第24回 黒田和美『六月挽歌』

八月の雨てのひらに受けてゐる誰にも属してをらぬ冷たさ
         黒田和美『六月挽歌』
  乱暴を承知で現代短歌の傾向を二種類に分けると、「抒情の歌」と「認識の歌」に分かれるだろう。もとよりこれは程度の問題なので、抒情の歌にも認識のいくばくかはあり、認識の歌にも抒情は流れる。いずれが優勢かという度合いの計量にすぎない。「抒情の歌」は多く「人生派」と重なり、「認識の歌」は「コトバ派」と重なることが多いが、レベルを異にする分類であるため完全には一致しない。
 「抒情の歌」と「認識の歌」のいずれが歴史的に古いかと言えば、もちろん「抒情の歌」の方が古い。古典和歌の永遠の主題は挽歌と恋歌であり、人の死と恋愛が最も人の心を揺さぶる経験であることは言を俟たない。「認識の歌」は明治時代の短歌革新によって生み出された近代の産物である。後京極良経の絶唱「手にならす夏の扇と思へどもただ秋風のすみかなりけり」にも発見はあるが、視覚優位の近代の認識とは趣を異にする。
 現代短歌シーンを見渡すと、現代はどうやら「認識の歌」が優勢なようである。山折哲雄が『「歌」の精神史』で嘆いたように、抒情がカラカラに干涸らびているとまでは思わないが、抒情があっても振れ幅が小さいためそう見えるのだろう。そんな現代短歌シーンで振れ幅の大きな抒情の歌に出会うと、同時代の短歌でありながら古代の歌の密やかな昏がりに触れる思いがする。黒田和美『六月挽歌』(洋々社)を読んでそんなことを考えた。
 略歴によると黒田は1943年生まれ。1961年に早稲田大学に入学。まもなく早稲田短歌会に入会して短歌を作り始める。福島泰樹と同期である。卒業後は劇団関係の仕事をし、NHKの名作人形劇「ひょっこりひょうたん島」の制作にも関わっていたという。その間短歌から離れていたが、1983年に福島が歌誌「月光」を創刊すると、それを機に短歌に復帰。その後長く福島の盟友として伴走することになる。『六月挽歌』は2001年刊行の第一歌集だから、作歌歴は長いがずいぶん遅くに歌集を出したことになる。跋文はもちろん福島泰樹で、「黒鍵を叩き続けよ」と題された多く回想からなる20ページにわたる長文である。
 私は2007年9月29日に開かれた松野志保さんの『TOO YOUNG TO DIE』批評会で、黒田さんに一度だけお目にかかったことがある。その時は批評会の世話役として忙しく立ち働いていらしたので、二言三言言葉を交わしたのみである。黒田さんはその翌年の2008年7月27日に急逝された。ご冥福をお祈りする。
 『六月挽歌』に収録された歌の多くは、冒頭の分類に従えば「抒情の歌」で、しかも日常からの振れ幅が大きいため、しばしば激情の歌に近づく。たとえば次のような歌である。
六月のアート・フィルムずたずたに裁断されしままラッシュ・バックせよ
六月の挽歌うたはば開かれむ裏切りの季節ひとりの胸に
塵埃の定かならざる漂泊を世界のフレーム悪魔に委ねよ
道行きは如何にか咲かぬ花あらばこの世の外に思ひ遂げむと
挑戦のまなざし受けて閉ざしたる白粉ケース二度と開かず
 命令形と断定を多用するこのテンションの高さは、現代短歌では珍しくなった。現代の若い歌人の作る歌はもっとフラットで体温が低い。黒田の短歌のテンションの高さと詠われた世界の非日常性は、黒田が政治が熱を帯びた季節に青春を送ったことと無関係ではない。黒田や福島が早稲田大学を卒業する1966年に、早稲田大学は早大学費闘争に突入し、バリケード・ストライキに入る。福島の第一歌集『バリケード・1966年2月』はこの闘争の挫折体験から生まれたものであり、集中の「樽見 君の肩に霜ふれ 眠らざる視界はるけく火群ゆらぐを」に代表される浪漫主義は、闘争に参加した左翼学生の心情を表白したものである。その後、福島は泉下の人に成り代わって無念を詠う独自の挽歌のスタイルを確立する。黒田の歌集も題名が示すようにやはり挽歌なのであり、黒田が福島の強い影響のもとに作歌していたことをうかがわせる。ちなみに題名の「六月」が、1960年の安保闘争で当時東大文学部の学生だった樺美智子の亡くなった6月をさすことは言うまでもない。「六月」は現代短歌の新たな歌枕である。
 三部に分けられた歌集の第一部は特に挽歌の色合いが濃い。亡くなった人が直接に詠われているからである。
前つ世のアテネ・フランセに「愛慾の罠」駆け逝きし大和屋竺
遙かなり天象儀館も大和屋も星の藻屑を集め燿う
六月の雨かも知れぬ打たれたる肩に紫陽花色の痣あり
降る雪の如くにありにし優しさに神代辰巳逝きて帰らず
晒す身はもはや持たねば白妙のたましひ纏へ一条さゆり
熱き雨無念を孕み八月は永山則夫の死より始まる
 固有名詞のコラージュが60年代のカウンター・カルチャーを記憶に炙り出す。大和屋竺(やまとや あつし)は映画監督・脚本家で、代表作は「荒野のダッチワイフ」。天象儀館は荒戸源次郎が1972年に設立した前衛演劇集団。神代辰巳(くましろ たつみ)も日活ロマンポルノの監督で、「四畳半襖の下張り」など多くの作品を残した。一条さゆりは関西で活躍した伝説のストリッパー。永山則夫は1968年に連続ピストル射殺事件を起こし1997年に処刑された元死刑囚。黒田は日活ロマンポルノの助監督をしていた白川健夫と一時結婚しており、白川は大和屋の弟子だったという。だからこれらの歌に登場する固有名詞は、60年代カウンター・カルチャーの単なる記号ではなく、作者の身近にいた人たちなのである。鎮魂の念がひときわ深いのも頷ける。ちなみに三首目は福島の「あじさいに降る六月の雨暗くジョジョーよ後はお前が歌え」への返歌の趣きがある。
 このような挽歌群を歌集冒頭に据えた作者の意図からうかがえるのは、黒田の歌の主題が〈私〉と〈日常〉の出会う場所にあるのではないということである。黒田の視線は〈日常〉を越えて、魂が最も激しく燃焼する時空間をさまよう。だから黒田の短歌を作っている言葉は、〈日常〉の景物を指示するのではない。その意味 (=内包) を突き破って魂の昂揚を指示する。少なくともそのように意図されている。視線が遠くをさまようのが浪漫派の浪漫派たるゆえんである。
 しかしこの歌集に収められているのはこのような歌だけではない。もう少し身近な世界を見つめた次のような歌もある。
ひとり生(あ)れひとり死すとふ人界に蔓からませて開く朝顔
わが裸身白くちひさく畳まれて君のてのひら深く眠らむ
卓上に文旦ひとつ置きて出づ惹かるるごとく戻り来むため
立ち尽くす誇あらばや風のなか一糸纏わぬ冬の木立よ
ゆらゆらと見えしか生死の境目は昼餉の椀に牡丹肉浮く
 黒田の歌は身近な世界を詠っても、「朝顔」「裸身」「文旦」「冬の木立」「牡丹肉」といった単語に過剰なまでの情念が塗り込められている。情念は一首において完結しているため、連作という形式を取りながらも一首一首の屹立性が高いのも特徴である。
 掲出歌も含めこのような歌から浮かび上がるのは、意志強く毅然と生きる一人の女性の姿だろう。それは一首目の「ひとり生れひとり死す」や、四首目の「立ち尽くす誇あらばや」といった言挙げによく現れている。60年代に学生運動やカウンター・カルチャーの攻撃的な前衛性の中で自己に目覚めた女性が、自分の生き方を貫くのは大変なことであったに違いない。今から40年前の日本社会は女性に対してずっと保守的な社会だった。「ひとり生れひとり死す」という覚悟も大げさではなかったのである。
 黒田はこの歌集を編むにあたって、83年に「月光」に参加するまでに作った歌をまったく収録していない。ふつうならばそのような歌は、初期歌編として巻末にでも収めるのが常道である。それらの歌をばっさりと切り捨てるところにも、毅然とした覚悟のほどがうかがわれる。
 しかし福島はそれらの歌を惜しんだようだ。跋文のなかで変色した古い「早稲田短歌」に掲載された黒田の歌を懐かしそうに引用している。
たわやすく軽音楽になじみおり茶房にひとり入ることも知り
たじろがず眉上げて受くまぶしき陽 後手にドア締めたるのちは
明日もまた生きねばならぬ前髪をかき上げくらき椅子より立てり
焦がれいるものは視野より去り易し仰むきてなお昏き冬空
短調(モール)のみ選ぶ哀しみに措くギターの弦はいつまでも張詰めていん
口腔にソーダー残る暦繰れば誰かなるべし六月花嫁(ジューン・ブライド)
 青春に付きものの微量の自己陶酔を含むこれらの歌の清新な抒情は、黒田が早稲田短歌時代にすでに短歌の技法を我がものとしていたことを示している。それと同時に現代よりもずっと純朴だった当時の青年像をよく示している。これらの歌の抒情は、『六月挽歌』の歌が放散する慚愧と苦みをいまだ持たないだけに、いっそう輝くのである。これらの歌もまた黒田の短歌として記憶しておきたい。
 それにしても『六月挽歌』の中ではよく雨が降る。降る雨が浪漫派の証であり、涙の代わりであることは言うまでもない。

