第15回 松本典子『いびつな果実』

われをめがけ降る雪のあれ たれのたれの脚注でもなき道をゆくとき
                   松本典子『いびつな果実』
 近代短歌の歩みを歴史的に概観するとき、作風や意匠の違いは流派個人によりまちまちであっても、共通してその底を流れている希求は個の解放だろう。短歌ではアララギ系より明星系にそれが強く見られるといった濃淡の差はあれ、小説も含めた近代日本文学の一大テーマが個の解放だったのだから、それも驚くには当たらないと言えるかもしれない。明治期に西欧から移入された近代小説よりも古い伝統を引きずった短歌の世界でも、子規の改革によって短歌が個を詠うものとなって以来、歌は個の器として多く機能してきたのである。
 このような歴史的背景を踏まえて掲出歌を読むとき、この現代短歌が近代短歌の王道を深く踏まえていることが感じられるだろう。「真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり」という、青年の矜恃に溢れた子規の歌を思い出させる。「われをめがけ降る雪のあれ」という力強い断定は、命令形の乏しくなった現代短歌では珍しいほどの直情を感じさせる。「たれの脚注でもなき道」という喩にさらに「たれの」をかぶせた三句は、定型の要である三句五音をあえて六音に増音することで淀みを作り、沈み込むような深い断定を生み出している。これにより孤独を怖れずに自分一人の生を生きたいという願いが、力強い措辞によって表現されていると言えよう。
 松本典子は1970年生まれ。1997年頃から作歌を始めて「かりん」に入会。2000年に「いびつな果実」50首で角川短歌賞を受賞している。同年受賞は佐々木六戈。松本は作歌を始めてから3年で受賞したことになる。『いびつな果実』は2003年に刊行された第一歌集で、受賞作を含む350首を収録している。序文は師である馬場あき子。歌集題名は「乳ふさのあはひを風が吹きくだるわれは君よりいびつな果実」から採られており、男性にはない乳房を持つ女性の体のことだとわかる。
 一読して気付くのは相聞の多さである。「一巻のほとんどが人思う歌で埋まっている歌集は近年珍しい」と馬場も書くほどである。いくつか引いてみよう。
君以外だれも容れずにびんと鳴る弓弦のごときわれの右側
つねにつねに瞠(みきらき)しまま口づける男なり 時雨やや強まりぬ
朝なさな覚めやらぬままに啜るカフェ君の唯一のわれであれかし
われはわれの海図をひろげ航(わた)りゆくごとく凛々しく君は恋ひたき
蜻蛉(せいれい)の捕らへどころも覚えそめ歩く速度をゆるめゆく恋
君の名を口にする時われはまた小さく息を整へてゐつ
 一首目、恋人以外の人を自分の右側に歩かせないという堅い決意が、びんと張った弓弦(ゆづる)という喩によって表されている。持ち出されたアイテムの伝統性も相俟って、古風さを感じさせる恋人の姿である。二首目では四句の句割れ「男なり時雨」が一字空けによって分断されていて、動から静へ、外界から内面への移行が効果的に表現されている。四首目は掲出歌と同じく直情の強度を感じさせる歌で、海図の喩によって一首に大きな広がりが出ている。五首目の意味は、子供がトンボを捕らえるときに、体のどの部分を指で掴めばよいかを覚えるように、恋人の間でも相手とテンポを合わせたり、相手を思うように動かしたりするコツを会得したということだろう。下句の「歩く速度をゆるめゆく恋」が恋の深まりをうまく表現していて、表現のポイントが高い。
 どれも相手にまっすぐに向き合う歌で、斜に構えたり被害者意識に溺れるようなことがまったくない。これが松本の美質であり、現代短歌シーンでは貴重な資質となりつつある。もはや絶滅危惧種と言ってもよい。それは人と人との関係において、まっすぐ向き合うことが難しくなっている現代社会の反映かもしれない。松本の歌がどこか古風な印象を与えるのは、近代短歌の伝統を重んじる「かりん」の会風と馬場あき子の薫陶によるものだけではなく、歌の随所に示されている「まっすぐさ」が、今ではまるで昭和の遺風のように懐かしくすら感じられることによる。
 80年代中期のライトヴァースの興隆から90年代前期のニューウェーヴ短歌の勃興にまたがる時期に起きたのは、修辞という短歌の形式面での変化・革新だけではなく、「世界の見え方」の地滑り的変容であった。この変容は、マクロなレベルでは「トータルな世界認識の不可能性」(世界の断片化)として、ミクロのレベルではディスコミュニケーション(人間の分断化)として発現した。この時代の空気を先取りするかのように、ひりひりする皮膚感覚で表現したのは早坂類だろう。
生きてゆく理由は問わない約束の少年少女が光る湘南
居てもいい場所ではなくて片すみのスケートボードをながく見ている
うつくしい朝のしたくを整えて整えて待つ深夜の一人
これらの歌を収録した『風の吹く日はベランダにいる』は93年の刊行である。その後に登場したポストニューウェーヴ世代の若い歌人たちの歌の基調には、それを主要なテーマとするか、それとも歌の低音部に低く響かせるかのちがいはあれ、ディスコミュニケーションの影が揺曳している。そんななかで松本の「まっすぐさ」はますます希少なものと見えてくるのである。
 これは大学で近代日本文学を学んだ後、国立能楽堂を経て国立劇場調査資料部に勤務し、みずからも能楽に親しんでいるという松本の経歴にも関係があるかもしれない。本歌集にも伝統芸能に関係する歌が収められている。
金泥の眼もて泣きゐる面に対(む)きわが剥落の箇所を押さへつつ
ゆづられぬ恋と思はむ時にこそわが取り出だす〈陵王〉の面
君が舞ふ邯鄲のゆめ万象のひとつにして万象を統べたり
 最初の二首は古典芸能のアイテムを借りて感情を表現したもの。一首目の「面」は能舞の面で、面と対峙することで自らの心の剥落を意識している。二首目の「陵王」は、古代中国のある国の王が優しい面立ちであったことから、敵と戦うときに恐ろしげな形相の面を付けて大勝したという故事にちなむ舞で用いられる面をさしている。だから作者が恋敵と戦う時に取り出す面は鬼のような形相の面なのである。三首目の邯鄲も中国の故事にちなむ能舞の曲目で、眼の前で舞われている舞はひとつの現象にすぎないが、舞台の上では世界の中心となるという一瞬の奇蹟を詠っている。古典芸能に材を得た歌は、ややもすれば門外漢には近寄りがたいものになりがちだが、その弊に陥ることなくうまく消化されている。
 松本の「まっすぐさ」は日常の感情の揺れ動きを詠んだ歌にも現れている。
みづからを荷ひ過ぎぬやう三十歳(さんじふ)の夏はじめての日傘を選ぶ
手ばかりは母に似たると湯上がりの肌(はだへ)にシッカロール置きゆく
液状のかなしみ掬ひやうもなく屈めばわれの犬寄り来たる
やはらかく子をなさぬこと問われゐて牡蠣鍋の湯気あはあはと立つ
父の茶碗われの茶碗は仕舞はれてあり独りゐの母のくりやに
 働く日常と家族との関係が細やかに詠われており、これも近代短歌の王道だと改めて感じさせる歌群である。〈私〉の内面や感情という「近景」と、世界の命運という「遠景」の中間に位置し、伸ばせば手の届く距離にある「中景」を構成するのは家族・友人・職場・通勤電車からの風景などであり、近代短歌はこれらの主題を詠うことで成立した。ポストニューウェーヴ世代の若い歌人たちの歌からこの「中景」が欠落していることは、しばしば指摘されることである。松本の歌には「中景」がしっかりと軸としてあり、それを中核として「近景」とわずかな「遠景」が配されているところに安定感が感じられるのだろう。
何よりも疾く色づかな秋風に新しきリップスティックを購ひぬ
片方のパンプスを脱ぎ足裏(あなうら)をあそばせている夜の地下鉄
ほどかるる帯に呼吸を吹きかえし身は捩れつつひらく朝顔
表紙絵の二尾の鮎と見てあればふいに波立つ車窓のひかり
 一首目に歌われた女性ならではの心の華やぎ、二首目の倦怠感の漂う夜の風景などに見られる身体感覚もまた松本の歌を清新なものにしている。三首目は着物の柄のことだろうか、それとも自分の身体の喩か、判然としないながらも魅力的な世界である。四首目は本か雑誌の表紙の絵が引き金となって起きる一瞬の感覚の覚醒を詠って美しい歌となっている。
 『いびつな果実』に収録された歌を辿ると、作者の個を生きる覚悟とまっすぐな眼差しが紙背から伝わって来る。このような歌に出会えることもまた、短歌を読む深い喜びのひとつである。短歌表現の先鋭性に焦点を当てる立場から見れば、松本の歌はひょっとしたら周回遅れに見えるかもしれない。しかしみずからの個としての生を生きることに較べれば、表現の先鋭性など何ほどのものかと思える日もあることも、また事実なのである。

