第118回 都築響一『夜露死苦現代詩』

作用の
仕天は
作極の
しずみを
焦す
いざつむえ

   友原康博
 今回の話題は歌集ではなく、都築響一『夜露死苦現代詩』(ちくま文庫)である。タイトルは「よろしく現代詩」と読む。「夜露死苦」は今ではもはや絶滅危惧種となった暴走族が、特攻服に刺繍したり、壁にペンキで落書きした当て字だ。
 都築は1956年生まれの写真家・文筆家で、『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』という写真集で写真界最高の権威とされる木村伊兵衛賞を受賞している。『TOKYO STYLE』という写真集は私も持っているが、東京に暮らす若者のアパートの室内を淡々と撮影した写真集で、見ているだけでものすごくおもしろい。『夜露死苦現代詩』は街角にころがっている詩や、ふつう詩とは見なされない言語表現を拾い集めたものである。死刑囚の作った俳句、老人介護施設で暮らす認知症の老人が垂れ流す言葉、玉置宏の歌謡曲の司会、暴走族の特攻服に刺繍された文章、見せ物小屋の呼び込み口上、湯飲み茶碗に印刷された説教詩、ラップ音楽のリリックなどが取り上げられている。冒頭に掲載したのは、統合失調症の青年がノートに書き綴った膨大な詩の一編である。断っておくが誤変換ではなく、原文のままである。
 都築自身はこの言葉を使っていないが、本書で都築が目ざしたのは考現学だろう。考現学とは、早稲田大学の建築学教授であった今和次郎こん わじろうが、考古学をもじって作った造語だ。考古学とは言うまでもなく、遺跡などを発掘して古い時代のことを調べる学問だが、これにたいして考現学とは、今まさに私たちが生きている現代そのものを観察対象とする学問である。今は1923年の関東大震災のあと、焼け野原に廃材を寄せ集めて作られたバラック建築を見て回り、住むための家という建築の根源的あり方を見た。今が提唱した考現学は、その後、赤瀬川原平のトマソン、藤森照信らの路上観察学会・建築探偵へと発展していった。ちなみに考現学にはもうひとつのルーツがあり、京都大学人文科学研究所の多田道太郎らを中心とする現代風俗研究会がそれである。
 『夜露死苦現代詩』はまさに詩の考現学と言えるのだが、本書のもうひとつの隣接領域はアウトサイダー・アートである。アウトサイダー・アートとは、主に知的障害や精神疾患などを抱えた人や、正規の美術教育を受けていない市井の人々が生み出す美術作品をさす。日本では1993年に世田谷美術館で開催された「パラレル・ヴィジョン – 20世紀美術とアウトサイダー・アート」で広く知られるようになった。ちなみに私はこの展覧会を見ており、衝撃を受けてぶ厚いカタログまで買って帰った。今では現代美術のアイドルと化した草間彌生を初めて見たのもこの展覧会である。草間は当時はまったく無名だった。この展覧会には、ジュネーヴの霊媒エレーヌ・スミスが描いた火星の風景や、フランスの郵便夫シュヴァルの理想宮の模型も展示されていた。『夜露死苦現代詩』には、都築が「痴呆系」と呼ぶ認知症患者の吐き出す言葉の洪水や、統合失調症の青年が綴る詩も、現代詩のひとつの姿として収録されている。
 都築の主張は前書きに書かれているが、要約すれば次のようになる。聞いてもちっとも気持ちよくならない現代音楽や、見ても楽しくない現代美術のように、読んでもわからない現代詩が溢れている。そもそも現代詩には読者がいるのかどうかも疑わしい。詩は死んではいない。死んでいるのは現代詩業界だけだ。街に出れば、ストリートという生きた時間が流れる場所で、詩人とは一生呼ばれないであろう人たちが、言葉の直球勝負を挑んで来る。そういうものを拾い上げたい。こういうことだろう。
 街歩きと路上観察を趣味とする私には、『夜露死苦現代詩』は実におもしろい本なのだが、俳句・短歌などの短詩型文学や現代詩にたずさわる人にとっては、考えさせられることの多い本でもある。それは〈詩と詩ではないものの境界線はどこにあるか〉という問題を突きつけられるからである。
 たとえば次のような暴走族の特攻服に刺繍された韻文である。
たとえこの華散ろうとも
一生一度の青春を
地獄で咲かせて天で散る
自分で選んだ道だから
命尽きても悔いは無し
我ら華麗な暴走天使
 見事な七五調で、最後だけ七七になっている。都築によれば暴走族のあいだでも他人の文章をパクるのはタブーなのだそうだ。だからこれは高校中退した左官見習いの青年が、ない脳みそを絞ってひねり出した韻文なのである。表現の稚拙さや陳腐さをあげつらうのはたやすいが、それが逆に、日本語が内蔵している最大公約数的コトバの貯金をあぶり出してくれる。
 あるいは駄菓子屋で売られている点取占いのくじに書かれた文章だ。
鉛筆で書くのはきらいだがけづるのはすきだ
おいもを食べすぎてお尻がやかましい
犬の背中にのってはしりたい
雨の降る日は天気が悪いとは知らなかった
 こういったくじの文句と谷川俊太郎の詩を区別するのは難しい。ひとつひとつ別のくじの文句だが、こうして並べると全体が一編の詩のようにも見えてくる。並べ替えればまた別の詩が出来るのは、偶然性の音楽のようだ。
 あるいは統合失調症の青年が書き殴った詩である。
小さく小さく小さく微生物のように
いつも動いている微生物どうしが
乱動を起す
小さな凶器が血を流す
ガラスビンの中は赤くおごれている
ガラスが波乱する
化学者は白い服を赤い血で
そまっている (後略)
 こうなるともうはっきり現代詩だ。違いはただ、これらのコトバたちは譫妄状態で機関銃のように吐き出されたもので、世間に発表することをまったく考えずに生まれたコトバたちであり、現在、中年になり症状も穏やかになった本人が、あれはすべて病気が書かせたもので、今の自分には関係ありませんと、著者性すら否定しているという点である。つまりこれらのコトバたちが生まれた位相は「詠み人知らず」ではなく「詠み人おらず」で、作者主体を喪失したコトバなのだ。作者は不在で、コトバだけが時空間を永遠に漂い続ける。この浮遊感覚は独特のものだ。
 『夜露死苦現代詩』のなかでとりわけ感銘深いのは、死刑囚の俳句と、自死者の残した遺書だろう。本書には『異空間の俳句たち』(海曜社発行、雄山閣発売、1992)に収録された俳句が紹介されているが、これ以外にも佐藤友之『死刑囚のうた』(現代書館、1996)という短歌を収録した本も刊行されている(ただしいずれも絶版で古書でも入手は困難)。
綱よごすまじく首拭く寒の水  和之
叫びたし寒満月の割れるほど  西武雄
秋天に母を殺せし手を透かす  祥月
 句が作られて状況を思えば沈黙するしかない俳句だが、これよりさらに衝撃的なのは「池袋母子餓死日記」という章で語られている事件である。1996年4月27日、池袋の古びた木賃アパートの一室で77歳の母と41歳の息子が餓死しているのが発見された。息子には障害があり、一家の収入はわずかな老齢年金だけだったという。少ない収入の中から電気代や家賃は律儀に払い、生活保護を受けるのは申し訳ないと餓死したらしい。死後、ノートにびっしりと書かれた老母の日記が発見された。
 今日までで、私共の食事は、終りと思っていたところ、子供が、明日から、お茶丈では苦しいからとて、毎日うすいせんべいを、三枚食べているのに、一枚明日のに残すと言って食べないで、残したが、私は、毎日、一枚のせんべい丈を、朝と、後からとの二回にわけて食べているので、明日に残すものがない、子供は、毎日、ひもじいのを、じっと、ガマンして、不足も言わないし、気げんも悪くしてないので、大変、助かるが、今後の事が、不安である。(後略)
 読点が異常に多く切れ目がなくて、ひとつの思考が次の思考を呼び寄せるように、うねるように続いていく特異な文体である。読んでいるとふと異空間に彷徨い出すような感覚すら覚える。日本語散文の頂点のひとつが「三日とろろおいしゅうございました」で始まるマラソンランナー円谷幸吉の遺書であることに同意する人は多い。池袋餓死老母の遺書にも形容し難いライブ感と、手に掴めるほどの言葉の生々しさが漂っていて、言語の極北を見る思いがする。試しに政治家や官僚の内容空疎な言葉と比べてみるがよい。
 『夜露死苦現代詩』を通読すると「人はなぜ表現するのか」という根源的な問いかけが立ち上がる。私もどうしても答を知りたいと願っている問である。
 独房で俳句を作る死刑囚は、作品を後世に残したいと願って作句したのではあるまい。極限状態に置かれた境涯がおのずと言葉へと向かわせたのである。池袋の老婆も誰かに読まれることを期待して日記を綴ったわけではない。吐き出さねばすまない表現衝動に追い立てられるように鉛筆を握ったのだろう。「窓緑なかのあたしは赤裸」「音の出る坂へバスで行きたいんですが」「おまえのおれをかえせ」など、意味不明の言葉を機関銃のように吐き出す痴呆老人に至っては、もはや通常に意味における表現という領域を超えている。
 極限状態においても人は言葉を発する。それが他者へと向けられた意味ある言葉でも、他者へと向けられず虚空に吸い込まれる意味のない言葉でも、人は言葉を発する。人類は言語を獲得して初めてホモ・サピエンスになったと考える人類学者もいる。もしそれが正しければ、人の属性の最も根源的な階層に言葉は埋め込まれていることになる。こう考えれば、極限的状況において人が言葉を発することに不思議はない。そして極限状況で発せられた言葉が私たちの心に届くことにも何ら不思議はない。
 『夜露死苦現代詩』を読んでいると、このように思われてくるのである。

