183:2007年1月 第1週 櫟原 聰
または、青空と樹木と水を凝視によって形象化する歌

空の樹の水の祈りを聴きとむる
   かなしみの瞳(め)のしづかなる耳
          櫟原聰『光響』(不識書院)

 歌集題名の「光響」は造語であり辞書にはない。ふつうは「交響」と書き、こちらは「互いに響きあう」を意味し、symphonyの訳語「交響曲」として用いられている。しかしsymphonyを語根に分解すると sym-「同、共」phone-「音」となることからわかるように、「交響」は音のみから成る世界である。一方、「光響」は「光」と「響」から成り、視覚と聴覚とが交錯する世界を表さんがための造語であり、この歌集は題名が示すとおり音と光の交響楽なのである。

 たとえば掲出歌を見てみよう。作者は空と樹木と水の祈りに耳を傾ける。その祈りを聴き留めるのが「かなしみの瞳」であり、それは同時に「しづかなる耳」でもある。空を木を水を見る目がすなわち祈りを聴く耳であるということだ。目で見たものが耳で聴いたものになるという感覚の転換もしくは相互浸透がここにあり、それが『光響』という題名にふさわしい音と光の交錯する世界を生みだしている。

 櫟原聰(いちはら・さとし)は1953年(昭和28年)生まれで、京都大学文学部国文科に学んだ古典文学の学徒である。高校生の頃から前登志夫のもとに出入りし山繭の会に参加。「ヤママユ」「木霊」「京大短歌」に所属している。『光響』は20代の歌を集めた第一歌集で1989年(平成元年)に出版された。同年に第一歌集でデビューした歌人に、水原紫苑『びあんか』、藤原龍一郎『夢みる頃を過ぎても』、大辻隆弘『水廊』、喜多昭夫『青夕焼け』らがいる。櫟原には他に歌集『樹歌』(1995年)、『歌の渚』(1997年)、『火謡』(2002年)、評論集『夢想の歌学』、『現代短歌の相貌』などの著書がある。

 櫟原は奈良県は大和国原の一角をなす平群の地に生まれ、万葉集を学び若くしてヘルダーリン・リルケ・伊藤静雄に傾倒した文学の徒であるという。大和の悠久の自然と万葉の古歌という肥沃な土壌を滋養とし、眼には見えぬ形而上的世界を希求する抒情を心に抱いた青年であったわけだ。ここから生まれる歌は、豊かな自然との交感のなかに不可視の蒼穹を仰ぎ見る歌である。

 どこまでもわがひとりなる野の立ちて叫ばむとする空のしづけさ

 急にひばりのさへづりは鋭く空に噴き青空を降り哭けるわが谷

 ゆかばはや夏は崖なす 思春期のかくやはらかきてのひらを見よ

 声にうたふ咽喉(のど)やはらかき夕闇をひとつ星きみにひたきらめかむ

 若草をわが踏みゆけばかなしみは土やはらかに残る靴あと

 いかにあらむわれらのひと生(よ)海の辺に生き継ぎ山に息つぐわれら

 作者は古典文学の学徒だから、「ゆかばはや」とか「いかにあらむ」などの古語を駆使してそれに自らの心情を託すことができる。今の若い歌人にはこのような古語に現在進行形的リアルさを感じるのは難しいかもしれない。歌人としての櫟原が歌に託す心情とは、最後の歌にある「いかにあらむわれらのひと生」という言葉に尽きると言えるし、また青年櫟原が20代に捉えられた情動とは、5首目「若草を」の歌にある「かなしみ」であり、それは1首目の「どこまでもわがひとりなる」の孤独感へと続いている。それは櫟原の歌に人間がほとんど登場せず、櫟原の対話の相手となるのはもっぱら空・草・樹木・虹・水・霊であることにも見てとれよう。

櫟原の歌に最も多く登場するのは青空であるが、その空のなんと青いことか。

 碧空の下にて振れば鳴り出づるひとつてのひらうち砕かれよ

 ニ短調の青空ひびく窓にして燦々と降る誰が涙かも

 青空にひとつはるけきピアノありひかりの粒はそこよりこぼる

 有ることのかなしみとして青さ増す天(そら)はひとつのひかり放たむ

小笠原賢二は『終焉からの問い』のなかで、現代歌人は「魂の救済という潜在的な、しかし意外に強い衝動」を持っている」とし、その証左のひとつとして現代短歌に頻出する青に注目している。小笠原は現代短歌に歌われた青が不安・不充足のイメージを背景として、それらと背中合わせの形で救済の喩として憧憬されるといういびつな構造を持つと指摘している。櫟原の歌に登場する青空もただ青いだけではない。寺山修司が若くして「青空はわがアルコールあおむけにわが選ぶ日日わが捨てる夢」と詠んだとき、青空には青春の甘い自己陶酔の香りがした。しかし櫟原の青空は「ニ短調」であり「有ることのかなしみ」を形象化したものである。上に引用した歌においてもまた音と光の光響が実現されていることに注意しよう。

 いったい短歌において情景を描写するとき、その背後には情景を見る知覚主体としての〈私〉が控えており、情景を描くことによって背後の〈私〉が前景化するという構造がある。ところが櫟原の歌においては描かれた情景は物象化し〈私〉を前景化することがない。青空や光は修辞を通じてそこにあるものとして形象化されている。これは櫟原が若くして親炙したヘルダーリンやリルケの詩に学んだものだろう。

 その舌のもつるるごとく蝶舞へばさびしさは野に母音のごとし

 りんごひとつ手にもつ時に空深く果実に降るは果実の時間

 樹を彫りししづかな楽器空に鳴り空かがやける世界の真昼

 うつくしき匂ひかなでてわが食める瞳のごときレモンの楽器

 鳴きのぼるひばりの咽喉はいかならむ火を食ぶる術(すべ)われに与えへよ

 これらの歌のいずれも美しいが、初期歌篇に収録されている2首目は特に鮮やかな印象を残す。季刊『現代短歌雁』55号の特集「わたしの代表歌」でも櫟原自身が自分の代表歌として挙げている。りんごを手にした時に感じる重みという身体的感覚と、空深くから果実に降る時間という意識とを交錯させ、地上と天上、水平方向と垂直方向とが交差する奥行きの深い世界を生みだしている。現代短歌の成果のひとつとして長く記憶される歌だろう。

182:2006年12月 第4週 前田康子
または、本態性の寂しさを核として生まれ出る歌

腰のリボン蝶々結びにしてやれば
     夏の道へと攫われやすし
           前田康子『色水』

 歌集には作者の個人情報が少ない。奥付に略歴が掲載されていることもあるが、それもたいていは何年生まれ、○○大学卒業、××結社所属というような、実にそっけないものである。しかし歌集に収録された歌を読んで行くと、作者がどういう人で、何を感じて生きているかが伝わってくる。これが短歌のおもしろさのひとつだろう。前田康子の第三歌集『色水』を読んで感じたのは「夕暮れの寂しさ」であり、それはかくれくぼの鬼になり気がついたら誰もいなくなっていた村の夕暮れのような寂しさである。歌集題名の『色水』は、「オシロイバナ両手に摘んで色水を作って遊ぼう君と日暮れは」という歌にあるように、花を揉んで水に色をつける女の子の遊びである。この歌には「君と日暮れは」とあり遊び相手がいるようだが、歌集全体にひとり遊びの雰囲気が濃厚に漂っている。

 前田康子は1966年(昭和41年)生まれで塔短歌会所属。すでに『ねむそうな木』、『キンノエノコロ』の二冊の歌集がある。夫君は吉川宏志。二人の子供がいて、『色水』にも母親の視線から子供を詠んだ歌が多く収録されている。作風は緩い定型の中に口語を交えた写実と生活実感に基づく感興を盛り込むもので、コトバ派(芸術派)ではなく人生派であるから難解な所の少ない穏やかな歌が多い。修辞を駆使して現実界を跳び越え詩的空間へと駆け上がるという作風ではなく、日常的な言葉のなかに染み入るような感情を歌うという作風なので、派手な所がなくやや地味な印象を受けるのはいたしかたない。

 それにしても前田の歌には植物の名前が多い。朝顔・向日葵・藤・木犀・菫あたりは短歌の定番で他の歌人も多く歌に詠んでいるが、胡瓜草・父子草・車前草・ミミカキグサなど植物に暗い私など聞いたことすらないようなものもある。針ケ谷鐘吉『植物短歌辞典』(加島書店、昭和35年)などという本まであるくらいで、昔から短歌には植物はよく登場してきた。現代短歌も例外ではないが、私の印象では歌人によってはなはだしく偏りがある。たとえば藤原龍一郎の歌にはほとんど植物が登場しない。それは藤原の短歌が眠らない都市トーキョーを舞台としているからである。また加藤治郎の歌には有名なイラクサの例があり、近作『環状線のモンスター』にも大楡・ゆり・アカンサスなどの名は散見するが、ほんとうの植物というよりもどこか作り物めいて見える。プラスチック製の装飾品であってもおかしくない。それは加藤の歌が、写実を基本とするただ一人の〈私〉というアララギ的近代短歌の語法を離れ、修辞を基本とする複数の〈私〉という語法を採用していることと深く関係するだろう。植物名の含有率は歌人の作風とかくも連関しているのである。

