025:2003年11月 第1週 東 直子
または、ヴェポラップを優しく塗ってくれる染み込み系短歌

廃村を告げる活字に桃の皮
   ふれればにじみゆくばかり 来て

        東 直子『春原さんのリコーダー』
 東直子の短歌は「しみこみ系短歌」である。本人が「しみこみ系の歌が好きだ」と公言している。では「しみこみ系」短歌とは何か。東自身の定義によると、「具体的なことはあまり書かれていなくても、しかしゲル状になってひたひたと心に「しみこんで」くるような歌のことです」(穂村弘・東直子『短歌はプロに訊け』本の雑誌社)ということなのだが、当人があまりよく説明できていないのがおもしろいところである。ふつう読者の立場から見た短歌は、「読む」(刺激の受容)→「理解する」(内容の把握)→「咀嚼する」(把握した内容を自分の経験などと照らし合わせる)→「共感」(内容が心に届く)というプロセスをたどると考えることができる。東のいう「しみこみ系短歌」とは、このプロセスのなかの「理解する」と「咀嚼する」の部分をすっとばして、「読む」がいきなり「共感」へと回路を開くような短歌ということになる。

 掲載歌の「廃村を告げる活字」は、おそらく新聞が廃村を記事にしているのだろう。「桃の皮」とあるのは、その新聞紙の上で桃をむいているにちがいない。桃の汁が新聞紙に滲んで行く。ここまではわかるのだが、最後にいきなり「来て」とあるのは、いったい誰に呼びかけているのだろうか。ある意味で理解を前提としない作り方なのだが、全体としてみると、廃村と桃の組み合わせは、人のいなくなった村に桃がなっているという牧歌的情景を成立させ、廃村という淋しい現実と並べてあると、最後の「来て」という呼びかけが、ある種の切実さを感じさせることに成功している。

 現代短歌は前衛短歌を経て、ますます多様性を深めた。その結果、ならべて読んだとき、果たして同じ「短歌」というジャンルに属するのかという疑問すら湧くほど、表現の振幅は大きい。

 さくら花畿春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり 馬場あき子

 あひ逢わば告げむことばの数々をめぐらして夜半の心冴えまる 藤井常世

 一読して、短歌というより和歌だと感じる。調べはあくまで流麗かつたおやかで、古語・雅語を駆使して定型にきちんと収まっている。これも現代短歌である。

 ゆく水の飛沫き渦巻き裂けて鳴る一本の川、お前を抱く 佐佐木幸綱

 現代には珍しい男歌の担い手である佐佐木の歌は、格調高くて大きな声で朗唱するのに向いている感じがする。どこか直立不動で筋肉に力が入っている印象を受ける。空手の型が決まった時の感じといったらいいだろうか。

 東直子の歌は、これらの短歌のいずれからも対極にあると言ってよい。古典に連なる和歌の伝統からは完全に切れており、かつまた前衛短歌の内包する思想性からもほど遠い。その本質は自己の体内の奥深く生暖かいあたりから、体感的に感得される名付け得ないものを汲み上げコトバにする能力である。

 駅長の頬そめたあと遠ざかるハロゲン・ランプは海を知らない

 神様の選びし少女ほのぼのと春のひかりに鞦韆(しゅうせん)ゆらす

 好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ

 鳩は首から海こぼしつつ歩みゆくみんな忘れてしまう眼をして

 もういくの、もういくのってきいている縮んだ海に椅子を浮かべて

 水かきを失くした指をたまさかに組み交わすとき沁み合うものを

 「理解する」と「咀嚼する」の部分をすっとばすというこの作歌傾向が極端になると、次のような歌になる。

 みずのなかてっぺんまでひたひた すーんとするママンあたしはとかげ 本名陽子

 いつ・どこで・だれが・なにを・なぜ・どうしたかという、5つのWとひとつのHが全部抜け落ちていて、オノマトペがかもしだす体感だけが残る。澤田康彦の主催するFAX短歌会「猫又」で、評者の穂村弘はこのような傾向の短歌を評して、「フレームのない脳で作るとこういう歌になる」と言い、もうひとりの評者である東に、「東さんはそっちの達人ですね」と続けている(「短歌があるじゃないか」『本の旅人』2003年2月号、角川書店)。もちろん親しみとユーモアを込めての評だが、言い得て妙である。

 これをもう少し難しい言葉でいうと、「言語の身体性」ということになるのだろう。言葉が観念を指示するのではなく、言葉が記憶のなかに呼び起こす状況のなかで私の身体が感じた感覚の方が浮上することによって、読者の側にある種の共感が生まれる、そのような場所に東の短歌は成立しているように思う。

 つっと走る痛みのような稲妻が遠ざかったらぬるめのお茶を

 駅前のゆうぐれまつり ふくらはぎに小さいひとのぬくもりがある

 「そら豆って」いいかけたままそのまんまさよならしたの さよならしたの

 ゆうだちの生まれ損ねた空は抱くうっすらすいかの匂いのシャツを

東直子のホームページ
http://www.ne.jp/asahi/tanka/naoq/

024:2003年10月 第5週 黒瀬珂瀾
または、塔の廃墟のかたわらに破船のように眠る青年

わがために塔を、天を突く塔を、
   白き光の降る廃園を

        黒瀬珂瀾『黒耀宮』(ながらみ書房)

 歌集はふつう、ながらみ書房・沖積舎・不識書院・砂子屋書房といった短歌専門の小規模な出版社から出版され、印刷部数も少ないので書店には並ばない。日販・東販といった取次店を通した本の流通経路に乗らないので、その辺の本屋さんで注文しても届かない。これだけ本や雑誌が溢れている現代日本で、多くの人に知られることなくひっそりと流通しており、めったに手に入らないという珍しい種類の本なのである。まるで、代価をもって人に購われることを拒否するかのようだ。

 ところが最近珍事が起きた。歌集が大学生協の書籍売り場に平積みになったのである。これはたいへん珍しいことである。その平積みになったのが、黒瀬珂瀾の『黒耀宮』であった。作者の名前は「くろせ からん」と読む。なぜ大学生協の書籍売り場に平積みになったのかというと、1977年生まれの若い作者が、関西の某国立大学文学部の現役大学院生だからである。

 作者プロフィールによれば、黒瀬は三宅千代が主宰する子供の短歌誌『白い鳥』に参加して短歌を作り始めた、とある。子供の短歌誌などというものがあるとは知らなかった。その後、中部短歌会に所属して、春日井建に師事している。『黒耀宮』は黒瀬の処女歌集で、春日井が跋文を寄せているところは、まずは型どおりと言えよう。しかし、中身はなかなか型どおりというわけにはいかないのである。