第14回 なかはられいこ『脱衣場のアリス』

うっかりと桃の匂いの息を吐く
         なかはられいこ『脱衣場のアリス』(北冬舎)』
  正直に告白すると、疲れて口もききたくない時や心屈する時に私が繙くのは、短歌の歌集ではなく俳句の句集である。こちらの心的エネルギーが低下している時には、短歌に充満している〈私〉は鬱陶しい。「今度付き合ってあげるから、今日は勘弁してくれ」という気持ちになる。これに対して、俳句はその極端な短さ故に、内面化された〈私〉を組み込むことが難しい。だからこちらが落ち込んでいる時にも俳句は邪魔にならず、言葉の世界へ飛翔できる。もっとも中には人間探求派と称された加藤楸邨の名句「サタン生る汗の片目をつむるとき」のように、思わず正座したくなる句もあり油断ならない。しかし、おおかたは俳句の得意とする小さな発見と認識の更新によって、当方の凝り固まった脳細胞を解してくれる。それは指圧のように心地よく、陶然となるのである。
 さて、掲句のなかはられいこは川柳の作家である。短歌の作者は歌人、俳句の作者は俳人という呼び方があるが、川柳には作者の呼び名がないようなので、とりあえず川柳作家と呼んでおく。なかはらは1955年生まれで、様々な柳誌の他、「ラエティティア」にも参加して活発に活動している人である。『脱衣場のアリス』(2001年)は第一句集『散華詩集』(1993年)に続く第二句集である。『散華詩集』も読んでみたかったが、川柳句集の入手困難さは短歌歌集のそれに倍するものがあり叶わなかった。川柳句集の流通度の低さは、川柳が「場」の文芸であることに深く関係していよう。『脱衣場のアリス』は明るい色のイラストが表紙を飾っていて、俳句・川柳から連想される古い日本家屋の黴臭さとは無縁のボップな感覚である。
 句集は7つの章に分かれていて、各章には詞書きが添えられている。例えば第1章は「からだとこころ、こころとからだ。うそをつくのはいつでもこころ」、第2章は「いただいた箱はからっぽでした、おかあさん」という具合である。これを見るとゆるやかながら各章にはテーマのごときものがあり、作者の構成意識が働いていることがわかる。
 いくつか句を引いてみよう。
たそがれに触れた指から消えるのね
五月闇またまちがって動く舌
くちびるがいちばん昏くなる真昼
開脚の踵にあたるお母さま
足首にさざなみたてて生家かな
記録的涙のあとの鮭茶漬け
三月の水の昏さが手首まで
ウォシュレットぷらいどなんてもういいの
はつこいや月星シューズおろしたて
タンカーをひっそり通し立春す
 いずれも素敵な句で何度も口の中で転がしたくなるが、さてどう読み解くかとなると言葉に窮する。短詩型文学ではよく経験することだ。こういった句を味わうには、そもそも「読み解く」ことが必要かという根源的疑問に立ち返らざるをえない。短歌の世界では歌集が出版されると批評会を開くが、聞くところによると俳句・川柳ではしないという。また歌会では取り上げた歌をめぐって長々と議論が交わされることがあるが、俳句・川柳ではあまりないらしい。同じ短詩型文学でも俳句・川柳は説明を嫌うのである。なぜだろう。
 例えば上に引いた「たそがれに触れた指から消えるのね」を例に取ると、黄昏という時間に直接触れることはできないし、現実には人の指が消えることもない。だからこの句を日常言語の語義レベルで解釈すると理解不能である。これが日常言語ではなく文学言語であることを考慮して一段階レベルを上げると、次に開かれる解釈過程は喩となる。つまり日常的には理解できないことも、作者の表現したい何かの喩ではないかと取るのである。短歌の解釈過程は通常この経路が重視されており、それゆえに短歌的喩を巡って様々な議論がなされてきた。例えば「白き霧ながるる夜の草の園に自転車はほそきつばさ濡れたり」という高野公彦の有名な歌は、日常言語のレベルでも十分に意味は解釈できるが、そのレベルでは「自転車が夜露に濡れている」という陳腐な意味を表すに過ぎない。この歌では「ほそきつばさ」に喩の全量が架かっており、市井に暮らす平凡な人間の抱く飛翔への願望とそれが叶わぬ悲哀が、喩という二次レベルでこの歌の放射する意味である。だから短歌を十分に味わうには、「読み」と呼ばれる解釈と説明が必要なのであり、短歌は優れた読みをなされることで名歌として後生に残る。だから読みは短歌の生命線と言ってもよい。
 しかし俳句・川柳では事情が異なるようだ。近代俳句の基本が写生に置かれたことから生じる即物性と、17文字という極小の形式に由来する物理的制約から、俳句・川柳の言語の詩的浮揚力は喩にではなく、言葉の連接による衝撃力に求められた。例えば橋本多佳子の「乳母車夏の怒濤によこむきに」では、赤子を乗せた乳母車という小さく無力な存在と、夏の海の大波という大きく力強い存在の対比が鮮烈な光景を生み出している点が眼目であり、乳母車も夏の怒濤も二次レベルで喩として働くわけではなく、また句全体を短歌的喩として読むべきものでもない。言葉の取り合わせが生むイメージの喚起力がすべてなのである。この傾向をさらに推し進めると、橋本の句のように言葉の連接が写生的景色を表現するのでなく、言葉の連接自体の生み出す軋みと衝撃力に詩を賭けることになる。例えば惜しくも若くして泉下の人となった摂津幸彦の「物干しに美しき知事垂れてをり」や「みづからへ手首寄すらば酸き渚」などの秀句は、言葉の連接による衝撃力というレベルでのみその詩的圧を味到すべき作品である。だから物干しから垂れている知事に何かの意味を読もうとしても無駄なのである。
 なかはらは『短歌ヴァーサス』第3号に「『思い』は重い」という文章を書いている。ふつう川柳は「思い」を詠むものだと教えられるが、本当にそうかと問いかけ、「わけあってバナナの皮を持ち歩く」(楢崎進弘)でバナナを何かの比喩だと解釈するとおもしろさの90%は失われてしまうのであり、バナナの皮はただバナナの皮とだけ取るべきだと述べている。この主張を見る限りなかはらは俳句に限りなく近づいているようで、なかはら自身の作品もそのような文脈で読むべきなのだろう。
 このような眼をもって再びなかはらの句に向かうと、その魅力が一段と輝くように思われる。「たそがれに触れた指から消えるのね」では、「たそがれに触れる」が喚起する一抹の寂寥感と「指から消える」の他界へフッと抜け出るような感触が夢幻的雰囲気を作り出しており、「消えるのね」の口語の使用が一層柔らかい手触りを句に与えている。「五月闇またまちがって動く舌」では、川柳ながら俳句特有の夏の季語「五月闇」を用いている点も注目されるが、「またまちがって」と「動く舌」の意外な組み合わせがおもしろい。ちなみにこの句の「舌」や上の引用句の「唇」「踵」「手首」など、なかはらの句には身体部位がよく詠まれており、それが句に体感的な温度を与えている点にも注目してよい。
 その他の特徴としては、効果的な口語の使用と平仮名の多用が指摘できるが、これは現代短歌の傾向と一致している。川柳では間を作り出すことによって余韻と詠嘆を生む切れ字を余り使わないのだが、なかはらには「足首にさざなみたてて生家かな」のように切れ字を用いた句もあり、いろいろ抽出を開けて実験しているという感がある句集である。
 もう少し引用してみよう。
にくしんが通る網戸のむこうがわ
大根も牛蒡も切ってさてあなた
いちねんや単三乾電池が二本
洋梨の匂い 留守番電話から
ウルトラの父より先に来る電車
この傘は夜の匂いのまま開く
ローソンへ小さく前へならえして
アンプルの首折る音とすれちがう
 『脱衣場のアリス』の巻末には、「なかはられいこと川柳の現在」と題された石田柊馬・倉本朝世・穂村弘・荻原裕幸の座談会が掲載されていて、句集としては異例のことだろう。話題の中心は俳句と川柳のジャンルとしての違いで、穂村と荻原という二人の歌人が石田・倉本という二人の川柳作家に、「俳句と川柳はどこがちかうのか」と執拗なまでに問うているのがおもしろい。結局二人の歌人が納得する答えは得られていないのだが、議論の中から短詩型文学に共通する問題が浮かび上がっている。
 例えば穂村は「開脚の踵にあたるお母さま」はよい句で「えんぴつは書きたい鳥は生まれたい」はよくない句だとし、その理由は、前者は定型というフォルムの要請で掴んで来た言葉なのに対して、後者は始めから持っていた世界観を表現したものにすぎず、これを定型のフォルムの中で提示してもまったく意味がないと述べている。いつもながら穂村の指摘は鋭く勘所を突いている。あらかじめ用意した言葉ではなく、定型というフォルムの中で選ばれ連接された言葉だけが認識の更新と詩的圧を生み出すのであり、世界を洗い直すことを可能にするのである。

第13回 小林幹也『裸子植物』

「快楽の園」の中央パネルから叔母の視線はわが頬にずれ 
            小林幹也『裸子植物』(砂子屋書房)
  「快楽の園」は15世紀ネーデルランドで活躍した画家ヒエロニムス・ボッシュの 代表作で、スペインのプラド美術館に所蔵されている。3枚の板絵からなる祭壇画で、 中央パネルには裸体の男女が淫欲にふける有様が描かれており、右パネルには地獄と覚しき場所に奇怪な生物がうごめいているという絵である。したがって掲出歌の叔母は男女の淫欲の場面を凝視していたのであり、ついで叔母の視線が横に立つ甥の私の頬に注がれるということは、叔母がボッシュの悪魔的想像力に感染したことを意味する。少ない言葉の組み合わせで緊迫した場面を描き、このあとに起きる出来事の予感と怖れを余韻として残す歌である。情よりは知的な仕掛けに傾いた短歌と言える。
 作者の小林幹也は1970年生まれ。89年に近畿大学で教鞭を執るようになった塚本邦雄に傾倒し昨歌を始め、大学で塚本の副手まで務めて「玲瓏」会員となる。1999年に玲瓏賞、2000年に現代短歌評論賞を受賞。現在「玲瓏」編集委員。『裸子植物』は2001年刊行の第一歌集で、解題は師の塚本が執筆している。最近出版された若手歌人のアンソロジー『太陽の舟』(北溟社)にも参加しており、おそらく第一歌集以後のものと思われる歌を読むことができる。
 さてその作風だが、これがなかなか変わっているのである。
木製の郵便番号忘れたりジャムバディスタ・デラ・ポルタ
元素周期乱るる夜にはフォンタナの「切傷」向けて風ぞ流るる
貝殻を閉じて祈ればシャガールの生涯こぼれ落ちたり、晩夏
マッチ擦る手つき真似つつ仙台のメリメ読みゐし少女を思ふ
バリトンを天日干しする海岸にうつぶして死ぬ海亀一家
レイキャビクのトイレで凍死せし祖父を偲び今宵は北ウィング
海豚ショウ司会者発狂降板を告ぐる水族館内放送
 小林の歌に溢れる固有名詞は歌の重要な素材となっているが、これは博覧強記の師譲りだろう。たとえば一首目のジャムバディスタ・デラ・ポルタはイタリア・ルネサンス期の学者で、中世的魔術と自然科学の間にいた人である。だからその名の喚起する意味野は科学味を帯びた魔術で、想起される場面は珍奇な動植物や実験器具のならぶ薄暗い書斎だろう。「木製」は「木星」の誤植ではないかと思うが、いずれにしろルネサンス期の学者と郵便番号の取り合わせによって、読者は一種の知的な跳躍を余儀なくされる。そこに日常の狭間に虚の空間がぽっかり口を開くという仕掛けになっている。
 二首目のフォンタナは20世紀イタリアの美術家で、キャンバスをナイフで切り裂く空間主義の芸術で知られる。ちなみに元素周期が乱れることは現実にはないので、二首目はいきなり非現実の設定から入るのだが、フォンタナの絵に向けて風を吹かせたところがミソである。三首目にはシャガールが登場するが、画家シャガールと貝殻や晩夏とは特につながりはない。つながりのないものをあえて取り合わせている。もしこれがロバやバイオリンだったら画家との関係が濃厚すぎて、シャガールを詠う歌になってしまう。作者はそれを意識的に避けているのである。
 四首目にはメリメを読む少女が登場し、他の歌よりもう少し物語を感じさせる。しかしたとえそれが物語だとしても〈私〉が参加する物語ではなく、囲炉裏の端で語られる無人称的な「○○譚」の趣が濃い。作者や作者が投影された作中人物のいかなる現実にも、この物語は対応していない。要するに虚なのである。この傾向が高じると限りなく〈奇想〉に近づく。これが五首目・六首目・七首目の歌である。バリトンを天日干しにするとか、レイキャビクのトイレで凍死するとか、イルカショーの司会者が発狂するなどはシュールな設定であり、唐突かもしれないが、「校長の無心念仏 源氏名が額に浮かび青ざめるミカ」などの笹公人の念力短歌が頭に浮かぶ。ただし、笹の眼目は究極的には抒情にあるのだが、小林の狙いは抒情にはなく、ただ〈虚〉を作り出すことにある。
 もちろん小林の短歌が単なる知的遊戯だというわけではなく、そこに一抹の皮肉と苦みというスパイスが利かされていることもある。
革命後本土に積もる初雪と喪服の裾の綻び加減
骨牌(かるた)その「骨」の部分を捲りゆく戦争未亡人の寄合
卓上燈、傘に埃の層ありて原爆投下地点を照らす
日本兵残し撃ち止めクアラルンプールのクリアランスセールは
断食の果てに響くはハライソへ寄する波調の戦争ワルツ
コンビニの定員聖痕あらはして卒倒そのときイラク空爆
 たとえば一首目の基調は革命幻想への皮肉であり、二首目では骨牌の語から骨を導き出し、それは当然ながら戦死者の遺骨を連想させる。カルタ遊びに興じる未亡人との対比が皮肉の核だろう。セールの終了はふつう「打ち止め」と書くが、それをあえて「撃ち止め」と表記して残留日本兵へと意味的につなげるのだが、「クアラルンプール」と「クリアランスセール」の言葉遊びも加えることを忘れないのである。蛇足ながら六首目の「定員」は「店員」の誤植だろう。
 小林はあとがきの中で、「叙情的なものへの嫌悪」を率直に語っている。「人を感動させなければ文学ではないなどという文学観」は自分には馴染めず、「共感などという皮膚にべったりと吸い付いて来る感情」は性に合わないという。その代わり「一首のなかにどれだけドラマや映像を喚起させる要素を盛り込めるか」に神経を注ぎ、「読者が違和感を抱くことを狙っていた」と述べている。その目的は「異質なるがゆえに、目を逸らすことができないという存在が世の中にはある」ことを示すためだという。つまり小林が狙っているのは、ひと言で言えば「異化効果」ということなのである。本書に収録された歌によって、その目的は十分に果たされていると言えるだろう。
 しかしである。池田裕美子の第二歌集「ヒカリトアソベ」の帯文に小池光が寄せた「あゝ短歌! 時間の淵にゆれうごく、哀しい花と思いたい」という言葉に、私はどうしても惹かれてしまうのである。だから本書でも作者の意図を裏切って抒情の滲み出る次のような歌群に目が止まる。作者は不本意であろう。
「言葉いづこに流れ奔るや」空心町二丁目の電停も滅びて
ともしびの消ゆるたまゆら浮かびたる古き玩具の秘むる寂しさ
不摂生たまる晩夏にすずしきは二重まぶたの女医のまばたき
ポートワインその広告がほんのりと日に焼けてゆく地下鉄出口
イスパニアその幻惑と幻滅の間に血の色のトマト転がる
恋に殉ずるなどそのかみの夢にしてわが踏みしだく喇叭水仙
 しかしである。若手歌人のアンソロジー『太陽の舟』には、小林の「死後の音域」と題された自選60首が収録されている。この収録作品では『裸子植物』の奇想と異化はすっかり影を潜め、小林が嫌ったはずの抒情的な歌が並んでいるのである。
おぼつかなげに昆布茶を運ぶ君がゐて画廊の空気が若返りゆく
雨の日に荷物が多い恋人を待つ紫陽花の咲く公園に
真夜中にテレビの台を組み立てるふたりの未来を固定するため
また無地に戻されてゐる看板を駅より見たり師の逝きし日も
海に帰る鯨の群を眺めをり盆近き日の夢の終はりに
投函とともに指輪を落とす夢ちりんと響くこころの底に
 最初の三首は実に素直な恋する若者の歌であり、「昆布茶」の選択にややひねりはあるものの違和感のかけらもない。残りの三首も韜晦や衒学からはほど遠い抒情の発露で、読者の「共感」指数は高いだろう。その証拠に、60首中固有名の登場する歌はごく僅かで、これでもかと言わんばかりに固有名に溢れていた『裸子植物』とは対照的である。『太陽の舟』の作者短信によると、どうやら小林は結婚し長女が生まれたらしい。歌に対する姿勢の変化と歌の質感の変貌は、実人生の変化に起因すると思われる。
 変貌もまた好し。新たな生を得るとは自らの死へと一歩近づくことでもある。この苦い認識が人を変えてもおかしくはあるまい。『太陽の舟』収録歌の中では特に次の歌が印象に残った。音楽を追究して遂に沈黙の領域に達した作曲家と教室内のかすかな私語の対比が見事である。
とほき彼方の席には私語の音域がありジョン・ケージを講ずるときも

