108:2005年6月 第3週 キリンの歌
または、昏れゆく世界と滅びゆく動物は瞠め合い

あきかぜの中にきりんを見て立てば
     ああ我といふ暗きかたまり

            高野公彦
 きりんは動物園でおなじみの首の長い動物で、短歌の表記では「きりん」「キリン」「麒麟」のいずれも見られる。漢字表記の麒麟は、本来は古代中国の想像上の動物で、オスが麟メスか麒なのだそうだ。徳の高い王や聖人が世に出たときに姿を見せると伝承されている。キリンビールのラベルに印刷されているのがこれである。

 『岩波現代短歌辞典』の「きりん」の項には、次の二首が引用されている。

 秋風(しゅうふう)に思ひ屈することあれど天(あめ)なるや若き麒麟の面(つら)  塚本邦雄 (追悼)

 春の日の麒麟のような山のかげに僕の生まれた村が見える  中野嘉一

 二首ともにジラフの姿形を示しながら、その背後に想像上の麒麟を想起させると解説がある。塚本の歌は天を仰ぐジラフの姿を通して、思い屈して面を伏せる〈私〉と天空をめざす麒麟との対比が詠われている。しかし中野の歌には麒麟の影はなく、動物園のジラフのような山の姿が詠われているだけではないかとも思う。

 日本に最初にキリンが来たのはいつのことなのだろうか。象は江戸時代にやって来ているが、キリンはもっと遅いような気がする。いずれにせよ短歌に登場するのは明治以降の近代短歌においてであることはまちがいない。だとすると歌語・歌枕としては比較的歴史が浅く、歌の共同主観的世界においてそれほど決まった象徴的意味が付与されていないことになる。ならば歌人はそれぞれの見方に基づいて、独自の象徴性をキリンに付与すればよいのだが、おもしろいことに現代短歌においては一定の偏りが見られる。

 掲出歌では〈私〉は秋風の吹く動物園でキリンを見ているのだが、対象に注ぐ眼差しはいつか反転して、〈私〉を「暗きかたまり」と感じている。夜の歌人である高野の歌の世界のなかでは、キリンが〈私〉の存在様態を把握する契機として捉えられている。このように〈私〉のほの暗い側面を意識させるキリンは、その存在の悲劇性において描かれていると考えてよい。

 昔からそこにあるのが夕闇か キリンは四肢を折り畳みつつ  吉川宏志

 若き日の苦しからむかびしびしと首打ちかはす麒麟を見れば  小池光

 サファリパークは淋しい冬になるだらういつか麒麟が滅びしのちは  松原未知子

 吉川の歌でもキリンは、春の日の射すのどかな動物園ではなく、迫り来る夕闇と並べられて描かれている。キリンはふつう立ったまま眠るらしいが、熟睡するときには座って首を後ろ足に載せるという。「四肢を折り畳む」動作は眠りに入ることを予感させると同時に、戦線を離脱し挫折することとにも通じ、夕闇に四肢を折り畳むキリンには、どこか沈み行く世界を思わせるところがある。

 オスのキリンが互いに首を打ち合わす動作はネッキングと呼ばれていて、オス同士の勢力争いの行動らしい。小池の歌ではネッキングをするキリンを見ている〈私〉が、「若き日の苦しからむか」という思いを抱くのだが、それは生殖年齢という若さゆえのキリンの苦しさを思うと同時に、若さに由来する人間の苦しさに思いを馳せることにもつながっている。

 松原の歌ではキリンが絶滅した未来を思い、キリンのいない世界の淋しさを思っているのだが、ここでもまたキリンは絶滅の可能性を感じさせる悲劇性において描かれている。

 熱たかき夜半に想へばかの日見し麒麟の舌は何か黒かりき  中城ふみ子

 あみめきりん茫洋とせるまなざしの霜月檻のうちより暮れて  中津昌子

 膝を折るきりんの檻に背をつけて雨より深いくちづけをして  ひぐらしひなつ


 中城の歌では、病気で熱を出している夜中のことを詠っているが、熱のある夜は思考が混乱するのが常であり、高熱のときには幻覚を見ることもある。そんなときに昔見たキリンのことを思い出している。思い出すのはキリンの黒い舌である。キリンの全身ではなく舌だけが思い出されているところにこの歌のポイントがあり、その舌の黒さは過去の生活への作者の悔恨のようにも受け取れる。

 中津の歌の「あみめきりん」というのはもともとある言い方ではなく、キリンの皮膚の模様が網目状をしていることを描写したものだろう。キリンは何を考えているのかわからない眼差しをしている。「檻のうちより暮れて」は外よりも檻の中の方が早く暗くなるということだが、取り立てて理由はないものの、全体に寂寥感の漂う歌となっている。

 ひぐらしの歌集はその題名が『きりんのうた。』であるが、実はキリンを詠んだ歌はこの一首しかない。この歌では恋人同士がキリンの檻の前でキスをしていて、読みのポイントは「雨より深い」なのだが、恋人たちの背後ではキリンが膝を折っている。健康に暮らしているキリンは膝を折ることがない。水を飲む時でも前肢を伸ばしたまま大きく広げるので膝は折らない。だからキリンが膝を折るという行為には、どうしても負のイメージがつきまとう。そのイメージは檻の前でキスしている恋人たちにもいやおうなく投影されるのである。

 首と首互みに鳴らす子きりんの股間きららに風薫る夕  加藤孝男

 紙コップ熱きを妻に手渡せりキリンの首は秋風を漕ぐ  吉川宏志

 たとうれば留守番電話のやさしさにキリンは立てり秋草を踏み  同

 おまえにも麒麟にもない喉ぼとけ曝し歩まんマフラーほどいて  同

 梅雨晴れの白き陽のさす柵のなか夢遊病者のキリンがあゆむ   同

 加藤の歌のキリンには珍しく悲劇性はない。ネッキングをするキリンと、その長い足のあいだを通り抜ける風との取り合わせにより、むしろ華やかさが感じられる歌である。

 吉川宏志はキリンが好きなのか、キリンの歌をたくさん詠んでいる。一首目は第一歌集『夜光』所収の歌なので、恋愛から結婚に至る初々しさという文脈のなかで読むことになる。秋の一日動物園に行き、自動販売機で買ったコーヒーの熱い紙コップを妻に手渡す。背後にいるキリンはしきりに首を動かしている。のどかな光景であり、ここにはキリンの過度な象徴性はない。二首目にはこれとはやや異なる感情移入が認められる。秋の草を踏んで立つキリンを留守番電話のやさしさに喩えているのだが、キリンは攻撃性に乏しく受動的存在として描かれている。三首目、「喉ぼとけのないお前」とは女性なのでたぶん妻のことだろう。自分は男なので喉ぼとけがあるが、冬の寒さのなかでマフラーをあえてほどいて歩こうという決意に富んだ歌である。四首目の舞台は梅雨晴れの日差しの中なのだが、キリンは夢遊病者として描かれている。これらの歌のなかでは強く主張はされていないものの、作者がキリンに自己の姿を投影しているように読むことができるだろう。

 短歌にいちばんよく詠まれた動物は何だろうか。調べたわけではないのでわからないが、たぶん「鳥」ではなかろうか。しかし多くは「鳥」と表わされていて、種別までは特定しない場合が多い。そこまで細かく特定すると、逆に不要な象徴性を歌に呼び込むことになるからだろう。それと較べたとき、キリンの帯びている強い象徴性は明らかであり、現代短歌において独自の地位を占めていると言えるかもしれない。

107:2005年6月 第2週 吉川宏志
または、微分された喩的照応は微細撮影のなかに

アヌビスはわがたましいを狩りに来よ
      トマトを囓る夜のふかさに

吉川宏志『青蝉』
 
 アヌビスは古代エジプトの神で死を司り、黒犬の姿で描かれることが多い。この歌で〈私〉はアヌビス神に「わがたましいを狩りに来よ」と呼び掛けている。つまり自ら死を願っていることになる。下句は一転して〈私〉がトマトを囓っているという日常的風景が歌われているがそれは表面的なことで、「夜のふかさに」の結句に沈み込むような沈思の世界が開けている。アヌビス神は真っ赤な首輪をしていて、それは歌の中の「トマト」の赤さと呼応する。黒犬の赤い首輪と、漆黒の夜にトマトの赤さ、上句と下句はともに、「黒・赤」という色彩のコントラストを基本に作られていて、なかなか技巧的な作品なのである。そして吉川宏志が技巧派であることは、誰もが知っていることだ。

 吉川は1969年 (昭和44年)生まれ。故郷宮崎の高校の先生に志垣澄幸がいて、吉川が京都大学文学部に進学するにあたり、永田和宏への紹介状を書いてもらったという。これを機に休眠中であった京大短歌会が復活し、梅内美華子・林和清島田幸典・前田康子らが参加して、京大短歌会のひとつの黄金時代を迎えることになる。当然のことながら「塔」短歌会に入会し、現在も編集委員を務めている。第一歌集『青蝉』(1995年、現代歌人協会賞)、第二歌集『夜光』(2000年、ながらみ現代短歌賞)、第三歌集『海雨』(2005年)がある。

 私が初めて吉川の短歌を読んだのは『新星十人』(立風書房1998年)という10人の歌人を集めたアンソロジーだった。短歌を読み始めたばかりの私には、吉川の短歌は正直言って「とても地味」なものとしか映らなかった。それもそのはずである。『新星十人』には、荻原裕幸(1962生)、加藤治郎(1959生)、紀野恵(1965生)、坂井修一(1958生)、辰巳泰子(1966生)、林あまり(1963生)、穂村弘(1962生)、水原紫苑(1959生)、米川千嘉子(1959生)といった個性豊かな面々が顔を揃えていたのである。この顔ぶれの中で目立つのは容易なことではない。しかも吉川は最年少で第一歌集を出したばかりである。『新星十人』には「現代短歌ニューウェイブ」という副題が冠せられていて、ライトヴァースや記号短歌など表現上の新しさを感じさせる他の歌人と並んだとき、吉川の一見地味な短歌はあまり「ニューウェイブ」という印象を与えない。むしろ古風な近代短歌と言ってもいいくらいである。しかし第三歌集『海雨』と前後して、邑書林のセレクション歌人シリーズから『吉川宏志集』が刊行されたのを期に、今回すべてを通読して吉川の歌人としての実力を改めて感じることができた。

 「塔」短歌会は1954年に高安国世を中心に発足した結社であり、高安はもともとアララギ派の歌人であったから、「塔」短歌会も写実を作歌の基本とするアララギの流れを汲んでいる。この意味でも吉川は「塔」の本流を行く歌人と言ってよい。吉川のように手堅く隙のない短歌を作る人は、とても批評しにくい。こういう時にはキーワードで攻めるにかぎる。私が考えたのは「一字空けの人」というキーワードである。

 セレクション歌人シリーズ『吉川宏志集』に谷岡亜紀が吉川宏志論を書いているが、谷岡がまず注目したのは吉川の初期作品である。

 伯林(ベルリン)にルビふるごとき夜の雪 教室にまだきみは残れり

 ガリレオの鉄球木球ふたすじにわれと落ちゆくひとの欲しかり

 サルビアに埋もれた如雨露 二番目に好きな人へと君は変われり

 谷岡が着目しているのは上句と下句とがたがいに「像的喩」または「意味的喩」として機能する歌の姿である。叙景と叙情、事物と人事を上句と下句に配置し、そのあいだに喩的関係を組み立てるのは、吉川の師である永田和宏の「問と答の合わせ鏡」論のヴァリエーションであり、和歌・短歌の王道と言ってもよい。加えて「伯林にルビふるごとき」という直喩、「ガリレオの鉄球木球ふたすじに」というやや舌足らずな比喩は、直喩を作歌の基本に据える吉川の資質をすでによく示している。吉川が直喩をよく使うことはたびたび指摘されていることである。

