第2回 野樹かずみ『路程記』

花びらはしずかにながれすぎにけり水のおもてのわれを砕いて

                野樹かずみ『路程記』
 野樹は1963年生まれで、1991年に第34回短歌研究新人賞を受賞している。同年の同時受賞は尾崎まゆみの「微熱海域」。『路程記』は2006年に歌葉叢書から出版された第一歌集で、20年余りにわたって詠んだ歌をまとめたものだという。長期間にわたって詠んだ歌を構成的に配置してあるので、読後感もおのずとそれに感応することになり、最後のページを閉じた時、作者に同行して長い旅をしたという感想を抱く。そんな歌集である。
 歌風を乱暴に分類すると、「上をふり仰ぐ歌」と「うつむく歌」、「外に流れ出る歌」と「内へと向かう歌」のような分類ができようが、野樹の歌風はまちがいなく「うつむく歌」「内へと向かう歌」である。なぜうつむいて内向するかと言うと、野樹の存在の最深部に〈世界に対する違和〉が盤踞しているからである。
 永遠の眠りを眠る始祖鳥の夢かもしれぬ世界に棲めり
 故郷からわたしから逃れゆく夜の列車にわたしの顔だけ映る
 遠ざかる光景ならば愛せるかオペラグラスは逆からのぞけ
 死んでゆく母だけ味方いまは本を読むさえ父に憎まれていて
 風景の危うくゆれる街をゆく人それぞれの義眼のなかに
 透かしみる写真のネガにもくっきりとわたしのかたちの欠落がある
 地下鉄の轟音として迫り来るおぼえていない過去から闇が
 私は誰かの見る夢の中に生きているという一首目の感覚は、生の実感の乏しさに由来する。自らの生きる生の全体を我が物として感得できない不全感は、程度の差こそあれ現代人が共通して持つものであり、それ自体は珍しいものではない。しかし野樹の歌が表現しようとしているのは、「現代人の置かれた状況」のような一般化できる感情ではなく、もっと個人的なものであり、他者と共有することのできない感覚のようだ。この歌集が発散する意味は極めてパーソナルな「極私的」意味である。読んでいると狭い私的圏内に吸い込まれてゆくかのような感覚に捕らわれるのはそのためだ。
 その「極私的」意味は、掲出句の最後の「地下鉄の」が示すように、どうやら過去からやって来るようだ。二首目「故郷から」に見られる故郷遁走や、四首目の親との確執も、テーマとしては珍しいものではないが、野樹に重くのしかかっているらしい。三首目「遠ざかる」もまた遁走の主題の変奏である。オペラグラスを逆からのぞけば、風景は縮小される。矮小化され自分から隔絶したものとならねば愛することができないほど、野樹は過去に違和感を抱いているのである。五首目も同種の主題だが、この歌では違和感が歌の中の〈私〉へと収斂せず、「人それぞれ」へと投射されている分だけ、共有の地平へと放たれた歌となり得ている。六首目の「透かしみる」では、〈私〉が世界の中の欠落と見なされており、野樹の抱える違和感の深さが窺える。
 野樹の存在の根底に盤踞する違和は、もしかすると次の歌群と深く関係するのかもしれない。
 どんな深い海峡があっていまわれに隔てられている名もなき故国
 わが国と呼ぶ国もたずかりそめの胸の大地はいま砂嵐
 奪われてしまうものならはじめからいらないたとえば祖国朝鮮
 汚れたるビニール紐が足首にからまるいたるところに国境
   故国喪失が根深い欠落感を生むのは当然のことであり、最後の「汚れたる」の歌が示しているように、どこに住もうとも不可視の国境が存在するのもまた現実である。このような場所から放たれたと思われる次のような歌もある。
 退屈に寝転んで蹴る地球儀のアジアはわたしの足の面積
 焼き捨てる思い出の品にまぎれて地図帳いまはアジアが燃える
 「内へと向かう歌」の多いこの歌集の中では例外的に空間的広がりを持つ歌である。内なる違和と不可視の国境に絡め取られることを拒否して視野を拡大すれば、このような歌が生まれる契機となるのだろうが、残念ながらこのような視座に立つ歌はこの歌集には少ない。しかし野樹はフィリピンのスモーキー・マウンテンを訪れた体験から、フィリピンでフリースクールを運営する活動に関わっているようだから、掲出歌のような視野を実生活において実現していることになるだろう。
 『路程記』中程に配された「夢の羊水」は母親の死を主題とする連作で、経験の切実さからか、それまで必ずしもくっきりと焦点を結んでいなかった歌の風景が、にわかに具体性を帯び始める。そして「草故郷」の連作では主調音が一転し、故郷での少女時代の母親の姿が夢幻的色彩のなかで詠われている。詠われた風景が夢のように美しいのは、喪失した風景だからだろう。なくしたものだけが美しい。
 鳩小屋の鳩らになにをうちあけて午後のひかりのなかに笑む母
 何げない午後に見かけた陽に灼けた畳の荒野をゆく母の背を
 みるうちにわけもなくなみだぐむとおい山のふもとのうすいむらさき
 夕闇のもろこし畑の風のなか母呼ぶ声のやがて泣き声
 このように『路程記』を通読して感じるのは、稀に見る「物語が充満した歌集」ということである。現代の都市で集合住宅に住み、満員電車に毎日揺られて通勤する市井の人間は、人に語るに足る物語を持ちにくい。穂村弘の言葉を借りれば、「命の使いどころのない」(『短歌の友人』)生の平板化のなかでいかに詠うかは、現代の歌人に共通する課題だろう。しかし野樹には、海峡を隔てた祖国という空間軸と、父母・祖父母・喪失した故郷という時間軸のそこここに点在する濃密な物語がある。その物語は野樹がみずから選択したものではなく、この世に生まれ落ちた時点で押しつけられたものであり、野樹の心に闇を呼び込むことがある。野樹が歌を汲み上げる泉として、過去から押し寄せる闇を選ぶのはけだし当然と言うべきだろう。そもそも人にまつわる物語とは、自由意志で選び取るものではなく、私たちが否応なく引き受けざるをえないものだ。
 同じ闇を描いていても、野樹の描き方は例えば加藤治郎の『環状線のモンスター』などとは根本的に異なることにも注意しておきたい。
 弾丸は二発ぶちこむべしべしとブリキのように頭は跳ねて
                  『環状線のモンスター』
 誰かいっしょに死んでください鶏の小さな頭、闇にみちたり
 帯文の惹句にあるように、『環状線のモンスター』は現代の日常に侵入してくる狂気と怪物を描いた歌集だが、加藤が描くのはあくまで「時代の狂気」「現代の闇」であって、自らの内なる闇ではない。だから「べしべし」などと修辞を凝らす余裕もある。野樹の描く闇は自らの肉に食い込む闇であり、修辞を突き破って迫って来るので、読んでいてこちらが息苦しくなるほどである。
 むざむざとさらされて在る憎しみに真白にやわきむくげ花裂く
 胸に棲む鳥の羽毛をむしりやまぬわたしをだれか無理矢理とめよ
 あこがれの果てのちいさな景色なり誘蛾灯下にちらばる死蛾も
 しかし歌集の後半に至り、訪れたフィリピンのスモーキー・マウンテンに群がる子供たちに注がれる目は柔らかく、このあたりが野樹の心境の転機になったと推測される。
 ゴム草履パタパタ鳴らし少女らがサンパギータの花売り歩く
 こわれそうな小屋から子どもたちにぎやかな音符となってとびだしてくる
 ぬかるみのなかのちいさな足あとの水たまりにも浮かぶ太陽
 そして歌集の掉尾を飾る「埴輪」の連作では、新しい生命を授かったことで歌はさらに光の方向へと転調するのである。
 火星赤く われは胎児をふとらせる闇を抱えた古代の埴輪
 この星にきみ生まれけり水の匂いさやかに立ち上がる秋の朝
 みどりごの眠りをいまは抱いてゆく蛍飛び交う銀河のほとり
 朝ごとにきみに発見されている世界に一羽の鳥降りてくる
 一首目「火星赤く」に詠われた闇は、それまでの過去から迫って来る闇ではなく、新しい生命を育む肯定的な闇であり、軍神の星である火星が頭上にきな臭い光を放っているとはいえ、古代の埴輪の静謐な落ち着きに守られている。二首目以下の歌もそれまでの歌から滲み出る閉塞感から解放されており、野樹はここに至ってようやく、「うつむく歌」「内へと向かう歌」から「上をふり仰ぐ歌」「外に流れ出る歌」への転調を果たしたのである。気がついてみれば、読者は「抑圧」から「解放」へと構成された物語の中を歩いたことになる。
 『路程記』以降に作られた歌が野樹のホームページに「箱船」という題で掲載されている。野樹は過去から押し寄せる濃密な物語から解き放たれ、新しい歌風を模索しているようだ。「箱船」という題名がその方向をさし示しているのかもしれない。
 

 

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第1回 佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』

