット批評会でも、[1]~[3]の傾向の歌が多くの人から支持されていた。上に引用した[5]~[8]の傾向の歌よりも[1]~[3]のような作りの歌を好きな歌として挙げていた人が多かったのである。それが正岡の歌人としての個性として高く評価されているということだろう。

 その評価に異論はない。また正岡のこのような歌がとても美しいこともまた事実である。しかし、もう少し長い短歌史的観点から見てみると、私はそこに一抹の危惧を感じないわけにはいかないのであり、以下その危惧を中心にして書いてみたいと思う。

 [1]~[3]のような歌の作り方は、正岡以外にもかなりの数の今の歌人に見られるひとつの流れである。伝統的短歌結社に所属せず、同人誌とインターネットを活躍の舞台とし、現代詩とゆるやかに接続している歌人にこの傾向が強い。その代表格として早坂類の名をあげておこう。

 ぼんやりとしうちを待っているような僕らの日々をはくらかす音楽(おと)

 いとおしく思いますから歯並びの美しいことなどなど全部

 わたくしは当て所無く祈りをし わたくしは走る ひとりの朝に

 早坂の短歌にもまた「いつ・どこで・誰が・何を」したかという具体的情報は決定的に欠落しており、「想い」だけが充満している。作者が何らかの想いを抱いくきっかけとなった出来事や情景が現実に存在していたとしても、それらはきれいに拭い去られて言葉から滲み出すような孤独な想いだけが差し出されて読む人に届けられる。このような歌の作り方は早坂だけでなく、玲はる名・佐藤りえ今橋愛・飯田有子・雪舟えま達の若手歌人に共通した手法であり、また『ラスト・トレイン』の中山明にすでにその先蹤を見ることもできよう。ちなみにネット上でのみ存在する中山の第三歌集『ラスト・トレイン』の歌稿が編まれたのは1991年のことであり、正岡の『四月の魚』刊行の翌年であることに、時代の符合を感じないわけにはいかない。

 ながれてゆく風景の色 ぼくはただあなたのゆめをみてゐるだけだ

 いつかきた夢の坂道 よそよそしいふりをしてゐるきみの家まで

しっぽの先まで餡が詰まった鯛焼きのように、一首全体をひとつの想いが満たしていて、何首も続けて読むと息苦しくなるほどである。頭の天辺から足の先まで「一首全体がひとつの想い」というこのような歌のあり方が、とりもなおさず私に危惧を覚えさせる原因なのだ。

 ここで短歌史をひもとくと、戦後の第二芸術論の流れに位置する臼井吉見は「短歌への訣別」(『展望』昭和21年)のなかで「短歌形式が今日の複雑な現実に立ちむかふ時、この表現的無力は決定的であるがそれよりも重要なのは、つねに短歌形式を提げて現実に立ちむかふことは、つねに自己を短歌的に形成せざるを得ないとういふ事実である」と断じ、その論拠として宣戦布告の時と無条件降伏の時に歌人たちがほとんど見分けのつかない歌を作っているという事実を指摘している。

 一億の民ラジオの前にひれ伏して畏さきはまりただ声をのむ  (開戦時)

 大きなる時に会いつつ はふりくる勇みの涙 のごひにのごふ (終戦時)

臼井たちの「短歌滅べ」という短歌滅亡論に対して塚本邦雄らの前衛歌人が採った戦略は、歌のなかに異質のものを持ち込むことで短歌的韻律に流れない抵抗感を作り出す工夫と、菱川善夫が「辞の断絶」と呼んだ次のような語法であった。

 壮年のなみだはみだりがはしきを酢の壜の縦ひとすぢのきず

笠原伸夫が「勦滅的前衛短歌論」(『短歌』昭和41年)という文章で、この塚本の歌の「を」という助詞の係り方が曖昧であり、「あいまいな辞の定着力からくる上句と下句の関係は、あいまいなイメージを構成するものでしかないだろう」と批判したのを受けて、「あいまいさを招かざるを得ぬ詩句の構成と辞の用法のうちにこそ、塚本の詩法の存立の本質はのぞき得るもののようにおもわれる」と菱川は切り返し、続けて「一個の人間の内にある矛盾と対立の意識こそ、かかる辞の断絶の技法を支える基底であろう」と書いた。(「実感的前衛短歌論 – 『辞』の変革をめぐって」『短歌』昭和41年、後に『現代短歌美と思想』に収録)

 暗渠の渦に花揉まれをり識らざればつねに 冷えびえと鮮しモスクワ

 暗渠に浮かぶ花とモスクワのあいだには本来何の関係もない。しかしこのように意味的に断絶した上句と下句が一首のなかで喩的関係を取り結び、そこに歌の外部へと打ち出される批判力が生まれる。このように一首のなかに意図的に抵抗感と折れ目を作り出すことで、「短歌的抒情」に流されて「つねに自己を短歌的に形成せざるを得ない」という短歌滅亡論からの批判に答えようとした、前衛短歌の修辞的意義がおおむねこのように総括されているのは、よく知られているところである。短歌定型という詩型について執拗な考察を重ねている永田和宏の言葉を借りるならば、「自己否定の回路はいつでも開いた状態のまま、表現の可能性を探る」(「自己否定の回路」『喩と読者』所収)という認識が、短歌という形式と修辞そのものに働きかける必要があるということなのだ。

 ここまでの考察を踏まえて正岡や早坂の短歌をもう一度見てみよう。 

 みずいろのつばさのうらをみせていたむしりとられるとはおもわずに  正岡

 ぼんやりとしうちを待っているような僕らの日々をはくらかす音楽(おと)  早坂

  平仮名を中心に作られたこれらの歌は透明感に溢れている反面、一首のなかに抵抗感も折れ目もなく、初句から結句までがひとつの水の流れのように読み手に受容される。ここには辞を断絶させることによって、〈私〉が短歌的抒情に満たされることを決然と拒否し、世界に対する批判力を歌に与えようとした前衛短歌の面影はない。このように一首全体がひとつの想いに充満している短歌は、世界に対して閉じられているのであり、それは結局のところ作者自身に対しても閉じられているのである。このような餡の詰まった鯛焼きスタイルの短歌には、まるで申し合わせたかのように〈他者〉が不在であり、一様に孤独なつぶやきのような表情を湛えているのはこのためである。この種の短歌が作者自身に対しても閉じられているのはなぜかというと、他者不在の孤独な空間からの発語ののちに、作者が次にどこに行けばよいのかがまったくわからないからである。

 正岡豊は『四月の魚』を上梓したのち、「歌のわかれ」をしてしばらく短歌から遠ざかっていた。中山明も『ラスト・トレイン』を白鳥の歌として短歌と訣別してしまった。この二人が「歌のわかれ」を選択せざるを得なかったという事実は、作者自身が自らを他者の希薄な空間に閉じこめてしまったと感じたからではないかと思えてならないのである。

 ニューウェーヴ短歌のプロデューサー格である荻原裕幸は、正岡豊と『四月の魚』を評して、次のような的確な俯瞰を示している。

「たとえば、山崎郁子、早坂類、東直子、それから男性歌人で言えば穂村弘。1990年代の短歌の世界に広がっていった彼らの作品には、生きる切なさの核を、そこだけとりだして見せてくれるといった、独特の共通感覚がある。この感覚は、正岡豊にも通じるものがある。」
 「生きる切なさの核を、そこだけとりだして見せてくれる」とは言い得て妙である。しかし「そこだけ取り出した」切なさは、いわば雑菌にまみれた現実とは切り離されて純粋培養された切なさである。人も知るように純粋培養された無菌環境では、人間は自家中毒するか自己免疫疾患に陥る危険と隣り合わせなのだ。第二芸術論があれほど激しく批判した「短歌的抒情」に、歴史の溝を軽々と越えて再び回帰してしまうおそれがないとは言えない。

 正岡の短歌がそうだと言っているのではない。『四月の魚』に収録された歌は文体も多様であり、固有名の活用、詞書きの効果、隠された引用など、ここでは論じることができなかった様々な工夫が歌に施してある。そういった全体像を見なければ公平を欠くのは明らかである。しかしながら、『四月の魚』が優れた歌集であり、最初の出版からすでに15年が経過しているにもかかわらず、現在でもなお現代短歌に刺激を与えることができる歌集であることを十二分に認めた上で、敢て上に述べたような危惧の念を覚えたことを書き留めておかなくてはならないと感じたのである。

136:2005年12月 第4週 鈴木英子
または、にんげんに寄せる低く柔らかいまなざし

サリン吸い堕胎を決めたるひとのこと
     そのはらごのことうたえ風花

            鈴木英子『油月』
 一読してハッと息を呑む歌というものがあるとすれば,それは掲出歌である。私は大阪での研究会に行く阪急電車の中でこの歌に出会い息を呑んだ。1995年の地下鉄サリン事件に遭遇し,そのとき妊娠していた女性のことを詠った歌である。鈴木の眼差しは事件に遭って亡くなった人や後遺症に苦しむ人たちに注がれるのみならず,その時お腹にいた胎児にも注がれている。もし堕胎された胎児まで勘定に入れるならば,地下鉄サリン事件の死亡者の数は公式発表よりも増えることになる。慄然とするとはこういうことを言うのだろう。恥ずかしいことだが,私はこの歌に出会うまで考えてみたこともなかった。腹の中の子にまで注がれるほどに人間に対して浸透する深いまなざし,これが鈴木の感受性の核であり,短歌を作る際の鈴木の一貫した視座を代表するものである。花鳥風月我ガコトニ非ズと言えば言い過ぎだろうか。

 2005年8月に刊行された邑書林セレクション歌人シリーズの『鈴木英子集』は特異な構成になっている。第一歌集『水薫る家族』 (1985年)と第二歌集『淘汰の川』(1992年)はごく僅かの抄出歌のみで,大部分は本シリーズのために書き下ろされた第三歌集『油月』が占めている。同シリーズの佐々木六戈のように,歌集も句集もこのシリーズがデビューという特異な人もいるが,そもそも書き下ろし歌集というのはあまり聞いたことがない。過去を振り返らず,現在を重視する鈴木の姿勢の現われと受け取りたい。

 鈴木は東京の月島の生まれである。『鈴木英子集』に解説を書いた藤原龍一郎も東京の下町の育ちであり,次のような鈴木の歌に体験共有的な共感を示している。鈴木の短歌を近くから見てきた人ならではの周到な解説である。

