008:2003年6月 第3週 紀野 恵
または、言葉の織りなす世界への信頼

文に代へ碧瑠璃(へきるり)連らね贈り来し
       人によ夏の氷(ひ)の言葉遣る

             紀野 恵『架空荘園』
 蒸し蒸しする梅雨時を迎えたので、すがしい歌を一首。手紙のかわりに贈られて来たのは、ブルーのガラスでできたネックレスだろうか。ブルーという色も、瑠璃という語感も爽やかである。贈ってきたのは男性にちがいない。ところが受け取った本人は、「夏の氷の言葉」を返すという。夏の氷のように冷たい言葉というほどの意味か。短歌は「私性の文学」であり、主語が明示されていなくても、それは「私」に決まっている。この歌の「私」は、男性のファンと思われる人から贈り物を貰っても、氷のようにつれない言葉を書き送る驕慢な女性なのである。やすやすと異性になびかない誇り高さと、語法の古典的な高雅さの相乗効果が、クリスタルのような硬質の世界を作り出している。作者紀野恵の短歌世界を代表する歌である。

 紀野は1965年(昭和40年)生まれ。小池光・今野寿美・山田富士郎編『現代短歌100人20首』(邑書林)は、現代を代表する歌人100人を選び、生年順に並べるといういささか残酷な編集方針で作られたアンソロジーであるが、最年少の永田紅から最年長の浜田康敬までが並ぶなかで、紀野は前から14番目に位置している。若いのである。しかも、1982年で角川短歌賞次席に選ばれたのが弱冠17歳で、デビュー当時から天才の名を欲しいままにした人である。

 紀野の短歌の特徴は、年齢とは不釣り合いな新古今風の王朝的古典語法と、他に類を見ない歌柄の大きさである。

 あづま路は遠しさもあれこの度の内つ海さへ越えぬ夢路は

 約せしはあぢさゐ色の絵空事絵日傘さしていづちに行かむ

 片肺のすこし翳れる秋よそれ空を斜めに見てをりたるは

 傾けむ国ある人ぞ妬ましく姫帝によ柑子差し上ぐ

 白き花の地にふりそそぐかはたれやほの明るくて努力は嫌ひ

岡井隆は、紀野の天才を認めつつも、古典語法を駆使あるいは濫用する紀野ら「新古典派」をさして、「現代の奇景」(『現代百人一首』)と評した。塚本邦雄もまた、「警戒すべきは、稀用古語を頻用することと、そのための古典臭とも言うべき癖であろう」(『現代百歌園』)と苦言を呈しているのだが、紀野はそんな批評にまったく頓着せず、自らの路線を邁進しているところが確信犯的である。

 60年代後半から70年代にかけて登場した紀野の上の世代の男性歌人たちが、「微視的観念の小世界」(篠弘)に拘泥して「内向の世代」と呼ばれたのとは対照的に、紀野の短歌世界は「矮小化された私」にこだわらない大きな広がりを感じさせる。

 檸檬(リモーネ)が滴り白布薄染みをかこちがほなる夏ゆふまぐれ

 凍てし夜のふねにはりはり食みゐたる春菊サラダ薄く苦き生(よ)

 夢ぬちに繊月懸かりゐたりけり不確かに橋渡るありけり

『現代短歌100人20首』では、取り上げた歌人に「作歌信条を30字以内で書く」ことを求めていて、これがなかなか面白い。最年少の永田紅の「定型を信頼して作りつづける」という初々しいが優等生的なものもあれば、小池純代の「歌わなければからだにわるい」とか、小池光の「信条、そういうものはない」のように人を食ったものもある。一筋縄ではいかない人たちである。かと思えば村木道彦の「神も思想も信じない現代人の、人間自体に対する祈りが歌である」というしみじみしたものもある。紀野は、「言葉それ自体の持つ意味(世界の意味)をつかまえること」という言葉を信条として寄せている。ここには、「言葉それ自体の持つ意味」イコール「世界の意味」であるという、絶対的とも言える言語に対する信頼が感じられる。おそらく紀野にとって短歌とは、現実を写生するものではなく (アララギ派的リアリズムの否定)、日々の喜びや悲しみを託する器でもなく(反生活実感、私小説としての短歌の否定)、言葉によって世界を作り出す方法論なのである。

 最後に私が特に好きな歌をあげておく。

 ポケットに煙草を探す路地裏に点すときわづか掌のうちは聖

 天蓋はただいちにんのために在る花折る人の孤絶のために

 神も死にたまふ夜あらむ夏が死ぬ夕暮れ吾れは鳩放ちやる

 うるわしきそらとふものもあるものを黄金(くがね)の水をくみたまへまず

 わがうへに夏在るや今うたがひは青蕣(あさがほ)の如く発(ひら)かむ

 わうごんの花びら漬くる酒を賜べ半地下室にまよふ夕光(ゆふかげ)

