096:2005年3月 第4週 大津仁昭
または、骨と異星の幻想の果てに霊は空中を浮遊する

きみの脚の骨をそろりと抜き取つて
    うすあおいろに染めたきゆふべ

         大津仁昭『海を見にゆく』
 どこかで読んだ記憶のある歌だと思っていたら、俵万智『三十一文字のパレット』(中公文庫)に引用されていた。俵の解釈は、「脚の骨」は未知の女の未知の部分であり、女を真に自分のものにするということは、女の未知の部分をも所有することであり、一見静かなようでいて激しいものを秘めた恋の歌だ、というものである。短歌は基本的に多様な解釈が可能であり、俵の解釈を一概にまちがいだとすることはできない。しかし大津の歌集を通読すると、作者には骨と人体の内部に対する偏執的志向性があることが誰にでもわかる。その目でもう一度掲出歌を見ると、俵が言うほど脳天気な「恋の歌」と断じることはできなくなる。「そろりと」という時代がかった擬態語、「うすあおいろ」の平仮名表記とそれが意味する淡い色彩、全体を貫く口調の童話的平明さ、これらが一首に不思議な透明感と底の知れない不気味さを与えている。初句六音も効果的である。

 大津仁昭 (おおつ・ひとあき) は昭和33年 (1958年) 生まれで「心の花」会員。私は邑書林の「セレクション歌人」叢書の「大津仁昭集」で初めてその名を知り歌を読んだ。「大津仁昭集」には第一歌集から第四歌集までの抄録と、第五歌集の完本が収録されている。この手のアンソロジーを作者本人が編纂するとき、初期歌集は抄録に留め、いちばん最近の歌集の完本を収録することが多い。作者にしてみれば、初期歌集はもう自分からは遠い存在であり、場合によっては否定して闇に葬りたい世界のこともある。最新作が現時点での自分の実像に最も近いとの思いから、そのような選択になることは理解できる。しかし、読者の見方は少しちがう。初期歌集で萌芽的に顔を出していたさまざまなモチーフのなかには、第二歌集・第三歌集と進むにしたがって、切り捨てられて行くものがある。歌人は自らの中心的モチーフを深化する過程で、周辺的モチーフを夾雑物として削ぎ落して行く。後期の歌集を最初に読んだ読者は、初期歌集を後で読んで、こんな豊かな世界があったのかと驚くことがある。アンソロジーにおいて初期歌集が抄録というのは、いの意味でいささか寂しいのである。最近読んだ『第一歌集の世界 青春歌のかがやき』〔ながらみ書房〕を見ても、第一歌集の輝きと豊饒さは否定することができない。

 セレクション歌人の「大津仁昭集」には、第一歌集『海を見にゆく』からはわずか41首しか採られていない。この歌集は1987年に上梓された。俵万智『サラダ記念日』、加藤治郎『サニーサイドアップ』と同年のことだ。バブル景気という時代背景のなかで口語短歌・ニューウェーブ短歌が勃興し、短歌の大衆化時代を迎えたと表面的には見えた年である。「大津仁昭集」に解説を寄せた谷岡亜紀の指摘するように、このような短歌シーンのなかで時代の流行から超絶して独自の短歌世界を作り出そうした孤独で静かな歩みがこの歌集には感じられる。谷岡が解説で引いている歌も含めて、その世界を見てみよう。

 めぐり来む真夏の不在 姿見に蝶の群なすごとき唇跡(くちあと)

 電話帳逆さに繰れば見えてくる見えない蝶が眠る森林

 わが影も化石となりて死にたきをいきものの目の熱き夜なり

 失明のとほき未来の青年像 台座に姉はしづかに凭れ

 からつぽのソースの残滓(をどみ) 姉たちの植物祭の追憶として

 「わたくし」を過ぎし一人の旅人と遭ふ転生の後の春夜に

 ここには大津の短歌世界を構成するモチーフがよく現われている。「真夏」「蝶類」「原色の森」 は青春の記号であり、生の燃焼と性欲と関係していることは明らかだが、これらは第二歌集・第三歌集と進むにしたがって消えてゆくモチーフである。一首目、真夏は不在なのであり、すでに喪われたものとして想起されている。青年大津を捉えたこの「喪失感」に留意したい。姿見の鏡面に残された無数のキスマークのイメージは鮮烈であるが、それは同時にキスマークを残した人の不在を意味している。二首目、「見えないものが見えてくる」という視点は大津の基本的スタンスであり、短歌の核を形作る視座である。ここからもわかるように、大津の短歌はリアリズム・生活実感・写生からはほど遠く、その幻視の深さにおいて塚本邦雄を遠望するところがある。三首目、「化石」は大津の歌の重要なキーワードのひとつである。先取りすることになるが、第二歌集からも引用しよう。

 新しき地下鉄の駅完成し傷つきし石の光る真夜中

 生物がわたしひとりである星で炭素に帰り夜を坐らむ

 省庁は休日われは石材のアンモナイトの化石に凭れ

 体内の棚にしづかに眠りゐる鉱物となれわたしの臓器

 巻末の略歴で大津は、幼少時に昆虫・化石・植物に魅せられたこと、小学校の階段の踊り場に七色に輝く化石が置かれていたことを書いている。谷岡は大津に「石化願望」があると指摘しているが、硬質に輝き永遠に形を留める化石が、ぐにゃぐにゃで曖昧ですぐ腐る生との対比において捉えられていることは明らかである。つまり化石は〈私〉の生の不全感の対極にある静かな形象として、〈私〉の生を逆照射してやまないのだ。

 第一歌集から引用した歌に戻ろう。四首目と五首目には「姉」が登場する。「姉」はほのかなエロスの対象であるが、それは「姉たち」と複数形で捉えられる存在であり、平井弘の「兄たち」と同じく作者が志向する追慕の集団的形象である。六首目の「『わたくし』を過ぎし一人の旅人」とは、今生において〈今・ここ〉という時空上の位置に展翅された〈私〉という存在を越えて自由になった〈私〉を意味するのだろう。大津はこのようにあの世での転生と、この世に生まれる前の前世とに、想像力によって飛翔することを殊更に好む精神の形を持っている。

 もうひとつ特異だと感じるのは、大津の「内部」を幻視する視線であり、それが時に人体に及ぶことである。

 店先に戯れてゐる猫たちの寿命が透けて見ゆ 陶器市

 新築の家並びをり懐妊の姉の胎内夕焼けに満ち

 妊婦いま二重人間 内側の人ガラス化し進化図照らす

 猫の体に寿命を透視するという視線は尋常ではない。妊婦の大きな腹はその中に入っているものを思わせるが、「進化図照らす」という視点がユニークである。ヒトが水棲生物から進化してきた過程が、個体発生において反復されている様子を指しているのだろう。

 先に「あの世での転生と、生まれる前の前世」が大津の心を大きく占めていると書いた。死後の幻視と石化願望が結合すると、自分の骨を想像するようになる。大津には骨になった自分を詠った歌が多い。だから掲出歌も単純な恋の歌などではなく、「君」の内部にも骨になった未来を幻視する特異な想像力が生んだ歌なのである。

 終(つい)の日の脳裏に獣走りゐてサバンナにあるわが頭蓋骨

 いのちのみ身を過ぎ越せる心地せり既に原野にわが骨はあり

 さて、第二歌集の題名は『異民族』である。第三歌集は『故郷の星』、第四歌集は『異星の友のためのエチュード』、第五歌集は『霊人』。この題名を見ただけで大津の関心の推移というか、本来持っていた性向がどんどんと高じてゆく様がよくわかる。大津の関心はこの地球を離れて異星へと向かう。自分が前世や来世において異星にいるという空想が頻繁になるのみならず、異星人が地球に来訪する様子をも幻視する。

 前の世に住みし星まで吹き抜けの秋の空かな 踏切に立つ  『故郷の星』

 いづことも知らねどわれの故郷を異星の捕虜をして造らしむ

 水田は既に一面黄に染まり火星にゐたる日を思ひ出す

 異星人の密輸業者が運びくるまことしやかなるアフリカ象  
               『異星の友のためのエチュード』

 自分が故なく投げ出されているこの生の曖昧さと不全感を作歌の拠点とする大津は、そのような曖昧さと不全感とは無縁な世界として異星を空想するのだろう。しかし、描かれた異星は決してユートピアではない。荒涼たるサバンナに風が吹いているような風景であり、そこに大津の悪意と毒がある。

 そして第五歌集『霊人』だが、題名から推察できるように、大津を訪なうのはもう異星人ではなく死者の霊である。

 食堂の壁に洋蘭窓に旗 なびかせ来たる真昼間の霊

 水含み重なりあへる吸殻に涼しき君の初夏の霊

 白黒のポスターの女歩みきて折しも生者の夏に紛るる

 いつの世に再び会はむ手掛かりの口紅(ルージュ)の並ぶ春の店先

 歌集全体は一人の女性の死に寄せる挽歌の体裁を採っている。谷岡は「フィクションという仕掛けによって〈私〉の一回性の現実から自由になろうとする試み」と分析しているが、女性の死が虚構なのかそれとも現実なのかはわからない。いずれにせよ初期歌集にすでにほの見えていた「この現実への展翅からの想像力による離脱」が、まるで進行性の病のように高じてここにまで至ったことは確かである。

 谷岡は先の引用に続けて、「〈私〉の一回性の現実から自由になろうとする試みが、逆に作者自身の内面世界を雄弁に語り、他ならぬ〈私〉の一回性の現実と、まざまざと直面せざるを得ない結果をもたらしている」という逆説を指摘している。そうだろうか。私には大津は少しばかり現実からの離脱が過ぎて、あの世の方に行き過ぎているように感じられる。正直言って幽霊ばかりが出て来る『霊人』を通読するのはつらい。また幽体となって現実から浮遊し、ややもすれば「あちら」に彷徨い出しそうな〈私〉に、撃つべき現実を逆照射する力が残っているだろうか。

 「現実からの想像力による離脱」ではなく、「現実に繋ぎ留められている〈私〉の深化」という方略もある。つまり「足もとを掘れ」である。なぜなら現実からの離脱には限度というものがないからだ。何ならば星々のかなたにまで飛翔して、二度と戻って来ないことだってできる。短歌や俳句という短詩型文学が、〈私〉という主体による認識の更新によって現実に新たな光を当てるという側面を持っている以上、そうそう現実を遊離することはできないのである。近松門左衛門は芸術制作の勘どころは「虚実皮膜 (ひにく)の間」だと述べた。人の心を動かすのは、100%の作り事でもなく事実べったりでもなく、その微妙な中間点であり、皮と肉のあいだのようなものだとの意味である。短歌に即して言うならば、現実そのもの (くそリアリズム) ではなく、極端な現実遊離 (放恣な空想) でもなく、地上15cmくらいに浮き上がった視点がよろしいということになる。この点から見ると大津はちょっと行き過ぎているように思えるのだが、谷岡も書いているように最近結婚して新生活に踏み出した大津には、これから新しい展開が待ち受けているのかもしれない。

095:2005年3月 第3週 大松達知
または、フラットな世界にも神は細部に宿るか

口が口を食ふかなしさよ丸干しの
    いわし食ひたりまづあたまから

        大松達知『フリカティブ』
 食卓で丸干しの鰯を食べている光景である。丸ごと頭からかぶりつくと鰯の口がまず自分の口に入ることになる。作者はそれを「かなしさよ」と詠んでいるわけだ。当たり前のこととも見えるが、この歌のポイントが「口が口を食ふ」という表現にあることは言うまでもない。大松は一首ごとにこのように味わうべき歌のポイントを用意している。いわば「外れくじなしの歳末大売り出し」のようなお得な歌集なのである。

 大松達知 (おおまつ・たつはる)は1970年(昭和45年)生まれ。高校生のとき社会科教師だった奥村晃作の影響で短歌を作り始めたという。奥村が社会科の先生だったとは知らなかった。「コスモス」「桟橋」同人で、2000年に出版された『フリカティブ』が第一歌集である。「フリカティブ」(fricative)とは音声学で「摩擦音」を意味する。[s] [f] [v]などのように、口の一部を狭めたり触れたりして呼気が擦れる音である。大松は高校で英語教員をしているので、このような題名をつけたのだろう。