 十代の儀礼にかかり死ぬことの近しと思へばわれは楽しも

 血の循る昼、男らの建つるもの勃つるものみな権力となれ

 咲き終へし薔薇のごとくに青年が汗ばむ胸をさらすを見たり

 鶸(ひは)のごと青年が銜(くは)へし茱萸(ぐみ)を舌にして奪ふさらに奪はむ

 これらの歌に登場するキーワードを眺めると、どこかデジャ・ヴュを見る思いがする。それは、師の春日井が1960年に上梓した伝説的歌集『未青年』を代表する次のような歌のことである。

 火の剣のごとき夕陽に跳躍の青年一瞬血ぬられて飛ぶ

 火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐きしか死顔を持てり

 童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり

 中井英夫は、「紫陽花いろに病む太陽の下、現代の悪を負う少年ジャン・ジュネの歌」と評し、三島由紀夫は「うら若い裸の魂が、すりむけて血を流している」と述べ、「われわれは一人の若い定家をもった」とまで激賞した。春日井の歌の世界が黒瀬の歌に通底していることは、一見して明らかである。「薔薇」「青年」というキーワードから立ち上がる同性愛の耽美的世界への惑溺は両者に共通しており、評者の三島もまたこの系譜に連なることはよく知られている。また、第一首目の「十代の儀礼」は、もちろん三島の名作『午後の曳航』で、世界が無意味であることを証明するために少年たちが行なう殺人儀礼であり、黒瀬はその犠牲となることを願っているのである。このように、黒瀬の詠う短歌の世界は、そそり立つ塔の示す権力への憧れと、同性愛と死への願望に彩られている。

 春日井の『未青年』は、当時の三島を驚喜させるほど十分に衝撃的だったはずだ。それは歌集が出版された1960年という時代を考えなくてはならない。まだビートルズ以前の世界で、若者は黒いズボンと白いワイシャツ以外に着るものを持たなかった時代である。森茉莉が男の同性愛を扱った『恋人たちの森』を書いたのがようやく1962年だが、当時はマイナーな異端的作品と受け取られたはずである。

 しかし、時代は変わった。黒瀬の描く耽美的世界が既視感しか生まないのは、黒瀬のせいではなくむしろ時代のせいだろう。1974年萩尾望都『ポーの一族』、1975年竹宮恵子の『風と木の詩』に始まる少女マンガの同性愛ものは、1978年のJUNE創刊とともに大流行し、俗に「やおい」と呼ばれる一大ジャンルを生んだ。「やおい」とは、「ヤマなし、落ちなし、意味なし」の略語で、物語上の必然性もなく男の同性愛の場面を描く少女マンガをさす。やおい物の氾濫とともに、少なくともメディアの上では男の同性愛はタブーでなくなり、奇妙なことに少女たちの消費の対象となったのである。もちろん、黒瀬がやおいだと言っているのではない。黒瀬が描く世界を受け取る私たちの準備がすでに出来すぎてしまっていて、どうしても「どこかで見た」という既視感が付きまとうということなのである。まるで予行演習しすぎた運動会で、ようやく本番当日を迎えたようなものだ。このよう見方があながち独断でないことは、黒瀬自身の次の歌が示している。

 エドガーとアランのごとき駆け落ちのまねごとに我が八月終る

エドガーとアランは、萩尾望都の連作『ポーの一族』に登場する、不死を運命づけられた吸血鬼の少年である。黒瀬の世界の源泉は、春日井・三島・サドやジル・ド・レだけでなく、萩尾・竹宮・栗本薫なのである。

 耽美的装飾が入念に施された歌よりも、次のような歌の方がむしろ新鮮に心に届くように、私には感じられる。

 ピアノひとつ海に沈むる映画見し夜明けのわれの棺を思ふ

 世界かく美しくある朝焼けを恐れつつわが百合をなげうつ

 水飲みし夢より覚めて渇くとき生死はともに親しき使徒か

 天使魚に与ふる餌の真白くて真白くて君は白きもの欲る

 線路にも終わりがあると知りしより少年の日は漕ぎいだしたり

 父一人にて死なせたる晩夏ゆゑ青年眠る破船のごとく

 女学生 卵を抱けりその殻のうすくれなゐの悲劇を忘れ

 これらの歌には上質の抒情があり、青年期の脆い自我と世界の危うい関係を、まるで振動する薄い蝉の羽のように、かそけき微動として私たちの耳に伝えている。短歌にこれ以上のことが望めようか。

 

黒瀬珂瀾のホームページ

023:2003年10月 第4週 歌集の題名について、知っている二・三のことがら

 昔ならレコード、今ならCDの買い方のひとつに「ジャケ買い」というのがある。ジャケとはジャケットの略で、収録された楽曲の内容ではなく、レコード・CDのカバージャケットの写真やデザインに惹かれて買うことをいう。本を買うときにも似たようにことがあって、カバーのブックデザインは買うか買わないかを決める重要な要素である。だからこそあれほど装丁に手間とお金をかけるのだ。

 本の場合にはもうひとつ大事な要因がある。それは本のタイトルである。「ジャケ買い」になぞらえて言うならば、「タイトル買い」とでも言えそうな買い方があって、何を隠そう、私はけっこうタイトル買いをする方だ。例えば最近では、西崎憲『世界の果ての庭』(新潮社)、ローレン・アイズリー『星投げびと』(工作舎)などはタイトル買いした本である。

 自分が惹かれるタイトルにはある傾向があって、私はどうも名詞ではなく文のかたちをした長いタイトルが好きなことに気が付いた。たとえば、西谷修『夜の鼓動にふれる』(東大出版会)は、社会学者による戦争論だが、見たとき何ていい題名なのだろうとほれぼれしてしまった。村上春樹も長いタイトルをつけるのが好きなようで、『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(平凡社)、『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社)、レイモンド・カーヴァーの翻訳『ぼくが電話をかけている場所』(中央公論)、『必要になったら電話をかけて』(中央公論)、『愛について語るとき我々が語ること』(中央公論)、『月曜はいやだとみんな言うけれど』(中央公論)もじつにうまい。技ありという感じである。

 タイトルに凝るので知られていたのはヘミングウェイで、いつも手帳には思いついたタイトルの候補が並んでいたという。『武器よさらば』 A farewell to arms、『男だけの世界』 Men without women、『移動祝祭日』 A movable feast、『午後の死』 A death in the afternoon、『川を渡って木立のなかへ』 Across the river into the trees など、みんないい題名ぞろいである。

