第7回 大辻隆弘『子規への溯行』をめぐって

大辻隆弘『子規への溯行』(砂子屋書房、1996) 

 遅まきながら大辻隆弘の『子規への溯行』を読んだ。1960年生まれの大辻が36歳の時に上梓した充実の第一評論集である。大辻はこの時点で『水廊』『ルーノ』の2冊の歌集をすでに持っている。折しも今年(2008年)、吉川宏志の評論集『風景と実感』が出版された。吉川は1969年生まれなので、39歳での第一評論集ということになる。大辻も吉川も短歌実作で高い評価を受ける中堅の実力派であり、「歌論不在の時代」(川野里子『短歌ヴァーサス』5号)にあって、短歌評論の分野でも精力的に活動している二人である。ともに30代で最初の評論集を持つことの意義は大きいだろう。
 本書は3部構成になっており、第I部には近現代の短歌の基本的パラダイムを考察した「私というパラダイム」と「活字メディアの成立と近代短歌」が収録されている。分量的に多いのは第II部で、近現代の歌人論が収められている。第III部は著者が「やや状況論的色彩の濃い」とする「私像」をめぐる論考「私像の時代」「短歌的主題と私性」「一首の屹立性について」が収録されている。著者が「本書の中心を成す」と述べている第II部の歌人論よりも、短歌について原理的かつ歴史的考察を加えた第I部と、「状況論的な」第III部を特におもしろく読んだ。第II部の歌人論は基本的に時間の経過によって変質することはない。しかし状況論的論考は時代を反映する。初出(1991年・92年)から数えてすでに16~7年経過しているのだが、大辻がこれらの文章で控えめに表明した危惧は、ますます現実化しつつあるように見える。この問題について少し考えてみたい。
 大辻が第III部の「私像の時代」で話題にし、さらに第I部の「私というパラダイム」で歴史的考察を通じて実証しようと試みたのは、一首の歌の背後に一人の「私像」を想定する読みは、明治30年頃に成立した近代的な読みであり、それは子規を中心とする根岸派による歌の言語改革に支えられていたということである。
 もう少し詳しく言うと、大辻の「私像」とは、まず「一首の歌を読んだときに頭に浮かぶぼんやりとした人物のイメージ」と暫定的定義が与えられており、その特徴は作者の側ではなく読者の側から定義されている点にある。「私像」はさらに細かく規定されており、「狭義の私像」は「読者が作品(一首・歌集)に向かって、主体的に感情移入することによって成立する人物のイメージ」、「作者像」は「さまざまな作品以前の情報(メタ情報)によって、読者の心のうちに作り上げられた作者の統一的なイメージ」とされている。そして私たちがふだん使っている短歌における私像は、この両者が渾然一体となった広義の私像であるとする。
 さらに、岡井隆『現代短歌入門』で「場の理論」として展開され、小池光が「短歌は、額縁を持つ詩型である」(『日々の思い出』あとがき)と述べているように、短歌はその短さゆえに一首によって自足的な意味の完結を求めることが難しい詩型であり、「場」の力を借りなくてはならない。近代主義的な読みのパラダイムとは、作品の背後に超越論的主体として構成される作者の私像に意味を支える場の働きをさせるべく、ただ一人の顔へと収斂するように歌を読むことであるというのが、おおむね大辻の主張である。
 では大辻が91年の時点で控えめに表明した危惧とは何か。それはこのような近代主義的な読みのパラダイムが通用しない短歌の出現である。大辻は前年に出版された穂村弘の『シンジケート』(1990年)を一例として挙げ、次のような歌を引いている。
ワイパーをグニュグニュに折り曲げたればグニュグニュのまま動くワイパー
俺にも考えがあるぞと冷蔵庫のドア開け放てば凍ったキムコ
そして「一首一首の垂線をたどることによってその焦点に一人の人物の顔を感じとろうとするような従来の歌集の〈読み〉は、この歌集には通用しないところがある」と述べている。大辻にとって従来の読みが通用しないこのような歌の出現は、「短歌という詩型の存立に関わる危機」と認識されている。なぜなら短歌が成立する「場」とは、「作者・読者が共通してそこに立っているところの『主体性の磁場』」であり、その場の崩壊は近現代短歌の存立基盤そのものの崩壊を意味するからである。
 大辻がこのように述べた文章の初出時である1991~92年というと、歌壇ではライトヴァース論争が一段落し、『シンジケート』に続いて加藤治郎『マイ・ロマンサー』(91)、穂村『ドライドライアイス』(92)、荻原裕幸『あるまじろん』(92)などのニューウェーブ短歌が陸続と世に出た時代である。それまでの近現代短歌と異なる特徴は、口語体の短歌への浸透と、レトリックを前面に押し出す「修辞ルネサンス」(by 加藤治郎)であった。しかしこの時代の最も特筆すべき変化は大辻の指摘する「私像の変容」であり、そもそも従来の私像が成立しないという事態の出来である。そして大辻が91年の時点で危惧を表明した変容は、2008年の現在ではすでに短歌シーンに燎原の火のごとく広まっているように感じられる。
 実際、現代の若手歌人の次のような歌に、垂線をたどることで焦点を結ぶような〈私〉を読みとろうとしても、それは難しいのである。
ポロシャツのうすみどりいろ、ガムの匂いジュライきみからログアウトする
                      笹岡理絵『イミテイト』
せんせいのまえであたしはにんげんになったりねこになったりします
                      田中美咲希
スパゲティ素手でつかんだ日のことを鮮明に思い出しまちがえる
                      笹井宏之
 まったく別々に別の関心から読んだ複数の本が、奥深いところで呼応するのは読書の醍醐味であり、私たちはそこで何らかの真実に手が触れたと感じる。大辻が『子規への溯行』で主張したことは、最近読んだ大塚英志の『物語消滅論』(角川oneテーマ21、2004)と奇妙なまでに符合するのである。大塚はマンガ原作やRPGなどのゲームに物語を提供する立場から近年の「物語」の機能の変容を分析し、さらに明治以来の近代小説の考察へと及んでいる。大塚の主張は次のように要約できる。
 明治時代後半にヨーロッパから様々な近代小説が流入し、その受容の過程で「私」という自我の必要性が認識され、その表出のために言文一致体という新しい文体が生み出された。この新たな文体はそれが表出する「私」とともに、新たな現実感(リアリティー)を形成した。この現実感は基本的に現代まで持続しており、私たちが共有している現実感は、明治30年代の後半に急速に形成された歴史的産物である。しかしこの文体に支えられた「私」はもはや耐用年数が尽きている。言文一致体で「私」と書くだけで、物語の背後にいる作者であることが保証されるシステムは、もはやリアリティーを支えることができない。この結果、80年代までは確かに感じられた現実感は、90年代に急速に希薄化した。
 大辻は短歌の読みという場で浮かび上がる私像を読者の側から考察しており、大塚は物語を供給する作者の側から論を進めているという違いはあるが、明治30年頃に形成されたひとつの言語体制が今日無効化しつつあるという認識で一致している。大塚はさらに、「歴史と空間の結節点に〈私〉を認識していく。それが一定の安定性を持ったときに、リアリティーとか現実感と呼ばれる」のであり、今の若者が現実感を欠いていると感じるのは「明治40年前後に出来上がって、文学や柳田民俗学を含めた近代の言説が支えてきたリアリティーが、もはや言語によって、つまり文学や思想によって支えられなくなってきたことの表れ」ではないかとも述べている。今日声高に叫ばれる近代文学の終焉である。大塚の論は現代の若者が感じるリアリティーの欠如という問題にまで及んでおり、短歌に関わる人間は無視して通ることはできまい。大辻の文章と大塚の文章を併せ読むと、書かれた年代に若干の差があるとはいえ、そこに現代の私たちが置かれている言語状況の一面があぶり出されていると感じざるをえない。
 近代短歌を成立させてきた「作者・読者が共通してそこに立っているところの『主体性の磁場』」と、それを支えてきた近代の言説の耐用年数が尽きかけているとしたら、一体どうすればよいのだろうか。特効薬があるとも思えないが、大塚の答えは「近代文学をやり直せばよい」というものであり、「不良債権としての文学の復権」というおそろしく真っ当な答えである。吉川宏志『風景と実感』は静かな語り口に終始して、声高な主張を響かせることはないものの、短歌における「実感」(リアリティー)の問題を「風景」というキーワードを通して丹念に考察することで、短歌言語の陥っている酸欠状態に対して、身体感覚の復権という処方箋を間接的に提示していると見なすこともできる。
 近代短歌を成立させてきた「場」を仮に「外部」と呼び直すと、大辻が指摘したように近代主義的な歌の読みを支えてきたのは外部に想定される言語主体としての作者である。私たちは「出奔せし夫が住むといふ四国目とづれば不思議に美しき島よ」という中城ふみ子の歌を読むとき、夫に離婚され後に乳癌で亡くなった中城ふみ子という作者像を抜きにしては読むことができない。周知のように、この「短歌の〈私〉=作者」という私小説的かつ短絡的な同一視に敢然と疑義を呈したのは、家族について虚構を塗り重ねた寺山修司であり、架空の兄たちと妹を詠った平井弘である。この意味で「私像」を主題とする大辻の文章から、前衛短歌についての考察がすっぽり抜けているのは不思議という他はない。
 前衛短歌が自然主義的〈私〉を排して、短歌における〈私〉の拡大を図ったことはよく知られている。短歌の読みが「作者=〈私〉」へと還元されることを避けるために消去されたのが〈視点〉であり、多用されたのが硬質の「喩」なのだが、前衛短歌の手法は近代短歌の「作者=〈私〉」が成立する「場」を峻拒することで、新たな「外部」を生みだしたと言えないだろうか。それは「これほどまでに言葉の魔術を駆使する作者」という外部であり、例えば塚本邦雄の場合なら「たぐいまれな美意識の体現者」としての作者像である。この意味で穂村弘が『短歌の友人』のなかで、塚本邦雄の短歌の特徴を「言葉のモノ化」と規定したのはおもしろい点を付いていると思う。モノ化された言葉は、言語本来の指示機能に基づいて外界(=風景) を指示することなく、所有者を指し示すアイテムとして働くからである。
 歌の「外部」の空洞化に対処し、歌の読みの統一性を支える方法がもうひとつある。それは作者の「キャラ化」である。ここで言う「キャラ化」とは、作者本来の実像とは異なる人物像、もしくは作者の実像をはなはだしく誇張した人物像を意図的に演じて露出することである。この道を驀進しているのが念力短歌の笹公人であることに異論はないだろう。
シャンプーの髪をアトムにする弟 十万馬力で宿題は明日 『念力家族』
すさまじき腋臭の少女あらわれて仏間に響く祖母の真言
 笹がNHKのTV番組にレーザーラモンHGの扮装で登場した時は目が点になったが、笹は単なるおちゃらけでやっているのではなく、自分の短歌を支える「外部」が必要だと認識して意図的に振る舞っているのだと思う。そして笹が傾倒する歌人が寺山修司であることは決して偶然ではない。
 「キャラ化」の自覚が本人にあるのかどうかは別として、穂村弘も同じ道を歩いているように見える。『短歌の友人』に収録された分析的な歌論と、『現実入門』『世界音痴』などのエッセーの落差は頭がクラクラするほどだが、穂村がエッセーで描いている、どうしても現実に馴染めず、「今のみじめさに耐えている」人物像は、穂村の短歌を外部から支える「キャラ」として十分に機能する。
バリウムを飲むのはこれが9回目ひとを殴ったことは0回
手が汚れてるからなるべくへたんとこもってぶしゅんと食うプチトマト
           「卓球女子の夜」『短歌研究』 2006年7月号
そして穂村が塚本邦雄の短歌に衝撃を受けて短歌を作り始めたことはまぎれもない事実であり、穂村がエッセーで執拗に描くダメ人間として〈私〉は、ある意味で「負の魔王」にも見えてくるのである。
 藤原龍一郎の「ギミック」も同じ文脈で考えることができるかもしれない。「日常生活に疲れた中年サラリーマンの短歌と、都市生活者の憂愁と倦怠を漂わせつつラジオという虚のメディアの前線に生きるディレクターの詠む短歌、読者としてみたならば、どちらにより読みたいという強い欲求を感じるだろうか」(『短歌の引力』)と述べる藤原は、ギミックを「表現される『私』をきわだたせるためのからくりでありくふうであり仕掛けなのである」と規定し、その活用を公言している。
ドトールを出てPRONTOに遭遇し静かなる包囲進みゆくごとし
地下鉄の後方車輌に身を置きて思想死という死語ぞ愉しき
         「赤い鰊のある食卓」『短歌研究』 2007年4月号
 このように空洞化した歌の「外部」を何かで埋めることで歌の読みを支えようとする笹・穂村・藤原の方向性は、おおまかには前衛短歌の切り開いた道の延長線上にあると見ることができる。しかしここでもう一度大塚英志の『物語消滅論』に戻ると、大塚は「私」と書くことでその背後に一人称の私が保証されていた文体が機能しなくなったとき、〈私〉は必然的にキャラクター化せざるをえないと論じているのである。「私」という一人称代名詞が、時間軸と空間軸の結節点に立脚する統一的〈私〉を指示しなくなったとき、〈私〉は繋留点を失って漂流し始め、可能なたくさんの〈私〉と交換可能になるからである。もしそうだとすると、程度の差はあれ笹・穂村・藤原に見られる作者の「キャラ化」は、背後のただ一人の〈私〉へと収斂する近代主義的言語体制がもはや機能不全に陥っていることの何よりの証左であり、この機能不全に対処するために講じられたささなかな対抗策だということになる。
 大辻が『子規への溯行』に収録された文章のなかで、今から16~7年前に提起した問題は、今日性を失うどころかますます真剣に考えるべき問題になっているのである。