胸おもくまろくかかえて鳥たちははつなつ空の果実となりぬ
         佐藤弓生『眼鏡屋はゆうぐれのため』
 リニューアルした短歌コラム「橄欖追放」の第一回目に誰を取り上げようか、あれこれ思案をめぐらせた。まだ取り上げていない歌人にしようか、それとも一度論じた歌人の新歌集にしようか。こういう迷いの時間はこの上なく楽しい。いろいろ考えた結果、リニューアルしたからには自分の嗜好を押しだそうと、佐藤弓生の第二歌集『眼鏡屋はゆうぐれのため』(2006年)に決めた。佐藤弓生は「今週の短歌」で2004年8月に一度取り上げているが、その時は『世界が海におおわれるまで』 (2001年、沖積舎)が唯一の歌集だった。『眼鏡屋はゆうぐれのため』は角川書店の叢書「21世紀短歌シリーズ」の一巻として刊行されており、同じ年に角川短歌賞を受賞した作品を巻頭に収録している。淡いワインレッドの装丁に開いた白紙の手帖とルーペを配したブックデザインは、死語と化しつつある瀟洒という形容がぴったりで、収録作品の放つうっすらとノスタルジックな空気感とよくマッチしている。
 『世界が海におおわれるまで』の巻末に歌誌「かばん」の仲間である井辻朱美が解説を寄稿している。井辻がキーワードとして選んだのは「距離」であった。ここで「距離」というのは歌人の歌に対する立ち位置のことで、歌が作者の身体から見て右手前にあるのか、30センチの近距離にあるのか、それとも10メートルの遠方にあるのか、はたまた作者の身体は歌の空間の内部に含まれているのか、それとも遙か遠くから遠望しているのかといったことをさす。「視点」と呼んでもよいが、井辻は「距離」という言葉を選んでいる。その上で、「空洞を籠めてこの世に置いてゆく紅茶の缶のロイヤルブルー」のような佐藤の歌を引いて、佐藤の歌には魅力的な視点のあいまいさがあり、「距離への作者の無関心というよりも、故意におこなうずらし、ゆらぎ」が認められ、「視点人物だの仮想作者だの焦点化だのという理論の枠組みをいともかろやかにくしゃっと踏みつぶしてしまっている」と論じている。「視点人物」や「焦点化」というのは、フランスの文芸批評家ジェラール・ジュネットの理論を念頭に置いているのだろうが、佐藤の短歌はそのような小賢しい文芸理論を軽々と踏み越えているというのだ。
 「視点」が近代の産物であることは言を待たない。西欧ルネサンス初期までの絵画には視点がない。すべてを同列に置いて斜め上方から俯瞰的に描く日本の大和絵も同様である。ルネサンス時代の「人間」の発見が視点を誕生させ、視点が〈私〉と〈世界〉の距離を生んだ。これが主客二元論の発生であり、見る〈私〉と見られる〈世界〉の対立の始まりである。明治時代の近代短歌運動が西洋絵画の大きな影響のもとに成立したのは偶然ではない。見る〈私〉と見られる〈世界〉の対立は写実の基盤であり、「歌の情景を作者はどこから見ているか」が明確であることを求められる。これが近代の〈眼〉であり、現代において歌を詠んでいる歌人も、意識するしないにかかわらず、この〈眼〉を内面化させている。
 井辻の言うように佐藤がこの近代の〈眼〉を「くしゃっと踏みつぶして」いるとしたら、それは佐藤が近代短歌のセオリーからの逸脱と自由を、何らかの理由で獲得しているということである。見る〈私〉と見られる〈世界〉の対立と、そこから生ずる距離を無効化する方法は理論的にはいくつか考えられる。〈私〉100パーセントの濃縮還元ジュースを作って世界を消滅させても距離は消えるし、これよりは難度が高くなるが〈私〉をゼロにして〈世界〉100パーセントにしても同様の効果が得られる。しかし佐藤の選択した方法はどちらでもなく、「〈私〉を小刻みに〈世界〉に差し入れる」というものだと思われる。『眼鏡屋はゆうぐれのため』から何首か引いてみよう。
 乳ふさをもたない鳥としてあるくぼくを青空が突きぬけてゆく
 ふゆぞらふかく咬みあう枝のあらわにもぼくらはうつくしきコンポジション
 水に身をふかくさしこむよろこびのふとにんげんに似ているわたし
 定住のならいさびしいこの星のおもてをあゆむ庭から庭へ
 一首目で鳥は〈私〉の観察する対象ではなく、私は鳥としてあるのだから、主客の乖離はむしろ融合している。その〈私〉を青空が突き抜けてゆくという感覚もまた、主客の対峙よりは混交の感覚を表していると言えるだろう。二首目は冬空を背景としたモンドリアンの抽象絵画を思わせる歌である。三句目までは〈私〉の目から見た冬景色の通常の叙景と読むこともできるが、四句目に来ていきなり交叉する枝は「ぼくら」に転じており、一瞬頭がくらっとするような主客逆転が行われている。三首目の上句は水泳の光景を詠んでいるのだが、「水に身をふかくさしこむ」という表現が「〈私〉を〈世界〉に差し入れる」という佐藤の方法論を象徴しており、おまけに下句の「ふとにんげんに似ているわたし」が暗示しているのは、この歌の〈私〉は少なくとも意識の上では人間という種をふらふらとはみ出しているらしいということである。〈私〉が人間でなくなれば主客二元論もまた消滅する道理だ。四首目は現代短歌が獲得した新しい「視点」を示す歌。「定住のならいさびしい」という上二句は、放浪と風のような自由さに憧れる気持ちを表現している。それはよいとして、「庭から庭へあゆむ」主体が人間であるとしたら、その距離は数メートルかたかだか数キロメートルが常識だが、それにたいして「この星のおもて」と天文学的視点からの表現を配しているところに視点の飛躍がある。四首目を含む「庭から庭へ」の連作には、他に「胸に庭もつ人とゆくきんぽうげきらきらひらく天文台を」とか、「ゆく春やアインシュタイン塔をなす錆びた小ネジであったよわたし」のように宇宙的次元へとつながる歌が配されている。このような視点の取り方、もしくはこのような近代的視点の無効化は、現代短歌がある頃から獲得した手法のひとつと言えるだろう。
 吉川宏志の『風景と実感』(2008年、青磁社)の中で、正岡子規の「地図的観念と絵画的観念」という文章が紹介されていて興味深い。吉川の本や子規の文章については、またいずれ改めて詳しく論じたいと思っているが、とりあえず要点をまとめると、「地図的観念は万物を下に見、絵画的観念は万物を横に見る」のであり、子規は前者を排し後者を推奨しているのである。つまり「上から俯瞰するような視点はリアリティーを欠くのでよろしくない」と言っているのだ。近代短歌が見る〈私〉と見られる〈世界〉の対峙を基本とするならば、両者は細部が観察可能な距離に位置しなくてはならない。あまり両者の距離が開くと、〈世界〉は〈私〉の眼から逃れる抽象的存在になってしまう。子規はこれを嫌ったのである。しかし近代短歌のセオリーから脱却せんと欲する人は、これを逆手に取ればよろしい。〈世界〉を地図的にはるか上空から俯瞰する視点を取れば、主客二元論はおのずと超克される。上空から俯瞰する視点はすなわち偏在する視点であり、その原理上〈私〉の位置を一意的に定義しない。これは〈神〉の視点なのであり、この視座に立つ人は畳の上に寝起きする通常の〈私〉ではなくなるのである。
 人工衛星(サテライト)群れつどわせてほたるなすほのかな胸であった 地球は
 草原が薄目をあけるおりおりの水おと ここも銀河のほとり
 ゆくりなく夕ぐれあふれ街じゅうの眼鏡のレンズふるえはじめる
 ふたしかな星座のようにきみがいる団地を抱いてうつくしい街
 あしのうら風に吹かせてあたしたち二度と交わらない宇宙船
 一首目の結句の「地球は」には、字足らずになることを承知で思わず「テラは」とルビを振りたくなる。三首目は巻頭の「眼鏡屋は夕ぐれのため千枚のレンズをみがく(わたしはここだ)」と呼応する歌だが、言うまでもなく地理上の一点に縛られた〈私〉には街じゅうのレンズを見ることはできないのであり、ここにも視点の浮遊とそれによって生み出された夢幻的なムードがある。五首目は佐藤史生のSFマンガのようだ。総じてこれらの歌にはSFやファンタジーやコミックスと通底する空気感が濃厚である。佐藤は短歌を作る傍ら詩人であり、英国推理小説などの翻訳家でもあり、『少女領域』『ゴシックスピリット』の著者の高原英理と共同でホームページを持っていることからもわかるように、SF・ファンタジー・幻想系に近い位置にいる。幻想系やゴシック系は反近代の先兵のようなものだから、もともと佐藤には近代の主客二元論の桎梏から自由になりやすい素地があったのかもしれない。
 いささか近代短歌論に走りすぎたようだ。『眼鏡屋はゆうぐれのため』に話を戻すと、『世界が海におおわれるまで』と比較して気がつくのは修辞の成熟である。
 敷石に触れるさくらのはなびらの肉片ほどの熱さか死期は
 腿ふとく風の男に騎られてはみどりの声を帯びゆくさくら
 風の舌かくまで青く挿しこまれ五月の星は襞をふかくす
 瞼とは貧しい衣 光を、とパイナップルに刃を入れるとき
 一首目の助詞「の」で結ばれた長い序詞は、加藤治郎の言う現代短歌の修辞ルネサンスを思わせる。二首目は一読すると謎のような歌だが、よく読むと桜の花が風に散って葉桜となるまでを詠っていることがわかる。風を腿の太い男に譬える喩に媒介された「風 – 男」「桜 – 女」の二重イメージが無限カノンのように響く。四首目では目の切れ目である瞼とパイナップルに入れられたナイフの切り込みのイメージとが二重映しになって、どこか危うい感じが漂う不思議な歌である。
 このように『眼鏡屋はゆうぐれのため』は、第一歌集から5年を経た作者の技量の成熟と同時に、近代短歌に対するスタンスまでもがはっきりと看取される充実した歌集となっている。満都の喝采を浴びることはまちがいない。仄聞するところによれば、版元品切れとなり重版がかかったようだから、洛陽の紙価を高らしむることになるかもしれない。  最後に特に印象に残った歌を挙げておこう。
 桐の花ふりてふれくるふところをおそるるにこのうすむらさきは
 生きのびたひとの眼窩よ あおじろくひかる夜空のひとすみに水
 箱蜜柑ざわめきいたり星ほどの冷えなしながら夜の廊下に
 もくもくと結び蒟蒻むすびつつたましいすこしねじれているか
 地震(ない)深し銀のボウルにたふたふとココアパウダーふりこぼすとき
 本ゆずりうけたるのちを死でうすく貼りあわされた春空、われら
 唐ひとの骨がほんのりにおうまでカップを載せたてのひら はだか
 長くなるので一首ごとに論じることは控えるが、二首目はどこかで目にして愛用のモールスキンの手帳に書き留めた歌である。どこで目にしたのか忘れてしまったが、不思議な印象忘れ難く、折りに触れて愛唱してきた。この歌集で再会できて喜ばしい。
 余談だが、昨年(2007年)お招きを受けて歌集の批評会に二度出席する機会を得た。偶然ながら、その二度とも佐藤弓生さんにお会いして、強い印象を受けた。ひと言で言うと、地上の重力から少し解放された人という印象である。また、電脳空間を渉猟していた折りに、テキサスの教会でオルガニストをしている人のブログに行き当たった。何とその人は佐藤弓生さんと大学でオルガン仲間だったらしく、母校の立派なパイプオルガンの前で写した仲良し三人組の写真が掲載されていた。三人のうちブログの主はテキサスでオルガニストとなり、一人は歌人となり、残る一人は眼鏡屋の女主人になったというのはいささか出来過ぎた話である。そういえば『眼鏡屋はゆうぐれのため』にも何首かオルガンの歌があった。オルガンが天上的な楽器であることは言うまでもないことである。
 神さまのかたち知らないままに来て驢馬とわたしとおるがんの前
 いらんかね耳いらんかね 青空の奥のおるがんうるわしい日に


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第0回 短歌コラム再開の弁

 2004年4月から4年間にわたって毎週ホームページに連載した「今週の短歌」は、2007年5月をもっていったん終了とした。200回という区切りのよい回数を迎えたことと、さすがに毎週書き続けるのが辛くなったためである。ある歌集批評会で藤原龍一郎さんとお会いしたとき、「毎週歌人論を書くというのはたいへんなことですね」と言葉を掛けていただいたが、書き始めた当初はそれほど覚悟があったわけではない。こんなに長期間にわたって書くとも思わなかった。
 あるときふとしたきっかけから現代短歌に惹かれた。ときどき「どんなきっかけで現代短歌に興味を持つようになったのですか」とたずねられることがある。私のように自分で作歌もせず、身の回りに短歌関係者もおらず、一人で歌人論を書く人間は珍しいのだろう。どんなきっかけだったか、はっきりと特定できるものがあるわけではない。家人が塚本邦雄の小説のファンで、自宅の書架に何冊も並んでいたが、歌集は一冊もなかった。しかし文春文庫版の『けさひらく言葉』があった。これは塚本が昭和57年9月から59年1月末まで毎日新聞一面の題字下に毎日連載したコラムを一冊にまとめたものである。博覧強記の塚本らしく、古今東西の書物から小説の一節、詩歌の断片、聖書や仏典の一句などを選び、テンションの高い簡潔な文章を添えてある。引用されたものをいくつか引いてみる。

