118:2005年8月 第4週 小笠原魔土
または、実験室から生まれる細胞レベルの抒情

「現象」に創りだされた「考え」が
      「現象」のことを考えている

        小笠原魔土『真夜中の鏡像』
 この歌の「現象」とは〈私〉のことである。〈私〉から生まれ出た「考え」が〈私〉のことを考えている。つまりこれは平たく言えば「私が自分のことを考えている」という日常誰でも経験する内省もしくは自省の場面を詠った歌なのだが,ここには〈私〉につきまとう〈内面性〉が決定的に欠落していることに注意しよう。近代短歌が100年以上にわたって醸成してきた〈私〉に慣れ親しんだ人のなかには,この〈内面性〉の欠落を衝撃的と感じる人もいるだろうし,独自の短歌を追求している奥村晃作のように小気味よいと受け取る人もいるだろう。〈私〉とはひとつの「現象」にすぎないという把握は,存在を実体的に把握してきた近代短歌にとって脅威となる言挙げである。作者にはもちろん近代短歌に反旗を翻す意図など毛頭ないのだが。

 歌集の奥付の略歴によれば,小笠原は1967年(昭和42年)生まれで,「個性の会」と「熾」会員。海洋学研究科という大学院を出て,現在は医療機器を開発する会社に勤務しているらしい。「小笠原魔土」という筆名では性別がわからないが女性である。

 理科系の歌人は決して少なくない。医者であった斎藤茂吉や上田三四二や岡井隆は別として,坂井修一や永田和宏は理科系の学者であり,若い歌人では永田紅や早川志織などがいる。しかし理科系の世界と短歌の間の浸透率はさまざまである。よく引用される永田和宏の「スバルしずかに梢を渡りつつありと,はろばろと美し古典力学」ではケプラーやラプラスの宇宙観を背景としつつも,歌に詠まれているのは古典力学の法則に基づいて静かに運行する天体を眺める人間の内面である。背景は理科系でも歌の世界はあくまで人文的なのだ。

 しかし小笠原の歌の世界が特異なのは,理科系の浸透率がより高く,小笠原が世界を分節する方法そのものが理科系的発想によっているという点にある。

 混沌(カオス)から引き上げられた秩序(コスモス)が法則(ロー)と呼ばれて君臨している

 囁きは弱い振動急速に大気の中で減衰していく

 さまざまな海洋物理の法則が船をこんなに揺らしているのだ

 悲しみはあなたの脳から放たれて私の目から流れ落ちてく

 セロトニン強制的に増加させ現実世界に虚像を結ぶ

 一首目・二首目の「カオス」「コスモス」「ロー」「振動」「減衰」などの理科系用語は,本来は歌語としては余りに硬質で観念的であり,抒情を基本とする短歌の文脈には乗りにくい。短歌に詠み込まれた事物は,「藤の花房」にせよ「向日葵」にせよ即物的な事物ではなく,それを通して作者の感情なり情感なりを詠むのが目的であるから,あらかじめ「情的意味」が付与されており,いわば「人文まみれ」の事物なのである。これにたいして「振動」「減衰」などの用語にはそのような「情的意味」がななく,これらを用いた短歌は即物的で非情で乾いたものにならざるをえない。近代短歌は基本的にこの「乾いた」状態を嫌う。このような用語をあえて用いているところに,小笠原の短歌の大きな特徴があると言える。

 三首目は自分が経験する船の揺れを,その原因である海洋物理の法則にまで遡って詠っている。先に挙げた永田和宏の歌でもまた,天空を渡るスバルの運動の原因を古典力学に遡っているので,歌の構造は一見同じに見えるのだが,その相違は隠れようもない。永田の歌では古典力学に思いを馳せて天空のスバルを眺めるという静かな情感が歌意の本質であり,自然を観照する〈私〉の位置は揺るぎない。ところが小笠原の歌では〈私〉の位置は安定からはほど遠く,揺れる船に乗船している〈私〉を自然法則のなかに溶解しようという姿勢が顕著である。〈私〉の消失が作者の密かな願望なのだ。

 四首目も実におもしろい。ふつうならば,「悲しんでいるあなたに共感して私が涙を流す」というように歌にするところだが,あなたの悲しみはあなたの脳が作り出したものであり,それが私に伝わると涙腺を刺激して涙が流れると,あたかも原因と結果を結ぶ自然現象のように記述されており,ここにもまた内面性は徹底的に消去されているのである。これは「細胞レベルの抒情」と呼んでよい。五首目にあるセロトニンは他の脳内物質の作用をコントロールして感情の暴走を抑え平常心を保つ働きがあるとされている。セロトニンを強制的に増加させるということは,より平常心に近づけるということであり,そうして見える現実世界を虚像だと見なす作者の視点が倒錯していることは明らかである。

 先に「〈私〉の消失が作者の密かな願望」だと書いた。このことは〈私〉を詠んだ歌を並べてみるとよくわかる。

 ふわふわのわたゴミとなり消えてゆくこの部屋にいた私の存在

 うっかりと忘れてしまった 四年前の私の演じた私の形

 波のような粒子のような私を捕えてごらん方程式で

 忘れられ廃墟でひとり茶をすする私の姿を鏡は映さぬ

 生物に課された役目を放棄するもう私は増えたくない

 もういいと誰かが許してくらたならさらさらさらと消えられるのに

 人間の張りぼてなんだ私は一皮剥けばただの暗闇

 ゴミとなりまたさらさらと消えて行きたいと繰り返し詠われている。〈私〉は確固とした意志と感情を持った個的存在ではなく,ふわふわとした希薄な存在でしかない。二首目の「四年前の私の演じた私の形」という箇所に内面性の不在があり,七首目の「人間の張りぼてなんだ」という断言にもまた作者のペシミスティックな人間観が現われている。なかなかおもしろいのは三首目で,「波のような粒子のような」というのは,素粒子が粒子としての性質と波動としての性質を併せ持つとする量子力学の物質観に依拠しているのだが,そのような存在形態を持ちながら私についての解を与える方程式はないと断じている。作者のペシミスティックな人間観はまた,「この惑星(ほし)を滅ぼすために送られた生物兵器としての人間」というような歌にも色濃く現われている。

 理科系の非情な眼差しは次のような実験室から醸し出される無機質の抒情を生む。

 透明なコレステロールの結晶がゆらゆら揺れてる生理食塩水(せいしょく)の瓶

 人間が体内に持つ色彩は外側よりもずっときれいだ

 人間は一皮剥けば骨だから都会はどこも骨だらけである

 実験中オゾンのにおいが鼻をつきブラインドごしに初雪を知る

 ゆらゆらと沈んでゆくのはマリンスノー私が結石(いし)を砕いて造った

 即物的な対象把握に湿った感情移入の影はない。最後の歌は腎臓結石を超音波破砕したかけらをマリンスノーに喩えたものだが,短歌のなかで腎臓結石がこのような形で詠まれたのはおそらく初めてではないだろうか。表現領域の拡大という観点から見るならば,確かに拡大されていると認めざるを得ない。

 小笠原のもうひとつの側面はオカルト指向である。これほどのオカルト短歌も珍しい。

 ロンドンは世界屈指の魔都だからドラキュラを呼ぶ 私も呼ばれた

 沈みゆく血の玉に似た太陽がサイレンたちの瞳を染めた

 死の国の王のくちづけ私は吸血鬼へと変化してゆく

 カン高いホムンクルスの嘲笑が居眠り博士をたたきおこした

 刑場へ続いた道をたどるとき残留思念が足にからまる

 吸血鬼,墓場,錬金術,聖杯,占星術,幽霊などが登場する定番のオカルト世界である。理科系の即物主義とオカルト趣味が同居しているのは奇妙に見えるかも知れないが,〈私〉の消失を希求する小笠原が「人間にあらざるもの」と「あちらの世界」に惹かれるのは当然なことだろう。中村幸一の栞文によれば,小笠原は常に黒い服を着ているということだ。まさかゴスロリではないだろうが,オカルト的雰囲気を日常生活でも実践しているというわけだ。

 さて,ここまで書いてきて気になることができてしまった。今まで私がしてきたように小笠原の短歌を読み解こうとしたら,さしたる抵抗もなくすらすらと読み解けてしまう。なぜかというと小笠原の作る短歌の多くが説明的だからである。だから表現の奥に分け入る努力をしなくても,表面を読んだだけで理解できてしまう。これはまずいのではなかろうか。

 短歌が言語による芸術である以上,そこにはかんたんに読み解くことができないような美がなくてはならないのではないか。読み解いても読み解いても何かがまだ残る歌,どこから読み解けばよいか見当もつかないのに不思議な美しさに輝く歌,意味を理解してしまった後でもいつまでも口に残る歌,意味だけ見ればつまらないのに言葉が輝いている歌,定型文学である短歌はこのような美をめざしてきた。小笠原にも腎臓結石のように不思議な光に輝く歌を期待したい。

117:2005年8月 第3週 川野里子
または、〈私〉は変化する世界の一部として

集会のお知らせの壁に黄ばむ駅
     けむりのやうに汽車を降りれば

          川野里子『太陽の壺』
 私は自分では短歌を作らないので,作歌の技術論にはあまり興味がない。私が短歌を読むときに興味を持って眺めるのは,作者が自分を取り巻く世界,自分に歌を作るようにと促す世界と,どのような位置関係を取り持っているかという一点である。この位置関係の様々な取り方により,その関係性から生まれて来る,またそこからしか生まれて来ない歌のあり様が自ずと決まることになる。おおよそそのように考えている。このような考え方に立脚すれば,コトバとは〈私〉と世界の位置関係を測定する物差しであり,〈私〉と世界との関係性を構築するための,唯一ではないが重要な手段であるということになるだろう。

 そんなことを念頭に置いて掲載歌を見てみる。「無人駅」と題された3首のみから成る連作の中の一首である。前後に次のような歌が並んでいる。

 ぽくぽくとたんぽぽ咲いて陽は咲いてふるさとに白し人のゐぬ駅

 ちちははと幼子のわれが炎(ひ)のやうに闘ひし時間(とき)よ駅に待つ父母

 作者は久しぶりに故郷を訪問している。父母が待つ駅は無人駅であり,いつ貼られたのかもわからない集会のお知らせは黄ばんでいる。自分を待つ父母は老いている。そんな駅に〈私〉は「けむりのやうに」降りる。なぜ「けむり」なのかというと,〈私〉は故郷を捨てて東京在住者となったからである。この「けむり」という単語のなかに,〈私〉と世界の関係性が凝縮されている。それは〈自省の眼差し〉であり,この眼差しが至る所に偏在している点に川野の歌の大きな特徴がある。

 川野は1959年 (昭和34年) 生まれ。現在までに『五月の王』(1990年),『青鯨の日』(1997年),『太陽の壺』(2002年,第13回河野愛子賞)の3冊の歌集と評論集『未知の言葉であるために』(2002年)がある。川野は短歌評論の面でも定評があり,その多くはホームページで読むことができる。

 田島邦彦他の編集になる『現代の第一歌集』(ながらみ書房)の跋文で,藤原龍一郎小池光の次のような文章を引用している。今では昔とちがって歌集を出版することは容易になり,第一歌集の多くはそんな感覚で編まれていると指摘したのち,小池は次のように続けている。

 「けれど二冊目まで出そうとするとき,その意欲はかなりちがった意味を帯びる。一過性の思いつきでなく,表現行為の継続ということが問われるからだ。じぶんが生き続けることと,作歌し続けることの関係性が否応なく問われる。その点,少なくとも著者自身にとって,今日では第一歌集よりもむしろ第二歌集が重要な意味をもっているといえる」(朝日新聞平成4年8月30日)

 この小池の言葉がぴったりと当てはまる歌人として,川野以上にふさわしい人はいないだろう。川野の3冊の歌集は,「じぶんが生き続けることと,作歌し続けることの関係性」への持続的な問いかけの結実であり,青春の輝きに満ちた第一歌集を上梓したのち,急速に輝きを失うタイプの歌人からはほど遠いのである。

