014:2003年8月 第2週 高野公彦
または、夜の中へと身を浸す裸形の生命者

白き霧ながるる夜の草の園に
    自転車はほそきつばさ濡れたり

           高野公彦『汽水の光』
 1941年生まれの高野の短歌は、同世代の他の歌人の歌とともに、「微視的観念の小世界」(篠弘)と批判されたことがある。「小さい私的な思念をよりどころにして」、美しいが小さくまとまりがちであり、「時代にたいする歴史的感覚を喪失しがちだ」という趣旨の批判である。篠はもちろんリアリズム短歌の視座から、批判の意味をこめて「微視的観念の小世界」と形容したのであるが、私にはこれはむしろ褒め言葉のように聞こえる。処女歌集『汽水の光』の跋文で、大岡信が「意識の夜の中へ身を浸して」おり、「内面へのかがみこみが著しい」と表現したその短歌の資質は、すでにこの時点で十全に発揮されていると言えるだろう。若い時に近親者の死を多く経験し、般若心経に親しんだという高野にとって、「すべての人間は死といふものに向かつて時間の座標の上をゆつくりと (しかし確実に) 移動してゐる裸形の生命者」(『地球時計の瞑想』) にすぎないとする認識が、歌の随所に通奏低音のように響いている。

 少年のわが身熱をかなしむにあんずの花は夜も咲(ひら)きおり

 精霊ばつた草にのぼりて乾きたる乾坤を白き日がわたりおり

 あきかぜの中のきりんを見て立てばああ我といふ暗きかたまり

 小池光は、高野の歌のエッセンスは「見立て」にあり、歌の中に俳句が一句潜んでいるというおもしろい解釈を出している(『街角の事物たち』五柳書院)。確かに掲載歌では、公園に忘れられた自転車が、翼を閉じてうずくまる鳥に見立てられている。鳥は翼を閉じて休息しているようにも見え、また濡れた翼はもう二度と羽ばたかないようにも感じられる。

 高野の見立ての極みは、次の代表歌に見られる。

 ふかぶかとあげひばり容れ淡青(たんじょう)の空は暗きまで光の器

 ここでは、ひばりが舞い上がる空が上下反転されて、ひばりを入れる容器に見立てられている。それを「光の器」と呼んだところがこの上なく美しいのはもちろんだが、空を上下反転するダイナミックな空間構成もまた見事と言えよう。このような空間構成の力業は、「精霊ばつた」では、草にとまった小さなバッタとゆっくり移動する日輪という、異常に拡大された遠近法的対比として現われている。まるで望遠カメラを使ったようなこの遠近感覚は、次の歌に顕著である。まるで宇宙空間に浮かぶ地球を人工衛星から眺めているような感覚がある。

 みどりごは泣きつつ目ざむひえびえと北半球にあさがほひらき

 次の歌は本来の意味の見立てではないが、見えないはずのものを見る感覚が新鮮である。

 夜の暗渠みづおと涼しむらさきのあやめの記憶ある水の行く

 あやめを活けた花瓶の水か、あやめの花が咲く水辺を通って来た水か、とにかく水にあやめの記憶が残るという見方は新しく清冽である。ちなみに、「水の歌」のところで触れたが、ここにも「みづ」「水」と、かなと漢字で二度同じ語が反復されている。短歌を読むと歌から歌への連想が湧くのだが、これまたついでに書いておくと、暗渠と花の取り合わせは、どうしても塚本邦雄の次の歌を連想させずにはおかない。

 暗渠の渦に花揉まれをり識らざればつねに冷えびえと鮮(あたら)しモスクワ

013:2003年7月 第4週 穂村 弘
または、真夜中に菓子パンをほおばる爆弾犯

夏空の飛び込み台に立つひとの
    膝には永遠のカサブタありき

             穂村 弘
 穂村が初めて短歌と出逢ったのは、札幌の旭屋書店で偶然に手にとった『國文學』によってだという。その中に塚本邦雄の次の歌があった。「輸出用蘭花の束を空港へ空港へ乞食夫妻がはこび」穂村はこの歌に脳を直撃されるような衝撃を受けたという(『短歌』角川書店、2002年10月号)。当時、漠然と「言葉の呪的機能」について夢想を巡らしていた穂村は、言葉がその呪的機能によって世界を変えてしまうということが現実に存在することを知った。この原体験から穂村の短歌観は発している。評論集『短歌という爆弾』(小学館)の冒頭にある「絶望的に重くて堅い世界の扉をひらく鍵、あるいは呪文、いっそのこと扉ごと吹っ飛ばしてしまうような爆弾」としての短歌という発想は、この原体験の直接の申し子なのである。

 爆弾犯は下宿の四畳半に閉じこもり、なるべく隣人と顔を合わせないようにして、孤独に夜ごと爆弾製造にいそしむ。彼が通うのは近所のコンビニであり、そこで買うのは甘い菓子パンばかりである。エッセー集『世界音痴』(小学館)を読むと、このような爆弾犯のイメージと穂村の実生活は、あまりかけ離れてはいない、いやむしろピッタリすることがわかっておもしろい。勤め帰りにスーパーに寄って、割引シールの貼られたトロの刺身のパックを手にとり、「俺の人生はこれで全部なのか?」と叫ぶくだりは、涙なしには読むことができない。

 塚本邦雄の短歌に衝撃を受けて作歌を始めた穂村が作るのは、しかし次のような歌なのである。

 サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

 ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は

 「酔ってるの? あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

 ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり

 最近の穂村は次のような歌まで作るようになった。『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(この歌集のタイトルからして相当なものだとおわかりだろう)から引用する。

