021:2003年10月 第2週 山崎方代
または、しどろもどろの湯呑み茶碗のなつかしさ

ふるさとの右左口郷(うばぐちむら)は骨壺の
   底にゆられてわがかえる村

        山崎方代

 日本の詩歌には風狂と漂泊の伝統がある。佐藤義清改め西行は、取りすがる妻子を足蹴にして出家し、詩歌の道に身を投じた。唐木順三が『無用者の系譜』(筑摩叢書)で取り上げたのは、「身を用なき者に思ひなし」た在原業平と惟喬親王であった。近くは自由律俳句の種田山頭火と尾崎放哉の例がある。山崎方代もまた、まちがいなく現代の風狂の系譜に連なる歌人である。

 1914年に生まれ、先の大戦でチモール島クパンの戦闘で右目を失明、左目も0.01の弱視となり生還。生涯定職につかず家族も持たず、鎌倉の草庵に暮して1985年に没する生涯は、まさに「無用者」のそれである。

 こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり

 こんなところに釘が一本打たれいていじればほとりと落ちてしもうた

 甲州の柿はなさけが深くして女のようにあかくて渋い

 仕舞湯に漬け込んでおきし種籾がにっこりと笑って出を待っている

 茶碗の底に梅干の種が二つ並びおるああこれが愛と云うものだ

 寂しくてひとり笑えば茶ぶ台の上の茶碗が笑い出したり

 岡井隆は山崎の歌に感じられる懐かしさのようなものは、長くこの列島に住んで農業に従事してきた文化の懐かしさであると論じている(『現代百人一首』朝日新聞社)。確かにここに詠われた甲州右左口郷(うばぐちむら)への望郷の念、卓袱台と種籾のある風景は、農家の庭先に柿が実る日本の農村の風景を既視感のように描き出している。しかし、それは障害者として復員した方代が、戦後復興と高度成長から疎外された者として後半生を生きたことの裏返しであることも忘れてはならないだろう。

 方代の短歌は、定型と口語使用の混淆と評されることがある。確かに全体として短歌の定型の枠内にはあるのだが、随所に「落ちてしもうた」「並びおる」「愛と云うものだ」のような口語が顔を出す。口語と言っても俵万智以後の口語短歌のような若者言葉ではなく、どちらかというと田舎臭い老人の口語である。それが歌に何とも言えない苦みを含んだペーソスと軽みを与えていて、方代の歌が広く愛誦される理由のひとつとなっている。

 没後、『方代研究』という研究誌が刊行されており、坂出裕子『道化の孤独 歌人山崎方代』(不識書院1998)、田澤拓也『無用の達人 山崎方代』(角川書店2002)、大下一真『山崎方代のうた』(短歌新聞社2003)など研究書の刊行も相次いでいる。確かにぎすぎすした現代の管理社会に生きる私たちにとって、方代のような一所不住と漂泊の風狂の人生は魅力あるものと映るのかも知れない。

 方代は岡野桂一郎に勧められてフランスの泥棒詩人フランソワ・ヴィヨンの詩集を知り、擦り切れるほど愛読したという。鈴木信太郎訳の『ヴィヨン詩鈔』である。

 フランソア・ヴィヨンの詩鈔をふところに一ッ木町を追われゆくなり

 気分はもう泥棒である。ヴィヨンに影響されて次のような歌まで作っている。

 宿無しの吾の目玉に落ちて来てどきりと赤い一ひらの落葉

 どうも方代は自らをヴィヨンになぞらえる意図があったようだ。また私生活ではなかなかのお洒落で、まとまった金が入ったときに白い麻のスーツを誂えたという。玉城徹が指摘するように、方代には自己演出があり、「自分の作品世界のなかに<方代>という象徴的主体を設定して、さらのその主体を現実生活の中でみずから演じて見せた」ということなのかもしれない。それは障害者として復員し、戦後の日本に居場所を持たなかった方代の、自己を失わずに生き延びる方法論でもあったにちがいない。短歌は人にこのような生きる場所を与えることもある。