 すでに『五月の王』において,夫の転勤のためか山形県に転居して暮らすことになった自分を詠った歌において,川野の眼差しの性格と方向性は紛れようもない。

 万の日を万の鳥来て越えざりし鳥海山にぞ視られて仰ぐ

 みどりの血垂らしかたむく楡おもひ東京をおもひやがて忘れぬ

 失語へとはこばれゆくな夏の花咲きみちてわれをゆする桟橋

 一首目にあるように,川野の歌には〈視る〉と〈視られる〉関係が両立しているものが目につく。〈私〉は鳥海山を仰ぎ見ているのだが,同時に鳥海山に視られている。「こども抱く腕のふしぎな屈折を玻璃ごしにながく魚らは見をり」という歌もあり,ここでは水族館のガラスを隔てて,〈私〉と魚たちが〈視る〉〈視られる〉関係にある。これはつまり〈私〉を特権的な存在として世界から分離して把握するのではなく,〈私〉は世界の一部であり世界の変化とともに〈私〉もまた変化してゆく存在であると見なしていることになる。このように川野の詠う〈私〉は世界に対して開かれているのであり,そのような視座から眼差しが注がれるのは〈変化〉である。川野は変化に興味があるのだ。

 夫(つま)と子と季節のはざまに変態し擬態し女らやはらかくゐむ  『青鯨の日』

 かたち変へ滅びては生(あ)るるわが夫に添ふ一本の朴訥な木は

 子の寝顔かこむ幾夜やささやかにささやかにわれら変わりゆくらし

 川野を襲った一大変化は何と言っても2年余にわたるアメリカ在住であろう。夫君は哲学者らしく,研究のため渡米し,カリフォルニア州パロ・アルトに在住することになる。同じく『青鯨の日』から。

 獅子のごとオムレツ運ぶしなやかな黒人が残す朝の確かさ

 中庭にハミングバードの翼ふるひ異語圏にあはく疲れはじめぬ

 虹色の旗飾るゲイその下階(した)にユダヤ人(びと)祈りわれが書く歌

 東洋を語り重ぬる化粧(けはひ)濃くさびしからずや遠く風の木

 沖をゆく青鯨(せいげい)よりもなほ遠く日本はありて常にしうごく

 幸ひを病める大国画面にはファインと笑ひ青年死にき

 湿った日本とは対照的なカリフォルニアの乾いた空だけでなく,川野の目はその土地で暮らす人々と,違和感を感じつつ暮らす自分にも注がれる。日本とは異なる対人関係のコード,雑多な人種と宗教が混在するアメリカ社会と接したときに自分に起きる微妙な変化に,川野の眼差しは注がれる。「幸ひを病める大国」に対して感じる違和感は,その対極にある日本を語るときに思わず施してしまう濃すぎる「化粧」への自省と同時に存在している。

 このように冷静な川野がやや感情に流されたかと思えるのが,歌集題名ともなった集中の連作「青鯨の日」だろう。 

 光粒子(フォトン)なほカリフォルニアに遍在し君は死にしか死を解けぬまま

 日本の組織離(か)れむと苦しみし青年が遺すブルージーンズ

 三十四といふ死者の歳またわが歳を怒るほかなき蜂鳥として

 カリフォルニアで知り合った日本の青年の不慮の死を詠んだ連作である。あとがきに「発表をためらって手許に置いていた」とあるのは,知人の死という個人的体験にわずかながら重心をかけ過ぎたからか。

 第三歌集『太陽の壺』では詠われる素材はバラエティーを増してゆくが,そのなかで川野に訪れた新たな変化として,父君の死と年老いた母を詠った歌が特に目につき,心を打たれる。

 父母もまた遠く来たりて遠くへと漕ぎゆかむ舟 逢ひて食む瓜

 亡骸の父にうつすら埃ふり凡百の凡の点とし父は動かぬ

 家族の家いままぼろしにかへりゆく母が背骨の透きとほる家

 はなみづき火炎の樹下の炎(も)ゆる母バスより遙かなもの待ちて立つ

 東京での暮らしのなかに父母が入り込むことで,首都と地方とを結ぶ補助線が引かれ,川野の眼差しにさらに奥行きが増しているかのようだ。それと同時に詠い口に自在さが増していることが感じられる。

 ががんぼが足を垂らして浮かぶときしづかに方位を帯びる夕空

 人間(ひと)生(あ)れし宇宙はさびしく乳臭く裸子植物はならぶ歩道に

 草千里踏みしめて牛は立ち上がりわたしくはなんと重たい夢か

 どこか遠くで象が鳴きたり象も吾(あ)もひとつづつ己が柩を背負ふ

 このように抑制の効いた詠い口と抒情を特徴とする川野の歌には破綻というものがあまり見られない。また同じ理由で「この一首」という代表歌を選び出すことも難しい。強いてあげれば字余りの次の歌を『青鯨の日』から選びたい。

 かく生きしわれがかく生きむわれに合図するいつせいに青葉うらがへるとき

 「かく生きしわれ」は過去の自分であり,「生きむ」を意志と取っても推量と取っても「かく生きむわれ」は未来の自分である。だから「かく生きしわれ」が「かく生きむわれ」に合図する瞬間とは,過去と未来の分水嶺としてのみ存在する全き現在にほかならない。ここには現在というたゆたう小舟に乗って時間の河を流れてゆく〈私〉の変化と連続性をふたつながらに見据えて行こうという覚悟のようなものが感じられて印象に残るのである。

川野里子のホームページへ

116:2005年8月 第2週 仙波龍英
または、うす紅色に咲くサクラはすさまじき修羅の花

どんぶりに桜花(あうくわ)をもりて塩ふりぬ
       朝焼け激しき食卓なれば

         仙波龍英『墓地裏の花屋』
 読みたくてもどうしても手に入らない歌集というものがある。私の場合、その筆頭はさしずめ仙波龍英の『わたしは可愛い三月兎』だろう。1985年に詩人荒川洋治の個人出版社である紫陽社から出版されている。表紙の装画は吾妻ひでおの筆になる。吾妻ひでおといえば、可愛い少女とマスクにレインコートという典型的な変態姿の男が登場する不条理マンガで一世を風靡した漫画家である。1989年11月のある朝のこと、吾妻は「煙草を買って来る」と家人に言い置いて家を出て、それっきり失踪した。最近出版された『失踪日記』によると、ホームレス生活を送りアルコール中毒で強制入院されていたという。漫画家は時に激しい人生を送るものだ。仙波龍英の第一歌集の装画を吾妻ひでおが描いていたという事実に、なにかしら暗合めいたものを感じてしまうのである。

 仙波龍英は1952年生まれ。早稲田大学在学中に、同級生の藤原龍一郎にすすめられて短歌を作り出したという。藤原と同じ「短歌人」会に入会している。また仙波はホラー小説の作家としても知られていて、何冊かの著書がある。インターネットの古書検索でひっかかるのはたいていホラー小説のほうである。『墓地裏の花屋』は1992年にマガジン・ハウスから出版された第二歌集で、荒木経惟の撮り下ろし写真と短歌のコラボレーションとなっている。最近でこそコラボレーションは増えて来たが、当時としては珍しい試みだっただろう。

 『墓地裏の花屋』は入手し読むことができたが、最初にも書いたように『わたしは可愛い三月兎』は読んでいないので、これから書くことは勢い不完全なものにならざるをえない。その欠落をいくらかでも補ってくれるのが、関川夏央『現代短歌そのこころみ』(NHK出版) の記述である。『わたしは可愛い三月兎』から次のような歌が引用されている。

 〈ローニン〉の大姉〈ポンジョ〉の姉ふたり東洋の魔女より魔女である

 スティングレーのりまはす姉ワルキューレ狂ひのおほあね撲りあふ朝

 一首目には「’61 葉山・姉21歳と19歳、少年は9歳」という詞書きがある。仙波は歳の離れたふたりの姉を持つ末っ子として育った。ふたりの姉は腹違いだったようだ。大姉は医学部志望で〈ローニン〉を重ねて精神の安定に異常をきたす。下の姉は〈ポンジョ〉すなわち日本女子大に進学している。「東洋の魔女より魔女」というだけあって、姉たちは激しい性格だったようだ。小児結核を患った経験を持つ仙波は、このような姉たちに囲まれる「可愛い兎」であった。仙波は3月生まれである。

 二首目には「’65 / 田園調布5の37の2・姉25歳ローニン、23歳アソビニン、少年は13歳」という詞書きがある。田園調布に自宅があり、葉山に別荘がある。仙波の父親は亡くなったとき、新聞の訃報欄に記事が掲載されるような人だったという。葬儀の際には妾腹の子がどこからか現われた。姉は女子大生の身分で高価外車シボレー・コルベット・スティングレーを乗り回し遊び回っている。仙波はこのような家庭環境に育った。修羅という言葉がふと頭に浮かぶほど、すさまじい家庭環境である。

 『わたしは可愛い三月兎』の解説に小池光は次のように書いているそうだ。「’52年生まれの仙波は、常道ならばこの一冊で青春のドラマを展開しなければならない。愛と別れ、反抗と挫折、生活と幻想といった青春抒情を、である。ところが仙波は全くそれをやらない」 仙波における青春の輝きの圧倒的な不在は痛ましい。おそらく仙波は愛する前に別れ、反抗する前に挫折し、生活を凝視できずに幻想の世界に没入したのだろう。

 『墓地裏の花屋』の最も私小説的作品は母親の死を詠んだ部分であり、その毒は紛れもない。しかしその毒が仙波の内部にあったのか外部にあったのかはもはや知ることが難しい。 

 ひら仮名は凄(すさま)じきかなはははははははははははは母死んだ (享年七十二歳)

     「坊さん三人つけること !」病院で姉が叫ぶ
 あはれなり死ぬよりはやく葬儀屋の手配などされははそはの母

     とにかく煙草ほどのけむりも出ないのだつた
 まる焼きの、かんぺきにまでまる焼きの母はいまだに母であらうか

     それからやがて、骨肉の争ひは起るのである
 葬式のをはりを飾る姉の見栄・憎悪ふたつが眩く眼を指す

 仙波の短歌には詞書きが多いのが特徴である。詞書きといっても、上に引用した二首目以下のように、短歌の前に短い文章が添えられていて、いかにも伝統的なスタイルを模倣しているものもあれば、一首目のように短歌の終わり、しばしば次の行末にカッコに入れて付け足しのようにしているものもある。

 小池光は「詞書きはなぜ叱られるか」(『街角の事物たち』所収)のなかでかなり皮肉っぽく、詞書きが結社で嫌われるのは、納入した会費と投稿できる文字数の計算が狂うからであり、伝授教育ができず添削もできないからであると書いている。これをどこまで真面目に受け取ってよいかはさておき、仙波の詞書きに触れて、それが伝統的なものではないことを指摘している。「一首の理解を助ける手段ではなく一見それらしい体裁に配置された何ものかである」とし、このような態度に通底するのは短歌という伝統的詩型への絶対的信頼感の喪失だと結論している。

 上に引用した母親の死をめぐる一連の歌の場合、詞書きはそれに続く短歌と意味的に関連しており、歌が作られた現実の背景を説明する役割を果たしている。したがってこれはまだ「一首の理解を助ける手段」だと言ってよいだろう。しかし次のようなケースについては話がちがう。「水洗便器の逆襲」と題された一連である。

   袋小路ではない。 
 清掃歴二十余年の小母さんの温もり残る便座を恐る

   まして花瓶のはずがない。
 美しき尻のためのみ在るとして腰をおろすほどの勇気はありや

   もちろん山手線とは違ふ。
 上蓋は都市的叙情に汚れつつ存在理由を問はれつづける

   あるいは宇宙船かもしれない。
 終日を丸井愛子の尻ばかり乗せて便器は氾濫したり 

 文語定型の短歌と対比して、詞書きの部分は歌と歌のあいだで低くささやかれた個人的なつぶやきのようである。並べられた歌は一段低いつぶやきの泥田に咲いた模造花のように連なる。このいかにも造りモノめいた感じが、荒木経惟の写真とよく合っているのである。

 小池は仙波の短歌を評して、「短歌をヤッテない人はおもしろがるが、短歌をヤッテる人は、十中八九まで、たぶんいやな顔をする」と述べている。それはなぜかというと、仙波の歌にはどこかしら短歌定型に対する悪意を感じさせるところがあるからだろう。仙波のなかには短歌定型に納まり切らない余剰があり、それが「詞書きらしきもの」として滲み出し、短歌に対して時に悪意を滲ませる眼差しとして現われる。それが「マジメな」歌人の神経に触るのだろう。