第117回 佐藤弓生『うたう百物語』

一本の避雷針が立ちじりじりと夕焼の街は意志もちはじむ
                   浜田到『架橋』
 今回話題にするのは佐藤弓生『うたう百物語』(メディアファクトリー、2012)である。あとがきによると、怪談専門誌『幽』に連載した文章をまとめたものだという。世に怪談専門誌などというものがあることにまず驚くが、お寺の住職を読者とする『寺門興隆』とか、養護教諭向けの『保健室』などという雑誌まであるのだから、怪談専門誌があってもおかしくはない。日本は世界に冠たる雑誌王国なのだ。ちなみに本書の帯文は道尾秀介と穂村弘。表紙装画は黒田潔。いつもの線描イラストではなく、黒の背景に花と昆虫を配した耽美的な絵である。装丁は名久井直子。錦見映理子の歌集『ガーデニア・ガーデン』の装丁を手がけた人で、今注目の装丁家である。
 『うたう百物語』の構成は、一回分が見開き2頁弱の掌編に短歌を一首添えるという形式になっている。題名の「百物語」は伝統的な怪談話の形式で、起源は不明ながら室町時代に遡るともいう。和室に百本の蝋燭を灯し、その場に集まった人が一人怪談話をするたびに蝋燭を一本消してゆく。百本の蝋燭を消したとき、本当の妖怪が出現すると言われている。時には99本の蝋燭を消した段階で話を止めて、朝を待つこともあるとされている。おもしろいことに『うたう百物語』も99話までは掌編と短歌の組み合わせだが、百話目は読者を怪談話会に誘う内容の掌編のみで、短歌は添えられていない。これは本書に佐藤が施した楽しい仕掛けで、百話目の歌は読者自身が詠ってくださいということである。
 注目したいのは掌編と添えられた短歌の関係性である。あとがきによれば、佐藤は連載を始めるに当たって、最初は怪しい短歌を選び、その中にある物語を読み解いてゆくつもりだったという。ところが物語は中ではなく外からやって来た。短歌の前に立ったとき、背後から別の物語が聞こえて来たという。つまり短歌と掌編とは独立したものであり、その間に交感し照応する関係があるということだろう。
 しかし「怪しい短歌」とは何だろうか。佐藤が選んだのは次のような歌である。
きりわけしマンゴー皿にひしめきてわが体内に現れし手よ  江戸雪
鉄門の槍の穂過ぎて春の画の少女ら常春藤きづたの門より入れり
                             山尾悠子
包丁に獣脂の曇り しなかつた事を咎めに隣人が来る  魚村晋太郎
鈍色の客車ひとつら黄昏を地下隧道に入りて出で来ず  山田消児
夕ぐれといふはあたかもおびただしき帽子空中を漂ふごとし  玉城徹
 確かに何やら不穏な気配の漂う歌ではある。江戸の歌の「わが体内に現れし手」は何かの比喩だと思われるが、字義通りに取るとシュールである。山尾の歌にも不思議な感じが満ちている。魚村の歌に登場する包丁はいったい何を切ったのだろう。玉城の歌も比喩なのだが、歌に置かれると比喩が実体的な視覚性を帯び、あたかもルネ・マグリットの絵を見ているような印象を与える。余談ながら山尾悠子の歌が引かれているのが嬉しい。佐藤自身もSFを書いているので、違う畑の人ではないのだ。
 ではこのような歌に佐藤が添えた掌編はどのようなものか。たとえば江戸の歌に寄り添う掌編は、お腹に胎児を宿した女性が数時間前に男から聞かされた偽りの言葉を反芻し、「どんな言葉も、自ら死ぬことはできない。異常細胞と同じだ。言葉は分裂と増殖を始めてしまった」と感じる。そして「傍らで眠るこの人の、偽りを話す口を、塞いでしまわくては」と締めくくられている。「わが体内に現れし手」を文字通り胎児の手に見立てて紡がれた幻想である。
 佐藤の紡ぎ出す掌編は、時に短歌に付き、時に短歌から離れた詩空間に飛翔して、読者を幻想の糸に搦め取る。できれば夏の夜か秋の夜長に、芳醇な香りのウィスキーをちびちびと舐めながら、ひと晩に一編を読むとよかろう。ふだん目にする機会の少ない夢野久作や中島敦の短歌に触れることができるのも楽しい。
 ちなみにいろいろな短詩型文学に触れることができるという点でお勧めなのは、斎藤慎爾編の三部作『短歌殺人事件』『俳句殺人事件』『現代詩殺人事件』(光文社文庫)である。それぞれ短歌・俳句・現代詩を素材に用いた推理小説を集めたアンソロジーで、『短歌殺人事件』『俳句殺人事件』では、頁の欄外に現代を代表する短歌と俳句が添えられていて、一粒で二度美味しい。『現代詩殺人事件』には佐藤弓生の「銀河四重奏のための6つのバガテル」という短編が収録されている。
 最後に集中で私が最も好んだ掌編を紹介しておこう。語り手はタクシーの運転手。深夜に大きな花束を抱えた一人の客を乗せる。客は隣の県の半島の南端まで行ってくれという。走り出すと、客は一人のはずが、後部座席にはいつのまにかもう一人いて、二人の輪郭は怪しく溶け合い、植物の芳香と動物の体臭が強く匂う。やがて夜明けとなり目的地が近くなったときに、「海岸まで降りますか」と問いかけると客は次のように答えた。「ここで、いいです。ここがいい。もう急ぐことはありません。分かれたあとは僕たち、とてもお腹がすくんです。」(原文では「分かれた」に傍点)
タクシーの後部座席が祭域となる 沈黙のぼくらを乗せて  黒瀬珂瀾

