第47回 森井マスミ『ちろりに過ぐる』

『ちろりに過ぐる』と〈私〉の四つの位相
 以前にこのコラムで取り上げた評論集『不可解な殺意』の著者森井マスミの第一歌集『ちろりに過ぐる』が今回の歌集である。著者の紹介は重複するので省く。最近では珍しいクロス貼りの重厚な造本で、表紙には黒を背景として悠然と泳ぐ鯉の絵がある。栞文は藤原龍一郎・尾崎まゆみ・吉川宏志・加藤治郎。帯文には藤原の栞文の一節が引かれている。後記・奥付から裏表紙の価格表示に至るまで旧字で統一されており、高い美意識を感じさせる。本コラムではパソコンの制約上、旧漢字をすべて再現できないことをご海容いただきたい。
 歌集題名は集中の「(世間よのなかはちろりに過ぐる)待つといふ長すぎる時間さへも、ちろりに」にあるが、「ちろりに過ぐる」は室町時代の小歌を集めた閑吟集から取られている。「瞬く間に過ぎてしまう」の意だが、「ちろり」には「短い時間」の他に、酒の燗をつける金属製の容器の意味もあり、「燗をつけるくらいの短い時間」でもある。題名が閑吟集から取られていることは、「引用」が森井の方法論の根幹にあることを雄弁に示している。
 本歌集は結社誌『玲瓏』と詩歌文芸誌『GANYMEDE』に発表された作品を収録しているが、巻末に付せられた初出一覧からわかるように、歌集の構成は編年体でも逆編年体でもなく、意志的かつ演劇的に構成されている。この事実も森井の姿勢をよく表していることに留意しておこう。また内容を一読して驚かされるのは、表現形式の多様さである。通常の短歌に加えて、俳句作品と河内音頭まである。どう見ても栞文で吉川が述べているように、「非常に異色な問題作」なのである。どこがどう問題なのだろう。
 第III部に収録された初期作品を引いてみよう。
黒海の塩ひとつまみアーティチョーク嘘ふつふつと鍋底にゆれ
ゆくへ知らざる夢くくるとき 沈丁の花散りやまぬ黙の坩堝に
いくたびかいのち澄む夜のちりつばき にほふうつつに夢の縦傷
かへりみざれば乳白の過去なべて死を喚びさます潮の紺青
 いかにも師の塚本好みの語彙と美意識によって紡ぎ出された歌である。栞文で玲瓏の先輩である尾崎が書いているように、森井は「塚本の言語感覚を完璧に受け取り、完璧に制御している」のである。おそらくは完璧すぎるほどに。しかし、塚本短歌の語彙の強度と強靱な美意識を支えているのは、塚本の強烈な個性と戦争体験である。師が持つものを弟子は持たない。また背景となる時代も異なる。塚本の時代に成立した〈私〉は、現代では同じ文脈では成立しがたい。ならばどうするか。森井は新しい〈私〉を探しに出発するのである。そのとき演劇研究者である森井が採用したのは、本歌取りを超えた引用と換骨奪胎という手法なのだ。
 第I部に収録された「白桃の芯」は三島由紀夫『近代能楽集』の「班女」を下敷きにした自由な変奏である。また『死の棘』日記は島尾敏雄、「ひかりごけ」は武田泰淳を下敷きにしている。おまけに「白桃の芯」冒頭の歌「約束は秋、といふのに手にならす扇の骨はきしきし冷えて」は、後京極藤原良経の「手にならす夏の扇とおもへどもたゞ秋かぜのすみかなりけり」の本歌取りである。三島の「班女」がそもそも能の古典演目を元に作られた戯曲であることを考えると、まるでマトリョーショカのように幾重にも入れ子にテクスト関係が結び合わされていて、クリステヴァの言う「間テクスト性」intertextualityに満ちた言語空間を構成していることがわかる。さて、このような言語空間に置かれた次のような歌を読むとき、読者はいったい誰の声を聴くのだろうか。
ガラス窓鎖して夜から逃げ出して舟なき島にひとを思ひぬ
置いてきたビニール傘の白銀にだれかの指がふれた気がする
 「白桃の芯」はいちおう「班女」の主人公花子に成り代わって詠むという設定になっているのだが、思考動詞「思ひぬ」感覚動詞「気がする」の主語=主体を確定することは難しい。三島の『近代能楽集』自体が古典空間と現代とを往還する構造になっており、森井の歌における主体の〈私〉は幾重にも折重ねられた言語空間の中で反射し反響し、それを求めようとしても幻のように逃げ去ってしまう。
 栞文「シミュラークルの挑発」でこのことを問題としたのが吉川である。吉川は森井の方法論の根底には、短歌で従来言われてきた〈私〉が本当に存在するのか疑わしいという挑発が込められていることを認めた上で、本歌集を読む読者は困惑し、共感することが難しいと批判的に述べ、これに対抗する立場から次のように書いている。
 森井マスミは、作者の経歴(年齢・性別・生活環境など)を超越した〈私〉を仮構的に作りだそうとするのだが、短歌の〈私〉には、もう一つ別の面があって、作品の韻律や視点が生み出す〈私〉も存在するのである。
 
 最新歌集に『西行の肺』というタイトルを付けたことからわかるように、最近の吉川は歌の中に響く声や息づかいという身体性に重きを置く立場を採っている。その吉川から見れば森井の作り上げた言語空間はシミュラークルとしか思えないのであり、そこに本当の短歌の〈私〉は立ち上がることがないと考えている。
 吉川の発言をもう少し広い文脈に置いて考えるために、いささか図式的になることを恐れずに言うと、短歌の〈私〉にはざっと見回して少なくとも四つの位相があるように思われる。
 第一は歌中に直接的に〈私〉が登場する場合である。「我のみが初日にこだわる獄庭に太陽サンなど拝む者あらずして」(郷隼人)では、〈私〉は人称代名詞「我」と明示的に表現され、また「あらずして」と判断する主体としても働いているわかりやすい〈私〉である。一人称歌のほとんどがこれに当たる。
 第二は言語表現における視点が作り出す〈私〉である。『短歌ヴァーサス』11号に斉藤斎藤が書いた「生きるは人生とちがう」が論じているのは、このタイプのいささか手のこんだヴァージョンだが、これをなぞる形で言うと、「私」には「私は身長178cmである」というときの客体用法と、「私は歯が痛い」と言うときの主体用法の二種類の用法があり、現代短歌の〈私〉はこの複合体だと斉藤は言う。その上で、「飛ぶ雪の碓氷をすぎて昏みゆくいま紛れなき男のこころ」(岡井隆)の上句は主体用法の〈私〉で、下句は客体用法の「岡井隆」であり、全体として一首は「岡井のわたし」になっていると結論している。この場合、上句の「飛ぶ雪の碓氷をすぎて昏みゆく」が視点を含む言語表現になっているのだが、視点の置き方には無限と言ってよいほど様々なヴァリエーションがある。たとえば「もちあげたりもどされたりするふとももがみえる/せんぷうき/強でまわってる」(今橋愛)は性愛の場面を詠んだ歌で、仰臥する女性側に固定された固定カメラのような視点である。このように視点を固定するとよりシャープな〈私〉が形成されるかというと実は逆で、斉藤の言う「ななめ後ろから私を写すアングル」が少なくとも近代短歌には必要なようだ。なぜそうなのかという問に十分に答える用意が今の私にはない。ただ、考えられるのは、〈私〉とは関係概念であり、その擁立には他者を必要とするのではないかということである。「私」は他者を孕むことで初めて〈私〉としてくきやかに輪郭を獲得するのではないか。逆説的ながら、純度100%の私は〈私〉として立ち上がることができないのではないだろうか。
 第三は永田和宏の有名な「問と答の合わせ鏡」の反照力学によって浮上する力動的な〈私〉である。「退くことももはやならざる風の中鳥ながされて森越えゆけり」(志垣澄幸)を引きながら、上句の問の拡散性と下句の答の求心力がはらむ緊張関係が一首を成立させると永田は論じた。これを斉藤風にアレンジすると、「退くことももはやならざる」が客体用法の私で、「風の中鳥ながされて森越えゆけり」が主体用法の〈私〉の反映ということになろう。しかし永田はここでは、問をできるだけ遠くに飛ばし、それを答によって再び回収する作者の力仕事の強度に焦点を当てて、それを「緊張関係の中に懸垂された一回性の発見」という張り詰めた言葉で表現している。
 最後の四番目は今までのように歌の中に構造的に作り出される〈私〉ではなく、吉川流に言うと「ふと感じられる」〈私〉である。ある言い回し、ある比喩、ある韻律の背後に生々しい人の存在を感じることがあり、その有り様は一様ではなく、また予測もできない。吉川が「身体性」という概念でくくろうとしている〈私〉である。たとえば、「つきぬけて虚しき空と思ふとき燃え殻のごとき雪が落ちくる」(安永蕗子)という歌では、四句の「燃え殻のごとき」の八音が作り出す急かされるようなリズムに生々しい声を聞く思いがする。
 さて、では森井の歌集に話を戻すと、多様なテクストの換骨奪胎を重層的に組み合わせた森井の言語空間に見いだされる〈私〉があるとするならば、それは今まで述べてきた四つの類型のどれにも該当しないことは明らかである。森井のテクストには演劇性が濃厚に感じられるが、同じ演劇性でも寺山修司が短歌で駆使した「〈私〉の犯罪性」とも異なる。森井の〈私〉はテクストの重層性の燦めきのなかに反射し拡散するかのようでもある。
 森井は評論集『不可解な殺意』のなかで次のように述べており、自らの試行の解説と取れる。
 そして、文学を支える基盤である「私」自体が、近代的な「私」からボストモダン的な「キャラクター」へと移行していく中で、こうした状況を食い止める可能性を探るとすれば、前者を機能として構造的に回復していくか、後者に方法としての批判性を見い出すか、そのいずれかによるほか方法はないであろう。文学を成立させていた基盤そのものが、すでに瓦解している現状を、もうそろそろわれわれは、現実として受け止めるべきである。(「文学の残骸 ─ オタク・通り魔・ライトノベル」)
 江田浩司万来舎のホームページに書いた評論で森井の歌集を取り上げ、上に引用した箇所を引き、「規範的な短歌批評」に対抗して森井の試みを擁護する論陣を張っている。森井は「玲瓏」で江田は「未来」という結社のちがいはあるものの、江田もジャンルを横断する試みを続けていて、森井と立ち位置は近い。しかし、その江田も森井のテクストの孕む危険性を認めない訳にはいかないと言う。森井の試みがポストモダン的なシミュラークルの戯れ、表層の遊戯と見なされてしまう危険性である。それは森井の意図からは最も遠い受け取り方だろう。
 そう断った上で、さて、森井は本歌集で行った試みによって、新しい〈私〉を立ち上げることに成功しただろうか。この問に即答することは難しい。栞文を書いた歌人たちの受け止め方も様々である。劇という方法で新しい〈私〉を発見したと評価する尾崎を除いて、藤原も加藤も言い回しは異なれども、「その意欲と試みを高く評価し、今後を見守りたい」という意味の、栞文的な結び方で終わっている。確かに今の段階ではそれ以上のことを言うのは難しいだろうと私も感じる。このコラムを書いていて最も腐心するのは結びの文だが、今回に限ってはうまく結べない。森井の試みがそれだけ重みを持つものだという証左と見なしておきたい。

