196:2007年4月 第1週 大谷雅彦
または、発光する自然に中に自己を沈潜させる歌

苦しみて花咲かすべし夕闇の
     なか垂直に木蓮光る
       大谷雅彦『白き路』

 大谷が1976年(昭和51年)に第22回の角川短歌賞を受賞したとき、まだ高校生ということで話題になったという。高校生でありながら文語を駆使した文体と静謐な内容におおかたは喫驚し、選考委員の一人の片山貞美は「歌がどうも明治時代に帰っているようなところがあるんですね。(… )汚れていない。これは今の世の中ではちょっとめずらしいんじゃないか」と評したという(『短歌』平成16年10月号の特集「角川短歌賞50年のすべて」)。新聞でも大きく報じられ、この頃から短歌賞の受賞が社会的事件として取り上げられるようになった。しかし大谷は「短歌人」に拠りながら歌作を続けるも、1995年に『白き路』を上梓するまで歌集を持たなかった。角川短歌賞を受賞した「白き路」は歌集巻末に収録されている。

 かなかなとしみ入るこゑをあげながら杉生の中に蝉ひそみをり

 谷あひのもろ田をわたる水の音はけふ里人の壺にありたり

 水近き匂ひがありて幽かなる馬のひづめの音のみ聞ゆ

 確かに高校生が作るにしてはあまりに正調古典派で、老成感すら漂う作風である。しかしそれより驚くべきは、20年の長きにわたって大谷がその作風をほとんど変化させていないという点にある。

 『白き路』は勅撰和歌集の部立にならい、「春」「夏」「秋」「冬」「戀」「雑」という構成を採っており、「挽歌」を欠くが、あとがきに「歌集全体がひとつの挽歌である」と記されている。ここにも大谷の古典志向がよく現れているが、それは単に構成上のことではない。通読して私が強く感じたのは、歌のをちこちに漂う「湿り気」である。大谷が歌に詠む題材は自然、なかでも樹木と花であり、それは東アジアのモンスーン気候に位置する日本の湿潤な自然である。

 樹の中を水のぼりつつ冷えてゆく泪のごとく花ひらきたる

 さくらばな水にうつりてうすあをし言葉をしまふ夕暮れに似て

 さみだるる夜の湍ちをのぼりこし螢をすくへ歌のはじめに

 湖に生るる雲あつかりき明るめる底ひかすかに雪をふふめる

 やはらかに柳しだるるゆふまぐれ花咲きてのち人はありしか

 水底に水なきごとく陽は差して魚浮かびつつしばし華やぐ

これらの歌のどれにも溢れんばかりの湿潤な自然がある。地には水溢れ、空より雨・雪が降り、樹木はたっぷりと樹液を湛えている。それは欧州のような乾燥し厳しく人を拒む自然ではなく、人を包み込み人と融合する自然である。このような自然の中への自己溶解を通じて自己浄化を希求する態度は、古典和歌の時代から歌という器を用いて行なわれてきたことである。この態度から生まれるのは葛藤と煩悶の短歌ではなく、観照と慰藉の短歌である。

 自己浄化を希求する視線の先にあるのは、あるがままの自然ではない。視線に捉えられたというまさにその一点により、自然は知覚者の心に映じた自然となる。そして大谷の視線が捉える自然は、自らの光で発光する自然である。

 ふりしきる三月の雨一切の光を閉ぢて櫻樹てるを

 夜となりて時雨重なる菜の花の黄のかぎりより光湧きくる

 きざはしのかなたに光りゐるものを花と呼びたるあなたのために

 降りしきる朝の時雨に打たれつつ森あり徐々に光りはじめぬ

 光りつつわれの渚に降る時雨かそけく降れば人見つらむか

『白き路』は「光の歌集」と呼んでもよいくらいに、発光する自然に満ちている。この自然に見入るとき、作者の自己の輪郭はぼやけてゆき、言葉を失うのである。

 合歓の花咲きさだまりて夕べふかし輪郭あはき言葉を放つ

 雲みちて雲明るめるはるかなる空にかへさむ人も言葉も

 大谷の短歌を論じるとき、三枝昂之が「規範としての定型詩 ― 短歌表現の現在性をめぐって」と題された文章で行なった厳しい批評に触れないわけにはいかない(『現代定型論 気象の帯、夢の地核』所収)。三枝は「なぜ今短歌形式を選び取っているのか」という根源的問いかけを基盤として、「安保粉砕とか、東大解体とか、革命的恋とか、そんな言葉が一つ一つ風化していって、何のデコボコもない言葉の情況の中で、歌人たちが言葉を歌に高めようとして使う短歌の定型を、どのように使っているか」という情況論的問いかけを発する。そして次の3首を引用して、「詩人の詩的力量と史的体験の一回性がびったりと結合されて成立した作品」であると高く評価する。

 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す  宮柊二

 装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている  岸上大作

 運動部・民青・明日・機動隊 旗棹のさき尖鋭に研ぐ  福島泰樹

そして三枝は大谷の「白き路」の巻頭2首を引用し、次のように評している。

 あらくさの最中に光る泉あり春のひかりの在処と思ふ

 白樫の枝に崩るる残雪のかそけくなりて春たつらしも

 「ただただ見事な短歌的措辞と、ただただ見事な短歌的秩序である。ここには歴史的な時間の切れっ端が全くないだけではなく、生活とか日常性とか、作者の思想の独自性とかも見事に消し去られて、定型詩短歌のモデルコースとしての自然観と定型観とその措辞があるばかりである。」

 なかなか厳しい批評である。三枝は続けて「ある絶対的な規範を短歌に見出して、その定型観や自然観の中に自己を溶解してゆくという光景」は、「時代との軋轢を喪ったとき、歌人はこのような形で短歌に敗れはじめた」ことの徴候だと断じている。

 三枝がなぜここまで激越な言葉で大谷の短歌を批判したかを理解するには、いささかの歴史的回顧が必要となろう。三枝がこの文章を『かりん』に掲載したのは、1979年(昭和54年)1月である。三枝らが関わった新左翼を中核とする学生運動は、1970年に実質的に終息し、1972年の連合赤軍浅間山荘事件で息の根を止められる。その後、青年の政治離れが急速に進行し、もう足音が聞こえていた大衆消費社会の物質的豊かさの中に自己の在処を見いだす時代を迎えるのである。三枝の短歌をめぐる本質論的問いかけとそのいらだちは、このような時代背景を抜きにしては十分に理解できない。三枝の議論の中心にある「短歌が時代と切り結ぶとき優れた作品が生まれる」という思想は、それ自体が時代の刻印を受けた思想である。やがて短歌は80年代に入って修辞の復活とライト・ヴァースの時代を迎え、多様な方向へと拡散してゆくのである。

 確かに三枝の言うように大谷の短歌は「時代と切り結ぶ」短歌ではなかったかもしれない。それは自己への沈潜の短歌である。しかしそれから30年の年月を経て振り返ってみると、短歌定型に拠り自己へと沈潜する態度もまた、別な意味で時代の刻印を受けていたようにも見えるのである。

195:2007年3月 第5週 森本 平
または、悪意というモラルで世界に向かう歌

ルサンチマンのかわりに夜空へ放ちやる
      ぼくらのように美しい蛾を
            森本平『モラル』

 森本のような歌人の場合、「代表歌」という概念があまり意味を持たないので、掲出歌を選ぶのに困る。しかし、それを裏返せば、どの歌を選んでもかまわないということになり、気が楽になる。2003年の『短歌WAVE』で森本は、掲出歌と並んで「手を伸ばせども指の透き間をすり抜けるあの夏色の空を忘れず」と「丹頂の白きのみどを持つひとよ天啓として声あらしめよ」の2首を自分の代表歌として挙げている。また2004年の『現代短歌雁』の特集では、「倦怠は揺り籠である まぎれなく水平線のエッジが光る」という歌集『橋を渡る』からの一首を挙げている。これらの歌だけを見ると、森本という歌人は何て抒情的な作風の人だろうと思うかもしれないが、それはまったく誤った印象なのである。なにしろ現役の高校教員でありながら、「口答えばかりしやがるあのコムスメ今度宿直室で犯そう」などというトンデモない歌を堂々と作る人なのである。

 森本自身も自分の歌のトンデモなさをよく意識していて、第3歌集『モラル』を出版したときも、「こんなものは歌じゃない」「おまえなど歌をやめろ」「草葉の陰で祖父が泣いているぞ」などの「暖かい励ましのお手紙を多数頂戴した」と自分で書いている。ちなみに、森本の祖父は万葉学者・歌人で駒澤大学教授であった森本治吉、母は槇弥生子だから、三代続く歌人の家系なのである。どんな分野でもそうだが、三代目というのは辛い立場だろう。第1歌集『空を忘れず』(1989年)、第2歌集『橋を渡る』(1994年)、第3歌集『モラル』(1997年)、第4歌集『個人的な生活』(1999年)に続いて、セレクション歌人『森本平集』(2004年)に第5歌集となる『ハードラック』を収録、第6歌集の『町田コーリング』が2006年に刊行されたばかりである。『森本平集』の略歴欄に、第6歌集は逝去したジョー・ストラマーの追悼歌集『クラッシュ(仮題)』になるはずだと書いていたが、見事に外れたわけだ。

 セレクション歌人『森本平集』を責任編集した谷岡亜紀が、「悪意というモラル」と題された森本平論を巻末に寄稿している。私などよりもはるかに森本のよき理解者である谷岡ならではの行き届いた歌人論である。「いかに時代と向き合い、時代を反映するか」という一点に絞られるのが森本の創作意識であり、森本の認識する世界の現実とは、「日常化、矮小化、俗化、個別化したリアルな悪意の現実性」に他ならないとする論旨である。それがしばしば「残酷だ」「汚い」「差別的だ」との悪評を被る歌作につながるというわけである。実際のところ、『森本平集』から比較的穏当なものを選んでみても次のような歌が並んでいる。

