第288回 屋部公子『遠海鳴り』

雪降ると聞けば記憶の甦るとほき二月のとほき叛乱

 屋部公子『遠海鳴り』 

 本歌集の巻頭歌である。二月の叛乱といえば、1936年2月に起きた皇道派の青年将校によるクーデター未遂事件のニ・二六事件である。ふつう私たちは歴史の教科書で学ぶ出来事だが、作者には甦る記憶があるという。巻末の詳しい略歴によれば、作者の屋部公子は1929年(昭和4年)生まれである。ということは事件が起きた年には作者は7歳だから事件の記憶があってもおかしくない。本歌集を通読して改めて感じるのは降り積もる時間の重さと、昭和という激動の時代を丸ごと生きた作者の波乱の人生である。

 屋部公子は世界大恐慌の起きた1929年に沖縄で生まれる。就学のため6歳で東京に転居。やがて勃発する太平洋戦争の戦況激化のため、女学生の時に女子挺身隊に参加する。敗戦により父親は公職追放。1957年に故郷の沖縄に帰郷し結婚。作歌を始めて沖縄の様々な短歌団体に所属し、「沖縄タイムス」や「琉球新報」などの新聞歌壇の選者を務める。1995年に第一歌集『青い夜』を上梓。『遠海鳴り』は第二歌集である。巻末の長い略歴がひとつの読み物のようであり、その半生が丸ごと昭和史そのものと言ってもおかしくない。

 歌の主題は、琉球の豊かな自然と風物、戦争の時代への想い、今はない家族の思い出、老いの日常のほぼ四つからなり、それらが入念に選ばれ配された厚みのある言葉によってていねいに綴られている。一巻のどこを開いて読んでも、思わず引き込まれるような歌がある。

泰山木のはなは楊貴妃おもはする風ゆるらかに香を揺らすとき

瀬底大橋くぐりて白き波しぶく舟は紺青の海を切りつつ

木下かげ小暗き奥の拝所ウガンジョに掌を合はすとき八方無音

道譲る身に月桃の花ふれてかすかに匂ふ六月の香の

常緑樹おほふ御獄ウタキにひとすぢの湧水ときをり落葉のせゆく

 琉球の自然と風物の歌から引いた。一首目、泰山木は本土でも大正から昭和初期に立てられた家の庭木によくある。初夏に大ぶりの白い花をつける常緑樹である。「風ゆるらかに」に琉球のおおらかな自然を感じる。二首目の瀬底大橋は、沖縄本島と瀬底島を結ぶ橋。橋の中央部は船が通行できるように高くしてある。三首目の拝所と五首目の御獄は琉球の宗教性と深く関係する。どちらも神の宿る場所であり、神を拝む場所である。かつて沖縄を訪れたときに南部の斎場御獄セーファーウタキに足を運んだことがあるが、神の島久高島を遠望できる霊気漂う聖地だった。四首目、月桃は沖縄を代表する植物のひとつで、甘い香りがして餅の香りづけなどにも利用される。狭い道で人とすれ違うときに道を譲ると、道端の月桃の花に触れて香りが漂うという歌である。五首目、御獄は木々に囲まれた森の奥に少し開けた土地などにあることが多い。清水が湧いていることもよくあり、湧き水の流れが落ち葉を運んでゆくという静かな歌である。

 とはいえ集中で最も多いのは、過去の戦争と現在の沖縄の置かれた状況を詠う歌である。

茶がら多き雑炊に配給の岩塩は苦みばかりを口に残しき

靴底を夜毎繕ひ工場に通ひし戦時の歩の重かりき

空襲をおそれし日々も多摩川の岸辺に小さく菫匂へり

焼夷弾さけつつ逃げし空襲の夢あざあざと今に汗ばむ

降りつける睦月きさらぎ心塞ぐ遺骨収集のときめぐりきて

辺野古の海はぐくむ命あるものを埋め立て進む基地新設に

薄雲のただよふ中に見え隠れオスプレイ一機迷鳥に似て

 一首目から四首目までは戦時を回想する歌である。作者は女子挺身隊員として若くして軍需工場に勤労動員されていた。靴底がすり減るので継ぎを当てて繕うのだ。作者は終戦後まで東京にいたので、沖縄の地上戦は体験していない。五首目からは現在の沖縄の置かれた状況を詠んだ歌。「戦死者の大腿骨に刺さりたるまま弾丸錆びつきてをり」といった歌を読むと、今更ながら沖縄の戦争の苛酷さを思う。宰相は「沖縄の人々に寄り添う」と口では言いながら、基地を新設し「寡婦製造機」と呼ばれた航空機を飛ばすのが現実である。オスプレイはミソサザイの英語名。

夜なべして六人の子のセーターを編みゐし母のかの細き指

つぎ当てし芭蕉衣バサーにさらに継ぎかさね祖母は在ましき戦後の沖縄シマ

父のかよひし国会議事堂を仰ぐわれにさくらは霏々と雪のごと降る

吉田山雨に霞めり校門の辺に追ふ父の面影もまた

 家族を回想した歌から引いた。昔は子供のセーターを編むのは母親の役目だった。父母と作者たちは東京に転居したが、祖母は沖縄に留まった。祖母を訪問したことが帰郷の一因となったらしい。自らの内なる琉球に目覚めたということか。三首目に国会議事堂とあるので、父君は議員だったのか。四首目は父母が若い頃を過ごした京都を訪れた際の歌。吉田山の校門とは現在の京都大学、昔の旧制第三高等学校と京都帝國大学の校門である。

一人いちにんの食器を洗ふ水の音しづかなる夜をしばし賑わす

秋の日の郵便受けに一枚の落ち葉のやうに友の訃はあり

住所録ためらひにつつ線を引く大歳の夜の卓を灯して

プルメリアの落ち花匂ふ夜の机いのちの白の衰ふるまで

 今の境涯を詠んだ歌から引いた。作者は子供たちや孫たちとは離れて一人暮らしをしている。一人で暮らしていると食器を洗う音さえも沈黙を賑わす音と感じられる。齢を重ねて父母は既に亡く、友人の訃報も次々と届くようになる。訃報が届いた友人の住所と電話番号は住所録から抹消するのだが、まるでその人の記憶を消すようでためらわれる。夜になると花の香がひときわ強く匂う。机に落ちたプルメリアの花の白は自らの命を象徴するかのようである。

戦没者まだ土深く眠る島掘られし遺骨は朽葉色見す

雨あとの清明祭シーミーの墓にぬかづきて焼く紙銭ウチカビの炎の低し

ゆふかげに縁取られつつ一舟の辷り出だしぬ名護なごの入り江を

人影に月桃の花をつと去りし喪章に似たる六月の蝶

かげを翼にまとふ白鷺の光ひきゆく水面にひくく

夜半の風に触れて散りたる月橘のいのちに余香よかういまだ木下に

定家葛いにしへの恋のかをり顕ち夜の香を追ふ生垣に沿ひ

 印象に残った歌を引いた。三首目などまるで一幅の水彩画を見るかのようで美しい。歌に詠み込まれた本土とは異なる植物の多彩さにも圧倒される。豊かな自然と風物の溢れる沖縄は戦争の記憶が色濃く残る鎮魂の島でもある。歌に降り積もる時間の重さを感じさせる歌集である。

 

うたをよむ 噴水のきらめき

 連日の炎暑に喘ぎつつふと立ち寄った街角の公園に噴水がある。木陰に休んで噴き上がる水を眺めていると一時の涼を得る。噴水は短歌ではどのように詠まれているのだろうか。

噴水の伸びあがりのびあがりどうしても空にとどかぬ手のかたちする 

                    杉﨑恒夫『食卓の音楽』

 歌人は水が噴き上がる様ではなく、ある高さまで達すると再び落ちる様に着目する。一定の高さを超えることができない水は、達せられることのない願望の喩であり、それでもなお空へと手を伸ばす人間の姿を描いている。

