079:2004年11月 第4週 江田浩司
または、短歌表現の可能性を実験し続ける憂鬱な胎児

予言者の闇には時の星座あれ
       蒼き髪より蝶を発たしむ

    江田浩司『メランコリック・エンブリオ』(北冬舎)
 江田浩司の『メランコリック・エンブリオ』は問題歌集である。第一歌集でありながら、総計33句と903首を収録したその物量感がまず尋常でない。ふつう第一歌集を上梓するときには、それまでに書き溜めた歌のなかから類想歌を削り、取捨選択という自己選歌の過程を経て、歌数を絞って出版するものである。結社主宰みずからによる選歌のケースもあると聞く。この過程を経ることで完成度の低い歌を捨て、歌集の水準を高めるのである。しかるに江田の第一歌集には、たとえ類想歌が多くなろうともあえて捨てずに、とにかくまるごと提示したいという情念が感じられる。

 江田は1959年生まれで「未来」会員。栞文には、岡井隆、谷岡亜紀、藤原龍一郎が寄稿している。岡井は別格として、谷岡・藤原は江田の短歌世界を批評する歌人として、これ以上はないと言ってもいいくらい適任なのだが、そのふたりですら江田の短歌世界の多面性を扱いかねている、といった風情である。この歌集は6部構成を取っており、それぞれ傾向のはっきり異なる歌群から構成されている。順を追って見てみよう。

第一部

 憎しみの翼ひろげて打ち振れば少年の雨期しずかにめぐる

 骨きしむ音にかあらん自己愛は蹌踉として汝にしずめり

 ゆうごりの霜の沙庭に翼おく一条の陽にさざんか散りぬ

 第一部には、江田が近代短歌の遺産を十分に咀嚼し継承していることを示すように、極めて上質の抒情を内包した歌が並んでいる。近代短歌だけではなく、古典和歌の技法をも自家薬籠中のものとしていることは、三首目「ゆうごりの霜の沙庭」を見ればわかる。「夕凝り」と漢字で書かず「ゆうごり」と仮名で書くことで古典臭を薄め、和歌言語を現代風に衣裳変えする試みも注目に値する。他にも「さらしい」(晒し井)、「なみくもの」(波雲の)、「あさはふる」(朝羽振る)などがあり、思いつきではなく計画的な試行であることがわかる。なかには「夕空の櫂こぎゆくは月草のかりなる命曳きゆくわれら」のように、現代では使用例の少ない「月草の」のような枕詞すら見られる。もし第一部に収録された歌だけを読んだならば、江田は古典和歌から近代短歌までの技法を継承する、歌壇のお覚え目出度い模範的歌人かと思われるほどである。

  ところが第二部になるとこの印象は一変し、江田は本来の反逆児の相貌を露わにする。

第二部

 処刑の朝目で射る楕円 崩れゆく思想笑いてしずみゆけり

 雲を喰う雲の苦しみ菜の花色にともす思想よ血まみれの鳥

 十三人目の使徒は革命を身籠れり祖国に向けて白き歯を剥き

 「思想」「革命」「形而上」「意味」などの生硬な漢語が多用されて、歌は一気に強い観念性の磁場を帯びる。それと同時に五七五七七の三十一音に収まらない破調の歌も多くなる。第二部のトーンをよく示すのは、「濡れた翼を持ちて被わんとぼろぼろな俺に跪座する妻よ」のような歌だろう。第一部では隠されていた一人称の「俺」が顔を出すが、それは観念に蚕食され思想的煩悶に身悶えする「俺」である。古典和歌風の予定調和的抒情は振り捨てられて、未消化な観念を吐き出すような歌が並ぶ。

 この傾向は第三部においてその頂点に達する。第三部は歌集の題名ともなった「メランコリック・エンブリオ」50首から始まっている。

第三部

 パラダイムから解き放たれし寒卵メタフォリカルな自慰に固執す

 難解な排卵 天体の運行に嗅ぐ少女の瞑想…………氾濫

 首を切る やはり僕の手、私生児を慰めるイコン、死にそうな馬

 一読してわかるように、近代短歌の技法は解体されその痕跡すら留めない。すべて破調の歌であり句切りすら不可能な語彙の連鎖となっている。第三部はおそらく江田の試みた最も実験的な部分であり、後述するがこの実験は現代詩の試みを抜きにしては理解できないだろう。

 第四部になると、あやうく解体されそうになった短歌の姿は元に復して、短歌的文脈で読める歌に戻る。

第四部

 肉感はそのままにして象形の淡き疼きをシーレ屠れり

 帰りゆく家がおぼろに意味を編み制度の馬は嘔吐激しき

 夜の落葉一枚が刻む民族を幻想しつつ楽は果てたり

 第四部に頻出するのは固有名である。スーチン、シーレ、パスキン、ルシアン・フロイド、デレク・ジャーマン、メイプルソープ、ジャクリーヌ・デュ・プレなど、いずれも重い芸術的宿命を背負った人たちであり、江田はこれらの芸術家に心を寄せることで自己の思想の試金石としているのだろう。

 次の第五部は一転して生活歌・境涯歌の世界となり、歌意をたやすく理解できる平明な歌が並んでおり、あまりの落差に驚くほどである。

第五部

 黒葡萄もぐように取る靴下に洗剤の香ははつか薫りし

 春霖の細かき粒を身にまといしつばめは命まかがやくかな

 つばくらよそぼ降る雨にしずくするおまえの視界にわれら抱き合う

 中学高校一貫校の教師をしているらしい江田の「父兄との押し問答をするうちにへそのあたりが痒くなりたる」のような職場詠すら散見され、歌が作られる場がはっきりと見える。

 第六部は「神々の手淫」と題された153首の連作である。

第六部

 黙示とは凍てうつくしき鶴にして海の蒼さに染まりたる声

 声からは人消えゆきてかなしくも逃散をする月の光の

 月の光燃える魚類の劇場の鰭の冷たさ冬の森呼ぶ

 結句の一部を次の歌の初句に取り込むしりとり形式の連作で、「寒晴れの光の中を歩みたる片耳の犬 わたしは飢える」から始まり、最後の「自慰をする葉脈のような日記から救われ難き過去は寒晴れ」で最初の歌に戻り、全体が円還構造をなす壮大なものである。力業であり、ジャブのように自在に言葉を繰り出す江田の能力は異能と言うほかはない。

 ふつう歌集を批評する場合、その歌人の資質を最もよく表わす歌を数首引き論評することで、その歌集が構築しようとした世界の特質を活写できる。しかし江田の場合には、作歌方法も、意味と韻律のバランスも、定型と破調の割合も、六つの部ごとに大きく異なる。どれが本当の歌人江田なのか。おそらくどれもが江田なのであり、その振幅の大きさと多面性をまるごと提示したところに、この歌集の問題性があるのである。

 では江田がこの歌集で試みた実験とは何だろうか。それは短歌における言語の役割を反転させようとしたことではないだろうか。

 小説のような散文と、俳句・短歌のような韻文とでは、素材たる言語の持つ機能が異なる。その違いは主として、言語機能全体のなかで占める「意味」の比重に関わると考えてよい。散文の言語は意味を伝達することが主たる任務であり、描写により意味を塗り重ねて行くことによって、作品世界を構築する。小説のような散文においては、「意味」は作品という建物を建てるレンガであり漆喰であり、小説はこの意味で「シニフィエの城郭」である。読者は小説の描写が分泌する小さな意味の積分を反復し、一巻を読了した時点で大きな意味を発見する。もちろん小説のなかにも、意味に還元されることに抵抗し、記憶に残る印象的な像はある。例えば『失われた時を求めて』の紅茶にマドレーヌを浸すシーンなどその典型だろう。しかし、その像は独立して存在しているのではなく、プルーストの記憶をめぐる物語の要としての意味を担う形で、小説全体の意味の一部として取り込まれ、その内部で機能する。

 一方、俳句・短歌などの韻文における言語は、言うまでもなく意味のみの伝達をその第一義としない。それは最短詩型の俳句を見ればすぐにわかることである。

 鬼百合が蜜ため朝の駅燃える  坪内稔典

 蜜を溜めた真っ赤な鬼百合が咲き乱れ、朝の駅をまるで火事の現場のように見せている。その描写自体は何か特定の意味を伝えようとしたものではない。ここでは咲き乱れる鬼百合を「燃える」と表現することで、読者の脳裏の網膜に投影される情景の「強度」が問題なのであり、そこに「蜜ため」が加わることで加算される秘密性とほのかなエロスが、一句の読みのすべてである。俳句は「形象性の文学」であり、一句が脳裏に結像するイメージの強度がそのまま「感性的な意味」であり、論理的な意味だけをそこから単離することはできない。短歌においてその役割を果たすのが「喩」であることは言うまでもない。

 青春のをはりを告ぐる鳥の屍(し)の掌にかくばかり鮮しきかな  小池光

 フロアまで桃のかおりが浸しゆく世界は小さな病室だろう  加藤治郎

 ここには鳥の死骸という〈物体〉と、「青春期の終わりを迎える戦き」という〈観念〉すなわち〈意味〉があり、一方が他方の「喩」となる関係がある。鳥の死骸そのものには意味はなく、また即時的物象として存在しているわけでもない。鳥の死骸は〈観念〉すなわち〈意味〉の「喩」となることで、この一首により最終的に感得される感性的意味作用に参加するのである。このように〈物体〉と〈観念〉とが互いに映し合うという相互関係が歌の世界を浮上させ、そこに形象化された感性的意味を作り上げる。その感性的意味は、日常言語の伝達する〈意味〉ではもはやない。大まかに言えばこれが短歌の語法であり、短歌における言語はこのような感性的意味の形象化をその職能とする。加藤治郎のように、意識的に短歌の語法の拡大を試みてきた歌人においても、同じことが言えるのである。

 江田の実験はこの物体と観念の互いに映し合うという関係を壊し、物体と観念を同じ地平に強引に並置し、そこに生じる〈物体の歪み〉、〈観念の引き攣れ〉から生じる歪んだ磁場を弾機として、己の短歌世界を立ち上げようとするものだと思われる。

 光の煮凝り虚偽の実験室に一羽の鳥が…………触る肋骨

 林檎に青空が落ちる 動かない木・考える時間・死にはしない

 ダ・ビンチ世界は曲がる、はじめに足がない霧の部屋にて

 一読してわかるように、これらの歌は結像力が極めて低い。読んでいて何かの情景を思い浮かべることもなく、全体としてひとつのイメージに収斂することもない。短歌が詠まれた場がまったく見えないことは言うまでもない。だから、栞で藤原龍一郎が言うように、「読者は言葉の孕んでいる熱量に圧倒されながら、混沌に意味を読み取る努力を続けなければならない」ということになり、結果として「頭が痺れる」わけである。読者にとって親切な歌の作り方とはとても言えないのだ。

 このような〈物体〉と〈観念〉の同じ地平での並置は、現代詩の手法であることにふと気づく。

   皇帝

 石の中に眼がある 憂愁と倦怠にとざされた眼がある
 その人は黒衣をきて私の戸口を過ぎる 冬の皇帝
 淋しい私の皇帝 ! 白皙の額に文明の影をうつし欧州の墓地まで
 歩いて行く 太陽を背中に浴びて あなたの自己処罰はいたいた
 しい                 
                 田村隆一『四千の昼と夜』

 このように何の前置きも場面設定もなく、いきなり〈物体〉と〈観念〉が混在するコトバの世界に引き込むのが現代詩の常套手法である。現代詩においては短歌と異なり、描写された物体と観念・意味との間に、互いを映し合う喩的関係は成立しない。それは日本語の現代詩が、本来の意味における韻文ではなく、言語の機能から見れば散文だというところに原因があるのだろう。

 三枝昂之は「一回性の〈意味〉の屹立」(『現代定型論 気象の帯、夢の地核』所収)という文章のなかで、清水昶の詩集『新しい記憶の果実』から「開花宣言」を選び、その一部を短歌として翻案改作し、何が変容するかを観察するという興味深い実験を試みている。その結果わかったことは、詩のなかで意味を発信している部分を短歌に移し替えると、その意味をそのまま意味として定着することが困難だということである。意味を担う一行は、短歌の韻律が形成する詩的秩序に放り込まれると、何物かの喩として解釈されることで一種の多義性のなかをたゆたうようになる。これが三枝の結論である。

 この実験結果を念頭において、再び江田の実験的短歌を見直してみると、江田はこのような歌のなかで、物体と観念とが互いに喩的関係を持つという短歌的な言語のあり方そのものに挑戦し、喩的関係を拒むように物体と観念を並置することで、一首に強い意味的磁場を形成することを目的としているということがわかるだろう。だからこれは現代詩の手法の短歌への導入なのであり、俳句・詩・短歌とさまざまな文芸ジャンルに幅広く精通している江田ならではの試みなのだとも言える。江田が現代詩にも通じていることは、「風呂桶を洗いて身たる幻はサフランを摘む僧になる俺」という歌をみればわかる。これは現代詩の金字塔にして難解な、吉岡実の『サフラン摘み』へのオマージュである。