020:2003年10月 第1週 山尾悠子
または、幻想の夜の紅玉を砕けば言葉の光る粒

昏れゆく市街(まち)に鷹を放たば紅玉の
   夜の果てまで水脈(みを)たちのぼれ

        山尾悠子『角砂糖の日』

 短歌の世界で山尾悠子の名を知る人は少ないだろう。山尾はもっぱら幻想的SF作家として知られており、熱狂的愛好者がいる作家で、若干20歳で『SFマガジン』にデビューを果たしている。その作品は、『SFマガジン』や『幻想文学』誌上に発表されたまま単行本化されなかったため、長らく読者の手の届かない所にあったが、幸い『山尾悠子作品集成』(国書刊行会)が2000年に刊行され、いささか高価な代価さえ支払えば、主要な作品を読むことができるようになった。

 『集成』から作品名を拾ってみると、「夢の棲む街」「耶路庭園異聞」「私はその男にハンザ街で出会った」「破壊王」「支那の禽」「夜半楽」と並んでいて、山尾作品の内容をおぼろげながら感じてもらえるかと思う。こんな文章を書く作家である。

「仰角45度、月齢13.5の辺境の月は、依然として純粋な夜の青さの光源となっている。もはや抵抗の気力も失せた。”神”の美少年は、胴上げの姿勢で何処かへ運び去られていったようだ。」

 その作品は、ときにE.A.ポーの短編の趣を湛え、ときに倉橋由美子の不条理な世界に近づくこともある。『集成』巻末の石堂藍による解題に、山尾が自身の精神形成を回想するインタビューが引かれている。曰く、「あの頃の大学生の流行は、倉橋由美子、アイリス・マードック、ロレンス・ダレル、高橋たか子だった。アナイス・ニンやパシュラールとか。京都に住んでいましたから、生田耕作の『るさんちまん』は必読で、高橋たか子の『誘惑者』を読んで、赤江瀑を読んで。周りの人がみんなそうでしたから」「あの頃」とは、山尾が京都の同志社大学に入学した1973年の頃である。山尾が並べる名前は、涙が出るほど懐かしい名前ばかりである。「周りの人がみんなそうだった」というほど、みんな知的憧憬に駆動されて読書に耽溺した時代だったのだ。文学が必須の教養の座から滑り落ちて久しい現代から見れば、隔世の感がある。

 山尾は小説家としての活動のかたわら、若い頃から短歌を作っているという。『角砂糖の日』は山尾唯一の歌集で、1982年に深夜叢書社から刊行されている。歌集の存在は知っていたがもはや絶版で、古書店のカタログにも載らず、私にとっては長らく幻の歌集であったが、短歌を愛好する旧友のおかげで最近入手することができた。

 山尾は深夜叢書社の斎藤慎爾から、「きれいな本を作ってあげるから」と誘わてこの歌集を編んだという。深夜叢書社は、社主の斎藤慎爾が山形大学生のときに創設したひとり出版社である。黒鳥館館主・中井英夫が短歌界の裏の仕掛け人であったように、斎藤慎爾もまた、俳句の世界では知らない人はいない。その軌跡を辿りたい向きは、久世光彦他編集になる大型ヴィジュアル本『寺山修司・斎藤慎爾の世界』(柏書房)を見られるがよい。斎藤にはまた、遊び心溢れた『短歌殺人事件』『俳句殺人事件』(いずれも光文社文庫)という、短歌と俳句が重要な役を演じるミステリーのアンソロジーがあることも付け加えておこう。

 試みに斎藤の句をいくつかあげてみよう。

 百日紅死はいちまいの畳かな

 天金こぼす神父の聖書秋夜汽車

 人妻に致死量の花粉こぼす百合

 その斎藤が注目し、歌集の出版を勧めたのだから、山尾悠子の短歌が凡庸なものであるはずがない。掲載歌「昏れゆく市街に」は、集中最も山尾らしい歌だが、次のような歌が目に留まる。