 『短歌ヴァーサス』5号で、小池光が大松の歌集について「ざぶとん在庫なし」と評している。「ざぶとん」はもちろん笑点の大喜利での「ざぶとん一枚」のことである。そのココロは、「うまい! ざぶとん一枚 !」の続出で、ざぶとんの在庫が切れてしまうほど、大松の短歌は一首一首に勝負どころがあり、それが小気味よく決まっているというほどの意味である。確かに小池の言うように、大松の短歌は一首ごとの独立性が高く、意外な物の見方とか意表を突く表現などが散りばめられていて、私も「付箋在庫なし」状態になった。

 献血の勧誘員と目が合ひて笑顔かへせば血を抜かれたり

 職として見せているゆゑわれは見るチャイナドレスのすきまの脚を

 みづからは触れ合はすことなきテディベアの両手の間(あひ)の一生(ひとよ)の虚空

 はじめの日左右なかりしスリッパに左右あらはるその〈時〉の嵩

 はつふゆにこたつを敷けばあらはれき去年(こぞ)の匂ひの小平面が

 ファッションショーのモデルを見をり無計画に伸びてしまひし両脚あはれ

 一首目、献血勧誘員と思わず目が合ってしまう。こういう経験は誰にでもある。その結果「血を抜かれたり」となるわけだが、笑顔で血を抜くのは考えてみればおかしい。二首目、中国の観光客用レストランのウェイトレスだろう。チャイナドレスを着ているのは職業上の制服だからであり、〈私〉もそのゆえに脚を見ると言っているが、どこか言い訳めいている。この歌のおもしろさはその言い訳の後ろめたさにある。三首目、テディベアの拡げた両手は決して打ち合わされることがない。しかし、人形に限りある「一生」などあるのだろうか。〈私〉はテディベアに「一生」を見ているが、一生に限りがあるのは実は〈私〉の方である。テディベアの反照がこの歌を照らしている。四首目、買ったばかりのスリッパには左右がないが、履いているうちに足の形に変形してだんだん左右の区別が生じる。これまた改めて指摘されて「なるほど」と膝を打つ事実である。大松はこの観察を「その〈時〉の嵩」で締めくくる。つまりスリッパの形状の変化は、結婚して家庭生活を営むようになってからの時間経過の関数なのであり、形の変化に時間を見ているのだ。五首目、寒くなってこたつを出す。すると去年の匂いのする四角形が部屋の中央に出現する。これも当たり前なのだが、出現した小平面は去年から今年へという時間経過のなかでの〈私〉の連続性のささやかな保証である。六首目、ファッションモデルの長い足は女性の憧れの的なのだろうが、それを「無計画に伸びた」と河原のセイタカアワダチ草か何かのように言うところがこの歌のミソである。

 このように日常生活に潜む何でもない小事実をことさらに取り上げる作歌方法は、最初の短歌の師である奥村晃作の影響によることは疑いない。しかし奥村が大松と決定的にちがうのは、奥村の場合、当たり前の小事実を歌にするとき、その事実が余りに些細であるために、それをわざわざ歌にする奥村の個性と自我とが強烈に前景化されるという点である。

 ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く 奥村晃作

 次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く 

 奥村は歌論集『抒情とただごと』のなかで独特の短歌観を披瀝しているが、奥村がただごと歌の要件としてあげている次の点は注目に値する。ただごと歌は、「対象〈描写〉〈写実〉的態度・叙法の作」ではなく、「対象をよく見て、それを写しとる」という態度に立ってはならず、「世界の〈核〉を述べる」ことが肝要だというのである。つまり「リアリズム短歌」ではないということだ。奥村の言うように「世界の〈核〉」を剔抉するとき、細部は異常に拡大されて提示される。だからこれはありのままを写すリアリズムではありえず、奥村の視点というレンズを通して歪められた世界であり、一種のバロックである。それゆえにレンズの個性が際立つのである。

 大松の短歌は奥村のただごと歌と一見似ているようでありながら、実はずいぶんちがう。おそらく大松には「世界の〈核〉」を照射するなどという意識はないだろう。意表を突く視点から歌を作っても、そこに大松の自我と個性が際立つということがない。

 では大松はなぜこのような小事実をささやかに取り立てる歌の作り方をするのか。それは「無意味をやり過ごす」ためではないだろうか。深読みしすぎかもしれないが、私にはどうもそのように思えてしかたがない。「無意味をやり過ごす」ことが主目的であり、奥村のように「世界の〈核〉を述べる」ではないから、強烈な自我が前に出るということがないのではないだろうか。

 誰しも青春期には「意味」を求める。若い時には「私はなぜ生まれてきたのか」「生きることには意味があるのか」という疑問を抱くものだ。それは若者にとって煩悶と懊悩の種であると同時に、短歌においてはトーンの高い抒情の核ともなる。小池光の初期短歌を見よ。こういう疑問を抱くのは自我の肥大期と一致する。ところが年齢を重ね家庭を持ち社会の塵埃にまみれるにつれて、このような疑問は燠火のように内向化する。生きることに特に意味はなく、人々はただ生きているということに気づくからである。しかし人間はそこでは終わらない。というか終わってはならない。その次の段階として、「ただ生きている」ということに、より思想的に深化された意味を見いだすようになる。まとめると「自我の肥大:意味の希求」→「自我の縮小:意味の放棄」→「自我の止揚:新たな意味の発見」と段階的に推移する。かなり単純化してはいるが、このような意識の進化が「近代的自我」の構図だったはずだ。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に始まり、高野悦子の『二十歳の原点』に至るまで、近代的自我のたどった軌跡と悲劇はこの図式のヴァリエーションである。

 ところが大松の短歌に関して言えば、どうも第一段階の「自我の肥大:意味の希求」がすっ飛ばされているような気がする。そしてこの「自我の肥大期? うーん、それはパス」現象は、大松に限らず程度の差こそあれ若い人に共通して見られるように感じられる。それが青春の煩悶と葛藤という難所を回避するために新人類が獲得した形質なのか、それともバブル経済崩壊期に青春を迎えた世代が身につけた、自分にも社会にもあまり過大な期待を抱かないという防衛反応なのか、その点は定かではない。しかし自我の肥大と縮小を経験せずに成長すると、そこに待ち受けているのはフラット化した世界である。だから「無意味をやり過ごす」ことが必要になるわけだ。

 駐車場に自動車憩ひそのなかに人のをらざる空(くう)憩ひをり

 水母(ゼリーフィッシュ)と呼ばれてひとり簡潔にただよふのみの来世よきかな

 日のひかり一生(ひとよ)見るなきむらぎもにあかきトマトのかけらを落とす

 通夜にゐるわがポケットに前回の通夜のメモあり死者の名があり

 ドラマに殺人、ニュースに殺戮ひとつづつありて夕飯後のわが憩ひ

 これらの歌から滲み出て来るのは「生の空虚感」である。しかしその感覚は過度に深刻になることがない。プラス方向にもマイナス方向にも大きく針が振れることがないという点に、大松が小現実を歌にする根拠と意味があるように思われる。この「振れの小ささ」は妻を詠んだ相聞にも感じることができる。

 妻の傘にわが傘ふれて干されゐる春の夜をひとりひとりのねむり

 妻とわれ入り組むやうに生きてゐてされどそれぞれ爪切りがある

 妻不在、妻のブラウス在室のまひるまひとり食ふメロンパン

 べったりいっしょにいるのではなく、適度の距離を置いて個の空間を守るというスタンスがよく現われている。

 歌集の栞に文章を寄せた吉川宏志が、「夢や幻想を持たずに現実を見ると、ユーモラスでちょっと危険な物事の本質が浮かび上がってくる、それが大松の短歌の方法論なのではなかろうか」と述べている。さすがに吉川らしい的確な批評である。しかし大松の歌集を読んで、もう少し青春の夢と昂揚があってもよいのではないかと感じる向きもあるにちがいない。小池光が「ざぶとん在庫なし」と評したのは故なきことではなく、『廃駅』を最後にトーンの高い抒情を捨てて『日々の思い出』の世界に移行した小池の歌の目線と大松の目線には共通するものがある。〈大きな物語〉が消滅した現代にあって、このような低い目線は短歌の寄って立つ根拠のひとつになるのかもしれない。

094:2005年3月 第2週 西橋美保
または、現実に裂け目を発見する歌

文字ひとつ手紙から落ちとめどなく
      文字剥落し雪となり降る

          西橋美保『漂砂鉱床』
 掲出歌は不思議な歌である。誰かから届いた手紙を拡げると、書かれた文字が手紙からはらはらと落ちて雪になるという。雪国に暮らす友人から届いた手紙だろうか。手紙に書かれた雪国の様子を読んでいると、手紙から雪が降るような感じがしたのか。あるいは手紙の主の筆跡が雪の降る様を連想させたのか。手紙と雪というふつうならば関係のない両者を美しく結合させた歌であり、一種の奇想の歌と言ってよい。

 西橋美保は「短歌人」所属。『漂砂鉱床』は1999出版の第一歌集で、藤原龍一郎が解説を寄稿している。あとがきによれば表題の漂砂鉱床とは、川の底の砂利をすくってザルで振るい、中に含まれている砂金などを採るそのような鉱床のことを指す。あまたの砂利のなかからキラリと光る言葉の砂金をすくいたいとの思いからつけられた表題である。

 あとがきで藤原龍一郎は、奇妙な後味の残る歌集であり、「パトリシア・ハイスミスかルース・レンデルの読後感と似ている」と評している。「作者の奇妙な感覚に引きずられて、ついには自分の常識的感覚を疑うようになる」とも述べている。ハイスミスは私の愛読するミステリー作家のひとりで、確かに奇妙な味わいの小説を書く。藤原の評になるほどと同感する点もなくはないが、ちょっとずれる気もする。

 藤原が「奇妙な感覚」として引用するのは次のような歌である。

 ストローで顔の映つた水を吸ひそのまま顔ごと吸ひ込んでしまふ

 火星人が脱皮するならこんなものか夜ふかぶかとパンストを脱ぐ

 組み敷かれしウルトラマンの苦悶する有り様みだら子らと見守る

 確かにストローで顔ごと吸い込むというのは、変わった視点である。火星人の脱皮というのも発想としておもしろい。また子供のアイドルであるウルトラマンの戦闘シーンにみだらさを感じるいう感覚も意表をついている。ただしこれらは西橋の代表的な歌風というわけではなく、歌集のなかでは「おもしろい歌」の一群をなしているにすぎない。私がこれらよりもおもしろいと感じるのは次のような歌である。歌の落し方が思い切りがよくなかなか愉快なのだ。このような落し方に関西人の血を感じるのは私だけだろうか。

 暴れる子らを逆落としにする「美しき水車小屋の娘」など歌ひつつ

 「この下郎、お黙りや」などと叫びたいがPTAは歌会よりこはくて ―

 夏レースの日傘すずしく扱つて蔭越しに見るあな憎(にく)の彼奴(きやつ)

 奇妙な感覚といえば、次のような歌は奇想の歌と言えるだろう。

 もしかして見られてゐるかもしれないと振り向けば行くエヒは尾を曳き

 椿落ち夫うなさるる月の夜に何とはなしに赤子笑ひつ

 恋死をせし山の猟師(さつを)の皮を剥ぎ鼓となせば善(よ)く鳴る春か

 月の象(かたち)の鈎より鋭(と)きを呑み込めばある夜のわれはみづからを釣る

 モナリザの目がイグアナの目になるを深くおそれつ殊に真昼は

 振り向いたらエイが泳いでいるというのは現実にはありえないことなので、読者は下句で突然ポーンと別世界に投げ出される。二首目の赤ん坊の笑いは本来ならばあどけないものだが、椿が首を落し夫がうなされている世界では不気味さが際立つ。三首目の猟師の皮を剥いで鼓に張るという発想も変わっている。四首目はなかなか美しい歌で、三日月を呑み込むとそれが釣り針となって、自分が釣られるだろうという見立てはスケールが大きい。五首目のモナリザの目がイグアナの目になるという発想も空前絶後である。そう言われてよく見れば、モナリザの目はいやにまぶたが厚ぼったく、爬虫類の目に似ていなくもない。そう思えて来るところがおもしろい。

 このような歌を単に奇想と呼ぶのは当を得たこととは言えない。それは西橋の歌には何かの拍子に現実に裂け目が出来て、フッと異界にさまよい出るような感覚のものが散見されるからである。