 目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ ほんかくてき

 天才的手書き表札貼りつけてニンニク餃子を攻める夏の夜

 整形前夜ノーマ・ジーンが泣きながら兎の尻に挿すアスピリン

 巻き上げよ、この素晴らしきスパゲティ(キャバクラ嬢の休日風)を

 舌出したまま直滑降でゆくあれは不二家の冬のペコちゃん

 かくして山田富士郎のように、穂村を「短歌界のM君」と呼ぶ人まで現われるようになった(『現代短歌100人20首』邑書林に所収の「「歌壇」の変容について」)。M君とは、1988年から89年にかけて、猟奇的な幼児殺人事件を引き起こした宮崎勤のことである。山田が言いたいのは、幼児的全能感を肥大させたまま大人になり、社会化されなかった自我形成において、M君と穂村には共通する点があるということだろう。ずいぶんな言われようである。

 もっとすごいのもある。石田比呂志は、自分の作歌生活40年が穂村の歌集の出現によって抹殺されるかも知れぬという恐怖感を語り、「本当にそういうことになったとしたら、私はまっ先に東京は青山の茂吉墓前に駆けつけ、腹かっさばいて殉死するしかあるまい」と述べている(現代短歌『雁』21号)。今どき「腹かっさばいて殉死」とはすごい。つまりは石田は穂村の短歌を、「頭から」「完全に」否定しているのである。

 おもしろいのはこのエピソードを紹介しているのが穂村自身だという点だ。「一読してショックで頭の中が白くなった」とは書かれているものの(『現代短歌最前線 下』北溟社)、石田比呂志の激烈な批判に、穂村は反論しようとしない。むしろ自分の歌のなかに、いやおうなくはだかの自分が現われているということを、ややあきらめを込めて認めている。穂村のなかで何かが壊れていると感じるのは、このようなときである。

 とはいえ、『短歌はプロに聞け』(本の雑誌社)で、沢田康彦主宰のFAX短歌会「猫又」に投稿される素人短歌を添削する穂村の批評は冴えている。また、言葉がピシリと決まったときの穂村の短歌には、確かに本人が爆弾と呼ぶほどの起爆力があるのもまた事実なのである。

 ねむるピアノ弾きのために三連の金のペダルに如雨露で水を

 卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピン抜けば朝焼け

 限りなく音よ狂えと朝凪の光に音叉投げる七月

穂村弘のホームページ
http://www.sweetswan.com/0521/syndicate.cgi

012:2003年7月 第3週 水の歌

つつましき花火打たれて照らさるる
   水のおもてにみづあふれたり

        小池 光

 まだ梅雨が明けないが、気温はもう初夏である。夏が来ると水を感じる。夕立が来て、ほてった道路に雨が落ちると、少し日向くさい水の匂いがする。船のデッキを洗うと、木と水の混じった匂いがする。夏の思い出は、水の記憶と結びついている。

 水は地球上でもっともありふれた多量に存在する物質であり、私たちの体の70%は水でできている。水は私たちの外にも内にも等しく存在するのである。短歌でも水はさまざまに詠われていて、印象に残る歌が多い。

 掲載歌には水という言葉が二度出てくる。短歌で同じ言葉を繰り返すときには、一度目は漢字で、二度目はひらがなでというのが作歌の常套手段である。繰り返しによる単調さを避けるためであろう。しかし小池の歌では、漢字とかなのちがいにはもう少し深い意味があるようだ。『岩波現代短歌事典』でこの歌を取り上げた加藤治郎によれば、漢字の「水」は「闇のなかで意識の奥に後退していた水」で、かなの「みづ」は「花火に照らされたとき、はじめて眼前にリアルに」現われた水だという。場面はたぶん花火をしている河原か何かであり、目の前が川だとは知っていても、暗いので見えないのだ。「水」はそこにあることを私が知識として知っていたものであり、概念としての水である。しかし、花火の光が照り映えることにより、そこに目に見えるものとして「みづ」が現出する。光を反射することで、はじめて自らの存在を開示するという水の性質がそこにある。それを「水のおもてにみづあふれたり」と表現するのが、小池の短歌技法の冴えである。

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 他界より眺めてあらばしづかなる
      的となるべきゆうぐれの水

                 葛原妙子

 あちこちで引用される「幻視の女王」葛原の代表作のひとつである。水原紫苑は、水はいのちの源、生の証であり、自分がこの世に存在する事実を映し出す鏡であるため、死の国の魔手か狙う恰好の標的となると読み解いている。小池は、雨上がりの水たまりを見ているだけの歌だと、そっけない。作者自注によれば、フライパンの底に水が溜まっているのを見て思いついた歌だということだが、そこから「他界より眺めてあらば」という発想を引き出すところが、幻視の女王たるゆえんである。

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 水につばき椿にみづのうすあかり
     死にたくあらばかかるゆふぐれ

             松平修文『水村』

 偶然だがこの歌でも水は二度、それも漢字とかなの順番で現われている。おまけに椿も同じように二度登場し、今度はかな・漢字と逆の順番だから、いっそう手が込んでいる。水と椿が漢字とかなを交代しながら交錯するところに、音だけでなく視覚にも訴えるリズム感が生まれる。作者の松平は日本画家・美術評論家で、幻想的歌風を得意としているが、掲載歌には少し退廃的なはやり歌のような趣があり、一読すると忘れられない味わいがある。また上の句の「うすあかり」は、久保田万太郎の絶唱「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」を思い出させる。松平には水を詠んだ歌がたくさんあり、気に入りの題材だったらしい。自身の歌集の題名も『水村』である。そういえば、荒川洋治の詩集にも『水駅』というのがあった。『水村』からいまいくつかの歌を引く。