「はじめて映画を撮る時、私は私の画面から松のかたちと緑を追放した。」
                  大島渚「松」
「堪えがたければわれ空に投げうつ水中花。」
                  伊藤静雄「夏花」
「絢爛の重みをつねに雉子翔べり」
                  三浦秋葉「絢爛」
「水くぐる青き扇をわが言葉創りたまへるかの夜に献る」                   山中智恵子「みずかありなむ」

 散文からの引用に混じってときどき俳句と短歌が引かれている。コラムの長さは200字と制限されているため、塚本の文体はいきおい贅肉を削ぎ落としたものとなり、引用もまた短いものにならざるをえない。この結果、コラム全体に極度の凝縮の負荷がかかり、日常の言語使用の場よりはるかに高い内圧を持つことになる。この高い内圧という非日常的言語環境において最も輝くのが韻文であることに、ある時私は気づいたのである。散文には高い内圧に拮抗するだけの言語の凝集度がない。韻文は音数律の制約により意味が圧縮されているため、凝縮の負荷によく耐えるのである。「慈母には敗子あり」(韓非子)のような漢文の文語読み下し文が凝縮の極北だが、俳句や短歌のような短詩型韻文もまた、内圧に負けない言語の緊密度を備えている。深さ1千メートルの深海のような高内圧の言語場という例外的な場所で、私は韻文の持つ力を感得したのである。しかしもとよりこれは後日思案した後付けの論理で、『けさひらく言葉』を漫然と拾い読みしていた当時の私は、名状しがたい言葉の輝きに漠然と魅せられていたにすぎない。
 これをきっかけに現代短歌を読むようになり、読書の里程標のような気持ちで「今週の短歌」をホームページに書き始めた。最初から特に方針があったわけではないが、いくつか指針のようなものはおぼろげながら念頭にあった。
 (1) 一回に歌人を一人取り上げる
 (2) 同じ歌人は二度取り上げない
 (3) 一人の歌人を取り上げるときはできるだけ多くの歌集を読む
書き始めてみて気づいたが、これはかなり縛りのきつい指針である。「水の歌」のようなお題シリーズを除いて(1)と(2)はほぼ守ったつもりだが、(3)は歌集の入手の難しさもあって守れないことが多かった。
 再開するにあたって制約を緩めるため、この指針は反古にすることとした。もう少し気楽に短歌について語りたいという気持ちからである。また歌集だけでなく歌書・歌論も折りに触れて話題にしてみたい。毎週連載は負担が大きいので、原則として月二回の連載とし、第一月曜と第三月曜に掲載することにした。
 つぎはこの短歌コラムの題名である。「今週の短歌」はいかにも散文的で芸がない。歌人の方々のホームページを拝見すると、それぞれに固有の言語感覚を駆使して工夫を凝らした名前を付けておられる。黒瀬珂瀾氏の「moonlight crisis」、穂村弘氏の「ごうふるたうん」、中山明氏の「翡翠通信」、桝屋善成氏の「迷蝶舎」、春畑茜さんの「アールグレイ日和」、村上きわみ+なかはられいこさんの「きりんの脱臼」、大辻隆弘氏の「水の回廊」、横山未来子さんの「水の果実」などが特に印象深い。「光」と「水」のイメージにつながる名前が多いのは、現代に生きる歌人に共通する内的希求ゆえだろう。
 しかし名前の付け方には注意が必要である。その昔、三島由紀夫が文壇にデヴューしたとき、当時の文壇の長老が「三島由紀夫という筆名は若い名前だ。歳を取ったときどうするつもりだろう」と周囲に漏らしたという。三島は45歳で割腹自殺したので老後の心配は杞憂となった。しかし若い時のセルフイメージに駆動されてあまり若い名前を付けると、後で困ることになるのは確かだ。かといって逆にそれ程の歳でもないのに、「梧桐亭日乗」のような「根岸の里の侘び住まい」風の悟りすました名前を付けるのも嫌みである。このあたりの加減が難しい。
 前にも書いたことだが、私は本のタイトルはかなり気にする方だ。しかし、私が今まで出した本の書名は、すべて担当の編集者が付けたものである。向こうは気を遣ってくれて、「ご希望のタイトルはありますか」といちおう聞いてはくれるのだが、私が提案したタイトルはことごとく却下されてしまった。ついに私は諦めの境地に達して俎板の鯉と化し、自分にはタイトルを考案する才能が欠如しているのだと苦い結論を出した。
 しかし再開する短歌コラムは毎週は書かないことにしたのだから、「今週の短歌」という題名は具合が悪い。いずれにせよ新しい名前が必要だ。というわけで愛用のモールスキンの手帳に、思いつくままに20余りのタイトルを書き付けた。その結果選んだのが「橄欖追放」である。自解自註は野暮の極みとは承知しているが、誤解のおそれもあるのでちょっと解説しておく。
 古代ギリシアのアテナイでは、僭主となる危険性のある人の名前を陶片(ostrakon)に書いて投票し、最多得票者を追放する「陶片追放」(ostrakismos)という制度があった。のちにこれを「貝殻追放」と誤訳したのは、ローマ帝国のハドリアヌス帝に重用されたギリシア人の歴史家Flavius Arrianusだと言われている。2,000年近くも経っていまだに誤訳をあげつらわれるのは気の毒というほかはない。一方、同じ頃のシラクサではオリーブの葉(petala)に追放する人の名を書くpetalismosという制度が行われていた。オリーブは日本では誤って橄欖と呼ばれることがある。それを承知の上でpetalismosを「橄欖追放」とした。こうすることで古代ギリシアの僭主追放の制度にふたつの誤訳が重なることになり、興趣が倍加される。実のなかに微量の虚が混じるからである。誰もが知るように、微量の虚は日常言語を詩へと押し上げる酵母となる。
 というわけで4月から新短歌コラム「橄欖追放」を開始するのでご愛読を願う。

200:2007年5月 第1週 現代短歌のゆくえ
または、『新響十人』

 おぼつかない足取りで書き続けてきた「今週の短歌」も、早いもので200回を迎えた。第1回が2003年4月28日の日付になっているので、ほぼ丸4年にわたって連載したことになる。できるだけ毎週掲載を心掛けたが、週末の学会出張や父の死などで休載したことも何度かあった。最初は自分の読書ノートのような気持ちで気軽に書き始めたのだが、思いがけず多くの人に読んでいただくようになり、その分だけ肩に力が入るようになったのは否めない。その一方で、この連載を通じて歌人の方々と交流が生まれたのは望外の喜びだった。なかにはご自分の歌集を贈呈してくださる方もおられて、そんなときはありがたく拝領した。ふだんは歌集・歌書の「大人買い」をしているので、歌集購入にかける出費は馬鹿にならないのである。しかも買った歌集はあっと言う間に狭いわが家の書架一台をまるまる占領してなおその版図を拡大しつつあり、これも頭が痛いことである。

 連載をしていていちばん困ったのは歌集の入手だった。歌集はたいてい500部程度の小部数印刷され、その大部分は著者買い取りで贈呈に回される。だから一般の書籍の流通経路には乗らない。贈呈の輪という人的回路に加わっていないと、最初から入手できないのである。ならば古書ということになるが、神田の古書店街を回って判明したのは、八木書店など歌集・詩集を扱っている書店が取り扱うのは、古書価の高い有名歌人の初版本に限られるということだ。私が焦点を当てていたのは、1980年以降に登場した比較的若い歌人なので、こういった人達の歌集は古書店の店頭には並ばない。それでもこまめにインターネットの海を渉猟すると、海風舎とか石神井書店など歌集・詩集に強い古書店が見つかり、ずいぶん多くの歌集を古書で買うことができた。なかには松平修文『水村』、仙波龍英『わたしは可愛い三月兎』、三枝昂之『水の覇権』、山尾悠子『角砂糖の日々』など、今では入手の難しい歌集も含まれている。たかだか500部くらいしか印刷されなかった歌集の一冊が、巡り巡って私の手許にあることを考えると、深宇宙で小隕石と遭遇するような出会いの偶然を思わずにはいられない。

 毎回取り上げた歌人の選択は多分に偶然による。たまたま手に入った歌集を時を置かずに論じたことも多い。それでも新人とベテランの配分には多少は配慮した。塚本邦雄や岡井隆や山中智恵子などの大歌人を取り上げなかったのは、ひとえに当方の力不足の故である。塚本や岡井を論じようなどと思ったら、半年間休職でもして専念しなければ無理な相談だ。しかし半年間休職したら妻子が飢えてしまうので、それは叶わないのである。

 私は近代文学批評を確立した小林秀雄と畏れ多くも同意見で、けなす批評よりほめる批評が批評の神髄だと考えているので、できるだけ作者の立ち位置に内側から身を沿わせるように作品世界を眺めるべく心掛けた。しかし心ならずも作者に苦言を呈したことも何度かある。不快に思われたことがあれば、素人の妄言としてご海容いただきたい。

 最終回に何を取り上げようかとしばらく思案した結果、特定の歌人を論じるのではなく、最終回らしく総括めいた論にしようと決めた。折しも北溟社から『現代短歌最前線 新響十人』と題された精華集が刊行された。このような短歌の精華集としては、過去に『新風十人』『新唱十人』などの例があるが、『新星十人』(立風書房)まで長らく空白期間があった。『新星十人』は1998年の出版だから、今からほぼ10年前になる。収録歌人は、荻原裕幸、加藤治郎紀野恵、坂井修一、辰巳泰子、林あまり、穂村弘水原紫苑吉川宏志米川千嘉子の10人。最年長の坂井が1958年生まれ、最年少の吉川が1969年生まれだから、刊行時には30歳から40歳の歌人たちということになる。油の乗り始めた若手という位置づけだろう。精華集の惹句は「現代短歌ニューウェーブ」となっていて、1980年代の終わり頃から台頭した口語や記号を多用するライトな感覚の短歌が、ほぼ10年を閲して歌壇の中心を占めるようになったわけだ。今回、『新響十人』に集った歌人は、石川美南生沼義朗黒瀬珂瀾笹公人島田幸典、永田紅、野口恵子、松野志保松村正直、松本典子の10人である。最年長の松村正直と松本典子が1970年生まれ、最年少は1980年生まれの石川美南である。27歳から37歳までの歌人を集めたことになる。10年前の『新星十人』に集った歌人たちは、今では歌壇の中核を担うベテランとなり、彼ら抜きの短歌シーンは想像できないほどである。それから10年後の『新響十人』の歌人たちは、現在は若手の位置取りだが、将来は確実に歌壇を牽引する役割を担うものと思われる。この10人のうちの多くを「今週の短歌」で既に取り上げて紹介した。松本典子の『いびつな果実』は歌集が見つからず断念した。野口恵子はこの精華集で初めてその歌業に触れた。『新響十人』の歌人たちの歌を2首ずつ引いてみよう。