紀野は夏の歌を作るときに、特にその技が冴え渡るような気がする。

007:2003年6月 第2週 福島泰樹
または、逝きし者たちへの絶叫挽歌

あじさいに降る六月の雨暗く
     ジョジョーよ後はお前が歌え

              福島泰樹
 古典的和歌の世界には、「歌枕」というものがある。古くから和歌に詠まれることによって、高い象徴性を獲得するに至った地名・景物である。吉野、近江、逢坂山、水無瀬、竜田川などがそれであり、こういった名は強いイメージ喚起力を持つ。明治以降の短歌革新運動は、個の自己表現という近代的命題を掲げたため、歌枕のように和歌の伝統的遺産に寄りかかった技法は、意識的に避けられて来たと言ってよい。
 しかし、短歌は極端な短詩形文学であり、31文字による一首はそれだけで自立した表現になることは難しく、外側に拡がるものと接続することで喚起力を増幅する。だから歌に力を与えようとするならば、現代短歌でも歌枕に頼ることになるのである。
 地名に歌枕があるように、季節にも歌枕がある。現代短歌で季節の歌枕の代表は、なんといっても六月と八月である。八月は言うまでもなく終戦と原爆の記憶と結びついている。六月は1960年の安保闘争で、この国民的大事件は樺美智子と岸上大作というふたりの聖者を生んだことで伝説と化した。

 掲載歌以外にも、現代短歌には六月を詠んだ歌は多い。

 六月の雨は切なく翠なす樺美智子の名はしらねども (福島泰樹)

 女ひとり殺せぬおれに六月の雨は不憫にワイシャツ濡らす (福島泰樹)

 こころなきものも殴たれよ六月の嵐のなかのひるがほ揺るる (伊藤一彦)

 六月の雨はとりわけせつなきを粗大ゴミなるテレビも濡らし (藤原龍一郎)

 福島の二首目は、安保闘争の挫折のなかで、1960年12月5日にブロバリン150錠を服用したのち縊死した岸上大作の「血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする」を踏まえたものであろう。
 1943年生まれの福島は、60年安保の年には17歳であり、安保闘争には参加していない。彼が参加したのは1966年に始まる早稲田大学の学園闘争である。その体験が『バリケード・1966年2月』(1969年)として結実し、福島は現代歌人のなかで独特の地歩を占めるに至った。

 眼下はるか紺青のうみ騒げるはわが胸ならむ 靴紐結ぶ

 樽見 君の肩に霜ふれ 眠らざる視界はるけく火群ゆらぐを

 ここよりは先へ行けないぼくのため左折してゆけ省線電車

 ちなみに「紺青のうみ」とは本当の海のことではなく、当時「青ガラス」とも呼ばれた機動隊の制服の青のことである。バリケードで封鎖した建物の屋上から下を見下ろしている光景を詠んだものである。『バリケード・1966年2月』所収の短歌は、いずれも熱い血潮のたぎる男の歌であり、花鳥風月を詠む伝統的短歌世界にはない、独自の抒情を作り出している。ひと言で言うならば、近代的ルサンチマンの短歌と言えるだろうか。しかし岡井隆は、この歌集が出版された頃にはもう左翼闘争の政治的結末はすでについていたのであり、「私たちは、福島のいかにも口当たりのよい闘争歌に、自分たちの反体制的気分の代弁者を見いだそうとした」と苦い回想を漏らしている(『現代百人一首』)。
 福島はその後、友人や先輩歌人・小説家らとの惜別を軸に、死者になりかわりその無念を詠うという独自の方法論を確立した。以後福島の歌はすべてが挽歌であると言われる所以である。

 みな行った茂樹も君も花あらし雪の電車を待つことはない

 薔薇色の骨に注ぎぬ美酒すこし黒鳥館に春の雪降れ

 あおぞらにトレンチコート羽撃けよ寺山修司さびしきかもめ

 とうとうと水は流れて長門狭 蘆溝橋の灯やゆらめきやまず

 さらばわが無頼の友よ花吹雪け この晩春のあかるい地獄

 一首目の茂樹は1970年に事故死した歌人の小野茂樹。二首目は中井英夫への挽歌で、黒鳥館とは中井の号であり、「美酒」「骨」も中井好みの語彙である。三首目は言うまでもなく寺山で、「トレンチコート」と「かもめ」がキーワード。四首目は「長門狭」から知れるように中原中也。最後は飲み友達であった『地獄は一定すみかぞかし』の石和鷹への挽歌である。福島はこのように友人先輩との惜別を詠い、その人になりかわって果たせなかった無念を詠うことで、短歌に古代的呪文としての特性を回復させ、短歌に他に類を見ない訴求力を与え、同時にみずからはイタコと化したと言えるのではないか。
 まだイタコ化の一歩手前の歌を一首あげておく。