 死亡者名簿の漢字の凹凸が噛みあうように隣り合いたり

 ガラス壺の砂糖粒子に埋もれゆくスプーンのごとく椅子にもたれる

 しばらくの静謐ののち裏返るミュージックテープは魚のごとしも

 炭酸のごとくさわだち梅が散るこの夕ぐれをきみもひとりか

 なぜ吉川は直喩を多用するのか。それは写実を基本とする作歌方法において、直喩は読者をハッとさせる一首の核となる発見を導くからである。永田和宏は評論集『喩と読者』で比喩論を展開し、「能動的喩」という概念を提唱している。「能動的喩」とは、すでにある比喩関係をなぞるものではなく、「世界が秘めている意味、潜在性として蔵している価値、それらを一回性のものとして剔抉してくれるような喩」である。要するに、それまで考えられなかったAとBの結びつきにより、読者が新しい発見をし、世界の認識を更新するような比喩ということだ。喩が成立するためには、「喩えるもの」と「喩えられるもの」とが分離されて提示される必要がある。そしてそのあいだに喩的緊張関係を作り出すために「一字空け」が効果的なのである。第一歌集『青蝉』には一字空けがかなり見られる。一字空けは句切れを作り出し、喩的関係を強調する。ただし吉川においては一字空けのない歌においても、句切れの鮮明さは際立っている。だから「一字空けの人」というキーワードは、「句切れの鮮明な人」というほどの意味と取っていただきたい。

 句切れのない文体を三枝昂之は「流れの文体」と呼んだことがある。吉田弥寿夫によると、句切れのない文体はモノローグ的であり、「集団から疎外された単独者の文体」なのだそうだ(『雁』4号)。たとえばすぐ頭に浮かぶのは次のような文体である。

 目のまえに浮くカナブンが虹をだし動かなくなるまでをみていた  伴風花

 ゆれているうすむらさきがこんなにもすべてのことをゆるしてくれる  今橋愛

 ここには何かを見て何かを感じ、また何かを感じては何かを見るという〈私〉と世界の往復運動がない。〈私〉と世界とがお互いを照らし出すという相互関係がない。それにかわって言いしれぬ孤独だけがある。このような文体から紡ぎ出される歌の世界には〈私〉だけがいて他に何もいない風景が広がっている。それは私たちの認識が、外的事物 (=世界)と知覚者 (=私) のあいだで展開する相互行為の織物としてできあがっているということを忘れているからだ。〈私〉とはその相互行為の織物の肌理として析出される何物かである。だから〈私〉と無関係な世界はなく、世界と無関係な〈私〉もない。それはどちらも語義矛盾である。このようなことを念頭に置きつつ「一字空けの人」吉川の歌を眺めると、「流れの文体」の歌の世界とのちがいが際立って感得される。

 ガラス戸にやもりの腹を押しつけて闇は水圧のごときを持ちぬ   『青蝉』

 似ていると思うは恋のはじめかなボート置場の春の雷(いかづち)

 夕闇にわずか遅れて灯りゆくひとつひとつが窓であること

 ひのくれは死者の挟みし栞紐いくすじも垂れ古書店しずか    『夜光』

 ふるさとで日ごとに出遭う夕まぐれ林のなかに縄梯子垂る

 あみだくじ描(か)かれし路地にあゆみ入る旅の土産の葡萄を提げて

 一首目、上句は室内からヤモリの白い腹を見た「叙景」であり、下句は外の闇に水圧のようなものを感じた観察者の〈私〉の想念である。景物の観察を契機として〈私〉の想念が生み出される。その機序を「問と答の合わせ鏡」の枠組みのなかに収めたこのような歌の短歌的完成度は極めて高いものと言わなくてはならない。二首目、今度は想念が先に来て叙景が下句に付けられており、全体として恋の予感を暗示する青春の歌となっている。三首目、上句「夕闇にわずか遅れて灯りゆく」に吉川らしい微細な発見が表現されていることに注意しよう。私たちは日暮れと同時に電灯を点すのではない。いつのまにかあたりが暗くなったことに気がついてから電灯を点すのだ。だから点灯は闇の訪れにわずかに遅れるのである。この「わずかな遅れ」を発見し表現するところに吉川の真骨頂がある。四首目、古本から栞紐が垂れているのは単なる観察であるが、それを「死者の挟みし」と感じたのは作者の主観である。それを薄暮の世界に配置したこの歌の静謐感は深い。五首目、吉川は故郷の宮崎に帰郷したときの歌をたくさん詠んでいるが、これはちょっと不思議な味わいの歌。林の中に垂れる縄梯子というのが不思議で忘れ難い。六首目、句切れは明確だがこの歌には上句・下句の喩的緊張関係はない。全体が〈私〉の行為の描写として描かれているのだが、ピントの合い方に手際が冴える。路地に子供が描いたものと思われるあみだくじが残っている。この狭い路地で幸運と不運との決定が偶然によって下されたのである。だからこの路地はもうふつうの路地ではない。〈私〉はそこに葡萄を下げて歩み入る。このごく日常的な光景のなかに神話的香りすらただよっている。

 吉川の歌を読んでいるとときどき、特殊なカメラを用いた微細撮影を見ているように感じられることがある。

 傘立ては竹刀置場に使われて同じ高さに鍔は触れあう    『青蝉』

 バグダッド夜襲を終えし機の窓に白人なれば顔のほの浮く

 中途より川に没する石段の、水面までは雪つもりおり

 円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる

 くだもの屋の台はかすかにかたむけり旅のゆうべの懶きときを  『夜光』

 竹刀の鍔が同じ高さに触れ合うというのは当たり前だが、言われてみてそうかと気づく。二首目は米軍空爆の模様を夜間撮影したTV映像を見て作ったものだろうが、ほの浮く白い顔に焦点が当たっている。三首目は水面までは雪が積もっているという小さな発見、四首目は金魚が水から出てはじめて濡れるという発見が歌の核となっている。五首目はもっと精妙で、旅行先で見た青果店の陳列台がわずかに傾いているというだけなのだが、この歌では「かすかに」がポイントであることは言うまでもない。

 『短歌研究』2005年4月号の作品季評で穂村弘が吉川の歌に触れ、「必ずどの歌にもポイントがあり、そういう詩的なポイントを作ろうという意識が高い」と述べている。穂村はさらに言い進んで、「どこかにポイントを作れば歌が成立すると思っているふしがあり」、「パーツを持って来て作るやり方にどこかニヒルな感じがする」と述べている。同席した一ノ関忠人と日高堯子は穂村の見方に賛成していない。私もあまりニヒルな感じはしないのだが、「どの歌にもポイントがある」というのはその通りであり、ポイント制で採点すると吉川の打率はかなりの高率になるだろう。

 さて、最新歌集の『海雨』だが、第一歌集・第二歌集で見られた鮮明な句切れは、『海雨』に至って逆に目立たなくなる。しかしそれは後退ではなく前進であり、喩的照応をさらに一層歌のなかに巧みに溶け込ませている。

 五階より見れば大きな日なたかな墓の透き間を人はあゆめり

 水のあるほうに曲がっていきやすい秋のひかりよ野紺菊咲く

 冬の日は器ばかりが目立つかな茶碗に藍の草なびくなり

 木のまわりだけが昨日の感じして合歓の花咲く川の向こうに

 うすあかきゆうぞらのなか引き算を繰り返しつつ消えてゆく鳥

 このような歌を読むと、吉川はもうピシッと決まる像的喩を組み立てることにあまり興味はなく、むしろ喩的照応をさらに微分して日常的叙景のなかに溶解させようとしているかのようである。ここまで来ると短歌の初心者にはその味わいを読み取ることがなかなか難しいかもしれない。その安定感と破綻のない文体にはますます磨きがかかっていて、おそらくプロのあいだでは評価の高い歌集になることはまちがいあるまい。

『レ・パピエ・シアン』の歌人たち

 京都の寺町二条に三月書房という本屋がある。その古ぼけた外観といい、奥にある風呂屋の番台のような帳場といい、古本屋を思わせる風情だが、れっきとした新本書店である。その地味な外観とは裏腹に、三月書房は知る人ぞ知る伝説的な有名書店なのだ。京都に住む読書好きの人で、三月書房を知らない人はいない。世の中の流行から超然とした独自の基準による選本がその理由である。

 三月書房はまた短歌関係の本の品揃えでも知られており、短歌の同人誌も数多く店頭に置いている。『レ・パピエ・シアン』も三月書房で見つけた月刊同人誌のひとつである。ブルーの紙を使った瀟洒な雑誌で、同人誌らしく手作り感がにじみ出ている。短歌好きが集まって、ああだこうだと言いながら同人誌を作るのは、きっと楽しい遊びにちがいないと考えながら、手に取ってみた。

 結社は主宰者の短歌観に基づく求心力をその力の源泉としているため、いきおい参加者の作歌傾向が似て来る。それにたいして同人誌は気が合う仲間で作るもので、作歌傾向はばらばらでもかまわないというよい意味でのルーズさが身上である。『レ・パピエ・シアン』も同人誌らしく、堂々たる文語定型短歌からライトヴァース的口語短歌まで、さまざまな傾向の短歌が並んでいる。同人のなかでいちばん名前を知られているのは、たぶん大辻隆弘だろう。しかし、私は今まで名前を知らなかった歌人の方々をこの同人誌で知ったので、気になった短歌・惹かれた短歌を順不同で採り上げてみたい。2004年1月号~3月号からばらばらに引用する。

 この同人誌でいちばん気になった歌人は桝屋善成である。 

 底ひなき闇のごとくにわがそばを一匹の犬通りゆきたり

 悪意にも緩急あるを見せらるる厨のかげに腐る洋梨

 なかんづくこゑの粒子を納めたる莢とし風を浴びをるのみど

 紛れなく負の方角を指してゆくつまさきに射す寒禽の影

 手元の確かな文語定型と、吟味され選ばれた言葉が光る歌である。なかでも発声する前の喉を「こゑの粒子を納めたる莢」と表現する喩は美しいと思った。テーマ的には日々の鬱屈が強く感じられる歌が多い。日々の思いを文語定型という非日常的な文体に載せることで、日常卑近の地平から離陸して象徴の世界まで押し上げるという短歌の王道を行く歌群である。愛唱歌がこれでいくつか増えた。

 病む人のほとりやさしゑ枕辺を陽はしづやかに花陰はこぶ  黒田 瞳

 みなぎらふものを封じて果の熟るる子の頭ほどの固さかと思ふ

 さかしまに木を歩ませばいく千の夜世わたらむよそびら反らせて

 凍み豆腐やはらにたきて卵おとす卵はゆるゆる濁りてゆくを

 黒田も文語定型派だが、言葉遣いにたおやかさを感じさせる歌が多い。漢字とかなの配分比率、やまとことばの駆使、歌に詠み込まれた感興の風雅さが特に際立つ。今の若い人にはなかなかこういう歌は作れない。ある程度の年齢の方と想像するがいかがだろうか。「さかしまに」の歌の木が歩くというのは、マクベスのバーナムの森を思わせ、幻想的である。「夜世わたらむ」と定型七音に収めず、「夜世わたらむよ」と八音に増音処理したところに余韻を残す工夫があると思った。美しい歌である。

 母を蘇らせむと兄は左脚、弟は身体全てを捧ぐ  服部一行

 最大の禁忌〈人体錬成〉に失敗す幼き兄弟は

 哀しみに冷えゆく〈機械鎧 (オートメイル)〉とふ義肢の右腕、義肢の左脚

 なかでも異色なのは、服部一行の「鋼の錬金術師」と題された連作だろう。TVアニメ化もされた荒川弘の同名マンガに題材を採った作品だが、「人体錬成」「機械鎧」(アーマー / モビルスーツ)というテーマは、サブカルチャーと直結している。同人誌『ダーツ』2号が「短歌とサブカルチャーについて考えてみた」という特集を組んでいるが、確かに今の短歌の世界ではサブカルチャーを詠み込むことは珍しくないのかも知れない。しかし、サブカルチャーをどういうスタンスで短歌に取り入れるかは、歌人の姿勢によってずいぶん異なる。藤原龍一郎の「ああ夕陽 明日のジョーの明日さえすでにはるけき昨日とならば」には、時代と世代への強い固着があり、批評性が濃厚である。黒瀬珂瀾の「darker than darkness だと僕の目を評して君は髪を切りにゆく」には、流行の現代を生きる青年のひりひりした自己感覚がある。服部の連作は原作マンガの物語の忠実な再現に終始していて、サブカルチャーを素材とすることへのさらなる掘り下げが必要なのではないだろうか。