噴水が止まれば水は空中に水のかたち脱ぎ捨てて散る 

              鳥居『キリンの子』

 水は方円に従うので固有の形はない。しかし私たちは蛇口から流れる水や噴水から噴き上がる水を見て、それを何となく水の形と捉えている。噴水は噴き上げるからこそ一定の形を保っている。この歌では、その勢いがなくなると水が形を失うと捉えているところがおもしろい。

噴水を噴き出て白を得たる水白を失うまでのたまゆら

              藤島秀憲『ミステリー』

 鳥居の歌では形だったが、藤島の歌では色である。水は無色透明で色はない。しかし噴水から勢いよく噴き出ることで気泡が混じって白く見える。そして水盤に落ちると無色に戻る。白という色を得てきらきら輝くのはほんの一瞬である。

 鳥居の歌も藤島の歌も、見かけの上では噴水しか描いていないにもかかわらず、私たち人間の生きる様にどこか通じるところが感じられる。 

 

【註】

朝日新聞2020年8月9日朝刊「うたをよむ」欄に掲載されたものです。

朝日新聞社に無断で転載することを禁じます。(承諾番号 20.3028)

短歌における「わたし」

震えながらも春のダンスを繰り返し繰り返し君と煮豆を食べる

堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

 感性の共同性を基軸とする古典和歌から「自我の詩」である近代短歌へと移行して以来、短歌と〈私〉は切り離せないものとなった。たとえ「曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径」(木下利玄)のように、表面上は〈私〉が顔を出さない歌においても、歌の背後には風景を見ている〈私〉が蟠踞している。とはいえ実際に歌に現れる〈私〉の奥行きと射程は様々である。

 〈私〉の最も直接的把握は、坂道を登って来てはあはあと息が切れている〈私〉、冷えたビールをごくごく飲んで喉を鳴らしている〈私〉のように、「たった今・現在」を生きる私である。こうして感得される〈私〉は瞬間的であり強い実感を伴う。この対極にあるのが、「薔薇抱いて湯に沈むときあふれたるかなしき音を人知るなゆめ」(岡井隆)や「首都高の行く手驟雨に濡れそぼつ今さらハコを童子を聴けば」(藤原龍一郎)などの歌に見られる〈私〉である。

 どこがちがうのだろう。この二つの〈私〉は多数の軸において対立する。まず前者の〈私〉は瞬間的で奥行きがない(瞬間性)。こうして切り出された〈私〉は過去と切断された〈私〉である(非歴史性)。まるで劇作家アヌイの主人公のように記憶すら失っているかに見える。かたや後者の〈私〉は持続的で奥行きがある(持続性)。そのため過去と繋がっており、積み重ねられた記憶を抱えている(歴史性)。岡井の歌も藤原の歌も、自分の今の状況と過去の苦い記憶が重ね合わされていることからもそれは明らかだろう。

 さて振り返って掲出歌を見ると、この歌の〈私〉は前者の奥行きと射程の短い〈私〉である。この〈私〉はダンスを踊り君と煮豆を食べる今という瞬間を生きている。現代の若手歌人の短歌に見られるのはこのような〈私〉である。この私の位相は、「イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが『ん?』と振り向く」(初谷むい)の、まるで瞬間の連続のように動詞が終止形に置かれている文体に現れている。現代の若手歌人は歴史性を担う持続的な〈私〉よりも、かけがえのない今という瞬間を生きる〈私〉に惹かれている。

 

『ねむらない樹』vol5, 2020に掲載

藤原龍一郎『202X』書評 パルチザンの狼煙

 本書を手に取るとまず目を惹かれるのは赤地に黒い文字とイラストという装幀である。収録された歌を読むと、それが抵抗と反逆を表す配色だと知れる。しかし黒一色の不気味なイラストの人物は、目深に帽子を被ってこちらを監視しているように見える。

 藤原の何冊目の歌集になるのだろうか。前作の『ジャダ』と較べると内容の違いは一目瞭然である。本書は抵抗と憤怒の歌集だ。藤原の抵抗はまず現代日本の監視社会化に向けられる。

夜は千の目をもち千の目に監視されて生き継ぐ昨日から今日

詩歌書く行為といえど監視され肩越しにほら、大鴉が覗く

『夜は千の目を持つ』はウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ)の小説であり、大鴉はもちろんエドガー・アラン・ポーで、藤原の短歌ではお馴染みだ。

 次に藤原の憤怒が向かうのは、集団的自衛権の解釈が変更され右傾化が現在進行形なのに、五輪開催に昂揚する日本というおめでたい国である。

無花果も桃も腐りて改憲の発議の秋を荒れよ!荒れるや!

世界終末時計はすすむ酷熱の五輪寒雨の学徒出陣

「あれるや」は「ハレルヤ」のフランス語読み。こうした仕掛けがあちこちにあり、藤原の文体は晦渋で重層的である。その一方、子供時代を過ごした深川を回想する歌は柔らかく懐かしい。

夕汐の香こそ鼻孔にせつなけれ深川平久町春の宵

 藤原は本歌集によって、抵抗のパルチザンとして生きる決意を表明しているかのようだ。(六花書林・二七五○円)

 

『うた新聞』2020年8月号に掲載

第287回 石川美南『体内飛行』

銀紙で折ればいよいよ寂しくて何犬だらう目を持たぬ犬

石川美南『体内飛行』

 本年(2020年、令和2年)3月20日、新型コロナウィルスの流行が深刻化して来た頃に出版された石川の第5歌集『体内飛行』が、短歌研究社により創設された塚本邦雄賞の第1回受賞の栄に輝いた。折しも書肆侃侃房から現代短歌クラシックスとして新装復刊された第1歌集『砂の降る教室』でその才能を注目された石川だが、今まで短歌関係の賞には縁がなく、これが初めての受賞だろう。私が実際に会って言葉を交わしたことのある数少ない歌人で、その人懐っこい人柄に魅了されたこともあり、実にめでたいことだ。

 『体内飛行』はいろいろな意味で注目に値する歌集である。1つ目はその出版までの経緯で、これは2017年1月号から『短歌研究』誌に三ヶ月ごとに連載した30首詠をまとめたものである。石川は連載依頼をもらったとき、自分にいくつかのルールを課したという。そのうち重要なのは、毎回身体の一部をテーマとするというルールと、自分の身に起きたことを時系列に盛り込むというルールである。身体の方は途中からうやむやになったようだが、2つ目のルールはますます重要性を帯びることとなった。連載中に祖母の死去、自身の結婚と出産という人生のメルクマールとなる重要な出来事が立て続けに起きたからである。作者自身あとがきで、「もし作品連載がなかったら、私の人生は、これほど大きく変化していただろうか」と述懐しているほどである。

 注目に値する2つ目の点は、今まで物語性が濃厚で現実の〈私〉をあまり作中に投影させることのなかった石川が、かなり生身の〈私〉に近い主体を歌に詠んでいることだ。これは自分に課したルールの2つ目の「自分の身に起きたことを時系列に盛り込む」の帰結の一つではあるのだが、それ以上に結婚・出産という大きな出来事が歌の質を変化させたということもある。「体内飛行」という連載のタイトルを決めたときには思いもよらなかった妊娠・出産を経験して、「タイトルに実人生が追いついて来た」という転倒した感慨を抱くのも無理からぬところである。

