第37回 柏原千恵子『彼方』

おほ空に色かよひつつ桐さけり消ぬべく咲けり消ぬべく美しも
                 柏原千惠子『彼方』
 柏原千惠子さんが今年2009年6月に徳島の病院で亡くなった。享年89歳の長逝である。第三歌集に収録する歌をまとめて、あとがきを長女の三久潤子さんに口述筆記するところまで準備が進んでいたのだが、出版された歌集を見ることなく亡くなられた。したがって『彼方』は遺歌集ということになる。柏原さんは「未来」同人だが、中央に背を向けて徳島を離れず、歌誌「七曜」を主催しておられた。歌集に『水の器』『飛去飛来』があり、『彼方』は第三歌集ということになる。華やかな受賞歴とは無縁ながらも、素晴らしい歌を作っておられた。ご冥福をお祈りしたい。
 掲出歌は大木となり空の高みに紫の花を咲かせる桐を詠んでいる。その様を「おほ空に色かよひつつ」と表現する広大な空間感覚が、柏原の歌の特徴のひとつである。花は短い命を終えてやがて散る。「咲く」ことの中には「散る」ことがあらかじめ内包されている。花はそのようなものとして在る。語調の静かさが印象に残る歌である。
 私は角川『短歌』平成16年8月号の「101歌人が厳選する現代秀歌101首」という特集で、紀野恵が挙げていた「とぶ鳥を視をれば不意に交じりあひわれらひとつの空のたそがれ」という歌で柏原を知った。鳥とそれを見る〈私〉とが交じり合うという主客混淆の感覚が、スケールの大きな空間把握の中で表現されている秀歌である。この歌に出会ったときは、一首が不意に私を打つという感覚に見舞われたが、『彼方』を通読して作者の歌境の深化に震える思いすら感じたのである。柏原の独特な主客混淆の感覚は、この歌集にもまた散見される。
山峡に瀧みれば瀧になりたけれなりはてぬればわれは無からむ
聲なくて見てをるわれとこゑなくてひたゆく雁と朝あけむとす
硬貨とり落して拾はぬ拾へざる戸外にわれはわれを捨てゆく
とほざかる感じのしばしつづきつつ桐の花あるままを歩めり
 一首目、〈私〉が瀧になればもう〈私〉はなく〈私〉が瀧であるというのだが、「なりはてぬれば」という完了形が示すように、完全になりきるまでは〈私〉のいくぶんかは瀧であり、瀧のいくぶんかは〈私〉なのである。柏原の歌では「視る」ことが大きなウェイトを占めているが、どうやら「視る」こと即、対象の一部と同化するという感覚を持っていたと思われる。二首目では雁と〈私〉の混淆ではなく平行共存が歌われているが、天の雁と地のわれとに深い呼応があることは言うまでもない。三首目、誤って戸外に硬貨を落としてそのままにするのだが、〈私〉を捨ててゆく気持ちがするというのである。四首目は少し不思議な歌だが、咲いている桐の花から〈私〉が遠ざかると読みたい。歩を進めるという空間移動を「とほざかる感じのしばしつづきつつ」と自身の内的感覚に変換して表現するところに、独自の感性を感じるのである。
 『彼方』は歌誌「七曜」に長年にわたって発表した歌を集めたものだと推察されるが、老境に入るにつれて「〈私〉を超えるもの」と「存在と非在の往還」という境地が加わったものと見える。
内に向くものかもまして冬の夜は知らざる界の奥深きまで
冬の夜を細りほそりて卓上に鉛筆はありぬいづくより来し
見えざればまして迫りて夕ぐれの海は一枚の手紙とおぼし
在らずして在るもののごとゆふぐれのかなかなのこゑ空に華やぐ
刈田未明鴉一羽がわたりをりゆるぎなく低く遠世わたれる
 一首目の「内に向く」は内面を凝視することだが、冬の夜はどこまで深く降りてゆくのか知れぬほどで、その果てにあるものはもはや〈私〉ではあるまい。二首目、卓上にころがる鉛筆は確かにそこに在るのだが、その存在は非在の感覚と背中合わせである。三首目、夕暮れの海は見えないからこそ迫って来るのであり、時に非在は存在よりも生々しい。四首目、姿は見えず鳴き声だけが聞こえる蝉を「在らずして在るもののごと」と表現している。五首目は、稲刈りの終わった冬田の上を鴉が低く飛ぶ光景を詠んだ歌だが、結句に至り転調して、この世のものではない光景に転じている。先に柏原の歌の特徴として「スケールの大きな空間表現」を挙げたが、ここに至って「〈私〉を超えるもの」と「存在と非在の往還」という次元が加わり、その歌の世界はますます重層的かつ多元的なものになっているのである。
 その一方で次のような歌もある。
この町のひとつのビルの片面が夕日浴びをりしばらくのこと
いづこにか在るゆえ映る古びたる外国の街の海岸通り
雨戸より落ちしは守宮おちたれば落ちたるものの體重の音
曇るとも晴るるともなきはるぞらに高らかに犬の声になく犬
 一首目はビルの片面が夕日を浴びているという、ごく日常的な当たり前の光景を詠んだ歌である。それが結句の「しばらくのこと」によって、毎日繰り返される日常風景から今ここでしか経験できないかけがえのない景色へと転じる。そこに浮上するのは「生の一回性」の感覚に他ならない。二首目でTVの画面に映る外国の風景は、どこかにあるから映っているのだという、これまた当たり前のことが詠われている。しかしそれがたまらなく愛おしいことに思えるのは何故だろう。落ちたヤモリが体重相応の小さな音を立てるのも、犬が犬の声で鳴くのも当たり前のことである。しかし、私たちが日頃当然のこととして看過していることを、殊更に取り立ててこのように表現されると、私たちの目に入っていなかった世界が浮上する。それはほとんど魔術的と言ってもよいのである。
 柏原は晩年は体が不自由になり、老人ホームに入所していたらしく、体の不如意を詠った歌も集中にはある。しかしそれにも増して視線を遠く虚空に、また時には非在の世界へと遊ばせる歌が多く、感性の自在さと言葉の斡旋の巧みさは驚くばかりである。
傷口に集りをれる血球のざはめくまでに夏のゆふぐれ
夕映えにひととき早き真澄には柿の裸のこずゑの自在
おもおもと緋桃はひらく夜の底のまぶたのうらのときじくの花
「ハルシオン」しづかに溶けよ概念の青き藻屑の夜のねむりに
水のような光のような自由欲りわれらがわれにかへるゆふぐれ
 いずれも絶唱というにふさわしい。なかでも最後の歌は、作者が不自由な状況に置かれていただけに心に染みる。作者は歌集題名のごとく彼方へと去り、私たちには三冊の歌集が残された。あらためてご冥福を祈りたい。

第36回 尾崎朗子『蝉観音』

カフェの壁あまりに白しエンダイヴこの苦さこそわれを在らしむ
                   尾崎朗子『蝉観音』
 短歌を読むときの理想的な形は、私の前に一冊の歌集があり他には何もないという状態である。とりわけ目の前の歌集と表紙に印刷された著者名以外に、予備知識が一切ないことが望ましい。私は何の予備知識も持たず、裸の心で歌に出会う。これが理想である。嗚呼しかし、なかなかこうはいかない。要りもせぬ知識や雑多な情報を知らぬ間に身につけてしまっている。しかし今回取り上げる尾崎朗子については、幸い何の予備知識もない。白紙の心で歌の世界に踏み入る喜びを味わうことができた。
 米川千嘉子の解説によれば、尾崎は1999年に「かりん」に入会し、2001年には結社内の「かりん賞」を受賞している。2008年に上梓された『蝉観音』は第一歌集である。掲出歌のエンダイヴはときにチコリとも呼ばれる外国野菜で、白菜をうんと小型にしたような紡錘形の形状をしている。ほぼ純白で葉先がほんのり黄色い。欧州ではサラダかグラタンにして食する。生のままざく切りにし、干しぶどうを混ぜてドレッシングで和えると美味しい。その特徴は苦みであり、歌でもその味覚に焦点が当てられている。カフェの壁の白さとエンダイヴの白さが照応しているのだが、「あまりに白し」とあるから〈私〉はその白さを受け止め切れない心理状態にあるのだろう。口に感じるエンダイヴの苦みだけが〈私〉の存在の証だという実存的な歌である。「この苦さ」という近称の指示表現が強さを生んでいる。叙景よりは叙情、なかんずく〈私〉に執した立ち位置であり、それは収録されたほぼすべての歌に共通する特徴でもある。
円満はあきらめに似てリビングにはつか漂ふ熟柿のかをり
ぎざぎざの微妙に異なる鍵七つ持ちゐるあなたが持たぬわたしく
薄目して月見れば月ふたつありあなたに一つわれにも一つ
うららかな春に戸籍を作りたり筆頭者われに続くものなし
生ぬるき水道水を火にかけて中途半端をくつくつ沸かす
画材屋で槐多のガランス求めたり逃げごしなこの恋に塗らむと
 最初の四首は離婚の歌で、気持ちのすれ違いから離婚に至るまでの心の動きがかなり率直に詠まれている。表面的には円満に見えても実は心が通わない夫婦の状態を象徴する熟柿の退廃的な香りや、すれ違う心を象徴する鍵のぎざぎざなどに一応短歌的な工夫は施されてはいるのだが、作者のねらいはそこにはないだろう。これは芸術的完成をめざす歌ではなく、自己を確認し鼓舞するための歌だからである。芸術至上主義者は芸術の無用性をおのれの勲章とするが、尾崎の歌の向かうベクトルは逆方向である。風邪薬のごとくに有用な歌なのだ。たとえば上にあげた五首目や六首目の歌を見るとそのことはよくわかる。水道水の生ぬるさは自己の優柔不断の喩であり、作者はそれを何とかしようと鼓舞している。六首目のガランス (garance)はフランス語で植物のアカネまたは茜色の染料のこと。茜色の絵の具を塗ることで村山槐多の絵の激しさを自分の恋に与えようとしている。このように歌の中に〈私〉のすべてを投げ込もうとするのは、女性の歌のひとつの特徴かもしれない。
顔知らぬ父の記憶を燻らせむ十五歳じふごのわれのいとなむ煙草忌
われ産みし人のうはさを聞くゆふべ肉じやが煮すぎてじやが崩れたり
祖母の家祖母逝きたれば消え去りぬ更地売地のわが本籍地
産まぬこと決めてをりしが初夏の軒のつばめの子ひとつ盗ろか
モルヒネのポジ借りられず「骨転移」特集記事の余白埋まらず
 両親の離婚か父親の早世によって作者には父親の記憶がなく、また訳あって祖母のもとで育てられたことが歌から透けて見える。このため最初の三首のような血縁をめぐる歌があり、それはかなり重い。二首目は秀歌で、「肉じやが煮すぎてじやが崩れたり」の下句は、小笠原和幸の「ただ二人この家に住む日が来たら継母よ蜆が煮え立っている」の下句と遠く呼び交わす趣がある。作者は働く女性であり、歌から察するに雑誌か新聞に関わる仕事に就いているようだ。次に引くのはそんな働く女性の日常を描いた歌である。
闘牛の角あはせのごと乗り込める朝の車輌にひとの声なし
駅前のストアは終電まで開いて今夜の豆腐は木綿と決めぬ
蜻蛉をつきしたがへてわたくしを奪還しにゆく日曜の朝
東京タワーには東京タワーの疲れあるらしく踏ん張つてゐて経絡凝る
多摩川にその身さらして都鳥きつつなれにしもの脱ぎすてよ
 労働はときに心を磨り減らすが、三首目以下のように女子の覚悟を詠う歌が多い。「蜻蛉をつきしたがへて」はそのかみの女王のごとき風格である。四首目は東京タワーの疲労に自己を託した歌。東京タワーにも経絡があるという見立てがおもしろい。五首目は業平の歌に心情を託した決意の歌である。近年、男性の歌より女性の歌にいさぎよい歌が見られるのも時代の流れか。
 「アポトーシス」「細胞年齢」などおそらく仕事で接したと覚しき単語が歌にうまく取り入れられている点も見逃すべきではないが、食へのこだわりを感じさせる歌に特に目が行く。掲出歌もそうだが食材を詠んだ歌がかなりある。飲食は人間の基本的行為だが、歌の中では食べ物にも心情がからまっているのであり、その心情の多くは恋である。
底冷えのする夜もづく酢すすりたりひとつの沼を飲み込む心地
黄金なすカルボナーラのしつこくて右肩さがりに暮れてゆく秋
別れても冷奴など食むならむめうがきりりと食みて泣くらむ
奈落には奈落の息抜きありぬべし 石焼ビビンバぐちやぐちや混ぜる
 最後に特に注目した歌を引いておく。
瑪瑙玉みがきみがけり雨月の夜わが掌中に木星はあり
むらさきの胡桃の雌花ひらきたりつつましくわれら交感せしのち
鶏卵を割ればひとすぢの血のありぬ満ちることなき月を抱へて
みづからの泪に渇き癒すとふ砂漠のとかげのその泪はや
酢にひたし蓮のカルマをぬぐひたり ああ今生では添えぬのだらう
腐蝕せしのちにあらはる線勁し銅版画の鳥われより発てよ
 最後の歌は巻末に置かれた歌で、腐蝕した後の線こそ勁いという言挙げに作者の決意を見るべきだろう。作者の歌の力が十分に発揮された第一歌集である。