 かく愛は夕餉の中で頽れる手乗り猫の串焼き味噌付き

 横たわる姿勢のままで裂きしゆえ立ち上がらねば腸はこぼれず

 どことなくくさやを思わす匂いにて一夜干しせし少女を食めり

 公園で乳房をさらしキューピーをあやす女の口よりよだれ

 「現代の社会が病んでいて残酷である」というのがリアルな真実であるのなら、それを包み隠さず短歌に反映させるのが誠実さであり、時代の狂気をそのまますくい取る作品があるべきだというのが森本の信念なのである。いかなる信念を持つことも個人の自由に属するので、この信念に文句をつけるのは不当というものだろう。言うまでもないことだが、森本の作る短歌を好むかどうかもまた個人の自由である。

 そんなことより、『森本平集』を読んでいて「おや」と感じたことに触れてみたい。2001年に死去した仙波龍英の死を悼む「三月兎の死 ― 先駆性への墓標」と題された文章の中で森本は、80年代の後半に話題になったライト・ヴァースの代表的作家として加藤治郎と俵万智の名ばかりがあげられることに異義を唱えて、仙波こそ日本におけるライト・ヴァースの嚆矢として再評価されるべきだと論じている。短歌に何を盛るかという主題意識と、現実を見据える目線において、森本と仙波には確かに共通する点がある。仙波の『わたしは可愛い三月兎』を今読むと、ライト・ヴァースと呼ぶには余りに重い文体と主題に驚くが、それより目に付くのは付された夥しい註と詞書きである。たとえば、「ヨット上にらみをきかすここのつがファンキー族の姉とをとこに」の中の「ファンキー族」には、「昭和35年にあらはれた軽薄な若者達の呼称」という註が付されており、その他にも「メリナ・メルクーリ」「赤木圭一郎」「渡邊マリ」「草加次郎」など昭和30年代の風俗と事件に関するたくさんの註がある。夥しい註で話題になった作品といえばすぐ頭に浮かぶのが、田中康夫のデビュー作『なんとなくクリスタル』(1980年)、略称「なんクリ」だ。仙波がこだわるのが歌集刊行時の1985年ではなく、自分が少年時代を送った昭和30年代の風俗であり、一方、田中は大衆消費社会を迎えた70年代後半の進行中現在の風俗だというちがいはあるものの、なぜたくさんの註が必要なのかという理由は共通している。それは「短命ですぐ消え去る運命にあるもの」(ephemeral)を作品に取り込んだからである。

 しかしながら、仙波と森本には決定的なちがいがある。『わたしは可愛い三月兎』の跋文で小池光は、なぜ仙波が「ぺらぺらのかんなくづのような、今日流行り明日には滅亡する、はなはだ『俗悪な』ものたち」を短歌に詠むのかと問いかける。そして、仙波の思い出は流行とともにあり、流行を思い出すことなくワタシを思い出すことができないのであり、自分とまわりに明確な一線を引けず、両者が互いに滲み合っているというのがその理由だと断じている。言い換えれば、現代の大衆消費社会を先取りするような例外的境遇に育ち、仙波の〈ワタシ〉が〈ephemeralなもの〉に支えられ、それと不可分なかたちでしか形成されなかったということであり、仙波の短歌に漂う悲劇性はそこに由来する。仙波の唐突な死はその悲劇性を完成させたようにすら見える。しかし今日仙波の短歌を改めて再読すると、〈ephemeralなもの〉と不分離であるという〈ワタシ〉のかたちを内的に生きたという点において、読者である私たちはある感動を覚えるのであり、またそこに現代を先取りする先駆性を見ずにはいられないのだ。森本は「ライト・ヴァースの先駆者」として仙波を再評価することが目的で小論を書いたのだが、実は仙波が先駆者であったのは、上に述べたような「〈ワタシ〉のあり方」においてである。

 一方、森本はどのようなスタンスで〈ephemeralなもの〉に向かっているのだろうか。

 太陽に手紙を出そうバカボンのパパよりもっとこれでいいのだ

 ゼラチンは揺れつつ崩れ 生涯を現役のまま馬場の逝きにき

 ほされいるTシャツ蒼く揺れており岡田有希子の十三回忌

 明日よりは晴耕雨読で過ごさんとさらば哀愁のエリマキトカゲ

 ほほえみは何も救いはしないのだから松田聖子なんて嫌いだ

 森本が〈ephemeralなもの〉を扱う手つきは軽いようでいて、実は軽くはない。言葉から滲み出る悪意と呪詛と攻撃性は、作者が「醜悪な現実」と見なすものに立ち向かう姿勢をことさらに露わにしてしまう。振り上げたこぶしばかりが見えてしまう。そして逆説的ながらも、向こう側に見えるはずの「醜悪な現実」が、作者の振り上げるこぶしの陰に隠れてしまうことがある。なぜこうなるのだろう。仙波とのちがいはどこにあるのか。

 それは仙波が〈ephemeralなもの〉や時代の「醜悪な現実」を一方で厭悪しながらも、それと不可分なかたちで自分を形成したものとして、愛おしく思わずにはいられなかったからではないか。仙波は「醜悪な現実」を憎むと同時に愛したのである。そのとき、ephemeralなぺらぺらの現実を詠うことは、自分の半身を詠うことに他ならない。「ぺらぺらの現実が自分の血となり肉と化している」という自覚がそこにある。

 ナナ、つばき、菊水、のり子と続く路ゆけば秋風この身から立つ

 並んだ固有名は新宿ゴールデン街の飲み屋で、「どの店も狭い」となくてもよいような註が付されている。このどうでもよい細部がぺらぺらの現実を担保している。そして秋風はゴールデン街から吹いて来るのではなく、仙波自身から立ち上がるのだ。これが仙波が獲得したスタンスである。そして森本と仙波のちがいもここにあると思われる。

 森本の歌は谷岡が明快に分析してみせた方法的意識に基づいて作られているので、連作意識が強く一首の独立性が低い。そんななかでも読んでいて、「あっ、これはいい」と思う歌がないわけではない。

 反抗すゆえにわれある黄昏(こうこん)のこうこんなるは空のたまゆら 『空を忘れず』

 ジェラス・ガイ 暑さで閉ざす眼裏に光まみれの燕が見える  『森本平集』

 ゼラチンは揺れつつ崩れ 生涯を現役のまま馬場の逝きにき

 窓ごしに棕櫚を見ておりカフェオレを飲む間に消える淡き性欲

 鼻唄はなぜかパヴァーヌ ドライ・ジン越しに眺める世界は揺れて

 役立たずな気分の夜はコンビニでしあわせ印の桃缶を買う

 これらの歌は、自分の内部にある「ぺらぺらの現実」を静かに見つめるスタイルの歌であり、そんなときには私も共感できるのである。

194:2007年3月 第4週 石井辰彦
または、音楽的実験を追求する現代短歌のゆくへは

一掬(イツキク)の記憶を愛す。忘却は
  祝(ほ)ぐべき人間(ひと)の習慣(ならひ)なれども
       石井辰彦『全人類が老いた夜』

 石井辰彦は現代短歌シーンにおいては特異な作家と言ってよかろう。その特異さはこの歌集の題名にも現れていて、『全人類が老いた夜』というような題名は歌集の題名としてはあまり見られないタイプのものである。短歌の祖先である和歌の中核をなす主題であった花鳥風月とは完全に切れており、それは石井が近代短歌を跳び越えて現代短歌作者たらんとしているからである。この題名と同じタイトルの連作が巻頭に置かれており、この夜とは2001年9月に起きたアメリカ同時多発テロの夜のことであると知れる。

 窓といふ窓を(急いで)開けよ! ほら、天翔(あまがけ)る悪意を視るために

 隈もなく世界は霽れて…… 澄んだ目の・なんて・邪悪な・殉教者・なの?

I thought of those September massacres… とは、口遊(くちずさ)むには、辛き詩句

 人類の過失の歴史。それのみが真実かも? と惟(おもひ)みるかも

 空港も未来も封鎖。だつて、全人類一気に老ゆる夜(よる)、だぜ

 なにもかも潰(つひ)えて落ちよ。人類の静かに恐怖する真夜中に―

 一読してわかるように、歌の主題は同時多発テロが世界に撒き散らした恐怖とそれを継起とする世界の崩壊の静かな予感であり、特に難解な所はない。おおむね定型を遵守しながら時折破調を交え、文語・旧かなを基調としつつ時に口語が顔を出すというのも、現代の短歌作者に多く見られるパターンである。石井の短歌が特異なのは、通常の句読点だけでなく、丸パーレンや中黒や疑問符・感嘆符、三点リーダーや長ダッシやルビなど、考えつく限りの印刷記号を方法論的に短歌の構成要素として取り入れている点にある。読みの与えられない記号を短歌に取り入れる記号短歌は、1980年代のニューウェーブ短歌で数多く試みられ、やがて飽きられたのか姿を消した。石井の場合、単に目新しさからさまざまな印刷記号を取り入れたのではなく、短歌についての極めて方法論的考察に基づいていることは、評論集『現代詩としての短歌』を読めばわかる。

 石井がこの評論集のなかで提起している問題には次のようなものがある。

・現代短歌は古典和歌の韻律という財産を受け継ぎながらも、独自のリズムを探求すべきである

・現代短歌は抒情詩の複合体としての叙事詩である連作短歌をめざすべである。

・現代短歌は句読点を含めて記号の使用に積極的であるべきだ。

・詩は音楽をめざすのであり、現代短歌もまた音楽的実験を試みるべきだ。

・短歌は一行の詩である。詩は朗読されるべきものであり、短歌もまた朗読されるべきである。

 石井はこのような主張を展開するにあたって、主として西洋の古典詩学や現代音楽や写真や舞踏など事例を縦横無尽に引用し、しばしば衒学的な膨大な注を付している。その使用概念のほとんどが舶来のものであるため、ときおり「西洋かぶれ」と呼ばれることがあるとは石井自身の述懐である。上に並べた石井の主張の全部を検討することはできないので、記号の使用と韻律の問題を取り上げて考えてみたい。

 評論集『現代詩としての短歌』のなかの「主張する記号」で、石井は釋迢空の次の短歌を引用し句読点の効果を述べている。

 かたくなに 子を愛で痴れて、みどり子の如くするなり。歩兵士官を

 石井によれば、一字アキ→読点→句点と徐々に拡大する休止の連続が、作者の高まる心情を音楽のクレッシェンドのように表現しているということである。また自作を引用して

 「人間(ニンゲン)を賣る店ばかりにぎはへる(街」を炎がつつむ日を待ち)