 話をもとに戻すと、前田の歌は植物との親和性が高いが、それはおそらく前田の生き方そのものが植物と親和性が高いからである。移動・攻撃・奪取という動物性よりも、定着・防御・滋育という植物性により近いのである。ただし、同じ植物といっても、肥沃な大地に太い根を張り葉を茂らせる樹木ではなく、胡瓜草や父子草に惹かれることからわかるように、はかなげな草により親しさを感じているようだ。それにしても前田の歌に漂うこの寂しさはどうだろう。冒頭に書いた「かくれくぼの鬼になり気がついたら誰もいなくなっていた村の夕暮れのような寂しさ」である。

 残業とう時間私にもうなくて山あじさいの暗がりにいる

 抱かれしあとの身体のように倒れたる自転車ありき夏草の土手

 今日我は暗がりにいて紫の蜆蝶ほどの明るさしかない

 ため池は譜面のように静まりて残り時間が薄暗くある

 寂しさや子供の頃の冬陽射し毬藻を飼いし水槽ひとつ

 紫蘇の実がわずかについて夕暮れが私を静かに消し始めたり

 1首目はOL生活をやめて結婚した自分を詠っているのだが、自分の位置を暗がりと認識している。2首目は「抱かれしあとの身体」という喩に性愛の香りがするが、その喩が倒れた自転車に用いられているところに意外性がある。3首目は理由は明らかではないが自分を暗がりにいると認識している歌で1首目と似た気分の歌。4首目の「譜面のように」は水面の喩としてはおもしろい喩で、また本来なら譜面からは音楽が立ち上るはずなのだが、この歌は静けさの雰囲気である。5首目は子供時代の回想で、基調はやはり寂しさである。6首目はシソの実の生育という正の方向への時間の流れが、私の消去という負の方向への時間の流れにほかならないと認識している所に、この歌人の感性の核を見ることができるだろう。

 現代短歌の若い歌人の歌に見られる傾向として「午後4時の気分」という言葉を用いたことがある。社会学者の小倉千加子が朝日新聞に書いていたのだが、小倉がインタヴューした東京の女子高校生が、「あたしたち、ずっと午後4時の気分なんですよう」と言ったというのである。これはもちろん陽射しの照りつける真夏の午後4時ではなく、もうすでに夕陽の色も淡く翳っている冬の日の午後4時である。若さに溢れ明るい未来が待ち受けているはずの女子高校生の口から出る言葉とは思えないので、強く記憶に残った。これを「自分たちの将来にそれほど明るい展望が持てない」という漠然とした不安感と解釈すれば、比較的安易な理解に着地できなくはない。しかし、哲学者ポール・リクールの言うように「現代では大きな物語はすでに失効している」という時代認識のレベルで捉えると、ことはそれほどかんたんではなくなる。そしてこの「午後4時の気分」は現代短歌の若い歌人の歌に滲み出ているのである。

 わたしたちはなんて遠くへきたのだろう四季の水辺に素足を浸し 佐藤りえ

 ながれだす糸蒟蒻を手で受けてこれがゆめならいいっておもう 兵庫ユカ 

 前田の好む時間も夕暮れなのだが、それは「セカイ系」の午後4時の気分とはいささか異なるようだ。「セカイ系」の場合、私を取り巻く家族・地域・社会といった中間項をすっ飛ばして、〈私〉が世界と直接に向き合う構図がある。しかし前田の歌にはこういった中間項が多く詠まれているというちがいがある。

 車前草の花揺れ合いて祖父の家の古き便器を思い起こせり

 ドアを閉め祈りに行けるイルハムを子らは静かに息して待てり

 いつも時計進めていたる友多くほんとうの時刻を私に聞きぬ

 桜湯を母と飲みたり嫁に行くことが決まりし冬の終わりに

 1首目の祖父の古い家の記憶、2首目の子供の学級にいるイスラム教徒いう他者、3首目の友人、4首目の母親というように、前田の歌には〈私〉と世界との中間項が数多く登場する。だから前田の歌に溢れる寂しさは、セカイ系短歌のどこか観念的な寂しさではなく本態性のものなのだろう。自身の核にある寂しさに触れるときに歌が生まれるということなのだ。

 印象に残った歌をいくつか引いておこう。

 流星と彗星の違い聞きながら愛についてまだ考えてる目は

 初夏の藤の椅子にて向き合えばタイ語など淡く話せり

 いつまでもぱあの形に負けている手袋よけて子ら登校す

 ユリカモメあれは白き磁器ではない悲しみの音伝わるわけない

 風も木の葉も鳥も吹き抜けアルハンブラ宮殿に窓ガラスなし

 墓洗う洗剤安く売られたり暮れの店に煌々と照らされ

181:2006年12月 第1週 岩田眞光
または、俳句的意味の圧縮と衝突によって現出する詩的世界

「ひかりは森をなしつつ滅ぶ」
   窓際に置かれしものは冬の鉄球
        岩田眞光『百合懐胎』

 作者の岩田は1954年(昭和29年)生まれ。塚本邦雄に師事し、「玲瓏」創刊時からの会員である。『百合懐胎』は1991年(平成3年)に書肆季節社から玲瓏叢書第10巻として刊行された。ちなみに前年の1990年には穂村弘の『シンジケート』と山田富士郎の『アビー・ロードを夢見て』が、同年の1991年には吉野裕之の『空間和音』、大田美和の『きらい』、池田はるみの『奇譚集』、照屋眞理子の『夢の岸』、島田修三の『晴朗悲歌集』、内藤明の『壺中の空』、林和清の『ゆるがるれ』が世に出ており、実力派歌人の歌集が陸続と上梓された稀に見る豊饒の年ミレズィームだったことがわかる。第一歌集出版時の年齢が仮に30歳だったとして、2006年の現在では45歳を迎えていることになるから、この世代は今脂の乗り切った年齢となってるわけである。

 『百合懐胎』は政田岑生の瀟洒な装丁で、表紙にはウフィッツィ美術館所蔵のレオナルドの「受胎告知」の一部、大天使ガブリエルが百合の花を抱えてマリアにお告げを宣告しようとしている姿が銅版画風のモノクロで印刷されており、巻末には塚本邦雄の解題がある。岩田には『芍薬言語』という句集もあり、師の塚本同様に俳句と短歌の両方をこなす人のようだ。俳句と短歌の間を自由に往還する人の場合、作る短歌には独特の風合いがあり、時に歌意の解釈を困難にするという事態が見られる。掲出歌にも同じことが言える。前半の「ひかりは森をなしつつ滅ぶ」は14音で破調で、カギ括弧に括られているので、誰かの発言とも書物の一節とも解することができ、その未決定性の中にたゆたうことになる。また意味内容も謎めいており、明確な意味像を形成しない。後半は一転して窓際に置かれた鉄球という具体的情景が描かれているのだが、砲丸投げの鉄球かペタンクの球かは不明ながら、いずれにせよ日常的風景の中では唐突な存在である。この歌では前半の形式上の破調と意味像の未決定と、後半のくきやかな光景の衝突が眼目なのであり、その衝突から日常を超えた詩情が浮上するという仕掛けになっている。春日井建と並んで「生活は詠わない」と宣言した塚本の弟子のことだから、歌の意味を現実の地平に求めるのは方向ちがいであり、言葉の選択と結合のみによって生まれ出る詩空間において歌を玩味するのが正しい受け止め方なのである。20世紀言語学の泰斗ロマン・ヤーコブソンは、現実に言及する言語の機能を関説的機能 referential functionと呼び、それとは別に言語にはメッセージすなわち言連鎖そのものを前景化する詩的機能 poetic functionがあるとしたが、岩田の短歌はまさにそのような文脈の中において読むことを要請する類の歌である。

 塚本が選者をつとめる週刊誌の俳句欄に岩田が投稿した句が塚本の解題に引かれている。

 晩年へ夜の胡桃が割られゆく
 冬の家族鴨流麗に漂へり
 鶴歩む聖降誕祭植物園
 致死量の時雨のひかり硝子屑
 失楽の獨樂澄み果てし禽獣店

これらの句と『百合懐胎』所収の短歌を比較してみるのも一興である。

 修辞学修めしごとく石榴の実食べつつ秋の街に住みけり

 地下宮にわれが描きし向日葵の花くろぐろと立ち枯れてをり

 宮柊二のどもと太し驟雨来ていま盛んなる芍薬の花

 おく霜の展翅の板に恋眠るこころはぐれてかささぎ鳴けり

 オートバイひそかに薫る六月の硝子のなかに病める馬あり

 翡翠をはらみつつある少年の脇腹痛し 陽炎の時

 くれなゐの巨き魚あり悠然と通れば冬の町に雨降る

これらの歌にもどこか俳句的な香りと語法がある。四首目の上句「おく霜の展翅の板に恋眠る」を例に取ると、これで独立の俳句として成立するほど強い詩的圧縮がかかっている。短歌では上句の下句の照応によって詩的空間を浮上させるのが通例であるから、ふつうは上句だけでこれほどの圧縮はかけない。