第35回 笹公人『抒情の奇妙な冒険』

デンジマスク作り終えたる青年のハンダゴテ永遠とわに余熱を持てり
                  笹公人『抒情の奇妙な冒険』
 念力短歌の笹公人が放つ第三歌集である。歌集としては異例なことに、早川書房の「ハヤカワSFシリーズ Jコレクション」叢書の一巻として刊行された。ということは笹の短歌はもはやSFの領域に突入したのかと思われる。しかし巻末の栗木京子の解説は至極まっとうな歌集の解説である。また「寺山修司は『架空の私』を、笹公人は『他人のノスタルジイ』を手に入れた」という山田太一の帯文は、さすがに笹の本質を突いて鋭い。寺山修司の抒情を最も色濃く現代に受け継いでいるのは、喜多昭夫と笹公人だと思うからである。ただし、喜多は寺山の青春短歌の抒情に、笹は想像力による自己変身願望により比重がかかっているという違いはあるが。短歌がフラット化して短歌的抒情からますます遠くなる現代短歌シーンにあって、やや変則球ながら正面から抒情を詠う笹は独自のスタンスを築きつつあると言えるだろう。
 歌集題名の『抒情の奇妙な冒険』は、週刊少年ジャンプに連載された荒木飛呂彦のマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』のもじりである。笹自身はこのマンガに特に思い入れがあるわけではなく、題名だけを借用したらしい。スタンドと呼ばれる超能力を持つ登場人物の戦いが中心のマンガだが、数々の奇抜なスタンドを考案する想像力と、ありえない姿勢を取る人物画の魅力と、散りばめられた洋楽へのオマージュなどから、特に美術系の若者に熱狂的な支持を得た。登場人物のポーズをまねる「ジョジョ立ち」なる言葉も誕生し、毎週集まってポーズを競うサークルまであると聞く。かく言うわが家にも全63巻が揃っており、第5部のイタリアを舞台とするエピソードのゆかりの地をめぐる旅行を家族でしたほどなのだ。 
 さて掲出歌だが、「デンジマスク」はTVの戦隊もの電子戦隊デンジマンの登場人物がかぶる戦闘用ヘルメットだろう。青年はそのマスクを自作しているのだから、週末に秋葉原でコスプレをするオタク青年で、場所は木造アパート2階の四畳半がふさわしい。ラジオ工作の必須アイテムのハンダゴテは役割を終えて机に置かれているのだが、ハンダゴテが放散する余熱は言うまでもなく青年の熱い魂の喩である。下句「ハンダゴテ永遠に余熱を持てり」の8・7音の収め方が短歌的にうまい。
 歌集巻頭に置かれた「大きなる手があらわれてちゃぶ台にタワーの模型を置きにけるかも」という歌が、「大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも」という北原白秋の歌の本歌取りであることからも推察されるように、笹はある意味で現代短歌というより近代短歌の流れの中に位置すると言ってよい。というのも現代短歌は音数律の組み替え・暗喩の多用・枕詞などのレトリックの復活など、短歌の表現面の革新に腐心してきたが、笹の興味は表現面にはなく、短歌という古い革袋にどのような酒を入れるかという点にあるからである。古い革袋に古い酒を入れてはおもしろくない。しかし短歌的抒情は古い酒である。これをいかに新しく見せて古い革袋に入れるかに工夫が必要だ。その工夫は今までは念力というキーワードだったのだが、今回笹はあえて念力を封印して、新しい試みに挑戦している。それが山田太一の帯文にあった「他人のノスタルジイ」なのだ。この歌集では過ぎ去った昭和という時代への郷愁が、全体を支える文化装置として採用されていることがわかる。
ベーゴマのたたかう音が消えるとき隣町からゆうやみがくる
しのびよる闇に背を向けかき混ぜたメンコの極彩色こそ未来
人攫いのうわさが少女を暗くして真っ赤に燃える東京タワー
東京に負けた五郎の帰り来て大工町の名はまた保たれる
鉄人を地下に隠して夕暮れる博士の洋館やかたは蔦に覆われ
 巻頭の「四丁目の夕焼け」と題された章から引いた。この題名そのものが映画「Always 三丁目の夕日」のもじりであることは言うまでもない。歌に登場する「ベーコマ」「メンコ」は、1975年生まれの笹にはすでに過去形の遊びだろう。「東京に負けて地方に戻る」という図式もまた高度成長期特有のものである。「鉄人」は横山光輝のマンガ「鉄人28号」だから、笹はリアルタイムで見てはいない。だからこれらの短歌に散りばめられたアイテムは笹自身のものではなく、「他人のノスタルジイ」なのである。ちなみに「大工町」は寺山へのオマージュかと思われる。
鞘鳴りの音にふりむけば花の森 MISHIMAに降りる武士の魂
鉄球が俺の部屋までぶっ壊す夢から醒めて外は大雪
暑中見舞いのハガキをくれたお姉さん陽炎のなかで永遠とわに微笑む
廃駅に兆せる凶事のまぶしさに金田一耕助が手を振る
 一首目は三島由紀夫割腹事件に材を採ったもので、「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに畿とせ耐へて今日の初霜」という三島の辞世と、初期作品「花ざかりの森」と映画「MISHIMA」の題名を詠み込んだ凝った作りである。二首目は連合赤軍浅間山荘事件、三首目はキャンディーズ解散、四首目は角川映画の金田一耕助シリーズで、70年代から80年代にかけての時事を背景としている。四首目はひょっとして、「廃駅をくさあぢさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり」という小池光の歌を踏まえているのか。
 なぜ笹は古い革袋に抒情という古い酒を盛るのに「他人のノスタルジイ」という仕掛けを必要としたのか。その背景には、リアリズム近代短歌における〈私〉イコール「作者の私」という図式がすでに壊れていることがあるだろう。この点において笹は寺山の直系の子孫と言ってよい。寺山は新しい〈私〉を立ち上げるために、経歴の塗り替え・地理的遁走・犯罪といった物語を創作した。これらに替わるものが笹においては念力であり「他人のノスタルジイ」だと言えるだろう。抒情を詠うにはどうしても〈私〉が要る。フラット化した現代社会に抒情の芯となる手応えのある〈私〉が見あたらないならば、時代や場所をずらして作り出すしかない。こういうことだろうと考えられる。先に表現面において笹は近代短歌の流れの中にいると書いたが、この〈私〉の位相に関しては笹はまぎれもなく現代短歌の地平にいるのである。
 この点に関しては少し気になることがなくもない。2008年度の短歌研究賞受賞作「楽しい一日」や受賞後第一作「チャイムが違うような気がして」で、穂村弘がやはりノスタルジーという文化装置を濃密に用いていることである。
グレープフルーツ切断面に父さんは砂糖の雪を降らせていたり
                         「楽しい一日」
もう一度やってくれたら真剣にみるからラーマ奥様インタビュー
超特急ひかりの鼻に散らばった2年2組のプリクラたちは
ザリガニが一匹半になっちゃった バケツは匂う夏の陽の下
                 「チャイムが違うような気がして」
夕闇の部屋に電気を点すとき痛みのようなさみしさがある
魚肉ソーセージを包むビニールの端の金具を吐き捨てる夏
 穂村の歌が単純な子供時代の回想ではないことは言うまでもないが、歌に散りばめられたアイテムは確かに懐かしさを演出する子供時代のものである。笹の場合ほど明らかなゲーム世界の設定という訳ではないが、共通する匂いがあると感じるのは私だけだろうか。現代短歌があまりのフラットさに耐えかねて、時間の流れを漂流し始めたということなのだろうか。
 さて笹の方は「他人のノスタルジイ」によって抒情を発生させることに成功したのか。
あしひきの山下清におにぎりを持たせたという曾祖母トメは
鳥占の鳥を逃がした老師いてきらめく正月の中華街
町はいま既視感デジャ・ヴュの火事のほの明かり だれもかれもが顔をなくして
えんぴつで書かれた「おしん」の三文字にベータのテープを抱きしめており
 これらの歌を読むと確かにここには短歌の抒情がある。「おしん」の歌など涙が出そうだ。ただ笹の場合、昭和という時代設定やサブカルチャーなどのアイテムが余りに露出しすぎているので、不真面目だと感じる人もいるかもしれないのが心配だ。私は笹が不真面目だなどとはまったく思わないが。
 ほぼ同時期に笹は『念力短歌トレーニング』(扶桑社)を刊行している。こちらはブログの「笹短歌ドットコム」に寄せられた念力短歌を笹師範がコメントし、模範作を提示する趣向になっている。編集担当は扶桑社に移った藤原龍一郎らしい。知らなかったがこのブログには急逝した笹井宏之や『5mほどの果てしなさ』の松木秀も投稿していたのだ。笹井は念力短歌でも透明感溢れる笹井ワールドであるところがさすがだ。
グリズリーに跳ねあげられた紅鮭の片方の眼に映る夕虹  笹井宏之
ひとしれず海の底へと落とされた大王烏賊のなみだを思う
鉄筋にリサイクルされるUFOという身も蓋もなさもSFとして  松木秀
『にぎやかな未来』の世界で一番に売れる「4分33秒」
 このブログに集められた短歌を見ても、枡野浩一のマスノ短歌教と並んで笹の念力短歌が、今の時代に短歌を作ろうという若い人たちの一部を確実に引き寄せていることがわかる。
 先日このコラムで取り上げた寺山修司の遺稿集『月蝕書簡』に次のような歌がある。これに笹の短歌を並べてみてもあまり違和感がない。
少年が目を洗いいるたそがれを鞍馬天狗が帰る蹄音  『月蝕書簡』
包帯を巻かれて消えしわが指が恋し小学校の吸血鬼かな
六本木の黒人の喧嘩止めにゆく 魔太郎風の薔薇のシャツ着て
                     『抒情の奇妙な冒険』
花子さんの手をふりほどき逃げてきた少女の髪は焚き火のにおい
 歌集あとがきで笹は、念力という看板を外したことで自分は歌人として新たな冒険の時代に入ったと書いている。抒情をめぐる冒険の今後が期待される。