では「 」と( )の両方に跨る「街」という語が、二重の帰属関係によって二倍の意味的重量を持つとし、

 ふたりづれの天使は邑(まち)の男たちに(實は!)輪姦(まは)されき。といふ傳承(つたへ)

では、パーレン内の(實は!)は耳元で囁くように、しかし感嘆符がついているので鋭く読まれることが期待されていると述べている。

 実に周到な配慮で感心するほかはないが、一読した印象はそれほど効果が上がっているのだろかうという懐疑的なものに留まる。迢空の歌では、意味は別として表記上では句読点よりも一字アキの方が断絶が深いように感じられる。また(街」の二重の帰属も、言われてみれば確かにそうも見えるが、「人間を賣る店ばかりにぎはへる街」と「街を炎がつつむ日を待ち」が別人の言説とも思えず、二倍の意味的重量の効果が私には感じられない。そして最後の(實は!)の読み方についての石井のコメントは、はからずも石井の短歌観を暴露しているのである。

 それは上に挙げた石井の主張の最後にある「短歌は朗読されるべきだ」という点に関係する。石井は積極的に短歌の朗読会を開いて自らの主張を実践しており、(實は!)についてのコメントは、明らかに朗読されるときの読み方の指定なのである。つまり、句読点や括弧や感嘆符・疑問符など石井が多用する印刷記号は、メロディーを構成する音符の他に作曲家が楽譜の余白に記入するクレッシェンド記号 (<)やフォルテ(f)やピアノ(p)や Tempo rubatoなどのリズム指示と同じように、「短歌を朗読 (演奏)するときには、このように読んで (演奏して) くれ」という作者の指示なのだ。ここまで自分の短歌の読まれ方に細かい指定をした歌人はいないだろう。

 しかしこのような態度にはいささか問題があると言わねばなるまい。大きく分けてふたつの問題を指摘できる。第一は、「作者はそこまで読みの方向性を拘束できるのか」という問題である。作者はもちろん作品の創造者であり、作品にたいして著作権を持つわけであるが、作品はこの世に生み出された瞬間から作者の手を離れて公共のものとなる。作者の手を離れなくては作品は作品たるを得ない。ここに創作をめぐる深い逆説がある。作品が作者の手を離れた瞬間から、読みは読者 (受容者) のものである。作者による自作解説が喜ばれない理由はここにある。〈読み〉とは意味解釈のうねる過程そのものであり、それは一種の〈共同幻想〉である。したがって、石井が自作に施す読みの指定は、作者から読者への過剰な介入なのである。そのために、うねうねとした行きつ戻りつの過程を経るのが常態である〈読者の読み〉のなかから作者の顔が立ち上がるのではなく、作者が歌の横から顔を出す結果を招いている。これは望ましい状態とは思えない。

 第二の問題は、石井が短歌における韻律やリズムの重要性を力説しているにもかかわらず、多用される印刷記号が読者に読みの過程における内的韻律の形成を阻害しているという点である。たとえば上に引いた「ふたりづれの天使は邑の男たちに(實は!)輪姦されき。といふ傳承」という歌から句読点と記号を除去し、ついでにムリ読みのルビも仮名にしてみる。

 ふたりづれの天使はまちの男たちに實はまはされきといふつたへ

原文と改作とを比較してみれば、改作の方が短歌本来の内的リズムが読んでいて無理なく心の中に流れることがわかる。音楽におけるクレッシェンド記号やフォルテ記号は演奏者のためのものであり、聴衆のためのものではない。短歌の読者は演奏者ではなく聴衆の立場にある。だから演奏指定記号は聴衆の音楽の受容の妨げになるのである。

 また次のような実験的作品を見れば、石井が短歌にたいしてどのようなスタンスを取っているのかがほの見えてくるだろう。本来はルビが振ってあるのだが、技術的理由により再現できないのをご容赦いただきたい

 えいいう えいいう  ぐんしう
 人間は人間を刺す〈人間はただ見る〉いつも〈世界〉は〈舞台〉
 
はいいう はいいう  くわんきやく        〈舞台〉は〈世界〉

最後の「〈世界〉は〈舞台〉」と「〈舞台〉は〈世界〉」は、線路が二股に分岐するように書かれているのだが、これも再現できない。石井がここで試みているのは、観客が同時に俳優となるような多層的な演劇のアナロジーである。単線的な歌の読みに飽きたらず、多層的・多岐的な意味形成を試みているのだ。

 石井は伝統的な短歌のあり方を痛烈に批判し、現代短歌は世界的文脈のなかで考えなくてはならないと説く。その主張はもっともなことである。しかし、短歌形式拡張の可能性を実験する時に石井が用いる手法は、20世紀において現代詩や現代音楽で試みられた手法の借用である。そして現代詩がその試みの果てに吃音的な袋小路状況に陥ったこと、また現代音楽が調生を解体して無調音楽となりいつのまにか溶解したことを見ると、果して石井の試みが豊かな果実を生み出すのかどうか、考え込んでしまうのである。

 最後に本質的な問がひとつ残った。石井は評論の冒頭に必ずと言っていいほど「短歌は一行の詩である」と繰り返している。ほんとうにそうだろうか。私はこの断定の内容に懐疑的である。もっと議論されてしかるべき問題であろう。

193:2007年3月 第3週 池田はるみ
または、数々の仕掛けを施した短歌の玉手箱

あふぎつつ泥濘ゆけば空のまほ
    水のきはかと思(も)ふひかりあり
         池田はるみ『奇譚集』

 かねてより探していた『奇譚集』が古書店より届き、包みを開いて驚いた。何という版型なのか知らないが、縦と横の寸法がほぼ同じで、子供向けの絵本のような厚紙を使った表紙にオレンジ一色の装幀なのだ。短歌の歌集としては破天荒な造本と言ってよい。栞が岡井隆・秋山律子・小池純代の3人の鼎談というのも珍しい。おまけに巻末には皇室系図と古代アジアの地図が添えられており、これまた異色である。

 池田はるみは1948年(昭和23年)生まれ。『奇譚集』に収録された「白日光」で1985年に短歌研究新人賞を受賞している。「未来」会員。『奇譚集』は1991年刊行の第一歌集。異色なのは何も造本だけではなく、収録された短歌もまた他に類を見ない肌合いのものである。現代短歌は、口語短歌の隆盛・ライトヴァースの流行・記号短歌の試みなどを経たあと、ほぼ「何でもアリ」の世界を生きているが、そんななかでも池田に比肩しうるものは見あたらない。TVのグルメ・レポーター彦摩呂のお約束のキメ科白を借用すれば、「短歌の玉手箱やァ~」なのである。そしてこの玉手箱の構造はなかなかに複雑なようだ。たとえば巻頭の「むすび松 有間皇子・囁」と題された連作には次のような歌が並んでいる。

 信号を無視してとばす 地上にも天にもおれを結ぶものなく

 エンジンのいかれたままをぶつとばす赤兄(あかえ)とポルシェのみ知る心

 縊らるる。天より下る皇子といへサンドバッグのやうな重さや

 「大兄のサアセカンドカーのボルトをサアゆるめておいた」と下司のささやき

 有間皇子は父・孝徳帝崩御のあと、政争を避けんがため佯狂の日々を送るも、蘇我赤兄の奸計により捕縛され19歳で刑死した。背後に中大兄皇子の陰謀があったと言われている。有間皇子は尋問されたとき、「天と赤兄と知る。吾もはら知らず」と答えたと伝えられる。そんな古代史の悲劇の主人公である有間皇子が、エンジンのいかれたスポーツカーを疾走させるという設定で歌は作られている。有間が現代の無軌道な若者に置き換えられることで、古代史の悲劇の上に現代的な疾走感・躍動感が塗り重ねられ、そこに重層的な意味の風景が現出していると言ってよかろう。池田の短歌はこのように、本歌取りではないものの、何か下敷きになる歴史上の素材を換骨奪胎して構成されている。弁当箱を開けて中身を食べ切ったら、実は箱は二重底になっていて、底を開いたらまた別の空間がそこにある、といった具合なのである。たとえば歌集前半の「松」シリーズは「中大兄皇子・偲」「間人皇后・瞳」「建内宿禰宜・謀」など、古代史に登場する人物が詠んだ歌という体裁を採っている。第二部の東南亜細亜奇譚は、澁澤龍彦の『高丘親王航海記』を下敷きにしているようだ。また短歌研究新人賞を受賞した「白日光」も、「みづくみのをんなどれいとうまれたるかむなぎわれのひと世かたらむ」と、巫女の語りという体裁を採っている。ただしこれは単に歴史に素材を採った歌というわけではない。また福島泰樹のイタコ風「成り代り短歌」のように、死者に成り代ってその無念を詠うというのでもない。作者の素材の扱い方はもっと複雑で、どちらかと言えば意味の重層性に基づく遊びに近いのではなかろうか。

 このことは『奇譚集』に収録された歌の文体の多様性にも現れている。池田は折口信夫の唯一の女弟子といわれた穂積生萩(なまはぎ)の許で古典を学んでおり、古典の知識と古語を操る能力は抜群なのである。だから作ろうと思えば次のような正統古典調の歌も難なくできるのだ。

 たゆたひて沈みゆく髪 母王は海人ゆゑに水の御言(みこと)持ちてむ

 夏うづき瑞鳥とふがあらはれて垂直に指す うすずみの天

 おとうとの媛よぶこゑの透みとほりくぐもりわらふ夏の夕べに

 夕されば花も眠らむ時待ちて恍と咲きつつあどけなかりき

かと思えば次のような滑稽調の歌も散見される。歯切れのよい口調で、気っ風のよさを感じさせる。

 「むかしかの聖(ひぢり)おはしてうどん好き芸ありうどん鼻にて喰らふ」

 許しますなどといつてはやらせたる超絶技巧めちやめちやに好き

 ローソンに買ひにやつたが最後にてあのぐづをとこ二度と戻らぬ

さらに次のような口語の会話調の歌や、現代風俗を詠み込んだもある。上に引いた「大兄のサア」もこの部類に入る

 なべて世の憂きが好きなの とり分けてをとこの心のにんぴにん風

 おとうとはいつもそうだよ知らぬ間に乗りたがる兄(え)のモーターボート

 六本木踏み鎮めゆくすてつぷは ロックと呼べる後妻(うはなり)がわざ

 このように池田の歌は、古典の素養に裏打ちされながらも、1980年代に展開された現代短歌のさまざまな試みを咀嚼吸収し、それを自在に取り入れた所に成立している。池田の遊び心は所属する「未来」の指導者である岡井隆にまで及ぶのである。