 水の辺にからくれなゐの自動車 (くるま)来て烟のような少女を降ろす

 床下に水たくわへて鰐を飼ふ少女の相手夜ごと異なる

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 背にひかりはじくおごりのうつくしく
         水から上がりつづけよ青年

         佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』

 この歌では水は松平の歌のように人を死に誘うものではない。プールから上がる青年の背中に煌めく水は、青年の生命力を輝かせるものである。水は器の方形に従うというが、場面によって死の象徴とも生のシンボルともなる。人は水から上がり続けることはできないのだが、この歌のようにそう命令されてしまうと、まるで録画の同じ場所を何度も再生して見ているような錯覚を起こすところがおもしろい。

 *   *   *   *   *   *   *   *

 最後にこれも美しい水の歌を。ここでも水という言葉が二度使われていて、ここまで来るととても偶然とは思えない。水にはそのような歌い方を誘う何かがあるのだろうか。

 水風呂にみずみちたればとっぷりと
        くれてうたえるただ麦畑

              村木道彦『天唇』

水風呂が一杯になり、外には夕暮れの麦畑が拡がっているというそれだけの光景を詠んだ歌だが、静かな童話的とも言えるリズム感が残す印象には忘れがたいものがある。名歌と言えよう。この歌は村木の歌壇デビューとなった『ジュルナール律』第3号(1965)に掲載された「緋の椅子」10首に含まれていた歌である。

011:2003年7月 第2週 小中英之
または、薔薇園にただよい続ける魂の蝶

黄昏にふるるがごとく鱗翅目
   ただよひゆけり死は近からむ

       小中英之『わがからんどりえ』
 2000年6月に刊行された『現代短歌事典』(三省堂)の小中英之の項目には、1937年生まれとあり~の右側は空白である。この記号は存命中を意味するが、この記述はもう正確ではない。小中は2001年暮れに、虚血性心不全で他界しているからである。自宅玄関で死後2日目に発見されたという。

 第一歌集『わがからんどりえ』は1979年著者が42歳の年の刊行であるが、すでにここには死への思いが充満している。小中は若い頃から不治の病に冒されていて、宿痾との戦いのうちに短歌は生まれた。俗に宗教に入信する動機は「生病老死」であるという。生きることに戸惑い、病に苦しみ、老いを恐れ、死を間近にすると、人は神を求めるようになるということだろう。不思議なことに短歌を作る動機もまた同じであるように私には思える。「文学は死を胚胎している」と述べたのは、モーリス・ブランショだが、短歌と死は双子の兄弟のようによく似ている。掲載歌の、黄昏にふらふらと力なくただよう蝶は、身内に確実な死を抱える小中が自分自身を見つめる目に他ならない。

 月射せばすすきみみづく薄光りほほゑみのみとなりゆく世界

 氷片にふるるがごとくめざめたり患むこと神にえらばれたるや

 螢田てふ駅に降りたち一分の間にみたざる虹とあひたり

「螢田」の歌は小中の代表作とされている歌で、『現代短歌事典』(三省堂)も、篠弘・馬場あき子編『現代秀歌百人一首』(実業之日本社)もこの歌を引いている。地名に織り込まれた螢といい虹といい、小中の視線ははかなく消えるものに向けられる。その視線の透明さ、言葉遣いの端正さにおいて、小中は現代歌人の中でも群を抜いている。

 刈られたる男の髪の燃えつきて夜の集落に理髪店閉づ

 射たれたる鳥など食みて身の闇にいかばかりなる脂のきらめくや

 夕かげるまでを雀の群ありてあな内向の一羽際立つ

 身内に宿痾を抱える小中の目に映るものは、すべて自己の内面の表象へと転じる。歌に詠まれた事物は、事物であって事物ではない。それは自己の内にあるものが外へと転じたものである。

 今年の3月に、第一歌集『わがからんどりえ』、第二歌集『翼鏡』以降の小中の歌をすべて収めた遺稿集『過客』(砂子屋書房)が刊行された。歌の仲間であった辺見じゅんが巻末に思いのこもった文章を寄せている。辺見が中国旅行に発つ前日に、小中は薔薇の花を持って辺見宅を訪れたそうである。これから旅行で留守にするのに花はもったいないと言うと、小中は「花は帰ってきたときに待っていてくれるよ」と言ったという。辺見が中国から帰って来ると、確かに花はまだしおれずに待っていたが、小中は帰りを待たずその間に不帰の客となったという。

 芹つむを夢にとどめて黙ふかく疾みつつ春の過客なるべし

 むらぎもに含むくすりを毒として存在理由ゆふぐれにけり

 朝顔に終ひの花咲き巡礼の鈴の音にも秋深むなり

010:2003年7月 第1週 松村正直
または、現代の一所不住の短歌は西へ東へ

あなたとは遠くの場所を指す言葉
      ゆうぐれ赤い鳥居を渡る

         松村正直『駅へ』
 「山のあなたの空遠く」で知られるように、日本語のア系統指示詞は遠称であり、遠くを指す言葉である。それはいいのだが、作者は「赤い鳥居を渡る」と言う。鳥居はふつう「くぐる」もので、「渡る」のは橋である。とするとこの歌では鳥居が、こちら側とあちら側を結びかつ隔てる橋と捉えられていることになる。ゆうぐれという逢魔が時に鳥居を渡るというのは、作者があちら側に行くということであり、そこに非日常的な不思議な空気が流れるのである。