 さて、歌集の題名だが、昔の歌集は二文字の題名が多いようだ。斎藤茂吉を見ると『赤光』、『白桃』、『暁紅』、『寒雲』と並んでいるし、斎藤文は『魚歌』、『暦年』、『朱天』と来て、後年になってやっと『風に燃す』、『渉りゆかむ』とやや長く散文的な題名が登場する。歌集の題名にはふくらみと余韻のある雅語・詩語を選ぶという美学があったので、いきおい漢語二文字が多くなるのだろう。今でも短歌の世界ではこの傾向が強いようだ。

 私が好きな歌集の題名を並べてみよう。最初はどうしても文の題名が並ぶ。

  岡井隆『土地よ、痛みを負へ』

  春日井建『行け帰ることなく』

  平井弘『顔をあげる』

  杉山隆『人間は秋に生まれた』

  山崎方代「陽のあるうちに飯をすませて」

 最後の山崎方代の題名は、歌集ではなく合同歌集に収められた連作のタイトルなのだが、まるでヘミングウェイの『川を渡って木立のなかへ』 のようだ。中身が日常卑近なところもいかにも方代らしくてよい。岡井と春日井のタイトルは、どちらも命令形になっている。命令形のタイトルは、昂揚感を煽るという特徴があり、岡井の歌集が出版された1961年という政治的に昂揚した時代を感じさせる。こういう風に、自己を社会に開く緊張感に満ちた題名は、みんなケータイの私的空間に閉じこもり、「仲間以外はすべて風景」という今の時代にはつけにくいだろう。

  寺山修司『空には本』 

  高野公彦『汽水の光』

  松田さえ子『さるびあ街』

  松平盟子『帆を張る父のように』

  山田富士郎『アビーロードを夢みて』

  小池光『廃駅』

  小池光『バルサの翼』

 小池の『バルサの翼』にあるバルサは、模型飛行機に使われる柔らかい木材である。模型飛行機には軽くてよいが、もちろん現実の飛行機を支えるだけの強度はない。この題名には、優しく傷つきやすいが、空に飛び立つだけの力のある翼を持たない自分を見つめる目が感じられ、そこにすでに内省的抒情がある。題名そのものに抒情があるというのはすごいことだ。しかし、小池の最近の歌集の題名は『日々の思い出』という人を食ったようなもので、何とかならないだろうか。

 こう並べてみると、みんなひと昔前の歌集ばかりで、最近のものがない。最近の歌集にはあまり惹かれるタイトルのものがないようだ。しかし、出色は佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』、これはタイトル買いしてしまった歌集だが、内容もなかなかいい。ごく最近出た穂村弘と東直子の『回転ドアは、順番に』も好きな題名だ。

 最後に極め付きをひとつ。

  穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

 これほどインパクトのある題名も珍しい。末尾のカッコ書きも「ウン?」と思わせ効果的である。あなたがこういう題名の歌集を手に取る気になるかどうかは、また別の話だが。

022:2003年10月 第3週 松野志保
または、無性の背を希求するやおいの魂

人は去りゆくともめぐる夏ごとに
    怒りを込めて咲くダリアなれ

          松野志保『モイラの裔』
 本書は作者の第一歌集で、福島泰樹の編集になる月光叢書の第4巻として洋々社から2002年に上梓された。ほやほやの歌集である。松野は1973年生まれだから、まだ30歳の若い女性である。東京大学文学部を卒業、放送局(NHKか)に勤務。大学在学中から福島泰樹が主宰する月光の会に所属というプロフィールを持つ。福島にとっては自分の結社の若い歌人のデビュー作であり、そのためか巻末に50枚にのぼる解説「ネオロマンチシズムの荒野へ」を寄稿するという力の入れようである。

 デビュー作には、その作家の自己形成の土壌が色濃く映し出されるのがふつうだ。両親が教員という家庭に育った松野は、本に囲まれた子供時代を送ったにちがいない。それはこの歌集が引用の織物でできていることからわかる。各章のはじめにエピグラフが配されているが、その出典が興味深い。

 萩尾望都「半身」
 田村隆一「幻を見る人」
 ガルシア・ロルカ「水に傷ついた子供のカシーダ」
 高河ゆん「Love songs」
 旧約聖書「ヨブ記」
 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」
 ベルトルト・ブレヒト「あとから生まれるひとびとに」
 森茉莉「甘い蜜の部屋」
 E.M.フォスター「モーリス」
 アーシュラ・ル・グィン「闇の左手」

 そもそも歌集の題名モイラは、森茉莉『甘い蜜の部屋』の主人公で、母親に早く死なれ父に溺愛された少女である。モイラは父が見つけてきた男と結婚するが、ファザコンが治らず夫は服毒自殺する。一見してわかるように、モイラは森茉莉の分身であり、松野は自分もまたモイラの一族だと宣言している。ここには自分の少女時代と父に固着するインセスト的香りが濃厚である。

 昭和48年に山梨県に生まれた少女はどんな本を読むのだろうか。田村隆一、宮沢賢治、ロルカ、ブレヒトというラインナップは、ちょっと教科書的な匂いがする。むしろ残りの方が個人的愛読書である可能性が高い。萩尾望都が名作『ポーの一族』を連載したのは1972年、傑作『トーマの心臓』は1974年である。『少女コミック』で萩尾望都のマンガを貪り読んだのは、当時20歳前後の女性だから、松野はずいぶん遅れて来た萩尾望都の読者である。同じ少女マンガでも高河ゆんのほうがはるかに実年齢に近い。

 この愛読書ラインナップに松野の作品世界を読み解く鍵のひとつが潜んでいる。萩尾望都が『ポーの一族』『トーマの心臓』で、竹宮恵子が『風と木の詩』で初めて少女漫画で描いたのは、「美少年同性愛もの」というまったく新しいジャンルであった。また、映画化されたE.M.フォスター『モーリス』も同性愛の物語である。このラインはそのまま『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラの友情に、また宮沢賢治と保阪嘉内の友情に繋がっていく。このように松野が執拗に固着するのは、「性の越境」もしくは「性の未決定」というテーマである。これは近代少女マンガのメイン・テーマのひとつであり、それ自体特に目新しいものではない。

 松野は歌のなかで女性である自分を「ぼく」と呼ぶ。これも少女マンガ、少女小説(コバルト文庫)の常套ですらある。吉本ばなながデビューしたとき、少女マンガとの類似性が何度も指摘されたが、松野の短歌も同じで、いかにハイカルチャーの領域にマンガの影響力が浸透しているかを物語っている。

 好きな色は青と緑と言うぼくを裏切るように真夏の生理

 もしぼくが男だったらためらわずに凭れた君の肩であろうか

 短夜に美しい声をして誰か無性の背(せな)よりぼくを愛せよ

 無性の背へと送られる相聞の歌はいかにもか細いものである。「性の未決定」に固着して無性の背を求めることは、結局は自己の相似形を求める自己愛へと収斂するのであり、モイラが甘い蜜の部屋に閉じこもってそこから出ようとしなかったように、他者との遭遇を回避するコクーニング(繭に籠もる行為)に他ならないからだ。