 金魚の屍(し) 彩色のまま支那服の母狂ひたまふ日のまぼろしに

 角砂糖角(かど)ほろほろと悲しき日窓硝子唾(つ)もて濡らせしはいつ

 腐食のことも慈雨に数へてあけぼのの寺院かほれる春の弱酸

 鏡のすみに野獣よぎれる昼さがり曼陀羅華(まんだらげ)にも美女(ベル)は棲みにき

 夢醒めの葛湯ほろろに病熱の抱きごころ午後うす甘かりき

 春を疲れ父眠りたまふあかときはひとの音せぬ魂(たま)もたつかな

 山尾の短歌はきらきらとした言葉でできている。『山尾悠子集成』巻末の解題で、昔『幻想文学』誌上のインタビューで、「<世界は言葉でできている> というのが山尾悠子を象徴する言葉ではないか」と問われ、山尾が肯定したというエピソードが紹介されている。確かに山尾の幻想的SF小説が克明に描き出す世界は、現実のなかにその対応物を持たない。いわんや作者の実生活とはまるで接点がない。描かれた世界は<虚構> であり、<観念>である。それと同じように、山尾の短歌もまた「言葉でできている」のであり、われわれは、その中に過剰な<意味>を読みとろうとすることなく、歌のなかに散りばめられた煌めく言葉が目を射、視神経を辿って脳細胞に突き刺さる感覚を味わえばよい。これが、山尾のような視座から短歌を作る作家の正しい鑑賞態度である。

 小林恭二は『俳句という遊び』(岩波新書)のなかで、高橋睦郎の俳句世界について、「高橋が俳句を作るとき、そこには外的世界に求められるモチーフというものはなく、言葉がすべてである。上質の言葉を発見しそれを研磨しおえた時点で作品は完成する」と述べているが、この小林の言葉はそのまま山尾の作品世界にも当てはまるのである。

019:2003年9月 第4週 早川志織
または、ゆっくり溶け出してベゴニアになる〈私〉

木曜の夕べわたしは倦怠を
   気根のように垂らしてやまず

        早川志織『種の起源』

 歌人のなかで、短歌を作ることだけで生活が成り立っている人は、大きな結社の主宰者を除けば稀だろう。この点が小説家との大きなちがいである。歌人は実生活においては短歌以外の職業を持っている。私の印象に過ぎないが、なかでも多いのは出版社の編集者と高校教員のようだ。これは歌人の多くが文学部出身者であることと関係している。出版社と国語の先生は、文学部を卒業した人の定番就職先である。このラインの果てには釈超空(折口信夫)のように、生活全部が国語漬けの国文学者のイメージが控えている。

 ところが歌人のなかには理科系の人もかなりいる。これも小説家との大きなちがいだろう。SFとミステリを除くと、理科系の人で小説家になる人はあまりいない。歌人では、坂井修一が東大の情報科学の教授、永田和宏が京大医学部の再生医科学研究所教授、その子の永田紅は京大理学部の大学院生、小池光は東北大学理学部を出て高校で理科の教員をしている。岡井隆、上田三四二、浜田到は医者である。理科系の人の思考回路と短歌とは、決して水と油のように相いれないものではなく、むしろ引き合う点があるのではないか。

 掲載歌の作者も東京農大を卒業しており、理科系の人である。それは処女歌集『種の起源』の題名にも明らかだ。おそらくは植物・遺伝関係の勉強をしたらしく、歌のなかに植物の名前が数多く詠われている。

 傾けて流す花瓶の水の中 ガーベラのからだすこし溶けていたり

 薄青きセーターを脱ぐかたわらでペペロミアは胞子をこぼしていたり

 異性らよ語りかけるな八月のクレオメが蘂をふるわせている

 アロエベラの花立ちあがる傍に来てわれはしずかに脛を伸ばしぬ

 歌集に折り込まれた栞に、小池光が跋文を寄せていて、そのなかで小池はおもしろい指摘をしている。曰く、「短歌で植物を素材にするとき、ふつうはその植物に蓄積された観念を詠う。桜なら散華の精神、ひまわりなら陽性の若々しさ、紫陽花なら挫折のシンボルというふうに」この方向を徹底させると、短歌に詠み込まれたすべての事物は、シンボルであり隠喩であるということになる。小池には、そのような視点からさまざまな事物を縦横に論じた『現代歌まくら』(五柳書院)という秀作がある。それはさておき、小池は先の引用に続けて、早川詩織の歌に詠み込まれた植物が、その裏側に張り付いた観念から自由であるのみならず、観念からどんどん逃げて行くところが特異だと述べている。確かにそのとおりである。

 これに加えてもうひとつ早川の歌で特異な点は、対象である植物とそれを見ている(詠んでいる)自分との関係の取り方にある。掲載歌では「気根のように」という直喩を用いているのでわかりやすいが、自分と植物が〈自己〉対〈対象〉という対峙する関係ではなく、逆に自分が植物と同化していく感覚が顕著である。「傾けて」の歌のなかのガーベラがすこし溶けているのと同じように、自分の体もまた植物的世界に溶融していくかのごとくである。これは植物に限ったことではない。