第23回 吉野裕之『ざわめく卵』

ゆっくりとやって来るものおそらくはその名を発語せぬままに待つ
              吉野裕之「胡桃のこと II」『吉野裕之集』
  歌集を開いて読む。眼は文字を追っているが、どうしても歌の中に入れないことが、ある。風邪で熱っぽいせいか、前の晩に酒を過ごしたためか、書庫の移転で本を運び筋肉痛になったからか、わからない。まるで歌が硬質ゴムでできたドアのように、こちらの入り込もうとする力を、跳ね返す。歌を読む能力が突然消えたのかと、あせる。それでも読み進む。読む速度を変えてみる。途中で立ち止まってみる。そうか、と気がつく。今日の体調が作り出す私の身体のリズムと、たまたま開いた歌集に群れる歌のリズムが、合わなかったのだ。息を合わせなくては。歌の中にひっそりとたたみ込まれている呼吸のリズムと、読む私のリズムとを、ひったりと寄り添うようにして、合わせる。すると今までは文字の並びにすぎなかったものに、呼吸が生まれ、時間が流れ出す。こうして初めて、歌はその秘密のすべてを語りだす。今回、吉野裕之の第二歌集『ざわめく卵』(砂子屋書房、2007)を読んで、こういう体験をした。
 この体験を通じてわかったのは、短歌は「時間の文芸」だということだ。「何を言うか。小説にも時間の流れはあるじゃないか」という意見もあるだろう。もっともである。例えば、池澤夏樹『きみのためのバラ』所収の短編「都市生活」は、主人公の「彼」が飛行機に乗り損ねて当地に一泊することになり、遅い夕食を取るために入ったレストランでの、初対面の女性と交わす会話を軸とする物語だ。読者は主人公に寄り添ってその場面を追体験するが、そこには空港から出て、レストランに入り、食事と会話を終えて店を出るまでの時間が、確かに流れている。しかしこれは、物語の中に流れる時間で、読者の読みに流れる時間ではない。一編の短編を15分で読んでも、1時間かけて読んでも、物語の中に流れる時間は、伸び縮みしない。「物語の時間」ではない「読みの時間」というものがある。短歌の場合には、こちらの方が決定的に重要なのだ。だから、「短歌が時間の文芸だ」と言うとき、その時間とは、歌の中に流れている時間(たとえば作者の人生の時間)ではなく、読み手が歌の読みにかける時間であり、取るリズムをいう。それはまた、歌に寄り添う時間でもあり、歌がこのように読んでほしいと誘っている時間でもある。その誘う声に耳を傾けなければ、歌の読みというものは、おそらくない。
 『ざわめく卵』からほぼ一年後の2008年に、セレクション歌人『吉野裕之集』(邑書林)が出た。第一歌集『空間和音』と『ざわめく卵』からの抄録に、それ以後の歌と散文が収められている。巻末に藤原龍一郎が作者論を書いている。それによると、第一歌集『空間和音』の出版記念会で藤原は、「短歌の言葉に対する葛藤のなさへの不満」を根拠に、吉野の歌を全面否定する発言をしたそうである。おお恐い。藤原が攻撃するのは、例えば次のような歌だ。
春の海マンモスのたりのたりしてときおりぼくに微笑んでいる
ほくほくはやきいも ぽくぽくは木魚 ああ、ぼくたちは啄木が好き
序文を寄せた師の加藤克己が心配した、「しらけの時代の、いささか無抵抗感に過ぎるところ」が、藤原の逆鱗に触れたものと見える。『吉野裕之集』のあとがきで、「十年以上も歌集をまとめなかった。まとめることができなかった、といったほうが正しい」と吉野が述懐している背景には、このような事情もあったと推察される。
 『吉野裕之集』所収の「日常と真向かうための」という文章の中で、吉野は次のように書いている。
「われわれはもっと大切にしなければならないと思う。日常。辞書的にいえば、つねひごろ、ふだんといった意味を持つことば。なんだかとても平凡な感じがする。とはいえ、現実の日常はけっして単純ではなく、その水準や相は多様である。この多様な水準や相をていねいに捉えようとする意志が、いま弱まっているのだと思う」
 これはそのまま吉野の姿勢の表明と取っていいだろう。そして第二歌集『ざわめく卵』はその実践編と考えてよい。だからこの歌集には、激しい抒情も鋭い社会批判もなく、ただ淡々と日常が並んでいるのである。『空間和音』にときどき見られた、いかにも若者風のポップな感覚や言葉遊びはすっかりなりを潜めている。
そのおもて夕日を映す運河わが背景として選ばれている
声をあげ目覚めたときを部屋がありしばらくののち手が現るる
くちびるの端で留めたフレーズが立ち上がりくる秋の階段
六人で酔うテーブルにあっけらかんと運ばれてくるひとの痛みが
秋の日のかがやきの中ふかくふかく見えてくるもの東京の辺に
このようにして連結ははじまりぬ人の消えたる駅の構内
 さっと読み飛ばすと気がつかない細部に、日常をすくい取ろうとする視線と、それを定着しようとする言葉の工夫が見てとれる。
 一首目ではそれは主に下句にある。上句の夕日を映す運河はありふれた風景である。それを「わが背景」と形容することは、背景の運河込みの〈私〉を見るもうひとつの視線を想定させる。「選ばれている」にも〈私〉以外の主体が感じられる。もしかしたら、運河をバックに〈私〉を写真に収めようとしている人がいるのかもしれない。こうして夕日を映す運河が背景に選ばれることによって、都市に生活する〈私〉が切り取られる。しかし、これが風景を選ぶという能動的働きかけではなく、受動的であることに注意しておこう。
 二首目は朝の覚醒の瞬間である。夢でも見ているのか、まず声が出る。発声から覚醒へと移行して、次に自分の手の知覚が立ち戻る。この歌では、「目覚めたときを部屋があり」の助詞「を」と「が」が効果的で、まだ自己と周囲の知覚が定まらない覚醒の瞬間をよく伝えている。
 五首目は特に具体的な光景が詠まれているわけではない。だから何が「見えてくる」のかは読者にはわからない。しかし「ふかくふかく」と三句目を増音して作り出したリズムのなかに聞こえる作者の息づかいに合わせることで、そこに確かに何か見るべきものがあるのだと感じられるのである。
 六首目は深夜の駅構内での列車の連結作業を詠んだものである。ここでの工夫は、冒頭の「このようにして」のいきなり感だろう。この措辞によって、一首の描く風景が〈私〉を離れたところに成立する都市風景として提示されるのではなく、〈私〉がその中に含み込まれた風景として描かれるのである。
 これらの歌に共通する姿勢は、都市に住む〈私〉の目に映ずる風景を、「すでにあるもの」として描くのではなく、「立ち現れるもの」として微細に描くということだろう。「すでにあるもの」としての風景は、実は私が見ているものではなく、既成概念として私が見させられているものである。公園にベンチがあるとする。「ベンチがある」という私の認識は、既成の参照枠 (reference frame)に基づく判断である。私の参照枠の公園のなかには、ベンチやゴミ箱や水飲み場や砂場がすでに登録されている。だから「ベンチがある」という認識は、参照枠に照らしたものにすぎない。吉野は意識的にこの参照枠を遠ざけて、生々しく目の前に立ち現れるものとして、風景を描こうとしているようだ。そのことを推察させる歌が、いくつも集中にはある。
人間のかたちとなって泣いている五月もしくは下闇のなか
椅子というかたちを見せているものの影伸びている君の足元
信州ゆ来たる特急わが前にかたちとなれば静止してゆく
切断がなされるような音がするビルの上なる空の中にて
「人間が泣いている」のではなく、何かが「人間のかたちとなって泣いている」という捉え方に、吉野の方略がある。二首目の「椅子というかたち」も同じである。三首目はより進んでいて、自分の前に停止して初めて何かが特急列車となるという描き方には、頭が軽くくらっとする認識の落差が埋められている。四首目の「切断がなされるような音」にも同じことが言える。吉野の言う「この多様な水準や相をていねいに捉えようとする意志」は、このような歌い方に現れていると考えてよい。
 ここで掲出歌に戻ろう。これは「胡桃のこと II」の最後に置かれている歌である。
ゆっくりとやって来るものおそらくはその名を発語せぬままに待つ
 日常の風景はゆっくりとやって来る。そしてそれは最初は名を持たぬものである。その名を性急に発語することは、風景を既存の参照枠に押し込めることになる。だから向こうからその名を明かすまで待つのである。
 吉野の歌を読む読者もまた、歌がささやきかける時間に寄り添うようにして、じっと待たなくてはならない。性急に自分のリズムで読んではいけない。こうすることで得られる体験もまた、歌のみが与えることのできるものである。

第22回 笹井宏之『ひとさらい』

まばたきの終え方を忘れてしまった 鳥に静かに満ちてゆく潮
                  笹井宏之『ひとさらい』
 この世には取り返しのつかないことがある。子供は明日も今日と同じように学校があり友達に会えると信じて疑わないが、歳を重ねるにつれて、明日も日が昇るのはそれほど確かなことではないと思い知る。それなのに私たちは相変わらず今日すべきことを明日に延ばすのだ。
 「未来」の加藤治郎選歌欄「彗星集」に集う若手歌人たちが、2008年5月に『新彗星』という短歌誌を出した。巻頭特集は「笹井宏之歌集『ひとさらい』を批評する」である。一部贈呈を受けて、第4回歌葉新人賞を受賞した笹井さんが第一歌集を出版し、評判になっていることを知った。「これはそのうち注文して読んでみなくては」と思いつつ、机辺に堆積する仕事に忙殺されてそのまま数ヶ月が過ぎた。その笹井さんが2009年1月24日未明に他界された。26歳の若さである。若い死は痛ましい。ご冥福をお祈りしたい。私の慚愧は笹井さんが亡くなってから歌集を読んだことである。
 笹井は1982年生まれで、2004年頃から短歌を作り始め、私的な短歌サイトなどのインターネット上で歌を発表し始めたという、純粋なインターネット出身歌人である。始めてから1年後の2005年に、第4回歌葉新人賞を「数えてゆけば会えます」で受賞。2007年に「未来」に入会しているが、入会のきっかけは加藤治郎が名古屋から笹井の住む九州までわざわざ訪ねて来たからだという。加藤がどれほど笹井の才能を買っていたかを物語るエピソードである。加藤の期待にたがわず、笹井は「未来」に入会したその年に未来賞を受賞している。ごく短い短歌経歴だが、ギュッと圧縮された人生の時間を笹井は文字通り駆け抜けたわけである。
 2008年1月に刊行された『ひとさらい』は、笹井が「未来」に入会するまでに書き溜めた短歌を収録している。笹井の短歌の世界をよく示す歌をいくつか引いてみよう。
からっぽのうつわ みちているうつわ それから、その途中のうつわ
猫に降る雪がやんだら帰ろうか 肌色うすい手を握りあう
雨ひかり雨ふることもふっていることも忘れてあなたはねむる
透き通る桃にブラシをあててみる(こすってはだめ)こすってはだめ
カルシウム不足の月を叩き割る 斧のいたるところにどくだみ
表面に〈さとなか歯科〉と刻まれて水星軌道を漂うやかん
このケーキ、ベルリンの壁入ってる?(うんスポンジにすこし)にし?(うん)
 笹井の短歌は、2000年の『短歌研究』創刊800号記念企画「うたう作品賞」以後短歌シーンに溢れるようになった口語短歌の流れの中にあると言える。その特徴をざっと挙げると、日常的話し言葉と平仮名の多用、かなり緩い定型意識、特定の視点の不在、それと連動する短歌的〈私〉の希薄化、薄く淡い抒情、といったところで、笹井の短歌にはこれらの特徴のほとんどすべてを見いだせる。上に引いた歌を見ても、叙景の視座となるべき視点がなく、叙景によって押し上げられる短歌の〈私〉は不在である。笹井にとって短歌は〈私〉を詠う詩型ではないのだ。強く全面に押し出される〈私〉に替わって、エーテルのように薄く希薄化した〈私〉が歌の全面に漂っている印象がある。またカッコの使用による歌の多声化には、加藤治郎や穂村弘の影響が見られることは言うまでもない。
 先ほど「叙景の視座となるべき視点がない」と書いたが、そもそも笹井の短歌には近代的な意味での「叙景」がない。それでは何があるかというと、それは「言葉の組み合わせ」によるポエジーだろう。このことによって笹井の短歌は近代短歌よりも現代詩に接近すると同時に、歌に登場する景物を喩として読むことを拒むのである。一例を挙げると、「眼のくらむまでの炎昼あゆみきて火を放ちたき廃船に遭ふ」という伊藤一彦のイメージ鮮やかな歌では、「あゆむ」「遭ふ」の主体としての〈私〉があり、〈私〉の眼に映じた叙景として浜辺に横たわる「廃船」がある。その廃船に「火を放ちたき」という強い情念が付託されることにより、廃船は景物の一点から喩へと変貌する。これが近代短歌の読みのコードである。
 しかしながら笹井の短歌にはこの読みのコードは通用しない。だから上に引いた歌で、「カルシウム不足の月」や「水星軌道を漂うやかん」を近代的な意味での喩と読んではいけないのである。そこに見るべきなのは、言葉の連接により醸し出される詩情であり、それは多くの場合、「脆さ」「はかなさ」「淋しさ」のいずれかの属性を帯びている。集中におもしろい歌がある。
野菜売るおばさんが「意味いらんかねぇ、いらんよねぇ」と畑へ帰る
 近代短歌はおおむね意味の歌であり、歌に思想性を回復しようとした前衛短歌も濃厚な意味の歌である。現代短歌は80年代のライトヴァースから「修辞ルネサンス」(加藤治郎)を経て、徐々にみずからを意味から解放しようとしているようだ。歌のすべてが〈私〉の体験の一回性へと収斂する読みのコードを生み出した近代短歌の世界から、現代の若い歌人たちはあたかも古典和歌の世界へと回帰しようとしているようにすら見える。佐佐木幸綱は、古典和歌の特徴を抽象性・観念性・普遍性だとしているが、若い歌人たちが作る歌はこれらの特徴のいくばくかを備えているように見えるからである。
 このような作歌態度を採るとき、「言葉の連接」において陳腐を避けようとすれば飛躍を産む。それが度を超すと読者の理解を超えることがある。
しまうまが右の涙腺通過して青信号に眠ってしまう
完璧にならないようにいくつもの鳩を冷凍する昼さがり
あの枝に湯のみ茶碗が実ります 耳を磨いてお越しください
くわがたを折り曲げている寝室に近い将来猫が産まれる
 このイメージの飛躍は余りに大きすぎて、正直言って読者は付いて行けないだろう。そこから生まれるはずのポエジーにも手が届かない。このような歌が集中に少なからずある。笹井は『新彗星』所収の「私たちの向かう場所」と題された柳澤美晴・野口あや子との鼎談で、「読者は歌人以外」と強く思っていると発言しており、読者を意識せずに歌を作っている訳ではないことがわかる。ならば一層のこと、上のように言葉のイメージの飛躍が大きすぎる歌は瑕疵と見るべきだろう。
 意味を拒んで言葉の連接に賭けるとおもしろい現象が起きる。体言止めの歌が多くなるのである。
緩急を自在につけて恋文を綴るフリース姿の老師
南極のとけなくなった雪たちへ捧ぐトロイメライの連弾
つけものの真空パックをあけるとき祖母とはげしく抱きあうひつじ
 特集「笹井宏之歌集『ひとさらい』を批評する」には念力短歌の笹公人との類似を指摘する意見もあるが、むしろ私がよく似ていると思ったのは高柳蕗子の歌である。
世は白雨 走り込んでは牛たちのおなかに楽譜書く暗号員 
                   『潮汐性母斑通信』
走り出す車窓からおまえはこれと授与された鯨医の聴診器
高柳の歌は端的な「意味の脱臼」であり、その点において軽々と脱近代を遂げている。そして高柳は体言止めの歌を偏愛しており、できればすべての歌を体言止めにしたいとすら公言しているのである。結句に用言を置くと、そこに陳述の力が生じ、歌をある世界に着地させ係留することになる。歌が世界と触れると、その接触を触媒として意味が生じる。だから高柳は結句の用言を嫌い、陳述の力を欠く体言止めにすることで意味を宙づりにするのだろう。笹井の歌に体言止めが多いのも、同じ理由によると思われる。また用言を用いた結句も「靴をそろえる」「やさしいひとだったっけ」「いただきました」「なるのでしょうね」のように、断定を避けた言語形式をとっているものが多い。これもまた歌を着地させることなく、意味の未決定の空間に浮遊させる工夫だろう。
 第4回歌葉新人賞の受賞の言葉で笹井は「ことばは、雨のようだ」と言い、「誰も立ち入ることのできない場所に、ひっそりと降ってくる、ひとしずくを待つ」と続けている。笹井の歌の言葉たちは声高に主張することなく、ひっそりと歌の中に佇んでいるようだ。そこから醸し出されるうっすらとした透明な悲しみは、特に若い読者たちに支持されるだろう。例えば次のような歌に笹井の美質を見ることができる。
「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい
真水から引き上げる手がしっかりと私を掴みまた離すのだ
内臓のひとつが桃であることのかなしみ抱いて一夜を明かす
水田を歩む クリアファイルから散った真冬の譜面を追って
それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどの明るさでした
ひとたびのひかりのなかでわたくしはいたみをわけるステーキナイフ
 こんな歌を生み出した歌人がこの世を去ってしまったことは残念でならない。それと同時に、笹井が紡ぎ出す言葉たちと私たちが住む世界との繋がりも、氷柱に閉じこめられた花のように永遠に凍結されてしまったのである。