 君去りしけざむい朝 (あした) 挽く豆のキリマンジャロに死すべくもなく

この歌枕はもちろんキリマンジャロである。ヘミングウェイが雪のキリマンジャロ山頂で死体となっているヒョウの雄々しい姿に自らの理想を仮託したように、福島はヒョウにはなれない自分を見つめて朝の苦いコーヒーをすするのである。
 しかし、このように現代短歌にも豊かに用いられている歌枕はどれくらい生き続けるのだろうか。今の若者でヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』を読んだことのある人がどれくらいいるだろうか。私は大学教師をしているので、授業中にかつて世界文学全集に収録されていたような書名が出てくると、読んだことがあるかどうか学生に聞くことにしている。先日は『日はまた昇る』が出てきたので聞いてみたら、50人ほどいるクラスで誰一人読んだことのある学生はいなかった。「スペイン内戦のことを描いた小説ですね」などとボソボソと説明したが、「スペイン内戦」すら理解してもらえたかどうか心許ない。短歌における歌枕は、案外このあたりから崩壊していくのかも知れない。

006:2003年6月 第1週 本上まなみ
または、癒し系のへもへも短歌

つゆくさで色水つくって遊んだよ
      明け方の空の涙みたいな

            鶯まなみ
 今の日本で短歌人口はどれくらいいるのだろうか。短歌や俳句のような伝統文芸は、「隠居の文芸」とか「オジサンの余技」と見られやすいが、この固定観念は現実を正確に反映していないようだ。若い女性を中心に短歌を作る人がどんどん増えているのである。加藤治郎、穂村弘、萩原裕幸が開設している「電脳短歌イエローページ 」のリンク集を見ると、インターネットで短歌のホームページを開いている人が無数にいる。このように若い女性が短歌を作るようになったのは、何といっても俵万智の『サラダ記念日』(1987年)のいわゆる「サラダ現象」がきっかけだろう。サラダ世代とそれ以後の女性がどのような短歌を作るかは、例えば『ハッピーアイスクリーム』の加藤千恵杉山理紀のページを見ればよい。そこに掲載されているものを短歌と見なすかどうかの判断は、人によるだろう。また、『短歌研究』は平成12年に創刊800号記念として「うたう」作品賞を募集したが、募集要項を「別冊フレンド」「ホットドッグ・プレス」に掲載したというところが象徴的である。ちなみに作品賞受賞者は22歳の盛田志保子である。

 さて、掲載歌である。「鶯まなみ」とは、女優本上まなみが短歌を作るときの筆名である。本上まなみはなかなか筆の立つ人で、女性誌にエッセーと短歌を書いており、それらの文章は『ほんじょの虫干し』(学研)、『ほんじょの天日干し』(学研)、『ほんじょの鉛筆日和』(マガジンハウス)の3冊の本にまとめられている。私は全部買って読みました。ファンなのです。といっても女優としてのファンなのではありません。そりゃ確かに、野沢尚脚本・木村拓也主演のドラマ「眠れる森」も見ましたし(本上まなみサンはユースケ・サンタマリアに殺される可哀想な役だった)、先日まで放送されていた「恋はバトル」も見ました。同時に放送されていたNHKの飛脚屋ドラマの方は敬遠しましたが。

 しかし、私がファンであるのは、女優としての演技力ではなく、彼女の人柄である。東京の流行スポットよりも、巣鴨のとげ抜き地蔵商店街がお気に入りで、散歩と野良猫観察が日課というそのホンワカとした人柄です。彼女の短歌は、本人の人柄をそのまま反映しているところに味わいがある。

 びいどろをぽっぴんぽっぴんふきました帰りまぎわのくろくもの下
 今となりゃ《つかまされたか》とも思う大きいだけのへろへろかいめん
 桜並木ももいろサンゴが手を振った様に見えたよメガネかけねば
 そういえばおふろあがりのうちの犬ソラマメのにおいに似てた
 妹とケンカしてても庭にでてまめくじ見せれば勝ったも同然