 収録された歌を順を追って見てみよう。第1章「メドゥーサ異聞」からして今までの歌と感触がちがう。

中学生の頃が一番きつかつただらうな伏目がちのメドゥーサ

目を覗けばたちまち石になるといふメドゥーサ、真夜中のおさげ髪

遠視性乱視かつ斜視勉強はできて球技がすこぶる苦手

朗らかに答ふ 卒業アルバムの写真撮り直しは要らないと

〈柳眼〉の項ひらかれて詩語辞典はガラスケースに鎮もりゐたり

 一連のテーマは「目」なのだが、そこへ見ると石に変えられるというギリシア神話のメドゥーサを持って来た。もともと石川は具体的な物を出発点として想像を膨らませるのが得意なのだが、この一連には目が悪く眼鏡が離せない石川自身が投影されていると思えてならない。確かに石川は勉強はできるが球技は苦手そうに見える。

 第2章「分別と多感」のテーマは「手」だが、その中に次のような相聞が混じる。今までの石川の歌集にはあまり見られなかった感触の歌である。

空き壜を名残惜しげに愛でながらあなたが終へる今日の逢ひ引き

浅い雪 あなたと食事をするたびにわたしの胸の感触が変はる

逡巡の巡の湿り、今週はあなたが風邪を引いて会へない

 第3章「胃袋姫」のテーマは胃袋と食欲だが、ここにも次のような歌が混じる。「唐辛子マークふたつ」というのは料理の辛さを表すメニューの記号。「指のサイズ」はもちろん婚約指輪か結婚指輪である。

柏餅の餅含みつつ恋人の故郷の犬に吠えられてゐる

指のサイズ確かめたのち唐辛子マークふたつの肉と野菜を

 第4章「北西とウエスト」の「ウエスト」は西の意ではなく、胴回りの方。

人生のくびり辺りの暗がりで薄明かりなす人と落ち合ふ

試着室に純白の渦作られてその中心に飛び込めと言ふ

ウエストを締め上げらるる嬉しさに口から螢何匹も吐く

勘違ひだらうか全部 判押して南東向きの部屋を借りる

 これはどう読んでもウェディングドレスの試着の光景と、結婚して住む新居の賃貸契約である。結婚への準備が着々と進んでいることが知れる。続く第5章「エイリアン、ツー」では同居生活が始まる。婚姻届を出すと花をくれる自治体もあるらしい。

思ひのほか上手に化けてゐるでせう絹ごし豆腐粗く崩して

市役所でもらつた薔薇を数日で枯らして眠たがるわたしたち

南にはネパール料理店がありあなたと掬ふ温かい豆

 第6章「飛ぶ夢」では様々な本からの引用と詞書きが多用されており、祖母の死と結婚式が描かれている。どうやら祖母のお葬式と自分の結婚式が数日違いだったらしい。さぞかし慌ただしかっただろう。四首目では自分の中のメドゥーサに優しく語りかけている。

祖母の好きな賛美歌流れ、わたしよりなぜかあなたが先に泣き出す

赤き目の伯父・父・伯母が順番に駄洒落を言つてそののち献花

をととひと同じ賛美歌、曇つては晴れてゆく視界、はい、誓ひます

親族も友人もやさしくてメドゥーサ、今日は寝てていいのよ

 何と言ってもおもしろいのは第7章「トリ」と第8章「予言」だろう。「トリ」とは胎内の我が子に石川が付けたニックネームである。子宮内の胎児はヒトの進化の過程と再現すると言われているので、胎児をヒトになる前のトリと捉えてもおかしくはない。

ごみピットの匂ひがすると振り向けば苺ひと箱提げてゐる人

淡々と人は告げたり「ピコピコしてゐる、これが心音です」と

見なくてもいいとやんはり断られひとりつくづく見る出べそかな

トリが人に育ちゆく頃新しい燕の家に燕どつと増ゆ

「西瓜さんが西瓜を切るよ」と歌ひつつ硬い丸みに刃を当ててをり

目を細め生まれておいで こちら側は汚くて眩しい世界だよ

薄明に目をひらきあふときのため枕辺に置く秋の眼鏡を

 一首目は妊娠悪阻に伴う異臭感覚で、二首目は妊娠初期のエコー検査だろう。三首目はお腹がずいぶん大きくなって出べそになった歌。最後の眼鏡の歌で連作「体内飛行」はぐるっと回って円環をなして第1章へと戻る。集中屈指の美しい歌だ。

 俗に「自然は芸術を模倣する」と言う。それをもじって言うならば、現実は想像力に追いつくことがある。連載の最初に「体内飛行」というタイトルを決めたとき、作者はまさか自分がこのようにほんとうに体内を経巡る濃密な体験をするとは夢にも思わなかったにちがいない。石川の得意とする想像力に現実の重みが加わって、これから石川の短歌がどのように変化してゆくのか楽しみでならない。

 個人的に私が楽しんだのは歌人が登場する楽屋落ち的な歌である。

『穀物』同人一人ひとつ担当の穀物ありて廣野翔一ひろのはコーン

「燕麦よ」「烏麦よ」と言ひ合つて奈実さん芽生さん小鳥めく

全開で笑ふ田口綾子たぐちよ「予言の書」と呼べば「医学書です!」と正して

「三十代で為し得たことは何ですか」光森さんに聞かれてキレる

 一首目は「京大短歌」「塔」の廣野翔一、二首目の奈実さんと芽生さんは本郷短歌会の小原奈実と川野芽生、三首目の田口綾子は「まひる野」所属、四首目は光森裕樹で、あちこちの短歌団体に出入りしている石川の交友関係の広さが窺える。

 

第286回 阿波野巧也『ビギナーズラック』

まぶしいものに近づいてみる近づいて舗道の上に柿はひしゃげる

阿波野巧也『ビギナーズラック』

 不思議な歌だ。作中の〈私〉が歩道を歩いていると、歩道の上にまぶしく光るものを見つける。近づいてみると、歩道に落ちて踏みつけられたのか、ひしゃげた柿の実であることがわかる。しかし柿の実は今ひしゃげたのではなく、すでにひしゃげているのである。それを「舗道の上に柿はひしゃげる」と表現しているということは、作中主体による出来事の認識と出来事の生起を同一視していることになる。つまり出来事は過去に起きたのではなく、〈私〉がそうと認識した現在に起きたと見なすのである。これは主体としての〈私〉と客体としての世界をはっきりと分けるデカルト以来の主客二分論への大胆な挑戦である。そしてそこには〈今〉の認識が深くかかわっていることは疑いを容れない。作者はこのような世界観を採用しているために、本歌集に収録された歌を読んでいると、何とも言い様のない浮遊感と視野の捻れのような感覚を覚えて立ち止まることしばしばであった。

 阿波野巧也は1993年生まれ。京都大学農学部に入学と同時に、京大短歌会と塔短歌会に入会。2015年塔新人賞を受賞。現在は塔短歌会を離れて同人誌「羽根と根」に所属している。2019年に第1回笹井宏之賞で永井祐賞受賞。『ビギナーズラック』は本年 (2020年)7月に上梓された第一歌集で、解説は斉藤斎藤。

 「すれ違うとき、ぼくはもらう」と題された斉藤斎藤の解説が出色だ。私はめったに解説から先に読むことはないのだが、書いているのが斉藤斎藤だけに今回は解説を先に読んでしまった。斉藤は近代短歌のOSである主客分離による「写生」から論を起こして、阿波野の世代はスマホの自撮り文化の洗礼を受けて、世界と同じ画面に写る〈わたし〉をどう詠むかという課題に直面した最初の世代だと述べている。

 斉藤の指摘は鋭い。近代短歌の写生は、画面の外から風景を見ている〈私〉つまり視点主体という構造に依存している。高野の次の歌も例外ではない。

精霊ばつた草にのぼりて乾きたる乾坤を白き日がわたりをり 高野公彦

 近景の小さな精霊ばったと遠景の日輪のスケールの大きな対比がこの歌の眼目だが、描かれた画面に見ている〈私〉はいない。視点主体はあくまで画面の外にある。しかるにスマホ世代の歌はそこがちがうのである。