 あきかぜの中のきりんを見て立てばああ我といふ暗きかたまり  高野公彦
 夏至の日の夕餉おはりぬ魚の血にほのか汚るる皿をのこして  小池 光

現代短歌ではこれくらいの圧縮率がふつうである。高野の歌では、「あきかぜの中のきりんを見て立てば」では意味が完結せず、下句に接続して照応することにより一首の意味と情景が成立する。小池の歌では「夏至の日の夕餉おはりぬ」の二句切れで意味は完結しているが、その内容は平易な日常的風景であり、三句以下の意味と重合することによって初めて日常のなかに潜む小さな戦慄が浮上する。これを見てもわかるとおり岩田の歌は詩的圧縮率が高いのだが、それが裏目に出ると歌の残りの部分が余分な付け足しのようになることもある。例えば上の六首目では「翡翠をはらみつつある少年の脇腹痛し」だけで凝集は完結しており、残りの「陽炎の時」は浮いてしまうだろう。俳句における言葉の圧縮を短歌でいかに31文字のなかに希釈しつつ歌として成立させるかというのは、なかなか難しい問題なのである。

 もう少し注目した歌を引いてみよう。

 西行の骨はいづこに埋もれしや瓦礫を踏まば楽鳴り出でよ

 やはらかな秋の内臓触(さや)りつつ不思議の町にひとり立ちをり

 少女は肉のうちに籠もらふなにもかも押し流しゆく夏の濁り水

 夏生きむためカミソリを買ふ銅版画のなかの魚にはがねのうろこ

 冬深き椎の木立を通るべきわれといふもの不意の百合の香

 透き徹るビー玉の芯にうすき膜あれば時雨のころとはなれり

 時の終りにたたずむものもあるならむ薄桃色のみづすましゐて

『俳句という遊び』〔岩波新書〕を書いた小林恭二は高橋睦郎の俳句に触れて、高橋が句作をするときそこにあらかじめモチーフというものはなく言葉だけがあるのであり、上質の言葉を発見してそれをいかに輝かせるかがすべてであると評した。これは一見すると現実遊離の芸術至上主義的態度のように見えるかもしれないが、それはちがう。ここにはおそらく「言葉こそが世界である」という信念がある。もう少し言い換えると「新しい言葉の発見が私たちの世界像を更新する」という信念があるのだ。太陽の惑星の資格を失っても冥王星が消失するわけではない。しかし「惑星」という名称を失うことによって、私たちは9つの惑星を従えた太陽系の替わりに8つの惑星を持つ世界に暮すことになり、私たちの世界像は変更されたのである。同じように上に引いた歌で、「やはらかな秋の内臓」や「ビー玉の芯にうすき膜」と表現されたとき、そこに立ち顕われる世界はふだん私たちが見て親しんでいる世界とは面目を一新したものとなるのだ。

 岩田の短歌の中に近代短歌を支えてきた一人称の〈私〉を探しても無駄である。そんなものはどこにもない。しかし〈私〉とは現実に生活者として暮す〈私〉であるに止まらない。言葉を選り抜き組み合わせて表現を作り出す〈私〉もまた、異なる位相においてではあるが〈私〉であることにちがいはない。岩田の短歌はそのような位相において成立しているのである。

180:2006年11月 第4週 白瀧まゆみ
または、ふとこの世の外に抜け出す歌

日を葬(はふ)りざぶんと蒼きゆうぐれに
     この世の橋が浮かびあがりぬ
        白瀧まゆみ『自然体流行』

 いろいろな歌集を読んでいると、読後感をまとめて論じやすい歌人とそうでない歌人がいることを感じて不思議に思うことがある。論じやすい歌人は歌の切口がはっきりしていて個性が際立っている人で、「この人の本質は○○だ」と断定しやすい。代表歌も選びやすい。ところが論じにくい人の場合、歌のどのポイントに焦点を絞って読めばよいのかがはっきりせず、こちらの読みもふらふらと揺れてしまう。白瀧まゆみの『自然体流行』は後者の典型的な例だろう。それにしてもおもしろい歌集の題名である。

 白瀧は「Bird lives ─ 鳥は生きている」30首で、平成元年(1989年)の第一回歌壇賞を受賞した。『自然体流行』は受賞作を含む第一歌集で1991年に邑書林から刊行されている。栞には所属結社の岡井隆、歌壇賞の審査員だった伊藤一彦、白瀧も属していた同人誌「かばん」の中山明、そして辰巳泰子が文章を寄せている。栞文のなかで、岡井は白瀧の「予測を許さない行動力」に触れ、伊藤は短歌定型に口語を載せる巧さや命令形の巧みさなど、主に短歌技法のコメントに終始している。辰巳は「生よりは死を描こうとする」特異な死生観を指摘し、中山は白瀧の歌にはさまざまなモチーフ・ムードが混在していて、整理仕切れないカオスだと匙を投げている。栞に寄稿した名だたる歌人がこうもまちまちな内容の文章を書いているというその事自体が、白瀧の短歌世界の捉え難さを物語っている。

 あとがきには作歌を始めて4年になるとあるので、逆算すると1987年から歌を作り始めたことになる。『サラダ記念日』が一大ブームを巻き起こした年であり、白瀧はライト・ヴァースの流れの中で出発したのである。このためか歌壇賞を受賞した「Bird lives」は「ぼく」という一人称を含めて、当時のライト・ヴァース的ムードの歌が多い。

 ばくぜんと死を考える朝っぱら ナポリタン・スパたのむ昼過ぎ

 シースルー・エレベーターが降下する 二十五階にぼくを忘れて

 飲みかけの缶コーヒーを持ち変えて右に激しくカーブを切れば

 ヘイ・バード僕ら翔べない鳥だから彼は誰れどきの夢を見るのさ

 残してよ真っ青な空 林檎(アップル)を砕いたような人生だけど

「バード」とはジャズ・プレーヤーのチャーリー・パーカーのことで、Big apple はジャズメンの隠語でニューヨークの別称であり、静かに流れるモダン・ジャズを背景音楽としながら、都会的で虚無的なムードの漂う歌が並んでいる。かといって白瀧の歌の世界がこのような見方の中にすっぽりと収るかというと、それはちがうのである。

 前回取り上げた吉野裕之の短歌について、「世界に向けて伸ばした視線や触手を引っ込めて、自分と同じ大きさにまで収縮し、世界のなかでの〈私〉の位置を確かめる」という意味の論評をした。例えば「自らの重さを思う目覚ましの鳴る十分前にめざめたる時」という秀歌がそうである。そしてこのような位置取りを「我に返る」というキーワードで表現した。吉野との対比で言うと、白瀧はまったく逆のベクトルを向いていて、「我から流れ出す」傾向が強く感じられるのであり、これを白瀧の歌の特徴と考えたい。このことは次のように歌に見ることができる。

 たましいはきっと遅れてあるくからあなたの後ろの姿のはかな

 この世にてこの世にあらず花影の下にいのちの春はめぐりき

 来し方も行方もすでに見しが原シオン咲く野に迷い込みしを

 ひとりきり天の振り子のなかにいて右に左にコーナーを切る

 いくつもの風ふきぬけて「ひまわり」のネガにうつらぬ天のいきおい

 もういいよ わたしという名の匂い草銀河の支点でゆっくりお立ち

 降りつづく雨のむこうの弓月を間借りの地球(ほし)にみている少し

 一首目に見られるように、白瀧は人から遊離する魂を何より感じるのであり、それはひるがえって二首目・三首目のように、自分の居場所を茫漠とした時間と空間のなかに観照する態度にもつながっている。ここには吉野の歌のように、正確にみずからの皮膚が包んでいる範囲にまで〈私〉を凝縮させる理知的な意志はなく、逆に〈私〉は肉体を離れて彷徨い出るかのようである。それは時に四首目や五首目のように、ある種の宇宙感覚にも通じることがある。また最後の歌の「間借りの地球」に見られるように、自分は束の間この地球にいるに過ぎないという感覚としても現れるのである。壇ノ浦に破れた平重盛のように「すでに見き」とか「もういいよ」とか低くつぶやいて、ふっとどこかへ消えて行きそうな気配が漂うのである。

 そのようなスタンスからこの世を眺めると、次のようにある種の勢いがあると同時に、どこか捨て鉢な感じもする歌が生まれるのだろう。

 「腑分けして」と今度会ったら言ってみよう淋しいあばら骨のいくつか

 なくすなら〈女らしさ〉の方がいい男言葉で指を鳴らして

 静けさを揺らさないようクラッチをつなぐ朝(あした)に正面を向き

 手を広げ精一杯におちてゆく夕陽のなかのジェットコースター

 洪水のあとの世界へたどりつけ ナイルにうかぶ青い馬穴(ばけつ)よ

 立て膝をついて知らない街の名を教えるキリマンジャロ挽きながら

 これらの歌を読んでいると、平凡な生活の些事を慈しみながら市井で暮す人というよりは、何かの拍子にすべてをあっさり手放してしまう人のような肖像が浮かんで来る。白瀧には四国八十八ケ所の巡礼を記録した著書があるようだが、それもなるほどと思えて来るのである。上の歌の言葉からは、この世との絆をふと切り離してしまうような、どこか頼りなげな〈私〉が浮かび上がって来るのであり、それが白瀧の歌の魅力のひとつになっている。