第46回 永田淳『1/125秒』

ブーストを立ち上がらせつつ走りゆく前にも後にも時間はなくて
                     永田淳『1/125秒』 
 掲出歌には「ターボタービンにてエンジンに過給することをブーストと呼ぶ」という詞書がある。自動車でもオートバイでもエンジンがあれば当てはまるが、ここは作者の愛するオートバイの話だろう。下句の「前にも後にも時間はなくて」は、空間的にも時間的にも解釈できる。空間的に解釈すれば、オートバイを駆る〈私〉の前方にも後方にも時間は存在せず、疾駆する〈私〉が実感している〈今〉だけが時間だ、という意味になる。また時間的に解釈すれば、〈私〉の前方にあるのは未来で、後方にあるのは過去だが、それらは〈私〉にとって時間と呼ぶにふさわしいものでなく、〈私〉の実感する〈今〉だけが時間だ、という意味になろう。前段の解釈は異なっても後段の解釈は同じである。歌が表現する疾走感を背景に浮かび上がるのは、強い〈今・ここ〉(hic et nunc)感覚である。この感覚が一巻の通奏低音のように響く歌集と読んだ。
 永田淳は1973年生まれ。永田和宏の子息で、「塔」編集委員。短歌関係の出版社青磁社社主である。『1/125秒』はずいぶん遅い第一歌集で、昨年度の第35回現代短歌集会賞を受賞している。自著の編集はしにくいせいか版元は自社ではなく、俳句出版のふらんす堂。栞文はコスモスの高野公彦、未来の大辻隆弘、塔の松村正直の三人が書いている。高野は優しさのなかに異能を秘めた作者だと評し、大辻は茫洋としたのびやかさを言い、松村は些細に見えることの奥にある何かを捉えていると述べている。確かに三人の指摘はもっともなのだが、私が一巻を通読して最も強く感じたのは「時間」の重みだった。このことは珍しい歌集題名にも現れている。たぶん「ひゃくにじゅうごぶんのいちびょう」と読むこの題名は、カメラのシャッター速度を表していて、「印画紙に残されし1/125秒ほどの過去を君は好めり」という歌から採られている。人生の長さから見れば須臾の瞬きに等しい1/125秒で定着された光景を愛おしむ歌である。それ自体は取り立てて目新しい感想ではないが、作者が自分をまず時間の流れにある存在と捉えていることがうかがえる。
 集中の時間に関係する歌を見てみよう。
横断歩道渡りて煙吐き出せば同時進行の前世もあるべし
またヤゴの憂鬱に戻りゆくのだろうアキツは巨き顎持ちて果つ
午後三時数多の手首にぶら下がる時間と時刻神田神保町
東シナ海を今し抜けゆく台風の針路の東の夜に佇ちおり
 一首目は不思議な歌である。前世とは自分がこの世に生まれる前の生で、過去に属するものである。しかし歌では同時進行の前世とされており、字義通り解釈すればSFのパラレル・ワールドのようになる。日常にふと時間の穴に落ち込んで、別の生を生きているような気になる瞬間を詠んだものだろう。二首目はトンボの死を詠んだ歌。トンボが死んで幼生のヤゴに戻ることは本来は起こらないことだが、ここには種として循環的に流れる時間意識がある。三首目は電車の吊革を握る手にはめられた腕時計の歌だが、「時間」と「時刻」のちがいに注目したい。「時刻」はたとえば「現在午後三時」と表現されるように、現在時点においてしか成立しない。一方、「時間」は「もう二時間待っている」のように幅のあるもので時刻とは独立で、腕時計の時針はこの両方を表しているのである。考えれば確かにそうなのだが、改めて指摘されるとハッとする。また時刻は万人に共通のものだが、時間はそれを抱える一人一人によって異なることにも留意すべきだろう。四首目に時間は明示的に表現されてはいないものの、海上を進む台風によって強く暗示されていることは明らかである。「夜」にかかる「東シナ海を今し抜けゆく台風の針路の東の」という長い連体修飾句が、啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣き濡れて蟹と戯むる」と同じようなズームイン効果を生んでおり、最終的に到達するのは「佇ちおり」の隠れた主語である〈私〉が位置する〈今・ここ〉なのである。
 この時間意識はどこから来たものか。青春を過ぎて30代に入った作者が、「もう俺もジーンズの似合わないオジさんになったか」と感じて生まれたものではないようだ。集中には確かに次のようにやや甘さを含む過去への惜別の歌がある。
ただ海を見に行きたかりし夏として記憶のうちに留めておかな
永遠とは十代の修辞 名も知らぬ少女にあくがれいたる文月
数時間走らば海のあることをそこで逝かしむる時のあることを
 しかしこの気分は一巻の主調音ではなく、他の歌に見られる時間意識を説明するものでもない。作者の時間意識はむしろ次のような歌によく現れている。
驟雨きて驟雨は去りてまだ浅き春の夕暮れ暮れ残りたり
いつ知らず静かな春の雨となるずっと昔も同じ匂いに
潰れずに死にたる秋蚊を掌に載せて流しに捨つるまでの数歩
遮断機の撓りの先の触れ合わず揺れ止む前に上がり始めき
 最初の二首は時間の流れを抱えた歌で、たまたま両方とも雨の歌である。驟雨が来て止むまでの間、また雨の降り出しに気づくまでの間という比較的短い時間が含まれており、その動的変化に歌の眼目があると読んでもよい。しかしこれらの歌から否応なく浮かび上がるのは、流れる時間のなかにある人間である。それはつまるところ、人間が時間的存在であることに由来するのかもしれない。三首目と四首目は時間の流れではなく、〈今・ここ〉感覚の突出した歌である。晩秋の蚊は哀れ蚊と呼び季語ともなっているが、潰すまでもなく死んでしまった蚊を捨てる短い時間に〈今・ここ〉感覚が溢れている。四首目では降りた遮断機の左右の棒が揺れているために、触れ合うことなくまたすぐ上がり始めるまでの短い時の間が詠まれており、やはり〈今・ここ〉感覚の歌と言える。
 近代短歌は明治期の短歌革新を経て〈私〉を表現する詩型となったが、永田の歌にある〈私〉とは、特別な思想を持ったり特殊な経験をした〈私〉や、修辞に工夫を凝らして言語空間に楼閣を築こうとする〈私〉でもなく、「今ここにいる」という感覚に根ざした〈私〉なのだろう。「今ここにいる」ということは誰にでも当てはまる普通のことである。したがって永田が詠むのも、たとえば「アオリイカの目玉の大きなることを子らと言いおり鮮魚売り場に」のように、家族を中心とする普通のことになる。
 そんな集中でやや異色なのが、「誰も言わぬ」と題された三首のみの連作である。
金雀児の葉末を半月過ぎりゆく隣家の鳩が二度鳴きし時
一様の暗がりならず石階の手摺の根元に開く夕顔
誰も言わぬ日照雨が降りぬ京都北郵便局の隣りの路地に
 永田の歌に難解・難読語句は少ないのだが、珍しく金雀児エニシダ石階いしばしは辞書を引くはめになった。日照雨そばえは歌人好みの語なので、知らない人はいないだろう。この三首は永田の普通の歌の詠み方からすると、ずいぶん修辞を凝らした歌となっている。「難読語を用いる題詠」にでも出詠したのだろうか。そんななかでも一首目と三首目には特に〈今・ここ〉感覚を強く感じる。
 最後に私が特に好きな歌を一首挙げておこう。
今朝われら羽を持たざるもののごと清々しただ水溜まりを越ゆ
 私は「われら」に弱いので、ついこういう歌に丸を付けてしまう。この歌のおもしろさは、「羽を持たざるもののごと」と敢えて表現する矛盾にある。人間にはもちろん鳥や天使のような羽はないので、空を飛ぶことができない。天空の高みを目指して飛翔することができないのである。そのような人間の境涯を「羽を持たざるもののごと」と逆説的に表現し、続けて「清々し」と断じるところに作者の矜恃がある。永田は「ただ水溜まりを越える」という日常的行為と〈今・ここ〉に大きな価値を置いているのだろう。