冬のひかりにぼくの体があたたまる 都会で暮らしていたいとおもう

スーパーの青果売り場にアボカドがきらめいていてぼくは手に取る

ただの道 ただのあなたが振り返る 月明かりいまかたむいていく

暖房をつければ一回だけ鳴った風鈴 しばらくひとと会っていない

人身事故で電車が動かなくなって外にある桜を撮っている

 一首目の上句は内側から感じる〈私〉の体感で、下句は感慨の間接話法なので叙景部分はほぼない。初句の「冬のひかり」くらいである。二首目は四句の「きらめいていて」までが純粋な叙景だが、結句でいきなり〈私〉が登場してアボカドを掴む。まるでスマホの角度がいきなり変わって自分を写したかのようだ。三首目は「ただの」の反復がリズムを作っているが三段切れの歌である。見かけ上は〈私〉はいないが、「あなた」という二人称は一人称を前提とし、「振り返る」のは〈私〉に向かってなので、視点主体の色は濃い。四首目は上句と下句が切れている歌。上句の核はチリンと一度鳴った風鈴の知覚で下句は感慨だが、「問いと答えの合わせ鏡」(永田和宏)になっていない。五首目は構造としては、桜を撮影している作中の〈私〉を見ている視点主体がもう一人いることになる。

 このように多かれ少なかれ歌の中に〈私〉が写り込むとどうなるか。近代短歌の方法論であった主客分離による写生は不可能になり、客体としての世界は主体と対立するものではなく、世界は〈私〉込みの世界となるのである。デカルト流の主客分離に対抗しようとした現象学の哲学者メルロ=ポンティーは、「世界内存在」としての〈私〉を立ち上げたが、阿波野の短歌の〈私〉もちょっと似ているかもしれない。そのことは冒頭に挙げた掲出歌にも現れていて、作中主体の〈私〉の位置変化がそのまま歌に反映している。

 このように阿波野の歌が描く世界は〈私〉込みの世界であり、逆に〈私〉は世界込みの私である。したがって近代短歌のように世界と鋭く対立する屹立する〈私〉は影を潜め、ゆるやかに世界に溶け込む輪郭のはっきりしない〈私〉が中心となる。

 その〈私〉はいろいろな物に囲まれている。私が本歌集に収録された歌を読んでいて感じたのは、さまざまな物に囲まれて暮らし、街をゆっくりと遊弋する青年が、移動するたびごとに世界が拓かれてゆくという印象だ。

イヤフォンのコードをほどく夕ぐれの雑誌売り場に取り残される

ぼくの手にiPhoneだけが明るくて自分の身体で歩いてゆける

ツタヤ以外のレンタルビデオもあるんだねみたいな顔をきみにされてる

見てきたことを話してほしい生まれ育った町でのイオンモールのことを

デニーズのグラスワインで乾杯を 雨が降ったらあなたへ傘を

2016年もユニクロをこのように着古してすばらしいユニクロ

 阿波野の世代にとっての街とは、このようにコンビニの雑誌売り場やiPhoneやツタヤやイオンモールやデニーズやユニクロが形作る都市である。もちろん花や公園や雨などの自然も詠われてはいるが、歌の背景のほとんどはこのような都市風景である。

 では阿波野の修辞はどこにあるか。次のような修辞を凝らした歌を見てみよう。

お祭りが偶然あってそこにある空間へ透けてゆくさくらばな

風が吹き、けれど意外に揺れてないそこにある草 ゆっくりと坂

みんな立って丸く手首をぶら下げて空間に電車がやってくる

町じゅうのマンションが持つベランダの、ベランダが生んでいく平行

ガードレールがわずかにへこみ陰をなすところに触れる遠く半月

 一首目の「そこにある空間」が何を指すかは判然としないが、お祭りの屋台と屋台の間と取っておこう。そこに桜の花が透けてゆくという措辞がおもしろい。二首目では風が吹いているので草が揺れているのかと思いきや、意外に揺れていないと肩すかしを食らわせて、視線は坂へとそらされる。三首目はラッシュ時の駅の風景で、「丸く手首をぶら下げて」というのは鞄を握っているということか。この歌など吉野裕之の歌を思わせる。四首目も視点のおもしろさが光る歌。マンションには必ずベランダがある。ベランダの床はすべて平行で、都市空間にあまねく平行線があるという幾何学的な歌である。五首目、へこみに「触れる」のは〈私〉で、見上げると半月が空に輝いているという視線の交錯がある。

検温計を静かにしまう昨日歩いた街のにおいを閉じ込めながら

やめたサークルの同期会のお知らせの通知、その通知の薄明かり

秋の光をそこにとどめて傘立てのビニール傘をひかる雨つぶ

みずうみのような眼でぼくを見てゆっくりと閉じられるみずうみ

入口はこちらと示す張り紙のラミネートがほんのりずれている

猫耳のままでお店を出たひとがたばこをくわえてはずす猫耳

キーボードの反力を指に灯しつつ書き換えられてゆくWikipedia

中華屋のショーウィンドウに麻婆茄子こぼれかけてる秋の日のなか

おばあさんがうぐいす色の乗り物でゆっくり進む夕べの歩道

 特に印象に残った歌を引いた。中には近代短歌のコードで読むことのできる歌もあり、それはそれでなかなか美しい抒情歌となっている。


 

照屋眞理子句集『猫も天使も』序文

 

 この度、縁あって照屋さんの遺句集の序文を書かせていただくことになり、書庫から照屋さんの歌集と句集を取り出して再読した。すると二冊の歌集の表紙裏に照屋さんから拝領した手紙が挟んであることに気づいた。私はこの手紙のことをすっかり忘れていた。一通は歌集『抽象の薔薇』に挟んであり、日付は平成一六年一二月一六日。私宛に歌集を送る送り状である。もう一通は歌集『夢の岸』にあり、日付は平成一七年一月二十日。私の方から残りの歌集と句集を購入したいと希望したのに応えての返辞である。どちらも青色インクの万年筆で綴られた達筆の手紙で、筆の運びと行き届いた文章に照屋さんのお人柄がよく表れている。肉筆の手紙を再読して、照屋さんの肉体がもうこの世にないことを改めて実感したのである。

 照屋さんが残されたのは『夢の岸』、『抽象の薔薇』、『恋』の三冊の歌集と、『月の書架』、『やよ子猫』の二冊の句集だから、本句集は第三句集となる。歌集が三冊と句集が三冊ということは、照屋さんが短歌と俳句の両方の領域で活躍された人であることを示している。短歌の生理と俳句の生理はかなりちがうので、両方で等しく活躍することはそうあることではない。照屋さんの師である塚本邦雄もまた句集を持ち俳句批評をしていたので、師に倣ったものと思われる。しかし照屋さんは自分には俳句の方が向いているとしきりにおっしゃっていた。句誌『季刊芙蓉』の代表に就かれてからは、さらに俳句の方に軸足が移っていたと思われる。

 照屋さんの作る短歌と俳句に共通して見られる特徴の第一は、「非在を視ようとする眼」であろう。これは一見すると矛盾している。「非在」とはこの世にあらぬものであり、ないものは目には見えないからである。

