第4回 西田政史『ストロベリー・カレンダー』

珈琲にミルク注ぎて「毎日がモカとキリマンジャロのほどの差ね」

         西田政史『ストロベリー・カレンダー』
 西田政史は「The Strawberry Calendar」で第32回短歌研究新人賞(1989年)の次席に選ばれている。同時の次席は林和清の「未来歳時記」。西田は再度挑戦した翌年「ようこそ!猫の星へ」で短歌研究新人賞を受賞を果たした。この年の同時受賞は「ラジオ・デイズ」の藤原龍一郎。今から振り返るとため息の出るような顔ぶれである。この受賞を受けて、西田の第一歌集『ストロベリー・カレンダー』は1993年に刊行された。西田は玲瓏所属で師の塚本邦雄が跋文を寄せている。
 掲出歌は〈私〉と恋人の朝食の場面だろう。毎日の暮らしの起伏がモカとキリマンジャロというコーヒー豆の味の差くらいしかないという淡い虚無感が、上2句の文語と下3句の口語の文体的落差の中に落とし込まれている。いつの時代の若者も倦怠感や虚無感を抱きがちで、それは若者の特権と言ってもよいほどだが、この歌のポイントは虚無感がお洒落なコーヒーに譬えられて、明るくポップに表現されているという点にある。歌集の刊行年を考慮すると、これは基本的には80年代(後半)の歌であり、糸井重里が西部百貨店のために制作した「おいしい生活」という名コピーが渋谷の街に溢れた時代の歌だという感を今更ながら深くする。バブル経済崩壊後の「失われた10年」を通過した現在から眺めると眩しいくらいだ。あれから20年近く経った現在(2008年)の若者は次のような「不景気な歌」(by荻原裕幸)を作っているのである。歌に込められた若者の虚無感の総量は変わらないとしても(そう信じるとしても)、両者の表現手法の差は驚くほどである。
最高に君の輝く時が来た脳内の「負」をファブリーズして
          嵯峨直樹 『短歌研究』2008年5月号
「半身のない猫を抱く彫像」の画像に上書きされた告白
          吉岡太朗 『短歌研究』2008年5月号
僕はいくつになっても夏を待っている 北蠅座というほろびた星座
          土岐友浩 Web歌集「Blueberry Field」
 ここでちょっと短歌史を回顧しておくと、『岩波現代短歌辞典』巻末の20世紀短歌史年表には、1985年に「ライトバースをめぐる議論が徐々に盛んになる」という記述がある。1984年には中山明の『猫、1・2・3・4』が、1985年には仙波龍英の『わたしは可愛い三月兎』が刊行され、俵万智の「野球ゲーム」が角川短歌賞次席に選ばれたという事実を踏まえての記述である。ライトバースがバブル経済で頂点を迎えることになる大衆消費社会の到来を背景としていたことはまちがいない。1987年には『サラダ記念日』の刊行を受けて「ライトバースの是非をめぐる議論が白熱」、1990年は「ライトバース以降の現代短歌の動きを見定める議論が白熱」とある。
 西田の第一歌集『ストロベリー・カレンダー』はこのように、80年代中頃から90年代前期にかけて出現した現代短歌の新しい流れの中にある。それだけにとどまらず西田は「ニューウェーブ短歌」の担い手の一人だったのだ。1988年に荻原裕幸、加藤治郎、西田政史が同人誌『フォルテ』を創刊し、荻原が朝日新聞に連載していた短歌コラムで、自分たちの短歌の新しい傾向を「ニューウェーブ」と命名したのがそもそもこの呼称の起源だという。
 『ストロベリー・カレンダー』からニューウェーブ的傾向の歌を引いてみよう。
WOWOWが「忠臣蔵」の放送をやめないつまりレのあとのファラ
コカコーラの自動販売機のまへでF♯mがふるへる
ひらがなののとゐが全て猫に見ゆもう漱石の本は読めない
恋人と**失踪のパサウェイのためのパックのミルク**のむ
見たことがないけどきみのギリシア式の欠伸のときも涙はでるの?
 唐突に挿入される「ドレミ」の音階名、「F♯m」のコード記号、「**」のように意味のない印刷記号はニューウェーブが好んだ手法で、後に「記号短歌」と呼ばれた。旧仮名の文語と新仮名の口語の混在や、語りかけるような日常的話し言葉の多用も特徴的である。
 加藤治郎はこの時代の短歌の傾向を「修辞ルネサンス」と呼んだ。それは意味よりも表現を重視するということである。それはソシュールの用語を用いると、シニフィエよりシニフィアンを前景化するということである。だからどうして「レのあとのファラ」なのか考えても無意味であり、そこに醸し出されるポップな感覚を受け取ればよいことになる。しかしニューウェーブ短歌の志向したシニフィアンの前景化は、ある意味で先祖返りとも言えることに注意すべきだろう。
を初瀬の花の盛りを見渡せば霞にまがふ峰の白雲  藤原重家
 古典和歌には近代短歌が前提とした歌の背後に盤踞する〈私〉は不在であるため、歌を構成する言語記号は〈私〉を指示するのではなく〈美の共同性〉を指向する。宮廷文化の「美のプール」に蓄積された語彙を入念に選び組み合わせることで古典和歌は成立する。だから古典和歌ではシニフィアンの結合こそが重要であり、裏に張り付いたシニフィエは当時の宮廷文化が許容した美の範囲内に留まっていればよいのだ。ニューウェーブ短歌の担い手であった荻原裕幸と西田政史の二人までもが塚本邦雄の門下から出たことは、一見すると不思議な現象のように見えるのだが、ニューウェーブ短歌の先祖返りという文脈に置いて考えてみると、実はそれほど奇異なことではないとも思えるのである。
 『ストロベリー・カレンダー』でおもしろいと思ったのは、一首の中で発話主体が交代する次のような歌群である。
シーソーをまたいでしかも片仮名で話すお前は――ボクデスヲハリ
少年よEvergreenを知ったのは――雨ダ! 雨デスザブザブザザブ
 会話体の引用は「『寒いね』と話しかければ『寒いね』と答える人のいるあたたかさ」のように『サラダ記念日』でも多用されているが、俵の歌は〈私〉に視点が固定されている。発話主体の交代はなく、意外なほどに近代短歌の語法を守っている。それに対して西田の歌では、最初の発話主体の言葉が途中で唐突に切断されており、第二の主体(ここでは子供の頃の自分) の発話が出現する。このような発話主体の分裂は、近代短歌の鉄則である〈私〉の一貫性に対する挑戦であり、加藤治郎が試みる「複数の意識に言葉を与える」手法と呼応する。記号やオノマトペの多用よりもはるかに短歌の根幹に関わる変容と言わなくてはならない。これはやがて90年代中期頃からの短歌に顕著な〈私〉の溶解へとつながってゆくのである。
 では西田がこのような歌ばかり作っていたのかというと、まったくそんなことはない。
われの知らぬ空いくつ経てしづまれる戸棚の中の模型飛行機
Tシャツの文字あをあをと残りゐる箪笥の中に輝けり夏
自涜さへ知らざりし日のかたむきをたもてり天体望遠鏡は
放りたる檸檬また掌に戻るまでそのときの間を「青春」と呼ぶ
ワイシャツの襟やはらかきゆふぐれのわれの内なるかれ目覚めたり
水彩の尽きたる空の色買ひにゆかむ睡りの熟るる時刻に
わがうちに満ちわたる虚を知るゆゑかけふ故郷より着きたる林檎
 この輝かしいまでの青春歌はどうだろう。喜多昭夫の『青夕焼』(1989年)と並んで、80年代を代表するような青春歌と言えよう。ちなみに喜多も西田も巧みに本歌取りと換骨奪胎を駆使している点も共通している。喜多の「青空にレモンの輪切り幾千枚漂ひつつつも吾を統ぶ、夏」は、寺山修司の「目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹」の本歌取りだし、西田の「かき氷食みゐるきみの右手にも秋はしづかに訪れむとす」は、後京極良経の「手にならす夏の扇とおもへどもただ秋風のすみかなりけり」の換骨奪胎である。このように歌の共同財産を踏まえた作歌態度もまた、ある意味で古典和歌への先祖返りと言えるのである。
 西田は「物語なんて始まりさうにないいまこの空を飛びうるとしても」や「舌の上を昼のチーズの味去りていま巨いなる午後もてあます」のように繰り返し倦怠と虚無を語るが、その一方で青春の輝きをこのように煌めく言葉で表現できたのである。塚本が跋文で書いているように、西田はこれらの歌によって永遠に記憶されるだろう。
 私は歌壇に詳しくないので調べてみた限りでのことだが、西田はついに第二歌集は出さなかったようだ。『玲瓏』の最近の号を見てもその名は見あたらない。西田もまた「歌のわかれ」をしたということか。これを残念に思うのは私だけではあるまい。私たちに残されているのは『ストロベリー・カレンダー』の素晴らしい歌を玩味しながら、モカの苦みとキリマンジャロの酸味の差を味わうことしかあるまい。