 水中に鳥のあそびをしてゐるはうたびとRyu。そとのぞきたり

 ばら抱いて湯に沈めるもよく見えぬこんこんと夢ねむし眠しよ

 Ryuは「隆」の音読みで、この歌も岡井の本歌のいずれかを下敷きにしているのだろう。二首目は岡井の「薔薇抱いて湯の沈むときあふれたるかなしき音を人知るなゆめ」の換骨奪胎である。それを「よく見えぬ」と言い放つとはなかなかのものだ。池田の歌にしばしば辛辣な批評が込められていることにも注目してよい。

 さて、このように本歌取り・換骨奪胎・古代と現代の重ね合わせ・多彩な文体の駆使などを特色とする池田の短歌だが、ここで問題になるのは池田の〈私〉はいずこにありやということである。池田の短歌が〈私性〉の歌、すなわち自己表現としての近代短歌の枠に入らないことは自明である。この問題につついて栞の鼎談のなかで秋山律子は、「私性とか、岡井さんがおっしゃった近代的な自我と結びつけるのはおもしろくないですね。(…)物語の中に『私』があって、その『私』はなにが起ころうが、なにを言おうがいいという、そういう感じです。(…) そしてその外側に池田さんの『私』がいる」と述べており、おそらく真相はこのあたりが近いと思われる。

 聞くところによると池田の最新歌集は、カバーが二重になっており、それを広げて重ねると風呂敷として使えるのだそうだ。ここに池田のサーヴィス精神の発露がある。足を運んでいただいた以上は、何かお持ち帰りいただかないと申し訳ないというのは大阪人特有のサーヴィス精神である。おそらく『奇譚集』を構成する歌の複雑な入れ子構造もまた、池田の遊び心とサーヴィス精神が作り出したものである。歌集と歌に箱根名物のからくり箱のようなさまざまな仕掛けを施しておく。読者はその仕掛けをひとつひとつ解いてゆくことで楽しむことができる。おおむねこのような事情ではなかろうか。すると池田の〈私〉は複雑に仕掛けを施した歌に対して、俯瞰的位置にいることになる。神は自らの創造した世界の内部にではなく、それを外から眺める外部にいる。神は世界に含まれないのだ。それと同じように、池田の〈私〉は歌の外側にいることになる。だから歌の内部に作者の〈私〉を探しても無駄である。ひょっとするとこれはポストモダンと立場が似ているかもいれない。ポストモダンもその手法は過去の様式の引用とコラージュであり、ポストモダン的〈私〉もまた遊戯する〈私〉だからである。しかしこの連想はいささか先走りすぎだろう。読者は『奇譚集』に池田が仕掛けた数々の謎を楽しめばよいのである。そしてまた集中には次のように心に沁みる歌まであるのだから。

 かがみゆらゆらりとゆれてまぼろしのふるさとそこに桃あることも

 はまぐりのやうなくちづけ あそびとは死にゆく者とこのしづけさに

192:2007年3月 第2週 高橋みずほ
または、縦軸の時間のなかに言葉の奥底を追求する歌

石段の段の高さに刻まれて
 降りてゆきたり手に抱え持ち
      高橋みずほ『フルヘッヘンド』

 『フルヘッヘンド』は2006年に上梓された高橋みずほの第二歌集である。歌集題名の「フルヘッヘンド」はふつうの人には、セパタクロー(タイの球技)とかナーベラーヌプシー(沖縄のヘチマの煮物)などと同じように意味不明の単語である。あとがきに種明かしがあり、杉田玄白らが翻訳した『ターヘル・ナトミア』(解体新書)で語義推定に苦労したオランダ語であることがわかる。「堆(ウヅタカシ」すわわち「盛り上がり」という意味で、この「フルヘッヘンド」なる語を歌集題名に選んだことからも、作者の高橋がいかに「意味の病」から自由であるかがわかる。

 高橋は1954年(昭和32年)生まれ。加藤克巳の「個性」で作歌を学び、2002年に今井恵子吉野裕之と歌誌『BLEND』を創刊。第一歌集『凸』(1994)と、セレクション歌人『高橋みずほ集』(邑書林)がある。『フルヘッヘンド』には親交のある美術評論家の針生一郎が栞文を寄せているが、栞全部が一人の文章というのも珍しい。おまけに針生は文章を書くのに苦吟しているのである。私ももし、あらかじめセレクション歌人『高橋みずほ集』で第一歌集『凸』を読んでいなかったら、途方に暮れたにちがいない。なにしろ『フルヘッヘンド』には次のような歌が並んでいるのである。

 細道は細道へとぶつかっていずれ線路に合う形する

 裏口を開け放した蕎麦屋に動く指あり一列の卵

 確かに現れるエスカレーター人もち上げる高さがありて

 店なかに服吊られ店なかに靴が積まれて川端長屋

 青栗の毬のなかへと霧雨がおちてゆく子のつまさきの

 どの歌も定型からいくらか外れており、起承転結がはっきりしない。歌を構成する言葉のどのレベルで受け止めればよいのかわからず、途方に暮れるのである。しかし第一歌集『凸』を読んだ目で『フルヘッヘンド』を読むと、作者の重心の移動を感じることでわかってくることがある。立ち位置が変化したことで、どのような場所に立っていたか、そして今どのような場所に立とうとしているかを計測することができるからである。『凸』から歌を引いてみよう。

 咲きかけの隙間に入りたる夏風の形となりて花びらの立つ

 樹にあたる風を散らす葉の揺れを集めて幹の伸びてゆく先

 電線が埋め込まれてしまう街空の刻み 放たれてゆく

 そがれつつ風はサッシの隙間から人工音に変えられてくる

 壁の線横に流れるものだけが速度のなかで消されずにある

 壁かけを外したあとの薄汚れ取り残したる鋲にとめられ

 坂道の半ばの墓場からきざまれている海がみえる

 セレクション歌人『高橋みずほ集』には、谷岡亜紀が周到な評論を寄稿している。谷岡は、高橋の歌に字足らずの破調が多いことに着目し、一回性の文体で現実を掬いとろうとしており、その根幹は視覚を中心とする感覚的表現であるとする。また高橋の歌は認識の歌であり、その多くは時間認識に関係し、きわめて方法論的意識のもとで作歌されていると結論づけている。高橋の短歌の本質を剔抉した明解な論旨である。基本的に谷岡の分析に賛同しつつ、変奏を加えることで高橋の短歌の立ち位置を考えてみよう。

 高橋の短歌が時間認識に重点を置いていることを明らかにする手掛かりがふたつある。ひとつは動詞の多さと、起動相の述語の多さである。たとえば上に挙げた2首目「樹にあたる」を見ると、「あたる」「散らす」「集める」「伸びてゆく」と1首のなかに4つも動詞がある。一般に作歌心得として1首に動詞はせいぜい3つまでと言われており、その心得に照らせば動詞過剰の歌である。動詞は「出来事」を表し、出来事は時間の中で生起する。だから動詞は歌の中に時間の流れを作り出す。高橋が動詞を多用する理由はここにある。また起動相(inchoative)とは、「~しはじめる」という動作・状態の開始を表すアスペクト表現をいう。3首目の「放たれてゆく」と4首目の「変えられてくる」の「ゆく」「くる」という複合動詞語尾がそれである。これらの動詞語尾は「変化」と「推移」を表す。もう少し歌語的に表現すれば、「移ろい」と「過ぎゆき」を表すと言ってもよい。いずれも時間の流れを前景化するものであることは言うまでもない。しかし、「Aの次にBが起きる」とか「AだったものがBになる」という時間推移は、出来事レベルの時間である。高橋はこれを事柄の展開に関わる「横軸の時間」と呼んでおり、高橋がめざす時間にはもう一つあることは後述する。

 次に谷岡が指摘する感覚的表現という点だが、これは師の加藤克巳にその深源があると見てよかろう。

 ざくろの不逞な開口 沈黙の白磁の皿にのけぞっている 『球体』

 あかときの雪の中にて 石 割 れ た

 西洋のさまざまな芸術運動に深い関心を示し、短歌においてそれを表現しようとしたモダニストの加藤の短歌においても視覚の優位は紛れもない。情景を説明的に描写するのではなく、むしろ表現を削ぎ落すことで感覚的印象をざっくりと定着しようとするその手法は、吃音的で前衛俳句に近づくことがある。上に引用した高橋の歌でも、「坂道の半ばの墓場からきざまれている海がみえる」などは前衛俳句の香りがする。

 このような手法から帰結する特徴として、上句と下句の照応の不在と、それと深く相関する表面上の〈私〉の不在を指摘することができる。永田和宏が「問と答の合わせ鏡」と呼んだように、伝統的な短歌においては上句=問に下句=答が応答する (またはその逆)という照応関係、あるいは上句=叙景に下句=抒情 (またはその逆)という応答において一首の完結性を担保し、その照応関係の結節点として抒情の主座たる〈私〉を浮上させるという構造があった。ところが高橋の短歌においては、たとえば「不確かに寄せる力というがまな板の豆腐のゆがみの線にある」(『凸』)を例に取ると、頭から一気に読み下す形になっており、上句と下句の照応という構造がない。そのため照応関係を支える結節点としての〈私〉もまた表面上は見えなくなっている。高橋の短歌は、読者が作者の〈私〉の位置に想像上身を置くことで得られる安易な感情移入を峻拒するのである。

 空間に線を引きつつ遠景をなお遠ざけて雨の町

 暮れた空金槌音はとまらずに木を組みつつ空間を割る

 空間認識をテーマとする歌を2首引いた。これらの歌からも明らかなように、高橋の歌に登場する景物は作者の内的感情の相関物(もしくは象徴)ではまったくない。そのようなレベルに歌意を汲み取るダイアルの波長を合わせても、聞こえてくるのは空電のみである。唐突な連想だが、高橋はきっとモンドリアンの絵が好きなのではないか。空間分割と色面の配置から成り立つ構成主義的なモンドリアンの絵は高橋の短歌と共通点があるように思う。