第45回 短歌における読みについて Part 2

 大学ではこの時期、学部の卒業論文と大学院の修士論文の提出時期を迎えて、大変なことになっている。なかなか論文を書いてくれない学生の尻を叩かねばならず、年末から論文指導の面談を重ねる日々が続く。なかには思い余って「私はどうすればいいんですか」と叫び、泣きながら研究室を飛び出して行く女子学生がいたりする。先日も研究室で面談していたら、様子がおかしくなり、「トイレに行っていいですか」と言って出て行ったきり、1時間も戻って来ない学生がいた。寝不足と緊張から昏倒して、トイレで気を失っていたのだという。私が学生を失神させるほど苛烈な批判をしたわけではないので、念のため断っておく。
 こんな日々なので、とても落ち着いて歌集など読んでいられない。というわけで、前回に続いて「短歌における読みについて」のPart 2である。決して手抜きと思わないでいただきたい。というのもおもしろい本を読んだからである。月本洋『日本人の脳に主語はいらない』(講談社選書メチエ 2008年)である。著者は東京電機大学工学部の教授で、人工知能の専門家だという。専門外の脳科学と言語学に乗り出して本書を書いた動機は、英語やフランス語では I love you. / Je t’aime.のように、私 (I, je)や君 (you, te)などの人称代名詞が必須であるのに、日本語では「好きだ」のように代名詞を用いないのがふつうなのはなぜかという疑問に答えるためである。著者の主張を手短かにまとめると次のようになる。
 日本語話者と英語話者とでは、母音の脳内処理に半球差がある。日本語話者は母音を左脳で処理するが、英語話者は右脳で処理する。一方、自他の区別を司る部位は右脳にあり、英語話者が母音を処理する部位に近い。このため英語話者は母音を処理する際に、自他の区別を司る部位が活性化する。これが人称代名詞の義務的使用の理由である。
 母音の脳内処理に関する部分は実験に基づいているが、それを言語に結びつける論理には内挿法 (interpolation)や外挿法 (extrapolation) が駆使されていて、この結論をにわかに信じることはできない。しかし本書前半で紹介されている脳生理学的実験によって得られた結果は、とても興味深いものなのである。
 しかしこれが短歌における読みとどう結びつくのか。それは「私たちはなぜ短歌を読めるのか」という疑問につながるからである。ここで首を傾げる人がいるかもしれない。日本語ができて文法と語彙を理解している以上、短歌が読めるのは当たり前ではないかと思うのがふつうだからである。しかしちょっと待ってほしい。「短歌が読める」とは、単に語の個々の意味を文法規則に従って統合し、文意を理解するということではない。一例を挙げる。
沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ  斎藤茂吉
 よく知られた有名な歌で、歌意に難解な所はない。〈私〉が黙ってブドウの房に降る雨を見ている情景が詠われている。ブドウが実っているのだから季節は秋である。表面の字面だけを解釈すればそうなる。だがこの歌は、先の大戦の敗戦時に山形に疎開していた茂吉が、祖国の敗北に言葉を失った様を詠んだものであり、降り注ぐ冷たい秋の雨とブドウの黒い色とが、茂吉の悲愁と孤独を表現しているのである。そこまで読まなくてはこの歌を読んだことにはならない。しかしなぜそう読めるのか。それが問題である。この問に明確に答えた論考を私は知らない。
 月本が手際よくまとめているように、言語の意味理論には今までにおおきく分けて3つの考え方がある。第一は、「言葉の意味とはその言葉が指示する対象である」という理論である。たとえば、指さしながら「この犬」というとき、その意味は指された犬だというものである。これは言葉はモノの代用だとする古くからある考え方に基づいている。スウィフトの『ガリバー旅行記』には、言葉を使うかわりに、相手に伝えるのに必要な物を大きな袋に詰め込んでよろよろ歩く人が描かれている。現代の代表的な意味理論である真理条件意味論はこの部類に入る。第二は、「言葉の意味とはそのイメージである」という考え方である。たとえば、「犬」という語の意味は、それを聞いたときに私たちの脳裏に浮かぶイメージだというものである。この意味=イメージ説は、20世紀になって分析哲学に激しく批判されたが、いまだに根強く残っていて、最近の認知意味論はこの新ヴァージョンと言えるだろう。第三は「言葉の意味とはその用法である」とする理論で、代表選手はウィットゲンシュタインである。この理論は「おはよう」とか「こんにちは」などの意味を理解するには便利である。たとえば「おはよう」の意味とは、午前中にその日初めて人と会ったりすれ違ったりする状況の集合と定義できるからだ。
 しかしいずれの理論に拠っても、上に引いた氷雨の降り注ぐブドウを理解するには難点があることに注意したい。「百房の黒き葡萄」は私たちの目の前にないのだから、「百房の黒き葡萄」の意味とはこれだと指し示すことができない。また1945年に戻って山形の金瓶村にほんとうにブドウがあったかどうかを確かめるすべもない。だから第一の理論で短歌の読みは説明できない。第二のイメージ説の問題点は、どうして見たこともない情景をイメージできるのかがうまく説明できないという点にある。私は百房の黒いブドウに氷雨が降り注ぐ情景を一度も見たことがない。しかしその意味はよく理解できる。これはどうしたことか。第三の用法説の問題点は、「おはよう」とか「ありがとう」などの語用論的語句はうまく説明できても、「犬」のような実体語の説明に難があることである。「犬」の意味とは「犬」という語が用いられる状況の集合であるという定義は、納得しがたいだろう。また日常の実用を離れた文芸の場合、「百房の黒き葡萄」の用法と言われても、そんなものはないとしか答えようがない。私は自分では一度も用いたことがないからである。
 では私たちはなぜ表面的な字面を越えて歌の意味を理解できるのか。そのヒントが月本の本に書かれている「仮想的身体運動」という現象に隠れているように思う。私たちは指や腕などの身体器官を動かすとき、まず脳の運動野の対応する部位が活動し、次に指や腕に神経パルスを送る。指や腕の筋肉は神経パルスを受け取って伸縮して目的の動きをする。ところが近年の脳研究によれば、実際に指を動かさなくても、指を動かす動作をイメージしただけで、指を司る運動野が活動することが明らかになったという。このことは運動以外の活動でも起きているらしい。たとえば「猫」という単語を聴いて猫を頭の中でイメージするときは視覚野が活動し、眼球を仮想的に動かしている。想像上で視ているのだ。数字を頭の中で読み上げるときには、運動野と聴覚野が活動し、舌と耳を仮想的に動かしているという。想像上で発音し聴いているのである。月本はここから、言語の意味とは脳内イメージであり、それは仮想的身体運動であると結論づけている。
 もしこれが正しければどういうことになるか。意味の理解とは感覚・刺激のように何かを受け取るという受動的なものではなく、脳内の仮想的身体運動を伴う能動的なものだということになる。赤ん坊の身体運動の発達は、環境からの刺激に対する反応として組織化される。泳いだことがない人は、水に落ちても泳ぐという身体運動をうまく実現できない。泳ぐ練習を繰り返すことで、必要な身体運動を組織化する。いったん組織化が完成すると、泳ぐ動作をイメージしただけで、脳内の泳ぎに関係する運動野が活性化する。ミラーニューロンの発見により、泳いでいる人を見ただけでも同じことが起きることはほぼ確かだと考えられている。
 このことが「共感」と「共有」に通じると考えてもおかしくはない。私たちが短歌を読むとき、単なる字面の意味の理解を越えて、描かれた情景をまざまざと視る思いがするとき、ほんとうにその情景を「視ている」のである。ただし、その情景は現実に目の前にあるのではなく、脳内に起きた仮想的眼球運動として実現する。しかし、情景が目の前になくとも実際に視た時と同じ脳活動が起きるのならば、実際に視ているのと同じことになるではないか。ここからさらに大胆に一歩踏み出して、短歌に描かれた情景によって触発された感情を作者が感じているとき、その歌を読む読者もまた、その感情に関わる脳の部位を活性化していると考えてもおかしくはない。これが「共感」であり、「感情移入」として知られている心理の基盤であると考えられる。
 月本の仮想的身体運動意味論でも説明できないことはまだまだ多く残っているが、もしこれがなぜ私たちは字面の意味の理解を越えて短歌を読むことができるかを解明してくれるとしたら、それはとてもおもしろいことではないだろうか。

