150:2006年4月 第1週 八木博信
または、ヴァーチャルな神話的空間で残酷さと美しさを詠う

廃されし管制塔まで書きに行き
     詩を放つとき世界は眠り

         八木博信『フラミンゴ』
 歌集の巻頭歌である。管制塔というから空港だろうが、もはや廃港となってがらんとした無人の空間に静寂と光だけが充満しているのだろう。そこに行って詩を書いて放つという。管制塔から詩を記した紙を風に放つこともできるし、電源が生きているならば航空無線で送信することも考えられる。いずれにせよそうして〈私〉が詩を放つとき、世界は眠っているのである。〈私〉が詩を送り出すのは世界の眠りを覚ますためか、はたまた世界を眠らせるためなのか、そのあたりは判然としない。しかし、広い空域を管理するべき管制塔は世界を統べる塔の喩であり、その高みから詩を放つというのは、ある種の志を感じさせる。やや作者に引きつけて解釈すると、作者自身の述志とも取れなくはない。「書きに行き」の措辞に甘さがあるが、一首全体が立ち上げる世界は魅力的である。

 八木博信は1961年 (昭和35年)生まれで「短歌人」所属。「琥珀」で平成14年度の短歌研究新人賞を受賞している。『フラミンゴ』(フーコー)は1999年発行の第一歌集である。八木にはこの他に、句集『弾道』(弘栄堂書店)、詩集『デジタルハート』(新風舎)があり、短歌・俳句・現代詩を越境して往来している人のようだ。

 あとがきに、「十代の後半短歌開始時から既に私の歌句には、身辺雑記的なものはあまりなく、虚構と創作が多くを占めていました」とあるように、八木の歌には生活詠や日常詠は皆無であり、言葉を素材として立ち上げる文学空間の中に美と残酷と抒情を現出せしめようとするのである。その意味において〈虚構の私〉を詠った寺山修司との精神的近親関係は深く、また私性の拡大を図った前衛短歌と一脈通じる所もある。

 八木の抱えるテーマは何だろうか。それは虚構の物語性の強いアイテムが散りばめられた現代の神話的空間を創生し、その中で生の残酷さや傷つけられた個の哀しみを詠うことだと思われる。

 追尾型魚雷に気づくとき遅し原潜レナの優しき乳房

 南より怪獣は来る蛾に騎って歌う僕らのザ・ピーナッツ

 シミばかりある背の女抱くとき激しく弾けよクロード・チアリ

 壁紙の剥がれて匂いたつホテルカリフォルニアの接着剤が

 地下室のメッサーシュミットお昼寝の園児が夢で帰るババリア

 八木が立ち上げる神話的空間の素材の多様さは驚くばかりである。一首目の「原潜レナ」の出典は不明だが、二首目は映画化された懐かしい怪獣モスラ、三首目は日本に帰化したギタリストのクロード・チアリ、四首目はイーグルスの名曲ホテルカリフォルニア、五首目は第二次大戦の戦闘機の名機メッサーシュミットが登場する。

 かつて吉川宏志は、アララギ短歌で植物がよく取り上げられたのは、「作者と読者のあいだで、植物を通じた繊細なコミュニケーションが成り立っていた」からであり、「植物を〈写生〉することは、このコミュニケーションを成立させる基盤であった」と論じたことがある(『塔』1996年3月号)。これに倣って言うならば、八木の短歌に頻出する固有名は、作者と読者の間である種のコミュニケーションを成立させる基盤となっていることになる。それはいかなるコミュニケーションか。結社という閉じられた人的空間の内部でのみ成立する了解や、短歌的伝統という歴史的土壌を基盤とする了解に対する信頼が崩れた現代において、作者と読者の間で「ああ、そうだよね」的コミュニケーションが可能なのは、映画や芸能や音楽を包含したゴッタ煮的に猥雑な都市伝説の集合である。だから八木は多くの人が聞いたことのあるアイテムを取り上げて換骨奪胎し、本来それが置かれていた文脈とは異なる文脈に投げ込むことで異化効果を生み出し、読者とのコミュニケーションを担保するのである。しかしそこに成立するのはもはやアララギのような「繊細なコミュニケーション」ではありえず、しばしば暴力的でショッキングなコミュニケーションとなる。

 本来それが置かれていた文脈や歴史性を剥奪する手法は、次のような歌に特に強く現われている。

 成熟を拒絶したまま老衰のピーター=パンの勃起が止まぬ

 半眼の肺魚に目撃されながら斧振り下ろすラスコリニコフ

 奴隷船に拉致されながら待っている書かれるときをクンタ=キンテは

 ダンカンを殺してきたる手を洗うマクベス新宿西口便所

 風俗街を駆け抜けてゆくジョギングで後ろ姿の西行法師

 まるで世界文学全集のような光景が展開するが、ピーター・パンは老衰し、マクベスは新宿西口便所で手を洗っている。このように元の物語を離れ、本来の文脈から抜き出されて別の文脈に置かれると、そのアイテムは異化され神話化される。それが特に強く感じられるのは五首目の歌で、西行法師が吉野の桜吹雪の下を歩くという本来の文脈から引き剥がされて、歌舞伎町の風俗街を走らされることで、異化された虚構の神話的空間が生まれるのである。ちなみに固有名の氾濫は「短歌人」の先輩に当たる藤原龍一郎の特徴でもある。

 喪しあれやこれやを初秋のたとえばボニー&クライド

 首都高の行く手驟雨に濡れそぼつ今さらハコを童子を聴けば

 しかし藤原において固有名は、ノワールの香りのする都市的抒情を醸成する要素であるのに対して、八木においてはひたすら神話化された空間を形成するのである。このヴァーチャルな都市空間を漂うのは、次のような人物たちである。

 暴食と吐瀉繰り返す恋人のためにコンビニ閉じないでくれ

 鮫のように奪ってしまえ万引きの少女が逃げる楕円の街へ

 オートバイ後部座席で愛をいう少女小鳩を殺したばかり

 螺子をきる少年のなか造られているか機械仕掛けの家族

 出来たてのスケートリンク傷つけるため美しき少女のエッジ

 爆竹で子猫を殺す午後寒く今夜は塾に来るのか少女

 過食と拒食を繰り返す恋人、万引き少女、小鳩を殺した手で愛を囁く少女、機械仕掛けの家族を持つ少年など、八木の投影する神話的空間に登場するのは、いずれも傷ついた者、または傷つける者であり、両者は等価である。歌舞伎町を駆け抜ける西行法師と万引き少女が違和感なく同時に存在する空間が八木の世界であり、歌を読み進む読者はそのような仮想空間に引きずり込まれることになる。

 このような神話的空間の住人として〈私〉が詠われるとき、〈私〉もまた無垢ではありえず観察者の立場に留まることもできない。ただし、次の歌に詠われている〈私〉はもちろん現実の作者ではなく、構築された神話的世界に参入した〈私〉であることは言うまでもない。

 わが薄き血と肉暖まれ冬の朝日を受けている売血所

 マリア像美しければ自涜の夜思い出すかな俺も牧師も

 テレクラの少女の唄うエルビスが俺まで届く公衆電話

 社会的適応できぬまま今日も自伝を書かんコクヨ履歴書

 歌集に親族を詠んだ次のような歌もあるのだが、これもまた家族詠と見なすことはできず、やはり入念に作り上げられた仮想世界での家族の姿である。八木はここでかなり抒情の方向に向かっているが、寺山修司の世界との親近性を指摘することもできるだろう。寺山もまた虚構の家族を詠ったことは周知の通りである。

 空ばかり見ていた父よ癌進む者は翼を持ちたきものか

 思うところのものにはなれず妹の出ているアダルトビデオは観ざる

 教師たる姉の幸遠ざかるときわれの暗算いまだに遅し

 今日も職なき叔父豆を煮詰めおり貧しき思想濃くなるばかり

 手術用鋏をくれし医者という母と男の失恋らしき

 ふつうはここまで大胆にヴァーチャルな神話空間を立ち上げたりはしないのだが、その手法において八木は一面では笹公人の念力短歌 (引くサービス精神) に通じるところがあり、また小泉史昭の虚実皮膜 (引く言葉の水芸) にも近い地点にいると言えるかもしれない。いわゆるニュー・ウェーブ短歌とは一線を画したこれらの歌人たちの方向性は注目される。それは修辞による〈私〉の押し上げ方のひとつの方向を示しているからである。なぜか全員男性ばかりなのだが。

 それ自体がレプリカントのようにいささか作り物めいた印象を残す歌のなかにあって、次のような歌群は従来の近代短歌のコードで読み解くことができる抒情性を備えていて、これはこれでなかなか美しい。

 新しき恋を語れば口紅に汚されているコーヒーカップ

 吹き荒ぶ海に落とした長靴に書かれてありしただ僕の名が

 コーヒー豆挽く音遠くコクトーのひとふでがきのような言い訳

 寺町に愛育てつつ北向きの窓開けて見る一面の墓

 シャボン玉昇りゆくかなチェリーナの皮膜のなかにわが息臭く

 セメントで固まる軍手火に投ずわれを呼ぶその手型のままに

 あとはただ海渡るだけ半島の自動演奏ピアノに寄れば

 特に五首目など美しいと思うのだが、チェリーナって何だろう。六首目も歌意はよくわからないままに、「半島」と「自動演奏ピアノ」というアイテムの結合にはいたく想像力を刺激するものがある。

 ちなみに八木の俳句は次のようなものらしい。

 金星の支配逃れて俺滅ぶ    『弾道』

 猟師なら通草黙せるまま食べる

 わが足下深く地球の汽笛鳴る

 俺も走る虎になりたき夜明け前

 流鏑馬の射る矢が残す同位角

 短歌に較べて俳句はより瞬発力と才気を必要とする詩型のようだから、八木のような資質は俳句に向いているかもしれない。

 近作からもいくつか引いておこう。『短歌人』2005年8月号より引く。

 ストリッパー憲法記念サービスデー音叉のごとき両脚をあげ 

 滅びゆくものは右へと旋回す戦艦大和面舵いっぱい

 空港をめぐるデルタに千人の致死量の毒しみだすカエル

 首と首うちあう麒麟の目はやさし愛とはもっとも戦いに似る

 『フラミンゴ』に較べればヴァーチャルな神話空間的性格は薄くなっているが、これが八木の新しい方向性なのかどうかはまだわからない。その才気に注目して見守りたいものである。