 歌集題名の『メランコリック・エンブリオ』は「憂鬱なる胎児」という意味だという。それは作者の内部に生まれ育った得体の知れない生き物の謂であり、自己の内部への過剰なこだわりの象徴である。江田が従来の短歌的語法に満足せずこのような実験を試みたのは、内に巣くう「内なる他者」に言葉を与える器として、近代短歌の語法では十分ではないと感じたからに他ならない。しかしこの実験はまだ実験に終っていると見なさざるをえないようだ。作者自身があとがきに書いているように、「内部の他者」から「外部の他者」へと出会う通路を見つけるには、まだまだ江田は孤独な道を歩まねばならないようである。

078:2004年11月 第3週 冷蔵庫の歌

冷蔵庫内に霜ふり錐形の
     死の眠りもて熟るる苔桃

               塚本邦雄
 広く普及している家庭用電化製品のなかで家事に関係するものといえば、冷蔵庫・洗濯機・掃除機が代表的だろう。このうち短歌の題詠で登場することの多いのは冷蔵庫である。『岩波現代短歌辞典』も冷蔵庫のみを見出し語として立項している。洗濯機にも次のような秀歌はあるが、歌に詠まれることはずっと少ない。掃除機もたぶんあるのだろうが思いつかない。

 昏れどきの人らかへりみぬ店先に洗濯機はゆたかなる水を揉む 田谷鋭

 冷蔵庫も洗濯機も韻律的には5音なので、歌への収まりのよさという点でちがいはないのだから、この頻度の差は両者の喚起するイメージの差に起因すると考えてよい。また家事に関係する電化製品のなかで、冷蔵庫はいちばん男性に身近だということも理由のひとつだろう。掃除機など触ったことのない男でも、冷えたビールを取り出すために冷蔵庫は開けるのだ。

 昔の冷蔵庫は木製で内側に亜鉛板が張られており、いちばん上に氷を入れて冷やしていた。氷屋が玄関先を通りかかるのを呼び止めて氷を買う。氷屋は炎天下大きな鋸で氷を適当な大きさに切って売ってくれる。台所の木製の冷蔵庫は開けると独特の匂いがした。母が和服を着て割烹着姿だった時代の話である。

 イメージの豊かさと象徴性において、確かに冷蔵庫は電化製品のなかでは群を抜いている。言うまでもなく内部を低温に保ち食品を長期貯蔵するというのが冷蔵庫の目的なのだが、この目的のための形状と機能とが期せずして豊富なイメージの源泉となった。四角い形状と低温という環境は、棺桶との連想から死のイメージと結びつく。また低温貯蔵は動物の冬眠を思わせるところから、眠りや昏睡のイメージとも結合する。塚本邦雄の掲出歌はこのイメージを利用したものであり、「死の眠り」は死んだような深い眠りとも、深い眠りのような死とも解釈できるだろう。

 このように豊富なイメージを生み出す理由は、冷蔵庫に「内部性」があるという特徴に求めることができる。冷蔵庫にはドアがあり、ドアを閉めると「内部」は「外部」から遮断される。こうして形成された秘密の「内部性」は、中に何かが「隠されている」という対象把握を促しやすい。洗濯機や掃除機に欠けているのは、この「内部性」だと言ってよいだろう。

 さて冷蔵庫の内側には、冷凍庫・肉魚ケース・野菜ケース・ドア裏の瓶立てなど、使用目的に応じたさまざまな部分があるが、なぜか歌人たちはドア裏の卵ケースに注目することが多いようだ。

 冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来し一生(ひとよ)のごとし 岡井隆

 冷蔵庫ひらきてみれば鶏卵は墓のしずけさもちて並べり  大滝和子

 はじめから孵らぬ卵の数もちて埋めむ冷蔵庫の扉のくぼみ  林和清

 架空家族の氷庫につねにうつろなる卵置場の十二個の穴  古谷智子

 ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は 穂村弘

 穂村の歌を除きこれらの歌は共通して、本来は命を育むはずの卵が無精卵として冷蔵庫に収まっているという事実に着目している。工場のような鶏舎で生産され運ばれて来る無精卵は、現代における生の無効化や虚しさの象徴である。なかで大滝の歌は、白い卵の整列を墓地に林立する墓碑に見立てている点に、類歌と少し異なる視点が感じられる。また古谷の歌は、卵置場にあるはずの卵がなく、空虚なくぼみだけが並んでいるという場面を捉えることで、見せかけだけの崩壊家族の家族的内実の不在を暗示している点がおもしろい。

 次にあげる歌は、冷蔵庫が何かを貯蔵する場所だという点に焦点を当てたものである。WWWとある歌は、『短歌、WWWを走る』(邑書林)の題詠「冷蔵庫」から引用した。

 たましいを預けるように梨を置く冷蔵庫あさく闇をふふみて  島田幸典

 切り分けたプリンスメロンの半分を冷蔵庫上段のひかりへ  佐藤りえ

 冷蔵庫の薄暗がりに初恋のひとりをしまふ、食器らとともに  大辻隆弘 (WWW)

 アクリルの箱にきっちり詰め込まれ憎悪はそっと冷蔵庫の奥  五十嵐仁美 (WWW)

 腐らないように低温貯蔵するのが冷蔵庫の役割なのだが、歌人たちはそんな本来の目的とは関係なく、ずいぶんいろいろな物をしまうものだと感心する。冷蔵庫に物をしまうとき、私たちは扉を開けた冷蔵庫の前に跪くことがある。この姿勢で物をしまうと、まるで祭壇に捧げ物をしているようになる。島田の歌ではしまうのは梨であり、それ自体は日常ありふれたことだが、それを「たましいを預けるように」と表現したところに日常を超えた宗教的希求のようなものを感じさせる。こう表現されたとたん、冷蔵庫はあたかも霊安室のような相貌を呈するのである。佐藤の歌ではプリンスメロンだが、「冷蔵庫上段のひかりへ」という下句の表現に、光とキラキラ感にこだわる佐藤の面目が現われている。ふつうならば「光る冷蔵庫の上段へ」しまうのだが、それが「冷蔵庫上段のひかりへ」と表現されると、一句の意味の焦点は光そのものに移行する。意味の焦点のこのような微細なずれを断機として、日常のコトバは詩のコトバへと浮上する。こうして佐藤の歌にもまた、日常を超えたせつない希求が感じられることになる。大辻の歌の「初恋のひとり」を文字どおり人間だと解釈すると、かなりホラーになってしまう。確かにアメリカのジェネラル・エレクトリック社製の大型冷蔵庫ならば、人間ひとりを収納することもできるが、大辻の「初恋のひとり」は比喩と解釈すべきだろう。ただし、「食器らとともに」というのがひっかかる。食器をしまうのは食器棚であり、冷蔵庫に食器だけをしまうことはない。もちろん残り物の入った食器ごと冷蔵庫にしまうことはあるが、それだと初恋のひとり〔の記憶〕が残り物の入った食器と並ぶことになり、どうもまずい気がする。最後の五十嵐の歌では冷蔵庫を憎悪の隠し場所にしているようだが、歌のなかで「憎悪」とはっきり表現してしまうのは作歌技法から言ってよろしくない。短歌は表現されずに隠されたもので生きる詩型である。憎悪とははっきりと表現せず、憎悪を仮託した形象を冷蔵庫にしまうとすべきだろう。

 以上あげた歌は、冷蔵庫のなかに何かをしまうという発想から作られたものだが、冷蔵庫のなかにもとから何かが入っているという前提からの発想もありうる。例えば他人の家の冷蔵庫には何が入っているかわからない。引っ越しした家に前住者が冷蔵庫を置いていったとしたら、何が入っているか知れたものではないので、これはかなり不気味である。次の歌はこのような発想から作られたものだろう。

 干からびた肉といつしよに見つかつた古いともだち冷蔵庫の中  村本希理子 (WWW)

 冷蔵庫の奥になにやら居座って恨めしそうに私を見てる  丸山進 (WWW)

冷蔵庫は忘れたいものや隠しておきたいものを隠匿する場所であったり、何か不気味なものが居座っている場所であったりする。冷蔵庫の「内部性」が秘密や犯罪と通底するところから生まれたイメージであることはまちがいない。

 冷蔵庫を詠んだ歌を通観してひとつ興味深いと感じたことは、冷蔵庫の内部性を闇と捉えた歌と、光と捉えた歌におおきく二分されるということである。上にあげた歌でもすでに、島田はあさい闇、大辻は薄暗がりと「闇」系統なのにたいして、佐藤は「光」で対照的な捉え方を見せている。次の歌もそうだ。

 薔薇朽ちるまでの淫雨に次ぐ淫雨冷蔵庫から光は漏れて  嵯峨直樹

 真夜中に開けたらだめよ冷蔵庫は薄墨色の虹を吐くから 久哲 (WWW)

 冷蔵庫の扉をあける 仏壇はいつも暗くてどこか冷たい  西橋美保 (WWW)

 嵯峨の歌は今年の短歌研究新人賞受賞作から。雨に降り込められた暗い室内に漏れる冷蔵庫の光は、冷たい輝きながらもどこか救いを暗示する光のようにも見える。久哲の歌はよくわからないが、冷蔵庫の中では夜中に人知れず不思議なことが起きているというイメージと、内部の光から虹という連想が働いたものと思われる。西橋の歌は冷蔵庫と仏壇をイメージの世界で並置したものであり、死と闇系統の把握そのままである。

 冷蔵庫の内部性を「闇」と捉えるのは、おそらく自分が昼の世界にいて外から冷蔵庫を見ているからだろう。このとき、冷蔵庫の内部性には往々にして負の価値が付与され、内部性が外部性に転じたときに〈私〉が脅かされるか、〈私〉の隠しておきたい側面が露呈するという位相で捉えられている。これに対して内部性を「光」と捉えるのは、夜の暗い台所で冷蔵庫を開けて中を覗き込んでいるからである。つまり、ここでは〈私〉は夜の世界にいて、冷蔵庫の中から漏れる光を憧憬している。内部性には正の価値が付与され、〈私〉の慰藉や救済を暗示するものとなる。どうやら歌人はこのどちらかのスタンスから冷蔵庫を眺めるようで、興味深い。

 なかには上にあげたものとは少しちがう歌もある。

 せつなさに変化してゆくピーナツバターは冷蔵庫の片隅で  佐藤りえ

 だめになった食品たちを眠らせて夏のしずかなる冷蔵庫   同

 冬の間は忘れ去られる冷蔵庫の製氷皿のごときかわれは  玲はるな

 「心配して言っているのさ嘘じゃない」冷蔵庫には真冬のキャベツ  村上きわみ

 佐藤はよほど好きなのか、冷蔵庫の歌をたくさん詠んでいる。冷蔵庫は低温で長期貯蔵を可能にはするが、食品が変質し腐敗することを止めることはできない。ただその過程を遅らせるだけである。この点に着目すれば、冷蔵庫は徒労と無力感の象徴となる。佐藤の二首で冷蔵庫が不毛性の象徴として詠われているのはこのためだろう。これに対して玲の歌は、恋人の都合のよい時にだけ声を掛けられ、それ以外の時は忘れられている自分を冬の製氷皿に擬したものであり、視点がユニークだと言える。村上の歌は少々わかりにくいが、上句の台詞と下句の事実描写が互いに裏切りの関係に置かれている点がポイントなのだろう。真冬は本来はキャベツが収穫できない時期である。だから冷蔵庫に納まっている「真冬のキャベツ」は、上句の台詞がその言明とは裏腹に嘘であることを暗示していると解釈できる。

 最後にまったく異なる発想からの歌をひとつあげよう。

 天然の冷蔵庫だなを聞きたくて父と市バスに揺られとります  斉藤斎藤 (WWW)

 歌集『渡辺のわたし』で才気を見せた斉藤斎藤の歌である。「天然の冷蔵庫」とは、山の冷気や川べりの涼しい風を言うのがふつうである。窓を開け放した市バスに入る空気は、都市熱で暖められた空気であり、とても天然の冷蔵庫とは言えないのではないかという疑問が残りはするが、斉藤本人の父と自分との関係の複雑なねじれを歌集から読み取った者には、腑に落ちるところがあるかも知れない。冷蔵庫の題詠で冷蔵庫そのものを詠むのではなく、「天然の冷蔵庫だな」という科白を介した人間関係を詠んだところ、なかなかの才気と言えよう。

077:2004年11月 第2週 菊池 裕
または、都市的現実から分泌されるしかない〈私〉

睾丸に似たる蘭の実脆ければ
    スプーンで神を掬い難きか

     菊池裕『アンダーグラウンド』(ながらみ書房)
 菊池は1960年(昭和35年)生まれ。中部短歌会に所属し、『アンダーグラウンド』は2004年8月に刊行された第一歌集である。惜しまれて逝去した春日井建が跋文を寄せている。歌集に付き物の栞もなく、私は菊池個人についていかなる情報も持ち合わせていないので、こういう場合には歌集で展開された菊池の短歌世界にのみ焦点を当てて語るべきかと思う。