 『自然体流行』にはこのような歌だけではなく、次のように短歌定型をぴしりと決めた歌も見られる。

 神楽舞い夏におさめる母の町ゆらりとかつぐ風の柩を

 あぎといて夜の河わたる感界にひとりの魚がひれを洗うと

 わたくしは暗闇をひとつ持っている階段の下叫びを入れて

 やさしさは氷菓をわけあうことに似てあやうく喉をいやして過ぎぬ

 口紅(べに)のあるどの吸い殻も上を向き失語の街にかえす言葉よ

 惑星にひとふり斧を下ろすときぐらりと水の匂いあふるる

 人という罪ふかきもの夕ぐれの水の面に朱の耳を持つ

 しかしこれらの歌にもどこか危うい幻視的な香りが感じられる。白瀧はあとがきで「私には、言葉が(心の)音符のように浮かんでくることがあります」と書いている。言葉と心のあいだを常に往復している著者にとっては、第三項としての〈世界〉が入る余地はあまりないのかも知れない。そんなふうにも思えて来るのである。

179:2006年11月 第3週 吉野裕之
または、縮小する世界で我に返る歌

腐りたるトマトを捨てし昨日のこと
     ふと思い出す地下鉄に乗り
         吉野裕之『空間和音』

 昨日腐っていたトマトを捨てた。日常よくあることだ。それを今日地下鉄に乗っているときふと思い出したという歌である。「だからどうした」と思わずツッコミを入れたくならないだろうか。「冷蔵庫の上に一昨日(おととい)求めたるバナナがバナナの匂いを放つ」という歌にも同じことが言える。バナナからリンゴの匂いがしたらおかしいが、バナナからバナナの匂いがするのは当たり前だ。吉野裕之の『空間和音』にはこのような歌がたくさんある。どうしてもツッコミを入れてしまう関西人なら、ツッコミどころが多すぎて頭を掻きむしりそうだ。

 これは「ただごと歌」なのだろうか。奥村晃作の「次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く」というよく知られた歌と同じように、当たり前のことを当たり前に詠んだ歌なのだろうか。どうもそうではないようだ。それは掲出歌には「ふと我に返る瞬間」が感じられるからである。「我に返る」というのは、夢想していて現実に引き戻されるとか、激しく興奮していた状態から冷静な状態に戻るというのが辞書的意味だが、ここでは「世界に触手や視線を投げかけていた状態から、触手や視線を引っ込めて、自分だけを見つめる状態に移行すること」という意味で使ってみたい。亀が首や手足を甲羅の中に引っ込める様子を思い描いていただければよい。世界に触手や視線を投げかけるのは、世界を認識したり他者と交流したりするためである。私たちは常日頃、外界や他者との交わりのなかで暮している。だから私たちの体からは触手や視線が常に外に出ているのであり、これを〈拡大された自己〉と呼んでもよい。眼が外を向いている自己である。これにたいして触手や視線を引っ込めた自己は〈縮小された自己〉であり、眼が内側を向いている自己である。掲出歌にはこの拡大から縮小へと転じる瞬間が詠まれている。この意味で掲出歌は「ただごと歌」ではないのであり、吉野の作歌の基本的スタンスにこの〈自己の転調の瞬間〉が置かれていることはまちがいない。

 吉野裕之は昭和36年(1961年)生まれで、「個性」「桜狩」に所属し加藤克巳に師事している。『空間和音』は1991年に出版された第一歌集で、作者の24歳から28歳にかけての歌が収録されている。序文のなかで加藤は、吉野のことを自由でくったくがなく健康な青年と紹介し、歌ののびやかさや自然さを称揚する一方で、「しらけの時代の、いささか無抵抗感に過ぎるところに腹を立てる人がいるかもしれない」と懸念を表明している。「しらけの時代の、いささか無抵抗感に過ぎるところ」というのは、吉野の歌をライトヴァースと見なす人がいるという判断があるからである。確かに次のような歌もあるので、加藤の懸念はもっともだといえるかもしれない。

 ほくほくはやきいも ぽくぽくは木魚 ああ、ぼくたちは啄木が好き

 他人事のような相づち打つなんてもう肉まんを分けてあげない

 一月の首都は快晴 ほろほろとみずほちゃんたらこけてしまえり

 歯磨きのチューブの残り少なくてあしたの用事ひとつ見つけた

 ちょうど宗教学者の山折哲雄の『「歌」の精神史』(中公叢書)という本を読んだところなのだが、この本のなかで著者は現代短歌のなかから「身をよじるような感情の表出」が消えてしまいカサカサに乾いていることに警鐘を鳴らしている。著者は演歌ファンで、演歌のような泣き節・嘆き節を低俗と見なすのはまちがいで、そこに歌の根源があるとしているのである。そんな山折が吉野の歌を見たら、きっとお子様向けのソーダ水のようなライトさと不満を述べるにちがいない。

 しかし上にも少し述べたように、吉野の歌はただライトであるのではなく、一見抵抗感のない若者風の語法の裏側に、近代短歌の核心となってきた〈私〉が確かに存在しているのであり、表面的な抵抗のなさにだまされてはいけないのである。いくつか歌を引いてみよう。

 理解されなかったこともパン屋にて迷えることも秋の夕暮れ

 さっきまで諍っていしテーブルにポテト・サラダはぽっこりとある

 今世紀最大のピアニスト死んでわが母は食う太きバナナを

 眠りから覚めたるわれの背後にはアジアへ向かう電話ボックス

 自らの重さを思う目覚ましの鳴る十分前にめざめたる時

 ぼくの目の高さ、コップに注ぎたる水の高さ そろり揃える

 たとえば三首目を見てみると、「今世紀最大のピアニスト」たぶんホロヴィッツの死去は新聞やTVで世界に報道される大事件であり、目の前で母親が太いバナナを食べているというのは日常の瑣事であり小事件である。このように大事件と小事件を上句と下句に取り合わせることで、否応なしにあぶり出されるのは〈縮小した私〉であり、このベクトルを逆向きにしたのが四首目だといえる。特におもしろいのは最後の歌で、目の高さとコップの水の高さを揃えるというところに、吉野の方法論がよく示されている。また一首目の「秋の夕暮れ」のように古歌でさんざん使われた語句を配する手法にも同じ効果があり、古典和歌の巨大な美の世界に〈私〉が生活する陳腐な日常を対置することで、あぶり出されるものがあるのである。

 吉野の歌にはよく固有名詞、それも有名人ではなく身の回りにいる人の名前が出てくる。

 看護婦の美奈子さんまた有線にTELしてる〈夢おんな〉お願い

 大いなる松崎さんの背後よりビルたちの群れ騒ぎはじめる

 〈柳橋〉バス停に祐子さんを見つけてちょっと足早になる

 著名人の固有名は読者の共有知識にもあるため、その知識を利用して歌の意味作用を増幅し、歌意を普遍的地平へと送り届けることができる、いわゆる歌枕はそのような作用を持つゆえに古典和歌では重用され、近代短歌では忌避されてきた。これを歌の世界の拡大と呼ぶとすると、吉野の歌における固有名はまったく逆の作用を持っている。「看護婦の美奈子さん」のようなどこにでもいそうな人の名前を使うことで、歌の世界は逆に縮小し、限りなく個別化されてゆく。これが冒頭に述べた意味において「我に返る」ことを強力に支援していることは明らかだろう。

 この歌集には上に引いたような傾向の歌だけではなく、次のような抒情に満ちた美しい歌もたくさん収録されている。

 海という少女の秘密知りたくて地階の書庫にいる夏休み

 真っ白き部屋はゆっくり夏果てぬティッシュの箱をひとつ残して

 夏の空に雲湧きいたり繋がれて馬はしずかにわれを見ており

 伸びひとつして去りゆけりレントゲン技師屋上に風を呼びつつ

 ゆく夏のひかりに腕を伸ばしつつ彫像はある草叢のなか

 しかしながらこの歌集を特徴づけるのは、「我に返る」ことを基調に置いた〈縮小する世界〉の歌であることはまちがいない。そしてこの〈縮小する世界〉の歌を読んでいると、どこか『日々の思い出』以後の小池光の短歌、たとえば「ガスボンベ横たへられて在りふれば冬草はらにわづかなる風」のような歌を思い出してしまうのである。

 荻原裕幸は『短歌ヴァーサス』第3号の特集「現代短歌のゆくえ」の加藤治郎との対談のなかで、現代の若い男性歌人の歌はモチーフ的にあまり変化がないので、どうしても「不景気」に見えてしまうと述べている。吉野の限りなく〈縮小する世界〉の歌も、もしかしたら「不景気な現実」を「不景気な手法」で詠う歌との批判を受けるかもしれないが、そのような見方はまちがっているだろう。吉野の歌は「現代においていかなる短歌が自分に可能か」という課題にたいする答であり、ひとつの優れた解答なのである。山折哲雄の「天翔けるような抒情はどこへ行ってしまったのか」という嘆きを傍らに置きつつ吉野の歌集を読むと、そこに現代短歌が置かれている状況のひとつが見えてくるのである。