 水無月にかなしき水を湛えおり家族をつつむ東京の水

 築かれし佃・月島・晴海町わが濃きこの血を築きし町よ

 路地裏のちいさき窓より空仰ぐ星なきこともわれは知りつつ

 「街」ではなく「町」と書かれる風土を語るとき藤原は雄弁で,その風土を共有しない私としてはただ聴き入る他はない。文学研究に自然科学的決定論を持ち込んだイポリット・テーヌならば,「風土が人を作る」という公式の有効性を改めて誇るところだろう。これら鈴木の初期短歌では,自分を作り上げた風土が抑制された抒情とともに詠われているのだが,鈴木の歌が鈴木らしさを持ち始めるのは,次のような歌を作り始めた頃からかと思われる。

 「級友を殺した僕たち」と君は亡き友よりもみずからを泣く

 小学期,われも多数の側にいき独り立ちいるあの子を囲む

 「死ぬ」と言い屋上の網に手をかけたあの子のスカート嘲(わら)って引いた

1986年に「お葬式ごっこ」遊びが引き金となり中学生が自殺した事件があった。その中学生の級友がたまたま鈴木が講師をしていた塾の生徒であったという偶然をきっかけに,鈴木は人間の背後に横たわるものに引きつけられるようになったらしい。遊びがきっかけとなって級友を殺してしまったことへの罪責感よりも,そんな立場に置かれてしまった自分たちを嘆く少年に批判的眼差しを投げかけるかと思えば,自らも幼い頃にイジメの多数派に与していたことを回想して,いったんは外に向けた刃を内に向けるという態度がここにある。それは人間を裁断することへのためらいの態度である。だから鈴木の眼差しはいつも柔らかい。

 国内を出ずれば優しくなることに気づき私も日本もあわれ

 ラワン材積みたる車と擦れ違うあれは私の国へ行く木々

 一首目は海外に出た人ならば誰しも感じたことのある感覚を掬い上げて「私も日本もあわれ」と閉じているところに鈴木の態度がある。二首目も熱帯林の過剰伐採を批判する気持ちより,あわれと感じる気持ちの方が勝っている歌である。

 第三歌集『油月』に至って鈴木が世界に注ぐ眼差しは限りなく低くなり,人や物の背後に回り込み内部に浸透するがごとき透過力を示すようになる。そこには結婚して生まれた娘さんが自閉傾向と診断されたという事情も与っているだろう。

 川の上(へ)のプラットホームに朝々を笑みいる彼は智恵遅れの子

 この子悲しや悲しやこの子朝なさな走る電車の中に自慰せり

 かりそめの賑わいやあるボンベイに売られしほそき少女らあふれ

 足場組むはいずれも異国のおとこにて挨拶だけを日本語にせり

 まだ近き過去のことではあるけれど〈タイ米〉と呼ばれ死にし子ありき

 そこでなき場へと渡りてゆく母子〈公園ジプシー〉と名づけて終わり

 極北のバローから君は流氷の悲しさに都市へたどりつきしか

 桃の子が駆ければここもうるわしき野となるほらほら兎も来たり

 一首目と二首目は駅で見かけた知的障害児を詠っている。短歌では詠みにくいテーマを扱いながら,正面から見つめる目を逸らさずしかも眼差しが柔らかい。この「目を逸らさず,かつ柔らかい」という点に,鈴木の短歌の最も大きな特徴があるように思う。鈴木の視線は海外に出かけても身売りされ売春する少女たちや,日本で建設労働に従事している外国人労働者に注がれる。五首目ではやはり自殺した少年が,六首目では母親たちの輪に入れてもらえず公園を転々とする母子が取り上げられていて,〈公園ジプシー〉と名づけて終わりとするマスコミをやんわり批判している。七首目は伝統的生活を破壊され誇りを失ったイヌイットの人たちのあわれが詠われている。八首目の桃の子とは自閉傾向のある娘さんのこと。この歌では娘さんを童話的世界に遊ばせて詩的昇華を遂げさせている。

 もう少し大きな短歌史的文脈で考えると,古典和歌の雅の世界から韻律的変化を遂げて俗のリズム (都々逸調) に近づいた歌を,今一度雅の世界へと引き戻す要請が近代短歌には課せられていたはずである。明治の短歌革新は写生という方法論を軸とすることでこれを実現しようとしたと見なすことができる。近代的〈私〉の真実がその担保と考えられていた。戦後の短歌史も軸こそ写生から変化し多様化はしたものの,基本的には同じ流れの中で捉えることができるだろう。

 ところが鈴木の短歌,特に第三歌集『油月』を読んでいると,雅から身を引き剥がすようにしてむしろ俗に接近する姿勢が見える。たとえば次のような歌である。

 若き日はおおかた一度は死にたくて。死ななきゃならない日がくるまでは

 煮出しすぎの麦茶に麦のくさみしてわたしを煮出せるおとこが欲しい

 夜空を歩いていたら一番会いたいひとがいてはやれる首をやさしく撫でた

 川下に流れつきたるなりゆきの若ききわみの裸体グラビア

 これは口語の多用といった文体的要因から生じる印象ではなく,おそらく歌の元となる発想を汲み上げる場所の問題である。鈴木の目線の低さはすでに指摘したところだが,これを徹底させると限りなく俗に接近することになる。もちろん俗を詠って歌とするにはそれなりの膂力が必要であり,それを実現している鈴木の歌はむしろ奇貨とすべきなのかもしれない。

 最後に話題は変わるが、巻末に「二十三年目の詠み人しらず」という鈴木の文章が収録されている。1981年7月11日に内ゲバにより殺害された國學院大學学生の高橋秀直を追悼して大学の正門に立てられた看板に書かれていた「青年死して七月かがやけり軍靴の中の汝が運動靴」という歌をめぐるエピソードである。岡野弘彦がこの歌について大学新聞で言及し,また『短歌』(角川書店) 平成16年の8月号「101人が厳選する現代秀歌」特集でこの歌を選んでいる。私もこの号を読んでいて,大学のタテ看に書かれた作者不明の歌を現代秀歌として推すことに驚くとともに,この歌そのものに強い印象を受けた。國學院大學短歌研究会のメンバーであった鈴木は高橋と友人であり,そんなことからこの歌の作者とまちがえられたことがあるという話である。ほんとうの作者は短歌研究会4年生の安藤正という人だそうだ。鈴木の文章に出会い、知りたいとずっと思っていた謎が解けたような気がした。長い年月が経過しても人の記憶に残る歌の力を物語るエピソードである。青春の痛ましさを感じさせるこの歌とともに高橋秀直の名を記憶しておきたい。

135:2005年12月 第3週 山下 泉
または、ゆるやかに詩へと接続する硬質の抒情

モルヒネに触れたる手紙読むときに
        窓の湛える水仙光よ

         山下泉『光の引用』
 新しく出た歌集を取り寄せて繙くのは,実に楽しいひと時だ。どんな世界が私を迎えてくれるかという期待に胸が膨らむ。いつでもそうだが,読み始めて歌の世界に入るには,いささかの時間を要する。最初はどの波長で歌を読み解けばよいかがわからず,頭のなかの周波数を調整するダイヤルをあちこち回す。そのうちこの波長で受け取ればよいのだとわかる。ここまでに要する時間は,歌人によって,また歌集によって大きく異なる。山下泉の『光の引用』の場合は,やや長くかかる方だろう。それは山下の歌の世界が実に静かな世界であり,声高に叫んだりこれ見よがしに旗を振ったりしないからである。喩えて言えば,がらんとした部屋のなかに椅子が一脚と壁に立てかけた梯子があり,窓から光が射し込んでいる,そんな感じだ。私の好きな画家の有元利夫の静謐な世界とどこか通じるところがある。

 さて掲出歌だが,冒頭の「モルヒネに触れたる手紙」には相当な詩的圧縮がかかっている。モルヒネは阿片から抽出される麻薬だが,現在では末期ガンなどの激痛緩和に医療用として用いられている。この文脈で読み解けば,「末期ガンに冒されている人からの手紙」と解することができる。しかしただそれだけではなく,手紙がモルヒネに触れたという認識が膨らんで,手紙自体がふつうの日常を送る人が触ってはならないものという禁忌の意識もかすかに感じられる。一方,「水仙光」という詩的造語からは,水仙の湛える光,または水仙に降り注ぐ光という透明で明るいイメージが立ち昇る。その光は明るいながらも沈痛な影を宿しているようにも見える。

 作者の山下泉については,歌集あとがきに書いてある以上のことは知らない。中学生の頃から短歌を作っていたが,リルケの詩に惹かれて大学ではドイツ文学科に学び,高安国世氏に出会って「塔」に入会している。収録された歌のなかには浜田到の名がある。高安国世,リルケ,浜田到と並べてみると,山下が青春期にどのような文学に傾倒していたかがよくわかる。『光の引用』は山下の第一歌集であり,今年2005年の現代歌人集会賞を受賞している。朝日新聞の文芸欄で,高橋睦郎が今年度の収穫として池田澄子の句集『たましいの話』と並べて『光の引用』をあげていた。この歌集についての反響はまだ少ないが,硬質な抒情を湛えたその短歌世界と修辞の冴えによって高く評価される歌集として人々の記憶に残るだろう。

 山下の短歌世界をひと言で表現するのは難しいが,「現代詩と短歌の融合を夢見る人は多いが,うまくいった例は多くない。『光の引用』にはその幸福な例がいくつもある」という山田富士郎の栞に寄せた文章が手掛かりになるだろう。自身詩人であり短歌も俳句も作る高橋睦郎が今年度の収穫として評価したのも,その点に着目してのことにちがいない。山下の歌は基本的には文語と口語を取り混ぜた定型なのだが,定型短歌という形式そのものに限界まで負荷をかけることによって,伝統的詩型としての短歌を新たな表現の器として生まれ変わらせようとした前衛短歌のような志向はなく,むしろ定型意識の手綱を緩めることで現代詩とのなだらかな接続を試みようとする位置取りが感じられる。例えば次のような歌である。

 耳はただ水音もとめ透きとおる斜めに海に抱かれるごとく

 遠き夜を手繰れば揺れる魚と蝶くぐりきし水まとえる光

 日ざしにねむる明るい葡萄の内側をしずかにくだる車輪になりて

 夕闇を少し砕きて呑みこめば尾に光浮き撫でる掌がある

 明るい病室のような秋の日に町じゅうの金木犀銀木犀が散る

 日常の〈現実〉からの素材の借用は最低限にまで縮減され,選び抜かれたコトバがクリスタルグラスが密やかに触れ合うような静かな音を立てている。おそらく山下のなかには短歌によって自己の〈現実〉を逆照射するというような意図はない。コトバが作者の〈現実〉と〈世界〉を暴くためにそれらへと送り返されることなく,隣り合った別のコトバと触れ合って涼やかな響きを立てる。その音が響くのは現実の空間ではなく,永田和宏が言うところの「虚の空間」であり,山下はその虚の空間に詩的な軌跡を描くことをひたすら目差していると思えるのである。