 処女歌集『駅へ』(ながらみ書房,2001年)の「あとがき」によれば、作者は22歳のときに「いろいろな町に住んでみたい」と思い、東京を離れて北海道から九州までフリーターをしながら転々と移り住んだという。放浪歌人の種田山頭火は乞食坊主となって各地を流浪したが、現代版の一所不住はフリーターという生き方を選ぶのである。収録された歌のなかには、しがらみのない一人暮しの自由さと淋しさが詠われている。しかし、ここには山頭火のような壮絶さや悲愴感はなく、あくまで淡々としている。

 二年間暮らした町を出ていこう来た時と同じくらい他人か

 温かな缶コーヒーも飲み終えてしまえば一度きりの関係

 天井の広さすなわちこの部屋の広さ どこに何を置こうが

 波音に眠れないのだ街灯が照らす私も私の影も


この歌集のいちばんの特徴は、ほぼ制作順に歌が並べられている点である。だから歌集を繙く読者は、作者の作歌態度と短歌技法の深化と同時に、作者をとりまく人間関係の変化もまた感じ取る仕掛けになっている。初めのうちは孤独の影が深かった歌の世界にも、少しずつ「他者」の匂いがするようになる。

 君の手の形を残すおにぎりを頬張りたいと思う青空

 ああ君の手はこんなに小さくてしゃけが二つとおかかが三つ

 君がもうそこにはいないことだけを確かに告げて絵葉書が着く

やがて作者は「結婚しない・就職しない・定住しない」という誓いを破り、結婚することになる。ただし同居はしない結婚のようだ。まだ他者のいる世界に踏み込むことができないのである。

 君の住む町の夜明けへ十二時間かけてフェリーで運ばれて行く

 主食にはなりそうもない品々がままごとのように並ぶ食卓

 ぼくたちやがて一緒に暮らすだろうそれがいつかと君は聞くけど

歌集の最後に近くなって、作者がなぜ意図的に一所不住の人生を選択したかが明かされるのだが、推理小説のネタばらしのようになるので、ここには書かない。一見すると気楽なフリーターという生き方を選んだ現代のどこにでもいる青年のように見えるが、実は心に重いものを抱えていたのだということが最後にわかる。

 もういくつか気になった歌をあげておこう。

 自転車が魚のように流れると町は不思議なゆうやみでした

 ゆうぐれは行方不明の道ばたのくぼみに残る昼間の光

 大地深く降り沈む雪軽さとは軽い重さのことでしかなく

 夢かたり終えれば妙に寒々と梅酒の梅が露出している

歌集のなかには「ゆうぐれ」「ゆうやみ」の歌が目につく。孤独と寂寥を一日のうちで最も身に染みて感じる時間だからか。しかし、作者はそれもあくまでライトに淡々と詠うのである。平井弘、村木道彦らに始まり、俵万智の成功で燎原の火のごとく短歌界に拡がったライト・ヴァースは、放浪歌人の歌にもその影を落としているのである。
 

009:2003年6月 第4週 住宅顕信
または、人生の究極のミニマリスム

ずぶぬれて犬ころ

     住宅顕信
 「画家の長命、詩人の短命」という言葉がある。確かに画家には長生きの人が目に付く。105歳で亡くなった小倉遊亀は別格として、秋野不矩は享年93歳、富岡鉄斎88歳、ピカソ92歳、平櫛田中は彫刻家だが107歳、梅原龍三郎98歳、面構えシリーズで有名な片岡珠子は98歳で存命のはずである。一方、詩人はというと、ラディゲの20歳を筆頭として、立原道造が25歳、石川啄木が26歳、中原中也が30歳、津村信夫が35歳である。確かに夭折という言葉は詩人という言葉と相性がいい。

 歌人はどうだろうか。『現代短歌事典』(三省堂)のコラム「高齢歌人列伝」によれば、歌人は長生きということになっていて、藤原俊成の数えで91歳、佐佐木信綱91歳、土岐善麿94歳、土屋文明100歳、斎藤史92歳となかなかすごい。もっとも歌人のなかにも、杉山隆18歳(転落死・自殺?)、岸上大作21歳(自殺)、坂田博義24歳(自殺)、安藤美保24歳(転落死)、相良宏30歳(結核・心臓神経症)、中城ふみ子32歳(乳ガン)、小野茂樹34歳(事故死)と夭折歌人がいないとは言えない。古典和歌は別として、現代短歌は「悲劇性」と無縁であるどころか親和性が強いのだが、今回は短歌ではなく俳句を取り上げたので、この点には触れない。

 昨年だったか、俳句の大きな賞を受賞した30代の女性が新聞で紹介されていた。インタヴューで「俳句を始めたきっかけは」と訊ねられて、「俳句をやると長生きするからと叔母さんに勧められて」と答えていて、思わず笑ってしまった。確かに俳句をひねる人というと、宗匠帽などかぶった高齢の人が目に浮かぶ。小林恭二が「俳句と悲劇」という短文を、「俳句という文芸は一般にあまり悲劇と関係がないと思われている」という一節で初めているのは、そのような一般に流布したイメージを前提としてのことである。ところが、小林によると俳句と悲劇が無縁なわけではなく、新興俳句と自由律俳句はけっこう悲劇まみれだというのである。新興俳句では西東三鬼ら京大俳句会の人たちが戦時中弾圧を受けたことがある。自由律俳句では、「分け入っても分け入っても青い山」の種田山頭火と、「咳をしても一人」の尾崎放哉のふたりが世捨て人同然の壮絶な人生を送ったことがよく知られている。