第3回 [sai] 歌合始末記

 すべては一通のメールから始まった。
 2005年の暮れも押し詰まった11月のことである。同人誌[sai]で歌合を企画しているので、判者になってくれないかという依頼が黒瀬珂瀾氏から舞い込んだ。[sai]は黒瀬珂瀾氏をはじめとして、石川美南、今橋愛、生沼義朗、島なおみ、高島裕、正岡豊、玲はる名、鈴木暁世らを立ち上げメンバーとして発足した短歌同人誌で、2005年の9月に第1号が出ている。この歌合は第2号に向けての企画なのだという。
 いきなりの依頼に驚いた。「歌合の経験がないのはもちろんのこと、ルールも知らないので、とても判者が務まるとは思えない」ととっさの返事をしたのだが、黒瀬氏からは「参加するメンバーもルールを知らないのは同様で、真剣な遊びと考えてもらえばよい」との答えが返って来た。逡巡の末に受諾したのは、おもしろそうだという単純な好奇心もさることながら、それまで姿を見たことのない歌人という人種に会えるという魅力に抵抗できなかったからである。
 私は2003年から自分のホームページで「今週の短歌」と題して素人短歌批評(のようなもの)を毎週書いていた。しかし純粋読者を目指す私の短歌との付き合いは本を通してのものに限られており、生身の歌人に会ったことは一度もなかったのだ。私にとって歌人とは、言葉の魔術を巧みに操る超人のように思えるので、歌人とじかに会うのは恐ろしいが、会ってみたいという誘惑も抗しがたかったのである。
 そうこうするうち12月11日(日)の歌合当日を迎えることとなった。待ち合わせ場所は京都駅の七条側改札口である。黒子役で黒瀬珂瀾夫人の鈴木暁世さんが目印に[sai]を一冊手に持って待っているという。ホームページに実物そっくりの似顔絵を掲載しているので、先方が私を見つけるのはかんたんだ。少し早めに待ち合わせ場所に到着してあたりを観察するが、私は歌人たちの顔を知らないのできょろきょろするばかりだ。ふと見ると改札口を出た所に、並々ならぬ存在感を発散させている男性がいるなと思っていたら、参加メンバーの一人、北の歌人・高島裕氏であった。やがて参加者が続々と到着し、とりあえず昼食をとることになる。あいにく日曜の時分時で飲食店はどこも混雑している。京都駅を出て向かいにある京都タワービル地階の食堂に入る。こんなとき自然とリーダーとなってみんなを引率するのは黒瀬珂瀾氏で、そのカリスマ性はすごいなと横から観察する。昼食が終わったところで、歌人たちはふたつのチームに分かれて作戦会議に入る。私は判者なので会議には加わらず、手持ちぶさたで所在がない。作戦会議が終了し、地下鉄に乗って会場へ移動する。会場は四条烏丸を少し北上した所にあるウィングス京都である。楽屋裏のような場所を通って予約した会議室にたどり着き、いよいよ歌合わせの幕が切って落とされた。
 今回の歌合のルールはこうである。方人(かたうど)は東方が生沼義朗、高島裕、光森裕樹、玲はる名、西方が石川美南、今橋愛、黒瀬珂瀾、土岐友浩、司会は鈴木暁世、判者は不肖私。東方には「ゆりかもめ」、西方には「チーム赤猫」というニックネームがつく。参加者にはあらかじめお題が出ており、「パパイヤ」「たんす」「半島」「姉」の4つを詠み込んだ歌を準備している。方人は一首ずつを出して一騎打ちの対戦をする。残りのメンバーは念人(おもいびと)となって、自軍の歌を弁護し敵軍の歌を攻撃する。ひとしきりの議論の後で、判者の私が判辞(裁定理由)とともに勝ち負けを宣告するという手順で、小林恭二『短歌パラダイス』(岩波新書)のルールにほぼ則っている。『短歌パラダイス』では高橋睦郎が判者として見事な裁定を下しているが、もとより私にはそんな能力も権威もないので、心臓に汗をかく思いである。
 最初のお題は「パパイヤ」で、対戦者は「ゆりかもめ」から光森裕樹、「チーム赤猫」から石川美南。
 光森裕樹は「京大短歌会」OBで、現在は東京でIT関係の仕事をしており所属結社なし。2005年に「水と付箋紙」50首で角川短歌賞の次席に選ばれている。何首か引いてみよう。
 しろがねの洗眼蛇口を全開にして夏の空あらふ少年
 てのひらは繋がるかたちと知るゆふべ新京極に影をうしなふ
 はさまれし付箋にはつかふくらみて歌集は歌人の死をもて終はる
 80年代後半からの修辞全盛を通過した目で見れば、古典的とも言える端正な作りで、手堅い骨格のなかに清新な抒情を漂わせる作風である。しかし欲を言えば、歌の中にひっかかりが少なく、すらすらと結句まで読めてしまう。そんなところが、選考委員の河野裕子の「感じのいい歌ですが、迫力がないのね」という発言に繋がるのだろう。日本語にもっと負荷をかけて、言葉を撓ませることもときには必要ではなかろうか。
 かたや「チーム赤猫」の石川美南は『砂の降る教室』(2003年)でデビューした若手の注目株である。最近東京で「さまよえる歌人の会」なる組織を結成したらしい。水原紫苑に「口語とも文語とも判別がつかない文体」と評された石川の歌も引用しておこう。
 窓がみなこんなに暗くなつたのにエミールはまだ庭にゐるのよ
 いづれ来る悲しみのため胸のまへに暗き画板を抱へてゐたり
 カーテンのレースは冷えて弟がはぷすぶるぐ、とくしやみする秋
 さて、お題「パパイヤ」の出詠歌である。
  タイ内陸部、チェンマイ
 パパイヤを提げて見てをり瞑想のまへに僧侶がはづす眼鏡を  光森裕樹