 もっとも次のようないかにも短歌らしい短歌もないわけではない。

 ひたひたと水の寄せくるごとく春北上してはししむら濡らす

 窓硝子すべて激しく共鳴す桜の蕾ひらきゆくとき

 海舟の墓に花降りかたはらにモダンバレー踊る少女などゐる

 さみしさのそのゆくすゑを描きゐる銀杏(ぎんなん)ひとつ雨にうたれて

 しかし仙波がこのような歌の世界に満足できたとはとても思えない。身に溢れるほど浴びてきた修羅の毒と世界への悪意はどうしようもなく噴出するのである。

 住職の妻臨月の腹ゆらし空にさらすは満月の顔

 いつからか住職の妻と「デキテイタ」墓地裏の花屋の居候

 わが骨の置き場所としてある若葉二丁目あたりあゆみゆくかな

 われといふ時計は疾うに停止して「なぜにおまへは生きてゐるのだ?」

 三首目・四首目は「骨の置き場所 / I.D.を落として」と題された連作に含まれている。40歳にして「この世は骨の置き場所」と観ずるのは尋常ではない。四首目は『墓地裏の花屋』の掉尾を飾る歌である。「われといふ時計は疾うに停止して」と感じざるをえないところが痛ましい。

 『現代短歌事典』(三省堂)の仙波の項目を執筆した藤原龍一郎は、『わたしは可愛い三月兎』所収の次の歌を代表歌として出している。おおかたの賛同するところだろう。

 夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで

 『わたしは可愛い三月兎』が出版された1985年といえば、前年に貿易収支黒字額が過去最高となり、日本経済がバブルにさしかかっていた頃である。渋谷の公園通りでは西部デパートが「劇場型消費社会」を実現すべく市街整備を進めていた。糸井重里の「おいしい生活」というコピーや、石岡瑛子の力強いポスターなどが記憶に残る。このように時代の寵児になろうとしていた西部PARCOを三基の墓碑として、渋谷に降り注ぐ陽光を滅びの夕照として描くのは、もちろん歌人の幻視なのだが、セゾングループの置かれている現状を考え合わせると、ほとんど予言的とすら思えてくるのである。繁栄のただなかに滅びを幻視する。考えてみればこれは古来詩歌がなしてきたことのひとつであり、仏教の無常観を輸入して以来日本人の感性の底に流れてきた心の構えでもある。この意味においては、仙波の歌が示している感性は、意外に日本の伝統的感性の正統的嫡子であるのかもしれない。仙波の短歌の露悪的なケレン味を剥ぎ取ってみたら、また新しい読み方ができるのではないだろうか。

 仙波は2000年4月15日に48歳の若さで急死している。歌集を読んでからこんなことを言うのは後付けの理屈にすぎないが、仙波の歌にこれでもかと盛りこまれた修羅の毒を満身に浴びれば、これ以外の結末はなかったような気すらしてくるのである。

115:2005年8月 第1週 吉田 純
または、前衛短歌の私生児は蝙蝠傘に何を身籠もるか

ずぶ濡れの俺の背中に夕星が
     輝くという嘘を悲しむ

       吉田純『形状記憶ヤマトシダ類』(北冬社)
 吉田純 (あつし) は1976年 (昭和51年) 生まれ。『形状記憶ヤマトシダ類』は2004年に刊行された第一歌集である。1976年生まれといえば、生沼義朗(1975年生)、笹公人(1975年生)、永田紅(1975年生)、黒瀬珂瀾(1977年生)らと同世代の歌人である。この世代にとって1987年のサラダ現象のときはまだ10歳ほどだから短歌に意識はなく、18歳を人生の最初のメルクマールとすれば、1992年はまさにバブル経済崩壊の年である。この世代の若い人たちが短歌という伝統定型詩を志した時、当時の短歌シーンがどのような時代背景のもとにひとりひとりの目に映っていたか、これはとても興味のある問題である。

 歌集巻末の著者略歴によれば、大学院の日本文化研究科 (実質的には国文科と思われる) に学び、菱川善夫に師事するとある。菱川といえば、戦後の前衛短歌運動の最も熱心な伴走者として知られる批評家である。だから吉田が前衛短歌の遺産を出発点としたことは疑いない。

 前衛短歌もはや還暦近し 炬燵に眠る蝙蝠傘(こうもり)ひとつ

 ぬばたまの官衙の街へみごもれる蝙蝠傘(こうもり)さげてゆく男あり

 これらの歌に登場する蝙蝠傘は、塚本邦雄の「われの戦後の伴侶の一つ陰険に内部にしづくする蝙蝠傘も」という歌を下敷きとしている。だから「炬燵に眠る蝙蝠傘」は、かつての鋭い問いかけと革新的態度を失ってしまった前衛短歌への挽歌である。吉田は年老いた前衛短歌の旗手たちに代わって、自分がその松明を継承しようと決意する。だから「みごもれる蝙蝠傘」は、これから何を生み出すかはわからないがとにかく胎動し始めている胞衣であり、吉田はそれをひっさげて官衙の街へ突入しようとしているのである。みずからを「前衛短歌の私生児」と規定する吉田の決意の歌だろう。

 実際に歌集を読むと、視覚的喩、句割れ・句跨りの多用などの、いかにも塚本風の前衛短歌の語法と語彙を用いた歌がある。

 裕仁忌 精肉店の青年の咽喉(のみど)巻く鴇色の手拭

 侵略史の顔ぶれのみが愛されて ― 日本銀行券収集家

 銃口のごと颱風の眼が狙う嗜眠症なる盲目の蛇

 だが「炬燵に眠る蝙蝠傘」に挽歌を送る吉田が、前衛短歌そのままの語法を用いることに、今日的な意義が果してあるのだろうか。もしこれがオマージュまたはパスティーシュならば別なのだが、そうとは思えない以上、疑問を持たざるを得ない。

 みずからを「前衛短歌の私生児」と規定するとはどういうことだろうか。吉田の歌集の直前に高柳蕗子の『短歌の生命反応』を読んでいたので、どうしても高柳の本の影響が後を引いていた。そのせいでいささか偏った読み方になったかもしれない。高柳は『短歌の生命反応』所収の「めでさたの終わり」という文章の中で、「メデタム」という造語を提案している。「メデタム」とは「めでたさ」を喚起するアイテムのことをいう。では「めでたさ」とは何か。私たちの命は短くはかない。遠からず何の痕跡も残さずにこの世から消えてしまうと考えると怖ろしい。しかし、私の命は子供に継承されるとか、私がいなくなっても家系は脈々と存続するとか、国破れても山河ありとか、ちっぽけな「私」を超えるもっと大きなものに包まれると考えるとき、その怖ろしさはやわらぐ。私たちという「部分」がより大きな「全体」の一部であると感じることで慰められる。毎年正月が来るとなぜ「めでたい」か。それは自然が変わることのない周期でめぐってくるという不変性が保証されるからである。私たちはその不変性に癒されるのである。

 高柳はこの「めでたさ」の感覚は短歌に深く浸透しており、「メデタム」は短歌を自立させる必須アイテムだとする。

 春ここに生るる朝の日をうけて山河草木みな光あり  佐佐木信綱

 これは「メデタム」だらけの歌である。「春」「朝」「日」「山河」「草木」「光」これすべて「メデタム」だと高柳は言う。新年の宮中歌会始めなどは、その儀式的性格から言って「メデタム」を折り込んだ歌を作ることを状況的に拘束されていると言えるかもしれない。

 はるかなる撒水車よりくるごとく雪舞うわれらも宇宙の微塵  井辻朱美

 人間は宇宙のチリにすぎないとするこのような歌は、一見すると人間の卑小さや無常観を強調しているように見えるかも知れないが、これもまた「メデタム」によって最終的には人間を慰撫する歌である。なぜならわれら人間もまた、宇宙という巨大な摂理の一部として把握されており、なかんずく「雪」は高度の「メデタム」だからである。このような高柳の短歌観はとてもおもしろい。

 吉田の歌集に話を戻すと、吉田はみずからを「前衛短歌の私生児」と規定するくらいであるから、歴史意識を強く持っているはずである。吉田の歌のなかで過去の短歌の遺産はどのように扱われているのだろうか。

 蛍火を部屋にて放ちやる気分 ミュートしたまま空爆中継

 蹴り上げる空き缶 青に吸い込まれ自転周期に乗るまでの夢

 何かしら力持ちたき気分して飴玉ひとつ口中の月

 いつまでも俺を睨んでいる月の欠けた部分の暗い苛立ち

 朝の陽に空の埃は映されてまじりけのない始まりがない

 太陽のかげり堕ちつつゆくさまに群れる向日葵蒼ざめゆけり

 古来「蛍」は恋の象徴とされ、近代短歌では魂とのダブルイメージでよく詠われた。一首目は中東戦争におけるアメリカ軍の空爆のTV中継を描いている。TVが消音されているという点に「鳴かぬ蛍」の伝統的イメージとの連続性があり、爆撃で死ぬ人の魂を蛍火の明滅に喩えるのは近代短歌の継承だと言える。二首目、空き缶を青空に向かって蹴り上げるというのは、この上ない青春のイメージである。「青」も軌道を周回する「月」も近代短歌の「メデタム」であり、吉田は意外にも近代短歌が築き上げた「メデタム」銀行の預金をよく使っているのである。同じことは三首目にも言える。口に入れた飴玉は「月」に喩えられる。「丸さ」を機縁とする隠喩のみならず、ここには人間を見守る天体としての「月」が強力な「メデタム」として働いている。四首目になると趣はいささか異なる。この歌にも月は登場するが、クローズアップされているのは月の欠けた部分であり、それが私を優しく見守るどころか睨んでいる。五首目の「朝の陽」もこれと似ており、本来はご破算による世界の更新であるはずの朝の陽が、始まりを予告しないものとして否定的に捉えられている。六首目の「メデタム」は「太陽」と「向日葵」で、ヒマワリは天における太陽の地上における相関物として把握される。太陽が翳るのと同時に向日葵も蒼ざめるのだから、本来生命や希望のシンボルである「太陽」と「向日葵」はここでも否定的に捉えられている。

 やや詳しく見たように、短歌史の積み上げてきた歴史的厚みに対峙する吉田の戦略は、いささか足元がふらついていると言わざるを得ない。歌集の栞文で谷岡亜紀は、「否定の力を武器として、いま、この第一歌集をもって短歌という城塞に参入しようとする」と吉田の姿勢を評価した。「否定の力」というとき、そのベクトルの向く方向はふたつある。ひとつは近代短歌の「メデタム」のプラスをすべてマイナスに変えるという戦略である。上の引用歌でいうと四首目・五首目・六首目あたりがこれに該当するだろう。従来の近代短歌で「メデタム」として利用され、短歌に母のごとき安心感と慰藉作用を付与してきたアイテムを使いながらもその価値を反転する操作を通じて、近代短歌の遺産に「否定の力」を突きつける。このような戦略を描くことができる。

 しかしこれは成功するだろうか。ドンキホーテは敵に見立てた風車があってこそ、ドンキホーテたりえる。その意味でドンキホーテにとって、風車は自らの存在意義のために必要欠くべからざるものである。いくら槍を突き立てようとも、本当に相手が死んでしまっては困るのだ。吉田が採用した戦略はこのような根元的矛盾を孕んでいる。

 「否定の力」というとき、そのベクトルの向くもうひとつの可能性は、近代短歌の「メデタム」のプラスをマイナスに変えるのではなく、「メデタム」自体を中性化する作業を通じて、「メデタム」なしでも屹立することのできる新しい歌を志向する道である。吉田のこの歌集に収録された歌には、残念ながらこのような戦略の可能性を感じさせる歌は見ることができなかった。

 どっぷりとオリーブオイルに漬けられて沈む鰯のようだお前は

 わが意志に似て密かなる朝焼けの微熱の匂い坂上りゆく

 僕達の首に掲げる勲章 evian かたむけてみるとき naive 

 古着屋のコートの中に釘ひとつ誰(た)が握りしか錆びゆくまでに

 いずれも完成度の高い歌だと思う。しかし、愚かな人民を缶詰の鰯に喩えるのは常套の比喩であり、錆びた釘も歌謡曲にまで利用された挫折の比喩である。また「倦怠と怒りの向かう処知らず檸檬爆弾試したくなる」のような直球を放られると、バッターボックスにいるこっちがのけぞってしまう。

 「メデタムなしでも屹立する新しい歌を志向する」と言うことはたやすい。しかし高柳も言っているように、「メデタム」は日本語の隅々まで深く浸透している。歌人のなかにはこれを「日本語の貴重な遺産」として活用すべきと考える人も多いだろう。そんななかで「前衛短歌の私生児」として、過去の短歌との対決を主要な弾機として短歌世界に立ち向かうのならば、「否定の力」によるだけではなく戦略的に「メデタム」を中和する道を探るべきだろう。