第12回 野口恵子『東京遊泳』

凍土から発掘されたマンモスが疼きだしたり春日を浴びて
              野口恵子『東京遊泳』
  歌集の巻頭歌である。巻頭歌にマンモスの歌を置く歌人はあまりいない。しかしよく読めば、ほんとうにシベリアの凍土から掘り出されたマンモスを詠っているのではなく、春の日を浴びたときの気分を表現しているとわかる。冷凍されたマンモスが溶け出すのではなく「疼きだす」としているところに、作者の感覚へのこだわりを見ることができる。
 野口恵子は1975年生まれ。早稲田大学理工学部を卒業して、IT関連企業に勤めているという。「開放区」の田島邦彦の指導を受け、歌を作り始めてから3年足らずで第一歌集『東京遊泳』(ながらみ書房、2005年)を上梓。『現代短歌最前線 新響十人』(北溟社、2007年)にも選ばれている。「東京遊泳」という題名が魅力的で、白く波立つ薄青の表紙に半透明のブラスチックカバーを掛けた装幀が、歌集全体に漂う浮遊感を視覚的に演出している。少し珍しいのは、目次が「第一章 南の国にて」「第二章 オパールの風」と、全部で十章まで章分けで構成されている点だ。この構成は第一歌集によく見られる編年体ではなく、周到に歌を配置して編んだ歌集であることを意味している。
 さてその歌の世界であるが、まずいくつか特徴的な歌を引いてみよう。
始生代の隆起に降りし春雨か薄むらさきに染まりて森羅
のびやかに蛙の胎は伸縮し地球の鼓動に近づいてゆく
深黒(しんこく)の冥王星の引力にパラソルの影かたむいていく
君とわれ宇宙に浮きし塵のころ地球の誕生ながめていたり
火星から望遠鏡で覗いてる琥珀に光る蝉の抜け殻
青藍の銀河を渡るウミガメが産卵をする星満ちる空
 これらの歌には作者の理科系の想像力を見ることができる。例えば一首目では、ふつうの歌人ならば「緑なす丘」などと詠むところが「始生代の隆起」である。眼前の丘のことを言っているのなら、風景は同一でも何万年もの時間を踏まえているし、もし「始生代の隆起にも降ったような雨」という意味なら、同じだけの時間を飛び越えていることになる。二首目では蛙の腹の動きが地球の鼓動と呼応しており、三首目では日傘の影の動きとはるか彼方の冥王星とが呼び合っている。残りの三首では画面がすっと引きになって、地球を含む宇宙的スケールでの映像が展開される。このように古生物を含む地球が辿った何百万年もの時間と、光年単位で計られる宇宙空間を想像力の射程に収めているところがこの作者の特質だろう。
 宇宙的ヴィジョンといえば井辻朱美の名がすぐに頭に浮かぶが、野口の場合はやや肌合いにちがいがある。井辻の短歌世界では、主題としての古生代や宇宙空間がSFファンタジーにおける世界設定として構築されている。そして描かれた異世界がインナー・スペース化しているところに特徴がある。だから私たちが井辻の歌を読むときには、ドアを開いて異なる世界に入って行く感覚を覚える。ところが野口の場合、古生代や宇宙空間が特に異世界として意識されているのではなく、インナー・スペースになっているわけでもない。私がいる今ここと自然につながっているかのように詠まれているのである。
 また次の歌群には、ヒトである〈私〉と動植物との種を越えた融合感覚が見られる。
冷涼の春霖を吸うわたくしに鱗の生えて青く光れり
朝帰り 日差しまぶしき果実からはじき出された種子なり吾は
うろこもつ魚となりて夢のなか銀河の空を泳いでいたり
大あくび空に伸びするわたくしは土より生えた生き物となる
わたくしは何であろうか存在の境界なくすボルネオの闇
 これまた理科系出身歌人である早川志織に見られた感覚とよく似ている。しかし「傾けて流す花瓶の水の中 ガーベラのからだすこし溶けたり」のような早川の歌では、種の境界を越える濃密な身体感覚があり、その感覚はときとして性的な微熱を帯びる。この微熱は野口の歌には見られない。野口の歌では種の境界を越えるという想像がもたらす浮遊感や解放感のほうが大事なように見える。野口はスキューバ・ダイビングが趣味で、しばしばボルネオの海に潜っているという。魚や海草に囲まれて海の中を漂う浮遊感にいたく惹かれているらしく、この浮遊感覚が歌を作る際にも基調として働いているようだ。
 歌集の栞文を書いた早川志織・菊池裕・錦見映理子の三人が異口同音に述べているように、集中では歌集題名ともなった「東京遊泳」の連作に作者の個性が最もよく表れている。
始まりは東西南北を見通せる銀座四丁目交差点から
光りごけ群生している森にいる晴海通りを湿らす明り
東京の夜の雲にはうっすらと魚群の影が映されている
もっそりと柔き甲羅の動き出し籠り沼に帰す東京ドーム
海中をクラゲとなりて泳ぎだす湾岸沿いの巨大タンクは
マンションの裏へ回れば浴槽で飼われし人魚の悲鳴が聞こゆ
   作者は東京の夜は海に似ているとある時気づき、それから好んで夜の東京を漂うように歩くようになったという。大都市の照明と光りごけ、雲に移る魚群、巨大な亀に見立てられた東京ドーム、泳ぎ出すガスタンク。不眠都市東京の夜の光景が海の中の風景のように描かれている。都市詠は近代短歌の大きな主題のひとつだが、都市がこのように海中風景との類似において詠われたことはないのではないか。主題と発想の点からは、ユニークな成果だと言えるかもしれない。ここでもキーワードは浮遊感なのである。
 短歌史の次元をからめて考察すると、野口の歌にはひとつの特徴が見られるように思う。近代短歌はまず第一に〈私〉の歌であり、歌の中での〈私〉の位置取りが問題となる。文体の上で〈私〉の位置取りに大きな役割を果たしてきたのは視点であり、近代短歌は視覚優位を特徴としている。ところが野口の歌の多くは視点が固定せず浮遊し、またそもそも視点が設定されていないものもある。
葉の裏の気孔の開閉こだまして森はひとつに深呼吸する
万象の上に優しく雨は降り孤独な夜をいくつもくるむ
寝ころんでいる昼すぎの砂浜はわれを貼り付け地球は回る
 野口の歌の構造は比較的単純で、「~は~する」という叙述文形式のものが多い。これは事象を述べる文型であり、くびれのない事象叙述に〈私〉を組み込むのは難しい。たとえば同じように雨を詠っても、「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」という名高い茂吉の歌では、「百房の黒き葡萄」という描写の具体性によって、眼前に広がる葡萄畑とそこに降る雨とがある視点から見られた情景となり、上句の見ることを強いる声と重合することで、全体として作者の立ちすくむような戦後の悲傷を浮き彫りにしている。茂吉の歌には見る〈私〉が確かに存在し、見られる情景との拮抗が一首の内部に緊張を生み出している。一方、上に引用した野口の二首目では、雨は万象の上に降るのであり、特定の物に降っているのではない。ここには視野の切り取りがなく、紗のかかったような雨は世界全体に降るものと捉えられている。この視点の非固定はまた、下句の抽象的感慨とも呼応しているのである。
 ちがいは明らかだろう。野口の歌に見られるのは、近代短歌の主調をなす視覚優位の〈私〉ではなく、風景の一部として溶け込み世界の一部をなす私であり、ときに種の境界すら越えてしまう私なのである。野口は一人称代名詞として「吾」「わたし」「わたくし」「われ」と様々な表記を混用しているが、この文体的選択もまた主体としての私の輪郭をあえて融溶させて、世界とひとつらなりになる希求の表れなのかもしれない。これもまた近代短歌の〈私〉がすでに耐用年数を迎えていることの兆候なのだろうか。
 野口はあとがきのなかで、「短歌のことを多く学んでしまう前に第一歌集を出したいと思っていた」と述べている。習熟と知識を拒絶するのは、現時点での等身大の自分に対するこだわりからだろう。その矜恃やよしとすべきかもしれない。しかし集中には「呼応する宇宙はひとつのガラス玉 星がきらめき波がさざめく」のように、主題を説明してしまっている歌も多く見られる。説明せずいかに詠うかが今後の課題だろう。
 『東京遊泳』はこのように、いろいろな意味で浮遊感覚に満ちた歌集である。作者が今後どのように習熟と知識を受容して新しい歌を詠うのか注目したい。