149:2006年3月 第4週 後藤由紀恵
または、日常の時間の中に沈潜する歌

母という永遠の謎ふくふくと
     空豆を煮てわれを待ちおり

        後藤由紀恵『冷えゆく耳』
 自分を産み育てた母ですら、畢竟心の底まで理解できるわけではない。人間の相互交通性の限界がこの歌の主題だが、この歌の魅力はひとえに「ふくふくと空豆を煮て」の部分にあることは明らかだろう。「ふくふくと」という擬態語は空豆がふっくらと美味しそうに煮える様を表現するが、微妙に母親のふっくらした体型にもかかっているようだ。この多重性と未決定性が歌の意味作用にとって貴重なものである。「空豆を煮て自分を待っている」という描写には、残酷なグリム童話の一節のような不気味さが漂っている。同居する娘と母の関係はなかなか複雑なのである。

 後藤由紀恵は1975年(昭和50年)生まれで「まひる野」所属。2003年に角川短歌賞次席となり、2005年に第一歌集『冷えゆく耳』でさいたま市が主宰する現代短歌賞の第6回目の受賞者となった。ちなみに現在までの受賞者は、梅内美華子、小守有里、渡英子、松本典子、河野美沙子と全員女性である。

 後藤の歌集を一読しての感想は、生活意識のリアルな反映という「まひる野」の伝統に添いつつ、現代において自己と生活から遊離しない短歌だというものである。その分、短歌定型の革新とか修辞の冒険という派手さがないことを残念に感じる向きもあるかもしれないが、それは欲張りと言うものだろう。主題の捉え方、主題を表現するための言葉の自己への引き寄せ方、そして一首のなかへの言葉の収め方は巧みで無理がない。作歌の現場での悩みはあれども、〈生活と歌〉の幸福な関係が成立していることが歌を通して感じられる。

 後藤の歌の主題は、同居する両親と祖母から構成される家族という舟なのだが、巻頭に置かれているのは次のような相聞である。

 声のみに君を知りゆくこの冬の栞とならんわたくしの耳

 われを指さぬひとさしゆびに君がさす空より花のように降る雪

 ぬばたまの髪をかざりて花となる声を聴かせよ低きその声

 でもきっと同じではない肩を寄せきれいと言いあう月のかたちも

 女性にとって恋は永遠の主題だが、流れるような調子の三首と並んで、冷静に恋のゆくえを見つめる四首目のような歌があることも注意しておきたい。恋の希求を詠い上げるには文語調が適しているが、反省は「でもきっと」と始まる口語調になっているのもおもしろい。

 『冷えゆく耳』の大きな部分を占めているのは家族詠であり、なかでも高齢となり認知症の傾向を示す祖母を詠んだ歌に注目しないわけにはいかない。

 終わりゆく祖母の時間の先にある死はやわらかく草の匂いが

 最後までおみなでありしかなしみは眠れる祖母の耳としてある

 「家に逝く」理想に今も日本の女らするどく追い詰めらるる

 笹舟のような家族よ祖母というかろき錘を垂らしつつゆく

 うつくしき母はまぼろし男らよ母の襁褓をまつぶさに見よ

 迷いゆく祖母のこころに触れることふいにおそろし春のゆうぐれ

 子を産みて育て働き痴れてゆく女とは淋しき脚に立つもの

 家族は笹舟のように流れに翻弄される存在であり、介護を必要とする祖母が錘として把握されているところに作者の沈着な眼差しがある。また作者は老いゆく祖母の介護を通して、「日本の女」を見つめている。このような意識が引用した最後の歌として表現されている。その眼差しは当然ながら、結婚・出産という人生コースを歩まない自分へと投げ返されるのである。

 眠る子はたしかな錘 母となりし友はしずかに岸を離りて

 立ち枯れの葦なびきたる川の辺に妻にも母にもならぬ身を置く

 産むものと産まぬものとが集まりてペンギンの顔をして笑いあう

 子を産んで母となった友人との距離感、〈子あり組〉と〈子なし組〉の間に生じる秘やかな壁という微妙な意識をこのように掬い上げるとき、歌は最も後藤に寄り添うものとなるのだろう。

 家族詠を離れても、日常の些細な感情の揺れを掬い上げるという後藤の歌の性格は変わらない。

 簡潔に死は刻まれて議事録の余白に春の雪ふりつもる

 時給にて働くわれを気軽だと評するひとの細きネクタイ

 プリットとヤマトのりとの差異のほど事務員として過ごすまひるま

 ふいに目の前より消えしボールペンほどの日常に慣らされており

 一首目は事務職として勤務する大学で、死亡により除籍となる学生を詠んだもの。事務職員としての自分と人とが「プリットとヤマトのりとの差異」ほどしかないという認識は冷徹であり、この認識の鋭さが歌を支えている。

 後藤の歌の手法は基本的には戦後短歌の骨格をなしたリアリズムである。しかしなかにはリアリズムの枠から微妙に外れている歌もあり、そんななかにおもしろい歌がある。

 日の暮れに何もつかめぬ両腕の幾千本の空より垂れて

 「北へゆく」ことに焦がるる春の午後パルコ八階で見るプラネタリウム

 靴下の左右まちがえ雨の午後笑わぬ歯科医としばし向き合う

 ゆうぐれの上から夜は降りてきてわたくし以外のひとを隠しぬ

 まなぶたにみどりのこどく滴らせシーラカンスのように眠りき

 遠き世に馬として添うこいびとの背骨のあたりに春風の立つ

 一人称で生きているような顔をして指紋だらけの銀のドアノブ

 一首目の空から腕が垂れているというのは、現実の風景ではもちろんありえず心象風景だろう。二首目の「北へゆく」は現実の北というより精神の北方であり、パルコという都市風俗の象徴としての固有名詞の選択も効果的である。三首目は現実にあったこととも解釈できるが、それ以上に寓話的な物語性がありおもしろい。四首目はリアリズムではあるのだが、夜が私以外の人を隠すという発見に、世界のなかにおける〈私〉の特異点としての性格がよく表現されている。〈私〉は〈私〉の視線から隠すことはできないのである。五首目はこれだけ読むと謎のようだが、映画『グラン・ブルー』で描かれたダイバーのマイヨールの死を詠んだもの。珍しく「みどりのこどく」と平仮名書きした表記に、伝説のダイバーを神話的世界に眠らせようとする作者の配慮が見える。六首目と七首目はリアリズムよりも想像の方が勝っているのだが、このような方向性の歌ももっとあってよいようにも思える。

 リアリズムの生命線は、現実の風景の中にいかに透徹した視線を潜りこませられるかであり、それと相対的に観察者としての自己をいかに純化していくかであろう。

 すでに死をのぞみし若さ持たぬゆえきりきりと巻く秋の糸巻

 いずれ死すわが頭の型にへこみたる枕を撫でるはつなつの風

 このような歌を見ると、後藤は年齢に似合わず事物の奥へと沈み込むような視線を持っていることがわかる。この視線がさらに研ぎ澄まされていったとき、どのような歌が今後生まれて来るのか期待したい。

148:2006年3月 第3週 山田消児
または、「僕たち」の位相

ざわめきは遠く聞きつつ街を出る
  内耳にふかき海を湛えて

       山田消児『アンドロイドK』
 古典和歌の時代と異なり、明治以来の近代短歌の根底には一人称としての〈私〉があるというのが共通の理解である。たとえ一首のなかに「我」という文字が含まれていなくても、短歌一首は〈私〉による観察、または〈私〉の表出として読むというのが共有された読みのコードとして定着している。岡井隆は、「短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の ― そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです」というよく知られた定義を下した。近代短歌の自然主義的〈私〉観に対抗する形で、寺山修司の〈私〉の拡散、前衛短歌の虚構の〈私〉などが提唱されたが、これらも短歌に顕われた〈私〉と、実生活における、もしくは作者としての〈私〉との距離と異同が問題にされたのであり、その位相はさまざまでありながら、ただ一人の〈私〉を想定する点においては変わりないのである。つまり一首の背後に想定する〈私〉は一人であり、それが原則ということになる。

 一首のなかに複数の〈私〉が存在する場合があるだろうか。すぐ頭に浮かぶのは直接話法による引用である。

 「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの 俵万智

 「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」 穂村弘

 この場合には一首のなかで対話が成立しているか、他の場における対話を再現しているのだから、発話者としての〈私〉が複数存在することに何の不思議もない。発話者の交代により時系列的に〈私〉が複数現われているのであり、〈私〉が同時的に複数存在しているわけではない。

 山田消児の『アンドロイドK』(深夜叢書社)を読んでいて、集中に「僕たち」「僕ら」という一人称複数形が使われている歌がいくつか含まれていることに気づいた。このことについて少し考えてみたい。

 「僕」「私」「吾」は一人称単数形の人称詞である。「僕たち」「私たち」などは一人称複数形とされているが、実はそんなものは存在しないということに注意すべきである。「一人称複数形」というのは文法の便宜的呼称にすぎない。「一人称」とは発話主体の言語的記号である。発話主体はその定義上、常に単数でしかありえない。例外的に複数化するのは、シュプレヒコールで大勢の人間が「われわれは勝利するぞ」などと同時に唱和する場合に限られる(このとき本当に発話主体が複数化するかという点については疑問があるがここでは触れない)。二人称や三人称の複数は現実に存在する。私が「あなたがた」と言うとき、私は複数の(潜在的)共発話者に向かって話しているのだから、二人称複数は現実のものである。三人称複数についても同じである。一人称のみが常に単数であり、一人称と他の人称とのこの非対称性はもっと注目されてしかるべきだろう。一人称は常に〈孤〉なのである。

 では、一人称がその内奥に保有するこの〈孤〉性ゆえに、私の発話は常に孤的性格に彩られているのだろうか。そうではない。私が発話主体として振る舞うとき、一人称の〈孤〉性を対話の共同性へと放出するがゆえに、私の発話は孤的性格を免れるのである。私が発話するとき、その発話は他者へと向けられている。私の発話は共発話者によって回収され、隣接する次のフェーズでは共発話者が「私」を名乗って私に発話を返す。言語はこのように発話者と共発話者との相互性の内にのみ顕現する何物かである。発話者と共発話者とが、同時発話・ユニゾン・構文の継承などのさまざまな手段を駆使して、複雑な織物のように会話を織り上げてゆく様は、近年の会話分析によってその詳細が明らかにされている。

 では短歌に現われる「僕たち」「僕ら」という「一人称複数形」は何の記号なのだろうか。結論から先に言うと、それは何らかの基準に基づいて画定された社会的「小集団」の記号である。

 四年前、原っぱだったねとうなずきあう 僕らに特に思いはなくて  早坂類

 歌に即した状況的解釈においては、この歌の「僕ら」は、新しく建物が建ち自分たちが遊んでいた原っぱを失った子供の小集団を指すが、もう少し解釈のレベルを上げると、それは土着的ルーツを喪失し浮遊する都市生活者という社会階層をも指すだろう。早坂は屹立する孤的〈私〉を詠うよりも、「僕ら」という代名詞を梃子として、「小集団」に漠然と共有された都市的気分のなかに自己を溶解させる手法を好んで使うのである。このとき早坂は好むと好まざるとにかかわらず、小集団の「代弁者」となる。「僕ら」は代弁者の言語的記号なのである。