178:2006年11月 第2週 松平修文
または、鳥は近代の主客二元論から遠く離れて

波がしらにとまらむとして晩夏の蛾
       黄金の鱗粉をこぼせり
           松平修文『水村』

 かねてより『水村』は私にとって幻のかなたにある歌集であり、松平の歌に焦れつつもいかにしても入手かなわぬ有り様にほとんど諦念すら抱いていたのだが、このたび幸運にも手に入り今私の机上にある。古書店ネットという現代文明の利器のお陰である。私が今まで購った歌集古書のなかで最も高価であったが、拙著『文科系必修研究生活術』(夏目書房)の中で、「出会ったときに買う」「迷ったら買う」「価格を見ずに買う」といういささか乱暴な図書購入の三原則を人様に吹聴した手前、ここで臆する訳にはいかないのである。届いた歌集は箱入りで、画家でもある著者の自装、表紙絵も自作。うす暗い沼のほとりに白い小花が咲き上から柳の葉が垂れ、中央に花を活けた花瓶と水に沈んだ輪郭だけの鳥を配した夢幻的な絵である。挟まれた謹呈の栞には墨痕鮮やかに署名がある。1979年冨士田元彦の雁書館から刊行、巻末には福島泰樹の長い解説がある。松平の短歌が世に出た経緯を語って詳しい。

 松平は東京芸術大学で学んだ日本画家である。この経歴は作歌の特徴と密接に結びついており、それは掲出歌を瞥見しただけで明らかであろう。「晩夏の蛾」は俳味のある主題だが、事実松平は若い頃に俳句も作っている。その晩夏の蛾が波がしらに止まろうとしているという有り得ない非現実的光景を詠んでいるのだが、白く砕ける波頭と蛾が零す金色の鱗粉の取り合わせは極めて絵画的で、どこか葛飾北斎のデフォルメされた遠近の構図を思わせる。視覚的インパクトの強さは衝撃的ですらあるが、その幻想性と絵画性の背後に近代短歌の〈私〉が消去されていることに注意しよう。全体として一幅の絵のようで視点が特定されていないことがそれを示している。

 『水村』は逆編年順で構成されており、世に喧伝されている松平作品とは異なって引かれることの少ない初期作品をこのたび初めて目にして驚いた。次のような歌が並んでいるのである。

 花を彫(ゑ)りしグラスに水を充たすとき死のみ明るき未来と思ふ

 果敢事(はかなごと)ひとつ果さむ雨の街に今宵ともすべく蝋燭を購う

 谷のみづ濃きゆふまぐれ身をぬけて魂ひとり汝に逢ひにゆけ

 夜の空に池あれば亡父(ちち)が釣人となりてさかさに立つそのほとり

 末黒野(すぐろの)に立つつむじかぜ針さしに針刺してゐる母には告げず

 少女らに売りつけられし雛菊の花をにぎりて焦がすてのひら

 巻末から遡って制作順に拾ってみた。解説を書いた福島泰樹はこれらの歌を松平の「習作」と呼んでいるが、歌の造りの確かさはすでに習作を脱していよう。松平は大野誠夫に師事しており、二首目あたりに師譲りの物語性も感じられるが、全体としては青年期の自己を凝視する硬質の抒情を湛えた歌群であるといってよい。六首目などは村木道彦を彷彿とさせる含羞に富む青春性に満ちている。福島は五首目の「末黒野に」の登場以前を松平の習作期とするという見解を示した。

 これら初期作品の完成度も相当なものだが、松平の個性が光る歌は主に歌集前半に登場する次のような歌であることは衆目の一致するところである。一首目の「自動車」は歌集では「自転車」となっているが誤植であり、『現代短歌100人20首』(邑書林)では訂正されている。

 水の辺にからくれなゐの自動車(くるま)きて烟のやうな少女を降ろす

 水につばき椿にみづのうすあかり死にたくあらばかかるゆふぐれ

 少女らに雨の水門閉ざされてかさ増すみづに菖蒲(あやめ)溺るる

 自転車を草にうづめて漕ぎ出でしあかとききみは舟にねむりぬ

 霙降る朝みづのべの番小屋に病む白鳥のくびを抱きしめ

 花のやうな口がわかれを告げてゐて世界ぐらぐらするゆふまぐれ

 廃屋に向きてうちよせくるさむき波をみているかがみ一面

 まよひどりここに憩ふとこひびとがさし出だすてのひらのいれずみ

 あなたからきたるはがきのかきだしの「雨ですね」さう、けふもさみだれ

 先にに引用した初期歌群と比較して、ぐっと幻想性が増している。福島泰樹は解説のなかで、「水村」20首が掲載された『現代短歌 ’74』に収録された他の若い歌人たちの歌が、70年を中心とする政治的闘争が終息した時代にあって、これから俺達は「何処へゆく」かべきを自己に問う歌であったなかで、松平の歌は内面の鬱屈とはひとり無縁であり、その点において異彩を放っていたと状況論的分析を行なっている。松平の歌は懐かしい「家郷」を描いているように見えながら、そのような「家郷」は非在であり、松平の未来は未来にではなく過去にあるのだと断じている。もしそうだとするならば、「病む母のきぬをあらふと林中のながれに来れば螢すだくも」と松平が詠んだあまりに鮮やかな「家郷」も現実のものではなく、作者の心の中に紡ぎ出されたものと解してよいのだろう。

 過去に遡行する「家郷」を描いたという点において、松平の基本的精神は「反近代」である。この点において松平は、「〈私〉の滲み出し」を基調としてきた近現代短歌と一線を画しているのだ。その意味するところを今少し考察してみよう。

 水薬がぶがぶのみぬ樹や魚や雁となりやみの奥を視るため

 溜池(いけ)に飼ふ魚を盗みにくる猫や水禽を夜ごと待ちてときめく

 うすぐらくなりたる波のうへを来し小禽は桃の花をくはへをり

 鳥たちの寒がる森をふきぬけてゆふぞらに風ひろがりゆけり

 洪水の都市の眺めのすばらしさをつたへて受話器よりわらふこゑ

 松平の歌には夥しい動植物が登場するが、そのどれひとつとして「〈私〉の喩」になっていない。近代短歌のセオリーは、歌に詠われたあらゆる事物・景物が〈私〉を照らし出すというものであり、〈視る主体〉と〈視られる客体〉とが截然と分離された主客二元論的世界観がその前提としてあることは言うまでもない。近代短歌を特徴づけるのは、鋭敏な内的自己意識を抱えた〈私〉が、私を取り巻く世界を視るという構図であり、視られた世界は〈私〉の意識を必然的に反照する。なぜなら〈自己の知覚〉と〈世界の知覚〉とは相補的だからである。「水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中」という近藤芳美の歌が戦後を代表する歌と見なされたのは、喩の斬新さもさることながら、この主客の構図を端的に表現したからに他ならない。歌に登場する動植物もこの主客二元論の例外ではない。

 孤独なるさまに水浴びいる鳥を盗むごと見て家に帰り来  石田比呂志

 選ばれて鴉となりし者ならむゆらりと初冬の路に降り来て  大塚寅彦

 石田の歌の鳥は作者の内的孤独の正確な相関物であり、この歌は〈視る主体〉と〈視られる客体〉の構図をそのまま詠み込んでいるという点において近代短歌そのものと言える。大塚の歌に登場する鴉にもまた作者の自己が色濃く投影されていることは明らかである。近代短歌はこのように、一首の裡に〈視る主体〉と〈視られる客体〉の反照関係を構築することで、〈私〉の自己意識という近代の産物を歌の内部に導入することに成功したのである。

 しかるに松平の歌はこの近代の擬制から自由である。上に引用した歌をもう一度見てみよう。水薬をがぶ飲みするのは自ら樹や魚や雁に変じて闇の奥を凝視せんがためである。人間と動物の境界を跳び越えているわけだが、これは二首目「溜池に飼ふ」にも見て取れる。魚を盗みに来る猫や鳥を待ち伏せる〈私〉は、まるで鳥獣戯画の世界のように動物のあいだに立ち混じって息づいている気配がする。ここには主客の対立はなく、むしろ客体である動物の世界へと自ら参入せんとする意志がある。三首目や四首目に登場する鳥がいかなる〈私〉も反照しないことに注意しよう。〈私〉はいわば一幅の絵の中に溶解している。五首目「洪水の」の残酷な哄笑はいささかの悪意を含みながらも、松平が短歌の世界を作り上げるときのスタンスをよく示している。それは南画のごとくに一幅の絵の中に理想的な構図で岩や滝や家屋や人物を配し、画家自らがその絵の中に入り込んで風景の中で遊ぶという精神である。富岡鉄斎あたりの絵を思い浮かべればよい。松平のこのような傾向が画家としての資質に由来することはまちがいあるまい。