第21回 森岡貞香追悼

生ける蛾をこめて捨てたる紙つぶて花の形に朝ひらきをり
                        森岡貞香『白蛾』
  2009年1月30日に森岡貞香さんが亡くなった。享年92歳の長逝である。この「橄欖追放」は短歌時評ではないので、そのときどきの話題を取り上げることはしていない。しかし、つい一週間前に『ひとさらい』の笹井宏之さんが26歳の若さで夭折されたという知らせが飛び込んだばかりである。歌壇の長老と新進気鋭の若手が相次いで鬼籍に入るという事態に悄然とした。お二人のご冥福を祈りたい。一人の歌人を失うことは、ひとつの独自の世界を失うことである。私たちは大切なものを失った喪失感とともにこの世に残る。
 私は森岡の忠実な読者というわけではなく、歌集も短歌新聞社版の『白蛾』一冊を所有するのみである。気になりつつも、どこか自分からは遠くに位置する歌人という感じを拭えないでいた。塚本邦雄『現代百歌園』(花曜社1990)は、「流弾のごとくしわれが生きゆくに撃ちあたる人間を考えてゐる」という『白蛾』の歌を引いて、「単なる戦争の被害者の歌で終わらず、孤独な魂、生身の女性の、生きながらのレクイエムたりえたところに、作者のまれなる才質とこれらの歌の存在価値が認められる」としている。篠弘・馬場あき子『現代秀歌百人一首』(実業之日本社2000)は、やはり『白蛾』から「いくさ畢(をは)り月の夜にふと還り来し夫を思へばまぼろしのごとし」を引いている。いずれも夫が先の大戦に出征し、帰還直後に急逝するという悲劇に見舞われた森岡の境涯を念頭に置いての評であり抄出歌である。1958年刊行の第一歌集『白蛾』には確かに境涯的な歌が多く、刊行当時もそのような歌に注目が集まったものと思われる。塚本・篠・馬場らの世代の人たちには戦争が色濃く刻印されており、歌を引くならやはり戦争の影の濃い『白蛾』からということになるのだろう。
 1969年生まれの吉川宏志になると着眼点は少しく異なる。評論集『風景と実感』(2008)のなかで、近代絵画の鼻祖セザンヌが一枚の画布の中に複数の視点を混在させることによって、見る人が絵の中をあたかも移動するかのような効果を与えていることを論じ、短歌でこれと近い感覚を与える歌人として森岡の名を挙げている。
今夜とて神田川渡りて橋の下は流れてをると氣付きて過ぎぬ 『百乳文』
「今夜とて」「渡りて」「流れて」「氣付きて」と一首の中に4つもある「~て」が視点の移動を表しており、橋を渡っている時の視点と渡り終わった時の視点が混在しているため、強いねじれの印象を受けるという。『風景と実感』における吉川の問題意識は、歌の中でどのように風景と作者の身体性とが絡み合うかという点にあるので、そのような問題意識を反映した捉え方になっている。
 身体性という切り口で考えるならば、私が森岡の歌を読んで強く感じるのは、一首の中でぎくしゃくするリズムである。
果物、肉など吊り降ろしおく白き紐井戸よりはみ出てをりぬ 『未知』
雨夜のレール散乱しうつくしき不安の中に貨車黒く來る
何を見むとしてひびわれし堀の底ひを埒越えて見る  『甃』
泥の玉産むやうなるこゑ 山鳩の息を大きく吸ひて吐きゐる  『黛樹』
けれども、と言ひさしてわがいくばくか空間のごときを得たりき 『百乳文』
 たとえば一首目の初句「果物、肉など」は8音が読点で4・4に区切られているため、滑らかに読み下すことができずぎくしゃくする。おまけに下句「井戸よりはみ出てをりぬ」は11音しかなく、これもリズムに乗れない。二首目の上句「雨夜のレール散乱し」も12音で、5・7・5のリズムを刻むことができない。意図しての破調なのだろうか。
 森岡は若い頃、胸部疾患で肋骨を切除したため、肺活量が極端に少なく、電話で人と話していても息が足りないほどだったという。上に引いた歌のリズムの乱れは、ひょっとしたら実生活における森岡の息の不足が引き起こしたものかもしれない。それは定かではないが、このリズムの乱れが歌に強い身体性を与えていることは事実である。ぎくしゃくしたリズムのせいで、初句から結句までひと息で滑らかに読むことができず、読む人は一瞬の逡巡とともに立ち止まる。その呼吸の乱れのなかに、人臭さに近い作者の濃密な息づかいが感じられる。
 森岡の歌を読んでいて時折考え込んでしまうのは、「現実」とは一体何かということである。当たり前のことだが、いかに視たままを詠っているように見える写実的な歌でも、それは客観的現実ではなく、作者の眼を通して視られた現実である。そこには主観と身体による変形がある。唯脳論を唱える養老孟司は、私たちが客観的現実と思っているものは、脳が私たちに見せている世界にすぎないとしている。眼の前に赤いバラが一輪あるとする。そのバラの赤さは、バラという事物の属性として存在するか、それとも赤さを知覚した私たちの心の中に存在するかという問題は、唯物論と観念論の論争として哲学において長く論じられてきた。哲学がしばしば知覚論を出発点とする所以である。唯脳論という極端な形を取らずとも、森岡の歌の中では現実がしばしば独自の形で変形されていることに気づく。
月させば梅樹は黒きひびわれとなりてくひこむものか空間に 『白蛾』
曇天が池にとどくと思ふときほそき枯莖は立ちて動かぬ
 月が梅の木を照らすのではなく、一本の影として空間に食い込むひび割れとなるという把握は、非常に主知的なフィルターを通しての現実の変形である。低く垂れ込めた曇天という水平方向の広がりと、垂直に立つ芦の枯茎の対比もまた、それ以外の要素を捨象する抽象化の操作を施した現実である。ここには日々の歌に還元することのできない強い構成意志があると見るべきだろう。また「なりてくひこむ/ものか空間に」の句割れをものともせず結句まで食い込む断定の強さも注目される。
 森岡の歌には何とも名状し難いある感じがすることがある。その正体を正確な言葉で言い表すのは難しいのだが、例えば次のような歌に顕著である。
果物、肉など吊り降ろしおく白き紐井戸よりはみ出てをりぬ 『未知』
電柱にトランスの黒き箱を見き月のま下とあふげるときに
この海星(ひとで)の場合、港灣に突き出たるconcreteのうへにて死せり 『百乳文』
 短歌的喩の見地からすれば、一首目の井戸からはみ出す紐は何かの喩と解釈すべきかもしれないが、どうもそうは思えない。ただの紐にしか見えない。二首目の黒いトランス(変圧器)の箱もそうである。月の光の白さとトランスの黒さの対比はあるが、それがこの歌の眼目とも思えない。トランスはただそこにあるのである。しかし何気ない紐やトランスがこのように詠われるとき、かく作り出された小空間にはそれらの事物を凝視する知覚主体が濃厚に現前して感じられる。三首目になるとさらにその度合いは増し、「この海星の場合」というとぼけたような散文的初句に、コンクリートの上で死んでいるという乾いた観察が続くことによって、そのように視、そのように認識した主体が、意味内容の陳腐さと反比例して強く前景化されるのである。この主体を短歌の〈私〉と呼ぶことにいささかためらいを覚えるのは、そこに通常あるべき抒情が欠如しているからだろう。沖ななもは『森岡貞香の歌』(雁書館1992)で、森岡の歌の持つ知的・認識的特質を指摘していて、確かにその通りである。しかし、同じ作者の手になる次のような歌を読むとわからなくなってしまう。
樹の下の泥のつづきのてーぶるに かなかなのなくひかりちりぼふ 『黛樹』
泥の玉産むやうなるこゑ 山鳩の息を大きく吸ひて吐きゐる
この沼を出でゆきしものの何気なき跡をし見め眼つよめて
 泥とテーブルがひと続きという捉え方は尋常ではない。何か不可思議な感覚がそこにある。またかなかなの鳴く声ならわかるが、鳴く光というのも不思議である。泥玉を産むような声とは、美しい声でないことだけはわかるが、想像がつかない。「この沼を出でゆきしもの」の正体も不明だ。常識的に考えれば、水鳥か亀やイモリなどの水生生物だろうが、名指されていない分だけ不気味である。しかも本体は不在で足跡だけが残されている。それを助詞の「し」で強めてまで見ようというところに、何か尋常ではない不穏さを感じてしまう。このような歌を見ると、森岡の歌に見られる世界の知的把握という分析がぐらりと揺らぐのである。どこか自分から遠くに位置する歌人という気持ちを拭えなかったのは、このあたりに原因があったのかもしれない。