 「都市譚」「禁忌譚」「冥界譚」の三部構成から成る歌集のなかで中心を占めるのは、高層ビルの林立する現代の都市詠である。

 摩天楼内で整体師の指(おゆび)わたしの骨を鳴らし終えたり

 防犯用監視カメラの結露にもあなたが映り滴り落ちぬ

 チアノーゼ色の空から降ってくる着信音にとよむ地下街

 子をなさぬつがいの棲まう新築のマンション林立する中空に

 朝なさなエントランスに佇つ妻よ霊安室のようにひんやり

 現代の都市詠というと、すぐに藤原龍一郎が頭に浮かぶが、菊池の歌は確かに藤原の歌と近縁種と見えるかもしれない。藤原はラジオ局ディレクターだが、菊池はTV番組制作にかかわっているらしいという職業の類似もこの連想を強める。

 湾岸のビルにはかなき霊棲みて屋上途上地上は冷雨  
                  藤原龍一郎『花束で殴る』

 二十四階よりくだる階段に夕潮騒と呼ぶべきかすか

 シルバーのケータイが夜の雨に濡れ拾得物ともならず壊れて

 しかし、菊池の歌と藤原の歌とは決定的に違っていることに注意すべきである。それは藤原の歌に頻出する固有名詞が菊池の歌にはほとんど見られないというような、表層的な差異ではもちろんない。作歌という行為を通じて実現される〈私〉の立ち上げ方がちがうのである。大きな枠組みで語れば、短歌が「私性の文学」であり、短歌においては何を語ろうとも歌の背後に隠然と存在する一人称的私に送り返されるということは確かに事実ではあるけれども、歌から〈私〉への回路は一様ではなく、また〈私〉の浮上の仕方もさまざまである。

 乱暴を承知で大雑把な言い方をすれば、藤原の都市詠は、鎮め難い情念を抱いて都市を彷徨う〈私〉の軋轢の叫びであり、浮遊する現代都市のなかで〈私〉の抱え込んだ情念の軋みが抒情の核である。

 「我、永久に渇きていたり」― 降りしきる強酸性の雨こそ慈悲ぞ
                  藤原龍一郎『花束で殴る』

 望郷の郷あらざれどわが詩歌の古典となせる『水の覇権』を

 いささかカッコ良すぎるが、藤原の短歌にはハードボイルド小説の定義である「現代の卑しい都市を行く騎士」という言葉を思わせるところがある。事実、藤原は次のような歌も作っているのであり、少なくとも主観的にはマーロウを希求しているのだ。

 ハードボイルド風日常を希求してついには慈悲に包まれた死を

 湾岸の駅に降り立ちマーロウのフィリップ・マーロウのような翳りを

 だから藤原の作品に現われる〈私〉は、無定形の現代都市に囲繞され、脳の快楽に至るまで都市の発する電波に浸食されながらも、抱え込んだ情念を抒情の核として都市と対峙する〈私〉である。

 ところが菊池の短歌から立ち上がる〈私〉は、これとはずいぶんちがった様相を呈している。菊池においては、〈私〉は都市のコンクリートから浸み出す何ものかとして、ガラスウォールの反射に一瞬煌めく何ものかとしてしか定義できない、不確かな存在なのだ。歌集表紙のデザインのちがいを、この〈私〉の位相の差の象徴と捉えることは、あながち牽強付会ではあるまい。藤原の『花束で殴る』の表紙写真は、夜の都会を川のように流れる車を写したもので、露光時間を長くしているため、車の照明は光の帯のように伸びているが、被写体を切り取る視点は固定していて揺るぎがない。都市は流れて行くが、私はひとつの地点に佇んでいるのである。一方、菊池の『アンダーグラウンド』の表紙も同じように夜の都会の写真である。人気のあまりない街角を撮影したもので、中央に女性が一人写っているが、輪郭が二重になってぼやけている。これは明らかに撮影した視点そのものが浮遊しているのである。このため同じ夜の都会の写真でありながら、菊池の表紙のほうがずっと不安定で浮遊感が強い。

 むらぎもの空白だけが液晶の画面に写り削除するべく

 嘘っぽくなった私を検索す〈ブロードバンド・カフェ〉にこもりて

 私を模写する私みていしがついに描けぬ背景のわれ

 向こうからやってくるのは私の知らない私の潦(にわたずみ)

 「むらぎも」は内臓であると同時に「心」を導く枕詞であるから、一首目の〈私〉は内部性を喪失しているのである。二首目の〈私〉は内在的に感得されるべき存在実感が希薄化し、ためにインターネットの大海で自分を検索する。三首目ではモデルの〈私〉と描く〈私〉と背景の〈私〉というように、合わせ鏡に映ったように無限に増殖してゆく〈私〉が描かれている。四首目はもっと直接的であり、確固たる一人称として内部性を持つ〈私〉の不在そのものが主題である。

 山下雅人の『世紀末短歌読本』(邑書林)は、現代短歌を都市論の視点から読み解く試みで、短歌と都市の出会いが歴史的にも跡付けられている点が興味深い。山下によれば、戦後派歌人によって初めて都市が風景としてでなく、表現者の必然を担うものとして描かれたという。戦前の歌人にも都市を詠った例は確かにある。

 いそいそと広告灯も廻るなり春のみやこのあひびきの時  北原白秋

 しかしこれは都会を風物詩として短歌に取り込んだものであり、都会の風物は主観的な気分を表わすものとして描かれているという意味で、「述語的風景」だと山下は言う。これに対して戦後派歌人においては、都市空間そのものが詠うモチーフとして扱われており、そこで初めて都市は主体的に語られる「主語的風景」たりえたと山下は続けている。

 水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中  近藤芳美

 飾窓(ウインド)の紅き花らは気(いき)ごもり夜の歩道のゆきずりに見ゆ  佐藤佐太郎

 山下の言わんとするところはわかるが、戦後派歌人のこれらの歌においても、都市の風物は主観の投影であるという事情には、さほど変わりがないように感じられる。もちろん都市風景がより内面化され、単なる景色ではなく心象に転位しているというちがいは確かにある。都市を描くにあたって、戦前を第一世代、戦後派歌人を第二世代と仮に呼ぶならば、菊池などは途中をすっ飛ばして第五世代と呼んでもかまわないほど、都市と〈私〉の関係は変質している。「〈東京は人を殺す〉かあはあはと生きて寄りゆく春の欄干」と詠んだ川野里子などは、さしずめその中間の第三ないし第四世代だろう。1959年生まれの川野と1960年生まれの菊池とはほぼ同世代だが、都市体験の濃淡がこのような差を生むのだろう。

 山下はこの変質を次のように分析している。近代短歌においては生活実感が短歌表現の基盤であり、主体信仰がリアリズムを下支えしていた。しかし近代から戦後への変化の過程で、素朴な主体信仰は崩壊し、都市空間の方から〈私〉が分泌されてくるという逆説が生じた。この結果、現代においては生活実感は詠いにくいが、都市空間と自分の関わりを描くと、比較的リアルな感覚がつかめるというのである。これは聞く人によっては耳の痛い批評だろう。

 リアリズムを支えていた素朴な主体はおろか、戦後世代のもっと不安定な主体すらも、菊池の短歌には感じられない。山下が言うように、〈私〉は都市空間から滴る水のように分泌される何物かとして立ち現れて来る。だから菊池の短歌には、藤原の歌のような命令形がない。命令するべき主体が屹立せず、〈私〉は都市から分泌されるものとして受動的に把握されているからである。

 この変容の意味するところは小さくはない。例えばイスラム圏のように一神教が支配する地域では、日本人が自分は無宗教だと話すと驚かれると言う。神を信じることなくどうして〈私〉の統一性を維持することができるのか、一神教を信奉する人たちにはわからないのだ。〈私〉の統一性は人格神と対峙することによって、その存在を保証されるからである。日本においてこの神の役割を果たしてきたのは、多くの人の指摘するように自然と「世間」であろう。神道におけるご神体は、山や岩や滝などの自然物であることが多い。しかも、日本人は一神教において〈私〉が神と対峙するように、自然と対峙してきたわけではない。むしろ〈私〉を自然の一部と感じ、自己を自然に溶け込ませることによって〈私〉のありかを感じてきた。

 これは何を意味するかというと、〈私〉とは決してそれ自体として単独で定義されるような絶対概念ではなく、何かとの関係において定義される関係概念だということである。〈私〉は何物かとの関係を通してのみ〈私〉と呼べる。しかるに現代の私たちは都市的現実に囲繞されており、今まで〈私〉を成立させてきたもう一方の項である自然ははるか彼方に後退している。〈私〉がそれとの関係において定義される対立項を失った以上、〈私〉が希薄化し浮遊するのは無理からぬことである。菊池の短歌において〈私〉が都市空間から分泌される受動的な存在として描かれ、時には消失するように見えるのはそのためである。そしてまた菊池の歌にときどき神が登場するのも、同じ理由によると思えるのである。

 聖なればこそFUCKする人類に悲しみありしや否や神にも

 まったけく無風であれば風鈴は神の不在を鳴らしめ給え

076:2004年11月 第1週 里見佳保
または、自転車で道を行くリカ先生の初々しい短歌の世界

たましいの年はいまだおさなくて
     ふたり手をふる異国の船に

      里見佳保『リカ先生の夏』(角川書店)
 作者の名前は「サトミヨシホ」と読むらしいが、人にはよく「サトミカホ」と読まれるようだ。名字の「里」の字を「リ」、名前の「佳」の字を「カ」と読めば「リカ」になるから、リカ先生とは本人のことだろう。中学校で国語を教えている若い先生である。三枝昂之の指導を受けて「りとむ」に所属しており、1999年度角川短歌賞次席に選ばれている。三枝が跋文を寄せており、日頃は精緻な歌論を展開する鋭い論客の三枝も、愛弟子を世に送り出すやや甘い先生の顔をしているのが微笑ましい。

 短歌との出会いは人さまざまである。通っていた高校の教師に村木道彦がいたという田中槐のような羨ましい出会いもあれば、もっとひっそりした出会いもある。里見の場合は中学二年のときに友達が読んでいた『サラダ記念日』が短歌との出会いだという。生粋のサラダ世代である。三枝の跋文から推測すると、里見は1973年頃の生まれらしいから、『サラダ記念日』出版の年に14歳でちょうど計算が合う。これが正しければ、里見は玲はるな・佐藤真由美・佐藤りえたちと同年齢ということになる。しかし、里見の短歌はこれら若手歌人たちの作る短歌とは、少し肌合いがちがうのである。

 ラグビーのルールをわれに説く時は大統領のような口ぶり

 そう、あれは微熱もつほどの黄昏にはじめて聞いたアメリカの曲

 鉛筆の線消えかけた地図を手にあの海岸を再びなぞれ

 陽のあたる棚に残したテラヤマを閉じて始まるわが青春忌

 O・ヘンリー短編集を読み終えて立つ街角にパンの香りす

 コロッケを買う夕刻の横町にあなたの母の子守歌問う 

 ほぼ編年体だという歌集の始めの方から選んだ。一首目のような相聞にサラダの影響が濃厚に感じられる。注目されるのは一人称で、里見は「われ」を使っており、俵も「吾」だ。上に名前を挙げた玲はるな・佐藤真由美・佐藤りえたちは、一様に「わたし」を使っている。つまり、里見は短歌のコードを受け入れてその世界の約束事のなかで歌を作ろうとしているのに対して、玲たちは短歌のコードから離れた地点で言葉を詩にしようとしているのである。この差は大きい。だから里見の短歌を読むと、優等生の答案のように、よく書けてはいるが突出する個性に欠けるという印象を受ける。確かに佐藤真由美の「今すぐにキャラメルコーン買ってきてそうじゃなければ妻と別れて」のようなインパクト十分な歌と並べると、おとなしいという感じを受けることはやむを得ないだろう。掲載歌のような二句6音の字足らずすらあまりなく、前衛短歌の開発した強引な句跨り・句割れもなく、素直な定型であることもその印象を強めている。等身大の短歌と言うべきであり、これはこれでいいのだろう。

 『短歌研究』2004年11月号が、「現代短歌は変わったか 『サラダ記念日』以前・以後」という特集を組んでいるが、寄せられた文章の中では小池光のものがおもしろかった。小池は『サラダ記念日』の新しさは短歌に「ウラミ」が付着していないところであり、「ウラミ」をまったく内在しないところから発信された短歌を目の前に突きつけられて自分たちは動揺したのだと回顧している。確かに文学の根は様々な「ウラミ」である。先年物故したフランスの文芸評論家モーリス・ブランショは同じことを、「文学は manque (欠如) から生まれる」と表現した。青春の挫折・失恋・病気や死・貧困・戦争など、確かに人生は「ウラミ」の山であり涙の谷である。このような「ウラミ」を心中に抱えた〈私〉は、当然ながら世界と衝突する。その衝突と軋轢の軋みが文学となって発露する。近代文学はおおむねこのような構造になっていた。「ウラミ」を抱えた人は、その源を過去へと遡ろうとする。どうして自分と世界はこのようになってしまったのだろうと自問するからである。ここから生まれるのが自己の歴史性への意識で、近代文学とは歴史性の先端にいる〈私〉の文学であり、それは田中康夫の『なんとなく、クリスタル』に至るまでいささかも変わっていない。しかるにサラダ以後の短歌は、「ウラミ」とその相関物であるところの歴史性を消去した。これが小池の文章のだいたいの趣旨に、私自身の言葉を少し付け加えたものである。ちなみに歴史性の消去とともに近代文学は終焉を迎えたのであり、これは柄谷行人の指摘によるところでもある。