 難破すと知らせのありし海域に入れば数しれぬ林檎もみあふ

 みづうみのなみの入りくる床下に魚むれてをり漁夫ねむるころ

 水草の花挿せば沼となる甕をゆふぐれのまちがどで買はされ

 なみにぬれしスカートのすそをしぼるとき沖あひで海猫なきさわぐ

 松平のどこか幻想性の漂う物語の香りのするこれらの歌に、近代の産物である主客二元論の入り込む余地はない。読者である私たちは松平の歌を、そのなかに〈私〉を捜すことなく、一幅の絵として、あるいはひとつの短い物語として享受しなくてはならない。そうして接するとき、一首から立ち昇る詩情の香気は他に類を見ないものであり、オピウムの如く離れ難い魔力を発するのである。

 しかしながら松平の歌は、近代短歌のセオリーである主客二元論から自由であるというまさにそのことによって、近代短歌の永遠の傍流に留まるだろう。それもまたひとつのあり方である。ボッティチェリがその後の西洋絵画の流れの中では傍流に位置しながら、その儚げな美によってあれほど多くの人を惹き付けるのを見れば、そのように思えてならないのである。

177:2006年11月 第1週 澤村斉美
または、遠く開くドアは歌人の心のなかに

遠いドアひらけば真夏
  沈みゆく思ひのためにする黙秘あり
        澤村斉美「黙秘の庭」

 澤村斉美は「黙秘の庭」50首で、今年の角川短歌賞を受賞した若い歌人である。1979年生まれで、「京大短歌会」から「塔短歌会」に所属し、現在京都大学文学部の博士課程に在学中という。とはいえ同じ大学にいながら学生は何千人といるため、本人とは一面識もない。今回はこの連作を中心に取り上げてみたい。

 「黙秘の庭」は、「花冷えのやうな青さのスカートでにはたづみ踏むけふの中庭」に始まり、「海の青はつめたいだらうスカートに伝はる海の声を聞きゐる」で終わっている。同質の主題による歌を冒頭と末尾に配しているが、冒頭では花と中庭が、末尾では海と水とが青の特性を持つものとして描かれており、主題的に照応しつつも変化を持たせている。その間に置かれた歌は、いくつかのテイストに振り分けられ、連作意識が高いことを窺わせる。最後まで賞を争った松崎英司の「青の食單」が、同一の発想で50首ぐいぐいと押したためやや単調に堕したと見なされたことを考え合わせると、連作における緩急濃淡の配合の重要性をあらためて思わせられる。

 「黙秘の庭」50首を構成する歌を、私なりにテイスト別に分類してみると次のようになるだろう。まず身辺詠に近い歌群から。

 数字積む夜を森閑とひとりなり蛍光ペンを引く音かたし

 減りやすき体力とお金のまづお金身体検査のごとく記録す

 ベランダに鴉の赤い口腔が見えたりけふは休みの上司

 目礼をしつつ過ぎたるかきつばた バイト社員の一人と知りぬ

 育ちゆく大学の森そのなかに友をり古き書物をひらく

 われの知る父より父は遁れつつメーデーのけふ声の笑まふも

 大学院に在籍しつつアルバイトをするという境涯を詠んだ歌が中心となる。一人で勉強する姿と並んで、バイト先の上司や社員や父親や友人も登場し、まずまず等身大の歌の世界だろう。取り立てて個性と言うほどの特徴はないが、あとで述べるように連作においてはこのような等身大の歌も混ざっていることが重要なのである。
 次に日常の具体性を離れ、多少空中に浮遊して短歌的抒情に傾いている歌。

 側溝を魚のすばやく流れたる夜の闇なれどくりかへし思ふ

 かなしめり 腕(かひな)のひかり日のひかり相聞歌には光が立てり

 日の道は光の休むところなりしづかな声をそのまま行かす

 記憶ではくまなく匂ふ桜園あか黒き実に触れながら行く

 椎の葉の葉とのあひだに生む光もぎとるやうに葉をちぎりたり

 このような歌群になると澤村の巧さが際立つ。一首目では、側溝を魚が泳ぐという何でもない夜の経験を端緒として、自分の心の中の世界へと歌を導いており、その導き方に無理がない。二首目では「かなしめり」と初句切れにして詠嘆を強め、「ひかり」「立てり」と「り」で終わる句を畳みかけている。三首目の「日の道は光の休むところなり」は日光の当たっている場所を指しているのだろうが、下句の「しづかな声」が何を指すのかいささか疑問が残る。敢て具体性を捨象して歌の輪郭を消しているのだとすれば、それもまた作者の意図のうちということになる。四首目では「記憶では」により現在と過去を交錯させているところに歌の奥行きが生まれ、単なる写実ではない歌になっている。五首目は特に澤村らしい歌で、言葉の連接が美しく短歌の生理が内面化されている様がうかがえる。歌が送り返す世界が青春期特有の淡い情感であったとしても、歌の立ち上がり方がしっかりしている。
 次はさらに具体性を離れ抽象化された歌。

 白犀は心の水の深きまで沈みつ水の春は熟れゆく

 夢の机に拾ふレシートなめらかな紙には嘘があるやうな夜

 鉄橋に向かひて叫ぶ人のをりうつつの人と思はれず朝

 はじめから失はれてゐたやうな日々海沿ひの弧に外灯が立つ

 ただ夏が近づいてゐるだけのこと 缶コーヒーの冷を購ふ

 こういった歌は境涯や日常性の具体的場面から発想されたものではあるまい。言葉と現実の往還のなかから発想された歌で、夢幻的光景や情感を自分の内部から汲み上げて形象化したものだろう。選評で高野公彦が二首目「夢の机に」を取り上げてよくわからない歌だと評していて、確かに歌意に取りにくい所もあるが、具体性を離れた情感を汲めば成り立つ歌だろう。掲出歌「遠いドアひらけば真夏 沈みゆく思ひのためにする黙秘あり」もこのグループに属すると見なしてよい。選評で小池光が「黙秘」という言葉の使い方を批判しているが、取り立てて瑕疵とは思われない。記憶に残る歌である。

 受賞対象となった「黙秘の庭」以外の澤村の歌も少し見ておこう。同人誌「豊作」からばらばらにいくつか引く。

 しづかなる湖面を開き魚の背の現るるところ日差しを吸へり

 ふりかへれば横断歩道の明るさは片脚で立つてゐるフラミンゴ

 雑踏にあるときの人の肩の線ふかく沈みゆきそののちに浮く

 かはきゆくみづのかたちを見てゐれば敷石の上ひかりうしなふ

 ひつたりと血を落としゐしわが身体昨夜(きぞ) 更くるまでアメリカにあり

 一首目は葛原妙子の「水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合わさりき」を遠く連想させる歌で、確かな写実に微量の幻視を混入していよう。二首目は下句の喩のおもしろさが効いていて、かすかな青春の痛みを感じさせる。三首目は吉川宏志ばりの「神は細部に宿る」歌。四首目と五首目はアメリカに旅行した折りの羈旅歌。これらの歌を見ても、澤村は言葉を介しての〈私〉と〈現実〉との秘めやかな距離の測量と、それを韻律に従って31文字に定着する技法に習熟していることがわかる。

 いずれも完成度の高い歌である。受賞対象となった「黙秘の庭」50首よりも短歌的には完成している。しかしこのような歌ばかり並べては、角川短歌賞は受賞できなかったかもしれないともふと思う。「黙秘の庭」では、大学院に在籍しながらアルバイトの日々を過ごす等身大の〈私〉の歌、具象的写実に基づきながら抒情を志向する歌、さらに具体性を消去して言葉の共振に身を委ねた歌が、高い連作意識に基づいて配合案配され配置されている。このような戦略が総合的に見て有利に働いたことは確かだろう。あまりに完成された歌からは〈私〉が見えにくい。短歌賞の審査員は歌の背後の作者を知りたがる。小島なおが2年前に角川短歌賞を受賞したとき、作者がほんとうに17歳の女子高校生なのかが選評であれほど議論されたのはそのためである。賞をめざす連作には、完成度は低くても等身大の〈私〉が見える歌が必要なのだ。いやむしろほころびのある歌が混じっていることこそ肝要だと言えなくもない。連作における「捨て歌」の効用である。澤村がそこまで計算していたかどうかはわからない。しかしいろいろな切り口を見せることができることもまた技量のうちだろう。

 まだ歌集を持たない若い作者だが、これからの自分を「歌人」と規定する決意があるか否かが今後を決める。心のなかにある名刺に「歌人」と肩書きをつけるかどうかである。今後に期待したいものだ。