 では高橋の短歌は何をめざしているのか。「縦軸の時間」と題された散文(初出『BLEND』No.5)において、高橋は子規と牧水の短歌を素材として、事柄の展開を追う「横軸の時間」とは異なるもうひとつの「縦軸の時間」の存在を指摘している。

 つるむ小鳥うれたる蜜柑おち葉の栴檀家をめぐりて夕陽してあり 牧水

 「つるむ小鳥」「うれたる蜜柑」「おち葉の栴檀」ひとつひとつに焦点を当てることで時が生まれ、それは言葉の奥に畳まれている時間だという。韻文はこの縦軸に生まれる時間のなかで育まれるものであり、事柄主義的理解によって言葉の襞に畳み込まれた時空間を見落としてはならないと高橋は説く。高橋の言わんとするところを十分に理解しているかどうか心もとないのだが、私の理解したのは次のようなことである。私たちの日常言語や散文の言語の目的は意味の伝達にあり、そこで重要なのは「AだからBだ」という論理関係と、「Aが起こりBが起きた」という出来事の継起関係である。これが「横軸の時間」である。水平方向に時間軸がイメージされているので、時間の進行する方向が横軸になる。横軸の時間は論理と説明の支配する領域である。これに対して時間軸に垂直に交わる縦軸の時間とは、いわば言葉の内部に重層的に降り積もったイメージの集積体である。たとえば「桜散る」を例に取ると、「風が吹いたから桜が散る」という因果関係の説明や、「桜が散るから私は悲しい」という感情表現へと移行することなく、「桜散る」という単体の表現それ自体の奥に仕舞われているイメージということになる。それを事柄主義的な理解に回収するのではなく、それ自体として歌のなかにひっそりと置く、これが高橋のめざしていることではないだろうか。栞文を書いた針生が呻吟の末に、『凸』の認識論から『フルヘッヘンド』の存在論へという図式を描いて見せたのも、このような事情と無縁ではなかろう。事柄の連鎖へと回収されずにそのものとして有るというあり方は、確かに存在論的色彩を帯びるからである。

 冬木立空に向かいて手を放つ ままに途切れた  『フルヘッヘンド』

 竜の描かれてある襦袢の藍の深みは裾元薄れ

 まな板に死にて目をむく魚の遠い海色透きて鱗

 これらの歌では意図的に短歌の韻律をずらし、字足らずの破調を形式として選択しているが、これもまた言葉が事柄の連鎖へと回収されるのを阻害し、言葉がそれ自体の奥から輝くことを願ってのことと考えられる。

 もしこのような読みが的を射ているとするならば、高橋のめざす道はなかなか険しいものと言わなくてはなるまい。針生も栞文のなかで「作者の意図や方法論がわかったということと、作品に魅惑されるということのあいだには、大きな距離があってその距離に苦しんでいる」と述懐している。高橋の短歌は読む人に高度な読みを要求する。その意味で読む人を選ぶと言えるかもしれない。しかしそれもまた歌人の選択であることは言うまでもない。

高橋みずほのホームページ 蓑虫の揺れ 

191:2007年3月 第1週 辺見じゅん
または、歴史のほの暗い闇から立ち上がる血族の歌

花々に
眼のある夜を晩年の
父あらはれて
川渉りゆく
    辺見じゅん『闇の祝祭』

 短歌を多行書きにする場合、縦書きだとよいのだが、横書きにするとどうも様にならない。インターネット上のホームページの制約ゆえご勘弁いただきたい。『闇の祝祭』は1頁2首、すべて多行書きという異色の歌集である。ただし掲出歌のように、初句、2・3句、4句、結句と4行になっているものと、上句・下句の2行書きとが混在している。ブックデザインはかの菊池信義。「造本全体に配慮をいただいた」とあとがきにあるので、おそらくは対角線を基本とした歌の配置も助言によるものだろう。贅沢な造りの歌集である。

 「花々に眼のある夜」とは、オディロン・ルドンばりの幻想的風景で、その高い幻視性ゆえに現実ならざる世界へと誘う入り口となる。「晩年の父」は角川書店の創業者角川源義(げんよし)。父の後を襲って角川書店社長になった角川春樹は実弟。源義は折口信夫の弟子で『河』を主宰する俳人であった。辺見は第3歌集である『闇の祝祭』で現代短歌女流賞を受賞しており、歌集以外にも最近映画化された『男たちの大和』(新田次郎文学賞)などの多くの著書がある。

 辺見の歌の特徴として誰もが挙げるのは、父親の色濃い影である。たとえば次のような歌が並んでいる。

 炎天の野の駅はるかパナマ帽/若き父なれ清きまぼろし

 この夕べ/ふるき頁に書き込みの/朱は父なりき創(きず)のごとしも

 死のきはも馬兵なりしよ日盛りに/父のたてがみ濡れて光るも

 かなかなの啼くゆふまぐれちちのみの/父に手紙を書きてゐたるも

 書き沈む父の背中に沼ありて/この世あの世の万燈会かな

思慕の念溢れる父恋いの歌であり、幻想の父親は常に懐かしい姿として現われている。源義と春樹のあいだには父子の確執があったようだが、娘であった辺見には父は異なる姿で映っていたようである。辺見の歌の根底には、血族の血と故郷という人間にとって根源的な要素が色濃く流れていて、それが歌の色彩を決定している。

 わが頬の/あたりに痣のかがよふは/母よ夜火事をとほく見しかや

 おとうとの/地図降りこめて父なるは/標的なりや/戦ぎあるべし

 樹木より耳さとくしておとうとの/眩しきかぎり母といふ海

 蒼穹のこの地に五月晴るる日を/いもうとの逝くはただに明るし

 おとうとよ/旅にしあればかぎりなく/眠れる額の蒼くかがよへ

 血族を詠んだ歌を拾ってみた。辺見に母を詠んだ歌は少なく、父親の圧倒的影響下に育ったことを伺わせる。1首目は集中に少ない母の歌。2首目と3首目は弟の春樹を詠んだ歌だが、姉の目から見ても弟と父との確執は明らかだったようだ。弟に注ぐ眼差しは暖かい。4首目はおそらく自死した異母妹を詠んだ歌。このように辺見の歌の根底には、血のほの暗い色が流れているのである。それは戦後民主主義の明るい近代とは異なる肌合いであり、民俗学的素養を武器に自らの血の根源へと遡行しようとする辺見の態度は、反近代主義と呼んでもよいだろう。辺見の父方の故郷は富山で、故郷の伝統と祭に題材を得た歌も多い。

 ふるさとの古井に水の動かねば/祖母の小櫛のくらきくれなゐ

 越後路は雪のまほろばはろばろと/わが形代のとほき夕映え

 一脈の血のくらがりにさざめくは/夜の谷間の山櫻かな

 いづくにか牲の祭りの桃実り/河口に近き空燃えてをり

 水音の闇ほどきゆく坂町に/風の祭りのはててゆきけり

 雪ふれば秘色のやうなとんど火に/異類の妻のみごもりてゐる

これらの歌に登場する「古井」「櫛」「形代」「山櫻」「桃」などの語彙のどれをとっても、呪的意味をたっぷりと帯びており、私たちが生きている現代とすでに忘れ去られた古代的世界とのあいだの転轍器として作用する。

 しかし何といっても辺見の歌が暗い磁力を帯びるのは、死者を詠った歌においてである。3首目や4首目は、『レクイエム・太平洋戦争』などの著書のある辺見が、南洋に散った学徒兵に寄せる鎮魂歌である。

 花終へしみどりをぐらき物の根に/逝きたる者らささめきやまず

 みんなみに骨洗ふをみな並びゐて/陰(ほと)のくらきにしろく月射す

 手つなぎの学徒兵きみは還らざりし/夕づつの邑あをくつゆけき

 みんなみのニューブリテン島の螢の樹/遺書に記して二十一歳なりき

 ひとすぢの/水のくらきを離れきて/いのちの嵩の/朴のしら花

 たましひの遊びすぎたる夜の明けを/螢火うすく草に濡れゐつ

私たちは命によって過去の死者とつらなるという意味において、命を詠うことと死を詠うことは同じことである。短歌は相聞と挽歌において魂を揺さぶる力をフルに発揮すると言われているが、辺見のこれらの歌を読むとそれが一際重く実感されてくる。そして、そのことは短歌という歴史の重みを背負った短詩形式の奥深い所に根差すのではないかと思えてならない。

190:2007年2月 第4週 本多忠義
または、意味の陰圧により外部へとつながる歌

この世には善はないって言い切った
     きみの口からこぼれるアイス
          本多忠義『禁忌色』

 「禁忌色」という単語は広辞苑に採用されていないが、一般にはふたつの意味で使われているようだ。ひとつは美術の分野で「混ぜ合わせると濁った汚い色になるので避けるべき色の組み合わせ」という意味で、もうひとつは古代に身分の高い人だけが身につけることができ、身分の低い人には禁じられていた衣服の色という意味である。後者は「禁色」として辞書に収録され、三島由紀夫の小説の題名にもなった。本多忠義の歌集の題名は、「泣きながら夢を見ていたあの空が混ぜてはいけない色に変わって」という歌があるので、前者の意味で使われているのだろう。「禁忌」とはタブーのことであり、「犯してはならないもの」「触れてはならないもの」である。その根底には「畏れ」の感覚が横たわっている。本多の歌集にもまた畏れの感覚が溢れているが、それはおそらく生への畏れなのだろう。

 本多忠義は1974年 (昭和49年) 生まれで歌誌「かばん」に所属している。養護学校の教員をしている人だという。もともと詩を書いていた人らしく、二冊の詩集があるようだ。『禁忌色』は2005年に刊行された本多の第一歌集で、解説を「かばん」の先輩である東直子が書いている。「かばん」は「詩歌」に所属していた中山明らが、前田透の突然の事故死により「詩歌」が解散した後に創刊した同人誌である。前田夕暮・前田透の系譜を引くので、もともと口語律・自由律に親和性がある。そんな「かばん」に拠る本多の短歌は定型の枠は守っているが、ほぼ完全な口語短歌となっている。