 本上まなみが短歌を作るようになったのは、編集者である沢田康彦が主催するFAX短歌会「猫又」に誘われたのがきっかけのようだ。「猫又」というのは、主宰の沢田がお題を決めて、会員が作った短歌をFAXで寄せるという形式の会で、漫画家吉野朔美やプロレス評論家ターザン山本も会員という集まりである。その成果は『短歌はプロに訊け』(本の雑誌社)にまとめられている他、角川書店のPR誌『本の旅人』に断続的に発表されている。穂村弘と東直子が選者になって、寄せられた短歌にコメントしている。単なるお遊びの会かと思えば、けっこう真面目に取り組んでいるところがおもしろい。短歌は極端に短い形式なので、自立して意味を発信することが難しく、公共の場での選歌と解釈という過程を経て、他人の目をいったん通すことによって、その意味と価値が確定するという側面がある。「猫又」の座談会を読んでいるとそのことがよくわかる。

 サラダ世代以降の、特に若い女性の短歌に見られる特徴は、作歌の姿勢としては「ブンガクを気どらない」「人生を賭けない」という淡いノリであり、作歌の技法としては「徹底した口語の使用」「ひらがなの多用」という日常性である。だから次のような、日記とも手紙ともつかない歌が生まれることになる。

 あの人が弾いたピアノを一度だけ聞かせてもらったことがあります (加藤千恵)

 この変なドキッという感じの衝撃は巨大イカを知った時と似ている (脇川飛鳥)

 今すぐキャラメルコーン買ってきて そうじゃなければ妻と別れて (佐藤真由美)

いずれもその筋では有名な素人歌人で、歌集も出版されている。特に最後の佐藤真由美のキャラメルコーンの歌は、「名歌」の誉れ高い。穂村弘はこのような作歌傾向を「棒立ちのポエジー」と呼んでいるが、この場合、「棒立ち」とは短歌的技巧や修辞とは無縁というほどの意味だろう。どこか少女漫画のような、あるいは少女の日記のような、文学的昇華を経ない垂れ流し的つぶやきが、なぜ定型としての短歌形式を必要とするのか、不思議と言えば不思議なことである。

005 : 2003年5月 第4週 浜田 到
または、硬質の抒情による幻想世界

白昼の星のひかりにのみ開く扉(ドア)、
       天使住居街に夏こもるかな

               浜田 到『架橋』
 浜田は1918年 (大正7年)生まれの開業医で、1968年 (昭和43年)往診中に不慮の事故で死亡。享年49歳。リルケの詩に傾倒し、浜田遺太郎の筆名で詩人としても作品を発表しているらしい。歌集は死後遺稿をまとめて出版された『架橋』が唯一である。1951年(昭和26年)に『短歌研究』誌のモダニズム特集で、塚本邦雄と並んで世に出た。塚本や岡井とはちがって、その後の前衛短歌運動の積極的な担い手とはならず、歌壇とは距離を置いていたせいか、現在では話題にされることの少ない歌人である。

 浜田は、形相と存在をめぐるリルケの形而上学的詩の世界を、短歌に導入したと言われることがある。時に危ういほどの繊細な詩想のふるえには独特のものがあり、一度読んだら忘れることができない。掲載歌の「白昼の星のひかりにのみ開く扉」は、不可視の天上世界への魂の希求であり、「天使住居街」の表現はそれ自体が異様に美しい。塚本邦雄はかねてより、日本で最も美しい地名は、京都の中心街にある「天使突抜」だと述べているが、語感において一脈通じるところがある。事実塚本は、浜田の短歌世界を評して、「まさに硝子、いなクリスタルを思わせる、絢爛たる死の予感で満たされて」おり、「繊細無比の感性のきらめきは、宇宙的広がりを持つ」(『現代百歌園』)と賞賛した。そのとおり、浜田の短歌は現実を越えた眼に見えない世界への憧憬と、死の予感に満たされていて、夭折という年齢ではないが不慮の事故死という最後は、彼の作り出した詩の世界の完遂のようにも感じられるのである。

 星は血を眼は空をめぐりゆく美しき眩暈のなかに百舌飼はむ
 硝子町に睫毛睫毛のまばたけりこのままにして霜は降りこよ
 ふとわれの手さえとり落とす如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ
 刻々に睫毛蘂なす少女の生、夏ゆくと脈こめかみにうつ
 死に際を思ひてありし一日のたとへば天体のごとき量感もてり

