書肆侃侃房から出ている短歌ムック『ねむらない樹』創刊号の特集企画「新世代がいま届けたい現代短歌100」はよい企画である。昔の私のような短歌の素人はアンソロジーによって初めて短歌に触れることが多く、また短歌はアンソロジーなどで何度も読まれることによって名歌として後生に残ってゆくからだ。伊舎堂仁、大森静佳、小島なお、寺井龍哉の若手4人が選んだ歌を眺めていたら、100首の最後近くに掲出歌があった。知らない歌人だが一読して引きつけられた。
上句は句跨がりがくぐもったような効果を出しており、孤独なつぶやきか内的独白と読める。「自分はあの人に本当に愛されているのかもしれない」という独白は、裏返せば愛されているかどうか自信がないということだ。人の愛に自信がないのは若者に特有のことである。下句は一転して叙景となり、陽光に輝く夏の川の光景が詠まれている。水深が深い川は光を吸収するため暗い水の流れとなる。一方、浅い川は光が水底の砂や小石に反射してきらきらと輝く。夏の川は浅いから輝くのだ。
座談会では選んだ4人の歌の解釈が分かれている。私はこの歌をばりばりの青春歌と読んだ。上句の「本当に愛されてゐるかもしれず」が表現しているのは青春期に特有の不安感であり、句跨がりのくぐもるような効果も与って下をうつむいている印象がある。一方、下句は開放的できらきらと明るい。この上句の「閉鎖・うす暗さ」と下句の「解放・明るさ」の対比がこの歌のよさである。夏の川は浅いから輝くという居直りにも似た堂々たる言明は、人生経験も少なく人格形成も途上にある若者は、だからこそ逆説的に輝きを発するという喩と読む。選者の寺井がつぶやいたように「完璧な結句」である。
佐々木実之とはどのような人なのだろうと調べてみると、「かりん」に所属していて京大短歌のOBだというではないか。がぜん興味が湧いて、『日想』を入手しようとしたがどこにも見つからない。附記で述べたような経緯でようやく読むことができた。「才と葛藤と」と題された序文を「かりん」の坂井修一が、解説を京大短歌OBの中津昌子が書いている。歌集としては例外的にぶ厚く、1ページに5首が配されていて総ページ数は341ページある。目次やあとがきや中扉などざっと40ページ引いたとして、1500首はある計算になる。なぜこんなに収録歌数が多いかといえば、これが遺歌集だからである。
巻末の略歴によれば、佐々木実之は1968年生まれ。高校生の時に「かりん」に入会して馬場あき子に師事。京都大学経済学部に在学中は京大短歌に所属し、卒業後は三井物産に就職。1988年と1997年に短歌研究新人賞の最終選考作品となる。2007年にアンソロジー『太陽の舟』(北溟社)に参加。2012年に43歳の若さで急逝している。佐々木は真言密教の信徒であり、歌集題名の『日想』は仏教用語に由来する。密教の経典である観無量寿経には浄土を観想するための十六観法が説かれており、そのうちの一つ日想観は西を向いて太陽が沈む様を観思することだという。歌集の章のタイトルとなっている「地想」「水想」も同じく十六観法の「地想観」「水想観」から採ったものである。
第1章には制作年代が記されていない「日想」「つばめの眠り」という二つの連作と「死者の書」という散文が配されており、残りの第2章「地想」と第3章「水想」は逆編年体で編まれている。歌集の構成は編年体か、さもなければ制作年代にとらわれず歌集として再構成するのがふつうで、逆編年体で歌集を作ることは少ない。しかし本歌集が逆編年体で編まれているのは、作者がもう新しい歌を詠むことが決してないからであり、読者は佐々木の死を起点としてその生涯を時間を遡りながら辿ることになる。これは稀な体験であると同時に、そこに一抹の悲しみを感じないわけにはいかない。
「日想」「死者の書」から見てみよう。
君の影よりゆらりと来たる蚊を打てば我が手のひらにあるは君の血
青蓮の蜜吸ふ虫のあるべきをはなびらは夜を閉ぢて静けき
稲妻は鋭く到り恋はるるは老いゆくに似て梅雨今宵明く
首細く鷺飛びゆくを外に見る窓の高さに我ははたらく
蜂の巣に蜂群れてゐるまひるまを女王蜂仔を生むほかはなく