第116回 菊池孝彦『まなざさる』『彼の麦束』

雨が降り出す前の暗さに蛍光灯は二、三度力を込めて点きたり
                  菊池孝彦『まなざさる』
 思わず「あるある」と膝を叩きたくなる歌である。おそらく夕方であろう。ふだんならまだ火点し頃ではないが、空は雨を含んでいつもより暗い。蛍光灯はそろそろ寿命らしく、グロー球の一度の放電で点灯しない。2・3度放電してようやく灯る。「力を込めて」はグロー球自身が力んでいるようにも見え、またそれを見ている知覚主体としての〈私〉が思わず力んだようにも取れる。対象と〈私〉とのこの一瞬の交叉がこの歌の眼目であり、作者の注意はそこに注がれている。
 菊池孝彦は2010年に満を持して第一歌集『声霜』を刊行した。その出版記念パーティーの席で、第二歌集と第三歌集を同時刊行すると宣言し出席者を驚かせたという。第二歌集『まなざさる』は自由律・新仮名、第三歌集『彼の麦束』は文語定型・旧仮名の歌集になっている。題名の『まなざさる』は「まなざし」の動詞形「まなざす」の受動態だという。栞文を三井ゆきが書いている。『彼の麦束』の方はヴィクトル・ユゴーの詩「彼の麦束は欲深くもなく、恨み深くもなかった」に由来する。
 栞文を読んで作者と「短歌人」の先輩である高瀬一誌との交流の深さを改めて知った。作者が栞文を三井ゆきに依頼したのはこのような事情による。三井は『まなざさる』のゲラを読んで幾度も高瀬の作品を想起したという。
 特段理由もないのに読む機会を失している歌人がいて、高瀬は私にとってその代表格である。私は高瀬の作品としては、どこかに引用されていた第一歌集『喝采』の数首以外ほとんど知らないのである。
真昼 紅鮭の一片を腹中にしてしばし人を叱りたり  『喝采』
伯父の墓より伸びる蔓は川崎の女の方にのびたり
わがつぶやきを諳んずる鸚鵡の急死をよろこびとせよ
 自由律ではないものの定型から時に大きく外れるその韻律は、高瀬節とも呼ばれていたらしい。このリズムの反照が菊池の第二歌集にも散見される。
まあまあととりなしていたはずがみずから怒れる人となりたり
アマデウスは地を踏まず翔けゆきしがからから笑う声のみのこす
帰らんとする者さまよいはじめる者ありて今が夕暮れ時ぞ
   完全な自由律ではなく、背後に微妙に定型が見え隠れする文体で、その揺らぎの部分をを味わえるかどうかで評価が異なるだろう。全体として抒情よりは理と知とユーモアに傾く内容になっている。こういう自由律は集中の「とどのつまりは行き場を失うことからしか始まらぬ」「この道を行くと決めたからにはこの道を往く さびしくてよし」などのように、ややもすれば人生訓に接近する。下手をすると相田みつをの色紙のようになってしまう。
 この歌集の眼目は次のような歌にあるようだ。
見られているのがわかってから少しずつ見ることがはじまるらしい
人形に見られているにわれはおごそかなるまなざしを返したり
 いずれも「見る / 見られる」の関係性を詠っている。見るのは主体であり、見られるのは客体である。しかし事情はそれほど単純ではない。この歌では見る主体が実は見られている客体でもあるという二重の関係性になっている。「見る」と「見られる」の二重の相互関係から立ち上がるものが歌の主題であろう。
 自由律と定型という形式上の差はあるものの、このことは第三歌集『彼の麦束』にも通底している。今回三井ゆきの栞文を読んで、作者が精神科医であることを知った。そのことによって得心するものがある。
いちにちが終はる夜更けを無意識は侵しゆくなりわれの意識を
防波堤のごとき意識は眠れるに無意識はいよよ脳にむづかる
ゆふぐれにさまよひいづるすべもなき魂と魄とが歌つむぎゆく
木漏れ日のさゐさゐと降る秋の道わが魂と魄ほのわかれゆく
 上の二首は人間を意識と無意識の二元論で捉えたものであり、作者が精神科医であることを思えばなるほどと納得する。二元論は優れてユダヤ・キリスト教的思考スタイルであり、日本人が不得手であることにも留意しておこう。情緒纏綿とした世界を描いていた和歌の世界に、明治の近代とともに主客二元論が流入して近代短歌が成立したと言ってもよいが、それはあくまで〈私〉=主体、〈モノ〉=客体という二元論である。菊池は〈私〉=主体をさらに分割して、意識と無意識の二元論を導入している。しかし歌を統べているのは一貫して意識の側なので、異なる意識の審級に異なる位相の言語を配布する加藤治郎などの試行とは一線を画している。
 おもしろいのは上の三首目・四首目で、魂を意味する「魂魄」という漢語が「魂」と「魄」とに分けられている。本来、「魂」も「魄」も魂を表すのだが、「魄」は中身を落とした形・輪郭の意も有する。ならば「魂」は魂を、「魄」はからっぽの肉体を表すことになり、これは心身二元論ということになる。
 第一歌集『声霜』では「物自体」(choses en soi)への菊池の偏執を指摘したが、本書ではその眼差しは主として「われ」に向いているようだ。
われありとおもふたまゆらわれなしといふ確言の空を降りくる
さびしさの出どころあはれ「われ」といふ部分が我のうちにあること
難解歌 おもへば「われ」の難解さいづれといへど知れることなし
ばうと燃えばうと消えゆく流星のしゆんかんは見ゆわれの持続にうちに
他者の死をわれ繰り返す「われの死」といふ他者の死にわれをはるまで
 一首目はもちろんデカルトの「我思うゆえ我あり」(Cogito ergo sum)を踏まえている。この確言はフロイトの無意識の発見によって大きく揺らいだ。「われ」の地滑りが起こったのである。二首目は「我」のうちに「われ」という部分があると捉えており、ここにも自我の捉え難さが見られる。四首目は少し注意が必要だ。ふつう歌の世界では人生が須臾の間に過ぎることを詠うが、この歌では逆に現象の瞬間性と「われ」の持続性が対置されている。私たちは一瞬一瞬を生きるのだが、〈私〉はそれらの瞬間を架橋する持続の中にしか把握されない。一瞬前の〈私〉との同一性が〈私〉を担保するのである。五首目の「他者の死をわれ繰り返す」は、他人の死に多く立ちあうと解釈する。難しいのは後半の「『われの死』といふ他者の死」である。ここでは、私が死んだときにはもう私はいないのだから、それは他者の死であると解しておく。この歌にも主客の入れ替わりが見られるように思う。
 第一歌集『声霜』について「くぐもった声でつぶやくような歌が多い」と書いた。それは第三歌集『彼の麦束』でも変わらない。分別盛りのはずの人生の途上で当惑し、中年の苦みが滲み出るような歌も多い。
傘さして何防備せむぬかるみの一歩だに死へ近づかぬ無し
風やみて風におくれし花びらはなほとどまれりわが中空なかぞら
レコードの溝欠けてをりそこよりは前に進まぬアパッショナータ
ぼた雪の重き舗道を行くときのつま先さむしもの言はねども
床に就きてのちに見む夢そののちに見むあしたあらむ なべて「む」の中
 ところが「帰雁かへるかりをよめる」という詞書のある巻頭の次の歌を読んで驚いた。詩魂高みに飛翔するがごとき絶唱ではないか。
花を地を見捨てて去ぬるかりがねの飛翔うるわし昏るる地平に
わが視野の夕闇いよよ濃きなかを地平にしづむ雁の列見ゆ
こゑとなりしわれやさすらふかりがねの群れ鳴きかはす夢のはたてに
 おそらく菊池は短歌人会の先輩である小池光と同様に、大きな翼を持っていて飛翔することのできる人なのに、翼を閉じて地上をとぼとぼと歩いている歌人なのだ。なぜ地上を歩くかというと、それは陶酔を忌避する知的冷静と、抒情に身を委ねることへの一抹の含羞のためだろう。それもまた歌人の選択である。