 浜田を推挽して世に出したのは、当時『短歌研究』の編集を担当していた短歌界のフィクサー中井英夫である。中井は、「これらの作を得て、私はようやく戦後短歌の、必要ではあったけれども一つの間違った方向、すなわち「意味の追求」から短歌が解放されたのを感じた」(『黒衣の短歌史』)と述懐したが、当時の短歌界の反応は冷淡だったという。確かに、ボッチチェリの絵が比類のない繊細な絵画世界を作り上げながら、その後の西欧絵画の歴史から見ると傍流に終わったように、浜田の短歌が示した世界は浜田ひとりのものに終わる運命のようにも見える。それほど孤独の影が深いのである。そこから、「彼を歌人といい切ってしまえるのかどうかためらわれる」(『現代短歌事典』の水原紫苑執筆項目)という感想も出てくるのだろう。

 おもしろいことに、最近出版されたばかりの篠弘編『現代の短歌100人の名歌集』(三省堂)は、浜田を黙殺している。編者の篠弘の師は窪田章一郎であり、窪田は短歌における「生活実感にもとづくリアリズム」とやらを提唱した人である。浜田の短歌世界が、このような短歌思想からは最も遠い地点に成立していることが、篠に黙殺された理由であろう。

 が、そんなことはどうでもよい。生よりは死を、昼よりは夜を、太陽よりは月を、長調の音楽よりは短調の音楽を、コーヒーよりは紅茶を、イヌよりは猫を、声高に叫ぶ芸術よりはささやくように低くつぶやく芸術を愛好する、メランコリー親和気質を持つすべての人は、私を含め、これからも浜田の短歌に心のふるえを感じるにちがいない。

004 : 2003年5月 第3週 平井 弘
または、妹ばかりの村に戻ってくる兄たちの墓標

いる筈のなきものたちを栗の木に
   呼びだして妹の意地っ張り

        平井 弘『顔をあげる』

 平井の短歌には「兄」と「妹」がよく登場する。しかし、それは平井の現実の兄弟姉妹ではなく、昭和11年(1936年)生まれの平井の少し上の世代と下の世代をさす短歌的比喩である。終戦のときに9歳だった平井の兄たちの世代は戦争に行き、戦死した者は二度と帰らなかった。村には自分と妹たちの世代が取り残された。これが平井の短歌に執拗に詠われる主題である。

 もう少しも酔わなくなりし眼の中を墜ちゆくとまだ兄の機影は
 空に征きし兄たちの群わけり雲わけり葡萄の種吐くむこう
 死んでいくものたちは眼をそらさないはず突き刺しておく妹と
 脛すこし淫らなるまで踏みいれて苺刈るおぼつかなき妹は

だから、掲載歌の「いる筈のなきものたち」とは、戦死して帰らない兄たちである。その兄たちを執拗に栗の木に呼び出す妹の行為には、どこか性的なところがある。畠に入って苺を刈る妹のむき出しの脛を見ている自分の眼差しにも性がにおう。それは若くして戦死し、結婚することも子を残すこともできなかった兄たちの世代の無念を、平井が自分のものとしているからである。

 死者たちの為しえざる愛継ぎしよりわれらに栗の木が騒ぐなり

 このように平井は重い主題を短歌に塗り込めているのだが、その歌の魅力は、主題の重さと均衡をとるかのように巧みに計算された、句跨りと字余りを基本とする散文的語法である。掲載歌で見てみると、「いるはずの(5) なきものたちを (7) くりのきに(5)」までの部分は定型に従っているが、下の句が「よびだしていも (7)うとのいじっぱり(8)」と、「いもうと」が句跨りになっていて、全体として字余りである。平井は同世代の村木道彦や少し下の福島泰樹らとともに、短歌に口語を取り入れる手法の開発という点で、短歌の歴史に大きな役割を果たした。平井の作り出した語法はその後、多く歌人の模倣するところとなった。『サラダ記念日』で一世を風靡し、ライトヴァースの旗手と目された俵万智は、平井の短歌について、「ヘタをすると中毒にかかってしまいそうな不思議なリズム感覚」(『短歌をよむ』岩波新書)と表現したが、俵もまた次のような歌を見れば、平井の語法から多くを学んだことは明らかである。

 外套の腕絡ませるようにしてなじりくる腹立てなくっていいの(平井弘)

 「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの(俵万智)

俵より上の世代に属する河野裕子の次の歌にもまた、平井の語法の影響は顕著である。

 例えば 羊のようかもしれぬ草の上に押さえてみれば君の力も(平井弘)

 たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてくれぬか(河野裕子)