夕暮れは超高層ピルを焼く娶ること永遠になからむアトム
一読してわかるように文語を自在に操り、短歌定型を熟知して言葉を落とし込む技量はたいへんなものである。佐々木が短歌研究新人賞の最終選考作品に選ばれた1988年の前年には俵万智の『サラダ記念日』が空前のブームを巻き起こし、加藤治郎の『ニューロマンサー』も刊行されて、ライトヴァースの波が打ち寄せていた頃である。押し寄せる口語短歌の波に抗うごとく、佐々木は古典和歌の正調を思わせる文語脈の短歌を作り続けた。それは三首目の「恋はるるは老いゆくに似て」や五首目の「蜂の巣に蜂群れてゐるまひるまを」などに看取されるだろう。恐るべきは上に引いたような歌を高校生の頃から作っていたということだ。ちなみに冒頭に引いた「本当に愛されてゐるかもしれず」は22歳の時の作である。18歳の頃の歌を見てみよう。
灌仏に花のしぶきの春風は龍神どもの清めなるらむ
夢と知りて知りて醒めざるよしもがな人の見えつるうつそみの夢
最澄請へど弘法これは貸さざりき理趣釈経を書店に買へり
無常されど雪山童子の業ゆゑに玉虫の羽根は永久に輝く
とても高校生が作る歌とは思えない。坂井修一は序文を「佐々木実之は才人であった」という一文で始めている。佐々木は始めて「かりん」の歌会に来たとき、「実之の『実』は源実朝の『実』で、『之』は源重之の『之』です」と自己紹介して、主宰の馬場あき子をいたく喜ばせたという。まさに早熟の才能である。しかし早熟の才能には決まって光と影がある。坂井は序文に「われわれは、才能とか資格とか地位とかに呪縛されやすいのだが、人生そのものを思えば、そのどれにもたいした価値はないことに気づくのである。短歌のような文芸はほんらい、そのことを一瞬で思い出させてくれるものだ。佐々木も理屈ではわかっていたろうが、このことを真に納得して人生を味わう時まで生きることができなかった」と記している。人生の先達の深い言葉であるが、功名を焦る若者には届かなかったであろう。
仏教を信仰していた佐々木にとって死と無常は親しい観念だったと思われるが、歌集を通読して強く感じるのは孤独である。
遮眼帯つけられて前へ走るといふ馬の素直を羨しみゐたり
霧の日のキセノンランプの瞬きはあんな向かうにまた焼却炉
歌も句もなさぬ兄ゆゑその妻の頭撫づるを辞世となしつ
日々われが出だせる不燃ごみなるは甲虫のごとき錠剤の殻
温室はもつとも眼鏡の曇るところああ我はかく狭きところで
眠らむと灯りを消せば暗々と指名手配犯のごとき孤独に
私は高校生の時に中島敦の『山月記』を読んで、「性は狷介にして不羈」という言葉を覚えた。「狷介」とは人との妥協を峻拒する性格を、「不羈」とは才識優れて他人には律しがたい性格を言う。佐々木はおそらく「性は狷介にして不羈」という表現がぴったり当てはまる人だったのだろう。
吉川宏志が『日想』刊行時 (2013年)にブログ「シュガークイン日録」に佐々木の思い出を書いている。吉川はそれまで長く休眠状態だった京大短歌会を入学して間もなく再起動した。佐々木は吉川より1歳年上だったが、一浪していたので学年は吉川と同じだった。吉川の目から見て佐々木は古典の知識は豊富にあるが、とても生意気な若者で、歌会などで他人の歌を褒めることは決してなかったという。吉川には付き合いにくい男と映ったが、それは周囲の誰にとっても同じだったと推察される。
上に引いた一首目、回りが目に入らないように遮眼帯を付けられて走る競走馬の素直さを羨む佐々木には、自分の性格を持て余すところがあったのかもしれない。若い頃の歌に「やまあらしジレンマ」と題されたものがある。ヤマアラシのジレンマとは、相手と近づきたい気持ちがあっても、実際に近づくと自分の針で相手を傷つけてしまうという対人関係のジレンマである。また三首目にあるように、長男である兄が事故死し、自分はそのスペアであるという自覚があった。四首目の錠剤はおそらく眠剤だろう。
歌を読む限り佐々木にとって父親の存在は大きなものだったと思われる。
亡き兄は嫡男残れる吾はスペアにてスペアタイヤはやや細くある