176:2006年10月 第4週 加藤英彦
または、短歌は一行の思想詩たりえるか

神学の果てぐらぐらと煮えたぎる
    鍋ありはつか血の匂いする
      加藤英彦『スサノオの泣き虫』

 「誤爆」と題された連作中の一首であり、イラク戦争に材を採ったものと思われる。だとすると「神学」はイスラム教を暗示し、血の匂いは自爆テロへと意味的に通底することは明らかだろう。宗教への熱烈な帰依が時として暴力行為へとつながることを主題とした歌で、歌意はかなり直截に表現されている。問題は、この歌に表現されているのがひとつの「思想」であり、その主体となるべき〈私〉が歌の中に不在であるという点にある。このことは同じ加藤の「寒鰤の頭(ず)をきり落とす厨からたちまち世紀が昏れはじめたり」という別の歌と比較すると、ちがいがよくわかる。台所で出刃を振るい寒鰤の頭を切り落とす行為の主体は、表現されていなくても〈私〉であるとするのが短歌の約束事である。この歌には台所という具体的な情景があり、〈私〉の身体的行為と相関するように、「たちまち世紀が昏れはじめたり」という思念が歌われている。ここでは〈知覚できる具体物〉と〈目に見えない思念〉とが、互いに照応するようにバランスよく配されていて、一首の意味が読者の心の適切な場所に着地することを可能にしているのである。ところが掲出歌ではこの具体物と思念とのバランスが極端に一方に偏るように崩れており、まるで作者の頭の中の思念だけを掴みだして見せられているような感じさえする。

 加藤英彦は1954年生まれで、現在は同人誌『Es』を拠点として活動している。歌歴は長いが『スサノオの泣き虫』は第一歌集で、三枝昂之・内藤明・天草季紅が栞文を寄せている。先に加藤の歌における思念の突出について触れたが、歌集を一読すると、加藤にとって短歌とは「韻律を響かせる型式」ではなく、「思想を盛る器」であることがわかる。一行で書かれた思想詩のような作品が多く見られ、そこにひっかかりを感じるのである。

 権力にまみれて鈍きてのひらをもたばたやすく汚れてしまう

 かつて〈地上の楽園〉というまぼろしを恃みし幾万の骨起(た)ちあがれ

 中枢を撃つ一兵としてわれの位置あるや枯木一枝をかかえ

 突如蜂起の合図かこれは空砲の数発か いや、真夏の花火

 飼育さるる劣位に太るわが眠りをはるかに越えてゆく機影あり

 権力がめくれているぞ炎天を樹皮一枚のように反りつつ

 歳月に霜はふりつつ蔵ふかく眠るよ古き一振りの斧

 権力と対峙し蜂起を夢見る左翼的思想が基調にあるが、作者の自意識のスタンスをよく示しているのは、3首目「かつて〈地上の楽園〉」と5首目「飼育さるる」と7首目「歳月に」あたりの歌だろう。「中枢を撃つ一兵としてわれの位置あるや」と自問する〈私〉が抱えているのは役に立たない枯枝であり、〈私〉は日常的に飼育されるという劣位にあってだらしなく太り続けている。蔵に眠る斧は世界変革を夢見る意志だが、斧を振るわなくなって久しく、斧は空しく錆びて蔵の中に眠るばかりである。おおむねこのような苦さを含む自己省察と鬱屈感が表現されている歌が多い。そこから次のような一連の歌も生まれるのだろう。

 ゆっくりと書架が倒れてくる夢のうらがわで一人が殺される

 どのような世界にゆける黙したるこの水道の蛇口のくらさ

 殺めたきひとりをさがす眼に会いてより心中に咲(ひら)く花あり

 硝子屋の玻璃いっせいに燦きはじむ未来など信ずるに足らぬ

作者の思想は上に引用したような歌群よりは暗喩的に表現されており、歌の重心はより抒情に傾いてはいるが、連続性は明らかである。これら一連の歌において、作者が表現しようとする思想が膨れあがり、短歌定型という皮を突き破って溢れようとするため、短歌の内的韻律が片隅に追いやられてしまうということがしばしば起きている。同じように思想的な短歌を作りながらも、「歌は韻律」ということを忘れない佐藤通雅とは対照的である。

 加藤の短歌のもうひとつの特徴はその演劇性である。集中の「死蝶幻想」と題された連測には戯曲から取られた科白が詞書きのように添えられていて、演劇と短歌の融合を試みているかのようである。

 あれはだれの忘れもの 闇のなかの螢。百年前の祭のあとの──

 燃えつきる記憶の蝶がひりひりと死の叢に放たれる

 呪われている 誰が? そう、あなたのなかの私とわたしのなかのあなたが

 井戸のポンプゆたばしる水勢しろき脛にひかりを感じ濡れるたましい

 短歌の定型が解体されて劇的科白へと組み換えられている。加藤はあとがきのなかで「限りなく日常の事実性から遠ざかることで、一首を自在な空間へと解き放とうと思った」「虚構という呼称すら無効となるような全き幻想のなかに身を投じるほか、作品が自立する道などないように思われた」と書いている。このようなスタンスを採る加藤が演劇の持つ本来的虚構性に惹かれたことはまちがいない。このように加藤は、一行思想詩という切り口から現代詩へと接近し、また虚構の演劇性という切り口から演劇へと接近するのだが、両方の方向に見られるのは強い観念性である。加藤が拠る同人誌『Es』の同人の江田浩司山田消児松野志保にもまた劇的身振りがよく見られるのは、決して偶然ではないだろう。

 しかし、上にも書いたことだが、過剰な観念性は短歌における知覚可能な具体物と不可視の思念とのバランスを大きく一方に傾けてしまうため、読者の理解を拒否する短歌になりがちであることに留意すべきだろう。読者は歌に詠まれた具体物の視覚的イメージを手掛かりとして、韻律の河を遡り、暗喩の橋を渡って、歌に詠まれた〈何か〉を追体験的に感得しようとする。よくできた短歌はこの「〈何か〉の追体験」を読者みずからが遂行できるよう組み立てられているため、読者はそこに自分で発見したかのような強い感動を覚えるのである。これを可能にするためには、歌のなかの具体物と思念とがバランスよく配されていることが必要であり、かつ読者による探索的遡上を可能にするために、表現したい思念を剥き出しにせず敢て隠すという配慮もまた必要なのである。すべてが言い切られていたら、もうそれ以上〈何か〉を探しに行く必要はないのであり、歌の魅力はなくなってしまう。加藤の次のような歌を見ると、そのように感じてしまうのである。

 抱(いだ)きあうかたちの雲がうごかざり愛の濃さとは渇きのふかさ

 日常はつまずきやすき泥濘にあれば爪先だちて歩めよ

上に引用した歌群とはまた異なる方向性の歌もこの歌集にはある。

 水が匂うゆうべの堀割をすぎて蔵のなかへと手をひかれゆく

 指先を湯にあたためている午後の君にちかづくまでの二、三歩

 あなたふかい空洞を抱く食卓に水蜜桃(すいみつ) ひとつが影を落とせり

 夏陽たかく澄む丘を越ゆいちまいの空ふるわせて響く空砲

 高層ビルの屋上くらき亀裂よりひとすじ春の無精卵ふる

 三枝昂之は栞文のなかで、このような歌が加藤の短歌の「古層」だろうと述べている。確かに加藤の短歌の「やわらかき部分」であることはまちがいない。このような古層から汲み上げる歌と抽象的思念とのバランスが問題だと思うのである。

175:2006年10月 第3週 ハルシオンの歌

ハルシオン 今亡き君はわれを待つ 
    その百錠の果ての花園
         
大津仁昭『霊人』

 今回はお題シリーズの「ハルシオン」である。ハルシオンは向精神薬トリアゾラムの商品名で、その響きのよい名のせいか、睡眠導入剤の代名詞的存在になりつつある。人気ロックバンドのsophiaが「黒いブーツ」という歌のなかで「どこからかくすねた春四音」と歌い、劇作家鴻上尚史は『ハルシオン・デイズ』という題名の劇を書くほどよく知られているのである。かねてから響きのよい名に惹かれていたが、ハルシオンが詠み込まれている歌を集めるのにずいぶん時間がかかった。たぶんどんな短歌集成でも項目として立項されていないだろう。

 睡眠導入剤は使い方によっては危険な薬であり、昔から自殺の手段として用いられてきた。芥川龍之介はパルビタール系のベロナールを服用したし、岸上大作はブロバリンで自殺している。大津の歌はそのような背景を踏まえたものである。自殺した「君」が私がそちら側に行くのを待っているというのだが、「百錠の果ての花園」は死の向う側にある涅槃だろう。この世の向う側を見つめる大津らしい歌だが、実はハルシオン百錠では死ねないのである。ハルシオンは安全性の高い睡眠導入剤で、代表的な0.25mg錠剤だと150万錠くらい摂取しないと致死量に達しないそうだ。

 しかしそんなことは歌の瑕疵でも何でもない。「ハルシオン」の音の響きが「花園」を導き出すにはどうしてもこの薬名でなくてはならないからである。「ハル」は「春」に通じて花園のイメージを呼び出すし、なにより「ハルジョオン」という花の名とよく似ているのである。「ハルジョオン」(春女苑)は「ハルシオン」(春紫苑)と呼ばれることもあり、当てられる漢字も美しい。またなぜか「ハルシオン」は競馬馬の名前にありそうでもある。このような事情と5音という座りのよさも手伝って、短歌には比較的よく詠まれるのだろう。