 渡部光一郎もなかなかの異色歌人である。

 中井英夫は江戸っ子にてしばしば指の醤油を暖簾もて拭き

 見習いは苦汁使いに巧みにて主人の女房をはやくも寝取る

 豆腐屋「言問ひ」六代目名水にこだわり続けたりと評判

 江戸落語を思わせるような威勢のいい言葉がぽんぽんと並んだ歌は、俗謡すれすれながらもおもしろい。言葉の粋とリズムが身上の短歌なのだろう。ちなみに2004年2月号は「都々逸の創作」特集だが、渡部はさすがに「椿つや葉樹(ばき)つんつら椿めのう細工と見てござる」と達者なものである。

 その他に惹かれた歌を順不同であげてみよう。同人誌らしく、文語定型の歌、口語の歌、文語と口語の混在する歌とさまざまである。

 わが額にうつうつとまた影生(あ)れて ふるへる朝のふゆの吐息よ 角田 純

 軋まないようにゆっくり動かして重たき今年の扉を閉じぬ  藤井靖子

 重ねたのは仮止めとしての問いの板だからだろうか神を忘れて 小林久美子

 抽出にさよならだけの文あるにまた会ふ放恣の盃満たさむと 酒向明美

 携帯を持たぬ我は今やっと時を操る力を手にする  渋田育子

 忘れゆく想ひのあはき重なりに花はうすくれなゐの山茶花 矢野佳津

 角田の「わが額に」の口中に残る苦みも短歌の味わいである。ただし、なぜ一字あけが必要なのかよくわからない。完全な定型に字あけは必要ないのではないか。右に引いた藤原龍一郎の歌では、「ああ夕陽」のあとの一字あけは必然である。

 藤井の歌は年末風景を詠んだものだが、文語と口語が混在している。結句を「閉じぬ」で終えたのは、短歌的文末を意識したからだろうが、「軋まないようにゆっくり動かして重たい今年の扉を閉じる」と完全な口語短歌にしても、その味わいはあまり変わらないように感じる。日常雑詠のような藤井の連作のなかで、この歌だけ印象に残ったのだが、その理由はひとえに「重たき今年の扉」という措辞にある。村上春樹のモットーは「小確幸」(小さくても確かな幸せ)だが、それにならえば「小さくてもハッとする発見」が短歌を活かす。

 小林の歌は「舟をおろして」という連作の一首で、手作りで舟を作っている情景を詠んだもののようだが、「仮止めとしての問いの板」という喩に面白みがあると思った。またそこから「神を忘れて」となぜ続くのか、論理的には説明できないのだが、忘れられない魅力がある。短歌は完全に解説できてしまうと興趣が半減する。どうしても謎解きで説明できないものが残る短歌がよい歌ではないだろうか。

 酒向の歌は一首のなかに、まるでドラマのようなストーリーを詠み込むことに成功している。いったんは別れた男女の恋が再び燃え上がるのだが、「放恣の盃満たさむ」という措辞にエロスが溢れている。下句が「また会ふ放恣の(八) / 盃満たさむと(九)」と十七音(盃を「はい」と読めば十五音)だが、破調を感じさせない。

 渋田の歌はいささか言葉足らずなのだが、「携帯を持たなかった私が持つようになって、やっと時間を操る力を手に入れた」と読んだ。携帯は現代生活のあらゆる場面に浸透しているが、その力を「時を操る力」と表現したところがおもしろいと思った。

 矢野の歌は連作を通読すると同僚の数学教師の死を追悼する歌だとわかる。「花はうすくれ/なゐの山茶花」と句跨りになっているが、調べの美しい歌で記憶に残った。



『レ・パピエ・シアン』2004年5月号掲載

106:2005年6月 第1週 多田 零
または、控えめな文体のなかに世界の手触りを感じさせる歌

剃刀をつつみながらにみづ流れ
  ちかくの苑にねむるくちなは

      多田零『茉莉花のために』
 よく短歌の批評に「不思議な」という用語が使われる。他に取り立てて言うことがないときに使うこともある便利な用語だが、多田の場合は最大級の誉め言葉として「不思議な」という言葉が当てはまると加藤治郎が書いている。確かに多田の歌集を一読したとき、「不思議な」という感覚を覚えないでおくことは難しい。例えば掲出歌。洗面台に剃刀が置いてあり、その上に蛇口から水が流れている光景だろう。「つつみながら」と表現しているので、水はあたかも剃刀の鞘のようでもある。一字空けを隔てて下句があるが、下句は上句と空間的にも意味的にも呼応しない。場所はどこか近くの庭であり、そこに蛇が眠っているという。自宅の洗面台と近所の庭、剃刀と蛇とがこのように対置されると、そこに磁場が生まれ、短歌的喩の関係が浮上する。一切登場しない〈私〉は、目の前の剃刀を見て近くに潜む蛇を思っているのか、剃刀が蛇のようだと感じているのか、それはわからないままに、読者はそこに何やら非日常的で不穏な気配を感じる。今は眠っている蛇が目覚めたとき、どのような惨劇が起きるだろうかとドキドキしてしまう。「とほくの苑」ではなく「ちかくの苑」であるところにまた、切迫した何かを感じる。この歌はそのように読まれるべく巧みに構成されているのである。

 多田は平成元年より「短歌人」会員で、2002年に上梓された『茉莉花のために』は第一歌集である。栞には小池光、大辻隆弘、河野裕子が文章を寄せている。ちなみに「茉莉花」には「まつりくわ」とルビが振ってあり、ジャスミンの異名である。ジャスミンは5月初旬に芳香の強い白い花を多数咲かせる。集中には梔子を詠んだ歌も多く、作者はどうやら白く香りの濃厚な花がお好みのようだ。ジャスミンや梔子の強い芳香は肉感的である。『茉莉花のために』もまたある意味でとても肉感的な部分を含んだ歌集なのである。

 新人が第一歌集を出すときによく挟み込まれる栞は、新人を世に送り出す推薦文であるとともに、歌集を読み解くガイドの役割を果たす。参考になるのでありがたいと思う反面、歌の読みの方向を縛られてしまい邪魔だと感じることもないではない。多田零の『茉莉花のために』の場合、小池は多田の歌には「生身の肉を素足で踏んだような感触」があると言う。大辻は小津安二郎が岸恵子を評した「身もちが悪い」という言葉を引用して、多田の歌も身もちが悪いと評している。これは端正な文体の奥の方に、匂うような身体感覚があるという褒め言葉である。河野は一読したとき「踏み応えのない歌集だと感じた」が、再読して不思議な感覚のただよう歌だと思ったと感想を述べている。いずれも多田の歌人としての資質の一面を的確に捉えた評言だと思うが、私は少しちがうことも多田の歌に感じたので、そのことを書いてみたい。

 私がまず注目するのは次のようにピシッと焦点の合った描写の冴える歌群である。

 石は階(きだ)のかたちに折れてつづきゆくみづのきはよりみずうみのなか

 卯月なり電灯のひも揺れてゐるただ鈍色の昼のあかるさ

 風の縁(ふち)のふれゆくらしも天花粉こぼれてゐたる椅子のあしもと

 さきほどの月の色くだり来しとして紅鮭の身にまな板濡るる

 みづたまりの水にひかりの襞生(あ)れて鉄橋の上(へ)を貨車は過ぎゆく

 あゆみゆきて真黒き猫の尾の長さ地にふれさうになりつつ触れず

 一首目は石段が水際から湖の中にまで続いている光景を詠んだただそれだけのものだが、このような歌にこそ言葉を日常から浮上させる多田の資質を強く感じてしまう。詠み込まれる素材が日常卑近の些細な事柄であればあるほど、歌言葉はそれと反比例するかのように日常の地平を離れて詩空間へと浮遊する。平仮名の多用もこの歌では効果的で、童謡のようなリズムを生んでいる。二首目、陰暦卯月の昼のほの暗さが題材だが、「電灯のひも揺れてゐる」の暗示する所在なさ、「ただ鈍色の」のとりとめなさが倦怠感をうまく表現している。三首目、椅子の足許に天花粉がこぼれている、それだけの情景である。それを「風の縁のふれゆくらしも」と表現して一編の詩となしている。単なる風とはせず「風の縁」とまで一歩踏み込んで表現した所がこの歌のミソであり、それによって結像力が増していることにも注目しよう。四首目、さきほど見た赤っぽい月の色とまな板の上の紅鮭とを対比させた歌である。不思議な感覚どころか、極めて知的な見立ての歌だと言えよう。五首目、貨車の通過で水たまりの表面が波立ったというだけの光景であり、この歌のポイントは波を「ひかりの襞」と表現したところにある。物体の「動き」によって「ひかり」の存在が改めて意識されるところが作者の発見。六首目は黒猫の尻尾を詠んだ歌。初句が「あゆみきて」ではなくわざわざ六音の「あゆみゆきて」としてあるのは、黒猫が歩み去るところでなければ尻尾がよく見えないからで、尻尾で猫を代表させているところにこの歌の表現としての価値がある。

 栞文のなかで多田の歌を小池は「淡彩であわあわしい」と、河野は「ふわふわと頼りない」と評しているのだが、私にはどうもそれがよくわからない。私の感覚がおかしいのだろうか。上に引いたような歌は焦点の決まった描写、知的な見立て、的確な措辞を駆使して、何の意味もない日常のひとコマを詩へと昇華した優れた歌だと思う。

 「フシギ系感覚」の歌としては次のようなものがあげられるだろう。

 「人形の夢と目覚め」を路地にきく いま左右(さう)の手の交差のこころ

 けさ夢に命ぜられたり〈鬣と尾のどちらかを体につけよ〉

 赤き手ぶくろ昼の電車に振られゐるしきりに振らるる枯園にむき

 少年悉達(しつた)の髪の肌ざはりかすかに指に付箋紙にほふ

 人形であつたとしてもこの雨の音はわたしに溜まりてゆきぬ

 一首目はまるで謎のような歌で、「人形の夢と目覚め」が何の事かわからないし、「左右の手の交差」も意味不明である 
(注)

(注)「人形の夢と目覚め」は、Theodor Oestenという作曲家の作ったピアノ曲だという指摘が読者からあった。「左右の手の交差」とはピアノを引く時に右手と左手が交差するという単純な意味だったことになる。だからこれは不思議な歌ではなかったことになる。短歌の読みにはこのように外的知識が必要なことがあり、知識がないと読みちがいをするという見本のようで恥ずかしい限りである。自戒の意味も込めて原文をそのまま残しておく。
どうも夢の話が出てくるとこの傾向があるようで、二首目も夢の話でこちらは意味はわかる。「動物になれ」と誰かに言われているのであり、作者には動物感覚への密やかな憧れがあるようだ。三首目、電車の中で外に向かって赤い手袋を振っている人がいるという歌だが、これも白昼の謎のような印象を残す。四首目、少年悉達とは釈迦の少年時代のことだが、付箋紙に少年悉達の髪の肌触りを感じているというのだろうか。五首目もまた謎めいた歌で、「雨の音が私に溜まる」という表現が意表を突いているし、「私が人形であっても」という想像もまた不思議なものである。