 このようなスタンスを採るとき,歌はどのような構造として立ち顕れるか。一首目の上句「耳はただ水音もとめ透きとおる」は,歌の背後の〈私〉が水の音を求める飢餓感を堤喩表現により表わしているが,下句「斜めに海に抱かれるごとく」はその希求を直喩的に表現したものでありながら,上句の表わす欲求をそれ以上具体化する作用をほとんど持たない。一首は海の波にたゆたうように流れ,読後にはただ澄んだ印象だけが残される。そのような作りになっている。

 吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』において,「短歌的喩」という概念を提案したことはよく知られている。

 たちまちにして君の姿を霧とざし 或る楽章をわれは思ひき  近藤芳美

 この歌では上句が「像的な喩」として下句の意味を導くイメージを喚起し,同時に下句は「意味的喩」として上句の心像を支えている。上句と下句の互いに照らし合う反照関係が一首のなかに緊張感を生み出すとともに,読者のなかに像的イメージと意味とを有機的に関連するものとして送り届ける,そのような構造になっている。しかるに,山下の短歌はこのような構造を持たない。上にあげた四首目を例に取ると,上句「夕闇を少し砕きて呑みこめば」をすでに詩的圧縮はあるが何かの現実的動作と解釈しても,下句「尾に光浮き撫でる掌がある」が果して何かの喩なのかそれとも上句に喚起された幻想なのか判然としない。だから「扉を閉じて眸も閉じてあなたから輪郭を消す炎(ひ)を消すように」という歌を次のように改行して書くと,それとほとんど現代詩なのである。

 扉を閉じて
 眸も閉じて
 あなたから輪郭を消す
 炎を消すように

 上句と下句とが「短歌的喩」によって反照し合う構造は,鋭い緊張関係によって一首の意味を屹立させようとする表現意図に対応する。たとえば三枝昂之の『水の覇権』の次のような歌をその例として見ることもできよう。一首から立ち上がる心像とそれに支えられた意味は鮮烈である。

 誰れの志(こころ)を裁ちてひかりて落ちたるとあした畳に咲く冬の針

 山下の短歌に「短歌的喩」を弾機として上句と下句の反照関係を押し上げる構造がないということは,作者自身が一首の〈意味の屹立〉を目差していないということなのである。このようなスタンスは山下をもう一歩現代詩の地平へと接続させることになる。

 山下の短歌を読んでいて他に気づくことは,三句切れの歌が多く,二句切れがほとんどないことである。塚本邦雄は自分の歌の特徴として,初句に字余りが多いこと,二句切れが多いこと,結句に字足らずが多いことをあげたことがある。これは「俳句から逃れたい」という思いと,「上句への付け句に過ぎない下句を避けたい」という思いから出たものだとも述べている。塚本発言の文脈で眺めてみると,山下の上三句は俳句として読むことができるものが少なくない。

 1) 病廊は病巣のごとく野にうねる
 2) 水の髪そぞろに長き渡し舟
 3) 海に向くテーブルを恋う姉妹いて
 4) 裏梅を見にゆく旅の春の縁
 5) 胸の樹の小枝にかかる巣箱あり

 1) 羽曳野という古き解剖台
 2) 積み荷なる吾が髪はこび去る
 3) 一人はリュート一人は木霊
 4) 父やわらかく物を問う声
 5) 青葉の笛の鳥の音ぞする

 上の1)~5)が上句,下の1)~5)がそれに続く下句である。もちろんこれは,下句が上句への単なる付け句になっているという意味ではない。山下の修辞が,倒置法・転倒法・句割れ・句跨りなどの技法を駆使して短歌文体の革新へと向かうベクトルを内包するものではなく,むしろ叙法自体は古典的と言ってもよく,その修辞の苦心が主として語彙の連接と詩的圧縮によるイメージの喚起へと向かっていることを述べたいだけである。現代の短歌シーンでこのようなスタンスで作歌している人はあまり多くない。かつての中山明小林久美子松原未知子,それから早坂類あたりにわずかに似た傾向を感じるのみである。

 山下の詩的圧縮が遺憾なく発揮された歌をあげてみよう。

 夏の家の水栓とざし帰るとき魚鱗もつ水息ひとつ吐く

 やわらかき朴の木片削る子の手暗がり過ぐ夏の夜の櫨は

 雨を飼う白き部屋なりいまきみの舟形の靴が帰りつきしは

 兄の死の細き夕ぐれ街すべて鐘楼となる水の倒影

 ひらくほどに黙(もだ)ふかくなる梅園の光の底に足は届かず

 三つ編みは昏き蔓草 昼を編みほのかに垂れる夜のうちがわ

 一首目の「魚鱗もつ水」,二首目の「夏の夜の櫨」,三首目の「雨を飼う白き部屋」,四首目の「兄の死の細き夕ぐれ」といった語法に従来の短歌とは少し趣の異なる圧縮の掛け方があり,この辺りにいわゆる短歌的抒情とは微妙に質の異なる詩精神を感じてしまうのである。また五首目の「梅園の光の底」,六首目の「ほのかに垂れる夜のうちがわ」などには遠くリルケが感じられる。もっともリルケでは梅園ではなく薔薇園だが。

 栞に文章を寄せた河野裕子によれば,山下は寡黙な人だという。そうだろうと納得できる。饒舌からほど遠いこの歌集の啓く世界には静かな光が満ち満ちている。その光を浴びて歌集の世界の中を歩くとき,静かな喜びに充たされる。この歌集と出会えた人は喜ぶべきである。

134:2005年12月 第2週 光栄堯夫
または、切断面に眼差しを注ぐモダニスト

メスにより切り啓(ひら)かれた空間に
        きょうも漂う船は一艘

            光栄堯夫『空景』

 掲出歌は具体的な情景の写実的描写ではないと思われる。ふつう日常の空間がメスで切り開かれることはないからである。だとすると「メスにより切り啓かれた空間」というのは,何かの比喩と解釈するか,あるいは心的状態の詩的表現だと解釈するしかない。比喩だとすると,「メスにより切り啓かれたような空間」ということになり,例えば鋭角の変形ガラスを嵌め込んだ窓とか,壁と壁とのごく狭い隙間から海を眺めている光景になる。その狭い空間を通して見える海に船が一隻漂っている。一首をこのように解釈することもできる。しかしこれではいまひとつおもしろくない。ではこれを心的状態の詩的表現と解釈すると,「メスにより切り啓かれた空間」は思いがけず開示された日常空間の裂け目ということになるだろう。こちらの解釈の方が読みが深くなるようだ。それも作者が「切断」とか「切断面」に対して強い固着を示しているからである。

 光栄堯夫 (みつはな たかお)は1946年(昭和21年)生まれで,歌誌「桜狩」を主宰しており,『夕暮れの窓』,『現場不在証明』などの歌集の他,詩集・小説・評論集など数多くの著作がある。文芸のいろいろな領域を横断するマルチな人のようだ。『空景』は1999年の刊行で第4歌集に当たる。刊行年度が情報として重要なのは,本書が90年代後半に作られた歌を収録しているからである。90年代後半というと,95年に阪神大震災とオウム真理教事件があった。日本漢字能力検定協会はその年の世相を表わす漢字一字を毎年募集しているが,95年は「震」であった。山一証券などの大型倒産が相次いだ96年は「倒」,和歌山砒素カレー事件があった97年は「毒」,東海村バケツでウラン事件のあった99年は「末」が選ばれている。このような世相を反映して『空景』には黙示録的終末感の漂う歌が多い。「エヴァンゲリオン遺文」と「オウム真理異聞」と題された連作は,題名そのものが時代とのかかわりを示している。

 ひとつずつ失われてゆく物語傾く地平に坐して紡げど

 〈我〉よりも影が本体となる真昼あまたの死体を呑みし路上に

 血を薄め流した色に都市はいま明けゆく傷口を閉じられぬまま

 燃え尽きたものの記憶を刻みゆく地下深き闇の無辺に

 出家せし侠徒の青き頭頂は残月を浴び異臭放てり

 真に個人的な物語が失われる喪失」,私に代わって影が本体となる「私の希薄化」といった主題が,夜なお明るい都市を背景として紡ぎ出されてゆく。次にあげる歌も同じ主題の延長線上にある。

 捨てられた果実がひそかに香を放つ最終電車の過ぎたホームに

 固体なる証しの影も消え失せつここ過ぎて薄明地帯に入りたる

 もはや影などはなし点々となりたる我等街下に散らばり

 誰かが見た夢の後(あと)を辿ってる複製にしかすぎざるか我も

 固体としての凝集性を喪失して液化する私,影を失って無人称化する私,レプリカントに過ぎない私といったテーマは,現代都市を背景として短歌を作る人には馴染みのテーマであり,例えば生沼義朗菊池裕にも見いだすことができる。問題はそれを短歌にどのように詠うかという点にあるだろう。

 プロフィールによれば光栄は「個性」同人とある。「個性」は最初「近代」という名前で加藤克巳によって創刊された歌誌である。加藤といえばモダニズム短歌であり,その真骨頂は次のような歌に現われている。

 青いペンキはあをい太陽を反射(かへ)すから犬の耳朶が石に躓く

 不気味な夜の みえない空の断絶音 アメカリザリガニいま橋の上いそぐ

 寂として東京丸の内午前三時ルドンのまなこビル谷に浮く

 瞬時石割れ 内面匂う鮮しく 歪形なして褐色の紋

 白昼夢のようでありながら鮮烈なイメージ,違和感のある物の取り合わせ(傘・ミシン方式)による衝撃感,「歪形」「内面」「回転」などの硬質な漢語を短歌に織り交ぜたときに生じる異化効果,このような要素が伝統的短歌ともプロレタリア短歌とも異なるモダニズム短歌の構成要素である。モダニズム短歌がヨーロッパのシュルレアリスムなどの芸術運動から多くを得たことはよく知られている。