第34回 森井マスミ『不可解な殺意』

森井マスミ『不可解な殺意』(ながらみ書房)
 昨年四月の短歌コラム「橄欖追放」の再開の弁では、「歌集だけでなく歌書・歌論なども取り上げてみたい」と偉そうに書いたものの、その成果が上がっていない。今までに取り上げた歌書は大辻隆弘氏の『子規への溯行』ただ一冊である。その理由はかんたんで、歌集と比較して歌書は読むのに時間がかかり労力を要するからである。つまりは筆者が怠惰だということに尽きる。しかし短歌批評の不在が叫ばれる昨今、歌集にも増して歌書の出版は注目されてしかるべきだろう。というわけで今回は森井マスミ『不可解な殺意』(2008年12月刊行)を取り上げることにする。
 森井は昭和43年生まれ。現在、愛知淑徳大学教員で日本近代文学・演劇の研究者であると同時に、かつて近畿大学で教鞭を執っていた塚本邦雄に師事し傾倒した歌人であり、「玲瓏」編集委員。2004年に「インターネットからの叫び 『文学』の延長線上に」で現代短歌評論賞を受賞。『不可解な殺意』はこの論文を含めて、『短歌研究』などの短歌総合誌に掲載された評論に、書き下ろし論文を加えた構成になっている。帯文は佐佐木幸綱。まずは気鋭の論者による短歌評論集が世に出たことを喜びたい。
 最初に注意を引かれるのが本書のタイトルである。歌書に『不可解な殺意』というタイトルは異例だろう。副題に「短歌定型という可能性」とあるが、それがなければまるでミステリー小説の題名と言われてもおかしくない。この点に注目したい。他の歌書のタイトルはと傍らの書架を見れば、岡部隆志『言葉の重力』、三枝昂之『気象の帯、夢の地殻』、小笠原賢二『拡張される視野』、永田和宏『表現の吃水』などが並んでいる。タイトルに勝手に注釈を加えると、(短歌における)言葉の重力であり、(短歌によって)拡張される視野であり、(短歌の)表現の吃水だから、これらのタイトルの文言はすべて隠された冠のように(短歌)を戴いている。いずれもタイトルは短歌の〈内部〉にかかっている。同じ操作を森井の本に施すと、(短歌における)不可解な殺意となるので、まるで歌人が殺意を抱いているかのようである。しかしもちろんそれはちがう。「不可解な殺意」とは、記憶に新しい秋葉原無差別殺人事件のように、犯行後の「誰でもよかった」という犯人の自供に象徴される、現代社会に漂っている殺意をさす。だから「不可解な殺意」は短歌の内側ではなく、外側に存在するものだ。類書と違って短歌の〈外部〉をタイトルに据えたところに、現在の短歌状況に対する著者の認識が象徴的に示されている。この選択が本書の評価を左右するだろう。
 本書は四部構成になっている。第一部は書き下ろしの「文学の残骸 オタク・通り魔・ライトノベル」に代表される短歌を取り巻く状況論、第二部は筆者の傾倒する塚本邦雄と菱川善夫についての論考、第三部と第四部は歌人論と短歌鑑賞に当てられている。本書のどの部分を読んでおもしろいと感じるかで、読者ははっきりと分かれるにちがいない。伝統的な近代短歌派の人は、第三部と第四部の歌人論・短歌鑑賞を評価するだろう。ニューウェーブ短歌以降の若い歌人は、第一部の状況論を切実な思いで読むことだろう。本書に問題ありとすれば、それは塚本邦雄と菱川善夫をめぐる論考が手放しの讃辞に終始している点だが、そのことは不問に付す。著者が本書に『不可解な殺意』というタイトルを付けたということは、歌の〈外部〉を著者が重視していることを意味する。だから著者の力瘤がいちばん入っている第一部の状況論を中心に見てみたい。
 森井の考察は広汎に及ぶが敢えて要約すると、村上龍や高橋源一郎ら小説家の論考を引用して森井が確認するのは、大きく分けて次の2点である。第一は現代社会が共同体のシステムを崩壊させたため、個が孤立して剥き出しになっているという社会状況で、第二は近代文学のコード(高橋や穂村弘のようにOSと呼んでもよい)の耐用年数が切れたという文学状況である。森井はこのような認識の下で、インターネット上の「書きっぱなし」の言葉とそれへの共感に終始するレスに見られる物語を享受する力の低下と想像力の弱体化、その反作用として現れた感情の前景化とそれに起因する短歌の読みの困難さ、さらには短歌定型の弛みと韻律の崩壊などを論じている。教えられることも多く、なるほどと納得させられる箇所もたくさんある。それを認めた上での話だが、気になる点もいくつかある。
 まず森井の論はある意味で新たな「短歌滅亡論」として読めるという点である。滅亡論という用語が刺激的に過ぎるなら、短歌の危機に警鐘を鳴らす短歌危機論と言い換えてもよい。篠弘によれば今までに四つの大きな滅亡論があったという。明治43年の尾上柴舟の「短歌滅亡私論」、大正15年の釈迢空の「歌の円寂する時」、昭和初期の斎藤清衛・藤巻景次郎らによる滅亡論、そして戦後の第二芸術論である。篠の言うように「近代短歌は滅亡論との戦い」だったのは歴史的事実である。だから滅亡論自体は珍しいものではなく、近現代短歌は逆に滅亡論を糧として生きのびて来たとする逆説も成り立つ。さらに小笠原賢二は『終焉からの問い』の中で、「昭和三十年代以降の高度経済成長期の “平和と繁栄の時代”は、短歌の存立基盤を着々と侵蝕し揺るがし続けていた」と1992年に指摘している。したがって森井の短歌危機論は目新しいものではなく、小笠原がすでに着目した歴史的変化の着地点と見なすことができる。その上で明治以来の短歌滅亡論から小笠原までの論者の主張と森井の論を比較して、どこが同じでどこが異なっているかを知りたいものだ。というのも私たちはよく過去を忘却して現在を発見したと思い込みがちだからである。「あまが下、新しきものなし」などと賢しらに言うつもりはないが、人間のすることはそう変わらないものである。
 さらに気になるのは、作品はどこまで社会的状況によって規定されるのかという点である。極端な決定論の立場なら「芸術作品は社会状況の関数である」となろうが、さすがにイポリット・テーヌを思わせるこのようなテーゼを頭から信じる人はいるまい。かといって「芸術作品と社会状況の間に相関はない」と言い切る人もいないだろう。この両極端の立場の間に無数の中間的立場がありうる。森井の論法は、「現代社会に不可解な殺意が蔓延しているのはXのせいであり、現代短歌の現状もXのせいである」という推論を基盤としている。Xに代入されるのが「日本的共同体システムの崩壊」の場合、推論の前段「現代社会に不可解な殺意が蔓延しているのはXのせいだ」には馴染むが、後段「現代短歌の現状もXのせいだ」には少なからぬ違和感を覚える。社会状況と作品をあまりに直結しているからである。ここには隠された決定論がある。そしてあらゆる決定論と同じく、これは媚薬のように危険な香りがする。
 このことは森井の次のような文体にも感じられるのである。
「ところで、ポストモダンにおける物語の消滅は、一方では近代的な規範を内面化した『私』の消滅と平行している。そしてその後にやってくるものは、データベース的な想像力によって生成される、キャラクターとしての『私』であり、純文学からライトノベルへの移行が、不可逆的な流れであることは、先に述べた通りである」(p.89)
 この文の内容が東浩紀の分析に依拠していることは措くとして、連続する滝のような文から文への跳躍に目の眩む思いがする。文と文の間を隔てる論理的な隙間をもっと細かく刻むべきではないのか。そしてその作業は、現代の短歌作品の内奥に分け入るていねいな読みと分析によって支えられるべきではないのだろうか。第三部と第四部の歌人論・短歌鑑賞ではきちんと行われている読みと分析が、第一部において同じ精度でなされているとは思えないのである。上の引用部分の主張を読むと、私もたぶんそうなのだろうなと思う。それは私が東浩紀や大塚英志の本を読んでいるからである。しかしこのような言挙げは短歌の〈外部〉の変容によって〈内部〉の現況を説明しようとする試みであり、〈内部〉の細やかな読みに支えられて生まれた美しい抽象ではない。その間に大きな距離を感じてしまう読者がいることが問題点と言えないだろうか。
見えぬものを遠くのぞみて歩むとき人の両腕しづかなるかな
                    横山未来子『花の線描』
逃れられぬわが輪郭の見ゆる日を影もろともに動かむとせり
神の息のごとくに風の鳴れる朝しんしんとひとは行き交ふ四方よも
 横山の歌を読むと作品世界に入り込んだその瞬間、私の脳の中に銀河の輝く広大な宇宙が広がるような気がする。私は思わず「ああ」とため息を漏らす。極小の形式の中に極大の世界を宿す、これが言葉の力だ。ここには消滅などしていない〈私〉があり、ポストモダンの遊技性から遠く離れた静かな祈りの言葉がある。言葉の力の回復はこのような作品をひとつひとつ積み上げて、一人一人の中で行なうことによってしか達成されることはないのではないか。

第33回 寺山修司『月蝕書簡』

とぶ鳥はすべてことばの影となれわれは目つむる萱草に寝て
                  寺山修司『月蝕書簡』 
 寺山修司の未発表歌集『月蝕書簡』が2008年2月に唐突に刊行され、読書界で一時話題になった。周知のように寺山は、現代短歌の黒衣・中井英夫の推挽を受けて「チエホフ祭」50首で短歌研究新人賞を受賞して短歌界に登場した。その後、『空には本』(1958年)、『血と麦』(1962年)、『田園に死す』(1965年)の三冊の歌集を上梓し、1971年にそれらをまとめ未刊歌集『テーブルの上の荒野』を加えた『寺山修司全歌集』を刊行した後は短歌を発表していない。「歌の別れ」をしたのである。昭和の多くの文学青年と同じく、寺山はまず俳句と短歌という短詩型文学から入り、新聞・雑誌に投稿を繰り返す投稿少年として出発した。寺山はその後、劇団天井桟敷を中心とする前衛演劇や映画の世界に活動の場を移し、二度と短歌の世界に戻って来なかった、というのが巷間流布されていたストーリーだった。ところが実際には寺山はその後も短歌を作っていたというのだから、読書界は驚いた。寺山の協力者であった田中未知が遺稿を編纂し、あとがきに刊行までに至る経緯が田中自身の筆で説明されている。佐佐木幸綱が解説の筆を執り、歌稿の吟味は谷岡亜紀が担当したとある。寺山は1983年に亡くなっているので、没後四半世紀を経て世に出た歌ということになる。
 田中未知の解説によると、1973年に当時文芸誌『海』の編集長だった吉田好男に勧められたのがきっかけのようだ。その後、人文書院の谷誠二から書き下ろし歌集出版の提案があり、このような経緯が一連の流れとなって、再び作歌に手を染めたらしい。1981年に『現代詩手帖』で辺見じゅんと対談した折に、寺山は次のように発言している。
「勧められて300首作ろうと思ったんです。さしあたって100首を「短歌」に載せようということで作り始めたんだけど、やっぱりできない。数はあるんですよ。でも、自分の過去を自分自身が模倣して、技術的に逃げ込むわけでね、なるほど見た目には悪くないかもしれないけど、これは自分自身の何か新しいことを語る語り口として、20年振りで短歌を作るということに値するかどうかと考え始めたら、だんだん自信がなくなってきてね」
 結局は未発表のままに終わったのは、このあたりに理由があったと推察される。作者本人が葬るつもりで筐底深く残されていた歌稿を、掘り返して刊行することの是非については、さまざまに意見があるだろう。未発表原稿が世に出ることによって作者の知られざる一面が明らかになり、作者の文学世界への理解が深まるという場合もあるだろう。しかし今回は残念ながらそれが当てはまるケースではない。帯文に「文学史は読み換えられるだろう」とあるが、文学史に残るのは「1971年以後も寺山は短歌を作ろうとした」という記述に留まるにちがいない。
 短冊型に切られた紙片に書かれた歌が60首ほどあり、これらは一応完成稿と判断したという。残りは大判の画帖になぐり書きのように書かれており、資料写真が数葉添付されている。「目かくしとんぼ」「医療器具売る」「四畳半亡命者」「一挺身」など、言葉の断片に留まるものもある。小島ゆかりが毎日新聞の「今週の本棚」に「虚構の〈われ〉の痕跡をとどめて」という書評を書いているが、「痕跡」と言わざるをえなかったところが悲しい。また未完成の歌を含む画帖を眺めていると、小島の言うように「作歌工房に許可なく入り込んでしまった」ような印象を受けるのも事実である。
 なかでも目につくのは、かつての寺山の短歌に登場した語句やイメージの再登場である。
一粒の麦生きのびて離郷する帽子の庇にはずみおり
月暗くなるのを待ちて洗うべし身におほえなき雲雀の血ゆえ
鏡台がぎらりと沖に浮きながらまぼろしの姉夜ごと溺死す
かくれんぼの鬼のままにて死にたれば古着屋町に今日も来る父
面売りの売れのこりたる面ひとつ母をたずねて来し旅の果て
 「一粒の麦」「帽子」「雲雀」「血」「古着屋町」といった語彙や父と母のイメージには、誰でも既視感を感じるだろう。良く言えば寺山ワールドを構成する言葉たちなのだが、悪く言えば手持ちのカードでまた勝負していることになる。辺見じゅんとの対談で寺山自身が語っていた「自己模倣」である。ひとつの世界を確立してしまうと、それを壊すことが難しくなる。寺山ワールドにもう一度浸りたい人は嬉しいだろうが、新しい一歩を期待する人には期待外れとなろう。
 今回の刊行の最大の意味は、寺山の作歌過程の一端が明らかになったことではないだろうか。寺山は前衛短歌の中に新しい〈私〉を持ち込んだとされている。近代短歌の前提となる「作者≒〈私〉」という図式から解放された地点に浮上するロマネスクな〈私〉である。『月蝕書簡』の草稿が世に出て判明したのは、寺山の〈私〉は徹頭徹尾言葉でできていたということだ。寺山の作歌過程は言葉の組み替えであった。そのことは『月蝕書簡』のなかに既刊行歌集に収録された歌を組み替えたものが散見されることからもわかる。
壜詰の蟻をながしてやる夜の海は沖まで占領下なり  『月蝕書簡』
壜詰の蟻を流してやりし川さむざむとして海に注げり
                       『テーブルの上の荒野』