 夕立が世界を襲ふ午後に備へ店先に置く百本の傘  石川美南
 カーテンのレースは冷えて弟がはぷすぶるぐ、とくしゃみする秋

 ペリカンの死を見届ける予感して水禽園にひとり来ていつ  生沼義朗
 初夏の東京の空切り裂かれ襤褸となって水は落ちくる

 黒悍馬溶けつつ駆ける 青年のそびらに彫りしメビウスの輪に  黒瀬珂瀾
 父一人にて死なせたる晩夏ゆゑ青年眠る破船のごとく

 憧れの山田先輩念写して微笑む春の妹無垢なり  笹公人
 すさまじき腋臭の少女あらわれて仏間に響く祖母の真言

 首のべて夕べの水を突く鷺は雄ならん水のひかりを壊す  島田幸典
 晩夏(おそなつ)に潜める秋のようなもの以仁王(もちひとおう)のその馬の鞍

 ああそうか日照雨(そばえ)のように日々はあるつねに誰かが誰かを好きで  永田紅
 下敷きの青さ加減を日に透かすコスモス上下に揺れている午後

 暗雲に呑まれる世界で君と聞くダリア花咲く傘の雨音  野口恵子
 地下鉄にぐるり縛られ東京は浅黒き血が滲んでいたり

 青い花そこから芽吹くと思うまで君の手首に透ける静脈  松野志保
 花びらのようであったかこの夜のどこかで剥がれ落ちた爪さえ

 イタリアンレストランにはイタリアの国旗が垂れて、雨となりたり  松村正直
 だから言わんこっちゃないとの口ぶりの社説を読みてパン二枚買う

 ゆづられぬ恋と思はむ時にこそわが取り出す〈陵王〉の面  松本典子
 初がつを旬のいのちの煌きをかなしめり舞ふときの眼をして

 この精華集に集った歌人たちは、20年前の短歌界の大事件・サラダ現象以後に作歌を開始した人たちであり、歩み始めた時には1980年代に始まった加藤治郎の言う「修辞の時代」の華々しい短歌群が眼前にあったはずだ。彼らは兄の世代の短歌群を滋養として育つのだが、80年代に展開された過剰とも言える修辞的傾向は、滋養として吸収されつつも本来の姿とは形を変えてこの世代の作歌に生かされているように見える。たとえば松本典子の歌風は古典的と言えるほどで、文語脈に生き生きと感情を通わせる手法はニューウェーブ口語短歌からかなり離れた位置にある。また島田幸典の知的で静謐な作風は、欧州の政治史研究者としての歴史的視界により広がりを与えられ、ややもすれば個的感情の表現に収斂しがちな現代短歌にあって独自の位置を占めている。また黒瀬珂瀾の絢爛たる耽美的作風は、師の春日井の作品世界から青年性と同性愛的志向を継承しながら、言葉への衒学的なまでのこだわりによってニューウェーブを軽々と飛び越し、塚本邦雄らの前衛短歌に連なる系譜を感じさせる。黒瀬が世代を越えて継承したもののうち最も重要なのは、前衛短歌の〈思想性〉であろう。80年代の短歌が華々しかっただけに、その次に生を受けた世代は、ひとつ前の世代の短歌から何を吸収し、どのようにそれを乗り越えるかという課題に直面したはずである。これらの歌人はニューウェーブ短歌から滋養を吸収しつつも、それとは異なる独自の道を選択したように感じられる。

 生沼義朗と野口恵子は同じ年1975年に生まれている。この世代は1991年2月に始まるバブル経済の崩壊を15~16歳という多感な時期に経験し、1995年の阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件を19歳で目撃してしまった世代である。爛熟した大衆消費社会の中での停滞感漂う「失われた10年」は、「盛塩が地震(ない)に崩れる。神々ももはや時間を使い果たした」(生沼)という感覚をこの世代に刻印した。この世代が明るく伸びやかな青春歌を持ち得なかったのは当然のことである。「大きな物語」(リオタール)が消滅したと誰もが感じる時代にあっては、信じることができるのは細分化された個人の感覚だけであり、ときにそれすらも偽物感が付きまとう。生沼の神経症的都市詠はこの世代が感じる世界への違和感をよく表現している。

 なにげない主題とフラットな口語性において、ニューウェーブ的語法に最も近い松村正直、自然体ののびやかな感受性を常に感じさせる永田紅、劇的な物語性のなかに裸の個の切なさを表現する松野志保、水原紫苑が「口語でも文語でもない」と評したという文体で独特な説話的世界を展開する石川美南、笑いを盛り込んだポピュラリティーの中に抒情世界を忍ばせる念力短歌の笹公人、これらの歌人もまた前の世代の短歌を滋養としつつ、それぞれ自分の短歌世界を展開している。今回『新響十人』に集った歌人以外にも、横山未来子目黒哲朗ひぐらしひなつ錦見映理子村上きわみ佐藤りえ今橋愛鹿野氷十谷あとりなど、今後の活躍が注目される歌人は数多くいる。また最近出版された歌集のなかで私に最も深い刻印を残したものとして、山下泉『光の引用』(砂子屋書房 2005年)をあげておきたい。

最終回にあたって「現代短歌のゆくえ」のような展望を書くことが望ましいのだが、私にはその膂力が不足している。そこでお茶を濁すため、いくつかのエビソードを紹介しよう。
 神戸女学院大学教授にしてフランス現代思想の研究家である内田樹は、私が愛読する書き手だが、文学部で卒業論文を書く最近の学生の傾向について、次のように述べている。彼らは特定の作家やジャンルのことはよく知っているが、自分の卒論のテーマ以外のものは読んでいない。だから寄り集まっても文学の話で座が盛り上がるということがないという。共通の話題がないからである。この状況は音楽でも似ていて、

 「ねえ、音楽、何聴いてるの?」
 「私? マリリン・マンソン。あなたは?」
 「…スピッツ」

と3秒で会話は終了してしまう。そりゃ、そうでしょう。マリリン・マンソンとスピッツとでは、あまりにかけ離れすぎている。共通分母がないのである。
 次に島田幸典氏から聞いた話。ある短歌のシンポジウムでパネラーの一人として穂村弘が壇上にいた。会場の奥の方に石田比呂志が座っていたが、途中でやおら前列に移動し、机に突っ伏して寝る姿勢を取った。「お前の話を俺は認めない」という意見を態度で示したのである。しかし穂村は何も反応せず、シンポジウムは何事もなかったかのように粛々と進行した。対話の機会は失われたのである。

 これらのエビソードから抽出できるのは何か。まずスーパーフラットな世界状況下で知識や嗜好の断片化と細分化が進行したため、私たちはごく狭い世界に暮すようになったということである。パソコンの構想の提唱者として知られるポール・ケイは、インターネットの発展によって世界はひとつの村(global village)になると予言したが、この楽天的な予言は外れたと言わざるをえない。逆説的なことに、グローバル化によって世界の断片化はむしろ進行している。世界文学全集は売れなくなった。昔は一家に一セット備えられていた百科事典は姿を消し、必要な情報はインターネットから適当につまみ食いされている。しかしその情報の質は保証の限りではなく、私は今年から学生のレポートに Wikipediaの情報を利用することを禁止したほどである。この状況は「知識のコンビニ化」である。その結果として、知識をより高い次元において統合し俯瞰するメタ知識を涵養する機会が減り、文化状況はタコツボ化したのである。

 この文化状況は短歌シーンにおいては端的に「歌論の不在」として表面化する。みんなが自分の好みの短歌を作り、歌人はそれぞれ離れた島として海中に点在するかのようだ。島と島を結ぶ橋は限りなく細い。現在、若手の歌人たちはみなそれぞれの性向と嗜好に基づいて、「自分の世界」を築いているように見える。しかしそのようにして築かれた世界どうしが、ぶつかり合ったり相互に干渉しあう場がなければ、世界は矮小化し自己模倣に陥ることになるだろう。川野里子は『短歌ヴァーサス』5号掲載の「歌論なき世代の祈りの群像」と題する文章の中ですでにこの状況を憂慮しており、私は川野の論旨を繰り返すことしかできない。塚本邦雄と岡井隆の出会いから前衛短歌が誕生したことはよく知られているが、その傍らには無二の伴走者としての菱川善夫がいた。前衛短歌運動は、実作もさることながら、短歌をめぐる論争と歌論を軸として展開されたのである。今日そのような状況は望むべくもない。短歌シーンにおける歌論と論争の興隆と、独自の批評言語を備えた短歌批評が待たれる所以である。

199:2007年4月 第4週 杉森多佳子
または、泉下に師を呼ぶ文学的孤児

ガーゼ切り刻みたるごと散るさくら
    わがてのひらのまほろばに来よ
     杉森多佳子『忍冬(ハネーサックル)』

 今年は桜が開花してから低温傾向が続いたので、花が長持ちして例年よりも長く花を楽しむことができた。いつもならソメイヨシノが散ってから、4月中旬頃に開花する京都の御室の桜も、あまり時間差なく満開を迎えた。掲出歌は桜を詠んで「ガーゼ切り刻みたるごと」と形容していて美しい。ガーゼというと、小池光の「いちまいのガーゼのごとき風たちてつつまれやすし傷待つ胸は」という歌が思い浮かぶが、繊細さと傷付きやすさの記号として短歌で用いられることがある。しかしガーゼを切り刻むという表現に痛ましさと残酷さが感じられ、作者が心に深い傷を抱えていることを思わせる。切り刻まれたガーゼのような桜の花びらに「わがてのひらのまほろばに来よ」と呼びかけている所に、作者の思いの深さが感じられる歌である。

 杉森は1962年生まれで、中部短歌会に所属し春日井建に師事し作歌を始めている。春日井が泉下の人となったのを機に、中部短歌会をやめて「未来」に移り、加藤治郎の指導を受けているという。『忍冬(ハネーサックル)』は2007年に出版された第一歌集で、跋文を加藤が書いている。歌集題名の「忍冬」は、「ニンドウ」または「スイカズラ」という和名の植物から採られている。花に蜜があり和名の「スイカズラ」(吸い葛)も英名の honeysuckleもそこに由来する。「身動きのとれない辛さに耐えながら過ごした日々」への思いを常緑で冬を越す植物に託した題名だという。

 現代短歌の貴公子・春日井建の逝去は多くの人に悲しみを残した。杉森も例外ではなく、この歌集には師であった春日井に寄せた歌が多く収録されており、さながら挽歌集の趣すらある。その思いは真摯で悲しい。

 一滴のしずくとなりてつばめ翔ぶ青の密度の深まる五月

 少年が白球を追う空の果て 圏外という表示が点る

 コクトーの阿片に溺れる人生を疼痛として受けとめる夜

 悲しみをこの夕空にに放つなら紫陽花色に変わる日輪

 この連作は師へのオマージュであり、跋文で加藤が指摘しているように、1首目は春日井の「青海原に浮寝をすれど危ふからず燕よわれらかたみに若し」を、2首目は「白球を追ふ少年がのめりこむつめたき空のはてに風鳴る」を踏まえている。白球を追う少年は春日井であり、春日井が空のかなたに去って、後に残された弟子の携帯電話には圏外の表示が無情に点るのである。阿片はモルヒネとして末期癌患者の苦痛緩和に医療的に用いられている。また4首目が春日井のどの歌を踏まえているかは言うまでもない。