 光栄の短歌にはこのモダニズム短歌の影響が色濃く感じられる。例えば次のような歌である。

 地層を貫く痛みに触れて立ちつくす去年(こぞ)より低くなりたる街で

 戻れない位置にて眺む没陽は三角楕円となりて堕ちゆく

 冥(くら)き同心の輪を描きゆく燈籠は傾く永劫回帰の軸を

 透明な長管のごとき高速を車は液体となりて流るる

 螺旋状に引き裂かれてゆく 闇の深さを押し退け撓む夜のアイリス

 「地層を貫く痛み」という表現,「三角楕円」という有り得ない図形,「永劫回帰の軸」という漢語,また4首目に見られる喩と液体感覚は,モダニズム的感覚と言ってよい。しかし加藤においては表現の斬新さと新しい詩精神を唱道する芸術運動として捉えられていたものが,光栄においては現代の黙示録的状況を描く手段となっているところが時代の差である。

 このことは先にも触れたが,光栄が「切断」と「境界」に執着しているところにも現われている。

 吹く風に水面は割れて立ち上がり水無月の闇に眼を開きたり

 剥がれゆく継目を泌み出た廃液がしたしたとただしたしたと浸蝕し始め…

 地殻の裂ける無音が芯に響きくる滅びの支度(いそぎ)を整えて坐す

 足跡はどこまで続く青白き雪はひたすら境目に降る

「割れる水面」「剥がれる継目」「裂ける地殻」のようなイメージが繰り返し反復されるのだが,それは眼に見える現実に切断面を生じさせ,その奥にあるものを剔抉したいという作者の姿勢によるものだろう。従って光栄の短歌に浮上する〈私〉とは多くは「見る〈私〉」や「暴く〈私〉」であり,単に抒情する〈私〉ではない。しかし,なかには「音もなく立ち昇る霧首筋をひいやりと撫で…しめあげてくる」のように作歌意図が透けて見えすぎる歌があるのはいささか残念である。

 さて現代を黙示録と捉えたとき,人が取りうる立場はそれほど多くない。脱出の道はあらかじめ閉ざされている「脱出は未だならざり皇帝のいない八月いくとせ経たる…」 残るのは祈りであり,光栄がそのスタンスに立つとき生まれる歌はなかなか美しいのである。

 銃口を向けられたらば群青の空のごとくに澄むかたましい

 祈りには遠き両手をかざしおり汝がまなざしの波よりこぼれて

 逆光を背負いて歩くまだ影の伸びゆくを一つの祈りとなして

133:2005年12月 第1週 吉浦玲子
または、ハードな日々を働くママは喩を嫌ってモノへと

真より偽へブール変数ひるがへす
      ただ一行をつかまへかねつ

          吉浦玲子『精霊とんぼ』
 作者の代表歌というわけではないが,おもしろい歌である。「終日,デバッグ」と詞書きがあり,電機メーカーでコンピュータ関係の仕事をしている作者の日常のひとコマだろう。ここで言う「真」「偽」は日常的な意味ではなく,コンピュータ・プログラムを構成している命題関数の外延として数学的な意味で使われている。歌意としては「バグのあるプログラムの行が見つからない」というだけのことなのだが,それを「真より偽へひるがへす」と表現しているのである。たったひとつのバグを修正すると,まるで奇跡のようにプログラムが動作するという切り替わる感覚を「ひるがへす」という言葉で捉えようとした。私たちは動植物や生活雑貨に触れるとき,そこに何らかの感覚を生ずるのだが,今日の電脳社会ではコンピュータ内の仮想空間に触れるときにも,やはり何らかの感覚を覚える。空間自体はヴァーチャルでも,私たちが覚える感覚は現実のものである。短歌の世界はそのような領域にまで広がるのかもしれない。

 吉浦は短歌人会所属で『精霊とんぼ』は2000年に上梓された第一歌集である。跋文は短歌人会の先輩である小池光。プロフィールによれば,故郷の長崎県へ佐賀県から国見峠を越えていたとき,突然短歌を作ろうと思ったという。『精霊とんぼ』を取り寄せたら,「第一歌集への道」という吉浦の文章のコピーが挟まれていて,これがめっぽうおもしろい。歌集出版までの経緯を日録風に記述したもので,これから歌集を出そうと考えている人には参考になるだろう。やはり作り溜めた歌の取捨選択に大いに悩む姿がある。作り始めた頃の拙い歌を冒頭に持って来ることにためらいがあるのに,編集者から「あなたの歌は編年体がいい」と勧められたという話や,「あとがきが大事。あとがきで一発カマすつもりで書き,作品で(一定)の裏打ちをすること」という小池光の名セリフなど,歌集製作の裏側を見るようで興味は尽きない。

 吉浦自身は,「自分自身は〈思い〉を短歌で言いたいと思ったことはない。〈思い〉がない,ところから歌いだしたといってもいい」と述べている。この言葉が意味するのはおそらく,〈まず主題があって歌を作る〉というテーマ主義ではなく,日々の生から歌が滲み出して来る,そのような態度を短歌に対して取りたいということなのだろう。このようなスタンスから打ち出される吉浦の短歌は,当然のことながら日常の身辺に想を得たものであり,「折々の歌」というニュアンスの濃いものになる。

 ずぶ濡れのスカート重し唐突に虹と出会ひし陸橋のうへ

 吊革に身を寄するとき血のかすかにじめる爪のあはひに気づく

 論の上に論継ぎてゆくゆふぐれの窓の外(と)に猫の尻尾よぎりぬ

 ハンマーにて打ち砕きゆくパソコンは十年かけて作りこしもの

 クリップして書類置くとき身のうちにぬるくて甘きもの兆しくる

 「愛」に始まり「悪」へと続く教育用漢字データを入力しゆく

 駅のホームにフルーツ牛乳立ち飲みすいかなる果実の味かは知らず

 これらはまあ職場詠と呼んでよかろう。おそらく作者が一日のうちの最も長い時間を過ごす場所であり,当然歌の題材となることが多い。作者はハードな仕事の日々を送っているようで,「〈思い〉を短歌で言いたいと思ったことはない」という言葉とは裏腹に,なかなかに苦い思いが歌から滲み出ている。

 缶ビールわが開くるときかたはらにいねし子すこし身じろぎしたり

 人ごみを子に守られて揺られゆく風船ほどの幸と不幸と

 親権はわれにあれども子の籍は夫の籍に残ると言はる

 かたはらでなにかを言ふ時少年はキャンディの香の残る息をせり

 ふたり暮らしはさみしいなあと子は言ひてベーコンエッグのしろみを残す

 土下座して「茶髪にさせてください」と小学五年生言ふ真つ昼間

 次に多いのは子供を詠んだ歌である。結婚して子供ができ,離婚して母子ふたりの家庭になったことがわかる。働くシングルマザーの日々はハードだが,子供を見つめる眼差しは柔らかい。

 これらの歌を読んで気づくのは,近代短歌の定石となった上下句の照応と,前衛短歌以来の技法である短歌的喩を吉浦はほとんど用いていないという点である。「上下句の照応」とは次の有名な歌に見られる技法であり,永田和宏が「問と答の合わせ鏡」と呼んだものである。

 灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ  岡井隆

 さんざん論じられたことだが,この歌では上句「灰黄の枝をひろぐる林みゆ」に詠まれた光景が,下句の情意の短歌的喩となっているとされる。しかるに吉浦の歌ではどれを取ってもよいのだが,例えば「論の上に論継ぎてゆくゆふぐれの窓の外(と)に猫の尻尾よぎりぬ」は頭から一気に読まれるべき歌であり,一首のなかに〈切れ〉がなく,当然ながら上下句の照応は成立しない。窓の外を横切る猫は単に猫であり,何の喩にもなっていない。「上下句の照応」もしくは「問と答の合わせ鏡」は一首のなかに強い緊張関係を生み出し,現実とは解離した短歌の美的世界を虚数空間に描き出す効果がある。前衛短歌でこの技法が好まれたのはその故であることは言うまでもない。「上下句の照応」を峻拒して読み下しの歌を作るスタンスは,したがって前衛短歌とは逆の指向であり,現実を遊離せず逆に現実に降下しようとする意志を表わしていると言ってよい。喜多昭夫が「ズルムケ感」と表現した感覚に近いのである。跋文で小池光が,「どこをどう切っても徹底して〈現実的〉で観念の匂いがしない」と評しているのは,このことを指しているものと思われる。吉浦のこのような態度が「上下句の照応」と喩の不在として実現されていることに注意しておくべきだろう。

 集中でおやと目を留めたのは次のような歌である。

 舌の上にいまのりてゐるトローチの真中の穴の作用は知らず

 こらふるとしまし見えしが屑籠は書類の束を抱きて倒るる

 同じ短歌人会の先輩である草食獣吉岡生夫の歌集にあってもおかしくない歌で,歌に詠まれた題材のあまりの「そのまんま感」がかえってユーモアとなり笑いを誘うものとなっている。この「そのまんま感」は上に引用した歌に見られる「どこをどう切っても徹底して〈現実的〉で観念の匂いがしない」感覚と通底していて注目される。かつての抒情的世界を敢て壊し,たただごと歌 (と見まがう歌) に転じた小池光も大いに推奨するところだろう。

 困難な状況にある現代短歌の進む道のひとつとして,このように「そのまんま感」を前面に押し出すことで,歌のなかに少なくとも現実の手触り感を確保しようという「橋頭堡作戦」が有効であるという主張は認めてもよいかもしれない。ただ私は個人的には姿勢を低くして現実を詠う歌よりも,現実を突き抜けた別の空間へ届く歌の方が好きなので,『精霊とんぼ』では次のような歌に注目した。

 さんぐわつに逝きにし人の黒ぶちの眼鏡もぬくき地より芽ぶかむ 

 ふた粒の緋色の錠剤おつるときほのか灯らむ器官のうちら

 水の面を切らば楽しもうすあをき布をひろげて裁つゆふまぐれ

 たましひにとほく生活(たつき)に苦しみてさ夜更けに飲む「六甲の水」

 朝(あした)来し千石西町路地の果て朝顔に会ふ運命のごとく

 キャバレーの電球ネオン昼なれば電球の形くまなく晒す

 給水塔銀色くらく立ちてをり少年野球の球のかなたに

 一首目では眼鏡が地中から芽吹くという想像のおもしろさもさることながら,「さんぐわつ」の平仮名表記と「ぬくき地」の照応が心地よい。二首目は自らの身体の内部を覗き込む歌で類歌は少なくないが,錠剤の緋色と「ほのか灯らむ」の色彩描写がよいと思った。三首目は集中では珍しく幻想に遊ぶ歌で,時間を超越したような静かな世界がなかなか美しい。「そのまんま感」の対極にある歌であり,「ゆふまぐれ」の好きな私としては気に入りの一首である。四首目は「たましひにとほく」という表現に切実な想いが感じられて惹かれた。五首目は「千石西町」という固有名が効果的で歌に表情を与えており,「運命のごとく」という直喩も所を得ている。六首目は「電球の形くまなく晒す」に発見がある。七首目は巻末歌で,明るい未来を暗示する「少年野球の球」と,給水塔の「銀色くらく」という描写が鋭い明暗の対比をなしていて,一首の中に奥行きある対位法を形成している点に技がある。