みずうみを撃ちたるあとの猟銃を寝室におき眠る少女は  『月蝕書簡』
みずうみを見てきしならん猟銃をしずかに置けばわが胸を向き 
                            『血と麦』
 寺山は作歌をやめた後の1975年に句集『花粉航海』を上梓している。収録されている句は主に高校時代から書きためたものだが、なかに『月蝕書簡』草稿と類似するものがある。
父親になれざりしかば曇日の書斎に犀を幻視するなり  『月蝕書簡』
父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し              『花粉航海』

午前二時の玉突き場に父を待つ義足をはめし悪霊ひとり  『月蝕書簡』
午後二時の玉突き父の悪霊呼び             『花粉航海』

腐刻画の寺院や父の癌すすみ川は北へと流れやまずも  『月蝕書簡』
癌すすむ父や銅版画の寺院              『花粉航海』

眼帯の中に一羽の蝶かくし受刑のきみを見送りにゆく  『月蝕書簡』
眼帯に死蝶かくして山河越ゆ             『花粉航海』

父といて父はるかなり春の夜のテレビに映る無人飛行機  『月蝕書簡』
テレビに映る無人飛行機父なき冬            『花粉航海』
 時系列的にはちょうど『海』の吉田好男の勧めで再び短歌に手を染めた時期と一致する。短歌として日の目を見なかったものを、俳句に転用したものと思われる。並べてみると俳句の方が出来がよい。寺山はこのように画帖に書き溜めた語句を並べ換え組み替えて短歌を作った。寺山の「ロマネスクな〈私〉」とはこのような言葉の組み替えに他ならない。寺山の〈私〉は言葉でできていたのである。
 思えばそもそも寺山の短歌には模倣疑惑が付きまとっていた。「わが天使なるやも知れず寒雀」(西東三鬼)から「わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る」を紡ぎ出し、「人を訪はずば自己なき男月見草」(中村草田男)から「向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男」を鋳造した寺山は、発表当時から批判を浴びた。寺山のこのような手法の背後には、「もともとあらゆる物語は書かれつくされてしまっているのである。これから作者の仕事は、消すという手仕事でしかない」(『月蝕機関説』)という認識が横たわっていた。それと同時に「私は空っぽだ」という欠落感が寺山の意識を浸していた。寺山自身が自己の経歴について多くの虚構と嘘を張り巡らせたのはこのことと無関係ではあるまい。
 では今回の『月蝕書簡』の刊行が、現代短歌シーンに何らかのインパクトを与えるかと考えてみると、どうもそれはないように思われる。その大きな理由は、前衛短歌が既に歴史の一部となり、80年代中期からのライト・ヴァースの勃興、90年代のレトリックの時代、続くネット短歌の時代を通過して、短歌の背後に横たわるべき〈私〉はもう十分過ぎるほどばらばらに壊れているからである。寺山が提示した「ロマネスクな〈私〉」は、まだ近代短歌のコードが支配権を持っていた戦後の一時期においては新鮮な試みだっただろう。しかし、いかなるものも時間の流れから無垢ではありえない。
 寺山の短歌は「寺山病」という言い回しがあるほど、若者が一時期熱中する魅力を湛えている。その魅力を味わうには既刊行歌集を読むだけで十分だろう。思潮社版の「寺山修司コレクション1 全歌集全句集」が入手しやすく、さらに『寺山修司・斉藤慎爾の世界』(柏書房)と塚本邦雄『麒麟騎手』(沖積舎)が手許にあれば言うことはない。
 最後に印象に残った歌を『月蝕書簡』からいくつか引いておこう。
一夜にて老いし書物の少女かな月光に刺す影のコンパス
男湯に陽がさしこめばたゆたえる義父のあぶらに身をひたすかな
ビー玉一つ失くしてきたるおとうとが目を洗いいる春のたそがれ
父に似し腹話術師の去りしあと街のかたちにたそがれも消ゆ
酔いて来し洗面台の冬の地図鏡のなかで割れている父

第32回 『風通し』の歌人たち

 最近、若い歌人による同人誌が盛んに創刊されている。すでに6号を迎える「pool」は別として、「豊作」「[sai]」「町」「風通し」など目白押しである。共通する特徴は、結社・流派などにこだわらず、横断的に若い人たちが寄り集まって作っているところか。同人誌は若い人たちの切磋琢磨に格好の場であり、歓迎すべき傾向だろう。今回はその中から2008年11月創刊の「風通し」を取り上げてみたい。1号の同人は、我妻俊樹、石川美南、宇都宮敦、斎藤、故・笹井宏之、棚木恒寿、永井祐、西之原一貴、野口あや子。最年長の我妻が41歳、最年少の野口が22歳と年齢に幅があり、世代論で輪切りにできる構成ではない。あとがきの「説明しよう」によれば、「風通し」は1号ごとのメンバーで1号ごとに企画を立ち上げる「そのつど誌」とある。つまり固定メンバーによる同人誌ではなく、演劇の世界でいうブロジェクト方式なのだ。ということは次号の同人はがらりと顔ぶれが変わることもあり、縁起でもないことを言って恐縮だが、次号はもう出ないという可能性だってあるということだ。若人ならではの大胆さとエネルギーに脱帽しよう。おまけに創刊号の企画はなんと連作歌会なのだ。同人は30首の連作を提出し、インターネット掲示板で一ヶ月にわたる相互批評をしている。「みなさんもやってみるといいが、想像以上のやるんじゃなかったである」とあとがきにあるように、心身ともに相当大変だったことは想像に難くない。各人の個性が光る連作もおもしろいが、それ以上に興味深いのは相互批評の書き込みで、各人の短歌観とともに現在の短歌シーンが置かれている状況が如実にあぶり出されている。
 意欲的構成の連作という点で特筆に値するのは、何と言っても石川美南の「大熊猫夜間歩行」と斉斎藤の「人体の不思議展 (Ver.4.1)」だろう。両方とも大量の詞書を駆使した作品で、ここで何首か抜き出して批評することが不可能な構成になっている。石川の作品は、「四月三十日、上野動物園最後のジァイアント・パンダ、リンリンが死んだ。」という書き出しで始まり、一昨年の7月に起きたリンリン脱走事件という架空の物語を、詞書と短歌で織り上げたものである。短歌だけを部分的に抜き出してみる。
異界より取り寄せたきは氷いちご氷いかづち氷よいづこ
目を閉ぢて開ければ宙に浮かびゐる正岡子規記念球場しづか
枝豆のさや愛でながら〈パンダの尾は白か黒か〉についての議論
夏の夜のわれらうつくし目の下に隈をたたへてほほえみあへば
街灯の赤きを浴びて思ひ出す懐かしいメキシコの友だち
手を振つてもらへたんだね良かつたねもう仰向きに眠れるんだね
真夜中の桟橋に立ちやさしげな獣に顔を噛まれたること
 上野公園を脱走してから、アメ横を通り御徒町を過ぎて、ヨドバシカメラの角を曲がり、万世橋から竹芝桟橋までの夜間歩行の行程を、石川は自分で歩いて確かめてみたそうだ。目撃証言を詞書として挟み、連作もこの行程をたどって進行する。最初は新聞報道のように始まり、酔漢の証言や学生のコンパの場面によって徐々に情景が具体性を増し、終盤に至って作中の〈私〉がパンダに優しく顔を噛まれるという場面で、一連の事件の意味を自ら引き受けるという構成は圧巻で、不覚にも涙したほどだ。最後の歌を除いて歌にパンダが登場せず、目撃証言とそれに遠く近く寄り添う歌という構成を取り、終始パンダを不在の対象として描くことによって、連作全体に神話的雰囲気を漂わせることに成功している。思えばすでに第一歌集『砂の降る教室』所収の快作「完全茸狩りマニュアル」などで、「世界を異化する視線」を駆使していた石川であるが、ここへ来てその才能はますます発揮されているようだ。
 連作批評では2点に議論が集まっている。歌の背後に想定される発話主体が、リンリンなのか目撃者なのか、それとも最後に登場する作中の〈私〉なのかよくわからないという点と、詞書が多すぎて「歌をストーリーに捧げてしまっている」(野口)という意見である。前者については、発話主体の未分化な感じは、「近代的リアリズムとべっこ(ママ)のより始原的なリアリズムを立ち上げようとしている」という宇都宮の分析はやや先走り過ぎの感があるが、確かに近代短歌の〈私〉ではない発話主体として読んで抵抗を感じない。後者については、「『プライベートな個別な私』の感情からの離脱」であり、「一首の背景に『特殊な顔の私』を代入しない」ことが物語のなかに歌を作る意義だとする棚木の意見が、発話主体の未分化性の議論とからむ形で印象に残る。棚木の意見にたいして、「『プライベートな個別な私』しか書けない私にとっては、そんな姿勢に歯がゆさを感じてしまう」という野口の反論に、はしなくも野口の作歌姿勢が露呈しているところが興味深い。
 我妻の指摘するように、物語作家としての作者の資質が存分に発揮された作品であることはまちがいないが、心配な点もある。この作品の延長で石川が散文の世界に行ってしまうのではないかという心配である。もしそうすると「みんな散文に行っちまう。」(大辻隆弘『時の基底』)ということになり、困った事態となる。ぜひ短歌の世界に留まってほしい。
 斉斎藤の「人体の不思議展 (Ver.4.1)」は、本物の死体を様々に標本展示して話題になった展覧会の見聞記という体裁を取っており、石川作品以上に大量の詞書を用いている。こうなると詞書の方が作品の骨格で、歌はその所々に挿入されている感すらある。詞書は、「いらっしゃいませ(カチカチ)」のような現場レポート風のもの、「プラストミック標本の作製法」という展覧会の目録からの引用、「悪いことして死んだヤツとかじゃない」「な」という観覧者の会話などから成る。特におもしろいのは、次のように詞書と歌とが連続して地続きになっている構成である。
 「おそらくこれは、標本になってからの凹みでしょう、
中国から来たものでわかりませんが、立ててたんでしょう針金か何かで」