第20回 柚木圭也『心音 [ノイズ]』

黒揚羽頭(づ)を越えゆきぬ 心音とふ羽音ひびかせ地にわれは生く
                       柚木圭也『心音[ノイズ]』
 藤原龍一郎『短歌の引力』を読んでいたとき、1996年から1997年の時評で『歌壇』の「期待の新人たち」という特集に触れて、「もっと読みたいと思わせてくれた二人」として松原未知子と柚木圭也の名が挙げられているのが目にとまった。次のような歌が引かれていた。
ひとに向かふ思ひはるかに閉ぢられて消ゆることなきガラスの気泡  柚木圭也
千秋のおもひに待てば届きたるどこ吹く風といふほかの風  松原未知子
 松原のその後のめざましい活躍を知っていたので、並んで名を挙げられている柚木圭也とはどういう歌人か知りたくなり、藤原龍一郎さんに「もっと読んでみたいのですが、柚木さんは歌集を出しておられないのですか」とメールを出した。すると「柚木は歌集は出しておらず、今は作歌を中断している」という返事が来てがっかりした。今からずいぶん前のことである。
   この出来事が記憶の底に埋もれかけた頃、柚木さんから突然メールが届き、「今度歌集を出すことになったので送りたい」というありがたいお申し出を受けた。ややあって手許に届いたのが『心音{ノイズ]』(2008年、本阿弥書店)である。当然ながら作者の第一歌集で、栞には穂村弘、横山未来子、そして「短歌人」の先輩の小池光が寄稿している。
   巻末略歴によると柚木は1964年生まれ。86年に作歌を開始し「短歌人」に所属するが中断。しばらく後に復帰して短歌人新人賞と短歌人賞を受賞するも、2001年にまたも中断。小池の栞文によれば、敬愛する高瀬一誌が亡くなったことが影を落としているらしい。柚木は「短歌人」の次世代のホープと目されていたという。将来を嘱望された歌人がある日忽然と姿を消し、長い不在の後に復帰して第一歌集を出すというのは珍しいことだろう。プロのスポーツ選手や棋士などとちがって、歌人には資格試験も免許も位階もない。誰からもお墨付きをもらえない。「自分は歌人だ」と強く自己規定する人が歌人なのである。柚木のように長い中断の後で歌人の自覚を取り戻すのは難しいことだ。まずは柚木の復帰を喜びたい。繙けば初夏の桃に刃を当てたように清新な歌が流れ出す一巻であればなおさらのことである。
 この歌集には作歌を始めた頃から中断するまでの歌がほぼ編年順に並べられており、最後に初期歌編が収録されている。つまり人為的な加工や演出は排され、自分の歩みをありのままに見せたいとする作者の意図があると見てよい。最初の歌群は作者が大学生であった頃に遡るため、小池が指摘するように「激変する今日から見れば明らかに一昔前の一青年の軌跡」という印象を免れない。しかし、そのためかえって青年期の歌に作者の歌人としての資質が透けて見えるという利点もある。
 巻頭近い青年期の歌からいくつか引いてみよう。
ホヤ酢なる海綿体を噛みしめて人に対かへば生臭きかな
たそがれと夜と混じれるこの街はうすくれなゐの肺胞として
こんなものだらうと思はれてゐるこんなもののなかに吾(あ)も混じりゐつ
二部学生の列に混じりて立喰ひにうどんをすするわが影あはし
遠くより視て匂ひ嗅ぎわけること さびしき今日の特技のひとつ
すり傷おほきコップにて飲むワインゆゑ視えてくるものあるやもしれず
自転車で走り抜けるとき春泥はあるやさしさをもて捉ふるしばし
 痛いほどに若さを感じさせる歌で、微熱のような青春の鬱屈が確かにここにある。矜恃と裏腹の空疎感、世界・世間への渇仰と反発、こういった二律背反的感情が同時に心を占めるのが青春というものである。なかでも青春期の病の筆頭は肥大した自意識だろう。柚木の歌にも自意識の歌が多い。たとえば一首目「ホヤ酢」を食べる〈私〉が意識するのは自分の生臭さである。この臭いは対人的状況において意識されるのであり、対他的自己を見つめるもう一人の〈私〉の視線がある。三首目では集団の中の〈私〉が詠われているが、ここでもやはり〈私〉は自分を集団の他者との比較において捉えている。〈私〉は私にとって〈私〉なのではなく、他者にとって〈私〉なのだ。四首目の「二部学生」や五首目の「さびしき特技」にはどこか啄木を思わせる匂いがあり、青春歌の空気が濃厚である。六首目の「すり傷おほきコップ」が自己または自己の置かれた境遇の喩であることは言うまでもないが、少しわかりやす過ぎる感もあるか。七首目では、自転車を漕ぐときに抵抗感を与える春泥にすら優しさを感じるところに、甘さを伴う青春の生暖かい鬱屈がある。柚木はこのように憂いと鬱屈を抱えた青春歌人として出発したのである。
 写実を基本とする歌人にもふたつのタイプがあるようだ。ひとつは〈視る人〉、もうひとつは〈視られる人〉である。〈視る人〉は文字通り全身これ眼となって風景を視るタイプで、多くの場合、作者の〈私〉は視線の中に溶解して姿を現さない。現代ではその典型は吉川宏志だろう。ランダムに選んだ次の二首の両方に「見る」という動詞が含まれているのは偶然ではない。
いまだ暗き朝の川面を見下ろせば手すりのうえの軽雪(かるゆき)が飛ぶ 
                            『海雨』
五階より見れば大きな日なたかな墓の透き間を人はあゆめり
このタイプの人は自分を詠うことが少ない。言うまでもないことだが、このような歌は見たままを詠っていて〈私〉が不在だと言っているのではない。吉川の歌には風景を切り取る角度や手つきのなかに確かな〈私〉がある。しかしその〈私〉は手つきに内在し、詠われる対象として顕在化することが少ないということである。自画像を描かない画家と言えばいいだろうか。
 一方の〈視られる人〉も周囲の風景を視はするのだから、ほんとうは〈視、かつ視られる人〉と呼ぶべきだが、〈視る人〉の外へ向かうベクトルに対して、内に向かうベクトルが強いのでこう呼んでおく。〈視られる人〉が風景を視るのは、視線が対象に跳ね返って自己へと立ち戻ることで自己存在を確認するためである。吉野裕之をその一タイプとするのはあながち間違いではあるまい。
理解されなかったこともパン屋にて迷えることも秋の夕暮れ  『空間和音』
自らの重さを思う目覚ましの鳴る十分前にめざめたる時
吉野の歌は確かに自意識の歌ではなく、むしろ自己感覚の歌と呼ぶべきだろう。しかしこれらの歌にはブーメランのように最終的には自分へと戻ってくる視線がある。対象に反射して戻って来る視線が〈私〉の輪郭を逆照射するところに視線の意味のすべてがあるというタイプと言ってよい。こちらは自画像を描く画家になぞらえることができる。
 このようにやや乱暴ながら〈視る人〉と〈視られる人〉という類型を立てるならば、柚木はその出発点においては〈視られる人〉である。〈視られる人〉はよく自分の振る舞いを歌に詠む。
傘をたたみ顔上げしときゆくりなく〈鮮魚魚玉〉目に映りゐき
はしやぎゐる振りを扮ふわがことをさみしき男とレンズは映す
ひげ剃りを頬に当ててはわが顔の凹凸なること確かめてゐつ
 若い画家がよく自画像を描くように、〈視られる人〉が描く自己の振る舞いは、世界との対峙の中で自己の輪郭を確認しようとする作業に他ならない。
 このことは柚木の歌の別の特徴でも確認することができる。歌集に収められた歌には飲食の歌が多い。この〈私〉は実によく物を喰うのである。
夕食にて残りしぬたの酢味噌をば夜更けてねぶる舌くさきかな
うたのことはつかはつかに思ひ食むキムチギョウザは喉に熱きを
うつしみは真昼の街にオムライス食みをりくちびる赤く濡らして
すすり合ふ麺かおのれか判かぬまま満ちゆけるなり夜更けの内腑
わが顔を凝視(みつ)めたるのち飯蛸のまろき頭を食みにゆくかも
 栞文で穂村と横山は二人とも飲食の歌に触れている。穂村は作者にとって飲食は「生を味わう」ためだが、歌集後半で口にするものが「乾燥剤」「昆虫図鑑」となるに至っては生を味わう衝動の暴走だとしている。横山は飲食をテーマにした歌に「若々しく逞しく、ときに荒々しく生に向きあう姿」を見ている。いずれも一理ある指摘だが、少し別の見方もできよう。飲食とは食物という外界に由来する異物を体内に摂取する行動である。〈私〉の境界線を暫時解放して外界を取り入れるとき、人は自己を意識せざるをえず、またそのときに自己の違和感が極大化する。この違和感が舌の臭さや唇の赤さや麺と自己の判別不能に表現されていると見ることができる。
 歌に表現された作者の自己意識は、しかしながら歌集を読み進むうちに次第に淡くなる。青春期を脱した作者が壮年期を迎え、青春の鬱屈もまた同時に姿を変えたものと見える。歌集後半には次のように静かに自己と世界を見つめる歌が多くある。
闇に手をひたして洗ふ花曇る今日をうすらに汗滲みたるシャツ
ガーゼあてて血の吸はれゆく手のひらの数秒を春の時間といひて
コピー用紙吐き出さむときかそかなる西瓜の甘き香はただよひぬ
羽となるべき耳の重たくあるゆふべ睡り没(しづ)みて水風呂のなか
早桃(さもも)拙く剥きて酸ゆけき指さきに早桃の匂ひを灯して歩く
 ここに来て柚木の中で〈視る人〉と〈視られる人〉とがある平衡点に達したと見える。柚木はラグランジュ点にたどり着いたのである。そのような地点から繰り出される歌は、世界にそっと手を差し入れて引き抜くと、手のひらに花びらが一枚残されているといった趣を湛えている。
 願わくばこの歌集が紆余曲折した今までの歩みの総括ではなく、これから踏み出す新たな歩みの第一歩となってほしいものである。柚木の次の一手を楽しみに待つとしよう。