第6回 酒井佑子『矩形の空』

ぐじやぐじやの世界の上に日は照りて植物相(フロラ)は次なる時にそなふ
         酒井佑子『矩形の空』
 実におもしろい歌集を読んだ。酒井佑子の『矩形の空』(2006年 砂子屋書房)である。こんなに手触りのぶ厚い歌集を読んだのは久しぶりだ。すらすら読み進むことができず、一首一首に滞留する時間が異常に長かった。読者としての私は、それに比例する濃密な時間を経験し身体に刻むことができたということになる。
 成瀬有・小池光・黒木三千代という豪華な顔ぶれによる栞文で著者の経歴を知る。酒井佑子は最初は「アララギ」に所属して五味保義に師事し、後に岡野弘彦の「人」同人となり、佐々木靖子名義で『地上』『流連』の2冊の歌集があるという。歌歴の長い人なのだ。それがなぜか2001年に突如「短歌人」に現れて、小池光の選を受けることになったらしい。その間に何があったのかは詳らにしない。
 歌集を一読して感じるのは歌の手触り感の濃密さである。特に手触りのゴツゴツした歌が多い。ここで言うゴツゴツは褒め言葉であり貶し言葉ではない。なかにはゴツゴツの極まる余り、歌なかばでこのまま崩れるのかと思いきや、最後に粘り腰で踏ん張るような歌もある。油断がならないのである。いくつかランダムに引いてみよう。
わにざめとわにの異同を思ひをれば雲はわにざめの口を開きぬ
烏あるく互ひ違ひに足踏みて歩くゆゑ涙出でてわがをり
リタイヤ官僚背広着てカツカレー喰ふ憲政記念館食堂のあどけなき昼
ハズといふ語も夙くに死語何処へ行つたあなたのハズあのかはいい男
片身水漬き片身乾反(ひぞ)りて大いなる緋鯉川中に死にゐたり
病ひのやうに眠気きざし繰り返し呼ばるベティ・ブープおまへ何者
うす皮の張りたる創(きず)を掻くごとくナンシー関をおもふしくしく
ドミノ倒しのやうに倒れていただきしララ物資パイナップルジュース一人5cc
 まず定型の歌が少ない。一首目「わにざめ」はましな方で、3句の6音と4句の8音が破調だが定型の枠内にある。「わにざめ」とは「獰猛な鮫」のことでワニではない。「ワニザメとワニはどうちがうんだっけ」と思いにふけるのがすでにおかしいが、符節を合わせたように雲がジョーズのような口を開いたというのもとぼけている。このとぼけ方に並々ならぬ膂力を感じる。二首目も一首目と同様にたいした事件が詠われているわけではない。カラスが足を交互に動かして歩いている、それだけのことである。作者はそれを見て涙する。すると足を交互に動かして歩くという当たり前のことが、俄に当たり前に思えなくなる。そこに転倒のカラクリがある。「われ涙してをり」ではなく「涙出でてわがをり」とした所が手際である。三首目は全部で41音という大幅な破調の歌。やたら単語が多く説明的に見えるが、最後に「あどけなき」という形容詞で詠い納める所に「世界を見尽くしてしまった人」の達観した風情が色濃く漂う。四首目も同じ雰囲気の歌で、はやり歌を口ずさむような倦怠感がよい。五首目は集中にいくつかある町川と魚の歌のひとつ。生命とその終焉を見つめる歌である。「片身乾反りて」の観察が秀逸。この歌集には六首目のように意味のよくわからない歌もある。眠りに入るときの半ば夢の世界か。ベティ・ブープは1930年代に作られたアニメーション映画のキャラクターで、セクシーな仕草で「ブブッビドゥー」とやるあれである。七首目は平成14年に急死した消しゴム版画家ナンシー関を悼む歌。上句の「うす皮の張りたる創を掻くごとく」という格調高い短歌的喩と結句の「しくしく」の落差にとてつもない自由さがある。八首目の「ララ物資」とは、終戦後にアメリカの援助団体Licensed Agencies for Relief in Asia (略称 Lara)により日本に送られた援助物資。「十歳の敗戦児われに差し出されしハインツポテトサラダの純白」という歌があるので、作者は1945年の敗戦の時に10歳だったのである。歌歴の長さも納得できよう。文語文体の確かさと漢語語彙の多さもうなずける。私は何度も広辞苑を引いたほどである。
 定型遵守の歌はほとんどないと言ってよいくらい破調が多く、初句から結句まで一分の隙もなく構成されているわけではないのに、確かにそこに歌があると感じさせる。この歌の手触りの確かさとゴツゴツ感はどこから来るのだろうか。それは作者が若い頃に修得したアララギ文体の底力ではないかと思う。集中に次のような歌がある。
土掘りびとわづかなる陰に仰のけに昼寐せりけり恰も風通る
ヘリコプターに吊らるる大きコンテナより牛の脚細くはみ出でてをり
白菜の立ち腐れつつみ冬づく三畝の土は見れど飽かぬかも
 いずれも確かな眼による写実の歌で、「せりけり」「飽かぬかも」のような文終止にアララギ風が漂う。写実による短歌文体の基本を血肉化しているため歌の骨格が骨太で、多少大胆に詠っても歌の本道を外れないのである。アララギ文体恐るべし。「短歌とは文体である」と改めて思い知る。
 人事の歌が少なく、野球や競馬の歌と動植物の歌が多いのはやはり年齢のせいか。若い時は人に惹かれ恋愛にのめり込むこともありそれが歌の素材となるが、歳を重ねるにつれなまなまとした人間は疎ましくなり、物言わぬ動植物に親しみを覚えるようになる。たとえば次のような歌がある。
大いなる曇りのもとの皺袋たゆみなく象でありつづけつつ
生き飽いて二十年経つ立ちながら瞑りながらにはな子透きとほる
茫茫たるはな子の空をほがらほがら烏鳴きわたる仰ぐともなし
冬を越えし白鳥ボート九つの尻映る濁る池のおもてに
 最初の三首は象のはな子を詠った歌。象を皺袋と形容したのは秀逸で、「たゆみなく象であり続ける」という表現に象が生きる時間の長さが感じられる。二首目のはな子は「透きとほる」と形容されているが、象が現実に透明になることはないから、まるでその場にいないかのように存在感が薄い、あるいはいる気配がないということだろう。作者の自己投影が少し感じられる歌である。三首目は象の頭の上をカラスが鳴いて過ぎるというだけの情景を詠っていながら染み入る何かがある。四首目は動物の歌ではないが、観光客も途絶えた池に係留されている白鳥型のボートが詠われており、池面に映った白鳥ボートの尻をクローズアップした視点が秀逸である。
 歌集後半は病を得て入院加療した折りの病床詠が占めている。
抱き合ふばかり矩形の空と寝てひきあけ深き青潭に落つ
無為の底は透きとおりつつにちにちの新しきよろこびある猫とゐる
七本の管に繋がれ裏返しの袋なるわれ三日ねむりき
観察室の二人けさまだ生きてありやぞうぞうと金魚の水溢れつつ
ママさんバレーの主将でありし金慶玉堆(うづたか)き骨となりたり
歌集表題の「矩形の空」とは病床から見る窓に切り取られた空のことをいう。二首目の「無為の底は透きとおりつつ」あたりに作者の辿り着いた境地が感じられる。四首目や五首目のあらゆる美辞麗句と幻想を廃したリアリズムには、ノイエ・ザハリッヒカイト(新即物主義)を思わせる非情さすら漂う。このように虚飾と体裁を廃した清明な虚無の境地から次のような歌は生まれるのにちがいない。
草枯れ薔薇うなだれき静かなるこの世の外に目はありて見き
住反に寄りて相触れし野いばらの身に余る花のときも終わりぬ
静かな寂しさの中に力強さを隠し持つこれらの歌は、若い人には決して作れまい。この世を見て来た時間の長さだけが可能にする歌だろう。
 清明な虚無の境地から意味が洗い流されると、そこには歌だけが残る。次の歌の無意味さはどうだ。
西王母とふ春の菓子買ひて帰るただその菓子をいただき帰る
西王母とは古代中国信仰の仙女で、人間の死を司り不老不死の仙桃を守るという。買い求める菓子の名にも死があるとなれば、それほど無意味な歌とも言えないかも知れないが、むしろ意味は洗い流されている。これは歌であり、歌以外の何物でもないという稀有な例として玩味すべきだろう。

第5回 中川宏子『いまあじゆ』

わたくしの夕暮れてゆく街にある影といふ名の数多のimages(いまあじゆ)
         中川宏子『いまあじゆ』
 私のように定期的に歌論を書いていると、常にアンテナを張り巡らせて注目すべき歌集・歌人を捜すことが日常になる。さもなくば早晩ネタ切れになるからだが、未だ知らない歌の世界と出会いたいという想いが強いためでもある。手許にある歌集の中には作者本人から恵贈いただいたものもあるが、大部分はどこかでアンテナに引っ掛かって買い求めたものだ。中川宏子の『いまあじゆ』もそうしてわが家の書架に収まったのだが、いつどこでアンテナに引っ掛かったのかは、もはや記憶の霧の中に埋もれている。
 歌集題名の『いまあじゆ』はフランス語の images から取られたもので、自解では「画像、絵などのこと」とある。掲出歌は歌集題名の由来となった歌。初句「わたくしの」の掛り方は微妙で、助詞「の」を主格と取れば「わたくしが夕暮れてゆく」となり、属格と取れば「夕暮れてゆくわたくしの街」となる。その両義性のあわいを揺蕩うとしておくのがよかろう。街にある多くの影と同様に、〈私〉自身もまた夕暮れて影となると解釈できるからである。作者の自解では imageは「画像、絵」であるが、imageにはその他に「心に映る像、心像」の意味もある。だから掲出歌のimagesは街を行く影という名の像であると同時に、〈私〉の心に去来する像でもあるのだ。この両義性に作者の歌に臨む姿勢が透けて見えるように思われる。
 いつもの通り作者についての知識は皆無なのだが、歌集あとがきによれば、中川宏子は「未来」所属で10年余りの歌歴があるらしい。『いまあじゆ』は2007年刊行の著者第一歌集。跋文で岡井隆が「大学でドイツ文学を学び内外のフィクションの世界をよく知ってゐる」と紹介しているので、おそらく文学部独文科出身だと思われる。2005年の歌壇賞候補になったことがあるようだ。作者はあとがきで「小説を書くように詩を、詩を書くように短歌を」と抱負を述べ、さらに「結社に入って研鑽を積むうち、突き当たったのは『作中主体』の問題であり、『私性』の問題であった」と述懐している。「小説を書くように詩を、詩を書くように短歌を」とは、短歌を文芸形式のひとつとして捉えるということであり、「作中主体の問題」は「未来」が旧アララギを源流とする結社であるという歴史的事実と無関係ではあるまい。岡井も上の引用に続けて、中川のねらいは「一行の中に『私』を含めて架構する(作中主体を、作者から独立させる)ことが、どこまで可能かといふことだつたのだらう」と書いている。しかし『いまあじゆ』はそれほど短歌の〈私〉をめぐる実験的歌集だというわけではない。とはいえ収録された歌の中には、日常の中に〈私〉をめぐる微量の虚構が混入され、言語が日常の地平からわずかに浮上する様を垣間見させるものがある。
フェラガモの名刺入れにはかび生えてをんなは名前を失ったまま
口紅を化粧室で塗りなほすマック店員みち子二号に遭ふ
スーパーのカートを押して同型の主婦ロボットと甘柿を買ふ
満員の電車の吊り輪に揺れてゐる手はロボットだ 騙されないで
ガーベラを假屋崎ふうに活けなほしけふの朝餉はこれでおしまひ
 集中もっとも大胆なのは「テレスコープ」と題されたこれらの連作だろう。人型のロボットが人間に混じって暮らしている世界が舞台である。しかし今の若い歌人にありがちなSFコミックス的設定だと考えてはいけない。たとえば2007年度の短歌研究新人賞を受賞した吉岡太朗の「六千万個の風鈴」も、人口が半減しアンドロイドが暮らす未来社会という設定である。
兄さんと製造番号2つちがい 抱かれて死ぬんだあったかいんだ
ほんとうは電池式だと知っている彼とあさひのみえる朝食
 吉岡の歌は、若者が現代に対して抱きがちな漠然とした終末感と閉塞感を背景として、SFコミックス的に描かれたほの暗い仮想の未来社会における抒情を意図したものだ。しかし中川の歌はまったくちがう。中川の歌には終末感もなければ、電脳社会で希薄化する自我への悲壮な訴えもない。中川の歌にあるのはもう少し図太い〈私〉への問い掛けであり、歌の〈私〉に何グラム異質な要素を混入したらどうなるか、〈私〉を組み換えたらどうなるか、興味津々で実験している理科室の少女といった趣がある。だから中川の歌の〈私〉は揺らいでいるわけでも希薄化しているわけでもなく、ただ設定(パラメータ)をずらされているだけなのである。そこにしばしば諧謔の要素が混じるのは、上に引いた「ガーベラを」の歌を見ても明らかで、これは中川の短歌の美質と見なすべきだろう。
 このような中川の短歌の傾向は、巻頭の「マティスに捧ぐ」でも遺憾なく発揮されている。マティスの絵の題名に自由な連想から紡ぎ出された歌が添えられている連作である。
 ピアノレッスン
無理強いはもうしないと言つたのに 素手で潰したデリシャスりんご
 ルーマニア風のブラウス
妻といふ過飽和物を包んでる白い上着のギザギザもやう
 窓
帆船のあかく染まつたゆふまぐれ時間は窓の外を歩みぬ
 赤の食卓
薔薇みちる昼の食卓囲むときLandladyは「嘘」とつぶやく
   たとえば「赤の食卓」はエルミタージュ美術館にある有名な絵だが、中川が添えた歌はまるで一編の掌編小説のような趣がある。ちなみにLandladyはイギリスの下宿屋の女主人で、イギリス小説ではしばしば重要な役割を演じる。「マティスに捧ぐ」は歌集巻頭に据えられているため、まだ入り口にいる読者はこれらの歌をどのように受け取ってよいのかとまどうのだが、これらは属目ではなく、また単純な「写実」や短歌の〈私〉に収斂しない仕掛けの施された歌と解釈すべきだろう。
 少し前までの女性歌人の歌集では、恋愛や失恋の歌に続いて結婚・出産の歌があり、あたかも時系列で女性の一生を読むようなものが多くあった。近代短歌のひとつの方向である生活の中から紡ぐ歌をめざすと、歌の背後に作者の生活が透けて見えるのは当然のことだ。ところが『いまあじゆ』を通読しても、作者の生活はいっこうに見えてこない。家族の歌も仕事の歌も見あたらない。中川がめざす歌の世界はもう少しちがう所にあるようだ。かろうじて作者の実人生が見えるのは歌集題名ともなった「いまあじゆ」の連作である。
信号に立ち止まる人みな生きたからうと思えば不思議なる春
葉ざくらの木漏れ陽あはく揺れて過ぐ兄の自死せるみどり台駅
灰色のホームは柩のかたちして幼子ひらひら歩みてをりぬ
食べかけのジャムパンこの世に置きしまま小さな駅より翔びたちし兄
むらぎもの心の千々にさくら咲き水面に兄のこゑの波寄す
 連作冒頭の「信号に」の歌を読むと、作者がなぜこのような感慨に捕らわれたか不思議に感じるが、二首以降の歌を読むと納得がいく。作者の兄上は京葉線みどり台駅で自死したらしく、あとがきにはこの事件が作者の人生に大きな影響を与えたとある。古来より歌は相聞と挽歌で最高の力を発揮するとされているとおり、「いまあじゆ」の連作には心に響く歌が多い。またこれらの歌の背後にある〈私〉は設定をずられさた〈私〉ではなく、限りなく素に近い〈私〉であり、歌に詠まれた感情はリアルさを獲得している。〈私〉に裏打ちされたこのリアルさが近代短歌の本流で、このような歌が人の心に響くところに短歌の私性をめぐる根深い問題が潜んでいることを、作者自身も意識していないはずはない。にもかかわらず中川の個性がよく出ているのは、むしろ次のような歌ではないかと思う。
ドラマ見て笑つては泣く単調な日々のすきまに挿す体温計
馬車道にコンビニがあつて花屋がない不思議のままに行く朗読会
「あのさあ」ときみが話して「エビがね」と返事する間に流れるレゲエ
良妻の封印として縁なしの眼鏡をかけてランチに出かける
悪男とふ漢語の無きをかなしみぬあまたの嘘のぎらつくムース
ケータイでブンガクをする十代に負けたと思(も)へば泡立つビール
 作歌のきっかけとなった出来事があるにはあるが、それがストレートに詠われているわけではなく、素材として組み直されている感覚がある。そこに作者の「小説を書くように詩を、詩を書くように短歌を」という意図があるのだろう。このような方法論を採用すると、日常詠ではなくむしろ題詠に力を発揮することが予想される。加藤治郎は90年代を「題詠の時代」と規定したが、まさに90年代に作歌を始めた中川が題詠に適した方法論を採っているのは、決して偶然ではないように思われる。そこにもまた短歌の〈私〉をめぐる課題があるのかもしれない。