また一歩記憶になってゆく道にわたしは見たいものを見ていた
 のだろうか。
 (詞書さらに続く)
 斉藤は極めて自覚的な演出者なので、歌と詞書のこのような関係性を意図的に構成したものと考えられる。歌をいくつか引く。
「アセトンに漬けたろか」的なツッコミが嫁とのあいだで流行る四、五日
たましいの抜けきらぬ今しばらくは人目に触れる旅をかさねる
腹が立つ、臆面もなく腹は立ちわたしを駆けめぐるぬるい水
死因の一位が老衰になる夕暮れにイチローが打つきれいな当たり
どのレジに並ぼうかいいえ眠りに落ちるのは順番ではない
 さらにいまひとつの仕掛けは、〈私〉が見た新生児の輪切り標本をもう一度見に行くと会場に見あたらず、係員にたずねてもそんな展示はないと言われ、嫁にたずねてもよく覚えていないと言われたというエビソードである。これまた作品中に虚空間を作るべく斉藤が連作に施した周到な仕掛けであることは言うまでもない。
 批評では、詞書が主になり歌が従になっている構成への疑問や、人体をここまで見せ物にしてよいのかという倫理観や死生観の反省といった主題性の突出をどう評価するかに議論が集中している。「いろんなことを考えるいいきっかけにしたいぼくらはよいこに並ぶ」という連作冒頭の歌からして、「展示方法にご批判もありましょうが、これを生死や献体の問題などを考えるきっかけにしていただければ」的な主催者側の理屈を逆手に取っているのだから、斉藤のスタンスは二重三重に捻れていて一筋縄ではいかない。同人たちもこの点をどう評価してよいのか決めあぐねている感がある。方法論的には、「斉藤さんの作品の特徴として、すでに世の中にカタマリ化して流通している言葉を定型の中に頻繁に引用する」というのがあり、そうすることで「定型のはたらきを失調させる」とする我妻の指摘にうなずく。同時にカタマリ化して流通している言葉を嵌め込むことで、定型の存在をいっそう意識させる点に斉藤の戦略があるのではないかとも思う。斉藤は近代短歌という制度をあぶり出したいのである。
 斉斎藤は一度本格的に論じてみたくなる歌人だが、まだ誰もその本質を剔抉することに成功していないように思える。それは斉藤と短歌の関係が、すぐさま見極められないように周到に韜晦の煙幕に隠されているからである。「人体の不思議展 (Ver.4.1)」もそのうな地点から放たれた変化球なので、評価は様々だろうが問題作であることはまちがいない。同人たちによる掲示板への書き込みの量が、それを雄弁に語っている。
 残りの連作については短評に留める。
けむりにも目鼻がある春の或る日のくだものかごに混ぜた地球儀 
                       我妻俊樹「案山子!」
歯みがきは過去のどこかに始まっていつかは消える 人より早く
片方のサンダルだけがリボンになってほどけて終わる花道をゆく

さびしさの音の粒さえみえそうな夜もわたしはどうせまるがお
              宇都宮敦「昨晩、君は夜釣りへいった」
はなうたをきかせてくれるあおむけの心に降るのは真夏の光
まちがった明るさのなか 冬 君が君の笑顔を恥じないように

手品師が手に品をのせやってくる 冬の日曜日の午後三時
                  笹井宏之「ななしがはら遊民」
太刀魚を夜のシンクに横たえてなんだかよくわからないが泣いた
みぞれ みぞれ みずから鳥を吐く夜にひとときの祭りがおとずれる

こころのことを語れぬほどに暗かった二次会の店 朝に思えば
                       棚木恒寿「秋の深度」
わが内を流るる河に沈みしは鉄の斧なりすでに光らず
近道、裏道ふやしてゆけぬわが性質(たち)をふかく感じて今朝の通勤

一年は六月のまだ一日でパスタのあとにパイの実を食う
                永井祐「ぼくの人生はおもしろい」
コーヒーショップの2階はひろく真っ暗な窓の向こうに駅の光
去年の花見のこと覚えてるスニーカーの土の踏み心地を覚えてる

海を見ぬ日々が私を造りゆく缶のキリンを凹ませながら
                      西之原一貫「夏の嵩」
にわか雨過ぎたる昼のデスクにて加へられし朱の嵩を見てをり
来ぬものをあの日のわれは待ちながら埃の雨のなかに立ちけり

くろぶちのめがねのおとこともてあそぶテニスボールのけばけばの昼 
               野口あや子「学籍番号は20109BRU」
野口あや子。あだ名「極道」ハンカチを口に咥えて手を洗いたり
小説を見せろとじりじり詰め寄れば燕のごとく飛び立つおとこ
 我妻と宇都宮はともに無所属の歌人で、宇都宮は第4回歌葉新人賞次席になっている。早稲田短歌会出身の永井祐も加えてこの三人は、完璧にニューウェーブ以後の短歌シーンの空気を当然のものとして呼吸している人たちである。そんななかに、「音」「京大短歌会」出身で第一歌集『天の腕』を持つ棚木と、「京大短歌会」「塔」の西之原が混ざると非常に奇異な感じを与える。棚木と西之原は文語定型に則り、近代短歌の作りと読みのコードを前提としている歌人で、手堅い作りの抒情歌は安心して読める。一方、我妻・宇都宮・永井の作品は、いったいどのようなコードで読んだらよいのかわからない。そもそもコードの存在自体を否定しているのかもしれない。もしそうなら究極の一回性の文芸ということになる。
 我妻が棚木の作品について次のように評している。「作中人物が歌に収まる姿勢のようなものが気になる」、「カメラ目線とまでは行かなくても、カメラ=短歌のフレームを作中人物が意識している」、「そのような向き合い方でフレームに接していることへの疑いのなさ」が問題だというのである。我妻も宇都宮もなかなかの論客であることを相互批評で示しているが、ここは斉藤に解説をお願いしよう。斉藤は『短歌ヴァーサス』11号に、「生きるは人生とちがう」という文章を書いている。そのなかで、「私は身長178cmである」というときの「私」を客体用法、「私は歯が痛い」というときの用法を主体用法と区別し、短歌の〈私〉は両者の複合体であるという。この事情を次の歌を引いて分析している。
飛ぶ雪の碓氷をすぎて昏みゆくいま紛れなき男のこころ 岡井隆
 上句は〈私〉、下句は「岡井隆」であるという。敷延すれば、「飛ぶ雪の碓氷をすぎて昏みゆく」は主体用法の〈私〉の目に映った風景である。一方、「いま紛れなき男のこころ」は自分を客体視した客体用法である。このように近代短歌の手法は、「作中主体が見ている風景を、作中主体の(人生の翳りを帯びた)背中をも構図にふくめ、ななめうしろから撮る」ことだと斉藤は言う。つまり〈私〉が映り込んだ情景を、〈私〉込みで斜め上方から切り取る視線が近代短歌の視線なのである。我妻の「カメラ=短歌のフレーム」はこのことを指している。そして〈私〉がいけしゃあしゃあと映り込んでいる風景が我慢ならないと言っているのである。我妻の発言は近代短歌の作歌と読みのコードをまるごと否定することに他ならない。
 では我妻らが肯定するコードとは何か。ここでもまた斉藤に頼ることになるが、同じ「生きるは人生とちがう」のなかで宇都宮の発言が紹介されている。
「『ふつう』の反対って『特別』とかじゃないですか。で、なんていうのかな、『特別』っていうことを声高に叫んでも、特別にならないような気がしてて。(…) そういう風の特別さって感じじゃ特別にならないと思うんです。ふつうに存在してるていうことの特別さっていう。自分のいる空間に他の人は立てないわけじゃないですか、ぜったい。っていう風な意味での特別さっていうものを書いてるんで」(宇都宮敦ロングインタビュー、永井祐HPより)
 異常だとか特殊な能力があるとか特異な体験をしたという「特別さ」を排除し、ここにふつうに生きているという「かけがえのなさ」をこそ「特別」と見なすわけだ。これはひとつの価値観なので、それはそれでよい。問題はその価値観からどのような作歌と読みのコードが導かれるかである。実作を読む限り、そこに近代短歌のコードに取って代わるコードを見いだすことは難しい。しかし、「『短歌のひと』特有のポーズの決め方に私も長々と葛藤していた」という野口の発言や、「短歌的な『私』がア・プリオリには成立しないという理屈、というよりは感覚が、『風通し』に参加されている皆さんの世代では身体化されているのだろうということもひしひしと感じています」という近代短歌サイドの西之原の発言を見ると、近代短歌の「斜め後方からの視線」は若い人たちには嘘くさいポーズと感じられているようだ。近代短歌側としては、これは是非考えなくてはならない問題だろう。もしこの感覚が燎原の火のごとく広まれば、近代短歌は死滅するからである。
 永井らの歌の読み方について、「永井さんの歌はロックだなあと思いながら僕は読んでいます (あるいはロックだなあと思いながら読むとおもしろいと思っている)」と宇都宮は発言している。ロックだなあというのは、「本当のことを歌いに来たんだぜ」とか「負けねえよ」とかいう意味だ。忌野清志郎とか尾崎豊を思い浮かべておけばそう遠くはなかろう。そうか、そう言われてみれば、「噴水の音がうるさくなってくる 話していると夕方になる」(永井祐)という歌なんて、音を当てればそのままロックの歌詞になりそうだ。しかしそれは短歌とは別物である。
 相互批評を読んでいて仰天したのは、「私は自分が歌人であるはずがないと思っている」という野口の発言である。というのも4月20日付の橄欖追放で、「青春の心拍として一粒のカシスドロップ白地図に置く」という野口の歌を引き、「カシスドロップは短歌の喩で、この歌は歌人としての野口の覚悟の表明と読みたい」と私は書いたのだが、これでは完全な読み違いということになってしまうからだ。これは困る。だから野口の発言を、「自分はまだ歌人だと胸を張って言えるほどのレベルには達していない」という自己認識の表明と勝手に解釈しておくことにしよう。野口の歌についての「短歌は気合いだ」という発言にうなずく。また歌ではなくその背後にいる作者に感情移入して読んでしまうことを「作者萌え」と同人たちは表現しているが、なかなか便利な言葉である。どこかで使わせてもらうことにしよう。
 「風通し」はこのように気鋭の若手歌人たちによる刺激的な同人誌である。通読するのにものすごく時間がかかったが、それは内包されている問題量の嵩の多さに由来する。近いうちにぜひ2号の刊行を期待したい。