 私が特によいと感じた歌は次のような歌であった。

 薄明のうつはにそそぐ茶のみどり鴆(ちん)にこころは向きてゐたるを

 髪ほどき入水に向かふをみなゐむシクラメン蒼白にありてゆふやみ

 ひつたりと素足にて床に立つ今を位置さだめたる足裏(あうら)のほくろ

 おほきなる門の奥より音きこゆ引きずられつつ鎖太しも

 デカンタのみづと蛇口はひともとの硝子のごときみづにつながる

 わがからだ遠のきながらなはとびの縄がアスファルトを打つのみ聞こゆ

 一首目、鴆とは中国にいるという鳥の名で、羽には毒がありそれを浸した酒は人を殺すとされている。だから「鴆にこころは向きてゐたる」とは、毒で人を殺したいと思っているということである。夜明けに茶を淹れる静かさと殺意との対比が怖ろしい。二首目は見立ての歌で、夕闇に光るシクラメンを入水に向かう女性に譬えたものである。三首目も多田の個性をよく感じさせる歌ではないかと思う。立ち位置を定めるのが足の裏のほくろだというのだが、ほくろのような微細なものへ注ぐ視線と、それを元にして一首の歌の世界が構成されてゆく様がよい。四首目もおもしろい歌で、犬が鎖を引きずっているのだが、犬はどこにも見えず鎖だけが動いているような奇妙な感覚が残る。五首目は蛇口から水をデカンタに入れている歌だが、「ひともとの硝子のごときみづ」によって蛇口とデカンタが繋がっていると詠んでいるのである。入れ終り卓上に置いたデカンタの中の水が、まだ水道の蛇口と繋がっているかのような幻想の残るところがこの歌の手柄だろう。六首目はなわとびの歌だが、自分の体が上昇するのと同時に縄が地面を打つという逆方向の動きとともに、「打つのみ聞こゆ」によって一瞬無音の世界が構成されるところにこの歌の奥行きが感じられる。

 このように多田の歌には、描かれた世界に触れる手触りに独特の感触がある。ブュフォンの「文は人なり」Le style, c’est l’homme. という箴言を引くまでもなく、歌人は文体と措辞をもって世界を表現するのであり、文体と世界観とは歌人において同義語である。多田の短歌文体は、多田の世界の見方そのものを表わしている。世界に触れる手触りのこの独特の感触を一度感じたら、たとえ署名がなくても多田の短歌を別人のものと取り違えるおそれはあるまい。これを個性と呼ぶのである。


多田零のホームページ「かをりうた

105:2005年5月 第4週 西勝洋一
または、後退戦を戦う男は霧雨の降りしきる海を見つめて

まぎれなく〈季〉うつろうと虎杖(いたどり)の
        群生ぬけて海にむかえり

          西勝洋一『コクトーの声』
 砂子屋書房の現代短歌文庫から『西勝洋一集』が出版されたのは、去年 (2004年) の3月のことである。西勝は1942年生まれで、「短歌人」「かぎろひ」会員。北海道は旭川で教員を勤め、北方から歌を作り続けている。第一歌集『未完の葡萄』 (1970年)、第二歌集『コクトーの声』 (1977年)、第三歌集『無縁坂春愁』 (1990年)、第四歌集『サロベツ日誌抄』 (1998年)がある。『西勝洋一集』には『コクトーの声』 完本の他、他の歌集から抜粋が収録されている。今回通読していろいろなことを考えさせられたが、そのひとつは短歌の「時代性」と「歴史性」ということである。

 短歌の時代性とは何か。それは歌が時代を反映することではなく、歌が時代といかに切り結ぶかということだ。作歌の根拠が時代の動向に深く根ざすとき、その深部から詠い出される歌には模倣できないリアリティーが生まれる。たとえば次のような歌である。

 さびしいこと誰もいわないこの村にこの日素枯れてゆく花があり 『未完の葡萄』

 森うごく予兆すらなく冬空へ少女が弾けるショパン〈革命〉

 ライラック揺れる坂道朝ごとに病むたましいの六月来る

 わが裡にはためく旗よいつの日か憎しみ充ちてちぎれ飛ぶまで

 総身は冷えて佇ちたる かすみつつ渚の涯につづくわが明日

 野葡萄の熟れてゆく昼 状況をまっしぐら指す矢印の朱(あけ)

 1942年生まれの西勝はやや年少の60年安保世代であり、「革命」「状況」「六月」などのキーワードが示すように、左翼運動に身を投じたことが歌から窺われる。第一歌集『未完の葡萄』には、上にあげた四首目「わが裡に」のように、高いトーンで自分を鼓舞する歌があり、かと思えば次のように敗北感と屈折の歌もある。

 展(ひら)かるる明日(あした)あるべき日曜日 午後るいるいと花の凋落

 凛烈の朝の路上に卑屈なる笑みして あれも〈かつての闘士〉

 短歌としての完成度をここで云々するつもりはない。私がこのような歌を読んで強く感じるのは、大文字で書かれるような〈時代の状況〉と、状況と正面から衝突した青春と、その衝突の摩擦から生じる熱気とがあって生まれて来た歌の数々であり、叱責を恐れずに言えば、それはある意味で「幸福な時代」だったということである。言葉が指すべき〈現実〉が厳然としてあり、抒情が生み出されるべき〈心情〉が疑いなくそこにある。〈言葉〉―〈現実〉―〈心情〉が何十年に一度かの惑星直列のように一直線に並んでひとつの方向を照射するときにしか、このような歌は生まれないだろう。「これではあまりにストレートすぎる」という思いを抱きつつも、ある種の羨望に似た気持ちを禁じることができない。現代の私たちはこの惑星直列的状況から遙か遠くに来てしまった。短歌的状況論から言うと、『未完の葡萄』が上梓された1970年以後、「内向の世代」を経て不思議に明るい80年代を迎え、やがてバブル景気とともにサラダ現象とライトヴァースの隆盛を迎えて、ケータイ短歌というものが登場して今日に至っている。〈言葉〉―〈現実〉―〈心情〉という直列関係は、テクノロジーと修辞のかなたに溶暗してしまった。

 しかし、である。〈言葉〉―〈現実〉―〈心情〉の直列は、そのあまりのストレートさ故に、時代のの刻印から逃れることができないという宿命を背負う。第二歌集『コクトーの声』の後書きで、西勝は「『未完の葡萄』後半部をつつんだあの明るい断言の日々が、急に気恥ずかしく思い返されてきた」「発語の困難さを自覚したのはそのような時からであり、それが時代が失語の夕暮れに向かって歩みを始めた時と重なっていたことを知るのはもっと後になってからのことである」と述懐している。ある時代に深くコミットした人間は、時の移ろいとともに後に取り残される。これが残酷な「歴史性」である。では失語の黄昏のなかで歌人としての西勝はどのような方向に向けて歩みだしたか。「〈個〉の発見」(『コクトーの声』後書き)という方向だと本人は述べている。『未完の葡萄』で時代と権力と群集へと向かった歌人は、『コクトーの声』ではただ独り雨の降りしきる海と向かい合う。

 潮迅き海を見ている 街々をただ過ぎしのみうつむきながら

 わが日々のどこも流刑地 ゆうぐれて海だけ騒ぐ町を往きたり

 渚は雨 その薄き陽にてらされて壮年の道みゆるおりおり

 その海にかつてかかりし虹のこと喪の六月を過ぎて思える

 岸辺打つ波散ってゆく闇ながらわが言葉あれしずかに苦く

 わが死後の海辺の墓地に光降る秋を想えり少し疲れて

 『未完の葡萄』を特徴づけるのは「樹木」であった。「樹々よりもずっとさびしく佇ちながら降る雪の中ゆくえ知らざる」など、樹木を詠った歌が多い。樹木は佇立し天に向かって伸びる生命として象形され、青春とやや青い思想の喩にふさわしい。西勝とほぼ同世代の三枝浩之の初期歌集にもまた樹木の歌が多いのは偶然ではあるまい。「視界よりふいに没するかなしみの光 暗澹と樅そそりたち」のような歌を見れば、樹木に付託された象徴性は明らかだろう。

 『コクトーの声』では一転して海が頻々と登場する。樹木は西勝の自我と思想とを形象するものであったが、海はそうではない。海は失語の時代を迎え中年にさしかかった〈私〉の想いを反照するものであり、時に慰藉として働く。『未完の葡萄』で西勝は、「わが視野にまだ見える敵 撃ちながら撃たれて秋の石くれとなる」と詠んだ。「敵」が明確な形として存在し、「敵を撃つ」という思想がリアリティーを持ちえた時代である。『コクトーの声』に寄せた長文の評論のなかで三枝昂之は、西勝は「後退戦を戦う」ことを余儀なくされたのであり、『未完の葡萄』から『コクトーの声』に至る軌跡は、「敗北の現場をも喪失してゆく過程である」と述べた。厳しい批評であり時代認識である。後退戦を戦うなかで、西勝の想いは屈折し内向してゆく。皮肉なことにその反転が美しい歌を生むのである。次のような歌がある。

 〈目覚めへの旅〉終るなき道の辺に突風ののち折れしダリア    

 冬野 するどく鳥発(た)ちゆきてこころざしいつか捨てゆく恐れ持ちたり

 かぎりなく失語の闇に降りしずむ雪あらばわが朋とこそ呼ぶ

 論ひとつ我らをつなぐ幻想にふかぶかと暮れてゆく陸橋よ

 疾走ののち少女の汗まみれ淫蕩のわが六月越えて

 聴きとめていく俺だけは此処に居て移ろう日々の微(かす)かな声も

 一読して「近代短歌だ」と感じる。それは歌の背後に「ウラミ」が付着しているからである。小池光は俵万智のサラダ短歌の新しさは「ウラミが付着してない」ことだという斬新な見方を示した(『短歌研究』 2004年11月号)。小池の文章を読んだとき、ある意味で目からウロコが落ちる思いがしたものだ。ここで言う「ウラミ」とは、貧困・病気・劣等感・挫折・嫉妬など、自らの不遇や不随意感の原因となっているものに対する鬱屈した感情である。近代短歌の背後には多かれ少なかれこの「ウラミ」が付着しているのであり、その鬱勃たる感情が作歌の原動力となった面は否定できない。

 しかしこれは何も近代短歌に限ったことではなく、古典和歌の時代も同じではなかったろうか。伊勢物語のスーパーヒーロー在原業平は、平城天皇の孫という血筋にもかかわらず、藤原氏の陰に隠れて従四位上の官位しか得られなかった。文徳天皇の第一皇子の惟喬親王は母が紀氏の出であったため、生後わずか九ヶ月の第四皇子惟仁親王の立太子を指をくわえて見るほかなかった。鬱勃たる思いを抱く惟喬親王が水無瀬の別荘に遊んだ時、業平も同行して有名な「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」という歌を詠んだ。居合わせた一人は「散ればこそいとど桜は愛でたけれうき世に何か久しかるべき」と返した。だからこれらは単に桜を詠んだ歌ではない。当然皇位を継ぐはずであった親王に対する愛惜と無念を詠んだ歌である。まさに「ウラミ」の歌なのだ。

 唐木順三は『無用者の系譜』のなかで業平を論じ、「身をえうなき者に思ひなして」というのが業平の人物像とその歌のキーワードであり、自らをこの世に容れられない「無用者」と思いなすことによって、現実世界が変貌をきたし、そこに新しい世界、現実とは次元を異にする抽象・観念の世界が拓かれたと断じている。

 唐木の論法を西勝の歌の世界に当てはめるならば、『コクトーの声』は「身をえうなき者に思ひなし」た無用者の歌だと言える。業平や惟喬親王の場合は、宮廷における権力闘争に敗北したことが自らを無用者と観ずる原因だが、西勝の場合は政治闘争の敗北と時代に取り残されたことが原因である。しかしながら原因にちがいはあれ、状況的また心情的には非常によく似ている。

 『コクトーの声』の後書きのなかで、三枝昂之が「定型詩短歌は、その変質の過程で、共同体から疎外された一人の人間の魂を歌うものとして、形式を完成させた」と言っているのは、このことに他ならない。三枝は次のように続けている。

 「だがそれと同時に、投げかけあった問いや応えや唱和が〈われわれ〉の間を往き交って生きた歌になりえた対の片歌の構造を、そうした複数の人間が行うべき問いと応えと唱和をたった一人の人間がみずからの内部で強引に果して世界の意味をその中に閉じこめるという、詩的暴力の構造にと変えてしまった」
 短歌定型について深い思索をめぐらしている三枝ならではの言葉である。ならばもし三枝の言う所が正しければ、『コクトーの声』に収録された西勝の歌がすべて孤独の歌であることは、なんら不思議なことではないのである。