 綿帽子を吹きちらかして目をあげたその一瞬のうしろの正面

 五月闇に取り囲まれて思ひ出す怪談上手の男の空咳

 廃曲の読み解きがたき楽譜読む夏まぼろしの君の声にて

 たましひを手繰るたのしさ 息を詰めヨーヨーせし幼(こ)がふと目をあげぬ

 白手袋の指さすままにメビウスといふ名の地下街階(かい)を深めぬ

 一首目は「ほんとうは怖いお伽話」風の怖さがある。目を上げたうしろの正面に何が立っているのかわからないという現実の暗黒である。二首目では、すでにこの世にいないと思われる男の空咳が、五月闇のなかから聞こえてきそうである。作者は琴をたしなむようで、三首目の廃曲は過去に廃れた琴の曲なのだが、まぼろしの君の声も異界から聞こえてきそうな雰囲気が感じられる。四首目はヨーヨーに興じる子供を詠ったもので、ここでもまた子供がふと目をあげたとき、作者の目に何が見えたかが隠されている分だけ不気味さが増す。五首目の「メビウス」はもちろん表がいつのまにか裏になるメビウスの帯で、その名自体が迷宮的であるが、案内人が「白手袋」と表現されていて顔がないところがやはり異界の案内人のように見える。

 このような「現実の裂け目」に着目し、それを浮き上がらせるように歌を作っているところが、西橋の短歌に奥行きと陰翳を与えていることは言うまでもない。ではこの「現実の裂け目」の発見は、どのような資質に由来するのだろうか。そのひとつは「視点のユニークさ」だと思う。次の二首は見上げる歌と見下ろす歌で視線の向きは対照的だが、その質は同一である。

 目薬の一滴の青ゆるやかにひろがる水をまうへに見上ぐ

 井戸の底はるかはるかの青空を背にした私がこちらを見てゐる

 一首目は点眼薬の一滴が次第に大きな水滴となって行くさまを下から見上げた見た歌である。短歌は言語表現によって、私たちがふつう持っている現実認識を更新する力がある。この歌は目薬の一滴という極小なものを詠って、その中に海の広がりを感じさせるところが秀逸と言えよう。これは私たちの物の見方が相対的であることを暗示している。たった一滴の目薬であっても、それが眼球の全体を覆いつくせば、海の大きさとなんら変わらないのである。

 二首目は井戸を覗き込んでいる自分を詠ったものだが、私の背後に広がる青空も水面に映っている。〈見る私〉と〈水面に映った私〉のあいだで、〈見る・見られる〉の主体と客体の関係が逆転し、同時に井戸の底と青空とのあいだで空間的上下関係が逆転するという二重の逆転構造の相乗作用によって、私たちの安定した認識構造がぐらりと揺らぐ。この〈認識のゆらぎ〉がこれらの歌の生命であることは言うまでもない。

 西橋に「現実の裂け目」を発見させているもうひとつの資質は、「異類への共感」である。「異類」とは〈人にあらざるもの〉を指す。

 本当の狂女は出(で)など待たで候(そろ) 井戸の深きに花房落す

 まばたかぬ少年人魚が雨の夜に奏でし秘曲「流泉」、「啄木」

 月星とう靴を履きゐし少女期のわれは確かに人界にあらざり

 流刑地としての地球よ輪郭が発光してゐる少女こそ変化(へんげ)

 一首目に詠まれているのは能楽であるが、狂女は一種の異類といえる。二首目の「秘曲」は琵琶の曲だそうだ。少年人魚は明らかに異類である。三首目の「月星」は「月星シューズ」という靴メーカーの名前。月星という名の靴を履いていた少女期の私はすでに異界の住人だったのだ。四首目が示すように、作者は月世界に恋着があるようで、この歌集には月を詠んだものが多いのだが、これはかぐや姫を詠んだもの。月が本籍で地球は流刑地として捉えられている。

 この「異類への共感」は石川美南と共通するものがあるが微妙にちがう。石川にもまた「世界を異化するまなざし」が顕著に感じられる歌人である。異化の動機としては〈遊戯としての異化〉と〈自己防衛としての異化〉のふたつが考えられる。私は石川について短歌評を書いたときには前者だろうとしたが、私信によればご本人はたぶん両方とも自分のなかにあるとのことである。西橋の場合には、石川のような遊戯性を帯びた「まなざしによる異化」ではなく、もっと「体感的な異化」のように感じられる。

 いずれにせよこのような「世界の異化」に基づいた短歌表現は、近代のリアリズム短歌から忌避され排斥されてきたものであり、それが現代の女性歌人にひとつの作歌根拠を与えていることは興味深い。

 西橋の短歌についてもうひとつ指摘しておかなくてはならないのは、言葉・文字の連想による歌である。

 虹めきて彩(あや)に炎ゆると病名のうつろなまでに美しきはよし

 匂ひとう文字(もんじ)の中に匕首は蔵(かく)されてゐる 魂を刺せ

 あづさ弓春ハルシオン依存症指から花にかはつていくよ

 花びらは萼(うてな)に溢れかのリンネてんせいすべし「魚類の薔薇」に

 一首目は虹彩炎という病名を分解して詠んだもので、漢語熟語を構成する文字のひとつひとつに意味を認める言葉へのこだわりを示している。二首目は「匂」という感じのなかに匕という文字が部首として含まれている点に着目したもの。三首目の「あづさ弓」は「春」の枕詞で、「春」から睡眠誘導剤の「ハルシオン」へと連想が働き、最後に春の縁語の「花」が導かれる。私は以前から「ハルシオン」は「春」「紫苑」と分解でき、「シオン」はエルサレムの雅名だし、競馬馬の名前のような響きもあって、美しい名だと感じていた。この歌は言葉が言葉を導き出す連想関係から発想されたものだろう。四首目は博物学者のリンネと「輪廻転生」とを掛詞として用いたもの。漢字を部首に分解するのは永井陽子の得意技だったが、一見すると言葉遊びのようにも思えるこのような手法は、古典和歌の手法の復活でもある。西橋が短歌を作っている地点が近代のリアリズム短歌からいかに遠い場所かをよく示していると言ってよいだろう。

 最後にもう少し毛色の変わった歌を見ておこう。

 職業としての「女」と思ふとき滅私奉公たりしO嬢

 多産系でも晶子にや負けるが水子だつて人数にすればふみ子に負けない

 いかにも奥村晃作が喜びそうな歌だ。「O嬢の物語」はポーリーヌ・レアージュの筆名で発表されたフランスの文学的SMポルノ小説。Oと呼ばれて調教される女性は男への奉仕を求められるのだが、確かに女性であることを職業のひとつだと考えれば、O嬢は滅私奉公の鏡である。二首目の晶子は言うまでもなく与謝野晶子で11人の子供を産んでいる。ふみ子は中城ふみ子で4人の子をもうけている。作者の西橋には三人の子供があり、子供の数を競って水子を入れればふみ子の4人に負けないと自慢している。ギョッとするのはもちろん「水子だつて人数にすれば」の部分で、「とりどりにひいきの天使指さして散りし子のあと死にし子ら来る」のような哀切極まりない歌のあとに読めば、冗談めかした軽い口調の陰に隠れた作者の心情はおのずと感じられよう。

 以下に個人的に好きな歌を引いておく。

 帯留めの翡翠の扇がゆきすぎて風いきいきとよびもどされつ

 光たばねしなだる藤のひとふさといづれか軽(かろ)きわがたましひと

 廃番の香水倒せば人外の音階正しく響かう秋や

 前(さき)の世のわれが花束抱きて臥す石棺の蓋も凍るたそがれ

 青海波の衣するりと肩脱ぎに脱ぐ影を灼く夏の月光

 薬包紙の折鶴の腹の小穴より見えざるほどに落ちつぐものあり

 海遠くスペアのインクの青色の波ゆらゆらと閉ぢこもる夏


西橋美保のホームページ「幻色短歌工房

093:2005年3月 第1週 自転車の歌

自転車になびく長髪熾天使ら
    ここ過ぎて煉獄の秋を指す

             塚本邦雄
 机上に針ヶ谷鐘吉『植物短歌辞典』(加島書店)という本がある。セピア色に変色したこの本は、昭和35年出版で、とある古書店で偶然手に入れた。表表紙の裏に「35.5.2 八木書店より購入」という鉛筆の書き入れがある。八木書店は神田の古書店なので、この本は出版されてからわずか3ヶ月で売り払われて、また誰かに買われたことになる。大島史洋の『言葉の散歩道』(ながらみ書房)でも紹介されているこの本は、万葉から出版当時までの短歌のなかで、植物を詠んだものを集めて分類した珍しい辞典である。桜・菊・桐などの伝統的植物から、フリージア・プリムラなどというハイカラな輸入植物まで網羅している。

 本をよむことなき吾や外つ国に在る君にたのむプリムラの種子(たね)  土屋文明

 伝統的和歌から近代短歌に至るまで、自然は短歌の主要な主題であり、なかでも日本人はことのほか植物に親愛の眼差しを注いできたのだから、植物を詠んだ短歌が多いのは当然だろう。

 それに較べれば人工物を詠んだ短歌は少ないだろうと予想がつく。小池光『現代歌まくら』に立項されている人工物は、椅子・鍵・かみそり・機関車・自転車・遮断機・扇風機・洗面器・地下鉄・噴水の10に留まる。道浦母都子・坪内稔典『女うた・男うた』I, II では、時計・花火・本・自転車・傘・壁・鏡・ヴァイオリン・電話・家具が取り上げられている。ただし、いずれも衣服・食物・場所 (動物園、駅など) は除外しての数である。両方に共通しているのが自転車であるところがちょっとおもしろい。

 小池は次の三首をあげている。

 かわいそうな赤き自転車縁ありて三年をわがいとしみ来しを  佐佐木幸綱

 白き霧ながるる夜の草の園に自転車は細きつばさ濡れたり   高野公彦

 自転車 (チャリンコ) に父を追ひ越す夕ぐれの高脂血症の坂ゆく父を  岡井隆


『女うた・男うた』では短歌を一首と俳句を一句あげる趣向だが、短歌は上と同じ高野の歌、俳句はさきごろ物故した鈴木六林男の「乾草匂う夜目にも愛の自転車立て」があげられている。

 自転車は明治になって日本に輸入され使われるようになったものだから、当時はずいぶんハイカラなものだったにちがいない。最初に自転車を歌に詠んだ歌人は誰なのだろうか。自転車は徒歩より速い移動手段であるが、同時に荷物の輸送手段でもある。最近はあまり見かけなくなったが、無骨で頑丈な業務用自転車の荷台に氷を積んで通る氷屋が昔はいた。自転車というと子供や中学生の乗り物と思われがちだが、上の歌に見られるように意外に「父」のイメージと親和性が高くて驚く。

 佐佐木の歌はくたびれた自転車をいたわる歌だが、自転車の背後にはやはりくたびれた中年の自分のイメージが揺曳している。高野の歌は解説が必要ないほど有名な歌である。公園に倒れている自転車は今にも羽ばたいて夜空に飛び去るようにも、また二度と起きあがることはないようにも感じられる。詠まれているのが自転車であることはこの歌では動かせない。それは自転車が乗る人を連想させるためであり、修辞的には人の喚喩として働くからである。つまり、自転車を詠むことでそれにまたがるはずの非在の人を詠むことになる。これが人の乗っていない自転車が短歌で好んで詠まれる理由だろう。岡井の歌では父は歩いており、自転車に乗っているのは子である〈私〉なのだが、坂をとぼとぼ歩く高脂血症の父は、言うまでもなく未来の〈私〉の姿でもある。

 他の自転車の歌をいくつか引いてみよう。

 鶫(つぐん)のごとき自傷の少女ぼろぼろの古自転車のわれ 共に見る海  伊藤一彦

 のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ 「まっすぐ?」そうだ、どんどんのぼれ  佐佐木幸綱

 校庭に倒れたままの自転車をはつかに濡らす夜のあは雪  大辻隆弘

 自転車を盗みし父のあとを追ふ かのかなしみは我(あ)に帰り来ず 同

 倉庫より無骨な自転車引き出して世紀をまたぐ闇を暴けり  桝屋善成

 土手脇に首のねぢれた自転車がこゑを失ひ捨てられてあり 同

 カウンセラーをしている伊藤の歌では、リスカ少女と海を見ている〈私〉が直喩的に古ぼけた自転車と結びつけられており、ここでも自転車の無骨さとくたびれ加減が「男性性」の属性として用いられている。佐佐木の歌では珍しく子供が自転車に乗っており、どんどん坂を登る子供は未来へ向かっている。自転車は若さの希望の象徴である。しかし佐佐木の歌は例外的だ。大辻の「倒れたままの自転車」は無力感を連想させるし、次の歌ではやはり自転車と父の連想関係が色濃い。桝屋の二首でも自転車の帯びる象徴性は濃厚であり、無骨さと無惨さは中年を迎えた〈私〉の暗喩的表現と取ってよいだろう。このように短歌のなかでは自転車は古ぼけて無骨な姿をさらしており、そこには中年男性の属性が色濃く投影されている。『岩波現代短歌辞典』の「自転車」の項を担当した高野裕子は、「自転車は近代の象徴」であり、「同時に近代化を推し進めた男性原理の象徴」だと断じている。もしそうだとするならば、上に引いた歌に見られる「無骨な父」「くたびれた中年」のイメージは、近代男性原理の疲弊を象徴しているのかもしれない。