 歌集題名『形状記憶ヤマトシダ類』は次の歌による。

 湿りたる昭和初年の闇を恋う形状記憶ヤマトシダ類

 ヤマトシダという植物名はもちろん創作である。現代の世にあってヤマトシダ類は本来の形をなくしてひっそりと棲息しているが、何かの折りに形状記憶機能が働き、昭和初年の闇の時代に持っていた本来のおぞましい形状を回復しようとする。ヤマトは日本であり、それは日本的心情と日本語とがないまぜになったものとして把握されている。そのような認識の地平に吉田は立っているのだろう。このような地平からどんな歌が繰り出されて来るのか。第二歌集に期待したい。

114:2005年7月 第4週 松平盟子
または、都会暮らしのシングル女性のお洒落な歌

魚を呑みのみていのちの深まれる
     黒鵜の胸が闇を動かしむ

          松平盟子『青夜』
 長良川での鵜飼いの情景を詠んだ歌である。短歌の定石どおり、「呑み」「のみて」と漢字と仮名で書き分けられているこの動詞は、単なる同一語句の反復だろうか。いやそうではあるまい。初句「魚を呑み」は眼前の事実の冷静な観察である。しかしそれを受けて続く「のみていのちの深まれる」はもはや観察ではなく、眼前の事実に触発された〈私〉の想いである。四句・五句の「黒鵜の胸が闇を動かしむ」も写実ではなく、「魚を呑み込んで、魚の死の分だけ命の深まった鵜が、まるで闇を動かしているように見える」と読むべきで、これも〈私〉の想いのフィルターがかかっている。だから「呑み」「のみて」の同じ動詞の反復は、31文字という限られた空間で文学しなくてはならない短歌形式から見て、反復による無駄であるどころか、「事実」と「想念」、「世界」と〈私〉のあいだを巧みに架橋しつつ、一首のなかに世界と〈私〉を一期の相関関係において、すなわち〈意味の一回性〉において定着することに貢献している。技巧の冴える歌と言えよう。

 松平盟子は1954年(昭和29年)生まれで、1977年に角川短歌賞を若干23歳で受賞して彗星のごとく短歌界にデビューした。当時1年目の新米国語教師で、作歌歴わずか1年ということも話題となった。なにしろサラダ現象の10年も前のことである。そのころは若い女性が短歌を作るのは珍しく、また次のように性愛を詠った官能性の濃い歌も交じっていたため、そのことも話題になったようだ。

 君の髪に十指差しこみ引きよせる時雨の音の束のごときを

 汝が肩を咬みて真朱(まあか)き三日月を残せし日より夏はじまりき

 むねとむね二条のくらき海溝をのぞかぬやうに重ねあふなり

 オジサンたちはびっくりしたというわけだ。

 「コスモス」を経て、歌誌「プチ★モンド」を主宰。80年代のなかばから記号短歌は大流行したが、結社名や歌誌名に記号が入っているのは他にはあるまい。黛まどかの句誌「東京ヘップパーン」と双璧をなすオシャレさである。確かに松平の短歌には銀座、ロゼワイン、シャンパン、フォワグラ、薔薇ジャムなどの語彙が登場し、都会的で現代的な風俗が巧みに詠われている。

 カクテルは 「Between the Sheets」うつぶせの背をゆっくりと夏闇に反る

 マドレーヌあまく舌を焼く二十代いつか終りにさしかかりゐて

 三十代日々熟れてあれこの夜のロゼワインわれを小花詰めにす

 子の眠る黄金時間わがためにカフェ・オ・レ淹れむジノリのカップに

 田舎臭さはどこにも見られない。明治以来の近代短歌を振り返って見ても、ここまで土着性の田舎臭さを払拭した例は珍しいのではないか。松平の短歌は消費社会を背景とする都会の現代風俗を短歌素材の基盤とした点で、それまでになかった新しい短歌だと言えるかもしれない。現在長野県知事である田中康夫が『なんとなくクリスタル』で文芸賞を受賞したのは1985年のことだが、小説の舞台設定は1980年になっていた。カタログ小説の走りといわれたこの小説には、モノの名前が無数に散りばめらている。松平が短歌界に登場した頃には、日本社会にすでに消費社会の気分が漂っていたのであり、松平はその申し子と言える。

 第二歌集『青夜』(1983年) は作者の人生の一大事、結婚と出産が大きなウェイトを占めている。女性歌人の場合、歌集の構成が自分の人生の歩み「女の一生」とシンクロしていることが多い。『青夜』も部立てで逆編年体を採ってはいるものの、この例に漏れない。

 十月十日(とつきとをか)わが生(よ)にただ一度つながるる緒よそを奔(はし)る光速の血よ

 玉の緒といふ語うつくしわれとわが胎児をつなぐその命の緒

 レモン甘く煮て黄金の蜜を生むむらぎもの飢ゑあした満たすため

 いのち得てぬくきからだよコスモスの韻(ひび)かふ坂を陽炎(かげろ)ひあゆむ

 宇宙よりつづくこの闇を肺臓へ送りぬ闇はわがいのち燃やす

 これの世を初めて映す子のまなこ青鈍の淵に万象そよぐ

 『青夜』を貫くトーンは身体と生の肯定である。子供を身籠もると同時に、自分の身体性を強く意識するようになり、自分を生んだ母もこうだったのかと血縁の時系列的連帯感を感じ、また卵から胎児へと成長する我が子を通して生物としての進化の過程に思いをはせる。身体の絶対的肯定に至らないはずがない。一首目と二首目では、自分と胎児をつなぐ紐帯を通して命を感じている。三首目の「むらぎもの飢ゑ」は黄金で満たすべきものと捉えられている。なぜなら自分の身体が祝祭だからである。五首目では宇宙の闇すらも自分の命を燃やすものと見なされている。パスカルもびっくりというところだ。

 このような身体と生の全面的肯定は、男性の苦手とするところでもある。同じ我が子の生誕を詠んでも、男だと次のようになる。子供が浮かぶ羊水はどこか不吉に暗いのである。

 さくらばな空に極まる一瞬を児に羊水の海くらかりき 小池 光

 『青夜』で示された身体と生の全面的肯定から見て、松平がその後与謝野晶子の研究に打ち込むようになり、何冊か著書を著すのは自然な流れだと言えるだろう

 第三歌集『シュガー』(1989年) には第二子の誕生も詠まれているが、いささか趣がちがってくる。『青夜』には夫を詠んだ歌が少ない。そのうち一首は夫その人ではなく、爪として登場するのみである。最後の歌など夫はまるで放牧される羊のように詠まれている。

 あらうらに切り捨てられし爪をふむ剛し鋭し夫の一端

 君とわがあはひの空(くう)を密度こく撓めて出づる形を子とよぶ

 梅雨寒の屋ぬちに鶏(とり)のガラを煮るとろとろと夫とふ男待ちつつ

 朝ごとに男放ちやり夜な夜なを戻り来かはゆし男とふもの

 『シュガー』では夫の歌が増えるのだが、それは次のような調子においてである。

 夫より呼び捨てらるるは嫌ひなりまして〈おい〉とか〈おまへ〉とはなぞ

 茄子一本たひらげて胃をさすりたりこむづかしきこと男よ語るな

 甘皮をうつすらと剥がすやうにして男の矜持そこねゐる快

 梨をむくペティ・ナイフしろし沈黙のちがひたのしく夫(つま)とわれゐる

 アリナミンよりほほゑみが効くなんて言の葉で妻が喜ぶと思ふか

 男に向けられた眼差しはかくのごとく醒めている。男の私としては心穏やかには読めない歌である。特に四首目「梨をむく」の「沈黙のちがひたのしく」のくだりなんぞかなりコワい。このようにして残念ながら結婚生活は破綻し、松平は夫・子供と離別して独りになる。『シュガー』はその予兆に満ちた歌集で、読んでいて作者の家庭の行く末ばかりが気になってしまうが、それとは関係なく次のようなよい歌もある。

 春雨はさくらはなびら抱きて落つさくらのいのち濡れておちゆく

 霜月の朝風に銀の骨組みのかすかふるへて自転車醒めぬ

 クリムトの画集より鬱金てりはえてわが首まことにあらはになせり

 火食(くわしよく)する罪あれば塩ふるわが手一片の肉こよひ浄まれ

 水にさす茎の長短 花の死はかすかなれども茎ながきより

 第四歌集『プラチナ・ブルース』(1990年)は第一回河野愛子賞を受賞している。だが松平の歌にそれまでのような輝きが見られないのは残念なことである。

 霧雨にメリーゴーラウンドぬれそぼちわれのうちなる母子草萎ゆ

 木綿(コットン)のパスローブにて余熱の身ざっくりさらりくるまれている

 大都市の綺羅のすきまの薄闇に女と猫の日常はあり

 白絹のような仏蘭西わいん飲む土曜の夕べひとの夫と

 中国の硯と墨をすりあわせ幽暗の香はふかきしずもり

 ラウェンダーうすむらさきの星くずのような花なり星の香甘し

 それまでの文語旧仮名から新仮名に改めたせいだけではなかろう。歌の世界を技巧を用いて構成してゆくという、『青夜』にははっきりと見ることができた作歌態度が消え失せて、日常生活に題材を採った身辺詠になってしまっている。家庭と子供を失い、猫を友として大都会に生きる現代女性という作者の境遇から醸し出されるものはあるが、それだけでは物足りない。なかんずく気になるのは喩の平板さである。一首目の雨に濡れたメリーゴーラウンドという像的喩、四首目の「白絹のような」や六首目の「星くずのような」という直喩に新味はない。というのも『青夜』には次のような斬新な喩がたくさんあったからである。

 そらのはて濁りゐて朱き肉片のごとき陽が潤むわが受胎の日

 夜の海のをりをり裂けてほのじろき臓腑のごとき波は見ゆ首夏

 枯すすき黒く凍れる原をふく死魚のなまこのごときみぞれなり

 くやしみの断面のごと岸壁は赫くひらたく日に焦がさるる

 現代短歌文庫版『松平盟子歌集』(砂子屋書房)に俳人坪内稔典の批評が収録されている。もともと歌誌「プチ★モンド」に掲載された文章だが、そのなかで坪内は松平にはっきりと苦言を呈している。坪内によれば松平の短歌の新しさはその「通俗性」にあった。松平はその通俗性を、斬新な比喩と語法を駆使し乗り越えることで魅力を発揮していた。歌はもともと雅の世界のものであるが、現代においては通俗性を武器としないと力を持ち得ないと坪内はいう。だから短歌にとって通俗性は排するべきものではなく、利用するべきものなのである。その典型は言うまでもなく与謝野晶子である。しかるに『シュガー』以後の松平は、絵に描いた通俗性そのものになってしまっているというのが坪内の批評である。本人の主宰する歌誌にこのような辛口の批評を書くのは珍しいことかもしれないが、上に引用した喩の平板さを見れば、坪内の批評は確かにその通りで賛成せざるをえない。私は最後に第七歌集『オピウム』を通読したが、付箋のついた歌は次の四首のみであった。

 水をそそぐ刻々を水ささやくにグラスの虚ろ溺れてゆけり

 雨やみて夕けむる刻魂は人より半歩遅れてあゆむ

 白鳥は万の星々吐き終えて夕べの翼しずかにたたむ

 散り沈む桜に添いて魂魄の銀の陰りが地を照らしたり

113:2005年7月 第3週 資延英樹
または、定型を武器に現実を組み替える知的な歌

風の上に軌道はあらむひと方を
     指してすぎゆくひと群(むら)の星

      資延英樹『抒情装置』(砂子屋書房 2005年刊)
 結社「未来」に所属し、未来賞を受賞した歌人の第一歌集である。瀟洒な仏蘭西装に背抜きの箱入りというなかなか凝った装丁になっている。跋文は師の岡井隆が書いている。岡井が講師を勤めていた大阪の千里カルチャーセンターの短歌講座を受講し作歌を学んだそうだ。文句なく最優秀の生徒であったと岡井は書いている。しかし、資延はポッと出で短歌に出会ったわけではなかろう。京都大学英文科を卒業して後、さまざまな読書経験を通じて文学や思想と触れ合っていたことが、歌を読めばよくわかる。下地はあったわけだ。