まだ見ぬ恋まだ咲かぬ花中空に  『やよ子猫』

切株の夢の梢に小鳥来る

目に見つつ見えぬものる滝の上

虫止んで声のまぼろし残りけり  『猫も天使も』 

もうゐない先刻さつきのわたし流れ星

月出でてきのふ牡丹の在り処わが目の置ける白のまぼろし  『夢の岸』 

 まだ咲いていない桜の花を空に見て、存在しない梢に来る小鳥を見る。滝の上にも目に見えない何かが光っている。近代俳句、近代短歌の王道は写生であり、写生とは目に見えたものを写すことなので、存在しないものを詠むというのはその精神に反している。ではどうして照屋さんは非在を視ようとするのか。その根底には「この世の姿は仮象にすぎぬ」という、照屋さんの心に深く根付いた思想があるからである。もしこの世の姿が仮象であるとしたならば、まだ咲かぬ桜も、長い年月の後に切株から成長するであろう梢も、目の前にある花や木と同じ資格において「存在するもの」となるのである。このように存在の背後に非在を視ようとするのは、短歌と俳句に一貫した照屋さんの変わらぬ姿勢である。

 「この世の姿は仮象」ということは、今ある姿を取っているものも別な姿で立ち顕われるかもしれないということであり、その筆頭は〈私〉である。

胸鰭のありし辺りに春愁  『猫も天使も』 

猫じやらしわれに微かな尾の記憶

春風や偶偶たまたま人にれしのみ  『月の書架』

人間ひとのふりして加はりぬ踊りの輪  『やよ子猫』

人間の皮猫の皮かりそめに着て夜の秋のたましひ二つ  『恋』 

 目には見えない胸鰭や尻尾を体に感じるのは、ヒトという種が魚類から進化したということではなく、神様の振る骰子の目が一つちがっていたら私は魚や猫としてこの世に生を受けていたかもしれぬということだ。だから私の膝で眠る猫も私もたまたまこの姿でこの世にいるにすぎない。こういう想いが照屋さんの心の深い処にあった。

 だとすれば今ある形を取って在るこの世と、また自分が別の形を取って生まれる別の世とは等価であり、その差分は僅かと感じられてもおかしくはない。

野遊びやさきの世の尾を戦がせて  『猫も天使も』

またの世の今はさきの世天の川

またるる日までこの世に鶴でゐる   『やよ子猫』

月明に逢はなむ人を辞めて後

夏椿ひらくかたへにそと置きてうつし身はすずしきこの世の嘘

                          『抽象の薔薇』

 現世のみが世界ではなく、この世に存在するものだけが存在ではない。この世と別の世を自在に行き来できるわけではないが、この世に在るものの傍らに別の世が色濃く感じられる。そのような感覚が照屋さんの俳句や短歌に独自の味わいと奥行きを与えている。

 現世は連綿と続く前の世と後の世に挟まれた須臾の間に過ぎないと感じるならば、「一期は夢」との想いを深くするのは当然の成り行きである。事実、照屋さんのデビュー作となった歌集の題名は『夢の岸』だったことを鑑みれば、その想いは若い頃からすでに照屋さんの胸に生まれていたと思われる。

またの名は螢この世を夢と言ふ  『猫も天使も』

前世後世この世も夢の桜かな   『月の書架』

神が見る夢がこの世よ春うらら

ああわたしたぶん誰かの春の夢   『やよ子猫』

一期の夢の途中道草して花野

美しい夢であつたよ中空ゆ振り返るときこの世といふは  『恋』 

 改めて読み返してみると初期の作品に詠まれた「夢」はどこか抽象的で観念的把握に留まっている。しかし歳を経るに従って夢の想いは体内深く沈潜し、照屋さんの日々を浸すようになって、句にも凄みが増しているように感じられる。二○一三年の『季刊芙蓉』九七号に照屋さんの句集の評を書いたときにも取り上げたのは「夢」だった。すると照屋さんから「また夢ですか!」といささか不満げなメールが届いたことがあったが、「一期は夢」は照屋さんから離れぬ想いだったのだからいたしかたない。

 照屋さんは重いこの世の肉体を脱ぎ捨て、夢の中で幾度も訪れた別の世で軽やかに遊んでいるにちがいない。そんな自分の姿を照屋さんは句や歌に繰り返し詠んでいる。残された句集・歌集の中に心を遊ばせれば、そこには形を持たなくなった照屋さんがいつもいるのである。私たちは書を開くだけでよい。

こんなに軽くなつて彼岸の野に遊ぶ  『月の書架』

もうかたち持たずともよきさきはひを告げきて秋の光の中  『恋』

 

照屋眞理子『猫も天使も』角川書店、2020年7月15日刊行

第285回 近江瞬『飛び散れ、水たち』

開けっ放しのペットボトルを投げ渡し飛び散れたてがみのように水たち

近江瞬『飛び散れ、水たち』

 歌集題名が採られた歌である。「投げ渡し」という複合動詞で歌の場面には別の人がいることが知れる。同世代の若い友人だろう。目上の人や子供には、栓を開けたままのペットボトルを投げたりしないからである。中身の鉱泉水がかかっても、「おい、何するんだよ」で済む気の置けない相手だ。飛び散る水に、たてがみのように散れと命じている言葉は、実は自分たちに向けられた言葉でもある。たてがみはライオンや馬などの動物に見られるもので、ライオンでは雄に限られており、雄々しさの象徴である。次の歌のようにドアのノッカーと化していても、たてがみは凜々しい。

鬣に森の名残りの香を立たせ氷雨にむかうノッカーの獅子  

               山田消児『アンドロイドK』

 だから掲出歌は雄々しくありたいという願望を抱えた男子のまぶしいほどの青春歌なのである。

 結社誌『塔』の7月号で塔短歌会賞が発表され、昨年度の塔新人賞に続いて近江瞬が受賞した。よいタイミングなので『飛び散れ、水たち』を取り上げたい。

 近江瞬は1989年生まれ。短歌との出会いは書店の古本コーナーで偶然手に取った俵万智の歌集『あれから』だという。それから歌歴わずか5年だというから驚く。塔新人賞以外にも、歌壇賞、笹井宏之賞、短歌研究新人賞などで、最終候補や佳作に選ばれている。『塔』期待の新人と言ってよい。『飛び散れ、水たち』は今年 (2020年)の5月に刊行されたばかりの第一歌集で解説は山田航。

 山田も解説で指摘しているように、本書はまぶしいほどの青春歌集である。したがって詠まれている世界は少し過去のこととなる。そして季節は光溢れる夏である。

何度でも夏は眩しい僕たちのすべてが書き出しの一行目

僕たちは世界を盗み合うように互いの眼鏡をかけて笑った

黄昏に盗まれてゆく教室で君から充電コードを借りる

みずうみの波の始点となるような声にならない君の耳打ち

何歩目のグリコでしたか少年が大人の顔をし始めたのは

 一首目は巻頭歌。歌集を編む時は、誰しも巻頭にどの歌を置くかに腐心する。巻頭歌は歌集全体のトーンを決めるからである。「すべてが書き出しの一行目」は、それほど残りページがない身から見れば羨ましい限りだが、誰にもそういう時期があったのである。二首目、人の眼鏡を借りて掛けると、度数がちがうので世界が少しちがって見える。それを「世界を盗み合う」と表現している。この程度のことで笑い合えるのが若さに他ならない。三首目の教室は大学でもおかしくはないのだが、どうしても高校だと思えてしまう。四首目は女性の秘密の耳打ちを波の始点と捉えているところが美しい。五首目はじゃんけんでグーで勝ったら「グリコ」で3歩、パーで勝ったら「バイナップル」で6歩、チョキで買ったら「チョコレート」で6歩進むという子供の遊戯に子供から大人への変化を重ねた歌。