 自転車にまたがることがはしたない行為であった時代ははるか昔のこと。今では女性も自転車に乗るし、もしかしたら男性よりも乗る機会が多いかもしれない。しかし女性歌人の歌に登場する自転車は、男性歌人の場合とはずいぶん趣が異なる。

 自転車のかげ長く西陽に曳きゆきてこの人もあまり倖せならず  中城ふみ子

 飛行機は夏空へ気化を終へむとし吾は歩むなり自転車を押して  川野里子

 遠くから来る自転車をさがしてた 春の陽、瞳、まぶしい、どなた  東直子

 自転車に鍵かけて入(い)る図書館の扉のかるさに少し驚く  江戸雪

 下駄履きの自転車の男が追い越せりあれはまるで私の父だ  中川佐和子

 自転車で〈不幸〉を探しにゆく少年日は暮れてどの道もどの道もわが家へ  高柳蕗子

 中城の歌では自転車は確かに不吉な象徴なのだが、それは他人の乗る自転車であり、「この人も」の「も」に自己省察はあるものの、自転車そのものの属性への自己投影はない。川野の歌は爽やかで、ここにも自転車に〈私〉を重ねる視線はない。東の歌で自転車はほのかな憧れを運んで来るほどで、負の属性は感じられない。江戸の歌では自転車は単なる移動手段で脇役にすぎない。おもしろいのは中川の歌だが、ここでも自転車は父の属性として描かれている。高柳の歌では自転車に乗るのは少年である。

 このように見てくると確かに自転車は「近代の男性原理」の象徴であるように思われてくる。女性歌人たちは自転車に自己投影することが少ないようだ。

 ただ男性でも若い歌人になると事情がいささか異なる。

 信じないことを学んだうすのろが自転車洗う夜の噴水  穂村弘

 板塀に夕暮れ妻が立てかけし自転車のかご雪を溜めつつ  吉川宏志

 身籠もりし妻の自転車一冬の埃をつけて枇杷の木の下  同

 穂村の歌では「信じないことを学んだ」心の影と自転車が結びついているが、自転車の属性自体への負の自己投影は感じられない。また吉川の二首では自転車は妻の所有物となっており、近代の男性原理を離れて女性性のもとに詠われている。このあたりが若い男性歌人の感性をよく表わしているのかもしれない。

092:2005年2月 第4週 大辻隆弘
または、存在の真実に向かって測鉛を垂らす短歌

蘭鋳のただれたる頭(ず)をつくりつつ
      人智は暗くふかく熟れゆく

            大辻隆弘『デプス』
 私はふだん歌集を読むときには、気に入った歌に付箋を貼りながら、メモ用紙にキーワードを箇条書きに書き付けていく。巻を置いて「さて批評を書こう」と机の前に座ったときには、メモ用紙にはかなりのキーワードが書かれている。それらを関係の縒り糸で綴り合わせ膨らませて展開すれば批評が出来上がる。歌集を読み終わってから「さて、何を書こうか」と腕組みして考えあぐねることはめったにない。しかし今回、大辻隆弘の第一歌集『水廊』、第二歌集『ルーノ』(抄)をセレクション歌人シリーズで読み終えたときには、途方に暮れてしまった。付箋はけっこう貼られているのだが、メモ用紙がほとんど白紙である。ところが第四歌集『デプス』を読み進めて行くうちに、眼前の靄が晴れて行くように、大辻のめざす短歌の世界が私の腑に落ちた。ということはいささか独断的に判断すると、歌集という全体から一首だけ取り出して大辻の短歌を論じるのはとても困難だということを意味する。これは一首の自立性が低いということではない。大辻の作る短歌が存在の真実へと静かに少しずつにじり寄って行く歌だからである。その歩みが蝸牛のごときミリメートル単位であるため、移動していることになかなか気づかない。ところが歌集を何冊か通読すると、出発点と現在地点とのあいだに、思いがけない距離が開いていることに驚くのである。

 大辻隆弘は1960年(昭和35年)生まれで「未来」会員、「レ・パピエ・シアン」同人。第一歌集『水廊』(1989年)、第二歌集『ルーノ』(1993年)、第三歌集『抱擁韻』(1998年、現代歌人集会賞)、第四歌集『デプス』(2002年、寺山修司短歌賞)と、4・5年の間隔で着実に歌集を世に問うている実力派である。

 先に大辻の短歌の特質を、「存在の真実へと少しずつにじり寄って行く歌」と表現した。大辻の属する「未来」は、近藤芳美らにより創刊された歌誌で、もともと「アララギ」系である。大辻は「未来」の本流に位置していると言ってよく、写生を基本とする近代短歌の作歌法に則りつつ、岡井隆の影響も色濃く受けている。それは例えば次のような歌の造りに見てとれる。

 指からめあふとき風の谿(たに)は見ゆ ひざのちからを抜いてごらんよ 『水廊』

 朝霧の縁(へり)ほどけゆく空は見ゆ冷えたる椅子を窓に移すとき 『抱擁韻』

 大辻は『岡井隆集』(現代短歌文庫)収録の「アララギ的文体というボディー」という文章のなかで、「常磐線わかるる深きカーヴ見ゆわれに労働の夜が来んとして」(『斉唱』)のように、三句目に「見ゆ」で句切れがある歌が岡井に多く見られることを指摘し、アララギ文体にすでに見られた語法を岡井が象徴的表現を支える枠組みとして発展させたものだとしている。上に引用した歌に見られるように、大辻はこのようなアララギから岡井への流れを咀嚼吸収し、その上に自分の短歌文体を築いていることがわかる。大辻の短歌文体の骨格がしっかりしているのはこのためである。ちなみにこの「見ゆ」については、内藤明が『雁』54号に「『見ゆ』考」を書いて子規から大辻へと至る主体意識の変容を指摘しているが、ここでは深入りは避けておこう。

 第一歌集『水廊』からいくつか歌を引用してみよう。 

 癒えゆくにあらねど冬のひかり降る埠頭にこころあそばせてゐつ

 みづぎはに立つみづどりの息の緒のかぼそくあはく日々を継ぎつつ

 朝あさにわがくぐりゆく花かげの手足透きくるまでに青きを

 朱夏、麦に揺るるひかりを「存在の肌理(きめ)」としメルロ・ポンティー言ひき

 青銅のトルソのやうな君を置くうつつの右に夢のひだりに

 鱗粉によごれたる掌(て)をかざすときわがものとして昏るる地平は

 あけがたのみぎはの雨に濡れながら反る脊梁のごとき橋越ゆ

 一読してわかるように、意味を優先して短歌文体を撓めることがなく、歌のしらべが明らかである。例えば最後の歌の「あけがたのみぎはの雨」の「ア」音の連続による柔らかな聴覚印象から一転して、下句「反る脊梁のごとき」の [s] の摩擦音と「ごとき」の破裂音 [g] [t] [k] の硬質な印象へと転じる渡り方が、上句の心情と下句の行為との対比に音的に呼応しているのが鮮やかである。

 『デプス』に「さういへば光ばかりを歌つてゐたうそさむい三十代の日々(じつじつ)」という過去を回想する歌があるが、『水廊』には確かに水と光を詠った歌が多い。青春の日々の心の揺らぎを仮託する対象として、水と光の移ろいやすさと透明感は多くの歌人を惹きつけるのであり、大辻も例外ではない。そんななかで注目されるのは、上にあげた4首目の歌である。現象学の哲学者メルロ・ポンティーは『眼と精神』のなかで、芸術作品の分析を通して視覚と存在の関係を考察して美しい文章を書いた。「世界内存在」として世界に埋め込まれた主体にとって、自己の周囲に世界を立ち上げんとすれば身体特に視覚がいかに重要かをメルロ・ポンティーは説く。メルロ・ポンティーが使った「存在の肌理(きめ)」という言葉は、感覚で捉えられる微細な眼前の現実を経路として存在の真実に迫ろうとする大辻の短歌の方法と通底する。大辻は「レ・パピエ・シアン」60号に、「眼と精神」と題する連作を寄稿していることからもそれは知れる。

 しかし『水廊』の読後印象は清新ながら淡い。歌に詠まれた景物は不安定に揺れ動く青春の心象の喩であり、そこから立ち上がる世界は〈私〉の心象を通して濾過されたものとなっている。印象としては「内向の世代」の肌触りに近いものがある。しかし第二歌集『ルーノ』、第三歌集『抱擁韻』と読み進むと、この印象は少しずつ変化する。

 おびえつつ目をひらく時やはらかに立ちくるものを世界と呼べり  『ルーノ』

 暁闇(あけやみ)に朴ひらく朝、立ちふるへつつ眼の奥の村ソンミ見ゆ

 イ・リ・ア〈そこにあること〉つひに寂しきをこの熟れ梨は余る、わが掌に

 神は細部に宿る たとへばこの朝の卓の襞にひそむ翳りは  『抱擁韻』

 雪の香をかすかに帯びて闇ありぬ春の配電盤を開けば

 七月のひかりに撓むわが視野を風に押されてゆく乳母車

 大辻の歌における視覚の優位は疑うべくもないが、初期の歌に見られる〈私〉の心象を通して濾過された世界から、〈私〉を観測定点として実在世界へと眼差しを這わせるスタンスへと変化している。三首目のイ・リ・ア (il y a) は英語の there is (are) に相当するフランス語の存在述語であり、メルロ・ポンティーが身体を原点として歪む現象学的世界を構想したように、大辻は〈私〉を定点として存在の深みに測鉛を垂らそうとしているようだ。歌に詠まれた物象はもはや心象の喩ではなく、セザンヌの絵画に描かれた洋梨のように「そこにある」という実在性を色濃く帯びている。このような歌が私は特に好きだ。

 そして第四歌集『デプス』である。

 雨のあとの瀝青を踏む自転車のタイヤの音がかすか粘みて

 鳩たちの影はこゑなくあそびをり雨水の朝の駅のはたてに

 あかしあのむかうに見ゆる教室にひとつの椅子を置きかふる音

 薄らなるハムひとひらを剥がしゐつ暗くつやめく肉の部位より

 歌に詠まれているのは、雨後のタール舗装がかすかに粘る音、鳩が音も立てずに遊ぶ風景、遠くの教室で椅子を置き換える音、一枚剥がしたハムの色と、普段は気づかずに見過ごしてしまうような無意味な事象である。それを目撃した〈私〉の心情は書き込まれていない。だからこれは何の喩でもない。ではこのような歌が近代短歌のめざした「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」(斉藤茂吉)ことを信条とする写生歌かというと、そうではない。大辻も多くの若い歌人と同様に、近代短歌がめざした「自然・自己一元」という合一感をもはや信じてはいまい。上の歌に詠まれたどうでもいいような事象のザハリッヒな即物性は、まさに「存在の肌理」なのであり、大辻の垂らした測鉛に触れた世界の〈手触り〉以外の何ものでもない。このような歌が大辻の真骨頂ではないだろうか。

 大辻の視線は画家が凝視する即物的世界を時に通過して、歴史という名の時間が流れ、国家という名の線引きがなされた人文的世界にも注がれる。物としての事象の上空を通過するこの抛物的視線は、『デプス』以前にはあまり見られなかったものである。そのとき大辻の歌には即物的世界を詠むときにはなかった〈苦さ〉が色濃く滲み出ていることに注意しよう。