 歌集題名の「抒情装置」というのは、最初は短歌のことかと思ったが、次の歌を見て思い違いであることが知れた。

 たそがれの抒情装置はぽつねんと裏の芝生に夕陽見てゐし

「抒情装置」というのは〈私〉のことなのだ。それは実生活を生きている〈私〉であると同時に、作者の作る短歌の中に言葉によって押し上げられる〈私〉でもある。「〈私〉とは抒情する装置である」という言上げの中には、短歌を叙情詩とみなす態度とともに、いやなかんずく、〈私〉の自立性・内在性を自明のこととしてきた近代に対する懐疑が感じられる。

 「古典和歌の偽作を作ってみたいという半端な動機」から短歌講座を受講したというだけに、掲出歌のような文語・旧仮名遣いの歌の姿はなかなか見事なものである。

 あからひく雲の流れはちぎれつつミケランジェロの指先のその

 さにつらふ乙女もすなる独楽(どくらく)の地軸をゆらす指にもあるかな

 ぬばたまの闇に羽ばたく鵺(ぬえ)として遣はされたる下達の具はや

 散りそめしさくらの下に吾が立てば愛車はすでに死ににけらしな

 「あからひく」「さにつらふ」などの枕詞や、「~あるかな」「~はや」「~けらしな」などの終止の形式は古典和歌そのものである。一首目の「指先のその」で余韻を残して止める手法や、二首目に漂うあえかなエロス感も注目される。しかし騙されてはいけない。これらの歌は古典和歌のパスティーシュなのである。四首目「散りそめし」のいかにも古典的に散る桜と廃車寸前のポンコツ車とのミチマッチの取り合わせを見れば、作者がパスティーシュとして作ろうとしている意図は明らかである。作者は〈私〉を抒情装置と捉えている割りには、その作歌態度は実に知的であり、ある限度を超えると知的遊戯の域に達することもある。

 伊集院雅子さん今ありとせばモンテビデオの遙か南に 題詠「ビデオ」

 系統樹たぐりてゆけば出るは出るは哺乳類から早坂類まで 題詠「類」

 濃い口をちと薄めればうす口になるちふものとはつゆあらなくに 題詠「濃」

 志低う構へて返り咲く男は黙つて札幌へ行け

 秋の田の呉田軽穂の名のもとに書かれし歌の数多くあり

 議事堂に雷落ちる画像出づひとまづここはコイヅミコイヅミ

 ムロアジと真鰺のちがひを言ひ合ひし議論はいつか亜細亜の曙

 最初の三首は「題詠マラソン」の出詠歌。一首目の伊集院雅子は白血病で夭折した夏目雅子、モンテビデオは南米ウルグァイの首都で、両者のあいだには何の関係もないが、ビデオ録画で今にその画像を留めている女優と、遙か南米で生きていてほしいというファンの願望が、地口ともつかぬ掛詞に込められている。二首目の早坂類は歌人ならば説明不要で知的な遊びの歌。三首目は「つゆ」が掛詞。「なるとふ」ではなくわざと「なるちふ」として、伝法な雰囲気を醸し出している。四首目の「男は黙つて」と来れば、続きは「サッポロビール」と相場が決まっているという共通認識を土台として作られた歌。五首目の「呉田軽穂」はミュージシャン松任谷由美(ユーミン)の筆名で、往年の銀幕の名女優「グレタ・ガルボ」から取ったもの。六首目の「コイヅミコイヅミ」は「クワバラクワバラ」のもじりで、とりあえず小泉首相を前面に押し立てておけば選挙に勝てる自民党を揶揄した歌。七首目は「ムロアジ」「マアジ」ときて「アジア」で落とす仕組み。言葉遊びも交えて古典和歌の語法も自在に援用し、定型という器に何を盛ることができるかを、楽しみながら実験しているように見える。これは「大人の遊び」である。「遊び」と呼んで貶しているわけでは毛頭ない。その逆である。

 「最近の若い者は」という年寄りの繰り言と同じようで気が引けるが、他に言い方がないのでしかたなく書くのだが、「最近の若い歌人」のなかには「セカイ系」といって、〈私〉を本来取り巻いている家族・地域・社会・国家といった文化装置をすっ飛ばして、〈私〉が直接に〈世界〉と接続しており、世界のただ中で〈私〉は絶対的に孤独であるというような歌を作る人がいる。そこまで行かなくても、どこかに終末感や孤独感の漂う短歌が若い歌人のあいだに多く見られる。この傾向に時代的 / 世代的理由がないわけではないが、今回はその話は措くとして、資延の作る短歌にその傾向がまったく見られないのが驚きと言えば驚きなのである。40の手習いで短歌を作り始めたという年の功も理由のひとつだろうが、それよりも思想書・文学書に親しみ、今日では死語となった人文的「教養」を深めた人格の作り方に由来する所が大きいのではなかろうか。ヘーゲルもヴェイユも孤独だったことを知れば、世の中の見方も変わろうというものである。 

 資延のそんな部分から繰り出されるのは、思想的と形容してもよい歌群である。

 世界からわたしを消すならそれはそれ世界のひとつのあり方である

 小池さんも世界は合鍵次第だとさう言つてゐた あかねさす昼

 日々自己に非ざるものを体外に排泄しゆく営みを言ふ

 一切の罪がひとつのあやまちの自己展開だなんて言ふな、ヘーゲル

 ゴム消しも妙であつたが黒板消しますますもつて Kafkaesque な

 はじめからノブがとれてたはずはないでももしこれがドアでなければ

 ホッブスの悪夢のあとのあしたからどうすることもできぬ霜月

 一首目はこの歌集の巻頭歌。逆編年体で編まれているので、最新の歌のひとつということになる。いさぎよい所信表明である。二首目の小池さんは小池光のことか。「合鍵次第で世界は開く」というのは、なかなか含蓄に富んだ言葉である。要はどれだけの数の合鍵を持ち合わせているかだ。三首目は主語が脱落しているが、「生活とは」が主語だろう。多田富雄の免疫論を想わせる一首である。五首目はこれ自体が奇妙な歌なのだが、ゴム消しは文字を消すのでゴムを消すわけではなく、黒板消しは黒板を消すのではないというネーミングの不条理をカフカ的と表現したものだろう。六首目もおもしろい歌で、ノブがなくて開かないドアは果してドアと呼ぶことができるのかという存在論的問いを歌にしている。七首目の「ホッブスの悪夢」はリヴァイアサンのことだろう。自己保存が招く闘争状態を回避するために作られる絶対的国家である。この歌は絶対的国家論以後の政治的不毛を詠んでいるのだろう。

 この歌集には単純に景物を述べた歌が極めて少ない。「神目(かうめ)駅右手に見つつ国道はゆるく左へ曲がりゆくなり」とか、「裏山に懸かる雲居のそのうへを漉し来る光の條(すぢ)なほくして」のように、一見したところ写実に基づく叙景歌のように見える歌もある。しかし資延の態度は観察を通して素直に景物を歌にするというものではなく、事物をいったんばらばらにして短歌定型のなかでもう一度組み立て直すという知的操作である。だから歌に詠まれたどの景物にも知的操作というフィルターがかかっているので、油断がならないのである。上にあげた歌でも「神目(かうめ)駅」という岡山県に実在する駅名を読み込みながら、単なる客観描写を超えた何かを企んでいるのではないかという疑念を振り払うことができない。

 この歌集の読後感を豊かなものにしているのは、上のような知的傾向の歌と並んで異なる傾向の歌もまた読むことができるというその多様性である。注目されるのは、次のような〈世界へと向かう歌〉である。

 はじまりもなければこことふ終り莫しいくさは左様のものに御座るな

 その日から着地決まらずにつぽんは痛いところをつかれましたな

 そは利器にあらで野蛮の極みとぞ見てゐしわれが持たされてある

 だれの目にもはつきりしてたはづれたらそれをボールといふのだ、ボール

 これの世に降る雨の色のくさぐさに野原は染まる国原染まる

 ミカエルが暗視装置に窺いてるユーフラテスの左岸の闇を

 いずれも最近の戦争を背景として作られた歌である。いつの間にか始まる戦争、知らないうちに荷担させられている戦争という、昔とは性格を殊にする現代の戦争の捉えどころのなさを詠っている。ボールの歌はいろいろな解釈が可能だが、上のような文脈に置いてやれば、作者の憤りが浮き彫りになる。最後の歌はイラク戦争に直接題を得たものだが、ミカエルがキリスト教で破壊を司る大天使であることを想えば、争いと憎しみの根の深さに暗澹とせざるをえない。

 『抒情装置』はこのように、古典和歌以来の文語定型の遺産を自家薬籠中のものとして短歌筋肉を鍛え上げた作者が、知的遊びも交えつつ定型という器にさまざまな物を盛る試みをしている最近では見かけることの少ない歌集である。「小池さん」の言葉を借りるならば、資延には「合鍵」がたくさんあるようだ。これは大事なことである。現代にあって誰も徒手空拳では短歌に挑むことはできないのだから。

 最後に特に好きな歌をあげておこう。

 ソマリアに足を向けつつあさなさな千切りしパンが食卓にある

 カッターの刃先を一枚折りとれば鋼の匂ふ夏のゆふぐれ

 象に亦、群れを離れて死にせむとする習ひあり 八月に礼(ゐや)

112:2005年7月 第2週 大野道夫
または、平たい日常のなかでボクタチは時代に脚から汚されて

この道のゆるやかな勾配気づく夜は
    花屋で一人 COSMOS を買う

          大野道夫『秋階段』
 この歌のポイントは言うまでもなく「ゆるやかな」という形容動詞にある。ふだん歩いている道だが、いつもは平らな道だと思って通っている。ところがある晩にふと勾配があることに気づく。心に翳りがあるからである。心の翳りが足取りの重さとなって現われているからである。だから柄にもなく花屋に入ってコスモスを買う。COSMOSとはギリシア語で「宇宙」の意味であり、その含意はわざわざローマ字書きされていることからも明らかだ。日々の塵埃にまみれて生きる卑小な私に大宇宙は遠く手の届かないものだが、せめて心屈する今夜はその名を冠したコスモスを買おう。そのような歌意だろう。この歌意を浮上させるのに、「ゆるやかな」という修飾語は効果的である。このように一首中にあって歌意に効果的に働く部分を、穂村弘は「短歌のくびれ」と呼んだことがある(『短歌があるじゃないか』)。「ゆるやかな」はこの「短歌のくびれ」の一例と言ってよい。ところが大野の短歌において、このようなくびれの例は実はあまり多くない。それは短歌的修辞の拒否というよりは、短歌を取り巻く状況に対する大野の現状認識に由来すると思われる。

 大野道夫は1956年(昭和31年)生まれで、「心の花」会員。佐佐木信綱は曾祖父、佐佐木幸綱は母の従兄弟にあたるという血筋である。晩年の信綱に何度か会ったことがあり、それをきっかけに自分も文学を志したと略歴にある。大学では社会学を学び、現在は大正大学で教鞭を取っている。専門は青年文化・社会運動・文化社会学だそうだ。第一歌集『秋階段』(1995年)、第二歌集『冬ビア・ドロローサ』(2000年)の他、『短歌の社会学』(1999年)という評論集があり、「思想兵・岡井隆の軌跡 短歌と現代・社会との接点」という評論で第7回現代短歌評論賞を受賞している。

 セレクション歌人『大野道夫集』の巻末に谷岡亜紀がていねいな解説を書いているが、谷岡もまさにそうしたように、大野の短歌を語るときにはどうしても時代と社会背景に触れないわけにはいかない。大野の短歌がそのような文脈での読みへと読者を導いているからである。大野は「もはや戦後ではない」と言われて高度成長が始まった年に生を受け、60年安保闘争のかすかな記憶を持って育つ。自筆による略歴には、東大安田講堂事件・ケネディ大統領暗殺事件・ビートルズ来日など、当時の社会を彩った出来事が淡く点描のように綴られている。1975年に大学に入学。卒業論文のテーマに東大闘争を選び、元全共闘議長山本義隆に会いに行ったとあるから、社会と政治への関心は殊の外強かったと推察される。それと平行して、芥川賞を受賞した庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読んで感動したとも書かれている。

 要約すると大野は「遅れて来た世代」なのである。東大安田講堂事件の時には13歳で、ベトナム戦争がアメリカの敗北という形で終結した1975年に大学に入学している。自分より上の世代が入れ込んだ政治運動・大学闘争に強い共感を抱きつつも、もはやその波には完全に乗り遅れている。『赤頭巾ちゃん気をつけて』が描いたのは、東京山の手の中流よりやや上の階級 (お手伝いさんがいる) に属し、都内屈指の進学校 (学校群制度以前の日比谷高校) に通う主人公のサエナイ日常であるが、そこに描かれた心情はまぎれもなく政治の季節の次にやって来た「やさしさの世代」のものである。大野の精神形成はこのような社会的背景と心情的傾向のもとに行なわれたのである。