 今日われはオオクワガタの静けさでホームの壁にもたれていたり

 露まとう青虫のわれは朝の陽に白き背中をたわめて起きる

 シャワー浴びる男のからだを透視すれば一匹の鯨ただようが見ゆ

 塚本邦雄の短歌の世界は、強烈な観念の世界である。塚本が「赤い旗のひるがへる野に根をおろし下から上へと咲くジギタリス」、「いたみもて世界の外に佇つわれと紅き逆睫毛の曼珠沙華」のように植物を短歌に詠み込むとき、その植物は文字通りの存在ではなく、塚本が詠おうとした観念を表象する象徴である。これは現代短歌が構造的に作り上げた〈世界〉と〈われ〉を拮抗させる対峙関係に、塚本が忠実に従っているからである。

 早川の歌に溢れている特異な身体感覚は、このような〈世界〉と〈われ〉の対峙関係に歌の根拠を求めないという態度に由来するのだろう。男の身体に鯨が透けて見えるように、動物とヒトは進化という連鎖において見れば、断絶ではなく連続している。それはヒトの血液の塩分濃度が海水のそれと同じだという事実や、細胞内のミトコンドリアはもともとは別の生物で、細胞内のエネルギー変換のために体内に取り込んだものだという事実に思い到るとき、私たちが遅まきながら気づくことである。植物ですらも巨視的な進化の階梯においてみれば、ヒトとつながるものだ。早川の身体感覚はおそらくこのような視座に基づくものなのだろう。これは理科系の発想である。ヨーロッパ中世のキリスト教神学と、デカルトに始まる近代哲学は、人間に世界の中心としての特権的地位を与えた。早川の親しむ近代科学の世界では、ヒトは決して特権的な生物ではなく、ただバクテリアから始まる進化の終端に位置しているにすぎない。観念は絶対であるが、進化は相対的である。早川の歌の世界はこのようにヒトが相対化された世界なのだ。そこで詠われた植物や動物が、塚本の歌におけるように観念と直結することなく、ヒトのかたわらにただ〈在る〉存在なのは、むしろ当然と言うべきだろう。早川の歌を読むと、どこかホッとするような開放感を感じることがあるのはそのためである。しょせんヒトといえども、DNAの遺伝情報によって作り上げられたタンパク質の塊にすぎない。もっとも、その塊の上になぜか宿ることになった〈意識〉というやっかいなしろものを考慮しなければの話なのだが。

018:2003年9月 第3週 坂口 弘
または、獄中に咲け悔悟の白い花

雪晴れて格子の雫星のごと
   輝きくるる吾に一瞬

        坂口 弘

 短歌はわずか31文字の短詩型である。短歌には、五・七・五・七・七のリズムとか、枕詞や句切れのような作歌上の技法など、詩型としてのいろいろな特徴があるが、最大の特徴は「短い」ということである。この短い詩型という器が、人間の切羽詰まった情念を盛り込むのに適しているようだ。切羽詰まった情念とは、燃え上がる恋愛感情や、自身の死を目前にした恐れや、肉親を失った悲しみのように、人間を根底から揺り動かす感情をいう。小説のような散文型式は、説明的・描写的記述に適しており、瞬発的な感情を盛り込むには向かない。短歌よりも短い17文字の俳句という型式もあるが、こちらはこちらで、人を揺り動かす感情の契機と、それを受け止める自分までを余さず盛り込むには短すぎる。短歌の31文字は、この点ちょうどよい長さの型式であり、盛り込まれた感情が他に持って行きどころのないものであるほど、歌は祈りに似た風貌を呈するに到る。

 人間が追い込まれる切羽詰まった状況にはいろいろなものがあるが、牢獄につながれて自由を一切奪われるという状況は、なかでもとりわけ切羽詰まったものと言えるだろう。それが死刑判決を受けて刑の執行を待つ身であれば、なおのことである。

 掲載歌の作者である坂口弘は、1972年(昭和47年)に世を震撼させた連合赤軍あさま山荘事件で逮捕された。首謀者の森恒夫が逮捕後、東京拘置所のなかで23万字にも及ぶ自己批判書を書き、逮捕からほぼ一年後の1973年1月1日に、房内で自殺したのとは対照的に、坂口は一切の弁明を拒否し、1993年に最高裁で死刑判決が確定した。以後現在に至るまで死刑囚としての日々を送っている。