 青い花そこより芽吹くと思うまで君の手首に透ける静脈

 半欠けの氷砂糖を口うつす刹那互いの眼の中に棲む

 金雀枝の黄はこんなにもわななきやすくぼくらは生まれ

 酸の雨しずかに都市を溶かす夜も魂は魂を恋いやまぬ

 君去りてのちの暗室 シャーレには不可逆反応進みつつあり

 しかし無性の背を求めた作者もいつまでも夢見る少女ではいられない。この世に生きる限り、いやおうなしに他者は向こうからやって来る。福島泰樹も言うように、本書の圧巻は「二重夏時間」で、作者はどうやらエルサレムあるいはパレスチナのどこかの町に来ているようだ。松野が詠むのはもはや幻のような自己の相似形ではない。掲載歌「人は去りゆくとも」もこの一連にある。

 戒厳令を報じる紙面に包まれてダリアようこそぼくらの部屋へ

 エルサレムの丘には芥子の花赤く満ちたりいかなる旗も立てるな

 紫陽花を捧げ持ちつつ小さくて冷たい君の頭蓋を思う

 それでは九月 噴水の前でトカレフを返そう花梨のジュースを飲もう

 作者は成長とともに徐々にモイラを脱して繭の外に出て、広い世界と出会いつつあるようだ。そのとき松野が、自らの叙情の根拠となるどのような新たな視座を獲得するのかは、おおいに興味のあるところだ。

松野志保のホームページ

021:2003年10月 第2週 山崎方代
または、しどろもどろの湯呑み茶碗のなつかしさ

ふるさとの右左口郷(うばぐちむら)は骨壺の
   底にゆられてわがかえる村

        山崎方代

 日本の詩歌には風狂と漂泊の伝統がある。佐藤義清改め西行は、取りすがる妻子を足蹴にして出家し、詩歌の道に身を投じた。唐木順三が『無用者の系譜』(筑摩叢書)で取り上げたのは、「身を用なき者に思ひなし」た在原業平と惟喬親王であった。近くは自由律俳句の種田山頭火と尾崎放哉の例がある。山崎方代もまた、まちがいなく現代の風狂の系譜に連なる歌人である。

 1914年に生まれ、先の大戦でチモール島クパンの戦闘で右目を失明、左目も0.01の弱視となり生還。生涯定職につかず家族も持たず、鎌倉の草庵に暮して1985年に没する生涯は、まさに「無用者」のそれである。

 こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり

 こんなところに釘が一本打たれいていじればほとりと落ちてしもうた

 甲州の柿はなさけが深くして女のようにあかくて渋い

 仕舞湯に漬け込んでおきし種籾がにっこりと笑って出を待っている

 茶碗の底に梅干の種が二つ並びおるああこれが愛と云うものだ

 寂しくてひとり笑えば茶ぶ台の上の茶碗が笑い出したり

 岡井隆は山崎の歌に感じられる懐かしさのようなものは、長くこの列島に住んで農業に従事してきた文化の懐かしさであると論じている(『現代百人一首』朝日新聞社)。確かにここに詠われた甲州右左口郷(うばぐちむら)への望郷の念、卓袱台と種籾のある風景は、農家の庭先に柿が実る日本の農村の風景を既視感のように描き出している。しかし、それは障害者として復員した方代が、戦後復興と高度成長から疎外された者として後半生を生きたことの裏返しであることも忘れてはならないだろう。

 方代の短歌は、定型と口語使用の混淆と評されることがある。確かに全体として短歌の定型の枠内にはあるのだが、随所に「落ちてしもうた」「並びおる」「愛と云うものだ」のような口語が顔を出す。口語と言っても俵万智以後の口語短歌のような若者言葉ではなく、どちらかというと田舎臭い老人の口語である。それが歌に何とも言えない苦みを含んだペーソスと軽みを与えていて、方代の歌が広く愛誦される理由のひとつとなっている。

 没後、『方代研究』という研究誌が刊行されており、坂出裕子『道化の孤独 歌人山崎方代』(不識書院1998)、田澤拓也『無用の達人 山崎方代』(角川書店2002)、大下一真『山崎方代のうた』(短歌新聞社2003)など研究書の刊行も相次いでいる。確かにぎすぎすした現代の管理社会に生きる私たちにとって、方代のような一所不住と漂泊の風狂の人生は魅力あるものと映るのかも知れない。

 方代は岡野桂一郎に勧められてフランスの泥棒詩人フランソワ・ヴィヨンの詩集を知り、擦り切れるほど愛読したという。鈴木信太郎訳の『ヴィヨン詩鈔』である。

 フランソア・ヴィヨンの詩鈔をふところに一ッ木町を追われゆくなり

 気分はもう泥棒である。ヴィヨンに影響されて次のような歌まで作っている。

 宿無しの吾の目玉に落ちて来てどきりと赤い一ひらの落葉

 どうも方代は自らをヴィヨンになぞらえる意図があったようだ。また私生活ではなかなかのお洒落で、まとまった金が入ったときに白い麻のスーツを誂えたという。玉城徹が指摘するように、方代には自己演出があり、「自分の作品世界のなかに<方代>という象徴的主体を設定して、さらのその主体を現実生活の中でみずから演じて見せた」ということなのかもしれない。それは障害者として復員し、戦後の日本に居場所を持たなかった方代の、自己を失わずに生き延びる方法論でもあったにちがいない。短歌は人にこのような生きる場所を与えることもある。

020:2003年10月 第1週 山尾悠子
または、幻想の夜の紅玉を砕けば言葉の光る粒

昏れゆく市街(まち)に鷹を放たば紅玉の
   夜の果てまで水脈(みを)たちのぼれ

        山尾悠子『角砂糖の日』

 短歌の世界で山尾悠子の名を知る人は少ないだろう。山尾はもっぱら幻想的SF作家として知られており、熱狂的愛好者がいる作家で、若干20歳で『SFマガジン』にデビューを果たしている。その作品は、『SFマガジン』や『幻想文学』誌上に発表されたまま単行本化されなかったため、長らく読者の手の届かない所にあったが、幸い『山尾悠子作品集成』(国書刊行会)が2000年に刊行され、いささか高価な代価さえ支払えば、主要な作品を読むことができるようになった。

 『集成』から作品名を拾ってみると、「夢の棲む街」「耶路庭園異聞」「私はその男にハンザ街で出会った」「破壊王」「支那の禽」「夜半楽」と並んでいて、山尾作品の内容をおぼろげながら感じてもらえるかと思う。こんな文章を書く作家である。