 小池の主張にはおおむね賛成だが、若い歌人たちにまったく「ウラミ」がないかというと、そうとも言えないのではないか。若い歌人の歌には漠然とした「出口なし感覚」と「終末感」が感じられることが多い。

 盛塩が地震(ない)に崩れる。神々ももはや時間を使い果たした  生沼義朗

 轢死した猫の形態(かたち)に朧なるさまにわたしの死もおぼろなる  菊池裕

 バナナブレッドつついて語る虹の脚と世界の破滅の関係を  佐藤りえ

 グラスから矢車草は抜き取られわたしがしずかに毀れはじめる  ひぐらしひなつ

 髪の毛をしきりにいじり空を見る 生まれたらもう傷ついていた  嵯峨直樹

 最後の嵯峨は2004年度の短歌研究新人賞受賞者である。「生まれたらもう傷ついていた」と感じる〈私〉が見上げる空は「ペイルグレーの空」なのだ。ただしこの「出口なし感覚」と「終末感」は、〈私〉を世界と対峙させるほどに激しいものではなく、またその原因をこれと特定できるものでもなく、ややもすればそのままに自閉してしまうところが近代短歌の正体のはっきりした「ウラミ」と異なる点だろう。

 里見の短歌に話を戻すと、里見もまたサラダ以後世代の例に漏れず、歌に「ウラミ」がまったく付着していない。群馬県榛名町という田園地帯に生まれ育ち、東京の大学の国文科を出て故郷に戻り中学教師をしている里見は、バブル経済崩壊の精神的影響をまともにくらった都市生活者とは異なる青春を送ったようである。しかし里見もまた自分の短歌世界を浮上させる契機を発見する必要に迫られる。この点で注目されるのは、集中の「鈴廻(りんね)抄」連作だろう。

 鳥おらぬ鳥籠のなか月射して明治の頃のままの静寂

 時計屋の主が姫と呼んでいた人形時計買われゆく午後

 雪降るや一軒宿の柱には指名手配の老い知らぬ顔

 時が経つほどに花びら散らしゆく祖母のしめたる葉桜の帯

 大陸へ渡った祖父が鍵かけたままに残した革のトランク

 主題性の際立った連作であり、テーマは言うまでもなく時間の遡行である。それまでの日常に材を採った短歌から一歩踏み出して、一定量の虚構という劇物を混入してテーマを際立たせる手法を試みている。ここには寺山が華麗に駆使した〈虚構の私〉、前衛短歌の反・私性という主張が目指した〈私〉の方法論的拡大を継承しようとする姿勢がある。明治の静寂を若い里見が知るよしもないが、明治の静寂をかくもあらんと想像するところに、世界を対象として浮上させる梃子がある。時間というテーマを強く打ち出すことで、里見の短歌はそれまでのものとは異なる風貌を獲得している。またそれまであまり見られなかった句跨りを使っていることも注目される。

 里見はオノマトペにもひと工夫しているようだ。

 ちんちくと瓶に沈める青梅にむかし失くした鈴の音を聞く

 てぷてぷとシチュー煮えおりこんな夜はグリム童話のおおかみが来る

 ざいざいと鳴る杉林そのなかを縫い目のように水の音する

 美白液ぱぱぱやぱやと頬にあてふと思い出すみずいろの日々

 最後の「ぱぱぱやぱや」など出色であり、私は往年のザ・ピーナッツの唄などを思い出してしまった。

 最も印象に残った歌は次の三首である。

 病める子の枕のくぼみそのままに廃院となる重田小児科

 深々と春 額に音叉あてて識るわが内耳にも鈴一つあり

 この夜のねむり始めは黒傘を閉じゆくように閉じ、ゆくよう、に

 一首目は「枕のくぼみそのままに」という描写が生々しく、また「重田小児科」という固有名の使用が効果的で、物語性を強く感じさせる一首となっている。二首目は初句「深々と春」が7音という大胆な破調だが、一字空けが効果的に使われていて美しい歌である。確かに音叉を頭骨に当てると頭蓋で共鳴する音が聞こえるのであり、これは作り事ではない。もし「音叉の歌」という特集を組むことがあったら、ぜひ採り上げたい歌である。三首目は入眠時の様子を黒傘が閉じてゆくという比喩で詠ったものだが、結句のリフレイン「閉じ、ゆくよう、に」の切れ切れになった書き方が意識の遠のく様子を表わしていて、修辞に工夫がある。

 師の三枝の暖かい跋文をもらって第一歌集を上梓した里見が、「鈴廻抄」で試みたような主題性を今後どのように深めて自分の短歌世界を立ち上げてゆくのか、興味のあるところである。

文体はどのような〈私〉を押し上げるか──新鋭歌集の現在

 今回本号の特集で取り上げられている歌集を眺め渡すと、平成一六年現在における現代短歌の多様性をギュッと凝縮した感がある。私に与えられた役目は個々の歌集を取り上げて論じることではなく、全体の概観を示すという作業である。短歌の単なる一読者に過ぎない私にはいささか荷が重い役目なのだが,そのためには全体を貫くキーワードが必要だろう。ここでは「文体」をキーワードに選んでみたい。まず永田和宏が一九七九年に書いた『表現の吃水』のなかで提案した定義を見てみよう。

「(短歌における)文体とは、作品中に現われてくる〈私〉が、発話主体と、決して散文的・日常的な水準で重なるものではないということを保証する方程式である。あるいはそれは、日常的行為者としての〈私〉を、詩の構成要因たる〈私〉へと押し上げるための梃子である」

 日常から詩へと〈私〉を押し上げる梃子としての文体は、文体によって押し上げられる〈私〉という概念と不即不離の関係にある。日常から詩の虚空へ押し上げられた〈私〉は、短歌において日常と対立する項として機能する。同時に文体もまた、日常の言葉とは対立するものでなくてはならない。この〈対立項〉としての文体が、かつては定型であり韻律であり文語であった。このような文体の定義は、四半世紀を経た今日でもまだ有効なのだろうか。

 本誌第三号の枡野浩一と穂村弘の対談「ぼくたちのいる場所」で、枡野が強調しているのは既存の短歌のわかりにくさである。枡野は「既存の短歌のほとんどは一般の場所に来たら通じない」と断じ、「渋谷の電光掲示板に映ったときにおもしろい短歌をつくりたい」と発言している。これは短歌の文体を日常の地平に流し込んでやるということであり、ある意味で永田の掲げる〈対立〉のフラット化をめざしているのである。

 一方藤原龍一郎は『短歌の引力』で、短歌にしばしば見られる「わかりにくさ」は、言葉の意味が平板でないことに起因し、そのままの意味をたどろうとすると非日常の壁にはね返されるからだとし、「作者の真意にできるかぎり近づこうとするためには言葉の屈折率を丁寧にたどって、その詩歌としての韻律や結像力や自意識の座標を感受し、それを想像力でみずから内部に構築する」ことが必要だと述べている。的確な分析だと思うが、キャッチーな短歌を目指している枡野なら「そんな態度には愛がない」と言うだろう。

 今回の特集で取り上げられた歌人たちは、永田の〈対立〉という軸と、枡野の〈フラット化〉という軸のあいだで、さまざまに揺れ動いているように見える。

 〈対立〉の文体を最も感じさせるのは、六七年生まれの高島裕だろう。文語定型旧仮名という表現面での完全武装もさることながら、アナキスト蜂起による首都赤変を幻視するという思想レベルでの非日常性が際立っている。

 光体に目を灼かれたる夏なれどゆふぐれ重き前線を越ゆ 『旧制度』

 撃ち堕とすべきもろもろを見据ゑつつ今朝くれなゐの橋をわたらな

 錦見映理子『ガーデニア・ガーデン』、目黒哲朗『CANNABIS』、横山未来子『樹下のひとりの眠りのために』なども、永田的意味での〈対立〉の文体を自らの短歌の基軸としている。これらの歌から文体を通して浮上する〈私〉は、朝起きて歯を磨く日常的行為者の私ではなく、短歌のなかで再構築された詩的主体としての非日常の〈私〉である。

 弥生町四丁目裏 純白の魚のひとたび跳ねるを見たり 錦見映理子

 薔薇の花散る無秩序が美しい町ゆゑわれの消息を問ふな 目黒哲朗 

 冬の水押す櫂おもし目を上げて離るべき岸われにあるなり 横山未来子

 しかしこのような文体を採る歌人は、八十年代の終わりから九十年代の初めくらいに短歌を作り始めた人までのようだ。年代的に言えば、横山未来子は七二年生まれで、玲はる名・佐藤真由美・佐藤りえは七三年生まれだから一歳しかちがわないが、この辺に目に見えないフォッサマグナがあるらしい。文体は急激にフラットな地平に移行している。

 3月に生まれたけれどなにひとつ欠けていないの 拍手しないで
               玲はる名『たった今覚えたものを』

 泣いたぶんキレイになれる星生まれまだ泣き方が足りないらしい
               佐藤真由美『きっと恋のせい』

 食べ終えたお皿持ち去られた後の泣きそうに広いテーブルを見て
               佐藤りえ『フラジャイル』

 この差はどこから来るのだろうか。それはたぶん「言葉にリアルを感じる」感受性が変容しつつあるのだ。文語定型という非日常的文体は、約束事による虚構の文体である。そのような非日常的文体に日常的思いを載せるには、想像力の河を遡上し、比喩という橋を渡らなくてはならない。その遡行の長い距離がもうすでに「リアルでないもの」と感じられてしまうのだろう。またこのような対立的文体によって押し上げられた非日常的〈私〉もまた、これらの歌人には「リアルでないもの」と感じられるのである。

 確かに、口語にしか載らないような思いというものもある。加藤治郎は、「四年前、原っぱだったねとうなずきあう 僕らに特に思いはなくて」という早坂類の歌を引いて、淡い空虚な感じやちょっとさみしい感じのような都市生活者の気分は、文語ガチガチの定型では引き出せないと指摘している(『現代短歌の全景』)。

 しかし、永田的意味での〈対立〉の文体と〈フラットな〉文体は、決して文語と口語の差に還元されるわけではない。口語を用いながらも〈対立〉の文体を実現することはできる。例えば次のような歌人たちはそれを十分に実現していると、私には思えるのだ。

 骨と骨つないでたどるゆるやかにともにこわれてゆく約束を 
             ひぐらしひなつ『きりんのうた。』

 膝がしら並べていたねゆるしあう術もないまま蝶をとばせて

 夕暮れの車道に空から落ちてきてその鳥の名をだれもいえない
                盛田志保子『木曜日』

 人生にあなたが見えず中心に向かって冷えてゆく御影石 

 これらの歌は口語だが、注意深く選ばれた言葉の連奏のかなたから浮上する〈私〉は、日常的行為者としての〈私〉ではなく、文体を梃子として非日常的な詩の水準へと引き上げられた〈私〉である。加藤千恵『ハッピーアイスクリーム』の、「そんなわけないけどあたし自分だけはずっと16だと思ってた」のような歌と比べれば、その〈私〉の押し上げられた水準の差は明らかだろう。

 一九七三年生まれの人が成人を迎えたのは九三年だから、思春期をバブル経済のただ中で過ごし、バブル崩壊とともに成人したことになる。この世代の歌人に特徴的なのは、短歌のあちこちに漂う「漠然とした終末感」「出口なし感覚」である。

 ピンボール月の光をはじきつつ出口はないけれど待っている 
                佐藤りえ『フラジャイル』

 ペリカンの死を見届ける予感して水禽園にひとり来ていつ 
                生沼義朗『水は襤褸に』

 ソ連邦解体くらいまではかろうじて命脈を保っていた〈大きな物語〉は、九十年代には完全に失効した。私たちの手に残されているのはもはや〈小さな日常〉でしかない。しかし、〈小さな日常〉は際限なく断片化するため、共有することの難しい資源である。今の若い歌人たちが〈対立の文体〉でなく、〈フラット化された文体〉を志向し、〈日常的私〉に「リアルなもの」を探そうとしているのは,ここに理由があるのではなかろうか。

 そんななかで異色と言えるのは、黒瀬珂瀾と石川美南の二人である。

 わがために塔を、天を突く塔を、白き光の降る廃園を 
                 黒瀬珂瀾『黒燿宮』

 茸たちの月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして 
                 石川美南『砂の降る教室』

 黒瀬の繰り広げるペダンティックな耽美的世界では、〈私〉は日常的地平に矮小化されるどころか時に誇大にすら増幅され、黒瀬の周到な戦略を感じさせる。また石川の短歌を貫く「世界を異化する視線」は、〈大きな物語〉が失効した現代にあって、世界に対して非日常的〈私〉を立ち上げるひとつの方法論を示しているようで、注目されるのである。