特に平井の歌の魅力は、下の句に集中する散文的語法とともに、途中で口をつぐみ、残りはつぶやきとなって消えて行くような含羞に満ちたその言葉遣いにある。

 膝ひらいて搬ばれながらどのような恥しくない倒されかたが
 アキアカネ殺してなにも起こらねばましてひきとめなかっただけで

 塚本邦雄は平井を評して、「四半世紀後のライトヴァースを予言するような文体だが、この苦みは空前絶後である」とし、「再評価、再々評価されて然るべき、稀なる歌人の一人である」(『現代百歌園』)と絶賛した。しかし、第一歌集『顔をあげる』(1961年)の出版以後、平井は7年にわたって沈黙し、その後、冨士田元彦の奨めにより作歌を再開して第二歌集『前線』(1976年)を上梓したのち、そのまま「歌のわかれ」をしてしまう。

 兄が征き妹と私が残された村という独特の視座から戦後を凝視した平井は、まぎれもなく「遅れて来た青年」(冨士田元彦)であった。日本はやがて高度成長期を迎え、妹たちは村から都会に出て、団地に住みそれぞれの伴侶を得るとともに、兄たちは忘れ去られた。「もはや戦後ではない」と言われた日本のなかにおいて、平井はかつての自分の短歌のよりどころとした視座に替わる新しい視座を獲得することがついにできなかったのである。

 

【追記】
 平井はおそらく冨士田元彦の奨めで作歌を再開し、『現代短歌 雁』にこのところ毎号のように出稿している。しかし残念なことに現在の平井の作る短歌には、かつての輝きはない。

003 : 2003年5月 第2週 藤原龍一郎
または、夜の首都高速に降りしきる慚愧の雨

ああ夕陽 明日のジョーの明日さえ
       すでにはるけき昨日とならば

         藤原龍一郎『夢見る頃を過ぎても』
 著者は私と一歳ちがい。心は若いつもりでも、人が見れば立派な中年オジサンの年齢である。中学のときに「少年サンデー」「少年マガジン」が相次いで創刊された私たちの世代は、マンガ世代の走りにあたる。ちばてつやのボクシングマンガ『明日のジョー』は熱狂的に支持されたマンガである。主人公矢吹丈のライバル力石徹が死んだとき、本当に葬式を出したファンがいたことも記憶に残っている。しかし、このような背景知識だけでは掲載歌の意味は読みとれない。短歌は短詩形であるという制約から、たくさんのことを詠み込むことができないので、詠み込み残したことに寄りかかって成立するという逆説的な特殊性を持つ。

 著者の念頭にあるのは、1970年3月31日に起きた日航機よど号ハイジャック事件の犯人である日本赤軍の田宮高麿らが、「われわれは明日のジョーである」という声明を残して、北朝鮮に去ったことにちがいない。この事件の翌年に著者は早稲田大学に入学したはずである。時あたかも70年の日米安保条約自動延長の年を迎え、全国で大学紛争の嵐が吹き荒れていた。熱い理想を声高に語る政治の季節だった。それが72年の連合赤軍あさま山荘事件と、酸鼻を極めるリンチ同志殺害事件をきっかけに、左翼青年の理想は冷水を浴びせられたように急速に終息していく。だからこの歌に詠われた「明日」とは、矢吹丈が目指したボクシングの世界チャンピオンの明日と二重写しに重なる、当時の左翼青年が夢に描いた政治的理想の明日でもあるはずだ。

 第一歌集『夢見る頃を過ぎても』が出版されたのは1989年、日本がバブル経済に浮かれていた頃である。確かにもう青年の夢想ははるか遠い過去になってしまっている。著者はニッポン放送のラジオプロデューサーで、マスコミ業界の最前線にいる。「ギョーカイ」の軽薄さを自嘲を込めて描くと同時に、時代と添い遂げているという一抹の自負が混じる、固有名詞と現代風俗を取り込んだ独自の短歌世界を作り上げている。

 首都高の行く手驟雨に濡れそぼつ今さらハコを童子を聴けば
 パラダイス銀河をこえてワンナイト・ジゴロに至る、それだけの夜
 世紀末のそのAMの黄昏に「亡びて永遠(とわ)に」などと気どれば

 ハコは山崎ハコ、童子は森田童子。パラダイス銀河は光ゲンジの歌謡曲。森田童子は10年前、すでに忘れられた歌手だったが、野島伸司脚本のTVドラマ「高校教師」で主題歌に使われにわかに脚光を浴びた。今年、このドラマは藤木直人と上戸彩主演でリメイクされ、森田童子の主題歌もそのまま使われたが、あまり話題にならなかった。これらの歌に散りばめられた固有名詞は、もう今の若い人には注釈がないとわからないだろう。このことは、藤原の短歌が世代論を背景として成立しているということを意味する。だから、同世代の人間には痛切に共感できても、世代が異なればまた話は別なのである。