 うるはしきルーティンワーク犇めけるパパイヤのたね身に飼ひながら  石川美南
 光森の歌はタイ旅行に取材したもので、一見すると単なる叙景歌に見える。歌合参加者がこの歌についてどのような発言をしたかは[sai]第2号の記録に譲るとして、私には高島裕の示した解釈が印象深かった。眼鏡は近視の人がこの世の事物を見るために必要なものであり、この世を暫時離脱する瞑想に入る僧侶には必要のないものである。眼鏡を外す行為は、見える世界から見えない世界への移行の喩であり、この歌にはそのような仏教的世界観が表現されているというのである。高島が自軍の念人であることを差し引いても優れた読みと言えよう。
 一方の石川の歌は働く日常がテーマである。この歌のポイントは「犇めける」という表現で密集する種の様子を描写した点と、パパイヤの種を外在的事物として詠むのではなく、体内の感覚の喩として提示した点にある。その感覚はルーティンワークに象徴される卑小な日常性に対する焦燥だろう。
 題詠では「パバイヤ」という題が十分生かされているか、「パパイヤ」でなくても成立する歌ではないかといった点が、歌の優劣を判定するポイントとして重視される。光森の歌をめぐっても、ひとしきりそのような議論が続いた。私は議論に参加する立場にないので黙って聞いていたが、後日思いついたのは、パパイヤの形状と、黄色い果肉の中に黒い種がぎっしり詰まっている内部構造が重要ではないかということだ。パパイヤの外見はやや括れた卵形をしているが、卵はしばしば宇宙や再生のシンボルとされる。また内部に詰まった種はビッグバンのごとき爆発的な生産力を暗示する。するとパパイヤ自体を転成を繰り返す宇宙の暗喩とみなせるのではないか。ならば僧侶が眼鏡を外す行為が象徴するこの世からの離脱と、パパイヤが体現する宇宙的次元はよくマッチするのである。
 判定は東方の光森を勝ちとした。僧侶が眼鏡を外すという何気ない情景に精神性を詠み込んだ光森の手腕と、倒置法による手堅い措辞を多としたのである。石川の歌もおもしろいが、二句切れなのか三句切れなのか判然とせず、上句の調子があまりよくない。これで東方「ゆりかもめ」チームが一勝となる。
 次のお題は「たんす」。方人は東方が生沼義朗、西方が今橋愛である。生沼は短歌人会所属。『水は襤褸に』(2002年)で日本歌人クラブ新人賞を受賞して注目を浴びた歌人であり、荒廃を抱え込む現代都市東京を背景とする神経症的な抒情に持ち味がある。
 ペリカンの死を見届ける予感して水禽園にひとり来ていつ
 塩辛き血の腸詰を喰いながらわがむらぎものさゆらぎはじむ
 嚥下するピリン錠剤 精神の斜面(なだり)にしろき花咲かすため
短歌人会には現代では珍しく「男歌」の系譜が脈打っているように感じるが、生沼も確実にその衣鉢を継ぐ一人だろう。
 一方の今橋は『O脚の膝』(2003年)で北溟短歌賞を受賞した若手で、『短歌研究』800号記念臨時増刊の「うたう作品賞」には赤本舞の名前で投稿していた。多行書きで場所を取るので『O脚の膝』から1首だけ引用する。
 「水菜買いにきた」
 三時間高速をとばしてこのへやに
 みずな
 かいに。
 独特な言葉の浮遊感と、現代詩と淡く接続した詩想は、明治以来の近代短歌の作歌原理と完全に切れている印象が強い。その個性はとうてい他人が真似できるものではなく、ヘタに短歌のお勉強などしないよう切に願いたくなる作風である。
 さて、生沼と今橋のタンスの歌に移ろう。
 人生の荷物を背負うこと思い、タンスかつげばタンスは重い  生沼義朗

 うかがって うすくわらっておりました
 たんす ながもち どの子がほしい?  今橋 愛
 生沼の歌は今回のお題と波長が合わなかったのか、いつもの調子が出ないようで、敵軍からは人生の荷物をたんすで象徴するのは陳腐だとか、「思い」「重い」の脚韻もうさんくさいだとかさんざん攻撃されていた。ちょっと反論しにくいのが気の毒である。自軍の東方の念人もほめあぐねている感があった。また「本当にたんすをかつげるのか」という話題にも花が咲いたが、その昔、TBSの「ベストテン」で演歌歌手の大川栄策がかついでいるのを見たことがあるのでその点は心配ない。
 今橋のたんすの歌は、上句の主語が意図的に消去され、下句にわらべ歌を引用して、人気のない大きな日本家屋で座敷童が白昼に戯れているような不思議な印象を生み出している。初句「うかがって」が「伺って」なのか「窺って」なのかひとしきり議論があったが、これは「窺って」だろう。
 題詠で重要なのは、題の持つ意味場の潜在力をいかに引き出すかという点と、日常的文脈に回収されていない意味や結合をいかに発見できるかという点である。今回の対決では、生沼の歌の「人生の荷物」と「たんす」の取り合わせはいささか平凡に堕した感が否めない。今橋の歌は、日常的什器であるたんすから滲み出る不気味さの感覚をよく捉えている。実力派の生沼には気の毒な結果となったが、判定は西方の今橋の勝ちとした。ここでコーヒーが運ばれてきて、いったん休憩となる。
 次のお題は「半島」。なかなか手強いお題だが、今回の歌合わせ白眉の勝負となった。お題から放散される意味場の強度が歌人の創作意欲を刺激したと見える。東方は玲はる名、西方は黒瀬珂瀾である。
 東方の玲はる名は「短歌21世紀」所属。歌集に『たった今覚えたものを』(2001年)があり、印刷媒体よりもインターネット上で活躍している歌人である。今回の歌合でもずっと膝の上にノートパソコンを置いて何か打ち込んでいた。何首か引いておく。
 便器から赤ペン拾う。たった今覚えたものを手に記すため
 冬の間は忘れ去られる冷蔵庫の製氷皿のごときかわれは
 体には傷の残らぬ恋終わるノンシュガーレスガム噛みながら
 かたや黒瀬珂瀾は『黒耀宮』(2002年、ながらみ書房出版賞)の耽美的世界で注目された歌人で、「中部短歌」を経て現在は「未来」所属。批評会やシンポジウムなどの常連と言ってよいほど短歌シーンで活躍している。短歌の未来を担う逸材であることはまちがいない。得度したとも聞いているので、私が万一のときには一面識もない坊さんより、黒瀬氏に経をあげてもらいたいものだ。
 咲き終へし薔薇のごとくに青年が汗ばむ胸をさらすを見たり 『黒耀宮』
 世界かく美しくある朝焼けを恐れつつわが百合をなげうつ
 父一人にて死なせたる晩夏ゆゑ青年眠る破船のごとく
 さて両者の「半島」の出詠歌である。
 半島に夕暮れどきを 半熟の卵で汚れたスカートに銃を  玲はる名

