歌人が第一歌集の出版まで漕ぎつけるのはたいへんなことだと聞く。しかしもっと重要なのは第二歌集だとも言われる。第一歌集ではまだ萌芽的であった歌人の個性が、第二歌集で確立されるからである。二〇〇二年に『モイラの裔』でデビューした松野志保がこのたび世に問うた第二歌集『Too Young to Die』は、その意味で期待を裏切らない一冊となっている。
ワカマツカオリの描く少年のイラストが飾る表紙と、ヴィヴィアン・ウエストウッドの店の名前から採ったという歌集題名が前景化する主題は「少年」である。少年性は一人称を「ぼく」で通した『モイラの裔』にすでに胚胎していたが、『Too Young to Die』でこの主題はさらに深化され、「二人の少年」というより明確な像を結ぶに至った。
いつか色褪せることなど信じないガーゼに染みてゆくふたりの血
この夜の少しだけ先をゆく君へ列車よぼくの血を運びゆけ
ぼくたちが神の似姿であるための化粧、刺青、ピアス、傷痕
脱ぎ捨てる乳白のシャツこの胸に消えない傷をつけてほしいと
ほのかに血とエロスの匂いのする耽美的な少年の世界が、想像力を飛翔させ、歌想を汲み出す源泉となっているのは疑いない。この世界につらなる作品には確かにツインで登場する少年が多い。ヘッセ『デミアン』のジンクレールとデミアン、宮澤賢治『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラ、萩尾望都『ポーの一族』のエドガーとアラン、荒川弘『鋼の錬金術師』のエドとアルなど、枚挙に暇がない。なぜ少年は二人でやって来るのか。その理由にはアンビバレントな要素が内在していることに注意しよう。二人という最小対の関係は、ジンクレールとデミアンのように、時に導師と弟子の二項関係を形成し、十九世紀西欧に成立した
成長物語の基盤となる。二人の少年は対関係を梃子に成長しやがて大人になる。しかし、別の斜面においては、二人という対関係は外部世界を故意に遮断し、内部に閉じこもる
繭化の危険も孕んでいる。この場合、少年は成長するのではなく、逆に成長して大人になることを頑なに拒否する。松野の短歌に登場する二人の少年は、どうやら後者のようなのだ。
創を持つ果実の甘さ鳥籠の外の世界がこわれるときも
どこへ往くことも願わぬふたりには破船のようにやさしい中庭
繭に閉じこもる甘美さと行き場のなさがむせ返るように共存している。そして『Too Young to Die』が描いてみせる繭化した二人の少年を取り巻く世界は、黙示録的終末観が色濃く漂う世界なのである。
またひとつピアスの穴をやがて聞くミック・ジャガーの訃報のために
癒されたいわけじゃなかったこの傷のほかには何も持たないぼくら
ひび割れた鏡に映る世界その欠片ひとつひとつを雨が打つ
灰の降りやまぬ世界に生まれたから灰にまみれて抱き合うぼくら
炉心隔壁がひび割れてゆく幾千の夜をひたすらその身に溺れ
ではなぜ松野はこの主題に拘泥するのだろう。もちろんそこには個人的嗜好が働いている。同人誌『Es空の鏡』に寄稿した「元やおい少女の憂鬱」と題された文章のなかで、松野は自分の「やおい」的傾向を率直に告白している。「やおい」とは、「ヤマなし」「オチなし」「意味なし」の頭文字を繋げたもので、元来は少年同士の恋愛を主題とする少女マンガの一ジャンルであるBL (boy’s love) をさす。「やおい」の世界は、少女たちの想像力と物語を希求する秘やかな願望の回収装置として働いてきた。
このような個人的嗜好レベルの事情を、短歌という創作の地平に引き上げて考えると、「やおい」的世界に深源を持つ「少年性」という主題は、歌の中にひとつの仮構的世界を構築し、日常世界から失われたロマンを育む土壌となっている。それゆえに、この土壌から滋養を吸収する松野の短歌は、近代短歌のセオリーであった写実からは遠く、身辺詠も職場詠も家族詠も見られない。家族も友人も登場せず、舞台はどこであってもよく、どこでもない場所である。
松野の短歌が描くこのような世界設定が、電脳仮想空間で展開されるRPG(ロール・プレイング・ゲーム)に酷似しているという点に注意しよう。その点に私は一抹の危惧の念を覚えざるをえないのである。
なぜ危惧の念を覚えるかというと、RPGの世界はつまるところ「セカイ系」だからである。「セカイ系」とは、平凡な日常(近景)と世界の命運に関わる大事件(遠景)とを直結する思考様式をさし、その特徴は、家族・地域・社会といった〈中景〉がすっ飛ばされるという点にある。家族・地域・社会などの中間項は、〈私〉にストレスフルな拘束を課す鬱陶しい装置だが、本来は〈私〉と〈世界〉とを媒介する役割を果たしている。「セカイ系」はこの中間項を大胆に省略する。「セカイ系」の思考様式が出現したのは、哲学者リオタールのいう世界を解釈する「大きな物語」が二十世紀終盤に消滅したためであることは確かだろう。短歌の世代論的には、一九七〇年代始めに生まれた団塊ジュニア世代からその傾向が強く見られる。十代後半の思春期にバブル経済の崩壊を目撃した世代で、七三年生まれの松野はこの世代に属している。
短歌がこの世を生きる〈私〉の表現であるならば ― そうではないという考え方ももちろんありうるが ―、〈私〉はどこかでこの世と切り結ばねばならない。そして、ここでいう「この世」のなかには、家族・地域・社会などのストレスフルな中間項も含まれることは言うまでもないのである。
この歌集には次のような歌がある。
探知機をするりと通過するぼくの頭の中に爆弾がある
朝ごとのメトロ 併走する黒い馬の群その呼吸聞きつつ
わが言葉、貧しき地上に片翼の天使を繋ぐ鎖であれと
私は次のように解釈した。平凡な日常を送る近景の〈私〉の頭の中には、遠景の世界を変革する爆弾がある。それは通勤電車に併走する黒馬の群としても形象化される。松野は想像力のなかで、このように近景と遠景をしばしば平行世界として描いている。ここに端的に松野の世界観が現れていると見たい。
しかし私はここで次のように考えてしまうのである。遠景を変革・爆破するべき黒馬の群は、永遠に通勤電車と平行に走っているだけでは十分ではない。荒い息を吐く黒馬の群はいつかは通勤電車の線路と交差しなくてはならない。交差したところに松野の新たな歌が生まれるのではないか。そのように思えるのである。
右に引用した最後の歌は、松野が短歌に賭ける思いを宣言した歌だろう。その志やよしである。松野がこの歌集で明確に形象化した「二人の少年」が、今後どのような方向に向かうのか、注意深く見守りたいと思う。