第115回 永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

思い出を持たないうさぎにかけてやるトマトジュースをしぶきを立てて
               永井祐『日本の中でたのしく暮らす』
 兎の記憶力がよいのかどうか私は知らない。しかし兎の顔を眺めていると、確かに思い出を持たないようにも思えて来る。「思い出を持たない」とは、永遠の現在を生きるということだ。瞬間を生きて、通過した瞬間は過去へと振り捨てるということである。兎にトマトジュースをかけるという行為に特に象徴的意味はない。白い兎の毛皮に真っ赤なトマトジュースが飛び散る視覚的映像が鮮烈だ。意味の深読みを拒絶する、もしくは深読みできないように歌を作る永井にしては、いろいろな意味を読み込める歌である。曰く、瞬間を生きる兎はバブル崩壊後の失われた20年を生きる低成長・省エネ若者の喩である、とか。しかしそれは永井の本意ではあるまい。ここではちゃんと修辞が用いられ、短歌として立派に成立しており、詩的世界の構築に成功していることだけを指摘しておこう。
 永井は1981年生まれだから、10歳でバブル経済が崩壊した1991年を迎え、2000年前後から作歌を始めている。まさにゼロ年代歌人である。学生短歌会の名門ワセタンこと早稲田短歌会の出身。2002年に北溟短歌賞の次席に選ばれている。正賞は今橋愛、もう一人の次席は石川美南。2005年の第3回歌葉新人賞では最終候補に残る。この年の受賞者は「卓球短歌カットマン」のしんくわ。『日本の中でたのしく暮らす』は永井の第一歌集で、Book Parkから歌葉叢書として刊行されている。北溟短歌賞の審査員は穂村弘と水原紫苑で、歌葉新人賞の審査員は加藤治郎・穂村弘・荻原裕幸だから、永井は一世代上のニューウエーヴ短歌世代に選ばれ見いだされた歌人と言える。しかしその歌風はニューウエーヴ短歌とは似ても似つかぬもので、そこに永井の独自性を見る。
 2000年の短歌研究社「うたう作品賞」以後、ゼロ年代の短歌シーンは、「棒立ちのポエジー」「修辞の武装解除」「一周回った修辞のリアリティー」という穂村の巧みな言い回しを一つの参照点として議論されることが多くなった。棒立ち短歌の代表格として永井の次のような歌が引かれることが多い。
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな
わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる
 おおむね否定的な文脈で議論の対象になるのだが、方向性は大きく分けて2種類見られる。一つは作歌技法という観点から修辞の不在、もしくは稚拙さを批判する意見である。もう一つは低体温で内向きの世界観を批判する論調だ。どちらにせよ上の世代からは「トホホな歌」(島田修三)、「ゆるい歌」の代表格として否定的に見られがちな永井の短歌であるが、「レ・パピエ・シアン II」の2012年9月号が組んだ特集「若手歌人を読む」で大辻隆弘が永井を高く評価する論陣を張っていて注目される。
 大辻が評価する点は二つある。一つは永井の口語の選択である。あるシンボジウムで永井は自分が完全口語を用いて歌を作る理由を明快に説明したという。曰く、自分は口語・文語・外来語といった様々な言語をツールとして自由に選び取るという言語観を否定する。自分にとって言語とは自己の存在を規定している身体の延長であり、口語は「自分の生まれた国」であるという。また永井の作歌の原点には、ニューウエーヴ短歌の不自然な口語と文語の混在があるとも述べている。つまり永井の短歌のフラットともとれる口語表現は意識的に選択されたものなのである。
 大辻が永井を評価するもう一つのポイントは、助詞の「てにをは」を駆使する「てにをは派」だという側面である。大辻は「たよりになんかならないけれど君のためのお菓子を紙袋のままわたす」という歌を取り上げ、「君のために」ではなく「君のための」とするところに修辞を見て、それが微妙な解釈の揺らぎを生み出していると評価する。
 大辻のこのような指摘には頷くところもあるのだが、いささか「てにをは」に拘りすぎて、贔屓の引き倒しの観もなくはない。しかし永井の短歌は「修辞の武装解除」などではなく、短歌的修辞が用いられているという見方には同意したい。ではそれはどのような修辞なのだろうか。そしてなぜ上の世代から「ゆるい歌」と見られてしまうのだろうか。
終電を降りてきれいな思い出を抜けて気付けばああ積もりそう
日曜の夕方吉祥寺でおりてそこにいるたくさんの若い人たち
コーヒーショップの2階はひろく真っ暗な窓の向こうに駅の光
 品詞を体言と用言に分けると、永井の短歌には用言が多い。たとえば一首目には「降りる」「抜ける」「気付く」「積もる」と動詞が4つもある。また用言の連接も独特である。「降りて」「抜けて」や「ひろく」のように、テ形や連用形で次と繋いでいる。この語法から二つのことが帰結する。まず動詞は基本的に動作・行為を表し、時間的展開をその意味の中核とする。「降りて」「抜けて」「気付けば」の連続で時間が推移している。つまりここで表現されているのは「流れる時間の中を生きている〈私〉」であり、それは日々を暮らす私たちの基本的経験である。一般に動詞が多い短歌は批判される。動詞に内在する時間性が叙景を一幅の絵のように定着することを阻害するからである。永井が嫌うのは、まさにこの「一幅の絵のように定着する」無時間性の不自然さなのではなかろうか。そこに揺曳する「きめポーズ」、TV番組の表現を借りれば「ドヤ顔」を嫌っているのではないだろうか。ゼロ年代歌人の等身大の「リアル」感と相容れないのであろう。
 同じことは三首目にも言える。「コーヒーショップ」で始まり、私たちの視線は2階へと誘導される。するとそこには広い客席があり、次に窓へと導かれ、窓の外の駅の光へと誘われる。ここには動詞は一つもないが、視線誘導による時間の推移がやはり見られる。読者が感じるのは時間の中の移動の感覚であり、最終的に叙景として定着する風景は存在しない。永井の歌に修辞があるとすれば、それは用言の多用や巧みな視線の誘導によって、時間の中を生きている今の〈私〉を描いていることではないだろうか。
 用言の連接から帰結するもう一つの点は、知的再構築による因果の否定である。たとえば上に引いた一首目、「終電を降りて」と「きれいな思い出を抜けて」はテ形で繋がれているが、テ形は隣接関係を表すだけで因果関係を示さない。たとえば「私は朝食を食べて、家を出た」は単に二つの行為を並べただけである。従って次の「気付けば」も単に隣接しているだけである。「気付けば」自体もくせ者だ。「気付けばもう12時になっていた」では、気付いたことと12時であることに何の関係もない。だから次の「ああ積もりそう」は因果の連鎖から遊離した感慨なのである。同じように二首目の「日曜の夕方吉祥寺でおりてそこにいるたくさんの若い人たち」でも、「日曜の夕方吉祥寺でおりて」までとそれ以下との間には、ただ隣り合って存在しているという隣接関係しかない。おまけにここには修辞の捻れまである。「日曜の夕方吉祥寺でおりて」と来れば、次には「○○した」と同一主語の行為が続くのが定石である。ところが実際には「そこにいるたくさんの若い人たち」という連体修飾句付きの体言が控えていてうまく連接しない。この修辞の捻れこそが永井の意図的な工夫なのである。
 なぜこのような作り方をするのか。それは上に述べた一つ目のポイントと同じように、「今を生きる〈私〉のリアル」を表現するためだろう。私たちがAという事象とBという事象に因果関係を認めるのは、コトが済んでから世界を知的に再構築するからである。たとえば、昨日私が寝坊していつも乗る電車に乗り損ね、会社に遅刻したとする。ホームへの階段を駆け上がっているときは、「どうか間に合ってくれ」ということしか考えていない。私たちの頭の中は、その時その時の時点で切実なことで一杯に占められているのがふつうだ。「寝坊したので遅刻した」という因果関係を考えるのは、後ほど時間の余裕ができて、世界のあり方を知的に再構築したときである。しかしそうやって再構築された世界は知的処理を経たものであり、その時点で私が生きていた世界ではない。このようなことではなかろうか。
 永井の歌集を通読していて気付く語法の一つに次のようなものがある。
バスタブに座って九九を覚えてる 遠くにデルタブルースが聞こえる
明け方の布団の中で息を吐く部屋の空気がわずかに動く
電車の音で電話の声が聞こえない 鉄橋の下、マンガをつかむ
 どれも上句と下句が「覚えてる」「聞こえる」のように動詞の終止形で終わっている。ここにも事象の並列があり、因果による世界の構造化は拒否されている。なぜか。事後の知的処理を拒否することによって、まさに私たちが生きる一瞬一瞬の生の有り様である「世界に投げ出された〈私〉」を表現することができるからではないか。そのように思われる。もしこの解釈が正しいとするならば、永井の歌は「棒立ち」などではなく、周到に作り込まれた歌だということになるだろう。
 修辞に関しては、多くの歌に微妙な歪みが施されていることにも注意したい。
春雨は窓を打ちつつこの本に何かがきっと書かれるだろう
まあまあと言い合いながら映画館を出てからしばらくして桜ある
水のりの匂いのようなものがする秋をスーツの人しかいない
 一首目では「春雨は窓を打ちつつ」で断絶があり、この後に続くべき句はどこかへ消えてしまっている。二首目は「桜ある」までは通常の話し言葉のつながり方で、その後が「喫茶店に入る」(字余りだが)ならわかるが、「桜ある」が異常である。三首目の「水のりの匂いのようなものがする」の最後を連体形と取ると、次の「秋を」まではうまくつながるが、その後で断絶している。これもおそらく意図的であり、永井の考えるリアルの一部なのだろう。
 永井の短歌には確かに修辞がある。その修辞のめざしているものが、近代短歌のセオリーとは方向が異なっているというだけだ。それにしてもそんなに有効射程の短いリアルでよいのかという疑問は残るだろう。その疑問に答えることができるのは作者だけしかいるまい。

第114回 江田浩司『まくらことばうた』

こもりぬのそこの心に虹たちてあふれゆきたり夢の青馬
            江田浩司『まくらことばうた』
 「未来」「Es」に拠る気鋭の歌人・江田浩司がおもしろい歌集を出した。『まくらことばうた』(北冬舎)である。すべての歌の初句に枕詞を置き、頭音のいろは順に配列するという技巧的な造りである。たとえば掲出歌では「こもりぬの」(隠り沼の)は「下」にかる枕詞だが、少しずらして「そこ」にかけてある。「こもりぬの」は本来は意味のある言葉だが、ここでは「そこ」を引き出すための装置として使われている。「隠り沼の底のように私の心の奥底には」という意味だから、直喩の構造を持ちながら言語的には直喩ではない連辞となっていて、その微妙な接点に歌に立ち上がる喩の姿がある。
 あとがきには「初句の『枕詞』と、それにより導き出される『被枕詞』に触発されて創作したものである」とある。「被枕詞」とは聞き慣れない造語だが、これについては後に触れる(注)。ぱらばらと見ると「いはばしる」「ちはやぶる」「つきくさの」「ぬばたまの」などよく知られた枕詞もあるが、見慣れないものも少なくない。
をぐるまのわが身に響む鳥の声、少女をとめらのこゑ風やいたまむ
くもりびの影にもあらぬわれなればうす墨色の受難を恋へり
ちりひぢの数にもあらぬわが身にて賽の宴の流刑地ならむ
やくしほの辛き思ひに爪を立てうたの在りかとなれる千鳥よ
かやりびの下燃え蜜を垂らす世に骨太の声ひびきわたりぬ
 一首目、「をぐるまの」の「を」は「小」だから「小さな車」つまり「小さな牛車」だろう。はて、これは枕詞か。『全訳古語例解辞典』(小学館)にも片桐洋一『歌枕歌ことば』(笠間書院)にも掲載がない。おそらく江田の創作枕詞なのだろう。「くもりびの」(曇り日の)、「ちりひぢの」(塵泥の)、「やくしほの」(焼く塩の)、「かやりびの」(蚊遣り火の)なども言葉としては存在するが枕詞ではない。とするとこの歌集での「枕詞」とは、狭義の枕詞ではなく、広く歌語・歌枕と解釈すべきなのだろう。
 見ようによっては時代錯誤的な枕詞を配した歌をなぜ平成の世に作るのだろうか。短歌の方法論に自覚的な江田のような歌人が、単なる気まぐれや戯れで作ったとは思えない。以下、私の勝手な想像を交えて考えてみたい。
 明治期に近代短歌が成立したとき、それまでの和歌で多用されていた枕詞・序詞・掛詞などの修辞は古くさく不用なものとして排除された。近代短歌のモットーは「自我の詩」である。詠うべき主題は〈私〉だ。とりわけ写実は言葉とモノとの一対一の対応を前提とすることから、指示物のない枕詞・序詞・掛詞は異物である。以後、短歌を自己の真情を盛る器と見なし、言葉を〈私〉を表現するための道具とする態度が生じた。かくして言語記号は歴史・神話に深源を持つ本来の不透明性を失い、限りなく透明な媒体となった。今日、現代短歌の「棒立ち」化や短歌の言葉のフラット化が指摘されるが、この現状は近代短歌が選択した道の延長線上にあると見なすこともできる。
 さて、江田があとがきで書いた「初句の『枕詞』と、それにより導き出される『被枕詞』」に立ち戻ってみよう。
いはばしの間近き君に深むかも真水に浮かぶ天体の香よ
 「いはばしの」は「間」「近し」「遠し」にかかる枕詞である。したがってこの歌では「間近き」が枕詞によって導き出された「被枕詞」に当たる。枕詞と被枕詞の間には呼応関係があるため、枕詞に続く語の選択は自ずと制限される。歌の作り手はここで語の選択権を言語の側に譲渡する。これは近代短歌の原則に反する行為である。
 また古語辞典を繙くと、「うつせみの人目を繁みいははしの間近き君に恋ひわたるかも」という万葉集の歌が掲載されている。これは「いははしの」の用例であると同時に、江田の短歌の本歌である。つまり江田は枕詞を用いることで語の選択権を言語に譲り渡しただけではなく、大規模な本歌取りをしているのだ。これもまたオリジナルな自我の詩であれとする近代短歌のセオリーに反している。
 なぜそんなことを試みるのか。その意図は本歌集のあとがきに過不足なく述べられている。「古代の、異質な言葉の世界に刺激を受けながら、内省的な言葉との内なる出逢いを即興的に表出し、言葉自体に内在する超越的な力を創造性へと発揮させることを目的としている」とある。つまりは作歌の重心を〈私〉の側から言語の側へと転移させるということだ。いったん〈私〉を括弧に入れて、言葉が言葉を導き出し、言葉が別の言葉と呼応する膨大な関係性の網の目の律動に身を委ねるのである。
 この態度から二つのことが帰結する。ひとつは和歌の修辞が立脚していた「美の共同体」と歴史性への意識であり、もうひとつは枕詞の少なからずが地名に由来することから来る「地霊」(genius loci) の復権である。旧来の「美の共同体」はとうに崩壊しているから、江田は自力で新たな共同体をめざすのだろう。地霊については江田もあとがきで触れており、東日本大震災後に本歌集を上梓する意味のひとつとして意識している。
 おそらく江田には現代の歌語が痩せ細ってしまったという認識がある。枕詞を通じて言語の自立的な律動と呪的強度を賦活することで、新たな詩語を志向しているのだろう。次の歌はその述志とも読める。
ちはやぶる神にしあれば言の葉は明るき闇を秘めにけるかも
 神=logosに秘められた明るい闇とは、言葉に定着され陳腐化する以前の豊饒な意味の世界をさすのだろう。実際に本書を読んでいると、密教の声明か延々と続く念仏を聴いているときのように、母音と子音に分解された音のうねりに呑み込まれそうになり、ふと吾に返る瞬間がある。興味深い経験である。本歌集が現代短歌シーンでどのように受け止められるか見守りたい。

