176:2006年10月 第4週 加藤英彦
または、短歌は一行の思想詩たりえるか

神学の果てぐらぐらと煮えたぎる
    鍋ありはつか血の匂いする
      加藤英彦『スサノオの泣き虫』

 「誤爆」と題された連作中の一首であり、イラク戦争に材を採ったものと思われる。だとすると「神学」はイスラム教を暗示し、血の匂いは自爆テロへと意味的に通底することは明らかだろう。宗教への熱烈な帰依が時として暴力行為へとつながることを主題とした歌で、歌意はかなり直截に表現されている。問題は、この歌に表現されているのがひとつの「思想」であり、その主体となるべき〈私〉が歌の中に不在であるという点にある。このことは同じ加藤の「寒鰤の頭(ず)をきり落とす厨からたちまち世紀が昏れはじめたり」という別の歌と比較すると、ちがいがよくわかる。台所で出刃を振るい寒鰤の頭を切り落とす行為の主体は、表現されていなくても〈私〉であるとするのが短歌の約束事である。この歌には台所という具体的な情景があり、〈私〉の身体的行為と相関するように、「たちまち世紀が昏れはじめたり」という思念が歌われている。ここでは〈知覚できる具体物〉と〈目に見えない思念〉とが、互いに照応するようにバランスよく配されていて、一首の意味が読者の心の適切な場所に着地することを可能にしているのである。ところが掲出歌ではこの具体物と思念とのバランスが極端に一方に偏るように崩れており、まるで作者の頭の中の思念だけを掴みだして見せられているような感じさえする。

 加藤英彦は1954年生まれで、現在は同人誌『Es』を拠点として活動している。歌歴は長いが『スサノオの泣き虫』は第一歌集で、三枝昂之・内藤明・天草季紅が栞文を寄せている。先に加藤の歌における思念の突出について触れたが、歌集を一読すると、加藤にとって短歌とは「韻律を響かせる型式」ではなく、「思想を盛る器」であることがわかる。一行で書かれた思想詩のような作品が多く見られ、そこにひっかかりを感じるのである。

 権力にまみれて鈍きてのひらをもたばたやすく汚れてしまう

 かつて〈地上の楽園〉というまぼろしを恃みし幾万の骨起(た)ちあがれ

 中枢を撃つ一兵としてわれの位置あるや枯木一枝をかかえ

 突如蜂起の合図かこれは空砲の数発か いや、真夏の花火

 飼育さるる劣位に太るわが眠りをはるかに越えてゆく機影あり

 権力がめくれているぞ炎天を樹皮一枚のように反りつつ

 歳月に霜はふりつつ蔵ふかく眠るよ古き一振りの斧

 権力と対峙し蜂起を夢見る左翼的思想が基調にあるが、作者の自意識のスタンスをよく示しているのは、3首目「かつて〈地上の楽園〉」と5首目「飼育さるる」と7首目「歳月に」あたりの歌だろう。「中枢を撃つ一兵としてわれの位置あるや」と自問する〈私〉が抱えているのは役に立たない枯枝であり、〈私〉は日常的に飼育されるという劣位にあってだらしなく太り続けている。蔵に眠る斧は世界変革を夢見る意志だが、斧を振るわなくなって久しく、斧は空しく錆びて蔵の中に眠るばかりである。おおむねこのような苦さを含む自己省察と鬱屈感が表現されている歌が多い。そこから次のような一連の歌も生まれるのだろう。

 ゆっくりと書架が倒れてくる夢のうらがわで一人が殺される

 どのような世界にゆける黙したるこの水道の蛇口のくらさ

 殺めたきひとりをさがす眼に会いてより心中に咲(ひら)く花あり

 硝子屋の玻璃いっせいに燦きはじむ未来など信ずるに足らぬ

作者の思想は上に引用したような歌群よりは暗喩的に表現されており、歌の重心はより抒情に傾いてはいるが、連続性は明らかである。これら一連の歌において、作者が表現しようとする思想が膨れあがり、短歌定型という皮を突き破って溢れようとするため、短歌の内的韻律が片隅に追いやられてしまうということがしばしば起きている。同じように思想的な短歌を作りながらも、「歌は韻律」ということを忘れない佐藤通雅とは対照的である。

 加藤の短歌のもうひとつの特徴はその演劇性である。集中の「死蝶幻想」と題された連測には戯曲から取られた科白が詞書きのように添えられていて、演劇と短歌の融合を試みているかのようである。

 あれはだれの忘れもの 闇のなかの螢。百年前の祭のあとの──

 燃えつきる記憶の蝶がひりひりと死の叢に放たれる

 呪われている 誰が? そう、あなたのなかの私とわたしのなかのあなたが

 井戸のポンプゆたばしる水勢しろき脛にひかりを感じ濡れるたましい

 短歌の定型が解体されて劇的科白へと組み換えられている。加藤はあとがきのなかで「限りなく日常の事実性から遠ざかることで、一首を自在な空間へと解き放とうと思った」「虚構という呼称すら無効となるような全き幻想のなかに身を投じるほか、作品が自立する道などないように思われた」と書いている。このようなスタンスを採る加藤が演劇の持つ本来的虚構性に惹かれたことはまちがいない。このように加藤は、一行思想詩という切り口から現代詩へと接近し、また虚構の演劇性という切り口から演劇へと接近するのだが、両方の方向に見られるのは強い観念性である。加藤が拠る同人誌『Es』の同人の江田浩司山田消児松野志保にもまた劇的身振りがよく見られるのは、決して偶然ではないだろう。

 しかし、上にも書いたことだが、過剰な観念性は短歌における知覚可能な具体物と不可視の思念とのバランスを大きく一方に傾けてしまうため、読者の理解を拒否する短歌になりがちであることに留意すべきだろう。読者は歌に詠まれた具体物の視覚的イメージを手掛かりとして、韻律の河を遡り、暗喩の橋を渡って、歌に詠まれた〈何か〉を追体験的に感得しようとする。よくできた短歌はこの「〈何か〉の追体験」を読者みずからが遂行できるよう組み立てられているため、読者はそこに自分で発見したかのような強い感動を覚えるのである。これを可能にするためには、歌のなかの具体物と思念とがバランスよく配されていることが必要であり、かつ読者による探索的遡上を可能にするために、表現したい思念を剥き出しにせず敢て隠すという配慮もまた必要なのである。すべてが言い切られていたら、もうそれ以上〈何か〉を探しに行く必要はないのであり、歌の魅力はなくなってしまう。加藤の次のような歌を見ると、そのように感じてしまうのである。

 抱(いだ)きあうかたちの雲がうごかざり愛の濃さとは渇きのふかさ

 日常はつまずきやすき泥濘にあれば爪先だちて歩めよ

上に引用した歌群とはまた異なる方向性の歌もこの歌集にはある。

 水が匂うゆうべの堀割をすぎて蔵のなかへと手をひかれゆく

 指先を湯にあたためている午後の君にちかづくまでの二、三歩

 あなたふかい空洞を抱く食卓に水蜜桃(すいみつ) ひとつが影を落とせり

 夏陽たかく澄む丘を越ゆいちまいの空ふるわせて響く空砲

 高層ビルの屋上くらき亀裂よりひとすじ春の無精卵ふる

 三枝昂之は栞文のなかで、このような歌が加藤の短歌の「古層」だろうと述べている。確かに加藤の短歌の「やわらかき部分」であることはまちがいない。このような古層から汲み上げる歌と抽象的思念とのバランスが問題だと思うのである。

175:2006年10月 第3週 ハルシオンの歌

ハルシオン 今亡き君はわれを待つ 
    その百錠の果ての花園
         
大津仁昭『霊人』

 今回はお題シリーズの「ハルシオン」である。ハルシオンは向精神薬トリアゾラムの商品名で、その響きのよい名のせいか、睡眠導入剤の代名詞的存在になりつつある。人気ロックバンドのsophiaが「黒いブーツ」という歌のなかで「どこからかくすねた春四音」と歌い、劇作家鴻上尚史は『ハルシオン・デイズ』という題名の劇を書くほどよく知られているのである。かねてから響きのよい名に惹かれていたが、ハルシオンが詠み込まれている歌を集めるのにずいぶん時間がかかった。たぶんどんな短歌集成でも項目として立項されていないだろう。

 睡眠導入剤は使い方によっては危険な薬であり、昔から自殺の手段として用いられてきた。芥川龍之介はパルビタール系のベロナールを服用したし、岸上大作はブロバリンで自殺している。大津の歌はそのような背景を踏まえたものである。自殺した「君」が私がそちら側に行くのを待っているというのだが、「百錠の果ての花園」は死の向う側にある涅槃だろう。この世の向う側を見つめる大津らしい歌だが、実はハルシオン百錠では死ねないのである。ハルシオンは安全性の高い睡眠導入剤で、代表的な0.25mg錠剤だと150万錠くらい摂取しないと致死量に達しないそうだ。