第4回 西田政史『ストロベリー・カレンダー』

珈琲にミルク注ぎて「毎日がモカとキリマンジャロのほどの差ね」

         西田政史『ストロベリー・カレンダー』
 西田政史は「The Strawberry Calendar」で第32回短歌研究新人賞(1989年)の次席に選ばれている。同時の次席は林和清の「未来歳時記」。西田は再度挑戦した翌年「ようこそ!猫の星へ」で短歌研究新人賞を受賞を果たした。この年の同時受賞は「ラジオ・デイズ」の藤原龍一郎。今から振り返るとため息の出るような顔ぶれである。この受賞を受けて、西田の第一歌集『ストロベリー・カレンダー』は1993年に刊行された。西田は玲瓏所属で師の塚本邦雄が跋文を寄せている。
 掲出歌は〈私〉と恋人の朝食の場面だろう。毎日の暮らしの起伏がモカとキリマンジャロというコーヒー豆の味の差くらいしかないという淡い虚無感が、上2句の文語と下3句の口語の文体的落差の中に落とし込まれている。いつの時代の若者も倦怠感や虚無感を抱きがちで、それは若者の特権と言ってもよいほどだが、この歌のポイントは虚無感がお洒落なコーヒーに譬えられて、明るくポップに表現されているという点にある。歌集の刊行年を考慮すると、これは基本的には80年代(後半)の歌であり、糸井重里が西部百貨店のために制作した「おいしい生活」という名コピーが渋谷の街に溢れた時代の歌だという感を今更ながら深くする。バブル経済崩壊後の「失われた10年」を通過した現在から眺めると眩しいくらいだ。あれから20年近く経った現在(2008年)の若者は次のような「不景気な歌」(by荻原裕幸)を作っているのである。歌に込められた若者の虚無感の総量は変わらないとしても(そう信じるとしても)、両者の表現手法の差は驚くほどである。
最高に君の輝く時が来た脳内の「負」をファブリーズして
          嵯峨直樹 『短歌研究』2008年5月号
「半身のない猫を抱く彫像」の画像に上書きされた告白
          吉岡太朗 『短歌研究』2008年5月号
僕はいくつになっても夏を待っている 北蠅座というほろびた星座
          土岐友浩 Web歌集「Blueberry Field」
 ここでちょっと短歌史を回顧しておくと、『岩波現代短歌辞典』巻末の20世紀短歌史年表には、1985年に「ライトバースをめぐる議論が徐々に盛んになる」という記述がある。1984年には中山明の『猫、1・2・3・4』が、1985年には仙波龍英の『わたしは可愛い三月兎』が刊行され、俵万智の「野球ゲーム」が角川短歌賞次席に選ばれたという事実を踏まえての記述である。ライトバースがバブル経済で頂点を迎えることになる大衆消費社会の到来を背景としていたことはまちがいない。1987年には『サラダ記念日』の刊行を受けて「ライトバースの是非をめぐる議論が白熱」、1990年は「ライトバース以降の現代短歌の動きを見定める議論が白熱」とある。
 西田の第一歌集『ストロベリー・カレンダー』はこのように、80年代中頃から90年代前期にかけて出現した現代短歌の新しい流れの中にある。それだけにとどまらず西田は「ニューウェーブ短歌」の担い手の一人だったのだ。1988年に荻原裕幸、加藤治郎、西田政史が同人誌『フォルテ』を創刊し、荻原が朝日新聞に連載していた短歌コラムで、自分たちの短歌の新しい傾向を「ニューウェーブ」と命名したのがそもそもこの呼称の起源だという。
 『ストロベリー・カレンダー』からニューウェーブ的傾向の歌を引いてみよう。
WOWOWが「忠臣蔵」の放送をやめないつまりレのあとのファラ
コカコーラの自動販売機のまへでF♯mがふるへる
ひらがなののとゐが全て猫に見ゆもう漱石の本は読めない
恋人と**失踪のパサウェイのためのパックのミルク**のむ
見たことがないけどきみのギリシア式の欠伸のときも涙はでるの?
 唐突に挿入される「ドレミ」の音階名、「F♯m」のコード記号、「**」のように意味のない印刷記号はニューウェーブが好んだ手法で、後に「記号短歌」と呼ばれた。旧仮名の文語と新仮名の口語の混在や、語りかけるような日常的話し言葉の多用も特徴的である。
 加藤治郎はこの時代の短歌の傾向を「修辞ルネサンス」と呼んだ。それは意味よりも表現を重視するということである。それはソシュールの用語を用いると、シニフィエよりシニフィアンを前景化するということである。だからどうして「レのあとのファラ」なのか考えても無意味であり、そこに醸し出されるポップな感覚を受け取ればよいことになる。しかしニューウェーブ短歌の志向したシニフィアンの前景化は、ある意味で先祖返りとも言えることに注意すべきだろう。
を初瀬の花の盛りを見渡せば霞にまがふ峰の白雲  藤原重家
 古典和歌には近代短歌が前提とした歌の背後に盤踞する〈私〉は不在であるため、歌を構成する言語記号は〈私〉を指示するのではなく〈美の共同性〉を指向する。宮廷文化の「美のプール」に蓄積された語彙を入念に選び組み合わせることで古典和歌は成立する。だから古典和歌ではシニフィアンの結合こそが重要であり、裏に張り付いたシニフィエは当時の宮廷文化が許容した美の範囲内に留まっていればよいのだ。ニューウェーブ短歌の担い手であった荻原裕幸と西田政史の二人までもが塚本邦雄の門下から出たことは、一見すると不思議な現象のように見えるのだが、ニューウェーブ短歌の先祖返りという文脈に置いて考えてみると、実はそれほど奇異なことではないとも思えるのである。
 『ストロベリー・カレンダー』でおもしろいと思ったのは、一首の中で発話主体が交代する次のような歌群である。
シーソーをまたいでしかも片仮名で話すお前は――ボクデスヲハリ
少年よEvergreenを知ったのは――雨ダ! 雨デスザブザブザザブ
 会話体の引用は「『寒いね』と話しかければ『寒いね』と答える人のいるあたたかさ」のように『サラダ記念日』でも多用されているが、俵の歌は〈私〉に視点が固定されている。発話主体の交代はなく、意外なほどに近代短歌の語法を守っている。それに対して西田の歌では、最初の発話主体の言葉が途中で唐突に切断されており、第二の主体(ここでは子供の頃の自分) の発話が出現する。このような発話主体の分裂は、近代短歌の鉄則である〈私〉の一貫性に対する挑戦であり、加藤治郎が試みる「複数の意識に言葉を与える」手法と呼応する。記号やオノマトペの多用よりもはるかに短歌の根幹に関わる変容と言わなくてはならない。これはやがて90年代中期頃からの短歌に顕著な〈私〉の溶解へとつながってゆくのである。
 では西田がこのような歌ばかり作っていたのかというと、まったくそんなことはない。
われの知らぬ空いくつ経てしづまれる戸棚の中の模型飛行機
Tシャツの文字あをあをと残りゐる箪笥の中に輝けり夏
自涜さへ知らざりし日のかたむきをたもてり天体望遠鏡は
放りたる檸檬また掌に戻るまでそのときの間を「青春」と呼ぶ
ワイシャツの襟やはらかきゆふぐれのわれの内なるかれ目覚めたり
水彩の尽きたる空の色買ひにゆかむ睡りの熟るる時刻に
わがうちに満ちわたる虚を知るゆゑかけふ故郷より着きたる林檎
 この輝かしいまでの青春歌はどうだろう。喜多昭夫の『青夕焼』(1989年)と並んで、80年代を代表するような青春歌と言えよう。ちなみに喜多も西田も巧みに本歌取りと換骨奪胎を駆使している点も共通している。喜多の「青空にレモンの輪切り幾千枚漂ひつつつも吾を統ぶ、夏」は、寺山修司の「目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹」の本歌取りだし、西田の「かき氷食みゐるきみの右手にも秋はしづかに訪れむとす」は、後京極良経の「手にならす夏の扇とおもへどもただ秋風のすみかなりけり」の換骨奪胎である。このように歌の共同財産を踏まえた作歌態度もまた、ある意味で古典和歌への先祖返りと言えるのである。
 西田は「物語なんて始まりさうにないいまこの空を飛びうるとしても」や「舌の上を昼のチーズの味去りていま巨いなる午後もてあます」のように繰り返し倦怠と虚無を語るが、その一方で青春の輝きをこのように煌めく言葉で表現できたのである。塚本が跋文で書いているように、西田はこれらの歌によって永遠に記憶されるだろう。
 私は歌壇に詳しくないので調べてみた限りでのことだが、西田はついに第二歌集は出さなかったようだ。『玲瓏』の最近の号を見てもその名は見あたらない。西田もまた「歌のわかれ」をしたということか。これを残念に思うのは私だけではあるまい。私たちに残されているのは『ストロベリー・カレンダー』の素晴らしい歌を玩味しながら、モカの苦みとキリマンジャロの酸味の差を味わうことしかあるまい。