 『現代短歌の全景』(河出書房新社)の対談で、「あなたのつくっている夥しい固有名詞の氾濫した歌というのは、自分でとってもせわしないかたちで物語をつくって、それに自分で返して、たちまち消耗して捨てちゃってという、そういうマッチポンプ的な繰り返しですね」という小池光の発言に、「物語に対して応えながら、ただ応えるだけじゃなくて、その応える落差、応えるという作業の不毛さ自体が、あるメッセージになっている」と谷岡亜紀が引き継ぎ、「そこに泣きがあるわけよね。それで短歌のカタルシスを感ずるわけだ」と、再び小池が指摘しているのは、藤原の短歌世界の特質を余すところなく語っている。

 第二歌集『東京哀傷歌』(1992年)になると、短歌にまぶされた自嘲と虚無は、一転して挽歌の色合いを深くする。

 オキシフル泡だつ昨日ぬばたまの闇の浅川マキのうたえば
 深海のごとく空気は澱みたりもし存(ながら)えて在らば 岸上
 かつて天井桟敷のありし一角に夏の雨ふる 永遠(とわ)なる雨か

「オキシフル泡だつ昨日」は一見奇矯な比喩に見えるが、福島泰樹の「潮騒と分ち難しもわがこころいざオキシフル泡立つ海へ」を本歌取りしている。浅川マキは全共闘世代に支持されたアングラ歌手で、いつも全身黒装束で歌っていた。だから「ぬばたま」なのである。次の歌の「岸上」は、「血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする」など、60年安保闘争に参加して政治と愛を高らかに詠い、21歳で自殺した岸上大作である。次の歌の天井桟敷は、言うまでもなく寺山修司の実験演劇集団のことだ。60年代の前半に物心つき、60年代後半から70年代に青春を過ごした世代には説明不要のことがらばかりで、そこから強く立ち上って来る濃密な時代の空気は、あの時代のみんながひとしく呼吸していたものである。藤原の作る歌がすべて挽歌の色合いを帯びる所以である。

 藤原は短歌だけでなく俳句も作る人らしく、『貴腐』という伝説的句集があるという。最新歌集は『花束で殴る』(柊書房)。

藤原龍一郎のホームページ
http://www.sweetswan.com/ryufuji/tanka.cgi
http://www.sweetswan.com/19XX/

002:2003年5月 第1週 寺山修司
または、地理的想像力と劇場的〈私〉

マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし
     身捨つるほどの祖国はありや
           寺山修司『空には本』
 実験劇団「天井桟敷」の主催者として、「アングラ」という言葉がまだ生きていた70年代を駆け抜けた寺山は、1983年に持病のネフローゼから腎不全を発症し、5月4日鬼籍の人となった。享年47歳。今年は没後20周年に当たる。太宰治は桜桃忌、芥川龍之介は河童忌など、文学者ゆかりのアイテムを冠した命日があるが、「私の墓は私のことばであれば十分」と書いた寺山の命日には名前がない。

 詩・小説・演劇・映画と多彩な展開を見せた寺山の文学的出発は、10代に故郷青森で始めた俳句と短歌である。寺山は弘前に生まれ、すぐに青森市に越しているが、津軽地方は今でも文学の盛んな土地柄だ。

 寺山が若い頃短歌を作っていたことなど、私も昔は知らなかった。奇妙な厚底靴をはいて、ときどきTVに登場し、「天井桟敷」を通して前衛的な演劇論を展開する寺山しか知らなかった。寺山の短歌との出会いは、試験監督のときに偶然見つけた、大学の教室の壁に書かれた落書きである。

 青空はわがアルコールあおむけにわが選ぶ日日わが捨てる夢

見たときには誰の短歌か分からなかった。寺山のごく初期の歌だと知ったのは、ずいぶん経ってからのことである。それまでずっと記憶にの底に残っていた。まぶしいほどの青春のひとコマである。「チェホフ祭」50首で寺山を世に送り出した中井英夫が「したたる美酒」と形容した、この甘酸っぱいまでの過度の青春性は、寺山の初期短歌の魅力のひとつであり、多くの人がはまってしまうツボだろう。

 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは手をひろげていたり

 知恵のみがもたらせる詩を書きためて暖かきかな林檎の空箱

 森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし

 『寺山修司・斎藤慎爾の世界』(柏書房)で、佐佐木幸綱が詳細に分析しているように、寺山の短歌の他にない特徴は、「引用とコラージュ」と「私の虚構化」であった。

 事実、掲載歌の下敷きには、「一本のマッチをすれば湖は霧」(富沢赤黄男)、「めつむれば祖国は蒼き海の上」(同)があったとされる。この作法は歌壇の批判の的となったが、塚本邦雄は「原典を自家薬籠中のものとして自在に操り、藍より出た青より冴冴と生れ変わらせる、この本歌取りの巧妙さ。」と褒め称えた。