 しかしそんなことは歌の瑕疵でも何でもない。「ハルシオン」の音の響きが「花園」を導き出すにはどうしてもこの薬名でなくてはならないからである。「ハル」は「春」に通じて花園のイメージを呼び出すし、なにより「ハルジョオン」という花の名とよく似ているのである。「ハルジョオン」(春女苑)は「ハルシオン」(春紫苑)と呼ばれることもあり、当てられる漢字も美しい。またなぜか「ハルシオン」は競馬馬の名前にありそうでもある。このような事情と5音という座りのよさも手伝って、短歌には比較的よく詠まれるのだろう。

 じんじんと初夏深みゆきハルシオン効かずなりしと人は訴う  三井 修

 ハルシオンの無味、デパスのほのかな甘み、ブロムワレリル尿素の苦み  松木 秀

 ずばり睡眠導入剤としてのハルシオンが詠まれた歌。三井の歌はたぶん病床に長くある人で睡眠障害のためハルシオンを処方されているが、耐性のため効かなくなってきたのだめろう。初夏の深まりという季節のなかに人を配する古典的手法であるが、「初夏」と「ハルシオン」が喚起する「春」とが衝突していることに注目しよう。松木の歌は薬剤名が列記されているところがミソで、韻律に合わない破調は無視されている。デパスは向うつ剤で催眠効果もある薬、ブロムワレリル尿素はブロバリンのことである。薬剤に依存しなくてはならない境涯を薬物の味で表現しているところにこの歌の凄みがある。

 言えなかった言葉の数だけ流し込むハルシオンの白病みし者射る  伊津野重美

 地中へと埋めてやれば何か出てくるかも知れぬ千のハルシオン  生沼義朗

 これらの歌ではハルシオンは単に睡眠導入剤というだけではなく、別の何ものかを暗示する記号として用いられている。伊津野の歌ではそれは人との関係のなかで我が身に受けた傷だろう。「言えなかった言葉」の数だけハルシオンを流し込むというところに自傷的傾向が見られる。ちなみにハルシオンの0.125mg錠剤は薄い紫色、0.25mg錠剤は薄い青色だそうで、白ではないようだ。生沼の歌ではハルシオンという名と植物名との類似が連想の元にあると思われる。「千」という尋常ではない数が効果的である。ちなみにハルシオンには健忘症の副作用があるというから、「忘却」という連想関係もここには隠れているかもしれない。

 そのときはかのハルシオン・ローレライ歌わせてくれあなたの島で  正岡 豊

 あづさ弓春ハルシオン依存症指から花にかはつていくよ  西橋美保

 だんだんに睡眠導入剤という実質から遠く離れて、これらの歌ではハルシオンはほとんど記号的価値のみになっている。正岡の歌では「ハルシオン・ローレライ」と中黒でふたつの名が結合されて呼びかけの対象となっているのだが、もっぱら音の美しさとローレライと結びつく「忘却」という潜在的意味から選ばれたものと思われる(注)。西橋の歌では「あづさ弓」は「春」にかかる枕詞であり、「春」が「ハルシオン」を呼び出し、「ハルシオン」の花のイメージが指から花に変わる連想を呼び出すという関係になっている。「ハルシオン」が喚起する音の連鎖とイメージの連鎖から成り立っている歌である。

 単なるひとつの薬剤の固有名でしかないハルシオンが短歌のなかに配されたとき、このように豊かな記号作用を生み出すというところにもまた、言葉のおもしろさがあるのだろう。

 (注)「ハルシオン・ローレライ」はB.M.ステイブルフォード作のSF小説の題名だった。この小説ではハルシオンは暗黒星雲の名前として用いられている。これは黒瀬珂瀾氏の指摘による。

174:2006年10月 第2週 三井 修
または、言葉の力はいかにして新たな現実を浮上させるか

タルト生地まだ熱すぎる黒すぐり
    載せる前にまたイラクの死者達
          三井修『軌跡』

 タルト生地をオーブンで空焼きして、それから上に果物を載せるという菓子作りの手順を詠っているのだが、それが最後の「またイラクの死者達」を導き出す序詞であるかように働いている。平和な日本での菓子作りという日常的光景と、イラク戦争という暴力的出来事との対比が一首の眼目であることは言うまでもない。しかしそれに加えて、熱すぎるタルト生地と灼熱の中東の国との意味的類縁関係、生地に載せる黒すぐりと夥しく流される血の色との連想関係、タルト生地が冷めるまでの時間の短さと、その短い時間に失われる人命の数との目も眩むような対比が、この歌の意味作用を重層的に強化していることにも注目しよう。作者は中東関係の調査機関で長く働き、中東と日本を往還していた人で、その経歴がこの歌のような視点を生んでいるのである。

 三井修は昭和23年(1948年)生まれで「塔」に所属し、『軌跡』は2006年に角川短歌叢書の一巻として出版された第5歌集である。歌歴の長いベテラン歌人であり、『軌跡』に収録された歌は理知的で抑制の効いた写実を基本としながらも、掲出歌のような技法上の工夫があり、読後に重い充実感の残る一冊であった。

 穂村弘は『短歌はプロに訊け!』のなかで「短歌のくびれ」というおもしろい表現を使っている。穂村によれば「短歌のくびれ」とは、ともすれば散文的な寸胴になりがちな歌に砂時計の形のような陰翳を付与する部分であり、作者が表現のしぼりこみを工夫する場所である。三井の短歌を読んでいると、穂村の言う「短歌のくびれ」が実に効果的に配されて、一首を詩として浮揚させていることに気づくのである。試しに次のような歌を見てみよう。

 春の午後水より水へ落つる滝 若枝ひとつを揉みしだきつつ

 六月の陽は先ず光らす近づきて来る人の胸の貝の釦を

 秋雨に降り閉ざされつつ一都市は夕べをはやく灯り初めたり

 十月の野に捨てられいし壜の中 曇りていしと過ぎて思えり

 夕暮れは我らはかなき飲食(おんじき)をなすとて明るき地下へ降りゆく

 テーブルの上のフィンガー・ボールには果汁に濡れたる指が近づく

 帆船のあまた描かれし図譜閉じて春の街へと紛れゆきたり

 夕焼けの下の医院に眼球のあるいはメスに剖(ひら)かれおらん

 一首目のくびれは「水より水へ落つる」の部分である。私たちが「滝」と呼んでいるものは、高低差のある地形において「上の水」から「下の水」へと流れ落ちる水に他ならない。言われてみれば当然のことなのだが、このように言葉で表現されるとハッとする。大袈裟に言えば言葉による「世界の発見」である。二首目では下句の「来る人の胸の貝の」の助詞「の」の連続は、ふつうは避けるべき文体上の瑕疵とされることがあるが、ここでは「人→胸→ボタン」とズームインするようなクローズアップ効果があり、作者のねらいもそこにある。初夏の日差しの強さはまず胸のボタンの光として感じられるという発見を歌にしているが、作者が見聞した実体験とは考えにくく、ここには想像力による相当の工夫が潜在していると見るべきだろう。三首目では眼前の街を「一都市」とあえて不定表現を用いて指示する語法と、「夕べを」の助詞「を」が効果的に働いて、ふだんよりも早く点灯する街の光景を一片の詩にしている。四首目では捨てられている壜の中が曇っているというディテールに注目する視線の細やかさもさることながら、ポイントは結句の「過ぎて思えり」にあり、見る行為と気づくという意識の働きのあいだのタイムラグを描くのがこの歌の眼目だと思われる。このタイムラグを設定することによって、「壜の中が曇っている」という些事が、「私たちが何かに気づくこと」という普遍的地平へと押し上げられている。六首目は、何人かで連れ立って地下街のレストランに食事に行くという何げない日常の光景を描いているが、「はかなき飲食」と表現されることでいずれ迎える死が暗示され、「明るき地下」はあたかも地下墳墓のごとき観を呈している。ひるがえった「我ら」という人称詞は、作者を含むその場にいる人という限定的集団を超えて、「この世に生を送る私たち」という全称表現へと止揚されるのである。七首目のくびれはカメラ・アングルであり、人間の全身は隠されたまま指とフィンガー・ボールだけがクローズアップされている。八首目では帆船と春の街という開放感溢れる場面設定のなかで、画集を閉じた〈私〉が街へ「紛れゆく」と表現されている点が、この歌の絞り込みでありくびれである。これが「春の街へと歩み出でたり」ならば希望溢れる出発の歌になる。「紛れゆく」ところに中年を越えた男の苦さと翳りがある。九首目で叙景としては夕焼けと病院のみで、あとは〈私〉の想像が作り出したものである。眼の手術に伴う出血と痛みの感覚が夕焼けと結びつくが、もう少し想像をたくましくすれば、手術によってさらに世界がよく見通せる眼を獲得するという願望も潜んでいるのかもしれない。