 包帯を巻きゐしか否かおぼろにて川上慶子の垂らしし右手

 などかくは言葉は熟れて美しく くりすたるなはと、くめーるるーじゅ

 韻を踏む言葉はつねに国家とふ緋のあやかしを鼓舞しつつ朽つ

 箸先に卵の黄身がからむ朝またソマリアが選び出されて

 川上慶子は1985年8月に御巣鷹山に墜落した日航機事故の奇跡的生存者である。このような大事件にも神の宿る細部はあると大辻は言いたいのだろう。ちなみにヘリコプターでの救出時に、川上慶子の垂らした右手には確かに包帯が巻かれていた。「くりすたるなはと」(水晶の夜)は1938年11月9日に起きたナチスによるユダヤ人迫害事件。「くめーるるーじゅ」(赤いクメール)はカンボジア左翼勢力の総称で、民族虐殺を行なったポルポト派はその一派。民族の悲惨に関わる単語の響きがかくも美しいことに、大辻は戦いているのだ。それは言葉の底に蟠居する原罪のように重く響く。「韻を踏む言葉」はもちろん和歌・短歌のことで、短歌と国家(天皇制)のあいだの屈折した関係を歌人は避けて通れない。このような世界詠の延長上に「紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき」という話題になった一首があるが、ここではこの歌について論じるつもりはない。

 最後に次の歌をあげておこう。

 「つまり主体の存在が……」だと? 馬鹿らしい。ただ歌がわれといふ場でそよぐ

 これは大辻が短歌形式で表現した歌論だと言ってよい。大辻は主体である〈私〉が短歌を表現形式として自己を表現するという短歌観を否定する。歌うのは短歌定型という形式であり、〈私〉は逆に定型が歌う場に過ぎない。これは「どんな小さなことでもいい、なにかしら『あっ』と感じる気持ち。その『あっ』が種となって歌は生まれてくる」(俵万智『短歌をよむ』)という素朴な実感主義が無邪気に前提としている〈私〉の位相とはずいぶん異なる。短歌を自己表現の手段と見なす若い歌人が多い現代では、大辻の主張は時代の流れに逆行する保守的なものと映るかもしれない。しかし大辻は短歌の歴史性を踏まえて定型の持つ意味について真摯に自らに問うている数少ない歌人の一人である。その言は重く受け止めるべきだろう。

091:2005年2月 第3週 千葉 聡
または、凹型の負の梃子から紡ぎ出される淡い青春の抒情

七月は漂う 僕から逃げようとする
    僕の影をまたつかまえて

      千葉聡『そこにある光と傷と忘れもの』
 千葉は1968年生まれで、「かばん」「ラエティティア」所属。「フライング」30首で第41回短歌研究新人賞を受賞している。第一歌集『微熱体』に続いて、『そこにある光と傷と忘れもの』は2003年に刊行された第二歌集である。ちなみにこの題名は『そこにある/光と傷と/忘れもの』と5・7・5仕立てになっており、「光」と「傷」は千葉の短歌に頻出する語彙に当たる。千葉からの私信によれば、この歌集題名は荻原裕幸と穂村弘には絶賛されたが、奥村晃作と飯田有子には評判がよくなかったそうだ。奥村は自分のホームページで「この題名は恥ずかしい」とまで書いているが、どうしてどうして、私にはすばらしいタイトルに思える。また集中の章の題名「光の断面・夏の眠り」も、連作題名の「誤作動マリア 無修正ヨゼフ」もなかなかよい。「言葉の想像力」を感じさせるからである。とりわけ「誤作動マリア 無修正ヨゼフ」は、ホラー漫画家楳図かずおの往年の名作「神の左手悪魔の右手」を連想させ、私の想像力をいたく刺激するのである。

 千葉の短歌を批評する人が異口同音に指摘するのが、散文の巧さである。『そこにある光と傷と忘れもの』にも「文学の勝利(?)」という「あとがきにかえて」があり、『現代短歌の最前線』(北溟社)にも「へなちょこ音楽家・千葉究太郎の半生」という文章がある。どちらにも中学の国語教員として勤務する千葉のダメ教師加減が、一切の自己粉飾を排して淡々と綴られている。それは赤裸々な告白という自然主義文学的衝動の域を遙かに超えて、ひとつの「芸」にまで昇華されていると言えるだろう。

 穂村弘も同じ芸の持ち主で、私は穂村の短歌をおもしろいと感じたことは一度もないが、彼の散文作品『世界音痴』(小学館)『もうおうちへかえりましょう』(小学館)は愛読している。ごく最近も筑摩書房のPR雑誌「ちくま」2月号に「名言集」と題した1ページのコラムを書いているが、芸もここまで来れば珠玉の逸品である。ムロタ君は今頃どうしているのだろうか.穂村はなかなか複雑な精神構造の人のようで、抱腹絶倒の散文作品と実験的ニューウェープ短歌の落差に眩暈がする。しかし散文と短歌のあいだの関係は、千葉にあってはいささか位相が異なるようだ。散文は短歌を読み解くための、長い長い詞書きとして機能しているように思われる。それはなぜだろうか。

 とりあえず千葉の短歌がどのようなものか見てみることにしよう。まず抒情グループから。

 びしょ濡れの鉛筆で書いた線のよう 寝ころんだまま空を蹴る脚

 キス未遂 僕らは貨車に乗り込んで真夏が軋みだすのを聴いた

 影になる ざわざわ揺れる吊り革を二つ握って動かなくして

 人形の目を突くようにその指で僕の鎖骨を押さないでくれ

 たとえ無修正のまま生きてても帰れる場所は君のてのひら

 次はダメ教師グループから。 

 日誌には「先生しっかりしてください」丁寧すぎる女子の字だった

 私語それは痛みだ 僕に向けられていない言葉が僕を突き刺す

 もう二度と飛ばない(飛べない)ことにして床に貼りつく消しゴムひとつ

 校長に叱られました 下につく「こころ」が「ごころ」になるくらいまで

 「おはよう」に応えて「おう」と言うようになった生徒を「おう君」と呼ぶ

 僕がつける傷は輝きますように ケースの隅のきれいな画鋲

 千葉は軽快な口語文体のなかに若さを強く感じさせる抒情を盛り込むことに成功している。これは第一歌集『微熱体』からのラインであり、『微熱体』にはさらに行き場のない若さを感じさせる歌がたくさんある。

 くやしいけどリュウのシュートはいい 空に光を送り返す約束

 星の出るころにはボール抱いたまま熟れゆく空を見てふざけたね

 休憩用ホテルはつぶれ僕たちの基地もヒーローたちも消された

 顔あげて飲むスプライト 太陽とペットボトルと君は一列

 これらの歌を通読して強く感じるのは、「物語の糸でつながれた短歌」ということである。『微熱体』の連作は、「ラブホテルの裏庭でバスケットボールに興じて高校を中退したリュウ」、「大学をやめて建設現場で働いて詩を書くマサル」、「少女マンガの新人賞をめざしている君」のように、明確なキャラクター設定とストーリーがある。これが千葉の短歌の作り方なのである。しかもキャラクターとストーリーは、ヤングアダルト小説か少年マンガのようであり、若い読者には共感しやすいだろう。このような読者から見た時の敷居の低さも千葉たち若い歌人に共通する特徴である。

 「物語の糸でつながれた短歌」を志向するということは、一首ごとの歌としての屹立を放棄するということである。一首の歌をそれ自身の意味の重力と求心的磁場によって、閉じて完結した世界として構築するのではなく、一首の歌はより大きなストーリーのピースのひとつであり、外部へと開かれて連続しているものと捉えられる。千葉の歌にしばしば見られる非完結感はここに由来している。

 先に千葉の歌集に添えられた散文は長い詞書きとして機能していると書いたが、その理由はここにある。散文はストーリーの背景を提示し、千葉の短歌を理解し共感することを助けている。それだけではない。散文における千葉の描き方には、短歌理解へと接続する次のような仕掛けが施されているのである。散文のなかで千葉は必要以上に自分を矮小化させて、「お粥のように薄い存在」として描いている。校長から叱られ、生徒から逆に励まされ、オタオタと日常を送る非実力派教師として自分を描くことによって、千葉は徹底的に受動的存在として自己を規定する。しかしまさにこの自己規定によって、千葉の〈私〉はその反対側にある理解のフィルターを通した世界と現実とを浮上させる「反射鏡」として、あるいは「負の梃子」として働くことになる。これが千葉の作歌の視座だと思われる。

 このような千葉の〈私〉の位相は、村上春樹の小説の主人公の〈僕〉ととてもよく似ていることに気づく人もいるだろう。村上春樹の主人公もまた、恋人から「あなたと一緒にいると月にいるみたいに空気が薄くなるのよ」(『ダンス・ダンス・ダンス』)と言われてしまう人間であり、世界に対する関係は徹底的に受動的である。しかしその受動性をか細い通路として、やがて主人公の身に事件が降りかかり、主人公は自分を遙かに超えた運命に翻弄される。村上春樹の小説はおおむねこういう仕組みになっている。主人公の世界に対する関係の希薄さが、まるで触媒のように、酵母のように、物語を展開させて行く。

 千葉が殊更に自分を「お粥のように薄い存在」として、周囲から影響を受けやすいおばけのQ太郎のような存在として自分を描くのは、もちろん千葉に自虐趣味があるからではない。「物語の糸でつながれた短歌」によって世界を語るために、自分を凹の位置に置くことが必要だからである。

 千葉が「影をなくした男」の物語に惹かれるのも、このためだと思われる。集中には影を詠んだ歌が多く見られる。「影のない男」とは、存在が希薄化された〈私〉であり、凹的〈私〉の象徴であることは言うまでもない。

 影法師をいつなくしたのか 舌先を丸めて舌の付け根を舐めた

 教室にとり残された影たちは必ず何かに寄り添いなさい

 七月は漂う 僕から逃げようとする僕の影をまたつかまえて 〔掲出歌〕

 「スターバックスって星の裏側のことだよ」と語る影なし男

 影のないまま生きていく 風を受け風になれないこの身ひとつで

 千葉は1968年〔昭和43年〕生まれで、枡野浩一・錦見映理子・飯田有子と同じ歳である。一歳上にはひぐらしひなつ高島裕がいる。これら同年齢の歌人と比較したとき、千葉にとっての世界の見え方は、実年齢よりも若い印象を受ける。ひょっとしたら「影のない男」は歳を取らないのかも知れない。

 『そこにある光と傷と忘れもの』を通読すると、光と影に彩られた青春の抒情を感じることはできるのだが、その印象は淡彩画のごとく淡く頼りない。ちょっと気を抜くと流れる砂に脚を取られて、緩斜面をどこまでも流されて行くような印象すら受ける。味も淡泊でアルコール度数も低い発泡酒のようなこの頼りなさはどこから来るのだろうか。シングルモルト・ウィスキーのようなコクのある短歌を期待するのは無理なのだろうか。

 穂村弘が『短歌という爆弾』を出したとき、水原紫苑は次のような評を述べた。穂村の本は「純粋に自己表現のためにだけ短歌形式を選び、形式が孕む歴史性の一切を捨象する」立場から書かれたものであり、「自分を超える大いなるものとの交感なくしては、この古代詩は息づくことがない」 けだし名言と言えよう。「自分を超える大いなるもの」と抽象的に表現されているものは、一義的に決まるものではあるまい。水原の引用にある「歴史」も候補のひとつである。1300年を超える歴史を持つ短歌形式を選んだ歌人が、自らの制作現場を歴史の切っ先において把握したとき、短歌を「純粋な自己表現の形式」とのみ捉えることはできまい。「自分を超える大いなるもの」は神かも知れない。時には神の名で呼ばれることもある宇宙と生命の支配原理かもしれない。「歴史」や「神の名を持つもの」という超越的存在がその対極に位置する〈私〉という個的存在と、短歌という極小形式のなかで出会い衝突し火花を散らすとき、そこに定型に生命を与える詩が生まれるのではないか。この出会いから生まれる葛藤と煩悶と恍惚が、短歌のコクを生み出すのでないか。千葉にもそのような展開を期待したいものである。

090:2005年2月 第2週 吉野亜矢
または、骨太の短歌技法は静かに世界を希求する

仄暗き骨のあいだを子は駆ける
    窓に桜の揺らす日を踏み

         吉野亜矢『滴る木』
 吉野は1974年生まれで、「未来」「レ・パピエ・シアン」所属。『滴る木』は2004年刊行の第一歌集である。「滴る木」とは不思議な題名だが、集中の次の歌に由来している。