「仰角45度、月齢13.5の辺境の月は、依然として純粋な夜の青さの光源となっている。もはや抵抗の気力も失せた。”神”の美少年は、胴上げの姿勢で何処かへ運び去られていったようだ。」

 その作品は、ときにE.A.ポーの短編の趣を湛え、ときに倉橋由美子の不条理な世界に近づくこともある。『集成』巻末の石堂藍による解題に、山尾が自身の精神形成を回想するインタビューが引かれている。曰く、「あの頃の大学生の流行は、倉橋由美子、アイリス・マードック、ロレンス・ダレル、高橋たか子だった。アナイス・ニンやパシュラールとか。京都に住んでいましたから、生田耕作の『るさんちまん』は必読で、高橋たか子の『誘惑者』を読んで、赤江瀑を読んで。周りの人がみんなそうでしたから」「あの頃」とは、山尾が京都の同志社大学に入学した1973年の頃である。山尾が並べる名前は、涙が出るほど懐かしい名前ばかりである。「周りの人がみんなそうだった」というほど、みんな知的憧憬に駆動されて読書に耽溺した時代だったのだ。文学が必須の教養の座から滑り落ちて久しい現代から見れば、隔世の感がある。

 山尾は小説家としての活動のかたわら、若い頃から短歌を作っているという。『角砂糖の日』は山尾唯一の歌集で、1982年に深夜叢書社から刊行されている。歌集の存在は知っていたがもはや絶版で、古書店のカタログにも載らず、私にとっては長らく幻の歌集であったが、短歌を愛好する旧友のおかげで最近入手することができた。

 山尾は深夜叢書社の斎藤慎爾から、「きれいな本を作ってあげるから」と誘わてこの歌集を編んだという。深夜叢書社は、社主の斎藤慎爾が山形大学生のときに創設したひとり出版社である。黒鳥館館主・中井英夫が短歌界の裏の仕掛け人であったように、斎藤慎爾もまた、俳句の世界では知らない人はいない。その軌跡を辿りたい向きは、久世光彦他編集になる大型ヴィジュアル本『寺山修司・斎藤慎爾の世界』(柏書房)を見られるがよい。斎藤にはまた、遊び心溢れた『短歌殺人事件』『俳句殺人事件』(いずれも光文社文庫)という、短歌と俳句が重要な役を演じるミステリーのアンソロジーがあることも付け加えておこう。

 試みに斎藤の句をいくつかあげてみよう。

 百日紅死はいちまいの畳かな

 天金こぼす神父の聖書秋夜汽車

 人妻に致死量の花粉こぼす百合

 その斎藤が注目し、歌集の出版を勧めたのだから、山尾悠子の短歌が凡庸なものであるはずがない。掲載歌「昏れゆく市街に」は、集中最も山尾らしい歌だが、次のような歌が目に留まる。

 金魚の屍(し) 彩色のまま支那服の母狂ひたまふ日のまぼろしに

 角砂糖角(かど)ほろほろと悲しき日窓硝子唾(つ)もて濡らせしはいつ

 腐食のことも慈雨に数へてあけぼのの寺院かほれる春の弱酸

 鏡のすみに野獣よぎれる昼さがり曼陀羅華(まんだらげ)にも美女(ベル)は棲みにき

 夢醒めの葛湯ほろろに病熱の抱きごころ午後うす甘かりき

 春を疲れ父眠りたまふあかときはひとの音せぬ魂(たま)もたつかな

 山尾の短歌はきらきらとした言葉でできている。『山尾悠子集成』巻末の解題で、昔『幻想文学』誌上のインタビューで、「<世界は言葉でできている> というのが山尾悠子を象徴する言葉ではないか」と問われ、山尾が肯定したというエピソードが紹介されている。確かに山尾の幻想的SF小説が克明に描き出す世界は、現実のなかにその対応物を持たない。いわんや作者の実生活とはまるで接点がない。描かれた世界は<虚構> であり、<観念>である。それと同じように、山尾の短歌もまた「言葉でできている」のであり、われわれは、その中に過剰な<意味>を読みとろうとすることなく、歌のなかに散りばめられた煌めく言葉が目を射、視神経を辿って脳細胞に突き刺さる感覚を味わえばよい。これが、山尾のような視座から短歌を作る作家の正しい鑑賞態度である。

 小林恭二は『俳句という遊び』(岩波新書)のなかで、高橋睦郎の俳句世界について、「高橋が俳句を作るとき、そこには外的世界に求められるモチーフというものはなく、言葉がすべてである。上質の言葉を発見しそれを研磨しおえた時点で作品は完成する」と述べているが、この小林の言葉はそのまま山尾の作品世界にも当てはまるのである。

019:2003年9月 第4週 早川志織
または、ゆっくり溶け出してベゴニアになる〈私〉

木曜の夕べわたしは倦怠を
   気根のように垂らしてやまず

        早川志織『種の起源』

 歌人のなかで、短歌を作ることだけで生活が成り立っている人は、大きな結社の主宰者を除けば稀だろう。この点が小説家との大きなちがいである。歌人は実生活においては短歌以外の職業を持っている。私の印象に過ぎないが、なかでも多いのは出版社の編集者と高校教員のようだ。これは歌人の多くが文学部出身者であることと関係している。出版社と国語の先生は、文学部を卒業した人の定番就職先である。このラインの果てには釈超空(折口信夫)のように、生活全部が国語漬けの国文学者のイメージが控えている。

 ところが歌人のなかには理科系の人もかなりいる。これも小説家との大きなちがいだろう。SFとミステリを除くと、理科系の人で小説家になる人はあまりいない。歌人では、坂井修一が東大の情報科学の教授、永田和宏が京大医学部の再生医科学研究所教授、その子の永田紅は京大理学部の大学院生、小池光は東北大学理学部を出て高校で理科の教員をしている。岡井隆、上田三四二、浜田到は医者である。理科系の人の思考回路と短歌とは、決して水と油のように相いれないものではなく、むしろ引き合う点があるのではないか。

 掲載歌の作者も東京農大を卒業しており、理科系の人である。それは処女歌集『種の起源』の題名にも明らかだ。おそらくは植物・遺伝関係の勉強をしたらしく、歌のなかに植物の名前が数多く詠われている。