第44回 短歌における読みについて

 現代短歌の元気印・石川美南が主宰するホームページ「山羊の木」の期間限定企画「ゴニンデイッシュ」の第4回に依頼を受けて参加した。石川があらかじめ選んだ歌について、5人がそれぞれ一首評を書くという企画である。なお5人には自分以外の誰が選ばれたかは知らされていない。公開された時点で初めて知ることになる。
 「ゴニンデイッシュ」のカタカナ表記がまずおもしろい。「ゴニン」は「誤認」に通じ、「デイッシュ」は「ディッシュ」(dish)に通じるので、5人の人間がそれぞれ誤認に基づく読みを展開する、あるいは5人が同じテーブルで料理を囲んでいるなどと、あらぬ空想が膨らむ。
 与えられた歌は馬場あき子の『桜花伝承』に収録された「罪得てぞ月は見るべし犯さざる非力の腕に闇よせている」である。参加者は、『旧制度アンシャン・レジーム 』などの歌集のある実力派歌人高島裕、『ドームの骨の隙間の空に』で注目された新鋭歌人谷村はるか、「天体の凝視」で昨年度の短歌研究新人賞候補作に選ばれた早稲田短歌会の俊英服部真理子、笹ドットコムなどに投稿している虫武一俊、それに不肖私の5人である。
 高島は馬場の歌の背景となる古典和歌の主題に言及し、下句の口語にあふれ出す現代に生きる強い意志を指摘した。谷村は「犯さざる非力の腕」を、罪を犯すこともできない善人の私と単純に解釈すべきではないとした上で、下句の口語に罪に憧れる気弱さを嗅ぎ取っている。服部は月を見上げる無垢な少女が闇からの誘いに肯うときに、月を仰ぐにふさわしい女性となるという物語を一首から紡ぎ出している。虫武は「腕」が私の腕かそれとも月の腕かがこの歌のポイントだとして、「腕」は月のものだとするユニークな読みを展開している。私は「闇よせている」の「寄せる」が自動詞か他動詞かに若干こだわり、評では自動詞と取る見方を示したが、実は今でも自信がない。石川は他動詞と取り、「私が闇をよせている」という解釈のようで、その方がいいかも知れないとも今では思う。いずれにせよこの歌では、文語基調の馬場には珍しい下句の口語部分の解釈が難物だ。5人5様の読みが出たと言えるだろう。
 さて、この経験を機会に今回考えてみたいのは、短歌における読みの問題である。俳句や短歌などの短詩型文学の場合、作る人イコール読む人で、もっぱら読むだけの純粋読者はいない、もしくは非常に少ないとされている。桑原武夫の「第二芸術論」が、この点を俳句や短歌が近代文学たりえない理由のひとつとしているのは周知のことである。桑原が考える近代文学は、一人の天才の作品を読者大衆が読むというものなのだ。俳句や短歌に携わる人たちはもっぱら作ることに興味があるので、読むとしてもそれは作るという行為の原資としてという意味合いが強い。私もときどき「短歌を読んで批評を書くだけでおもしろいのですか」と不思議がられることがある。歌会で詠草に対する批評が行われるのは、もっとよい歌を作るという目的があるからである。だからほんとうの意味での短歌の読者論は存在しない。
 またここには近代短歌の歩んで来た道が影を落としていることにも注意しておきたい。永田和宏の『喩と読者』は、作る側ではなく読む側に比重を置いた数少ない評論だが、永田はこの中で概略次のようなことを述べている。近代短歌の歴史は〈個〉をいかに屹立させるかという歴史であり、私だけが感じたこと、私だけが経験したことを普遍化することに表現行為の基礎を置いている。このような自己肯定の果てに、作品は読者を歌から締め出すようになり、現代短歌はもはや真の意味での読者を必要としていない。永田がこう述べたのは昭和57年だが、それから30年近くの年月が経過する間に、永田が指摘した傾向は一段と進行したように見える。それは近代短歌が屹立をめざした〈個〉が、大衆消費社会のスーパーフラットの中に溶解してしまったからである。〈個〉なんて一人で屹立することは無理な相談で、明治以来の近代文学のめざした〈個〉は、当時の身分制度・家制度・富国強兵主義などが押しつけてくる抑圧への反抗として生まれたものである。〈個〉が溶解したかに見える現代にあって、短歌はほんとうに読者を必要としているか。これは考えてみるべき問題である。
 短歌が読者を締め出すことは、短歌にとって決して健全なこととは言えない。なぜなら愛誦歌は言うに及ばず、名歌は読みによって生まれるからである。愛誦歌とは多くの人に口ずさまれる歌であり、広汎な読者を必要とすることは当然である。また名歌は生まれた時から名歌なのではなく、優れた読みによって初めて名歌となり歴史に残る。他の芸術分野においても似たようなことは起きることがある。例えばバッハの無伴奏チェロ組曲は長い間忘れられていたが、20世紀になってパブロ・カザルスによってその価値が発見され、自身の名演奏によってチェロ曲の聖典となった。一般に楽曲は優れた解釈を施して演奏されることによって、初めて名曲として受容されるようになる。ところが短歌においては作歌は楽曲の作曲に当たるが、楽曲の演奏に相当する過程がない。短歌は一人一人の読者が読むことによって、自分の中で「演奏」するしかないのである。したがって優れた解釈による名演奏になるかどうかは、読者一人一人の読みにかかっている。読みが衰弱した時代に名歌は生まれない。
 私自身はどうかと言うと、私は桑原武夫がその存在を否定した純粋読者たらんとしているのだが、短歌の読みについては歌人が編んだアンソロジーに多くを学んだ。なかでも塚本邦雄の『現代百歌園』(花曜社、1990年刊)は何度も読み返した。古今東西の文学や芸術を引きながら作品の本質に肉薄する塚本の読みの鋭さには、他の追随を許さないものがある。塚本には俳句のアンソロジーに『百句燦燦』(講談社文芸文庫)があるが、こちらとなるともはや俳句の読みを超えて、塚本の解説自体が一編の掌編小説のごとき独立した生を獲得している。いずれも塚本という強烈な個性と美学が生み出した読みの極北と言えよう。他の歌人のアンソロジーは無難な読みを教えてくれるが、やや物足りないのはいたしかたない。
 今の若い歌人たちはどのようにして短歌の読みを学んでいるのだろうか。アンソロジーは貴重な手引きだが、たいていは明治・大正時代の近代短歌に多くのページを割いており、戦後の前衛短歌に始まる現代短歌に限ったアンソロジーは少ない。小池光・今野寿美・山田富士郎編『現代短歌100人20首』(邑書林)は確かに現代短歌の詞華集ではあるが、残念なことに一首ごとに読みを示した解説がない。若い歌人たちにとって明治・大正期の近代短歌は遠いものだ。今の大学生には「寄宿舎」も「お仕着せ」も「水屋」も「半ドン」も理解できない死語である。現代短歌の名歌を集めて読みを示した詞華集があってもよいのではないだろうか。

第43回 王紅花『夏の終りの』

エル・グレコの〈ピエタ〉のイエスは晩年のプレスリーに似ると我に教えき
                   王紅花『夏の終りの』
 エル・グレコはスペインで活躍した16世紀~17世紀の画家で、その名はスペイン語で「ギリシア人」を意味する。現在ではマニエリスムを代表する画家として知られている。その巨匠の描くイエスが晩年肥満に悩んだロカビリーの帝王エルビス・プレスリーに似ているというのである。展覧会でのエピソードだろうか。確かに名画の人物が誰かに似ているということはある。イエスとプレスリーというかけ離れた連想が愉快ではあるが、それだけのことだ。王の短歌にはこのように「それだけのこと」を詠んだ作品が多い。まちがっても背後に深い意味が隠されているなどということはない。一般に短歌においては、喩を駆使して意味作用を重層的にしたり、掛詞・縁語などの修辞によって作品空間にブレと広がりを付与したりして、作品に31音以上の奥行きを持たせようとすることが多い。そんななかで王のようにあえて奥行きのない短歌を作る人は珍しいと言える。
 たとえば次のような作品を見てみよう。
ゆかに光るものあり しかし宝石など落ちてゐるやうな家にはあらず
マロニエと栃の違ひを書きやれど返事無し どうでもいいことならむ
丘の上の黄のクレーン車は放置され 五年は経つてしまつたかしら
とんかつ屋の壁に貼られた若き日のをぢさんとをばさんの並んだ写真
 見事に「読んだまんまの意味」しかない歌である。「床に光るものあり」と置けば、次は光るものに焦点を当てて残りを展開するのが常道である。ところが予想に反して「宝石など落ちているような家ではないのだが」と自分の想いへと軌道はそれてしまう。二首目でも前半ではマロニエと栃の違いを取り立てておきながら、後半ではあっさりと友への腹立ちに終えている。また三首目の放置されたクレーン車は、ふつうならば短歌的喩の絶好の対象なのだが、王は「五年は経つてしまつたかしら」という極めて日常的かつ散文的な感想へと収束させてしまう。四首目に至っては全体が〈連体修飾句+名詞〉で見たままを詠った歌となっている。
 ここには永田和宏の言う「問と答の合わせ鏡」という構造がない。「問と答の合わせ鏡」とは、永田が『短歌』昭和52年10月号(後に『表現の吃水』に所収)で提唱した概念である。志垣澄幸の「退くことももはやならざる風の中鳥ながされて森越えゆけり」を例に取った説明によれば、上句の「退くことももはやならざる」が作者の内的状態を表す「問」であり、下句の「鳥ながされて森越えゆけり」が「答」である。あるいはその逆の関係であってもよい。短歌定型において主体の〈私〉と対象とが、問と答の合わせ鏡のごとくにあい照らすことによって、一首のなかに緊張関係を構築する。この主体と対象との関係性を梃子として、「鳥ながされて森越えゆけり」が短歌的喩として成立するという説である。このように定義された「問と答の合わせ鏡」構造が王の短歌に不在であるということは、王の短歌における〈私〉と対象との関係性は、永田が想定する現代短歌のセオリーにおけるそれとはずいぶん異なったものだということになる。ではそれはいかなる性質のものか。次のような歌を見てみよう。
駅から青年会館まで老人の列続き何の会かとわれは訝る
海底はお花畑で AはBを食ひCはAを食ひDはCを食ふ
葬儀屋の薦めもありて松竹梅のうち竹コースで葬儀を頼む
読みかけの文庫本『斎藤茂吉歌集』にて百足を叩く 仕方なかりき
ベビー用品売り場に来たり犬のためやはらかき尻拭きテッシューを買ふ
グループ展「Cinco」は翌年「Cuatro」となり今年は「Tres」となりて、解散す
 これらの歌にあるのは乾いた諧謔である。老人が列を成して青年会館に参集するところにおかしみがある。海底はお花畑と聞けば、さぞかし美しい光景が広がっているだろうと思いきや、そこに展開するのは冷厳な食物連鎖だと言う。葬儀に値段によって松竹梅のコースがあるところがおかしい。歌聖茂吉の歌集でムカデを叩くとき、文庫本は単なる道具にすぎない。少子化をあざ笑うかのようにベビー用品売り場には物が溢れているが、赤ちゃん用の尻拭きテッシューを飼い犬のために買うのである。「Cinco」「Cuatro」「Tres」はスペイン語で5・4・3で、グループから一人抜け二人抜けしてゆく様を表している。ここにはブラック・ユーモアとまでは行かない諧謔と、シニカルにまでは傾斜しない批評精神が強く感じられる。外界の対象を〈私〉の位相の喩とするのではなく、外界に接した時に生じる軽い摩擦によるおかしみが、王の短歌の基層を成しているようだ。この諧謔と批評精神は大人のものである。若い人にはとっつきにくいかもしれない。
 では王の短歌に心情はないかといえば、そんなことはない。一巻を通読して私が嗅ぎ取ったのは通奏低音のように低く流れる死への想いである。
らつきようの皮剥きをればかたはらの人は『死後の世界』といふ本を読む
わかものが歌ふ鎮魂歌レクイエムわかものは死に遠ければ美しき声
訃報の回覧板持ちて夜更けの道行けばマンホールから水音響く
わたしの部屋へ行きわたしの飼犬は見ただらう 鳥獣の頭骨コレクション
墓場には派手な花こそ似合ふねと日照雨ふる日に来て我ら言ふ
 死は何十年かの彼方に遠いものとしてあるのではなく、日常の生とないまぜになってごく身近にある。王の短歌を読んでいると、現実と夢の境界や生と死の境界がだんだん曖昧になってゆくような不思議な感覚にふと襲われる。それは夕暮れの感覚に似ている。
この住宅地の流行はやりかあの家もこの家も黒き鶏頭を戸口や庭に咲かせて
夕暮れの町角に咲くコスモスの風にそよげるその白花不吉
自動車のフェンダーに孔雀蝶とまる この世の晩秋の夕暮れのとき
北窓に氷紋育ちゆき夜の更けてあの世の庭の入口となる
 黒い鶏頭や白いコスモスは、あたかも異界の一片がこの世に紛れ込んだかのようだ。フェンダーにとまる孔雀蝶もまた、私を異界へと誘うようである。氷紋の張る窓ははっきりとあの世への入り口と意識されている。このような異界感覚は、王が豊かな自然の残る青梅に暮らしていることと無縁ではあるまい。
 次のような歌を読むと、日々の塵埃にまみれて鈍磨した感覚が突然鋭くなり、腹の底に溜まったどす黒い感情も洗われてゆくように感じる。短歌の功徳である。
鰐のマークのポロシャツを着て本を読む少女 無臭のゆふまぐれなり
俎に載せられし鯉のまぶたなき目は寒の水滴らせをり
カーブ・ミラーがカーブの先を映しをり陽に輝る道は空へのぼりゆく
山葡萄飲みほして置くタンブラーの底に光のスペクトル見つ
反魂草の花咲く下にくちなはの抜け殻あり銀の棒のごとしも