第11回 池田裕美子『朱鳥』『ヒカリトアソベ』

ありあけのなかぞらに浮く花暈(はながさ)のさくらは冷えて時なきがごと
              池田裕美子『ヒカリトアソベ』
 私は短歌を作らない/作れないので、自在に言葉と韻律を操る歌人の方々の奇術師のごとき幻妙な手つきを見てただ驚嘆するばかりである。歌を繰り出す歌人たちの手つきを観察すると、いくつかのタイプに分けられることがわかる。「虚空を一閃して花束をつかみ出す」と言ったのは中井英夫だが、絶対的虚から歌を取り出す「つかみ出し型」は、若手ならさしずめ黒瀬珂瀾あたりが代表か。過去の体験や子供時代の記憶の柔らかい闇から言葉を汲み上げる「汲み上げ型」の歌人もいる。東直子の短歌を読んでいると、何だかなつかしい気持ちになるのはこのためだろう。心に沈殿した澱のごときものを毒を交えて吐き出す「吐き出し型」の人もいる。森本平や島田修三の名が頭に浮かぶ。この他に「織り上げ型」と呼びたい歌人もいて、蜘蛛が透明な糸を吐いて巣を織り上げるように、言葉を丹念に紡いで歌を織り上げる。池田裕美子はそんな印象を与える歌人である。
 掲出歌を見ると、「ありあけ」「なかぞら」という古典和歌の語彙を格助詞ノ・ニ・デで柔らかに連ねて桜を眼前に現出させ、さらに倒置法により結句に置かれた「時なきがごと」であたかも桜の花群を中空に氷結させるような言葉の運びである。滑らかな韻律とあいまって、一首三十一音の短さの中にそれをはるかに超える広がりを持つ歌の空間を織り上げている。
 池田が歌を紡ぎ出す手つきをもうひとつ見てみよう。
まぐのりあ そのおんいんの敬虔のおもむくところ──ヒカリトアソベ
 原文では外来語であることを示すため「まぐのりあ」に傍点が振られている。マグノリアは木蓮・泰山・辛夷などの花木の総称。しかし直前に「薄明のはくれん美(くわ)し死を告(の)らす神があたえしきよきくちづけ」という歌があり、白木蓮であることがわかる。作者は「まぐのりあ」という樹木名から、マリア、グロリア、マグダラというキリスト教に因む単語を紡ぎ出す。その音韻上の連想から「敬虔」という語が導かれ、視線は自然と天上へと向かう。歌集題名ともなっている結句の「ヒカリトアソベ」は、作者が敬愛する浜田到の「こよひ雪片ほどに天よりほぐれ落ちて来る死者の音信『ヒカリトアソベ』」から採られている。浜田は死の想念に浸された形而上的世界を魂の震えとともに詠った歌人である。「まぐのりあ」の音韻に導かれた宗教的連想と、手を合わせて祈るがごとく天に向かって咲く白木蓮の花序と輝く白とが、織り上げられるように浜田の天上的世界への憧憬へと収斂している。この歌は池田が言葉から歌を紡ぎ出す手つきをこの上なくよく示していると言えよう。
 いつものように今回も歌人ご本人に関する知識は皆無で、私の前には『朱鳥』(1999年 雁書館)と『ヒカリトアソベ』(2007年 砂子屋書房)の2冊の歌集があるばかりである。『朱鳥』のあとがきによれば、1986年頃から作歌を始め、「かりん」「あまだむ」と所属を変えて、現在は「短歌人」所属。第一歌集『朱鳥』には小池光が跋文を寄せている。歌を読んでいくと、第二次世界大戦に従軍した父を持ち、少し前に定年退職した夫がいることがわかるので、それ相応の年齢の人だろうと推察される。
 2冊の歌集を統べる主題をざっくりと摘出するならば、それは「時間」と「光」ということになろう。この主題はすでに歌集題名に明らかである。第一歌集の「朱鳥」は「あかみどり」と読み、「這いおりる鬼千匹の紅葉谷 朱鳥元年大津皇子はや」という歌にちなむ。朱鳥とは天武天皇の時代西暦686年に短期間用いられた元号で、この年の10月に大津皇子が謀反の嫌疑により死を給わっている。だから歌の紅葉谷は大津皇子が埋葬された二上山にちがいない。眼前にあるのは血のように赤い紅葉だが、作者の想念は時間を飛び越えて大津皇子の悲劇へと向かっているのである。このように歌集題名の「朱鳥」は、歴史の厚みの彼方へと読者を誘うタイムマシンとして働く。
 作者の時間の観念は次のような歌によく現れている。
アンティーク通りの窓辺そぞろゆく時間(とき)の詐術のようなたそがれ 
                      『ヒカリトアソベ』
とうろりと時間の壺の煮詰れるうみの名上総(かずさ)が安房(あわ)へと移り
打ちて殺めし子を背負いたる油壺ざくろのいろのゆうばえ冷えつ
 一首目は古美術商の立ち並ぶ通りを歩いている情景を詠んだもの。作者は黄昏時の古美術商の飾り窓に歴史的時間の重層性を見ると同時に、〈私〉の生きる今という時間の不可思議を詐術と表現しているのだろう。二首目は「時間の壺」という表現がおもしろい。壺の中には様々な時間が煮詰められているのである。自動車で千葉県の中央部から南部へと移動しているのだが、上総と安房という古名により時間的広がりを出している。三首目は夕景を詠んだ歌だが、三浦半島の油壺に伝わる伝承を景色に重ねることで景色の色を深めている。油壺には湾に飛び込んだ武将の血で一面油を引いたようになったという伝承もあるらしい。これらの歌を見てもわかるように、作者は「今・ここ」という局所的時空に歌を閉じこめるのではなく、歌を時間の中へと解き放つのである。そのとき跳躍台となるのがしばしば言葉であることにも注意しよう。現在は過去の集積の上に成立しているのであり、私の生きる今は過去から切り離すことはできないという思想がおそらくそこにはある。歌人を空間派と時間派に二分するならば、池田は断然時間派の歌人なのである。
 次に光の主題だが、第二歌集『ヒカリトアソベ』の題名の由来についてはすでに述べた。浜田の歌にも「白昼の星のひかりにのみ開く扉(ドア)、天使住居街に夏こもるかな」のように、天上的な光が満ちている。池田の歌集から光にちなむ歌をいくつか引いてみよう。
ひさかたのひかりの春やまなうらを聖三稜玻璃くだけやまずも 『朱鳥』
ふり仰ぐ楝(おうち)のこずえ透明な神経叢のひかりふる秋
朝雲のたなびくあわいを光りつつ神の素足の降(お)りたたんとす
あさじめるはなびらひらきゆくときを鳥のこえひくひかりはのぼる 
                     『ヒカリトアソベ』
寒のそら二層に明けて朱を離るるみずのひとみのみひらきてゆく
生命の褥(しとね)のごとき羊歯類のさみどりに沁む五月のひかり
 一首目はh音の連続が心地よいリズムを作り出している。「聖三稜玻璃」は山村暮鳥の詩集の題名であり、暮鳥の詩にも溢れる光のイメージと遠く交感している。二首目の神経叢に喩えられた秋空から降り注ぐ光、三首目の雲間から矢のごとく降る朝の光などその姿は様々であるが、いずれも歌の内部を静謐な明るさで満たしている。このように池田は「時間と光の歌人」と呼ぶのがふさわしい。
 池田の時間の襞に分け入る眼差しは、第二歌集に至ってその深度を一層増しているようだ。
しんとした野獣が居座る厳冬はドン・コサックの馬橇が走る
古書店の外積みの百円コーナーに『日本植民地史』あるはるのあわゆき
終戦の日のどの家にも直立したる柱時計あり玉音の刻
馬車馬のあますなく血肉を奉じたる昭和暮れがた父老いづけり
要塞の〈鷲の巣〉にさす薄荷光しみのようなり遺書の平凡
テニアン島に死者たちが漕ぐ潮舟の金環蝕のリングをなせり
「昭和40年頃を住んだ北海道」という詞書のある一首目は若い頃の記憶だが、作者の時間遡行は老いを深める父親を媒介として、戦争の昭和へと後ずさりするように進んでゆく。古書店に売られている『日本植民地史』を引き金として、終戦の日や父親の戦争体験へと連想が広がる。五首目の「鷹の巣」はヒトラーの山荘の名で、作者の想いはヒトラーとエヴァへと、また南海に散った兵士たちまで及ぶのである。
 先に池田が歌を紡ぎ出す手つきを「織り上げ型」と呼んだのは、歌の随所に周到に配置された語彙や固有名が、呼応し交感しつつ立体感のある世界を組み上げているからで、読者は通り一遍の読み方ではなく、知識と共感を動員して織物を解きほぐすように読むことを求められるのである。なかでも池田が好むのは固有名であり、人名と地名である。
薄氷(うすらい)のごときが閉ざす上空ゆ〈神を呪え〉とヨブにその妻
厚雲のしたびを洩れて白金(はっきん)の刃(やいば)ひらめく ミケランジェロ忌
雨戸洩るひかりのなかに浮かびきてルドンのBuddaのまどろむおもて
太陽の朱の芯おつる海に添いラスコーリニコフの斧の半島のぼる
夏泊はかなき名なり夏果ての海に老太陽のような月浮く
入善町小摺戸(にゅうぜんまちこすりど)……蝋の仄ぐらさぬくき根雪に墓はくるまる
宮益坂志賀昆虫普及社におとうとに買う蝶の眠りを
 ヨブは旧約聖書の人名。身に降りかかる災厄に〈神を呪え〉を囁くのは悪魔である。ミケランジェロは血管の浮く隆とした筋肉を想起させ、ルドンは白昼夢のような幻想的光景へと連想を導く。ラスコーリニコフはドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公で、斧で老女を惨殺することを知っていれば、斧の形の下北半島に一層の暗さが増す。夏泊は陸奥湾に突き出た半島の名で、瀕死の太陽とともに東北地方の夏の短さを際だたせている。入善は富山県の地名。昔は裏日本と呼ばれた日本海側の沿岸地方には、味わい深く淋しい地名が多い。固有名に意味はないというのが言語学の定説だが、地名は土地の個別性を強く喚起するのであり、かのプルーストが地名の詩的喚起力にこだわったことはよく知られている。宮益坂は渋谷駅の東口から続く坂。「志賀昆虫普及社」は、塚本邦雄の「ロミオ洋品店」、村上きわみの「小笠原義肢装具店」などと並ぶ効果を一首の中で上げている。季刊『現代短歌雁』34号(1995)の「地名の喚起力」特集で、「近代・現代短歌の聖地」と題する記事をまとめたのは他ならぬ池田であった。この記事には海石榴市から東急ハンズに至る近現代短歌の歌枕が集められており、池田の地名に対する興味が窺える。ただ第二歌集では固有名の出現頻度は低下していて、池田の歌作が抽象性を増していることを示唆している。
 歌に詠み込まれた固有名にはどのような効果があるか。それは歌の質によって異なる。池田の歌に出現する固有名は藤原龍一郎の歌に頻出する固有名と機能を同じくしない。かつて永田和宏は「普遍性という病  ― 読者論のために」(『喩と読者』所収、初出『短歌現代』1982)の中で、執筆当時に発表された短歌に固有名が少ないことを指摘し、若手の歌人たちが「事実の具体性」よりは「真実の抽象性」を重んじる「普遍性という病」にかかっており、「想像力の自家中毒」に陥っているのではないかと警鐘を鳴らした。それからはや四半世紀を経て、永田の指摘は現代の若い歌人たちの作る歌にはもはや妥当しないように思われる。若い歌人たちは「普遍性という病」ではなく、その対局にある「個人性という病」に罹患していて、〈小さな私〉と恋人と僅かな友人だけから成る小世界の外側に目を向けることが少ない。この場合も「普遍性という病」に罹った時と見かけは同じように、固有名の使用は減少することに注意しよう。世界は名からできており、目を向ける世界が矮小化すれば名の数もまた減るからである。
 池田の歌に登場する固有名は、一首三十一文字の小世界を大きな時間の流れへと接続する。固有名という転轍機を媒介として歌はより大きな「外部」と繋がり、音韻と意味の交響を紡ぎ出すことで一首に奥行きを与えるのである。「外部」を失なうと詩の言葉は痩せる。池田の歌はこのことを教えてくれているように思われるのである。

第10回 辻征夫『貨物船句集』

兄貴死んだ俺は玉緒としゃぼん玉
              辻征夫『貨物船句集』
 今回取り上げるのは歌集ではなく、辻征夫(つじ ゆきお)の『貨物船句集』(書肆山田 2001年)である。辻は1939年生まれの現代詩人。『天使・蝶・白い雲などいくつかの瞑想』(藤村記念歴程賞)、『かぜのひきかた』(藤村記念歴程賞)、『ヴェルレーヌの余白に』(高見順賞)、『俳諧辻詩集』(萩原朔太郎賞)など数々の受賞歴がある。2001年に脊髄小脳変性症により他界。『貨物船句集』は句友・井川博年の編集による遺句集で、「貨物船」は辻の俳号。ちなみに名字の「辻」はふたつ点のしんにゅうが正しい表記という。
 掲句は俳句としてはいささか異例な作りである。初句が「兄死んで」ではなく「兄貴死んだ」と切れているところに俳句をはみ出した抒情性が滲み出る。俳句は本来抒情詩ではないので、専門の俳人ならこういう作りにはしないだろう。句中の「玉緒」は「しゃぼん玉」という児戯の連想で、うんと年下の恋人か酒場の女と取りたい。句全体から、この先どう生きてよいのかわからない男の姿が浮かび上がるが、このイメージは辻の詩の世界と通底している。季語は「しゃぼん玉」で春。
 さっそく『貨物船句集』から印象に残った句を引いてみよう。どれもいかにも俳句的な難解語を避け、平易な日本語で書かれている。一読して記憶に残る句ばかりだ。
うすければはしかけておりひるのつき
あきまつり柄杓のふちに紅つけて
つゆのひのえんぴつの芯やわらかき
物売りが水飲んでいる暑さかな
新樹濃し少年の尿(いばり)遠くまで
房総へ浦賀をよぎる鬼やんま
バケツなれば凹みもありし四月馬鹿
春は春路上のわれのらんるかな
満月や大人になってもついてくる
 なぜ現代を代表する詩人が俳句を作るのだろうか。解説を寄せた小沢信男によると、詩学社にたむろする詩人の間で俳句をやろうという話が80年代の終わり頃に持ち上がり、辻征夫、小沢信男、井川博年、八木忠栄、多田道太郎、清水哲男らが参集し「余白句会」と称して月一回の句会を催すことになったという。詩人の余技かというとそうでもない。なかでも清水哲男は『打つや太鼓』『匙洗う人』という句集を持つほど本格的に句作に打ち込んでいる。辻が俳句に手を染めた動機も余技というものではなかったようだ。現代詩と俳句はどのような関係にあるのだろうか。
 現代詩というと思い出すことがある。残暑の気配もようやく引いた2007年9月29日のことである。東京は南青山のNHK青山荘で、松野志保さんの第二歌集『TOO YOUNG TO DIE』の批評会が開かれた。私はパネリストを務めることになっていて、開会前にロビーの喫茶コーナーで司会の藤原龍一郎さんたちとの打ち合わせに臨んでいた。テーブルにはパネリストの一人である詩人の川口晴美さんが、私の真向かいに座っていらした。川口さんは「歴程」同人で、『やわらかい檻』『綺羅のバランス』などの詩集をお持ちの、長い髪をした美しい詩人である。ひととおり初対面の挨拶をすませたとき、川口さんが私に「現代詩はお読みになりますか」とたずねられた。私はどきまぎして深く考えもせず「あまり読みません」と答えてしまい、美しい詩人の不興を買ってしまったのである。
 今では現代詩からすっかり遠ざかってしまった私も、昔は現代詩を読んでいた時期がある。今でも書架の奥を探せば、思潮社版の現代詩文庫や飯島耕一『ゴヤのファースト・ネームは』や渋沢孝輔『われアルカディアにもあり』が見つかるはずだ。今から振り返って考えると、私が現代詩を読まなくなったのは、私一個人的の事情というよりは、世の趨勢としての現代詩の退潮と同期していたようだ。私にはその間の事情を論じるだけの知識がないので、岡井隆の発言を引用しておこう。
「戦後詩と彼らは呼んでいるんだけど、つまり難解を恐れない詩作りですね。吉岡実さんなんかもそうだね。あと、谷川俊太郎なんかが最後かなあ、むしろ難しい方がいいくらいに考えていた。それがいまや読み手がいなくなってしまった」(小林恭二『俳句という遊び』岩波新書 1995)
 現代詩はある時期、このような閉塞状況に置かれていたのである。そこには「戦前期のモダニズムを、あの戦争を生きのびることによって否定的継承者とし結実させて、戦中派の”遺言執行人”として登場した戦後派詩人は、その虚無と空白を詩的言語と化した。それは”戦争体験”世代の宿命でもあったが、日本の国民詩、詩の伝統からの途絶であるがゆえに、言葉の荒涼を否応なく、引き受けざるをえなかった」(富岡幸一郎「旬を読む: 城戸朱理『戦後詩を滅ぼすために』の書評」という事情があったらしい。富岡の言う「言葉の荒涼」を引き受けざるをえなかったとすれば、現代詩が孤独な発語の袋小路に陥った歴史的事情は理解できる。
 一方、辻征夫はというと、「遊び心と本気」と題された『俳諧辻詩集』のあとがきで、次のように述べている。
「かつて現代詩は、伝統的な文芸である短歌俳句とは別の地点に独自な詩の世界を確立しようとしたが、私たちはすでに〈別の地点〉という力みからも自由であることを自覚している」
「私は二年前の春から自作の句を突き飛ばすような感じで、「俳諧辻詩集」という連作を試みているが、これも元をただせば現代詩は痩せすぎたのではないかという思いから来ている。江戸以来の俳句は簡潔な認識と季節感の宝庫であり、それは気がついてみれば現代詩にとっても貴重な遺産だった」
 戦後詩を担った吉岡実は1919年、鮎川信夫は1920年、田村隆一は1923年生まれだから、1920年前後に生まれた人たちが、25歳前後で終戦を迎えて戦後派詩人の第一世代となった。飯島耕一と渋沢孝輔は1930年、谷川俊太郎は1931年生まれで、第一世代とは10歳年下の第二世代を形成している。私が読んだ現代詩はこの世代のものだったのだ。富岡の言う「言葉の荒涼」を引き受けた世代である。私の現代詩体験はこの世代で停止している。辻征夫は1939年生まれだから、さらに10歳年下で、第三世代と呼んでもよい。第一世代から見て20年の年月が辻に「現代詩は痩せすぎた」という認識を可能にしたのだろう。辻征夫は「戦後詩は終わった」とも述べている。この世代の辻や清水哲男の目には、短歌・俳句という伝統的詩型が「貴重な遺産」と映っていることは注目すべきである。かつて「伝統的な文芸である短歌俳句とは別の地点に独自な詩の世界を確立しようとした」現代詩が、決別すべき仇敵と見なした短歌俳句に眼を向けるようになったのである。飯島耕一も晩年は江戸文芸に傾倒していたと聞く。これを老年になっての日本回帰とのみ断じることはできまい。
 「現代詩は痩せすぎた」という認識が辻をして、伝統的詩型と現代詩の接点を見いだす試みへと船出させた。こうして生まれた『俳諧辻詩集』は、自作の俳句に詩を付けた連作という形式を取っている。短いものを選んで引用してみよう。
五月雨