(注)「被枕詞」は万葉学者の古橋信孝氏が使った用語だとのご指摘をいただいたので、訂正したい。

第113回 高木佳子『青雨記』

刈られたる草の全きたふれふし辺りの空気あをみ帯びたり
                 高木佳子『青雨記』
 高木佳子たかぎ よしこは1972生まれで「潮音」に所属。2005年に「片翅の蝶」で「短歌現代」新人賞と「潮音」新人賞を受賞。この一連を収めた第一歌集『片翅の蝶』(2007年)で日本歌人クラブ新人賞を受賞している。『青雨記』(2013年)はそれ以後の作を収録した第二歌集である。
 確か小池光だったと思うが、次のようなことをどこかに書いていた。歌人にとって大事なのは第二歌集である。第一歌集はそれまでに作り溜めた歌を集めれば出せる。それを青春の記念や一生の思い出として、そこで終わる人も多くいる。ほんとうに歌人として立つのは第二歌集においてである。確かこんな内容だった。
 実は私は『片翅の蝶』も出版された時すぐに読んだのだが、読み進むうちに息苦しくなり、途中で巻を閉じてしまった。歌から滲み出るあまりの閉塞感に圧倒されてしまったのである。
いつよりか無援となりて驟雨にも寄るべき軒を見い出せずゐる
妻として撮らるるときに目をそらすわれの理由を誰か質せよ
父母の血は閉ざさむと若き日に立てし誓いひのかく脆きかな
われに優位を誇示するごとく高らかに笑ひ声あぐる三人子の母
脂臭き歯の向かう側その生を飲みこみて来し父よ語れよ
 『片翅の蝶』の主旋律は出産と子の成長という女性の物語なのだが、妻の座に安住する自分への不安、子を持つことへの畏れ、父との根深い確執など、負の感情が横溢する歌集だった。確かに歌集後半まで読み進めば、「をのこ児の髪はいつでもみじかくて深まりてゆく櫛のあめいろ」のように、心穏やかに子供の成長を見つめる歌もあって、閉塞から解放へ、闇から光へという構成の歌集であることが知れる。私は途中で挫けてしまったわけだ。ただそのことを差し引いても、『片翅の蝶』収録の歌には叙景が少なく、主情に大きく傾いた歌集だという印象が強い。反アララギ、反写実の立場を貫いた太田水穂の「潮音」の影響もそこには働いているかもしれない。
 ところが『青雨記』を一読して驚いた。作風ががらりと変わっているのである。
てのひらに蟻歩ましめてのひらに限りのあれば戻りきたりぬ
いちまいの花びら咬みて小鳥遊びそのはらびらのあまたなる傷
つよき陽射しうけとめかねて夾竹桃に寄れば夾竹桃にならむよ
いつくしく薄暮となりて青鷺はとけゆくごとく片脚に立つ
金木犀および少女ら香りけふの日をうしなひながら生きつつあらむ
 『片翅の蝶』の至る所に顔を覗かせていた「悩める〈私〉」はすっかり影を潜めて、対象に寄り添う視線が勝る歌になっている。歌は景物(=対象)とそれを見る〈私〉(=主体)との出会いを契機として生まれるものであるが、その際に対象の側に比重を置くか、それとも主体の側に比重を置くかで歌の性格が大きく異なる。対象に比重を置いた歌がいわゆる客観写生であるが、100%対象側ということは理論上あり得ない。なぜなら対象を認識するには主体の能動的活動が必要で、対象描写には必然的に主体の把握が混じるからである。逆に主体に比重を置いた歌はロマン的かつ抒情的性格を色濃くすることになり、その中には幻想的世界を描くものもあるだろう。『片翅の蝶』には主体に比重が置かれた歌が多く見られたが、『青雨記』では振り子が反対側に振れるように主体を離れた歌が中心となっている。
 では高木は対象に即した写実に転向したのかといえば、ことはそれほどかんたんではない。上に引いた一首目を見てみよう。自宅の庭か公園で、戯れに蟻を手の平に乗せている情景が描かれている。手の平は狭いため、端まで行った蟻がまた戻る。それだけを詠んだ歌である。これは客観写生だろうか。そうではあるまい。「てのひらに限りのあれば」は主体側の認識である。では子規の「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」はどうか。「藤の花ぶさみじかければ」も同様に主体側の認識だから同断ではないか。子規の歌の核は対象認識にあり、歌意は対象の認識と認識した主体という契機に回収されるが、高木の歌ではそこに回収されない何かが残る。それは「てのひら」の反復によって生じる非現実感である。リフレインは童謡でよく用いられる手法で、現実を虚構の世界へと転轍する作用がある。対句的定型が反復されることによって、その話は現実のことではなく昔々ある所で起きたとさ、へと変換されて時空を超える。よく見ると上に引いた二首目にも「はなびら」の反復がある。
 おまけに一首目は蟻、二首目は小鳥が嘴で花びらに付けた傷という、超微細世界である。これが高じると「つばさより鱗粉こぼれ紋白の揚がりゆくなり幾らかかろく」となって、こぼれた鱗粉の分だけ体重が軽くなっただろうというマイクログラムの世界になる。ここまで行くともはや幻視の世界である。そう考えれば「潮音」には葛原妙子がいたことが思い出されないだろうか。高木は第一歌集『片翅の蝶』の主情的歌風を脱して客観写生へと向かったのではなく、対象と主体の二項対立という図式を超える幻視の領域へと踏み出したのだろう。そう考えれば次のような歌も了解できるのである。
透きとほるそれら雨滴のふくらみてあをく動きつ傘の傾きに
しづみゆく糖の崩れを見送りぬアールグレイのその深さまで
skypeにみづうみの映ゆすぎゆきに潜水士帰らざりしみづうみ
ゆくらかに点灯夫来て空の鳥海の魚を灯すゆふぐれ
琥珀石透かすいつときゆふぐれは右の眼にのみ訪れぬ
 四首目の点灯夫の歌や五首目の琥珀石の歌はうっとりするほど美しい。高木は第二歌集に至って独自の歌の世界を確立したと言えるだろう。
 最後になったが高木は福島県いわき市の在住であり、東日本大震災で爆発事故を起こした福島第一原子力発電所による放射能被害を受けた。歌集巻末には原発事故を詠んだ歌が置かれている。
見よ、それが欠伸をすればをののきて逃げまどふのみちひさき吾ら
海嘯ののちの汀は海の香のあたらしくして人のなきがら
繊すぎる雨の降りきてをさなごのやはき身体を汚しゆくなり
 いずれも一読して沈黙するしかない歌である。あとがきに「雨は、青葉を潤すものとしての雨から、汚染される悪しき雨へと変わった」とあり、いまだに除染作業が進まない地元の現状が窺われる。この苛酷な体験が高木の短歌をどのように変えるかは今後を見守るしかあるまい。