 吉浦の近作は自身のホームページに掲載されている。いくつか拾ってみよう。

 梅雨の雨やみたるあはひ街路樹のしたに広がりゆかむ地境は 

 黄色なる線のうちらにゐよといふ天啓ならめ朝に聞きつつ

 泣かしても泣かされぬやう愛恋のみづのかたへにとどまりてゐよ

 足首まで水は浸すとおもひつつ電飾の彼の岸まで渡る

 荒びたる風の夜にて渡りゆく橋の下なる水のしづけさ

 これらの歌を見る限り,吉浦の作歌触手の伸びる範囲は確実に広がっているようである。職場詠・生活詠の多かった第一歌集とは異なり,これらの歌には現実を出発点としながらも,現実に還元しえない何物かが異物として歌の核を形成している。吉浦は確実に歌境を深めているようだ。

吉浦玲子のホームページ「シンプル短歌生活

132:2005年11月 第5週 花山多佳子
または、現実の背後にコワイものを感じてしまう感受性

乳母車押しゆく五月かたわらの
    花叢をはや過去となしつつ

         花山多佳子『楕円の実』
 花山の歌のほとんどは端正な定型短歌であり、措辞に特に難解なものがあるわけでもなく、奇抜な比喩もないので、歌意の理解に苦しむようなものは少ない。また一首のどこに焦点があるのかもはっきりしている歌が多い。しかしよく読むとどこか不思議な感覚に捉えられることがある。掲出歌もそうである。産まれた子供を乳母車に乗せて道を歩いているという日常の情景で、道端に花が咲いている。ここまでは何と言うこともない。〈私〉がその傍を通るとき、花群は過去のものとなると詠っている。前に見ている花群は、確かに通り過ぎれば後ろに退く。当たり前のことである。しかしそのことが「はや過去となしつつ」と詠われると、「はや」という副詞の効果も与って何か有り得ない不可思議のことのように感じられてしまう。花山が歌の題材にするのはどれもこれも日常生活のありふれた光景なのだが、慣れ親しんだ人の顔でもじっと見つめていると見たことのない人のように思えてくることがあるように、花山は時に異常と言ってもよいほど鋭い感受性で日常の中に不可思議を発見するのである。

 花山は1978年(昭和53年)に第一歌集『樹の下の椅子』で短歌界に登場した。あとがきには、それまで短歌を読むことすらなかったのに、「京都での大学在学中、寮生活から下宿に移った頃、唐突に短歌を作り始めた」とある。しかし花山の父は歌人・玉城徹であり、家庭のなかには短歌が大きな存在を占めていたと推察される。『樹の下の椅子』には、60年代の後半から70年代の始めにかけての学生運動が影を投げかけている。花山が学生運動にどの程度関わったのかはわからないが、花山が在学していた同志社大学はいわゆる過激派の拠点のひとつだった。「意識不明の友の病室出でくれば炎天に笑み私服待ちいる」のような歌は、時代背景を考えなければ今ではその意味を読み取ることすら難しいだろう。「爆弾がわが手にあらば真昼この都市は静けく来たらんわれに」のように勇ましい歌もあり、青春を感じさせる相聞歌も集中にはあるが、どうしても目が行ってしまうのは次のような歌群である。

 空間に半開きの扉(と)のある夢を怖れて時に現実(うつつ)に見たり

 紺青の空をかきわけかきわけてゆく手の遂に重たかりき

 ランボーの詩片埋めし一季節いづれの窓も半開きにて

 語り合いし未来のように手より落ちにおいなつかし饐えし果実は

 数珠つなぐ如く未来はさびしかり古典的なるジャズ聴きながら

 がらんどうの午後の電車の明るみに閉ざされており外はしぶきて

 しかたなく洗面器に水をはりている今日もむごたらしき晴天なれば

時代背景という物差しを当てて歌を読み解く人ならば、昂揚した学生運動が水を浴びせられたように収束した閉塞状況に置かれた青春の歌と見るかもしれない。そのような読み方も確かに可能である。青春のシンボルともいえる詩人ランボーも詠み込まれており、未来は決して明るいものと捉えられてはいない。しかし時代というファクターを捨象しても、これらの歌には花山の歌人としての感性の核のようなものが見てとれる。『樹の下の椅子』に跋文を寄せた師の高安国世は、花山の「異常に近い感受性」を指摘し、「閉ざされた中から外を想像し、あるいは望見している趣の歌が多い」と述べているが、花山を近くから見守っていた人だけにさすがに鋭い指摘である。

 花山の歌には半開きの戸や窓がよく登場する。上にあげた歌の一首目と二首目がそうだ。第二歌集『楕円の実』にも、「抽出しはみな少しずつ開(あ)いている真昼の部屋に入る蔓の先」という歌がある。ここでテーマ批評に踏み込むとすると、半開きの戸や窓が象徴しているのは何だろうか。それは一種の現実恐怖ではないかと思う。半開きの戸の向こう側には何があるかわからない。また半開きの戸からは自己が承認したくないモノが入ってくるかもしれない。そのような漠然とした恐怖感が根底にあるのだと思う。錠前と鍵のように、また手と手袋のように、〈自己〉と〈現実〉とが隙間なくぴったりと重なり合う関係を一応理想的状態とおくならば、ここには〈自己〉と〈現実〉との間に埋めがたい隙間があるという感覚、また〈自己〉と〈現実〉の間を半透明な膜が隔てているという感覚がある。この隙間が作者を言いしれぬ不安に駆り立てているようだ。

 果肉のごとつまる頭を支えつつ歩む春なりまっしろの空

 午後遅き光かすかに熱もちて線路にさせば何か不穏なり

 脳髄にひしめく蔓のはみ出してゆくと触(さや)れば闇に髪あり

 ベンジャミン・ゴムの葉影は秋の夜の曇りガラスに拡大しており

 「果肉のごとつまる頭」や「脳髄にひしめく蔓」という表現は尋常ではない。少しばかり神経症的な感じがするくらいである。「すこやかに厨に伸びし異母妹(いもうと)の脚触れがたし生まれきしより」、「光ささぬ机の痕(きず)を粘土もて型とりおれば佇ちし父の影」、「父母がわれの傍えに在りしこと嘘のごとくに記憶のあらず」などの歌に見られるように、父親が家族を捨てて去ったという経験を持つ作者であるから、これらの歌に見られる現実恐怖や不安感の原因をその経験に求めることもできるが、それはあまりに安直な俗流心理学だろう。

 さきに花山の歌は歌意が明確で難解なものはないと書いたが、実はよくわからない歌もある。

 中空を皿が割れてすべり落ちてくる白い白い音もなく白い

 薄暗き硝子戸のそと紐流れ朝より寒くなりし頭蓋か

 睦月二日怒り兆して鎮まれるのち曇天に巻貝想う

 中空に皿が割れるというのは夢なのか幻視なのか定かでない。ガラス戸の外を紐が流れるというのもふつうではないし、曇天と巻貝の連想もよくわからない。日常的な現実描写を基本とする花山の歌のなかにこのような歌を発見すると、何か意識がフッと飛んでしまう瞬間に立ち会っているようだ。黒瀬珂瀾は自身のホームページで、花山の短歌にはコワイ歌があると述べているが同感である。実は現実を緊密に描写していると一見思える歌を読んでいても、コワイ歌があることに気づく。

 すがたなき鳥声充つる団地のなか耳澄ます子はとがりゆくなり

 紫陽花の葉うらにいたる少さき蜘蛛すばやく降りぬわが眼前を

 くさはらの低き一樹にびっしりと鳥あつまれば木の顫え見ゆ

 団地のなかに姿の見えない鳥の声が充満するという場面設定からして、ヒッチコックの映画のようだ。その声に耳を澄ませる子供が次第に尖ってゆくのは感覚的表現であるとしても、どこかにコワイものが感じられる。紫陽花の葉の裏にいるクモを詠んだ二首目も、視覚が異常に拡大されているために、単なる写実とは感じられない。三首目も鳥の歌で、小さな木に多くの鳥が留まれば木が揺れることもあろうし、この歌はその情景をそのまま詠んだものと取ることもできるのだが、描写の奥に何かヒンヤリした感覚が残ってしまう。

 これが高安の喝破した「異常に近い感受性」なのだろうか。絵画表現において現実をあたかも写真のように微細に再現するハイパー・レアリズムという技法があるが、ハイパー・レアリズムで描かれた絵をじっと見ていると、あまりに写真的であるがために逆に幻想絵画のように思えてくる瞬間がある。花山の短歌を読んでいると、それと同じ感覚にふと捕われることがある。それが作者の意図したことなのかどうかはわからない。おそらくそうではないのだろう。しかし結果的にこの不思議な感覚が花山の短歌の大きな個性となっていることは否定できないのである。

131:2005年11月 第4週 高木 孝
または、文体の模索者はどの井戸を掘るか

茹で加減よろしきパスタ半分こ
      模様のちがふ皿に移しぬ

           高木孝『地下水脈』
 アルデンテに茹で上げたパスタを盛りつけているのだが,自分と妻の皿は模様がちがう。新婚で持ち寄った食器がばらばらなためか,それとも二人の趣味が異なるためか,理由はわからないがとにかく二人の皿の模様がちがう。模様の異なる皿からパスタを食べていても二人の心は通い合っていると読むこともできる。共に暮らしていても深いところで好みがちがうと読むこともできる。文語脈に「半分こ」という親愛関係を共示する口語を混入して作られたこの歌は,文語と口語の混在の中に男女の関係性の淡さのようなものを流し込んでいて,今の短歌界の空気感をほどよく反映しているように見える。

 高木孝は1968年 (昭和43年) 生まれで,同人誌「ぱにあ」同人。『地下水脈』は2004年に刊行された第一歌集である。564首の歌が収録されており,歌集としてはかなり大部の本である。歌集を刊行するときには,ふつうは作り溜めた歌のなかから取捨選択し,編年体なり逆編年体なりテーマ別構成なりのなんらかの編集作業を施して出版する。そのなかで最も難しい作業は歌の取捨選択だろう。どれを採りどれを落とすかに歌人は頭を悩ませる。聞くところによると,編集者から「もう少し歌を刈り込んだらどうか」と勧められたとき,高木はそれを拒んだそうだ。それは作者の意志であるが,そのためにこの歌集にはさまざまな文体が並列され,通読したときに一人の作家のイメージに収斂することなく逆に拡散する結果になっている。それを瑕疵と見るか豊饒と見るかは人によって異なるだろう。