さみだれや酒屋の酒を二合ほど
(雨ってのは
見ているものだな
傘屋の軒
酒屋の土間
どこからでもいいが
黙って見ているのがいちばんいい
するとなにやらてめえのなかにも
降りしきるものがあるのがわかってくる
なんだろうこの冷たさは
なんて
……
雨がやんだら?
ばかやろう
さっと出て行くのさ)
 若い人のために解説しておくと、昔の酒屋の奥にはかんたんなカウンターがあり、客に酒を立ち呑みさせていた。居酒屋よりも安く呑めるので、これからネオン街に繰り出そうという人が下地作りに酒屋で立ち呑みした。「酒屋の酒を二合ほど」というのはそういう情景を詠んだものである。俳句は説明抜きに情景を鋭く切り取る文芸なので、掲句には五月雨に降り込められて酒を呑んでいるという情景以外は表現されていない。一方、添えられた詩は抒情詩である。この詩の肝は言うまでもなく「するとなにやらてめえのなかにも/降りしきるものがあるのがわかってくる」のくだりだ。情景を鋭く切り取る写実詩の俳句と、個人の心情の深みを掬い上げる抒情詩とが、同一の主題を蝶番として反照し合い、互いの詩型の本質を照射すると同時に、互いに浸透し合ってひとつの詩的世界を組み上げている。辻が意図したのはそういう試みだろう。詩の言葉を痩せ細らせるのではなく、互いの歴史的遺産を持ち寄ることで、逆に詩の言葉に広がりを与えようという試みなのである。
 『貨物船句集』には『俳諧辻詩集』で使われた句がたくさん収録されている。『貨物船句集』を読んでから『俳諧辻詩集』を読むと、まず俳句として読んだ句が抒情詩とどういう出会いをするかを楽しむことができる。逆に『俳諧辻詩集』を読んでから『貨物船句集』を読むと、抒情詩の部分を削られた俳句が単独の句としていかなるたたずまいを見せるかを味わうことができる。どちらも楽しい体験なので、ぜひ両方を読むことをお奨めしたい。今年の夏の酷暑の中で、一服の心の涼を味わうことができる理想的な緑陰読書である。読んでいると路地の打ち水からかすかな涼風が立ち上るような感を覚えることを請け合おう。
 では辻の俳句の特色は那辺にありやというと、やはり俳句らしからぬその抒情性だろう。辻の句は抒情詩人の作る句なのである。
葱坊主はじっこの奴あっち向き
リスボンのあばずれ恋し蜥蜴彫る
冬の雨若かりしかば傘ささず
行春やみんなしらないひとばかり
にぎわいはなみばかりなる冬の浜
「葱坊主」の句からは絵本のような童話的な情景が立ち上がるし、「リスボン」の句の背後には異国の恋物語という強い物語性がある。俳句は説明抜きで情景を切り取る文芸であるが、抒情には物語が必要である。このふたつは本来は相反する特性なのだが、辻の俳句ではこれが同居しており、それが辻の句の独特の味わいとなっている。
 では俳句的な俳句とは何かということだが、私にはこれを論じる資格がないので、大家に語ってもらうことにしよう。今は亡き三橋敏雄の「よそながら音なき日あり龍の玉」という句を評した、これも今は亡き藤田湘子の言である。
「つまりですねえ、「よそながら」も「音なき」も意味もクソもないんだ。でもね、そのすべての言葉がね、「龍の玉」という季語に奉仕しているんだ。それだけの句なんだね。だけどそれでいながら読み終わったあと龍の玉が見えてくるんだ。(…) こういう句はいい句なんだよ」(小林恭二『俳句という遊び』岩波新書 1995)
   なかなか含蓄に富む言葉である。短歌や詩とは異なる俳句の生理を言い表して間然とするところがない。このような立場に立つ俳人ならば、「にぎわいはなみばかりなる冬の浜」の「なみばかり」は「冬の浜」の説明になっているとか、着き過ぎているなどと批評するにちがいない。しかし辻の俳句は抒情詩人の句だから、私たち読者はそのことをわきまえて味わえばよいのである。
 最後に『俳諧辻詩集』という題名について。昭和18年に日本文学報国会の呼びかけで軍艦建造の募金集めの一環として208人の詩人が詩を寄せた『辻詩集』が刊行された。戦争協力の翼賛詩集である。相馬御風、木下杢太郎、堀口大学、村野四郎、小野十三郎、北園克衛、滝口修造など、錚々たる面々が名を連ねている。戦後詩はこの『辻詩集』を否定するところから出発した。『俳諧辻詩集』には「俳諧」と冠されてはいるが、この題名を見ればすべての詩人は戦前の『辻詩集』を思い浮かべる。辻はそのことを十分承知してこの題名を選んだのである。この題名の選択もまた「戦後詩は終わった」という辻の認識と深く関係することは言うまでもない。