第42回 正木ゆう子『夏至』

月はいま地球の真裏ふたつ蝶
        正木ゆう子『夏至』
 朝日新聞の毎週月曜の朝刊に歌壇・俳壇のページがある。中にコラムがあり、俳句時評と短歌時評が交互に掲載される。書き手は様々だが、まだ知らない歌人・俳人を紹介してくれるのが楽しい。2009年12月7日のコラムでは、加藤英彦が「押入をあけて眠れば藻の花の咲きゐるさむきみづうみへゆく」という松平修文の歌を引いて、この歌には微かに死の匂いが感じられるという趣旨のよい文章を書いていた。2009年11月30日には、俳人の五島高資が、「死界からの詩境」と題したコラムで高岡修の話題の詩集『火曲』に触れて、俳人でもある高岡の俳句を紹介している。私は浅学にして高岡修という俳人を知らなかったので、さっそく句集を買い求めようとしたが、版元のジャプランから品切れを詫びる手紙が届いた。それが何と高岡本人の直筆である。ジャプランは高岡の個人出版社らしい。私は歌人や俳人の方々からいただいた手紙や、寄贈された本に添えられた一筆箋などは、断簡零墨に至るまで保存しているので、高岡肉筆の手紙もありがたくファイルした。それにしても句集を読めないのが口惜しい。インターネットの古本サイトでも見つからない。現代詩人の城戸朱理がブログで紹介しているので、数句引いてみよう。
虚無の世に舌入れている縄の端 『蝶の髪』
雉一羽、暗喩の森を踏みまよう
猟銃の美しい思想である紅葉
死者の眼に朝の湖底となる葡萄
転生は北半球の花あやめ
たれもみな未完のさくら死にゆかむ
水のそら蝶生れるまで蝶を書く
 城戸がメタ・ポエム的傾向が強いと評する高岡の俳句世界には非常に惹かれるが、句集が読めないことにはいたしかたない。というわけで今回は、東大の沼野充義も今年の収穫として挙げていた正木ゆう子の第四句集『夏至』である。正木は1952年生まれ。句集『水晶体』『悠 HARUKA』『静かな水』で数々の賞を受賞した句界の中堅を担う逸材である。「しづかなる水は沈みて夏の暮」「やや甘き土になるべく落つる桃」「海鞘切れば海ほとばしる刃先かな」など、日頃から私の愛唱する句が多い。『静かな水』のテーマは月と水だったが、今回のテーマは太陽だという。句の配列は編年体を採らず、編集により巡る季節と座に配置されている。表紙には「俳句は世界とつながる装置」という言葉と、「半年後、私たちは太陽の向こう側にいる」という言葉が印刷されている。後者は安野光雅が「私たちは太陽は遠いと思っているけれど、半年後には太陽の向こう側にいるんですよ」と言ったのを受けている。もともと正木の俳句は対象にやわらかに入っていく感覚に優れているが、本句集ではそれに宇宙的感覚が加味されている。それが発揮されている句から引いてみよう。
つかのまの人類に星老いけらし
仰ぐほかなければ仰ぐ天の川
北辰のずれとことはに星月夜
月はいま地球の真裏ふたつ蝶
うすずみの洞なす雲へ鷹柱
   ヒトが地上に出現してたかだか数百万年なのにたいして、星々は数十億年の星霜を重ねているという対比が一句目の眼目で、スケール感が大きい。短歌でこのスケール感に匹敵するのは井辻朱美くらいではないか。二句目では「仰ぐほかなければ」が天の川の圧倒的な存在感を表現している。語句の斡旋が対象の存在をまざまざと感じさせるところに句の力がある。北極星は地球の自転軸を北方向に延ばした所に位置しているため、天球上で不動に見えるが、実は自転軸から一度ずれている。三句目の「北辰のずれ」はこの一度のずれのこと。一度という宇宙的尺度から見ればわずかな差異と、永遠を意味する「とことはに」の取り合わせにより、一句の中に天文学的空間と時間を閉じこめているところがすごい。四句目の「ふたつ蝶」は虚空を高速で移動する地球と月の喩と読んでもよいし、前二句とは切れていると読んでもよかろう。鷹柱とは、小型の鷹の一種であるサシバが南方へ渡る際に、上昇気流を利用して上空へと集団で昇る様を言い、秋の季語。天に駆け上る柱は壮大であり、またその陰にこれから渡る南方も揺曳する。
 こういったスケール感の大きな句の傍らで、逆に細やかな観察に基づく句が本来正木の得意とするところである。
蝉すでに老いて出でたる蝉の穴
あさがほの蘂さし出づるところ白
稲雀散るご破算をくりかへす
先ず土に固定をいそぐどんぐりぞ
暮れてゆくどの水底も蜷の道
 蝉は地中で10年にも及ぶ幼虫期間を過ごし、成虫期間はわずか二週間にすぎない。確かに地上に出た時にはすでに老いているとも言える。そう表現するとき微かに哀れさが漂う。朝顔は江戸時代から都市住民に好まれ、品種改良が進んで色も形も様々である。しかし萼が外から支え内側に蘂のある部分だけは白い。俳句はおもしろい形式で、当然の事実を改めて表現するところに発見があり、朝顔の姿が読者の脳裏にくっきり浮かぶ。朝顔は秋の季語。稲が実る田に群がる雀は、ささいなことに驚いて飛び立つ。その様を算盤のご破算に見立てている。どんぐりは地上に落ちて次代の生命を引き継ぐのだが、別に固定を急いでいるわけではない。しかし作者の目にそう見えるところがおもしろい。五句目は観察の句ではない。作者には川底は見えないからである。どの川底にも川になが棲息し、ゆっくり移動しているだろうというのは作者の想像である。いずれの句にも正木の対象を見るやわらかな眼差しが感じられる。
 次ははっとさせられる句。
進化してさびしき体泳ぐなり
地続きに狼の息きつとある
甲種合格てふ骨片や忘れ雪
鮠の子の水より淡く生まれけり
潜水の間際しづかな鯨の尾
ちょうど今たった今綿虫と居る
 一句目で作者はおそらくプールで水泳をしており、ヒトの祖先が太古に魚だった時代に思いを馳せている。「進化」は本来プラス方向への変化を意味するが、作者にはそうは思えないのだ。水中を自在に泳ぐ魚と比較して、ヒトはほんとうに幸福かという思いがある。この思いを軸に一句の中で現在と太古が交差する。二句目では、自分のいる場所と北方の狼の棲息する大地とは地続きなのだから、今私の頬を撫でている風の中にもきっと狼の息が混じっているにちがいないという。想像力を梃子に広大な空間を一挙に超えるところは、大滝和子の秀歌「観音の指の反りとひびき合いはるか東に魚選るわれは」と通じるものがある。しかし、俳句は短歌より少ない十七音でこの飛躍を実現するのだから、驚くべきことだ。このような句に出会うと、言葉の持つ潜在力が十二分に発揮されている奇跡に立ち会うような気がして、他に得られない深い喜びを感じる。三句目は父親の死を詠んだもの。この句の前にある「死もどこか寒き抽象男とは」と並んで慄然とさせられる句である。四句目も正木らしい句で、はやはウグイ・カワムツ・モツゴなどのコイ科の川魚の総称で、小型で細身の魚のこと。卵から孵ったばかりの透き通る稚魚を水より淡いと表現するところに、正木が対象に触れるやわらかさがある。五句目は鯨が身を翻して潜水する様を詠んだ句で、尾鰭が一瞬静止する瞬間を捉えるところに俳句の持つ瞬発力がある。六句目は私が特に好きな句。晩秋に空中を浮遊する綿虫が目の前に来た瞬間を詠んだもの。何でもない瞬間が、実は二度と反復されることのないかけがえのない瞬間であるという一期一会感覚が、一句の中から溢れだしている。俳句は小さな対象を捉えるに適した形式だが、対象自体は小さくとも、その対象が引き連れて来る世界は広大無辺である。こういう句を読むと、日々の塵埃にまみれて凝り固まった脳のシワが伸びる心地がする。
 最後にこれは参ったという句を。
さざなみはさざなみのまま夏の暮
 夏の夕暮れは凪で風が止み、海は一面夕日に煌めく漣である。しかしこう解説してもこの句の不思議な魅力は説明できない。二度繰り返される「さざなみ」に、対象を静かに肯定し、鎮魂のごとく魂を慰撫する眼差しすら感じられる。句の前に言葉が消え、清浄な感覚だけが残るのである。