第19回 大滝和子『竹とヴィーナス』

人生を乗せいる電車ひとすじの光の詩形そこに射しこむ
                  大滝和子『竹とヴィーナス』
 昨年はリーマン・ショックや派遣切りなど後半に暗い話題が続いたので、新しい年の最初は不景気の影の差していない歌集を選ぼうと、書架の歌集をあれこれひっくり返してみたものの、なかなか見つからない。そうだと思いついたのが大滝和子『竹とヴィーナス』である。実体経済の不景気は困りものだが、心の不景気はもっと恐い。この歌集は心の不景気の影など微塵も見られないという点で、現代では珍しい部類に属する。掲出歌はこの歌集の中で特によい歌というわけではないが、「光の詩形」は短歌の喩とも取れ、新年らしく希望を感じさせるので掲げた。
 大滝はすでに2004年2月の「今週の短歌」で取り上げている。その折りの紹介文を使い回しすると、大滝は「未来」に所属し、「白球の叙事詩(エピック)」で短歌研究新人賞、第一歌集『銀河を産んだように』で現代歌人協会賞を受賞している。第二歌集に『人類のヴァイオリン』がある。『竹とヴィーナス』は2007年刊行の第三歌集である。岡井隆麾下の「未来」には個性的な歌人が蝟集しているが、大滝はその中でも異彩を放つ歌人である。
 あとがきに「心のなかで東が西に語りかけることが多くなった」とあり、また「日本語で歌を詠むと同時に、宇宙言語でもありたいと願っている」とも書かれている。歌集題名の「竹」は東の象徴、「ヴィーナス」は西の象徴だろう。東には植物を、西には人間を 選んだところもおもしろい。西洋文明は人間中心で、東洋文明は自然中心ということだろう。東西の対話という点では大滝にはすでに次のような名歌がある。
観音の指(おゆび)の反りとひびき合いはるか東に魚選(え)るわれは
                   『人類のヴァイオリン』
 この東西の対話は第三歌集でもその深度を深めている。また「宇宙言語」とは気宇壮大なと思われるかもしれないが、収録された歌はその言葉を裏切っていないのである。歌集巻頭の二首を引く。
無限から無限をひきて生じたるゼロあり手のひらに輝く
腕時計のなかに銀の直角がきえてはうまれうまれてはきゆ
 「無限から無限を引く」というスケールの大きな想像力には不景気の影は皆無である。無限大を扱う数学を開拓したのは19世紀後半にドイツで活躍したロシアの数学者カントールだが、さしものカントールも無限がこのように詩歌に詠われるとは思わなかっただろう。本来ならばゼロは無である。しかし無限の彼方まで一度到達してまた戻って来たゼロは、往還した無限量を記憶として内包する豊かな無である。だから手のひらに輝くのだ。二首目の「銀の直角」という美しい形容は、時計の長針と短針が作り出す角度をさす。時計の針は時々刻々と角度を変え、文字盤の至る所で直角を形成する。しかしたまさか生まれた直角は次の瞬間には消えてしまう。無限の時間の流れの中で生成と消滅を繰り返す直角は、生々流転・万物流転(パンタ・レイ)の喩であり、この歌にも途方もないスケールの時間が封じ込められている。大滝の歌の本質は〈私〉の感情を詠う抒情にはなく、この二首のように、小さな〈私〉を包み込み〈私〉を超えた次元の時空間を詠むところにある。
 私が特に仰天したのは次の歌である。
《永遠》を吾はふたつに折り曲げる出逢いたる時境をなして
 時間は現在を境として前方は未来、後方は過去と認識される。しかし時間自体に過去と未来という区別があるわけではない。「〈私〉が現在に在る」というただ一事によってそう認識されるのである。だから境目にいる〈私〉は永遠をふたつに折り曲げると言ってよい。理屈はそうだ。しかしそんなふうに考える人はあまりいない。この歌を読むと、巨人の〈私〉が渾身の力を振り絞って、宇宙空間を棒のように貫く時間をバールのように折り曲げている壮大なイメージが湧く。人間は時空に縛られ支配される存在だが、人間の認識は時空を超えるというのは、パスカル的な想像力である。
 次の歌も同じようにスケールが大きい。
冥王星(プルートゥ)と海王星(ネプチューン)の内外(うちそと)の位置変わる日に売られいるパン
 惑星の順番は「水金地火木土天海冥」と習うが、「海冥」が入れ替わり「冥海」となる時期がある。この交代は地球から何十億kmのかなたで起きている天文現象である。これをパン屋で売られているパンという卑近な日常の出来事と対置することで、途方もない距離を隔てた交感が現出し、この日この時〈私〉がここにいる不思議があぶり出される。
 すでに2冊の歌集で大滝の野球好きはよく知っているのだが、大滝は理科系出身なのだろうか。理科系に馴染みの深い用語をよく使っている。
亡き父のDNAが吾(あ)に買わす「エジプト象形文字解読法」
とおい宇宙からやって来て泣きはじむ元素周期律表のFe(てつ)
きょうもまたシュレディンガーの猫連れてゆたにたゆたに恋いつつぞいる
わが服の襞描きいる画家のまえ無限数列おもいて座る
複数のはじめは2ならず3なりと記すわが手のさみしくもあるか
正多面体の種類を想いつつ眠らな、四、六、八、十二、二十
 大滝は特に数列や周期律表のように、数字や元素が規則的に並んでいるものを好むようだ。「シュレディンガーの猫」は量子力学の生みの親シュレディンガーが確率論的世界観を説明するために用いた比喩。無限数列ではきっと大滝はフィボナッチ数列が好みだろう。1, 2, 3, 5, 8, 13….のように、次項が前のふたつの項の和である数列で、ヒマワリの種の配列や巻き貝の貝殻の螺旋など自然界に多く見られる。「複数のはじめは2ならず3なり」は私にもわからない。言語でよって複数の前に双数というカテゴリーがあることを言っているのか。
 このような大滝の歌の中の〈私〉は、近代短歌が前提とした生活者で抒情の座としてのそれとは私性において遠く隔たっている。
ビッグバンのころの素粒子含みいるわれの手なりや葉書持ちおり
電線のなか流れゆくわたくしよ又三郎に吹かれ揺れいる
 大滝の〈私〉は近代が前提としたデカルト的な意識の座としての〈われ〉ではなく、太古のビッグバンの記憶を素粒子レベルで保持するような時間的広がりを持つ〈私〉であり、また時には電流へと変身して電線を流れることもあるように万物と交感する〈私〉なのである。これは前衛短歌が作り出した拡大された〈私〉でも、80年代からのライトヴァースやニューウェーブ短歌が前景化した浮遊するポップな〈私〉でもない。意外に山中智恵子の巫女もしくは呪者としての〈私〉と近いかもしれないとも思う。
 大滝の感応的想像力は遠く離れた物を近づけるため、上句と下句の間に跳躍があることが多い。この跳躍があまり大きいと歌意が取れなくなる。
球場のむこうへ続くプラタナス 日曜は月曜を妬んでいるか
素足にて夜のしずけさ昇りゆく階段はふと葡萄のごとし
もしかして君のトーテムは鰐ですか入れてくださいこの角砂糖
声帯をなくした犬が走りゆく いたしましょうねアジュガの株分け 
泣きながら雨のなかへと駆けてゆく賢治と賢治 とおい御陵(みささぎ)
 プラタナスと日曜月曜、階段と葡萄、トーテムの鰐と角砂糖、声帯をなくした犬とアジュガの繋がりは大滝だけに開示された秘密なのかもしれないが、読者にはちょっとついていけない。また五首目のように結句に「とおい御陵」のように関係のないものを配して落とすのは、岡井隆直伝の「未来」のお家芸だと確か誰かが書いていた。
 最後に私が最も感じ入った歌を引く。
洋梨のなかに洋梨棲みつづけナイフちかづく瞬間ありぬ
存在の釣糸ひかり魚たちは捕えられゆくとき立ちあがる
母生きてヴァージンオリーヴオイル持ち我へ手渡すそのたまゆらよ
 洋梨の中に洋梨が棲んでいて、果物ナイフで皮を剥いたときにほんとうの洋梨が姿を現すという捉え方は独自である。はっと息を呑む思いがする。二首目は魚釣りの情景なのだが、釣り上げられた時に魚が垂直になる様を「立ちあがる」と形容することによって、存在の不思議が表現されている。三首目はこの歌集の白眉と言える歌。大滝のお父上は亡くなっているがご母堂は健在である。生きている人を「母生きて」とすることはふつうはしない。それを敢えてすることは、とりも直さずその裏側に死んだ時を想定し、「もう死んでいる未来」から「まだ生きている現在」を眺めていることになる。だからその存在はたまゆらなのであり、まるで母親の像に紗がかかったように、あるいはだんだん影が薄くなっていくようにも感じられる。それは命という蝋燭を見ているようだ。
 宇宙的スケールの歌を詠む歌人には井辻朱美がおり、種の境界をやすやすと越えるのは早川志織である。また強い交感力を持つ歌人には水原紫苑がおり、乾いた認識の歌を詠むのは香川ヒサがいる。しかし大滝の歌の世界はこれらの歌人ともまた肌合いの違う独特の世界であり、荻原裕幸が「デジタル感覚」と形容したのも故なきことではない(『短歌研究』2000年6月号)。しかし0と1や3の歌を作っているからといって、大滝の個性は「デジタル感覚」ではなく、何光年の距離をもワープし何万年もの時間を跳び越えて展開される存在論的想像力であり、この点において大滝は他に似る者のない歌人たりえているのである。