第3回 [sai] 歌合始末記

 すべては一通のメールから始まった。
 2005年の暮れも押し詰まった11月のことである。同人誌[sai]で歌合を企画しているので、判者になってくれないかという依頼が黒瀬珂瀾氏から舞い込んだ。[sai]は黒瀬珂瀾氏をはじめとして、石川美南、今橋愛、生沼義朗、島なおみ、高島裕、正岡豊、玲はる名、鈴木暁世らを立ち上げメンバーとして発足した短歌同人誌で、2005年の9月に第1号が出ている。この歌合は第2号に向けての企画なのだという。
 いきなりの依頼に驚いた。「歌合の経験がないのはもちろんのこと、ルールも知らないので、とても判者が務まるとは思えない」ととっさの返事をしたのだが、黒瀬氏からは「参加するメンバーもルールを知らないのは同様で、真剣な遊びと考えてもらえばよい」との答えが返って来た。逡巡の末に受諾したのは、おもしろそうだという単純な好奇心もさることながら、それまで姿を見たことのない歌人という人種に会えるという魅力に抵抗できなかったからである。
 私は2003年から自分のホームページで「今週の短歌」と題して素人短歌批評(のようなもの)を毎週書いていた。しかし純粋読者を目指す私の短歌との付き合いは本を通してのものに限られており、生身の歌人に会ったことは一度もなかったのだ。私にとって歌人とは、言葉の魔術を巧みに操る超人のように思えるので、歌人とじかに会うのは恐ろしいが、会ってみたいという誘惑も抗しがたかったのである。
 そうこうするうち12月11日(日)の歌合当日を迎えることとなった。待ち合わせ場所は京都駅の七条側改札口である。黒子役で黒瀬珂瀾夫人の鈴木暁世さんが目印に[sai]を一冊手に持って待っているという。ホームページに実物そっくりの似顔絵を掲載しているので、先方が私を見つけるのはかんたんだ。少し早めに待ち合わせ場所に到着してあたりを観察するが、私は歌人たちの顔を知らないのできょろきょろするばかりだ。ふと見ると改札口を出た所に、並々ならぬ存在感を発散させている男性がいるなと思っていたら、参加メンバーの一人、北の歌人・高島裕氏であった。やがて参加者が続々と到着し、とりあえず昼食をとることになる。あいにく日曜の時分時で飲食店はどこも混雑している。京都駅を出て向かいにある京都タワービル地階の食堂に入る。こんなとき自然とリーダーとなってみんなを引率するのは黒瀬珂瀾氏で、そのカリスマ性はすごいなと横から観察する。昼食が終わったところで、歌人たちはふたつのチームに分かれて作戦会議に入る。私は判者なので会議には加わらず、手持ちぶさたで所在がない。作戦会議が終了し、地下鉄に乗って会場へ移動する。会場は四条烏丸を少し北上した所にあるウィングス京都である。楽屋裏のような場所を通って予約した会議室にたどり着き、いよいよ歌合わせの幕が切って落とされた。
 今回の歌合のルールはこうである。方人(かたうど)は東方が生沼義朗、高島裕、光森裕樹、玲はる名、西方が石川美南、今橋愛、黒瀬珂瀾、土岐友浩、司会は鈴木暁世、判者は不肖私。東方には「ゆりかもめ」、西方には「チーム赤猫」というニックネームがつく。参加者にはあらかじめお題が出ており、「パパイヤ」「たんす」「半島」「姉」の4つを詠み込んだ歌を準備している。方人は一首ずつを出して一騎打ちの対戦をする。残りのメンバーは念人(おもいびと)となって、自軍の歌を弁護し敵軍の歌を攻撃する。ひとしきりの議論の後で、判者の私が判辞(裁定理由)とともに勝ち負けを宣告するという手順で、小林恭二『短歌パラダイス』(岩波新書)のルールにほぼ則っている。『短歌パラダイス』では高橋睦郎が判者として見事な裁定を下しているが、もとより私にはそんな能力も権威もないので、心臓に汗をかく思いである。
 最初のお題は「パパイヤ」で、対戦者は「ゆりかもめ」から光森裕樹、「チーム赤猫」から石川美南。
 光森裕樹は「京大短歌会」OBで、現在は東京でIT関係の仕事をしており所属結社なし。2005年に「水と付箋紙」50首で角川短歌賞の次席に選ばれている。何首か引いてみよう。
 しろがねの洗眼蛇口を全開にして夏の空あらふ少年
 てのひらは繋がるかたちと知るゆふべ新京極に影をうしなふ
 はさまれし付箋にはつかふくらみて歌集は歌人の死をもて終はる
 80年代後半からの修辞全盛を通過した目で見れば、古典的とも言える端正な作りで、手堅い骨格のなかに清新な抒情を漂わせる作風である。しかし欲を言えば、歌の中にひっかかりが少なく、すらすらと結句まで読めてしまう。そんなところが、選考委員の河野裕子の「感じのいい歌ですが、迫力がないのね」という発言に繋がるのだろう。日本語にもっと負荷をかけて、言葉を撓ませることもときには必要ではなかろうか。
 かたや「チーム赤猫」の石川美南は『砂の降る教室』(2003年)でデビューした若手の注目株である。最近東京で「さまよえる歌人の会」なる組織を結成したらしい。水原紫苑に「口語とも文語とも判別がつかない文体」と評された石川の歌も引用しておこう。
 窓がみなこんなに暗くなつたのにエミールはまだ庭にゐるのよ
 いづれ来る悲しみのため胸のまへに暗き画板を抱へてゐたり
 カーテンのレースは冷えて弟がはぷすぶるぐ、とくしやみする秋
 さて、お題「パパイヤ」の出詠歌である。
  タイ内陸部、チェンマイ
 パパイヤを提げて見てをり瞑想のまへに僧侶がはづす眼鏡を  光森裕樹

 うるはしきルーティンワーク犇めけるパパイヤのたね身に飼ひながら  石川美南
 光森の歌はタイ旅行に取材したもので、一見すると単なる叙景歌に見える。歌合参加者がこの歌についてどのような発言をしたかは[sai]第2号の記録に譲るとして、私には高島裕の示した解釈が印象深かった。眼鏡は近視の人がこの世の事物を見るために必要なものであり、この世を暫時離脱する瞑想に入る僧侶には必要のないものである。眼鏡を外す行為は、見える世界から見えない世界への移行の喩であり、この歌にはそのような仏教的世界観が表現されているというのである。高島が自軍の念人であることを差し引いても優れた読みと言えよう。
 一方の石川の歌は働く日常がテーマである。この歌のポイントは「犇めける」という表現で密集する種の様子を描写した点と、パパイヤの種を外在的事物として詠むのではなく、体内の感覚の喩として提示した点にある。その感覚はルーティンワークに象徴される卑小な日常性に対する焦燥だろう。
 題詠では「パバイヤ」という題が十分生かされているか、「パパイヤ」でなくても成立する歌ではないかといった点が、歌の優劣を判定するポイントとして重視される。光森の歌をめぐっても、ひとしきりそのような議論が続いた。私は議論に参加する立場にないので黙って聞いていたが、後日思いついたのは、パパイヤの形状と、黄色い果肉の中に黒い種がぎっしり詰まっている内部構造が重要ではないかということだ。パパイヤの外見はやや括れた卵形をしているが、卵はしばしば宇宙や再生のシンボルとされる。また内部に詰まった種はビッグバンのごとき爆発的な生産力を暗示する。するとパパイヤ自体を転成を繰り返す宇宙の暗喩とみなせるのではないか。ならば僧侶が眼鏡を外す行為が象徴するこの世からの離脱と、パパイヤが体現する宇宙的次元はよくマッチするのである。
 判定は東方の光森を勝ちとした。僧侶が眼鏡を外すという何気ない情景に精神性を詠み込んだ光森の手腕と、倒置法による手堅い措辞を多としたのである。石川の歌もおもしろいが、二句切れなのか三句切れなのか判然とせず、上句の調子があまりよくない。これで東方「ゆりかもめ」チームが一勝となる。
 次のお題は「たんす」。方人は東方が生沼義朗、西方が今橋愛である。生沼は短歌人会所属。『水は襤褸に』(2002年)で日本歌人クラブ新人賞を受賞して注目を浴びた歌人であり、荒廃を抱え込む現代都市東京を背景とする神経症的な抒情に持ち味がある。
 ペリカンの死を見届ける予感して水禽園にひとり来ていつ
 塩辛き血の腸詰を喰いながらわがむらぎものさゆらぎはじむ
 嚥下するピリン錠剤 精神の斜面(なだり)にしろき花咲かすため
短歌人会には現代では珍しく「男歌」の系譜が脈打っているように感じるが、生沼も確実にその衣鉢を継ぐ一人だろう。
 一方の今橋は『O脚の膝』(2003年)で北溟短歌賞を受賞した若手で、『短歌研究』800号記念臨時増刊の「うたう作品賞」には赤本舞の名前で投稿していた。多行書きで場所を取るので『O脚の膝』から1首だけ引用する。
 「水菜買いにきた」
 三時間高速をとばしてこのへやに
 みずな
 かいに。
 独特な言葉の浮遊感と、現代詩と淡く接続した詩想は、明治以来の近代短歌の作歌原理と完全に切れている印象が強い。その個性はとうてい他人が真似できるものではなく、ヘタに短歌のお勉強などしないよう切に願いたくなる作風である。
 さて、生沼と今橋のタンスの歌に移ろう。
 人生の荷物を背負うこと思い、タンスかつげばタンスは重い  生沼義朗

 うかがって うすくわらっておりました
 たんす ながもち どの子がほしい?  今橋 愛
 生沼の歌は今回のお題と波長が合わなかったのか、いつもの調子が出ないようで、敵軍からは人生の荷物をたんすで象徴するのは陳腐だとか、「思い」「重い」の脚韻もうさんくさいだとかさんざん攻撃されていた。ちょっと反論しにくいのが気の毒である。自軍の東方の念人もほめあぐねている感があった。また「本当にたんすをかつげるのか」という話題にも花が咲いたが、その昔、TBSの「ベストテン」で演歌歌手の大川栄策がかついでいるのを見たことがあるのでその点は心配ない。
 今橋のたんすの歌は、上句の主語が意図的に消去され、下句にわらべ歌を引用して、人気のない大きな日本家屋で座敷童が白昼に戯れているような不思議な印象を生み出している。初句「うかがって」が「伺って」なのか「窺って」なのかひとしきり議論があったが、これは「窺って」だろう。
 題詠で重要なのは、題の持つ意味場の潜在力をいかに引き出すかという点と、日常的文脈に回収されていない意味や結合をいかに発見できるかという点である。今回の対決では、生沼の歌の「人生の荷物」と「たんす」の取り合わせはいささか平凡に堕した感が否めない。今橋の歌は、日常的什器であるたんすから滲み出る不気味さの感覚をよく捉えている。実力派の生沼には気の毒な結果となったが、判定は西方の今橋の勝ちとした。ここでコーヒーが運ばれてきて、いったん休憩となる。
 次のお題は「半島」。なかなか手強いお題だが、今回の歌合わせ白眉の勝負となった。お題から放散される意味場の強度が歌人の創作意欲を刺激したと見える。東方は玲はる名、西方は黒瀬珂瀾である。
 東方の玲はる名は「短歌21世紀」所属。歌集に『たった今覚えたものを』(2001年)があり、印刷媒体よりもインターネット上で活躍している歌人である。今回の歌合でもずっと膝の上にノートパソコンを置いて何か打ち込んでいた。何首か引いておく。
 便器から赤ペン拾う。たった今覚えたものを手に記すため
 冬の間は忘れ去られる冷蔵庫の製氷皿のごときかわれは
 体には傷の残らぬ恋終わるノンシュガーレスガム噛みながら
 かたや黒瀬珂瀾は『黒耀宮』(2002年、ながらみ書房出版賞)の耽美的世界で注目された歌人で、「中部短歌」を経て現在は「未来」所属。批評会やシンポジウムなどの常連と言ってよいほど短歌シーンで活躍している。短歌の未来を担う逸材であることはまちがいない。得度したとも聞いているので、私が万一のときには一面識もない坊さんより、黒瀬氏に経をあげてもらいたいものだ。
 咲き終へし薔薇のごとくに青年が汗ばむ胸をさらすを見たり 『黒耀宮』
 世界かく美しくある朝焼けを恐れつつわが百合をなげうつ
 父一人にて死なせたる晩夏ゆゑ青年眠る破船のごとく
 さて両者の「半島」の出詠歌である。
 半島に夕暮れどきを 半熟の卵で汚れたスカートに銃を  玲はる名