第9回 奥田亡羊『亡羊』

ジャム瓶の口に凭るるスプーンの細長き柄の先端五月
                      奥田亡羊『亡羊』
   蓋を開けたジャムの瓶の口に、今しもパンにジャムを塗るのに使ったスプーンが立てかけてある。ジャムはありふれたイチゴなどではなく、季節にふさわしいレモン・ママレードか花梨のジュレあたりがよかろう。「凭るる」という動詞で擬人化されているので、まるで長身の男が足を交叉させて樹の幹に凭れているようなイメージが湧く。「柄の先端」はスプーンの握りの部分の先を指すが、スプーンがどちら向きに立てかけてあるかで、柄の先端の向きが異なる。ジャムをすくった丸い部分を上向きに立てかけたなら、柄の先端はテーブルに接している。逆向きならば柄の先端は天を向いている。しかし後者だとジャムのついた丸い部分がテーブルを汚すことになるので考えにくい。ここで解釈を修正して、スプーンはジャムの瓶に突っこんであると考えると、柄の先端は正しく上を向く。そして天から降り注ぐ五月の光を反射して銀色に輝くのである。スプーンの柄の先端という極小世界に大きな季節の移り変わりを閉じ込めた構成は、短詩型文学の短さが世界を切り取る武器となるという逆説を実証している。「○○の××の▽▽の」と属格を連ねて最後を体言止めで受ける措辞も効果を上げている。歌集でこの歌の次に置かれている「はちみつの中をのんびり上りゆく気泡ありたり微かなる地震(ない)」と並んで、静謐な描写と確かな観察眼を感じさせ、印象に残る歌である。
 奥田は1967年生まれ。TVディレクターという職業のかたわら作歌を始め、1999年短歌研究新人賞次席。その年の新人賞は長江幸彦の「麦酒奉行」。2005年再度挑戦して「麦と砲弾」で新人賞受賞。『亡羊』は受賞作を含む第一歌集で2007年刊。「心の花」会員で、跋文は佐々木幸綱が寄稿している。新人賞発表の「短歌研究」2005年9月号に載っている奥田の近影はスキンヘッドである。墨染めの衣と剃髪は、古来からこの世を捨てた者の記号である。奥田がこの世を捨てたかどうかは定かではないが、この世から距離を置いた生き方をしようとしていることはまちがいない。「亡羊」は中国の列子の故事から取られた名前で、逃げた羊を追いかけたものの、道が枝分かれしていてどちらに逃げたかわからず途方に暮れている様を表す。第一歌集の題名に筆名を採用したところにも、作者の思い入れが見てとれる。
 佐々木幸綱は跋文で奥田の美点を三つ挙げている。独特な映像感覚、新しい男歌の可能性、そして歴史・伝統への興味の三つである。私は一読してそれほど映像感覚は感じなかったが、残りの二つは同意見である。ただ「歴史・伝統への興味」という言い方は少し的を射ていない気もする。奥田の世界観と作歌技法の根幹にかかわる特質だと思う。実例を見てみよう。
宛先も差出人もわからない叫びをひとつ預かっている
青空に満ちくる声を聞きながらバットでつぶす畑のキャベツ
 歌集冒頭の一連に置かれた歌であり、二首ともに「叫び・声」を詠んでいる。ここには二つの点で作者の世界観が看取される。ひとつは「どこから届いたのかもわからない叫び」に聴き耳を立てることで、作者の〈私〉を取り巻く親和的小世界の外部に広がる疎外された世界を明確に定立している点である。この「外の世界」は、私が日々を暮らし飯を食い眠る世界ではない。戦争と暴力が横行し人が死ぬ他者の世界である。奥田の歌においては〈私〉と〈世界〉はこのように疎外された関係にある。そして奥田は〈私〉と〈世界〉の相互疎外の関係において、「叫びを預かっている」という使命感を持っているのである。「兵役につくこともなく三十を過ぎてつまらぬものを殴りぬ」という歌が示しているように、〈私〉は戦争と暴力の世界に直接参入することはできない。しかしその世界から眼を背けることもできないという自覚が奥田にはある。この世界観と次のような歌群とが直結していることは明らかである。
この国の平和におれは旗ふって横断歩道を歩いていたが
人あまた死にし野原にのんびりと夕焼けを置くホリゾント
白砂に蝉の骸の光りいる監獄跡をわれは歩めり
パレスチナに人殺さるる謐けさを聞きつつ我は生まれ来にけり
 これは奥田も引用している『東京漂流』を始めとする写真家・藤原新也の著作の世界に他ならない。ガンジス川では人々が沐浴するそばを死体が流れてゆくという、即物的でハードな世界である。思想的には実存主義に接近するこの世界観は、現代短歌の世界にも次のような先蹤がある。いずれ劣らぬ硬派の歌人たちであり、奥田は系譜的にはこれらの歌人たちの流れに連なるのである。
砲弾の止みて静もる世界史を花を抱えて待ち人は来る 
             谷岡亜紀『アジア・バザール』
日本のパンまづければアフリカの餓死者の魂はさんで食べる
             山田富士郎『羚羊譚』
アカーキィ・アカーキェヴィッチ赤肌に剥ぎ取られゆく身體検査
             佐々木六戈『佐々木六戈集』
 このような世界観を持つ場合、作歌においてひとつ問題がある。疎外された外部世界は〈私〉を取り巻く親和世界とはあまりに隔絶しているため、そのふたつをつなぐ回路が必要となる。茶の間でTVを見ていたらイラク戦争の映像が映ったなどという緩い回路では、外部世界を歌に取り込むことなど到底できない。
 この回路を形成するひとつの手段は、〈私〉を現場に置くことである。実際に奥田は、パリのユダヤ人記念館・ソウルの監獄跡・長崎原爆資料館・沖縄などに足を運んで歌を作っている。しかしこの方法で作られた歌はややもすれば旅行詠に流れる。〈私〉は所詮は旅人であり、傍観者に過ぎないからである。
 奥田が採用したもうひとつの方法は、一首の歌の中に歴史的・地理的重層性を塗り込めるというものである。実例を見てみよう。
しめやかに首をかかげて現れるヘアーサロンの僕のサロメは
アステアの砂のダンスのステップで浮浪者を蹴る月の夜の子ら
古地図見れば梟首(きょうしゅ)と墨で書かれあり若き日われの働きいしところ
何をして殺されけるや祖父と吾のあっけらかんとものを食う癖
 一首目のヘアーサロンで登場する首がいまひとつ不明だが、髪型の見本を載せた人形の首か。それは措くとして、現代の美容院と古代ユダヤの伝承を重ね合わせようとした作であり、「~のごとく」という直喩を避けるために「僕の」と所有形容詞を用いた点にも工夫がある。二首目の「アステア」は往年の名優フレッド・アステアだろう。ホームレスを襲撃する少年たちという現代の負の光景と、フレッド・アステアの華麗な舞台のダンスが二重映しになるところがこの歌の要である。三首目の「梟首」とは、その昔に斬首の刑に処した罪人の首を晒したことをいい、転じて刑場をも指す。自分の以前の職場が昔の刑場跡だったということで、ここでは古地図という時間転轍機が〈私〉をはるかな外部世界とつなぐ装置として選ばれている。四首目は作者の五世代前の先祖に暗殺された鈴木重胤という人物がいたことを踏まえての歌である。〈私〉は偶然に今・ここに存在するわけではなく、〈私〉にも何かをなした先祖がいたという感覚は、確かに〈私〉と世界をつなぐ契機となるのである。佐々木六戈にも「セブンティーン愛機を降りてけふの日の澁谷の街の若きに雑じれ」のように、戦争の過去と繁栄の現代とを重ね合わせた作がある。このように歌の中に歴史的・地理的重層性を折り込むことによって、生暖かい親和世界を越えた外部世界を歌の中に召喚することができる。
 昨今の若い歌人たちの作る歌が、ややもすればディタッチメント(detachment)、すなわち「〈私〉と世界や他者との関係性の希薄さ」の雰囲気を色濃く漂わせているなかで、奥田の歌がこれとは逆方向のエンゲイジメント (engagement)、つまり「世界や他者と積極的に関わろうとすること」という旗を立てていることは特筆すべきだろう。しかしこの世界観を貫くことはなかなか容易なことではない。奥田の歩み自体がそのことを示しているようだ。
 収録された歌からは奥田がディレクターとして勤務していた会社を辞め、妻と離婚して榛名山麓に単身移住し、無為の暮らしを送ったことが読みとれる。そこに至る経緯は詳らかではない。
妻の住む部屋を探しぬ我が妻と二人で為せることの最後に
辞令書の四隅の余白広々とさあどこへでも行けというのだ
鳥のむくろ土間に乾びていたりしを焚火にくべて住み始めたり
 この人生の転機をきっかけとして、奥田の歌はにわかに人生探求派の色を濃くしてゆく。職を捨て家庭を捨てて単身旅立つのは、西行以来の日本文学伝統の風狂の道である。捨てる行為が人生のミニマリスムを実現し短詩型文学を輝かせることは、尾崎放哉や種田山頭火の例を見ても明らかだろう。ここに来て奥田の歌はまさに「亡羊」の名にふさわしい「男の行き惑う歌」となる。
明日もまた何もするなと言うような私自身の夕暮れである
自転車の籠にたまねぎ躍らせて俺も畑も夕焼けている
元旦のパンにひそめる干葡萄みなひんやりと冷えている食う
奥村土牛の城を見上げる絵の奥のあんなところに青空がある
 「~している」「~である」の終止形に自由律俳句の影響が感じられる。ともに歌の視界を眼前の現在のみに限定することで、孤絶感を際だたせる効果がある。浮かび上がるのは、過去を捨て未来も見えないため現在しか持たないが、その現在を埋めるすべを知らない孤独な男の姿である。このような境地から生み出される歌は、確かに佐々木幸綱の言うように、現代では珍しい男歌だと言える。なるほど人生は迷いの連続ではあるが、とりあえず日常生活を送りながら心の奥底に迷いを抱えているのと、生活のすべてを捨て去って迷いを暮らしの中心に据えるのとでは大きくちがう。奥田が選択したのはどうやら後者の道らしい。
 とはいえ逡巡と悔恨の泥濘の沼に美しい花が咲くこともある。
春雨のしずかに濡らす屋根がありその屋根の下ふたつ舌あり
我の名を夜ごと呼びし手のごとく芭蕉枯れゆく陽だまりの中
まぶたにも縞を持ちたる縞馬に桜の花の降りやまずけり
もの思うごとくしずかに沈みゆき花びらひとつふたつ吐きたり
枝肉の怒り鋭し身を反れどぶち切られおり四肢は半ばに
 このような歌が「あれこれとやりっぱなしの鰯雲そらに浮かべて髭剃られおり」のような歌と並んでいるところにこの歌集の特色があり、これらの歌が心に沁みるとすれば、それは周囲に「行き惑う男の歌」が溢れているためだというのもまた事実なのである。

第8回 花山周子『屋上の人屋上の鳥』

オカリナに口づけせしごと冷ややかに朝(あした)は白き光放てり
         花山周子『屋上の人屋上の鳥』
 短歌批評を書いていて、いつも迷うことがある。新人の歌集には栞が添えられていることが多いが、栞を先に読むか後から読むかで迷う。栞文を先に読むのは推理小説のあとがきを先に読むようなもので、本来は奨められない。まっさらな心で歌集に向かうのが望ましい。しかしそれは海図のない航海のようなものだから、時間に追われている時などついつい海図を求めてしまうこともある。もうひとつ迷うのは、その歌人の個性を代表する歌を掲出歌に選ぶか、それとも歌人の個性とは無関係に自分がよいと思った歌を選ぶかということだ。今回は後者であり、掲出歌は作者の個性を代表するものではない。その理由は後で述べる。
 『屋上の人屋上の鳥』(2007年)は1980年生まれの花山の第一歌集で、ながらみ書房出版賞を受賞している。花山の母親は花山多佳子、祖父は玉城徹。本人は「塔」に所属し同人誌「豊作」同人。美術大学に学んだ画家で、歌集の装丁は本人が手がけている。表紙の大部分を白が占め、残りの青に白い鳥が飛ぶ図案である。一見した印象はとても淋しい風景である。その理由は、屋上から見た空に鳥はいても人はいないからで、人は空を見ている花山一人だからである。この表紙の印象は、収録された歌から受ける印象とよく符合する。
 歌集を手に取って感じたことを以下に3点述べてみたい。その一は収録歌数の多さ、その二は文語と口語のバランスの問題、その三は「〈私〉を挿入するポイント」である。この順に、歌の外形的性質から内的性質へと踏み込んでゆくことになる。
 この歌集には本人申告によれば860首が収録されている。私は最初そのことを知らずに読み始めたので、読めども読めども終わりが訪れないのはいかなることかといぶかしみ、途中でへばって一度歌集を投げ出してしまった。島田幸典氏によれば、こんなに収録歌数が多いのは斉藤茂吉の『あらたま』ぐらいだそうで、歴史的なことなのである。作者はあとがきで、「作品(自身のものも他者のものも)とは長い時間をかけて付き合いたいと思っている。歌集に収めておけばいつでも読める」とその理由を述べている。しかしこれは自分のための理由であり、読者のための理由ではない。歌集には読者がいることを忘れるべきではなかろう。
 歌集はほぼ編年体で、巻頭にはおそらく十代の頃のものと思われる初期作品も収録されている。しかし初期作品は若書きで質が見劣りすることが多いため、巻末にひっそり配置することもある。そうせずに時系列に並べるということは、作者には歌集を「構成する」という意識がほとんどないことを意味する。なぜ花山は歌集を緊密に構成された音と意味の結晶体として構成しないのか。その理由は私見によればふたつある。その一は、一分の隙もなく構築された美の世界に対して、現代の若い人は憧憬の念を抱くどころか、逆に嘘臭いものとして敬遠する傾向があるからだ。その結果として形式美や完成を嫌い、不定形や未完成をそのままに露出することになる。『屋上の人屋上の鳥』にこの間の事情を窺わせる歌があるのは偶然ではあるまい。
経験で物言う友の横顔に失恋の色のすっかり失せる
私が未来を嫌うその理由に経験という言葉もあるのだ
作者が経験を嫌うのは、経験が大人と分別の世界を開くからであり、完成と円熟へと通じるからだろう。あらゆる青春は未完成であることをブリキの勲章とするのである。
 歌集の構成意識の乏しさは、歌の一首一首の水準では破調として現出する。破調は定型あってこその謂だが、『屋上の人屋上の鳥』には破調の歌が多い。先に掲出歌が作者の個性を代表するものではないと述べた理由のひとつがここにある。掲出歌のように定型にぴったり収まっている歌の方が少ない。破調の歌をランダムに拾ってみよう。
あり得ないことばかりが聞こえくる見れば制服のニキビ少年
今年のインフルエンザはよくないと毎年聞いて毎年言う
一筋の風過ぎてのち往来に水たまりは光失う
私と弟が言い争うとき母の集中力がアップするらし
大きな薬缶にゆびを触れてみぬ虹色の指紋点きては消ゆる
音楽のように生きたい」英語の授業に眠りつつ聞く
 少し措辞を工夫すれば定型に収まる歌もあるから、定型に詠い収めないというのは作者の選択なのだろう。「定型で詠い上げたくない」という強固な意志すら紙面から漂って来るようだ。
 花山の構成意識の低さのもうひとつの理由は、花山が「ことば派」ではなく「人生派」の歌人だからである。ことば派は言語の世界が紡ぎ出す形式美を追究し、人生派は日々を送る〈私〉の感情を歌に盛ることを重んじる。『屋上の人屋上の鳥』の主調をなすのは、未来が見えない美大生の逡巡と葛藤の日々を綴った青春歌である。歌集を事後的に構成しなおすのは、歌を作った時の自分の気持ちと情況の複合物を作為的に粉飾することでもあるため、これを嫌うのだろう。
 この歌集を一読して奇妙な感触を受けるのは、口語と文語の不思議な共存である。確かに現代の歌人のほとんどは口語と文語の折衷によって短歌を作っている。だから口語と文語の共存自体は珍しいことではない。若い歌人の場合、口語優位になるのは当然だが、花山が特異なのは文語の方である。
これから桜が咲いて躑躅が咲いてあとは緑になりてゆくかも
家にいて考えることは引き籠もりの気配を帯びてゆきにけるかも
降り止まぬ雨の匂いのここに来てべらぼうに濡れて猫は佇む
ゴキブリをたくさん殺しし夜の明け朝焼けを見に家を出でたり
半日を寝て過ごしたる夕暮れを秋の風にに(ママ)ぞ誘われ出で来
目の色の少しおかしい鳩がくる炎昼もろに後退りせり
 「ゆくかも」「けるかも」はまるで茂吉である。「これから桜が咲いて」や「家にいて考えることは」は完全な現代口語なので、読み進むと下句に至って突如老人に変身したかのような奇妙な印象を受ける。三首目の「べらぼうに」、四首目の「たくさん」、六首目の「もろに」は文語脈の中では浮く。五首目の「夕暮れ」「秋風」という古典和歌の語彙や「ぞ」に導かれる「誘われ出で来」の係り結びは、口語脈優位の歌と並ぶと異様にすら感じられる。この文体の不統一が意図的なものなのか、それとも自然にそうなったものなのかは判然としない。しかしこのような文体の混在が青春の豊穣と混沌を感じさせる一方で、粗削りな歌が多いという印象を与えていることもまた事実として認めざるをえないだろう。
 三つめの話題は「〈私〉を挿入するポイント」である。たとえ表面上は一人称が現れていなくとも短歌の背後に〈私〉がある以上、歌には〈私〉を挿入するポイントがあるはずだ。外見上は100パーセント叙景歌であっても、〈私〉が密かに外挿されることによって言葉は歌となるというのが近代短歌のセオリーである。先達の実例を見てみよう。
曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径  木下利玄
銀盤にプリンをのせて売りに来る浜名のうみにさしかかるころ  小池 光
くだもの屋の台はかすかにかたむけり旅のゆうべの懶きときを  吉川宏志
 思いつくままランダムに選んだらすべて切れのある歌になったが、そのことは今は措く。木下の歌では「燃えて」に既に〈私〉が微弱ながら挿入されている。曼珠沙華が「燃えるような赤だ」と感じたのは〈私〉だからである。しかしこの歌の〈私〉の主な挿入ポイントは下句の「そこ過ぎてゐるしづかなる径」である。曼珠沙華の横に伸びる道を目でたどる視線の動きと、それを「しづかなる」と感じる主体がある。この措辞によって一首の内部に〈私〉が挿入されることで、単なる叙景は主観化された風景へと変貌する。
 小池の歌は新幹線に打ち跨った現代の羈旅歌だが、この歌の挿入ポイントは「銀盤」と「浜名のうみ」の喩的関係にある。詩聖ボォドレェルなら万物照応 correspondanceと言うところだが、小池はこれを見立ての軽みに持ってゆく。「銀盤」と「浜名のうみ」の照応関係の発見は主体的行為であり、そこに〈私〉を挿入するポイントがある。言い換えればこの措辞によって風景が〈私〉化されたのであり、そこに新しい世界がゆらゆらと立ち現れるのである。
 吉川がポイント作りの名手であることは、万人の認めるところだろう。実例は枚挙に暇がないが、上に引いた歌の〈私〉の挿入ポイントは、「旅のゆうべの懶きときを」という感情表現ではなく、「かすかにかたむけり」という現実描写の方であることに注意しよう。逆説的に聞こえるかも知れないが、〈私〉の挿入ポイントは「嬉しい」「悲しい」という主情述語ではなく、「かたむけり」のような客観描写述語である。ただし、ここで例示したのは、広義の写実を基本とする近代短歌の語法に基づく短歌作法であり、水原紫苑・紀野恵・佐藤弓生・小林久美子・東直子らの反写実の詩法はこの限りではない。
 では花山の場合はどうか。次のような歌には〈私〉の挿入ポイントが確かにある。
影の中にふと飛び込みし黒猫は影より黒き体もて去る
一つ二つじゅずだまのごと影の落つでんしん柱の影の間を
鯉の背の赤き浮上はどんよりと明日の形を思わせて消ゆ
水平に窓を過ぎりし鳥一羽空間は部屋の中でずれゆく
仰向けば忽ちのぼる陽炎にガラス玉の中の夏と思えり
曼珠沙華投げ合いて子らはときめきぬ祭りの終りのぬるき香のして
白壁は150号のキャンバスのわが曇天を光らしめたり
透明な定規に夏の鈍き陽が四角くたまり立つ缶カラに
ところが次のような歌には〈私〉の挿入ポイントがないか、あっても薄弱である。
このごろは冬に疲れた外へ出る覚悟のたびに肩の怒りて
三月が味気なく過ぎ気がつけば人を見るのが億劫である
ただ鳥を指差して立っていれば勝手に人が集まってくる
アトリエに酒持ち込めばどこよりか人の集り宴会となる
一年はレシートの中早く過ぐ、お金を使っただけの一年
雨のごと風のごとキャンバスに豚毛の筆が線を引きゆく
 これを見ても花山にこれから求められるのが選歌という自己推敲の作業であることがわかるだろう。確かに集中にはよい歌がある。しかし収録するには及ばない歌もあり、あまりに粗削りな歌もある。仄聞するところによると、俳句の世界では膨大な数の句を作って捨てるのだという。捨てて残ったものが自分の句となる。捨てる作業も作歌の一部である。人生においてもまた然り。人は何を選ぶかではなく、何を捨てるかによって自己を規定することがあるのは、誰でも知っていることなのである。