 地中ふかく根を張るものへ憧れを抱き樹形図の先に滴る

 この木とは現実の樹木ではなく、生物の進化を表わす系統樹であると知れる。祖先が上で子孫が下に配置された系統樹は、ドライフラワーを作るために逆さに吊り下げられた薔薇の花束のように、上がすぼんで下が広がる形状をとっているにちがいない。上句の「地中ふかく根を張るもの」まで読むと、ふつうの樹木のように地下に根を張って立つ木が想像されるが、実はこの歌のなかでは木は天地が逆転していて、一瞬眩暈を覚える。問題は「滴る」の主語なのだが、頭から読んで行くと「憧れを抱き」の主語は表現されていない〈私〉なので、順当に読めば「滴る」の主語もまた〈私〉である。つまり、今ここに存在している〈私〉は、地球に生物が誕生してから何億年にもわたる進化の過程を背景として、樹形図の先端にわずかに「滴る」存在であるとの認識が表明されている。とてもスケール感の大きな歌だと言えるだろう。

 「処女作にはその作家のすべてが顕れる」というのは文学研究の定説 (俗説) であるが、横山未来子『樹下のひとりの眠りのために』や石川美南『砂の降る教室』のように、第一歌集から文体と個性が際立つという例は確かにある。しかし吉野の場合、歌集を一読した読後に歌人としての統一した印象を持つことが難しい。その理由はおそらく吉野の文体と主題の多様性にある。どうやら吉野は引き出しをたくさん隠し持っている人のようで、その多様性に幻惑されるのである。

 上にあげた樹形図の歌のように、大きなスケールでの時間認識を詠み込んだ歌や、次のようにこれまた大きなスケールでの地理的認識を詠った歌がある。自らの位置を俯瞰して把握することのできる理知的な眼差しが勝った歌である。

 美しきかたちと思う忠敬の結びあげたる海岸線を

 かと思えば肌触りのまったくちがう歌もある。異なる趣向の歌を一首ずつ列挙してみよう。

 庭の木の蜘蛛の巣に蜘蛛おさまりて黄色き腹のまるまると見ゆ

 風呂上り自分で作るこおり水 人生を統べてるって感じ

 半世紀穿かれつづけて延びきったパンツのゴムを九条と言え

 とりあえずありがとうって言ってみる一人になってまた考える

 ひらけない手のひらの中冷えてゆく噛みしめていた赤い毛糸が

 一首目はまるで写生のお手本のような歌で、一瞬アララギかと思ってしまうほどの端正な定型歌である。特に「蜘蛛の巣に蜘蛛おさまりて」の部分は技術が光る。吉野が近代短歌の伝統的定型を十分学んでいることがわかる。一方、二首目の下句の口語的締め方は、一転してまるで「未来」の先輩に当たる加藤治郎のようだ。集中には三首目のように鋭い社会批評を含んだ歌もあり、「憎まれるほど輪郭のあるくにに壊されるべき塔として立つ」のように9.11テロに寄せた時事詠も散見され、岡井隆からの流れを感じさせる。かと思えば四首目は定型意識をゆるめて口語性を全面に出した歌で、加藤千恵と書名があっても驚かない。五首目は穂村流に表現すれば「5WH1を隠した歌」であり、ひらがなを生かして余韻を残す作り方は東直子小林久美子が得意とする歌風に極めて近い。

 ひょっとして吉野は短歌のサンプリングをしているのではないかと思えるほどに多様な文体である。吉野の所属している「レ・パピエ・シアン」は、2004年8月号で『滴る木』の特集を組み、8人の同人がそれぞれ批評を寄稿しているのだが、いずれも吉野の全体像を描き出すのに難渋している。曰く、「理性的な思考」「日常の側に居場所を求める」「率直で、謎めいている」「ドライで冷静沈着な視線」「人文地理的想念」などなどの批評的言辞は、外れてはいないものの吉野の一面だけを捉えたものにすぎない。

 吉野は若い頃から短歌を作って来たらしい。「レ・パピエ・シアン」と淀川歌会を経て「未来」に入会し活動する過程で、さまざまな技法と発想を貪欲に吸収してきたのだろう。その痕跡が上にあげたような歌の文体の多様性に見て取れる。「レ・パピエ・シアン」の特集で小林久美子が、佐藤りえ生沼義朗・冨樫由美子ら1973年から76年生まれの歌人たちと、同世代の吉野の歌を比較検討している。この世代は成人した頃にバブル経済が破綻し、「失われた10年」を迎えた世代である。文芸批評家ガートルード・スタインがヘミングウェイやフィッツジェラルドなど、第一次大戦後の信じるものをなくした世代を評して名付けた「ロスト・ジェネレーション」という表現が、新たな意味のもとに当てはまる世代と言えるだろう。「自分が短歌を作る根拠はどこにあるか」という問題は、近代短歌のあらゆる世代に課せられる問であり、いずれかの世代に特有のものとは言えない。しかし、「失われた10年世代」特有の問題は、「自分と世界の関係を再測定する所から始めなくてはならない」という課題を抱え込んでしまった点にある。これは古い世界を計測していた物差しは、もう通用しないということを意味する。

 「失われた10年世代」の歌人たちがこの課題に対処している方法はさまざまであるが、吉野はこの問に性急に答えを出すのではなく、最小限信じることのできる主体 (それすらも幻想かもしれないが) を核として、自らの外部にさまざまな触手を伸ばして手触りを確かめるという冷静な戦略で立ち向かっているように見える。それがまるで短歌のサンプリングをしているように見える理由ではないだろうか。一方、次のような歌にはなかなか骨太な吉野の個性を感じるのである。

 あるだろう 虹の根ふとく突き刺さるあたり制度の届かない地が

 賜りしものに足らいし日の終わりアルバムのこの辺りなるらし

 今日一日(ひとひ)生きた証のレシートを入力しゆく夕餉を終えて

 帰り道にシュークリーム店がまた一つ増えた日双子のビルは崩れた

 草色のコートの外にあるものをたくさん排斥しながら歩く

 一首目、虹の根方に制度の外部を幻視する想像力は、現実に埋没することを拒否する意志であり、吉野の人文地理的想像力をよく表わしている。ちなみに寺山修司の地理的遁走の想像力と、吉野の人文地理的想像力は、似ているようでかなり異なる。二首目、アルバムをめくりながら父母から与えられたもののみで満たされていた日々を思う歌には、自らの来歴を俯瞰する視点がある。三首目は日常に身を沿わせた歌であり、生きた証がスーパーやコンビニのレシートであるという所に現代の自覚がある。四首めは9.11テロの歌だが、時事詠を身近な日常の文脈に落して捉えるという態度とならんで、シュークリーム店がまた一つ増えるという日本の無意味な過剰との対比にポイントがあろう。五首目は非常に感覚的な歌だが、情緒に流れない吉野の強い意志を感じさせる歌である。

 これとはまた肌触りの違う次のような歌群もあり、吉野の歌風は幅が広いのである。

 背中だけ見せて寝ている村の井戸を汚したせいで帰れぬ人が

 これがほら手紙に書いた桜の木お医者の角に花びらが降る

 父の血を吸いしタオルを搾りつつひたに満ちゆく母の器は

 これらの歌には非常に強い物語性がある。歌だけからは背景と状況が読みとれない所があるが、そのため逆に背後の物語の膨らみを感じさせ、とても魅力的な歌になっている。このような方向性の歌をもっと読んでみたいと感じさせる一群である。これを見ても吉野がすでに並々ならぬ作歌技法を自分のものにしていることがわかる。自分の周囲に触手を伸ばすという冷静沈着な方略から一歩踏み出して、世界に対して流れるある回路を見いだしたとき、その技法は炸裂するにちがいない。

 最後にもう少し印象に残った歌をあげておこう。

 習いごとが三つあっても吐くんだね卯の花浸す雨を聞きつつ

 風呂の湯は素数に設定されていて私は1℃上げてから出る

 今日よりは五月卓布に置かれたる薬袋にあわき影棲む

 色薄き頬に手を寄せ我が系(すじ)とのたまう母の遠き紫陽花

 こうやって日々を過ごしていることの谷間に小さな鍵の鳴る音

089:2005年2月 第1週 今橋 愛
または、詩と地続きのゆるい定型感覚から繰り出される薄い空気の歌

手でぴゃっぴゃっ
たましいに水かけてやって
「すずしい」とこえ出させてやりたい

          今橋愛『O脚の膝』
 この短歌批評ではずっと掲出歌を二行書きにしている。しかし今回の今橋の歌は、もともと原文が三行書きになっていて、私が恣意的に区切ったものではない。この多行書きが今橋の短歌にとってはとても重要なのだということから話を始めたい。

 今橋のプロフィールは、大阪市生まれで京都精華大学卒業、24歳の頃から短歌を作り始めるとしか明らかにされていない。しかし、歌集巻末に著者近影が掲げられているので、若い女性であることはまちがいない。京都精華大学といえば、過去には現代短歌のフィクサー深作光貞が学長を務め、岡井隆が教授で上野千鶴子も教鞭を執っていた大学である。しかし、今橋はこのような伝統から生まれた歌人ではない。結社には所属せず、2002年に「O脚の膝」100首で北溟短歌賞を受賞している。審査員は穂村弘水原紫苑。2000年に短歌研究社が開催した「うたう作品賞」コンテストで候補作に残った赤木舞が今橋のペンネームであったことに気づくのに、少し時間がかかった。「うたう作品賞」候補作も『O脚の膝』にそのまま収録されている。

 さて掲出歌だが、改行が句切れに対応していると想定すると、6・7・6・7・8の34音でかなり定型から外れている。ひながなの多用と口語文体は、最近の若い女性作者にはよく見られるもので、特に珍しいものではない。掲出歌は多行書きになっているが、集中にはふつうの一行書きの歌もあれば、二行もそれ以上の歌も混じっている。試しに二行書きと、それ以上の多行書きの歌を一首ずつ引用しておく。

 濃い。これはなんなんアボガド?
 しらないものこわいといつもいつもいうのに

 わかるとこに
 かぎおいといて
  ゆめですか

 わたしはわたし
 あなたのものだ

 今橋はなぜ多行書きにこだわるのだろうか。短歌を一行書きにするのが決まりになったのは明治からのことで、それ以前の古典和歌の時代には多行書きがふつうだったようだ。色紙や屏風などに書くときには、散らし書きといって平面に分散して書くことによって、視覚的印象を追求する技法もあった。日本語は世界でも珍しい音節文字である仮名を使っているので、右から書こうが左から書こうがどちらでもよく、散らして書いてもかまわないという自在な特性がある。散らし書きは屏風などに描かれた絵と短歌の複合的意味作用をめざしたものだといえる。明治になって一行書きにするようになったのは、短歌を文学として美術から独立させたいという意図に基づくものだ。もしそうならば現在では約束事となっている一行書きではなく多行書きを採用するということは、短歌の一首としての屹立をめざすのではなく、逆に短歌をそれ以外のジャンルと融合させるか、少なくとも地続きのものとして捉えていることになる。今橋の場合は、明らかに詩と地続きである。だからこの歌集に収録された作品は、果たして短歌として読むべきか、散文詩として読むべきか迷うものが多い。

 上にあげたアボガドの歌にしても、「濃いこれは なんなんアボガド しらないもの こわいといつも いつもいうのに」と区切れば、三句が6音に増音されている点を除いて定型に近い。しかし句切れと改行が一致していないので、一読したときに定型感が希薄である。二首目の「わかるとこに」も初句の一音字余りを除けば定型なのだが、句ごとに改行されると印象は短歌より詩に近くなる。

 手をふっても
 またねといっても
 次にかおをみないと
 かおをみたいのです

 四行書きのこの歌にしても、「次にかおを」で句切れがあるのだが改行と一致していないため、改行に忠実に読むと短歌として読むことが難しい。今橋にあってはかくのごとく、定型感覚は希薄なのである。おそらく定型という意識そのものが今橋の頭にないものと思われる。

 今橋の短歌 (のようなもの) に好意的な評価をしている奥村晃作は、「短歌研究」2005年2月号の今橋を論じた文章のなかで、短歌が短歌として成立する条件をふたつあげている。