 さて住宅顕信(すみたく けんしん)である。10代はツッパリ不良、16歳で年上の女性と同棲、22歳で出家得度して結婚、23歳で白血病を発病、離婚して子供を引き取り病室で養育、25歳で病死した人である。その人生は劇的の一言に尽きる。この経歴を一度知ってしまうと、頭から離れなくなる。顕信の俳句を読むときに、この経歴を離れて読むことはどうしてもできないのである。

 顕信は白血病を発病し入院生活を送るようになってから、俳句を始めた。尾崎放哉に心酔して自由律俳句を作ったが、病がその筆を奪うまでの句作期間は2年に満たない。掲載句「ずぶぬれて犬ころ」は代表作とされている一句である。

 句集のなかには闘病生活を詠ったものが多い。

 レントゲンに淋しい胸のうちのぞかれた

 洗面器の中のゆがんだ顔をすくいあげる

 夜が淋しくて誰かが笑いはじめた

 降り始めた雨が夜の心音

しかし、病気という個人的悲劇を離れて、普遍性を持つ句もまた数多い。そこに淋しさの影が色濃く感じられるのは無理からぬことである。胸を打つ句がある。

 若さとはこんなに淋しい春なのか

 月が冷たい音落とした

 影もそまつな食事をしている

 捨てられた人形が見せたからくり

 俳句は省略の芸術である。短歌とちがって、一句にできるだけたくさんのことを盛り込もうとはしない。逆にいらないものを削ぎ落とそうとする。この句作上の技法が人生に投影されるとき、一切を捨てて放浪の旅に出るという生き方に逢着するのだろうか。人生のミニマリスムである。自ら望んでそのような生き方をした山頭火と放哉、そのような生き方を強いられた顕信が、ともに自由律俳句という形式を選んだのは偶然ではあるまい。文学としての形式が短ければ短いほど、実人生と作品の距離は縮まり、ついには同一化するに至るのである。

 このミニマリスムに徹すると、時として次のような幸福感に満ちた句に出逢うのだろう。ここには突き抜けた先にある無を見つめて肯定する目がある。

 お茶をついでもらう私がいっぱいになる

 何もないポケットに手がある

没後2年たって1988年に句集『未完成』(彌生書房)が刊行される。私はある日、偶然丸善で手に取った『住宅顕信読本』(中央公論新社)でその存在を知り、一読して衝撃を受けた。聞けば今でも命日には顕信を愛する人たちが集まって法要を行なっていて、生地岡山には句碑も建てられたという。

 最後に句碑にも刻まれた代表作。

 春風の重い扉だ

008:2003年6月 第3週 紀野 恵
または、言葉の織りなす世界への信頼

文に代へ碧瑠璃(へきるり)連らね贈り来し
       人によ夏の氷(ひ)の言葉遣る

             紀野 恵『架空荘園』
 蒸し蒸しする梅雨時を迎えたので、すがしい歌を一首。手紙のかわりに贈られて来たのは、ブルーのガラスでできたネックレスだろうか。ブルーという色も、瑠璃という語感も爽やかである。贈ってきたのは男性にちがいない。ところが受け取った本人は、「夏の氷の言葉」を返すという。夏の氷のように冷たい言葉というほどの意味か。短歌は「私性の文学」であり、主語が明示されていなくても、それは「私」に決まっている。この歌の「私」は、男性のファンと思われる人から贈り物を貰っても、氷のようにつれない言葉を書き送る驕慢な女性なのである。やすやすと異性になびかない誇り高さと、語法の古典的な高雅さの相乗効果が、クリスタルのような硬質の世界を作り出している。作者紀野恵の短歌世界を代表する歌である。

 紀野は1965年(昭和40年)生まれ。小池光・今野寿美・山田富士郎編『現代短歌100人20首』(邑書林)は、現代を代表する歌人100人を選び、生年順に並べるといういささか残酷な編集方針で作られたアンソロジーであるが、最年少の永田紅から最年長の浜田康敬までが並ぶなかで、紀野は前から14番目に位置している。若いのである。しかも、1982年で角川短歌賞次席に選ばれたのが弱冠17歳で、デビュー当時から天才の名を欲しいままにした人である。

 紀野の短歌の特徴は、年齢とは不釣り合いな新古今風の王朝的古典語法と、他に類を見ない歌柄の大きさである。

 あづま路は遠しさもあれこの度の内つ海さへ越えぬ夢路は

 約せしはあぢさゐ色の絵空事絵日傘さしていづちに行かむ

 片肺のすこし翳れる秋よそれ空を斜めに見てをりたるは

 傾けむ国ある人ぞ妬ましく姫帝によ柑子差し上ぐ

 白き花の地にふりそそぐかはたれやほの明るくて努力は嫌ひ

岡井隆は、紀野の天才を認めつつも、古典語法を駆使あるいは濫用する紀野ら「新古典派」をさして、「現代の奇景」(『現代百人一首』)と評した。塚本邦雄もまた、「警戒すべきは、稀用古語を頻用することと、そのための古典臭とも言うべき癖であろう」(『現代百歌園』)と苦言を呈しているのだが、紀野はそんな批評にまったく頓着せず、自らの路線を邁進しているところが確信犯的である。

 60年代後半から70年代にかけて登場した紀野の上の世代の男性歌人たちが、「微視的観念の小世界」(篠弘)に拘泥して「内向の世代」と呼ばれたのとは対照的に、紀野の短歌世界は「矮小化された私」にこだわらない大きな広がりを感じさせる。