 高木の文体の振幅は有り得ないほど大きい。それは「アララギに前衛にライトヴァースに間に合はずほのぼのと遅刻者」という,歌人としての出発点で直面した時代的状況の認識に基づいているのだろう。明治以来の近代短歌の作歌法と,それを前提とする感受性に寄り添うようにして作られた歌がある。これらを「旧短歌回路」の歌群と呼んでおこう。

 海浪は無へ急き立つる底知れぬ習ひありとて両肩冷ゆる

 妻はわが腕に縋りてウェディングドレスの裾が見ゆと船尾に

 白じろと骨明かりする珊瑚礁むれ行くうをの衣装かなしき

 濡れそぼつ白樺木立いちめんに尾根越えかねしむら雲の霧

 手あつれば水面となりて奔流の奥処に目覚めたるいのちあり

 最初の3首はモルジブへの新婚旅行の折りの歌,残りは上高地旅行に際に詠まれた歌である。どうも高木は旅行詠になると「旧短歌回路」の感受性が発現するらしく,このタイプの歌が多く見られる。特に4首目の「濡れそぼつ」などはアララギばりの叙景歌であり,レーモン・クノー風の文体練習かあるいはパスティーシュを試みているのではないかという疑念を払拭することができない。

 かと思えばずっと口語脈に接近した次のような歌もある。

 あの,思ひ出すと少しく胸傷むホットケーキさおいしかつたね

 たづたづし林檎剥く手に成されゆくでこぼこ道をきみとあるかう

 ぼくたちは何思ひ出し夕渚をかしなくらゐ泣きじやくつたね

 ポケットから林檎の芯が そんな目で俺を見るなよ仕方ないんだ

 栞文を書いた荻原裕幸は「1990年代以降のある種の傾向をまねてみせた,という印象がある」と評しているが,そのような感想を抱くのは無理からぬところである。このような傾向を「新短歌回路」と呼んでおこう。歌集を通読すると,高木の歌は「旧短歌回路」と「新短歌回路」とに分裂しているように見える。ふたつの回路を意識的に転轍あるいは架橋しようと意図は,この歌集を読む限り見えてこないのである。

 さらに「ブルレスケ」と題された歌群がある。こちらはマンガばりのユーモアと諧謔が満載で狂歌に近い。

 缶詰そのものの味して起ちあがるそれでもいいが何この値段

 コロンビア豆の挽きたてよりあなた最後に風呂に入つたのいつ

 舗装したばかり山茶花散らしては相撲取り集団でジョギング

 クリスマスライト華やぐ家見れば電気コードは延びる隣家へ

 なぜ高木の歌の文体はこのように多面体を成しているのだろうか。思うにそれは,歌を生み出す感性の核となるべき〈私〉の位置を,高木がまだ定めかねているためだろう。上に引用した歌にもあるように,高木には「ほのぼのと遅刻者」の自覚がある。近代短歌,前衛短歌,内向の世代,体性感覚,ライトヴァース,記号短歌など,さまざまな歌の意匠が出尽くした後に高木は作歌を始めた世代である。この世代の歌人には,自分たちは廃墟から出発せざるを得なかったという思いがあるのかもしれない。

 このような状況に置かれたとき,人はさまざまな態度を採りうる。「過去なんか知らないもんネ」と尻を捲るならば,歴史性とは完全に断絶した短歌を作り始めるだろう。このような「超・新短歌回路」にのみ通電して歌を作っている人たちもいる。しかし高木はどうやらそうではないらしい。図書館に通って短歌総合誌や歌集などを読み耽っては,ひとりで短歌を作ってきたという。またあとがきでは,「歌作は孤独な行為だが,自分の井戸を掘り下げることで他に井戸を掘っている人たちとつながりたい」という意味のことが書かれている。だから高木は決して歴史性と断絶した「自分だけの回路」を作ろうとしているのではない。これはある意味で実に正統的な態度なのだが,このような方略を採用することで高木のなかに「旧短歌回路」と「新短歌回路」が併存するという状態が帰結したと思われる。そして「もう少し歌を刈り込んだら」という編集者のアドバイスを拒んだということは,高木は「現時点においてはこの状態でよい」という選択をしたのだろう。それは作家の責任においてであるからそれでよい。しかしいつまでもそのような状態を続けて行くわけにもゆくまい。いずれはどの井戸を掘るのかを選ばなくてはならない。そのとき初めて他の誰のものでもない高木の〈私〉が多様性の中から立ち上がるはずである。

 高木の「旧短歌回路」への歴史意識は,選択された定型文語形式と頻出する古語・枕詞に見てとれる。

 さねさし相模のまこもかる大野かはらぬひとに会ふ心地する

 あしきひの猟夫(さつを)がむかし踏みき妻も胎にゐる子も視よ深き山

 あまつかぜ親の都合といふ櫂が宿命的に子を振り回す

このような古語の意識的再生(リサイクル)は,現代短歌の若手歌人に散見される現象で,沢田英史江田浩司らがその代表格だろう。

 たまかぎるゆふべの雨の水たまり秘話のごとくに草蔭を占む 沢田英史

 夕空の櫂漕ぎゆくは月草のかりなる命曳きゆくわれら  江田浩司

 沢田の場合は意識的に古語・枕詞を使用することで,現代を描く一首のなかに遙か時間を遡る時代を透かし彫りにすることで,意味の重層性を増そうとする意図が見られる。また江田の場合は現代詩をも視野に入れた様々な文学的試行の一環として古語・枕詞の使用がある。ひるがえって高木の場合はどのような意図のもとになされているのかというと,今ひとつわからないというのが実状である。この面においても高木の歌には,文体練習あるいはパスティーシュの感がつきまとうのである。

 さあれここまで振幅の大きな文体で書き分けるというのは,並々ならぬ膂力と勉強の蓄積のなせる業であることはまちがいない。今度は統一感のある自分の文体で登場してもらいたいものだ。文体の発見とは〈私〉の発見に他ならない。『地下水脈』のなかでは次のような歌に最良の部分があると思う。

 古代メソポタミアの廃墟に吹く風か会話の少女降りし車両に

 張り初めし氷のうへを行くわれの耳たぶうすき生と思はむ

 ものがたり明日には消えむ時じくの雪ふる肌に肌を重ねつ

 名くはしき青葉区青葉台まこと銀紙貼りしごときさみしさ

 またきみと巡り合ふため眉しろきメリーゴーランドの馬に乗る

 蔵出づればたそがれ回し読みしたる雑誌と指に沁みるひぐらし

 差異はつかなれど一滴づつ落ちる雨のよろこび全身に受く

130:2005年11月 第3週 内藤 明
または、依るべきものなくして今を生きる〈私〉の歌

象さんの鼻となりたるわが弓手(ゆんで)
     背には殺意の馬(め)手遊ばする

          内藤明『壺中の空』
 おもしろい歌である。左手が象さんの鼻になっているというのだから,たぶん幼い子供と遊んでいて左手を振り上げ「ゾウさんパオーン」をしているのだろう。日曜日の家族の穏やかな風景である。ところがその反面,右手は背中に廻されて殺意を秘めている。団地暮しの平凡な勤労者としての私の中にも,内面深く仕舞われた志がある。この日常と理想という対比を弓手と馬手という古語に配分して,古格の香りの漂う一首に仕立てあげている。この歌に形象化された日常と理想との葛藤は,内藤の短歌の深層に流れる海流であり,内藤の歌はいかなる形態を取ろうともある意味で述志の歌なのである。

 内藤明は1954年 (昭和29年) 生まれで,早稲田大学文学部を卒業したのち,高校教員を経て現在母校早稲田の教員として日本文学・文化を教えている。第一歌集『壺中の空』(1991年),第二歌集『海界の雲』(1996年),第三歌集『斧の勾玉』(2003年,芸術選奨文部大臣新人賞・寺山修司短歌賞受賞)がある。今年 (2005年) になって邑書林のセレクション歌人シリーズ『内藤明集』が出版された。解説は藤原龍一郎。『内藤明集』では第一歌集『壺中の空』が完本収録されており,第二歌集『海界の雲』と第三歌集『斧の勾玉』は抜粋でわずかの歌しか載せられていない。セレクション歌人シリーズのようなアンソロジーの場合,どの歌集を重点的に採録するかが問題となるが,歌人にとって出来映えに自信のある近作に重点を置く傾向がある。『内藤明集』では第一歌集に極端な配分が見られるが,この選択にはプロデューサーである藤原の意向が強く働いたと考えるのが妥当だろう。あとがきには第一歌集は内藤本人の手許にも一冊しか残されていないとあり,入手困難になっているという事情がまずある。しかしそれよりも,歌人としての内藤の資質が第一歌集においてすでに十全に開花していることを世に示したいという選択があったと推察される。

 巻末に収録された藤原龍一郎の解説は,内藤が生きてきた「時代」に重点を置いたものである。1954年生まれだから,大学紛争に終止符を打った東大安田講堂攻防戦のあった1969年には15歳,三島由紀夫自決の年1970年に16歳,連合赤軍浅間山荘事件の1972年に18歳,ベトナム戦争終結の1975年に21歳である。60年代の終わりから70年代の初頭にかけて青春時代を過ごした世代には,積極的に参加したかは別として左翼運動や社会運動に心情的に親近感を覚えた人が少なくない。内藤もまたその一人であり,短歌的出発は1975年21歳の頃であるが,70年代という時代の刻印は痛いほど内藤の短歌に刻まれていて,同時代を生きた人間にはそれがよくわかる。