第112回 川本千栄『深層との対話』

  2013年の第一回目は新年らしくめでたい雰囲気の明るい歌集を取り上げようかと考えたのだが、考えてみると近頃あまりめでたく明るい歌集が見あたらない。短歌が本来持っていたはずの呪的機能が失われてきたのかとも思う。年末・正月と少し時間の余裕があったので、積ん読状態に陥っていた川本千栄の評論集『深層との対話』(青磁社 2012)を一気読みした。
 川本は1963年生まれで「塔」所属。『青い猫』(2005)、『ひざかり』(2009)の二冊の歌集があり、2002年に本書にも収録されている「時間を超える視線」で現代短歌評論賞を受賞している。同じ「塔」所属の松村正直らと同人評論誌「ダーツ」を発行していたこともあり、短歌実作だけでなく評論にも力を入れている歌人である。
 川本については忘れがたい記憶がある。2010年11月7日に開かれた青磁社創立10周年記念シンポジウムで、パネリストとして登壇した川本が同じくパネリストの穂村弘に向かって、「現代短歌がこんなにフラット化してつまらなくなったのはあなたのせいではないか」という意味のことを威勢の良い関西弁で述べ立てて穂村を詰問したのである。私は歌人・評論家・文章家としての穂村をそれなりに評価しており、また現代短歌のフラット化がひとり穂村のせいというわけではないと思うが、川本の威勢の良さは印象に残った。
 『深層との対話』は川本が今まで「ダーツ」「歌壇」「短歌往来」などに書いた文章をまとめたもので、第一章「短歌にとっての近代とは」と第二章「現代短歌の問題点 – 修辞、〈われ〉、社会詠」からなる。一読して驚くのは、第一章で扱われているのが一貫して短歌と戦争の問題だということである。川本はまず明治時代に「国民」という意識を醸成するために文部省唱歌が作られ、多くの歌人たちが歌詞を書いたことから筆を起こし、先の大戦で戦死した兵士が残した辞世の歌、近代短歌に詠まれたサクラの考察、歌人の戦地体験、前田透・渡辺直己ら戦争を詠んだ歌人などを次々に論じている。
 とりわけ興味深く読んだのは「前田透 その追憶と贖罪の日々」という文章である。前田は東北大学在学中に召集され、オランダ領チモール島に経理担当将校として赴任した。そこでは大きな戦闘はなく、前田の任務が現地人の宣撫工作であったため、土地の人と親しく交わることとなったという。第一歌集『漂流の季節』には次のような歌がある。
少年はあをきサロンをたくしあげかち渡り行く日向の河を
ジャスミンの花の小枝をささげ来てジュオン稚くわれを慕へり
 ジュオンとは特に前田が寵愛した現地の少年の名で、いずれも熱帯地方の色彩豊かな風景とけだるい雰囲気が横溢する歌である。ただし、前田がこれらの歌を作ったのは現地で敗戦を迎え日本に復員して数年後なので、歌の中のチモールは追憶で美化されたチモールである。前田らの宣撫工作が実を結び、チモール人たちは日本軍に加担したが、やがて日本の敗戦とともに現地の王は敵軍協力の咎で捕縛され、前田が愛した人たちも行方不明になった。前田は昭和48年にチモール再訪を果たし、捕縛された王の後継者ガスパルの口から「日本軍に対して怒らない」という言葉を聞いて、積年の胸のつかえが取れたという。いずれも知らないことばかりで興味深く読んだ。
 川本は歌人にまつわるこのようなドラマを、資料を渉猟し丹念に読み解くことで浮かび上がらせるのだが、川本が一貫して採る態度は、このようにして明らかにした史実を短歌の読みと結びつけるということである。つまり史実自体を明るみに出すことが目的ではなく、ましてや過去の歌人の戦争責任を云々するためでもなく、残された短歌の読みをいっそう豊かにし、意味の陰翳を付与することによって、歌の背後にまで至ろうとしているのである。
 このような川本の姿勢は第二章「現代短歌の問題点 – 修辞、〈われ〉、社会詠」でも基本的には変わらない。第二章では、流行歌の歌詞と短歌の関係、加藤治郎のオノマトペ、仙波龍英、渡辺松男、河野裕子、社会詠などが論じられている。なかでは健康的な身体性の観点から取り上げられることの多い河野裕子の歌に、実は死や暗さを志向するものが多いことを明らかにした章や、ライトヴァースとひとくくりにされることのある仙波龍英の歌には重い主題が隠されていることを論じた章には、意味の表層に満足せず深層まで測鉛を降ろそうとする川本の態度がよく表れていると言えよう。
 それにしてもなぜなのだろうと思うことがある。同じ「塔」に所属する松村正直の評論集『短歌は記憶する』(六花書林 2010年)も「戦争の記憶をめぐって」という章を設けて、短歌と戦争の関わりを論じている。完全な戦後世代で戦争の記憶などない川本と松村が、そろって短歌と先の大戦を中心的なテーマとするのはどうしてだろうか。
 それはおそらく川本も松村も近代短歌を自己の創作基盤として選んだからではないだろうか。現代短歌ではなく近代短歌をである。この点が2001年の『短歌研究』創刊800号記念「うたう作品賞」や『短歌ヴァーサス』を舞台として登場した現代短歌の歌人たちとの分水嶺なのだ。後者の歌人たちは歴史意識を持たない。必然的に「時間を超える視線」もない。「今」があるだけだ。一方、近代短歌を出発点とした川本や松村は、その選択の結果として時間を遡行する視点を内在化せざるをえない。時間を遡行するとは歴史意識を持つことと同義であり、その先には先の大戦が控えているのである。
 『深層との対話』をこのような文脈に置いてもう一度眺めてみると、新しい光が当たるように思う。