第7回 大辻隆弘『子規への溯行』をめぐって

大辻隆弘『子規への溯行』(砂子屋書房、1996) 

 遅まきながら大辻隆弘の『子規への溯行』を読んだ。1960年生まれの大辻が36歳の時に上梓した充実の第一評論集である。大辻はこの時点で『水廊』『ルーノ』の2冊の歌集をすでに持っている。折しも今年(2008年)、吉川宏志の評論集『風景と実感』が出版された。吉川は1969年生まれなので、39歳での第一評論集ということになる。大辻も吉川も短歌実作で高い評価を受ける中堅の実力派であり、「歌論不在の時代」(川野里子『短歌ヴァーサス』5号)にあって、短歌評論の分野でも精力的に活動している二人である。ともに30代で最初の評論集を持つことの意義は大きいだろう。
 本書は3部構成になっており、第I部には近現代の短歌の基本的パラダイムを考察した「私というパラダイム」と「活字メディアの成立と近代短歌」が収録されている。分量的に多いのは第II部で、近現代の歌人論が収められている。第III部は著者が「やや状況論的色彩の濃い」とする「私像」をめぐる論考「私像の時代」「短歌的主題と私性」「一首の屹立性について」が収録されている。著者が「本書の中心を成す」と述べている第II部の歌人論よりも、短歌について原理的かつ歴史的考察を加えた第I部と、「状況論的な」第III部を特におもしろく読んだ。第II部の歌人論は基本的に時間の経過によって変質することはない。しかし状況論的論考は時代を反映する。初出(1991年・92年)から数えてすでに16~7年経過しているのだが、大辻がこれらの文章で控えめに表明した危惧は、ますます現実化しつつあるように見える。この問題について少し考えてみたい。
 大辻が第III部の「私像の時代」で話題にし、さらに第I部の「私というパラダイム」で歴史的考察を通じて実証しようと試みたのは、一首の歌の背後に一人の「私像」を想定する読みは、明治30年頃に成立した近代的な読みであり、それは子規を中心とする根岸派による歌の言語改革に支えられていたということである。
 もう少し詳しく言うと、大辻の「私像」とは、まず「一首の歌を読んだときに頭に浮かぶぼんやりとした人物のイメージ」と暫定的定義が与えられており、その特徴は作者の側ではなく読者の側から定義されている点にある。「私像」はさらに細かく規定されており、「狭義の私像」は「読者が作品(一首・歌集)に向かって、主体的に感情移入することによって成立する人物のイメージ」、「作者像」は「さまざまな作品以前の情報(メタ情報)によって、読者の心のうちに作り上げられた作者の統一的なイメージ」とされている。そして私たちがふだん使っている短歌における私像は、この両者が渾然一体となった広義の私像であるとする。
 さらに、岡井隆『現代短歌入門』で「場の理論」として展開され、小池光が「短歌は、額縁を持つ詩型である」(『日々の思い出』あとがき)と述べているように、短歌はその短さゆえに一首によって自足的な意味の完結を求めることが難しい詩型であり、「場」の力を借りなくてはならない。近代主義的な読みのパラダイムとは、作品の背後に超越論的主体として構成される作者の私像に意味を支える場の働きをさせるべく、ただ一人の顔へと収斂するように歌を読むことであるというのが、おおむね大辻の主張である。
 では大辻が91年の時点で控えめに表明した危惧とは何か。それはこのような近代主義的な読みのパラダイムが通用しない短歌の出現である。大辻は前年に出版された穂村弘の『シンジケート』(1990年)を一例として挙げ、次のような歌を引いている。
ワイパーをグニュグニュに折り曲げたればグニュグニュのまま動くワイパー
俺にも考えがあるぞと冷蔵庫のドア開け放てば凍ったキムコ
そして「一首一首の垂線をたどることによってその焦点に一人の人物の顔を感じとろうとするような従来の歌集の〈読み〉は、この歌集には通用しないところがある」と述べている。大辻にとって従来の読みが通用しないこのような歌の出現は、「短歌という詩型の存立に関わる危機」と認識されている。なぜなら短歌が成立する「場」とは、「作者・読者が共通してそこに立っているところの『主体性の磁場』」であり、その場の崩壊は近現代短歌の存立基盤そのものの崩壊を意味するからである。
 大辻がこのように述べた文章の初出時である1991~92年というと、歌壇ではライトヴァース論争が一段落し、『シンジケート』に続いて加藤治郎『マイ・ロマンサー』(91)、穂村『ドライドライアイス』(92)、荻原裕幸『あるまじろん』(92)などのニューウェーブ短歌が陸続と世に出た時代である。それまでの近現代短歌と異なる特徴は、口語体の短歌への浸透と、レトリックを前面に押し出す「修辞ルネサンス」(by 加藤治郎)であった。しかしこの時代の最も特筆すべき変化は大辻の指摘する「私像の変容」であり、そもそも従来の私像が成立しないという事態の出来である。そして大辻が91年の時点で危惧を表明した変容は、2008年の現在ではすでに短歌シーンに燎原の火のごとく広まっているように感じられる。
 実際、現代の若手歌人の次のような歌に、垂線をたどることで焦点を結ぶような〈私〉を読みとろうとしても、それは難しいのである。
ポロシャツのうすみどりいろ、ガムの匂いジュライきみからログアウトする
                      笹岡理絵『イミテイト』
せんせいのまえであたしはにんげんになったりねこになったりします
                      田中美咲希
スパゲティ素手でつかんだ日のことを鮮明に思い出しまちがえる
                      笹井宏之
 まったく別々に別の関心から読んだ複数の本が、奥深いところで呼応するのは読書の醍醐味であり、私たちはそこで何らかの真実に手が触れたと感じる。大辻が『子規への溯行』で主張したことは、最近読んだ大塚英志の『物語消滅論』(角川oneテーマ21、2004)と奇妙なまでに符合するのである。大塚はマンガ原作やRPGなどのゲームに物語を提供する立場から近年の「物語」の機能の変容を分析し、さらに明治以来の近代小説の考察へと及んでいる。大塚の主張は次のように要約できる。
 明治時代後半にヨーロッパから様々な近代小説が流入し、その受容の過程で「私」という自我の必要性が認識され、その表出のために言文一致体という新しい文体が生み出された。この新たな文体はそれが表出する「私」とともに、新たな現実感(リアリティー)を形成した。この現実感は基本的に現代まで持続しており、私たちが共有している現実感は、明治30年代の後半に急速に形成された歴史的産物である。しかしこの文体に支えられた「私」はもはや耐用年数が尽きている。言文一致体で「私」と書くだけで、物語の背後にいる作者であることが保証されるシステムは、もはやリアリティーを支えることができない。この結果、80年代までは確かに感じられた現実感は、90年代に急速に希薄化した。
 大辻は短歌の読みという場で浮かび上がる私像を読者の側から考察しており、大塚は物語を供給する作者の側から論を進めているという違いはあるが、明治30年頃に形成されたひとつの言語体制が今日無効化しつつあるという認識で一致している。大塚はさらに、「歴史と空間の結節点に〈私〉を認識していく。それが一定の安定性を持ったときに、リアリティーとか現実感と呼ばれる」のであり、今の若者が現実感を欠いていると感じるのは「明治40年前後に出来上がって、文学や柳田民俗学を含めた近代の言説が支えてきたリアリティーが、もはや言語によって、つまり文学や思想によって支えられなくなってきたことの表れ」ではないかとも述べている。今日声高に叫ばれる近代文学の終焉である。大塚の論は現代の若者が感じるリアリティーの欠如という問題にまで及んでおり、短歌に関わる人間は無視して通ることはできまい。大辻の文章と大塚の文章を併せ読むと、書かれた年代に若干の差があるとはいえ、そこに現代の私たちが置かれている言語状況の一面があぶり出されていると感じざるをえない。
 近代短歌を成立させてきた「作者・読者が共通してそこに立っているところの『主体性の磁場』」と、それを支えてきた近代の言説の耐用年数が尽きかけているとしたら、一体どうすればよいのだろうか。特効薬があるとも思えないが、大塚の答えは「近代文学をやり直せばよい」というものであり、「不良債権としての文学の復権」というおそろしく真っ当な答えである。吉川宏志『風景と実感』は静かな語り口に終始して、声高な主張を響かせることはないものの、短歌における「実感」(リアリティー)の問題を「風景」というキーワードを通して丹念に考察することで、短歌言語の陥っている酸欠状態に対して、身体感覚の復権という処方箋を間接的に提示していると見なすこともできる。
 近代短歌を成立させてきた「場」を仮に「外部」と呼び直すと、大辻が指摘したように近代主義的な歌の読みを支えてきたのは外部に想定される言語主体としての作者である。私たちは「出奔せし夫が住むといふ四国目とづれば不思議に美しき島よ」という中城ふみ子の歌を読むとき、夫に離婚され後に乳癌で亡くなった中城ふみ子という作者像を抜きにしては読むことができない。周知のように、この「短歌の〈私〉=作者」という私小説的かつ短絡的な同一視に敢然と疑義を呈したのは、家族について虚構を塗り重ねた寺山修司であり、架空の兄たちと妹を詠った平井弘である。この意味で「私像」を主題とする大辻の文章から、前衛短歌についての考察がすっぽり抜けているのは不思議という他はない。
 前衛短歌が自然主義的〈私〉を排して、短歌における〈私〉の拡大を図ったことはよく知られている。短歌の読みが「作者=〈私〉」へと還元されることを避けるために消去されたのが〈視点〉であり、多用されたのが硬質の「喩」なのだが、前衛短歌の手法は近代短歌の「作者=〈私〉」が成立する「場」を峻拒することで、新たな「外部」を生みだしたと言えないだろうか。それは「これほどまでに言葉の魔術を駆使する作者」という外部であり、例えば塚本邦雄の場合なら「たぐいまれな美意識の体現者」としての作者像である。この意味で穂村弘が『短歌の友人』のなかで、塚本邦雄の短歌の特徴を「言葉のモノ化」と規定したのはおもしろい点を付いていると思う。モノ化された言葉は、言語本来の指示機能に基づいて外界(=風景) を指示することなく、所有者を指し示すアイテムとして働くからである。
 歌の「外部」の空洞化に対処し、歌の読みの統一性を支える方法がもうひとつある。それは作者の「キャラ化」である。ここで言う「キャラ化」とは、作者本来の実像とは異なる人物像、もしくは作者の実像をはなはだしく誇張した人物像を意図的に演じて露出することである。この道を驀進しているのが念力短歌の笹公人であることに異論はないだろう。
シャンプーの髪をアトムにする弟 十万馬力で宿題は明日 『念力家族』
すさまじき腋臭の少女あらわれて仏間に響く祖母の真言
 笹がNHKのTV番組にレーザーラモンHGの扮装で登場した時は目が点になったが、笹は単なるおちゃらけでやっているのではなく、自分の短歌を支える「外部」が必要だと認識して意図的に振る舞っているのだと思う。そして笹が傾倒する歌人が寺山修司であることは決して偶然ではない。
 「キャラ化」の自覚が本人にあるのかどうかは別として、穂村弘も同じ道を歩いているように見える。『短歌の友人』に収録された分析的な歌論と、『現実入門』『世界音痴』などのエッセーの落差は頭がクラクラするほどだが、穂村がエッセーで描いている、どうしても現実に馴染めず、「今のみじめさに耐えている」人物像は、穂村の短歌を外部から支える「キャラ」として十分に機能する。
バリウムを飲むのはこれが9回目ひとを殴ったことは0回
手が汚れてるからなるべくへたんとこもってぶしゅんと食うプチトマト
           「卓球女子の夜」『短歌研究』 2006年7月号
そして穂村が塚本邦雄の短歌に衝撃を受けて短歌を作り始めたことはまぎれもない事実であり、穂村がエッセーで執拗に描くダメ人間として〈私〉は、ある意味で「負の魔王」にも見えてくるのである。
 藤原龍一郎の「ギミック」も同じ文脈で考えることができるかもしれない。「日常生活に疲れた中年サラリーマンの短歌と、都市生活者の憂愁と倦怠を漂わせつつラジオという虚のメディアの前線に生きるディレクターの詠む短歌、読者としてみたならば、どちらにより読みたいという強い欲求を感じるだろうか」(『短歌の引力』)と述べる藤原は、ギミックを「表現される『私』をきわだたせるためのからくりでありくふうであり仕掛けなのである」と規定し、その活用を公言している。
ドトールを出てPRONTOに遭遇し静かなる包囲進みゆくごとし
地下鉄の後方車輌に身を置きて思想死という死語ぞ愉しき
         「赤い鰊のある食卓」『短歌研究』 2007年4月号
 このように空洞化した歌の「外部」を何かで埋めることで歌の読みを支えようとする笹・穂村・藤原の方向性は、おおまかには前衛短歌の切り開いた道の延長線上にあると見ることができる。しかしここでもう一度大塚英志の『物語消滅論』に戻ると、大塚は「私」と書くことでその背後に一人称の私が保証されていた文体が機能しなくなったとき、〈私〉は必然的にキャラクター化せざるをえないと論じているのである。「私」という一人称代名詞が、時間軸と空間軸の結節点に立脚する統一的〈私〉を指示しなくなったとき、〈私〉は繋留点を失って漂流し始め、可能なたくさんの〈私〉と交換可能になるからである。もしそうだとすると、程度の差はあれ笹・穂村・藤原に見られる作者の「キャラ化」は、背後のただ一人の〈私〉へと収斂する近代主義的言語体制がもはや機能不全に陥っていることの何よりの証左であり、この機能不全に対処するために講じられたささなかな対抗策だということになる。
 大辻が『子規への溯行』に収録された文章のなかで、今から16~7年前に提起した問題は、今日性を失うどころかますます真剣に考えるべき問題になっているのである。