 檸檬(リモーネ)が滴り白布薄染みをかこちがほなる夏ゆふまぐれ

 凍てし夜のふねにはりはり食みゐたる春菊サラダ薄く苦き生(よ)

 夢ぬちに繊月懸かりゐたりけり不確かに橋渡るありけり

『現代短歌100人20首』では、取り上げた歌人に「作歌信条を30字以内で書く」ことを求めていて、これがなかなか面白い。最年少の永田紅の「定型を信頼して作りつづける」という初々しいが優等生的なものもあれば、小池純代の「歌わなければからだにわるい」とか、小池光の「信条、そういうものはない」のように人を食ったものもある。一筋縄ではいかない人たちである。かと思えば村木道彦の「神も思想も信じない現代人の、人間自体に対する祈りが歌である」というしみじみしたものもある。紀野は、「言葉それ自体の持つ意味(世界の意味)をつかまえること」という言葉を信条として寄せている。ここには、「言葉それ自体の持つ意味」イコール「世界の意味」であるという、絶対的とも言える言語に対する信頼が感じられる。おそらく紀野にとって短歌とは、現実を写生するものではなく (アララギ派的リアリズムの否定)、日々の喜びや悲しみを託する器でもなく(反生活実感、私小説としての短歌の否定)、言葉によって世界を作り出す方法論なのである。

 最後に私が特に好きな歌をあげておく。

 ポケットに煙草を探す路地裏に点すときわづか掌のうちは聖

 天蓋はただいちにんのために在る花折る人の孤絶のために

 神も死にたまふ夜あらむ夏が死ぬ夕暮れ吾れは鳩放ちやる

 うるわしきそらとふものもあるものを黄金(くがね)の水をくみたまへまず

 わがうへに夏在るや今うたがひは青蕣(あさがほ)の如く発(ひら)かむ

 わうごんの花びら漬くる酒を賜べ半地下室にまよふ夕光(ゆふかげ)

紀野は夏の歌を作るときに、特にその技が冴え渡るような気がする。

007:2003年6月 第2週 福島泰樹
または、逝きし者たちへの絶叫挽歌

あじさいに降る六月の雨暗く
     ジョジョーよ後はお前が歌え

              福島泰樹
 古典的和歌の世界には、「歌枕」というものがある。古くから和歌に詠まれることによって、高い象徴性を獲得するに至った地名・景物である。吉野、近江、逢坂山、水無瀬、竜田川などがそれであり、こういった名は強いイメージ喚起力を持つ。明治以降の短歌革新運動は、個の自己表現という近代的命題を掲げたため、歌枕のように和歌の伝統的遺産に寄りかかった技法は、意識的に避けられて来たと言ってよい。
 しかし、短歌は極端な短詩形文学であり、31文字による一首はそれだけで自立した表現になることは難しく、外側に拡がるものと接続することで喚起力を増幅する。だから歌に力を与えようとするならば、現代短歌でも歌枕に頼ることになるのである。
 地名に歌枕があるように、季節にも歌枕がある。現代短歌で季節の歌枕の代表は、なんといっても六月と八月である。八月は言うまでもなく終戦と原爆の記憶と結びついている。六月は1960年の安保闘争で、この国民的大事件は樺美智子と岸上大作というふたりの聖者を生んだことで伝説と化した。

 掲載歌以外にも、現代短歌には六月を詠んだ歌は多い。

 六月の雨は切なく翠なす樺美智子の名はしらねども (福島泰樹)

 女ひとり殺せぬおれに六月の雨は不憫にワイシャツ濡らす (福島泰樹)

 こころなきものも殴たれよ六月の嵐のなかのひるがほ揺るる (伊藤一彦)

 六月の雨はとりわけせつなきを粗大ゴミなるテレビも濡らし (藤原龍一郎)

 福島の二首目は、安保闘争の挫折のなかで、1960年12月5日にブロバリン150錠を服用したのち縊死した岸上大作の「血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする」を踏まえたものであろう。
 1943年生まれの福島は、60年安保の年には17歳であり、安保闘争には参加していない。彼が参加したのは1966年に始まる早稲田大学の学園闘争である。その体験が『バリケード・1966年2月』(1969年)として結実し、福島は現代歌人のなかで独特の地歩を占めるに至った。

 眼下はるか紺青のうみ騒げるはわが胸ならむ 靴紐結ぶ

 樽見 君の肩に霜ふれ 眠らざる視界はるけく火群ゆらぐを

 ここよりは先へ行けないぼくのため左折してゆけ省線電車

 ちなみに「紺青のうみ」とは本当の海のことではなく、当時「青ガラス」とも呼ばれた機動隊の制服の青のことである。バリケードで封鎖した建物の屋上から下を見下ろしている光景を詠んだものである。『バリケード・1966年2月』所収の短歌は、いずれも熱い血潮のたぎる男の歌であり、花鳥風月を詠む伝統的短歌世界にはない、独自の抒情を作り出している。ひと言で言うならば、近代的ルサンチマンの短歌と言えるだろうか。しかし岡井隆は、この歌集が出版された頃にはもう左翼闘争の政治的結末はすでについていたのであり、「私たちは、福島のいかにも口当たりのよい闘争歌に、自分たちの反体制的気分の代弁者を見いだそうとした」と苦い回想を漏らしている(『現代百人一首』)。
 福島はその後、友人や先輩歌人・小説家らとの惜別を軸に、死者になりかわりその無念を詠うという独自の方法論を確立した。以後福島の歌はすべてが挽歌であると言われる所以である。