 作者は30代の半ばに、夫君が病を得て入院を繰り返すという辛い経験をした。夫を看病する自分を正岡子規を看病する妹の律に重ねて生まれたのが次のような連作である。

 入院の夫の付きおり病む子規を看取り続けし妹のように

 うっすらと色の褪せたる病衣干す せつなしわれと子規の妹

 鶏頭の赤さが零す黒き種子そのこまかさを心に蒔けり

 獺祭忌に妹としてささげよう拙き歌とあたたかきココア

 庭眺め眺めつくして死を待てり百年前の子規のまなざし

3首目の鶏頭は、当然ながら子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」という句につながる。4首目の「獺祭忌」は子規の忌日の名称。獺はカワウソである。作者は自分と夫の関係を子規と妹の関係に重ねることにより、期せずしてアララギ派の源流へと思いを馳せたことになる。もちろんここでは自らの境涯を律のそれと二重写しにすることが眼目なので、「写実」という短歌技法が焦点化されているわけではないが、病床の子規とその歌業に思いを馳せることで、作者と短歌の関係にもまた微妙な変化が生じたにちがいない。跋文で加藤も書いているように、そこに結社の磁力があるのだろう。春日井という直接の師、また子規という100年前の短詩形文学の改革者へのまなざしは、とりもなおさず過去へのまなざしである。「師に学ぶ」ことを通じて「過去に学ぶ」のであり、ひいては「過去に連なる」という感覚が生じる。杉森の歌集を読んでいると、作者が必死でその糸をたぐり寄せているように感じられる。

 この感覚は近年登場した若い歌人には希薄なものだ。若い歌人の大部分は、〈私〉と短歌形式とが直接に向き合うという構図が一般的であり、〈私〉がひとりで一行の歌に向かいあっているような心細さがある。これは短歌における一種の原理主義であり、教会と司祭の仲介を否定し、私が直接に神と向き合うとしたプロテスタントの考え方と似ている。しかし、杉森はそうではなく、泉下の師を呼び、また100年前の子規に思いを馳せることにより、自らの立ち位置の次元を拡大しえていると言えるだろう。歌集を一読して次に引くような歌が印象に残った。

 読み上げる死者の名と名は繋がれて鎖となりぬ九月の空に

 秋冷を運び来る雨見上げれば刃こぼれのごと身にかかりたり

 湯の中にさくら漬浮くしずけさに薄暮ひろがる人から人へ

 ゆうぐれに結語を書きて発ちゆかんブロンズレッドに染まりゆく文字

 捨て印のごとき口づけ交わしおり水没の街を記憶するため

「捨て印のごとき口づけ」や「湯の中にさくら漬浮くしずけさ」のような喩も魅力的で、言葉の堅さ(抽象度)と柔らかさ(感情度)のバランスがほどよく、やや前者が勝っている歌である。文体的には倒置法が効果的に用いられ、また言葉の堅さを調整するため漢字と平仮名の配分も意図的に勘案してある。

 しかし杉森のほんとうに作りたかったのは次のような歌ではないだろうかと思う。

 見下ろせばオープンセットのごとき街役を降りたい一日始まる

 いつかしら この雨音を聴いたのは わたくしを消す降り方をする

 足首から冷えてせり上がる悲しみをたたえてわれは水のレプリカ

 水のなき夏の池めく駐車場ひとり降ろされ風になるわれ

 春の空突き上げてゆくさびしさの尾にとどくまで香水振れり

 すぐ上にあげた歌群と比較して、〈私〉と私の感情がより直接的に言及されている。ここでは短歌は〈私〉を表現するための手段であり、〈私〉を盛る器である。しかしひとつ前にあげたような歌群においては逆に、短歌という短詩形式が〈私〉という場を通過することで実現されているように見える。前者の場合、短歌は〈私〉の道具であり、後者の場合は〈私〉が短歌の道具なのだ。このどちらの回路に重点を置くかによって、歌人の歩む道は大きく異なるだろう。「手にならす夏の扇とおもへどもたゞ秋かぜのすみかなりけり」という後京極良経の名歌を口ずさむと、私の中では軍配は後者に大きく上がる。

 『忍冬』を読む限りでは、杉森のなかではこの両方の道が鬩ぎ合っているようだ。第一歌集の上梓が呼び水となって作者の歩む道に変化が生じるのかどうか。気になるところである。

198:2007年4月 第3週 棚木恒寿
または、薄くメランコリーを含んで自己を見つめる歌

ブイ揺れて取り残さるる夏蝶を
     喩となす前に君に差し上ぐ
        棚木恒寿『天の腕』

 ブイとあるので海の風景だろう。夏の海と蝶の取り合わせは青春の風景である。作者は歌人なので、この光景を喩として歌の素材にしようとするが、その前に「君」と呼ばれている女性に捧げるというのである。短歌という文芸に関わる人間と生身の現実との微妙な関係性が背景にあり、清新な抒情という言葉がぴったりの歌である。このような歌を青春時代に作り得た歌人は幸福と言えるだろう。

 作者は昭和49年(1974年)生まれで、高校生の時に教員であった玉井清弘の影響で短歌を作り始めたらしい。田中槐の高校では村木道彦が国語の教師をしており、大松達知の高校には奥村晃作がいたというから、出会いというのは恐ろしい。私も高校時代に国語の苫名康先生という方のおかげで文芸に開眼した。高校生の心はまだ可塑性に富んでいるので、先生の影響力は大きい。私は大学の教員をしているが、私なりに学生の人生の進路を変えるような教師でありたいと思っている。棚木はその後、当然のように「音」短歌会に入会し、現在は滋賀県の高校で数学の教師をしているという。棚木の高校からも将来の歌人が生まれるのだろうか。『天の腕』は2006年に上梓された第一歌集。栞文には京大短歌会の先輩である島田幸典吉野亜矢内藤明が寄稿している。

 棚木と同世代では、1975年生まれに生沼義朗、永田紅、笹公人がおり、1973年生まれには玲はる名、佐藤りえがいる。この世代の人たちは大学に入学する18歳前後にバブル経済がはじけソ連が崩壊するという歴史的大事件に遭遇し、その後の「失われた10年」を青春時代として生きている。いま名前をあげたなかでは、永田はその経歴から、笹はその作風からやや異質だが、その他の歌人の作る歌には程度の差はあれ「失われた10年」の影が差している。棚木の場合はどうだったのだろうか。京都の大学の理工系学部に学び、卒業して高校の教師としての日々を送る。『天の腕』に収録された歌を読むと、京都という風土のせいか、時代の落す影は薄く、自分の立ち位置を原点とする比較的狭い日常をていねいに掬い上げる歌風の歌が多い。

 検閲にむかし残業ありしかな採点にわれは魅了されゆく

 メモ用紙置きて去りにし一人居て朝顔の花に載るほどの文字

 急いて食む駅のカレーの黄はあわれ揺れてるだろうわがのどぼとけ

 こおり水注がれて立つ魔法瓶しばしば生を帯ぶる音せり

 すこやかにわが数式は伸びゆけり教室に生徒(こ)のおらぬ時間は

 家族のために水汲みにゆく太郎居ず次郎静かに眠る五限目

 追い詰めし追い詰められし寂しさに水漬くなりわが内の蒼鷺

 逆年順に配された歌集の始めには、教師としての日々に題材を得た歌が多く並ぶ。1首目は、生徒の答案を職員室で遅くまで採点しながら、いつの時代かの検閲官に思いを馳せている。そこには採点に検閲に通じる何かを感じる心の傾きがあるが、採点は決して苦役ではなく作者を魅了するものである。2首目のメモ用紙を置いて行ったのは生徒だろうか。「朝顔の花に載るほどの」という増音を感じさせない喩が美しい。3首目は駅の立ち食いカレーの光景だろう。確かに安食堂のカレーは黄色く、作者はそれをかき込んでいる自分を意識している。5首目は生徒のいない教室の黒板に数式を書いているのだろう。高校の先生もなかなか大変な仕事のようで、6首目は授業中の生徒の居眠り、7首目は作者をしばしば襲うらしい鬱屈の気分を詠んでいる。一読してわかるように、どの歌もあくまで端正な文体で、言葉を操る確かな修辞力に支えられており、あえて名付ければ「抒情と含羞の歌人」と呼べるかもしれない。

 もしかしてトマトの糖度に比べつつ受け入れたのか君のからだを

 落されしサンドイッチの耳のごと夕暮れは来る君抱きし後

 モンキチョウあるいは葩(はな)の影過ぎてローマ字協会ビル壁しろし

 疲れざる靴を購めてのちふかく靴の進化をかなしみにけり

 学帽は路上に置かれたるように旧世紀より残りぬ 空へ

 かまきりの斧の弱さに気づくかな少年が向きを変うる時の間

 短歌の修辞の中心は言葉の取り合わせであり、何と何を取り合わせるかで映像の衝撃力や喩の新鮮さが決まる。棚木の歌には取り合わせの妙味を感じさせるものが多くある。たとえば1首目の「トマトの糖度」の喚起する神経に届く甘美さ、2首目の「落されしサンドイッチの耳のごと」という喩の巧みさ、3首目の「モンキチョウ」と「ローマ字協会」の配合などがそれである。特に「モンキチョウ」と「ローマ字協会」の取り合わせには深い魅力を感じるが、それは蝶の飛ぶ様とローマ字の字体、とりわけ筆記体との間に、形態上の類似があるからだろう。このような喩を一度経験すると、蝶が飛ぶ様がまるで空間にローマ字を綴っているように見えて来る。4首目は足が疲れないという触れ込みのハイテク靴を購入し、そののち靴の進化を哀しむという歌だが、靴という日常的で具体的な事物が歌の中で存在感がある。5首目では、今や絶滅危惧種になった学生帽の喚起する昔と今という時間軸の懸隔に、路上と空という空間軸の懸隔が重ね合わされており、不可思議な魅力がある。6首目は、少年が世界の秘密に触れる瞬間を定着した美しい歌。怖いと感じていたカマキリの斧が実はそれほどの脅威ではないという発見は、少年が大人への一歩を踏み出す瞬間であり、1首全体がひとつの喩となっている。

 次のように静謐ななかにうっすらと諦観とメランコリーの漂う抒情的な歌はなかなか美しい。

 下降して底(そこひ)に届くひとひらよ水槽のごとく景ありにけり

 水際には死ぬために来し蜂の居てあわれわずかにみだりがわしき

 水色の郵便受けに萩なだれ静かに圧してくる高気圧

 曲がりたる自転車の鍵をポケットにせんだんの小花咲くところまで

 溜められし雨水に残る死のにおい凡庸のわが庭に撒かるる

 雄ごころのうすく流るるわが体夕焼けのなか階を下れり

 作者は「失われた10年の影を曳きつつ、ここまで青春に決着をつけられずにきた」と述懐し、「本書によって『若さ』に訣別したいと思う」とあとがきで決意を述べている。京都はなかなか青春と別れることができない街である。しかし第一歌集を世に問うことで、作者は新たな一歩を踏み出しただろう。棚木の大人としての日常から、今後どのような歌が生まれるのか期待したい。

197:2007年4月 第2週 有沢 螢
または、内にあるみづかねの変色を見つめる歌

身のうちにみづかねといふ蝕あるを
  思ふゆふべの『テレーズ・ディケイルー』
       有沢螢『朱を奪ふ』

 著者の有沢螢という名前が本名か筆名か知るすべはないが、いずれにしても美しい名である。「沢の螢」は美しさと同時に命の明滅のはかなさを感じさせる。吉岡生夫の労作『あっ、螢』(六花書林)でも示されているごとく、古来から螢は歌によく詠まれてきた。あとがきによれぱ、著者は6歳から短歌を作っているという。もし本名だとすれば、歌を詠むべくこの世に生を受けたのかもしれないという考えがふと頭をよぎる。