104:2005年5月 第3週 加藤孝男
または、脛に時代の冷えを感じながら口に運ぶ牡蠣の苦み

クリムトの金の絵の具のひと刷毛の
     一睡の夢をわれら生きたり

           加藤孝男『十九世紀亭』
 邑書林から刊行中の「セレクション歌人」叢書の最新刊『加藤孝男集』が出た。今までアンソロジーなどでしか読めなかった歌集の全貌に接することができるのは喜ばしい。アンソロジーで読んだときに印象の残り、ノートに書き留めた歌が掲出歌である。クリムト (1862-1918) は世紀末ウィーンの分離派を代表する画家として活躍し、日本画の金泥を思わせる装飾的な画風で、死とエロスの匂いのする蠱惑的な絵画を多数残した。だからキーワードは「世紀末」であり、加藤の第一歌集『十九世紀亭』が1999年に上梓されたことは偶然以上の意味を持つと考えなくてはならない。

 加藤孝男は1960年生まれで、現在は東海学園教授として国文学を講じている学匠歌人である。「まひる野」会員で、『美意識の変容』などの短歌評論集はあるが、歌集としては『十九世紀亭』が唯一のもののようだ。歌集題名の『十九世紀亭』とは、後に『ふらんす日記』を書くことになる断腸亭主人永井荷風がリヨンに滞在していたとき、足繁く通ったカフェだという。20世紀も終ろうとする1999年に刊行された歌集に、なぜ『十九世紀亭』という題名を付けたのだろうか。それは収録された歌を丹念に読めばわかる。

 かたがはの世界は暮れてうすけぶるサミュエル・ハンチントン氏が衝突

 指をもてマフィンを割ればこぼれたる二十世紀の殺戮の量(かさ)

 ガス入りの水もて舌を潤せば異常気象に暮れゆく世紀

 尖りたちわれを突き刺すエピグラム十九世紀の縁より飛び来

 ガラス器の夏の蜻蛉(あきつ)よくだちゆく世紀とともに火炎をくぐり

 しんかんと世紀は冷えてジュラシックパークに修羅は寒く満ちたり

 ハンチントンの著書『文明の衝突』は1998年に邦訳が出てひとしきり話題になった。冷戦が終焉して世界はより安定した方向に向かうのかと思われたが、案に相違して地域紛争・民族対立・宗教対立が深刻化し、皮肉なことに世界はより不安定感を増した。ハンチントンはその原因のひとつは、西欧文明の比重の相対的低下にあるとした。だから一首目の「かたがはの世界」は沈みゆく西欧文明をさす。

 二首目は作者が『雁』の特集「私の代表歌」で自選した歌である。20世紀が戦争の世紀であったことは疑いがない。マフィンなどというこじゃれた食べ物をカフェテラスなんぞに座って食べる現代の日本の生活の背後にも、夥しい数の戦争の犠牲者が横たわっている。この歌の眼目はその対比にある。三首目の「ガス入りの水」はペリエあたりの炭酸入りミネラルウォーターだろう。現代日本に暮らす私たちは水にまで高い金を払うようになった。しかし私たちが暮らす世界は異常気象に見舞われている。二首目と三首目はこのように同じ構造をしている。

 四首目は『十九世紀亭』という歌集題名の謎を解くよい手掛かりになるだろう。エピグラムとは思想を短く鋭く表わした短詩で、寸鉄詩などと訳されることもあるが、広義には詩の形式を取らない警句も含む。「よい趣味とは嫌悪の集積である」とか「ライオンとは消化吸収された千頭の羊のことである」などの警句の名手であったヴァレリーあたりを思い浮かべればよかろう。加藤は19世紀からこのようなエピグラムが飛んで来て自分を突き刺すと詠っているのである。なぜ19世紀から飛んで来るのか。それは加藤の目には19世紀の方が精神的に豊かな世紀であり、20世紀は精神的貧困の世紀と映っているからである。21世紀を目前に控え、一部の人たちがミレニアムと浮かれ騒いだ1999年の時点で、加藤はより豊かな世紀が人類を待っていると思えたろうか。答はもちろん否である。だから『十九世紀亭』という題名は、単なるレトロ趣味によるものではなく、自分が生きている時代に対する加藤の辛辣な批判精神がつけさせたものだと考えなくてはならない。

 五首目、「くだちゆく」は「腐ってゆく」の意味だから、ここでも20世紀は腐る世紀と把握されている。六首目、「ジュラシックパーク」はマイケル・クライトンが1990年に書いた小説で、1993年にスピルバーグによって映画化された。DNAから古生代の恐竜を復元するという物語であった。復元恐竜が棲むジュラシックパークにも争いの修羅は満ちている。「冷えて」「寒く」と畳みかけるような修辞に、作者の時代に対する冷えの感覚が表われている。加藤は『十九世紀亭』あとがきに次のように書いている。

 「私の精神形成期にあたる八十年代から九十年代にかけては、バブル経済のまっただ中であった。浮薄なものや、その場かぎりの新しさがもてはやされ、面白がられた。そのような流れに全身をさらしながら、脛のあたりがしきりに冷えるのを感じずにはいられなかった」
時代に対する「脛の冷え」のこの感覚、これが歌集全体を貫く主調音である。上に引用したのは「世紀を見下ろす視点」から詠まれた歌だが、この冷えの感覚がこの時代を生きる自分自身に向けられたとき、歌は次のような陰翳を帯びる。

 しをれたる顔をガラスに光らせて一日(ひとひ)のはじめの最終車輌

 思考すら凍えてゐたり外の面には河童火を焚く冬のきはみに

 あらはなる膝のあたりに照る日ざしつくづくと世を厭ふときあり

 黒猿を数多描ける蒔絵箱いかなる鬱を飼ひ馴らししか

 オレンジの果皮を搾れるリキュールの甘さのうちに凶(きよ)をみつめをり

 鋸の歯のごとふるふ狂気あり一本の木をゆつくりと挽く

 紫のバニラを舌にころがして画鋲を口に含むゆうぐれ

 なつかしくわきてぞしばししばづけをかみしめながらかなしみをこゆ

 一首目では最終車輌という語句に目を留めなくてはいけない。時代の先端ではなく最後尾を行く、これが加藤の感覚だろう。思考すら凍える日、またつくづく世を厭う日、このような日々を交えて作者は生を渡り行く。四首目では展示品の蒔絵箱に描かれた猿を見て、その箱の作者はどのような鬱を抱えていたのかと自問する。作者に寄せた鬱が自分の投影であることは言うまでもない。六首目、「オレンジの果皮を搾れるリキュール」とはフランス産のグラン・マルニエという酒だが、甘さの中に苦さが残る。それを「凶」と感じるのは作者の内部にある感覚である。ときには七首目のように身に溢れる激しさを詠う歌もある。八首目「紫のバニラ」とは紫色をしたアイスクリームという意味だろう。本来ならば口に甘いアイスクリームも画鋲を含むような気がするとの意か。九首目「しばししばづけ」の音の連続がおもしろい一首だが、柴漬けに寄せる作者の思いは苦いのである。このように加藤が自分を詠う歌は、なべて倦怠と憂愁と胆汁のごとき苦みが揺曳している。

 集中に飲食(おんじき)の歌が多いことも、またこの歌集の特徴のひとつだろう。

 一本のシャブリの冷ゆるくらがりに捩りて向きてゐたり鎖骨と

 カシミールカレーにしびる舌をだし鞦韆のごと垂らしあぬ午(ひる) 

 透明な器のなかに鱧の身ははじけて過去にもありし暮れ方

 けざやかにわれの背中のかわききて牡蠣の剥き身にしたたる檸檬

 含むときさびしき水となりはてて銘酒寒水のそのひとしづく

 単に私が食いしん坊なだけかも知れないが、飲食の歌には生の実感のこもる歌が多いように思う。生の実感は死の予感と隣り合わせであることは言うまでもない。ましてや飲食とは食材と化した生き物の死を食らうものであればなおさらである。もうひとつ、TVががなり立てる世界の大事件に背を向けるように、一心に皿の上の食べ物に箸を運ぶ様は、世界の中での個の孤独を浮き彫りにする。

 『現代短歌100人20首』に作歌信条を書くことを求められて、加藤は「即時(リアルタイム)と伝統。短歌は十九世紀的分裂を生きる詩である」と書いた。ここでいう「十九世紀的分裂」とは、明治時代になって西洋近代が流入した結果、伝統日本と西洋近代の狭間で生きることを余儀なくされた日本人の抱えた分裂のことである。柳生新陰流の剣術遣いである加藤にとって、伝統と近代の問題は短歌における中心的課題なのである。『十九世紀亭』という題名は、このような文脈のなかで理解されなくてはならない。

 滅びたるものらよりあふ一枚の大皿に秋の蟹は盛られき

 「滅びたるものら」とは歌人のことだろう。自分たち歌人を「滅びたるものら」と表現するところに、加藤の時代認識と一抹の矜持を感じるべきである。

103:2005年5月 第2週 音叉の歌
または、歌人は世界との共鳴を求めて

限りなく音よ狂えと朝凪の
     光に音叉投げる七月

            穂村 弘
 ひとりの歌人を取り上げて批評しようとすると、何冊も歌集を読まなくてはならず、書く文章にも勢い力が入りすぎて肩が凝り、息が詰まるような気分になることがある。そんなときは「お題」シリーズに逃げ込むことにしている。短歌を読む楽しみのひとつに、いろいろな事物がどのように歌に詠み込まれているかということがある。ここでも私のお手本は小池光『現代歌まくら』(五柳書院)なのだが、小池がリストアップした歌枕のなかには、地名や花・鳥の名前と並んで人工物もいくつかある。「鍵」「外套」「自転車」のように、いかにも短歌的連想を誘うものもあれば、「洗面器」という意外なものもある。しかし、今回取り上げる「音叉」は小池のリストにはなく、歌語を多数収録している『岩波現代短歌辞典』にも立項されていない。それほど多く短歌に詠まれたことがないということなのだろう。こういう場合、「音叉」を詠んだ歌を探そうとすると、歌集やアンソロジーをしらみつぶしにひっくり返すしかない。それでもなかなか見つからない。こんなとき、高柳蕗子の短歌・俳句データベース「闇鍋」が使えれば一発検索できるのだが、とつい考えてしまう。

 西洋での音叉の歴史は意外に古く、イングランド王ジョージ1世の軍楽隊でトランペットを吹いていたジョーン・ショアという人が1711年に発明したものだという。英語では pitch fork と呼ぶ。音叉は明治時代になって西洋音楽が日本に輸入されたときに、同時に渡来したものである。だから明治以降の近代短歌にしか登場しない。また音叉ほど日常生活とかけ離れた道具も少ないだろう。どこのご家庭にもひとつあるという物ではない。私たちが初めて音叉に触れたのは、小学校の音楽の時間か理科の実験の時間だったはずだ。小学校を卒業すると大部分の人にとって、音叉は無縁な物となったはずである。このように音叉は誰でも知っているものでありながら、どこか非日常的な存在物なのである。

 音叉はU字型の鋼に足をつけたシンプルな形状もさることながら、音を発するという点に最大の特徴がある。クラシック音楽の調律では、音叉の出す440HzのA音が基準とされる。また同じ固有振動数を持つふたつの音叉をすこし離して置き、一方を叩いて音を出すともう一方も振動し始める。これが共鳴現象で、誰でも昔理科の実験で見たことがあるはずだ。この共鳴という一事によって音叉は歌人の想像力を刺激するのである。