 傾けて流す花瓶の水の中 ガーベラのからだすこし溶けていたり

 薄青きセーターを脱ぐかたわらでペペロミアは胞子をこぼしていたり

 異性らよ語りかけるな八月のクレオメが蘂をふるわせている

 アロエベラの花立ちあがる傍に来てわれはしずかに脛を伸ばしぬ

 歌集に折り込まれた栞に、小池光が跋文を寄せていて、そのなかで小池はおもしろい指摘をしている。曰く、「短歌で植物を素材にするとき、ふつうはその植物に蓄積された観念を詠う。桜なら散華の精神、ひまわりなら陽性の若々しさ、紫陽花なら挫折のシンボルというふうに」この方向を徹底させると、短歌に詠み込まれたすべての事物は、シンボルであり隠喩であるということになる。小池には、そのような視点からさまざまな事物を縦横に論じた『現代歌まくら』(五柳書院)という秀作がある。それはさておき、小池は先の引用に続けて、早川詩織の歌に詠み込まれた植物が、その裏側に張り付いた観念から自由であるのみならず、観念からどんどん逃げて行くところが特異だと述べている。確かにそのとおりである。

 これに加えてもうひとつ早川の歌で特異な点は、対象である植物とそれを見ている(詠んでいる)自分との関係の取り方にある。掲載歌では「気根のように」という直喩を用いているのでわかりやすいが、自分と植物が〈自己〉対〈対象〉という対峙する関係ではなく、逆に自分が植物と同化していく感覚が顕著である。「傾けて」の歌のなかのガーベラがすこし溶けているのと同じように、自分の体もまた植物的世界に溶融していくかのごとくである。これは植物に限ったことではない。

 今日われはオオクワガタの静けさでホームの壁にもたれていたり

 露まとう青虫のわれは朝の陽に白き背中をたわめて起きる

 シャワー浴びる男のからだを透視すれば一匹の鯨ただようが見ゆ

 塚本邦雄の短歌の世界は、強烈な観念の世界である。塚本が「赤い旗のひるがへる野に根をおろし下から上へと咲くジギタリス」、「いたみもて世界の外に佇つわれと紅き逆睫毛の曼珠沙華」のように植物を短歌に詠み込むとき、その植物は文字通りの存在ではなく、塚本が詠おうとした観念を表象する象徴である。これは現代短歌が構造的に作り上げた〈世界〉と〈われ〉を拮抗させる対峙関係に、塚本が忠実に従っているからである。

 早川の歌に溢れている特異な身体感覚は、このような〈世界〉と〈われ〉の対峙関係に歌の根拠を求めないという態度に由来するのだろう。男の身体に鯨が透けて見えるように、動物とヒトは進化という連鎖において見れば、断絶ではなく連続している。それはヒトの血液の塩分濃度が海水のそれと同じだという事実や、細胞内のミトコンドリアはもともとは別の生物で、細胞内のエネルギー変換のために体内に取り込んだものだという事実に思い到るとき、私たちが遅まきながら気づくことである。植物ですらも巨視的な進化の階梯においてみれば、ヒトとつながるものだ。早川の身体感覚はおそらくこのような視座に基づくものなのだろう。これは理科系の発想である。ヨーロッパ中世のキリスト教神学と、デカルトに始まる近代哲学は、人間に世界の中心としての特権的地位を与えた。早川の親しむ近代科学の世界では、ヒトは決して特権的な生物ではなく、ただバクテリアから始まる進化の終端に位置しているにすぎない。観念は絶対であるが、進化は相対的である。早川の歌の世界はこのようにヒトが相対化された世界なのだ。そこで詠われた植物や動物が、塚本の歌におけるように観念と直結することなく、ヒトのかたわらにただ〈在る〉存在なのは、むしろ当然と言うべきだろう。早川の歌を読むと、どこかホッとするような開放感を感じることがあるのはそのためである。しょせんヒトといえども、DNAの遺伝情報によって作り上げられたタンパク質の塊にすぎない。もっとも、その塊の上になぜか宿ることになった〈意識〉というやっかいなしろものを考慮しなければの話なのだが。

018:2003年9月 第3週 坂口 弘
または、獄中に咲け悔悟の白い花

雪晴れて格子の雫星のごと
   輝きくるる吾に一瞬

        坂口 弘

 短歌はわずか31文字の短詩型である。短歌には、五・七・五・七・七のリズムとか、枕詞や句切れのような作歌上の技法など、詩型としてのいろいろな特徴があるが、最大の特徴は「短い」ということである。この短い詩型という器が、人間の切羽詰まった情念を盛り込むのに適しているようだ。切羽詰まった情念とは、燃え上がる恋愛感情や、自身の死を目前にした恐れや、肉親を失った悲しみのように、人間を根底から揺り動かす感情をいう。小説のような散文型式は、説明的・描写的記述に適しており、瞬発的な感情を盛り込むには向かない。短歌よりも短い17文字の俳句という型式もあるが、こちらはこちらで、人を揺り動かす感情の契機と、それを受け止める自分までを余さず盛り込むには短すぎる。短歌の31文字は、この点ちょうどよい長さの型式であり、盛り込まれた感情が他に持って行きどころのないものであるほど、歌は祈りに似た風貌を呈するに到る。

 人間が追い込まれる切羽詰まった状況にはいろいろなものがあるが、牢獄につながれて自由を一切奪われるという状況は、なかでもとりわけ切羽詰まったものと言えるだろう。それが死刑判決を受けて刑の執行を待つ身であれば、なおのことである。

 掲載歌の作者である坂口弘は、1972年(昭和47年)に世を震撼させた連合赤軍あさま山荘事件で逮捕された。首謀者の森恒夫が逮捕後、東京拘置所のなかで23万字にも及ぶ自己批判書を書き、逮捕からほぼ一年後の1973年1月1日に、房内で自殺したのとは対照的に、坂口は一切の弁明を拒否し、1993年に最高裁で死刑判決が確定した。以後現在に至るまで死刑囚としての日々を送っている。

 1986年頃から支援者の指導で作歌を始め、1989年から朝日歌壇の熱心な投稿者となった。投稿のときの作者名は「東京都 坂口弘」となっているので、気づかない人も多く、朝日歌壇の選者も最初は気づかなかったと聞く。作歌をまとめて1993年に『坂口弘歌稿』(朝日新聞社)が刊行されている。ただ、最近は朝日歌壇にその名を見ないので、もう投稿はしていないようである。

 坂口の歌のなかには、当然ながらあさま山荘事件に関するものが多くある。しかし、その内容があまりに現実とストレートに繋がり過ぎて、歌としては生硬であり、読むこちら側もあまり共感できない。ただただ凄惨とうつむくしかない。

 自首してと母のマイクに揺らぎたるYに嫌味を吾は言いたり

 リンチにて逝きたる友に詫びながら母と会いおり母を詠みおり

 窓壊し散弾銃を突きいでし写真の吾はわれにてありたり

 総括は友亡くなりて過酷化し死を思うさえ敗北となせり

 女らしさの総括を問い問い詰めて死にたくないと叫ばしめたり

 読んでいて心に沁みるのは、坂口が自分の行為を悔やんでも悔やみ切れない過ちと認識し、その想いに悶える歌である。ここには、短歌という形式以外には盛ることができない感情がある。それはほとんど慟哭である。