 ひとづまのごと国を恋ふ少年にしなやかに勃つ半島のあれ  黒瀬珂瀾
   ふたりが詠んだ歌は期せずして強いエロスの磁場を発散するものとなった。玲の歌は「夕暮れどきを」と「スカートに銃を」と、二重の希求体を並置して高いテンションを付与し、「スカート」の女性性に「銃」という男性性を対置することで、歌の内部に緊張感を演出している。また「夕暮れ時」を権力の凋落、「半熟の卵で汚れた」を抑圧・陵辱、「銃」を闘争の喩と読むならば、政治的な解釈も可能な歌である。歌合では実際にそのような解釈を示す人もいた。二句切れの不安定さもここでは歌にこめられた切迫した希求感を強める効果がある。
 一方黒瀬の歌は、「人妻」と「少年」の対置が醸し出す「禁忌」と「隔たり」を、「少年」と「国」の関係へ投影し、「勃つ」と「半島」の連接が性的暗喩を生む構造になっている。直喩と暗喩を駆使した技巧的な歌であり、黒瀬の得意とする同性愛的世界である。
 「半島」というお題が二人の歌でこれほどの物語性を押し上げるのには驚く。海に向かって突き出しているという形状もさることながら、半島がしばしば政治的軋轢や戦闘の舞台となったという歴史的経緯も、この語に強い意味的磁場を付与しているのだろう。  さて判定である。事前になるべく「持ち」(引き分け)は出さないようにと言われていたのだが、こういう秀歌が出そろうと判者の心は千々に乱れる。考えた末、この対決ばかりは甲乙付けがたく、よって持ちとすることとした。
 歌合もいよいよ大詰めを迎え、最後のお題は「姉」である。東方「ゆりかもめ」チームからは高島裕、西方「チーム赤猫」からは土岐友浩。労働で鍛えた頑丈そうな高島の体格と、神経質そうな痩せた土岐の体格が対照的な対戦である。別に体格で勝負するわけではないけれど。
 高島は「首都赤変」で1998年の短歌研究新人賞候補に選ばれて注目された歌人で、「未来」に所属していたが現在は無所属。歌集に『旧制度(アンシャン・レジーム)』、『嬬問ひ』、『雨を聴く』、『薄明薄暮集』がある。最近は故郷の富山の風土に沈潜するような歌を作っているらしい。北国の人らしく寡黙だが、歌の解釈を述べるときの冷静にして的確な意見は印象に残った。
 蔑 (なみ) されて来し神神を迎えへむとわれは火を撃つくれなゐの火を
                『旧制度(アンシャン・レジーム)』
 森の上 (へ) にふと先帝の顕ち給ふ苦悶のごとく微笑のごとく
 雪の野に横たふわれの掌のなかで灯る青あり青はいもうと 『嬬問ひ』
 一方の土岐友浩は京大短歌会所属の現役大学生。2005年の第3回歌葉新人賞では「Cellphone Constellations」で、2006年の第4回歌葉新人賞では「Freedom Form」で最終候補作品に選ばれている。最近、Web歌集「Blueberry Field」を上梓したので、何首か引用しておこう。
 首もとのうすいボタンをはずしたらゆびさきにのりうつったひかり
 ウエハースいちまい挟み東京の雑誌をよむおとうとのこいびと
 こいびとの黄色い傘をもったままイルミネーションへ移る心は
 土岐の世代にとってはニューウェーブ短歌はすでに歴史であり、その資産は組み込み済みのものとして作歌を始めるのだろう。
 ふたりの「姉」の出詠歌は対照的な歌となった。
 姉歯、とふ罪人の名を愛でながら夕餉の魚を咀嚼してをり  高島 裕

 かろうじてきれいな川をふたりして見る 姉にしてお茶をくむひと  土岐友浩
 高島の歌には今となってはいささか解説が必要である。歌合の少し前、姉歯一級建築士による建築強度偽装問題が発覚して大騒ぎになったので、これは時事的な歌なのである。お題の「姉」が姉歯という固有名として詠み込まれている。題詠ではお題をストレートに詠み込まず、少しずらして詠むというやり方もあって、これもアリなのだ。描かれているのは男の孤独な夕食の場面で、「罪人の名を愛でながら」にどこか屈折した心理が読み取れる。また「咀嚼してをり」には、世の出来事に対して距離を置いた即物的な反応が暗示されている。全体として静かな中に鬱屈した心情を体臭のように発散させるよい歌だと思う。また「姉歯」の「歯」と「咀嚼」とが遠く呼応しているという指摘もあった。
 土岐の姉の歌は解釈をめぐっていろいろな議論があった。なかなか読みにくい歌である。「ふたりして見る」とあるので、女性と「私」が川を見ているのだろう。「お茶をくむひと」は死語となった感のある「お茶汲みOL」か。「姉にして」も本当の姉か、姉のような人か解釈が分かれる。私など最初は、川を見下ろす旅館の二階で女性がお茶を淹れている場面を想像してしまったが、みんなの読みはそうではないらしい。テーマは年上の女性に対する淡い恋情と、まもなく関係が壊れるという予感あたりだろうと推測される。
 歌合では一首ずつで勝負を決めるので、一首の屹立性が弱くまた結像力に欠ける口語短歌は不利である。「決まった」という感じが薄いからだ。口語短歌における連作の重要性とも関係する問題だろう。
 判定は高島の勝ちとした。土岐の若さも高島の作歌経験のぶ厚さを突破するには少し勢いが不足したようだ。
 都合四番の勝負の結果、東方「ゆりかもめ」チームが2勝1引き分け、西方「チーム赤猫」が1勝1引き分けで、東方の勝ちである。「ゆりかもめ」チームは快哉を叫び、[sai]歌合はお開きとなった。
 開始が予定時間より遅れたので、会場を出ると京都の町はもう暮れ方である。これから喫茶店に行くという歌人たちと別れて、疲労困憊した私は一人家路についたのであった。

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第2回 野樹かずみ『路程記』

花びらはしずかにながれすぎにけり水のおもてのわれを砕いて

                野樹かずみ『路程記』
 野樹は1963年生まれで、1991年に第34回短歌研究新人賞を受賞している。同年の同時受賞は尾崎まゆみの「微熱海域」。『路程記』は2006年に歌葉叢書から出版された第一歌集で、20年余りにわたって詠んだ歌をまとめたものだという。長期間にわたって詠んだ歌を構成的に配置してあるので、読後感もおのずとそれに感応することになり、最後のページを閉じた時、作者に同行して長い旅をしたという感想を抱く。そんな歌集である。
 歌風を乱暴に分類すると、「上をふり仰ぐ歌」と「うつむく歌」、「外に流れ出る歌」と「内へと向かう歌」のような分類ができようが、野樹の歌風はまちがいなく「うつむく歌」「内へと向かう歌」である。なぜうつむいて内向するかと言うと、野樹の存在の最深部に〈世界に対する違和〉が盤踞しているからである。
 永遠の眠りを眠る始祖鳥の夢かもしれぬ世界に棲めり
 故郷からわたしから逃れゆく夜の列車にわたしの顔だけ映る
 遠ざかる光景ならば愛せるかオペラグラスは逆からのぞけ
 死んでゆく母だけ味方いまは本を読むさえ父に憎まれていて
 風景の危うくゆれる街をゆく人それぞれの義眼のなかに
 透かしみる写真のネガにもくっきりとわたしのかたちの欠落がある
 地下鉄の轟音として迫り来るおぼえていない過去から闇が
 私は誰かの見る夢の中に生きているという一首目の感覚は、生の実感の乏しさに由来する。自らの生きる生の全体を我が物として感得できない不全感は、程度の差こそあれ現代人が共通して持つものであり、それ自体は珍しいものではない。しかし野樹の歌が表現しようとしているのは、「現代人の置かれた状況」のような一般化できる感情ではなく、もっと個人的なものであり、他者と共有することのできない感覚のようだ。この歌集が発散する意味は極めてパーソナルな「極私的」意味である。読んでいると狭い私的圏内に吸い込まれてゆくかのような感覚に捕らわれるのはそのためだ。
 その「極私的」意味は、掲出句の最後の「地下鉄の」が示すように、どうやら過去からやって来るようだ。二首目「故郷から」に見られる故郷遁走や、四首目の親との確執も、テーマとしては珍しいものではないが、野樹に重くのしかかっているらしい。三首目「遠ざかる」もまた遁走の主題の変奏である。オペラグラスを逆からのぞけば、風景は縮小される。矮小化され自分から隔絶したものとならねば愛することができないほど、野樹は過去に違和感を抱いているのである。五首目も同種の主題だが、この歌では違和感が歌の中の〈私〉へと収斂せず、「人それぞれ」へと投射されている分だけ、共有の地平へと放たれた歌となり得ている。六首目の「透かしみる」では、〈私〉が世界の中の欠落と見なされており、野樹の抱える違和感の深さが窺える。
 野樹の存在の根底に盤踞する違和は、もしかすると次の歌群と深く関係するのかもしれない。
 どんな深い海峡があっていまわれに隔てられている名もなき故国
 わが国と呼ぶ国もたずかりそめの胸の大地はいま砂嵐
 奪われてしまうものならはじめからいらないたとえば祖国朝鮮
 汚れたるビニール紐が足首にからまるいたるところに国境
   故国喪失が根深い欠落感を生むのは当然のことであり、最後の「汚れたる」の歌が示しているように、どこに住もうとも不可視の国境が存在するのもまた現実である。このような場所から放たれたと思われる次のような歌もある。
 退屈に寝転んで蹴る地球儀のアジアはわたしの足の面積
 焼き捨てる思い出の品にまぎれて地図帳いまはアジアが燃える
 「内へと向かう歌」の多いこの歌集の中では例外的に空間的広がりを持つ歌である。内なる違和と不可視の国境に絡め取られることを拒否して視野を拡大すれば、このような歌が生まれる契機となるのだろうが、残念ながらこのような視座に立つ歌はこの歌集には少ない。しかし野樹はフィリピンのスモーキー・マウンテンを訪れた体験から、フィリピンでフリースクールを運営する活動に関わっているようだから、掲出歌のような視野を実生活において実現していることになるだろう。
 『路程記』中程に配された「夢の羊水」は母親の死を主題とする連作で、経験の切実さからか、それまで必ずしもくっきりと焦点を結んでいなかった歌の風景が、にわかに具体性を帯び始める。そして「草故郷」の連作では主調音が一転し、故郷での少女時代の母親の姿が夢幻的色彩のなかで詠われている。詠われた風景が夢のように美しいのは、喪失した風景だからだろう。なくしたものだけが美しい。
 鳩小屋の鳩らになにをうちあけて午後のひかりのなかに笑む母
 何げない午後に見かけた陽に灼けた畳の荒野をゆく母の背を
 みるうちにわけもなくなみだぐむとおい山のふもとのうすいむらさき
 夕闇のもろこし畑の風のなか母呼ぶ声のやがて泣き声
 このように『路程記』を通読して感じるのは、稀に見る「物語が充満した歌集」ということである。現代の都市で集合住宅に住み、満員電車に毎日揺られて通勤する市井の人間は、人に語るに足る物語を持ちにくい。穂村弘の言葉を借りれば、「命の使いどころのない」(『短歌の友人』)生の平板化のなかでいかに詠うかは、現代の歌人に共通する課題だろう。しかし野樹には、海峡を隔てた祖国という空間軸と、父母・祖父母・喪失した故郷という時間軸のそこここに点在する濃密な物語がある。その物語は野樹がみずから選択したものではなく、この世に生まれ落ちた時点で押しつけられたものであり、野樹の心に闇を呼び込むことがある。野樹が歌を汲み上げる泉として、過去から押し寄せる闇を選ぶのはけだし当然と言うべきだろう。そもそも人にまつわる物語とは、自由意志で選び取るものではなく、私たちが否応なく引き受けざるをえないものだ。
 同じ闇を描いていても、野樹の描き方は例えば加藤治郎の『環状線のモンスター』などとは根本的に異なることにも注意しておきたい。
 弾丸は二発ぶちこむべしべしとブリキのように頭は跳ねて
                  『環状線のモンスター』
 誰かいっしょに死んでください鶏の小さな頭、闇にみちたり
 帯文の惹句にあるように、『環状線のモンスター』は現代の日常に侵入してくる狂気と怪物を描いた歌集だが、加藤が描くのはあくまで「時代の狂気」「現代の闇」であって、自らの内なる闇ではない。だから「べしべし」などと修辞を凝らす余裕もある。野樹の描く闇は自らの肉に食い込む闇であり、修辞を突き破って迫って来るので、読んでいてこちらが息苦しくなるほどである。
 むざむざとさらされて在る憎しみに真白にやわきむくげ花裂く
 胸に棲む鳥の羽毛をむしりやまぬわたしをだれか無理矢理とめよ
 あこがれの果てのちいさな景色なり誘蛾灯下にちらばる死蛾も
 しかし歌集の後半に至り、訪れたフィリピンのスモーキー・マウンテンに群がる子供たちに注がれる目は柔らかく、このあたりが野樹の心境の転機になったと推測される。
 ゴム草履パタパタ鳴らし少女らがサンパギータの花売り歩く
 こわれそうな小屋から子どもたちにぎやかな音符となってとびだしてくる
 ぬかるみのなかのちいさな足あとの水たまりにも浮かぶ太陽
 そして歌集の掉尾を飾る「埴輪」の連作では、新しい生命を授かったことで歌はさらに光の方向へと転調するのである。
 火星赤く われは胎児をふとらせる闇を抱えた古代の埴輪
 この星にきみ生まれけり水の匂いさやかに立ち上がる秋の朝
 みどりごの眠りをいまは抱いてゆく蛍飛び交う銀河のほとり
 朝ごとにきみに発見されている世界に一羽の鳥降りてくる
 一首目「火星赤く」に詠われた闇は、それまでの過去から迫って来る闇ではなく、新しい生命を育む肯定的な闇であり、軍神の星である火星が頭上にきな臭い光を放っているとはいえ、古代の埴輪の静謐な落ち着きに守られている。二首目以下の歌もそれまでの歌から滲み出る閉塞感から解放されており、野樹はここに至ってようやく、「うつむく歌」「内へと向かう歌」から「上をふり仰ぐ歌」「外に流れ出る歌」への転調を果たしたのである。気がついてみれば、読者は「抑圧」から「解放」へと構成された物語の中を歩いたことになる。
 『路程記』以降に作られた歌が野樹のホームページに「箱船」という題で掲載されている。野樹は過去から押し寄せる濃密な物語から解き放たれ、新しい歌風を模索しているようだ。「箱船」という題名がその方向をさし示しているのかもしれない。
 