 掲出歌の「みづかね」は「水銀」のことで、水銀は有毒の金属である。日本では古くは水銀の硫化物である辰砂が、朱色の顔料である丹(に)の原料として用いられてきた。だからこの歌の「みづかね」は、歌集の「朱」と微妙に呼応している。『テレーズ・ディケイルー』はフランスの作家モーリアックの代表作の小説。モーリアックはカトリックに深く根ざした作家で、人間の原罪の闇を描く作品が多く、『テレーズ・ディケイルー』は夫を毒殺する妻の物語である。掲出歌はしたがって、テレーズが心に巣くう闇に蝕まれて遂に夫を毒殺するに至ったように、作者が自分の心の中にある水銀のような毒を覗き込んでいるという歌である。水銀の光沢ある銀色と、その向こうに僅かに透ける朱色が歌に色彩を与え、「身のうち」「みづかね」の「み」音の連続がリズムを生みだしている。この歌に見られるキリスト教への傾斜と、自らの内なる闇を凝視する姿勢は、作者の歌の底流をよく表しているのである。

 有沢は第一歌集『致死量の芥子』を刊行後、「さんざん躊躇った末」に「短歌人会」に入会し、『朱を奪ふ』(2007年)はそれ以後の歌をまとめた第二歌集である。岡井隆、小池光黒瀬珂瀾が栞文を寄せている。作者についての情報は乏しいが、断片的記述から、高校の教員(おそらく国語)をしていて、キリスト教徒であり、幼少時に病気から寝たきりの生活を長く送ったことがわかる。歌集題名の「朱を奪ふ」は論語から取ったらしい。「切先の鋭きメスを選ぶ女医われのうちなる朱を奪ふため」という歌があり、病を得て手術で身体の一部を切除する喩として用いられている。

 『朱を奪ふ』にはさまざまな題材を詠んだ歌が収録されているが、中でも人の死に関係する歌が目につく。近代短歌のメインテーマは生老病死であるから、それ自体は異とするに当たらない。特徴的なのは死そのものを詠むのではなく、死と触れたときの心の変色を詠んだものが多いということだ。

 友の死を伝へる電話鳴る前にふと静寂がわれをつつめり

 マンダリン・ホテルから身を投げし時レスリー・チャンの目に入りし夜景

「死にたまふ母」しか思ひ浮かばない電車の旅のながき夕暮れ

「肺癌だ。こんな手紙でごめんね」と事務封筒の宛名のみだれ

 祖母の骨素手でつかみし幼子のゆび薔薇色に火照りて見ゆる

 ランドセルの影倒れたりパリ・コミューンに逝きし少年兵のごとくに

1首目は友人の訃報を伝える電話が主題で、電話が鳴る前にフッと心が冷たくなったという不思議な体験を詠んでいる。2首目は自殺した香港の映画スターの死の場面を想像しているのだが、1首全体が隠れた「のやうな目の前の夜景」にかかる喩となっているのだろう。3首目は母親の病気の折りの歌。4首目は病気を告げる友人からの手紙だが、宛名の乱れは差出人の心の乱れであり、その乱れは受取人にもそのまま伝わっている。5首目は親戚の葬儀の場面。ここでも眼目は少年の指が光っていたという事実ではなく、それを薔薇色の火照りと見た自分の心の翳りであるようだ。銀器は美しく輝くが、その輝きは空気に触れて黒く変色してゆく。人の心も同じで、身近な人の死に出会うことで心の一部が黒ずんで変色する。銀器の曇りは磨けば元の輝きを取り戻すが、心に生まれた変色は消えることがない。有沢は人の死を契機とするこの心の曇りをていねいに掬い上げて歌にしている。そのせいだろうか。上に引用した最後の歌のように、道路でランドセルを背負った子供が転んだだけのことで、パリ・コミューンに死んだ少年兵を思い浮かべるほどなのである。

 この心の変色は、冒頭に述べた自らの内なる闇を凝視する姿勢とも関係していよう。それは「今日の私は神の御心に沿うか」と問う宗教的態度から来るのだろう。作者はこのようにことさらに闇に惹かれているようである。これが「みづかねといふ蝕」である。

 ふたり乗りの絶叫マシーン 落ちてゆく闇の深さを甘受している

 葛きりの店ほのぐらく身のうちに冷たき蜜の闇ながれこむ

 その闇の深さをはかりより深き闇もつひとに惹かるるならひ

1首目は遊園地の絶叫マシーンが表面上は主題であるが、下の句に至ってその表面上の主題は明らかに何かの喩に転じている。余談ながら、このように字義通りの意味がいつの間にか喩へと相転移するところに短歌の言葉の妙味がある。2首目は京都の名店鍵善を詠ったものなのだが、作者が闇という語を扱う手つきは他の歌と変わらない。3首目は場面のはっきりしない歌だが、作者が闇に惹かれていることを明確に語っている。

 集中でも心を打たれるのは病床にある弟を詠った歌である。

 「希死念慮」と診断されしおとうとを見舞へば背後に鍵かかる音

 二輪草毒もて咲くとおとうとの指さす花の白きかそけさ

 真夏日の小樽オルゴール工房に入りて消息消えしおとうと

 「希死念慮」とは自殺願望が懸念されるという意味で、見舞う作者の背後に鍵をかける音が響くところに冷徹な現実がある。3首目はどこかメルヘンのようでほんとうに起きたこととは信じられないが、「寺山修司の嘘を愛す」という趣旨の歌もあるので、詩的虚構かもしれない。その他にも次のようなおもしろい歌がある。

 中井英夫の本ひもとけばこともなく金魚の味に言及したり

 セピア色の画面の中にかつて見し山口二矢の刃の動き

 フラフープの円にみづからとらへられ緊縛されゆく少女のからだ

 私も中井ファンの一人だが、金魚の味の話は知らなかった。山口二矢(おとや)は社会党党首の浅沼稲次郎を1960年に暗殺し、刑務所で自殺した右翼青年。フラフープは1958年に大流行した遊具。どんぴしゃり映画「Always三丁目の夕日」の世界であり、懐かしさを禁じ得ない。その他、印象に残った歌をあげてみよう。

 白金の坂の下なる帽子屋に西日のほかに入るひともなく

 絽の単衣 執念(しゆうね)き蛇の目をしたるひとに会ひたり納涼茶会

 午前五時 天使翔びたつ気配して街の塑像に酸性雨ふる

 そら豆がくつくつ笑ふ鍋の底はじけるまへのざわめきに似て

 胡桃割る音かちりと響くときゆるしの予感家を満たせり

 テニヲハが省略さるる手話の恋きり捨てられしためらひの数

 カルナバル 死者たちはいつ帰るのとささやく声す広場よぎれば

 おそ秋の石畳ゆく影ふたつ薔薇科の罪にとらへられたり

 清正公(せいしやうこう)の夜店にひらく水中花母をしばしば見失ひたり

 以下は蛇足だが、栞文を書く歌人がその歌集を読んで、どんな歌を取り上げるかにはいつも興味を惹かれる。岡井は「ホワイトボードひとつ買ひきてみづからに伝言を書く母の晩秋」をまずあげて、なんでもないようで深みのある現実があると評している。小池は「パンティーストッキングで首をくくりし小説家鈴木いずみの生の加速度」を引いており、いかにも小池の選択と感じさせる。また、集中に「デビルマン群れ飛ぶやうな大茜ひたに地上のわれを囲へり」という歌があり、黒瀬はきっと引用するだろうと思っていたら、予想どおりだった。歌を選ぶというのも立派な批評行為であり、おのずから個性が滲み出る。

 上に引いた有沢の歌では、歌に織り交ぜられた「帽子屋」「天使」「そら豆」「水中花」などの語彙が、字義どおりの意味という現実のくびきを脱して、詩的浮力によってなかば虚の空間に浮遊して、無人称的な虚的意味を帯びる様相を垣間見ることができる。充実した読後感の残る歌集である。

196:2007年4月 第1週 大谷雅彦
または、発光する自然に中に自己を沈潜させる歌

苦しみて花咲かすべし夕闇の
     なか垂直に木蓮光る
       大谷雅彦『白き路』

 大谷が1976年(昭和51年)に第22回の角川短歌賞を受賞したとき、まだ高校生ということで話題になったという。高校生でありながら文語を駆使した文体と静謐な内容におおかたは喫驚し、選考委員の一人の片山貞美は「歌がどうも明治時代に帰っているようなところがあるんですね。(… )汚れていない。これは今の世の中ではちょっとめずらしいんじゃないか」と評したという(『短歌』平成16年10月号の特集「角川短歌賞50年のすべて」)。新聞でも大きく報じられ、この頃から短歌賞の受賞が社会的事件として取り上げられるようになった。しかし大谷は「短歌人」に拠りながら歌作を続けるも、1995年に『白き路』を上梓するまで歌集を持たなかった。角川短歌賞を受賞した「白き路」は歌集巻末に収録されている。

 かなかなとしみ入るこゑをあげながら杉生の中に蝉ひそみをり

 谷あひのもろ田をわたる水の音はけふ里人の壺にありたり

 水近き匂ひがありて幽かなる馬のひづめの音のみ聞ゆ

 確かに高校生が作るにしてはあまりに正調古典派で、老成感すら漂う作風である。しかしそれより驚くべきは、20年の長きにわたって大谷がその作風をほとんど変化させていないという点にある。

 『白き路』は勅撰和歌集の部立にならい、「春」「夏」「秋」「冬」「戀」「雑」という構成を採っており、「挽歌」を欠くが、あとがきに「歌集全体がひとつの挽歌である」と記されている。ここにも大谷の古典志向がよく現れているが、それは単に構成上のことではない。通読して私が強く感じたのは、歌のをちこちに漂う「湿り気」である。大谷が歌に詠む題材は自然、なかでも樹木と花であり、それは東アジアのモンスーン気候に位置する日本の湿潤な自然である。

 樹の中を水のぼりつつ冷えてゆく泪のごとく花ひらきたる

 さくらばな水にうつりてうすあをし言葉をしまふ夕暮れに似て

 さみだるる夜の湍ちをのぼりこし螢をすくへ歌のはじめに

 湖に生るる雲あつかりき明るめる底ひかすかに雪をふふめる

 やはらかに柳しだるるゆふまぐれ花咲きてのち人はありしか

 水底に水なきごとく陽は差して魚浮かびつつしばし華やぐ

これらの歌のどれにも溢れんばかりの湿潤な自然がある。地には水溢れ、空より雨・雪が降り、樹木はたっぷりと樹液を湛えている。それは欧州のような乾燥し厳しく人を拒む自然ではなく、人を包み込み人と融合する自然である。このような自然の中への自己溶解を通じて自己浄化を希求する態度は、古典和歌の時代から歌という器を用いて行なわれてきたことである。この態度から生まれるのは葛藤と煩悶の短歌ではなく、観照と慰藉の短歌である。

 自己浄化を希求する視線の先にあるのは、あるがままの自然ではない。視線に捉えられたというまさにその一点により、自然は知覚者の心に映じた自然となる。そして大谷の視線が捉える自然は、自らの光で発光する自然である。