 『アンドロイドK』所収の山田の歌を見てみよう。

 いまはただ見てるだけ 皆と一緒に生きられなかった僕たちだから

 潔い手つきにいつも手を引いて僕たちは誰も裏切らなかった

 信ずれば救わるる神の御言葉を聴くとき僕ら瞼をふさぎ

 さしのべるために右手を較べ合うたぶん僕たちはさしのべるから

 まだ終わりそうもないから僕らは撃つ壁にかならず追いつめてから

 山田もまた「僕たち」という人称詞によって代弁者たらんとしているのだが、それはどのような社会的小集団の代弁者なのか。上に引用した歌だけからはすぐにはわからない。山田の他の歌では比較的明確な歌の背景も、「僕ら」が登場する歌群では故意にかと疑われるほど輪郭がぼかしてある。次のような歌を見てみよう。

 子供だから嘘は吐(つ)けない破裂した風船ガムが口を塞いで

 対人恐怖症のこの子は追いつめて楽しむテレビゲームが好き

 やさしいね どうせきみより先に死ぬ蝶をお空に放したりして

 始めからなかった 世界拒みたる少女の瞳に映らぬものは

 少女のまま眠れる薄き胸の扉開いてみれば コワレカケテル

 人間のかたちを真似て僕はいた 紅うすき日暮れに生まれ

 口を塞がれて話せない子供、対人恐怖症の子供、世界を拒む少女、壊れかけている少女などが登場人物であり、その傾向は明白だろう。この流れは、巻末に収録され歌集の表題ともなっている「アンドロイドK」と題された連作へと収斂する。

 弱ケレバ誰デモヨカッタ 強くない僕がはじめてささえるために

 はじめてだったからいくたびもいくたびも生き返らないように殺した

 バモイドオキ 僕だけのための神だから僕だけのために僕が名づけた

 ねじ一本自ら抜けば心持たぬアンドロイドのように壊れた

  「バモイドオキ」から明かなように、1997年(平成9年)に起きた酒鬼薔薇聖斗と名乗る犯人による神戸小学生殺人事件が題材となっている。山田が「僕たち」という人称詞によって代弁者になろうとしているのは、自己の不全感と世界との不調和から心の闇を抱え、社会的逸脱を犯した青少年なのである。彼ら、彼女らは、アンドロイドのように描かれている。酒鬼薔薇聖斗はのちに「少年A」と呼ばれたが、表題の「アンドロイドK」のKはおそらく神戸の頭文字のKだろう。

 ここで「僕たち」の位相をもう一度考察してみると、作者である山田自身は「僕たち」が指示する社会的小集団に所属しているわけではない。だからこの「僕たち」は偽装であり、山田はそれが指示する小集団に成り代って詠っているのである。では山田の〈私〉はどこにあるのか。それは「心を病んだ青少年」=「僕たち」という偽装を組み立てた主体として、歌の表面にもその背後にも見えない形で存在するしかない。それは理論的にその存在を要請されるにすぎない〈私〉であり、歌の背後の極めて抽象的な審級に占位するのである。

 寺山修司が短歌に大胆に虚構を導入して私性の拡張を図ったとき、リアリズム陣営からは非難の大合唱が起きたが、虚構された〈私〉は現実の寺山の内部にあった欲求や抑圧を投影したものであり、その意味においては寺山の〈ほんとうの私〉と無縁なものではなかったと言える。少なくとも虚構された〈私〉は現実の〈私〉と同位の階層に属している。しかし山田が試みた偽装の「僕たち」は、一首を屹立させる〈私〉の代替物として短歌の核に成りうるものだろうか。仮構された「僕たち」の内面性は〈私〉の切実さとして引き受けられるものだろうか。そこにはどうしても限界があると考えざるをえない。それはまた読者の立場からするならば、短歌的言語空間に展開された言葉の河を遡り、韻律の波に揺られて喩の橋を渡り、最終的にどのような源に到達したときに、一首の意味の輪が閉じられたと判定するかという受容の問題でもあるのだ。

147:2006年3月 第2週 小高 賢
または、壮年を詠う近代主義者

ポール・ニザンなんていうから笑われる
    娘のペディキュアはしろがねの星

            小高賢『本所両国』
 私の愛唱歌のひとつである。若い人のために解説すると、ポール・ニザン (1905-1940)はフランスの作家で、共産党で活動するが独ソ不可侵条約に反対して離党し、党から裏切り者の中傷を浴び、後に戦死している。『アデン・アラビア』などの著作は1960年代後半に翻訳紹介され、全共闘世代によく読まれた。当時の長髪の若者の憧れの星だったわけだ。小高は1944年(昭和19年)生まれだから、全共闘世代の中核を構成する団塊の世代に属しており、多感な青春を政治の季節に送った一人である。娘はもちろん「ポール・ニザンって、誰?」世代に属するわけだから、父親の時代錯誤を笑っている。「しろがねの星」はかつての政治的理想を連想させるが、それが今では娘のペディキュアの模様と化している。この落差を見つめる視線がおかしみとなっている。世代間の断絶と同時に小高のテーマのひとつである「家族」につながる歌と言えよう。

 歌人としての小高の経歴はいささか特異である。第一歌集『耳の伝説』(1984年)のあとがきに詳しく書かれているが、講談社の編集者として馬場あき子に出会って意気投合し、その縁で岩田正・三枝昂之と知り合う。「歌だけはやりたくない」と言っていた小高が馬場の勧めで「かりん」創刊に参加し、短歌を作り始めたのが1978年頃である。34歳の出発は歌人としては遅いが、このことが小高の短歌の性質を規定した。社会人としての分別を備えた年齢になってから短歌に手を染めたため、ややもすれば自我の肥大と自己陶酔に陥りがちな青春短歌という階梯を飛ばして歌の世界に参入したのである。このため小高の歌は最初から、社会と自己を見つめる大人の冷静な視線に貫かれている。

 労働の傍注のごと夕映えの舗道の桝目かぞえて帰る     『耳の伝説』

 一族がレンズにならぶ墓石のかたわらに立つ母を囲みて

 的大き兄のミットに投げこみし健康印の軟球(ボール)はいずこ

 娶らざるグリム兄弟兄のこと草のいきれに咽びていたる

 夜のそこいに沈みゆくごと風聞けば父の巨きな耳の伝説

 青き葉を卓に並べるさびしきかな子はあきないを知りはじめたり

 小高の短歌の発想の場は、職場と家族と歴史上の人物との想像上の対話だが、それは第一歌集においてすでに明らかである。大きな福耳を持ちながら小さな死を死んだ父はすでに不在の存在として影を落としている。家族写真に写っているのは母のみと詠う二首目に漂う視線は大人のそれである。兄とのキャッボールに戦後の昭和を回想し、グリム兄弟の兄の運命に思いを馳せ、知恵をつける子供に社会人としての父の眼差しを注ぐ。どこにも青春の陶酔と錯誤はない。過度の思い入れを排して対象を見つめる視線が、健全な生活者であり、丸山真男に私淑する戦後の近代主義者である小高の特質である。

 小高の短歌は抽象的な観念に傾斜せず、歌に詠込まれた地名などの具体性がその手触りを保証している。

 壮年の本郷菊坂炭団坂夏に埋めおくことばさがせり  『耳の伝説』

 なまぐさき銀杏を踏む力こめて夕焼け前の行人坂よ

 よりそいて弁慶橋に繋がるる薄日を積みし秋のボートは

 みず溝によどむ真昼間向島の鍍金工場(めっきこうば)のくれないの旗

 東京の下町である本所生まれの小高が詠込むのはやはり親しんだ下町の地名が多い。また『耳の伝説』には東京の坂が多く登場する。森まゆみの『鴎外の坂』は森鴎外が住んだ場所にある坂と鴎外の文学者としての歩みを関係づけて論じた佳作だが、坂が人生の暗喩であることは言を待たない。『耳の伝説』の底を流れているのは「壮年の歩み」の自覚であり、人生を坂と観ずるのもまた青年期には絶えてないことである。

 投企(アンガージュ)わが語彙を去りいくばくやいよよ尖りし月見上ぐれば

 わが言葉待ち迎えいる狡猾な顔あり憎む午後の会議に

 壮年の超ゆべき暗部にたまりつつ麦の匂いす夏の小雨は

 小高が父親や祖父に思いを馳せ、歴史上の人物と想像上の対話を試みるとき、そこには歴史的連続の意識が強く働いている。

 透谷の享年二十五歳風塵の春の生活(たつき)をわれは抱けり   『耳の伝説』

 父の眼の背向(そがい)にせまりくるごとき秋壮年の眼(まなこ)もてみる

 夜半に読む「仰臥漫録」さむしさむし足あり手あり生きつづくるは

 夕暮れがアジアのはてに降りそそぎ妻を娶らぬ賢治思ほゆ

 中里介山死せる戦中十九年生をうけたりわれは本所に  『家長』

 家族論――その父の座に漱石もわれもすわりぬ日日不機嫌に

 鴎外の口ひげにみる不機嫌な明治の家長はわれらにとおき

 祖父があり父があって私がいるという家族における歴史的連続性、漱石がなろうとした一家の長として自分もまた同じ悩みを抱くという共感がここにある。

 せいねんのぬけがらのごとひとがたはぷーるさいどにぬれのこりたり 『家長』

 珍しく青年を詠ったこの歌で小高は平仮名で「せいねん」と書く。村木道彦は甘やかに「せいねん」の歌を詠い、小池光もまた「ひとり聴く潮騒さみし春の湯に泡たてあらふせいねんの髪」と青春の感傷を詠んだ。このようなニュアンスをこめて平仮名で「せいねん」と書くことは今ではもうできない。それは、少年から思春期を経て青年になり、やがて壮年を迎えるという、社会的に共有された年齢区分が崩れてしまったからである。モラトリアムという用語もすでに懐かしくなった現代においては、青年期と壮年期の境界は限りなく曖昧になり、青年期は引き延ばされ、その終端は灰色の領域に沈んでいる。夏目漱石は49歳で没しているが、人口に膾炙した口ひげをたくわえた写真の顔は、とても今の同年齢の人物のそれではない。明確な年齢区分が消失すると同時に、壮年になって甘酸っぱく回顧する青年期もまた消滅した。私たちはただだらだらと歳をとる時代に生きているのである。