第111回 野口あや子『夏にふれる』

フローリングに寝転べばいつもごりごりと私は骨を焦がして生きる
                  野口あや子『夏にふれる』
 『くびすじの欠片』(2009年)に続く野口の第二歌集である。まず驚くのはその分厚さで、まるで小説の単行本のような造本になっている。収録歌数も多い。花山周子の『屋上の人屋上の鳥』が出版されたとき、収録歌数860首は茂吉以来と評判になった。『夏にふれる』の収録歌数は記載されていないが、歌のあるページが315ページあり、1ページに3首配されているので、表題のページや白紙を除いても、800首を超えるだろう。あとがきに「もともと多作で」、「自らの詩歌とのじゃれあいを、卑俗や下等なものとして切り捨てることなどわたしにはとうていできなかった」とある。要するに作った歌をほぼ全部収めたということで、「選ぶ」つまり「捨てる」作業を通じて自分の作品世界を純化するという発想は野口にはないのだろう。このあたりに野口の歌人としてのスタンスが露呈しているようだ。 本書には野口が愛知淑徳大学の文化創造学部に在籍していたほぼ4年間に作られた歌が収録されている。あとがきは愛知淑徳大学教授・小説家の諏訪哲史が書いている。ちなみにこの大学の学長は島田修三である。野口の歌では「シマシュー」とルビを振られて登場している。野口は学長みずから担当する短歌ゼミには入らず、諏訪の小説ゼミに所属したという。一筋縄ではいかないということか。
 野口の短歌をひと言で特徴づけるとすれば、キーワードは「危うさ」だろう。今にもどこかが壊れそうな危うさ、限界を超えてしまいそうな危うさである。たとえば掲出歌を見てみよう。「骨を焦がして生きる」に驚く。骨は身体の最も深部にある構造体である。骨を焦がすというと、その前に肉も焦げていることになる。用心深い人、小心な人、穏やかな暮らしをモットーとする人は、とてもそんなことはできない。感情の強度と激しさを求める人だけが踏み込む道である。
血のにおい忘れ去られてメンタムが行ったり来たりたてじわの口唇くち
林檎嬢がヒールでガラスを割るのなら頭突きで割りたいわたくしである
くろぶちのめがねおとこともてあそぶテニスボールのけばけばの昼
ゆうぐれの淡さに腋にあく汗のわかいおんなは息苦しいね
もっともっともっと痩せなきゃいけなくてあばらぼねからずたずたになる
差し入れて抜いて気がつく鍵穴としていたものが傷だったことを
 一首目、日常的に解釈すれば「血」は唇が荒れて切れたため出たものだろうが、それだけではない何か不穏な響きがある。それと同時にほのかにエロチックな感じがただよっている。二首目、「林檎嬢」は歌手の椎名林檎。「本能」というタイトルの歌のミュージックビデオで、看護師の扮装をして大きな板硝子をハイヒールで蹴破るという印象的なシーンがあった。自分ならば頭突きで割るというところに捨て身の激しさがある。三首目、「くろぶちのめがねおとこ」が誰なのかは不明だが、全体に漂う雰囲気は「不穏」である。四首目は説明の必要がないほど歌意は明白で、「生きづらさ」が野口の短歌の大きなテーマであることが知れる。その背景には、不登校、拒食症、リストカットなどがあるようで、五首目はそれを端的に示している。六首目にも野口の世界に対する立ち位置がよく表われている。『くびすじの欠片』を取り上げたときに、「野口は世界の歪ませ方がうまい」と書いたが、今から思えばそれは正確ではなく、野口は世界に自分の主観をあられもなく投影するために、このように見えてしまうと言った方がよいかもしれない。「鍵穴」が「傷」だというのは短歌レトリックとしての見立てなどというものではなく、感情が外に流露したものであり、これはこれでリアリズムなのだ。
定型を上と下から削りましょう最後に残る一文字ワタクシのため
わたくしをなみなみ注ぎ容れたいと思っては鋭角曲がりきれずに
定型から零れてしまうわたくしもそのままとして、夏のなみだは
 この二首は野口の作歌姿勢を詠んだ歌と思われる。定型を削りに削って最後に残るのが〈私〉であるというのは近代短歌が歴史的に選択した道の終着点ではあるのだが、その強度と徹底ぶりは歌人によって千差万別である。二首目にあるように、野口は短歌に〈私〉をなみなみ注ぎ容れたいと考えているのだから、野口は現代短歌の〈私〉派の最右翼ということになるだろう。
とっぷりと湯船に浸かって髪を解くひろがることはいつでもこわい
他意はなくひらきっぱなしの自我をまた恥じつつ続けるほかなき自我か
 問題はその〈私〉のあり方である。誰だって自分に〈私〉があるとふつう考える。しかし〈私〉とは、〈私〉においてのみ把握されるものではなく、他者との関係性において規定されるものでもある。絶海の孤島で一人で暮らしていたら、おそらく〈私〉という概念は限りなく希薄になり、ついには雲散霧消してしまうだろう。なぜなら私は〈あなた〉や〈彼〉との関係と軋轢という局面においてのみ、意識的に浮上するものだからである。
 上の二首を見ると、野口は「ひろがる」ことに畏れをいだいているように見える。「ひろがる」とは〈私〉が他者と触れることである。そこにいやおうなしに摩擦と軋轢が生じる。今、仮に〈私〉を粗っぽく、「独りでいるときの私」(即自的存在)と「誰かといるときの私」(対他的存在)に二分すると、野口の〈私〉は圧倒的に後者だと言えるだろう。だから野口の短歌世界はたやすく「対他的存在の煉獄」の観を呈するのである。
 しかし本歌集の途中から少し印象が変わる。ほぼ編年体で配列されていると思われるのだが、後半の4分の1あたりから文語が増えて、「危うさ」が抑制されている印象の歌が目につくようになる。まだ若い作者なので、これから変わってゆくのかもしれない。
なめらかに生きんと語を継ぐ頁ありさりとて青き付箋を貼るも
1ダースチョコひとつずつ置いていく友のてのひらそれぞれのおん
わたくしは、と言いさすみだりがわしきを頬に揺れたる前髪やわし
古びたる写真は木の葉、笑むままに掃きあつめられふいに拾わるる
いきながらえてあわくあやめる爪なれば小雨のごときしろさを持てり
 野口の開きっぱなしの〈私〉と短歌定型の修辞の要求する抑制とがほどよくバランスをとっていて、しかも口語がよく生かされているは次のような歌ではないだろうか。
死は水が凍るときにもありというわずかに膨張したるましかく
ひかりってつぶやくときのひかりとはそのときどきにわずかにちがう
ひらひらとライターの火はひかりつつ他意があろうとなかろうとあお
見なくてもいいと子の目を塞ぐため持たされたのかこのてのひらは
腋かすか湿りはじめてゆうぐれの商店街のビーチサンダル
 一首目は水の凍結と人の死を重ね合わせた歌だが、結句の「ましかく」がなかなか効いている。二首目の上句は口語ライトヴァースにありがちな語法ではあるものの、微少な差異を詠うのは今までのような感情の強度を求める姿勢とはちがう着眼点を示している。三首目は音がおもしろく、「ひらひら」「火」「ひかり」のhi音、「ひらひら」「ライター」のra音、「他意」「あろうと」「なかろうと」「あお」のa音がリズミカルな世界を作っている。四首目は今現在の自分ではなく、未来に生まれる子を思っている点が新しい。五首目、夏の夕暮れの情景だが、「腋」「商店街」「ビーチサンダル」の組み合わせが、体感的ながら〈私〉のみに収束しない世界を押し上げていて、他者への架橋が感じられる。
 野口はこれからまだ変化してゆくだろう。『夏にふれる』の収録歌は完成した歌ではない。発展途上の歌である。言い換えればまだ伸びしろがあるということでもある。それはある意味でとてもうらやましいことなのだ。

第110回 徳高博子『ローリエの樹下に』

ゆふぐれの庭に佇つ犬尾を振れりわれに見えざるものに向ひて
               徳高博子『ローリエの樹下に』
 著者は1951年生まれで、2000年の短歌研究新人賞に「革命暦」30首で応募して候補作に選ばれる。その後、「中部短歌」に入会して本格的に短歌の道に進む。師春日井建の死とともに「中部短歌」を離れ、現在は「未来」に所属。2001年刊行の『革命暦』に続く第二歌集である。跋文は著者がその選歌欄に拠る黒瀬珂瀾が書いている。
 歌集題名のローリエ(月桂樹)は、現在の住居に引っ越した折に狭庭に植えたものとあとがきにある。だから掲出歌の「ゆふぐれの庭」はローリエの茂る自宅の庭だろう。日常見慣れた光景である。しかし作者の眼差しは犬を通じて日常の風景を突き抜け「見えざるもの」へと向かう。これが作者徳高の身に深く根ざした逃れられぬ資質であり、その資質が歌集全編に色濃く揺曳している。
きまぐれな雲のひとひら日を閉ざし脆きわが界影を失なふ
また鬼になる番が来るたそかれは前を行くひと振り向くなゆめ
けふ君はわれを想はざりしか 肌冷えて 神あらぬ空は錆朱に染まる
あらたなる逢ひをおそれず海境に消えゆく船影見つめてゐたり
花の季は悲傷の形見 地に空に滅びしものの祈りは充ちて
 一首目、日が差すと地上に自分の影ができるが、雲が日光を遮ると自分の影は消える。当たり前のことである。しかし作者は雲に「きまぐれ」を見る。私たちの生は根源的な偶然性に投げ出されているからである。また自分の立ち位置を「脆きわが界」と表現する。偶然性に支配された生は急流を流れる木の葉のようなものだからだ。この歌だけでも、徳高の短歌が写実を踏まえながら、写実を突き抜けた見えない世界を指向していることが知れよう。二首目、夕暮れの町を歩いている光景である。しかし、たそがれは逢魔が刻。振り向いた人は鬼になっているかもしれない。三首目の「神あらぬ」は徳高の歌にしばしば登場する語句である。「神去りし世」と表現されることもある。見えざる手による救済を断ち切られ、実存へと投げ出された私たちの生の有り様を言い表す言葉だろう。美しいはずの夕焼けが滅びを暗示する「錆朱」と表現されている点にも目が行く。四首目、「あらたなる逢ひをおそれず」にはっとさせられる。ふつうは海の旅は新たな出会いに希望を膨らませて出立するものだ。それをこのように表現するというのは、作者が「あらたなる逢ひをおそれて」いることを意味する。その理由はおそらく出会いは別れ・喪失へとつながるからだろう。五首目、咲き誇る桜を見ても、作者の耳には滅びたものたちの祈りが聞こえるのである。
 このような作者の資質はすでに第一歌集『革命暦』に明らかに表れている。
あめつちのあはひは銀に昏みゆき係恋のごと風花の舞ふ
刻刻と死にゆくわれら愉しげに花舗にあふるる花束として
かの岸の空に茜に染まりしかフラミンゴ憩ふこの世の汀
 端正な言葉と語法でまとめられた歌で、第一歌集とは思えないほどの完成度の高さである。短歌研究新人賞に応募したときに、当時審査員だった塚本邦雄が一位に推したというのもうなづける。感情の基調は悲しみにありながら、それを表現する方法と語彙に華麗さがある。塚本ほどには幻視と修辞に傾かず、その一歩手前で留まってはいるが、どこかふと幽体離脱のようにこの世の縁を踏み越えるような眼差しが感じられ、それが歌に奥行きと深みを与えている。
 『ローリエの樹下に』には三つの重い別れが描かれている。母の死、父の死と、師春日井建との永訣である。
逝きてのちはじめて夢に逢ひし母サングラスをかけ微笑みてゐつ
起き伏しに死を語る人の傍にゐてはや死の後の見ゆるが如し
もののふの父逝きたれば斎場にしかばね衛兵として友立てり
ちちははが気となりて棲むこの部屋は吾に遺されし小さき隠れ家
葬送の皐月の空は美貌なり今生後生とほる光に
鉄線のむらさきはつか揺らす風いづこにもいます君と想はめ
 母親はすでに他界しているので、正確に言えば別れの記憶である。父親はかつて戦地に赴き、終戦後は画家として暮らしていたようだ。徳高の歌に物の色がきめ細やかに詠まれているのはそのせいかもしれない。最後の二首は春日井建への挽歌である。鉄線は春日井が好んだ花だという。
 私はかねてより短歌の本質は挽歌によく表れると考えている。それは挽歌には他者への呼びかけがあり、また挽歌の場合、それは失われたものへの呼びかけだからである。「見えないもの」への眼差しを持つ徳高にとって、いわばすべてが挽歌と言ってもよいかもしれないが、特に肉親や師への挽歌に想いが籠もるのは当然である。
悲しみを狩る神ありて黒き九月銀翼ふたつ空に放てり
夏空に光のこゑを放ちつつ亡びつづけよ噴水のみづ
神在らぬ花降る朝かそかなる泉はありて耳そばだてる
群れてゐては生きてはゆけぬ鷺一羽いつしんに佇つ朝の汽水に
 特に印象に残った歌を並べてみたが、こうして見ると同じ基調を持つ歌であることがわかる。〈神〉 〈孤〉 〈悲〉という三つのキーワードで通分できる。〈神〉はキリスト教の神ではなく、〈私〉を超える超越的存在である。悲しみを狩る神、亡び続ける噴水、異界に耳をそばだてる泉、汽水に立つ鷺。作者はこれらを通してこの世に生きるべく定められたわれらの実存を見つめているのである。