 ふりしきる三月の雨一切の光を閉ぢて櫻樹てるを

 夜となりて時雨重なる菜の花の黄のかぎりより光湧きくる

 きざはしのかなたに光りゐるものを花と呼びたるあなたのために

 降りしきる朝の時雨に打たれつつ森あり徐々に光りはじめぬ

 光りつつわれの渚に降る時雨かそけく降れば人見つらむか

『白き路』は「光の歌集」と呼んでもよいくらいに、発光する自然に満ちている。この自然に見入るとき、作者の自己の輪郭はぼやけてゆき、言葉を失うのである。

 合歓の花咲きさだまりて夕べふかし輪郭あはき言葉を放つ

 雲みちて雲明るめるはるかなる空にかへさむ人も言葉も

 大谷の短歌を論じるとき、三枝昂之が「規範としての定型詩 ― 短歌表現の現在性をめぐって」と題された文章で行なった厳しい批評に触れないわけにはいかない(『現代定型論 気象の帯、夢の地核』所収)。三枝は「なぜ今短歌形式を選び取っているのか」という根源的問いかけを基盤として、「安保粉砕とか、東大解体とか、革命的恋とか、そんな言葉が一つ一つ風化していって、何のデコボコもない言葉の情況の中で、歌人たちが言葉を歌に高めようとして使う短歌の定型を、どのように使っているか」という情況論的問いかけを発する。そして次の3首を引用して、「詩人の詩的力量と史的体験の一回性がびったりと結合されて成立した作品」であると高く評価する。

 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す  宮柊二

 装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている  岸上大作

 運動部・民青・明日・機動隊 旗棹のさき尖鋭に研ぐ  福島泰樹

そして三枝は大谷の「白き路」の巻頭2首を引用し、次のように評している。

 あらくさの最中に光る泉あり春のひかりの在処と思ふ

 白樫の枝に崩るる残雪のかそけくなりて春たつらしも

 「ただただ見事な短歌的措辞と、ただただ見事な短歌的秩序である。ここには歴史的な時間の切れっ端が全くないだけではなく、生活とか日常性とか、作者の思想の独自性とかも見事に消し去られて、定型詩短歌のモデルコースとしての自然観と定型観とその措辞があるばかりである。」

 なかなか厳しい批評である。三枝は続けて「ある絶対的な規範を短歌に見出して、その定型観や自然観の中に自己を溶解してゆくという光景」は、「時代との軋轢を喪ったとき、歌人はこのような形で短歌に敗れはじめた」ことの徴候だと断じている。

 三枝がなぜここまで激越な言葉で大谷の短歌を批判したかを理解するには、いささかの歴史的回顧が必要となろう。三枝がこの文章を『かりん』に掲載したのは、1979年(昭和54年)1月である。三枝らが関わった新左翼を中核とする学生運動は、1970年に実質的に終息し、1972年の連合赤軍浅間山荘事件で息の根を止められる。その後、青年の政治離れが急速に進行し、もう足音が聞こえていた大衆消費社会の物質的豊かさの中に自己の在処を見いだす時代を迎えるのである。三枝の短歌をめぐる本質論的問いかけとそのいらだちは、このような時代背景を抜きにしては十分に理解できない。三枝の議論の中心にある「短歌が時代と切り結ぶとき優れた作品が生まれる」という思想は、それ自体が時代の刻印を受けた思想である。やがて短歌は80年代に入って修辞の復活とライト・ヴァースの時代を迎え、多様な方向へと拡散してゆくのである。

 確かに三枝の言うように大谷の短歌は「時代と切り結ぶ」短歌ではなかったかもしれない。それは自己への沈潜の短歌である。しかしそれから30年の年月を経て振り返ってみると、短歌定型に拠り自己へと沈潜する態度もまた、別な意味で時代の刻印を受けていたようにも見えるのである。

195:2007年3月 第5週 森本 平
または、悪意というモラルで世界に向かう歌

ルサンチマンのかわりに夜空へ放ちやる
      ぼくらのように美しい蛾を
            森本平『モラル』

 森本のような歌人の場合、「代表歌」という概念があまり意味を持たないので、掲出歌を選ぶのに困る。しかし、それを裏返せば、どの歌を選んでもかまわないということになり、気が楽になる。2003年の『短歌WAVE』で森本は、掲出歌と並んで「手を伸ばせども指の透き間をすり抜けるあの夏色の空を忘れず」と「丹頂の白きのみどを持つひとよ天啓として声あらしめよ」の2首を自分の代表歌として挙げている。また2004年の『現代短歌雁』の特集では、「倦怠は揺り籠である まぎれなく水平線のエッジが光る」という歌集『橋を渡る』からの一首を挙げている。これらの歌だけを見ると、森本という歌人は何て抒情的な作風の人だろうと思うかもしれないが、それはまったく誤った印象なのである。なにしろ現役の高校教員でありながら、「口答えばかりしやがるあのコムスメ今度宿直室で犯そう」などというトンデモない歌を堂々と作る人なのである。

 森本自身も自分の歌のトンデモなさをよく意識していて、第3歌集『モラル』を出版したときも、「こんなものは歌じゃない」「おまえなど歌をやめろ」「草葉の陰で祖父が泣いているぞ」などの「暖かい励ましのお手紙を多数頂戴した」と自分で書いている。ちなみに、森本の祖父は万葉学者・歌人で駒澤大学教授であった森本治吉、母は槇弥生子だから、三代続く歌人の家系なのである。どんな分野でもそうだが、三代目というのは辛い立場だろう。第1歌集『空を忘れず』(1989年)、第2歌集『橋を渡る』(1994年)、第3歌集『モラル』(1997年)、第4歌集『個人的な生活』(1999年)に続いて、セレクション歌人『森本平集』(2004年)に第5歌集となる『ハードラック』を収録、第6歌集の『町田コーリング』が2006年に刊行されたばかりである。『森本平集』の略歴欄に、第6歌集は逝去したジョー・ストラマーの追悼歌集『クラッシュ(仮題)』になるはずだと書いていたが、見事に外れたわけだ。

 セレクション歌人『森本平集』を責任編集した谷岡亜紀が、「悪意というモラル」と題された森本平論を巻末に寄稿している。私などよりもはるかに森本のよき理解者である谷岡ならではの行き届いた歌人論である。「いかに時代と向き合い、時代を反映するか」という一点に絞られるのが森本の創作意識であり、森本の認識する世界の現実とは、「日常化、矮小化、俗化、個別化したリアルな悪意の現実性」に他ならないとする論旨である。それがしばしば「残酷だ」「汚い」「差別的だ」との悪評を被る歌作につながるというわけである。実際のところ、『森本平集』から比較的穏当なものを選んでみても次のような歌が並んでいる。

 かく愛は夕餉の中で頽れる手乗り猫の串焼き味噌付き

 横たわる姿勢のままで裂きしゆえ立ち上がらねば腸はこぼれず

 どことなくくさやを思わす匂いにて一夜干しせし少女を食めり

 公園で乳房をさらしキューピーをあやす女の口よりよだれ

 「現代の社会が病んでいて残酷である」というのがリアルな真実であるのなら、それを包み隠さず短歌に反映させるのが誠実さであり、時代の狂気をそのまますくい取る作品があるべきだというのが森本の信念なのである。いかなる信念を持つことも個人の自由に属するので、この信念に文句をつけるのは不当というものだろう。言うまでもないことだが、森本の作る短歌を好むかどうかもまた個人の自由である。

 そんなことより、『森本平集』を読んでいて「おや」と感じたことに触れてみたい。2001年に死去した仙波龍英の死を悼む「三月兎の死 ― 先駆性への墓標」と題された文章の中で森本は、80年代の後半に話題になったライト・ヴァースの代表的作家として加藤治郎と俵万智の名ばかりがあげられることに異義を唱えて、仙波こそ日本におけるライト・ヴァースの嚆矢として再評価されるべきだと論じている。短歌に何を盛るかという主題意識と、現実を見据える目線において、森本と仙波には確かに共通する点がある。仙波の『わたしは可愛い三月兎』を今読むと、ライト・ヴァースと呼ぶには余りに重い文体と主題に驚くが、それより目に付くのは付された夥しい註と詞書きである。たとえば、「ヨット上にらみをきかすここのつがファンキー族の姉とをとこに」の中の「ファンキー族」には、「昭和35年にあらはれた軽薄な若者達の呼称」という註が付されており、その他にも「メリナ・メルクーリ」「赤木圭一郎」「渡邊マリ」「草加次郎」など昭和30年代の風俗と事件に関するたくさんの註がある。夥しい註で話題になった作品といえばすぐ頭に浮かぶのが、田中康夫のデビュー作『なんとなくクリスタル』(1980年)、略称「なんクリ」だ。仙波がこだわるのが歌集刊行時の1985年ではなく、自分が少年時代を送った昭和30年代の風俗であり、一方、田中は大衆消費社会を迎えた70年代後半の進行中現在の風俗だというちがいはあるものの、なぜたくさんの註が必要なのかという理由は共通している。それは「短命ですぐ消え去る運命にあるもの」(ephemeral)を作品に取り込んだからである。

 しかしながら、仙波と森本には決定的なちがいがある。『わたしは可愛い三月兎』の跋文で小池光は、なぜ仙波が「ぺらぺらのかんなくづのような、今日流行り明日には滅亡する、はなはだ『俗悪な』ものたち」を短歌に詠むのかと問いかける。そして、仙波の思い出は流行とともにあり、流行を思い出すことなくワタシを思い出すことができないのであり、自分とまわりに明確な一線を引けず、両者が互いに滲み合っているというのがその理由だと断じている。言い換えれば、現代の大衆消費社会を先取りするような例外的境遇に育ち、仙波の〈ワタシ〉が〈ephemeralなもの〉に支えられ、それと不可分なかたちでしか形成されなかったということであり、仙波の短歌に漂う悲劇性はそこに由来する。仙波の唐突な死はその悲劇性を完成させたようにすら見える。しかし今日仙波の短歌を改めて再読すると、〈ephemeralなもの〉と不分離であるという〈ワタシ〉のかたちを内的に生きたという点において、読者である私たちはある感動を覚えるのであり、またそこに現代を先取りする先駆性を見ずにはいられないのだ。森本は「ライト・ヴァースの先駆者」として仙波を再評価することが目的で小論を書いたのだが、実は仙波が先駆者であったのは、上に述べたような「〈ワタシ〉のあり方」においてである。

 一方、森本はどのようなスタンスで〈ephemeralなもの〉に向かっているのだろうか。

 太陽に手紙を出そうバカボンのパパよりもっとこれでいいのだ

 ゼラチンは揺れつつ崩れ 生涯を現役のまま馬場の逝きにき

 ほされいるTシャツ蒼く揺れており岡田有希子の十三回忌

 明日よりは晴耕雨読で過ごさんとさらば哀愁のエリマキトカゲ

 ほほえみは何も救いはしないのだから松田聖子なんて嫌いだ

 森本が〈ephemeralなもの〉を扱う手つきは軽いようでいて、実は軽くはない。言葉から滲み出る悪意と呪詛と攻撃性は、作者が「醜悪な現実」と見なすものに立ち向かう姿勢をことさらに露わにしてしまう。振り上げたこぶしばかりが見えてしまう。そして逆説的ながらも、向こう側に見えるはずの「醜悪な現実」が、作者の振り上げるこぶしの陰に隠れてしまうことがある。なぜこうなるのだろう。仙波とのちがいはどこにあるのか。