 読んでいて気がついたのは、窓や硝子を通して情景を見ているという設定の歌が多いことである。

 ゴンドラに硝子を磨く人ありてわれと一枚の透明を隔つ

 玻璃の内明るく照りて若者がケーキ台に薔薇を搾りていたり

 薄片をはらはら零しつつ人はパイ食みており窓辺の卓に

 ゆきずりのインド料理店の窓 今し窯よりナンの出さるる

 一首目では〈私〉が室内にいて外部と透明な硝子で隔てられているが、残りは逆で〈私〉が外にいて内部を見ている。いずれも取り立てて劇的な光景ではなく、ささいな日常的風景なのだが、〈私〉は孤独な窓越しの観察者の位置にいて、硝子によって切り取られた光景は鮮やかに浮かび上がっている。歌によって〈私〉の内部に屈み込むのではなく、窓の形に切り取られた歌を通して静かに世界と繋がりたいという作者のスタンスが現れているものと解したい。

 何げない光景であっても、作者の目によって切り取られ、的確な言葉によって新たな整序を与えられたとき、そこにはまったく新しい現実の姿が顕現する。これが言葉の持つ現実を浮揚させる力であり、三井の短歌はその力をまざまざと感じさせてくれる。

173:2006年10月 第1週 飯田有子
または、枝毛姉さんの叫びは言葉の切実さを伝えるか

たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグ
       たすけて夜中になで回す顔
           飯田有子『林檎貫通式』

 現代短歌の「わからない歌」の代表としてよく引用される歌である。文節に従って切ると、4・7・4・10・4・11となり、全体で40音の大幅な破調になる。伝統的な短歌のリズムでこれを読むことは不可能だが、リズムがないわけではない。「たすけて」の4音がリフレインとして反復されていて、その間に7・10・11音の句が挿入されているので、全体としては単調増音傾向を示しており、悲鳴のような「たすけて」とあいまって、次第に高まる叫びのような印象を与える。しかし意味の面を見ると、「枝毛姉さん」「西川毛布のタグ」「夜中になで回す顔」の間には連関はなく、支離滅裂に見える。歌に意味はないと切って捨てるのではなく、あくまで歌に意味を汲み取る立場を守るならば、一見支離滅裂に見える言葉を並べるにはそれなりの意味があるのであり、その場合、意味は言葉の字義的レベルにではなく、一段階抽象して「支離滅裂の言葉を並べることの意味」というメタ言語的レベルに求めなくてはならない。その場合、このように意味的連関のない言葉を連ねるのは、「たすけて」という叫びの切迫性を強化するためだと考えられる。つまり、ここでは通常の「言葉の意味」ではなく、「言葉の強度」が記号的価値を獲得しているのである。

 飯田有子は1968年(昭和43年)生まれ。歌歴は長く、伝統ある早稲田短歌会に所属し、「まひる野」会員として当時は伝統的な短歌を作っていたという。その頃に作られた短歌を見てみたいものだと思う。私は『林檎貫通式』しか読んでいないので、もし昔の短歌を読んでいたらたぶんずいぶん異なる見方をしたかもしれない。現在は同人誌「かばん」に所属しており、『林檎貫通式』は2001年に、加藤治郎・荻原裕幸らの主宰する「歌葉」から出版された。現代短歌を代表するプロデューサーの手で世に出たのであり、良くも悪くも伝統的短歌と断絶した新しい短歌の代表格のように扱われるのは、デビューの状況からしてやむを得ない。本人の写真が『短歌ヴァーサス』第5号の表紙に使われている。『林檎貫通式』は漫画家ウメコの少女っぽいイラスト入りで構成されていて、意図的に少女らしさを前面に押し出しているのは演出だと思われる。そのことは後に述べるように、短歌の質と大いに関係するのである。

 さて飯田の短歌だが、『林檎貫通式』には伝統的な短歌のコードで理解し鑑賞できる歌もある。たとえば次のような歌群である。

 のしかかる腕がつぎつぎ現れて永遠に馬跳びの馬でいる夢

 女子だけが集められた日パラシュート部隊のように膝を抱えて

 にせものかもしれないわたし放尿はするどく長く陶器叩けり

 金色のジャムをとことん塗ってみる焦げたトーストかがやくまでに

 夏空はたやすく曇ってしまうからくすぐりまくって起こすおとうと

 足首をつかんできみをはわせつつおしえてあげる星のほろびかた

 カナリアの風切り羽ひとつおきに抜くミセスO.J.シンプソン忌よ

 一読すればわかるが、飯田は韻律の詩型としての短歌をよく理解しており、前衛短歌以後さまざまに試みられた技法的工夫も自分のものにしている。例えば1首目の4句「永遠に馬跳びの」は10音の増音だが、小池光も法則化したように、4句はもっとも増音破調が許される句である。どこか塚本邦雄の「少女死するまで炎天の縄跳びのみづからの圓驅けぬけられぬ」を連想させるものがあり、この連想は飯田の念頭にもあったかもしれない。内容的には永遠に馬跳びの馬に留まる悪夢のような恐怖感が夢として表現されており、取り立てて難解な所はない。2首目では「パラシュート/部隊のように」に句跨りがあり、これも周到に下句に配置されている。生理の始まった女子を対象とする小学校の保健の授業の場面が描かれている。ポイントはもちろん「パラシュート部隊のように」で、体育館の床に体育座りをしている様を表現しているのだが、それがまるでこれから敵地に夜間降下する落下傘兵のようだとされている所がミソである。3首目は初句の6音を除けば技法的に取り立てて言うべき点はないが、内容を見ると、上句の叙情と下句の叙景とが意味的喩として見事に呼応している。テーマは割とよくある自己不全感覚である。

 ここまでは比較的伝統的短歌に近いスタンスに位置しているが、4首目からはもう少し現代短歌風になっている。4首目では「とことん」「塗ってみる」と口語が使われており、「焦げたトースト」が象徴する喪失感を「金色のジャム」で糊塗する行為は、3首目の私のにせもの感と通底する。5首目では牧歌的な子供時代の明るい夏の情景のなかに、一抹の将来への不安感が表現されていて、よくできた歌である。6首目は腕立て伏せの姿勢をする相手の足をもって移動する体操の場面だろう。下句に言及されている星の消滅という宇宙レベルのマクロな現象と、上句の日常的な体操の場面との鮮やかな対比が歌の眼目である。7首目のO.J.シンプソンは、アメリカのプロフットボールのスター選手であり、1994年に元妻の殺害容疑で逮捕され裁判になったが、巧妙な法廷戦術の結果無罪の評決を得た。O.J.シンプソンは映画にも出演した著名人で、逮捕の一部始終はTVで中継され全米の注目を集めたが、その影で殺害された元夫人は忘れられて行った。元妻の名前がニコル・ブラウンだったということを記憶している人ももういない。飯田はこのように不当に忘却された人を歌に登場させていて、その選択は周到である。上句「カナリア」は人工的に作られた美声の鳥であり、短歌では夢と儚さのシンボルとしてよく詠われる。ここでは無辜の人の象徴である。カナリアの羽を抜くというのは残酷な行為であり、殺害され忘却されるという二重の不幸に見舞われたニコル・ブラウンの運命を暗示している。

 ここまで意図的に細かく飯田の歌の読みを書いてきたが、飯田は伝統的短歌の技法を踏まえ、前衛短歌・現代短歌の手法も熟知していて、なかなかよい歌を作っているのである。しかし、問題は上に引用したような歌が『林檎貫通式』を代表する歌ではなく、また飯田の代表歌とも見なされていないという点にある。『林檎貫通式』を代表するのは次のような歌である。

 ゆいごーん 春一番に飛ばすジェリーフィッシュアレルジイ証明書

 かんごふさんのかごめかごめの(*sigh*)(*sigh*)(かわいそうなちからを)(もっているのね)

 球体にうずまる川面いやでしょう流れっぱなしよいやでしょう

 生ごみくさい朝のすずらん通りですわれわれは双子ではありませんのです

 すべてを選択します別名で保存します膝で立ってKの頭を抱えました

 あれみんな空っぽじゃない? うたがいぶかい奴は卵屋にはなれません

 『短歌ヴァーサス』第5号の特集「新鋭歌集の最前線」で飯田の『林檎貫通式』を論じた荻原裕幸は、「この歌集が目指しているのは、そうした自己像の形成といった短歌らしさを根こそぎ落したときになお残る、もっとピュアな〈現在のことばのちから〉のようなものだと言えようか」と書いている。また上に引用したような歌について、「『林檎貫通式』が究極的に求めていたのは、帰路を断つようにして短歌らしさから遠ざかった以下のような作品ではないだろうか」とも述べている。つまり荻原は『林檎貫通式』に収録された歌のなかには、伝統的な短歌における自己像の形成 (「短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の ─ そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです」by 岡井隆)をうかがわせる歌もあるが、この歌集の価値は従来の短歌らしさと断絶している点にこそあると主張しているのである。そのとき荻原が価値を置くのは、「ピュアな〈現在のことばのちから〉のようなもの」である。