 年齢区分の消失というこの現代的現象が、歴史という縦糸の連続性の自覚を蒸発させたことに注意すべきである。祖父がいて父がいて、自分もまた父の年齢を迎え一家の長となり、昔父が座っていた居間の指定席に座る。この連続性が壊れるということは、自らも歴史の流れのなかにいるという内的実感が消失するということである。小高の短歌を読んでいて痛切に感じるのは、〈自分は歴史的存在である〉という小高の自覚であり、それは小高の世代の人間が持つことができるものであった。小高の近代主義的人間観はそこに由来する。同時に痛切に感じるのは、このような連続性の意識は、加藤治郎や穂村弘らのニューウェーブ短歌の旗手らが遂に持つことができないものだということである。彼らに非があるわけではない。生まれ落ちた時代がそうさせるのである。「僕たちはつるつるのゴーフルだ」とつぶやく穂村が「せいねん」と書くことを想像することができない。この意味で小高の第一歌集『耳の伝説』、第二歌集『家長』を現在読み返すと、どこか懐かしさすら覚えて懐古的気分に捉えられるのである。

 小高の最新歌集『液状化』(2004年)を一読しての正直な感想は、残念ながらネガティヴなものであった。歌が平板化している。

 としふればふりむくたびに増ゆる死者夏の木の間の影と連れ立ち

 東京の雨たっぷりと注がれて蟇(ひき)三匹の路地の横断

 ほしいときかならず消えて見つからぬ糊のゆくえを追う夫婦にて

 辞めること前提なれば抵抗のかたちとしてのながき沈黙

 エレベーター今朝は各停香水のつよきおみなのうしろに立てり

 明日からの閉店セール妻と娘は他人の不幸なれではなやぐ

 年老いた母親の介護と死、長年勤務した出版社の退職がこの歌集の背景となる大きな事件である。小高の短歌はもともと生活に眼差しを注ぐもので、難解なところはまったくない。しかし『液状化』に収録された歌は、実人生における事件の大きさに見合う修辞を獲得していない。どうしてこうなったのだろうか。

 山田富士郎は「夢のありか」(『現代短歌雁』27号)という文章のなかで、同世代の歌人と比較しての小高の特徴として、前衛短歌の影響の不在と、韻律や短歌定型への関心の薄さを指摘している。同じ世代の永田和宏や三枝昂之が執拗なまでに短歌定型への考察を展開しているのにくらべて、小高は文学形式としての短歌という形式そのものを論じることがない。それはおそらく小高の拠る近代主義的人間観と生活者としての健全さのなせる業である。小高には短歌定型という魔に魅入られたというところがまったくない。小高にとって短歌は「意味を盛る器」であり、意味の含有量をゼロに近くしても鳴り響く器ではない。だから定型の可能性を探る実験や修辞の試みによって定型を革新しようという姿勢はもともと薄い。

 『耳の伝説』や『家長』で小高が代表歌となる良質の歌を作ることができたのは、歌を作る場である職場・家族・社会と作者とが緊張関係をはらみ、それが作歌の圧力となってプラスに働いたためである。職場・家族・社会から逆照射されて浮上する〈私〉は、明確な像を結び修辞の基点として歌の核となる。ところが、歌を作る場である職場・家族・社会からの圧力が下がった時、場から逆照射される〈私〉の像も同時にぼやけてしまう。〈私〉と場の力学はおおよそそのような位相にあると考えられる。

 ぼやけた〈私〉を再び明確に結像するには、修辞の力による他はない。加藤治郎の近作が『短歌レトリック入門』(風媒社)であるのは象徴的以上の意味がある。現代においては修辞の力によってしか〈私〉を浮上させることはできないと加藤は考えているのである。小高の近作が平板になっているのには、このような事情が働いているのではないだろうか。それはまた「近代」の賞味期限が切れたということでもあるのだ。

146:2006年3月 第1週 鹿野 氷
または、〈虚〉と〈実〉の逆転は喩を経由して

天地のちとおもしろきいそうろうと
      この身思えば手足鮮し

          鹿野氷『クロス』
 作者についての個人的情報をまったく持たずに歌集を読むとき、歌の背後から当人の肖像が少しずつ立ち上がって来る。それは大理石の塊から徐々に人のかたちが表われて来るようでもある。歌集を読むことにはそんな楽しみもある。掲出歌の作者である鹿野氷については、その筆名の喚起する詩的イメージ以外には、結社「月光」「原型」に所属し、『B-BOY 平成歌物語』、『SIZUKU』、『LOVE&PEACE』、『小歌劇』などの著書がある歌人という以外には、その経歴を知らない。歌を読んで私が思い描いたのは、少女期から病弱で、そのためもあり本を読んで空想に耽ることを楽しみとしていた女性というイメージである。掲出歌の「天地のちとおもしろきいそうろう」という自己規定も、このようなイメージに沿うものに思えて来る。「いそうろう」とはここでは無用の者という意味だろう。

 鹿野の歌集『クロス』を通読して考えさせられたのは、短歌における〈想像力の含有率〉ということである。本多稜『蒼の重力』のように、ある時は海外の高峰に登山し、ある時は南洋の海原にスキューバダイビングするという活動的な人生を送る人は、眼の前に次々と新しい風景が展開して飽くことがないだろう。本多の作る歌もその活動性を如実に反映して、力動的かつバラエティーに富む内容となっている。しかしそれほど活動的でない人は、生活の些事を導火線として想像力の糸を紡ぐことで自分の世界を構築してゆく。鹿野は後者のタイプであり、その特徴は語法に表われている。

 一滴の精油に思う東欧の朝露に咲くわがための花

 漂着の瓶のラベルに記されていずや転生その果ての名も

 溺死せし若き神父が呑まれたるワインの色か海の夕映え

 忘れられしアリアもあらな去勢歌手もその名を書きしアルノの水に

 湾めぐる夜行列車にもたれあう人いて愛とも別離前とも

 一首目は上に述べたことを象徴するような歌である。「一滴の精油」は香水だろう。化粧するときに体に付けた香水の一滴がこの歌の題材のすべてであり、作者はそれを核として歌の中心に置き、遠く東ヨーロッパのどこかの国に咲き香水の原料となった花を思っている。結語の「わがための花」の力強い断定が作者の顔をくきやかに浮かび上がらせる。二首目は、現実に海で漂着した瓶を拾ったというわけではなく、すべては想像の産物だと考えたほうがよい。「漂着した瓶」に封入された手紙というのは、いたく想像力を刺激するイメージであり、子供の頃に心を躍らせて読んだ海賊物語によく登場するアイテムである。ここでは封入された手紙ではなく、瓶に貼られたラベルが焦点化され、転生物語へと架橋されている。三首目の現実の要素は「海の夕映え」であり、そこからいつの時代にか溺死した神父という物語が紡ぎ出される。後に触れるが、第四句までは結句を導くための喩であり、序詞と見なしてもかまわない。作者の想像力は羈旅歌において一際翼を得るが、未知の風物を眼にしての感性の拡大ゆえであることは言うまでもない。四首目はルネサンスの古都フィレンツェを流れるアルノ河の水を見て、カストラートと忘れられたアリアに思いを馳せており、「ア」音の連続が心地よいリズムを生み出していることも見落としてはなるまい。五首目はナポリ湾あたりを思い描いてもよいが、夜行列車の二人連れを見てその二人の愛が極点を迎えているのかそれとも消える寸前なのかと考えているのである。いずれもイメージの鮮やかな歌である。

 鹿野はこのように些細な景物を導火線として想像を紡ぎ出すことを好んでいるのだが、それはおそらく生来の心の傾きのなせる業だろう。その感性は鋭く、ときに危うさを感じさせるほどであり、自らも平穏な日常の中に危うさを嗅ぎ取るのである。

 夕立のあかるさの中少女とうあやうきものが柵を越え来る

 大理石(マーブル)に生まれんとする人型のあらたなる悲の予感のごとし

 瑠璃うすき器むざむざ多角なる砕けやすかるかたちに生まれ

 香水瓶に彫られし繊き人魚らもなべてかすかに鬱含むらし

 枝型のフロントグラスの罅にさえ冬は微細に切り込めるらし

 一首目は柵を越えて来る少女に危ういものを見ており、それは夕立と柵を越えるという行為によって表象されている。二首目は大理石の彫刻が題材で、生まれ出て来る人体にすでに悲の予感を感じるところに一種の諦観がある。三首目も多角形のガラス器を見て砕け散る場面を想像しているのである。四首目の香水瓶に彫られた人魚、五首目のフロントグラスの罅もまた、震えるような繊細な感覚を物語っている。

 鹿野における想像力の優位は、短歌語法としての喩の優位として実現されているという点に注意しておこう。歌集を通読して見られる喩の多用は、80年代後半に始まった加藤治郎の言う「修辞ルネサンス」を通過した故というよりは、むしろ鹿野の本来的感性に由来すると考えたほうがよいように思う。次に引いた歌は喩の優位が特に強く見られる例である。

 風の為す千の孤児なるひとつとてわが胸に来し桜花びら

 いくたびか仮に埋めしみずからを掘り出すごとくくるしみは来る

 忘却とう恵みの彼方にあるものを誘うがごとく金木犀香る

 夏よりの憎悪のやり場得しごとくやおらわが病む奥歯のひとつ

 砂あげて夏は水着の女優などまろばせし記憶持つごときベッド

 一首目では、「風の為す千の孤児なるひとつとて」までが散る桜の花びらの喩であるが、実体と喩の関係を〈実〉と〈虚〉の関係と把握するならば、ここでは明らかに〈虚〉の占める割合のほうが大きい。二首目でもやって来た苦しみの実体は明らかにされず、「いくたびか仮に埋めしみずからを掘り出すごとく」という喩の喚起する意味とイメージによってその欠落が喩的に補填される構造になっている。三首目では「金木犀香る」のみが〈実〉であり余は〈虚〉であるが、歌の重点は明らかに〈虚〉に置かれている。五首目はさらに極端で、結語の「ベッド」以外はすべて〈虚〉であり、一首のほとんどが喩から成り立っているという具合なのである。

 歌のなかに〈実〉と〈虚〉を配分し、ダブルイメージを作り出して一首の奥行きを倍加させる技法として喩は大きな役割を果たす。しかし鹿野の短歌においては、喩の投影する〈虚〉こそが作者にとっての〈実〉ではないかと思えるほどに、そのイメージは鮮明なのである。

145:2006年2月 第5週 小泉史昭
または、虚実皮膜のあわひに世界を照射する歌

ヤマト糊のたましひ失せて初恋の
      秘蔵写真が剥がれ落ちたり

         小泉史昭『ミラクル・ボイス』
 初恋の秘蔵写真というから昔の写真だろう。昔は厚紙の重いアルバムに糊づけして写真を貼り付けていた。使ったのがヤマト糊というこれまた懐かしいチューブ入りの伝統的な糊である。糊の効力がなくなったことを「たましひ失せて」と表現したところがこの歌の眼目である。デジタルカメラで撮影してパソコンのスライドショーで写真を見る現代と比較すると、情景自体がセピア色を帯びて見える。時代の流れに乗らず、むしろそれに抗う姿勢がこの作者の持ち味である。