 冬が来る前にいつかの坂道であなたに触れて僕は壊れた

 ありふれた激しい雨に邪魔されて口笛はまた「レミ」でかすれる

 何色の雲なのだろう夕暮れに遠く泣きだす声が聞こえる

 ブランコもうんていも同じ水色に塗り直されている夏休み

 標的を外れた孤独な弾丸が行くあてもなく刻む夕凪

 もう二度と子供の産めない君を抱く世界は思ったよりも静かで

 花びらが何枚あるか数えてるきみに解(ほど)かれてゆく春の日

 本多の描く歌の世界は静かな喪失感に満ちている。一首目の結句の「壊れた」が象徴する世界がどこかで壊れてゆく感覚、二首目の初句「ありふれた」が物語る世界のフラット感、四首目の「水色」が志向する透明で純粋なものへの希求、こういったものが会話調に接近する口語脈に載せて詠われている。この喪失感やフラット感覚は、90年代以降に短歌シーンに登場した若い作者に共通して見られる。この感覚は口語脈にとても載りやすく、逆に文語脈では表現しにくい。現代の口語短歌において静かな喪失感やフラット感覚が詠われることが多いのは、団塊ジュニア世代以降の人たちのあいだでこのような感覚が共有されているという世代論的背景もあるだろうが、口語脈の選択という方法論による部分もあるのではないだろうか。

 本多の短歌をきっかけに口語短歌の問題を考えてみたい。「口語の短歌はどこか間延びしたものになりがちだが、その弊を免れる方法の一つに〈ねぢれ〉の導入があるだらう。ねぢれは、言葉の組織にアクセントを与へる有効な破格表現である」と高野公彦は述べている (『うたの前線』)。この言葉を引用した加藤治郎は、「こでまりをゆさゆさ咲かす部屋だからソファにスカートあふれさせておく」という江戸雪の歌を引いて、この歌が醸し出す柔らかいエロスは「あふれさせておく」という微妙な修辞にあり、高野の言うねぢれというよりゆるやかな撓みだとした(『短歌レトリック入門』)。「ねぢれ」や「アクセント」や「撓み」は、自然な言葉の流れを塞き止めて方向を変える修辞を様々に表現したものである。

 31音の定型詩である短歌において韻律を重んじるならば文語に軍配が上がる。おなじ「背」でも「せ」「せな」「そびら」と複数の読みが可能で韻律に載せやすい。音数調整が自在にできるからである。また現代語の大きな欠点は文末表現の乏しさで、下手をすると「学校へ行った」「弁当を食べた」のように「~た」が連続する小学生のような文章になってしまう。その点、文語には「き」「けり」「ぬ」など1音節か2音節の助動詞が豊富にあり、文末終止の多彩さにおいても現代語より優れている。したがって韻律を重視し凝集力のある歌をめざすのなら、どうしても文語脈を選択することになる。高野が「口語の短歌はどこか間延びしたものになりがちだ」と述べたのは、このような事情をさしている。それゆえ口語脈を選ぶならば、一首が屹立するような凝集力のある歌ではなく、フラットに歌の外部へとつながっているような余白感のある歌をめざすことになるのは当然の成り行きなのである。

 魚(うを)食めば魚の墓なるひとの身か手向くるごとくくちづけにけり  水原紫苑

 もういくの、もういくのってきいている縮んだ海に椅子をうかべて  東 直子

 一例を挙げたが、一首の独立性では抜きんでている水原の歌と並べてみれば、東の口語脈の歌は意味的欠落は明白だろう。「もういくのってきいている」のが誰であるのか、誰が「もういく」のかは語られないまま余白へと落ちてゆく。また「縮んだ海」が何かの喩であるとしても、それを解明する鍵は隠されている。どこからともなく声が聞こえて来て、それがある情感を醸し出している、そのような作りになっているのである。このような作り方は、修辞的には「意味の陰圧」の技法によっていると言えるだろう。「陰圧」とは、密閉された容器の外部より内部の圧力が低い状態をいう。内圧の低さが圧力が補填されることを求める吸引装置となり、容器に小さな穴があいたら外部から空気が流れ込むのである。東の歌に見られる意味の空白感覚はこのようにして生まれる。本多の歌にも同じような意味の陰圧が観察される。

 ポケットで震えはじめる携帯が教える後戻りはできないって

 真夜中のチェーン着脱場でしか取り交わせない約束がある 

 1首目の「後戻りはできない」がいったいどのような状況をさすのか不明であり、また「真夜中のチェーン着脱場でしか取り交わせない約束」もある切迫した感じは伝わるものの、その内実は語られていない。読者は「ある感じ」を心に抱いたまま取り残される。このような歌の作り方は、本多がもともと詩を書いていたことと関係があるかもしれない。詩はふつう一行で完結するものではなく、多くの行がまとまってひとつの詩編となる。本多の歌を読んでいると、より大きな詩のなかから一行を切り取って来たようにも見えるのである。このような歌の作り方が口語短歌を豊かにするものなのか、それとも逆の効果をもたらすものなのかはにわかに決めがたい。しかし伝統的な文語脈の短歌の根幹であった内的韻律を解体する方向に向かうことだけは確かだろう。

189:2007年2月 第3週 恩田英明
または、隅々までピントの合ったマジック・リアリズム

針先は蟻酸したたり濡れながら
   くまん蜂ひとつ空よりくだる
        恩田英明『白銀乞食』

 一見すると徹底した写実の歌で、〈私〉の感情が入る余地はない。一首から〈私〉は消去されており、外界の〈現実〉だけが詠まれているように見える。しかしそれはまちがった印象である。結句の「空よりくだる」は方向性を持つ述語であり、地面に位置し上を見上げて情景を眺めている観察者の存在を前提とする。認知言語学者ラネカーの云う言語表現における〈主観化〉subjectification の好例だが、ここで言いたいのはそのことではない。蜂の針先から滴る蟻酸の一滴が、そんな距離から肉眼で見えるはずがないということである。離れた所から見えるはずのない細部が克明に描かれることによって、一首が立ち上げる視覚的イメージはハイヴィジョン並みの解像度を獲得する。同じ一枚の絵のなかに、部分的にクローズアップされた拡大映像が嵌め込まれているかのような印象と言ってもよい。ふつう肉眼で観察しているときには、焦点の当たっている近くの物は鮮明に見え、焦点から外れている遠くの物はぼやけて見える。これが通常の視覚である。しかるに掲出歌はあたかも視野のすべてに焦点が当たっているかのような鮮明度である。現実にはこのようなことは起こり得ない。だからこの方法でリアリズムを追求すると、逆説的ながら現実には有り得ない魔術的なマジック・リアリズムを生みだしてしまうのだ。だから恩田の作る歌のリアリズムは素朴な写実ではなく、技巧と想像力が生みだしたものである。

 恩田英明は1948年 (昭和23年)生まれ。「コスモス」で宮柊二に師事したのち、「うた」に移っている。『白銀乞食』は1981年刊行の第一歌集。他に『人馬藻』『壁中花弁』の二歌集がある。ちなみに『白銀乞食』は「しろがね・かたい」と読む。選歌を依頼された宮の命名だという。白銀は雪のイメージではなく、桜花にちなむものだそうだ。「コスモス」は北原白秋の「多摩」の衣鉢を継ぐ歌誌だから、恩田のリアリズムがアララギ系の写実と位相を異にするのもうなずける。

 1971年に「コスモス」に入会して10年後に上梓された第一歌集だが、収録された歌の完成度は高い。高すぎるほどである。

 緑金の胸夕風にたちむかひ孔雀は冬の園を歩める

 産卵に河遡り海潮の香を残す鮭雨に打たるる

 蒲の葉の茂りのあはひ日の辻を間なくひそかに漣匂ふ

 馬上盃を掲げ立ちつつ干さむとぞして火明りに照らし出さるる 

 古典的な歌語を駆使する措辞の確かさもさることながら、恩田の歌が描き出す光景は常にピントがぴしっと決まっていて過不足がなく、場面設定が明確で茫洋・難解であることがない。一首目は巻頭歌で自信作と思われるが、映像鮮明で描写にかすかな矜持を含む。これらの歌で視覚の優位は揺るがないが、聴覚・嗅覚にも訴えるため、時間・空間に加えて音・光・匂いがフルセットで動員されている。これが歌の中に深い奥行きを与えている。また二首目の潮の香りや三首目の漣の匂いのように、感覚にかすかにしか届かないものを掬い上げるところがマジック・リアリズムの面目躍如である。また四首目では歌の中に光源を配置することにより、レンブラントのような陰影の効果を上げていることも注目される。

 時間・空間と音・光・匂いがフルセットで動員されて、歌の中に広大な空間を作り出すことに成功している歌がよい。次のような歌である。

 寒々と月照りわたる空なかばひとひらの雲消えて跡なし

 パナマ帽くるくるまはりかがやけり昼更(ひるふけ)にして蒼穹のもと

 海の辺は遠くに人語 鯵刺の一羽浮けたる空ふかきかな

 とのぐもる沖つ辺暗き鳰の湖いづべともなく鳥が音きこゆ

 塩焼の潮汲み海人ぞ遠く見ゆ鄙の浜辺の「須磨明石の図」

 なめらかにすりつつ墨の「鉄斎」の香はたちわたる秋夜(しうや)すがらに

 例えば一首目では一度登場させた雲片を最後に消すことでかえって空の広さを感じさせる。二首目のかすかなノスタルジーを感じさせるパナマ帽と蒼穹の対比も鮮やかである。三首目では「遠くに人語」と音を導入することで距離感を生みだしている。五首目は展覧会の出品作品を詠んだ歌だが、ここにも絵の中に巧みに遠近感が演出されていることに注目しよう。六首目では墨の香りに「たちわたる」という移動を感じさせる古典的な動詞を用いることで、秋の夜の空間的拡がりと静けさを作り出すことに成功している。しかし次のような歌はどうだろうか。

 空なかば富士の嶺より雪煙(せつえん)の片なびきつつ日の輝りわたる

 ふつふつともの沸く泥にあたらしき蓮の葉浮かぶ露の珠置きて

 一首目では「片なびきつつ」という的確な措辞が冴えているが、あまりに完成されすぎた一幅の絵のように見える。また二首目では泥田に浮かぶ蓮の若葉に最後に露の珠を配することで絵として完成するが、ここまで破綻がないと逆に嘘くさい感がすることも事実であり瑕疵と見る向きもあるだろう。