 ここで荻原の物の言い方に危険な香りを嗅いでしまうのは私だけだろうか。伝統的短歌と断絶しているということ自体がプラスの価値として評価されるのではなく、過去と断絶した結果、どのような新しい地平を示すことができたかによって評価されるべきだろう。荻原は明らかに前者の「断絶」に力点を置いてこの文章を書いている。後者の「新しい地平」については、「ピュアな〈現在のことばのちから〉のようなもの」と述べるのだが、これが果たして伝統的短歌の世界に対峙できるほどの強力な武器となりうるのだろうか。私はこの点について極めて懐疑的にならざるをえないのである。

 伝統的短歌の定型や韻律を否定し、「ピュアな〈現在のことばのちから〉のようなもの」に全面的に頼るということは、ひとりぼっちで31文字の詩型と向き合うということである。かつてキリスト教信者と神のあいだに位置して神と人を仲介していたカトリック教会を否定し、神と人とを無媒介的に直接向き合わせようとしたプロテスタントの宗教改革とその精神においてよく似ている。宗教は神と人の中間にある教会という場において社会化される。それと同様に、短歌は歌と人の中間にある様々な約束事や制度(結社もそのひとつ)において社会化される。社会化されない短歌は個人化されざるをえず、極端な場合には理解すら拒絶した孤独の叫びとなる。

 そうすると個的次元においてみずからが価値を置きうるものは、発語の切実さとピュアさしかなくなる。「私の感情はこんなに切実」と、「私の言葉はこんなに嘘がない」のふたつである。切実な感情を抱き言葉の嘘を嫌うのは青春の特徴であるから、「ピュアな〈現在のことばのちから〉」を保持するのは若者の特権ということになる。『林檎貫通式』の表紙がセーラー服の少女のイラストで、歌集全体に飯田の実年齢よりも若い少女の演出が施されているのはこのために他ならない。穂村弘の『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』の場合は、作者である穂村自身が少女を偽装するには無理があるので、架空の少女まみからほむほむへの手紙という体裁を取っているが、目的は同じである。

 しかしながら言葉のピュアさなどというものを頭から信じないオジサンの目から見ると、「発語の切実さ」を担保するために幼年偽装するのは「いかがなものか」と思う。それでほんとうに世界と向き合うことになるのだろうかという気がしてならないのである。

 

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172:2006年9月 第4週 佐藤雅通
または、永遠の少年性

休日の鉄棒に来て少年が
   尻上がりに世界に入って行けり
        佐藤通雅『水の涯』

 少年が校庭の鉄棒で逆上がりの練習をしている。わざわざ登校日を避けて休日に来ているのは、クラスで自分だけ逆上がりができなくて、人目のない休日に一人で練習するためである。何度か試みるうちに、ようやく逆上がりができるようになる。それを「世界に入って行けり」と表現している。成長過程にある少年にとって、逆上がりができるようになるという些細なことであっても、それは世界に入って行くひとつの重要な階梯なのである。教師をしていた佐藤らしい観察であり、定型を遵守する作風には珍しく、下句が10・7という大幅な破調になっている。四句目の「尻上がりに世界に」はいきおい速度を上げて読むことになるが、そのリズムが逆上がりのスピードをミメーシス的に表現していて、成功した破調のよい例だろう。短歌においては破調すらシニフィアン (意味するもの) として働くのである。

 1943年生まれの佐藤には、第一歌集『薄明の谷』(1971年)を始めとして、第八歌集『予感』 (2006年) まで8冊の歌集がある。今回は、第一歌集『薄明の谷』完本の他、第二歌集『水の涯』、第三歌集『襤褸日乗』、第四歌集『アドレッセンス挽歌』からの抜粋を含む砂子屋書房刊行の『佐藤通雅集』を読んだので、佐藤の初期歌篇を中心に見たことになる。

 佐藤の歌の大きな特徴はその「少年性」である。この場合「少年性」とは、少年の眼と心の瑞々しさを失わないという意味であるが、失われた象徴的少年期に固着するという意味でもある。『薄明の谷』冒頭の「少年期抄」は、作者10代から20代初期に作られた歌だが、年齢的に少年を脱してそれほど間がない時期において、もうそのことは言えるのである。

 爆笑する中にて我も笑わんとすれば苦しきものが喉にこみあぐ

 すべてみな許容したき心もつ冷気の中に夕日沈むとき

 ひそかなる殺戮とげし野の朝にわが童顔をさらして歩く

 わが内より喪われゆくもの 恍惚と彫像めいて火の前に立つ

 凡愚の周囲への異和感と孤独感、きりきりと差し込むような自意識、その反面、無垢性を年齢とともに喪失しつつあるという危惧などの、10代の少年期に特有の内的感情の葛藤が、達者な手法で短歌に定着されている。〈社会化されてゆくことへの怖れ〉は青春短歌の普遍的なテーマのひとつだが、佐藤の特徴は、やがては平準化されてゆく周囲との異和や対立を、解消せずに内的に抱え込むことで自我を確立しようとした点にある。佐藤が少年期に固着し、何度も短歌に詠む理由がここにある。この葛藤こそが佐藤の歌のエネルギーなのである。

 シュプレヒコールはるかに聞こえる図書館に今日も埋めゆく「透谷ノート」

 あかされている敗退を覆いつつ人ら群れいるみぞれの構内

 憤り黙すすべなく上り来し屋上の隅に孔雀ふくれる

 鬱したるまま過ぎて行く青年期ならんか食卓に葡萄すきとおる

 拒絶しつつ孤立しつつわが視野にむしろすがしも朝の樹木は

 権力に背きゆきつつわれらかく清しくなれる肩・まだら雪

 60年安保闘争の直後の1961年に東北大学に入学し、学生運動を経験するが、指導層の観念性に異和を感じてやがて離れる。上に引いた歌はその頃の作だろう。キャンパスに響くシュプレヒコールを聴きながら、一人図書館に透谷ノートを書き綴る孤立感が佐藤の拠る場所である。佐藤は短歌人会に入会するが、それは「どこよりも権威がなく」「学割があり」「何だかむずかしい歌がいっぱいあった」からだという。しかしやがて脱会し、個人誌『路上』を創刊して現在に至っている。

 『薄明の谷』(1971年)でスタートを切った佐藤の歌人としての歩みを見ると、時代は変わったという感を深くする。小池光は、「70年頃に短歌をやっているということは恥ずかしいことだった」という意味の発言している(『現代短歌の全景』河出書房新社)。同じ頃に短歌と出会った藤原龍一郎も同意しているので、世代に共有された感覚なのだろう。『薄明の谷』には歌集としては例外的に長い自序が付されており、その中で佐藤は一時短歌を捨てようとしたことがあると告白している。その理由は、「旧物の典型みたいな形式にすがりついているのはぶざまに思われたし、現代における存在意義がはなはだ疑わしかったから」だという。また「『自分は短歌に魅力を感じる人間だ』と宣言することは、科学的合理的風潮の前にあってははなはだ弱々しい歌のこころに居直るに等しく、日本的なものを不当におおいかくしていた近代のつぎはぎ文明に宣戦布告するに等しかった」と続けている。

 つまり佐藤には二重の葛藤があったということになる。ひとつは上にも述べた〈社会化されてゆくことへの怖れ〉を核とする周囲との異和と対立であり、もうひとつは短歌という「旧物の典型みたいな形式」を「科学的合理的風潮」の時代にあえて選択するという対立である。しかしすでに述べたことではあるが、この葛藤こそが佐藤の歌のエネルギーなのであり、息の長い歌作を支えた基盤である。しかるに現代にあっては、「短歌をやることが恥ずかしいこと」だと感じさせる時代の圧はなく、〈公的状況〉と〈私的状況〉の対立もまた雲散霧消した。山田富士郎は『短歌と自由』のなかで、「1970年頃を境に、公的状況が私的状況に優先するかのように見える時代が完全に終わってしまった」と的確に指摘している。このような時代の歩みのなかでは佐藤の歌は、沈潜と鬱の度合いを深めるしかないのだが、事実そのとおりに展開しているように見受けられる。