 

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第1回 佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』

胸おもくまろくかかえて鳥たちははつなつ空の果実となりぬ
         佐藤弓生『眼鏡屋はゆうぐれのため』
 リニューアルした短歌コラム「橄欖追放」の第一回目に誰を取り上げようか、あれこれ思案をめぐらせた。まだ取り上げていない歌人にしようか、それとも一度論じた歌人の新歌集にしようか。こういう迷いの時間はこの上なく楽しい。いろいろ考えた結果、リニューアルしたからには自分の嗜好を押しだそうと、佐藤弓生の第二歌集『眼鏡屋はゆうぐれのため』(2006年)に決めた。佐藤弓生は「今週の短歌」で2004年8月に一度取り上げているが、その時は『世界が海におおわれるまで』 (2001年、沖積舎)が唯一の歌集だった。『眼鏡屋はゆうぐれのため』は角川書店の叢書「21世紀短歌シリーズ」の一巻として刊行されており、同じ年に角川短歌賞を受賞した作品を巻頭に収録している。淡いワインレッドの装丁に開いた白紙の手帖とルーペを配したブックデザインは、死語と化しつつある瀟洒という形容がぴったりで、収録作品の放つうっすらとノスタルジックな空気感とよくマッチしている。
 『世界が海におおわれるまで』の巻末に歌誌「かばん」の仲間である井辻朱美が解説を寄稿している。井辻がキーワードとして選んだのは「距離」であった。ここで「距離」というのは歌人の歌に対する立ち位置のことで、歌が作者の身体から見て右手前にあるのか、30センチの近距離にあるのか、それとも10メートルの遠方にあるのか、はたまた作者の身体は歌の空間の内部に含まれているのか、それとも遙か遠くから遠望しているのかといったことをさす。「視点」と呼んでもよいが、井辻は「距離」という言葉を選んでいる。その上で、「空洞を籠めてこの世に置いてゆく紅茶の缶のロイヤルブルー」のような佐藤の歌を引いて、佐藤の歌には魅力的な視点のあいまいさがあり、「距離への作者の無関心というよりも、故意におこなうずらし、ゆらぎ」が認められ、「視点人物だの仮想作者だの焦点化だのという理論の枠組みをいともかろやかにくしゃっと踏みつぶしてしまっている」と論じている。「視点人物」や「焦点化」というのは、フランスの文芸批評家ジェラール・ジュネットの理論を念頭に置いているのだろうが、佐藤の短歌はそのような小賢しい文芸理論を軽々と踏み越えているというのだ。
 「視点」が近代の産物であることは言を待たない。西欧ルネサンス初期までの絵画には視点がない。すべてを同列に置いて斜め上方から俯瞰的に描く日本の大和絵も同様である。ルネサンス時代の「人間」の発見が視点を誕生させ、視点が〈私〉と〈世界〉の距離を生んだ。これが主客二元論の発生であり、見る〈私〉と見られる〈世界〉の対立の始まりである。明治時代の近代短歌運動が西洋絵画の大きな影響のもとに成立したのは偶然ではない。見る〈私〉と見られる〈世界〉の対立は写実の基盤であり、「歌の情景を作者はどこから見ているか」が明確であることを求められる。これが近代の〈眼〉であり、現代において歌を詠んでいる歌人も、意識するしないにかかわらず、この〈眼〉を内面化させている。
 井辻の言うように佐藤がこの近代の〈眼〉を「くしゃっと踏みつぶして」いるとしたら、それは佐藤が近代短歌のセオリーからの逸脱と自由を、何らかの理由で獲得しているということである。見る〈私〉と見られる〈世界〉の対立と、そこから生ずる距離を無効化する方法は理論的にはいくつか考えられる。〈私〉100パーセントの濃縮還元ジュースを作って世界を消滅させても距離は消えるし、これよりは難度が高くなるが〈私〉をゼロにして〈世界〉100パーセントにしても同様の効果が得られる。しかし佐藤の選択した方法はどちらでもなく、「〈私〉を小刻みに〈世界〉に差し入れる」というものだと思われる。『眼鏡屋はゆうぐれのため』から何首か引いてみよう。
 乳ふさをもたない鳥としてあるくぼくを青空が突きぬけてゆく
 ふゆぞらふかく咬みあう枝のあらわにもぼくらはうつくしきコンポジション
 水に身をふかくさしこむよろこびのふとにんげんに似ているわたし
 定住のならいさびしいこの星のおもてをあゆむ庭から庭へ
 一首目で鳥は〈私〉の観察する対象ではなく、私は鳥としてあるのだから、主客の乖離はむしろ融合している。その〈私〉を青空が突き抜けてゆくという感覚もまた、主客の対峙よりは混交の感覚を表していると言えるだろう。二首目は冬空を背景としたモンドリアンの抽象絵画を思わせる歌である。三句目までは〈私〉の目から見た冬景色の通常の叙景と読むこともできるが、四句目に来ていきなり交叉する枝は「ぼくら」に転じており、一瞬頭がくらっとするような主客逆転が行われている。三首目の上句は水泳の光景を詠んでいるのだが、「水に身をふかくさしこむ」という表現が「〈私〉を〈世界〉に差し入れる」という佐藤の方法論を象徴しており、おまけに下句の「ふとにんげんに似ているわたし」が暗示しているのは、この歌の〈私〉は少なくとも意識の上では人間という種をふらふらとはみ出しているらしいということである。〈私〉が人間でなくなれば主客二元論もまた消滅する道理だ。四首目は現代短歌が獲得した新しい「視点」を示す歌。「定住のならいさびしい」という上二句は、放浪と風のような自由さに憧れる気持ちを表現している。それはよいとして、「庭から庭へあゆむ」主体が人間であるとしたら、その距離は数メートルかたかだか数キロメートルが常識だが、それにたいして「この星のおもて」と天文学的視点からの表現を配しているところに視点の飛躍がある。四首目を含む「庭から庭へ」の連作には、他に「胸に庭もつ人とゆくきんぽうげきらきらひらく天文台を」とか、「ゆく春やアインシュタイン塔をなす錆びた小ネジであったよわたし」のように宇宙的次元へとつながる歌が配されている。このような視点の取り方、もしくはこのような近代的視点の無効化は、現代短歌がある頃から獲得した手法のひとつと言えるだろう。
 吉川宏志の『風景と実感』(2008年、青磁社)の中で、正岡子規の「地図的観念と絵画的観念」という文章が紹介されていて興味深い。吉川の本や子規の文章については、またいずれ改めて詳しく論じたいと思っているが、とりあえず要点をまとめると、「地図的観念は万物を下に見、絵画的観念は万物を横に見る」のであり、子規は前者を排し後者を推奨しているのである。つまり「上から俯瞰するような視点はリアリティーを欠くのでよろしくない」と言っているのだ。近代短歌が見る〈私〉と見られる〈世界〉の対峙を基本とするならば、両者は細部が観察可能な距離に位置しなくてはならない。あまり両者の距離が開くと、〈世界〉は〈私〉の眼から逃れる抽象的存在になってしまう。子規はこれを嫌ったのである。しかし近代短歌のセオリーから脱却せんと欲する人は、これを逆手に取ればよろしい。〈世界〉を地図的にはるか上空から俯瞰する視点を取れば、主客二元論はおのずと超克される。上空から俯瞰する視点はすなわち偏在する視点であり、その原理上〈私〉の位置を一意的に定義しない。これは〈神〉の視点なのであり、この視座に立つ人は畳の上に寝起きする通常の〈私〉ではなくなるのである。
 人工衛星(サテライト)群れつどわせてほたるなすほのかな胸であった 地球は
 草原が薄目をあけるおりおりの水おと ここも銀河のほとり
 ゆくりなく夕ぐれあふれ街じゅうの眼鏡のレンズふるえはじめる
 ふたしかな星座のようにきみがいる団地を抱いてうつくしい街
 あしのうら風に吹かせてあたしたち二度と交わらない宇宙船
 一首目の結句の「地球は」には、字足らずになることを承知で思わず「テラは」とルビを振りたくなる。三首目は巻頭の「眼鏡屋は夕ぐれのため千枚のレンズをみがく(わたしはここだ)」と呼応する歌だが、言うまでもなく地理上の一点に縛られた〈私〉には街じゅうのレンズを見ることはできないのであり、ここにも視点の浮遊とそれによって生み出された夢幻的なムードがある。五首目は佐藤史生のSFマンガのようだ。総じてこれらの歌にはSFやファンタジーやコミックスと通底する空気感が濃厚である。佐藤は短歌を作る傍ら詩人であり、英国推理小説などの翻訳家でもあり、『少女領域』『ゴシックスピリット』の著者の高原英理と共同でホームページを持っていることからもわかるように、SF・ファンタジー・幻想系に近い位置にいる。幻想系やゴシック系は反近代の先兵のようなものだから、もともと佐藤には近代の主客二元論の桎梏から自由になりやすい素地があったのかもしれない。
 いささか近代短歌論に走りすぎたようだ。『眼鏡屋はゆうぐれのため』に話を戻すと、『世界が海におおわれるまで』と比較して気がつくのは修辞の成熟である。
 敷石に触れるさくらのはなびらの肉片ほどの熱さか死期は
 腿ふとく風の男に騎られてはみどりの声を帯びゆくさくら
 風の舌かくまで青く挿しこまれ五月の星は襞をふかくす
 瞼とは貧しい衣 光を、とパイナップルに刃を入れるとき
 一首目の助詞「の」で結ばれた長い序詞は、加藤治郎の言う現代短歌の修辞ルネサンスを思わせる。二首目は一読すると謎のような歌だが、よく読むと桜の花が風に散って葉桜となるまでを詠っていることがわかる。風を腿の太い男に譬える喩に媒介された「風 – 男」「桜 – 女」の二重イメージが無限カノンのように響く。四首目では目の切れ目である瞼とパイナップルに入れられたナイフの切り込みのイメージとが二重映しになって、どこか危うい感じが漂う不思議な歌である。
 このように『眼鏡屋はゆうぐれのため』は、第一歌集から5年を経た作者の技量の成熟と同時に、近代短歌に対するスタンスまでもがはっきりと看取される充実した歌集となっている。満都の喝采を浴びることはまちがいない。仄聞するところによれば、版元品切れとなり重版がかかったようだから、洛陽の紙価を高らしむることになるかもしれない。  最後に特に印象に残った歌を挙げておこう。
 桐の花ふりてふれくるふところをおそるるにこのうすむらさきは
 生きのびたひとの眼窩よ あおじろくひかる夜空のひとすみに水
 箱蜜柑ざわめきいたり星ほどの冷えなしながら夜の廊下に
 もくもくと結び蒟蒻むすびつつたましいすこしねじれているか
 地震(ない)深し銀のボウルにたふたふとココアパウダーふりこぼすとき
 本ゆずりうけたるのちを死でうすく貼りあわされた春空、われら
 唐ひとの骨がほんのりにおうまでカップを載せたてのひら はだか
 長くなるので一首ごとに論じることは控えるが、二首目はどこかで目にして愛用のモールスキンの手帳に書き留めた歌である。どこで目にしたのか忘れてしまったが、不思議な印象忘れ難く、折りに触れて愛唱してきた。この歌集で再会できて喜ばしい。
 余談だが、昨年(2007年)お招きを受けて歌集の批評会に二度出席する機会を得た。偶然ながら、その二度とも佐藤弓生さんにお会いして、強い印象を受けた。ひと言で言うと、地上の重力から少し解放された人という印象である。また、電脳空間を渉猟していた折りに、テキサスの教会でオルガニストをしている人のブログに行き当たった。何とその人は佐藤弓生さんと大学でオルガン仲間だったらしく、母校の立派なパイプオルガンの前で写した仲良し三人組の写真が掲載されていた。三人のうちブログの主はテキサスでオルガニストとなり、一人は歌人となり、残る一人は眼鏡屋の女主人になったというのはいささか出来過ぎた話である。そういえば『眼鏡屋はゆうぐれのため』にも何首かオルガンの歌があった。オルガンが天上的な楽器であることは言うまでもないことである。
 神さまのかたち知らないままに来て驢馬とわたしとおるがんの前
 いらんかね耳いらんかね 青空の奥のおるがんうるわしい日に


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第0回 短歌コラム再開の弁

 2004年4月から4年間にわたって毎週ホームページに連載した「今週の短歌」は、2007年5月をもっていったん終了とした。200回という区切りのよい回数を迎えたことと、さすがに毎週書き続けるのが辛くなったためである。ある歌集批評会で藤原龍一郎さんとお会いしたとき、「毎週歌人論を書くというのはたいへんなことですね」と言葉を掛けていただいたが、書き始めた当初はそれほど覚悟があったわけではない。こんなに長期間にわたって書くとも思わなかった。
 あるときふとしたきっかけから現代短歌に惹かれた。ときどき「どんなきっかけで現代短歌に興味を持つようになったのですか」とたずねられることがある。私のように自分で作歌もせず、身の回りに短歌関係者もおらず、一人で歌人論を書く人間は珍しいのだろう。どんなきっかけだったか、はっきりと特定できるものがあるわけではない。家人が塚本邦雄の小説のファンで、自宅の書架に何冊も並んでいたが、歌集は一冊もなかった。しかし文春文庫版の『けさひらく言葉』があった。これは塚本が昭和57年9月から59年1月末まで毎日新聞一面の題字下に毎日連載したコラムを一冊にまとめたものである。博覧強記の塚本らしく、古今東西の書物から小説の一節、詩歌の断片、聖書や仏典の一句などを選び、テンションの高い簡潔な文章を添えてある。引用されたものをいくつか引いてみる。