 ここで『秋階段』から歌を引いてみよう。 

 ニッキあめ平和憲法民主主義シュートを打てばあおあおと空

 リキドウ! と叫べば画面駆け抜けてヤンキーを討つ第三国人

 「新宿へ終結ヲセヨ!」僕らはただ校庭遊び合言葉にて

 「勝利する」ことなくすぎし睦月の夜ML全集売りに出かける

 学生が踏む銀杏にむせ返る青春期(アドレッセンス)をやや過ぎたれど

 夕映えるALTAの画面老人(おいびと)の手術のニュース厳かに流る

 大野の短歌には「平和憲法」「民主主義」「社会主義」などの硬い思想語が頻出するが、それを字義通り受け取ってはならないだろう。一首目にあるように、平和憲法も民主主義もニッキあめや広場での草野球と同列に置かれているのであり、手に持って振ればカラカラと音がするほど中身は軽い。リキドウは日本国民が熱狂したプロレスの力道山だが、大野はリアルタイムで見てはいないのではないか。戦後の日本を代表するキャラクターの一人である。三首目、「新宿へ終結ヲセヨ!」は全共闘運動かもしくは新宿フォークゲリラの反戦運動だろう。「僕らはただ校庭遊び合言葉にて」の部分に、時代が自分の横を通り過ぎて行ってしまったという感覚がある。四首目、MLはもちろんマルクス・レーニンのこと。大野は大学院に進学して研究生活に入るのだが、大学院とオーバー・ドクターの期間は、長く引き延ばされた青年期であり、文字通りモラトリアム期間である。五首目は踏みつけられた銀杏の臭いに仮託して、引き延ばされた青春の憂鬱が詠われている。六首目は「天皇下血」と題された連作の冒頭の歌。昭和という時代の終焉を意味する天皇の病気も、新宿アルタの大型画面に報じられるどこか遠いニュースとしてしか意識されない。

 このように大野の短歌は、高度資本主義社会とモラトリアム社会を背景とするのっぺらぼうの平たい日常の描写の中に、「平和憲法」「民主主義」「社会主義」「戦争」「テロリズム」などのかつて「大きな物語」に属していた語彙を、不調和を知りつつ溶かし込むことで、平たい日常に浮遊する不定形な〈私〉を描き出すと同時に、MLに代表される「大きな物語」が今日完全に失効していることを、いささかの愛惜と自虐の念を込めて淡々と述べている。それは次のような歌にも明らかである。

 漱石を読めば細き雨降りて精神(ガイスト)もなく暮れてゆく昭和

 ゆらゆらとゆれるわたくし 私(わたくし)を確認(アイデンティファイ)するパスポートの紙

 北京(ペイチン)に血の雨が降る日曜に 意味不明瞭なる日本人われ

 生き恥を輝かせ着く光沢の友の賀状は家族に満ちて

 ユニットバス膝を抱えて君は言う「もうボクたちにシソウは来ない」

 昭和に精神(ガイスト)なしとすれば、来たる平成の世にそんなものがさらにないことは言を待たない。二首目は海外詠だが、「ゆらゆらとゆれるわたくし」に大野が感じる〈私〉の不定形さが滲み出ている。三首目は天安門広場事件を詠んだものである。戦車の前に立ちはだかった中国の学生と、TVの前の何とも形容できないぐにゃぐにゃの自分とが対比されている。四首目は近年増えつつある家族写真をプリントした年賀状を詠んだものだが、家族を「生き恥」と表現しているところに大野の屈折が感じられる。五首目は読解は必要ないほどそのまんまである。

 第二歌集は『冬ビア・ドロローサ』と題されている。「ビア・ドロローサ」とは「苦しみの道」の意で、キリストが磔刑のために歩いたゴルゴタの丘への道をさす。エルサレムへ旅した旅行詠から採られたものである。

 結晶はグラスにしめり地の塩とならんと思(も)いき若き日もすぎ

 うすきうすき毒ガスの朝歯止めなき人生を欲り飲む生卵

 親不知削られる午後その底の底の私の白は輝く

 雪合戦のなかの石粒みぞれ降る世界に脚から汚されしボクら

 散骨は静の海へ 地球(テラ)浮かぶ大空へ降るわれという粉

 一首目は青春の夢を振り返る歌。二首目は地下鉄サリン事件に題材を採った歌。事件で大勢の人命を奪った毒ガスと同じようなガスが、気がつかないほど薄く日常世界を被っているという。三首目は歯の治療を詠んだものだが、削られた底の底にまだ〈私〉の白すなわち無垢がわずかに残っているという認識は、希望と言うにはあまりに苦い。四首目は雪合戦だと思っていたら実は石粒が降っていたというところに、世界に絡め取られてしまったという感覚がある。五首目は死後の〈私〉が粉末となって大空に舞う様子を想像している歌で、美しくもまた哀しい。

 『冬ビア・ドロローサ』で特に注目されるのは、曾祖父佐佐木信綱の『思草』への返歌として構成されている連作「戦争と革命の世紀の縁で」である。

 亜細亜の地図色いかならむ百年(ももとせ)の後をし思(も)へば肌へいよだつ
  核弾頭は赤丸小さき手が電子手帳に描(か)く世界地図

 破れたる傘(からかさ)さして子らがゆく時雨そぼふる古き駅路
  ビニール傘もなくしていたのかボクタチは口語のお天気雨の真下で

 世人皆我をうとめる世なれどもわれに友あり酒といへる友
  電話待つ時間はすぎて掌(て)のなかで人肌をこえ冷めてゆく酒

 『思草』は1903年、日露戦争開戦の前年に出版されている。だから一首目の信綱の歌にある「亜細亜の地図」は明治日本の富国強兵による膨張政策を背景としている。「百年後の日本はどのように雄飛しているだろうか」と未来への期待を込めた歌である。それから100年後の世界を生きる大野が返す歌は、東西冷戦は終結したにもかかわらず核兵器がむしろ拡散する危険な世界を詠んでいる。100年の時を隔てた信綱の歌を背景に置くことで、現代の世界の危なさや不安定さを影絵のように浮き上がらせるという大野の意図が見える。二首目の信綱の歌はどこか懐かしい古い日本ののどかな風景である。これに対して大野の歌は徹底的に現代的であり、傘(からかさ) vs. ビニール傘、時雨 vs. お天気雨、文語 vs. 口語の対比を通して、現代の「ボクタチ」の置かれている孤児のような状況を詠っている。三首目の信綱の歌は孤立のなかにも酒を愛する矜持と自足の歌である。一方、大野が返すのは、あてどもなく誰れかからの電話を待つ間に、燗酒が冷えてしまったという歌で、『ゴドーを待ちながら』的状況を念頭に置いたものであろう。曾祖父がちょうど一世紀前に詠んだ歌に返歌を返すという構成を考案することで、大野は「時間の流れ」を、そしてそれよりも「時代の流れ」を短歌のなかに取り込んで表現することに成功している。

 そして大野はこのような返歌を信綱の本歌に対置させてゆくという作業を通じて、明治以来の近代短歌が詠み込んできた自然と社会はもはやなく、それに支えられてきた〈私〉の形もまた現代に生きる「ボクタチ」からは遙か遠いものになったことを示しているのである。「ボクタチ」はこのように、日常性という希薄な毒ガスがたちこめている平べったい時代を生きなくてはならない。それこそが現代の私たちに課せられた「ビア・ドロローサ」である。大野はこのように言いたいのではなかろうか。

 しかし、とここで私は考え込んでしまう。果してこれでいいのだろうか。100年前の近代短歌を代表する信綱がいささかの気楽さと明治的おおらかさを含むとはいえ、ボジティブに力強く提示しているある〈価値〉に対して、それとは異なる別の〈価値〉を同じように力強く提示することなく、過去の価値の陰画をネガティブに弱々しく差し出すことしかできないのは、不幸なことではないのだろうか。こんなことを言うと、「いや、だから不幸だと言っているんですよ」と大野から言い返されるかもしれない。「時代にまみれる」というのはこういうことなのだ。大野の歌のひとつひとつに〈時代〉が貼り付いている以上、それは避けがたいことなのかもしれない。

111:2005年7月 第1週 下村光男
または、行為を封鎖された青春のロマンチシズム

暁(あけ) 死してねむるわが裡(うち)こうこつと
     霜ふれり霜ふりの牛肉(ビーフ)に

            下村光男『少年伝』
 下村光男の第一歌集『少年伝』は、 1976年に角川書店の「新鋭歌人叢書」の一巻として上梓された。短歌史において伝説的叢書である「新鋭歌人叢書」の残りの巻は、成瀬有『遊べ、櫻の園へ』、小野興二郎『てのひらの闇』、杜沢光一郎『黙唱』、小中英之『わがからんどりえ』、玉井清弘『久露』、辺見じゅん『雪の座』、高野公彦『汽水の光』である。この叢書はよく売れたらしい。今日の出版事情では考えにくいことである。また篠弘がこの叢書で世に出た歌人たちを、「微視的観念の小世界」と評したこともよく知られている。

 掲出歌は初句で「暁」一字二音で一字空けを入れ、「死してねむる」に句跨りを作り、四句目でも「霜ふれり」の力強い断定を句中に置くという、韻律的に工夫を凝らした作りになっている。歌意としては、青年が自己の内部を見つめる内向的視線と、睡眠と恍惚とが結合した一種ナルシシズムに溢れた世界を描いている。特におもしろいのは「霜ふりの牛肉に」という喩で、霜降り肉が眼前にちらちら揺曳することで、青年期の肉の哀しさを描く下村の短歌世界に、像的喩として肉感的手触りが与えられている。

 下村光男は1946年(昭和21年)生まれだから、戦後の団塊の世代である。父親は医師であったが、医学に進むことを拒んで、國學院大學に入学し古代史を学んでいる。高校時代から短歌に興味を持ち、特に釈迢空(折口信夫)の歌に魅せられたとあとがきにある。「少年伝」50首で1968年(昭和43年)に角川短歌賞次席に選ばれている。第一歌集はこの連作題名をそのまま歌集題としたものである。

 連作「少年伝」はそのまま歌集に収録されているが、例えば次のような歌が並んでいる。

 肩なめてことばすくなにあゆむ父医を継がざりしことにはふれで

 いたずきを知ってか誰も来ずひと日かつてこがれし虚空みていつ

 草原を駆けくるきみの胸が揺れただそれのみの思慕かもしれぬ

 ひたぶるの天のなみだか野のいっぽん杉にわが眼におつるあまつぶ

 この朝(あした)おのれ目醒めていくごとく 天 柑橘に充ちつつありたり

 われいつかことばボールに充たしめてこの黙(もだ)ふかき天へ打つべし

 父の期待に背いて医学の道に進まなかったことへの拘泥、幼いときに亡くなった母への思慕、結核を病んだことによる孤独、青春期の淡い性欲、詩歌の世界に関わることへの自負と矜持など、青年期の心の揺れと孤独が、文語律ながら平仮名を多用した文体を駆使して詠われている。多量の感傷と浪漫性を内包した青春の絶対的な輝きと翳りがここにある。1960年代はまだ青春が輝いていた時代であり、「青春歌」という表現が意味を持っていた。現代においてこのようなキラキラした青春歌を作るのはむずかしい。

 もう少し歌を引用してみよう。

 よみがえるなんの記憶や 虹 みいる青年ふかくにも滂沱たり

 おお なんの種子か無数に飛ぶからにあかね野われは馳せてきたるを

 わかく死ぬ相いくたびもいわれきてうつせみ茫といたり夜の淵

 孤立いま堕ちたるものにふさわしく地平うたれてわがゆくみぞれ 

 いしだたみ蜥蜴しゅしゅっとあらわれてやがてかくれてゆけり孤独に

 ゴッホ忌のかなた戦げる糸杉の おお その深き空間の〈あお〉こそ

 虹を見て泣く青年の感傷、夭折への怖れと憧れ、孤立感と裏腹の矜持などがこれらの歌の主題である。これは「独り遊びの青春」であり、病気のせいもあって「行為を封鎖された青春」の像である。下村がこのように篠に「微視的観念の小世界」と評されたほど自己の内面に沈潜するには、それなりの理由があったのである。このような内向性は同時代の歌人にも共有されていた。 