 イルカショー見つつ終はれり英雄をもたざるわれらの裏切りの夏

 青春を追ひてそのまま帰らざる君を探しにゆく地下酒場

 仁王立ちとなりて得意のポーズの子いまだ歩行を知らざり,知るな

 三人の家族が囲む卓上に切られざるまま梅雨越す檸檬

 橋越えて町に入りゆく夕まぐれわが友ユダの血は身をめぐる

 からつぽの手をぶらさげてゆふぐれを帰りてゆかむ一人の海へ

 身を賭して戦はざりし悔しみを哄笑の中に飼ひ慣らしゆく

 一首目の「英雄をもたざるわれら」は時代の旗として掲げるべき理想を喪失した状態をさしており,「裏切りの夏」はかつてあり得た理想に背を向けた罪悪感の反映である。二首目は寺山修司を思わせる青春短歌で,地下酒場ではかの国の民謡が歌われていたのかもしれない。三首目はまだ満足に歩けない我が子を詠んだものだが,結句の「知るな」という厳しい呼びかけが胸を突く。本来ならば立てば歩めの親心なのだが,逆に歩くなと願うのは,歩くようになると争いを知り挫折を知るようになるからである。四首目は梶井基次郎の檸檬の本歌取りだが,内藤の歌では檸檬は爆発する気配は一向になく,梅雨時の卓上で虚しく腐敗してゆくのである。同じ檸檬を詠っても,江畑實の「下宿までいだく袋の底にして發火點いま過ぎたり檸檬」では青春の蹉跌を詠いながらもそこには甘い感傷がある。内藤の檸檬に沈殿する自己の不全感と苦さとはかなり位相が異なるだろう。五首目では自分をキリストを裏切ったユダに比定しており,その意味するところは明らかである。六首目の「からつぽの手」が示す徒手空拳の想い,七首目の「身を賭して戦はざりし悔しみ」も,魂に染みる同じ黒点に発するものである。このように『壺中の空』全編を通じて通奏低音のように響いているのは,「拠るべきものなくて現在を生きる〈私〉」であり,「日は暮れ時は澱む」という想いである。

 このように内藤の短歌には時代が深く刻印されているのだが,同時代的体験を持たない読者が読んでも十分に共感できるだけの一般性を備えている。「拠るべきものなくて現在を生きる〈私〉」は私たちの大部分が現在置かれている情況そのものであると言えよう。しかしこのような視座に立ちながら,内藤の短歌は過度に情緒に流されたり,ことさらに偽悪的態度を取ることがなく,自己の現実の位相を誠実にまた知的に見つめようとする態度に貫かれている。

 一匹の孤狼であれば聴こえぬか風よ悲傷のマンドリンはや
                     福島泰樹『柘榴盃の歌』

 不義にして富むニッポンの俺である阿阿志夜胡志夜(ああしやこしや)こは嘲笑ふぞ
                     島田修三『晴朗悲歌集』

 内藤より10歳年長の福島は炸裂する抒情と酒のなかに自己を溶かし込むことで,この世の流れに拮抗しようとしている。内藤と1歳ちがいの島田は偽悪的態度の醸す毒を辺り構わず撒き散らすという戦略で,時代の毒に毒をもって対抗している。内藤の短歌はこういった戦略とは異なる視座から生み出されているため,おとなしく地味だという印象を与えることがあるかもしれない。第一歌集『壺中の空』は確かにその印象は拭えない。

 内藤の歌は〈私〉と時代とがこすれ合うところに生まれるものであるから,おのずから文明批評的性格を帯びることになる。

 ダーウィンの呪文のままに過ぎゆきし近代と呼ぶ鉄器の時代

 「滅びるね」― 軽々言ひし先生と会ふこともなく世紀は昏るる

 白き傘を親子がかざすバルコニー放射能入りのチョコは溶けゐむ

 「ダーウィンの呪文」とは適者生存であり,鉄器とはもちろん武器をさす。近代は発達した武器による大量殺戮の時代である。二首目は夏目漱石への言及で,明治時代に漱石が登場人物に語らせた文明批評は今でも有効なのだという認識がここにある。三首目は核時代を生きる我らの上に吊されたダモクレスの剣を詠っている。 

 森深くきらめくものに歩みより欠けし鏡にわが影を見る

 骨二本折れたる傘を差してゆく春の長雨(ながめ)の止むところまで

 「欠けし鏡」とは失墜した理想であり,自分の姿は欠けた鏡にしか映らない。このように内藤の歌のほとんどは自画像であり,ネガティヴな形を取りながらもまぎれもない述志の歌なのである。

 ところが内藤の歌は第二歌集・第三歌集と進むにつれて,性格が微妙に変化している。今回はセレクション歌人シリーズ『内藤明集』のみを読んだため,第二歌集以降の歌数が少なく物的証拠にいささか乏しいのだが,解説を担当した藤原も,第二歌集では発想の自在さが現われており,第三歌集では「存在の不全感」が昇華されて自然体とでも呼ぶべき新たな認識に至っていると論じているので,私の受けた印象もあながち間違っているとも言えまい。

 獅子の肝(かん) 山羊の胆(たん)などもちたらば楽しかるらむ心(しん)はいかにせむ 『海界の雲』

 白黒(シロクロ)の路地より出でて神田川越えむかきのふの恋にあふべく

 世紀二つ跨ぎて帰るゆふまぐれ鉄路のわきに揺るるコスモス

 みづがみづをうつおと聞こゆひむがしの青かぎりなき空の奥より    『斧の勾玉』

 一人(いちにん)が目を遣り二人が見下ろしてわが覗き込むホームの側溝

 水辺に棲みゐし遠き朝のごと空のどこかが開かれてゆく

 二度三度帽子の位置を正したりその中心に死を迎ふべく

 確かにやや発想にワンパターンの感のあった第一歌集と比較すると,歌を汲み上げる発想の源に多様性が見られるようになっている。また自己不全感を基調とする自画像の歌も少なくなっている。例えば「一人が」の歌を見ると,側溝に何があるのか知らないが,一人が目をやれば周りで電車を待っている人もつられて見てしまうという日常の光景を詠んでいるのだが,だからといって大上段に何かを批判しているわけでもなく,どこかおかしみが漂う歌になっている。そこに大人の余裕が感じられる。内藤は〈私〉と〈時代〉のこすれ合いという身を削る現場から,一段階メタレベルへと視点を上昇させる視座を獲得したようだ。それが歌の変化となって現われているのである。

 しかしだからといって「拠るべきものなくて現在を生きる〈私〉」という情況が変化したわけではない。ポール・リクールの云う「大きな物語」が消滅した今では,私たちは手を替え品を替えて,その場その場で局地戦を戦うしかない。あるいは外部に「拠るべき体系」が不在であるとしたら,それを内部に求めるか作り上げるかしなくてはならない。内藤がこの問いにどのような答を出すのか,それを見てみたい気がするのである。

129:2005年11月 第2週 柏原千恵子
または、物と出会う〈私〉は関係性の網の中

とぶ鳥を視をれば不意に交じりあひ
    われらひとつの空のたそがれ

        柏原千恵子『七曜』126号
 柏原千恵子の歌を知ったのは,角川『短歌』2004年8月号の特集「101歌人が厳選する現代秀歌101首」においてである。紀野恵が掲出歌を秀歌として推薦し,弟子が師に寄せる暖かい文章を寄稿していた。私はこの歌の圧倒的な美しさに打たれてしまった。最初は空を飛ぶ鳥とそれを見ている〈私〉とが客体と主体として独立に存在しているのだが,両者は〈見る・見られる〉という関係性を梃子としてある時ふと合一し,その後にはただたそがれの空だけが残されている。このように解釈したい。この歌を伝統的な古典和歌の世界観である人間と自然の融合の延長線上にあると見ることももちろん可能である。しかし私はそれよりも,〈見る・見られる〉という関係性が内的に孕んでいる「〈私〉の滲み出し」と考えてみたいと思う。なぜ〈私〉が滲み出すのか。それは,〈私〉が対象を見て認識することにより,〈私〉と対象とのあいだに一回性の抜きがたい関係が生まれるからである。この関係性が一旦確立すると,関係の一端にある対象は〈私〉を構成する要素と認識されるようになる。だから〈私〉は世界へと滲み出すのである。短歌という形式は他のどのような文学形式にも増して,この「〈私〉の滲み出し」が強く働いており,この「滲み出し」を弾機として一首のなかに世界を立ち上げる,そのような構造になっている。

 柏原千恵子は大正9年生まれで,『未来』と『七曜』に所属し,徳島に住んで歌を作り続けている。私は第三歌集である『飛来飛去』のみを読んだのだが,これ以外に歌集が二冊というのは寡作の歌人である。

 柏原の歌の特徴は,上に述べたような意味での「〈私〉の滲み出し」による〈私〉と対象との関係性の濃密さにあり,ここから立ち上がる世界の実在感に真似のできない独特なものがある。

 ひと去(い)にて忘れてゆきしハンカチはひとり不思議な在りやうをする

 拾はねばいつまでもそこに菊の葉の落ちてゐて夜の疊となりぬ

 圓筒の紙屑入れはいくばくの疊の距離の夕さりに立つ

 さるすべり花の重みに撓みゐるこの眼前(まなさき)のぬきさしならぬ

 その觸(さや)りまだてのひらにありながら水切りの石水切りて無し

 戸棚よりゆふべとり出す藍の濃き皿繪の魚と深くあひあふ 

 一首目の置き忘れられたハンカチ,二首目の畳に落ちている菊の葉は,それ自体を取り出せば何でもない物体でありながら,対象を認識する〈私〉との関係性の網の目に補足された途端に「不思議な在りやう」をするようになる。読者はここにひとつの世界が立ち上がる瞬間を感じるだろう。三首目の屑籠もまた,〈私〉から「いくばくの距離」に立つことにより〈私〉との関係性に搦め捕られて,まるで個性を付与されたかのような実在感を帯びるようになる。四首目のさるすべりの歌は,まさにこの〈私〉と対象との「ぬきさしならぬ」相互規定性の重みを詠ったものと解釈できる。五首目はたった今まで掌の中にあった石の不在が詠まれており,これもまた同じ文脈で理解できよう。六首目は特に心を打たれた歌である。掲出歌の「われらひとつの」と通じあう「深くあひあふ」という結句の重さのなかに,作者が対象と向き合うときの一回性の関係の深さが感じられる。

 作者は老齢ながら毅然と独り暮らしを続けていて,何かの手術も経験したらしいことが歌から読みとれる。しかし自らのそのような日常を視る眼差しは静謐の一語に尽きる。

 生きのこり生きのこれるは日常の底ひに冷ゆる桃をはみをり

 内蔵の缺けしところをあたらしき闇とぞなして身を運ぶなり

 待つなくて待たるるなきはましづかにいたくかそかに溢れていたり

 鰈の身まふたつに切る一隅がありてひとりにわが住まふなり

 テーブルを拭ふわが手の動きをり動けりひとつ永遠のなか

 鹽少し小瓶に殘りあかねさすこの人界の朝の食卓

 待つ人もなく人に待たれることもなく過ぎる一日,台所で鰈に包丁を入れる動作,テーブルを拭く自分の手の動きといった何でもない日常の些事が詠われているが,この実在感と一首に流れる空気の濃さはどうだろう。「物と逢う」ことは取りも直さず「〈私〉と逢う」ことに他ならないという事実をこれほど感じさせてくれる歌は少ない。塩入れに少し残った塩という些事すらも歌になる。短歌界ではときおり短歌における「主題性」をめぐる議論がかまびすしく行なわれることがあるが,柏原のこのような歌を読んでいると洒落臭いとしか思えなくなるのである。