逆縁の悲しみに寝る父見れば布団動かし息するが見ゆ
兵たりし父の左手今きかず右より薄く伸びやすき爪
赤紙のくれなゐにほふ七月の醜の御楯と出で立ちし父
房総にただ蛸壺を掘りしのみ勅諭覚えず父復員す
兵隊に取られてからは余生だと父の言葉を我は信じぬ
佐々木の父は先の大戦で召集され海軍の兵士となった。戦争で負傷したのか左腕が不自由だったようだ。そんな父親を介護する歌が多く収録されている。しかし佐々木が父親に注ぐ眼差しは複雑に錯綜したものである。佐々木の本家は会津にあり、倉がいくつもあるような大きな家だったようだ。佐々木も本籍は会津である。会津と言えば戊辰戦争で官軍と戦い一敗地にまみれ辛酸を舐めた藩である。それから数十年を閲して今度は政府軍の兵士として召集され、負傷して復員する。佐々木の父親の心境もまた複雑なものがあっただろう。上にも述べたように佐々木の兄は事故死している。分家とはいえ家を継ぐべき嫡男を失った逆縁の悲しみは佐々木の父の心を蝕んだにちがいない。スペアと知りつつそんな父親を介護する佐々木の心境はどのようなものだっただろうか。
月冴ゆる高野川沿ひ抜け道を通らむとしてまた迷ひたる
薄などとうに枯れたる川風や蓼倉橋にして下より吹かる
だれもあらぬ川端通りの信号の変はるを待ちて横切りにけり
馬鹿にされてゐるとは我も思はねど河野裕子にまたも笑はる
雨の夜の賀茂の川原を歩きつつ成り成りて我が余れる心
京都大学に在学中の歌を引いた。一首目の高野川は鴨川に合流する川の一つで、寓居のすぐ近くを流れている。二首目の蓼倉橋はその高野川に架かる橋の一つ。三首目の川端通りは高野川から鴨川の東岸を通る道路である。四首目はおそらく「塔」の歌会に出席した折りの歌だろう。これらの歌が詠まれた1989年には私は既に京都大学に勤務し現在の住居に暮らしていたので、佐々木は案外近い所を歩いていたのだ。ひょっとしたらキャンパスの中で知らずに擦れ違っていたかもしれない。
特に心に残った歌を引く。
ストローに副へらるる指蜻蛉の明るき翅をつまむごとくに
たけむらはさやさやさやけ君のまた黙りてゐたるはつなつまひる
使ひきらざるティッシュを受け取り来し我にかなしみのごとくティッシュは溜まる
けふ立夏告げてはならぬこともちて唇に冷えし檸檬水
夏牡蠣は噛みて喰らふや我が咽の奥にあてどもなき暗さある
君に我が救はるるべきこと多すぎて今朝の冷たき水飲み下す
エレベーターの扉開きて雨匂ふ外気まとひて乗り込む我は
夕闇は池の濁りに兆しつつ老いたる鯉を跳ねさしめたり
チェレンコフ光きらめくといふ滅びつつ堕天使の見し光と思ふ
大きなる耳の聡さに歩みゆくつひに名馬でなきロジナンテ
二日酔ひかそかに残る昼にして木犀さわがしきまで匂ふ
我が死なむのちを思はばほしいまま冬陽さす日曜の坂道
ぶ厚い遺歌集の巻を置いて改めて感じるのは、短歌は人の人生と切り離すことができないという今更ながらの感想である。俳句は短いだけに短歌よりも人生を映すことが少ない。短歌でも塚本邦雄のように日常の〈私〉を峻拒し唯美主義を標榜することもできるし、実人生を排したテクスト至上主義という立場もある。しかしながら本歌集を読むときに、作者が43才の若さで泉下の人となったという事実は頭から離れない。すべての歌は佐々木の死を前提とし、その死に逆照射されるという読み方しかできない。例えば上に引いた「我が死なむ」は作者18才の歌である。この歌がまるで予言のように響くのは私たちがそれから20数年後の佐々木の死を知っているからである。佐々木実之の名を多くの人が知り、その歌を愛する人が増えることを切に願うばかりだ。
【附記】
『日想』がどうしても見つからないので、日頃からブログの管理人としてお世話になっている光森裕樹さんにたずねてみた。すると光森さんも『日想』は持っておられないとのこと。しかし調べてもらうと土岐友浩さんが所有しておられるという。連絡してみると貸していただけて、ようやく読むことができた。大森静佳さんの蔵書だったようだ。こんなとき頼りになるのは人のネットワークである。光森さん、土岐さん、大森さんに心より感謝申し上げる。