 やりどなき心にとほく街の空かがやく塔を残し暮れたり  成瀬有

 ひとり聴く潮騒さみし春の湯に泡たてあらふせいねんの髪  小池光

 平仮名で「せいねん」と書くところに時代特有の甘さが感じられる。少し先輩にあたる村木道彦も「せいねん」と書いて世の人を魅了した。しかし1960年代後半は政治の季節でもあった。政治にコミットした歌人たちは一方で次のように詠っていたのである。 

  機動隊去りたるのちになお握るこの石凍てし路面をたたく  
        福島泰樹『バリケード・一九六六年二月』1969年

  スクラムの思想もろともかかえたる腕ひえびえと若き精悍 
        三枝昂之『やさしき志士たちの世界へ』1973年

 世界の変革を夢見て権力と対峙する青春のすぐかたわらで、下村のように「独り遊びの青春」を詠う歌が作られていたことは興味深いことである。しかし両者に共通するのはロマンチズムであることに異論はなかろう。このようなロマンチズムもまた、現代の若い人が持ちにくくなったもののひとつである。

 下村の作歌上の特徴としては、文語律定型に対するさまざまな試みがあげられよう。1960年代に短歌を作るということは、戦後の第二芸術論とそれに対抗するように編み出された前衛短歌の斬新な語法をすでに既知のものとして出発するということである。「自分はそれに何を付け加えることができるか」という問いはなかなか重いものであるはずだ。それはとりあえず次のような韻律から遠く逃れる不断の努力でなくてはなるまい。

 ともしびをうかべてよるの隅田川ふと大正のろまんこおしも

 『少年伝』のなかでは珍しい例である。これは塚本邦雄が「オリーブ油の河にマカロニを流したような」と表現した韻律に属する。下村はこのような韻律から逃れる工夫をいろいろ試みていて、特に歌集後半にその例が多数散見される。

 Oよ懺悔のいま詮もなきこころにて垂るるいくすじわれのなみだは

 ゆうべ 牛蒡を煮しむるにおいながれつつ飢えはしずかにきざすかなしも

 やしろ炎上しゆき 火の夜半 恍惚と翁いちにんみはりいたりき

 さなり世智などあらぬされども裡ふかくほのぼのとわが感性はあれ

 1首目では初句「Oよ懺悔の」が7音であり上句にかなり破調感がある。2首目では初句6音の「ゆうべ牛蒡を」を意味を優先して「ゆうべ」で区切っているために、意味と韻律にずれがありそれがかえって一首の存在感を増している。3首目はもっと破調感が強く、7・7・5・7・7に加えて句跨りがある。4首目も同じである。このような韻律上の試みにも注目しておくべきだろう。それは余りになめらかな短歌の韻律を堰き止めて、そこに生まれる抵抗感を手掛かりとして、リズムと意味の一回限りの新しい拮抗関係を創り出すという試みである。

 下村は1987年に第二歌集『歌峠』を出版しているが、その歌作はそれほど多くはない。現在の歌壇であまり話題になることもない。しかし『少年伝』後半に収録された次のような歌を読むと、記憶されもっと読まれるべき歌人だという感を深くするのである。

 食(お)すと焼くしおじゃけ塩を噴きながら垂りくる茫とわれのなみだは

 こんめいのきみもひとりのモーゼにてゆく詩歌この杳き死地をさし

 くちなわの目見やさびしくなに瞠る 彼方 エデンのごとく昏れつつ

 みはるかす穢土のゆうぐれふとしもよわれもかえりてゆきたし永劫(とわ)へ

110:2005年6月 第5週 谷岡亜紀
または、劇的〈私〉が立ち上げるもうひとつの現実

おれの中の射殺魔Nは逃げてゆく
   街に羞(やさ)しい歌が溢れても

            谷岡亜紀『臨界』
 短歌で〈私〉をさす一人称にはいろいろあるが、文語では多くは「われ」「我」「吾」などが使われている。最近の口語短歌では「私」「ぼく」が多い。谷岡のように「おれ」を使う人はあまりいない。「おれ」を使ってサマになるのは福島泰樹藤原龍一郎くらいだが、調べてみたら意外なことに藤原は「われ」を使っていた。「おれ」は口語なので文語脈には乗りにくいのだろうが、藤原はハートにおいては「おれ」の歌人だと思う。無頼性を強調するこの人称詞を使う歌人に共通するのは、その激しい抒情性である。それも一歩まちがえば、夜の酒場の演歌が繰り広げる酒と涙と女の世界に通じる、通俗的な香りすら漂う抒情性である。この点において谷岡もまた例外ではない。

 掲出歌の射殺魔Nとは、1968年10月11日に東京プリンスホテルのガードマンを22口径の短銃で射殺したのを皮切りに、合計4人を殺して死刑判決を受けた永山則夫のことである。当時永山は19才だった。網走の寒村で生まれ貧困だった永山に寺山修司は強い関心を抱き、著書『幸福論』などで永山を論じた。永山本人は寺山に反発し『無知の涙』を書いた。永山はその後、1997年8月1日に48才で刑死している。谷岡は自分のなかに射殺魔Nを感じ、その存在に自らの存在を部分的に重ねている。この歌は「夜のリング」と題され、「30歳にしてボクシングを始めた」という詞書のある連作のなかの一首である。だからボクシングを始めることで、自らの内包する暴力性から解放されたと読める。上句「おれの中の射殺魔Nは逃げてゆく」が谷岡らしいが、実は下句「街に羞しい歌が溢れても」の抒情性の方にこそ谷岡らしさが感じられる。

 谷岡亜紀は1959年生まれ。歌集に『臨界』(1993年 現代歌人協会賞受賞)と『アジア・バザール』(1999年)がある。あとがきによれば『臨界』には、1980年から1991年までに作られた歌が収録されているということだが、この作歌年代にまず驚かざるをえない。『臨界』には次のような歌が並んでいるからである。

 黄昏の世界がおれに泳がせる50mプール32秒で

 繁栄という幻想を武装してジェットコースター奈落へ向かう

 開戦の前夜のごとく賑える夜の渋谷に人とはぐれぬ

 壊れたるビル街を過ぎ居住区へ柩のごとき車で帰る

 恋愛のことばかりなる番組の外、鮮しき悪夢待つ街

 核施設構内の立つ塔の上にすばやく黒き人影動く

 遠き恐怖(テロル)の日々を知らざる少女らが朝の渚に拾う骨貝

 爆風に砕かれキラキラ街に降るために夜を冷えている千の窓

 『臨界』が描くのは都市東京なのだが、世界はすでに黄昏を迎えており、見かけ上の繁栄は幻想に過ぎないとの認識が執拗に示されている。1980年から1991年までといえば、日本経済が上り坂を迎えやがてはバブル景気へと至る時期である。1983年には東京ディズニーランドが開園し、1984年には日本の貿易収支の黒字が過去最高となっている。このように繁栄する日本という時代を背景として谷岡が描くのは、繁栄のかなたに幻視する負の影である。世界はすでに黄昏を迎えており、東京は廃墟と化した街、あるいは廃墟と化すことを待っている街である。核施設内には核テロを予感させる人影が走る。また最後の歌は爆弾テロによって砕け散るビルの窓を詠ったものだが、1974年に起きた反日武装戦線〈狼〉による丸の内三菱重工爆破事件を思わせる。『臨界』はこのように、廃墟・暴力・テロリズム・戦争の影が充満した世界なのである。言い換えれば谷岡は都市東京を戦場として捉えているということになる。

 80年代は好景気を背景とした明るい気分のライト・ヴァースが勃興した時代としても知られている。

 サンダルはぜったいに白 君のあと追いつつ夏の光になれり  干場しおり

 きんのひかりの化身のごとき卵焼き巻き了へて王女さまの休日  山崎郁子

 バブル経済の気分をよく伝えている歌である。一方でこのような歌が作られていた時代に、谷岡はどうして都市の影に暗く廃墟を幻視するような歌を詠ったのだろうか。その秘密は谷岡が早稲田大学文学部に在学中から小劇場演劇に熱中していたという事実にある。当時はちょうど野田秀樹の率いる「夢の遊民社」や劇団「そとばこまち」などの小劇場が力をつけ初めていた頃である。そして小劇場系演劇の得意とする手法のひとつに、「現実を演じつつそのかなたに幻視される世界を浮上させる」というものがある。想像するに、谷岡の短歌の手法はここから来ているのであり、谷岡の歌はとても「演劇的」な作り込みがされた歌なのである。

 『臨界』の代表歌として知られる「毒入りのコーラを都市の夜に置きしそのしなやかな指を思えり」にも同じことがいえるだろう。これは1984年に起きた「グリコ・森永事件」に想を得た歌である。谷岡が思いを馳せているのは、都市の夜に毒入りコーラを置く無差別テロリストの心に生れた闇であり、彼が都市に抱いている怒りと復讐の念に、谷岡は同じ思いを持つ者として共感しているのである。

 この演劇的手法は谷岡の作歌手法と修辞と深い関係がある。それは短歌における〈喩〉をめぐる問題である。谷岡の手法が「現実を演じつつそのかなたに幻視される世界を浮上させる」というものである以上、現実から幻視される世界へとスイッチしつつ接続する手段として〈喩〉は最適の手段となる。

 見下ろせば別れ出会いも軽い街軽金属のごとく雨降る

 朝焼けに解凍されてクレパスの絵本の町のごとく明けゆく

 人類の徒労楽しき日の暮れに銭湯の絵のごときフジヤマ

 来たる日の核シェルターとなる地下の駅に土曜の恋人を待つ

 一首目の「軽金属のごとく」を例えば「レモンピールのごとく」と入れ替えてみれば、まったく佇まいの異なるおシャレな歌になる。この歌に不吉な影を落としているのは、戦闘機の素材として用いられている軽金属という語の醸し出す禍々しい意味である。二首目では「クレパスの絵本の町のごとく」という喩によって、明けつつある町から現実感が剥奪され、夢幻の町へと変化する。三首目は現実の富士山を銭湯のペンキ絵のようだと見ることにより、同じ効果を生みだしている。四首目は厳密には喩ではないが、地下鉄の駅を「来たる日の核シェルターとなる」と性格づけることにより、重層的な現実を生み出している。このようにあるものの姿とその将来の姿とを同時に提示するのは、修辞学でメタレプシスと呼ばれている技法の一種であり、谷岡の演劇的手法のひとつして用いられている。このように谷岡の作歌技法にあっては、〈喩〉に極めて明確な役割が与えられていることに注目すべきだろう。

 『臨界』で示されているもうひとつの世界はアジアである。

 難破船が並ぶメナムの川向こうのスラムの屋台に食う豚の耳

 河原にて死体を燃やす人ありき 灰は昏れゆく川に還(かえ)さる

 なまじりの涙を蠅に吸われつつ皮膚爛れたる美女横たわる

 神という圧倒的な光量を浴びて苦行僧(サドゥー)のいま川に入る

 インドに旅して「圧倒的な光量を浴び」たのはむしろ谷岡本人だろう。しかし谷岡がインドに旅したのは、今どきよくある「自分探し」のためではない。そうではなく「アジアから日本を撃つ」視座を内在化するためである。このテーマは第二歌集『アジア・バザール』へとそのまま引き継がれている。

 鳥葬のボクシンググローブ転がりて激しく暮れてゆくゴミの島

 夜の街のアリスに告げる伝言をポケベルに打つ「はるまげどん」と

 大陸の性器としての植民地その行き止まり半島酒店(ホテル・ペニンシュラ)

『アジア・バザール』の掉尾には「キャロル」と題された連作がある。「重大な事が発表されるのでテレビをつけて待機しなさい」という当局のお触れを詞書として始まる。

 籠りいる真冬の正午絶え間なくヘリコプターの音の降り来る

 賛美歌を大音量で奏でつつ水辺を目指す重装の群れ

 殺気立つ日暮れの駅の雑踏に呑まれ名前を呼び合う家族

 「すみやかにかつ整然と」と絶叫を繰り返しいるラジオを消して

 大規模な都市テロが起きたのかそれとも核攻撃があったのか、それはわからないのだがとにかく都市の大騒乱を想定した連作である。主題性の強い歌人として知られている谷岡の作品のなかでも、特に主題性の強い連作だと言える。「キャロル」は1998年に短歌研究新人賞候補となった高島裕の「首都赤変」とよく似ている。「首都赤変」もまたどこか新世紀エヴァンゲリオンを思わせる市街戦蜂起の物語をシナリオとする連作であった。谷岡には『〈劇〉的短歌論』という著作がある。また『現代短歌の全景』(河出書房新社)所収の座談会でも、司会の小池光が「受けて返しているという構造が短歌の内部論理だと思うんです」という発言に対して、「私は『対立』と『葛藤』とによる〈劇〉性と言いたいですね」と切り返しているところからもわかるように、谷岡は短歌における「〈劇〉性」を自らの作歌の基盤に据えている。〈劇〉性の高じるあまり、時としていささかオーバーな身振りになりすぎることがあるとはいえ、このような視座から短歌を作り続けている歌人は他にあまりいないだけに注目に値すると言えるだろう。