 みな行った茂樹も君も花あらし雪の電車を待つことはない

 薔薇色の骨に注ぎぬ美酒すこし黒鳥館に春の雪降れ

 あおぞらにトレンチコート羽撃けよ寺山修司さびしきかもめ

 とうとうと水は流れて長門狭 蘆溝橋の灯やゆらめきやまず

 さらばわが無頼の友よ花吹雪け この晩春のあかるい地獄

 一首目の茂樹は1970年に事故死した歌人の小野茂樹。二首目は中井英夫への挽歌で、黒鳥館とは中井の号であり、「美酒」「骨」も中井好みの語彙である。三首目は言うまでもなく寺山で、「トレンチコート」と「かもめ」がキーワード。四首目は「長門狭」から知れるように中原中也。最後は飲み友達であった『地獄は一定すみかぞかし』の石和鷹への挽歌である。福島はこのように友人先輩との惜別を詠い、その人になりかわって果たせなかった無念を詠うことで、短歌に古代的呪文としての特性を回復させ、短歌に他に類を見ない訴求力を与え、同時にみずからはイタコと化したと言えるのではないか。
 まだイタコ化の一歩手前の歌を一首あげておく。

 君去りしけざむい朝 (あした) 挽く豆のキリマンジャロに死すべくもなく

この歌枕はもちろんキリマンジャロである。ヘミングウェイが雪のキリマンジャロ山頂で死体となっているヒョウの雄々しい姿に自らの理想を仮託したように、福島はヒョウにはなれない自分を見つめて朝の苦いコーヒーをすするのである。
 しかし、このように現代短歌にも豊かに用いられている歌枕はどれくらい生き続けるのだろうか。今の若者でヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』を読んだことのある人がどれくらいいるだろうか。私は大学教師をしているので、授業中にかつて世界文学全集に収録されていたような書名が出てくると、読んだことがあるかどうか学生に聞くことにしている。先日は『日はまた昇る』が出てきたので聞いてみたら、50人ほどいるクラスで誰一人読んだことのある学生はいなかった。「スペイン内戦のことを描いた小説ですね」などとボソボソと説明したが、「スペイン内戦」すら理解してもらえたかどうか心許ない。短歌における歌枕は、案外このあたりから崩壊していくのかも知れない。

006:2003年6月 第1週 本上まなみ
または、癒し系のへもへも短歌

つゆくさで色水つくって遊んだよ
      明け方の空の涙みたいな

            鶯まなみ
 今の日本で短歌人口はどれくらいいるのだろうか。短歌や俳句のような伝統文芸は、「隠居の文芸」とか「オジサンの余技」と見られやすいが、この固定観念は現実を正確に反映していないようだ。若い女性を中心に短歌を作る人がどんどん増えているのである。加藤治郎、穂村弘、萩原裕幸が開設している「電脳短歌イエローページ 」のリンク集を見ると、インターネットで短歌のホームページを開いている人が無数にいる。このように若い女性が短歌を作るようになったのは、何といっても俵万智の『サラダ記念日』(1987年)のいわゆる「サラダ現象」がきっかけだろう。サラダ世代とそれ以後の女性がどのような短歌を作るかは、例えば『ハッピーアイスクリーム』の加藤千恵杉山理紀のページを見ればよい。そこに掲載されているものを短歌と見なすかどうかの判断は、人によるだろう。また、『短歌研究』は平成12年に創刊800号記念として「うたう」作品賞を募集したが、募集要項を「別冊フレンド」「ホットドッグ・プレス」に掲載したというところが象徴的である。ちなみに作品賞受賞者は22歳の盛田志保子である。

 さて、掲載歌である。「鶯まなみ」とは、女優本上まなみが短歌を作るときの筆名である。本上まなみはなかなか筆の立つ人で、女性誌にエッセーと短歌を書いており、それらの文章は『ほんじょの虫干し』(学研)、『ほんじょの天日干し』(学研)、『ほんじょの鉛筆日和』(マガジンハウス)の3冊の本にまとめられている。私は全部買って読みました。ファンなのです。といっても女優としてのファンなのではありません。そりゃ確かに、野沢尚脚本・木村拓也主演のドラマ「眠れる森」も見ましたし(本上まなみサンはユースケ・サンタマリアに殺される可哀想な役だった)、先日まで放送されていた「恋はバトル」も見ました。同時に放送されていたNHKの飛脚屋ドラマの方は敬遠しましたが。

 しかし、私がファンであるのは、女優としての演技力ではなく、彼女の人柄である。東京の流行スポットよりも、巣鴨のとげ抜き地蔵商店街がお気に入りで、散歩と野良猫観察が日課というそのホンワカとした人柄です。彼女の短歌は、本人の人柄をそのまま反映しているところに味わいがある。

 びいどろをぽっぴんぽっぴんふきました帰りまぎわのくろくもの下
 今となりゃ《つかまされたか》とも思う大きいだけのへろへろかいめん
 桜並木ももいろサンゴが手を振った様に見えたよメガネかけねば
 そういえばおふろあがりのうちの犬ソラマメのにおいに似てた
 妹とケンカしてても庭にでてまめくじ見せれば勝ったも同然

 本上まなみが短歌を作るようになったのは、編集者である沢田康彦が主催するFAX短歌会「猫又」に誘われたのがきっかけのようだ。「猫又」というのは、主宰の沢田がお題を決めて、会員が作った短歌をFAXで寄せるという形式の会で、漫画家吉野朔美やプロレス評論家ターザン山本も会員という集まりである。その成果は『短歌はプロに訊け』(本の雑誌社)にまとめられている他、角川書店のPR誌『本の旅人』に断続的に発表されている。穂村弘と東直子が選者になって、寄せられた短歌にコメントしている。単なるお遊びの会かと思えば、けっこう真面目に取り組んでいるところがおもしろい。短歌は極端に短い形式なので、自立して意味を発信することが難しく、公共の場での選歌と解釈という過程を経て、他人の目をいったん通すことによって、その意味と価値が確定するという側面がある。「猫又」の座談会を読んでいるとそのことがよくわかる。