 ひとづまのごと国を恋ふ少年にしなやかに勃つ半島のあれ  黒瀬珂瀾
   ふたりが詠んだ歌は期せずして強いエロスの磁場を発散するものとなった。玲の歌は「夕暮れどきを」と「スカートに銃を」と、二重の希求体を並置して高いテンションを付与し、「スカート」の女性性に「銃」という男性性を対置することで、歌の内部に緊張感を演出している。また「夕暮れ時」を権力の凋落、「半熟の卵で汚れた」を抑圧・陵辱、「銃」を闘争の喩と読むならば、政治的な解釈も可能な歌である。歌合では実際にそのような解釈を示す人もいた。二句切れの不安定さもここでは歌にこめられた切迫した希求感を強める効果がある。
 一方黒瀬の歌は、「人妻」と「少年」の対置が醸し出す「禁忌」と「隔たり」を、「少年」と「国」の関係へ投影し、「勃つ」と「半島」の連接が性的暗喩を生む構造になっている。直喩と暗喩を駆使した技巧的な歌であり、黒瀬の得意とする同性愛的世界である。
 「半島」というお題が二人の歌でこれほどの物語性を押し上げるのには驚く。海に向かって突き出しているという形状もさることながら、半島がしばしば政治的軋轢や戦闘の舞台となったという歴史的経緯も、この語に強い意味的磁場を付与しているのだろう。  さて判定である。事前になるべく「持ち」(引き分け)は出さないようにと言われていたのだが、こういう秀歌が出そろうと判者の心は千々に乱れる。考えた末、この対決ばかりは甲乙付けがたく、よって持ちとすることとした。
 歌合もいよいよ大詰めを迎え、最後のお題は「姉」である。東方「ゆりかもめ」チームからは高島裕、西方「チーム赤猫」からは土岐友浩。労働で鍛えた頑丈そうな高島の体格と、神経質そうな痩せた土岐の体格が対照的な対戦である。別に体格で勝負するわけではないけれど。
 高島は「首都赤変」で1998年の短歌研究新人賞候補に選ばれて注目された歌人で、「未来」に所属していたが現在は無所属。歌集に『旧制度(アンシャン・レジーム)』、『嬬問ひ』、『雨を聴く』、『薄明薄暮集』がある。最近は故郷の富山の風土に沈潜するような歌を作っているらしい。北国の人らしく寡黙だが、歌の解釈を述べるときの冷静にして的確な意見は印象に残った。
 蔑 (なみ) されて来し神神を迎えへむとわれは火を撃つくれなゐの火を
                『旧制度(アンシャン・レジーム)』
 森の上 (へ) にふと先帝の顕ち給ふ苦悶のごとく微笑のごとく
 雪の野に横たふわれの掌のなかで灯る青あり青はいもうと 『嬬問ひ』
 一方の土岐友浩は京大短歌会所属の現役大学生。2005年の第3回歌葉新人賞では「Cellphone Constellations」で、2006年の第4回歌葉新人賞では「Freedom Form」で最終候補作品に選ばれている。最近、Web歌集「Blueberry Field」を上梓したので、何首か引用しておこう。
 首もとのうすいボタンをはずしたらゆびさきにのりうつったひかり
 ウエハースいちまい挟み東京の雑誌をよむおとうとのこいびと
 こいびとの黄色い傘をもったままイルミネーションへ移る心は
 土岐の世代にとってはニューウェーブ短歌はすでに歴史であり、その資産は組み込み済みのものとして作歌を始めるのだろう。
 ふたりの「姉」の出詠歌は対照的な歌となった。
 姉歯、とふ罪人の名を愛でながら夕餉の魚を咀嚼してをり  高島 裕

 かろうじてきれいな川をふたりして見る 姉にしてお茶をくむひと  土岐友浩
 高島の歌には今となってはいささか解説が必要である。歌合の少し前、姉歯一級建築士による建築強度偽装問題が発覚して大騒ぎになったので、これは時事的な歌なのである。お題の「姉」が姉歯という固有名として詠み込まれている。題詠ではお題をストレートに詠み込まず、少しずらして詠むというやり方もあって、これもアリなのだ。描かれているのは男の孤独な夕食の場面で、「罪人の名を愛でながら」にどこか屈折した心理が読み取れる。また「咀嚼してをり」には、世の出来事に対して距離を置いた即物的な反応が暗示されている。全体として静かな中に鬱屈した心情を体臭のように発散させるよい歌だと思う。また「姉歯」の「歯」と「咀嚼」とが遠く呼応しているという指摘もあった。
 土岐の姉の歌は解釈をめぐっていろいろな議論があった。なかなか読みにくい歌である。「ふたりして見る」とあるので、女性と「私」が川を見ているのだろう。「お茶をくむひと」は死語となった感のある「お茶汲みOL」か。「姉にして」も本当の姉か、姉のような人か解釈が分かれる。私など最初は、川を見下ろす旅館の二階で女性がお茶を淹れている場面を想像してしまったが、みんなの読みはそうではないらしい。テーマは年上の女性に対する淡い恋情と、まもなく関係が壊れるという予感あたりだろうと推測される。
 歌合では一首ずつで勝負を決めるので、一首の屹立性が弱くまた結像力に欠ける口語短歌は不利である。「決まった」という感じが薄いからだ。口語短歌における連作の重要性とも関係する問題だろう。
 判定は高島の勝ちとした。土岐の若さも高島の作歌経験のぶ厚さを突破するには少し勢いが不足したようだ。
 都合四番の勝負の結果、東方「ゆりかもめ」チームが2勝1引き分け、西方「チーム赤猫」が1勝1引き分けで、東方の勝ちである。「ゆりかもめ」チームは快哉を叫び、[sai]歌合はお開きとなった。
 開始が予定時間より遅れたので、会場を出ると京都の町はもう暮れ方である。これから喫茶店に行くという歌人たちと別れて、疲労困憊した私は一人家路についたのであった。