 川端康成に確か「末期の眼」というエッセーがあり,末期の眼で眺めた世界は今まで見たこともないような新鮮な表情をしているという趣旨のことが書かれていたと記憶する。いかにも文藝の根幹に死を据えた川端らしい物言いである。『飛来飛去』に収録された歌のなかには,まるでこの末期の眼で見たかのように感じられるものがある。それはまるで夕立に洗われて磨かれた清々しい黄昏の大気のようだ。

 ひたすらにひとつ蝉なき澄み入るは死後のはろけき時のなかにや

 すでに世を離れしもののごとく来て雪敷く飛騨の町に眠りぬ

 われ在りてこの現世(うつしよ)の夕ぐれの水に浮く茄子しづめるトマト

 もののかげ忘じをはりて初夏未明ただしろがねの水ならむとす

次の歌は柏原の歌人としての覚悟を示すものと受け取りたい。

 詩ありきそれはほとんど水の聲この惑星に興(おこ)れるものの

 ともし火をかかげきぬればかかげたる歌ことごとく返し歌なる

 詩はほとんど水の声とは,この水惑星に遍在しながら形を自在に変え静かに流れ行くものに詩を喩えたものだろう。また自分の歌はすべて返歌であるとは,ひとつには過去の膨大な歌の世界の存在を意識すれば自分が新たに作る歌もその大きな世界への呼応でしか有り得ないという意味であり,もうひとつには歌とは〈私〉と世界の事物が織り上げる網の目の中で,呼ばれ呼び返すという関係性を通してしか立ち上がって来ないものであるという意味だろう。

 このような視座に立って歌を作り続ける柏原が生み出す最も上質な世界は,たとえば次のような歌が具現している。

 小流れをうづめつくせる大葦にここのみの時間(とき)が動くゆるらに

 川の流れにゆっくりと揺れる葦に流れているのは「ここのみの時間」,つまり反復することのできない一回性の時間である。それは今この瞬間に立ち会う以外には経験することのできない「現在」である。この歌が内包している「ここのみの時間と」は,作者と眼前の対象の間に一時的に確立された関係の一回性の謂に他ならない。たまゆらの仮なる命を生きゆく私たちに,この関係の一回性がかくまで鮮やかに開示されるとき,柏原の短歌はひとつの啓示であると同時に限りない慰藉を与えてくれるものでもある。

意味は形式の階段を駆け上がり普遍の空へ(特集:短詩形文学の試み──定型とは何か)

 詩や俳句や短歌などの短詩型文学における定型とは何か。これはなかなか難しい問題である。そもそも短詩型文学はなぜ定型を必要とするのか。この問題に答えるためには、詩歌における言語の役割から考えてみなくてはならない。

 透徹した詩論を残したポール・ヴァレリーの文章のなかに、詩の発生する瞬間を捉えた美しい一節がある。あなたは煙草の火を借りるために、かたわらの人に「火をお持ちですか」Avez-vous du feu ? と言う。その人はあなたに火を貸してくれる。あなたの発した「火をお持ちですか」という短いフレーズはその命を終えて消えてしまう。言葉が行為に置換され、あなたは望んだ火を手に入れたからである。これが私たちが日頃経験している普通の言語状況である。ところがなぜか、役割を終えたにもかかわらず、私のなかにその短いフレーズをもっと聴きたいという欲求が生まれることがある。私はそのフレーズを、抑揚を変え速さを変え何度も反復する。そのフレーズは言葉の行為への置換という実用性を超えて生き延びたのだ。これがヴァレリーの描く詩の発生する機序である。

 ヴァレリーの言おうとしたことを現代言語学的に言い換えると、「詩歌の特徴はシニフィアンへの固着である」と要約できる。シニフィアンとシニフィエは現代言語学の父ソシュールの提案した用語で、言語記号を構成するふたつの面をさす。かんたんに言えば、シニフィアンは音、シニフィエは意味と考えればよい。意味の伝達を旨とする散文の世界ではシニフィエが全面的に君臨するが、詩歌の王国においてはその支配力は後退し、シニフィアンが頭をもたげ、時にシニフィエを凌駕する。

 あめんぼの足つんつんと蹴る光ふるさと捨てたかちちはは捨てたか  川野里子

 この歌の魅力が下句に凝縮されていることに異論はないだろう。音数的には七・七となるべき下句が八・八と破調になっているが、「ふるさと」「ちちはは」の対句的表現と「捨てたか」のリフレインによってむしろ安定感が増し、わらべ唄のような効果を生みだしている。この下句の魅力は意味によるものではない。四音の規則的連続と「捨てたか」の反復というシニフィアンへの固着によって、呪文のような効果を生みだしている。この魔術的な下句と比較すれば、上句は下句を導き出すための導入部にすぎない。

 作者の個人的な体験や思い入れにすぎないものを定型という鋳型に流し込むと、あら不思議、それは個人的地平を離れて公共性のレベルへと浮上する。川野の短歌は老いた両親を地方に残して上京し、都会生活者となりおおせた多くの日本人の心情を代表する。意味は形式の階段を駆け上がることで、普遍の高みへと達するのである。意味の一回性を保持しつつそれを公共化するという、個的意味から普遍的意味へのこの魔術的変換に、定型が決定的役割を果たしていることは疑いない。

 同じことは消費者への訴求力を必要とするCMコピーにも当てはまる。CMコピーの要諦は耳に残り多くの人々の好意的共感を得ることにある。

 すかっとさわやかコカコーラ
 セブンイレブンいい気分
 インテルはいってる

 「すかっ」「さわやか」「コカコーラ」の無声破裂音「カ」の反復は、歯切れのよいリズムを生み出し、炭酸飲料の刺激的な爽快感とよくマッチしている。「セブンイレブンいい気分」は三音・四音・五音と漸増する各句の末尾に「ブン」が反復されることで、弾むようなリズムが生まれている。「インテルはいってる」は、英語版のコピー Intel Inside の頭韻を日本語に置き換えるときに「てる」の脚韻に変えるという工夫されたコピーだが、日本語の定型の基盤である音数リズムに乗っていないのが惜しい。「インテル○○てるはいってる」となっていれば完璧だっただろう。「○○」の部分には、たとえば「インテルイケてるはいってる」のように二音を入れる。もっともこの改作が広告コピーとして「イケてる」かどうかは別の話だが…。かくのごとく定型は私たちの日常生活の至るところに溢れている。また日本語の定型は頭韻や脚韻などの韻(rime) によるのではなく、五・七・五などの音数 (正確にはモーラ数)によって成立することを、このインテル社のコピーは教えている。

 G.M.ホプキンズは韻文を「同じ音文彩を全面的にまたは部分的に反復する発言」と定義した。これは韻を基本とする欧米の詩に当てはまることである。学者のモットー Publish or perish. 「論文を出版するか、さもなくば消えてゆけ」も -ish の反復があるから極小の韻文である。欧米の詩が強弱リズムと韻を定型の基本要素としているのにたいして、日本語の詩が音数形式を定型の基礎としたのは、日本語が「ウイーンっ子」を、「ン」も伸ばす音もつまる音も含めて六拍として発音する等拍性の言語であることと、同音語が多くて韻の効果が出ないからである。ではなぜ五・七・五(七・七)が定型として現代まで生き延びたのかという疑問については、坂野信彦『七五調の謎をとく』(大修館書店)に説得的な論証が展開されているのでそちらに譲る。その骨子は、日本語の基本リズムは二音一拍であり、五音と七音を基本とする組み合わせに語彙がもっとも乗りやすいというものである。

 ここでもうひとつ難しい問題が生じる。五・七・五(七・七) の音数律を守れば定型詩ということになるのだろうか。

 枡野浩一の提唱する「かんたん短歌」の生み出したスター加藤千恵に、「あの人が弾いたピアノを一度だけ聴かせてもらったことがあります」という口語短歌がある。五・七・五・七・七の音数律が厳密に守られている。しかしこの歌が一行書きされていたら、誰も短歌だとは思わないだろう。それは上句と下句の切れをはじめとして、一首の内部に内的リズムを生み出す仕掛けが一切ないからである。これを次の創作都々逸と較べてみる。

 椿つや葉樹(ばき)つんつら椿めのう細工と見てござる 渡辺光一郎

都々逸は七・七・七・五形式だが、それさえ守ればよいというわけではない。初句の七音は調子よく始めるために「●○○○|○○○○」でなくてはならない(●は半拍の休止を表わす)。だから最初は三音の単語になる。渡辺の作品を見ると「●つばき|つやばき∥つんつら|つばき●∥●めのう|ざいくと∥みてござる●●●」と、三音と四音がリズミカルに交代して、内的リズムを作り出していることがわかる。内的リズムは語句どうしを凝集させ離反させることで、定められた音数律の内部に緩急を生み出す。この内的リズムがなければ、たとえ全体として音数を守っていても定型とは言い難い。またこうして生み出された緩急のリズムに意味をどのように乗せてゆくかが歌人の腐心するところである。

 しかし歌人とは因果なものだ。定型があればそれを逸脱しようとする力学がどこかに働く。穂村弘の歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ) 』には次のような歌が並んでいる。

 「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士

 『ウは宇宙船のウ』から静かに顔あげて、まみ、はらぺこあおむしよ

 この歌集に収録された歌は、若干の例外を除いて三十一音で書かれている。しかし定型感覚は無惨なまでに打ち砕かれている。戦後の第二芸術論、特に小野十三郎の「奴隷の韻律」論を受けて、塚本邦雄が句割れ・句跨りを駆使して「オリーブ油の河にマカロニを流したような」短歌の韻律を意図的に革新しようとしたように、穂村もまた新たに定型を撓める実験を試みているのだ。その試みが成功しているかどうかはまた別の話である。また逆に解釈すれば、これほどまでに撓めてもその残滓が残るほどに、伝統詩の定型は日本語の生理そのものに根ざしたものだとも言えるのではないだろうか。



「すばる」(集英社)2005年10月号掲載