 小泉史昭は1993年(平成5年)に「ミラクル・ボイス」で短歌研究新人賞を受賞している。その年の同時受賞は「陸封魚 – Island fish」の寺井淳であった。小泉と寺井という短歌巧者が並んで受賞し、ふたりとも口語ライトヴァースからは距離のある文語定型歌人であることもおもしろい。『ミラクル・ボイス』は1996年刊行の第一歌集で、塚本邦雄が跋文を寄せている。作者あとがきには、「事実」と「虚構」の二面性に惹かれるものがあり、自分にとっての短歌とは真実らしい嘘を語ることだと述べられているが、この表白から逆照射して考えれば、掲出歌の光景も実際に作者の身に起きたことというよりは、何かを核として創作された出来事だろうと想像される。核はたぶん「ヤマト糊」だろう。

 虚実皮膜という作者の信条から推察されるように、この歌集には写実に基づくリアリズムの歌というものがなく、どの歌にも何かの仕掛けが施してある。言葉は心情の忠実な記号であるよりは、虚実皮膜の世界を構築するレンガ材料として用いられている。たとえば次の歌を見てみよう。

 [1] 塀の中のマナーといふにあらざれど安倍譲二氏のフォークさばきは

 [2] 脂つこい茂吉の歌の匂ひする土用丑の日うなぎ屋の前

 [3] ミレー展みて人並みに涙せりつねあらそひの種まく人も

 [4] 沢庵にのこる歯形の三日月が冴えてこころの中天暗し

 [5] ブルース・リー「死亡遊戯」に斃れたる後の替へ玉の名を知らざりき

 [6] 愛に飢ゑゐし記憶の視野にふりしきる雪よ林檎の歯形錆色

 [7] 身の置きどころなき三階の鉄の扉を叩けりきまぐれに秋風(しうふう)が

 [1] の安倍譲二は1987年に刑務所生活を活写した『塀の中の懲りない面々』で作家の仲間入りをした人であり、上句はこの経歴を踏まえている。フォークさばきが上手だとすれば、それは服役経験の故ではなく、裕福な家庭に生まれ日本航空のパーサーをしていたためだろう。[2] は斎藤茂吉が無類の鰻好きだったことを踏まえている。鰻の脂っこさと茂吉の短歌に時に見られる執拗さを対比したもの。[3] はもちろんミレーの名作「種まく人」を踏まえており、常日頃争いの種をまく人もミレーの名作には涙するという皮肉が込められている。[4] は何かを踏まえているわけではないが、沢庵に残る三日月形の噛み跡を蝶番のように上句と下句のあいだに配置し、「こころの中天」へと繋げる技巧が心憎い。[5] は香港のアクションスターのブルース・リーが映画「死亡遊戯」の撮影中に死亡し、映画の残りは替え玉を起用して撮影したという逸話に基づいている。もちろん替え玉俳優はクレジットにも名前が出ず、その後忘れ去られたのだが、その様があわれだと言っているのである。[6] は誰でも知っている北原白秋の歌が下敷きになっているが、「雪よ林檎の香のごとく降れ」と清新な抒情を詠う本歌と異なり、林檎には変色した歯形がついているという下げ落ちである。[7] の「三階」は「三界」のもじりで、仏教用語では「欲界」「色界」「無色界」をさす。それをマンションの三階という日常卑近な場にスライドさせたところがこの歌の眼目である。

 作者の歌の作り方は、言葉を組み立てて虚実皮膜の世界を作り上げ、そこに現実世界を捻る皮肉と微量の毒を混入するというものであり、塚本風の言い回しを用いれば「一首の苦みは絶後」ということになる。尾崎豊のように校舎のガラス窓を割って回るがごとく世界に徒手空拳でぶつかって自らも血を流すような青春の青さからはほど遠く、虚実皮膜の世界というフィルターを中間に仕掛けそれを通して世界を眺めているため、その距離の取り方が大人の余裕となって現われている。しかし一方では、そのように虚実皮膜の世界というフィルターを介在させているために、「世界と直接向き合っていない」という批判を受けることもあるだろう。だが物事は世界がそうであるようにそれほど単純ではない。

 [8] 韋駄天のやうに時代を駆け抜けしエリマキトカゲのその後をしらず

 [9] 大観展真つ正面の三題の「霊峰富士」にふる酸性雨

 [10] 光琳派もどきの梅に鶯がこころゆくまで微温的なり

 [11] ポインターそこに座したりしかすがに胸糞わるきその忠義面

 [12] 手に職をできることなら金輪際涸れることなき水芸を手に

 [13] 空車てふむなしきくるまを呼び止めつ次のわれらの防御線まで

 [14] 春霞たなびく遠(をち)の山並とむらさき競ふ掌のシガレット 

 [15] ビニ本の封印かたし 春灯のおよばざるわれのこころの闇

 [16] むらぎもの値「時価」とかきさらぎの割烹に吊るし切りの鮟鱇

 [17] 生ビールもわれの心も「冷えてます」朱夏革命の兆しなければ

 [18] ルーズソックス 国の綱紀と軌を一にして真少女のあしもと紊(みだ)る

 主に痛烈な皮肉と社会批判を込めた歌を引いてみた。[8] のエリマキトカゲは1984年に自動車メーカーのCMで人気を呼び、その後急速に忘れ去られた珍獣である。持ち上げては捨て去るマッチポンプのような消費社会への皮肉が込められている。横山大観の描く富士山にも降る酸性雨、花鳥風月に安住する微温性、犬の忠義面も作者の皮肉の餌食となる。[12]はリクルートスーツに身を固めて就職活動に奔走する若者を詠んだもの。[14]には「国際喫煙デー」という詞書が添えられている。もちろんそんな記念日は存在しない。実際にあるのは「国際禁煙デー」(5月31日)である。[15]は「こころの闇」という最近よくマスコミで用いられる大仰な表現を、隠れてビニ本を購入する自分の姿に当てはめることで脱神話化しようとしている。鮟鱇の吊し切りを詠んだ歌は多いが、[16]では鮟鱇の肝と「むらぎもの」を枕詞とする「心」の値とを同時に詠み込んだ点がおもしろい。このような歌にあっても小泉の言葉を操る手つきは練達で破綻がなく、必死で作ったという感じがまったくしない。掛詞・序詞など和歌の技法も駆使して言葉を扱う手つきに大人の余裕が感じられる。

 かといって小泉は虚実皮膜の盾に隠れて矢を放つばかりではない。私が好きな次のような歌には、技巧に溺れることなく現実の些事を弾機として立ち上がる上質の抒情がある。

 [19] 超音波めがね洗浄器のなかの水にもそつと春が来てゐる

 [20] 韓国産松茸飯にほんのりと電気炊飯器ジャーが秋の香

 [21] 物差しではかるたましひ一寸にいくらか足りぬ皿の白魚

 [22] 茶碗蒸しに銀杏ひとつづつ載りて無為に過ぎゆくそれぞれの秋

 [23] 酢につかる生牡蠣の身のモノトーンなど薔薇色の夢見ざりけむ 

 [19] は超音波めがね洗浄器のようなマイナーなアイテムに春の抒情を感じさせた点が秀逸。[20] は韓国産松茸という所に高価な国内産を買えない庶民の哀感があり、その香りがほのかに電気釜に移るというところが泣かせる。小泉が使う「たましひ」という語は、[21]のようにしばしば物質化されている。ここでは春を告げる白魚である。[23]は白と黒の牡蠣の身の色をモノトーンと表現し、外見に似合わず極彩色の夢を見ているかもしれないという想像が楽しい。

 いかに飄逸に振る舞い寸鉄をきかせた言葉を吐こうとも、小泉の歌人としての本質は次のような歌に表われているように思われるのだがどうだろうか。

 鎮魂歌(レクイエム)すなはちおのが魂をしづめむとして夜の水中花

 薄氷に足を滑らせたる不覚しかうしてわれ世紀をまたぐ

藤原龍一郎の駆使するギミックほどではないが、小泉のような歌のスタンスは〈私〉のリアルを重視する短歌界ではあまり評価されないかもしれない。しかしその苦みの混じる味わいと大人の風合いは抜群である。近く第二歌集をまとめると聞く。今度はどんな虚実の世界を展開してくれるのか今から楽しみだ。

144:2006年2月 第4週 山田富士郎
または、神の不在と世紀の悪意に耐える日常

さんさんと夜の海に降る雪見れば
   雪はわたつみの暗さを知らず

     山田富士郎『アビー・ロードを夢みて』
 美しい歌だ。この歌については加藤治郎の委曲を尽した読みが評論集『TKO』にあり(『山田富士郎歌集』〔砂子屋書房〕に採録)、私が付け加えることはさしてない。「さんさんと」と美しく煌びやかさを感じさせる初句から始まり、夜の海に降る雪が提示されるが、下句は転調して暗いイメージに変わる。海は「わたつみ」と古語に言い換えられると同時に、その相貌を一変させて歴史性を帯びる。「わたつみの暗さ」とは歴史性のほの暗さの謂である。雪は海水に触れるとそのはかない生命を終える。だから雪はわたつみの暗さと決して混じり合うことがなく、無垢性の表象として霏霏と降る。海上に降る純白の雪と、その下に横たわる海の暗さの対比がこの歌の眼目であるが、それと同時に「雪はわたつみの暗さを知らず」と感じている隠れた〈私〉がその背後にある。〈私〉は雪の表象する無垢性に参与していないからこそ、雪に注ぐこのような眼差しが成立するのである。二句と四句が八音の破調だが、ほとんどそれを感じさせない強い言葉の流れがある。

 山田富士郎は1950年(昭和25年)生まれで、詩と俳句を経て短歌に辿り着いた歌人である。1988年に角川短歌賞を受賞。第一歌集『アビー・ロードを夢みて』(1990年)で現代歌人協会賞を、第二歌集『羚羊譚』(2000年)で短歌四季大賞と寺山修司短歌賞を受賞している。この二冊の歌集の異色なところは、いずれにも長い後記が付されており、山田の短歌観を述べる評論となっているという点である。短歌自体にはあからさまな批評はなくむしろ抑制された筆致であるだけに、雄弁な後記との対比が目を引く。山田には『短歌と自由』という評論集があり、歌作だけでなく短歌をめぐる批評的考察にも優れた資質を発揮している。私は『短歌と自由』を先に読み、後から歌集を読むという逆の行程を辿った。そのためか『アビー・ロードを夢みて』は80年代の都会的抒情歌集の相貌を備えているにもかかわらず、読んでいて山田の方法意識につい目が行ってしまうのである。