 このような佐藤の歌であるから、純粋な叙景というものはなく、景物を詠んでもその背後には葛藤する〈私〉が重く沈潜している。

 月明かり乏しき駅は幻にあらずや雁の逆しまに落つ

 ダリア畑で昼間捕えし黄揚羽のさむざむとしてはつなつは来る

 薄暮 狼のように橋渡ればあおむけのまま売られる自転車

 地震過ぐる水田にあれば眼の廃いて難民のごとき歩みはするも

 蜻蛉の羽のきららに一日充つわが裏にして素枯れたる墓地

 『薄明の谷』の「Kへ 十年後の返歌」と題された連作のKは岸上大作であり、「R どこへ行った」という連作のRは歌を捨てて失踪した岡井隆のことである。

 市街戦へしぶきして行く暁のK眼鏡の奥の何とかぼそき

 病むものの辺にかえらざるDr.R されば吐血のごとき霜月

 また『襤褸日乗』に「向日葵は空高々と領したる若くして汝は父を逝かせし」という歌があるが、これは「倒れ咲く向日葵をわれは跨ぎ越ゆとことはに父、敗れゐたれ」という小池光の歌への返歌であり、「〈脱出〉はつひに成らざる水際に立ちて燿ふペンギンの胸」は有名な塚本邦雄の歌を踏まえており、「商店を通りすがひて硝子戸を磨く中年あれは樽見か」は福島泰樹の「樽見 君の肩に霜ふれ 眠らざる視界はるけく火群ゆらぐを」にこと寄せた歌である。佐藤がどのような歌人を視野に置いて作歌していたかをうかがわせる。

 前衛短歌からイメージ的喩の技法の影響を受けつつも、佐藤の作歌は端正な定型であり、短歌の韻律を熟知した歌の作りには狂いというものがない。なかでも次のような抒情的の歌の瑞々しさがとりわけ印象に残った。

 軟水にバラ洗われていたりけり批判書一つ書かんあかつき

 蝶一つ大麦の畦越えしゆえわれは研ぎつぐ白き剃刀

 ダリア畑でダリア焼き来し弟とすれちがうとき火の匂うなり

 ひたひたと渚に燃ゆる馬見えて 秋 遠国の死者にまじれる

 夜半ながら起きて一杯の水を飲むある係累を断つ思ひにて

 夕暮は病をもてるもののとき茱萸売りの声海より来たる

 しかしながら、佐藤の短歌を特徴づける「少年性」を最もよく表しているのは、次のような歌群であろう。

 生きている不潔というや村一つ水引草のあたり風立ち

 生きてゐることもあるひは徒労かとかの日汚れて電車にありき

 表現は退路をわれに許さざる冷たき飯に湯を注ぎたる

「生きることは汚れることだ」という悲しい断定が佐藤の心の奥底にある。それがまた佐藤を教育論や童話研究へと押しやる動機ともなっているのだろう。

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171:2006年9月 第3週 佐竹彌生
または、孤絶の詩心は死の影を歩む

今日よりは蝶の受胎の日に入りぬ
      寒青葱の水染む緑
       佐竹彌生『天の螢』

 佐竹彌生は1933年(昭和8年)に鳥取県に生まれ、文芸誌「青炎」「鴉」「菱」などに所属し、第一歌集『雁の書』(1971年)、第二歌集『天の螢』(1977年)、第三歌集『なるはた』(1983年)の3冊を残して、1982年に50歳の若さで亡くなっている。中央に出ることなくずっと鳥取県で地方歌人として過ごしたようで、そのためか話題になることは少ない。試しにインターネット検索してみたらごくわずかしかヒットしなかった。WEB書店の図書検索を除けば、佐藤通雅の『路上通信』に佐竹が作品を発表した号と、『塔』に江戸雪が佐竹論を書いた号くらいである。それを除けば、藤原龍一郎が『短歌の引力』に収録された時評のなかで、砂子屋書房の現代短歌文庫で『佐竹彌生集』が刊行されたのを取り上げて、「現代短歌史上に確かな足跡を残している歌人の業績を一望できるようにまとめてくれた」と評価しているくらいで、それ以外に佐竹に言及した文章に接したことがない。もっともこれは私が歌壇にくらいためかもしれない。

 佐竹が第一歌集『雁の書』を上梓した1971年とはどんな年だっただろうか。1969年には東大の安田講堂陥落により大学紛争終結、1970年には三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺し、大阪万国博覧会に日本中が浮かれた。1972年には田中角栄首相が日本列島改造論を発表している。長く「中央公論」の編集長を務めた粕谷一希は、69年の大学紛争の終結と70年の三島割腹事件を契機として、日本社会と文壇の構造は変化し、それとともに日本人の精神構造もまた変化したと指摘している。また、吉本隆明によれば、第三次産業の従事者の人数のほうが第二次産業よりも多くなり、日本が大衆消費社会にシフトしたのは1972年頃だという。 日本にとっては大きな結節点であったわけだ。そんな時代の潮流のなかにあって、佐竹の『雁の書』はひっそりと世に出た。時代の激動から超然とした歌集のたたずまいを考えればそれもまたやむをえない。その超然ぶりは次のような歌を見ればすぐにわかる。

 中空にこころを奔れ 響り出づる黄玉のごと檸檬の香ちる

 花の哭 雫となりし心にてふときかむとすひるがほのかげ

 擁かれねば焔の髪となすことのあらざらむけさ玉蟲の髪

 玉鉾の唐黍道(もろこしみち)を過ぎむとしあふるる悲痛こゑほそめ呑む

 血の鐘の鳴るにぞ秋の爪の上にいのちの泪きらきらとあり

 目つむれば海の歓呼も消えさりてわが骨かぞふほどのかそけさ

 高度経済成長の果実を享受して大衆消費社会への道を歩み始めた70年代の日本において、このような短歌は確実に「反時代的」である。桑原武夫の「第二芸術論」を待つまでもなく、短歌はその身内に近代文学ではないものを内包しているが、佐竹のように源氏物語と王朝文学に深く傾倒している場合には、その「反時代性」はさらに極まるのである。

 このような状況に直面したとき、歌人の採る態度は大きくふたつに分かれるだろう。ひとつは、「反時代的で何が悪い」と開き直って、短歌の内包する前近代性を前面に押し出すまではせずとも、それに何らかの価値を付与することで、短歌の命脈をつなごうとする態度である。もうひとつは、短歌という詩型そのものを時代に合うようにリニューアルすることで、「反時代性」を超克しようとする態度である。もっとも歌人の多くはこの二極のあいだで揺れ動き、どちらとも言えない灰色領にいると思われる。

 しかし、佐竹の場合はそのような切口で考えるのは妥当ではあるまい。時代を超越して自らの歌の世界に没入し、ひたすら詩心を研ぎ澄ますことに専念していたと見られるからである。佐竹の短歌の世界を特徴づけるのは、「ここにこうして存在することの不可思議」と「命のおののき」である。

 螢火をおさへしふとも汝がたまを抑ふとおもふ硬き夏の手

 睡魔乗る車輪かがやき顕在のわれと昆虫轢かれてゆけり

 夕顔の花ともなりて後になり前(さき)になりわが夕ぐれの死者

 銀扇を折りまたひらく心ちして日のさざなみのゆく秋を見る

 ふる雪の何處にか覗く 白白とガーゼの絹を透る眼の光(かげ)

 降りて行く泉の底ひ映りたる貌より汲みし一人の他者

 満天の夜ぞらの星をひとつくぎりくらき鳥籠に星を飼ふなり

 夜の竿にほのかにひかる鰈あり雪の夜ふけて魚の身は燃ゆ

 流麗な文語と頻出する古語は、佐竹の王朝文学への傾倒を物語るが、それだけに目を奪われてはいけないだろう。たとえば、一首目「螢火を」や四首目「銀扇を」などは典型的な王朝風だが、二首目「睡魔乗る」や五首目「ふる雪の」などは近代詩の香りがする。事実、佐竹は短歌と並んで詩作も行なっていたらしい。そう知って読み直すと、二首目「睡魔乗る」の表現の斬新さは、横光利一らの新感覚派を思わせるものがあり、短歌と現代詩の交錯のなかから誕生したものだとわかる。

 短い年譜によれば佐竹は山中智恵子に傾倒したとあるが、現代詩との交錯という点では、どこか浜田到に近いものが感じられる。

 ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ  浜田到

 紋白蝶死にし少女のなか漂ふにゆふひの蘂を僧院かかぐ

 白昼の星の光にのみ開く扉(ドア)天使住居街に夏こもるかな

 浜田の天上的幻視の抒情はリルケの形而上的詩世界への傾倒によるものだが、佐竹の短歌にも、可視と不可視の不思議な混淆があり、自らの内部への沈潜を通して、存在の深みへと測鉛を垂らすような所がある。上に引用した歌のなかの五首目「ふる雪の」に見られるガーゼの絹を透過する視線や、七首目「満天の」に見られる非在の鳥籠に星を飼うという幻想などは、特に浜田との親近性を感じさせる。病弱だったせいか、歌の至るところに死の影がさしているところも、浜田とよく似ているのである。

 また短歌の技法的特徴としては、近代短歌のセオリーである写実によらず、幻視を伴う詩的圧縮を多用することで、可視の現実を超えて形而上的世界に迫ろうとする志向が強く感じられる。この点においても佐竹と浜田は魂の同質性を感じさせるのである。