 このように恩田の歌はマジック・リアリズムによる抑制の効いた叙景歌が中心だが、抒情に傾いた歌もないわけではない。

 握りたる蝉鳴かせつつ水際ゆく少年ひとり昼のふかきを

 青年のとき過ぎにつつ春昼を落花限りなししばらく酔はむ

 夜の卓に桃剥きてをりしくしくと青春晩期の痛む指もて

 口付けてなにか危ふし笑み割るる柘榴(せきりう)は種子こぼれむとして

 わが愛(を)しき背(せな)を晒してゐたりけり汝碧色(あをいろ)の蜥蜴のやうに

 最初の三首は青年期特有の憂愁がテーマであり、残りの二首は性愛を含む相聞だが、ここでも恩田は抑制の効いた描写を外れることがない。恩田は人事を詠むこと少なく、その眼差しは主として世界のなかでの自らの生の確認へと注がれているようである。

 藤原龍一郎は『短歌の引力』のなかで、「自分はなぜ短歌に魅かれるのか」と自問し、それは短歌を読んで興奮と慰藉を得られるからであり、作者が挑発と感傷を一首のなかに仕掛けた時に得られることが多いと述べている。例えば「せつなしとミスター・スリム喫ふ真昼夫は働き子は学びをり」(栗木京子)では、表面上は上句が挑発で下句が感傷だが、意味を読み込むと逆転して上句が感傷、下句が挑発になるとしている。現代短歌の前線を疾駆する藤原には、短歌の刺激としての挑発が不可欠の要素で、それは都市詠を主軸とする藤原独自の抒情観に立脚している。

 このような短歌観に照らせば、恩田の歌には挑発に該当する要素がほとんど見られないので食い足りないと感じられるかもしれない。それでは短歌を読むときに求める興奮と慰藉が得られないかというと、そんなことはない。恩田の短歌のようにぴしっとピントの合った的確な描写によって時空間が立ち上がるとき、私たちはそれまでのぼやけた目では見たことのない世界の現出を目の当たりにする。私たちがどのような世界に生きているのかを改めて実感することができる。歌に導かれて私たちが新たな眼差しを獲得するとき、世界の豊かさと私たちの生の有り様に思いを致すことになる。これもまた短歌を読む静かな喜びだろう。

188:2007年2月 第2週 小嵐九八郎
または、死屍累々の歴史の中で俗調を求める歌

駆けて逃げよわが血統は短距離馬
    かわされざまに詠むな過去形
       小嵐九八郎『叙事がりらや小唄』

 小嵐は米山信介というペンネームも持つ小説家である。1944年(昭和19年)に生まれ、早稲田大学在学中から新左翼運動に参加。銃刀法違反などの容疑で逮捕され刑務所に服役している。その折りの塀の中での見聞を描いた『刑務所物語』など40冊を越える著書があり、吉川英治文学新人賞の受賞歴がある。かたわら「未来」で岡井隆に師事する歌人でもあり、『叙事がりらや小唄』は平成2年刊行の第一歌集。題名の「がりらや」は聖書に登場するガリラヤ湖のことで、青年イエスの物語がこの歌集のひとつの軸になっていることから題名に取られたものだろう。私が小嵐の名前を始めて知ったのは、講談社のPR誌『本』に連載されていた「蜂起には至らず 新左翼死人列伝」がきっかけだった。後に本になったこの連載を愛読していたのだが、題名が示すように死屍累々の物語で、小嵐は新左翼の内部からの歴史を語る語り部の役回りを演じていた。生き残った語り部というこのスタンスは『叙事がりらや小唄』にもまた見てとれる。

 安保闘争と全共闘運動は多くの短歌と歌人を生んだ。『現代短歌事典』(三省堂)では「安保闘争詠」(岩田正執筆)が立項されており、『岩波現代短歌辞典』では「安保闘争と短歌」(佐々木幹郎執筆)と「全共闘運動と短歌」(小嵐九八郎執筆)のふたつの項目が立てられている。岸上大作、清原日出夫、福島泰樹、三枝昂之、道浦母都子、坂口弘らの名前がすぐに挙がるが、小嵐もまたこの系譜に連なる歌人であることはまちがいない。例えば集中に次のような歌がある。

 十九はかく寒かりしゲバの夜の早稲田の地下の旗のシーツの

 果てしなく我が炎瓶(えんびん)は心臓を掴みしままに行方も知らず

 終着駅に着けざることの九割を信じなお革命の切符切る 母よ

 分裂はいまし顕つらし夜の細胞会議(フラク)〈同志!〉と呼ぶはまことせつなし

 ああさらば別れむ朝の鶏早しゲバなき明日を信じてさらば

 あした起つアジトの火燵(こたつ)に十四の踝埋めて 予報は雨と

 左翼運動に身を投じていた頃のリアルタイムの歌ではなく、後日回想して作られた歌なので、国家権力との衝突とそこから生じる身の危険の切迫感は少なく、この点において岸上や道浦の歌とは趣を異にする。例えば「ヘルメットついにとらざりし列のまえ屈辱ならぬ黙祷の位置」(岸上大作)では、機動隊の列の前で女子学生の死に黙祷する自らの立ち位置を、「屈辱ならぬ」と表現している所に身を灼くような自意識のうねりがある。これに比べて小嵐の短歌は全共闘運動の苦い結末を経験しているせいか、回想と愛惜を基調とする挽歌の風情が歌全体に漂う。また青年が理想郷とした社会主義国家の実態が明らかになるにつれ、次のような苦みを帯びた歌が生まれるのもまた無理からぬことだ。

 沈黙は死者のしごと。ひたむきに歌をうたわむGPU(ゲーペーウー)の歌

 まじまじと《ぽと政権は?》と問うつまよ雑草(あらくさ)に酔う雨季もありせば

 アンドロポフ括弧ひみつ警察出身かっこを閉じて斃れたり

 ああ灰とダイオモンドの灰に死すらすとしーんを知りてなお娘(こ)よ

「沈黙は死者のしごと」という言葉は重い。GPUは旧ソ連の国家政治保安部。「ぽと政権」はカンボジアを殺戮の舞台と化したポル・ポトのこと。「灰とダイヤモンド」はアンジェイ・ワイダ監督のポーランド映画で、反ソ・テロリストの若者が主人公。最後に若者が身をよじって空しく死ぬ場面が印象的。アンドロポフは在任期間が短命に終わった旧ソ連書記長だが、この歌は記号短歌の逆張りという意味でおもしろい。「アンドロポフ(ひみつ警察出身)」とパーレンを用いるかわりに「括弧…かっこを閉じて」と読み上げており、記号短歌のベクトルを逆方向に転じている。しかも「かっこ閉じる」ではなく「かっこを閉じて」と歌の地の文に連接しているだけでなく、「閉じて斃れたり」は意味の上でもつながっている。「括弧…かっこを閉じて」は音数を合わせるためや言葉遊びのおもしろさのためにあるのではなく、間に挟まれた「ひみつ警察出身」が小声でささやかれるべき事柄でありながら、もう周知の事実であることを大声で公言するかのような効果がある。

 小嵐は秋田県能代市の出身で、自らの出自に根ざした短歌も試みている。

 鰰(はたはた)はどこさ逃げたか聴けばあだシベリアおろしの風っこ騒ぐ

 お父(ど)よお父、行がねでくれね淋しども漬物(がっこ)の湯漬け耳に鳴るでや

 夜汽車っこさァ帰るべし微かなるうす血の翳り土を嗅ぎわけ

 大麦を焙(い)って潰した珈琲はまだ見ぬ上野のこなふく味が

 とうきょう、という語はかくも切なくてもどりし淳子の耳を傷つけ

 方言を多用したり、漬物に「がっこ」というルビを振ったりするのは土俗性の志向であり、また4首目や5首目は東京と地方という対立の構図に基づく憧れと悲哀で、啄木や寺山修司の先例がある。しかし「上野」と「コーヒー」はあまりに既視感があり、歌に詠まれた情意もステロタイプ的であることにすぐ気づく。これについて岡井は「喩が俗な所が気になる」と跋文で違和感を述べている。しかし小嵐の作る短歌には、俗に流れることを気にしないというか、むしろあえて小唄や歌謡曲調の俗を求めている所があるように感じる。たとえば次のような歌である。

 使用価値は捨てられてからがカチなのよ早稲田のローザの白き喉もと

 児を捨てむプロレタリアか浮萍(うきくさ)のルンペンプロか サワーおかわり

 ねえ浩二、あの時シャツの釦とび赤い伝言突き刺さったわ

 だれひとり振り向かないの純子だけ、祭りのあとの街で踊るの

 韻律は夜ごと目醒めて妬みけりカスバのおんな外人部隊

 1首目のローザはスパクタクス団を結成した革命家ローザ・ルクセンブルグで、ローザと「白き喉もと」は付き過ぎなのだが作者は気にしない。2首目の「サワーおかわり」の落し方も歌謡曲のような調子だがこれも望んでそうしているように見える。3首目と4首目は全共闘学生に熱烈に支持された任侠映画を演じる鶴田浩二と藤純子の歌で、任侠映画自体が美と雅を信条とする短歌には登場しない素材である。また5首目のカスバの女と外人部隊は映画や俗謡で使い古された常套的イメージである。俗に堕することを嫌わない作りはこのように、言い古された喩やどこかで聞いたような言い回しに支えられている。なぜ小嵐はこのような道を行くのだろう。ここからは私の想像に過ぎないが、それは「対象に入れ込み過ぎず距離を置く」という姿勢の表われではないだろうか。詠うべき対象が重過ぎるとき、対象に肉薄することは身の危険を伴う。対象を世間に流布する俗なイメージに回収することで対象と距離を置くことができる。そのような機微が働いているのではないか。岡井はそれを短歌の立場から批判しているのだが、作者は十分承知でやっているような気がする。

