フラワーしげる『ビットとデシベル』
さて、フラワーしげること西崎憲は、「かばん」購読会員を自称しており、「かばん」を購読はしているが、短歌の寄稿はしていない。フラワーしげるが短歌シーンに登場したのは、2007年『短歌ヴァーサス』11号の第5回歌葉新人賞の応募作品「惑星そのへん」である。「フラワーしげる」という人を食った筆名と同様に、「惑星そのへん」というタイトルも実に適当だ。ちなみにこのとき荻原裕幸が「短歌にたいする悪意を感じる」と選評に書いているが、本人はそんなつもりは微塵もなかったので、これを読んでびっくりしたという。
フラワーしげるは続いて、2009年の短歌研究新人賞に「ビットとデシベル」、翌2010年に「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」、2014年に「二十一世紀の冷蔵庫の名前」で応募し、候補作まで残ったが受賞は逃している。今回の歌集はそれらの応募作品を中心に編まれたものと思われるが、『短歌研究』誌に応募作品の全数が掲載されているわけではないので確認はできない。
一読して気づくのは、短歌研究新人賞応募作には含まれていたのに、歌集を編む際に落とされた歌がたくさんあることである。
ただひとりの息子ただひとりの息子をもうけ塩のなかにあるさじの冷たさもったいないなあと思う。いずれもフラワーしげるの歌の中でも良質なものだからだ。邪推するならば、「ビットとデシベル」で落とされた歌は、新人賞の選評で取り上げられた歌で、選考委員によってあれこれ分析されたため、色が付くことを嫌って落としたとも考えられなくはない。「ビットとデシベル」の三首目「南北の」は前回フラワーしげるをこのコラムで取り上げたときに掲出歌として選んだもので、「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」の三首目「むかしガールスカウトを」も抒情的で好きな歌だ。落とされたのが残念でならない。
「ビットとデシベル」
死の影には驚くところはなにもなくただ病院の廊下をやってきて連れていった
南北の極ありて東西の極なき星で煙草吸える少女の腋臭甘く
ここが森ならば浮浪者たちはみな妖精なのになぜいとわしげに避けてゆく美しい母子よ
待つものも待たざるものもやがてくる花粉で汚れた草の姫の靴
「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」
この機は黒いヒタチだと痩せた声が言いエレベーター狩りの子ら去る
むかしガールスカウトを失格したきみの肩がプールをすこし隠して
網から逃げてゆく人間が手にもつビニール袋に見える人間
棄てられた椅子の横を通りすぎる 誰かがすわっているようで振りむけない
「二十一世紀の冷蔵庫の名前」
オレンジのなかに夜と朝があって精密に世界は動いていた 私はそこで生まれた
わたしが世を去るとき町に現れる男がいまベルホヤンスク駅の改札を抜ける
「ビットとデシベル」の選考会で加藤治郎は、フラワーしげるの短歌は思想詠であると規定し、過去の口語自由律短歌とのちがいがどこにあるかと言うと、たとえば前田夕暮のころは、自分の生活感情を忠実に再現したいという動機があったが、フラワーしげるの場合は、はなから自分の生活感情を表現したいなどとは思っていない点だと述べている。また、「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」の選評で穂村弘は、フラワーしげるの歌は結局は散文で、短歌に散文的資産が投入されているのではなく、散文に詩的資産を投入したものだと述べ、短い小説のように見えてしまうと締めくくっている。いずれも鋭い指摘であり、加藤と穂村の指摘をメルクマールとして以下に論を進めたい。それは「なぜフラワーしげるの短歌は長くなるのか」という問いである。
この点で自由律俳句は自由律短歌と逆のベクトルを示しているのがおもしろい。自由律俳句は17音より短くなることを指向する。ミニマリスムに傾斜するためである。
墓のうらに廻る 尾崎放哉逆に自由律短歌は31音よりも長くなるのが通例である。しかしそうはいってもフラワーしげるの短歌の長さは群を抜いている。次の歌など48音もある。
春風の思い扉だ 住宅顕信
小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく 『ビットとデシベル』しかしこれだけの長さがあっても散文になっていないのは、「小さなものを売る仕事」が二度反復されることで内的なリズム感が滲み出るからだろう。呪文や民謡や唱歌を例に引くまでもなく、反復は詩的言語の原初的特性である。反復されることで言語は意味のくびきから解放されて、音の位相を自由に羽ばたく。