第41回 藤原龍一郎『ジャダ』

朝食の卓に日は射し詩人の血わが静脈にこそ流るるを
               藤原龍一郎『ジャダ』
 藤原の短歌は、本コラム「橄欖追放」の前身である「今週の短歌」の第3回で取り上げたが、当時の私は現代短歌を読み始めて間もない頃で、歌集・歌書の類もそれほど持っていなかった。乏しい知識と浅い読書歴であんな文章を書いたのは汗顔の至りである。そこでリベンジという訳でもないが、今回は藤原の最新歌集『ジャダ』である。「ジャダ」とは、「ジャズ」と「ダダ」を合成したいわゆるかばん語で、1920年代に流行したとあとがきにある。「ダダ」は「ダダイスム」の略。この歌集題名が暗示するように、やがて戦争へと突入してゆく時代を下敷きにした歌が多く収録されているが、それは単なる懐旧ではない。装幀はクラフト・エヴィング商會で、jadaの文字が刻印された万年筆のイラストをあしらった瀟洒な造りになっている。読者にとっては造本の美しさも歌集の価値の一部だろう。
 本歌集の底に流れる基調を一言で要約すれば、詩歌の徒として選ばれた矜恃と悲惨、それとはうらはらな現代の定型詩の衰退を嘆く嗟嘆のうめきということになるだろう。掲出歌はその流れにある歌で、ここでは矜恃の方が全面に押し出されている。「詩人の血」はジャン・コクトーが1930年に制作した映画の題名。藤原の短歌に固有名が多いのは昔からだが、それ以外に芸術作品の題名や内容を暗示する表現も散りばめられていて、それを読み解くのもひとつの知的快楽となっている。言い換えれば、藤原は自分と同質の芸術世界に参入している読者に歌を送っているとも言える。共有なくして理解はないからである。詩歌の徒の歌をいくつか引いてみよう。
ブンガクと声に出すこのやましさを嘲るようにきつね雨ふる
無頼派と呼ばれることもなき日々を悔まざれども終に唾棄せよ
平成の終焉までを韻文に拠ると書きたる乱心なりや
浪漫の徒として後の日々までを生きめやも雨風強けれど
雑踏に詩を売る男ありてなき遊撃として真冬の驟雨
韻文の終末と打ちそののちを液晶のモニターの紺碧
 ブンガクという片仮名表記は発声を表すと同時に、テツガクという書き方と同じく矜恃と慚愧の背中合わせをも意味する。小池光がどこかの座談会で、「僕たちの若いころは短歌を作るというのは恥ずかしいことだった」と発言していた。当時の政治的文脈を背景とする文弱というニュアンスは薄れたものの、今でも私の知る若い歌人の中には、短歌を作っていることを周囲に秘密にしている人がいる。藤原の基調の心性はハードボイルドなので、浪漫と無頼に憧れるのだが、平成の御代に生きるサラリーマンとしてはそれもままならない。その慚愧から軋むように発せられるうめきが藤原の抒情の核である。
 欲望と虚飾の都市トーキョーの、それもお台場周辺を遊弋する都市生活者の上にはよく雨が降る。夜の暗闇と降りしきる雨はハードボイルドの記号に他ならない。
荒地派の詩の言葉なお重ければWastelandお台場の雨
大過なき日々の証のうたかたの朝のシャワーのぬるき曖昧
ドトールを出てPRONTOに遭遇し静かなる包囲進みゆくごとし
運河の水に鉄鎖浸れる誓子的夏の日暮れを 禿鷹が飛ぶ
街に棲む大鴉を我を祝福し霙にあらず/なまぬるき雨
 ここに引いた歌にも、戦後詩を代表する荒地派、俳人の山口誓子、大鴉のエドガー・アラン・ポーが散りばめられている。藤原の短歌は文学へのオマージュなのだ。
 次の歌はもっとストレートにハードボイルドである。
変身の恩寵あらば軍服のダーク・ボガード 濃き霧が降る
夜半深きホテルの闇に聞こえくるウールリッチがタイプ打つ音
回廊に闇は膿み光は凝りジョゼ・ジョバンニの深き眼窩を
ネズミの屍舗道にありて此処よりはアイソラ市87分署管内
 軍服のダーク・ボガードはカヴァーニの映画『愛の嵐』、コーネル・ウールリッチは『幻の女』の作者ウィリアム・アイリッシュの別名、ジョゼ・ジョバンニはアラン・ドロン主演の名作『冒険者たち』の原作を書いた冒険小説家、アイソラ市はエド・マクベインの87分署シリーズの舞台となっているアメリカの架空の町である。
 藤原の作歌の根幹には何かに事寄せてという発想があり、それが成功したとき印象深い歌が生まれるようだ。これは本歌集に収録された状況歌・挽歌・頌歌によく見てとれる。
円谷が抜かれしその名ヒートリー刹那憎みてその後忘れき
若き死の理不尽なれば悲歌となりこの卵殻の鈍き蒼白
象徴の詩法の末裔すえとして生きて砂金は孔雀過ぎゆく孔雀
絶対の魔王去りたり 言霊も滅びを急ぐ韻文の闇
田園に死すべく生きて東京の雑踏にながらえてのち死す
 円谷つぶらやは東京五輪で英人ヒートリーに抜かれながらも銅メダルを獲得し、後に自殺したマラソン選手の円谷幸吉である。食べ物を延々と列挙し、「おいしゅうございました」がルフランのように反復される遺書は、何度読んでも涙を禁じ得ない。二首目は岸上大作への挽歌で、三首目は西条八十への頌歌。「砂金」「孔雀」は西条のアイテムである。四首目は塚本邦雄、五首目は寺山修司への挽歌。藤原や福島泰樹のような浪漫派には挽歌がよく似合うようだ。
 日常生活の何気ない瑣事から歌を紡ぐ人は、叙景歌や景物に触発された心情を詠む歌を作るだろう。しかし藤原の作歌の発想にこれはない。本歌集にも叙景歌や写実の歌はほとんど見られない。写実は現実を描写するものであり、現実の中に意味はない。意味は主体が解釈することで発生する。したがって真に写実的な歌の中には意味は揺曳せず、ただ風景があるだけである。ところが藤原の歌には意味が充満しており、注目すべき点は、その意味はすでに存在する他の意味から作られているということである。円谷のドラマ、岸上の悲劇、それは現実に起き、多量の意味が既に備給済みの出来事である。藤原の歌を駆動するのは、存立する意味に対する反応もしくは応射だ。藤原の目が自然観照に向かわないのはこのような理由による。藤原の歌は高度に対人的な性格を持つと言ってもよい。モノの向かわず人に向かうのである。
 このような藤原の短歌の特質が遺憾なく発揮されているのが、本歌集の白眉とも言える俳句と短歌のコラボレーションの試みだろう。
 騎馬の青年帯電して夕空を負う (林田紀音夫)
コスプレとして電飾の軍服の少女一団堕天使のごと

 丸善の封筒を買う春のくれ (戸板康二)
封筒を選びてのちを春愁の洋書売場に魯庵と我鬼と

 鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉 (赤尾兜子)
卓上の鮭と菫を画布に塗り込めて食事ののちの房事も

「ふく風やまつりのしめのはや張られ」てんやわんやの慈姑呑み込む

「恐慌を夕刊に読む柘榴かな」わが眼に秋の星滲みたり
 最初の三首は俳句に短歌を合わせたもの。四首目は久保田万太郎の俳句を上句に配して付け句を試みたもので、五首目は自作の俳句への付け句である。藤原は若い頃に赤尾兜子に師事して前衛俳句を学んでおり、藤原月彦名義で『貴腐』という句集もある。上に引いた歌は俳句と短歌の対決というよりも、むしろ現代俳句へのオマージュであり、遊び心を多分に含んだ試みで、俳句と短歌の付かず離れずの照り返しを楽しむのが正しい鑑賞だろう。
 浪漫派の藤原の眼差しはもっぱら社会と人に向かうのだが、もしかしたら付け句の試みのように、言葉と言葉が響き合いひとつの世界を形成するような歌の境地に、ほんとうは惹かれているのかも知れないと思えるのである。