第31回 黒瀬珂瀾『空庭』

ああ吾は誰かの過去世まなかひに雪ふる朝を地の底として
                     黒瀬珂瀾『空庭』
 絢爛と黒い光を放つ第一歌集『黒燿宮』で2002年にデビューした黒瀬珂瀾の待望の第二歌集が出た。奥付に本年(2009年)6月5日発行の日付を持つ『空庭くうてい』である。著者から拝領したのは一週間前なので、おそらくこの文章が最初の批評になるだろう。第一歌集から閲すること7年の年月はやはり長く、才気溢るる一人の青年が時間という微粒子の中を泳ぐことで変貌するに十分な長さである。7年という時間は収録歌数にも反映されている。基本は1頁5首組で、前書き・目次・跋・後書きを除くと165頁あり、空白頁をざっと20と見積もって引くと145頁になる。単純に5を掛けると725となり、おおよそ700首という数を得る。花山周子の『屋上の人屋上の鳥』が出た時、収録歌数860首は茂吉以来と話題になったが、その数に迫らんとする歌数である。跋文は岡井隆。ソフトカバーの瀟洒な装幀はあのクラフト・エヴィング商會。自己陶酔的な青年のイラストが表紙を飾る第一歌集の黒を基調とした装幀と比較すると、驚くほどシンプルでおとなしい。人が現在いる位置は見えにくいが、以前いた位置と較べると見えやすくなる。過去の位置Aと現在の位置Bの差分を取ることで、見えてくるものがあるのだ。黒瀬の第二歌集『空庭』を読み解こうとする時も、この接近法は有効なのである。
 歌集題名の『空庭』は著者の造語で、Empty gardenとCelestial gardenの両方を意味するという。「空虚な庭、光あふれる庭としての世界を嘆き、希求する心を、この造語に託した」とあとがきにある。集中に題名の由来を示すと思われる一首がある。「Garden アフガン侵攻への一瞥」と題された連作中の一首である。
ガーデン」(ガーデン)が、眼の前にありわがうちに空虚満ちつつ初冬の晩暉
 水と緑の溢れる楽園のイメージは古代ペルシアに端を発するとされている。ならば同じ中東のアフガン侵攻が蹂躙される庭園の連想を導くのは自然だが、その庭園はひたすら空虚なものとして認識されている。第一歌集『黒燿宮』にも「回廊」や「薔薇」などの語の背後に庭園のイメージは揺曳しているが、はっきりと庭園に言及しているのは巻末の次の歌のみであった。
わがために塔を、天を突く塔を、白き光の降る廃園を
 この歌に「血の循る昼、男らの建つるもの勃つるものみな権力となれ」という別の歌を重ねると、「男性原理」「権力」「エロス」またその陰画としての「同性愛」などのキーワードが得られる。第一歌集において「庭園」は、希求する対象であると同時に、廃園の語が示すように、挫折・喪失の文脈において捉えられている。庭園がここで世界の喩であるとしても、その把握はあくまで観念的な範囲に留まる。振り上げるナイフはただ我が身を突くのみなのだ。ところが『空庭』においては庭園はただ観念の対象ではなく、アフガン侵攻という日付を持つ時事的文脈の中に置かれており、空想の紡ぎ出すものであることに変わりはなくても、そこに確かな現実との紐帯が認められる。この立ち位置の変化が『黒燿宮』から『空庭』への変化の中で最も意味深いものである。それは村上春樹がかつてのdetachment (離接)からattachment (接続)へと、世界への立ち位置を変化させたのと似ているかもしれない。この点に7年の年月がもたらした表現者黒瀬の成熟を見るべきだろう。
 制作年代が最も古い第四部には、『黒燿宮』を思わせる黒瀬調の歌が見られる。
俺は見た、我が掌に汝がこぼしたる精を 真夏の啓示としての
神々の捨てたまふこの苑にゐて朝日の塔を幾千と見む
汝が口を口もてふさぐ われの名を零さむとする暁の百合を
俺は飛ぶお前は落ちろ日輪を背にする街を抱く運河へ
銃だった、あれは確かに、緩徐調子アダージョの街との別れ際に見たのは
 硬質の質感を持つ漢語を組み合わせ暗喩を多用する詩法は前衛短歌譲りで、語の強度から滲み出る高踏的詩情は地上のものと言うよりは天空の領分である。これは額に汗して地上を歩く人の歌ではない。高踏的な言語への拘りは塚本邦雄と似た所もあるが、大いに異なる点は、塚本は俳句もよくしたのに対して、黒瀬は俳句に向かないところだろう。なぜなら黒瀬の歌の言葉は「物語」を呼び込んでしまうからである。人も知るように俳句は過剰な物語を嫌う。『黒燿宮』のあとがきに、「僕は物語を書き綴るつもりでした。(…)でも、ようやく最近になって気が付いたように思います。僕には語るべき物語は無いし、それを語る術も持たないということに」と黒瀬は書いているが、黒瀬の歌はこの言葉に反して物語を常に内包している。歌が何か大きなストーリーの断片のように見える。近代短歌の〈私〉は物語の地層に紛れて見えなくなり、物語を紡ぐメタ的〈私〉としてしか把握できなくなる。この点において、物語を内包せず近代短歌の〈私〉を前景化する吉川宏志と黒瀬は、現代短歌シーンにおいて180度対極的な作風の歌人と言えるだろう。
 しかし『空庭』の他の章においては黒瀬の変化が顕著に見られるのだ。
海ゆ戻れば居間には闇が膝をかかへて座せり、まるで日本だ
降嫁する人をことほぐ広告アドを書く 夜更けの塩の塊のため
枝々ゆ光はさむくこぼれつつ九段(POWERを!)坂のぼりゆく
ぽすころ、と宵の闇から鳴く声がする鳴き出すはつねに本国
ウサマ・ビン=ラディンの眉の太さかな黒葡萄食む夜明けの餐に
ムスリムの愛か知らねど何者かに抱きすくめられ崩れゆくビル
国家対国家とならぬ戦ひのかたみに愛を打ち交はす頬
 一首目は渡辺白泉の名句「戦争が廊下の奥に立つてゐた」を髣髴とさせる歌。作者も意識しただろう。『黒燿宮』の舞台がどこでもよく、またどこでもない世界 (everywhere and nowhere)だったのにたいして、はっきりと日本を名指ししている点が注目される。二首目の「降嫁する人」は結婚して黒田清子となった紀宮清子内親王で、「塩の塊」はサラリー、つまり給与のこと。食うために書きたくもない広告コピーを書くという歌である。三首目の坂は靖国神社へと続く九段の坂。四首目の「ぽすころ」は、ポスト・コロニアリズムの略。列強による植民地収奪は見かけ上は終焉したものの、経済的・文化的収奪はなお続いているとする理論的立場をさす。五首目以降はアフガン侵攻を詠んだ連作から。黒瀬が愛を語るとき、それはしばしば暗い陰影を帯びる。
 『黒燿宮』に登場する王や権力は、言葉が創り上げた耽美的世界に奉仕するものであった。この点は三島由紀夫と似ているかもしれない。これにたいして『空庭』に登場する日本や国家はより具体性を帯び、私たちの住む現実世界に接近している。黒瀬は『空庭』のあとがきで、21世紀には世界は激変し、もはや誰一人20世紀の世界観に戻ることはできないと書いている。観念が生み出す耽美的世界から出発した黒瀬も、世界の事件と共振しそれに寄り添うことで世界に対する立ち位置を変化させ、同時に歌の質をも変化させたのだと思われる。
 同じ変化は日付のある歌の連作にも見ることができる。
12.14.00
はやう子を作れ、と言ふに頷けり 頷くほかになき昼下がり
12.14.50
大学の前に手を振る一滴の羊水もまだなさざる妻よ
12.16.00
短歌を作つてゐますと言はれおののけり闇にあわ立つビール温めり
1月5日 コンタクトレンズ紛失
見えすぎる世界もいやでコカコーラ飲みつつ歩む闘技場まで
1月7日 コンタクトレンズ発見
雪は雪待たず溶けゆき〈わたくしの輪郭〉などは見なくてよいぞ
 最初の三首は、塚本邦雄の訃報に接して実家に戻った旅行を詠んだ「六月の」と題された連作から。残りの二首は「去年今年」から。日付のある歌は河野裕子の歌集にもあり、小池光も『日々の思い出』で多く試みているが、詠まれているのはたいてい日常生活の小事であり、小事を掬い取るところに短歌の本質があるとする短歌観と表裏一体を成す。これは現実世界と似て非なるひとつの世界を言語によって構築する短歌観とは大きく異なる。黒瀬は今まで後者の短歌観に拠っていたので、日付のある歌を作るようになったこともまた前歌集からの大きな変化と言えよう。
 『黒燿宮』に多く見られたサブカルチャーとゲーム感覚に基づく歌は本歌集にも確かにあるが、その比率は以前よりはずっと低い。それに代わって『黒燿宮』には少なかった次のような作風の歌がかなりある。
酸漿の一輪白くうつむけるままに優しく知る海開き
抱き合ひて気付くわが身の冷たさをかなしみにつつ冬は終わるも
君去れば飲まれぬままに薄まれるコーヒーに浮く氷片ぼくは
勤めきし身を朝靄にまかせれば我が帰路に踏む硝子のひかり
物ひさぐ悲しみに満ちて花枯るる道端に水わづかかがよふ
 技巧者の黒瀬ゆえどの歌も上手い造りなのだが、以前のような外連味は影を潜め、短歌定型を意識した静かな歌である。青年の激情が壮年の沈思へと変化したのか。いやいや、ここはニーチェが提唱したアポロンとディオニソスという概念を借りて語るべきだろう。『黒燿宮』の基調は激情と混沌のエネルギーが支配するディオニソス的世界である。それから7年を経て、黒瀬は調和均衡と論理とが支配するアポロン的世界に接近してきたのではないか。あらゆる芸術にはアポロン的要素とディオニソス的要素の両方が必要なのは事実だ。しかしいずれが支配的になるかは、一人の芸術家においても時代や年齢により変化する。そういえば黒瀬の師であった春日井建もまた、ディオニソス的世界から出発してアポロン的世界へと移行した歌人と言えるかもしれない。
 制作年代が最も新しい第五章は作者のこの変化をよく感じさせる。
夜の底に開くみづうみ夜の底へ雪のひとひら沈めてしづか
ししむらを持つゆゑ飛べず春雪をかづけば無言なる遊園地
贄のごと気球を浮かせこの街は夜に入るかも星なき夜に
蛾を踏みてやはりわたくし 灯を落とし海底となるアトリウムにて
あてびとは吾よりしくサイダーを飲みて夏解げあき熟睡うまいをなせり
狭きわが棲みはつひにうつぼ舟 世界に万の雨降りそそぐ
夕映えをまとふ歌集は卓上に死せる浅蜊のごとくに開く
 世界を畏れて遁走したり破壊しようとするのではなく、静かに世界に手を伸ばすような歌である。惜しむらくは本歌集が7年という長い期間にわたっているためか、様々な傾向や作風の歌が混在しており、歌集全体を通観して集を代表する一首を選べと言われると、考え込んでしまうところがある。しかし全体を通読して、現在の黒瀬が辿り着いた地点は上に引いたような歌境ではないかと推測される。もっとも短歌技巧に長けた黒瀬のことゆえ、テーマや場に合わせてどんな歌でも作れるだろう。本集の最後の章は「金をくれるといふのならどんな歌でもよろこんで」と題されている。しかしどんな歌でも作れるということが歌人にとって幸いなことかどうかは、また別問題であることは言うまでもないのである。