「はじめて映画を撮る時、私は私の画面から松のかたちと緑を追放した。」
                  大島渚「松」
「堪えがたければわれ空に投げうつ水中花。」
                  伊藤静雄「夏花」
「絢爛の重みをつねに雉子翔べり」
                  三浦秋葉「絢爛」
「水くぐる青き扇をわが言葉創りたまへるかの夜に献る」                   山中智恵子「みずかありなむ」

 散文からの引用に混じってときどき俳句と短歌が引かれている。コラムの長さは200字と制限されているため、塚本の文体はいきおい贅肉を削ぎ落としたものとなり、引用もまた短いものにならざるをえない。この結果、コラム全体に極度の凝縮の負荷がかかり、日常の言語使用の場よりはるかに高い内圧を持つことになる。この高い内圧という非日常的言語環境において最も輝くのが韻文であることに、ある時私は気づいたのである。散文には高い内圧に拮抗するだけの言語の凝集度がない。韻文は音数律の制約により意味が圧縮されているため、凝縮の負荷によく耐えるのである。「慈母には敗子あり」(韓非子)のような漢文の文語読み下し文が凝縮の極北だが、俳句や短歌のような短詩型韻文もまた、内圧に負けない言語の緊密度を備えている。深さ1千メートルの深海のような高内圧の言語場という例外的な場所で、私は韻文の持つ力を感得したのである。しかしもとよりこれは後日思案した後付けの論理で、『けさひらく言葉』を漫然と拾い読みしていた当時の私は、名状しがたい言葉の輝きに漠然と魅せられていたにすぎない。
 これをきっかけに現代短歌を読むようになり、読書の里程標のような気持ちで「今週の短歌」をホームページに書き始めた。最初から特に方針があったわけではないが、いくつか指針のようなものはおぼろげながら念頭にあった。
 (1) 一回に歌人を一人取り上げる
 (2) 同じ歌人は二度取り上げない
 (3) 一人の歌人を取り上げるときはできるだけ多くの歌集を読む
書き始めてみて気づいたが、これはかなり縛りのきつい指針である。「水の歌」のようなお題シリーズを除いて(1)と(2)はほぼ守ったつもりだが、(3)は歌集の入手の難しさもあって守れないことが多かった。
 再開するにあたって制約を緩めるため、この指針は反古にすることとした。もう少し気楽に短歌について語りたいという気持ちからである。また歌集だけでなく歌書・歌論も折りに触れて話題にしてみたい。毎週連載は負担が大きいので、原則として月二回の連載とし、第一月曜と第三月曜に掲載することにした。
 つぎはこの短歌コラムの題名である。「今週の短歌」はいかにも散文的で芸がない。歌人の方々のホームページを拝見すると、それぞれに固有の言語感覚を駆使して工夫を凝らした名前を付けておられる。黒瀬珂瀾氏の「moonlight crisis」、穂村弘氏の「ごうふるたうん」、中山明氏の「翡翠通信」、桝屋善成氏の「迷蝶舎」、春畑茜さんの「アールグレイ日和」、村上きわみ+なかはられいこさんの「きりんの脱臼」、大辻隆弘氏の「水の回廊」、横山未来子さんの「水の果実」などが特に印象深い。「光」と「水」のイメージにつながる名前が多いのは、現代に生きる歌人に共通する内的希求ゆえだろう。
 しかし名前の付け方には注意が必要である。その昔、三島由紀夫が文壇にデヴューしたとき、当時の文壇の長老が「三島由紀夫という筆名は若い名前だ。歳を取ったときどうするつもりだろう」と周囲に漏らしたという。三島は45歳で割腹自殺したので老後の心配は杞憂となった。しかし若い時のセルフイメージに駆動されてあまり若い名前を付けると、後で困ることになるのは確かだ。かといって逆にそれ程の歳でもないのに、「梧桐亭日乗」のような「根岸の里の侘び住まい」風の悟りすました名前を付けるのも嫌みである。このあたりの加減が難しい。
 前にも書いたことだが、私は本のタイトルはかなり気にする方だ。しかし、私が今まで出した本の書名は、すべて担当の編集者が付けたものである。向こうは気を遣ってくれて、「ご希望のタイトルはありますか」といちおう聞いてはくれるのだが、私が提案したタイトルはことごとく却下されてしまった。ついに私は諦めの境地に達して俎板の鯉と化し、自分にはタイトルを考案する才能が欠如しているのだと苦い結論を出した。
 しかし再開する短歌コラムは毎週は書かないことにしたのだから、「今週の短歌」という題名は具合が悪い。いずれにせよ新しい名前が必要だ。というわけで愛用のモールスキンの手帳に、思いつくままに20余りのタイトルを書き付けた。その結果選んだのが「橄欖追放」である。自解自註は野暮の極みとは承知しているが、誤解のおそれもあるのでちょっと解説しておく。
 古代ギリシアのアテナイでは、僭主となる危険性のある人の名前を陶片(ostrakon)に書いて投票し、最多得票者を追放する「陶片追放」(ostrakismos)という制度があった。のちにこれを「貝殻追放」と誤訳したのは、ローマ帝国のハドリアヌス帝に重用されたギリシア人の歴史家Flavius Arrianusだと言われている。2,000年近くも経っていまだに誤訳をあげつらわれるのは気の毒というほかはない。一方、同じ頃のシラクサではオリーブの葉(petala)に追放する人の名を書くpetalismosという制度が行われていた。オリーブは日本では誤って橄欖と呼ばれることがある。それを承知の上でpetalismosを「橄欖追放」とした。こうすることで古代ギリシアの僭主追放の制度にふたつの誤訳が重なることになり、興趣が倍加される。実のなかに微量の虚が混じるからである。誰もが知るように、微量の虚は日常言語を詩へと押し上げる酵母となる。
 というわけで4月から新短歌コラム「橄欖追放」を開始するのでご愛読を願う。

200:2007年5月 第1週 現代短歌のゆくえ
または、『新響十人』

 おぼつかない足取りで書き続けてきた「今週の短歌」も、早いもので200回を迎えた。第1回が2003年4月28日の日付になっているので、ほぼ丸4年にわたって連載したことになる。できるだけ毎週掲載を心掛けたが、週末の学会出張や父の死などで休載したことも何度かあった。最初は自分の読書ノートのような気持ちで気軽に書き始めたのだが、思いがけず多くの人に読んでいただくようになり、その分だけ肩に力が入るようになったのは否めない。その一方で、この連載を通じて歌人の方々と交流が生まれたのは望外の喜びだった。なかにはご自分の歌集を贈呈してくださる方もおられて、そんなときはありがたく拝領した。ふだんは歌集・歌書の「大人買い」をしているので、歌集購入にかける出費は馬鹿にならないのである。しかも買った歌集はあっと言う間に狭いわが家の書架一台をまるまる占領してなおその版図を拡大しつつあり、これも頭が痛いことである。

 連載をしていていちばん困ったのは歌集の入手だった。歌集はたいてい500部程度の小部数印刷され、その大部分は著者買い取りで贈呈に回される。だから一般の書籍の流通経路には乗らない。贈呈の輪という人的回路に加わっていないと、最初から入手できないのである。ならば古書ということになるが、神田の古書店街を回って判明したのは、八木書店など歌集・詩集を扱っている書店が取り扱うのは、古書価の高い有名歌人の初版本に限られるということだ。私が焦点を当てていたのは、1980年以降に登場した比較的若い歌人なので、こういった人達の歌集は古書店の店頭には並ばない。それでもこまめにインターネットの海を渉猟すると、海風舎とか石神井書店など歌集・詩集に強い古書店が見つかり、ずいぶん多くの歌集を古書で買うことができた。なかには松平修文『水村』、仙波龍英『わたしは可愛い三月兎』、三枝昂之『水の覇権』、山尾悠子『角砂糖の日々』など、今では入手の難しい歌集も含まれている。たかだか500部くらいしか印刷されなかった歌集の一冊が、巡り巡って私の手許にあることを考えると、深宇宙で小隕石と遭遇するような出会いの偶然を思わずにはいられない。

 毎回取り上げた歌人の選択は多分に偶然による。たまたま手に入った歌集を時を置かずに論じたことも多い。それでも新人とベテランの配分には多少は配慮した。塚本邦雄や岡井隆や山中智恵子などの大歌人を取り上げなかったのは、ひとえに当方の力不足の故である。塚本や岡井を論じようなどと思ったら、半年間休職でもして専念しなければ無理な相談だ。しかし半年間休職したら妻子が飢えてしまうので、それは叶わないのである。

 私は近代文学批評を確立した小林秀雄と畏れ多くも同意見で、けなす批評よりほめる批評が批評の神髄だと考えているので、できるだけ作者の立ち位置に内側から身を沿わせるように作品世界を眺めるべく心掛けた。しかし心ならずも作者に苦言を呈したことも何度かある。不快に思われたことがあれば、素人の妄言としてご海容いただきたい。

 最終回に何を取り上げようかとしばらく思案した結果、特定の歌人を論じるのではなく、最終回らしく総括めいた論にしようと決めた。折しも北溟社から『現代短歌最前線 新響十人』と題された精華集が刊行された。このような短歌の精華集としては、過去に『新風十人』『新唱十人』などの例があるが、『新星十人』(立風書房)まで長らく空白期間があった。『新星十人』は1998年の出版だから、今からほぼ10年前になる。収録歌人は、荻原裕幸、加藤治郎紀野恵、坂井修一、辰巳泰子、林あまり、穂村弘水原紫苑吉川宏志米川千嘉子の10人。最年長の坂井が1958年生まれ、最年少の吉川が1969年生まれだから、刊行時には30歳から40歳の歌人たちということになる。油の乗り始めた若手という位置づけだろう。精華集の惹句は「現代短歌ニューウェーブ」となっていて、1980年代の終わり頃から台頭した口語や記号を多用するライトな感覚の短歌が、ほぼ10年を閲して歌壇の中心を占めるようになったわけだ。今回、『新響十人』に集った歌人は、石川美南生沼義朗黒瀬珂瀾笹公人島田幸典、永田紅、野口恵子、松野志保松村正直、松本典子の10人である。最年長の松村正直と松本典子が1970年生まれ、最年少は1980年生まれの石川美南である。27歳から37歳までの歌人を集めたことになる。10年前の『新星十人』に集った歌人たちは、今では歌壇の中核を担うベテランとなり、彼ら抜きの短歌シーンは想像できないほどである。それから10年後の『新響十人』の歌人たちは、現在は若手の位置取りだが、将来は確実に歌壇を牽引する役割を担うものと思われる。この10人のうちの多くを「今週の短歌」で既に取り上げて紹介した。松本典子の『いびつな果実』は歌集が見つからず断念した。野口恵子はこの精華集で初めてその歌業に触れた。『新響十人』の歌人たちの歌を2首ずつ引いてみよう。

 夕立が世界を襲ふ午後に備へ店先に置く百本の傘  石川美南
 カーテンのレースは冷えて弟がはぷすぶるぐ、とくしゃみする秋

 ペリカンの死を見届ける予感して水禽園にひとり来ていつ  生沼義朗
 初夏の東京の空切り裂かれ襤褸となって水は落ちくる

 黒悍馬溶けつつ駆ける 青年のそびらに彫りしメビウスの輪に  黒瀬珂瀾
 父一人にて死なせたる晩夏ゆゑ青年眠る破船のごとく

 憧れの山田先輩念写して微笑む春の妹無垢なり  笹公人
 すさまじき腋臭の少女あらわれて仏間に響く祖母の真言

 首のべて夕べの水を突く鷺は雄ならん水のひかりを壊す  島田幸典
 晩夏(おそなつ)に潜める秋のようなもの以仁王(もちひとおう)のその馬の鞍

 ああそうか日照雨(そばえ)のように日々はあるつねに誰かが誰かを好きで  永田紅
 下敷きの青さ加減を日に透かすコスモス上下に揺れている午後

 暗雲に呑まれる世界で君と聞くダリア花咲く傘の雨音  野口恵子
 地下鉄にぐるり縛られ東京は浅黒き血が滲んでいたり

 青い花そこから芽吹くと思うまで君の手首に透ける静脈  松野志保
 花びらのようであったかこの夜のどこかで剥がれ落ちた爪さえ

 イタリアンレストランにはイタリアの国旗が垂れて、雨となりたり  松村正直
 だから言わんこっちゃないとの口ぶりの社説を読みてパン二枚買う

 ゆづられぬ恋と思はむ時にこそわが取り出す〈陵王〉の面  松本典子
 初がつを旬のいのちの煌きをかなしめり舞ふときの眼をして

 この精華集に集った歌人たちは、20年前の短歌界の大事件・サラダ現象以後に作歌を開始した人たちであり、歩み始めた時には1980年代に始まった加藤治郎の言う「修辞の時代」の華々しい短歌群が眼前にあったはずだ。彼らは兄の世代の短歌群を滋養として育つのだが、80年代に展開された過剰とも言える修辞的傾向は、滋養として吸収されつつも本来の姿とは形を変えてこの世代の作歌に生かされているように見える。たとえば松本典子の歌風は古典的と言えるほどで、文語脈に生き生きと感情を通わせる手法はニューウェーブ口語短歌からかなり離れた位置にある。また島田幸典の知的で静謐な作風は、欧州の政治史研究者としての歴史的視界により広がりを与えられ、ややもすれば個的感情の表現に収斂しがちな現代短歌にあって独自の位置を占めている。また黒瀬珂瀾の絢爛たる耽美的作風は、師の春日井の作品世界から青年性と同性愛的志向を継承しながら、言葉への衒学的なまでのこだわりによってニューウェーブを軽々と飛び越し、塚本邦雄らの前衛短歌に連なる系譜を感じさせる。黒瀬が世代を越えて継承したもののうち最も重要なのは、前衛短歌の〈思想性〉であろう。80年代の短歌が華々しかっただけに、その次に生を受けた世代は、ひとつ前の世代の短歌から何を吸収し、どのようにそれを乗り越えるかという課題に直面したはずである。これらの歌人はニューウェーブ短歌から滋養を吸収しつつも、それとは異なる独自の道を選択したように感じられる。