第40回 天草季紅『青墓』

食べてゐてふと明るさに気がつきぬわが負ふ影のなかより見つむ
                     天草季紅『青墓』
  掲出歌は、食事をしていてふと身の回りが明るいことに気づいたというのである。私の影の中から何かが私を見つめている。「見つむ」の主語は明示されていないが、前後の歌を読めばそれは死者だと知れる。「わが負ふ影」という措辞が〈私〉に陰影と重力を与える。彼方より死者が〈私〉を訪れたのか、それとも〈私〉が死者の界に彷徨いこんだのか、歌からは不明でありそれは実はどちらでもよいのだ。作者の描く歌の世界は死の光に照らされた世界であり、生者と死者が分かちがたく併存している世界だからである。
 天草季紅は1950年生まれ。「氷原」に入会して1986年に『夢の光沢』という第一歌集を出している。しかし『青墓』のあとがきによれば、一時期短歌から遠ざかり、その後筆名を改めて『Es』に参加したとあるので、過去の自分とは決別する気持ちがあったのだろう。現在『Es』誌上で短歌と評論の両方で活躍している。評論では2005年に『遠き声 小中英之』を上梓している。小中に傾倒するのは天草自身の作品の世界と通底するところがあるからである。
 ちなみに『Es』は一巻ごとに副題を変えるおもしろい雑誌で、試しに近年のものを拾うと、No.13『Es滾滾』No.14『Es叉路』No.15『Esカント゜』No.16『Es間氷期』No.17『Es白い炎』などである。『Es』に拠る歌人たちはリアリズムからは遠く、表現の強度を備えた新しい詩歌をめざしているようだ。
 歌集題名の『青墓』は街道の宿名から採ったとあとがきにある。美濃国不破郡垂井と赤坂の間の地名で、現在の大垣市内にあるらしい。ゆかしい地名だが、この語句はただちに「人間じんかん至る所青山あり」という文句を連想させる。冒頭に書いたように、天草の作品世界は死の光の照らす世界であり、歌集の中で母親や友人や愛猫の死が点々と影を落としている。
おそろしくつめたき手をして触れにくる人体くらき火をいだくかな
火床には骨にまじりて黒き花ある日は激せしこころのあたり
行くひとを待つ雨のなか渡り来し鳩の弔問おごそかなりし
龍の玉ひとつ悔なき嘆きせよこの世の海を逃れきるまで
すこしづつたましひ抜けてゆくねこがふはりふはりと水のみにゆく
なきがらを見るとはつねに見おろして悲しき一夜よりそひ眠る
 最初の二首は母親の死を詠った歌で、一首目は帯に印刷されており、本歌集の基調を示す歌と見なしてよい。「おそろしくつめたき手」とは死に瀕した人の手か。人体がいだく暗き火は生命に他ならない。二首目は火葬の場面を詠った歌。「黒き花」は作者の幻視だが、肉体とともに消滅する心の残滓を希求する気持ちが見せたものだろう。三首目は女優金久美子キムクミジャの死、四首目は闘病中の友人に寄せた歌。最後の二首は愛猫そらの死を詠んだ歌である。平仮名書きで読みのリズムを緩慢にし、あたかも愛猫の最後をできるだけ引き延ばそうとしているかのごとくである。また「なきがらを見るとはつねに見おろして」に残された者の悲しみが漂う。
 このように具体的な死を詠んだ歌以外の歌にも他界の光が揺曳し、歌の基底をなしている。
雲ひくく影をおとせば知るひとの降りくるごとし草生へ入りゆく
かへるとはひとりびとりの身にかへる中陰すぎて臘梅の花
水打つて空やはらげる裾野には虹の子供が来てゐて笑ふ
年ごとに彼岸花さく一画をいらくさ占めて眉うすき夏
床のうへ行き交ふなんの影の群れ日ざしにまぎれて入りきて蒼し
 どうやら天草においては生者の界と死者の界とは截然と分かれるものではなく、どこかで繋がっていて、日常身辺に常に死にし者たちの影が漂っているようだ。それは一首目の「知るひとの降りくるごとし」や五首目の「床のうへ行き交ふなんの影の群れ」に見て取れる。天草が評論を書いた小中英之もまた、「黄昏にふるるがごとく鱗翅目ただよひゆけり死は近からむ」の歌が示すように、体内に死を宿して生きた歌人であった。
 天草の拠る形式は文語定型短歌なのだが、本歌集では形式上の試みをしていることも注目される。
氾濫の夏こえがたき空に風立ち 黄葉のまづ散る一羽となりしひよどり
春の陽の集まるとなくかげろふあたり 淡きもの数多生れてくちびるとざす
朝の光は東方より 渚に及ぶ水のいろ 眠りのなかに見えそめて みどりご生るる時刻あり
花の終りし木蓮は 昏れゆく空につつまるる 静かなるもの美しく 夜は菩薩となりたまふ
 最初の二首は五・七・七・五・七・七の旋頭歌で、残りの二首は七・五の句を四度繰り返す和讃である。いずれも五・七・五・七・七の持つ完結感が希薄で、たゆたうようなリズムに乗って連綿と続く印象を与える。古代的もしくは宗教的な香りのするこれらの形式は、幽界と顕界とがない交ぜになった天草の作品世界と親和性が高く、独特の効果を上げていると言えるだろう。ちなみにリズムの持つ力は圧倒的で、これらの歌を読んだあとに通常の定型歌を読むとき、歌のリズムにただちに入ることができず苦労した。
 最後に印象に残ったその他の歌をあげておこう。
雨あがりまだ水にほふ朝空になんのしるしの眼や爪ひかる
日の光うつろふ柱に日暦の束なすじかんのかげもうつろふ
水底の鯉は記憶のかげりにて春のぼりくる死者をうべなう
日をかへすことりの羽はやはらかに花ともなりて咲くたかぞらに
花びらの開閉しづか血の河を領せしひかり天にうつろふ
古きページに声刻まれてゐたりけりまぎれず青しそのかきつばた

第39回 関口ひろみ『あしたひらかむ』

ししむらを借りてたましひ傷めるをさくらまばゆき闇に還さむ
              関口ひろみ『あしたひらかむ』
  作者の関口ひろみは1961年生まれで、1988年に歌林の会に入会して馬場あき子に師事している。『あしたひらかむ』は1998年刊行の第一歌集。掲出歌では、肉体を借りて魂が傷んだというから、魂が先に存在し、現世においてかりそめに肉体に宿ったということだろう。それを闇に返すという。その闇を「さくらまばゆき」と形容するのは短歌的修辞である。その実体は、私たちがそこからやって来て、そこへ帰ってゆく、決して知ることを得ない領域である。短歌的工夫を凝らして作られた歌だが印象に深く残る。
 実は『あしたひらかむ』の前にある若い人の歌集(と称するもの)を読んでいた。しかしその言葉の平板さと作品世界の幼稚さに辟易して途中で投げ出した。時間を無駄にしたのも業腹である。おさまらぬ腹の虫を抱えつつ『あしたひらかむ』を読み始めるや、干天の慈雨のごとくに言葉が染み込み、波だった心が平らかに静まる。ああ、短歌はやはりこうでなくてはならない。
 さて関口の作風であるが、馬場あき子麾下の歌林の会にふさわしく、古典の素養に裏打ちされた端正な言葉遣いによる本格定型短歌である。
公園に泣きゐしをさな新緑はふたつのまみをしたたりて落つ
を容れず拒まず海は銀ねずのまなぶた薄くひらきゐるなり
ひと恋へばたちまち濁る鏡かな虚空燦々夏はわたるを
きみへ漕ぐ櫂とはつひにならざりしかひなを二本さげて佇む
虫のこゑかそか残れるあかときを樹はみづからの翳より目覚む
 歌集冒頭近くから引いた。あとがきに「I章の歌を作っていたころは、ひたすらたましいを鎮めたく、(…)古風といわれるのを恐れないでつくろうと」とあり、習作期を脱しつつ主題を模索し表現を試みていた時期の作と思われる。作者には「たましいをしずめる」逼迫した必要があり、それは二首目の「吾を容れず拒まず」に遠く感じられる。作者の凝らした短歌的工夫は、一首目の「ふたつの眸をしたたりて落つ」や、二首目の「まなぶた薄くひらきゐるなり」に顕著であり、あえて古風な表現は三首目の「ひと恋へば」と鏡と夏の取り合わせに看て取れる。
昏るる田に火色ひらめきむらぎもの心の在り処たまゆら照りつ
ささなみの眠りのにたてり万葉の相聞に咲く沖つ藻の花
夏麻引くいのち傾けひひややけき山手線に舟漕ぐわれは
手酌してゑふに似るなり閑吟集 空櫓の音がころりからりと
わがこころ浦渚うらすの鳥ぞ 地下ホームに銀の車輌が風を起こし来
 一首目の「むらぎもの」や三首目の「夏麻引なつそびく」はよく知られた枕詞であり、古風を恐れぬ姿勢はここにも見える。二首目の「ささなみの」は本来は大津・志賀・比良などの地名や、波が寄ることから「夜」にかかる枕詞で、「夜」から「眠り」へと続いている。四首目の「空櫓」は水に浅く入れた櫓のことで、下句の「空櫓の音がころりからりと」は閑吟集からの引用。五首目の「浦渚」は浦辺にある州のことで、「わが心浦州の鳥ぞ」は古事記からの引用である。これらの歌はおそらく言葉から発想された歌で、実景から出発したものではなく、狭義のリアリズムに立脚していない。
 もちろん本歌集には言葉の世界に遊ぶ歌だけではなく、作者の身辺生活に材を得た歌もある。作者は出版社の校正部で働いているらしく、次のような歌がある。
フィットネス特集の校正刷ゲラ配られて校正室は定番の春
流れもののやうに集へる校正者おのれを隠しつつおのれ濃し
校正者のさかしらがほは疎まれて消さるべきメモこまごま記す
 フィットネスが定番になるのはコートを脱ぎ捨てる春を迎えた女性誌だろう。おもしろいのは二首目で、校正係が流れ者のような人たちだとは知らなかった。校正係は表に出ない黒衣役なので「おのれを隠しつつ」なのだが、その実個性豊かなので「おのれ濃し」なのである。三首目には校正係の心情がよく出ている。私も仕事柄書いた原稿を校正されることが多いが、大手出版社や新聞社の校正係の仕事にはいつも舌を巻く。誤字脱字や送り仮名の不統一は言うまでもなく、人名表記や年号の間違いに始まり、TV番組「笑っていいとも!」には最後に感嘆符が必要なことまで指摘してくれる。私はいつも校正係の訂正はほぼそのまま受け入れているが、人によっては「さかしらな!」と怒り出す人もいるのだろう。
 また歌集後半を中心に次のような瑞々しい相聞歌もある。
きみを恋ふわれはもつともわれなるか草のもみぢをまみに充たしぬ
いつ逢ひても見慣れざる貌きみはもちおのが寒さのうちに棲むなり
きみとゐる春の茶房にやはらかく水押す鳥の胸おもひたり
きみの黙のみなもとに掌をふれたきをフォークにパスタからめゐるのみ
手を洗へばみちくるうしほきみがゐてわがゐる暮らしかりそめならず
 作者は恋に不器用な自分を感じているらしく、相手との距離感に淋しさを感じているようだ。「きみ」と詠われている人かどうかは不明ながら、やがて作者は結婚して五首目のようなふたりの暮らしを始めるところで歌集は終わっている。第一歌集としては抜群の完成度を備えた歌集と言えよう。関口は2008年に第二歌集『ふたり』を上梓している。難しい病を得て療養生活を送っているらしく闘病詠が中心である。作者には切実な主題だが、読んでいると辛い。
 『あしたひらかむ』は構成の手を加えてはいるが、ほぼ編年体で編まれている。注目した歌に付箋を付けてゆくと、付箋は前半に多く後半に進むほど少なくなった。これはどういうことだろう。ふつう年月を経るにつれて作者の技量は向上し、歌境は深まるはずではないか。これについて考えるところがあった。
 同じ時期に穂村弘の対談集『どうして書くの?』を読んだ。長嶋有との対談で穂村は次のように発言している。
 「いま時代全体の趨勢として『ワンダー (驚異)』よりも『シンパシー(共感)』ですよね。読者は驚異よりも共感に圧倒的に流れる。ベストセラーは非常に平べったい、共感できるものばかりでしょう。以前は小説でも、平べったい現実に対する嫌悪感があったから、難解で驚異を感じる、シュールでエッジのかかったものを若者が求めていた。でも今は若者たちも打ちのめされているから、平べったい共感に流れるのかな。(…) すると、詩歌にあるような、言葉と言葉同士が響きあう衝撃みたいなもの、俳句でいう切れになるような感覚は、圧倒的に読みにくいという話になりますよね」
 私は穂村よりさらに上の世代なので、もちろん文学はワンダーの世界を構築するものと思っている。穂村の発言を読んであらためてそうなのかと再認識したのは、一読者として短歌を読むときにも私はシンパシーよりもワンダーという態度で臨んでいるということだ。若い作者の短歌に不満を感じることがあるのも同じ理由で、短歌でも若い作者はシンパシーに傾斜しているのは明らかである。関口の第一歌集を読んでいて、むしろ前半の方に付箋の付く歌が多くあったのはこのような理由による。するとこれは作者の技量の向上とか歌境の深化という問題ではない。もちろん作者関口の責任でもなく、その歌の価値を貶めるものでもない。関口は短歌をより自分に引きつけて捉えるようになっただけである。
 俳句や短歌などの短詩型文学では、〈読み手=作り手〉という構図が成立する。私のように自分では短歌を作らず読むだけという純粋読者はほとんどいない。私が短歌にワンダーを求めるのは読者としての私の嗜好にすぎない。と、ここまで言うと議論は終わってしまうのだが…。言葉でワンダーを立ち上げる短歌を読みたいと思うのである。