第30回 林和清『匿名の森』

卓上の静物画ナチュールモルト 断つまでは果実のなかに流れゐる時間
                     林和清『匿名の森』
 静物画は英語では still life (動かぬ生)といい、フランス語では nature morte (死せる自然)という。セザンヌの静物画は木のテーブルに載せられた果物が多いが、その伝統は17世紀フランドル画派に遡る。市民生活の勃興とともに絵画が宗教から切り離され、日常生活の点景を描くようになった。テーブルに山積みにされた果物・魚・肉や煌めく銀器は当時の静物画で好まれた画題で、町人階級の現世肯定的思想の絵画的表現であった。静物画を nature morteと称するのは象徴的で、そこにあるのは生きた自然ではなく、万象の流転から切り離されたものだ。私たちは生命の流れから切り離された果物や魚を食べ、生命の流れを維持している。それを作者は時間の切断という局面において把握した。第三句「断つまでは」に洞察と断定が宿る。
 『匿名の森』は2006年に上梓された林の第三歌集である。本歌集の特異な構成は、2005年6月9日の塚本邦雄の死去が林にとっていかに大きな出来事であったかを物語る。第一部は「2005年6月9日以前」、第四部が「2005年6月9日以降」と題されており、春夏秋冬の部立で構成された第二部「四季」と第三部「羇旅」が間に挟まれるように置かれている。歌人・林の人生が2005年6月9日という日付で生木を裂くように真っ二つに分断されたことを示す構成である。
 以前「今週の短歌」時代に林の短歌を取り上げたとき、「異界との交通」をその特色と断じた。『匿名の森』でもそれは不変である。林の暮らす世界は普通の人が生きる世界よりわずかに広い。林の意識はたわやすく現世うつしよの外側へと滲み出るのである。例えば次のような歌がそうだ。
焼けてしまった骨のあかるさ思ふとき陶工が壺をまた叩き割る
死後の世にもビニールありてとき来れば寒風に青くはためいてゐる
ここでさへ誰かが死にき漆器屋のうるしにうつる八月の街
いまでないいつかの時を歩みつついつもの朝の駅へとむかふ
いまここにわたくしはゐて緑なす五月の古墳の中にもゐる
垣間見のおももちをもて覗きあるく白いシャネルや暗いカルチェ
うつせみの祭にはあらぬ蛭子鉾、逆髪鉾、弱法師鉾、路地に立てり
 一首目は歌集冒頭「骨原」の連作から。この前に「なめらかに舗道へ歩きだすあなた数本の骨の残像とともに」という歌があり、現世に歩く人もすでに林の眼には骨と映っている。焼けた骨の象徴する死後の明るさと、散らばる陶片の取り合わせが印象的である。二首目は死後の世界にも青いビニールがあるだろうという想像を詠ったもの。私事ながら私は青いビニール袋が大嫌いだが、結句の「青くはためいてゐる」は意外に明るく肯定的でこれなら許せるかもしれない。三首目の「ここでさへ誰かが死にき」は、京都で暮らす者には日常的感覚としてよくわかる。町のあちこちに墓碑のごとくに「○○遭難の跡」という石碑が立っているのだ。その多くは幕末のものだが、漆器屋の近くに立っていたのも同類の石碑だろう。千年の都京都では時間がうず高く堆積しており、その片鱗が町の至る所に顔を覗かせている。四首目は現代と昔の時間の交錯を詠ったもので、作者は今駅に向かって歩いていても、今ではない別の時間を同時に生きているのである。五首目も同工の歌。六首の「垣間見かいまみ」は平安朝文学でお馴染みだろう。家の垣根の隙間から中を覗くことで、多くは男性が女性を覗き見た。きらびやかなシャネルやカルチェのブランド店を平安貴族の垣間見に譬えており、ここでもまた千数百年の時間の隔たりは一気に越えられている。七首目は現実の祇園祭にはない鉾を想像で路地に立てた歌。逆髪さかがみ弱法師よろぼしは能の演目。蛭子ひるこは古事記か。このように林は些細な出来事をきっかけに現世を抜け出して死後の世界を見、また時間を遡って時の旅人となるのである。その自在さは瞠目に値しよう。
 そんな林にとって人との死別は幽明境を分かつ出来事であり、現実には泉下に下った人とは触れあえぬことを思い知らされる時でもあろう。かくして林の詩想は挽歌において最もよく羽ばたくのである。
よみがへるどの記憶にもリンネルの手触りがありまた薫りたつ
枕上まくらがみに夜毎流るる瀬音あり「死せる皇子のためのパヴァーヌ」
海へ還る月を見てゐたあの夜から目に嵌めたまますごすいろくづ
目を鎖せばいくたびも逢ふことができる花を枕にねむる女神と
かつて豊饒の咽喉ふさぎしは何なるかその一塊の午後の黒さは
師のうちに海ありたりき両の肩に貝殻骨の白きかひがら
 最初の二首は春日井建への挽歌。「リンネルの手触り」の比喩が秀逸で、春日井のイメージをよく伝えている。「死せる皇子のためのパヴァーヌ」はもちろんラヴェルの「死せる王女のためのパヴァーヌ」の写し。パヴァーヌは羽根を広げた孔雀の堂々たる歩みを模した舞曲で、歌の背後に絢爛たる孔雀のイメージも揺曳する。三首目は宮尾壽子、四首目は冬野虹への追悼と詞書にある。両親を理不尽な事故で失った男の子が、それ以後は世界を歪ませて映す眼鏡を外すことがなかったという、昔どこかで読んだ話を思い出す。最後の二首は師であった塚本邦雄への挽歌。一首目は師の死因である呼吸不全を詠んだもの。二首目の前には「おそらくはつひに視ざらむみづからの骨ありて涙骨オス・ラクリマーレ」という塚本の歌を詞書とした歌がある。涙骨という名前の骨が本当にあるのかどうか知らないが、言葉に強い美学を持つ塚本らしいこだわりで、林の歌はそれを受けて貝殻骨に思いを託した骨上げの歌である。
 人体を覆う皮膚の下に骨を幻視し、都の路地の辻々に冥界を透視する林だが、幻視を誘うきっかけは日常のごく些細な感覚で、なかでも嗅覚にこだわりがあると見た。嗅覚は原始的感覚でありその喚起力は大きい。
白いやうな擦れたやうなこのにほひ足組みかへるあなたの方から
ダムに落とした一滴のの味がするハーブのお茶を飲み干したあと
木箱より引きいだすとき雛らはこの家のくらがりの香をはなつ
 一首目の擦れたような臭いは骨の臭いである。二首目は嗅覚ではなく味覚だが、まるでプルーストのマドレーヌの挿話の現代における陰画のようだ。三首目では一年に一度取り出す雛人形の臭いが生々しい。確かに「古い臭い」というのはあるもので、それは時間の臭いかもしれない。ちなみに「雛」は音数から「ひひな」と読みたい。 このような林の異界的感覚は時に奇想の歌を生み出すこともある。
白く濡れたゆふぐれの雪散りかかる将校の猿の毛皮のコート
死につづけてゐるのも体力この春も式部の墓へ散りかかる花
ひと息にひらく扇よけざやかにきみが界、わが界とをわかつ
午後四時のミルスクスタンド白秋の手が垂れて壜を置けり空より
音を観る神がゐたのさ秋の朝のはりはりうすい空気を渡り
 一首目を見てすぐ頭に浮かんだのは、雪の連想から二・二六事件の皇道派青年将校か、満州国で暗躍した陸軍将校が身に纏ったコートだ。しかし猿の毛皮は使わないだろうから奇想にはちがいない。二首目、生き返らず死に続けているのにも体力がいるという逆転の発想。三首目は王朝和歌、それも後京極良経あたりを彷彿とさせる歌である。古典に精通した林ならではの手さばきと言えよう。四首目、空から秋が手を垂れて牛乳瓶を置くというのも奇想である。ちなみに近現代短歌には空から手や紐が垂れて来るという歌が多いのはなぜだろう。五首目、秋のピーンと張り詰めたような空気を形容するに「音を観る神」は秀逸。
 第一歌集『ゆるがるれ』、第二歌集『木に縁りて魚を求めよ』と較べるとやや口語脈の歌が多くなったかと感じるが、林の異界感覚はかくも健在である。ちなみに歌集題名『匿名の森』には、森は優れて異界の象徴であり、〈私〉は匿名の存在として森に隠れるという意味が込められているのだろう。モーリス・ブランショならば同じことを「非人称の〈私〉」と言うところである。
 折から古い屋敷の庭に泰山木の花が咲いている。乳白色の大きな花が開ききった様を見ると、それはまるで夢の形のようだ。異界への入り口は至る所に開いているのである。

第29回 谷村はるか『ドームの骨の隙間の空に』

つばめ空の真中で止まる島の昼その静けさで壊せわたしを
        谷村はるか『ドームの骨の隙間の空に』
 今回取り上げるのは、今年(2009年)3月に出たばかりの谷村はるかの第一歌集である。谷村は2006年度短歌研究新人賞に同名の連作で応募し、惜しくも候補作に終わっている。同年の受賞は野口あや子の「カシスドロップ」。珍しくヒロシマと原爆のテーマを正面から詠って話題になった。選考座談会でもそのことがひとしきり話題になっている。
 短歌賞の選考座談会を読んでいつも感じることだが、どうして選考委員は候補作の作者の実年齢にこだわるのだろう。2006年短歌研究新人賞の座談会でも、「かなしみのみなもとのひと遠い空にひとりいるから孤独ではない」という谷村の歌を取り上げて、選考委員の馬場あき子は「この人は原爆で恋人を亡くしていて、そしてずっと年老いて、なおかつ自分の恋人が奪われた広島を離れず生きているという、そういう感じがするんですね」と発言している。実際には谷村は昭和46年(1971年)生まれで、2006年当時は35歳である。被爆体験もないし、いわんや戦争体験もない。平成16年の角川短歌賞で、当時17歳だった小島なおが受賞したときの選考座談会でも、作者はほんとうに17歳なのかという点に議論が集中していた。選考委員の米川千嘉子は、ほんとうに17歳なのだろうかと疑問に思って評価を保留にしてしまったとさえ述べている。
 なぜここまで年齢にこだわるのかという理由を推測するのはそれほど難しいことではない。若年の受賞者が出た時の社会的な話題性は当面措くとして、実人生を詠うことが明治以来の近代短歌の王道なので、どうしても歌の背後に作者本人を捜してしまうのだろう。作者の実人生という裏打ちがなければ、歌の価値が減じるというわけである。しかし短歌は文学の一形式であり、文学はその飛翔力の多くを想像力に負っている。過度に実年齢にこだわるのは、短歌の表現力を狭めてしまうことにならないか。
 谷村は現在「短歌人」所属。元朝日新聞の記者で、福井支局・広島支局と移動を重ね、記者と歌人の二足のわらじを履くことに耐えかねて遂に退社、短歌を生活の中心に据えるため現在は派遣社員として働いているという。根性の座った歌人である。経歴を知らずにまず歌集を読み、後で経歴を知ってなるほどと腑に落ちるところがあった。それは住んだ街への思い入れの深さである。単に転勤でたまたま住むことになった街にこれほど愛憎を深く持つことはあまりない。ふつう街は単なる仕事の場であり、日常の風景に過ぎないからである。しかし、新聞記者ならば、その街に暮らす人と深く交わり、街の歴史と交差する機会も多かろう。『ドームの骨の隙間の空に』は、街への想いと人への想いが交錯し混じり合い、遂には見分けがたくなる瞬間をすくい上げ、時には投げつけたような歌集となっている。
 短歌研究新人賞候補作となった連作「ドームの骨の隙間の空に」から引いてみよう。
遡りも下りもしない川の水の 夕凪 この街に長い残照
八月以外の十一か月の広島にしずかな声の雨は降りくる
慣れてないふたりは「幸せ」の前で浅い呼吸をくりかえしていた
いっそまったく違う街になってしまえば 何度も何度も咲く夾竹桃
ある日は通しある日は撥ねたわたしというこの容れ物のこの卑怯な皮は
 この五首の中に谷村の短歌の特徴はすべて凝縮されている。その一は、上に述べた街への想いと人への想いの交響であり、街を詠っているのか人を詠っているのか判然としないほど両者は混じり合っている。谷村の歌に純粋な叙景はなく純粋な叙情もない。叙景は即叙情であり、その逆もまた真なのである。あとがきで谷村は、「それぞれの街と会話し、感情の深い部分で交わった」と言い、この歌集は恋文集のようなものだと述べている。
 その二は、街や人への思い入れがそのまま自分へと反照し、「私はこれでいいのか」という自己反省となって戻って来る点である。これは上に引いた五首目に顕著に感じられる。冒頭の掲出歌の「壊せわたしを」の結句や、「枯らしたのはおまえだという声にただ抗いたくて水撒く真夏」にもそのことは見える。街に対して人と同じように友情や恋慕の気持ちを抱く傾向は少女の頃からあったと、谷村はあとがきで述べている。この性向が高じると、人に代わって街のすべてを引き受けようという、途方もない意志が芽生えることになる。次の歌はそのような気持ちから生まれたものだろう。
送るホームで憚りもせず触れあえばそうそう、もっと、と死者たちの声
諍ったまま運命の朝を送り出した人もいるそのぶんまでいだ
 しかし他人に代わって街のすべてを引き受けることなど、到底なしうることではない。その街が重い歴史を持ち、死者の影が揺曳する街ならばなおさらのことである。だから谷村の試みは挫折する。挫折しながら何度も何度も繰り返す。破綻するべく運命づけられている行為を、それを知りつつなお繰り返すのは実存的営為に他ならず、そこに谷村の抒情の深い地層があるのだ。
 谷村の短歌の特徴のその三は、口語ベースの歌の律にある。栞文を寄稿した短歌人会の大先輩・藤原龍一郎は、谷村の短歌において五七五七七のリズムは内在律としてのみ意識されており、短歌界に現在流布している口語短歌とは似ても似つかないと述べている。藤原はそれ以上詳しく分析してはいないが、おそらく次のようなことが言いたいのだろう。谷村の文体の対極に位置するのは、例えば「月並みなことを言うけど幸せは過ぎ去ってから気がつくものだ」という加藤千絵の歌である。この歌では五七五七七は厳密に守られている。その意味では形式上は確かに短歌である。しかしここではリズム形式が外在律として外側から枷を掛けているにすぎず、短歌に必須の歌の内部から発生する内的リズムが完全に欠如している。現代の一部の口語短歌がフラットだと言われる所以である。谷村の歌の律はこれとはまったく異なる。ゆるやかに定型を守りつつも、字余り・字足らずの破調を多く含み、時にうねり時に疾走する内的リズムの変化が多いのである。このことは上に引いた「いっそまったく違う街になってしまえば 何度も何度も咲く夾竹桃」などの歌をつぶやいて見れば感じられよう。
会えば争うような気がして行かれない黒い川面を渡るこうもり
どの卓も同じ角度で完璧なビニールの薔薇咲く尼崎アマの店
父ちゃんと娘の前にひとつずつニュートーキョー大ジョッキは置かれ
おまえより多くの町で生きてきたおまえより辛いカレーを食って
昼ビール汗となり伝う首すじを許そう許しあおう死ぬまでを
 作者は昼間からビールを飲み、激辛カレーを食べ、球場で声を涸らして応援し、博多の祭りで踊り狂うという、男性的で行動的な性格であるらしい。一言で言えばハードボイルドなのである。そういえばハードボイルド小説では街がもうひとつの主人公となっていることが多い。ロバート・B・パーカーのスペンサー・シリーズが描くボストン、ローレンス・ブロックの元アル中探偵マット・スカダー・シリーズの舞台ニューヨーク、そしてマイクル・コナリーのハリー・ボッシュ・シリーズのロサンゼルスは、作品を読む大きな楽しみとして街が克明に描かれている。ハードボイルド小説の神髄は「卑しい街を行く孤独な騎士」だと誰かが言っていたが、谷村にも次の歌がある。野球観戦の歌である。
一晩中呼びつづけたい名のために濁った街を抜け球場へ
同じ月に照らされた夜を、同じ雨に包まれた夜を、記念日として
 「濁った街」と知りつつその街を愛し、安酒場でビールを呷る。これはハードボイルド以外の何物でもない。これに雨と夜を加えれば完璧な道具立てとなる。なぜハードボイルドになるかというと、それは心の底に慚愧の想いがあるからだろう。このため時に谷村の歌には破れかぶれの感じが漂うのだが、それが致命的な破綻とならず、かえって強さを感じさせるところがいかにもおもしろいのである。
 もちろん集中には次のような美しい歌もある。
諦めの海に浮かんだわたしたちは島、緩衝の水めぐらせて
この街に雪降るたびに降ったよと知らせるたびにそれはこいぶみ
東京のビール工場の屋上に海を嗅ぐわれら海の上に棲む
いま何かに赦されて会うわたしたち匂いのしない汗を流して
ブラインドにスライスされた青空を疲れ目は細く遠く探すよ
 しかし谷村の歌の真骨頂は、街への愛憎を恋歌へと昇華するその独特な気持ちの有り様にある。専業歌人の覚悟を固めた谷村が今後どのような歌を詠むのか楽しみなことだ。