 卓上に置く夜の音叉共鳴すはるかなる椿事のどよめきに  江畑實

 音叉から音叉にわたすささやかな震えが今のぼくらのすべて  村上きわみ

 深々と春 額に音叉あてて識るわが内耳にも鈴一つあり  里見佳保

 江畑の歌では夜の卓上に置いた音叉がひとりでに音を発するのだが、それは遠く離れた事件と共鳴しているからである。卓上の音叉は孤独な詩人の喩であり、遠い事件と共鳴して鳴る音叉は詩心の震えであろう。孤立しながら他と共鳴現象によって繋がるという音叉の特性が、この歌の眼目であることはまちがいない。一方、村上の歌では音叉同士の共鳴のかすかさに焦点が当てられている。「今のぼくらのすべて」という結句に断念があり、世界との関係の希薄さとディタッチメントを音叉の共鳴のか弱さが象徴している。里見の歌では音叉と共鳴するのはもうひとつの音叉ではなく、ヒトの耳のなかにある槌骨・砧骨・鐙骨の耳小骨連鎖である。外部の音叉との共鳴によって内部の音叉の存在を知るという発見は、世界についての発見ではなく〈私〉の内部についての発見であるところが美しく、また単にその事実の確認に留まらず、〈私〉の内と外との関係性を象徴しているようにも読むことができよう。

 触れられて哀しむように鳴る音叉 風が明るいこの秋の野に  永井陽子

 ふつう音叉は触れただけでは鳴らない。触れただけで鳴る音叉は、それだけ感受性が過敏なのである。またそれは「哀しむように」鳴る。この音叉は永井の自己像とも、より広く詩人の肖像とも解釈することができるだろう。その音叉を風が明るい秋の野に放つのは、永井のせめてもの慰藉である。

 音叉は本来、固有振動数に対応する正確な音を発する。だからこそ音叉が狂うということが、とりわけ特筆に値する異常な事態と感じられる。この点に焦点を当てた歌がある。

 なほ青き音叉の狂ふ音のせり細き鎖骨に指触れしとき  風亜祐宇

 極洋の藍のふかまる水底にくるった音叉の奥つ城はある  氏橋奈津子

 風亜祐宇の歌では鎖骨はおそらく異性の鎖骨だろう。「細き」だから女性で、「なほ青き」とあるので若い女性だろう。すると音叉の狂いは〈私〉が男だとすれば、恋人の裡に芽生えた狂気の喩か、または〈私〉と恋人の関係の破綻の喩ということになる。いずれにしても深刻な事態であり、音叉の狂いは世界の同期の狂いとして把握されている。氏橋の歌は題詠マラソンに出詠されたもので、「くるった音叉」はどうやら海底に沈んだ戦艦のことらしい。くの字に折れ曲がって沈没する船と譬えだろうか。文字どおり受け取っても、海底に狂った音叉が沈んでいるという場面には、私たちの想像力を刺激する衝撃力がある。冒頭に挙げた穂村の歌では少しちがっていて、自分から音叉が狂うことを激しく希求している。このように「世界の予定調和的同期」の狂いを希求するのは、言うまでもなく革命的情念であり、穂村の歌は若い歌なのである。

 ガスタンク溺るるごとく雪に澄み発熱をする音叉しずめる 江田浩司

 近づけばわれの殺意に共鳴す詩人ハ音叉モテ殺ムベシ  江畑實

 肌着干す母に手紙(ふみ)書く「逆光のなかにふるへる音叉がある」と 同

 軽羅もてつつむはるけき春雷にふひに共鳴せしその音叉  同

 音叉が発熱するとは尋常ではない。振動して波動を伝播するのみならず、熱をも放射するのはひとえに詩人の想像力のなかにおいてである。またそれが引火の危険のあるガスタンクの近くであるところが、さらに潜在的危機感を増している。江田の歌では、音叉は激しく振動して放熱する詩心の喩のようであり、詩人はこのような危機感を詩の生まれる条件として求めているのだろう。江畑はよほど音叉が好きらしく、歌集『檸檬列島』のなかに4首も音叉の歌がある。江田の歌においても、音叉は殺意や雷鳴に共鳴したり、逆光のなかに吊されたりしていて、単なる道具の域を超えた象徴性を付与されている。静かに振動し共鳴するという音叉の姿は、詩心の喩として歌人の共感を呼ぶのだろう。

 篠懸の揺れやまぬ日は街をゆく人々あまねく音叉を持てり  松野志保

 篠懸はプラタナスのこと。勧進帳の「旅の衣は篠懸の」とか、 阿部牧郎の小説「篠懸の遠い道」をつい連想してしまうが、日本でも街路樹としてありふれた樹である。「篠懸の揺れやまぬ日」とは単に風の強い日というわけではなく、何が事件が起きて人々の心が騒いでならない日ということだろう。そんな日にはどの人の内にも外部と共鳴してやまない音叉が見えるようだと松野は詠っている。ひとりひとりの内部に音叉があるという見立ては、人間同士の潜在的なつながりを象徴しているようでなかなか美しい。

 あるときは震える詩心の喩となり、あるときは世界との同期を象徴し、またあるときは人と人とのコミュニケーション可能性の暗喩となる。音叉は短歌のなかではこのように、とりわけ象徴性の豊かな事物なのである。

102:2005年5月 第1週 中津昌子
または、何を詠っても歌になる組み替えられた〈私〉

象のかたちに象押し上ぐるしらほねの
        軋みおりたり雲あつき下

              中津昌子『遊園』
 中津昌子の名前を初めて知ったのは、俵万智の『記憶の色 三十一文字のパレット2』(中公文庫)に収録された上の歌でだった。象はキリンやライオンと並んで動物園の人気者だ。短歌にも詠まれることが多い。しかし私の印象ではなぜか悲劇的な描かれ方をすることがよくあるように思う。その異常なまでの巨躯、象牙のために乱獲された過去、象の墓場の言い伝えなどがその理由だろうか。掲出歌は一読したら忘れられない印象を残す。作者は象を見て、その巨躯を支える体内の骨に着目している。確かに象の皮膚は洗い晒したキャンバス地のようで、だらりと垂れ下がり、太い骨が浮き出して見える。象の本体は実は骨から成る構造物で、その上に申しわけ程度に布を張ったものであるかのようだ。重力に抵抗して象の形を作っているのは骨なのだ。そのような見方をした歌である。『遊園』の巻頭歌であり、作者としても自信作なのだろう。

 中津昌子は1987年に「かりん」に入会、馬場あき子に師事するかたわら、「鱧と水仙」にも参加。1991年に短歌現代新人賞を受賞。第一歌集『風を残せり』(1993)、第二歌集『遊園』(1997)、第三歌集『夏は終はつた』(2005)と着実に歌人としての歩みを進めている。今回はこの3冊の歌集を一気読みしたので、なかなか読み応えがあった。とびとびに出版された歌集を通読すると、運動選手が日々のトレーニングによって競技に必要な筋肉をつけ、逆に不要なものを削ぎ落してゆくように、歌人としての作歌筋肉が徐々に形成され、歌境が深化してゆくさまが手に取るように感得できる。歌集を読む楽しみのひとつはここにある。

 第一歌集『風を残せり』には、主婦としての、職業人としての、母としての、作者の顔が比較的ストレートに出ている歌が多い。たとえば次のような主婦らしい歌がある。

 クレンザーま白に振りてざりざりと結婚記念日の鍋磨きおり

 たまご焼きうすくきれいに巻きあげててるてる坊主を軒より下ろす

また二人の子を持つ母らしい歌がある。

 我と子を空へ吸いあげそうになりアンパンマンの凧はつよしも

 捨てるならいちご畑と思いおり苺に夢中の兄と弟

作者は貿易会社に勤務しているようで、職場を詠った歌もある。

 マニキュアの光褪せたる指先にキーボードに¥のキー捜しおり

 ラバウルへ送る見本の布束から日の丸柄のものを抜き出す

しかし、日常の体験や目にした光景を起点として歌に想いを馳せようとするのだが、その想いは未だ遠くへは飛翔せず、手の届く範囲にまとわりついて離れようとしない、そのような印象が残る。歌に詠み込む内容としての体験や情景を仮に短歌の「素材」と呼ぶならば、「素材」が自分に付きすぎているあいだは、想いを詩空間に解き放って歌に生命を吹き込むことが難しい。「素材」を詩として結晶化させるには、「素材」を公共化しなくてはならず、そのためには時間的にも心理的にも距離が必要なのである。

 ところが第一歌集から4年の歳月を経て上梓された第二歌集『遊園』における歌境の深まりは瞠目に値する。それはふたつの歌集に収録された類歌を比べてみれば明かである。

 SAVUSAVU (サブサブ)という街の名を打ち上げてタイプの指が踊れるごとし 『風を残せり』

 アルファベットくさりのように編みたるはみんなみ黙しがちなる国へ 『遊園』

 第一歌集の歌はSAVUSAVUという街の名に面白みがあるが、「タイプの指が踊れるごとし」は自分の指の様子を喩により形容したものにすぎず、上句の内容と意味的に呼応がない。ところが第二歌集の歌は、海外に発送する商業レターを「くさりのように編みたる」と間接的に表現する業もさることながら、下句に手紙の届く東南アジアの国々へと馳せる思いがあり、歌に広がりと奥行きを与えている。それと同時に上句のくさりのように編まれた文字の列が、下句では黙しがちなる国へと送られてゆくという意味の結束性もまた一歌の凝集力を高めている。

 『遊園』からもう少し歌を引用してみよう。

 折られたる百合のごとくに裸身折り少年は短き髪を洗えり

 干し葡萄がにじむようなるしろきパン一人称の指に裂きつつ

 ゆうぐれの空へ溶け込むさるすべりいちまいのわれひるがえるなり

 ちりやまぬ睫毛か秋をほのぼのとアーモンド・アイ行き交うアジア

 あみめきりん茫洋とせるまなざしの霜月檻のうちより暮れて

 ついに世界につながらざればコンタクトレンズをうすく止まらせる指

 蛇口には水が止められいることのその背後なる大量の水

 一首ごとに評するのは煩瑣になるので避けるが、特筆すべきは作者が〈私〉を相対化する目を獲得したことである。それは例えば二首目の「一人称の指」という〈私〉を客観視する表現や、三首目の「いちまいのわれ」という〈私〉を「ひとごと」化する表現に窺える。また世界との接続の不全感を詠んだ六首目において、接続不全を指先のコンタクトレンズに象徴させる喩にもそれは表われている。蛇口の背後の大量の水を思うという七首目には、水道の蛇口というありふれた日常の背後に、非日常を幻視する想像力があり、これも第二歌集においてはっきりと形を成した作者の資質である。

 第三歌集『夏は終はつた』で中津の歌はさらに飛躍する。

 右の眼はこまかく菊の咲く痛みひだりしづかな風吹くばかり

 ゑんどうが熟れゆく夜の底ひにて仏はむすぶ厚き唇

 ところてん透明の尾を吸ふ口のこの世のものは吸ひつくすべし

 嘴にくはえられたる魚の目にひろがる天はみぞれを降らす

 テロリズムの花粉に汚れたる花に寝乱れて思ふ兵士は兵士を

 あをぞらから降りくる花よあさがほは夏の終はりをいくひらも咲く

 買はざりし鯵の眼は澄みゐたり路面にながく影は伸びるも

 咲くやうにポスターの上にありし名の如月小春散りて雪なり

 怯えずともやがて夜は来る小さな花大きな花の寝息に満ちて

 私は歌集を読むときに特によいと思った歌に付箋を付けることにしている。ところが『夏は終はつた』ではほとんど付箋を付けることができなかった。収録歌のレベルがいずれも高いので、付けようとすると付箋だらけになってしまい、それでは付箋を貼る意味がなくなるからである。

 中津はこの歌集でそれまでの新仮名遣いから旧仮名遣いに変更している。この変更の持つ意味は大きい。それと平行して短歌の韻律を深化している。第一歌集・第二歌集と比較したとき、いちばん強く感じられるのはこの韻律の変化である。私は実作をしないため、短歌の韻律についてうまく論じることができないのがもどかしいのだが、言葉が収るべき場所に収り、それが三十一音の定型に無理なく吸収されてゆく様、とでも言えばよいだろうか。