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第2回 野樹かずみ『路程記』

花びらはしずかにながれすぎにけり水のおもてのわれを砕いて

                野樹かずみ『路程記』
 野樹は1963年生まれで、1991年に第34回短歌研究新人賞を受賞している。同年の同時受賞は尾崎まゆみの「微熱海域」。『路程記』は2006年に歌葉叢書から出版された第一歌集で、20年余りにわたって詠んだ歌をまとめたものだという。長期間にわたって詠んだ歌を構成的に配置してあるので、読後感もおのずとそれに感応することになり、最後のページを閉じた時、作者に同行して長い旅をしたという感想を抱く。そんな歌集である。
 歌風を乱暴に分類すると、「上をふり仰ぐ歌」と「うつむく歌」、「外に流れ出る歌」と「内へと向かう歌」のような分類ができようが、野樹の歌風はまちがいなく「うつむく歌」「内へと向かう歌」である。なぜうつむいて内向するかと言うと、野樹の存在の最深部に〈世界に対する違和〉が盤踞しているからである。
 永遠の眠りを眠る始祖鳥の夢かもしれぬ世界に棲めり
 故郷からわたしから逃れゆく夜の列車にわたしの顔だけ映る
 遠ざかる光景ならば愛せるかオペラグラスは逆からのぞけ
 死んでゆく母だけ味方いまは本を読むさえ父に憎まれていて
 風景の危うくゆれる街をゆく人それぞれの義眼のなかに
 透かしみる写真のネガにもくっきりとわたしのかたちの欠落がある
 地下鉄の轟音として迫り来るおぼえていない過去から闇が
 私は誰かの見る夢の中に生きているという一首目の感覚は、生の実感の乏しさに由来する。自らの生きる生の全体を我が物として感得できない不全感は、程度の差こそあれ現代人が共通して持つものであり、それ自体は珍しいものではない。しかし野樹の歌が表現しようとしているのは、「現代人の置かれた状況」のような一般化できる感情ではなく、もっと個人的なものであり、他者と共有することのできない感覚のようだ。この歌集が発散する意味は極めてパーソナルな「極私的」意味である。読んでいると狭い私的圏内に吸い込まれてゆくかのような感覚に捕らわれるのはそのためだ。
 その「極私的」意味は、掲出句の最後の「地下鉄の」が示すように、どうやら過去からやって来るようだ。二首目「故郷から」に見られる故郷遁走や、四首目の親との確執も、テーマとしては珍しいものではないが、野樹に重くのしかかっているらしい。三首目「遠ざかる」もまた遁走の主題の変奏である。オペラグラスを逆からのぞけば、風景は縮小される。矮小化され自分から隔絶したものとならねば愛することができないほど、野樹は過去に違和感を抱いているのである。五首目も同種の主題だが、この歌では違和感が歌の中の〈私〉へと収斂せず、「人それぞれ」へと投射されている分だけ、共有の地平へと放たれた歌となり得ている。六首目の「透かしみる」では、〈私〉が世界の中の欠落と見なされており、野樹の抱える違和感の深さが窺える。
 野樹の存在の根底に盤踞する違和は、もしかすると次の歌群と深く関係するのかもしれない。
 どんな深い海峡があっていまわれに隔てられている名もなき故国
 わが国と呼ぶ国もたずかりそめの胸の大地はいま砂嵐
 奪われてしまうものならはじめからいらないたとえば祖国朝鮮
 汚れたるビニール紐が足首にからまるいたるところに国境
   故国喪失が根深い欠落感を生むのは当然のことであり、最後の「汚れたる」の歌が示しているように、どこに住もうとも不可視の国境が存在するのもまた現実である。このような場所から放たれたと思われる次のような歌もある。
 退屈に寝転んで蹴る地球儀のアジアはわたしの足の面積
 焼き捨てる思い出の品にまぎれて地図帳いまはアジアが燃える
 「内へと向かう歌」の多いこの歌集の中では例外的に空間的広がりを持つ歌である。内なる違和と不可視の国境に絡め取られることを拒否して視野を拡大すれば、このような歌が生まれる契機となるのだろうが、残念ながらこのような視座に立つ歌はこの歌集には少ない。しかし野樹はフィリピンのスモーキー・マウンテンを訪れた体験から、フィリピンでフリースクールを運営する活動に関わっているようだから、掲出歌のような視野を実生活において実現していることになるだろう。
 『路程記』中程に配された「夢の羊水」は母親の死を主題とする連作で、経験の切実さからか、それまで必ずしもくっきりと焦点を結んでいなかった歌の風景が、にわかに具体性を帯び始める。そして「草故郷」の連作では主調音が一転し、故郷での少女時代の母親の姿が夢幻的色彩のなかで詠われている。詠われた風景が夢のように美しいのは、喪失した風景だからだろう。なくしたものだけが美しい。
 鳩小屋の鳩らになにをうちあけて午後のひかりのなかに笑む母
 何げない午後に見かけた陽に灼けた畳の荒野をゆく母の背を
 みるうちにわけもなくなみだぐむとおい山のふもとのうすいむらさき
 夕闇のもろこし畑の風のなか母呼ぶ声のやがて泣き声
 このように『路程記』を通読して感じるのは、稀に見る「物語が充満した歌集」ということである。現代の都市で集合住宅に住み、満員電車に毎日揺られて通勤する市井の人間は、人に語るに足る物語を持ちにくい。穂村弘の言葉を借りれば、「命の使いどころのない」(『短歌の友人』)生の平板化のなかでいかに詠うかは、現代の歌人に共通する課題だろう。しかし野樹には、海峡を隔てた祖国という空間軸と、父母・祖父母・喪失した故郷という時間軸のそこここに点在する濃密な物語がある。その物語は野樹がみずから選択したものではなく、この世に生まれ落ちた時点で押しつけられたものであり、野樹の心に闇を呼び込むことがある。野樹が歌を汲み上げる泉として、過去から押し寄せる闇を選ぶのはけだし当然と言うべきだろう。そもそも人にまつわる物語とは、自由意志で選び取るものではなく、私たちが否応なく引き受けざるをえないものだ。
 同じ闇を描いていても、野樹の描き方は例えば加藤治郎の『環状線のモンスター』などとは根本的に異なることにも注意しておきたい。
 弾丸は二発ぶちこむべしべしとブリキのように頭は跳ねて
                  『環状線のモンスター』
 誰かいっしょに死んでください鶏の小さな頭、闇にみちたり
 帯文の惹句にあるように、『環状線のモンスター』は現代の日常に侵入してくる狂気と怪物を描いた歌集だが、加藤が描くのはあくまで「時代の狂気」「現代の闇」であって、自らの内なる闇ではない。だから「べしべし」などと修辞を凝らす余裕もある。野樹の描く闇は自らの肉に食い込む闇であり、修辞を突き破って迫って来るので、読んでいてこちらが息苦しくなるほどである。
 むざむざとさらされて在る憎しみに真白にやわきむくげ花裂く
 胸に棲む鳥の羽毛をむしりやまぬわたしをだれか無理矢理とめよ
 あこがれの果てのちいさな景色なり誘蛾灯下にちらばる死蛾も
 しかし歌集の後半に至り、訪れたフィリピンのスモーキー・マウンテンに群がる子供たちに注がれる目は柔らかく、このあたりが野樹の心境の転機になったと推測される。
 ゴム草履パタパタ鳴らし少女らがサンパギータの花売り歩く
 こわれそうな小屋から子どもたちにぎやかな音符となってとびだしてくる
 ぬかるみのなかのちいさな足あとの水たまりにも浮かぶ太陽
 そして歌集の掉尾を飾る「埴輪」の連作では、新しい生命を授かったことで歌はさらに光の方向へと転調するのである。
 火星赤く われは胎児をふとらせる闇を抱えた古代の埴輪
 この星にきみ生まれけり水の匂いさやかに立ち上がる秋の朝
 みどりごの眠りをいまは抱いてゆく蛍飛び交う銀河のほとり
 朝ごとにきみに発見されている世界に一羽の鳥降りてくる
 一首目「火星赤く」に詠われた闇は、それまでの過去から迫って来る闇ではなく、新しい生命を育む肯定的な闇であり、軍神の星である火星が頭上にきな臭い光を放っているとはいえ、古代の埴輪の静謐な落ち着きに守られている。二首目以下の歌もそれまでの歌から滲み出る閉塞感から解放されており、野樹はここに至ってようやく、「うつむく歌」「内へと向かう歌」から「上をふり仰ぐ歌」「外に流れ出る歌」への転調を果たしたのである。気がついてみれば、読者は「抑圧」から「解放」へと構成された物語の中を歩いたことになる。
 『路程記』以降に作られた歌が野樹のホームページに「箱船」という題で掲載されている。野樹は過去から押し寄せる濃密な物語から解き放たれ、新しい歌風を模索しているようだ。「箱船」という題名がその方向をさし示しているのかもしれない。
 