第18回 鳴海宥『BARCALLOLE [舟歌]』

右の手を夜にさし入れてひきいだすしたたる牡蠣のごとき時計を
                    鳴海 宥『BARCAROLLE [舟唄] 』
   現代短歌の概観を得るにはアンソロジーが役に立つが、なかでも私がよく手にするのはながらみ書房刊の『処女歌集の風景』(’87)、『第一歌集の世界』(’89)、『現代の第一歌集』(’93)、『現代短歌の新しい風』(’95)である。著者自選50首に歌集刊行時のエピソードとアンケートの回答が添えられていて、歌が世に出たときの人と時代の初々しい空気が感じられる。この4冊で昭和35年(1960年)の春日井建『未成年』から平成6年(1994年)の渡辺良『心の井戸』までの34年間をカバーしている。私が特に興味があるのは80年代から90年代にかけて出版された歌集だが、アンソロジーを読んで心惹かれ、歌集を入手しようとしても果たせないことがままある。アンケートの回答を見ても「発行部数は?」という質問の答が「450部」とか「600部」という少部数出版なのだから無理もない。巡り巡って私の手許にやって来るのが僥倖というものである。鳴海宥の『BARCAROLLE [舟唄] 』もかねてより探していた歌集だが見つからず、思い余ってご本人に手紙を出したところ恵存いただいた。ありがたいことである。撫でさすりつつ舐めるように熟読玩味したことは言うまでもない。
 鳴海宥は1957年生まれ。「未来」に所属し『BARCAROLLE [舟唄] 』は1992年刊行の第一歌集。同歌集で現代歌人協会賞受賞。デッキチェアにくつろぐ人を配した瀟洒な表紙で、跋文は岡井隆。1992年(平成4年)といえば、87年のサラダ現象が巻き起こしたライトヴァース論争が一段落し、同年には穂村弘『ドライドライアイス』、荻原裕幸『あるまじろん』が刊行されてニューウェーブ短歌の時代が到来した頃である。前年はソビエト連邦が崩壊し、湾岸戦争が勃発している。世界情勢も現代短歌も激動の時代を迎えていたわけだが、『BARCAROLLE [舟唄] 』はそんな時代の駆流からは超然とした静かな歌集である。作者はピアノを職業としていると跋文にあり、それは Preludio(前奏曲)、Intermezzo (間奏曲)、Sonata (奏鳴曲)、Suite (組曲)と題された歌集の章の構成にも現れている。表紙裏にはショパンが作曲しシュトックハウゼン男爵夫人に捧げた ピアノ曲Barcarolleの楽譜が印刷されているが、歌集の中には音は流れておらず、読み手が受けるのは磁器の肌に触れたような冷ややかで静謐な印象である。
 まずいくつか歌を引いてみよう。
やはらかき手のあらはれて思ふさま入れる鋏のひびきは空に
輪郭の見えぬひとりが歩み出でてかがやく駅舎くづれむとすも
うつくしき耳と耳とのあはひには流れむとして腐る夕映
見てあればおまへのやうな円卓の腐った縁(へり)から垂れ落つる魚油
ドアを出てドアへむかへるつかの間の海は怒れる髪のごとしも
しまはれてありしあまたの語録より夏の嵐を曳きいだす海
 例えば一首目、視界の外からズームインするのは手だけであり、その手の持ち主は歌の中にない。また結句は言いさして余韻を残す終わり方である。このため歌に大きな謎が残る。読者には一幅の絵が提示されているのだが、その絵には風景の全体が描かれておらず、トリミングを施した一部だけしか見えない。まるで作者の魔術によって私たちの視界の一部が切り取られているかのようだ。このため一首で完結したイメージが結像せず、読者は意味の不全感とともに残される。どうやらこの不全感が鳴海の詩法においては言語の詩的浮揚力を生み出しているようだ。私たちは意味の不全感に晒されると、その欠落を想像力によって埋めようとする。この本能的な補填反応によって、私たちは本来は目に見えていないものを幻視するのである。
 二首目でも「輪郭の見えぬひとり」とは誰のことか説明は一切ない。かがやく駅舎が崩れるというのもまた、本当に崩壊するのか今にも崩れそうなのか定かでない。三首目の「うつくしき耳と耳」を岡井は跋文で二人の人間の別々の耳と解釈しており、私もその読みに賛同するが、ここでも作者のトリミングは大胆に施されていて、耳の持ち主である人間は歌から消されているのである。五首目のドアとドアの間に逆巻く海のイメージは、まるでルネ・マグリットの絵を思わせる。マグリットの絵は現実にはあり得ない風景を描いており、知的な高等遊技という色彩が強いが、鳴海の詩法もまた情より知に傾くのである。
 では鳴海の歌の直示 (denotation)は何か。これに答えるのはなかなか難しい。迂回路を行くため他の歌人の歌と比較してみよう。
新宿は遙かなる墓碑――聳え立つ都庁を濡らし雨降り始む
ああ! 渋谷猥雑にしてカラフルな廃墟生きつつ死ぬ恩寵は
東京のザリガニ男こそ我とフリーク・ショウに生きて死ぬとも
         藤原龍一郎『日々の泡、泡の日々』
きみの指に展かるるまでほのぐらき独語のままの封書一通
共にゐたる記憶のやうに頒ちあふ干し無花果のひなたの匂ひ
            横山未来子『水をひらく手』
 藤原の歌が指し示しているものは、虚の都市東京で日々の塵埃にまみれて泡のごとき生を生きる〈私〉の慚愧の想いである。その慚愧の念に自嘲をまぶし死者への哀惜を交えて詠うところに抒情が発生する。だから藤原の歌の直示は〈私〉の想いであり、すべての措辞は最終的にひとつの想いへと収斂する。横山の歌が指し示すのもまたひとつ想いであると言ってよい。横山の繊細で瑞々しい措辞から浮かび上がるのは人を恋う気持ちであり、そのような気持ちを抱いて日々を生きる〈私〉である。藤原や横山の歌を読む人にその直示は放たれた矢のように的を違わず届く。
 ところが鳴海の詩法においては事情が異なる。鳴海の歌では〈想い〉の含有量は限りなく少ない。作者自身が音楽家らしく「クレッシェンドのように配置した」と述べているように、歌集後半にはなるほど次のように感情が波立つ歌があるにはある。しかしこれらの歌は鳴海の詩法の真骨頂ではない。
牛乳のおもて波立つつかの間に吊り上げらるるジェルジンスキー
爆笑を強ひられてゐるテレビゆゑしばし与えてやる黙秘権
権力を隣る器にながし込む見せ物なればむしろ楽しく
 鳴海の詩法は、自分の〈想い〉と相似形の風景を描いて読者をそこへと誘い込み、共感力という回路を用いることで最終的に〈私〉を押し上げるという方法ではない。素材としての風景に知的トリミングを施すことによって意味の不全感を演出し、読者の想像力を刺戟することで言葉に虚の空間への詩的浮揚力を与えるというのが鳴海の技法である。もしこの読みが正しければ、鳴海の歌に直示 (denotation)はないということになる。私たち読者はピースの欠けたジクソーパズルのように眼前に提示されるトリミングされた情景を手がかりとして、言葉に与えられた浮揚力を味わうということになる。これはなかなか高級な作業であり、このため例えば次のような歌では読みが安定せず謎の方が多く残る。読む人の数だけ読みが生まれるだろう。
土塊(つちくれ)は天にのぼりてわが皿に両替機より夜半球が
はるかなるひづめの音に充たされて背より燃ゆる柱ありにき
胴体のいまだ見えねど森を経て河を率いて来しその首の見ゆ
 穂村弘は『文藝』2004年冬号に「『想い』の圧縮と解凍」という文章を書いている(『短歌の友人』所収)。穂村は短歌が散文より難しく感じられるのは、短歌では書かれた情報に圧縮がかかっているためで、読者の側に解凍という作業が求められるからだとする。その上で、俵万智の短歌が解凍しやすいのは、もともと圧縮率が高くないことに加えて、作品の構成上読者が解凍の方法を自然に会得するように作られているからだと述べている。
風景より風景としてバス停のそばにひねもす栗売る男  『かぜのてのひら』
ピストルの音 いっせいにスタートをきる少女らは風よりも風
 「風景より風景として」の部分には軽く圧縮がかかっているが、同じ歌集にある「風よりも風」のような類似の作歌コードに慣れることによって、読者は自然に解凍する術を習得するというのである。
 明晰な分析だがこれは鳴海の短歌にはどうもうまく当てはまらないという気がする。たとえば「窓」と題された連作を見てみよう。
この岸の窓洗はれてかがやくはいづれの謎にいたるゆふぐれ
むらさきの月に静脈浮きてありなに祈るとや窓をつらねて
永遠の窓をくぐりて帰り来よ夜を夜とせしその言葉もて
生れやまぬかなしき音を聴くためにあはれこの窓盲ひてありき
 これらの歌には、解凍すれば手に入る圧縮される前のわかりやすい〈想い〉があるとは思えない。むしろ「窓」というテーマから自由に想像力を飛翔させて、捕まえて来た言葉たちを連接させることによって詩を生み出しているという印象が強い。だとすれば読者には解凍のコードはなく、言葉の連接に詩を感じる高度な能力を求められることになる。これは80年代終わり頃から始まったライトヴァースの潮流に逆行する行き方であり、師の岡井を通じてもたらされた前衛短歌の技法にその深源を求めるべきかもしれない。
 鳴海の歌は短歌にリアルを求める現代の若い歌人には歓迎されないだろう。しかし次のような歌を読むとき、言葉の海から飛沫のように吹き上がる詩情は、たとえようもなく美しいのである。
すべり寄るくるまの窓のゆるやかに下がりて夜が別の夜を呼ぶ
見えざりしものり隣りて夜を奏けばおのれひとつの貝がらの舟
ものの名の糸曳くごときゆふぐれや植木の皿にはつかなる水
空にある死者のてのひらあはあはと芽吹く小楢の樹下をいづれば
ゆるやかにピアノの中にさし入れる千年前の雨の手紙を