 それは仙波が〈ephemeralなもの〉や時代の「醜悪な現実」を一方で厭悪しながらも、それと不可分なかたちで自分を形成したものとして、愛おしく思わずにはいられなかったからではないか。仙波は「醜悪な現実」を憎むと同時に愛したのである。そのとき、ephemeralなぺらぺらの現実を詠うことは、自分の半身を詠うことに他ならない。「ぺらぺらの現実が自分の血となり肉と化している」という自覚がそこにある。

 ナナ、つばき、菊水、のり子と続く路ゆけば秋風この身から立つ

 並んだ固有名は新宿ゴールデン街の飲み屋で、「どの店も狭い」となくてもよいような註が付されている。このどうでもよい細部がぺらぺらの現実を担保している。そして秋風はゴールデン街から吹いて来るのではなく、仙波自身から立ち上がるのだ。これが仙波が獲得したスタンスである。そして森本と仙波のちがいもここにあると思われる。

 森本の歌は谷岡が明快に分析してみせた方法的意識に基づいて作られているので、連作意識が強く一首の独立性が低い。そんななかでも読んでいて、「あっ、これはいい」と思う歌がないわけではない。

 反抗すゆえにわれある黄昏(こうこん)のこうこんなるは空のたまゆら 『空を忘れず』

 ジェラス・ガイ 暑さで閉ざす眼裏に光まみれの燕が見える  『森本平集』

 ゼラチンは揺れつつ崩れ 生涯を現役のまま馬場の逝きにき

 窓ごしに棕櫚を見ておりカフェオレを飲む間に消える淡き性欲

 鼻唄はなぜかパヴァーヌ ドライ・ジン越しに眺める世界は揺れて

 役立たずな気分の夜はコンビニでしあわせ印の桃缶を買う

 これらの歌は、自分の内部にある「ぺらぺらの現実」を静かに見つめるスタイルの歌であり、そんなときには私も共感できるのである。

194:2007年3月 第4週 石井辰彦
または、音楽的実験を追求する現代短歌のゆくへは

一掬(イツキク)の記憶を愛す。忘却は
  祝(ほ)ぐべき人間(ひと)の習慣(ならひ)なれども
       石井辰彦『全人類が老いた夜』

 石井辰彦は現代短歌シーンにおいては特異な作家と言ってよかろう。その特異さはこの歌集の題名にも現れていて、『全人類が老いた夜』というような題名は歌集の題名としてはあまり見られないタイプのものである。短歌の祖先である和歌の中核をなす主題であった花鳥風月とは完全に切れており、それは石井が近代短歌を跳び越えて現代短歌作者たらんとしているからである。この題名と同じタイトルの連作が巻頭に置かれており、この夜とは2001年9月に起きたアメリカ同時多発テロの夜のことであると知れる。

 窓といふ窓を(急いで)開けよ! ほら、天翔(あまがけ)る悪意を視るために

 隈もなく世界は霽れて…… 澄んだ目の・なんて・邪悪な・殉教者・なの?

I thought of those September massacres… とは、口遊(くちずさ)むには、辛き詩句

 人類の過失の歴史。それのみが真実かも? と惟(おもひ)みるかも

 空港も未来も封鎖。だつて、全人類一気に老ゆる夜(よる)、だぜ

 なにもかも潰(つひ)えて落ちよ。人類の静かに恐怖する真夜中に―

 一読してわかるように、歌の主題は同時多発テロが世界に撒き散らした恐怖とそれを継起とする世界の崩壊の静かな予感であり、特に難解な所はない。おおむね定型を遵守しながら時折破調を交え、文語・旧かなを基調としつつ時に口語が顔を出すというのも、現代の短歌作者に多く見られるパターンである。石井の短歌が特異なのは、通常の句読点だけでなく、丸パーレンや中黒や疑問符・感嘆符、三点リーダーや長ダッシやルビなど、考えつく限りの印刷記号を方法論的に短歌の構成要素として取り入れている点にある。読みの与えられない記号を短歌に取り入れる記号短歌は、1980年代のニューウェーブ短歌で数多く試みられ、やがて飽きられたのか姿を消した。石井の場合、単に目新しさからさまざまな印刷記号を取り入れたのではなく、短歌についての極めて方法論的考察に基づいていることは、評論集『現代詩としての短歌』を読めばわかる。

 石井がこの評論集のなかで提起している問題には次のようなものがある。

・現代短歌は古典和歌の韻律という財産を受け継ぎながらも、独自のリズムを探求すべきである

・現代短歌は抒情詩の複合体としての叙事詩である連作短歌をめざすべである。

・現代短歌は句読点を含めて記号の使用に積極的であるべきだ。

・詩は音楽をめざすのであり、現代短歌もまた音楽的実験を試みるべきだ。

・短歌は一行の詩である。詩は朗読されるべきものであり、短歌もまた朗読されるべきである。

 石井はこのような主張を展開するにあたって、主として西洋の古典詩学や現代音楽や写真や舞踏など事例を縦横無尽に引用し、しばしば衒学的な膨大な注を付している。その使用概念のほとんどが舶来のものであるため、ときおり「西洋かぶれ」と呼ばれることがあるとは石井自身の述懐である。上に並べた石井の主張の全部を検討することはできないので、記号の使用と韻律の問題を取り上げて考えてみたい。

 評論集『現代詩としての短歌』のなかの「主張する記号」で、石井は釋迢空の次の短歌を引用し句読点の効果を述べている。

 かたくなに 子を愛で痴れて、みどり子の如くするなり。歩兵士官を

 石井によれば、一字アキ→読点→句点と徐々に拡大する休止の連続が、作者の高まる心情を音楽のクレッシェンドのように表現しているということである。また自作を引用して

 「人間(ニンゲン)を賣る店ばかりにぎはへる(街」を炎がつつむ日を待ち)

では「 」と( )の両方に跨る「街」という語が、二重の帰属関係によって二倍の意味的重量を持つとし、

 ふたりづれの天使は邑(まち)の男たちに(實は!)輪姦(まは)されき。といふ傳承(つたへ)

では、パーレン内の(實は!)は耳元で囁くように、しかし感嘆符がついているので鋭く読まれることが期待されていると述べている。

 実に周到な配慮で感心するほかはないが、一読した印象はそれほど効果が上がっているのだろかうという懐疑的なものに留まる。迢空の歌では、意味は別として表記上では句読点よりも一字アキの方が断絶が深いように感じられる。また(街」の二重の帰属も、言われてみれば確かにそうも見えるが、「人間を賣る店ばかりにぎはへる街」と「街を炎がつつむ日を待ち」が別人の言説とも思えず、二倍の意味的重量の効果が私には感じられない。そして最後の(實は!)の読み方についての石井のコメントは、はからずも石井の短歌観を暴露しているのである。

 それは上に挙げた石井の主張の最後にある「短歌は朗読されるべきだ」という点に関係する。石井は積極的に短歌の朗読会を開いて自らの主張を実践しており、(實は!)についてのコメントは、明らかに朗読されるときの読み方の指定なのである。つまり、句読点や括弧や感嘆符・疑問符など石井が多用する印刷記号は、メロディーを構成する音符の他に作曲家が楽譜の余白に記入するクレッシェンド記号 (<)やフォルテ(f)やピアノ(p)や Tempo rubatoなどのリズム指示と同じように、「短歌を朗読 (演奏)するときには、このように読んで (演奏して) くれ」という作者の指示なのだ。ここまで自分の短歌の読まれ方に細かい指定をした歌人はいないだろう。

 しかしこのような態度にはいささか問題があると言わねばなるまい。大きく分けてふたつの問題を指摘できる。第一は、「作者はそこまで読みの方向性を拘束できるのか」という問題である。作者はもちろん作品の創造者であり、作品にたいして著作権を持つわけであるが、作品はこの世に生み出された瞬間から作者の手を離れて公共のものとなる。作者の手を離れなくては作品は作品たるを得ない。ここに創作をめぐる深い逆説がある。作品が作者の手を離れた瞬間から、読みは読者 (受容者) のものである。作者による自作解説が喜ばれない理由はここにある。〈読み〉とは意味解釈のうねる過程そのものであり、それは一種の〈共同幻想〉である。したがって、石井が自作に施す読みの指定は、作者から読者への過剰な介入なのである。そのために、うねうねとした行きつ戻りつの過程を経るのが常態である〈読者の読み〉のなかから作者の顔が立ち上がるのではなく、作者が歌の横から顔を出す結果を招いている。これは望ましい状態とは思えない。

 第二の問題は、石井が短歌における韻律やリズムの重要性を力説しているにもかかわらず、多用される印刷記号が読者に読みの過程における内的韻律の形成を阻害しているという点である。たとえば上に引いた「ふたりづれの天使は邑の男たちに(實は!)輪姦されき。といふ傳承」という歌から句読点と記号を除去し、ついでにムリ読みのルビも仮名にしてみる。

 ふたりづれの天使はまちの男たちに實はまはされきといふつたへ

原文と改作とを比較してみれば、改作の方が短歌本来の内的リズムが読んでいて無理なく心の中に流れることがわかる。音楽におけるクレッシェンド記号やフォルテ記号は演奏者のためのものであり、聴衆のためのものではない。短歌の読者は演奏者ではなく聴衆の立場にある。だから演奏指定記号は聴衆の音楽の受容の妨げになるのである。

 また次のような実験的作品を見れば、石井が短歌にたいしてどのようなスタンスを取っているのかがほの見えてくるだろう。本来はルビが振ってあるのだが、技術的理由により再現できないのをご容赦いただきたい

 えいいう えいいう  ぐんしう
 人間は人間を刺す〈人間はただ見る〉いつも〈世界〉は〈舞台〉
 
はいいう はいいう  くわんきやく        〈舞台〉は〈世界〉

最後の「〈世界〉は〈舞台〉」と「〈舞台〉は〈世界〉」は、線路が二股に分岐するように書かれているのだが、これも再現できない。石井がここで試みているのは、観客が同時に俳優となるような多層的な演劇のアナロジーである。単線的な歌の読みに飽きたらず、多層的・多岐的な意味形成を試みているのだ。

 石井は伝統的な短歌のあり方を痛烈に批判し、現代短歌は世界的文脈のなかで考えなくてはならないと説く。その主張はもっともなことである。しかし、短歌形式拡張の可能性を実験する時に石井が用いる手法は、20世紀において現代詩や現代音楽で試みられた手法の借用である。そして現代詩がその試みの果てに吃音的な袋小路状況に陥ったこと、また現代音楽が調生を解体して無調音楽となりいつのまにか溶解したことを見ると、果して石井の試みが豊かな果実を生み出すのかどうか、考え込んでしまうのである。

 最後に本質的な問がひとつ残った。石井は評論の冒頭に必ずと言っていいほど「短歌は一行の詩である」と繰り返している。ほんとうにそうだろうか。私はこの断定の内容に懐疑的である。もっと議論されてしかるべき問題であろう。