第6回 酒井佑子『矩形の空』

ぐじやぐじやの世界の上に日は照りて植物相(フロラ)は次なる時にそなふ
         酒井佑子『矩形の空』
 実におもしろい歌集を読んだ。酒井佑子の『矩形の空』(2006年 砂子屋書房)である。こんなに手触りのぶ厚い歌集を読んだのは久しぶりだ。すらすら読み進むことができず、一首一首に滞留する時間が異常に長かった。読者としての私は、それに比例する濃密な時間を経験し身体に刻むことができたということになる。
 成瀬有・小池光・黒木三千代という豪華な顔ぶれによる栞文で著者の経歴を知る。酒井佑子は最初は「アララギ」に所属して五味保義に師事し、後に岡野弘彦の「人」同人となり、佐々木靖子名義で『地上』『流連』の2冊の歌集があるという。歌歴の長い人なのだ。それがなぜか2001年に突如「短歌人」に現れて、小池光の選を受けることになったらしい。その間に何があったのかは詳らにしない。
 歌集を一読して感じるのは歌の手触り感の濃密さである。特に手触りのゴツゴツした歌が多い。ここで言うゴツゴツは褒め言葉であり貶し言葉ではない。なかにはゴツゴツの極まる余り、歌なかばでこのまま崩れるのかと思いきや、最後に粘り腰で踏ん張るような歌もある。油断がならないのである。いくつかランダムに引いてみよう。
わにざめとわにの異同を思ひをれば雲はわにざめの口を開きぬ
烏あるく互ひ違ひに足踏みて歩くゆゑ涙出でてわがをり
リタイヤ官僚背広着てカツカレー喰ふ憲政記念館食堂のあどけなき昼
ハズといふ語も夙くに死語何処へ行つたあなたのハズあのかはいい男
片身水漬き片身乾反(ひぞ)りて大いなる緋鯉川中に死にゐたり
病ひのやうに眠気きざし繰り返し呼ばるベティ・ブープおまへ何者
うす皮の張りたる創(きず)を掻くごとくナンシー関をおもふしくしく
ドミノ倒しのやうに倒れていただきしララ物資パイナップルジュース一人5cc
 まず定型の歌が少ない。一首目「わにざめ」はましな方で、3句の6音と4句の8音が破調だが定型の枠内にある。「わにざめ」とは「獰猛な鮫」のことでワニではない。「ワニザメとワニはどうちがうんだっけ」と思いにふけるのがすでにおかしいが、符節を合わせたように雲がジョーズのような口を開いたというのもとぼけている。このとぼけ方に並々ならぬ膂力を感じる。二首目も一首目と同様にたいした事件が詠われているわけではない。カラスが足を交互に動かして歩いている、それだけのことである。作者はそれを見て涙する。すると足を交互に動かして歩くという当たり前のことが、俄に当たり前に思えなくなる。そこに転倒のカラクリがある。「われ涙してをり」ではなく「涙出でてわがをり」とした所が手際である。三首目は全部で41音という大幅な破調の歌。やたら単語が多く説明的に見えるが、最後に「あどけなき」という形容詞で詠い納める所に「世界を見尽くしてしまった人」の達観した風情が色濃く漂う。四首目も同じ雰囲気の歌で、はやり歌を口ずさむような倦怠感がよい。五首目は集中にいくつかある町川と魚の歌のひとつ。生命とその終焉を見つめる歌である。「片身乾反りて」の観察が秀逸。この歌集には六首目のように意味のよくわからない歌もある。眠りに入るときの半ば夢の世界か。ベティ・ブープは1930年代に作られたアニメーション映画のキャラクターで、セクシーな仕草で「ブブッビドゥー」とやるあれである。七首目は平成14年に急死した消しゴム版画家ナンシー関を悼む歌。上句の「うす皮の張りたる創を掻くごとく」という格調高い短歌的喩と結句の「しくしく」の落差にとてつもない自由さがある。八首目の「ララ物資」とは、終戦後にアメリカの援助団体Licensed Agencies for Relief in Asia (略称 Lara)により日本に送られた援助物資。「十歳の敗戦児われに差し出されしハインツポテトサラダの純白」という歌があるので、作者は1945年の敗戦の時に10歳だったのである。歌歴の長さも納得できよう。文語文体の確かさと漢語語彙の多さもうなずける。私は何度も広辞苑を引いたほどである。
 定型遵守の歌はほとんどないと言ってよいくらい破調が多く、初句から結句まで一分の隙もなく構成されているわけではないのに、確かにそこに歌があると感じさせる。この歌の手触りの確かさとゴツゴツ感はどこから来るのだろうか。それは作者が若い頃に修得したアララギ文体の底力ではないかと思う。集中に次のような歌がある。
土掘りびとわづかなる陰に仰のけに昼寐せりけり恰も風通る
ヘリコプターに吊らるる大きコンテナより牛の脚細くはみ出でてをり
白菜の立ち腐れつつみ冬づく三畝の土は見れど飽かぬかも
 いずれも確かな眼による写実の歌で、「せりけり」「飽かぬかも」のような文終止にアララギ風が漂う。写実による短歌文体の基本を血肉化しているため歌の骨格が骨太で、多少大胆に詠っても歌の本道を外れないのである。アララギ文体恐るべし。「短歌とは文体である」と改めて思い知る。
 人事の歌が少なく、野球や競馬の歌と動植物の歌が多いのはやはり年齢のせいか。若い時は人に惹かれ恋愛にのめり込むこともありそれが歌の素材となるが、歳を重ねるにつれなまなまとした人間は疎ましくなり、物言わぬ動植物に親しみを覚えるようになる。たとえば次のような歌がある。
大いなる曇りのもとの皺袋たゆみなく象でありつづけつつ
生き飽いて二十年経つ立ちながら瞑りながらにはな子透きとほる
茫茫たるはな子の空をほがらほがら烏鳴きわたる仰ぐともなし
冬を越えし白鳥ボート九つの尻映る濁る池のおもてに
 最初の三首は象のはな子を詠った歌。象を皺袋と形容したのは秀逸で、「たゆみなく象であり続ける」という表現に象が生きる時間の長さが感じられる。二首目のはな子は「透きとほる」と形容されているが、象が現実に透明になることはないから、まるでその場にいないかのように存在感が薄い、あるいはいる気配がないということだろう。作者の自己投影が少し感じられる歌である。三首目は象の頭の上をカラスが鳴いて過ぎるというだけの情景を詠っていながら染み入る何かがある。四首目は動物の歌ではないが、観光客も途絶えた池に係留されている白鳥型のボートが詠われており、池面に映った白鳥ボートの尻をクローズアップした視点が秀逸である。
 歌集後半は病を得て入院加療した折りの病床詠が占めている。
抱き合ふばかり矩形の空と寝てひきあけ深き青潭に落つ
無為の底は透きとおりつつにちにちの新しきよろこびある猫とゐる
七本の管に繋がれ裏返しの袋なるわれ三日ねむりき
観察室の二人けさまだ生きてありやぞうぞうと金魚の水溢れつつ
ママさんバレーの主将でありし金慶玉堆(うづたか)き骨となりたり
歌集表題の「矩形の空」とは病床から見る窓に切り取られた空のことをいう。二首目の「無為の底は透きとおりつつ」あたりに作者の辿り着いた境地が感じられる。四首目や五首目のあらゆる美辞麗句と幻想を廃したリアリズムには、ノイエ・ザハリッヒカイト(新即物主義)を思わせる非情さすら漂う。このように虚飾と体裁を廃した清明な虚無の境地から次のような歌は生まれるのにちがいない。
草枯れ薔薇うなだれき静かなるこの世の外に目はありて見き
住反に寄りて相触れし野いばらの身に余る花のときも終わりぬ
静かな寂しさの中に力強さを隠し持つこれらの歌は、若い人には決して作れまい。この世を見て来た時間の長さだけが可能にする歌だろう。
 清明な虚無の境地から意味が洗い流されると、そこには歌だけが残る。次の歌の無意味さはどうだ。
西王母とふ春の菓子買ひて帰るただその菓子をいただき帰る
西王母とは古代中国信仰の仙女で、人間の死を司り不老不死の仙桃を守るという。買い求める菓子の名にも死があるとなれば、それほど無意味な歌とも言えないかも知れないが、むしろ意味は洗い流されている。これは歌であり、歌以外の何物でもないという稀有な例として玩味すべきだろう。