第17回 須永朝彦『定本須永朝彦歌集』

あめつちはいちにんのため季(とき)を繋(と)めくろき扇に撒かれし雲母
                 須永朝彦『定本須永朝彦歌集』
 「いちにん」は王朝和歌の時代ならば「上御一人」すなわち天皇を指すが、ここではそうではなくある特定の人と取るべきだろう。天地がその人のために時間を停めるというのであるから、造化の寵を一身に承けた人である。「雲母」は「きらら」と読みたい。黒い扇に撒かれた雲母は天から降る霰の喩と取る。すると誰かの晴れがましい席に、季節外れの霰が降った情景を詠んだ歌となる。「時」を「季」と書くことにより時間ではなく季節の移ろい滲ませ、「繋める」と書いて天を擬人化するその技巧もさることながら、黒い扇に純白の霰を載せる美学は到底現代のものではない。新古今の和歌に傾倒する作者ならではであろう。
 今回底本としたのは昭和53年刊行西澤書店版の『定本須永朝彦歌集』である。366首を収めた著者自選のアンソロジーで、郡司正勝、三橋敏雄、中村苑子、松田修、多田智満子、岡田夏彦が栞文を寄せているが、その多くが既に泉下の人となっているのが感慨深い。内表紙に水茎鮮やかな著者の自署がある。帯文は加藤郁乎。
 須永朝彦の経歴は韜晦の彼方に没し戦後すぐの生まれとしかわからない。あとがきによれば中学生の頃から詩歌に親しみ、詩のごときものを持参して高橋睦郎の披見を仰いだところ「これは詩に非ず」と断じられ、塚本邦雄の『緑色研究』と葛原妙子の『葡萄木立』を示されたのが真の短歌との出会いだったという。自作を版木に彫りつけて私家版歌集を制作し、あちこちに送りつけて塚本の知遇を得ることになったとある。その現物の写真は石神井書林の古書目録74号に見られる。第一歌集『火の鳥』(昭41)がそれで著者20歳の折である。「髣髴とラヴェルのボレロ夜を犯し西班牙の戀少年に偏る」「西班牙は太陽の死ぬ國にして許すこゝちすソドムの戀も」の2首が見える。その隣には限定9部制作の肉筆歌集『九十九夜』(昭49)の写真があり、流麗な毛筆が見事である。
 『血のアラベスク』『就眠儀式』などの吸血鬼小説集もある須永は耽美超俗の人であり、もとより自作の世間への流布を求めていないようだ。こういう人の場合、作品よりも本人のエピソードが一人歩きする傾向があり、事実本歌集の栞も須永の作品に触れた文章よりその人となりを綴るものばかりである。曰く、古今東西の文学はもとより映画・シャンソン・バレエに造詣の深い博覧強記の人、豊富な話題で座を賑わせる座談の名手、長髪白皙の美青年、等々。なかでも人が語るのが塚本邦雄との関係で、一時は塚本の寵童でありながら、何かの折に師の逆鱗に触れて破門されたという。「あんなに何から何まで似ていては、一つ大きく違うところがあったら破門せざるを得ないだろう」という高柳重信の言葉がすべてを語っているのかも知れない。
 さてその短歌世界であるが、いくつか歌を引いてみよう。
蓬原けぶるがごとき藍ねずみ少年は去りて夕べとなりぬ
掌に水銀の粒ころばせて空に架けたる戀を待つ夜
少女(おとめ)らはわれらが戀へ銀の針に咒文をこめて編む透編(レース)絲
祭逐ふ流浪に倦みて廻廊にもたれつつ聞く薔薇物語
無為の日のすさびと舊き西班牙の創ある地圖におとすわが錘(すい)
鬱(よわ)き陽に零りかこまるる一天の瞑りてもみゆ 曠野(あれの)と呼ばむ
ぬばたまの髪もまなこもつめたけれ扇の秋のなかの紅葉
 絢爛華麗な言葉の世界である。言葉の隅々にまで美意識が行き渡っており、自分が入ることを許したものしかこの世界に入ることができない、そういう世界である。美意識を同じくする人は狂喜乱舞して神の如くに崇めるが、そうでない人は全く受け付けないというように、評価が二分されるに違いない。「実人生は詠わない」と断言した師の塚本と同じく、作者の実生活の匂いは拭い去られていて、歌の中にあるのは冷たく輝く美の世界である。
 衆道の香りが漂う点も塚本によく似ている。
戦慄す トラックの幌わかものが縛められて運ばれゆくと
草原に兄とあひ寝むその草の草いきれもて絶えむと冀(ねが)ふ
薔薇匂ふ抒情の澱み若者の四肢はめざめむ 少女みにくし
いにしへのイクシオーンの水車刑わかものの四肢花のごとくに
朝露の消ぬ水無月のなかぞらに反るあをつばめ去年(こぞ)の夭者(わかもの)
 美を至上の価値とする芸術のための芸術を志向する人が衆道に傾くのは、natureを厭悪しartを佳しとするためである。芸術のための芸術 l’art pour l’artの創始者は疑いなくボォドレエルだが、人工楽園 Paradis artificielという題名からもわかるように、芸術による美を徹頭徹尾人工的なものと見なす。そんな芸術観を持つ人にとっては、子を産む女性はnatureの側に位置するのだと思われる。
 自分の美意識に叶ったものだけからなる世界を作り上げてその中に住まうなら、その人は至上の幸福を味わっているはずなのだが、唯美主義者にしばしば悲劇的様相が伴うのはいかなる理由か。須永の場合も例外ではないようである。
永劫の愛信ぜざるわが視野を燃ゆる色もて塗り潰したり
信ぜざることばを賭けて逐はれゆく禽獣のごとわが歌ふなれ
少年花月天(そら)にみがたし われもまた地獄めぐりのこの晧き額
ものみなに水のみなぎる秋を在り然も絶えざる渇きを歩む
 その謎を解く鍵は最後の歌の「絶えざる渇き」にある。そういえばボォドレエルにもSed non satiata「されど飽きたらずして」という一篇があった。唯美主義者が追い求めるのは理想の美であるが、その美が理想であるが故に遂には手の届かないものとして憧憬される。手が届かないからこそ理想なのだという逆説がここに成立する。かくて唯美主義者は絶えず渇仰する存在として自らを規定することになるのだ。絶対を希求する者の悲劇性であり、永遠の修羅であると言えよう。
 唯美の血脈はいつの世にもあるが、三島由紀夫・中井英夫・赤江瀑などの小説や、天井桟敷の美術も手がけた宇野亜喜良などが熱狂的に支持されたのは、60年代から70年代の半ばにかけての時代だろう。その時代に較べると現代ではいささか唯美の旗色は悪いように見える。なぜだろうか。つらつら考えるに、それは唯美主義が一種のユートピア思想だからではないだろうか。ユートピア思想は現実否定のベクトルの反対側に成立する。60年代から70年代初頭は、政治の世界でも世界革新の理想が信じられていた時代である。現実の彼方にある理想社会と絶対的美が支配する唯美の世界は、向かっている方向こそ違えいずれもユートピア的思考に支えられていると言ってよい。現実を否定する力が強いほどユートピアも遠く彼方に輝く。ところが現代ではそのように現実を力強く否定する力線が見あたらない。これが現代において唯美が根拠を持ちにくい理由ではないかと考えられるのである。
 さもあらばあれ。須永の詩歌の精髄を以て稿を締めくくるとしよう。
うちなびく草の穂なかに佇つ馬を乞ふ 薄明のさやぐ言葉に
詞華を翔ぶ鵆(ちどり)のきみが若青(わかあを)のうしほを浴ぶるつひのまぼろし
額(ぬか)の悲傷(いたみ)のみなもと 殺めらるるまで或は生くるかぎり少年
絶え入らむ窗の西なる磨硝子 青昏(せいこん)と稱(よ)びわが血の祓

第16回 吉川宏志『風景と実感』批評会始末

 今週は学務多忙により歌人論を書く時間が取れなかったので、先日の吉川宏志評論集『風景と実感』批評会のレポート風の実録でお茶を濁すことにしたい。学務多忙とはいったい何をしていたのかというと、来年度のフランス語科目の時間割を作成し、非常勤講師の手配をしていたのである。大学教授がそんな仕事をするのかと驚かれる向きもあるかもしれないが、これがするのですね。国立大学法人は国からの交付金を毎年を1%ずつ削減され、事務職員の定員も減らされているので、事務仕事が私たちの肩に重くのしかかっている。研究は空いた時間にしているのが実情だ。
  それはさておき、去る平成20年9月27日に京都のみやこメッセで、吉川宏志さんの待望の評論集『風景と実感』の批評会が開かれた。私は川野里子さんと松村正直さんとともにパネリストを務めた。当日は快晴で絶好の批評会日和となった。
 打ち合わせのため12時にみやこメッセ1Fのレストラン「浮舟」に行く。すでに吉川宏志さん、奥さんの前田康子さん、お嬢さんのさやちゃん(小学生ですでに「塔」会員で詠草も出している)、司会の松村さん、それにオーガナイザーの江戸雪さん、批評会第一部に登場する花山周子さんとご母堂の花山多佳子さんが集まっておられる。みなさん初対面で、一斉に紹介されどぎまぎする。私は歌壇の外部にいてふだんは歌人の方々とお付き合いがないので、どこに行ってもアウェー感を強く感じてしまう。どぎまぎする理由は他にもある。歌集をていねいに読み込むと、作者の心の秘密の部分に触れることがある。生身の作者ご本人にお会いすると、初対面にもかかわらずその人の心の秘密を知っているという、非常に居心地の悪い立場に立たされることになるのである。私はこの居心地の悪さにどうしても慣れることができない。歌人のみなさんはどう対処しておられるのか知りたいものだ。
 そうこうするうち、川野里子さんと発起人の一人青磁社の永田淳さんも遅れて現れて、みんなでカレーライスやざる蕎麦など食べながら、かんたんな打ち合わせをする。その間、第一部で吉川さんと一対一で質疑応答をすることになっている花山周子さんは、少し離れた席でコーヒーを呑みながら煙草をひっきりなしにふかしている。極度に緊張していて食事も喉を通らないのだ。江戸さんにうかがうと今日の参加者の8割は「塔」の会員だという。この分ではもし吉川さんを批判したりしたら袋叩きに合いそうである。
 そろそろ移動ということになり、みんなトイレに行ったりばらばらに会場に向かう。大きな施設なので迷いそうになるが、要所要所に澤村斉美さんや西之原一貴さんたち「塔」のメンバーが立って道案内して下さる。みんなで役割を分担して今日の会を支えているのだ。結社の結束力恐るべし。
 第一部は歌集『屋上の人屋上の鳥』で注目された若手歌人花山周子さんが、吉川宏志さんに質問するQ&A形式で行われた。花山さんは緊張しながらも吉川さんに批評集の意図などについて質問し、吉川さんもていねいに答えていたように思う。なかでも「問いがあって書くのではなく、書いてから問いが見つかり、自分はこれが書きたかったのかと思うことがある」という吉川さんの発言が印象に残った。また短歌創作を通じて自然の美しさも人に伝えたいと述べておられた。
 第二部はパネリストの報告と議論という形式で、松村正直さんの司会進行で進められた。川野さんは次のような基調発言をなさった。『風景と実感』を理解するキーワードは風景ではなく実感の方で、今、実感への渇望が広がっているように思う。その意味で吉川と穂村弘の認識のベースは共通だろう。ただちがいは、吉川が実感の回復へと向かうのに対して、穂村は出口を求めてあがいている。穂村は短歌を世界にぶつけた時の瞬間のきらめきに賭けるため、時間性は解消される。これに対して吉川は近代に根を下ろして時間性を抱えこむので、どうしても吉川の方が不利になる。(要約ここまで)
 世代的に近く作風が対照的な穂村弘と吉川さんは、よく比較対照されて論じられることが多い。「俺は穂村とはちがうよ」と内心で思っているにちがいない吉川さんからすると、この扱いは不本意なことかもしれない。
 次に私が発言したが、その全文は別項を見ていただきたい(ホームページのtopからリンクあり)。私は吉川さんが本書でこだわっている「実感」と「身体性」を取り上げて、短歌はコトバでできているにもかかわらず、どうしてそこに「実感」と「身体性」が感じられるのかという問題を、認知言語学とアフォーダンス心理学の考え方に基づいて明らかにしようとした。これは私が以前から目論んでいる企ての一環で、言語学が開発してきた概念を援用して短歌の意味生成のメカニズムを解明してみたいと思っているのだ。しかし後で聴衆の方々から、「講義を聴いているようでした」という感想が寄せられたので、私は「修行が足りん」と内心大いに反省した次第である。
 次に松村正直さんは、短歌総合誌などで『風景と実感』を取り上げた論評などをたくさん引用して、本書がどのように受け止められたかを紹介された。松村さんは本書のいちばん脆い部分は、心理学や哲学を援用している第一章の「実感とは何か」だと指摘された。大辻隆弘さんも、吉川さんが「実感」に最も迫っているのは、第一章の理論編ではなく、歌人論だと述べておられたことがある。これは考えさせられる指摘である。
 その後ひとしきりパネリスト同士での議論が行われたが、私の印象に特に残ったのは川野さんの次のような発言だった。近代リアリズムは賞味期限切れである。しかしみんなそれに替わる方法論を見いだすに至っていない。茂吉は明治期の短歌革新において人麻呂を抱え込み、その落差をみずからのエネルギーとした。それにひきかえ吉川は『風景と実感』では明治期までしか遡っていない。これでは革新のエネルギーを得るには時代的に落差が短すぎるのではないか。(要約ここまで) 短歌を大きな視野から眺めている川野さんならではの言葉だと感じた。
 続いて司会者の指名により、会場からの発言が続いた。コスモスから鈴木竹志さんと大松達知さんが、「塔」応援団一号と二号と自己紹介されて会場を笑わせた。その他、発言したのは島田幸典さん、斉藤斎藤さん、石川美南さん、大辻隆弘さんなど。最後に俳人の坪内稔典さんが、「吉川さんを始めとして、みなさんお利口すぎる。もっとバカになりなさい」と会場を沸かせた。「桜散るあなたも河馬になりなさい」「三月の甘納豆のうふふふふ」などという俳句を作っている人らしい発言である。会場のみんなは笑って済ませたようだが、私は内心では重い言葉だと受け止めた。昔から伝統的文芸に関わって来た人には今の歌人・俳人がお利口すぎると見えるところに、伝統文芸が近代的文学に解消しきれない何かがあるのだろう。
 最後に永田和宏さんが挨拶をして批評会を締めくくった。批評会の前日に東京で短歌研究賞・短歌研究新人賞・短歌評論賞の授賞式があったのだが、出席していた永田さんが短歌研究賞を受賞した穂村弘の受賞の挨拶を紹介された。「自分は今まで〈てにをは〉には気を配らずに歌を作って来たのだが、これからは〈てにをは〉に気を配って歌を作りたい」と穂村は言ったらしい。これを聞いて「今まで気にしなかったんかい!!」と心の中でツッコミを入れた人は多かろう。
 批評会は終了し、懇親会まで少し時間があったので、連れだって近所のギャラリーで開かれている写真家の展覧会を見に行き、6時から「浮舟」で懇親会が開かれた。私も少しだけ参加させていただいた。話は前後するが、批評会終了後、いろいろな方にお会いした。尾崎まゆみさんからは新刊の歌集をいただき、また大ファンである山下泉さんご本人にお会いできたのも嬉しかった。新しい歌集を編んでおられるそうで、今から刊行が待ち遠しい。
 懇親会では多少ビールの酔いも進んだ頃、隣にいた吉川さんが「僕は理論や図式で現実を裁断するのが嫌いなんですよ」とおっしゃった。私はやはりそうなのかと思う所があった。実は、私が当日触れなかった問題がひとつあり、吉川さんのこの発言を聞いて、やはりあえて触れるべきだったかなと思ったのだ。それは大辻隆弘さんが時評集『時の基底』で、「手ざわりのあるもののみを信じる吉川は、一個の短歌的人格である」と断じたこととも深く関係する。
 『風景と実感』は、現代短歌シーンで言葉が無味乾燥な記号と化していて、実感が失われているという危機感を基調として書かれている。吉川さんはこのような認識のもとに、短歌から風景と身体性が立ち上がり、そこに実感が生まれる過程をていねいに論じておられるのだが、では短歌には実感があればそれで万事OKなのだろうか。「吉川は実感信仰なのか」と問題を言い換えてもよい。本書の中で吉川さんは武者小路実篤の例などを引いて、手放しの実感礼賛が狭量な世界観に陥る危険性を指摘してはいる。しかし、〈私〉を中心とする半径50m程度の限られた空間においてのみ、確かな手触りと実感は担保されるのではないか。では半径50mを超えた所には何があるか。そこには実感では統御できず認識することもできない「世界」がある。「世界」を動かしているのは、思想や宗教やイデオロギーであり、政治や経済などを支える論理である。これらを「体系とシステム」と言い換えてもよい。実感は「体系とシステム」に太刀打ちできない。それは竹槍を振りかざして戦車に立ち向かうようなものだ。実感が〈私〉を中心とする半径50m以内の範囲でのみ有効なものだとすると、半径50m以内の〈私〉の空間とその外部に存在する「世界」とを何らかの手段で接続する必要が出て来る。内側の「実感」と外側の「体系とシステム」との間を架橋することを要請される局面が必ずある。しかし「理論や図式で現実を裁断する」ことを嫌う吉川さんにこれが可能かどうか、私は疑問に思えてしまうのである。このことは、本書の最も脆い部分は「実感とは何か」と題された第一章だとする松村さんの発言とも深く関わることだろう。