 じんじんと初夏深みゆきハルシオン効かずなりしと人は訴う  三井 修

 ハルシオンの無味、デパスのほのかな甘み、ブロムワレリル尿素の苦み  松木 秀

 ずばり睡眠導入剤としてのハルシオンが詠まれた歌。三井の歌はたぶん病床に長くある人で睡眠障害のためハルシオンを処方されているが、耐性のため効かなくなってきたのだめろう。初夏の深まりという季節のなかに人を配する古典的手法であるが、「初夏」と「ハルシオン」が喚起する「春」とが衝突していることに注目しよう。松木の歌は薬剤名が列記されているところがミソで、韻律に合わない破調は無視されている。デパスは向うつ剤で催眠効果もある薬、ブロムワレリル尿素はブロバリンのことである。薬剤に依存しなくてはならない境涯を薬物の味で表現しているところにこの歌の凄みがある。

 言えなかった言葉の数だけ流し込むハルシオンの白病みし者射る  伊津野重美

 地中へと埋めてやれば何か出てくるかも知れぬ千のハルシオン  生沼義朗

 これらの歌ではハルシオンは単に睡眠導入剤というだけではなく、別の何ものかを暗示する記号として用いられている。伊津野の歌ではそれは人との関係のなかで我が身に受けた傷だろう。「言えなかった言葉」の数だけハルシオンを流し込むというところに自傷的傾向が見られる。ちなみにハルシオンの0.125mg錠剤は薄い紫色、0.25mg錠剤は薄い青色だそうで、白ではないようだ。生沼の歌ではハルシオンという名と植物名との類似が連想の元にあると思われる。「千」という尋常ではない数が効果的である。ちなみにハルシオンには健忘症の副作用があるというから、「忘却」という連想関係もここには隠れているかもしれない。

 そのときはかのハルシオン・ローレライ歌わせてくれあなたの島で  正岡 豊

 あづさ弓春ハルシオン依存症指から花にかはつていくよ  西橋美保

 だんだんに睡眠導入剤という実質から遠く離れて、これらの歌ではハルシオンはほとんど記号的価値のみになっている。正岡の歌では「ハルシオン・ローレライ」と中黒でふたつの名が結合されて呼びかけの対象となっているのだが、もっぱら音の美しさとローレライと結びつく「忘却」という潜在的意味から選ばれたものと思われる(注)。西橋の歌では「あづさ弓」は「春」にかかる枕詞であり、「春」が「ハルシオン」を呼び出し、「ハルシオン」の花のイメージが指から花に変わる連想を呼び出すという関係になっている。「ハルシオン」が喚起する音の連鎖とイメージの連鎖から成り立っている歌である。

 単なるひとつの薬剤の固有名でしかないハルシオンが短歌のなかに配されたとき、このように豊かな記号作用を生み出すというところにもまた、言葉のおもしろさがあるのだろう。

 (注)「ハルシオン・ローレライ」はB.M.ステイブルフォード作のSF小説の題名だった。この小説ではハルシオンは暗黒星雲の名前として用いられている。これは黒瀬珂瀾氏の指摘による。

174:2006年10月 第2週 三井 修
または、言葉の力はいかにして新たな現実を浮上させるか

タルト生地まだ熱すぎる黒すぐり
    載せる前にまたイラクの死者達
          三井修『軌跡』

 タルト生地をオーブンで空焼きして、それから上に果物を載せるという菓子作りの手順を詠っているのだが、それが最後の「またイラクの死者達」を導き出す序詞であるかように働いている。平和な日本での菓子作りという日常的光景と、イラク戦争という暴力的出来事との対比が一首の眼目であることは言うまでもない。しかしそれに加えて、熱すぎるタルト生地と灼熱の中東の国との意味的類縁関係、生地に載せる黒すぐりと夥しく流される血の色との連想関係、タルト生地が冷めるまでの時間の短さと、その短い時間に失われる人命の数との目も眩むような対比が、この歌の意味作用を重層的に強化していることにも注目しよう。作者は中東関係の調査機関で長く働き、中東と日本を往還していた人で、その経歴がこの歌のような視点を生んでいるのである。

 三井修は昭和23年(1948年)生まれで「塔」に所属し、『軌跡』は2006年に角川短歌叢書の一巻として出版された第5歌集である。歌歴の長いベテラン歌人であり、『軌跡』に収録された歌は理知的で抑制の効いた写実を基本としながらも、掲出歌のような技法上の工夫があり、読後に重い充実感の残る一冊であった。

 穂村弘は『短歌はプロに訊け!』のなかで「短歌のくびれ」というおもしろい表現を使っている。穂村によれば「短歌のくびれ」とは、ともすれば散文的な寸胴になりがちな歌に砂時計の形のような陰翳を付与する部分であり、作者が表現のしぼりこみを工夫する場所である。三井の短歌を読んでいると、穂村の言う「短歌のくびれ」が実に効果的に配されて、一首を詩として浮揚させていることに気づくのである。試しに次のような歌を見てみよう。

 春の午後水より水へ落つる滝 若枝ひとつを揉みしだきつつ

 六月の陽は先ず光らす近づきて来る人の胸の貝の釦を

 秋雨に降り閉ざされつつ一都市は夕べをはやく灯り初めたり

 十月の野に捨てられいし壜の中 曇りていしと過ぎて思えり

 夕暮れは我らはかなき飲食(おんじき)をなすとて明るき地下へ降りゆく

 テーブルの上のフィンガー・ボールには果汁に濡れたる指が近づく

 帆船のあまた描かれし図譜閉じて春の街へと紛れゆきたり

 夕焼けの下の医院に眼球のあるいはメスに剖(ひら)かれおらん

 一首目のくびれは「水より水へ落つる」の部分である。私たちが「滝」と呼んでいるものは、高低差のある地形において「上の水」から「下の水」へと流れ落ちる水に他ならない。言われてみれば当然のことなのだが、このように言葉で表現されるとハッとする。大袈裟に言えば言葉による「世界の発見」である。二首目では下句の「来る人の胸の貝の」の助詞「の」の連続は、ふつうは避けるべき文体上の瑕疵とされることがあるが、ここでは「人→胸→ボタン」とズームインするようなクローズアップ効果があり、作者のねらいもそこにある。初夏の日差しの強さはまず胸のボタンの光として感じられるという発見を歌にしているが、作者が見聞した実体験とは考えにくく、ここには想像力による相当の工夫が潜在していると見るべきだろう。三首目では眼前の街を「一都市」とあえて不定表現を用いて指示する語法と、「夕べを」の助詞「を」が効果的に働いて、ふだんよりも早く点灯する街の光景を一片の詩にしている。四首目では捨てられている壜の中が曇っているというディテールに注目する視線の細やかさもさることながら、ポイントは結句の「過ぎて思えり」にあり、見る行為と気づくという意識の働きのあいだのタイムラグを描くのがこの歌の眼目だと思われる。このタイムラグを設定することによって、「壜の中が曇っている」という些事が、「私たちが何かに気づくこと」という普遍的地平へと押し上げられている。六首目は、何人かで連れ立って地下街のレストランに食事に行くという何げない日常の光景を描いているが、「はかなき飲食」と表現されることでいずれ迎える死が暗示され、「明るき地下」はあたかも地下墳墓のごとき観を呈している。ひるがえった「我ら」という人称詞は、作者を含むその場にいる人という限定的集団を超えて、「この世に生を送る私たち」という全称表現へと止揚されるのである。七首目のくびれはカメラ・アングルであり、人間の全身は隠されたまま指とフィンガー・ボールだけがクローズアップされている。八首目では帆船と春の街という開放感溢れる場面設定のなかで、画集を閉じた〈私〉が街へ「紛れゆく」と表現されている点が、この歌の絞り込みでありくびれである。これが「春の街へと歩み出でたり」ならば希望溢れる出発の歌になる。「紛れゆく」ところに中年を越えた男の苦さと翳りがある。九首目で叙景としては夕焼けと病院のみで、あとは〈私〉の想像が作り出したものである。眼の手術に伴う出血と痛みの感覚が夕焼けと結びつくが、もう少し想像をたくましくすれば、手術によってさらに世界がよく見通せる眼を獲得するという願望も潜んでいるのかもしれない。

 読んでいて気がついたのは、窓や硝子を通して情景を見ているという設定の歌が多いことである。

 ゴンドラに硝子を磨く人ありてわれと一枚の透明を隔つ

 玻璃の内明るく照りて若者がケーキ台に薔薇を搾りていたり

 薄片をはらはら零しつつ人はパイ食みており窓辺の卓に

 ゆきずりのインド料理店の窓 今し窯よりナンの出さるる

 一首目では〈私〉が室内にいて外部と透明な硝子で隔てられているが、残りは逆で〈私〉が外にいて内部を見ている。いずれも取り立てて劇的な光景ではなく、ささいな日常的風景なのだが、〈私〉は孤独な窓越しの観察者の位置にいて、硝子によって切り取られた光景は鮮やかに浮かび上がっている。歌によって〈私〉の内部に屈み込むのではなく、窓の形に切り取られた歌を通して静かに世界と繋がりたいという作者のスタンスが現れているものと解したい。

 何げない光景であっても、作者の目によって切り取られ、的確な言葉によって新たな整序を与えられたとき、そこにはまったく新しい現実の姿が顕現する。これが言葉の持つ現実を浮揚させる力であり、三井の短歌はその力をまざまざと感じさせてくれる。