 生沼義朗と野口恵子は同じ年1975年に生まれている。この世代は1991年2月に始まるバブル経済の崩壊を15~16歳という多感な時期に経験し、1995年の阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件を19歳で目撃してしまった世代である。爛熟した大衆消費社会の中での停滞感漂う「失われた10年」は、「盛塩が地震(ない)に崩れる。神々ももはや時間を使い果たした」(生沼)という感覚をこの世代に刻印した。この世代が明るく伸びやかな青春歌を持ち得なかったのは当然のことである。「大きな物語」(リオタール)が消滅したと誰もが感じる時代にあっては、信じることができるのは細分化された個人の感覚だけであり、ときにそれすらも偽物感が付きまとう。生沼の神経症的都市詠はこの世代が感じる世界への違和感をよく表現している。

 なにげない主題とフラットな口語性において、ニューウェーブ的語法に最も近い松村正直、自然体ののびやかな感受性を常に感じさせる永田紅、劇的な物語性のなかに裸の個の切なさを表現する松野志保、水原紫苑が「口語でも文語でもない」と評したという文体で独特な説話的世界を展開する石川美南、笑いを盛り込んだポピュラリティーの中に抒情世界を忍ばせる念力短歌の笹公人、これらの歌人もまた前の世代の短歌を滋養としつつ、それぞれ自分の短歌世界を展開している。今回『新響十人』に集った歌人以外にも、横山未来子目黒哲朗ひぐらしひなつ錦見映理子村上きわみ佐藤りえ今橋愛鹿野氷十谷あとりなど、今後の活躍が注目される歌人は数多くいる。また最近出版された歌集のなかで私に最も深い刻印を残したものとして、山下泉『光の引用』(砂子屋書房 2005年)をあげておきたい。

最終回にあたって「現代短歌のゆくえ」のような展望を書くことが望ましいのだが、私にはその膂力が不足している。そこでお茶を濁すため、いくつかのエビソードを紹介しよう。
 神戸女学院大学教授にしてフランス現代思想の研究家である内田樹は、私が愛読する書き手だが、文学部で卒業論文を書く最近の学生の傾向について、次のように述べている。彼らは特定の作家やジャンルのことはよく知っているが、自分の卒論のテーマ以外のものは読んでいない。だから寄り集まっても文学の話で座が盛り上がるということがないという。共通の話題がないからである。この状況は音楽でも似ていて、

 「ねえ、音楽、何聴いてるの?」
 「私? マリリン・マンソン。あなたは?」
 「…スピッツ」

と3秒で会話は終了してしまう。そりゃ、そうでしょう。マリリン・マンソンとスピッツとでは、あまりにかけ離れすぎている。共通分母がないのである。
 次に島田幸典氏から聞いた話。ある短歌のシンポジウムでパネラーの一人として穂村弘が壇上にいた。会場の奥の方に石田比呂志が座っていたが、途中でやおら前列に移動し、机に突っ伏して寝る姿勢を取った。「お前の話を俺は認めない」という意見を態度で示したのである。しかし穂村は何も反応せず、シンポジウムは何事もなかったかのように粛々と進行した。対話の機会は失われたのである。

 これらのエビソードから抽出できるのは何か。まずスーパーフラットな世界状況下で知識や嗜好の断片化と細分化が進行したため、私たちはごく狭い世界に暮すようになったということである。パソコンの構想の提唱者として知られるポール・ケイは、インターネットの発展によって世界はひとつの村(global village)になると予言したが、この楽天的な予言は外れたと言わざるをえない。逆説的なことに、グローバル化によって世界の断片化はむしろ進行している。世界文学全集は売れなくなった。昔は一家に一セット備えられていた百科事典は姿を消し、必要な情報はインターネットから適当につまみ食いされている。しかしその情報の質は保証の限りではなく、私は今年から学生のレポートに Wikipediaの情報を利用することを禁止したほどである。この状況は「知識のコンビニ化」である。その結果として、知識をより高い次元において統合し俯瞰するメタ知識を涵養する機会が減り、文化状況はタコツボ化したのである。

 この文化状況は短歌シーンにおいては端的に「歌論の不在」として表面化する。みんなが自分の好みの短歌を作り、歌人はそれぞれ離れた島として海中に点在するかのようだ。島と島を結ぶ橋は限りなく細い。現在、若手の歌人たちはみなそれぞれの性向と嗜好に基づいて、「自分の世界」を築いているように見える。しかしそのようにして築かれた世界どうしが、ぶつかり合ったり相互に干渉しあう場がなければ、世界は矮小化し自己模倣に陥ることになるだろう。川野里子は『短歌ヴァーサス』5号掲載の「歌論なき世代の祈りの群像」と題する文章の中ですでにこの状況を憂慮しており、私は川野の論旨を繰り返すことしかできない。塚本邦雄と岡井隆の出会いから前衛短歌が誕生したことはよく知られているが、その傍らには無二の伴走者としての菱川善夫がいた。前衛短歌運動は、実作もさることながら、短歌をめぐる論争と歌論を軸として展開されたのである。今日そのような状況は望むべくもない。短歌シーンにおける歌論と論争の興隆と、独自の批評言語を備えた短歌批評が待たれる所以である。

199:2007年4月 第4週 杉森多佳子
または、泉下に師を呼ぶ文学的孤児

ガーゼ切り刻みたるごと散るさくら
    わがてのひらのまほろばに来よ
     杉森多佳子『忍冬(ハネーサックル)』

 今年は桜が開花してから低温傾向が続いたので、花が長持ちして例年よりも長く花を楽しむことができた。いつもならソメイヨシノが散ってから、4月中旬頃に開花する京都の御室の桜も、あまり時間差なく満開を迎えた。掲出歌は桜を詠んで「ガーゼ切り刻みたるごと」と形容していて美しい。ガーゼというと、小池光の「いちまいのガーゼのごとき風たちてつつまれやすし傷待つ胸は」という歌が思い浮かぶが、繊細さと傷付きやすさの記号として短歌で用いられることがある。しかしガーゼを切り刻むという表現に痛ましさと残酷さが感じられ、作者が心に深い傷を抱えていることを思わせる。切り刻まれたガーゼのような桜の花びらに「わがてのひらのまほろばに来よ」と呼びかけている所に、作者の思いの深さが感じられる歌である。

 杉森は1962年生まれで、中部短歌会に所属し春日井建に師事し作歌を始めている。春日井が泉下の人となったのを機に、中部短歌会をやめて「未来」に移り、加藤治郎の指導を受けているという。『忍冬(ハネーサックル)』は2007年に出版された第一歌集で、跋文を加藤が書いている。歌集題名の「忍冬」は、「ニンドウ」または「スイカズラ」という和名の植物から採られている。花に蜜があり和名の「スイカズラ」(吸い葛)も英名の honeysuckleもそこに由来する。「身動きのとれない辛さに耐えながら過ごした日々」への思いを常緑で冬を越す植物に託した題名だという。

 現代短歌の貴公子・春日井建の逝去は多くの人に悲しみを残した。杉森も例外ではなく、この歌集には師であった春日井に寄せた歌が多く収録されており、さながら挽歌集の趣すらある。その思いは真摯で悲しい。

 一滴のしずくとなりてつばめ翔ぶ青の密度の深まる五月

 少年が白球を追う空の果て 圏外という表示が点る

 コクトーの阿片に溺れる人生を疼痛として受けとめる夜

 悲しみをこの夕空にに放つなら紫陽花色に変わる日輪

 この連作は師へのオマージュであり、跋文で加藤が指摘しているように、1首目は春日井の「青海原に浮寝をすれど危ふからず燕よわれらかたみに若し」を、2首目は「白球を追ふ少年がのめりこむつめたき空のはてに風鳴る」を踏まえている。白球を追う少年は春日井であり、春日井が空のかなたに去って、後に残された弟子の携帯電話には圏外の表示が無情に点るのである。阿片はモルヒネとして末期癌患者の苦痛緩和に医療的に用いられている。また4首目が春日井のどの歌を踏まえているかは言うまでもない。

 作者は30代の半ばに、夫君が病を得て入院を繰り返すという辛い経験をした。夫を看病する自分を正岡子規を看病する妹の律に重ねて生まれたのが次のような連作である。

 入院の夫の付きおり病む子規を看取り続けし妹のように

 うっすらと色の褪せたる病衣干す せつなしわれと子規の妹

 鶏頭の赤さが零す黒き種子そのこまかさを心に蒔けり

 獺祭忌に妹としてささげよう拙き歌とあたたかきココア

 庭眺め眺めつくして死を待てり百年前の子規のまなざし

3首目の鶏頭は、当然ながら子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」という句につながる。4首目の「獺祭忌」は子規の忌日の名称。獺はカワウソである。作者は自分と夫の関係を子規と妹の関係に重ねることにより、期せずしてアララギ派の源流へと思いを馳せたことになる。もちろんここでは自らの境涯を律のそれと二重写しにすることが眼目なので、「写実」という短歌技法が焦点化されているわけではないが、病床の子規とその歌業に思いを馳せることで、作者と短歌の関係にもまた微妙な変化が生じたにちがいない。跋文で加藤も書いているように、そこに結社の磁力があるのだろう。春日井という直接の師、また子規という100年前の短詩形文学の改革者へのまなざしは、とりもなおさず過去へのまなざしである。「師に学ぶ」ことを通じて「過去に学ぶ」のであり、ひいては「過去に連なる」という感覚が生じる。杉森の歌集を読んでいると、作者が必死でその糸をたぐり寄せているように感じられる。

 この感覚は近年登場した若い歌人には希薄なものだ。若い歌人の大部分は、〈私〉と短歌形式とが直接に向き合うという構図が一般的であり、〈私〉がひとりで一行の歌に向かいあっているような心細さがある。これは短歌における一種の原理主義であり、教会と司祭の仲介を否定し、私が直接に神と向き合うとしたプロテスタントの考え方と似ている。しかし、杉森はそうではなく、泉下の師を呼び、また100年前の子規に思いを馳せることにより、自らの立ち位置の次元を拡大しえていると言えるだろう。歌集を一読して次に引くような歌が印象に残った。

 読み上げる死者の名と名は繋がれて鎖となりぬ九月の空に

 秋冷を運び来る雨見上げれば刃こぼれのごと身にかかりたり

 湯の中にさくら漬浮くしずけさに薄暮ひろがる人から人へ

 ゆうぐれに結語を書きて発ちゆかんブロンズレッドに染まりゆく文字

 捨て印のごとき口づけ交わしおり水没の街を記憶するため

「捨て印のごとき口づけ」や「湯の中にさくら漬浮くしずけさ」のような喩も魅力的で、言葉の堅さ(抽象度)と柔らかさ(感情度)のバランスがほどよく、やや前者が勝っている歌である。文体的には倒置法が効果的に用いられ、また言葉の堅さを調整するため漢字と平仮名の配分も意図的に勘案してある。

 しかし杉森のほんとうに作りたかったのは次のような歌ではないだろうかと思う。

 見下ろせばオープンセットのごとき街役を降りたい一日始まる

 いつかしら この雨音を聴いたのは わたくしを消す降り方をする

 足首から冷えてせり上がる悲しみをたたえてわれは水のレプリカ

 水のなき夏の池めく駐車場ひとり降ろされ風になるわれ

 春の空突き上げてゆくさびしさの尾にとどくまで香水振れり

 すぐ上にあげた歌群と比較して、〈私〉と私の感情がより直接的に言及されている。ここでは短歌は〈私〉を表現するための手段であり、〈私〉を盛る器である。しかしひとつ前にあげたような歌群においては逆に、短歌という短詩形式が〈私〉という場を通過することで実現されているように見える。前者の場合、短歌は〈私〉の道具であり、後者の場合は〈私〉が短歌の道具なのだ。このどちらの回路に重点を置くかによって、歌人の歩む道は大きく異なるだろう。「手にならす夏の扇とおもへどもたゞ秋かぜのすみかなりけり」という後京極良経の名歌を口ずさむと、私の中では軍配は後者に大きく上がる。

 『忍冬』を読む限りでは、杉森のなかではこの両方の道が鬩ぎ合っているようだ。第一歌集の上梓が呼び水となって作者の歩む道に変化が生じるのかどうか。気になるところである。