第15回 松本典子『いびつな果実』

われをめがけ降る雪のあれ たれのたれの脚注でもなき道をゆくとき
                   松本典子『いびつな果実』
 近代短歌の歩みを歴史的に概観するとき、作風や意匠の違いは流派個人によりまちまちであっても、共通してその底を流れている希求は個の解放だろう。短歌ではアララギ系より明星系にそれが強く見られるといった濃淡の差はあれ、小説も含めた近代日本文学の一大テーマが個の解放だったのだから、それも驚くには当たらないと言えるかもしれない。明治期に西欧から移入された近代小説よりも古い伝統を引きずった短歌の世界でも、子規の改革によって短歌が個を詠うものとなって以来、歌は個の器として多く機能してきたのである。
 このような歴史的背景を踏まえて掲出歌を読むとき、この現代短歌が近代短歌の王道を深く踏まえていることが感じられるだろう。「真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり」という、青年の矜恃に溢れた子規の歌を思い出させる。「われをめがけ降る雪のあれ」という力強い断定は、命令形の乏しくなった現代短歌では珍しいほどの直情を感じさせる。「たれの脚注でもなき道」という喩にさらに「たれの」をかぶせた三句は、定型の要である三句五音をあえて六音に増音することで淀みを作り、沈み込むような深い断定を生み出している。これにより孤独を怖れずに自分一人の生を生きたいという願いが、力強い措辞によって表現されていると言えよう。
 松本典子は1970年生まれ。1997年頃から作歌を始めて「かりん」に入会。2000年に「いびつな果実」50首で角川短歌賞を受賞している。同年受賞は佐々木六戈。松本は作歌を始めてから3年で受賞したことになる。『いびつな果実』は2003年に刊行された第一歌集で、受賞作を含む350首を収録している。序文は師である馬場あき子。歌集題名は「乳ふさのあはひを風が吹きくだるわれは君よりいびつな果実」から採られており、男性にはない乳房を持つ女性の体のことだとわかる。
 一読して気付くのは相聞の多さである。「一巻のほとんどが人思う歌で埋まっている歌集は近年珍しい」と馬場も書くほどである。いくつか引いてみよう。
君以外だれも容れずにびんと鳴る弓弦のごときわれの右側
つねにつねに瞠(みきらき)しまま口づける男なり 時雨やや強まりぬ
朝なさな覚めやらぬままに啜るカフェ君の唯一のわれであれかし
われはわれの海図をひろげ航(わた)りゆくごとく凛々しく君は恋ひたき
蜻蛉(せいれい)の捕らへどころも覚えそめ歩く速度をゆるめゆく恋
君の名を口にする時われはまた小さく息を整へてゐつ
 一首目、恋人以外の人を自分の右側に歩かせないという堅い決意が、びんと張った弓弦(ゆづる)という喩によって表されている。持ち出されたアイテムの伝統性も相俟って、古風さを感じさせる恋人の姿である。二首目では四句の句割れ「男なり時雨」が一字空けによって分断されていて、動から静へ、外界から内面への移行が効果的に表現されている。四首目は掲出歌と同じく直情の強度を感じさせる歌で、海図の喩によって一首に大きな広がりが出ている。五首目の意味は、子供がトンボを捕らえるときに、体のどの部分を指で掴めばよいかを覚えるように、恋人の間でも相手とテンポを合わせたり、相手を思うように動かしたりするコツを会得したということだろう。下句の「歩く速度をゆるめゆく恋」が恋の深まりをうまく表現していて、表現のポイントが高い。
 どれも相手にまっすぐに向き合う歌で、斜に構えたり被害者意識に溺れるようなことがまったくない。これが松本の美質であり、現代短歌シーンでは貴重な資質となりつつある。もはや絶滅危惧種と言ってもよい。それは人と人との関係において、まっすぐ向き合うことが難しくなっている現代社会の反映かもしれない。松本の歌がどこか古風な印象を与えるのは、近代短歌の伝統を重んじる「かりん」の会風と馬場あき子の薫陶によるものだけではなく、歌の随所に示されている「まっすぐさ」が、今ではまるで昭和の遺風のように懐かしくすら感じられることによる。
 80年代中期のライトヴァースの興隆から90年代前期のニューウェーヴ短歌の勃興にまたがる時期に起きたのは、修辞という短歌の形式面での変化・革新だけではなく、「世界の見え方」の地滑り的変容であった。この変容は、マクロなレベルでは「トータルな世界認識の不可能性」(世界の断片化)として、ミクロのレベルではディスコミュニケーション(人間の分断化)として発現した。この時代の空気を先取りするかのように、ひりひりする皮膚感覚で表現したのは早坂類だろう。
生きてゆく理由は問わない約束の少年少女が光る湘南
居てもいい場所ではなくて片すみのスケートボードをながく見ている
うつくしい朝のしたくを整えて整えて待つ深夜の一人
これらの歌を収録した『風の吹く日はベランダにいる』は93年の刊行である。その後に登場したポストニューウェーヴ世代の若い歌人たちの歌の基調には、それを主要なテーマとするか、それとも歌の低音部に低く響かせるかのちがいはあれ、ディスコミュニケーションの影が揺曳している。そんななかで松本の「まっすぐさ」はますます希少なものと見えてくるのである。
 これは大学で近代日本文学を学んだ後、国立能楽堂を経て国立劇場調査資料部に勤務し、みずからも能楽に親しんでいるという松本の経歴にも関係があるかもしれない。本歌集にも伝統芸能に関係する歌が収められている。
金泥の眼もて泣きゐる面に対(む)きわが剥落の箇所を押さへつつ
ゆづられぬ恋と思はむ時にこそわが取り出だす〈陵王〉の面
君が舞ふ邯鄲のゆめ万象のひとつにして万象を統べたり
 最初の二首は古典芸能のアイテムを借りて感情を表現したもの。一首目の「面」は能舞の面で、面と対峙することで自らの心の剥落を意識している。二首目の「陵王」は、古代中国のある国の王が優しい面立ちであったことから、敵と戦うときに恐ろしげな形相の面を付けて大勝したという故事にちなむ舞で用いられる面をさしている。だから作者が恋敵と戦う時に取り出す面は鬼のような形相の面なのである。三首目の邯鄲も中国の故事にちなむ能舞の曲目で、眼の前で舞われている舞はひとつの現象にすぎないが、舞台の上では世界の中心となるという一瞬の奇蹟を詠っている。古典芸能に材を得た歌は、ややもすれば門外漢には近寄りがたいものになりがちだが、その弊に陥ることなくうまく消化されている。
 松本の「まっすぐさ」は日常の感情の揺れ動きを詠んだ歌にも現れている。
みづからを荷ひ過ぎぬやう三十歳(さんじふ)の夏はじめての日傘を選ぶ
手ばかりは母に似たると湯上がりの肌(はだへ)にシッカロール置きゆく
液状のかなしみ掬ひやうもなく屈めばわれの犬寄り来たる
やはらかく子をなさぬこと問われゐて牡蠣鍋の湯気あはあはと立つ
父の茶碗われの茶碗は仕舞はれてあり独りゐの母のくりやに
 働く日常と家族との関係が細やかに詠われており、これも近代短歌の王道だと改めて感じさせる歌群である。〈私〉の内面や感情という「近景」と、世界の命運という「遠景」の中間に位置し、伸ばせば手の届く距離にある「中景」を構成するのは家族・友人・職場・通勤電車からの風景などであり、近代短歌はこれらの主題を詠うことで成立した。ポストニューウェーヴ世代の若い歌人たちの歌からこの「中景」が欠落していることは、しばしば指摘されることである。松本の歌には「中景」がしっかりと軸としてあり、それを中核として「近景」とわずかな「遠景」が配されているところに安定感が感じられるのだろう。
何よりも疾く色づかな秋風に新しきリップスティックを購ひぬ
片方のパンプスを脱ぎ足裏(あなうら)をあそばせている夜の地下鉄
ほどかるる帯に呼吸を吹きかえし身は捩れつつひらく朝顔
表紙絵の二尾の鮎と見てあればふいに波立つ車窓のひかり
 一首目に歌われた女性ならではの心の華やぎ、二首目の倦怠感の漂う夜の風景などに見られる身体感覚もまた松本の歌を清新なものにしている。三首目は着物の柄のことだろうか、それとも自分の身体の喩か、判然としないながらも魅力的な世界である。四首目は本か雑誌の表紙の絵が引き金となって起きる一瞬の感覚の覚醒を詠って美しい歌となっている。
 『いびつな果実』に収録された歌を辿ると、作者の個を生きる覚悟とまっすぐな眼差しが紙背から伝わって来る。このような歌に出会えることもまた、短歌を読む深い喜びのひとつである。短歌表現の先鋭性に焦点を当てる立場から見れば、松本の歌はひょっとしたら周回遅れに見えるかもしれない。しかしみずからの個としての生を生きることに較べれば、表現の先鋭性など何ほどのものかと思える日もあることも、また事実なのである。