 現代の若い歌人が佐竹の短歌を読んだら、どのような感想を抱くのだろうか。現代短歌の大きな流れとなりつつある日常語によるライトでポップな歌の言葉と佐竹の駆使する詩的言語は、まったくといってよいほど位相を異にする。現代の歌を読み慣れた目で佐竹の高踏的な歌を見ると、きっとテンションが高すぎると感じるだろう。しかし逆に佐竹の歌の言語のボルテージと火花が飛ぶような詩的圧縮を感受した目で現代の歌を読むと、その言語のあまりの平板さと日常性に驚いてしまう。そして短歌は確実に変質したとの感を深くするのである。

 佐竹の短歌の世界は孤絶の世界であり、歌人自身がそれを望んだふしがある。孤絶の世界に参入することは容易ではなく、また危険なこともあろう。しかし佐竹の歌は詩的言語の位相とはいかなるものかを教えてくれるのであり、大衆消費社会の到来を告げる70年代の初頭にこのような歌集が出版されたことには意味がある。それがたとえ反時代的という意味であるとしても。

170:2006年9月 第2週 伊津野重美
または、病の彼方にどのような抒情を奏でるか

文鳥の胸の真白をかきやれば
   暗紫(くらむらさき)の肉の色もつ
        伊津野重美『紙ピアノ』

 小鳥を飼ったことのある人ならば経験することだが、確かに羽毛は白くても、その奥にある体の色は赤黒く血の色をしていて、「ああ生物なのだ」と実感させられる。しかし、ふつう人は小鳥の鳴き声や愛らしい外観を愛でるのであり、羽毛を掻き分けて肉の色を確かめたりはしない。対象がこちらに向けて提示している外見の奥を見ようとするには、それなりの内発的な動機がなくてはならず、この歌の作者にはその動機がある。それは自らの宿命的な病患であり、体内の患部に意識が過度に注がれるがために、目に見えている世界のさらに奥を探らねばいられないのである。

 『紙ピアノ』は伊津野重美(いつのえみ)の第一歌集だが、この歌集はいくつかの点で特異な歌集である。まず写真家の岡田敦による写真とのコラボレーションという体裁を採っており、作者を撮影した写真が織り交ぜてある。といってもポートレートのたぐいではなく、作者は海辺や花野や草原に遠く小さく写っているにすぎない。「あとがき」で作者は、「短歌と声と身体が一つになって、私の世界を表現する媒体となっていた」ために、歌集に写真を入れることが必要だと考えたと書いている。ということは、短歌と写真のコラボレーションといっても、短歌の表現の可能性を広げるためとか、短歌と写真を並置することでジャンルを横断する相乗効果を期待してといった動機ではなく、「歌集の中に私が視覚的に存在する」ことが重要だということを意味する。仮にこれを「〈私〉の露出」と呼んでおく。なぜ「〈私〉の露出」が必要なのだろうか。それは歌集に収録された歌を読み、その過程において読者の脳裏に積分的に析出される〈私〉では十分ではなく、「生身の〈私〉」が歌の意味作用に不可欠だと感じられたからだろう。「生身の〈私〉が歌を支える」というのは過激な思想である。全身を歌の意味作用の担保として差し出すというのはまた、危険な思想でもある。それは住宅顕信や種田山頭火たちの辿った道へとつながるからである。伊津野がこの方向を選ぶのは、伊津野にとって短歌がお稽古事でも趣味でも余技でもなく、それによって自己の存在を世界において支えている支点であり、その意味において伊津野は「全身歌人」だからである。作者は短歌の朗読活動を続けており、その方面でも評価が高いようだが、自ら舞台に登って生身で短歌を朗読するのはまことに「全身歌人」にふさわしい。

 宿痾のために学校にも行けないような時期があり、危篤状態に陥ったこともあるという作者にとって、病苦が呪詛の対象であることは当然だろう。特に歌集の前半にはネガティヴな感情が噴出する歌が並んでおり、読んでいてやや重苦しい印象は拭えない。

 真っ直ぐに育つ美し人を指し我責む母よ 冷たき春に

 骨までも灼き尽くすとうひかりにも灼き尽くせない病根をもつ

 炎天のオルゴールから崩れ出る狂って明るい「愛の挨拶」

 頽れる身を受け止める人もなくただ音立てる貝の死に殻

 毒汁のごとふつふつと怨み沸く血の濁りもつ吾の面(つら)昏し

 死に鳥の墓標となりて紫陽花のその身を赤く変じてゆけり

 病に苦しむ作者の眼に映るすべての形象が、病と死の喩として歌を構成している。浜辺を覆う貝殻も赤く咲く紫陽花も凶相において捉えられているのは、作者の心情が万象を浸しているからである。世界は観察者としての〈私〉から独立して外部にあるのか、それとも感覚で捉えている〈私〉の内部にあるのかは、古くから哲学で議論されてきた問題だが、こと短歌に関してはそれははっきりしている。世界とは「〈私〉の眼に映じた世界」であり、それ以外のものではない。

 短歌と病気は昔から縁が深い。「療養短歌」という言葉もあるくらいだ。脊椎カリエスを患った正岡子規を始めとして、結核にかかった小泉千樫や木下利玄や相良宏、ハンセン氏病の明石海人や、近くは上田三四二と小中英之も病気に苦しんだ。またこれら有名歌人でなくても、病床にいて短詩型文学としての短歌に自己表現と慰藉の手段を求めている人は今でも大勢いるだろう。病気と縁の深い文学形式など、世界中探しても短歌以外には見あたらない。短歌の誇りとすべきことである。

 愚かしき乳房など持たず眠りをり雪は薄荷の匂ひを立てて  中城ふみ子

 目覚むれば病臥のわれをさしのぞくかぼそき朱のみづひきの花  上田三四二

 氷片にふるるがごとくめざめたり患(や)むこと神にえらばれたるや  小中英之

 自らの病は伊津野にとって取り組むべき大きなテーマであると同時に、伊津野の短歌を限定する要因としても働くことに注意しておこう。病気への呪詛、父母への怨み、死への怖れといったネガティヴな感情が伊津野の歌を駆動していることは疑いない。まことにやむをえないことである。しかし同じように死と隣り合わせに生きた全身歌人であった小中英之の次のような歌を見てみよう。

 枇杷の木は死臭の花を終りたり夏ふたたびのみのりのために  『過客』

 患むことはわたくしごとにて窓からの木立に蛇のしづかなる日よ

 海よりのひかりはわれをつつみたりつつまれて臨終(いまは)のごとく眼を閉ず

 くちばしに鳥の無念の汚れゐて砂上に肺腑のごとき実こぼす

 枇杷の花に死臭を感じるのは、小中の内的感情が投影されているからであるが、下句は来年の稔りを祈る静かな感情で締めくくられている。また二首目には、自分の病気と世界とを意識的に切り離す態度がある。切り離して眺めればそれは穏やかな世界なのである。小中にはこのように自分の病気を歌において昇華せしめんとする態度が顕著であり、そうして到達した抒情の透明度は他に類を見ない。

 伊津野の歌を読んでいると、詠われた心情の切実さに打たれはするが、次第に息苦しくなってくる。吐露される心情のあまりの濃厚さゆえである。その点、次のような歌はやや趣を異にする。

 手のひらに記憶してゆくしんしんと眠れる人の頭蓋のかたち

 ユモレスク高らかに弾く 草上の遂げ得ぬ思いに紙ピアノ鳴れ

 身に深く沈め持ちたる骨盤は二枚のやわき翅を広げて

 汗ばんだ幼女の体抱きとめる時たしかに過去の夏の香がした

 輝ける空に心をつなぐため季節はずれのサンドレス選ぶ

 彗星の微光のごときヴェール曳き一足ごとに妻となる友

 一杯のグラスの水をユーリチャスの鉢と吾とで分け合う夏よ

 ここには病を背景として持ちながらも、世界へと差し伸べる手がある。特に二首目は歌集題名ともなった「紙ピアノ」という語句を含む歌で、「紙ピアノ」とは、その昔、ピアノが高価で一般庶民に手が出ない楽器であった頃、運指の練習に使われた鍵盤の模様を描いた紙のことである。紙ピアノはあくまで本物のピアノの代用品であり、鳴ることはない。音は出ないと知りながらもユモレスクを演奏するという行為には、絶望のなかにあってなお光へと向かう姿勢がある。重苦しい歌の並ぶ歌集を読み進んで、上のような歌に出会うと救われたような気がする。

 小中英之は宿命としての病気と連れ添う人生において、自らと切り離すことのできない病気という断面を通して世界を見つめることで、療養短歌を超える抒情の世界に到達した。伊津野も表現者ならば、病の彼方にあるものを目ざすべきだろう。

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169:2006年9月 第1週 酒向明美
または、眼差しは現象を超えて抽象のかげりへ