 その一 フォルムを遵守すること
 その二 レトリックが一以上あること

 奥村はこの基準に照らして、今橋の次の一首目は短歌だが、二首目は短歌ではなく四行詩だと結論づけている。

 たくさんのおんなのひとがいるなかで
 わたしをみつけてくれてありがとう   「ラーラぱど」所収

 「水菜買いにきた」
 三時間高速を飛ばしてこのへやに
 みずな
 かいに。

 奥村の第一の条件にある「フォルム」とは定型のことだとして、第二の条件にある「レトリック」はいかようにも解釈できる。奥村は上の一首目「たくさんの」にレトリックが認められる根拠として、「口語である」「新かな遣いである」「ひらがな書きである」「句跨りがある」「字余りがある」をあげているが、これはどうだろうか。狭義のレトリックとして認められるのは「句跨り」くらいのもので、それも今橋の場合は意図的なレトリックではなく、結果として句跨りになったと見るほうが自然だろう。奥村はいささか今橋を買い被りすぎではないだろうか。ちなみに奥村が「短歌である」と認定した上の一首目はつまらないが、「短歌ではない」と認定された二首目のほうがずっとおもしろい。三時間高速を飛ばして水菜を買いに来るという設定そのものの荒々しさが、青春の一途さの喩として読める上に、最後の「みずな」「かいに」を平仮名書きして改行することによって、つぶやくような口調のなかに青春の傷つきやすさがせつないほど表現されている。水菜を手に握り締めて部屋の中に立っているイメージの結像力は抜群である。今橋のレトリックはここにこそ発揮されていると言うべきなのである。

 「うたう作品賞」コンテストと同じ号で、穂村弘は「棒立ちのポエジーと一周回った修辞のリアリティー」という議論を展開し、「棒立ちのポエジー」の例として次の歌を挙げている。

 あの人が弾いたピアノを一度だけ聴かせてもらったことがあります  加藤千恵

 そこにいるときすこしさみしそうなとき
 めをつむる。あまい。そこにいたとき               赤木 舞(今橋 愛)

 この変なドキッという感じの衝撃は巨大イカを知った時と似てる   脇川飛鳥

 穂村のいう「棒立ち」とは、近代短歌のレトリックがまるで使われておらず、ただ五・七・五・七・七の音数に合わせて言葉を並べただけのように見える歌のことである。「棒立ちのポエジー」派とは、意図して棒立ち歌を作っているわけではなく、それだけしか作れない「天然」の人を意味する。それに対して、「一周回った修辞のリアリティー」というのは、短歌的修辞を用いた歌も作れるのだけれども、あえてそれを避けて無防備な棒立ち歌を作る人のことである。徒競走で一周遅れの走者が先頭の走者と並んで走ることがあるように、「棒立ちのポエジー」派と「一周回った修辞のリアリティー」派は、一見すると区別できないような歌を作るという趣旨の議論である。

 穂村の判定では今橋は「棒立ちのポエジー」派に分類されている。後世になって過去の事例を断罪するのはルール違反であることを承知で言えば、穂村の判定は見事に外れていたと言うべきだろう。今橋は決して「棒立ちのポエジー」派ではなかったのである。そのことは『O脚の膝』所収の短歌 (のようなもの) が証明している。ただ今橋の作歌のスタンスが、短歌定型を守ることなど頭から考えておらず、多行書きの散文詩と地続きの、単なるスタイルのひとつ程度の意識に基づいていたということなのだ。穂村は「こんなふうにしてもいいよね」というゆるいジャンル意識を読み切れなかったのだろう。要するに、穂村は短歌にこだわりがあり、あくまで短歌のフィールド内で論じているが、今橋にはそんなこだわりは微塵もなく、よそのフィールドに勝手にはみ出していたということだ。

 穂村は『O脚の膝』の栞文のなかで、今橋の短歌(のようなもの) の特徴を次の三点にまとめている。

 a. 5W1Hに関する具体的な情報の欠落。
 b. 多行書きやランダムな旧仮名遣いや時制の混乱や文法からの逸脱を含む直感優位の言語操作。
 c. 言葉の単純さ。

このうち b. は「いろいろやってみる」という現代短歌と現代詩に共通する志向であるから、特に異とするには当たらない。a. に関してここでは特に指示詞のコ・ソ・アに注目してみたい。というのも指示詞は、話し手(書き手)と聞き手(読み手)の共通の了解を基盤に成立するものだからである。

 上にあげた赤木舞名義の「そこにいるとき」の「そこ」がどこをさすのか、作者だけが知っていて読者は知りようがない。これが今橋の典型的な指示詞の使い方である。

 おでこからわたしだけのひかりでてると思わなきゃここでやっていけない

 慣れすぎてやさしかった。あのへやに
 いつものようにあんなボサノヴァ

 もうちがうものになってる?
 太陽が。
 あのひあんなにまぶしかったのに

 一首目の「ここ」、二首目の「あの部屋」「あんなボサノヴァ」、三首目の「あのひ」はいずれも指示対象が読者にはわからないように使われている。これをよく知られた次の歌と比較してみよう。

 あの夏の数かぎりなきそしてまたたつたひとつの表情をせよ 小野茂樹

 小野の「あの夏」と今橋の「あのひ」は決定的にちがう。この差が近代短歌と今現在の短歌をへだてる差である。小野の歌でも「あの夏」がどの夏をさすのかという説明はないが、この歌が相聞歌でありまた恋が終った後の歌であるという歌意を踏まえれば、「あの夏」が私と恋人の恋がいちばん輝いていた夏だということは読者に了解されるように作ってあり、それが作歌と読みの約束事として成立していたのが近代短歌であることは言うまでもないことだろう。今橋の「あのひ」はこの約束事を軽やかに蹂躙している。ここから引き出すことができる結論は、次のふたつのどちらかである。

 その一 今橋のような作り方をする短歌は、作者と読者を結ぶ読みの回路を最初から無視しており、作者が作って満足すればいいという自己充足的短歌である。

 その二 今橋のような作り方をする短歌は、特化されるような感情や意味を伝えるものではなく、意図的に意味を曖昧にし措辞を攪乱することをひとつの技法に昇華し、読者の心の水面に正体のわからない波紋を広げることのみをめざした歌である。

 さて、どちらの結論が正しいのだろうか。私としてはその二が正しいことを願うばかりである。

 最後に印象に残った歌をあげておこう。

 きめたのでしんだひとですはなのなか
 こどもみたいにでてきたらこまる

 そのくちはなみだとどくをすいこんでそれでもかしこい金魚でしょうか

 きのう家。
 軽くこわれて かあさんは
 こんな日にだけ むらさきのしゃどうを

 ぼくは流す
 やさしいオンガク空のほう
 人生のリセットボタンおすとき

 一首目と二首目は童謡風の怖さがひらがな書きによって強められており効果的である。三首目は家庭崩壊を詠んだものと思われるが、この歌にも冷たいコワさがあり、今橋の個性は案外こういう所に表れているのかも知れない。四首目は若い世代を特徴づける「セカイ系」のゲーム感覚がよく現われている。早坂類や佐藤りえの短歌を読んでいても感じることだが、若い世代の作る歌にはまるで世界の終末に立ち会っているような空虚感が濃厚に漂っていて、息苦しくなることがある。その理由は短歌の世代論として一度真剣に論じてみる必要があるのかもしれない。

088:2005年1月 第4週 浜田蝶二郎
または、垂れ下がる二本の腕は満天の星の下に

垂直線もて天頂と結ばるる
    夜にポロシャツをまとへるが我

       浜田蝶二郎『からだまだ在る』
 私は二本の腕を垂らして、静かな夜の中に立っている。直立する私から垂直線を真上に引くと、そこは遙かな高みの天頂である。地上に立つ私は、痩せた身体にポロシャツをまとった卑小な存在にすぎない。天頂へと続く想像上の垂直線が視線を導く天球の広大さと、地上に立つ私の卑小さとの鋭い対比、天空の永劫と私の須臾の対比が際立つ。写実でもなく暗喩でもなく、事実を事実としてゴロリと投げ出すなかに、〈私〉が世界に対するときのスタンスが明確に刻印された歌と言えよう。

 浜田蝶二郎は1919年(大正8年)生まれで、2002年没。小・中学校の教員を長く勤め、歌誌「醍醐」編集委員長。歌集は計8冊を数え、『からだまだ在る』は第7歌集に当たる。私は「歌壇」2004年5月号の特集「最近、おもしろい歌集を読みましたか」で、三枝浩樹が浜田の遺歌集となった『わたし居なくなれ』を紹介しているのを読み、初めて浜田の名を知った。『からだまだ在る』は1997年、浜田76歳のときの歌集である。『現代短歌辞典』(三省堂)の記事によれば、幼少より病弱で若くして肺結核を病み、そのため生と死に思いを寄せ、実存的思索を深めたという。例えば次のような歌が並んでいる。

 現象に過ぎざる我かふくみたる茶を呑みくだしなどもして

 ここにわれ投げ出されあるといふ不思議老骨きしむことは無けれど

 身の嵩(かさ)は消ゆるものにてまだ消えずバスタブの湯をあふれさせたり

 この両手袋さぐれど終はるとき持つといふことその他も終はる

 燃え続けをらねばならずある日ふと何ものか火をつけられしゆゑ

 公園のベンチにもたれ「現在」を去らせ「現在」をもらひ続ける

一首目の「私は現象に過ぎない」という認識は、現象が終れば私もまた終るということを意味する。須臾の間の現象が茶を呑んでいる〈私〉とは何かという問い。これは「ほんとうの私」を模索して彷徨する若者の抱く問いとは次元を異にする、遙かに存在論的な問いである。浜田の真骨頂はこのような存在論的思索を、身体を通して発見するところにある。二首目は、「われわれは故なくこの生に投げ出されている」という存在論的不条理の感覚を、下句の「老骨きしむことは無けれど」という老人のつぶやきが受け止めている。そこに軽みがある。三首目のポイントは、この身はいずれ消えてなくなるという〈知識〉と、バスタブに満ち溢れた湯に浸かっている〈感覚〉との乖離だろう。感覚は遂に知識に追いつけず、死とは実感できないものだという認識がここにある。四首目も袋のなかを手でさぐるという具体的な身体感覚と死との隔たりがテーマだが、この両手を持つということも終るという感覚が斬新である。五首目に詠まれているのもまた存在論的不条理だが、浜田の思想は神なき世界の不条理ではなく、私をこの世に投げ出した超越者をどこかに感じているようだ。六首目は時間の不思議を詠ったもので、私たちはたちまちに過ぎ去る「現在」を生きることしかできず、「現在」という檻のなかに捕われていると見ている。このように浜田の短歌はきわめて思想的・哲学的な歌なのだが、それを短歌技法としての喩に訴えることなく、身体感覚を通して詠っているところに特徴があると言えるだろう。

 生老病死は短歌の永遠のテーマであるから、自らの死を間近に意識した老境の歌は決して少なくない。

 彼の世より呼び立つるにやこの世にて引き留むるにや熊蝉の声  吉野秀雄

 死ぬるときああ爺ったんと呼びくれよわれの堕地獄いさぎよからん  坪野哲久

 肉叢は死にはんなりとひつそりと水のくちびるを受けやしぬらむ  河野愛子

 疲労つもりて引出ししヘルペスなりといふ 八十年生きれば そりやぁあなた  斎藤 史

 吉野の歌は心臓発作の危篤状態から脱した時の歌で、生死の境を彷徨った後の仏教的達観の趣がある。プロレタリア短歌の闘志として戦った坪野の歌は、晩年になっても威勢がよい。河野もまた病気に苦しんだ歌人だが、この歌には清明な死生観が滲み出ている。斎藤は自らの老いをあからさまに、やや露悪的に詠っている。

 しかしこれらの歌と比較したとき、浜田の短歌は一般に流布したイメージの「老境歌」に回収できないものがある。収録された歌のなかには死への怖れを詠んだものがほとんどなく、自らの存在の消滅を必定の理としてむしろ歓迎する歌もある。

 もらひたる「現在」をお返しして終へんわが色に染めて持つ「現在」を

 とりたてて言ふほどならず生まれ来てやがて消え失せん愉快ゆかい

 このような心持ちを続けるのに何よりも必要なのはユーモアである。浜田の歌にはユーモアが溢れていて、読んでいて楽しい。

 計らひを超えしありがたきリズムかな空腹感の定時に湧くは

 へこをせし昔男は知らざらむズボンに前あきのファスナーあるを

 そのむかしブッダ・西行の捨てしもの妻の背ひらくとファスナーを引く

 たべものがうまく入って抜けてゆく我の大事にて世界の些事にて

 こういう歌を見ると、作者はなかなか食えない老人かと思う。私もできることならばこういう老人になりたいものだが、無理かもしれない。

 浜田の短歌を通読していると、短歌技法として写生を重んじるかそれとも暗喩による象徴的技法に頼るかといった議論は、余り意味のないものに思えてくるから不思議である。たとえば次のような歌はどうだろうか。