第28回 横山未来子『花の線描』

一日のなかば柘榴の黄葉のあかるさの辺に水飲み場みゆ
               横山未來子『花の線描』
 
 掲出歌は「柘榴のある水彩画」と題された連作の中の一首なので、絵に描かれた風景だと思われる。「一日のなかば」とあるので、小昼時か昼過ぎのよく晴れた日である。季節は木々の葉が色づく秋で、一首前の歌により舞台は公園と知れる。公園ならば人気があるはずだが、この歌の静謐さからは人の気配が感じられない。キリコの絵のように不思議な静けさがあたりを支配している。黄葉した柘榴と公園の水飲み場だけが描かれた歌だが、単なる叙景に留まらず、その背後にこの光景を見ている視線が強く感じられるのは何故か。私がまっさきに感じたのは「末期の眼」に映った光景という印象である。それは歌集を半ばまで読み進む過程で、歌の意味の重層化によって私の心の中に積み重なった意味の堆積が生み出したものかもしれない。
 横山についてはこのコラムの前身である「今週の短歌」という、今から思えば実に芸のない散文的なタイトルの短歌批評コラムで2004年12月に取り上げている。横山は1972年生まれで「心の花」所属。1996年に「啓かるる夏」で第39回短歌研究新人賞受賞。歌集に『樹下のひとりの眠りのために』(1998年)、『水をひらく手』(2003年)があり、『花の線描』は2007年刊行の第三歌集にあたる。表紙の花の線描画は作者本人の手になるもので、ブックデザインは4歳上の姉の未美子さんが手がけている。歌集作りのこういう細部に宿る意味は大きい。これが意味するのは姉妹の仲の良さと、家族に支えられた作者本人の生き方だろう。セレクション歌人『横山未來子集』(邑書林)の作者近影もお姉さんの撮影したとてもいい写真だった。第一歌集から第三歌集まで4~5年の間隔で歌集刊行が続いており、横山がたゆみなく短歌の道を歩いていることがわかる。今回『花の線描』を通読して、作者が成長し歌境を深化させていることが確認できる。端正な文体で彫啄された清潔な横山の歌の世界は変化していないが、明らかに深みが増している。
 では横山の歌の世界はどのように深化したか。それはあらゆる人間の成長がそうであるように、世界における自分の位置づけ、すなわち〈私〉と世界との距離を測定する作業を通じて、自分とは何かを自覚する過程である。横山は静謐な思考と自己への沈潜という内的作業によりこれを果たしたが、キリスト者である横山にはイエスの言葉もそれに与っていることは想像に難くない。この内的沈潜から横山が導き出した観念、そして本歌集『花の線描』を貫くライトモチーフは「時の重み」である。
時の重みおのおの負ひて地中へと入りゆくごとき雪を見て経る
 なぜ時の重みなのか。それは生来の病弱ゆえ車椅子の生活を余儀なくされている作者には、他の人とはやや異なる時間が流れているからだろう。横山にとって時間は人よりわずかに重いのである。
去年の冬のわが知らざりしわれとして来て蝋梅のかうにまじりぬ
卯の花の咲き撓みゐるゆたかさよたれもたれもが時をこぼせり
野分過ぎし道に黄葉もみぢば乾きをりひととせはわれを此処に連れ来つ
人あらぬ春の白日花びらに時の至りて土へ落ちゆく
まばたきの間に暮れゆけるけふの日のわが掌のうへの赤き鶏卵
 時間をテーマにした歌を書き出してみた。一首目、今年の私は去年の私が知らない誰かであるという逆転された時間意識の中に、時の旅人としての人間の姿が描かれている。二首目、卯の花は純白の小さな花をつけ、細い枝は花の重みに撓む。しかし花の時間は短く、雨など降ればすぐ地面にこぼれてしまう。下句「誰もたれもが時をこぼせり」にはこの世の誰も逃れることのできない摂理の自覚があり、この自覚が歌に清澄な透明感を与えている。一首目にも見られることだが、横山の中では自分が動くという感覚より、私が何かに動かされるという感覚の方が強いようだ。この感覚は三首目の下句「ひととせはわれを此処に連れ来つ」に如実に現れていて、〈私〉は時間に運ばれる存在として把握されている。四首目は桜を詠んだ歌だが、ポイントはもちろん「時の至りて」にある。ここには自然の摂理の自覚と同時に、微量の諦念すら感じられる。五首目は時間の流れの速さと、生命の象徴である鶏卵との対比が眼目である。
 冒頭に「末期の眼」と書いた。川端康成の文章に「末期の眼」と題されたものがある。ふだん見慣れた風景であっても、死を目前に控えた末期の眼で見ると洗われたように美しく見えるという趣旨だったと思う。歌人の中で末期の眼を最も感じさせるのは小中英之だろう。
黄昏にふるるがごとく鱗翅目ただよひゆけり死は近からむ 
                 『わがからんどりえ』
海よりのひかりはわれをつつみたりつつまれて臨終いまはのごとく眼を閉づ
                     『過客』
 宿痾を抱えていた小中にとって死は身近な親しい存在であった。遺歌集『過客』のあとがきに、小中が終生詠い続けたのは季節の過客の自覚と死への親しさだったと佐佐木幸綱が書いている。横山はまだ若いが生来の病弱ゆえ、自分を終わりへと導く時の重さの自覚が透徹した眼差しを与えたようだ。それが本歌集における歌境の深化をもたらしたものと思われる。まさに人は「季節の過客」、横山もまた小中と同じくそう言っているようだ。
 「時の重さ」の変奏として「空間の重さ」もまた横山の着目するところのようだ。
鳥にわづか果皮剥かれたる柑橘の冬の空間に重くみのれり
熱のなきひかりを生みて手底たなぞこに在りぬあらざるごとき軽さ
けふ冬となれる光よ音たててわれの行く手をに熟柿は落ちぬ
 重く実る柑橘も地上に落ちる熟し柿も、時間の経過のなせる業であり、このとき時の重さと空間の重さは結び合う。二首目は蛍を詠んだ歌で、ここでは重さの対極にある軽さが生命の短さの象徴となっている。
 横山の歌の特徴のひとつに、ふつうの意味における生活詠や職業詠がないことがあげられる。買い物籠のキャベツや職場のうるさい上司といったものは横山の歌にはまったく登場しない。自宅にいることの多い生活上の制約に起因するものではあろうが、それだけではないように思う。身めぐりを詠ってもそこに具体性を持たせることは可能なはずである。しかし横山の歌には人名・地名など具体性を感じさせる固有名が極端に少なく、事物は「鳥」「花」「湖」「町」「友」といった抽象的カテゴリーに昇華されているのだ。
薄紙は椅子にかかれり春の花を巻き締めてゐし疲れを残し
雪を残し今朝のあかるさ漆黒の翼ひろぐる鳥流れたり
をねだりゐし燕の子らの眠りゆき夜の空気のうつくしき町
地のうへの枯れ葉踏みゆく音しるく湖の縁冷えはじめたり
 生活に密着した具体性がほとんど見られないため、どこか童話や神話のごとき非人称的空間を漂う趣がある。しかし具体性の欠如が横山の歌の瑕疵かというとそうではなく、逆にそのために歌は作者個人の具体性を離れ、抽象と普遍の空間へと飛翔することになる。横山が「かなしみ」と書くとき、それは第一義的には〈私〉の悲しみなのだが、歌に詠まれたときには〈私〉の手を離れ、誰のものでもある「かなしみ」になるのである。例外的に具体性を感じさせるのは「あらせいとう」などの花の名と猫の描写で、作者が花と猫に寄せる深い愛情を偲ばせる。
 歌集巻末に収録されている百首連作「四つの窓のある部屋」は、同人誌「三蔵」2号に発表されたもので、「東の窓」「南の窓」「西の窓」「北の窓」にそれぞれ春夏秋冬の季節の歌を配している。一首ずつ引いてみよう。
立てかけられし斧の柄も朽ちゆくほどに永き日花の影は揺れゐつ
逃れられぬわが輪郭の見ゆる日を影もろともに動かむとせり
きのふに似る今日と思へる黄昏の窓の傍への塩のあかるさ
天上とおもふ位置より降りて来ぬ冬の小鳥の嘴を出づるこゑ
 古典和歌の部立を思わせる構成だが、ここにも確実に時間は流れており、歌集全体の中に置いても決して調和を乱すことはないのである。
 最後に特に印象に残った歌を引いておこう。
見えぬものを遠くのぞみて歩むとき人の両腕しづかなるかな
てのひらに湿りて在りし夏蜜柑の色ながれ出づ視野をはなれて
神の息のごとくに風の鳴れる朝しんしんとひとは行き交ふ四方よも
しばらくを蜜吸ひゐたる揚羽蝶去りゆきて花浮きあがりたり
粉のやうに薄日にひかる秋雨の甕を満たせるまでのわが生