『短歌ヴァーサス』5号(風媒社)2004年10月8日発行

075:2004年10月 第4週 小笠原和幸
または、「生の目標は死である」と思い定めた歌の数々

一切は烏有に帰する悦びへ
     火は立ち上がる逝く秋の野に

        小笠原和幸『テネシーワルツ』
 邑書林刊行の「セレクション歌人」叢書で、初めて小笠原和幸の名を知り、その短歌を読む機会を得た。第一歌集『馬の骨』、第二歌集『テネシーワルツ』抄、第三歌集『春秋雑記』完本が収録されている。「セレクション歌人」叢書は、藤原龍一郎と谷岡亜紀がプロデュースしているので、叢書の志向する傾向が明確だが、叢書収録の歌人の一人として小笠原を選ぶという選択は、なるほどと得心させるものがある。

 「セレクション歌人」叢書のひとつの特徴は、歌人自らの手になる略歴が巻末に付されているという点である。短歌には経歴からしか明らかにならないようなものもあるため、これが意外におもしろい。殊に小笠原は今まで上梓してきた歌集では、その経歴を明かさなかったようなのでなおさらである。「不確カナ記憶」30首で1984年に短歌研究新人賞を受賞しているが、その後は賞に応募するも連戦連敗だったようだ。1990年に第一歌集『馬の骨』を上梓するが、反響はまったくなく、未だにダンボール箱に初版300部の残部が残っているというのが意外である。というのも、小笠原の短歌は一読すれば強い印象を受け、忘れることのできないざらつきを心に残すからである。

 1956年生まれの小笠原の短歌に大きな影を落しているのは、東北岩手に生を受けたという「風土性」、4歳の時に生まれた妹がその年に事故死し、10歳のときに母親が病死するという、家庭内に充満する「死」、そして父の再婚により家庭に継母が住むようになるという「家族性」である。ここから容易に想像できるように、小笠原の短歌には濃密な「物語性」がこめられている。「東北の風土性」と「物語性」とが神社の狛犬のように左右に並ぶと、いやでも寺山修司の名が頭に浮かぶが、事実小笠原は高校生のときに寺山の『書を捨てよ、街へ出よう』に出会って、すっかりヤラレテしまう。めでたく寺山病の患者となり、東北を出奔してほぼ10年近く各地を転々とする。短歌を読むときにまず作者の経歴から入るというのはもちろん邪道なのだが、小笠原のように自らの歌の中に濃密な物語性を塗り込める歌人の場合には、住宅顕信のようなケースとはまたちがった意味で、いやでも経歴もまた短歌の一部となってしまうことを避けるのがむずかしい。歌の屹立を求める作者はこれを嫌うだろうが、少なくとも読者の側から見ればそう言える。

 亡母と継母ふたつ血筋は骨肉の果てを草葉の陰のどの位置

 三界ニ頸枷四人アリナガラ心ハ別ノ場所ニ置ク術

 僻村の秋晴れを行く霊柩車死にたき者の死にたる噂

 これの世に畜生として馬の目のすずしや馬の骨となるまで

 穢土浄土秋の畑に火を焚けば炎(ほむら)へだてて真向かふ父子(おやこ)

第一歌集『馬の骨』から引用した。ちなみに「亡母」も「継母」も「ハハ」と読ませる。音は同じだが漢字は違う。同じに見えて非なる母である。難解な所はないので一首ごとの解説は不要だろうが、家のなかに亡母と継母と父と私が暮すという環境での、作者の心の置きどころが読みとれる。端的に言えば家庭という「修羅」である。この感情は後に、「ただ二人この家に住む日が来たら継母よ蜆が煮え立つてゐる」という、より短歌的に練れた秀歌となって結実するのだが、『馬の骨』では未だストレートに表現されているというべきか。語法上の特徴としては、「草葉」とか「三界」とか「穢土浄土」、また他の歌では「現当二世」などという仏教用語がよく使われている。こういう用語はいわゆる「手垢のついた言葉」なので、下手に使うと寺の門前に張られている今週の標語のようになるのだが、小笠原はそのことを熟知しつつも歌のなかでよく生かしている。四首目に見られるのは、人間のように修羅を生きる運命から自由な動物の生死の簡潔さへの憧憬である。このような眼差しは、東北の寒村に生まれて農業を営む父を持つという出自なくしては得ることがむずかしい。都市化の一途をたどっている現代短歌の現状で、このような眼差しは奇貨とすべきだろう。

 第一歌集『馬の骨』ですでに明滅しており、第二歌集『テネシーワルツ』で炸裂するのは、「人の生とはすべからく死へと至る道にすぎない」と断ずる人生観である。

 鈍牛が乾草を食む鈍重に生を咀嚼し死を消化する

 方形の卓に三人(みたり)が坐するまま我ら泉下の者となるべし

 よく冷えた西瓜四半分皿に置くいづれ一人の生き死にである

 生キ死ニニ意味無シソレハソレデイイノダガ蒼穹ヘ号砲ガ鳴ル

 この人生観はヨーロッパの文学・絵画でよく見られる Memento Mori「死を思え」というテーマと一見似ているようだが、実はだいぶちがう。「生とは徒労であり、人は生まれて飯を食い、子を成して死ぬだけである」という即物的無常観は、やはり仏教の国に生を受けた者ならではのものだろう。その文学的類縁種を探せば、おそらく深沢七郎の名があがるにちがいない。『楢山節考』「月のアペニン山脈」『笛吹川』などで深沢が執拗に表現したのも、このような即物的な東洋的無常観であった。深沢もまた、故郷山梨の土俗性を自分の文学の糧としていた点も、岩手出身の小笠原と共通するかもしれない。

 第二歌集『テネシーワルツ』ではかなり激烈に表現されているこの人生観は、第三歌集『春秋雑記』になるともう少し穏やかな諦観の風情を漂わせ始める。

 あたらしき畳の上は何もなくしづかに冬の光をまねく

 知己の死を話柄としつつ老父母の朝餉そのままとどこほりなし

 食卓に卵(らん)ひとつあり一日のそしてすべての始まりとして

 しらほのねとひとかたまりとなりしかばすなはち立つる物質の音

 蹶然と土筆出てくる生まれてくるこの世のことは承知の上だ

 木に残る桃が順次に落下してしづかに腐る真昼の家郷

 「生には意味がない」と感じつつもそのことに煩悶していた年代を過ぎ、作者は意味のない生をとにかくお迎えが来るまでは生きるという思いに着地したかのようである。

 『新潮』2004年6月号で、車谷長吉が小笠原の歌評を寄稿している。車谷長吉といえば『赤目四十八瀧心中未遂』などの著者で、最後の私小説作家といわれている人である。車谷はこの文章のなかで、せめて文士や歌人は「生の目的は死であると覚悟したところで、文学に対処してほしい」と信条を披瀝して、小笠原はその覚悟がある近年珍しい人だと誉めている。続けて「生の目的は死である」と思い定めて生きるのはさぞかし辛かろうが、そういう人は「物のあわれ」を知る人だと断じ、それが真の歌人の運命であると結んでいる。車谷と言えば「文学の鬼」である。「文学の鬼」とは、全生活を文学に捧げ尽くし、そのためには女房を苦界に沈めることも厭わない人をいう。ちなみに車谷の奥さんは詩人高橋順子で、別に苦界に身を沈めているわけではないが。その車谷が認めたのだから、小笠原もまた「文学の鬼」なのである。短歌の世界で文学の鬼というと、穂村弘のような短歌が認められるようならば、自分は東京は青山墓地の茂吉先生の墓前で割腹すると言った石田比呂志や、「無名鬼」を主宰し自刃して果てた村上一郎などが頭に浮かぶ。私は好きで短歌を読んでいるだけなので、こういう人たちが怖くてならない。いきなり面と向かって、「お前には短歌に命を捧げる覚悟があるのか !」などと詰問されたら、「いえ、ありません、すみません」とひたすら謝って赦しを乞うしかない。

 小笠原の短歌にも似たような雰囲気が漂っているので、作者のこういう文学に対する姿勢が肌に合わない人は、何首も読むと心にアトピー反応を起こすかもしれない。心を大根おろしにかけられているような気がすることもある。そういう人は第三歌集『春秋雑記』になると多く見られる次のような、静かに覚悟を詠う歌を読むのがよろしい。

 しづまれる皿四枚が打ち合ひて音をたてたり小さき地震(なゐ)に

 この世のこと隈なく余すところなく暴いて夏の朝日が昇る

 みづからを嚆矢となして明けなづむ沍寒の空へ一羽飛び立つ

 躓いたお前をこえてゆくものは秋の終りの風のみならず

 「セレクション歌人」叢書『小笠原和幸集』に収録された歌論を見ると、歯に衣着せぬ物言いの人のようだ。特定の短歌の師もなく結社にも所属しない小笠原は、まさに孤高の人の名がふさわしい。おもしろい歌人であり、短歌界はその成果を正当に評価すべきだろう。

074:2004年10月 第3週 沖ななも
または、日常からかすかにずれる違和感の歌

道の端にヒールの修理待つあいだ
      宙ぶらりんのつまさきを持つ

           沖ななも『衣裳哲学』
 靴のヒールが壊れてしまい、道ばたで営業している靴修理屋に修理を頼むとき、片足だけ靴を脱いだ姿勢でどこかに片手でつかまりながら立つ。郊外鉄道の駅近くや、繁華街のガード下などで昔はよく見かけた風景である。掲載歌はこのときの姿勢の不安定さを詠ったものである。いつもなら履いているはずの靴が片方なく、ストッキングだけの足が剥き出しになって人目に晒されているのも居心地が悪い。歌のなかにはこの日常風景の描写以外のものは何ひとつないのだが、「宙ぶらりんの居心地の悪さ」がこのように意識的に詠われることによって、その感覚が日常の地平からわずかにはみ出す。沖の歌はこのように、日常生活の卑近とも言える具体的な断片を詠みながら、注意しなくては気づかぬほどわずかに非日常的世界へとずれ込むところに特徴がある。

 沖の作る歌が古典和歌や近代短歌のめざした「短歌的抒情」にたやすく回収されないのは、もともと詩人として出発したという経歴があるからだろう。「短歌的抒情」の一歩手前で、「オットドッコイ」と踏み止まる姿勢がある。沖はもともと自分の詩作の糧にするために、加藤克巳の「個性」に入会したという。だから第一歌集『衣裳哲学』には、加藤の作風を彷彿とさせるようなモダニズム風の歌が混じっている。

 おもいきり反り身で仰ぐ 鉄塔の先端鋭く鳥を削ぎにき

 波は波の風は風のかたちのまま止まり闇をむかえる夢想刻限

 博多湾めぐる長距離ランナーの脚のかたちが草刈鎌に似る

 荷を抛るおとこの腕が骨ばると高圧線は午後へたるんだ

しかし沖の独自の個性が光るのは上に書いたように、日常を詠いながらかすかに非日常へと転位する次のような歌である。永田和宏の言葉を借りれば、歌の開く「虚数空間」へと気づかないうちに移行する感覚である。

 さやえんどうの筋をとりつつ背中じゅうで義眼の視線を感じている

 九月 たとえば丸椅子の置場を変えるさりげなくまた確実に

 霊柩車が雨水はねて走りぬけしずかに水がもとにもどる間

 つたくさをたぐりよせればあらあらしひとの世界は饐えのきざしに

 まちはずれ不燃建材売る店の磨りガラスから犬の目ひかる

一首目、「さやえんどうの筋をとる」という台所の日常風景に、「義眼の視線」という非日常的なものがからまる。ただし義眼はいささか寺山風に作りすぎだろう。二首目、椅子の置き場を変えるのも家庭の日常的風景なのだが、下句で「さりげなくまた確実に」と締めると、それがのっぴきならない決定的選択であるかのような色合いを帯びてくる。部屋の空気が変わる感じがする。三首目はこちらを掲載歌に選ぼうかと迷った歌で、発想は葛原妙子の「水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合わさりき」とよく似ている。ただし、葛原が物質世界の形而上性に眼差しを注いでいるのにたいして、沖の視線はずっと地上的である。霊柩車が人の生き死にのはかなさを暗示し、乱された水溜まりの水がもとにもどるわずかな時間が、人生の短さを形象化している。四首目、蔦草をたぐり寄せるというのが何の行為なのかはよくわからないが、「あらあらし」を導く序詞と解釈することもできよう。「世界が饐え始めている」という漠然とした不安な予感と、蔦草のざらついた触感とが一首を成り立たせている。五首目、建材屋の磨りガラスもまた何の変哲もない光景だが、暗い屋内から光る犬の目によって、日常はわずかに歪み、そこから世界がずれ始める。