 ひつかむり着たるポロシャツ けさの顔抜けて胸と背になじむポロシャツ

 さしたる事が詠まれているわけでなく、かといってそれが何かの喩となっているわけでもない。意図的なただごと歌ともまたちがう。こういうのを「自在の境地」というのだろうか。

 短歌的に見れば、集中の次のような歌が秀歌とされるのかもしれない。

 銃口の無き街の涼 をみなごの腋(わき)より垂るる二すぢの滝

 花ぞのにかがめばうなじに陽のやはし隣に永遠が来てゐるやうな

 事実、『現代短歌辞典』(三省堂)の浜田の項目を執筆した槇弥生子は、二首目を浜田の代表歌としてあげている。しかし、浜田が短歌的に突出しているのは、存在論的懐疑を身体感覚のなかに肉化したような、誰にも真似のできない短歌ではないだろうか。上にあげたポロシャツの歌など、短歌的常識を突き抜けて迫るものがあるように思うのである。

087:2005年1月 第3週 照屋眞理子
または、私は夢見ている私が見る夢か

覚めてまたわが目とならむ双眼を
     しづかに濡らし今朝秋の水

         照屋眞理子『抽象の薔薇』
 不思議な歌である。「このふたつの眼は目覚めたときにまた私の目となる」という。この不思議さは、当然次のような疑問を生み出す。では私が眠っているあいだ、この目は誰の目だったのか。それは私ではない誰かの目であり、夢を見ていた他者の目である。うつつの世を生きる私にとって、夜な夜な訪れる夢は他界であり、他界からうつし世に帰還したとき、この目はふたたび私の目となり、現実を見る目となるのである。この一首は、存在への理知的眼差しという照屋の短歌世界の特質をよく象徴している。

 照屋眞理子は1951年(昭和26年)生まれで、歌誌「玲瓏」所属。第一歌集『夢の岸』に続き、『抽象の薔薇』は2004年に上梓された第二歌集である。俳句もよくし『月の書架』という句集があるそうだ。塚本邦雄麾下に犇めく才人の一人だから措辞の巧みさは当然として、栞に文章を寄せた尾崎まゆみはもっと驚くエピソードを伝えている。照屋が初めて作り「サンデー毎日」の短歌欄に投稿したのが「二人には二人の孤独休息の戦士に揺るる夜の濃紫陽花」という歌で、二度目に投稿した「檻のうちを豹は歩めりひたすらに見らるるための暗き意志もて」が「塚本邦雄賞」を射止めたというのである。照屋に習作の時期はなく、最初から歌人照屋眞理子として出現したことになる。塚本はその才能を愛でて、「照る月に屋根もしろがね眞珠(まだま)なす理外の花を子らは夢みつ」という照屋の名前を折り込んだ折り句を作って贈ったという。

 こういうことはあるものだ。私は以前にFMラジオで、歌手・鬼束ちひろがまだ宮崎で高校生の頃、自宅のラジカセで作り放送局に送りつけたデモテープを聴いたことがある。そのテープから流れて来たのは、まぎれもなく鬼束ちひろの歌の世界だった。鬼束は徐々に自分の世界を獲得したのではなく、最初から100%鬼束ちひろだったのだ。才能とはこういうものである。

 『抽象の薔薇』を通読して、私は韻文を読む楽しみを満喫した。私が満喫したのは「歌のしらべ」である。「短歌とは究極のところ『うた』であり、『しらべ』である」(岡井隆『朝狩』序)のは事実だが、その事実を確かめることのできないものも現代短歌のなかにはある。しかし照屋の短歌は、読む者の心のなかに韻文のリズムを作り出す。そのリズムに乗せて、無のかなたから意味が運ばれて来る。それが心地よい。何首か引用してみよう。

 天頂をいま羽ばたきに星鳴らす白鳥座かも耳盲ひて聴く

 鳥になぞへ空に放ちてその後を知らざれば今日も風中のこころ

 野に得たる青きことばは野に返し人語の街に帰り行くかな

 閉づるまぶたのうちに覚めつつ眼球のはや知れる今朝天体の秋

 ふとも背に目の気配在りまたたかぬ大き片目よ空虚(むなしぞら)とふ

 五首目の「空虚(むなしぞら)」など、「わが恋は空(むな)しき空にみちぬらし思ひやれども行くかたもなし」(古今集恋一)を連想させる。

 照屋の短歌を読んであらためて思い知らされるのは、「短歌とは五七五七七の三十一文字ではない」ということである。もっと正確に言うと、「五七五七七の三十一文字」は短歌という韻文形式の必要条件ではあっても十分条件ではない。律の韻文がやむなく形を取ったのが「五七五七七の三十一文字」なのであって、「五七五七七の三十一文字」が初期条件として存在していたわけではない。この形式が日本語の音数律からしていかに不自然な形式であるかは、岡井隆が『現代短歌入門』で縷々と述べているのでよく知られたことだろう。

 短歌としての必要条件しか満たしていない歌と、十分条件まで満たした歌は、並べてみればそのちがいがすぐにわかる。照屋はもちろん後者であり、前者の見本としては例えば次のような歌がある。

 こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう  枡野浩一

 ローソンに足りないものをだれひとり思い出せない閉店時間

 奥村晃作は「マスノ短歌はなぜ厳密に三十一音で、字余りが起こらないのか」という興味深い疑問を投げかけた(『短歌ヴァーサス』1号)。奥村はこの問いに答えていないが、その答はかんたんで、もし字余りを起こすと、マスノ短歌はもはや「短歌」として読むことができなくなるからである。短歌の中に固有の韻律が感じられるときには、字余りや字足らずの破調は短歌形式にとって障害にはならない。五七五七七を墨守していなくても、韻律が全体をまとめ引き締める役割を果たすので、歌はばらばらに解体することを免れるからである。このとき歌は五七五七七という「外在的制約」によってまとまるのではなく、韻律という「内在的要因」によって凝集する。マスノ短歌にはこの内在的韻律がない。だから五七五七七が絶対に譲ることのできない最後の一線になる。マジノ線のようにここを突破されたら総崩れになるのである。「五七五七七の三十一文字」とは、指を折りながら音数を数える「数合わせ」のパズルではない。古今の名歌に字余り字足らずが多いこともよく知られたことである。

 ここに枡野の短歌を引いたことは本人の不名誉にはならないだろう。枡野は意図的に短歌固有の韻律を消し去って、「渋谷の電光掲示板に映ったときにおもしろい短歌を作りたい」と考えているからである。それはスーパーフラットなキャッチコピーのような短歌である。そのような短歌にとって短歌固有の韻律は、歌の内部に入り込むことを過度にうながすので、すみやかな意味の伝達を阻害し邪魔になるのだろう。

 さて、照屋の短歌に話を戻すと、際立った特徴がふたつある。「存在にたいする理知的懐疑」と、その結果として生まれる「短歌に詠われた世界の構造の複雑さ」である。前者を示しているのは例えば次のような歌である。

 皮膚一枚のうちそと淡く暮れゆくをいづれ空とふいづれを虚とふ

 ここにゐる! ここにゐるとき本当にわたしはかしこにゐないのだらうか

 手、足、首、骨、血潮、いつたいいくつの言葉で出来てゐるか「わたし」は

 けふはもう私は私を早仕舞してさてここに居るのは誰

 〈私〉の内と外は皮膚一枚で区切られているが、その外部と内部のどちらが虚でありどちらが実であるか、これが一首目の問いかけである。仮に私の感じる生々しい実感こそ真と観ずれば、外的世界は流転する現象世界にすぎない。しかし私の実感を外的世界の刺激が投射されたものと見れば、〈私〉は様々な刺激が流れ込む空虚な「場」にすぎなくなる。二首目は現実世界に暮らす〈私〉とは別に、もうひとりの〈私〉がいるかもしれないという。三首目は、〈私〉は実は「言葉」で出来ているのであり、もし言葉を失ったら〈私〉は〈私〉であり続けられるのだろうかという疑問だろう。

 これは言うところの「存在の不安」だろうか。いやそうではあるまい。照屋の短歌においては、〈私〉の実体性や唯一性や一貫性にたいする懐疑が繰り返し提示されているが、そのような疑いを抱く〈私〉は確固として存在しているからである。「疑う〈私〉」の存在は疑えぬとは、まさしくデカルトである。この一点において照屋の存在懐疑は、例えば次のような歌に見られる現代社会における人間存在の希薄感とは一線を画している。

 むらぎもの空白だけが液晶の画面に写り削除するべく  菊池裕

 定常化されてしまったみみなりのむこうもこちらも世界であると  中澤系

 存在にたいする懐疑は「入れ子構造の世界観」を生み出す。例えば次のような歌である。

 夢に鳥となりて夢見る人間(ひと)たりしむかしの夢のうすきまなぶた

 名付くれば消ゆるばかりをなべてなべて在りて在らざる夢の内外(うちそと)

 薄目して夢が私を見つつあらししばしを水に魚となりゐつ

 わが泪もて君をのごはむ水底の魚の睡りに降る雨のごと

 照屋の第一歌集の題名が『夢の岸』であったことからもわかるように、集中に「夢」がよく出て来る。またこれが「私が眠って夢を見ている」というような単純な構造ではない。一首目、「夢のなかで鳥になる」のはよくあることである。しかしこの一首は「夢のなかで鳥になった人間が、その世界でまた夢を見ている」とも読める。また三首目では「私が夢を見る」ではなく、「夢が私を見る」と主客転倒が起きている。四首目で水底で眠る魚はどうやら夢を見ているのだが、その夢のなかでは雨が降っている。魚の外側には水があり、魚の見る夢のなかにも水があるという構造である。私はこの歌を読んで良寛の作と伝えられている次の歌を思い出した。この歌は仏教の宇宙観を表わしているそうだ。

 あわ雪の中に顕ちたる三千大世界(みちおほち)またその中に沫雪ぞ降る

 照屋の歌が単に現実を生きる〈私〉を詠うのではなく、〈私〉が〈私〉であることの懐疑を弾機として入れ子構造の複雑な世界を立ち上げていることが、照屋の歌に奥行きと広がりを与えている。読者は照屋の歌を読むときに、迷路を辿ってちがう世界にふっと出たような、あるいはジェットコースターに乗せられて上下の感覚をなくしたような、酩酊と昂奮を味わうのである。

 まだ言い残したことは多い。歌に詠み込まれた「原口統三」「藤田敏八」「若松孝二」「プロコル・ハルム」などの固有名詞は、時代を共有した者としては懐かしい。また「摂津幸彦うつつは知らね茜さす真昼の空に降る星の声」は、平成8年に49歳の若さで他界した俳人摂津幸彦への挽歌だろう。摂津は次のような秀句を残している。

 南浦和のダリヤを仮のあはれとす
 南国に死して御恩のみなみかぜ
 少年の窓やはらかき枇杷の花

 つい先日も同じく俳人の田中裕明が45歳の若さで鬼籍に入ったのも惜しまれる。俳句をたしなむと長生きするのではなかったろうか。これに限らず『抽象の薔薇』には死者を思う歌が多い。

 死者に死者のつれづれあらむときをりを帽子目深に白日を来る

 八月は死者の見る夢こぼれては陽の揚羽月のおほみずあを

 このごろを死者に親しくわがあればなべてうつくし現し世のこと

 死んでしまつたあなたと忘れてゐた私と風化したのはどちらか 桟橋に腰掛けて

 最後は珍しく大幅な破調の歌だが、死者は記憶のなかで永遠に風化せず、むしろ風化してゆくのは生きている私たちの方だという認識は苦い。しかし死者を詠うときも、照屋は過度の湿っぽさや暗さに流れることがない。句集『月の書架』所収の「いつかカランと骨になる日よ風の秋」という句が示しているように、どこか乾いた思い切りのよさがある。

 最後に言わずもがなのことを一言述べてみたい。見て来たように照屋の歌はいずれもしらべの美しい歌なのだが、例えば加藤治郎の次のような歌を見てどう思うだろうか。

 いま俺は汚い歌が欲しいのだ硝子の屑のかなたの牛舎 『マイ・ロマンサー』

 「定型の波打ち際」に身を浸して、常に短歌形式の拡大を目指してきた加藤が欲する汚い歌というのは、文字通り汚いという意味ではなく、古典和歌から近代短歌の革新を経由しても大きく変わることのなかった短歌的韻律と短歌的抒情からはみ出そうとする歌というほどの意味であろう。定型という形式との格闘は歌人の宿命である。照屋が完成させた自分の韻律豊かな定型短歌を、今後どのように展開してゆくのか、興味のあるところである。