 

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第1回 佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』

胸おもくまろくかかえて鳥たちははつなつ空の果実となりぬ
         佐藤弓生『眼鏡屋はゆうぐれのため』
 リニューアルした短歌コラム「橄欖追放」の第一回目に誰を取り上げようか、あれこれ思案をめぐらせた。まだ取り上げていない歌人にしようか、それとも一度論じた歌人の新歌集にしようか。こういう迷いの時間はこの上なく楽しい。いろいろ考えた結果、リニューアルしたからには自分の嗜好を押しだそうと、佐藤弓生の第二歌集『眼鏡屋はゆうぐれのため』(2006年)に決めた。佐藤弓生は「今週の短歌」で2004年8月に一度取り上げているが、その時は『世界が海におおわれるまで』 (2001年、沖積舎)が唯一の歌集だった。『眼鏡屋はゆうぐれのため』は角川書店の叢書「21世紀短歌シリーズ」の一巻として刊行されており、同じ年に角川短歌賞を受賞した作品を巻頭に収録している。淡いワインレッドの装丁に開いた白紙の手帖とルーペを配したブックデザインは、死語と化しつつある瀟洒という形容がぴったりで、収録作品の放つうっすらとノスタルジックな空気感とよくマッチしている。
 『世界が海におおわれるまで』の巻末に歌誌「かばん」の仲間である井辻朱美が解説を寄稿している。井辻がキーワードとして選んだのは「距離」であった。ここで「距離」というのは歌人の歌に対する立ち位置のことで、歌が作者の身体から見て右手前にあるのか、30センチの近距離にあるのか、それとも10メートルの遠方にあるのか、はたまた作者の身体は歌の空間の内部に含まれているのか、それとも遙か遠くから遠望しているのかといったことをさす。「視点」と呼んでもよいが、井辻は「距離」という言葉を選んでいる。その上で、「空洞を籠めてこの世に置いてゆく紅茶の缶のロイヤルブルー」のような佐藤の歌を引いて、佐藤の歌には魅力的な視点のあいまいさがあり、「距離への作者の無関心というよりも、故意におこなうずらし、ゆらぎ」が認められ、「視点人物だの仮想作者だの焦点化だのという理論の枠組みをいともかろやかにくしゃっと踏みつぶしてしまっている」と論じている。「視点人物」や「焦点化」というのは、フランスの文芸批評家ジェラール・ジュネットの理論を念頭に置いているのだろうが、佐藤の短歌はそのような小賢しい文芸理論を軽々と踏み越えているというのだ。
 「視点」が近代の産物であることは言を待たない。西欧ルネサンス初期までの絵画には視点がない。すべてを同列に置いて斜め上方から俯瞰的に描く日本の大和絵も同様である。ルネサンス時代の「人間」の発見が視点を誕生させ、視点が〈私〉と〈世界〉の距離を生んだ。これが主客二元論の発生であり、見る〈私〉と見られる〈世界〉の対立の始まりである。明治時代の近代短歌運動が西洋絵画の大きな影響のもとに成立したのは偶然ではない。見る〈私〉と見られる〈世界〉の対立は写実の基盤であり、「歌の情景を作者はどこから見ているか」が明確であることを求められる。これが近代の〈眼〉であり、現代において歌を詠んでいる歌人も、意識するしないにかかわらず、この〈眼〉を内面化させている。
 井辻の言うように佐藤がこの近代の〈眼〉を「くしゃっと踏みつぶして」いるとしたら、それは佐藤が近代短歌のセオリーからの逸脱と自由を、何らかの理由で獲得しているということである。見る〈私〉と見られる〈世界〉の対立と、そこから生ずる距離を無効化する方法は理論的にはいくつか考えられる。〈私〉100パーセントの濃縮還元ジュースを作って世界を消滅させても距離は消えるし、これよりは難度が高くなるが〈私〉をゼロにして〈世界〉100パーセントにしても同様の効果が得られる。しかし佐藤の選択した方法はどちらでもなく、「〈私〉を小刻みに〈世界〉に差し入れる」というものだと思われる。『眼鏡屋はゆうぐれのため』から何首か引いてみよう。
 乳ふさをもたない鳥としてあるくぼくを青空が突きぬけてゆく
 ふゆぞらふかく咬みあう枝のあらわにもぼくらはうつくしきコンポジション
 水に身をふかくさしこむよろこびのふとにんげんに似ているわたし
 定住のならいさびしいこの星のおもてをあゆむ庭から庭へ
 一首目で鳥は〈私〉の観察する対象ではなく、私は鳥としてあるのだから、主客の乖離はむしろ融合している。その〈私〉を青空が突き抜けてゆくという感覚もまた、主客の対峙よりは混交の感覚を表していると言えるだろう。二首目は冬空を背景としたモンドリアンの抽象絵画を思わせる歌である。三句目までは〈私〉の目から見た冬景色の通常の叙景と読むこともできるが、四句目に来ていきなり交叉する枝は「ぼくら」に転じており、一瞬頭がくらっとするような主客逆転が行われている。三首目の上句は水泳の光景を詠んでいるのだが、「水に身をふかくさしこむ」という表現が「〈私〉を〈世界〉に差し入れる」という佐藤の方法論を象徴しており、おまけに下句の「ふとにんげんに似ているわたし」が暗示しているのは、この歌の〈私〉は少なくとも意識の上では人間という種をふらふらとはみ出しているらしいということである。〈私〉が人間でなくなれば主客二元論もまた消滅する道理だ。四首目は現代短歌が獲得した新しい「視点」を示す歌。「定住のならいさびしい」という上二句は、放浪と風のような自由さに憧れる気持ちを表現している。それはよいとして、「庭から庭へあゆむ」主体が人間であるとしたら、その距離は数メートルかたかだか数キロメートルが常識だが、それにたいして「この星のおもて」と天文学的視点からの表現を配しているところに視点の飛躍がある。四首目を含む「庭から庭へ」の連作には、他に「胸に庭もつ人とゆくきんぽうげきらきらひらく天文台を」とか、「ゆく春やアインシュタイン塔をなす錆びた小ネジであったよわたし」のように宇宙的次元へとつながる歌が配されている。このような視点の取り方、もしくはこのような近代的視点の無効化は、現代短歌がある頃から獲得した手法のひとつと言えるだろう。