 上にあげた歌は、主婦・母・職業婦人としての〈私〉、すなわち現実の位相の〈私〉を詠んだものではもはやない。短歌定型という詩空間において再定義された〈私〉が詠んだものである。ここで「〈私〉を」と「〈私〉が」の、格助詞の「を」と「が」の差異に留意していただきたい。「〈私〉を」空間では、作り手は自分に関心がある。しばしば自分の想いを歌にしたいと願っている。しかし、〈私〉と短歌のこのような関係性の把握から送り出される歌は、往々にして射程が短く詩の蒼穹へと飛翔することがない。「〈私〉を」空間は「〈私〉が」空間へと転換されなくてはならない。そのとき現実の位相の〈私〉はいったん解体され、詩空間において再び組み直された〈私〉へと転轍される。J.-P.サルトルは泥棒詩人ジャン・ジュネを論じた『聖ジュネ』という評論のなかで、ジュネの散文が偽装された詩であり、汚穢を描いて宝石のような詩となる秘技を「転車台」(tourniquet) と呼んだ。あらゆる文学の根底には、〈私〉の組み直しと相関的に現実を変容させるこの秘技がある。そのとき、歌に詠まれたサクラはもはや現実のサクラではない。

 「詩空間において再定義された〈私〉」という言い方に誤解があってはならない。これは現実の位相におけるさまざまな夾雑物を切り捨てた〈私〉であり、短歌定型に貫かれた〈私〉である。このような空間において〈私〉が再定義されると、果たして〈私〉が詠っているのか、それとも短歌定型が詠っているのか、もはや判然としなくなる。これこそが歌人が目指す境地だと思われる。私が読んで心惹かれるのもまた、このような詩空間から手渡される歌である。中津は三冊の歌集において、着実にまた目覚ましくこの詩空間に接近しつつあることを、身をもって示している。これこそ歌集を読む醍醐味に他ならない。

101:2005年4月 第4週 米川千嘉子
または、理知と想いの交錯する歌は動詞をめぐって

〈時〉翳る半球のかなた血のごとく
        鯉沈みゐる小さき国よ

              米川千嘉子『一夏』
 『短歌ヴァーサス』6号に穂村弘が連載中の「80年代の歌」におもしろいくだりがある。80年代にまだ20代だった穂村たち若手歌人にはいろいろなキャラの人がいたが、そのなかで「学級委員」は誰かというと、男子では適当な名前が思いつかないが、女子ではまちがいなく米川千嘉子だという。エキセントリックな個性がごろごろしているクラスをまとめるには、勉強ができるだけではだめで、先生にも一目おかれ、クールなまなざしで不良をもたじろがせるくらいでなくてはならない。この力量があるのは米川だというのである。

 米川千嘉子は1959年生まれで、「かりん」に所属。「夏樫の素描」50首で1985年に角川短歌賞を受賞。その後、第一歌集『夏空の櫂』(1988) で現代歌人協会賞、第二歌集『一夏』(1993)で河野愛子賞を受賞。第三歌集『たましひに着る服なくて』(1998)、第四歌集『一葉の井戸』(2001)と続き、第五歌集『滝と流星』(2004)で若山牧水賞を受賞している。着実な歌集の出版と数々の受賞歴を持つ名実共に実力派歌人である。

 掲載歌は米川が夫君に同行して米国で暮らした頃の歌。時間の翳りのなかで地球の裏側で沈む国とはもちろん故国日本に他ならない。同じ歌集に「苦しむ国のしづかにふかき眉としてアイリッシュアメリカンゲイの列ゆく」という歌もあり、アメリカと日本に注ぐ米川のまなざしの深さと批評精神をよく表わしている。

 なぜ米川が「学級委員」なのかというと、「わがまま派」の多い穂村たちの世代のなかにあって、米川は古典を受け継ぎ端正な短歌を作るという道を歩んだからである。第一歌集『夏空の櫂』出版の前の年の1987年には、俵万智の『サラダ記念日』が世に出てサラダブームが起きている。同じ年には加藤治郎の『サニー・サイド・アップ』、やや遅れて1990年には穂村の『シンジケート』が出版されている。現在の歌風とは異なるが荻原裕幸も『青年霊歌』で米川と同じ1988年に世に出ていることを考えると、主な顔ぶれが打ち揃った感がある。こんななかで、ライトヴァースなどどこ吹く風と言わんばかりの米川の古典調は目立たずにはおられない。

 たとえぱ『夏空の櫂』には次のような歌が並んでいる。

 いかなる思慕も愛と呼びたることなくてわれの日記は克明なりき

 名を呼ばれしもののごとくにやはらかく朴の大樹も星も動きぬ

 現代に若く生(あ)れたる感傷を聞きをり葡萄食みて憎みて

 ひるがほいろの胸もつ少女おづおづと心とふおそろしきもの見せにくる

 端正な文語律、瑞々しい感性、清新な相聞と、これだけ揃えば「学級委員」の呼び名もふさわしいと言えるだろう。大塚寅彦の『刺青天使』(1985年)、中山明の『愛の挨拶』(1989年)、やや遅れて林和清『ゆるがるれ』(1991年)など、古典の知識に立脚した文語律を駆使する若手歌人は、90年代の初頭を最後に途絶えた。関川夏央によれば、文学が教養の座からすべり落ちたのは70年代初頭だという。また江藤淳が「文学がサブカルチャーに低迷しつつある」として文芸時評の筆を折ったのは1978年である。仮に1975年あたりを分水嶺とすると、当時米川と中山は16歳、大塚は14歳、林は13歳となる。早熟な16歳ならば文学に読みふける年齢である。ここらあたりまでが教養のセーフラインということになるのだろうか。この変化には、改訂を重ねた文部省(当時)の学習指導要領も関係があるかも知れない。

 『文藝』〔河出書房新社〕2004年冬号に穂村弘が「『想い』の圧縮と解凍」という文章を書いている。そのなかで、短歌の理解が一般に難しいと思われているのは、書かれた情報に圧縮がかかっているからで、読者は読みの過程で圧縮された情報を解凍しなくてはならない、という趣旨のことを穂村は述べている。ここで言う「圧縮」と「解凍」は、パソコン上で行われる作業をさす用語を借りている。確かにその通りなので、圧縮が短歌の生命であると同時に、読みの過程で解凍するなかで大きな世界が広がってゆく感覚こそが、読者として短歌を読む最大の喜びである。ただし、圧縮にも解凍にもある種の約束事があり、それなりの技術が必要である。今の若い人たちにはこのハードルが高すぎるように感じられるのだろう。いわゆる口語ライトヴァースは一般に圧縮率の高くない短歌をいうのだが、上に引用した歌からも推測できるように、米川の歌の圧縮率は相当に高い。この点もまた、80年代に登場した若い歌人の作風と比較して、米川がひとり独自の道を歩いていると感じられる理由である。

 正直に白状すると、私にもときどき解読しあぐねる歌がある。次のような歌がそうである。

 ある日醒めし桜はおのが鼻目さへ喰ひてしろがねの虚無になりゐつ  『一夏』

 時間(とき)の草炎えながら伸び母と子が永遠に忘るる青き機関車

 六月は断崖となる梢よりはげしく落ちぬそらいろの卵
                『たましひに着る服なくて』

 なぜ圧縮率が高くなるかというと、米川の歌には比喩、ことに直喩が少ないのがその理由のひとつかと思われる。陳腐な例で恐縮だが、わかりやすい直喩の「お盆のような月」から「お盆の月」を経由して、「月の盆」と徐々に圧縮率が増す。このような技術は上に引用した歌にもほの見えて、例えば「時間の草炎えながら伸び」は、「時間がまるで草が燃えるように怖ろしい勢いで過ぎてゆき」と読み解けばいいのだろう。一首目の「ある日醒めし桜」は桜の開花のことをさしているのだろう。三首目はもっと難解で、「そらいろの卵」は空の青の比喩かとも思うが、はなはだ自信がない。かくのごとく米川の短歌の圧縮率は高いのである。

 ついでにもうひとつ指摘しておくと、米川の歌には動詞が多い。一般に短歌一首には動詞は最大3つまでと言われているようだが、それを超える歌もある。

 みづあふれ子どもは生まれみづは閉ぢこの子どこかへかへりたさうで 
                 『たましひに着る服なくて』

 ほのかに滅びそめて愛のみありありと生きる頭を抱きおそれたり

 蝉よ黒髪をもつごと啼きいでて淡からず死者に過ぎし一年

 叱りて叱りて庭に出づれば地下茎は隣の垣をとうに越したり

 動詞は意味上の主語を必要とするが、短歌では省略されることが多い。例えば4首目の「叱りて」の主語は「私」、目的語は「わが子」で、これはまあわかりやすいが、もう少し複雑な例になると解読に時間がかかる。これもまた圧縮率を高める結果となる。

 さて、米川の歌の内容はと言えば、結婚・出産・渡米生活・子供の成長・父親の病気と死と、個人的生活の出来事を歌にしていながら、ありがちな生活詠・日々の歌・短歌形式の日記に堕していない。それはおそらく、出来事の本質を見据えて感情に溺れることなく、批評的精神を失わない目が米川にあるからだろう。

 生き方はタチツボスミレの株のごと宴(うたげ)の女友達分かつ  『一夏』

 蔑(なみ)されて美(は)しき東洋黒馬の踏みたつごときSUSHI・BARの椅子

 〈電極をつけたるあたま〉花の日にあらはれて深く何かをこはす  
                 『たましひに着る服なくて』

 昭和ののちとふ無辺の青のさびしさをこゑ上げながらゆく凧(いかのぼり)

 〈誰もが光る〉と書かれた学校大枯野どこでむすこは光つてるゐのか

 鬱金のアイスクリームといふものを食み細目して見る〈人生の午後〉

 一首目、女友達が同窓会か何かに集まっているが、それぞれの生き方はすでに截然と分かれている。これは単なる観察ではなく、米川には自分には自分の生き方があると心中考えているのだろう。二首目は滞米中の作品だが、ヘルシーフードブームで雨後の筍のごとく出現したSUSHI・BARの黒い椅子を、黒悍馬になぞらえている。「蔑されて美しき」に海外生活者特有の心理的屈折が鋭い。三首目は、オウム真理教事件に題材を得た作品だが、「深く何か」には事件を少数の狂信者のものと片付けない視点がある。他にも「解体するため一丸となりて出家せるおそろしき量感あり〈家族〉」という歌があり、オウム事件を家族という視点から詠んだところが新鮮に感じられる。四首目は昭和が終り平成の世となった時代を詠ったもので、時代が次第に明確な顔を失ってゆく感慨がある。五首目、「誰もが光る」という学校の標語にもかかわらず、学校は大枯野という皮肉には作者の苦い認識が感じられる。六首目、鬱金はカレーの香辛料としても用いられるターメリックと同じで、鮮やかな黄金色だが味は苦い。人生の午後は目を見開いて眺めるものではなく、細目して見るものであり、熟れた果物のように見えるかもしれないがその味にはかすかな苦みが混じっている。

 感動をストレートに詠うのではなく、いったん立ち止まって反省的にものごとを捉えてから表現する。このような態度が米川の歌のなかに、韻律に身を任せてクレッシェンドに詠い上げるのではなく、ややもすれば複雑に折れ曲がるような陰影を与えているのだろう。

100:2005年4月 第3週 「〈私〉の反照 歌ことばはどのように〈私〉を照らし出すか」

短歌における〈私〉問題

 BLEND第8号に高橋みずほが「短歌形式における『われ』の表現パターン」という文章を寄せている。その冒頭にこんなくだりがある。
 「短歌を作り始めたころ、感情や思いの丈を直接言葉にしていた。その重さに疲れていたとき、ふと『われ』を取ってみた。なぜ三十一文字しかないのに二音分の、作り手自身を指す『われ』を入れるのだろうかと思っていたので、躊躇せずに取れすっきりとしたのを覚えている。その後、短歌はわれを中心にして書いてゆくものといわれたが、もう重たさに戻ろうとは思わなかった。『われ』を記述しなければ本当に短歌ではないのだろうか、『われ』に限定することだけが表現なのだろうかという疑問もあった」
 この短い引用のなかにはいくつか重要な問題点が含まれている。第一に、作り手自身を指す「われ」(吾でも私でもよい一人称代名詞)という文字を歌に入れることが本当に〈私〉を詠うことであり、「われ」の文字を入れなければ〈私〉を詠うことににならないのかという疑問がある。第二に、「短歌はわれを中心にして書いてゆくもの」というときの「われ」とはどのような位相の「われ」なのだろうか。短歌は私性の文学であると言われてきた。しかしそう言うときの〈私〉の位相が必ずしも単相的でないことは、前衛短歌をめぐる私性論争があぶり出した事実である。