 『衣裳哲学』の中には、近代短歌の開発してきた短歌的抒情により近い作品もあり、それはそれでなかなか美しく、私はこのような燃焼系の歌を愛誦している。

 鳥の目に射すくめられたる冬の夜に薄手茶碗の割れる音きく

 性と愛かなしきものか草かげの迷いの黄蝶蔓にたゆたう

 葬列の行きすぎがてにからたちの実をもぎたれば空は澄みたり

 寒の卵(らん)冷えきわまりてたちまちにかなしみとなり朝(あした)割られる

 しかし、脈動する短歌的抒情の溢れるこのような作品は、第二歌集『機知の足音』以降は急速に姿を消して行く。なぜだろうか。それは、近代短歌における短歌的抒情を支えている「対象との同化」を、沖がいつの頃からか忌避するようになったからだと思われる。近代短歌の大きな水脈である「対象との同化」を、これ以上ないほどよく示す作品がある。角川『短歌』2004年8月号の特集「101歌人が厳選する現代秀歌101首」で紀野恵が選んだ歌である。

 とぶ鳥を視をれば不意に交りあひわれらひとつの空のたそがれ
             柏原千恵子 「七曜」26号 (2002年)

 「見る〈私〉」と「見られる鳥」とが歌人の視線の切り取る空間で一体化し、後にはたそがれの空だけが残るというこの歌の美しさは圧倒的である。人間と自然との主客合一の水脈は、古典和歌の世界に遡るし、もしかしたらもっと古い時代の、人間と神の合一を希求した祝詞にまでも遡行する可能性もあるだろう。この歌に典型的に見られる「対象との同化」が、言葉を詩へと昇華し、短歌的抒情を浮上させる重要な経路のひとつとして働いてきたことは疑えないことである。

 しかし「同化」とは彼我の差異を消去することだ。しかるに沖は掲載歌にも見られるように、「世界に対する異物感」に固執がある。「宙ぶらりんの居心地の悪さ」は、世界と同化することができないという感覚以外の何ものでもない。だから沖は、眼前の対象を見つめつつもそれには同化せず、かすかな違和感とともに距離を保つというスタンスを採るのである。その視線は時に皮肉な色を帯びる。

 世界地図に永世中立国のうすみどり漠然と見てからページを閉じる

 地獄極楽絵図みせられても、だまってまな板のぬめりを洗う

 陽だまりに蜘蛛おりてきて 昼火事のサイレン響く なまあくびする

 刃物屋のナイフがにぶく語りかける 買いたければこれは売りもの

 一首目の世界地図を漠然と見てから閉じるという動作は、世界を眼前に開きながらもそこには入っていけない自己のスタンスを象徴する。二首目、地獄極楽絵図は宗教や形而上学からの誘いと解釈してもよいのだが、どんなに魅力的な誘いであっても自分はそれには乗れない。三首目の蜘蛛や消防車のサイレンは不吉な予兆と世界の危機の形象化であるが、私はそれとは関係なくなまあくびをしているのである。ここには世界の進行と自分の体内リズムとの違和感の認識が顕著である。四首目のナイフはまるで挑むかのように私に語りかけているが、それは自傷行為か他傷行為へのふてぶてしい誘いである。

 このようなスタンスが作歌方法に反映されるとき、歌はどのような姿をとることになるだろうか。永田和宏は「「問」と「答」の合わせ鏡 I」(『表現の吃水』所収)のなかで、短歌の構造を上句の「問」と下句の「答」(またはその逆)の合わせ鏡と規定し、「その「問」をいかに遠くまで飛翔させ得るか、そしてその「問」をいかにうまくブーメランのように回収することができるか」が、定型短歌の生命線だと主張した。この手法を採ると「燃焼系」で「カッコイイ」短歌ができる。ところが沖のようなスタンスを採ると、日常生活の断片が提示する問を「遠くまで飛翔させる」ことにはならず、問は投げ損ないのボールのように目の前にボテッと落下する。すると永田が言うごとく「ブーメランのように回収する」ことは不可能になり、トボトボと拾いに行くしかなくなるが、それは作歌においては下句の崩れとなって現われる。次の歌の下句のズブズブ感は明らかに意図的である。

 家族眠るトタンの屋根をゆっくりとはらみ猫だろうかいま歩いている

 欲情したようにひかる自転車ブロックの塀にもたせかけてある

 折りあしくあるいはおりよく雨となり駆け込むというにはあらねど入る

沖のこのような作歌姿勢は、木への愛着、なかんずく上ではなく下へ伸びる枝に注ぐ眼差しとして、歌題としても顕在化しているのがおもしろい。

 皀莢(さいかち)の流れへ傾ぐ古幹の上へ向く枝下へむかう枝

 上向きの枝にまじって下向きの枝がおもいのほかにいきおう

天に向かってすっくと伸びる枝は、ややもすれば自己美化に向かう「カッコイイ」短歌への志向だが、自分はその道を採らず下へと向かう枝になるという沖の歌人としての生き方を詠ったものと取ってよい。この結果、沖の作る歌はつぶやくような「ただごと歌」にだんだん近づいて行くのである。次のような歌にはもう、初期の歌に見られた日常からのかすかなずれはなく、日常そのままである。

 汚れれば裏がえし折りかえし雑巾(ぞうけん)の四つの平らを使いきるまで

 セーターをとりだしやすいところから引っぱりだしてとりあえず着る

 ここで私ははたと考え込んでしまうのである。たとえぱ小池光も清新な抒情に溢れた初期の歌風をのちに自分で意識的に壊してしまい、ただごと歌とも見える短歌を作るようになる。次の一首目と二首目の懸隔は誰の目にも明らかだろう。

 あかつきの罌粟ふるはせて地震(なゐ)行けりわれにはげしき夏到るべし 『バルサの翼』

 ごきぶりはこどもらさへも一夜明くれば誘引剤にみなとらはれつ 『草の庭』

 何歳になっても青春の抒情を詠い続けるというのも、確かに気持ちが悪いかもしれない。それでは短歌界の引き延ばされたモラトリアムになってしまう。また同じ地点に留まって歌を作ると、自己模倣に陥ることも確かである。時間経過による歌風の変化は必定と言えるかもしれない。しかし沖のように、初期の作品に見られた非日常空間へのかすかな転位すらも消去してしまうと、言葉が詩の空間へと浮上する揚力を失ってしまうのではないだろうか。歌集を読み進むにつれて、好きな歌に付ける付箋がまばらになってゆくのが、何とも淋しい気がするのである。

073:2004年10月 第2週 伴 風花
または、〈私〉と三十一文字が向き合う原理主義者はせつなさが好き

なんどでもひかりはうまれもういちど
     春の横断歩道で出会う

          伴風花『イチゴフェア』〔風媒社〕
 伴風花は1978年(昭和53年)生まれ。履歴によると97年から作歌を始めたとある。結社には属さず、歌誌「かぱん」とラエティティアを活動の場とするニュータイプの歌人である。私はかねてより「かばん」のなかでは伴風花に注目していた。『イチゴフェア』は今年 (2004年) 5月に出たばかりの第一歌集であり、第一回歌葉新人賞で上位入選した連作「 Fairly Light」を巻頭に収録している。歌集を飾る写真には西崎憲のクレジットがついている。西崎といえば名作『世界の果ての庭』の作者ではないか。多能の人である。

 伴が作歌を始めたのはどういう時代だろうか。97年(平成9年)は、神戸で小学生殺人事件(酒鬼薔薇聖斗事件)が起きて世間を騒がせ、パリではダイアナ妃が事故死し、山一証券が破綻した年である。短歌の世界では「アララギ」が終刊し、パソコン通信のニフティーサーブで短歌フォーラムが開設された。このキーワードをつないで行くと、だいたい時代の雰囲気がわかる。91年頃に始まったバブル経済崩壊が大手証券会社の破綻という戦後初の事件を出来させ、不可解な猟奇的殺人が人々を震撼させるという不透明な時代にさらに暗雲が立ちこめたような気分である。「アララギ」の終刊は、戦前から戦後へと続いた近代短歌の終焉を象徴する。それに代わって台頭するのは、パソコン通信とその発展形としてのインターネット短歌である。口語ライトヴァースは、俵万智の『サラダ記念日』(87年)以後10年を経て、議論を巻き起こしつつもすでに短歌の世界に定着済みだ。このような時代に短歌を作り始める人は、何を / 誰をロールモデルとして歩み始めるのだろうか。もはや近代短歌の遺産との接続は完全に切れている。かといって、80年代に出現した山崎郁子『麒麟の休日』や干場しおり『天使がきらり』ら新世代の、バブル経済の明るさと都市的ポップさを背景とした気分と語法もまた過去のものとなっている。おそらく伴が短歌を作り始めるとき、手本となるロールモデルは存在しなかったのではないだろうか。

 川野里子は『短歌ヴァーサス』第5号で「歌論なき時代の祈りの群像」と題して若手歌人を論じ、その特徴として歌論の不在をあげている。それは、短歌をめぐる論戦や評論が歌壇に不在だという意味ではなく、実作としての短歌の中に内包される、もしくは作歌に前提とされる、歌人一人一人のなかで短歌形式を問い直すという沈黙の対話行為の不在をさしている。そして現代の若手歌人は、「古典から現代までの短歌に流れる縦の時間、そのさまざまな試みや議論を捨象した最もスリムな形をして」(川野)おり、「三十一文字と『私』だけが居る」(同)シンプルな形をしていると指摘している。

 川野の指摘はおそらく的を射たものだろう。伴の短歌を見ても、そこには「古典から現代までの短歌に流れる縦の時間」を感じさせるものはまったくない。まるで〈私〉が短歌という三十一文字の短詩形式を発見したかのようである。そして、おそらく伴自身も実感としてそのように感じているのではないか。裸の〈私〉と三十一文字だけが向き合うというシンプルな対峙の場からは、どのような歌が生まれるのだろうか。

 それはまず過ぎ去った少女時代を回想する歌と、思いの届かない恋人への相聞という形式を採る。そしてこのふたつはほとんど同じ性質のものである。

 三度目の夏をむかえて部員別「あれ」のなかみもだいたいわかる

 うらやましがられるけれど「南ちゃん」みたいに扱われたりはしない

 まっくろい靴下カバンに押しこんでむれたってはくルーズソックス

 空色のクレヨンばかり減っていた好きがあんなに見えていた頃

 もう二度と触れることなききみの髪 手をのばしたら届く距離でも

 初めの2首で〈私〉は野球部の女子マネージャーをしているのだろう。あだち充の名作『タッチ』のヒロイン南ちゃんと自分を較べている。最後の2首は恋人または憧れの人への相聞である。しかしこの相聞もまた、少女時代の回想と同じように、「もはや手の届かない所」への愛着と惜別という色に染まっていることに注意しよう。確かになかには現在形の恋愛を詠ったものもある。

 「うごく」「いや動かない」「いや」真夜中に二人そろってまりもを見張る

 しかし集中の初めの方に置かれているこの歌には、巻末近くの次の喪失の歌が呼応するのである。まるであらかじめ喪失が運命づけられているかのように。

 あの日から一年二ヶ月十二日まりもは一度もうごかなかった、と

 このように〈私〉はひたすら自分の思いを三十一文字に盛ろうとする。あとがきにあるように、伴にとって短歌とは「時々、一瞬、流れ星のようによぎってゆくきらきらした気持ちやできごと」を、「閉じこめておく」器なのである。このような短歌観から何が出て来るだろうか。自分の思いを閉じこめておく形式としての短歌と対をなすのは、感じたことを短歌に閉じこめようとする〈私〉である。短歌という鏡の前に、裸の〈私〉が立っている。〈私〉は素直でピュアであればあるほど、鏡に映った姿もピュアになる道理だ。これは短歌におけるプロテスタンティズムであり、一種の原理主義である。

 しかしここには重大な陥穽があることに気づかなくてはならない。それは鏡に映った〈私〉を素直でピュアな姿にしようとすればするほど、〈私〉は傷つき血を流さなくてはならないということである。〈私〉と三十一文字のあいだに媒介するものが何もなく、直接に向き合うという構図は、ある種の痛ましさを生み出す。川野里子の言うように、今の若手歌人の作る短歌に、「前衛短歌とは全く異なるもっと荒涼とした今」が感じられ、「モノローグの深い寂しさ」があるのは、そのためではないだろうか。煮ても焼いても食えないベテラン歌人は、こういうあまりにも剥き出しのスタンスは採らない。〈私〉と三十一文字のあいだに、第三項として機能すべき何かを注意深く配置する。それは結社であったり、結社の主宰であったり、継承すべき近代短歌の伝統であったり、破壊すべき伝統であったり、私淑する歌人であったりと、性格と実質は様々である。こうしておくと、〈私〉は直にではなく、第三項を媒介として三十一文字と向き合うことになり、〈私〉が皮膚を露出させて血を流すという事態は避けることができる。一種の安全装置と言えなくもない。だからこそ、このような安全装置を嫌う歌人がいても、これまたおかしくはないのである。