 「キャロル」は近未来の黙示録とでも言うべき連作であるが、黙示録の世界を首都東京に現出させようとした1995年のオウム真理教教団による地下鉄サリン事件を題材とした歌がないのは奇妙と言えば奇妙である。谷岡は想像力によって作り出された演劇的空間に惹かれるので、現実に起きてしまった出来事の前では沈黙せざるをえないのだろうか。また『アジア・バザール』には、結婚して子供ができ父となった自分を詠う歌も収録されている。こちらは演劇的というわけにはいかず、ふつうの父親の歌になっている。これもまたいたしかたない。

 常に大状況における問題意識と切り離せない谷岡の短歌であるが、私はそのような歌と並んで、意外にピュアな抒情が溢れる次のような歌もまた好きなのである。

 魚たりし夢に目覚めて食う夏の果実の酸にそよぐ体は

 一冊の恋を読み終え疲れたる瞳を初秋のプールに冷やす

 この秋をおまえは淡く色付いて初めて受ける雨の口づけ

 夏の恋まだ稚(わか)ければ軽やかにラムネの硝子玉を鳴らして

 近代リアリズムが開発した〈私〉、前衛短歌運動が提案した虚構性の強い〈私〉の賞味期限が切れつつある現在、現代の状況を反映する新しい〈私〉が求められている。谷岡の短歌はその主題性の強さが目立つが、新たな〈私〉を造形する試みとも理解することができるのではないだろうか。

109:2005年6月 第4週 大野誠夫
または、戦後風景のなかに咲いたロマネスクの花

兵たりしものさまよへる風の市(いち)
   白きマフラーをまきゐたり哀し

         大野誠夫『薔薇祭』
 冒頭の「兵たりしもの」という表現がすでに哀しい。敗戦で日本は武装解除され、兵隊は「兵たりしもの」、つまりなれの果てと化した。当時白いマフラーをまいていたのは航空兵で、兵隊のなかのエリートだった。それだけに自失した幽鬼のようになって闇市をさまよう姿は痛々しく、敗戦直後の日本の世相の一断面を活写して記憶に残る歌となっている。下句が8・8音と増音となっているのも、結句の「哀し」という短い主情表現にたどり着くまでを引き延ばすことで強調する効果が感じられる。

 私が何もわからず短歌を読み始めたとき、戦後歌人を大勢収録したアンソロジーのなかで特に惹かれたのが大野誠夫 (おおの のぶお) であった。次のような歌が特に印象に残った。

 クリスマス・ツリーを飾る灯の窓を旅びとのごとく見てとほるなり

 絶望に生きしアントン・チェホフの晩年をおもふ胡桃割りつつ

 ジヤズ寒く湧きたつゆふべ墜ち果てしかの天使らも踊りつつあらむ

 北向きのホテルの窓に青き卓レモンを積みて宵のひかりよ

 音しづかにジープとまりぬいのち脆き金魚を買ひて坂下りゆく

 宵々をピアノをたたく未亡人何か罪深く草に零(こぼ)る灯

 これらの歌を収録した第一歌集『薔薇祭』は昭和26年 (1951年) に出版された。塚本邦雄は「焦土にひらいた短歌の花の小さな祝祭であった」と評し、「彼のリアルとひきかえに獲得した美が、朔太郎のパロディ臭をもつ、大正末期的な甘い頽廃に彩られたものであるにしても、敗戦直後の、現代短歌生誕混迷期の、かけがえのないフェスティバルであった」と総括している。

 大野に関してよく指摘されるのがその「物語性」「ドラマ性」であり、その傾向は上に引用した歌にも濃厚に感じられる。一首目の「クリスマス・ツリーを飾る灯の窓」が象徴する豊かさと幸福を横目に見ながら、「旅びとのごとく見てとほる」〈私〉には、自らを世間的幸福とは無縁な存在と規定する自己演出がある。「汚れたるヴイヨンの詩集をふところに夜の浮浪の群に入りゆく」という山崎方代の歌に通じる自己演出である。二首目を代表歌として『現代百歌園』で引用した塚本邦雄は、「ロマネスクと呼ぶべき短歌が、この人の手によって生まれ出たのだ」と述べている。もっともその直後に、「たとえ風俗小説的世界に止まったとは言え」と続けているが。三首目に登場するジャズは、進駐軍と共に日本に持ち込まれた戦後風俗である。しかしジャズは「熱く湧きたつ」のではなく、逆に「寒く湧きたつゆふべ」と詠まれているところに、大野の戦後風景を見つめる目の苦さがある。四首目は逆に暗さのなかに明るさを感じさせる歌であり、言うまでもなくレモンという小道具は青春性とロマンチシズムの象徴であるが、このあたりに大野の「甘さ」を見る人もいるのだろう。五首目はまるでショート・フィルムのような映像を感じさせる歌。もともと画家を志したことのある大野は、短歌における視覚的美に敏感であった。若い人のために言っておくと、当時ジープといえぱそれは進駐軍のGIのことである。六首目あたりに塚本は「風俗小説的世界」を感じるのだろう。「未亡人」は戦後珍しくはなかったが、「罪深く」と並べて用いられると、とたんにドラマ性が生まれる。大野はこのような短歌の作り方に巧みであった。

 大野は加藤克巳、近藤芳美、宮柊二、前田透らとともに、終戦直後に結成された「新歌人集団」に属しており、合同歌集『新選五人』(昭和26年)に参加している。「新歌人集団」そのものには、特に全員に共通する明確な主張はなかったと言われているが、大野は「美の飢渇 – ひとつの批評基準」(『人民短歌』昭和22年6月)という文章のなかで次のように述べている。

「現代短歌の乏しさも存在の薄弱さも、美感の喪失からきている。このはげしい美の飢渇に気づいているものが、案外少いというのも、時代の混乱のためであろう。美を失った真実の探求 – 糞リアリズムと呼ばれた、あの乾燥した現象描写の卑俗さも、そこからくる (…) 」

 昭和22年と言えば、近藤芳美が「新しき短歌の規定」を世に問う一方で、小野十三郎が「短歌的抒情に抗して」を発表して、短歌否定論を展開した年である。翌年には戦後リアリズム短歌を代表する近藤の『埃吹く街』が出版されている。こんな時代のなかで、「糞リアリズム」をこきおろし、「美の復権」を吹聴する大野は傍流の位置を免れることはできなかったろう。篠弘などは『現代短歌史 I 戦後短歌の運動』(短歌研究社)の中で、大野の短歌のリアリズム的側面を取り上げて評価するという的外れなことをしているほどである。

 初期の歌を収録した『花筏』(1966年)には、25歳で地主であった生家を出奔し、新聞記者となって文学を志すという、ある意味でオーソドックスな上京物語が歌にされている。

 何か言ひたき父なりしならむわれに向けし眉おもおもと曇りてありき

 海峡をわたれる時し何ゆゑか胸つきあぐるものがありたり

 エレベーターの箱の隅に息鎮めをり新聞記者われは事件を襲ふいま

大野の生家は茨城県にあり、上京するのに海峡を渡ることはない。ここにすでに虚構があり自己劇化がある。その短歌に濃厚な「物語性」といい、故郷を捨てて文学に志す姿といい、後年の寺山修司を思わせるものが感じられる。また次のような歌などは、まるで映画のワンシーンのようであり、大野の絵画的手法は最初からあったことがわかる。

 息喘ぎ荷馬車の馬が倒れをりながながと市電が停れるさきに

 鶏(とり)の香の沁みつきにけむ石畳男と語る眼の鋭しも

 『薔薇祭』には次のような、戦後を濃厚に感じさせる風俗描写があり、からっと広がる空に漂う虚無感が特徴的である。敗戦直後という時代背景と、大野が志向するロマネスクとが、ぴったりと寄り添うことで生まれた歌である。

 神さへも見失ひつつ何もなき裸形をつつむぼろぼろの衣(きぬ)

 すべもなくけふは売らなと携へし弦(いと)切れし楽器・仏蘭西革命史など

 西欧のあたらしき思潮説くをとめ煙草は染まるその唇紅に

 煙草火を借ると寄りきし少年の髭伸びて丸め持つ妖婦伝

 今回は『行春館雑唱』(1954年)、『胡桃の枝の下』(1956年)、『山鴫』 (1965年)、『象形文字』 (1965年)までの抜粋を収録した自選歌集『羈鳥歌』を読んだので、そこまでしか追いかけていないが、印象に残った歌をあげておく。

 忘られて銀髪ひかる俳優がひとりシートに寝てゐる夜汽車 『行春館雑唱』

 淡あはとみづきの花の散るあたり孔雀は啼けり埃の奥に

 酒場にて働く少女を妻として露地裏に蝶の絵を描き暮らす

 花曇る空に灰色の扉ありいづこの国の呪文をつづる      『胡桃の枝の下』

 数知れぬ爬虫の背(せな)は濡れながら薔薇腐れゆく垣をめぐりぬ

 蒼白の娼婦歩めり裾原の真昼の道に物音は死す

 砲声のとどろく夜に繃帯を白くして無人の街来たるわれ   『山鴫』

 人知れず脱皮を終へてしばらくは光のなかにうづくまりをり

 あたらしき怒りの花の種子微塵わが手を放れ光りつつ散る

 蝶追ひて見知らぬ森の路ゆきぬ子の背を隠す夏草の花  『象形文字』

 段丘に人ゐて石の壁を打つ虚しき秋のひかりみなぎる

 厨芥(ちゅうかい)の凍らむとするひとところ人のいとなみのはや襤褸めく

 『薔薇祭』を特徴づける自己劇化とドラマ性は、『行春館雑唱』ではまだ見られるものの、次第に薄れてゆく。それに代わって目立つようになるのは、五首目「数知れぬ」に代表される、幻想と写実とがないまぜになったような対象の立ち上げ方をした歌である。無数の爬虫類と腐る薔薇という取り合わせはリアリズムであるはずがなく、かといって作者の純粋な心象風景と割り切ることもできない。六首目「蒼白の」でも山裾の道の真昼の静けさは現実のものであっても、その風景のなかに娼婦を配することで、光景は一気に幻影色を強めることになる。これは大野が最初から持っていた虚構的傾向がさらに深化したものと言えるだろう。七首目「砲声の」あたりになるとさらに幻想味が増して、まるでキリコの絵でも見ているようである。『象形文字』にはこのような傾向の歌が多くあり、「段丘に」の歌などその不思議な味わいのせいで一読したら忘れられない。

 大野には「風俗派」「浪漫派」「虚構派」「芸術派」など、さまざまなレッテルが貼られてきたらしい。『現代短歌大事典』(三省堂)に記事を執筆した弟子の松平修文は、大野の本質は「虚構派」「芸術派」だと断定している。しかし、弟子は自分が継承した傾向を師匠に見るものである。松平の「水の辺にからくれなゐの自動車(くるま)来て烟のような少女を降ろす」のような歌は、大野の「虚構派」「芸術派」の傾向をさらに押し進めたものとして位置づけられるのだろう。

 塚本邦雄は次のような大野の歌を引いて、「前衛短歌作歌群の何人かは、このあたりに激励されて、ひそかに翼を収めていたはずである」と述べている。

 紫蘇の葉の低むらがりに光差しみづからを恃む心ぞ熱き  『薔薇祭』

 幾千の花かがやかす椿の木風なき午後を渇きに堪へず

 写実一辺倒のリアリズムを批判して「美の復権」を訴えた大野の短歌は、芸術性と反写実を旗印とした前衛短歌運動に影響を与えたということだろう。しかし実際に歌集を読んでみると、大野の作歌態度はどっちつかずのところがある。『象形文字』のなかにすら、次のような身辺雑記的な歌が見られる。

 ものごころつきしより限りなく甘え来し父病みしかば寂しかりけむ

 とはいえ大野の体質のなかに存在するロマネスク志向は、塚本邦雄や寺山修司によって吸収されていったのだろう。この傾向は形を変えて、藤原龍一郎の言う「ギミック」へと連なるように思うのだがどうだろうか。