 上に引いた歌は屈託のないきらきらする青春である。しかし青春は光に満ちているばかりではない。そこには青春特有の影もまたある。

僕たちはまだ行き先すらも決められず丁字路にながくブレーキを踏む

てっぺんにたどり付けない服たちが落ち続けているコインランドリー

標識の行き先がみな未来だと突きつけられている帰り道

容器ではなくて剥がした蓋につくヨーグルトに似て、教室に僕

内側に未来を抱いてトイレットペーパーその芯だけは空白

 一首目は可能性と同義の将来の未決定という宙ぶらりんの状態におののく青春。二首目は、ドラムの中で回転して頂点に辿り着く前に落下する洗濯物に己の姿を見る歌。三首目も一首目と同工異曲の歌。四首目、自己評価の不安定もまた青春特有の現象である。特に同じ教室に学ぶ学友と自分を比較して、自分のランクはどのあたりと考えることが多い。この歌では自己評価は限りなく低く、蓋に付いたヨーグルトである。五首目、未来に広がる可能性という手形はもしかして不渡りかもしれず、自分の中身は空っぽだと詠う。しかしこのような影もまた確実に青春の一部である。

 はっきりと歌のトーンが変わるのは、三部構成の第三部からである。

塩害で咲かない土地に無差別な支援が植えて枯らした花々

上書き保存を繰り返してはその度に記事の事実が変わる気がする

あの時は東京で学生をしていましたと言えば突然遠ざけられて

僕だけが目を開けている黙祷の一分間で写す寒空

避難路の整備のために立ち退いた寿司屋が廃業する八年目

 作者は宮城県の石巻市の生まれである。2001年の東日本大震災の時には、東京で大学生をしていた。実家に電話して「帰ろうか」と言うと、「食糧が一人分減るだけだから帰って来るな」と言われたという。それだけでも心が締め付けられる。大学を卒業後、東京で就職して働くが、思うところあって故郷に戻り新聞記者となる。第三部はそれからの歌である。

 一首目、被災地の支援は本来は現地の実情に即したものが必要だが、そうでないものもあるのが現実だ。善意で植えた花は塩を浴びた土地では育たない。二首目、同じ出来事でも何度も語るうちにその意味や重みが変化するように感じられる。三首目、震災の惨禍を共有できなかったという心の痛みは消えることがない。四首目、みんなが黙祷する時に目を開けているのは新聞のための写真を写すためである。仕事とは言え、ここでもみんなと気持ちを共有できないという心の屈折がある。だから翌日に「三月十二日の午後二時四十六分に合わせて一人目を閉じている」ということになる。五首目、震災からの復興事業のあおりをくらって廃業する店もある。間接的ながら震災の二次被害である。「あのときどうすればよかったのか」という問は、作者ならずとも多くの人の心にまだ棘のように刺さったままだろう。

 塔短歌会賞受賞作の「ネジCとネジE」にも触れておく。謎のような連作題名は、次の一首目に由来する。

ネジCが別の説明書の中でネジEとして使われている

売れているタンスを目立つ場所に置く売れているタンスが売れていく

クレームをアフターと言い換えている 貧乏ゆすりに気づいて止める

社員への打診があった片岡さんがそれから三ヶ月後に辞めた

どこまでを社員でいよう送別会終わりの駅で手を振りながら

退職後五日が過ぎたフロア内を客でも店員でもなく歩く

 作者は大学を卒業後、東京で家具店に勤務していた。受賞作は勤めを辞めるまでをていねいに構成した一連となっている。一首目は家具の組み立て説明書のなかで、同じネジがある説明書ではネジCと、別の説明書ではネジEと呼ばれていることに気づいた歌。ネジは汎用でありどこにでも使われる。唯一無二のネジというものはない。働く自分たちもまた交換可能な部品にすぎない。連作中で私がいちばんいいなと思ったのは六首目の歌である。ついこの間まで勤めていた店を、客でもなく店員でもなく歩いてみるというのは、会社を辞めてまだ次の勤めを始めていない宙ぶらりんの状態には解放感も伴うだろうが、同時にまるで自分が誰にも見えない幽霊になったような奇妙な感覚だったことだろう。

狭き空を飛行機雲が真四角に切り抜いて開く雨の入口

晩夏にブルーシートを掲げれば無数の光に変わりゆく傷

雨の降り始めた街にひらきだす傘の数だけあるスピンオフ

水風船ふくらんでゆく半分は蛇口のこぼす夏の吐息に

かごのなか収集車を待つ瓶たちの粉々になるほうの透明

飲み込んだ海の一部を返すとき魂のごと糸引く唾液

靴底に溜まった砂場の砂を捨て「あっ」とつかむ夏のひとかけ

句読点の付け足されゆく校正の各所で開く赤い雨傘

 印象残った歌を引いた。よく使われている語は「夏」「光」「青」「透明」で、これを見ても本歌集が青春歌集であることがよくわかる。ゼロ年代に登場した若手歌人たちは穂村弘に「ゼロ金利世代」と呼ばれ、リア充からはほど遠い不景気な日常を低いテンションで詠うスタイルが多かったが、近江はそれとは180度方向性を異にしている。その意味でも注目すべき歌集である。

 このようなキラキラした青春歌集を読むと時代の変化を感じないわけにはいかない。『現代短歌の全景 男たちの歌』(河出書房新社 1995)の座談会で小池光が、自分たちの若い頃は詩を作っていると言うと、尊敬されて大きな顔ができたが、短歌を作っていると言うと「おまえはばかじゃないか」と言われる雰囲気があったと発言している。小池の念頭にあった詩というのは、戦後詩を代表する田村隆一ら荒地派のことだろう。また別の所で小池は、俵万智の『サラダ記念日』の画期的な点は、それまでの短歌にまとわりついていたウラミから歌を解放したことだとも述べている。近江はおそらくそんな時代の雰囲気も短歌が内包する影も知らないだろう。そういう意味でも時代がひとつ回ったように感じるのである。

 

第284回 北大路翼『見えない傷』

我が歩幅越ゆることなき蜷の道

北大路翼『見えない傷』 

 になは田螺に似た小さな巻き貝で、ここでは田んぼや小川にいる川蜷だろう。田んぼの水底の泥の上を川蜷が移動すると、轍のような後がかすかに残る。それが蜷の道である。蜷はとても小さく移動もゆっくりなので、移動した痕跡はいつも短く、私の一歩の歩幅を越えることがないという句である。季語は蜷で春。人と蜷の大小の対比のおもしろさ、ゆっくりと流れる春の時間、変わることなき自然の摂理といったものを感じさせる句である。

 北大路翼は1978年生まれの俳人。小学生の時に種田山頭火を知り、無季俳句を作り始めたというから、相当な早熟で無頼への憧れもすでに芽生えていたのだろう。中学に進むと国語の教師が今井聖だったというから驚きだ。田中槐の高校の国語の先生が村木道彦だったというのと同じくらいの出会いである。以来有季定型句に転校し現在に到る。新宿歌舞伎町を根城として俳句一家「屍派」の家元を名乗っている。『見えない傷』は『天使の涎』、『時の瘡蓋』に続く第三句集である。

 北大路というと昨年(2019年)の夏頃に、TV番組「激レアさんを連れて来た」でその姿を見た。めったにしないような特異な経験をした人を連れて来て、その一部始終をアナウンサー広中綾香が手書きのパネルで語るという番組である。北大路はツバサ君という名で紹介された。登場したとたん、ゲストの女優足立梨花が「あっ、歯がない!」とつぶやいたのをよく覚えている。前歯が何本か欠けていたのである。歯が欠けていると無頼メーターが跳ね上がる。しかし身にまとわせている無頼な空気とは裏腹に、作る俳句は実にまっとうな旧仮名遣いの有季定型句である。