 〈私〉と三十一文字とが裸で向き合うという伴のようなスタンスは、実際の作歌にどのように反映されるだろうか。最も重要な帰結は「短歌的喩」の不在だろう。「短歌的喩」とは、吉本隆明が『言語にとって美とは何か』のなかで提唱した概念である。詳しくは、永田和宏『表現の吃水』に収録された「短歌的喩の成立基盤について」や、三枝昂之『現代定型論 気象の帯、夢の地核』のなかの「一回性の〈意味〉の屹立」のような優れた論考を参照していただきたい。話の必要上乱暴に要約すると、短歌はその詩形式としての構造上、原則としてすべてが喩として機能する説である。典型的には上句が下句の喩となったりその逆になったりするように、一種の内部に切れがあり互いに喩的関係を取り結ぶという構造となる。

 めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子  村木道彦

 暗渠の渦に花揉まれおり識らざればつねに冷えびえと鮮しモスクワ  塚本邦雄

 村木の歌で「めをほそめみるものなべてあやうきか」という青年期特有の危機感を一首の中核的意味と見れば、「あやうし緋色の一脚の椅子」はその意味を視覚化し形象化する「像的喩」となる。誰も座っていない緋色の椅子という鮮烈な映像が、青年期の不安定な心理を暗喩することで、歌の印象を深めている。逆に塚本の歌で「暗渠の渦に花揉まれおり」を仮に前景化したい光景であるとすれば、残りの「識らざればつねに冷えびえと鮮しモスクワ」はその光景への意味づけとなる「意味的喩」として働く。この場合には、社会主義の聖地モスクワに対する知識人の失望であり、そこに暗渠を流れる花というほの暗いイメージがかぶさる。短歌はその内部に、喩的関係を軸とした対立を孕んでおり、この対立が歌の張りつめた緊張感を生み出す。もっともなかには一首のなかに切れがなく、全体でひとつの光景を詠んでいるものもある。

 はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を売りにくる  塚本邦雄

 しかしこのような歌の場合にも、一読した後に何か言葉では表現されなかったものが残ると感じられ、吉本はこれを「空白喩」と呼んでいる。このような構造を踏まえて三枝は、「詩形内部にあって、一つの表現を喩的表現に転化させてしまう定型における『詩の形成力』を、いかに逆用してそこに自己の一回性の〈意味〉を屹立させるか、それが (… ) 定型詩短歌にかかわるものの最も普遍的な問題意識なのである」と結論している。

 このことを踏まえて伴の短歌をもう一度見てみよう。

 歯みがきをしている背中だきしめるあかるい春の充電として

 ふと顎をもちあげられてはじめての角度からみたはじめての青

 砂山にたてた小枝の一本をまもるごとくにふれあうふたり

 一読してわかるように、これらの歌のなかにはお互いが喩となる対立的関係を持つ切れがない。例えば一首目は、歯みがきをしている恋人を背中から抱きしめる情景を詠んでいるが、それを春の充電だと感じているのは〈私〉であり、前者が後者の、あるいは後者が前者の喩として働いているわけではない。三首目の「砂山にたてた小枝の一本をまもるごとくに」は直喩であり、確かに「ふれあうふたり」の比喩なのだが、これは一首のなかに対立する緊張関係を生み出す喩ではなく、結句を導く序詞的な比喩である。かといって、歌全体が喩となる空白喩かというと、そうとも考えられない。強いてこれを空白喩と取れば、その喩が照らし出すのはいつも決まって「〈私〉のせつない気持ち」なのだ。だから伴の短歌では、裸の〈私〉が三十一文字の前に無防備に立っているという構図になるのである。

 『イチゴフェア』の栞に文章を寄せた東直子は、ぱさぱさになった心に透明な液体のようにじんわりとしみこんでくる伴の短歌の美点を指摘している。また荻原は、澄んだ声のシンガーがむきになって詠いすぎたため咽をからしているようなぎりぎりな感じと表現した。いずれも得心のいく好意的な批評であり、伴の言葉遣いのしなやかさと歌の姿の可憐さは特筆に値しよう。しかし、「裸の〈私〉が三十一文字の前に無防備に立っている」という構図はあまりにも危うい。今の若手歌人たちを「少し遠目に眺めると多くの個性が一様に同じ色合いの孤独に包まれて見える」という川野の指摘は正しいのである。「遠目に見れば一様な孤独と一様なせつなさ」から脱却するためには、「裸の〈私〉」と三十一文字のあいだに第三項として働く他者を介在させる必要があるのではないか。でないと「〈私〉は〈私〉である」という同語反復に陥ることになる。同語反復の自家中毒の恐ろしさは多くの歌人の知るところであり、これ以上の多言を要すまい。

 最後に特に印象に残った歌をあげておこう。

 このキスはすでに思い出くらくらと夏の野菜が熟れる夕ぐれ

 香りさえ想像されることはなくりんごはxみかんはyに

 信号としての役目を終えてからこぼれるような青、赤、黄色

一首目には集中唯一と言っていい「短歌的喩」がある。二首目は算数の授業でりんごやみかんが変数xやyに変えられてしまうせつなさを取り上げて、対象に寄せるせつなさがうまく表現されている。三首目もまた交通の絶えた交差点の信号機の虚しい明滅に注ぐまなざしが、一首を歌として立ち上げている。

 これからの作歌過程で伴が〈私〉と三十一文字との媒介項となるどのような第三項を発見するのか、注意して見守りたい。

072:2004年10月 第1週 田中富夫
または、前衛派のコトバは人生のどこに着地するか

昼つ方先祖の墓の苔むして
    瓶のなか万緑のみづ燃ゆ

       田中富夫『曠野の柘榴』(青磁社)
 歌人のなかには、紀野恵のように弱冠17歳で角川短歌賞次席の栄誉を浴びて、19歳で第一歌集を上梓するという早熟の出発をする人もいれば、歌歴は長くとも歌集を持たない人もいる。今回取り上げた田中富夫もまた歌歴40年近い歌人でありながら、今年(2004年)7月に出版された『曠野の柘榴』が初めての歌集であるという。京都にある青磁社という小さな出版社から出た。帯文には河野裕子、栞文には永田和宏が寄稿している。今を去ること37年前の1967年(昭和42年)に、当時の立命短歌会と京大短歌会のメンバーを中心として、『幻想派』という同人誌が発刊された。田中富夫も河野裕子も永田和宏もこの『幻想派』に参加しており、そのため帯文も栞文も同志的友情溢れる文章となっている。あたかも同窓会の雰囲気である。

 1967年(昭和42年)とはどういう時代だったのだろうか。政治的には1965年に米軍によるベトナム北爆が開始され、小田実・飯沼二郎らによるベ平連(ベトナムに平和を市民連合)のデモが盛んになる。1966年には早稲田大学学費値上げ反対闘争が起こり(福島泰樹がこれに参加)、学生運動が全国に巻き起こる。政治的に熱い季節が到来したのである。短歌史を繙くと、1964年に深作光貞の肝煎りで中井英夫編集による『ジュルナール律』が発刊され、村木道彦が「緋色の椅子」で華々しくデビューした。新幹線開通の年である。66年には佐藤通雅の『路上』、69年には福島泰樹・三枝昂之の『反措定』が創刊されているから、歌誌的に見る限りあちこちから新たな声があがるという短歌的昂揚を示した時代だと言える。その一方で、既に確実な地歩を築いていた塚本邦雄や岡井隆らの前衛短歌に対して、64年頃から批判の声が巻き起こる。だから短歌的に言うと、政治へと傾斜する若者の心情をエネルギーとして短歌が吸収し、返す刀で旧守派から浴びせられた批判に抗して前衛短歌を擁護するという構図になるだろうか。まるで見てきたような書き方をしているが、この当時私は短歌にはまったく興味がなかったので、リアルタイムで見聞したことではもちろんない。短歌辞典年表などを参考にして再構成したものにすぎない。

 栞文から読みとれる断片的情報を総合すると、田中富夫は当時前衛短歌に激しく傾倒しており、『幻想派』で最も難解な短歌を作る歌人であったという。栞文に引用されている当時の歌を見ると、その歌風の一端を垣間見ることができる。

 トマト熟るるおとふくらむ乳腺のりこえて夜を買いとる業者

 からからと水上ながるる酸漿の清き秩序の家系図みつめり

 世界は宥されてあらむに炎天の舌に巻かれて死にたる蝶々

句割れ・句跨りによる伝統的短歌のリズムの脱臼、また「炎天の舌」「酸漿」などの語彙の選択に、塚本の影響が色濃いことが知れる。今回の歌集『曠野の柘榴』では、第二部「初期歌篇」に1970年以前の歌が収録されている。

 炎天のかくれんぼの影踏みつつもつとも近き処女の陰

 夕映えはさやかにわれの愛としり向日葵の大きさにひと日たまはる

 洋傘ひらき世界暮れゆけば悪とする林檎のうちをめぐる火事

現実の生活に投錨点を持たないコトバによって美の世界を組み立てるという意図が明白である。しかし、塚本の語法の影響があまりに深く影を落していて、田中は塚本の前衛短歌に傾倒しながらその影から出ることができなかったようだ。「水煙に馬は洗はれ微熱もつ弟の今宵たましひ冴ゆる」という歌などを見ればそれは歴然としている。田中もそのことを意識してか、初期歌篇の収録数は少ない。しかし、興味を引かれるのは、「コトバによって美の世界を組み立てる」という出発点を持った歌人が、その後どのような自己展開を遂げたかという点である。

 華やかなドレスにつつまれうたかたの鶴と見粉ふ花嫁千鶴よ

 まるで蚯蚓のやうな字体にも孫が見え隠れして揺るるこころよ

 闇を抱き世界に抱かれ父は逝く天の咽喉に雨降り止まず

 痩身のわが身に睡る母こそは永遠(とは)の支へよカンナ燃え立つ

 水背負ふ みづのいのちを辿りきてさりげなく山茶花の花

 一首目は長男の結婚を詠んだ歌で、二首目は孫の誕生である。三首目は父の、四首目は母の死を悼む挽歌で、五首目はいちばん新しく最近の心境を詠んだものだろう。いずれも歌の主題は作者の人生の節目であり、これらは境涯歌以外の何ものでもない。短歌的には優れた歌もあり、挽歌の慟哭には心を打つものがあるが、ここではそういうことにはあえて目を瞑り問題としない。問いかけたいのは、「現実の生活に投錨点を持たないコトバによって美の世界を組み立てる」という地点から出発したはずの歌人が、どのような経路を辿って現実にしっかりと投錨されたコトバを用いて短歌を作るようになるか、という点である。端的に言えば「コトバ派」から「人生派」への宗旨替えということだ。世間的には、「若気の至り」に対する「人生経験の深まり」という安易な用語で済まされてしまうのかもしれないが、これは短歌におけるコトバの位相を考える上で看過できない問題ではないだろうか。同時に私は「歌人はどのようにうまく歳を取るか」というジジムサイ問題に興味を持っているので、ますます見過ごす訳にはいかない。このような問いかけは、小笠原賢二が『終焉からの問い』収録の「前衛歌人の老い」のなかで、『詩歌変』以後の塚本邦雄にはそれまで排除してきたはずの作者の現実の人生が顔を出すようになると指摘し、前衛歌人の変貌をかなり手厳しく批判した問題意識とも重なるだろう。コトバは必ず人生に着地するのか。自分で歌を作らない私には、当面この問いに対して用意できる答はない。それに私が答えるのもおこがましい話であろう。

 田中の歌集の構成は、第一部が最近の歌、第二部が初期歌篇、第三部が中期の歌となっているが、細かく制作年代を辿れるようには配列されていないので、田中の作歌姿勢の変化を跡づけることは残念ながらできない。しかし、第三部のなかには次のように鏡の比喩による自己省察の歌があり、コトバによる美の世界から、コトバは光のごとく反射して自己へと還るという経路がほの見える。

 朝焼けの鏡にむかひ吾と対きあふ魂(たま)もうつりてをるや

 真夜の鏡にするどく光る刃物見ゆわが思惟の貧しきを問ふな

 若い頃の短歌から還暦に近い現在の短歌までを、一冊の歌集に収録するというのがままあることなのかどうか、歌壇に暗い私にはわからないのだが、このような構成を取ることで短歌観の変貌の過程が比較的よく見通せることが、このような問題提起をいやでも誘発してしまうのである。

 角川『短歌』は2004年7月号と8月号で、「101歌人が厳選する現代秀歌101首」という特集を組んでいる。8月号にはその結果を論じる岡井隆・三枝昂之・小島ゆかりの鼎談が掲載されているのだが、そのなかで三枝は、「こういう特集では壮年の歌があがりにくい」というおもしろい指摘をしている。三枝の発言を受けて小島は、「壮年は人生の停滞期であり、朗々と歌い上げることが出来にくい時期だ」と自分なりの説明をしている。確かに青春も迷いの多い時期だが、青春の彷徨はそのなかに自己陶酔を含んでいて、葛藤をストレートに短歌に昇華しやすい。それに何にも増して若者はイノセントであるという強みがある。イノセントとは「自分はまだ手を汚していない」と信じているということである。しかし、若者にもやがて自分の手で鶏を縊る日が来ることは言うまでもない。それに較べると、中年にさしかかったときに覚える人生に対する迷いは、ずっと屈折していて歌にしにくいのだろう。「中年の歌」というとすぐに頭に浮かぶのは、次のような歌である。確かに苦みを含んでいて、どこか深夜にひとり自分につぶやくような調子がある。