 先にも述べたように、山田は詩と俳句を経て短歌を形式として選択したという経歴を持つ。『アビー・ロードを夢みて』の後記に、「現代詩と俳句の匂いを消し去る」ことを自分の作歌の戒律としていると書いているが、詩的圧縮の技法を現代詩と俳句で鍛錬したことは明らかである。

 南風に海ひろがれば石垣のすきまより出で蛇は輝く

 むごき夏を永久にと吊しおきたりし麦藁帽子朽ちて落つとふ

 電話回線しきりに花を降らすゆゑねむれぬ真昼 鰐にならうか

『アビー・ロードを夢みて』冒頭から数首を引いた。一首目は南風の吹く穏やかな海の情景に始まる歌だが、結句に至って登場する蛇は単なる景物のひとつではなく、詩的言語の圧がかかっている。二首目の夏と麦藁帽子の表象する青春性は寺山を連想させるが、「むごき夏を永久に」にもずいぶんと言葉を引き算した詩的圧縮がかけられていて、生み出された虚が反転して呼び出す連想空間の広がりが大きい。三首目では電話回線が花を降らせるという連辞結合関係に、詩的飛躍を強引に言葉に定着させる技法を見ることができる。短歌は三十一音の短詩型だから言葉を節約するのは当然だが、上に引いたような例には単なる言葉の節約ではなく、意図的に意味の真空地帯を作り出すことで一首の飛翔性を高める意図が見られる。

 山田の短歌を語るとき、その社会批評性が前景化されることが多い。ちなみに藤原龍一郎と島田修三は山田とほぼ同年齢であり、ふたりとも時に露悪的な社会性を短歌に盛り込むことで知られている。山田がこの二人と同世代であることは単なる暗合ではありえず、ここから短歌における世代論へと展開することもできるが、それは本意ではない。

 日本のパンまづければアフリカの餓死者の魂はさんで食べる

 死にも選択の幅ひろがりし世紀とぞドラッグの死ラーゲリの死

 日本は何にでもなる日本は子供のこねる粘土のやうに

  「国旗」に寄す
 立つてゐろ二年か三年すはだかで御子様ランチのライスの上に

 厠(し)が前に置かるる西瓜のやうであり哀しむべきか社会党を

 技術批評はつひにエコールをこえざらむグランドピアノの下の猟犬

山田は基本的に精神のリベラリストであり、教条主義的硬直性と思想的無節操を批判するとき舌鋒は鋭く、時に短歌の枠をはみ出してしまう。最後の歌は技術批評に終始する歌会への批判で、グランドピアノは結社の重鎮で猟犬は忠実な手下なのだという読みは、岡井隆が寄せた『アビー・ロードを夢みて』の跋文でようやく理解したがこれも辛辣である。

 しかしながら特に『アビー・ロードを夢みて』を読んで感じるのは、山田の作り上げる短歌世界の多面性であり、「山田の世界の本質はこれだ」と言い切ることの困難さの多くはこの多面性に由来する。ここでは今まであまり試みられてこなかった切口から入り込んでみたい。それは歌集題名の謎である。

 「アビー・ロード」は言うまでもなくビートルズが1969年に出したアルバムのタイトルで、横断歩道をメンバーの四人が一列になって歩くカバー写真は、その後何度も換骨奪胎され引用された。このタイトルはEMIスタジオがあったロンドン北部の St. John’s Wood の通りの名前に由来する。カバー写真が撮影されたのもスタジオの目の前の横断歩道で、ここは今でも日本人観光客が多く訪れる名所になっている。加藤治郎は「このタイトルは不可解である」とし、「一巻のキーワードではない。ビートルズ云々は、周辺の一挿話に過ぎないのだ」と結論している。確かにこの歌集には上に引用した「まだ死なないなんて」を初めとして、「鮭のぼり始めし河をけふも越ゆもうビートルズを聴くこともない」など、ビートルズを詠んだ歌が数首あるが、全体として大きなウェイトを占めているわけではない。しかし、「アビー・ロードを夢みて」は歌集題名であるだけでなく、一章の題名としても、章のなかの歌群の題名としても使われており、入れ子構造になって三回登場する。単なる挿話にしては露出が多いのである。

 アビー・ロードがどこにあるかはビートルズファンなら誰でも知っている。問題はアビー・ロードがどこへ続くかである。ヨーロッパの都市の道路に地名が付けられているとき、それはたいてい到着先を示している。たとえばロンドンに Oxford Street という道路がある。どうしてロンドンにオックスフォードの名を冠した道路があるかというと、その道をずっと行くとオックスフォードに通じているからである。パリに Avenue d’Italie や Porte d’Italie があるのも、そこがイタリアへの出口となる通りだからである。だからアビー・ロード Abbey Road は「僧院へと続く道」を意味するのだ。

 『アビー・ロードを夢みて』と『羚羊譚』からキリスト教に関係する歌を拾い出してみよう。

 基督教徒山田富士郎しまらくはキリストの肉食はず

 海の紺またおごそかに深まりぬ信仰宣言(クレド)の階を昇りゆくひと

 マラリアの発熱よりもすみやかに信仰は去りイエス親しも

 プリンみたいにふるへる家はあるのだが心が貧しい神父みたいだ

 山田タノわが祖母にして伯父一夫戦中に死せる基督教徒

 夏空のふかき青より降りきたる血のにじむ羽聖書にはさむ

 耶蘇教の墓は松林のうちにあれどわが骨灰は海にまかなむ

 ビルの間に密雲しばし垂れさがる水曜が来る灰の水曜日

 これを見ると山田の一族はキリスト教の家系だったことがわかる。山田自身も一時は自らをキリスト者と規定していたことがあり、その後信仰から遠ざかったようだ。一首目の「キリストの肉」はミサ聖祭で信者が拝受する聖餅(ホスティア)で、告解をして罪の赦しをまだ受けていない信者や、信仰にゆらぎのある信者は拝受を遠慮する。また最後の歌に登場する「灰の水曜日」 Ash Wednesday は、四旬節の始まりとなる水曜日で、もともとは罪の赦しを乞うため樹木を燃やした灰を信者の頭にかけたことに由来する。だからこれらの歌から浮上する意味の層とは、「信仰からの離反」と「罪」を軸とするものになる。このことを踏まえて今一度歌集題名『アビー・ロードを夢みて』を振り返ってみると、そこにはビートルズに代表される60年代の無垢の青春性への憧憬が直示的意味として表象されていると同時に、その裏面には「僧院へと続く道」を歩まんとして果たせなかった慚愧が隠されているのではないか。また山田の姿勢に見られる倫理性はここに由来するのではないだろうか。山田の歌にときどき謎のように登場する蛇にもまたキリスト教の影が濃く、悪魔の化身と知の開祖という両義的役割を付与されているように思える。

 この倫理性から流れ出て来る歌集の主調は、神の不在とそれに取って代わろうとした近代の神話の無効性であり、世紀の悪意に耐える日常である。

 自らの足をあらひて悲しかり呼ぶべき神をわれは持たぬを

 火を放て燃やし尽くせといふごとき純白の蛾時計にとまる

 レーニンの落としたバトンかつさらひスターリンは殴る同志(タワリシチ)の頭

 鉄を噛むごときくやしさ口中に満ちたればああ生きのびるのみ

 横ざまに地に倒しあるくろがねの階(きざはし)に雨今日も昨日も

 メルカトル図法のグリーンランドこそ魂蒼きわが墓場なれ

『アビー・ロードを夢みて』の冒頭は「TOKIO」と題された連作であり、不眠都市東京を舞台にこのような心情が展開されるとき、世紀末の都市的抒情歌集としての相貌を呈するのだが、その根底には山田の骨太の思想的骨格が横たわっていることを見過ごしてはなるまい。

143:2006年2月 第3週 松村由利子
または、残酷と母性の鳥女は私

くりかえし繰り返す朝わたくしの
    死後も誰かが電車に駆け込む

          松村由利子『鳥女』
 たまに東京に行き電車に乗ると、強い違和感を抱くことがある。混み合った電車で人々は視線を合わすことを避け、徹底的に他人に無関心である。混んだ車内で隣の人と肘を付き合わせる距離に立ちながら、徹底的な〈孤〉の群として地下の闇のチューブを運ばれてゆく様は、都市東京の日常でありながら異常な光景である。私はどうしてもこれに馴れることができない。掲出歌も通勤電車のひとコマを詠んだ歌であり、勤め人ならば誰でも一度は抱いたことのある感想だろう。〈私〉はメガロポリス東京の1200万住民の一人であり、いつでも代替のきく社会の歯車にすぎず、〈私〉の死後も何事もなかったかのように日常が続いてゆく。これは震えが来るほどの真実である。「くりかえし繰り返す朝」というリフレインが、アイコン的に日常の無限反復を表象している。

 松村由利子は1994年に短歌研究新人賞を受賞し、1998年に第一歌集『薄荷色の朝』を上梓して注目された。『鳥女』は2005年刊行の第二歌集である。松村は毎日新聞社の記者を経て現在は同社の管理職に就いているキャリアウーマンである。インターネットで検索すると、短歌よりも新聞の署名記事関連のヒットが多いくらいだから、その道では名を知られたジャーナリストなのだろう。『鳥女』には「働く女性」としての夢と希望と蹉跌の全部が盛り込まれている。そういう意味で極めて個人的な歌集と言える。

 誰もみな背骨を立てていることのかなしくもあるミルクスタンド

 気がつけばミントキャンディがりがりと噛み砕きおり会議の後に

 何千足の履き潰されしパンプスの山越え女は役職に就く

 予定稿のろのろと書く画面には国内初の臨界事故死

 反戦の行為ならねど料理記事書く同僚のやや羨しかり

 これらの歌は広義には職業詠ということになるだろう。佐佐木幸綱がどこかの対談で、昔は短歌の担い手として工場労働者や農業労働者の層が存在したが、今では状況が変わってしまい、そういう場からの出詠が少なくなったという趣旨の発言をしていた。例えば昭和22年の『人民短歌』には次のような歌がある。

 乾燥炉のかな錆匂ふ炉蓋とり今日の作業をはじめんとする  林麟道

 木枯しのふき荒ぶ夜の汽車の旅安けくあれと車軸取換ふ  滝田晃聖

 粉末炭吹込風車のかそかなる唸りを聞きつつ汗を拭きたり  中津賢吉

 産業構造と社会の変化に伴いこのような汗の匂うような歌は少なくなった。高度成長と第三次産業へのシフトの結果、労働者のホワイトカラー化が進行したためである。しかし見かけは変わっても仕事の現場で人が感じることにはそれほどちがいはないのかもしれない。村松の仕事場は、事件の一報を合図に殺気立ち怒号が飛び交うような場所であり、またサラリーマンに付き物の人事異動や出世競争がある会社のひとつでもある。サラリーマン短歌と言えば長尾幹也が有名だが、村松や長尾の短歌はある意味で上に引用したような労働歌の直系の子孫だとも言えるのである。