 リンチ死を敗北死なりと偽りて堕ちゆくを知る全身に知る

 爪を剥ぎ火傷をつくりてわが罪の痛みに耐うるは自虐なりしか

 打続く鼓動を指に聴きし人の命の重み思い知られて

 活動を始めし日より諫められ諫められつつ母を泣かせ来ぬ

 さらに歌として心に響くのは、死刑囚として獄舎で送る日々を詠った歌である。

 そこのみが時間の澱みあるごとし通路のはての格子戸のきわ

 クレンザーを使いすぎると注意されお茶で食器を洗いいるなり

 面会に臆さず君の唄いたるソプラノ低き「平城山」の歌

 彼の人も処刑の前に聞きしならん通勤電車に地の鳴る音を

 そを見ればこころ鎮まる夜の星を見られずなりぬ転房ありて

 枯るるまえ茎断ち切りて監視を避けカーネーションを胸に挿しおり

 激しい感情が渦巻いているわけではなく、平静な日常のひとコマや、ふと萌した想いを歌にしているのだが、坂口が置かれている境遇を背景として読むと、胸に迫るものがある。

 朝日歌壇でもう一人獄中歌を作っている人がいる。郷隼人である。彼は第一級殺人を犯して、カリフォルニアの刑務所で終身刑に服しているらしい。朝日新聞でしばらく前に、彼の連載記事が掲載されたことがある。彼に注目している人は意外に多いようで、しばらく朝日歌壇に歌が掲載されないと、どうしたのか気になるという記事がインターネットにあった。

 寒気刺す窓に佇み待ち俺は獄舎の屋根より初日の出ずる

 護送車より最後に海を目にしたは幾年月ぞ海が見たしや

 雨降れば心も病むか冬の雨房に籠れば「鬱」が顔出す

 冤罪であったらばともう一度夢より醒めてやり直したい

 独房の小さき水槽(タンク)に芽生うる生グッピーの赤ちゃん復活祭(イースター)の朝に

 静寂を破る猫らの格闘を煽り立てたり目覚めし囚徒

 交尾期の猫の格闘(ファイト)に囚徒らの大歓声湧く深夜の獄窓

 獄中にあって、しかも死刑囚や終身刑で、二度と外に出ることがないという極限的状況で作られた歌は、限りなく祈りに近づく。たとえ、作歌技法が稚拙なものであっても、そこには心を打つものを感じることができる。ここに、歌の根源のひとつがある。

017:2003年9月 第2週 高橋睦郎
または、わが血中を流れる罪深きフォワグラの苦き脂肪

やがてわれ解けては水に還らむと
   思ふまどろみは水の如かれ

        高橋睦郎

 高橋睦郎は現代日本を代表する詩人である。しかし、彼は中学生の頃から俳句と短歌を作る、九州在住の投稿少年だった。このあたり、津軽の地で俳句と短歌に明け暮れる高校生だった寺山修司と似ていなくもない。小林恭二は『俳句という遊び』(岩波新書)のなかで、現代詩の生みの親となった詩人たちには、年少の頃、句作か作歌の洗礼を受けているという共通点があると指摘している。それが、現代詩の特徴である吃音的性格を決定したのではないかという見方にはギクッとするものがある。

 その指摘の当否はさておき、高橋睦郎にはいくつかの句集と歌集があるのだが、そのほとんどが贈呈用の僅少部数私家版なので、なかなか入手することができない。しかし、句歌集『稽古飲食』が昭和62年に第39回読売文学賞を受賞したのをきっかけに、不識書院から普及版が出版され、多くの人の目に触れるようになった。掲載歌も同じ句歌集からである。前半は句集、後半は歌集という凝った構成の句歌集であるが、前半の俳句と後半の短歌の醸し出す世界がまったくちがうのがおもしろい。

 前半の「稽古」に収録された俳句が描くのは次のような世界である。

花のなき床には飾れ炭二三

双六を
 振りふりて上がれば京や雪ならん

ふるさとは盥に沈着(しづ)く夏のもの

ななくさや落ちて暗渠の水のこゑ

西脇順三郎逝く
 茗荷の根濡らしてすゑは忘れ川

捨靴にいとどを飼ふも夢の夢

 別の句集からも好きな歌を引いておく。

遅き日のまぼろしなりし水ぐるま 『旧句帖』

みちおしへいくたび逢はば旅はてん 『荒童抄』

 調べはあくまで美しくたおやかで、高雅かつ典雅風流の世界である。小林恭二が『俳句という遊び』のなかで、高橋の俳句世界を次のように読み解いている。曰く、「高橋が俳句を作るとき、そこには外的世界に求められるモチーフというものはなく、言葉がすべてである。上質の言葉を発見しそれを研磨しおえた時点で作品は完成する」と。なかなかに鋭い指摘である。こうして作り上げられた俳句の世界は、言葉だけで作り上げられた夢のように美しいものとなる。

 しかし、句歌集『稽古飲食』の後半「飲食」(おんじき) になると、その世界は一転し血と殺戮の支配する荒々しいものである。それは、テーマが生き物を殺して体内に摂取するのに他ならない、人の日常の「飲食」だからである。

うちつけに割つてさばしる血のすぢを鳥占とせむ春立つ卵

不死を病み永久(とは)癒ゆる無き汝に獻(まつ)る須臾にし腐(くた)る飯(いひ)と酒(くし)とを

腐(くた)りつつ馨る玉葱少年の指(おゆび)觸れなばおよびしろがね

死に到る食卓遙(はろ)か續きゐていくつかは椅子二脚をそなふ

にがだま胆嚢ひとつ肉の闇深く蔵せば歡語は盡きず

 どうやら高橋が捉えた飲食のテーマとは、竹林で賢人が飲みかつ食らいつつ歓談する類のさわやかな一夜ではなく、体内の闇に肉を取り込む人間の業のごとき営為であるようだ。そこには次のような作者の孤独もまた反映している。

いろくづの腸(わた)の醢(ひしほ)を古猫とあるじのわれと一皿に食ふ

飲食を置きて向き合ふ一人だにあらざれば言ふこは家ならず

 短距離走者と長距離走者とでは、走るときに用いる筋肉の質が異なるという。それと同じように、俳句と短歌とでは、同じ短詩形式であっても、言葉を繰り出すときに使う「筋肉」がちがうのだろう。17文字の俳句に比べ、31文字の短歌は文字数が多いぶんだけ、「外的世界に求められるモチーフ」が入り込みやすくなる。このちがいが、「稽古」と「飲食」の世界の質の差となっているのではないだろうか。俳句とちがって、高橋の短歌は、「美しい言葉を発見してそれを磨き上げる」だけでは構成されない過剰を内蔵しているようだ。