 鴎外の口ひげにみる不機嫌な明治の家長はわれらにとおき   小高 賢

 ポール・ニザンなんていうから笑われる娘のペディキュアはしろがねの星   同

 田中はどうなのだろうか。中年期に相当すると思われる第二部には、次のような歌がある。

 海を背にピアノの鍵盤(キー)を叩きをりかなしみの階段(きだ)のぼるといふや

 水道の蛇口捻れば執拗に貫かるる みづもろともの意志

 夏の雨に濡るる燠も壮年もびしよぬれの戸口に佇ちてをり

 あるときは中年といふ言葉のおもき量感に怯えていたり

 川底に紅葉なだれて鍋底のわが秋の血の煮らるるおもひ

 匙のなかへなだれこむ死こそは掬ふことすらできぬ塩の光れど

 未だ青年の清新さを感じさせる一首目や、強い意志の表明を含む二首目に比べると、三首目からは明らかに中年期の歌である。しかし、イノセントさを喪失した中年期の鬱屈や迷いが窺える歌はあまりない。「佇ちつくす」といい「怯える」といってはいるが、鬱屈した迷いとはどこかちがう。田中は歌人の中年期をうまくやり過ごしたのだろうか。一時は作歌を中断していたようだから、中年期はその間に過ぎ去ったのだろうか。巻末に配された歌友安森敏隆の解説によれば、短歌制作からしばらく離れていたのち、母親が亡くなる前後から毎晩何十首となく歌が湧いて来たという。これがコトバが人生に着地した瞬間なのだろうか。ならばそれまでのコトバはどこへ行くのか。等々ということを、考えさせられてしまう歌集なのである。

071:2004年9月 第5週 沢田英史
または、古語を駆使して現代に短歌の浮上を希求する歌

ビル抱く暗き淵よりせりあがり
   観覧車いま光都(くわうと)を領(し)れり

           沢田英史『異客』
 ちょっとした観覧車ブームで、ロンドンのテムズ河畔に世界最大の観覧車ができたと話題を集めたのはつい先日のことである。郊外の遊園地だけでなく、都会の真ん中にも観覧車が作られている。掲載歌はそんな夜の観覧車を詠んだものである。「ビル抱く暗き淵」は、コラールの名曲「我深き淵より御名を呼びぬ」Deprofundisを思い起こさせ、単なるビルの谷間の暗がりという以上の意味を暗示する。そんな暗がりから光輝く観覧車が姿を現し、夜のネオンと照明に輝く大都会に君臨するがごとくに、夜空を背景に回転するという光景を詠んだものである。単なる都市詠の叙景と読むこともできるが、短歌特有の二重の意味作用の働きによって、私たちは歌の言語の直示的意味の向こう側に、もうひとつの意味を読みとってしまう。それは現代の都市に生きる人間が置かれた状況をなべて「深き淵」と捉え、その淵から光輝きながら浮上することを幻視する人々の希求の深さというもうひとつの意味である。

 作者の沢田英史は1950年(昭和25年)生まれ。略歴によると兵庫県の高校を卒業後、京都大学文学部を卒業して、現在は高校の教員をしている。短歌を作り始めたのはずいぶん遅く、友人の訃報に接しふいに歌が口をついて出たという。「歌が降って来た」系の歌人で、こういうタイプの人はけっこういるようだ。時に沢田39歳のことであり、歌人としては遅い出発である。ポトナムに所属し上野晴夫の指導を受けて、1997年「異客」50首で第43回角川短歌賞を受賞。1999年に第一歌集『異客』を上梓、第25回現代歌人集会賞を受賞している。歌集は『異客』一冊のみだが、「セレクション歌人」(邑書林)には『異客』以後の歌も収録されている。

 沢田は年齢的には山田富士郎や藤原龍一郎や島田修三とほとんど同じ世代である。しかし歌人としての出発が遅いので、もう少し若い人かと勘違いしてしまう。そんな勘違いを持ったまま『異客』をひもとくとびっくりする。山田や藤原よりもずっと古語を多用する完全文語定型旧かな遣い派だからである。

 あはれとは人のことはり薄ら氷の液晶画面に出でし月かも

 とどめおく心やはあるいなづまの閃く隙(ひま)にうつろふものを

 たまかぎるゆふべの雨の水たまり秘話のごとくに草蔭を占む

 あかねさすテールランプの流れゆきかつは堰(せ)かるる滾(たぎ)ちの絶えね

 「あはれ」という古歌に多用された言葉、「たまかぎる」「あかねさす」といった枕詞、係り結びなど、現代短歌ではほぼ絶滅した言葉を復活させている。明治時代に短歌革新運動が起きたとき、近代的自我を詠う短歌には無用なものとして追放されたはずの言葉たちである。沢田はことさらにこういった言葉や語法を多用するので、まるで近代短歌がすっ飛ばされて、現代がいきなり明治以前の和歌に接続されたかのような奇異な感じを受ける。

 また沢田は古歌からの本歌取りの技法も好んでいるようだ。上の一首目は安倍仲麿の「三笠山に出でし月かも」を踏まえているし、次のような歌もある。

 ゆく車(カー)の流れは絶えずあかねさすテールランプを海渡しゆく

車を「カー」と読ませて、「行く川の流れは絶えずして」と掛けているのである。

 このような語法を多用する沢田の意図がどのあたりにあるのかは定かではないが、沢田のテーマのひとつである現代都市詠をこの古典語法で作ると、ミスマッチのためか一種独特の味わいが出ることは確かである。上にあげた一首目、「あはれとは人のことはり」と冷たく切って捨て、「薄ら氷の液晶画面に出でし月かも」と続けると、液晶画面に代表される現代のデジタル性と、「出でし月かも」の悠長な調子とがあいまって、現代都市の非情な貌が浮かんで来る。同じ趣向の歌をもう少しあげてみよう。

 摩天楼に住むといふなる隼の眼下夜ごとに銀河流れむ

 ふり仰ぐ高層ビルの水族館(アカリウム)地上はるかに満満たる水

 入りつ日の輻(や)の射し来れば街ながら硝子細工の脆さを帯びぬ

 『異客』には現代社会に住む人の身内に住まう空虚感を詠んだ歌が多くある。

 わが胃の腑透けてただよふ青といふいろのみ満つるなにもなき空

 朝ごとにくだる坂道昨(きぞ)の日の澱のよどみのかすかに臭ふ

 列なりて駅への道をくだりゆく背中せなかのそののっぺらぼう

 さういへば思ひつづけてゐたつけなどこへ行つても客でしかない

 胃袋を透過する青、坂道に澱む臭い、無個性な人の列は、現代の都市風景である。このような世界を生きて、作者は自分を客と感じるのだが、このような感覚は目新しいものではなく、他の現代歌人もまた多く詠んできた感覚である。例えば谷岡亜紀などには、現代への違和感を背景として、もっと毒と攻撃性を含んだ歌がある。

 毒入りのコーラを都市の夜に置きしそのしなやかな指を思えり 『臨界』

 新宿は薬物テロを飾りおり危機に冷たく接吻(ベーゼ)する街 『アジア・バザール』

 しかし沢田の個性はと言えば、谷岡のような外に向かう攻撃性ではなく、現代に生きる自己と社会とを静かな眼差しで見つめる、どちらかと言えば内向きの視線であろう。次のような何気ない日常の光景を詠んだ歌に、その個性は生きているように思う。

 堀端の舗石はつかに間遠にて我の歩みを微妙にくづす

 小径にはゆきやなぎのはな散り敷けり避(よ)けて通れる足跡のあり

 ありふれた一本の樹がおごそかに光を放つゆうぐれがある

 操車場の線路に根づく雑草(あらくさ)の生ひて茂りて枯れてゆきけり

 また集中には次のような瑞々しい相聞歌があることにも注目すべきだろう。

 路地まがり悲しみの街さまよへばいづくのかどにも君の佇ちたる

 踏み分けて朽葉ひそけくわが腕に冷えたるからだ預け来たりつ

 あえかなる「夜間飛行」のつつむ背を抱けばともにくづほる 宙(そら)へ

 三首目の「夜間飛行」はゲラン社の香水 Vol de nuit のことで、彼女の体から香水の香りがかすかに匂うと詠んでいるのだが、それがいつの間にかふたり抱き合いながら夜空を飛んでいるイメージに転化しており、なかなか美しい。

 『異客』の巻頭歌と巻末歌とは、次のように見事に呼応していて、作者沢田の依って立つ視座を表わしている。それは広大無辺のこの宇宙に孤立して生きる私たちの孤独であり、今ここに生きているという不思議である。

 この空に数かぎりない星がありその星ごとにまた空がある

 われらみな宇宙の闇に飛び散りし星のかけらの夢のつづきか

 セレクション歌人シリーズ『沢田英史集』(邑書林)のあとがきに、沢田は「大げさでなく、いま短歌によって生かされている、と思っている」と書いている。びっくりするほど率直な告白である。また『現代短歌100人20首』(邑書林)の歌人の信条欄には、「歌によってひとすじのこの世につながる思いを持つ」と、同じ趣旨のことを述べている。思うに沢田には、文語定型短歌という形式に対する信頼感があるのだろう。言葉の虚しさがたまさか心をよぎることはあれ、全体として見れば短歌形式を自らが依ることのできるものとして信頼している。だからあまり定型を苛めることをしていない。

 話は飛ぶが、小笠原賢二は『終焉からの問い』のなかで、現代歌人は「魂の救済という潜在的な、しかし意外に強い衝動」を持っているとし、その証左のひとつとして現代短歌に頻出する「青」に注目してたくさんの例歌をあげている。

 未知の手に触れてうなじの燃え立つを淋しみ青いスカーフを巻く 太田美和

 ふかぶかとつきさせばまた吸われつつ夏おほぞらにひたと青旗 池田はるみ

 蒼穹は深き青もてみちたらふかなしき夢の仮睡ののちを 山田富士郎

 小笠原はこれら現代短歌に歌われた「青」が、不安・不充足のイメージを背景として、それらと背中合わせの形で救済の喩として憧憬されるといういびつな構造を持つ、と指摘している。つまり「青」から遙かに隔てられているからこそ、屈折した形で「青」を憧憬するというわけである。

 沢田の短歌にも「青」はよく登場するのである。沢田においては「青」は空の色として捉えられていることが多い。下にあげるのはごく一部で、これ以外にも「青」の歌はたくさんある。

 わが胃の腑透けてただよふ青といふいろのみ満つるなにもなき空

 ああぼくはこの青をみるためにだけけふまで生きてきたやうな空

 駆け出せば今なら間に合ふかも知れない青い空へと昇る歩道橋

 ゆふぐれの電車の窓をひたひたと青きエーテルの宵が打ち寄す

 鯖雲の蒼き輝きすべらせて硝子のビルの壁面の空

 二首目からも明らかなように、沢田にとっても青空は遙かに見上げるものであり、憧憬の対象として手の届かないものの表象であることがわかる。

 試しに小池光の歌集『バルサの翼』にどれくらい「青」が登場するか、数えてみた。「青」はわずかに以下の5首に見られるのみである。

 ひと夜さをわれと覚めゐし青き蛾といとほしむころ空はかたむく

 ガス蒼く燃ゆるたまゆらそのかみにさくらを焚けば胸を照らしき

 眼つむりし秋の青天 祭日の旗あざやかに狂院かかぐ

 青蛇の巣を探しゆくすこやかなズック海軍工廠あとへ

 われらが粗野にふるまひ遂げしのちのことはるかに夜の青空を見き

 注目すべきは、沢田の歌であれほど登場する青空が、小池においてはわずか二例しかなく、しかもそのうちひとつは狂院の空で、とてもピュアな憧憬の対象とは思われない。またもう一例も夜の青空であり、そこには憧れの対象となる輝く青色はないのである。残りは蛾と蛇とガスの色として表象されているに過ぎない。小池の歌には青空がない。小池の振り仰ぐ空は曇天か、さもなくば「溶血の空隈なくてさくら降る日やむざむざと子は生まれむとす」のように、不吉な血の色の空である。

 『バルサの翼』は1978年小池が31歳の時の歌集である。70年代の短歌よりも90年代の短歌の方により多く「青」が登場するのはどういう訳か。小笠原の言うように、「青」の形象化する境地から遠く隔てられているからこそ、手の届かないものとして「青」を詠うということがほんとうだとすれば、70年代の歌人よりも90年代の歌人のほうが、より「青」から遠く隔てられているということになる。確かに小池の『バルサの翼』を通読して、傷つきやすい青年の抒情という印象は受けるが、痛ましいという印象はない。ところが最近の若い歌人の歌を読むと、痛ましいという印象を受けることがよくある。頻出する「青」の象徴する魂の救済が、絶望的なほど遠ざかっているからかもしれない。

 その点、上にも書いたように、沢田は短歌定型に対して信頼感を抱いている分だけ痛ましさは少なく、沢田の詠む「青空」は本来の憧れの輝きを保ち続けるのである。沢田にとってもおそらく、短歌は祈りなのだろう。