刃物みな淑気に満ちて台所

ゴミ捨て場飛び出してゐる破魔矢かな

喰積や人来るたびに箸出して

リムジンが曲がれぬ垣根の落ち葉焚き

一月の茶碗の中の山河かな

 2017年新年から引いた。一句目の淑気は正月のめでたい気分のことで新年の季語。刃物が淑気に満ちていると感じられるのは、歳の暮れに慌ただしくおせち料理をこしらえた後、きれいに研いで仕舞われているからだろう。凜とした正月の空気を感じさせる。二句目、破魔矢は正月の縁起物として飾られるが、松が取れて用済みになるとふつうのゴミとして捨てられる。しかし長いのでビニールのゴミ袋を突き破って飛び出しているのである。決して美しい光景ではないのにこのような場面を詠むのは、俳句が些細なことにおかしみや哀感を感じ取る詩型だからである。この句では「飛び出してゐる」がポイント。三句目の喰積は重を重ねるおせち料理のこと。年始の客が来る度に祝い箸を出しておせちを勧めるという正月の場面である。四句目の季語は落ち葉焚きで冬。リムジンが道の狭い住宅街を通っている。リムジンの車体は長いので角を曲がれないのだ。リムジンは芸能人やセレブが好んで乗る車なので、なぜこんな庶民の住宅街に来ているのかという所に何か物語がありそうだ。五句目の山河は茶碗の内側の絵付けと取ることもできるが、ふつう茶碗の内側には絵付けをしないのでそうではなかろう。茶碗には五目ご飯か炊き込みご飯が盛られている。その具を山河と捉えたものと取る。この句では一種の誇張法によって、一椀の飯に山河を見る壮大さがポイントである。

 上に引いた句を読んでいると少しおかしいと感じることがある。時代がやや古いのである。今どき正月に年始の客が次々と来ておせち料理を食べる家があるだろうか。また住宅街の道で落ち葉焚きをしている光景もとんと目にすることがなくなった。下手をすると消防に通報されてしまう。北大路がこれらの句に詠んでいるのは、記憶の中にあるなつかしい日本ではないだろうか。

桃の花こぼれてゐたる名刺受

海市立つ流木踏めば骨の音

新学期画鋲の穴にまた画鋲

問診に嘘少しまぜ春の昼

石鹸玉祈る言葉がつぎつぎと

 一句目、ふつうの家に名刺受けはないので会社の光景だろう。花瓶に挿した桃の花だろうか、名刺受けに零れているという美しい場面。花びらが自然が寄越した名刺という見立もできる。二句目の海市は蜃気楼のことで春の季語。浜辺を歩いている場面である。風雨に曝された流木が骨に似ているというのはいささか普通か。三句目は小学校の教室の場面だろう。壁に画鋲の穴があいているのは掲示物を貼ったからである。新学期を迎えて新たに掲示物を貼るときに、その穴にまた画鋲を刺すという句である。「だから何だ」と言われると困るのだが、こういう些事におかしみを感じるのが俳句なのだ。四句目は会社の定期健康診断か。身長や体重測定、視力検査の後に医者の問診が控えている。「お酒はどのくらい飲みますか」とか「煙草は一日何本くらい吸いますか」という質問にやや過少申告しているのである。五句目、子供が庭でシャボン玉を作って遊んでいる。シャボン玉はくるくる回りながら虹のように煌めいたかと思うと、パチンと割れて消えてしまう。次々と生まれては消えてゆく様を眺めていると、永遠の輪廻という思いが浮かんで祈りの言葉が湧いて来るという句だ。

 こうして鑑賞しているときりがないので、付箋の付いた句を挙げておこう。山のようにあるので厳選する。

ブロッコリー緑の粒の謀

かげろひてをり海苔弁の蓋の裏

夏至の雨は泣いている男の子の匂ひ

硝子戸の雫は海で死んだ人

ヨガ用の小さきマットや獺祭忌

白菜の芯まで煮えて一人きり

大根も過去もいづれは透き通る

花冷えの麻雀牌の彫り深し

滅びゆくものの匂ひや缶ビール

冷蔵庫の小さくなつてゐた実家

薬局の白さの残る洋菓子店

境内の形に合はす踊りの輪

吃音の少年を買ふ寒の雨

 一句目「ブロッコリー」を読んで、穂村弘・東直子・沢田康彦『短歌はプロに訊け』に収録された「めきゃべつは口がかたいふりをして超音波で交信するのだ」という本上まなみの歌を思い出した。ブロッコリーの緑の粒粒を見ていると、ふと何か陰謀を巡らせているのではという気がするという句。「ヨガ用の」の句は脊椎カリエスで寝たきりだった正岡子規へのオマージュ。ヨガ用の小さなマットから子規が寝ていた布団を思うという句である。「冷蔵庫」の句は、夫婦二人になり歳をとって料理も作らなくなって、電気代のかからない小さな冷蔵庫に買い換えたという句。「薬局の」は元は薬局だった建物を改装して洋菓子店を開いたのだが、塗装に白さが残っているのだろう。「吃音の」の句は特に無頼の匂いがする。

 特に感じ入ったのは次の句だ。

春巻の断面よぎる蝶の影

 春巻きの断面に蝶の影が差すことは現実にはあるまい。だからこれは幻影の句である。しかしながら春巻という庶民的な食べ物と、どこかふらふらと漂う死者の魂を思わせる蝶の取り合わせがよい。春巻を羊羹や蒲鉾に換えても句は成り立つが、やはりここは春巻がよく動かない。

 かねてより不思議に思うのは、同じ短詩型文学なのに短歌より俳句の方が無頼風狂の度合いが高いのはなぜだろう。俳句は短歌より短いために、逆説的ながらより自由度が高くて前衛・過激に向かうのかもしれない。

 

第283回 柴田葵『母の愛、僕のラブ』

 

ぼろぼろと光を零してはつ夏のきゅうりを交互に囓りあう朝

柴田葵『母の愛、僕のラブ』

 初夏の蒸し暑い朝のこと、冷房のない部屋の暑さをしのぐためか、冷蔵庫から出した冷たい胡瓜を二人でかわるがわる囓っている。一読して若いカップルだとわかる。「光を零して」とは、口から零れ落ちる胡瓜の欠片が朝の光に煌めく様を言っているのだろう。奇妙に詩的に描かれた場面だが、読んでまず抱いた印象は「どこか過剰なところがある」というものだ。そしてこの「どこか過剰」というのはこの歌に限定されるものではなく、本歌集の全体に漂う空気でもある。

 2019年12月に刊行された『母の愛、僕のラブ』は、短歌ムック『ねむらない樹』が主宰する第一回笹井宏之賞の大賞受賞者である柴田葵が、副賞として出版した第一歌集である。プロフィールによれば、柴田は1982年生まれ。銀行勤務ののち結婚して渡米し、それをきっかけに短歌を作るようになる。第6回現代短歌社賞候補、第2回石井遼一短歌賞次席にも選ばれている。笹井宏之賞の選考委員は、大森静佳、染野太朗、永井祐、野口あや子、文月悠光の5名で、他の短歌賞に較べれば圧倒的に若い。選考座談会では柴田を推す永井祐が議論をリードし、永井の読みに他の委員が影響され賛同する形で進行している。

 受賞作となった「母の愛、僕のラブ」は読むのに注意が必要な連作だ。まず「母とふたり暮らしだった」という詞書きが冒頭にあり、母子家庭という環境が暗示される。歌で「僕」と自分を呼んでいるのは実は女の子であることが読み進むうちに知れる。また連作中に【 】でくくられているのは母の声で、自分を僕と呼ぶ娘の声と母の声が交錯する交響楽的構成になっている。

僕は先生を漂白する役でドアノブを回すとへんな音

【神様はいないのこれは学問よしあわせになる勉強会よ】

てづくりをする信念のママの子に産まれて着色されない僕ら

【戦争にいかせたくない わたし自身が戦争になってもこの子だけは】

僕らはママの健全なスヌーピーできるだけ死なないから撫でて

あがりすぎて戻れない凧 凧からの糸を握った僕の手はハム

 「先生を漂白する役」とか「着色されない僕ら」などどう意味を取ればよいのかわからない箇所もある。しかし全体から湧き上がって来るのは、育児に独特な拘りを持つ束縛的な母親の下で、真綿で首を絞められるようにして暮らす子の窒息感だろう。その後、「母の家を出た僕は恋人からボクっ娘をやめろと言われた」、「母から、母の結婚式の招待状が来た」、「友達がいないことを母に隠している夢だった」という詞書きがあり、次のような歌が並んでいる。