 作者には子供がいるが家庭はない。自分のそのような状況と子供を詠んだ歌もたくさん収録されている。

 月一度新幹線に飛び乗りて子に会いにゆくレプリカの母

 母はこんないびつな鳥を作りたり粘土も人も手に負えぬまま

 カルピスのギフトセットが届く夏そんな家族もつくりたかったが

 ガラス越しに手を振り合える母と子のいよいよ遠き水泳教室

 自分を「レプリカの母」と感じてしまう気後れ、粘土細工で鳥を作るのがうまく行かないように人との関係を築くことができなかったという後悔、子供の成長とともに母子の距離がだんだん遠くなるという淋しさなどが詠われている。上に引いた職場詠にも言えることだが、作者の眼目は自分の置かれた状況を短歌という器で表現することにあるので、それほど修辞的技巧は凝らされてはいない。

 憧れの部分は主として恐竜の闊歩していた古生代に向かっている。

 ミルク色の霧たちこめる朝まだき羊歯も私も白亜紀を恋う

 今よりも世界美しかりし頃クジラの祖先陸を歩みき

 私たちどうして海を出たのだろう失くした鰭をプールで恋うも

 不思議なことだが、女性には水との親和性と並んで古生代へと想像力で直結する傾向があるようだ。男性歌人にはあまりそのようなことがない。

 女性の視点から男性を眺める次のような歌もある。

 キッチンに光あふるるこの朝もどこかで女が殴られている

 鶴となり狐となりて女らはついに子を捨てて旅立ちにけり

 男らは言葉少なに飲み食いし新幹線は獣舎のごとし

 したり顔にイラクを語るこの人も雌雄異体の種の一つなる

 作者はいわゆるフェミニスム論者ではないが、男性をこのように批判的視点から見る歌は個人的体験と並んでジャーナリストとしての経験から出たものでもあるのだろう。

 作者がリアリズムから離れて飛翔するのは歌集題名にもなった「鳥女」の連作においてである。

 わたしくの顔を見つけて立ち止まる幻視の画家の「鳥女」像

 鳥女きろりとまなこ光らせてまだまだ飛べぬふりせよと言う

 わが胸に長く羽ばたかざる鳥の黒き羽毛の抜けやまぬ夜

 くらぐらと口を開けたる沼の辺に鳥女赤き目をして立てり

 「幻視の画家」とは小山田二郎のことで、歌集のあとがきに小山田の「鳥女」を見たとき、これは私だと思ったとある。小山田の絵について論じられる「臆病さと残酷性」「寛容さと嫉妬深さ」を自らのことと感じたという。

 小山田二郎 (1914-1991)はシュルレアリズムに傾倒し幻想的な絵を残した画家で、晩年は世間との関わりを断った孤独のなかで過ごしていたため世に知られることが少ない。私はずっと前に小山田の「ピエタ」という絵をポスターで見て衝撃を受け、それ以来気にしていた画家なのだ。2005年に東京ステーションギャラリーで開かれた待望の回顧展は見に行くことができなかったが、その折りのカタログは手許にある。村松は小山田の「群舞」という絵を歌集表紙に使っているくらいだから、相当小山田に傾倒しているのだろう。

 小山田はフリーダ・カーロと同じように「痛い」画家である。心に鋭い痛みを感じることなくその絵を見ることができない。孤独と煩悶とが強烈な色彩を伴う幻視として形象化されてキャンバスに噴出している。鳥女像に自己を仮託して詠われた上の引用歌は、それまでのリアリズム基調の職業詠とはまったく異なる地平から撃ち出された歌に見える。その地平とは誰も立ち入ることのできないほの暗い内面である。職場での仕事や同僚や上司・部下らとの相関において把握された〈私〉を〈関係的私〉と呼ぶならば、鳥女像に村松が見た〈私〉は〈絶対的私〉である。〈関係的私〉は職場の異動や身分の変化によって動くが、〈絶対的私〉はそのような外的状況によって動かないものである。村松はこの〈絶対的私〉の発見によって歌の新たな根拠を見いだしたのではないか。「動くもの」ではなく「動かないもの」を詠むことで、村松の歌に新たな展開がもたらされるのではないか。そのように思えるのである。

142:2006年2月 第2週 桑原正紀
または、光と闇の陰影深く生を詠う歌

いま我は生(よ)のどのあたり とある日の
     日暮里に見し脚のなき虹

         桑原正紀『月下の譜』
 まぎれもない中年の男の歌である。中年男でなければ「いま我は生のどのあたり」などとつぶやいたりしない。青年はみずからの若さを信じて疑わない。初老の年齢にさしかかった人は、あとは人生の坂を下るだけと知っている。その中間に挟まれた中年は中途半端な期間であり、ふと行き惑うということが起きる。あとがきによれば、この歌集は作者の43歳から47歳までの歌を収録しており、実年齢の実感に基づいた歌であることがわかる。

 上二句が作者の想いで残り三句が叙景になっている。一字空けは二句切れを明示するための工夫だろう。この場合、下三句が上二句の「短歌的喩」(像的喩)として働き、意味を支える内的構造を持つ。では喩の中心となる「脚のなき虹」が暗示するものは何だろうか。作者には虹を詠んだ歌が他にもある。

 ははそはの母をはふりし野辺のはてあぢさゐ色の冬の虹たつ 『火の陰翳』

 梅雨のまの空にかかれる淡き虹、周平の佳き短篇のごと   『月下の譜』

 時雨すぎしなぎの木の上ひとはけの残虹ありぬ人を愛さむ

 一首目は作者30歳のときに享年69歳で亡くなった母親の弔いを詠んだ歌である。冬の虹は淡く、それは身罷ったばかりの母親の生を象徴するように見える。二首目は虹が作者の傾倒する藤沢周平の短篇になぞらえられている。三首目では虹が「人を愛さむ」というつぶやきを導き出す契機として表現されている。これを見ると虹は生の表象として比定されていることがわかる。

 掲出歌の虹には脚がなく途中で途切れている。その不安定な状態は、中年という半端な人生の時期とよく呼応しており、また序詞的に虹にかかる「とある日の日暮里に見し」という修飾句のなかの日暮里という地名の呼び出す意味作用もまた中年にふさわしい。これが六本木とか銀座のような華やかな流行の中心地では話がちがってくる。ちなみに掲出歌は、季刊現代短歌『雁』56号「わたしの代表歌2」で桑原自身が代表歌としてあげており、『現代短歌事典』(三省堂)の桑原の項目を執筆した影山一男もこれを代表歌としているが、そのことはあとで気づいたことである。

 桑原は1948年(昭和23年)生まれの団塊の世代である。國學院大學在学中に影山一男の知遇を得て、その縁で奥村晃作・高野公彦と知り合い、コスモス短歌会に入会している。第一歌集『火の陰翳』はコスモス新鋭歌人シリーズの一巻として1986年に出版されている。歌集に『白露光』(1992年)、『月下の譜』(1996年)、『時のほとり』( 2002年)があり、季刊現代短歌『雁』55号が桑原の小特集を組んでいる。『雁』の特集に文章を寄せた木畑紀子は桑原の短歌に見られる「光と闇」を、吉川宏志は「鋭い観察眼」を、中川佐和子は「都市生活者」としての側面をそれぞれ取り上げている。また全員に共通する認識として、桑原の短歌における師宮柊二の強い影響を指摘している。

 第一歌集『火の陰翳』は題名の示すように、光と闇の交錯する世界を描いて強い印象を残す。

 幾つもの掌(て)のごとき葉に見え隠れ無花果は赫き肉ひらきおり

 闇の中より砂利を踏みつつ現はれて線路工夫らまた闇に消ゆ

 暗き路地抜け出でしとき目を襲ひ驟雨のごとし花舗の裸灯は

 蝋燭の炎(ほ)ととのひの時折を乱れてふかき闇を揺らしぬ

 たっぷりと血や臓物や悪心をしまひてくらし人間の胴

 光と闇の交錯はカラヴァッジオのようなバロック絵画を連想させるが、バロックは本来「動とよじれ」を身上としており、桑原の「静と沈潜」の世界とはかなり異なる。私が連想したのは高島野十郎の絵の世界である。高島は好んでローソクの絵を描いた孤高清貧の画家で、ほとんど世に知られていない。私は久世光彦の『怖い絵』という本で高島の名を知った。キャンバスの中央に燃える一本のローソクだけを描いた絵には不思議な味わいがあり、生涯にわたってローソクや烏瓜の絵ばかり描いていたという偏執性も預かって、忘れることのできない絵のひとつである。上に挙げた桑原のローソクの歌は、木畑紀子も指摘するように、宮柊二の「一本の蝋燃やしつつ妻も吾も暗き泉を聴くごとくゐる」という歌と遠く呼応する歌であろう。しかし当時みずからを「鬱の器」と規定していた桑原にとって、ローソクの淡い光とその周囲の圧倒的な闇は、孤に鬱屈した心象を仮託するにふさわしい歌題と映っていたにちがいない。

 私は桑原の歌集を全部読んだわけではなく、『月下の譜』のみを通読し、その他の歌集はアンソロジーを読んだに過ぎないのだが、『火の陰翳』のような闇と孤独に身を浸すような詠風は徐々に変化を見せたようだ。木畑紀子は、第一歌集に身辺に題材を採ったものが多いのがふつうだが、桑原は逆で歌集を重ねるにつれて素材が身近になると指摘している。確かに『月下の譜』には次のような身近な題材をもとにした歌もある。

 歓迎のレイつぎつぎと取り出だす箱に記せりカリフォルニア産と (ハワイ旅行)

 何の霊か棲める気配にひそひそと雨ふりしづむ東京地裁  (勤務校の訴訟)

 一戦を交じへしのみに達川は西部の打者の癖見抜きしと  (広島カープの野球試合)

 千万の仮想譜思へば一局の棋譜さんらんと星座のごとし  (将棋の対局)

 出くわせる牛におどろき跳びのきし大松達知都会つ子なり (中国旅行)

 吉川も「闇のなかに光が差してきたようだ」と桑原の詠風の変化に言及している。しかしながらこの変化は、光量の増加とか身辺に素材を求めるようになったというような表層的な変化ではあるまい。桑原は一種の「覚悟」のような境地に到達し、そこから反転して「軽み」を体得したように思える。それと同時に小さな命の証を愛しむ眼差しが強く感じられる。 