 吉川宏志の『風景と実感』(2008年、青磁社)の中で、正岡子規の「地図的観念と絵画的観念」という文章が紹介されていて興味深い。吉川の本や子規の文章については、またいずれ改めて詳しく論じたいと思っているが、とりあえず要点をまとめると、「地図的観念は万物を下に見、絵画的観念は万物を横に見る」のであり、子規は前者を排し後者を推奨しているのである。つまり「上から俯瞰するような視点はリアリティーを欠くのでよろしくない」と言っているのだ。近代短歌が見る〈私〉と見られる〈世界〉の対峙を基本とするならば、両者は細部が観察可能な距離に位置しなくてはならない。あまり両者の距離が開くと、〈世界〉は〈私〉の眼から逃れる抽象的存在になってしまう。子規はこれを嫌ったのである。しかし近代短歌のセオリーから脱却せんと欲する人は、これを逆手に取ればよろしい。〈世界〉を地図的にはるか上空から俯瞰する視点を取れば、主客二元論はおのずと超克される。上空から俯瞰する視点はすなわち偏在する視点であり、その原理上〈私〉の位置を一意的に定義しない。これは〈神〉の視点なのであり、この視座に立つ人は畳の上に寝起きする通常の〈私〉ではなくなるのである。
 人工衛星(サテライト)群れつどわせてほたるなすほのかな胸であった 地球は
 草原が薄目をあけるおりおりの水おと ここも銀河のほとり
 ゆくりなく夕ぐれあふれ街じゅうの眼鏡のレンズふるえはじめる
 ふたしかな星座のようにきみがいる団地を抱いてうつくしい街
 あしのうら風に吹かせてあたしたち二度と交わらない宇宙船
 一首目の結句の「地球は」には、字足らずになることを承知で思わず「テラは」とルビを振りたくなる。三首目は巻頭の「眼鏡屋は夕ぐれのため千枚のレンズをみがく(わたしはここだ)」と呼応する歌だが、言うまでもなく地理上の一点に縛られた〈私〉には街じゅうのレンズを見ることはできないのであり、ここにも視点の浮遊とそれによって生み出された夢幻的なムードがある。五首目は佐藤史生のSFマンガのようだ。総じてこれらの歌にはSFやファンタジーやコミックスと通底する空気感が濃厚である。佐藤は短歌を作る傍ら詩人であり、英国推理小説などの翻訳家でもあり、『少女領域』『ゴシックスピリット』の著者の高原英理と共同でホームページを持っていることからもわかるように、SF・ファンタジー・幻想系に近い位置にいる。幻想系やゴシック系は反近代の先兵のようなものだから、もともと佐藤には近代の主客二元論の桎梏から自由になりやすい素地があったのかもしれない。
 いささか近代短歌論に走りすぎたようだ。『眼鏡屋はゆうぐれのため』に話を戻すと、『世界が海におおわれるまで』と比較して気がつくのは修辞の成熟である。
 敷石に触れるさくらのはなびらの肉片ほどの熱さか死期は
 腿ふとく風の男に騎られてはみどりの声を帯びゆくさくら
 風の舌かくまで青く挿しこまれ五月の星は襞をふかくす
 瞼とは貧しい衣 光を、とパイナップルに刃を入れるとき
 一首目の助詞「の」で結ばれた長い序詞は、加藤治郎の言う現代短歌の修辞ルネサンスを思わせる。二首目は一読すると謎のような歌だが、よく読むと桜の花が風に散って葉桜となるまでを詠っていることがわかる。風を腿の太い男に譬える喩に媒介された「風 – 男」「桜 – 女」の二重イメージが無限カノンのように響く。四首目では目の切れ目である瞼とパイナップルに入れられたナイフの切り込みのイメージとが二重映しになって、どこか危うい感じが漂う不思議な歌である。
 このように『眼鏡屋はゆうぐれのため』は、第一歌集から5年を経た作者の技量の成熟と同時に、近代短歌に対するスタンスまでもがはっきりと看取される充実した歌集となっている。満都の喝采を浴びることはまちがいない。仄聞するところによれば、版元品切れとなり重版がかかったようだから、洛陽の紙価を高らしむることになるかもしれない。  最後に特に印象に残った歌を挙げておこう。
 桐の花ふりてふれくるふところをおそるるにこのうすむらさきは
 生きのびたひとの眼窩よ あおじろくひかる夜空のひとすみに水
 箱蜜柑ざわめきいたり星ほどの冷えなしながら夜の廊下に
 もくもくと結び蒟蒻むすびつつたましいすこしねじれているか
 地震(ない)深し銀のボウルにたふたふとココアパウダーふりこぼすとき
 本ゆずりうけたるのちを死でうすく貼りあわされた春空、われら
 唐ひとの骨がほんのりにおうまでカップを載せたてのひら はだか
 長くなるので一首ごとに論じることは控えるが、二首目はどこかで目にして愛用のモールスキンの手帳に書き留めた歌である。どこで目にしたのか忘れてしまったが、不思議な印象忘れ難く、折りに触れて愛唱してきた。この歌集で再会できて喜ばしい。
 余談だが、昨年(2007年)お招きを受けて歌集の批評会に二度出席する機会を得た。偶然ながら、その二度とも佐藤弓生さんにお会いして、強い印象を受けた。ひと言で言うと、地上の重力から少し解放された人という印象である。また、電脳空間を渉猟していた折りに、テキサスの教会でオルガニストをしている人のブログに行き当たった。何とその人は佐藤弓生さんと大学でオルガン仲間だったらしく、母校の立派なパイプオルガンの前で写した仲良し三人組の写真が掲載されていた。三人のうちブログの主はテキサスでオルガニストとなり、一人は歌人となり、残る一人は眼鏡屋の女主人になったというのはいささか出来過ぎた話である。そういえば『眼鏡屋はゆうぐれのため』にも何首かオルガンの歌があった。オルガンが天上的な楽器であることは言うまでもないことである。
 神さまのかたち知らないままに来て驢馬とわたしとおるがんの前
 いらんかね耳いらんかね 青空の奥のおるがんうるわしい日に