 サラダ世代以降の、特に若い女性の短歌に見られる特徴は、作歌の姿勢としては「ブンガクを気どらない」「人生を賭けない」という淡いノリであり、作歌の技法としては「徹底した口語の使用」「ひらがなの多用」という日常性である。だから次のような、日記とも手紙ともつかない歌が生まれることになる。

 あの人が弾いたピアノを一度だけ聞かせてもらったことがあります (加藤千恵)

 この変なドキッという感じの衝撃は巨大イカを知った時と似ている (脇川飛鳥)

 今すぐキャラメルコーン買ってきて そうじゃなければ妻と別れて (佐藤真由美)

いずれもその筋では有名な素人歌人で、歌集も出版されている。特に最後の佐藤真由美のキャラメルコーンの歌は、「名歌」の誉れ高い。穂村弘はこのような作歌傾向を「棒立ちのポエジー」と呼んでいるが、この場合、「棒立ち」とは短歌的技巧や修辞とは無縁というほどの意味だろう。どこか少女漫画のような、あるいは少女の日記のような、文学的昇華を経ない垂れ流し的つぶやきが、なぜ定型としての短歌形式を必要とするのか、不思議と言えば不思議なことである。

005 : 2003年5月 第4週 浜田 到
または、硬質の抒情による幻想世界

白昼の星のひかりにのみ開く扉(ドア)、
       天使住居街に夏こもるかな

               浜田 到『架橋』
 浜田は1918年 (大正7年)生まれの開業医で、1968年 (昭和43年)往診中に不慮の事故で死亡。享年49歳。リルケの詩に傾倒し、浜田遺太郎の筆名で詩人としても作品を発表しているらしい。歌集は死後遺稿をまとめて出版された『架橋』が唯一である。1951年(昭和26年)に『短歌研究』誌のモダニズム特集で、塚本邦雄と並んで世に出た。塚本や岡井とはちがって、その後の前衛短歌運動の積極的な担い手とはならず、歌壇とは距離を置いていたせいか、現在では話題にされることの少ない歌人である。

 浜田は、形相と存在をめぐるリルケの形而上学的詩の世界を、短歌に導入したと言われることがある。時に危ういほどの繊細な詩想のふるえには独特のものがあり、一度読んだら忘れることができない。掲載歌の「白昼の星のひかりにのみ開く扉」は、不可視の天上世界への魂の希求であり、「天使住居街」の表現はそれ自体が異様に美しい。塚本邦雄はかねてより、日本で最も美しい地名は、京都の中心街にある「天使突抜」だと述べているが、語感において一脈通じるところがある。事実塚本は、浜田の短歌世界を評して、「まさに硝子、いなクリスタルを思わせる、絢爛たる死の予感で満たされて」おり、「繊細無比の感性のきらめきは、宇宙的広がりを持つ」(『現代百歌園』)と賞賛した。そのとおり、浜田の短歌は現実を越えた眼に見えない世界への憧憬と、死の予感に満たされていて、夭折という年齢ではないが不慮の事故死という最後は、彼の作り出した詩の世界の完遂のようにも感じられるのである。

 星は血を眼は空をめぐりゆく美しき眩暈のなかに百舌飼はむ
 硝子町に睫毛睫毛のまばたけりこのままにして霜は降りこよ
 ふとわれの手さえとり落とす如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ
 刻々に睫毛蘂なす少女の生、夏ゆくと脈こめかみにうつ
 死に際を思ひてありし一日のたとへば天体のごとき量感もてり

 浜田を推挽して世に出したのは、当時『短歌研究』の編集を担当していた短歌界のフィクサー中井英夫である。中井は、「これらの作を得て、私はようやく戦後短歌の、必要ではあったけれども一つの間違った方向、すなわち「意味の追求」から短歌が解放されたのを感じた」(『黒衣の短歌史』)と述懐したが、当時の短歌界の反応は冷淡だったという。確かに、ボッチチェリの絵が比類のない繊細な絵画世界を作り上げながら、その後の西欧絵画の歴史から見ると傍流に終わったように、浜田の短歌が示した世界は浜田ひとりのものに終わる運命のようにも見える。それほど孤独の影が深いのである。そこから、「彼を歌人といい切ってしまえるのかどうかためらわれる」(『現代短歌事典』の水原紫苑執筆項目)という感想も出てくるのだろう。

 おもしろいことに、最近出版されたばかりの篠弘編『現代の短歌100人の名歌集』(三省堂)は、浜田を黙殺している。編者の篠弘の師は窪田章一郎であり、窪田は短歌における「生活実感にもとづくリアリズム」とやらを提唱した人である。浜田の短歌世界が、このような短歌思想からは最も遠い地点に成立していることが、篠に黙殺された理由であろう。

 が、そんなことはどうでもよい。生よりは死を、昼よりは夜を、太陽よりは月を、長調の音楽よりは短調の音楽を、コーヒーよりは紅茶を、イヌよりは猫を、声高に叫ぶ芸術よりはささやくように低くつぶやく芸術を愛好する、メランコリー親和気質を持つすべての人は、私を含め、これからも浜田の短歌に心のふるえを感じるにちがいない。