016:2003年9月 第1週 村木道彦
または、せいしゅんに立ちふさがるマシュマロと緋の椅子

ふかづめの手をポケットにづんといれ
   みづのしたたるやうなゆふぐれ

        村木道彦

 村木道彦は1965年に、『ジュルナール律』掲載の「緋の椅子」連作10首で歌壇に衝撃的なデビューを果たした。『ジュルナール律』というのは、中井英夫が編集責任の「A5版8頁という薄っぺらい」頒値50円の短歌雑誌で、7号まで出版されて消えたのだが、短歌ファンのあいだでは伝説的に語られている歌誌である。資金を提供したスポンサーは、京都にある精華大学の学長も務めた文化人類学者深作光貞である。

 意外に思われるかも知れないが、京都は短歌とゆかりの深い土地だ。その理由のひとつとして、京都大学教養部(当時 現在の京都大学総合人間学部)のドイツ語教員であった高安国世の主宰する歌誌『塔』が、数多くの俊英を輩出したということがあげられる。『塔』は現在では、やはり京大教授の永田和宏が主宰しており、指折りの有力な短歌結社である。ちなみに、永田の夫人は河野裕子で、その子は歌壇賞・現代歌人協会賞を受賞した永田紅である。血は争えない。また高安の影響下で京大短歌会が結成され、ここからも吉川宏志ら多くの歌人が出たことも特筆に値する。

 もうひとつの理由は、他ならぬ深作光貞の存在である。自身歌人である深作は、実作よりも現代短歌の陰のフィクサーとして活躍し、いわゆる前衛短歌の発展に大きな貢献をした。岡井隆が精華大学教授に迎えられたのも、深作の推挽を抜きにしては考えられない。また現在東大教授である社会学者上野千鶴子も短歌を作る人だが、東大に移る前は精華大学に勤務しており、上野が作歌を始めたのも深作の直接の影響によるものだろう。その深作の最大の貢献とされるのが、自腹を切っての『ジュルナール律』の創刊と、その編集を黒鳥館主人・中井英夫に一任したことである。

 さて、村木の「緋の椅子」連作10首であるが、これほどに人口に膾炙し、あちこちで引用される短歌も珍しい。なかでも「緋色の椅子」の一首は、村木の代表歌とされている。

 するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら

 めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子

 水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうたえるただ麦畑

 黄のはなのさきていたるを せいねんのゆからあがりしあとの夕闇

 唯一の歌集『天唇』収録の他の連作からも引用しよう。

 黄昏 (こうこん)のひかりみちたり 時計店 無数に時はきざまれながら

 せいしゅんはあらしのごときなみだとも いわんかたなく夏きたりけり

 ものぐさに砂踏みゆけば馬が居る うまのにおいのごときゆうぐれ

 ややよごれているガラスごしみはるかす金のむぎばた 銀の憂愁

 あくまでもマシュマロのように軽い口語の使用、柔らかな印象を生み出すひらがなの多用、「するだろう」に見られるような斬新な区切れ、また歌全体に充満する若さに伴う倦怠感と憂愁、村木の歌のこれらの特徴は、その後現代短歌に燎原の火のように拡がることになるライト・ヴァースの元祖というのが定説となっている。その調べのなめらかさと愛唱性は際立っている。

 サラダ短歌の俵万智は、「村木道彦の作品に出会ったとき私は、もうすっかり「ハマってしまった」という状態だった」(『短歌をよむ』岩波新書)と述懐しているが、俵に限らず多くの人が村木の調べに「ハマって」しまう。麻薬のような魅力があるのだ。短歌がまだ古典文芸であった当時、これほどまでに若い人を惹き付ける要素を散りばめた短歌が世に出たことは奇跡に近い。

 村木を世に送り出した中井英夫が、その当時のことを回想した文章がある(「遠い潮騒-「ジュルナール律」のこと」現代歌人文庫『村木道彦歌集』)。それによると、次の号に新人作品を特集することになり、麻布にあった深作のマンションに、村木を含む5人の新人を集め、あらかじめ寄せられていた作品の手直しを頼んだという。作者に改作を命じたり、自分で短歌の並びを変えたりする中井にとっては当然の作業であった。ところが5人のうち、村木の寄せた「緋の椅子」連作10首だけが完璧な仕上がりで、手直しの余地はなく、他の4人が作り直しを命じられて呻吟するあいだ、村木ひとりはすることがなく部屋の中をうろうろしていたという。このとき村木は若干22歳で、慶応大学に通う学生であった。だから、「緋の椅子」連作10首は最初から、今あるままの形で存在していたのである。中井は「深作の情熱に導かれて突如として現われた美しい亡霊」と書いているが、無理もないことである。

 村木の歌が伝説的に語られるのは、このように世に出た経緯にのみよるものではない。村木はその後作歌をやめ、いわゆる「歌のわかれ」をしてしまったので、なおいっそう「緋の椅子」が白鳥の歌のように聞こえるのだろう。村木が短歌をやめた理由については、自分で語っているインタピューがある。

「それから後がいけませんね。野心も入る、気負いもある、無駄なファイトもある。それから駄目になります。不思議ですね。(…)歌というものがほとほとつまらなくなってやめたんです」(『短歌往来』第3号)
華々しくデビューしたスターが陥るスランプである。村木を世に送り出した中井自身が、次のような手厳しい批評をしている。

「4月号に「おうむ」6首、6月号に「風たつや」8首と引き続いて発表したもらったものの、「緋の椅子」の輝きはすでになく(…) 輝かしい香気は「緋の椅子」を限りに四散した」(「遠い潮騒 -「ジュルナール律」のこと」現代歌人文庫『村木道彦歌集』)
中井が村木に言ったという、「君はショート・ランナーだ」という言葉が、すでに村木の未来を予見していたのかも知れない。

 長い沈黙ののち、村木は1989年にふたたび作歌を再開している。再び歌に戻ってきた村木が作るのは次のような歌である。

 壮年に春は深しも翔けのぼる雲雀を蒼天の冥きに吸われ

 傷口をこころにもてばガラス戸の雨滴は花のごとくひろがる

 晩年へなべては迅し雨脚も傘もひとらも傾きてゆく

 生くるとは疲労に重ぬる疲労なり「広告求む」という広告塔

 村木のデビュー作「緋の椅子」は、「絶対に、永遠に、二十歳の歌」(正津勉)であった。しかし、人はいつまでも二十歳でいられるわけではない。静岡で高校教員としての人生を送りながら、作歌を再開した村木の短歌に、坂道をころがり落ちるように歳を重ねる人間の苦みばかりが目立つのも、また無理からぬことである。

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