第109回 フラワーしげる

南北の極ありて東西の極なき星で煙草吸える少女の腋臭甘く
             フラワーしげる「ビットとデシベル」
 久し振りに驚いて一人書斎で「エエッー!」と声を上げる経験をした。「かばん」の今年の6月号を拾い読みしていたときのことである。
 「かばん三兄弟」という小特集が組まれていた。それによると1999年頃、「かばん」所属の植松大雄、千葉聡、中沢直人の若手三人組は歌会から帰る方角が同じなのでよくいっしょに行動していて、「かばん三兄弟」と呼ばれていたそうだ。現在では、山田航、法橋ひらく、伊波真人の三人が「新かばん三兄弟」だという。そんな思い出を書き綴る千葉の文章を読んでいると、「西崎憲がフラワーしげるを名乗るずっと前」というくだりに出くわした。フラワーしげるって西崎憲のことだったのか! これには驚いた。西崎の小説はずいぶん前に読んだことがあったからである。
 西崎はもともとミュージシャンだが、レコードレーベルの主宰と幻想文学の翻訳家という顔も持っており、2002年に『世界の果ての庭』で第14回日本ファタンジーノベル大賞を受賞している。私は書評に惹かれて買い求めて読んだのである。なかなかよくできたファンタジーだと感じた印象以外の記憶は残っていない。この本は今でも書架のどこか奥の方を探せば見つかるはずだ。
 その西崎が最近また小説を出した。短編集『飛行士と東京の雨の森』(筑摩書房)である。置いているかなと近所の書店に行ったら、文芸の棚に平積みしてあり、書店員の手書きポッブまで添えられていて驚いた。買い求めてすぐに読んだが、なかなかよい。特に本書の3分の1を占める「理想的な月の写真」に感心した。主人公の所にある日、自殺した娘のためにCDを作ってほしいという依頼が来る。参考にしてくれと届けられたのは、子供の頃に住んでいた地方の写真、祖母からもらったリュシアン・ルロン作と思われるドレス、教会のステンドグラスを見上げる娘と覚しき写真、母親の実家にあったステンドグラスの欠片、陶製のインデアン娘の人形、文鳥の羽、オルゴールのシリンダー、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』、盲目の写真家コスタ・バルツァの写真集『理想的な月の写真』というばらばらな遺品と、「娘の日記に世界が怖いと書いてあったので、世界は怖いものではないことを教えてやってほしい」という依頼者の希望であった。主人公はこの10のアイテムをめぐって調査し友人に相談し思案をめぐらせて、最後に首尾良く依頼者の希望に叶うCDの制作に漕ぎ着けるという筋である。
 いつも小糠雨が降っているような静かな小説で、特に次の哲学的なくだりが印象に深く残った。
「確かに真に重要なものには人間は決して手を触れられないだろう。世界はそんなもので溢れている。そんな不可知にものに。けれど、人間はそれらとダンスを踊らなくてはならない。だとしたら、不可知と踊ることを楽しまなければならない。うまく踊れた時、その時に不可知のもうひとつの名前がはっきりするだろう。たぶんそれは普遍という名であるはずだ。」
 さて西崎のもうひとつの顔のフラワーしげるである。フラワーしげるは2007年の第5回歌葉新人賞選考において「惑星そのへん」で候補作品に選ばれ、その後、2009年の短歌研究新人賞で「ビットとデシベル」が候補作に選ばれて衝撃のデビューを果たした。この年の新人賞は「ナガミヒナゲシ」のやすたけまりである。フラワーしげるは新人賞は逃したが、応募作の異様な文体によって注目を浴びることになった。
工場長はきびしい言葉で叱責し ぼくらは静かに未来の文字を運んだ
壁面をなだれおちるつるばらに音はなく英国のレスラー英国の庭にいる
小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく
ただひとりの息子ただひとりの息子をもうけ塩のなかにあるさじの冷たさ
ここが森ならば浮浪者たちはみな妖精なのになぜいとわしげに避けてゆく美しい母子よ
振りかえると紙面のような人たちがとり囲み折れているところ破れているところ
ビットとデシベルぼくたちを明るく照らし薬指に埋め込んで近づいていく
 選考会では加藤治郎が一位に推し、「不条理な現代に生きる人々の静かな反攻と苦い官能がモチーフで、メタファーの深度は群を抜いている」と強力にプッシュしたが、他の委員の議論は次の2点に集中した。昭和初頭と20年代に口語の長い短歌が登場したがそれとどうちがうかという点と、あえて定型を壊すだけの詩的必然性が感じられるかという点である。ラップを思わせるところがあるという選考委員の指摘にたいして、定型を流動化させるところにこの人のモチーフがあると加藤が感想を述べ、五七五七七の句の中にどれだけ情報量を増やすことができるか試みをしているのではないかと穂村は応じている。
 フラワーしげるは翌2010年にも短歌研究新人賞に「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」30首で応募した。
小さく速いものが落ちてきてボールとなり運動場とそのまわりが夏だった
数人の靴ひもをあわせて結んでぼくたちはかれを降ろして世界を救った
ぼくらはシステムの血の子供で誤字だらけの辞令を持って西のグーグルを焼き払った
持つものも持たざるものもやがてやってくる花粉で汚れた草の姫の靴
謁見の時間となるが部屋干しの王の下着まだ乾かず
網から逃げてゆく人間が手にもつビニール袋に見える人間
 選評で注目されるのは、四首目では「やがて」か「やって」のどちらかを取れば定型になるがそうすると失われるものがあり、ここに「やって」を入れるのがこの作者の世界なのだという穂村の指摘である。穂村は続けて、この作者の世界は結局は散文性で、そこに詩的資産が投入されているため、短い小説のように見えてしまうと述べている。穂村らしいなかなか鋭い指摘である。
 同人誌『率』創刊号 (2012年)は、作者自身に自選歌5首の批評を書かせるという試みをしていて、フラワーしげるも自選歌に対してまるで他人のように3人称で批評を書いている。フラワーしげるの自己分析は以下の通りである。現代短歌はリアリズムを選択したときに、ある矛盾を抱え込むことになった。リアルな生活感情を歌に盛り込むためにはリアリティーのある身近な言葉を用いる必要があるが、その反面、記憶を容易にして歌に固有の呪的性格を持たせるためには定型韻律と反復性を守らなくてはならないという矛盾である。それを前提としてフラワーしげるは何を模索しているかと言うと、神話的回帰へと意図的なアプローチをすることで内容面で呪詞的要素の濃い歌を作る一方、韻律面では非定型へとはみ出して記憶に不向きなものにしている。つまり、内容において呪詞に付き、韻律面では呪詞から離れるという、大方の現代短歌とは逆の方向をめざしているというのである。
 フラワーしげるのやたらに長い短歌がひとりでに出来たものではなく、ある意図に基づいて制作されたものであることがこれでわかるだろう。「内容において呪詞に付く」というのは、フラワーしげるが小説家であることから容易に理解が及ぶ。同じ小説家といっても、フラワーしげるは私小説ではなく、『飛行士と東京の雨の森』の粗筋の紹介で触れたように、「世界」「普遍」「不可知とダンスを踊る」というような言葉を使う小説家である。日常の些事ではなく世界観を問題にするのである。一方、「韻律面では呪詞から離れる」動機を本人は詳らかにしていないが、それは内容面の選択の反作用と思われる。短歌に世界観を盛り込むには定型は短すぎ、どうしてもそこに散文性を導入しなくてはならない。勢いフラワーしげるの短歌は穂村が指摘したように、短い小説のように見えてしまうのである。これは昭和初期に登場した長い口語短歌の志向性とはまったく異なる動機に基づくものと言えよう。フラワーしげるが現代短歌シーンにおいて異彩を放つ理由がそこにある。
 ここで掲出歌「南北の極ありて東西の極なき星で煙草吸える少女の腋臭甘く」に戻って見てみよう。韻律的には「南北の / 極ありて東西の / 極なき星で / 煙草吸える / 少女の腋臭甘く」と区切ると、五・十・七・六・十の38音で字余りだが、定型をまったく無視しているわけではなく、定型を意識しつつ少しずつずらしている。だからある韻律意識を持って読むことが可能である。この揺らぎの部分をどう感じるかは人によってちがうだろう。その揺らぎが内容面の散文性を支える方向で働いている歌は、十分に短歌として読めると思う。
 フラワーしげるのこの方向性がどのような地点に行き着くのかは予断を許さない。フラワーはその後短歌研究新人賞などには応募しなくなったようだが、またどこかで近作を読みたいものだ。そう強く思う。