自分ちにいるのに家に帰りたい刈っても刈っても蔦の這う家

殴られている音がする洗濯機 犠牲になるのは私でいいよ

バーミヤンの桃ぱっかんと割れる夜あなたを殴れば店員がくる

バイトバイト私はバイトの人になる駅前の鳩がねんねん増える

学校に行けない夢から目覚めればもう三十歳だったうれしい

汚れから私を護るエプロンをラブと名付けてラブが汚れる

 流れとしては恋人ができて母の下を離れ、恋人と暮らすようになるが、そこにDVを思わせる歌もある。母の束縛を逃れて幸福を求めても、母との関係を抜け出すことができずにもがく姿が詠われている。選考座談会で柴田を推した永井は、「作為が徹底している」「全体を構造化する手つきがしっかりとある」と評している。

 本歌集に収録された他の歌も見てみよう。

カロリーメイトメイトが欲しい雨あがり駅のホームでほろほろ食めば

水を買うその違和感で日々を買うわたしのすきなおにぎりはツナ

きみは私の新年だから会うたびに心のなかでほら 餅が降る

うんと眉根を凍らせてゆくビル街のどこからくるんだインドのかおり

美容院あるいはバーバー閉じられてすべての季節の造花が窓に

 一首目では駅のホームでカロリーメイトを食べている。カロリーメイトはゆっくり食事する時間がないときに手っ取り早くカロリーを取る手段だから、作中の〈私〉は仕事に追われているのだろう。カロリーメイトからの連想で、メイトつまり恋人か友人がほしいとつぶやく。二首目はコンビニで水を買う違和感をまず述べている。「日々を買う」は、にもかかわらず毎日コンビニで何かを買っているということだろう。そんな違和感があるのに、下句では好きなおにぎりはツナと言い放っている。三首目は思わず笑ってしまったが、私にとって恋人の君は新年と同じ価値を持っている。だから君と会うたびに心の中で餅が降るような喜びを味わうというのである。恋人を餅に喩えるそのストレートさに驚く。四首目の「眉根を凍らせて」はおかしな語法だが、「眉をひそめる」がさらに進行した状態を言うのだろう。作中の〈私〉は心中穏やかならぬものがあるのだ。そこにカレーの香りが漂って来る。五首目は美容院と理容院を兼ねた店だろう。閉じられているのだから、今日はもう閉店したかあるいは廃業したのだ。ここでは廃業と取りたい。窓の中を外からのぞくと季節に関係なく造花が飾られている。

 笹井宏之賞の選考座談会で染野が、他の賞では応募者の年齢もばらばらで文体の差がつくのだが、今回は口語短歌が目立つ気がして、細かい差異に敏感にならざるを得ずたいへんだったと述べているのが印象に残った。選考委員が若いこともあって、応募作品は口語短歌が多かったのである。柴田ももちろん口語短歌である。読んでいると口語短歌の持つある種の傾向と問題点に気づくことがあるので、今回はそのことに触れてみたい。

 大辻隆弘は著書『近代短歌の範型』(2015年、六花書林)所収の「多元化する『今」― 近代短歌と現代口語短歌の時間表現』という出色の文章の中で次のように述べている。近代短歌は作者がただ一つの「今」という時間の定点に立つことによって成立している。そして「今」より前の出来事は過去または完了として、「今」より後の出来事は推量として表現される。大辻は茂吉の次の歌を引いてこのことを解説する。

わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたるみちに佇みにけり

 この歌では作者は最後の「けり」という詠嘆過去の助動詞を発した時点を「今」としている。そしてそれより前の出来事は「居たりしが」の助動詞「たり」と助動詞「き」によって過去完了となる。このように近代短歌の時間表現は、作者の立つ「今」という定点を軸に構成されるというのである。確かにその通りである。

 ここで「けり」は過去を表す助動詞なので、なぜ過去が「今」なのかという疑問を抱く向きもあろうかと思うので、大辻の文章の要約を離れて少し触れておこう。ここで言う「今」とは発話時現在の「今」ではない。発話時現在は文を発した時点をいうので、近代短歌であれ現代口語短歌であれ発話時現在は同じように存在する。大辻が問題にしている「今」は、作中人物の〈私〉が夕暮れの道に呆然と佇んでいることにハッと気づいた時点である。この「今」は発話時現在のように発話と外的世界との関係によって規定されるものではなく、作品の描く内的世界で〈私〉が生きている時間なのである。私たちは物語をするとき必然的に過去形を用いる。出来事の生起は過去形でしか表現できないからである。「私はころぶ」は予測か予言にしかならない。「私はころんだ」として初めて出来事になる。だから作中の〈私〉が「今」感じていることを語ろうとすれば過去形「けり」を用いることになる。だからこそドイツのテクスト言語学者ケイト・ハンブルガーは、たとえ未来を描くSF小説でも語りは過去形で行われると喝破したのである。

 大辻の文章にもどろう。大辻は続いて永井祐の歌を引いて、近代短歌の「今」とのちがいを次のように述べている。

白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう  永井祐

 現代の口語短歌には定点としての「今」がない。たとえば永井の歌では、「白壁にたばこの灰で字を書こう」と思いついた「今」①、「思いつかない」とあきらめた「今」②、「こすりつけよう」と考えた「今」③があり、「今」を一点に定めることができない。つまり作中主体の〈私〉は歌の中で一点に留まることなく時間を移動しているのである。「今」の裏側には〈私〉が張り付いているので、「今」の数だけ〈私〉があるとも言えるかもしれない。

 柴田の短歌を読んでいると大辻の言うことがよく当てはまる例があり、一人永井に限るものではないことがわかる。

ここからは僕がルールだその次にきみがルールだ白墨をひけ

朝からもうがんがん暑いイチゴジャム甘すぎる赤すぎるきれいだ

犬がゆくどこまでもゆくあの脚の筋いっばいの地を蹴るちから

 これらの歌の中には複数の「今」があり、作中主体の〈私〉は飛び石の上を渡るように次々と「今」を渡る。近代短歌の「今」が一点に固定されていることは、歌の中の視点もまた一点に固定されていることに通じる。そのことが近代短歌の結像性と、それを基盤とする歌の背後に現れる一人の〈私〉を担保していたことはまちがいない。ひるがえって現代の口語短歌では、複数の「今」の間を移動する〈私〉は視点の固定化とは逆の結果を生む。このために歌から析出される〈私〉の姿もまた変わらざるを得ないのである。柴田の作る短歌にどこか過剰で演技的なものがあることも、これと無関係ではないように感じられる。時点と視点が固定していない〈私〉を浮上させるには、何らかの強度が必要になるのではないだろうか。

 最後に印象に残った歌を挙げておこう。

土砂降りの高層ビルの応接にうつくしい水だけの水槽

熱帯に羽ばたく鳥のくちばしを捥いで合わせたような鋏よ

ほろぼされたまぼろしのきみ ひとすじの髪をアヤメの葉のように染め

冷えきったガードレールの歪みからたちのぼる過去を肺まで入れて

褪せた桃いろの毛布とはじめからそんな感じの空いろの毛布

イヤホンの右側だけを臍にあて音をわけあうとても寒い日

公園の蛸すべりだいはすり減って蛸を脱したすべらかなもの

結婚をした日の雨は地を廻りわれら果てなく限りある旅