第38回 眉村卓『霧を行く』

過去追ひて眼鏡に障子歪みをり 
眉村卓『霧を行く』


  今回取り上げるのは歌集ではなく、今年(2009年)7月に深夜叢書社から刊行されたSF作家として名高い眉村卓の句集である。長大なあとがきによれば、眉村は高校生のときから俳句を作っており、赤尾兜子の知遇を得て句誌「渦」に投稿するなど、断続的に句作は続けて来たが、このたび句集としてまとめることになったという。一説によれば俳句人口は短歌人口の10倍はいるという話で、各界で句作に親しむ人は多い。しかしあとがきに綴られた人生の軌跡を見ると、眉村にとって俳句は小説家の余技ではなく、自身の文学的営為により深く埋め込まれたもののようだ。
 帯文に署名はないものの、おそらく深夜叢書社社主で自身俳人でもある斎藤愼爾の手になるものと思われるが、次のように書かれている。「日本SF史上に不滅の金字塔を樹立した泉鏡花文学賞作家は、高校時代から半世紀に亘り俳句界を疾走してきた前衛俳人でもある。生と死をめぐる象徴的、神秘的、幻想的、夢幻的、そして根源的な情念の表白の結晶、ここに成る。」そして次のような句が抜粋されている。

木犀の香の闇ふかし別れ来て
灯の中に鬼灯夢も暗からむ
亡妻佇つ桜もつとも濃きところ
冬麗や切絵のごとき姫路城

 眉村の句を「象徴的、神秘的、幻想的、夢幻的」と評するのは、「蝶殺めおれば日月入れ替わる」「月光の創かくれなし蟻地獄」などの句のある斎藤愼爾自身の美学に基づく判断である。帯文の抜粋句もまた同じ美学に基づいて選ばれている。
 斎藤の指摘はそれとして、私が眉村の句を読んで強く感じるのは濃密な物語性である。あとがきで眉村は、SFの本質はセンス・オブ・ワンダーであるとの説に触れ、「SF的感覚を援用して言えば、私の俳句とは、時空の集約が感じられるものでありたい」と述べている。俳句の王道は二物衝撃だが、二物の出会いによる衝撃に止まらず、宇宙をクルミの大きさに閉じこめるように、時空が圧縮されたような感覚をめざすということだろう。その圧縮された時空間に物語が匂い立つのは、ショート・ショートという得意ジャンルを持つSF作家の故にちがいない。たとえば次の句はどうだろう。

氷菓出て転職依頼ためらひつ
獄塔出て異郷の蜂がつきまとふ
風花や女がくだる螺旋階
ぶらんこがどこかで軋み濠の昼
終着駅近しまだ在る冬の虹

 一句目、「氷菓出て」はアイスクリームが食卓に出されたという意味だから、誰かの家にお邪魔しているか、レストランでの情景だろう。自分は転職を頼みに来ているのだが、どうしても言い出せないという、一片の人生風景を切り取ったような句である。季語は氷菓で夏。二句目、「獄塔」は監獄の塔屋で、どこかよその国で昔監獄として使われていた建物を観光しているのだろう。監獄ゆえに幽閉されていた人物の物語が立ち上がり、「異郷の蜂」にも意味がまとわりつく。季語は蜂で春。三句目、螺旋階段を下りる女性には、色鮮やかなワンピースを着ていてほしい。階段を下りる回転動作にワンピースの裾が広がって美しい弧を描くという高度に視覚的な句。螺旋階段を下りる女というだけで一編の掌編小説のようだ。季語は風花で冬。四句目、濠とあるので皇居のお濠のような城の環濠が目に浮かぶ。ぶらんこは春の季語なので、うららかな春の昼である。そこにぶらんこが軋む。近所に公園があれば子供がぶらんこに乗って遊んでいてもおかしくはない。しかし「どこかで」の一語が句に潜む危うさをあぶり出す。五句目、終着駅まで列車に乗っている男がいるのだが、「まだ在る」により男がずっと虹を見ているという時間の流れが句に生まれている。虹は夏の季語だがここでは冬。このように一句17音に凝縮された時空間にどこか物語が感じられるのである。
 眉村は句友から「言葉の使い方が俳句のそれとはどこか違う」と言われたそうだ。それはこのような眉村の句に潜む物語性に関係するのかもしれない。この間の事情を詳らかにするのは私の手には余るが、ざっくり言って近代俳句の骨法は写実であり、現代俳句はそれに言葉の彫琢が加わる。

白葱のひかりの棒をいま刻む  黒田杏子
腐みつつ桃のかたちをしていたり  池田澄子
万緑や死は一弾を以て足る  上田五千石

 白葱を光りの棒と見たとき黒田の句は生まれたのであり、腐ってゆく桃にまぎれもない桃の形を見たとき池田の句は生まれたと言える。カメラが対象に肉薄し、眼前の極小の対象をこれ以外にないという見方で的確に捉えた瞬間に、ベクトルが反転してそこに極大の世界が生まれる。また現代俳句のひとつの特徴として、上田の句のように情け容赦のない断言が定型を屹立させるというものがある。いずれも言葉を削ぎ落としてゆくことで到達する世界である。これにたいして眉村の俳句では、言葉を削ぎ落とすのではなく、逆に物語を呼び込むような言葉の選び方がされている。このことが「言葉の使い方が俳句のそれとはどこか違う」ということにつながるのではないだろうか。
 掲出句「過去追ひて眼鏡に障子歪みをり」はこれだけ読むと解読が難しいが、眉村の妻が病を得て亡くなった直後の歌である。

妻元気並木の辛夷咲き始め
紫陽花よ妻確実に死へ進む
西日への帰途の彼方に妻はなし
妻逝きし病院を訪ふ秋の雲
際限もなく銀杏散る明る過ぎる

 ふつうは「妻元気」とは書かないから、すでに病が進行していることが知れる。一連は慟哭の句であり、最後の句の「明る過ぎる」もこの文脈で見れば哀切の句となる。掲出句の過去は妻が生きていた過去であり、眼鏡に障子が歪むというのも悲しみの表現であろう。次のような句も印象に残る。

哀歓の涯は枯木に触れゐたる
雨後黒く馬と藁塚まじり佇つ
永くバス待ちて案山子の視野の中
草にまぎれ得ぬ秋蝶をみつめをり
春愁や不意に鉄橋轟々と
路地幻視秋の夕日が嵌め込まれ
剃られつつ刃を感じゐる五月かな
加速する時間の雫鬱王忌

 最後の句の鬱王忌は赤尾兜子忌のこと。「大雷雨鬱王と会うあさの夢」の句のある兜子は鬱病に苦しみ自死している。「加速する時間の雫」は兜子に捧げるSF作家のオマージュだろう。ふつうの俳句作家の発想ではない。
 眉村の父の村上芳雄は夕刊紙の記者をしており、歌人だったという。父は短歌で息子は俳句というわけだが、おもしろいことに眉村の長女の村上知子は短歌を作っており、旅行記の散文と短歌を組み合わせた『上海独酌』(新人物往来社、2004年)という著書がある。歌を二三引いてみよう。

既に死にたなびく君の魂をつなぎとめむと秋刀魚焼きたり
大叔父の残せし煙草ピース菊の紋誰も昭和を喫いきれぬまま
水引の花は穂先を天の川星の高みに詠記すなり

 短歌と俳句とジャンルは違え、三代に亘って短詩型文学の血が脈々と流れているのは興味深い。親子の継承がほとんどない小説や詩と、短歌や俳句という短詩型文学の生理の差だろう。その生理の差とは、言葉の中に込められる〈私〉の分量と位相に集約される。言葉の中に〈私〉が塗り込められる機序はいかに、というのが積年の私の疑問なのだが、それはまた別の話である。