どうしても現象(フェノメノン)に目がゆきさうだ
     枇杷がゆさゆさ陽を孕むだから
           酒向明美『ヘスティアの辺で』

 わかりそうでわかりにくい歌だ。上句の意味は明瞭である。「どうしても現象に目が行ってしまう」というのは、われわれの感覚で捉えられる形而下の世界に捕われがちだということだ。現象の反対は本質であり、作者は形而上の世界にほんとうは目を向けたいと願っている。でも枇杷の揺らぎに象徴される自然界の煌めきが、作者の視線を現象世界に招いてしまう。おおよそこのような意味かと思われる。女性歌人のなかでは珍しく思弁的な歌風であり、現実を組み換えて抽象に至ろうとするその方法論は、ときに歌意の晦渋さを招きながらも注目される。また掲出歌の結句におまけのように付け加えられた「だから」が破調を生み、予定調和的コーダを破壊しているのもおそらく意図的なことなのだろう。

 作者の酒向明美については、金沢在住で結婚して男の子が二人いることくらいしか知らない。「未来」と同人誌「レ・パピエ・シアン」に所属していて、『ヘスティアの辺で』は2000年に上梓された第一歌集である。題名の「ヘスティア」はギリシア神話の竈の女神で、あとがきに「ひとつの場所にとどまるという生き方に、迷いのない叡智をみる」と著者自身が書いている。「凍豆腐つゆふふませて溺れをるのっぺら世帯のヘスティアの辺(べ)で」という歌があり、「辺」には「ベ」とルビが振ってある。「厨辺」(くりやべ)と同じことだろう。

 女性歌人の場合、恋愛・失恋・結婚・出産・離婚といった女の一代記的人生の里程標がそのまま歌に詠み込まれていることがおおいのだが、酒向の場合、そのような実人生的要素は非常に少ない。そういった要素はまずふるいにかけられて、存在の抽象度を高められてから、歌を構成するパーツとして登場することを許されているのだろう。

 入り日待つ一瞬のためにある埠頭ほほづゑついてわたしは生きて

 肉体の崩ゆる日よりもなほうつろ生きたあかしの灰の軽さの

 わすれ水さがしゆくべし薔薇酔(ゑ)ひの覚めやらぬきぞまたはあした

 パール・グレーの鈍きひかりの横溢に喪の夏はありと粛粛きたりぬ

 流されて汽水に沈みし思想かな旗はみぎはへひるがへるみぎへ

 まつたきフォルム林檎を食めば疵あらぬわが歳華の酸ゆさしたたる

 いずれも純粋の叙景でもなく純粋の叙情でもなく、言葉を梃子として「凡庸な現実」を一段階上がろうとするかのごとき語法である。日常生活で何かハッと気づいたことがあり、それを歌にしたというものではない。だからこういう歌の解説はとてもむずかしい。たとえば三首目、「薔薇酔ひ」は薔薇の香りに酔うことであり、感覚的陶酔を表しているが、それがまだ覚めないうちに「わすれ水さがしゆくべし」とあり、陶酔と覚醒の交代が詠われていると思われるのだが、それが何かの具体的体験を指しているとは考えにくい。言葉の差し出す意味の純度が高められているそのような使い方だろう。 

 ひたぶるに注ぐうつはになりたくて身の裡深くくぼみを彫らむ

 人はなぜ温もりのある懐を求める裡なる世界を有ちて

 冬空がラピスラズリになだれ込む突然言うから薄目をあけた

 スリットゆ生まれたる恋は待つのみのわたしを追ひ越し交差点(スクランブル)過ぐ

 やはらかにふかくひろごるたなごころあはれをみなの美徳とされつ

 ここにあげたのは恋の歌、あるいは女という立場から詠んだ歌だが、やはり具体性は乏しく、心情の吐露よりも自らのなかに疑問を持って問いかけるという姿勢が勝っている。作者にとって歌とは心情の表現であるよりも問の器であり、言葉を入念に選び磨くという作業を通して、自分を取り巻く現実を抽象のレベルへと押し上げたいという願いが込められているようだ。この方向がさらに進むと「夏椿咲(ひら)くかたへにそと置きてうつし身はすずしきこの世の嘘」と詠った照屋眞理子の境地に近付くのだが、ここまで行くとそれは『玲瓏』の世界になってしまう。もともとはアララギの流れを汲み、写実を基本とする結社「未来」だが、所属する歌人の歌風の振幅は大きく、酒向のような指向を持つ歌人が「未来」にいるということもまたおもしろいことである。

 最後に印象に残った歌をいくつかあげておく。

 月齢を増しつつをらむ提供の臓器しづかに外さるる夜の

 てぶくろの十指にあまるせつなさをこぼしつつ行く思案橋まで

 月面にひとの足型標されて白兎の至福とはにほろびぬ

 うつくしき錯誤ひとつを与ふること謀りてほどかるカサブランカは

 母たらず死にゆく母にどことなく肖るわが鎖骨冷えて久しき

168:2006年8月 第5週 岡崎裕美子
または、書き割りのような戦場を生きる身体感覚の歌

いっせいに鳩が飛び立つシグナルの青
     あの部屋にブラウスを取りに
          岡崎裕美子『発芽』

 ふつうなら岡崎の代表歌としては、歌集の帯にも印刷されている「したあとの朝日はだるい自転車に撤去予告の赤紙は揺れ」を選ぶところだろう。しかし最初は付箋を付けていなかった上の歌を選んだのは、話題になった「したあとの」の大胆な性愛表現よりも、上の歌の方が岡崎の美質がよく現われていると思ったからである。

 上句「いっせいに鳩が飛び立つシグナルの青」は、交差点の信号が青になり自動車が発進して鳩が飛び立つ光景だろう。しかし、たくさんの鳥が飛び立つ光景は、ヒッチコックの名作『鳥』を待つまでもなく、危機意識や災厄の前兆としての象徴的価値を持っており、上句はどこか危機を孕んだものとして読める。そして一字空けを挟んで下句「あの部屋にブラウスを取りに」が続くのだが、「遠・親」を表す指示詞「あの」で指されているのは、歌のなかの〈私〉と誰かが共有した体験を過ごした場所である。その部屋にブラウスを取りに行くというのだから、たぶん置き忘れた自分の服を取りに行くのであり、同時に恋人との別れを暗示している。上句と下句との間に意味的連関はなく、一字空けがその無関係性をだめ押ししているが、ここには上句と下句の間で成立する短歌的喩がある。だから岡崎は見かけ以上に現代短歌のコードに忠実に則って歌を作っているのであり、さすがは岡井隆の弟子なのである。

 岡崎裕美子は1976年生まれで、「未来」に所属し『発芽』(2005年)は第一歌集。あとがきに高校生の頃から短歌のようなものを作っていたとあるから、たぶん投稿歴があるだろうと探してみたら、『短歌研究』2000年の臨時増刊号「うたう」作品賞に応募していた。投稿歌の多くは『発芽』に収録されているようだ。

 さて、岡崎の短歌世界の特質だが、上にも書いたように、大胆な性愛表現が見られ、あとがきを書いた岡井隆はそれを「ときには掌篇小説のように」と評している。

 蜜よりももっとどろどろした時間確かめもせず君を味わう

 交わってきたわたくしを抱くあなた キャベツのようにしんと黙って

 Yの字の我の宇宙を見せている 立ったままする快楽がある

 しかし性愛表現といえば、すでに1986年には林あまりの 『MARS☆ANGEL マース・エンジェル』が先行していて、短歌の世界ではすでに経験済みである。

 しろっぽい目の妻のこと嬉々として話したあげく抱こうとするのか

 性交も飽きてしまった地球都市したたるばかり朝日がのぼる

 林の歌集の背景には80年代のフェミニスムの台頭と、石岡瑛子とリサ・ライオンに象徴された強い女という時代の雰囲気がある。一方、岡崎にはそのような志向はかけらもなく、林の歌にあった激しく相手を求める男女関係もない。岡崎の歌は同じ性愛を詠っても、どこか淡く投げやりで、相互交通がなく一方的なのだ。

 体などくれてやるから君の持つ愛と名の付く全てをよこせ

 豆腐屋が不安を売りに来たりけり殴られてまた好きだと思う

 平行線上に非常ベル見えていてされるがままになって傾く

 初めてのものが嫌いな君だから手をつけられた私を食べる

 一首目は激しい愛の希求というよりも、捨て鉢感覚が先行する。二首目の上句はおもしろいが、殴られて好きだと思うのは自己愛が不足していはしないか。三首目も恋愛においてあくまで受動的であり、四首目では自分を男の好きな食べ物になぞらえる感覚に驚かされる。80年代のフェミニストなら決してこのような言い方はしないだろう。