 いのちとは漏刻ならむ最終のひとつしづくをかなしみおもふ

 反転のきかぬ砂時計身にもてばさらさらに愛しその金の砂

 春雨にけぶる公園を濡れて行く一匹の犬 生の典型として

 頬ちかく吐かれし息のほのけきをよみがへらせてほうたる火(とも)る

 うすら氷に鎖されし湖(うみ)のあをき水そのしづけきにこもる少年

 一首目、人の命を水時計に譬え、その最後のひと雫に思いを馳せている。二首目もよく似た歌で、体内に持つ砂時計は命の比喩にほかならない。「その金の砂」という結句に愛しさが感じられるとともに、遠い師脈の北原白秋を思わせる。三首目は口語脈の強い歌で、技巧的な桑原にしては素直に詠んだ歌に見えるが、野良犬を生の典型として把握するところに桑原の到達した境地が垣間見える。四首目は「ホ」音の連続が歌全体にかすかな息のような印象を与えている。ホタルもまた命の表象であることは言うまでもない。五首目では「うすら氷に鎖されし湖のあをき水」までが序詞として美しいイメージを醸成している。

 桑原の歌の作りの巧みさは第一歌集『火の陰翳』から際立っているが、翌年1987年のサラダ現象を機にライトヴァースが流行し、また加藤治郎らのニューウェーブ短歌が注目を集めたこともあり、ややその陰に隠れた感は否めない。しかし『月下の譜』収録の次のような歌を見ると歌の作りの手堅さは明らかである。

 手囲ひにライターを擦る男ゐて頭上おほいなる夏の雲湧く

 黒髪をすべり逃れしヘアピンが電車の床に灯をかへしをり

 雨かぜに晒さるるなきコンコースを行く人らみな濡れし傘もつ

 一首目、手囲いの中の暗さと空の雲の明るさが鮮やかに対比され、またライターを擦る男には物語性が強く感じられる。二首目の床に落ちたヘアピンの輝きや、三首目の乾いたコンコースを行く人が濡れた傘を持つというおかしさをすくい上げる目には、鋭い観察力を見ないわけにはいかない。

 最後に特に印象に残った歌を三首あげておこう。

 ただよひてゐたる未生の言葉らも今はしづけく白水に帰す 『白露光』

 はつかなるえにしのありてこの猫と朝の閻浮の水わかち飲む

 摘みきたる桔梗いちりん手向くれば墓碑のおもてのかすか明るむ 『時のほとり』

141:2006年2月 第1週 観覧車の歌

 今回の「観覧車」のようなお題特集を書くときには、めざす単語を含む短歌を探して歌集を何冊も当て所もなく渉猟するのだが、そうしているとおもしろいことに気づく。単語の含まれ方に歌人によって明らかに差が見られるのである。名詞の多い人と名詞の少ない人がいる。たとえば藤原龍一郎や生沼義朗は名詞が多い。

 歳月は蜜の香火の香新宿の地の底林檎劇場(シアター・アップル)ありて  藤原龍一郎

 可視光線不可視光線絡まりて日曜の銀木犀を照らしぬ  生沼義朗

名詞が多いと漢字が多くなり、動詞の数は少なくなる。藤原の歌では「あり」一つ、生沼の歌では「絡まる」「照らす」の二つである。探しているお題が名詞のときには、こういうタイプの歌人の歌集を探すとヒットすることが多い。逆に名詞が少ないのは江戸雪や東直子である。

 どうしてこの人なんだろう もつれたる風草の辺にともにしゃがむよ  江戸雪

 いつまでもですます調で語り合うわたしたちにも夏ふりそそぐ 東直子

名詞が少ないと漢字の数が減るのは当然として、動詞の数が増えるかというと必ずしもそうではない。「どうして」のような疑問詞や話し言葉的表現が増えることがあるからである。

 また歌に含まれている単語の種類にも歌人によって大きな偏りがある。山・河・草・鳥など自然物の割合が他を圧している歌人もいるかと思えば、都市を背景とする人工物ばかりが登場する歌人もいる。両者が歌に描き出す光景は対照的である。

 濃きいろに黙す夕ぐれ戦ぐもの耳立てて待つ巣穴の狐  百々登美子

 エンジンの焼ける匂いを嗅ぎながら湾岸環状線へ突っ込む  谷岡亜紀

また登場する単語の意味レベルもさまざまである。「空」「坂」「橋」「岸」のように、どこにあってもおかしくない普遍的な普通名詞ばかりを使う歌があり、それとは逆に固有名を頂点とする具体性と土着性に富む名詞を使った歌もある。

 ゆびひとつ触れることない慎重さ保って雨の坂を見おろす  小林久美子

 そのうちに行こうといつも言いながら海津のさくら余呉の雪湖(うみ)  永田和宏

 普遍的な普通名詞を多用する歌は非人称的であり、歌の味わいは散文詩に近づく。具体性に富んだ名詞を使った歌は人称的であり、個人へと収斂する読みを誘う。

 さて、本日のお題「観覧車」である。ものの本によると観覧車の起源は17世紀ブルガリアに遡るとされている。18世紀のロシアでは農奴が回す人力観覧車が貴族を楽しませていた。電力による観覧車は1893年のシカゴ万国博覧会のものが最初であり、設計者の名を採って今日でも英語では観覧車を Ferris wheel と呼ぶ。日本では1907年の東京勧業博覧会のものが最初で、のちに浅草に移設されたという。1907年というと明治40年だから、それ以前の短歌では実景としての観覧車が詠まれたことはないことになる。短歌では新しい景物なのである。

 観覧車といえば遊園地に設置されているものとほぼ決まっている。最近では大阪の梅田ビル街とかロンドンのテムズ河畔のように、遊園地ではない市街地に作られたものもあるがあくまで例外に留まる。したがって観覧車が喚起する意味として考えられるのは、まず遊園地の愉しさというものだろう。

 観覧車回れよ回れ君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)  栗木京子

有名なこの歌では遊園地で一日を過ごす男女のカップルが詠まれていて、観覧車が通常呼び出す意味を踏まえている。しかし主題となっているのは、男女の恋における温度差であり、女性の方の片務的な想いの深さを思わせるように観覧車はゆっくりと回転している。

 観覧車のぼりゆきたるたまゆらを秋に傾くふたりの錘り  辰巳泰子

この歌でも男女ふたりが観覧車に乗っている。ところが下句「秋に傾くふたりの錘り」の解釈は微妙である。「ふたりの錘り」が男女の関係の均衡・緊張をさしているとして、「秋に傾く」を「秋の方向へと傾く」と仮に解釈するならば、秋は英語でfallだからこれは恋心が冷えてゆく歌だということになる。どうもそのように解釈した方がよいと思えるのは、遊園地での観覧車の愉しさを詠んだ歌は皆無であり、逆に観覧車が何かの衰退・凋落の喩として用いられている歌が多いからである。おお、歌人というのは何とネガティヴ・シンキングの人種であることか。

 観覧車ひとつひとつの筺がしまうものは見えざり会者定離など  梅内美華子

 この歌もまた観覧車のゴンドラに共に座っている人も、一回転が終わって降りればまた別れる定めということが詠われている。「会者定離」は仏教用語であり、回転する観覧車がまるで輪廻の車のように見えてしまうのである。

 二人分の孤独を乗せて後戻りできぬ高さを観覧車越ゆ  十谷あとり

 本来ならば楽しいはずの観覧車が「二人分の孤独を乗せて」ということは、心を通じ合わせることのできない二人なのだろう。観覧車が後戻りできない高さを越えることは、二人の関係の修復が不可能なことを暗示している。

 ここまでは二人で観覧車に乗っている歌である。しかし次の歌はいささか趣がちがう。

 百年も夜がつづいてゐたとおもふ観覧車のいただきに着くころ  林和清

 雨にけぶる観覧車にて録音は見えざるものをあれこれと言ふ  真中朋久

 林の歌は恋人が二人で観覧車に乗っている情景ではない。連作「ルミナリエ」中の歌であり、「また百年夜がはじまるルミナリエの祈りが街を埋めつくしても」という歌と呼応している。ルミナリエは阪神淡路大震災の犠牲者を追悼し疲弊した地方経済を活性化するために始められた行事である。だから「観覧車のいただきに着くころ」には深い悲しみから一応は脱した慰藉が感じられる。

 真中の歌も男女の恋人が乗る観覧車ではないだろう。強いて言うならば幼い子供と乗っているのだろうか。録音のアナウンスが誇らしげに説明する景観と、雨でそれが見えないという現実の乖離がこの歌の眼目である。

 観覧車に乗っているのではない視点から作られた歌もある。

 限りなく羽毛降る午(ひる)海浜の大観覧車の解体進む  谷岡亜紀

 埋立地の地霊を具象するものは青海埠頭の大観覧車  生沼義朗

 第三の男はぼくでありきみだ大観覧車骨組みあらわ  加藤治郎

 谷岡の歌はどことなく世の終わりの風情を匂わせていて、観覧車の解体という物寂しい光景がそれを強化している。生沼の歌はまぎれもない都市詠である。鈴木博之の好著『東京の地霊 (ゲニウス・ロキ)』でも縦横にに論じられているごとく、歴史のある場所には地霊がある。京都のような古い町では、住民は地霊の上で暮らしているようなものだ。しかし埋立地は新しく生まれた地面であり、歴史を背負っていないため地霊がない。代わって地霊の代理をするのは、休日の小市民の娯楽のシンボルとしての観覧車というわけである。

 観覧車というとキャロル・リード監督の名画『第三の男』を思い浮かべるのはある程度以上の年代の人だろう。オーソン・ウェルズの演技とアントン・カラスのチターの音楽が記憶に残る。加藤の歌はこの映画を踏まえている。戦後の混迷の中を生きる第三の男と、骨組みが剥き出しになった観覧車に、今の時代を生きるわれわれを重ねているのだろう。

 かくもネガティヴな回路で捉えられている観覧車だが、ホジティヴな憧憬の対象とされる歌もないわけではない。

 寝ねし子をうつせる夜の車窓には遠く灯の輪となる観覧車  吉浦玲子

 ディズニーランドからの帰りだろうか。一日遊んで疲れた子は車内で寝ている。子供が映った車窓には遠くに観覧車が見えている。観覧車は光の輪として描かれており、いましがた子供と乗ってきたものであっても、遠くから改めて眺めれば美しいものとして描かれている。

 ビル抱く暗き淵よりせりあがり観覧車いま光都を領(し)れり  沢田英史

 私が見つけた観覧車の歌のなかでもっとも美しい歌である。都会の暗がりから上昇する観覧車は、イルミネーションに照らされた不眠都市の輝きを圧するようにその上に君臨する。観覧車は暗き淵からの浮上を希求する現代人の憧憬の形象化に他ならない。