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第0回 短歌コラム再開の弁

 2004年4月から4年間にわたって毎週ホームページに連載した「今週の短歌」は、2007年5月をもっていったん終了とした。200回という区切りのよい回数を迎えたことと、さすがに毎週書き続けるのが辛くなったためである。ある歌集批評会で藤原龍一郎さんとお会いしたとき、「毎週歌人論を書くというのはたいへんなことですね」と言葉を掛けていただいたが、書き始めた当初はそれほど覚悟があったわけではない。こんなに長期間にわたって書くとも思わなかった。
 あるときふとしたきっかけから現代短歌に惹かれた。ときどき「どんなきっかけで現代短歌に興味を持つようになったのですか」とたずねられることがある。私のように自分で作歌もせず、身の回りに短歌関係者もおらず、一人で歌人論を書く人間は珍しいのだろう。どんなきっかけだったか、はっきりと特定できるものがあるわけではない。家人が塚本邦雄の小説のファンで、自宅の書架に何冊も並んでいたが、歌集は一冊もなかった。しかし文春文庫版の『けさひらく言葉』があった。これは塚本が昭和57年9月から59年1月末まで毎日新聞一面の題字下に毎日連載したコラムを一冊にまとめたものである。博覧強記の塚本らしく、古今東西の書物から小説の一節、詩歌の断片、聖書や仏典の一句などを選び、テンションの高い簡潔な文章を添えてある。引用されたものをいくつか引いてみる。

「はじめて映画を撮る時、私は私の画面から松のかたちと緑を追放した。」
                  大島渚「松」
「堪えがたければわれ空に投げうつ水中花。」
                  伊藤静雄「夏花」
「絢爛の重みをつねに雉子翔べり」
                  三浦秋葉「絢爛」
「水くぐる青き扇をわが言葉創りたまへるかの夜に献る」                   山中智恵子「みずかありなむ」

 散文からの引用に混じってときどき俳句と短歌が引かれている。コラムの長さは200字と制限されているため、塚本の文体はいきおい贅肉を削ぎ落としたものとなり、引用もまた短いものにならざるをえない。この結果、コラム全体に極度の凝縮の負荷がかかり、日常の言語使用の場よりはるかに高い内圧を持つことになる。この高い内圧という非日常的言語環境において最も輝くのが韻文であることに、ある時私は気づいたのである。散文には高い内圧に拮抗するだけの言語の凝集度がない。韻文は音数律の制約により意味が圧縮されているため、凝縮の負荷によく耐えるのである。「慈母には敗子あり」(韓非子)のような漢文の文語読み下し文が凝縮の極北だが、俳句や短歌のような短詩型韻文もまた、内圧に負けない言語の緊密度を備えている。深さ1千メートルの深海のような高内圧の言語場という例外的な場所で、私は韻文の持つ力を感得したのである。しかしもとよりこれは後日思案した後付けの論理で、『けさひらく言葉』を漫然と拾い読みしていた当時の私は、名状しがたい言葉の輝きに漠然と魅せられていたにすぎない。
 これをきっかけに現代短歌を読むようになり、読書の里程標のような気持ちで「今週の短歌」をホームページに書き始めた。最初から特に方針があったわけではないが、いくつか指針のようなものはおぼろげながら念頭にあった。
 (1) 一回に歌人を一人取り上げる
 (2) 同じ歌人は二度取り上げない
 (3) 一人の歌人を取り上げるときはできるだけ多くの歌集を読む
書き始めてみて気づいたが、これはかなり縛りのきつい指針である。「水の歌」のようなお題シリーズを除いて(1)と(2)はほぼ守ったつもりだが、(3)は歌集の入手の難しさもあって守れないことが多かった。
 再開するにあたって制約を緩めるため、この指針は反古にすることとした。もう少し気楽に短歌について語りたいという気持ちからである。また歌集だけでなく歌書・歌論も折りに触れて話題にしてみたい。毎週連載は負担が大きいので、原則として月二回の連載とし、第一月曜と第三月曜に掲載することにした。
 つぎはこの短歌コラムの題名である。「今週の短歌」はいかにも散文的で芸がない。歌人の方々のホームページを拝見すると、それぞれに固有の言語感覚を駆使して工夫を凝らした名前を付けておられる。黒瀬珂瀾氏の「moonlight crisis」、穂村弘氏の「ごうふるたうん」、中山明氏の「翡翠通信」、桝屋善成氏の「迷蝶舎」、春畑茜さんの「アールグレイ日和」、村上きわみ+なかはられいこさんの「きりんの脱臼」、大辻隆弘氏の「水の回廊」、横山未来子さんの「水の果実」などが特に印象深い。「光」と「水」のイメージにつながる名前が多いのは、現代に生きる歌人に共通する内的希求ゆえだろう。
 しかし名前の付け方には注意が必要である。その昔、三島由紀夫が文壇にデヴューしたとき、当時の文壇の長老が「三島由紀夫という筆名は若い名前だ。歳を取ったときどうするつもりだろう」と周囲に漏らしたという。三島は45歳で割腹自殺したので老後の心配は杞憂となった。しかし若い時のセルフイメージに駆動されてあまり若い名前を付けると、後で困ることになるのは確かだ。かといって逆にそれ程の歳でもないのに、「梧桐亭日乗」のような「根岸の里の侘び住まい」風の悟りすました名前を付けるのも嫌みである。このあたりの加減が難しい。
 前にも書いたことだが、私は本のタイトルはかなり気にする方だ。しかし、私が今まで出した本の書名は、すべて担当の編集者が付けたものである。向こうは気を遣ってくれて、「ご希望のタイトルはありますか」といちおう聞いてはくれるのだが、私が提案したタイトルはことごとく却下されてしまった。ついに私は諦めの境地に達して俎板の鯉と化し、自分にはタイトルを考案する才能が欠如しているのだと苦い結論を出した。
 しかし再開する短歌コラムは毎週は書かないことにしたのだから、「今週の短歌」という題名は具合が悪い。いずれにせよ新しい名前が必要だ。というわけで愛用のモールスキンの手帳に、思いつくままに20余りのタイトルを書き付けた。その結果選んだのが「橄欖追放」である。自解自註は野暮の極みとは承知しているが、誤解のおそれもあるのでちょっと解説しておく。
 古代ギリシアのアテナイでは、僭主となる危険性のある人の名前を陶片(ostrakon)に書いて投票し、最多得票者を追放する「陶片追放」(ostrakismos)という制度があった。のちにこれを「貝殻追放」と誤訳したのは、ローマ帝国のハドリアヌス帝に重用されたギリシア人の歴史家Flavius Arrianusだと言われている。2,000年近くも経っていまだに誤訳をあげつらわれるのは気の毒というほかはない。一方、同じ頃のシラクサではオリーブの葉(petala)に追放する人の名を書くpetalismosという制度が行われていた。オリーブは日本では誤って橄欖と呼ばれることがある。それを承知の上でpetalismosを「橄欖追放」とした。こうすることで古代ギリシアの僭主追放の制度にふたつの誤訳が重なることになり、興趣が倍加される。実のなかに微量の虚が混じるからである。誰もが知るように、微量の虚は日常言語を詩へと押し上げる酵母となる。
 というわけで4月から新短歌コラム「橄欖追放」を開始するのでご愛読を願う。