 方言を用いた土俗的な歌や歌謡曲風の俗調の歌に混じって、極めて近代短歌的な抒情の歌が多くあることも見逃してはなるまい。

 新しき時刻表を買うくせはきのうの俺を捨てるにあらず

 少女らがいし蹴るいしを見失い昏(くら)かりけるな夏のゆうぞら 

 ああ我ら間のびせし青年物語ねじ式パイプのかろさ知るゆえ

 椎の木のしいの実ゆっくり落ちるときわたしはおもう銃撃のおと

 いそぐものみな美(は)しきこと死を知りし人も鋼(はがね)も巡るハレーも

 (ああ、いまよ)明日は朽ちなむ唇は盗るとき老いし夏至の少女は

 歌の作りの点では、2首目の「いし」の繰り返しや、4首目の「椎の木のしいの実」に注目したい。椎の木から椎の実が落ちるのは当たり前であり、別の木から椎の実が落ちることはない。言葉を極端に節約する俳句ならば、それはすでに用いられた語に含まれているとして切り捨てられるところだが、短歌では事情がちがう。「椎の木のしいの実」と冗長に繰り返すとき、歌謡のリズムが生まれる。そのリズムがしばしば俗に流れることはすでに指摘したことだが、死屍累々の歴史を身をもって生きた小嵐の場合、それは強すぎる毒を薄めて歌謡へと転換する働きがあるのだろう。

 最後に気になった歌を引いておく。

 この詩型もしやアナアキイこの抒情必ず「陛下」へ ― 短歌史序説

「この詩型」はもちろん短歌形式のことで、「この抒情必ず『陛下』へ」は和歌・短歌が奉仕して来た歴史性を指していると思われる。反体制・反権力の運動に参加する人間が最も伝統的な詩型である短歌を作るという矛盾は大きなテーマになるはずだが、小嵐はここでも諧謔と飄逸の方向へ矛先を逸らしている。これは残念なことだということだけは付け加えておくべきだろう。

187:2007年2月 第1週 上野久雄
または、世界からの剥離感は隠されたもののなかに

沈むとき上下にくらくゆれたりし
     飯の茶碗を思うときあり
         上野久雄『夕鮎』

 単純に解釈すれば折々にふと頭をよぎる回想の歌である。しかしその内容が水に沈んでゆく飯茶碗だというから尋常ではない。飯茶碗は沈むとき上下に揺れるが、それはふつうのことである。しかし挿入された「くらく」という措辞が歌の風景を一変させている。飯茶碗が水に沈む様子に暗いも明るいもない。その様を「くらく」と捉えるのは、ひとえに作者が心の中に暗い物を抱えているからである。飯茶碗が水に沈む様子といい、それを「くらく」と表現した作者の心情といい、相当なものを抱え込んだ人の歌だとわかる。なまくらな人間とは覚悟の質がちがう。不用意にそばに近寄ると、裂帛の気合いでばっさり斬られそうだ。小心者の私はこういう人のそばには近寄らないようにしている。

 上野久雄は1927年(昭和2年)生まれで、現在は山梨にあって歌誌『みぎわ』を主宰しているが、それまでの道のりは決して平坦ではなかったようだ。年譜によると父親の影響で12歳から自由律俳句を作るとある。専門学校在学中に結核を発病し、療養所で作歌指導をしていた近藤芳美を知り短歌を作り始めている。当時結核は青年の宿痾であり、上野は療養歌人として出発したわけだ。病院で短歌を作り始める人は多いようで、近藤芳美らが熱心に病院で作歌指導していたことは短歌史において忘れてはならないことだ。上野はその後「アララギ」を経て当然のように「未来」創刊に参加。83年より『みぎわ』を拠点として活動している。私は知らなかったが、山梨はもともと短歌不毛の地なのだそうだ。飯田蛇笏・龍太父子の影響力が強すぎたせいか。三枝昂之・浩樹兄弟も山梨の産だが、上野も含めて「志」という文字が似合う倫理的な香りが強く感じられるのは風土のせいだろうか。私が暮している京都という町には絶えてないことである。

 上野を解説する人は例外なく「長身のダンディー」という言葉から始めているのがおもしろい。しかし出色の文章は、現代短歌文庫『上野久雄集』の巻末に収録され、その後『短歌と自由』に収められた山田富士郎の「倫理的遊戯人の肖像」だろう。山田は次のように書いている。「未来」には一般社会ではお目にかかれないタイプの毛色の変った人がたくさんいる。例えば近藤芳美や岡井隆はその合理主義・個人主義がふつうの日本人のレベルとは異なっているという意味で際立った存在である。そして上野もまた毛色の変った一人だが、近藤や岡井にはない謎めいたところと茫洋としたところがある、と。山田はその後、上野を「生き延びてしまった短歌の太宰治」とする論を展開するのだが、その内容には触れない。題名の「倫理的遊戯人の肖像」に肝心な点が尽くされているからである。山田自身が根底に倫理的地層を深く持つ歌人であることは別に述べた。その山田と上野のあいだで共鳴する地点が「倫理的」というキーワードであることに何ら不思議はない。しかしどうやら上野は単に倫理的なだけの人ではなく、生活においてすべてを蕩尽する過激な人でもあるらしい。石田比呂志に「黒鹿毛一つ花の曇りあるギャンブラーへの献辞」という上野論があるらしいのだが、この題名に暗示されているように、上野は競馬に入れ込むギャンブラーでもあるのだ。上野・石田・山田という取り合わせは相当な硬派であることはまちがいない。

 短歌から浮かび上がる上野の肖像には、「孤」と「無頼」の文字がつきまとう。例えば次のような歌を見てみよう。

 この重み離さば焉(おわ)りゆくらんと一つ石塊を吊せり吾は

 ああ、ああと答えていしがどちらかが酔いつぶれたる冬物語

 パイパスに出て喰う店の三つほど思いめぐらしていたるさびしさ

 いずれ又俺を探すさというように芝生に埋もれいたる刈鎌

 許せとて妻に手をのべ息絶えし主人公よりいくらか悪し

 我はもち彼はもたざるものとして口髭さむく猿と真対(まむか)う

 みな吾を拒まん今朝は頭上なる時計の鳩が息絶えていつ 

一首目の石塊は作者をこの世に繋ぎ止めている何かの比喩だと思うが、「これを離したら俺は終わり」という切迫感がまるで絶壁の上に立っているかのようだ。三首目は昼飯をどこで食べようかと思案している場面だが、とてもそうは思えない悄然感が漂う。措辞的には「三つほど」という数の絶妙さと、「思いめぐらして」という表現が効果的。五首目のような露悪的な歌も多く見られるのだが、ほんとうには懲りていないような雰囲気がどこかに漂う。六首目のような猿の歌は世に数多いが、そのほとんどが孤猿に自己を投影したものである。ここでは自分を髭あるものとして、猿を髭のないものとして対置しつつ、それが鏡の関係になっているところが独自である。七首目にはどこか石川啄木の香りがし、「世に容れられぬ人」という肖像が浮かび上る。

 シクラメン選りいる妻をデパートに見て年の瀬の街にまぎるる

 銀行の混み合う午後に一途なる瞳(め)にあいしかどはやく忘れつ

 しずしずと駅前の木に雪降ると告げいたりしが電話は切らる

 戻り来し家にシナモンの香はのこり常におそらく妻子らは留守

 家のためにはならない父の朝食を今朝も待ちいし甲州タマゴ

 スリッパもタオルも家のものら決めて隔離患者のごと父は居る

 これらの歌に詠われているのは疎外感だろう。妻子に苦労ばかりかけて家のなかでは居場所がない父親という肖像が見えてくるが、それだけではない。一首目や二首目には世の人や家族から疎外されるのではなく、作者自身がふっと人混みを離れてどこかへ去ってしまうような頼りなさがある。そこに独特の浮遊感と軽みが感じられ、歌が過度に深刻なものになることから免れている。これを「世界からの剥離感」と呼んでみたい。この「世界からの剥離感」が時に浮遊と漂泊の色合いを歌に付与し、ときにかすかなユーモアとして働いている。これは上野が自由律俳句からスタートしたことと関係しているのかもしれない。この剥離感はときに次のようなおもしろい歌を生み出す。

 吾が部屋より子の部屋に這うコードあり或る朝音もなく動き出づ

 前方(まえ)を行く乗用車(くるま)の窓に手が出でて眼にはとまらぬ物捨て落す

 ものの音絶えたる夜半激しくも棚より落下したる一冊

 液状の糊こんもりと冬の夜の机に洩れていることのある

 何ということのない情景を詠んでいるが不思議な味わいのある歌である。現代短歌文庫『上野久雄集』に「身体のはかなさ/隠す歌」という文章を寄稿した吉川宏志は、「液状の糊」の歌を取り上げて、「結果だけが明確に描写されていて、その途中がまったく消去されている」という特徴を指摘し、上野の歌を「隠す歌」だと分析しているが、的確な指摘である。例えば二首目では、道路に物を捨てる手だけがクローズアップされていて、手の持ち主である人間は隠されている。しかし一首目の歌などを読むと、どうもそれ以上のことがあるのではないかという気もしてくる。ここには世界が自分とは関わりのない所で動いており、自分はその結果だけを見せられているという感覚があるのではないか。「液状の糊」の歌についても同じことが言えるように思う。もしそうだとするならば、この感覚は上に指摘した「世界からの剥離感」とどこかで繋がっていると考えられる。

 我が儘なテリヤを連れてくるときの老美容師を吾は好めり

 畑堀りて湯の出ずる待つ一人に折々会いに来る女あり

 口さむく歯科医出てきて公園にパン喰う父子の傍を過ぐ

 ステーキにナイフを当ていて想う犬がくわえていたハイヒール

 ここにあげた歌を読むとやはり何か大事なことが隠されている気がする。一首目の我が儘なテリヤを飼っている老美容師という描写はキャラクターが立ち過ぎて、その分背後に物語を想定させる。老美容師をなぜ作者が好むのかも説明されていない。二首目は畑で温泉を掘っているのか、そこに会いに来る女とはいかにもいわくありげである。三首目も何でもない光景でありながら、何かが隠されている気がするのは「口さむく」のせいか。四首目のハイヒールをくわえた犬からも物語を紡ぎ出せそうな気がするが、作者は何も語らない。このようなあえて語らない歌の作りが一首の意味作用に微妙な余韻を付け加えているのである。それが上野の歌にどこか意味の器に収まりきらない不思議な味わいを生み出している。