 花に埋もるる子が死顔の冷めたさを一生(ひとよ)たもちて生きなむ吾か  五島美代子

 亡き人のショールをかけて街行くにかなしみはふと背にやはらかし  大西民子

 水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中  近藤芳美

 アパートの隣りは越して漬物石ひとつ残しぬたたみの上に  小池光

 歌のなかの「われ」が一見して明らかな歌二首と、それほど明らかでない歌二首をあげた。五島の歌は子供の死を慟哭する歌であり、一首全体に漲る悲しみの一人称性は紛れもない。それは結句の「生きなむ吾か」でダメ押し的に表現されている。大西の歌は数少ない身よりであった妹の死の後に詠まれたもので、ここに「われ」の文字こそ見えないが「街行く」が補うことを要求する主語は〈私〉であり、「やはらかし」と感じたのもまた〈私〉以外ではなく、この歌もまた濃厚な一人称性が明確である。

 これに対して、近藤の歌には五島や大西の歌と比較して、一人称の過剰な充溢が感じられない。「レインコートを着る」の補うべき主語は〈私〉だが、この〈私〉はそれほど歌の前面に出ているわけではない。また小池の歌になると、ひとつの情景だけが事実として即物的に投げ出されており、歌のなかに〈私〉の痕跡を指し示すような言語表現を見いだすことはできない。しかしだからといって、五島と大西の歌が〈私〉を詠った歌で、近藤と小池の歌はそうではないと単純に言い切れるものだろうか。そう言い切れないところに、短歌と〈私〉をめぐる問題の複雑さが隠れている。

エコロジカル・セルフ

 「きこりが、斧で木を切っている場面を考えよう。斧のそれぞれの一打ちは、前回の斧が木につけた切り目によって制御されている。このプロセスの自己修正性 (精神性) は、木―目―脳―筋―斧―打―木のシステム全体によってもたらされる。このトータルなシステムが内在的な精神の特性をもつのである。ところが西洋の人間は一般に、木が倒されるシークェンスを、このようなものとは見ず、『自分が木を切った』と考える。そればかりか、”自己”という独立した行為者があって、それが独立した”対象”に独立した”目的”を持った行為をなすのだと信じさえする」
          G.ベイトソン『精神の生態学』
 短歌の多くは何かの情景を詠んでいる。例えば椿の花がポトリと落ちる情景である。ここには椿という「対象」があり、落下という「現象」がある。「対象」と「現象」をまとめて手短かに「世界」と呼ぶ。椿の花がポトリと落ちた情景を歌に詠むためには、その情景を知覚した主体がどこかになくてはならない。それは現実に椿の落花を目撃した主体でも、過去の記憶を呼び出している仮想的主体でもよい。次にそれを歌にするには、現実の、または想像上の知覚を言語化する主体が必要である。このように、短歌が成立する要件として、「世界」―「知覚主体」―「言語化主体」という3つのエージェントの連鎖があり、それぞれの間に相互行為が成立しなくてはならない。

 もしこのような考え方が正しければ、情景を客観的に描写しただけに見える写生歌においても、知覚主体である一人称の〈私〉は存在していることになる。

 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり  子規

 近代写生歌のお手本とされる子規の歌に、言語的に表現された「われ」はない。しかし「藤の花ぶさ」を「短い」と判断したのは、それを見ている一人称の〈私〉である。また「畳の上に届かない」という観察もまた〈私〉のものであるのみならず、これは脊椎カリエスを患って仰臥漫録の日々を送る子規の床の中からの観察である。床に伏して畳すれすれの低い視線から見たからこそ、「畳の上に届かない」という観察が可能なのである。このように観察内容は〈観察者〉の視点をあぶり出す。子規の歌には言語的に表現された「われ」はないが、観察の前提となる視線によって〈私〉は照らし出される。

 ジェームズ・ギブソン (1904-1979)によって創始された生態心理学は、このように〈私〉があぶり出される機序について、有益な知見を提供してくれる。生態心理学の考え方によれば、環境の知覚と自己の知覚は相補的であるとされる。たとえば、新幹線に乗って窓から外の景色を眺めている場面を考えてみよう。車窓から見える景色が早い速度で後方に流れて行くとき、〈私〉は早い速度で前方に移動している自己を知覚する。景色の流れる速度が遅くなれば、駅に近づいて減速している自己を知覚する。このように自己の移動知覚は環境の「見え」の知覚によって成立する。ギブソンはこれを「世界を知覚することは、同時に自己を知覚することである」と表現している。

 またこの知覚が感覚器官が外界から刺激を受容するという受動的知覚でないことも重要な点である。私たちは目隠ししていても、手でボールに触れて輪郭をなぞることで、ボールが丸いということを知覚できる。ところが手を台に固定された状態で、第三者がボールを私の手に触れさせると、私は自分で手を動かしたときと同じ触知覚を得るにもかかわらず、ボールが丸いということを知覚することができない。知覚主体である私にとって、自分で手を動かすという能動的行為が知覚の成立にとって不可欠なのである。すなわち私は能動的探索者として世界に向かうことによって知覚が成立し、それと相補的に自己の知覚もまた成立する。ギブソンはこのことを「環境に埋め込まれた自己」と表現し、これをエコロジカル・セルフと名づけた。

 短詩型文学の問題を考える私たちにとって大事なのは、「環境に埋め込まれた自己」という私たちの有り様が、言語に直接的に反映されているということである。

 (1) Peter is sitting across the table.

 この文の意味が成立するためには、ピーター君が「テーブルの向こう側に座っている」と知覚する視座が必要であり、それはふつう〈私〉である。観察する視座がなくては「向こう側」という位置関係は成立しない。したがって(1) は言語的に表現されない〈私〉の知覚を表現した文であり、その知覚は「テーブルのこちら側」に座っている〈私〉の自己知覚と相補的である。

「表現されない〈私〉」の主観性

 上にあげた(1)の文は次のように表現することもできる。

 (2) Peter is sitting across the table from me.

 ここには知覚主体である〈私〉が一人称代名詞 me によって言語的に表現されている。ところが同じ意味のように見える (1) と (2) は使用条件が異なる。ピーター君も私も出席していたパーティーの写真を後日見ながら話している場合、(2) だけが可能であり(1)は使うことができない。これはなぜだろうか。

 (2) の文は写真にピーター君も私も写っているときにのみ使うことができる。そのとき me と表現された私は、写真に映像として写り込んでいる私であり、環境世界を知覚している〈私〉ではない。つまり環境に埋め込まれたエコロジカル・セルフではない。私はその文に表現された知覚の主体でないときに限り、言語的に表現されることができる。このとき成立する文は世界に関する構造的記述であり、誰にとっても同じものとして理解できる公共化された内容となる。

 これにたいして (1) の文は、表現されていない知覚主体である〈私〉の目から見た世界であり、この文の内容はエコロジカル・セルフとしての〈私〉の視点から眺められた世界である。生態心理学ではこの事情を、「エコロジカル・セルフとしての〈私〉は〈見え〉の中には含まれない」と表現している。上にあげた新幹線で移動している例では、〈見え〉である車窓に流れる風景のなかには〈私〉が含まれていなかったことを思い出そう。

 さて、(1)と(2)とを較べたとき、どちらがより「主観的」な表現だろうか。(1) は見ている〈私〉の視点に立たなければ見えない世界であり、(2)は誰にとっても同じ公共化された世界である。だから(1)の方がより主観的な表現だと言わざるを得ない。このことは「〈私〉が言語的に表現されないときの方がより主観的である」という逆説的な結論に私たちを導く。

 このことは日本語の感情表現について確かめることができる。

 (3) 私はうれしい。
 (4) うれしい !

 感情の主者である「私」の言語的表現は任意である。しかし、うれしいという感情を強く感じているその場においては、(4)のように「私」を表現しないのがふつうであり、より感情吐露的性格が強くなる。これにたいして (3) のように「私」を表現した場合、文の伝える意味合いは説明モードであり、「このバラは赤い」という客観的報告に限りなく近くなる。

観察点の公共性

 エコロジカル・セルフが関係しない Peter is sitting across the table from me. 型の表現と較べて、エコロジカル・セルフの直接的知覚を表現する Peter is sitting across the table. は限定的で、特定の視点から見た世界像である。だとするならば、これは〈私〉にしか見えない極私的な世界であり、他人が共有することはできないのだろうか。私は他人には通じない私だけの世界に閉じこもっているのだろうか。いやそうではない。

 私が座っているテーブルのこちら側の席に、もしあなたが座ったとしたならば、あなたは私と同じ知覚を得ることができ、 同じように Peter is sitting across the table. と表現することができる。これを「観察点の公共性」と呼ぶ。知覚主体は固定されているわけではなく、環境世界のなかを自由に動き回り能動的探索活動を行なうとされている。であるならば、あなたが移動して私が今いる位置にやって来たとき、私と同じ知覚を得るだろうことは、私には十分推測可能な根拠のあることである。

 より言語の側に問題を引きつけて考えると次のようになる。私が Peter is sitting across the table.と発話するとき、私は言語表現によって私の知覚内容を伝えているのであり、その行為を通じてあなたに私と同じ観察点に立つことを要請しているのである。そしてあなたに対するこの誘いは、言語そのもののなかに塗り込められているという点に注意すべきだろう。私は「私と同じ立場に立ってください」と口に出してあなたを誘う必要はない。なぜならば「月が饅頭にように丸い」と私が言うとき、この発話はエコロジカル・セルフとしての〈私〉の知覚を表現しているだけではなく、観察点の公共性を経由して、「あなたにも知覚可能な事態」を表現しているからである。「コトバが意味を伝える」ということは、このことを措いて他にはない。

 鶏頭の十四五本もありぬべし  子規

 鶏頭が十四五本あったという事実のみを詠んだこの俳句がなぜ俳句として成立するかを、金子兜太は次のように説明している。

 「鶏頭に着目した時点では、子規に自己の存在感は意識されていなかったかも知れないが、鶏頭を見、その存在感を知ったとき、逆に子規の存在感の自覚を促していたのである」(『短詩型文学論』)
 三枝昂之はこれを受けて次のように書いた。

「ここでは叙述が終った瞬間に、あたかも堅い壁にぶつかるように前のすべての言葉に反作用を及ぼし、それらの客観的な言葉をすべて主観的なものに転化しつつ、主観と客観が共鳴しあうものとして、定型空間は見事な反転力の機能を果たす」
        (『現代定型論 気象の帯、夢の地核』)
 なぜ鶏頭の存在感が〈私〉の存在感の自覚を促すかは、「世界の知覚と自己の知覚は相補的である」という生態心理学の仮説によって、もっともよく理解できるだろう。そして重要なことは、この知覚の相補性が言語のなかに塗り込められているということである。私が「鳥!」と発話するとき、私は鳥の知覚を表明すると同時に、鳥の存在に気づいた自己知覚も表現するのである。

 歌のなかに「われ」が言語的に表現されている歌が主観的で、表現されていない歌が客観的だというわけではない。真相はむしろ逆である。〈私〉の存在の痕跡を言語表現から消し去ることによって、歌の描く世界がすみずみまで〈私〉の見たものとなる。この逆説こそが短詩型文学において〈私〉を照らし出す反照の機序に他ならない。

【付記】

 生態心理学は今日ではアフォーダンス心理学と呼ばれている。詳しいことは次の文献を参照してください。私のネタ本です。
  • 佐々木正人『アフォーダンス 新しい認知の理論』岩波書店
  • 本多 啓『アフォーダンスの認知意味論』東京大学出版会