 この印象は次のような歌を見ると一層強まるのである。

 こじあけてみたらからっぽだったわれ 飛び散らないから轢いちゃえよ電車

 鳴らぬもの集めてまわる男いてそのトラックにわれも乗りたし

 「渡辺さんですよね」と言われてその日から渡辺さんとして生きている

 なんとなくみだらな暮らしをしておりぬわれは単なる容れ物として

 自分はからっぽだという強い感覚が、電車に自分を轢けという自己破壊衝動として溢れた出す。二首目の「鳴らぬもの」とは、壊れた鳩時計やオルゴールのように、本来鳴るものが鳴らなくなったという意味と解する。ここにも自分はどこかが壊れていて鳴らないという感覚がある。三首目の歌が表しているのはずばりアイデンティティーの希薄さだろう。四首目にも自分を単なる容れ物として把握する凹感覚が見られる。これらの歌に共通して感じられるのは、自己意識の希薄さと投げやり感なのである。

 この感覚はどこかで見たことがあると思っていたら、次の歌に遭遇した。

 通夜のあと告別式の時間まで転がって読む岡崎京子

 そうだ。この感覚は岡崎京子のマンガにただよう空気とどこか似ているのだ。93年から94年にかけて発表された『リバーズ・エッジ』に登場する高校生達。ゲイでいじめられっ子の山田君と、モデルで過食と嘔吐を繰り返す吉川さんが、河原で偶然見つけた人の死体を宝物にしているという物語。作者の岡崎の言葉を借りれば、「あらかじめ失われた子供達。すでに何もかも持ち、そのことによって何もかも持つことを諦めなくてはならない子供達。深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場」を生きる子供達。岡崎の短歌の醸し出す雰囲気は、このマンガの空気感とよく似ている。

 焼けだされた兄妹みたいに渋谷まで歩く あなたの背中しか見ない

 いずれ生む私のからだ今のうちいろんなかたちの針刺しておく

 さいあくだあと吐くように鳴るシャッターを下ろすもうすぐ川を越えるの

 「焼けだされた兄妹」は岡崎京子のマンガの主人公であってもおかしくないし、岡崎の主人公もまた「さいあくだあ」と叫んでいる。「川を越える」というところに、東京近郊に住み電車で通う郊外生活者の感覚がある。二首目の針はたぶんピアスのことで、針をさすことによってかろうじて確認される身体感覚もおそらく短歌の世界では新しいが、小説の世界ではすでに『蛇にピアス』でお馴染みだ。

 このように岡崎裕美子の『発芽』は短歌の技法的にとりわけ新奇な試みを行なっているわけではなく、むしろ現代短歌のコードに乗っているのだが、短歌に歌われた世界、とりわけ〈私〉の自己感覚は極めて現代的だと言ってよいのである。この自己感覚は声高な主張と数の力で世の中を変えてきた団塊の世代の人達にはわからないだろう。「もっとしゃゃきっと生きろ」などと説教されかねない。1973年生まれの佐藤りえや1975年生まれの生沼義朗らの団塊ジュニアあたりの世代感覚にいちばん近いだろう。もちろんすべてが世代論に還元されるわけではなく、岡崎の短歌に表現されている身体感覚は注目されるのであり、その推移はもう少し時間をかけて見守る必要があるだろう。

167:2006年8月 第4週 便器の歌

 もともと和歌は雅の世界であり、至高の美をめざすものだったが、明治になって近代短歌が成立すると、人間の生活に関係するものすべてを素材とするようになった。そこには明治時代に大きな影響力を持った文学思想としての自然主義も関係している。蒲団を抱えて泣く例のアレですね。というわけで歌の世界には登場しにくかった便所も短歌に詠われるようになった。とはいえそれほど数があるわけではない。先ごろ上梓された労作『現代短歌分類集成』(おうふう)には、5首が収録されている。

 蒸しむしと暑き昼なり厠にて大きなる蜘蛛をたたき殺しぬ  川田 順

 セザンヌをトイレに飾るセザンヌはトイレに画きしものならなくに  岩田 正

 同じ家の中でも書斎や台所を詠った歌はたくさんあるので、劣勢はいかんともしがたい。ちなみに『現代短歌分類集成』の分類項目は曲者で、「台所」は立項されておらず「厨」が見出し語になっていたりして油断がならない。川田の歌は昔風の汲み取り便所の雰囲気が濃厚で、岩田の歌は表現も「トイレ」となっていてマンションの白いトイレを思わせる。おのずから時代の変化が反映されている。便所というと、短歌ではなく俳句だが、寺山修司の「便所より青空見えて啄木忌」という句が頭に浮かぶ人も多かろう。場所としての便所ではなく、物体としての便器の歌となるとさらに数が少ないが、ないわけではない。そこには短歌の表現領域をひたすら拡大しようとしてきた現代歌人たちの汗と涙が感じられるのである。

 ベダルきゅうと下げるやいなやTOTOの初雪色にあふれだす冬  十谷あとり

 ひとおらぬときしも洩るる朝かげに便器は照るらんかその白たえに  島田幸典

 便器から赤ペン拾うたった今覚えたものを手に記すため  玲はる名

 十谷の歌では、便器は代表的衛生陶器メーカーでロックバンドの名前にもなったTOTOと換喩的に表現されている。下句の「初雪色にあふれだす冬」は、水流が泡立つ様子と外の冬景色を重ね合わせているのだろう。島田の歌のポイントは、大袈裟なまでに古歌の語法をパスティーシュしているところにあり、その古語法と便器という素材との懸隔感が歌を成立させている。一方、玲の歌では便器は詠われる対象というよりも、もう少し作者の内的世界に関係する物象として把握されている。理由のよくわからない切迫感とせつなさを浮上させるために、便器は効果的なアイテムとして使われているのである。若い歌人の歌には、理由のよくわからないせつなさを表現しているものが多く見られる。玲の歌もまたその系譜に連なるものとして読める。だからここはどうしても便器でなくてはならないのだという意味で、理由のある便器の歌なのだ。

 つややかな便器がほつり陽をあびてまずしい広場の泉のそばに  小林久美子

 あたたかな便座に腰かけて両の掌をひざにはさみておりつ

 ろざりあは べんざにすわり なきじゃくる くちいっぱいに ものをおしこみ 

 小林には便器の歌が多い。好みの素材と思われる。小林独特の童話のような催眠的リズムで紡ぎ出される歌のなかで、便器は暖かく人を座らせて受け容れるものとして把握されているようだ。正の価値を付与された便器の歌としては出色のものと言えるだろう。

 抗菌仕様の便器から立ちあがって走れ! 聖なれ! 傲慢であれ!  早坂 類

 真夜中の二十ワットに照らさるる便器の白をしばし見おろす  浜名理香

 十戒につけ加へたきいましめぞ便器に立ちて説教するな  山田富士郎

 洋式便器ずらりとならぶ会議室疑ひもなく腰かけてゐる

 早坂の歌では抗菌仕様の便器は人を拘束するものとして捉えられているようだが、便器でなくてはならない必然性があまり感じられない。浜名の歌は極めて即物的に便器を詠っていて、即物的すぎてコメントのしようがない。山田の歌は一風変わっている。ロンドンのハイド・パークあたりに行くと、日曜の朝、道行く人に演説している人を見かけるが、たまたま便器に立って説教していた人がいたのだろうか。それにしても十戒に付け加えたいとは激しい怒りようである。山田は「世界はかくあるべきだ」という倫理性の高い歌人なので、このように怒るわけだ。山田の2首目はたぶん夢の光景だろう。「便器に腰掛ける」という行為の秘私性が夢の中の異和感を演出している。

 通庸のひまごの家でとまどひぬ西洋便器をまへにしてしまひ  仙波龍英

 極東製西洋便器に腰おろす水無月はるか霊界をおもふ

 通庸とは三島通庸(みちつね)で、幕末の薩摩藩士から明治政府の内務官僚となり、子爵にまで上り詰めた人。土木県令とまで呼ばれた人だったから、通庸の曾孫の家も立派な洋風建築だったのだろう。しかし私生活においては仙波も負けないほどの資産家の息子だったから、西洋便器にたじろいだとはちょっと考えにくい。2首目では便器に座って霊界に思いを馳せていて、便器が異界との交通機関のように捉えられている。そういえば、人気スクリーンセーバーのフライング・トースターのもじりで、空飛ぶ便器というのがあったと記憶している。ちなみに、この歌の前に詞書きのように「全長が十米ものキタミミズ羽帽あたりに棲むといふ恐ろし」という謎のような文言があり、注に「『スクラップ学園』(吾妻ひでお著)による」とある。『わたしは可愛い三月兎』にはおびただしい詞書きと注が付されており、誰か解読してくれないかと思うほどである。

 今日からはあげっぱなしでかまわない便座が降りている夜のなか  穂村 弘

角川『短歌』2006年1月号に発表された「火星探検」のなかの一首で、亡くなった母親への挽歌である。小用を足した後には便座を降ろしておいてくれと母親から常日頃言われていたのだろう。母親が亡くなった今ではもう降ろす必要がないのだが、それでも便座が無駄に降ろされているところに痛切な喪失感があり、便器を詠った歌のなかでは最も心を打つものとなっている。今までの穂村の歌とは感触が異なる点も注目されるのである