さて、ではなぜフラワーしげるの短歌は長くなるのだろうか。穂村の指摘するように、短編小説を短歌の詩型に押し込もうとしたならば、31音に入る意味量には限界があるので、はみ出すのは当然だと考えることもできる。ではもう一歩進めて、なぜフラワーしげるは短編小説を短歌の詩型に押し込めようとするのだろうか。それはつまるところフラワーしげるが「セカイ系」だからではないだろうか。
「セカイ系」とは、2000年代の初めころからサブカルチャーを論じるネット批評などを中心に使われるようになった用語で、〈私〉を巡る恋愛や悩みといった個人的問題が、世界的規模の最終戦争とか、宇宙からの来襲による地球の危機などの、個人を超えた人類レベルの問題に直結する物語群を指すとされている。中学生がある日気づいたら、人類の命運の鍵を握る戦士になっていたというような物語である。
近代短歌の中核は〈私〉すなわち「個」であり、〈私〉が日々暮らす中でぶつかる問題や心情を詠むのが王道である。〈私〉の周囲には〈あなた〉や家族・学校・職場などがあり、これらは「近景」を構成する。「近景」のもう少し先には「中景」がある。「中景」は近景より少し大きなレベルの視野で、地域や国家が射程に入り、国と国との政治的摩擦や国を超えた環境問題や生物保護などもある。追い込み漁で捕獲したイルカを水族館で飼うことができなくなったなどというのは、典型的な中景問題である。その先にあるのが「遠景」で、もっと大きな世界史的レベルの出来事や世界経済・イデオロギー・思想・宗教がこれに属し、その特徴は生活実感から遠く抽象的だという点にある。「セカイ系」とは、「近景」が「中景」をすっとばして、いきなり「遠景」に接続する物語だと定義できるだろう。
「セカイ系」という言葉ができてかれこれ15年経過して、この用語が意味する風景が日常普通に見られるようになったことに驚く。そのひとつは「世界観」という用語の氾濫であり、いまひとつは音楽グルーブ「SEKAI NO OWARI」のような、まるでRPGのような楽曲が人気を博していることである。
フラワーしげるの短歌がこの流れの中にあるとは思わないけれども、西崎憲時代にファンタジーを書いていること、また近作の小説『飛行士と東京の雨の森』も大人向けの童話のような味わいがあることを考えても、フラワーしげるが近代短歌・私小説・自然主義と対局に位置していることは明らかである。「セカイ系」で行こうとしたら、一首の中にひとつの世界を作り出さなくてはならない。バラメータの設定が必要になるのだ。
登場人物はみなムク犬を殺したことがある 本の向こうに夜の往来を見ながら一首目、不吉な小説か芝居のト書きのようで、ここでは上句と下句の接続不良が詩的圧縮を生み出している。夜の往来を見ながらムク犬を殺すのではなかろうから、下句には夜の往来を見ている別の主体が想定されているのだろう。二首目は最も設定効果が高い歌のひとつで、「システム」「西のグーグル」あたりに近未来的SFが透けて見える。三首目は、底なしの美しい沼で泳ぎたいと言っているだけで、別に恋人がほんとうに底なしの美しい沼にいるわけではないのだが、上句の光景が残像のように残って下句の意味を支配する。確かにボエジーはまぎれもなく、まるで往年の夢の遊眠社の舞台で幕切れに野田秀樹が叫ぶ詩的な科白を思わせる。
ぼくらはシステムの血の子供 誤字だらけの辞令を持って西のグーグルを焼きはらう
底なしの美しい沼で泳ぎたいという恋人の携帯に届く数字だけのメール
かと思えば掲出歌や、次のように設定より抒情が勝る歌もある。私はこういう世界を愛しているので、もう少しこのラインの歌があればとも思う。
小さく速いものが落ちてきてボールとなり運動場とそのまわりが夏だった野田秀樹のことを書きながら考えたのだが、フラワーしげるのやたら長い短歌は舞台での朗読に向いているのではないだろうか。近代短歌の31音の韻律に縛られないフラワーしげるの短歌を、緩急・強弱のリズムを付けて朗読したら、紙の上で読んでいるときとはまたちがったボエジーが生まれるような気がする。また緩急を付けることによって、ひょっとしたらふつうに朗読した場合の31音の尺になんとか収まるかもしれないなどと考えたりもするのである。
夜の回送電車ゆっくりと過ぎひとりで乗っている死んだ父
アコーディオンは昼の光に 捨てるから庭でそのまま父は弾く
【余談】
穂村弘の近刊『ぼくの短歌ノート』(講談社)を購入したら、表紙ともう一枚紙をめくった場所に、「はいしゃにいっていませんね?」という文と著者のサインが万年筆で書かれていた。インク吸い取り用紙まで挟んであるので、直筆だと思われる。穂村ほどの人気作家ならば、初版3000部は印刷するだろうが、ひょっとして全部に直筆で書いたのだろうか。それとも何冊かだけに書いてあって、当たった人はラッキーなのだろうか。また、全部に同じ文句を書いたのではなく、一冊一冊書く文句を変えたのだろうか。ちなみに「はいしゃにいっていませんね?」を読んでドキッとした。そういえば最近さぼって歯医者に定期検診に行っていない。どうして知っているのだろう。