 寺山の短歌が青春の愛唱性を失うにつれ、それと反比例するように「私の虚構化」が顕著になる。

 亡き母の真赤な櫛で梳くきやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり

 新しき仏壇買いに行きしまま行方不明のおとうとと鳥

実際には母がまだ生きていても亡き母と歌い、弟がいなくても行方不明になる。寺山の「私」は短歌のなかで演劇化された虚構の私である。寺山の身振りはどこまでも演劇的なのである。ここでハッと気づいて振り返り見直してみると、初期短歌に詠われた鮮やかな青春もまた、寺山の演出であったことが理解される。この演劇性もまた、若者を引きつけてやまない寺山短歌の特徴だといえよう。青春とは、自己と人生の過剰なまでの劇化の時期だからである。

 寺山が精力的に短歌活動をしたのは、「チェホフ祭」でのデビューから10年余りに過ぎない。30歳の声を聞くと同時に、寺山は歌を捨てて二度と帰ることはなかった。寺山もまた「歌の別れ」をした歌人なのである。寺山が歌を捨てたのは、「短歌をこのへんで止めないと、私の問題ばかりにこだわって、歴史感覚の欠如した人間になってしまう」と感じたからであり、短歌はどれほどみじめな自分を詠おうと、結局は「自己肯定」になる文学形式だと断じたからである。

 逆説的なことだが、歌を捨て歌に封印をすることによって、寺山の残した短歌はますます輝きを増すことになった。

 時まさに処女作品に『われに五月を』という題名をつけた寺山が愛した五月である。

001:2003年4月 第4週 小野茂樹
または、輝き続ける永遠の夏の抒情

あの夏の数かぎりなきそしてまた
   たつたひとつの表情をせよ

        小野茂樹『羊雲離散』

 作者は昭和11年生まれ。角川書店・河出書房新社で編集者として勤務していたが、昭和45年にタクシーで帰宅途中に事故死。享年34歳。掲載歌は作者の代表歌として知られ愛唱されている。

 誰もが指摘するのが小野の歌の相聞的性格であるが、この歌にはその特質が余すところなく現われている。相聞とは手紙などで相手の様子をたずねあうことであり、転じて相手に対する愛情を表明する対人的性格の強い歌をいう。この相聞の呼びかけ的性格の強さは、結句の「表情をせよ」という命令形にも強く感じられる。

 「あの夏」とはどの夏か。それは私とあなたが楽しいひとときを過ごした記憶のなかにある夏であり、読者はその夏の経験を持たないにもかかわらず、ことばの力によってその経験に参入する。その夏はおそらくは短く終わった夏にちがいない。どこにもはっきりと書かれてはいないが、「あの夏」と特定的に表現されることで、その夏は記憶のかなたに遠ざかり、あたりには炎熱が収まり秋風の立つ晩夏の空気が感じられる。君は私のもとをすでに去ったのである。

 君は数かぎりなく様々な表情を私に見せてくれたが、今あらためて記憶のなかに君の顔を思い浮かべようとすると、様々な表情はひとつに集約され、最後にひとつの忘れがたい表情が残る。そんな風に解釈できる。

 『現代秀歌百人一首』(篠弘、馬場あき子編 実業之日本社)でこの歌を論じた小池光は、「君は実にゆたかなさまざまな陰翳を帯びた表情をみせてわたしの心をときめかせたが、その数かぎりない思い出はついに一つの表情に還元されてゆくのであった。その表情をもう一度みせてほしい、わたしはそれを忘れないから、と彼女に呼びかけている。(…)
高調した恋愛感情のもたらす純粋な気分としてごく感覚的に受け止めればよい。」として、私の彼女の関係が終わったとは解釈していない。

 しかし、私は「あの夏」という表現に、どうしても記憶のかなたの短い夏を感じてしまう。夏は熱く燃え上がると同時に、その暑さの頂点において、すでに終わりを予感させる。長い夏は暑苦しいだけだが、短い夏は感傷の契機となるのである。

 塚本邦雄『現代百歌園』(花曜社)は、小野の代表歌として、「あせるごと友は娶りき背より射す光に傘の内あらはなり」を選んでいる。また岡井隆『現代百人一首』(朝日新聞社)は、「体刑の庭よりひとりまぬがれて帰り来たれば友欲し購ひても」を採っている。前衛短歌運動の立て役者であった二人がともに、青春の自意識の屈折を読み込んだ歌を選んでいるところが興味深い。