 1986年頃から支援者の指導で作歌を始め、1989年から朝日歌壇の熱心な投稿者となった。投稿のときの作者名は「東京都 坂口弘」となっているので、気づかない人も多く、朝日歌壇の選者も最初は気づかなかったと聞く。作歌をまとめて1993年に『坂口弘歌稿』(朝日新聞社)が刊行されている。ただ、最近は朝日歌壇にその名を見ないので、もう投稿はしていないようである。

 坂口の歌のなかには、当然ながらあさま山荘事件に関するものが多くある。しかし、その内容があまりに現実とストレートに繋がり過ぎて、歌としては生硬であり、読むこちら側もあまり共感できない。ただただ凄惨とうつむくしかない。

 自首してと母のマイクに揺らぎたるYに嫌味を吾は言いたり

 リンチにて逝きたる友に詫びながら母と会いおり母を詠みおり

 窓壊し散弾銃を突きいでし写真の吾はわれにてありたり

 総括は友亡くなりて過酷化し死を思うさえ敗北となせり

 女らしさの総括を問い問い詰めて死にたくないと叫ばしめたり

 読んでいて心に沁みるのは、坂口が自分の行為を悔やんでも悔やみ切れない過ちと認識し、その想いに悶える歌である。ここには、短歌という形式以外には盛ることができない感情がある。それはほとんど慟哭である。

 リンチ死を敗北死なりと偽りて堕ちゆくを知る全身に知る

 爪を剥ぎ火傷をつくりてわが罪の痛みに耐うるは自虐なりしか

 打続く鼓動を指に聴きし人の命の重み思い知られて

 活動を始めし日より諫められ諫められつつ母を泣かせ来ぬ

 さらに歌として心に響くのは、死刑囚として獄舎で送る日々を詠った歌である。

 そこのみが時間の澱みあるごとし通路のはての格子戸のきわ

 クレンザーを使いすぎると注意されお茶で食器を洗いいるなり

 面会に臆さず君の唄いたるソプラノ低き「平城山」の歌

 彼の人も処刑の前に聞きしならん通勤電車に地の鳴る音を

 そを見ればこころ鎮まる夜の星を見られずなりぬ転房ありて

 枯るるまえ茎断ち切りて監視を避けカーネーションを胸に挿しおり

 激しい感情が渦巻いているわけではなく、平静な日常のひとコマや、ふと萌した想いを歌にしているのだが、坂口が置かれている境遇を背景として読むと、胸に迫るものがある。

 朝日歌壇でもう一人獄中歌を作っている人がいる。郷隼人である。彼は第一級殺人を犯して、カリフォルニアの刑務所で終身刑に服しているらしい。朝日新聞でしばらく前に、彼の連載記事が掲載されたことがある。彼に注目している人は意外に多いようで、しばらく朝日歌壇に歌が掲載されないと、どうしたのか気になるという記事がインターネットにあった。

 寒気刺す窓に佇み待ち俺は獄舎の屋根より初日の出ずる

 護送車より最後に海を目にしたは幾年月ぞ海が見たしや

 雨降れば心も病むか冬の雨房に籠れば「鬱」が顔出す

 冤罪であったらばともう一度夢より醒めてやり直したい

 独房の小さき水槽(タンク)に芽生うる生グッピーの赤ちゃん復活祭(イースター)の朝に

 静寂を破る猫らの格闘を煽り立てたり目覚めし囚徒

 交尾期の猫の格闘(ファイト)に囚徒らの大歓声湧く深夜の獄窓

 獄中にあって、しかも死刑囚や終身刑で、二度と外に出ることがないという極限的状況で作られた歌は、限りなく祈りに近づく。たとえ、作歌技法が稚拙なものであっても、そこには心を打つものを感じることができる。ここに、歌の根源のひとつがある。

017:2003年9月 第2週 高橋睦郎
または、わが血中を流れる罪深きフォワグラの苦き脂肪

やがてわれ解けては水に還らむと
   思ふまどろみは水の如かれ

        高橋睦郎

 高橋睦郎は現代日本を代表する詩人である。しかし、彼は中学生の頃から俳句と短歌を作る、九州在住の投稿少年だった。このあたり、津軽の地で俳句と短歌に明け暮れる高校生だった寺山修司と似ていなくもない。小林恭二は『俳句という遊び』(岩波新書)のなかで、現代詩の生みの親となった詩人たちには、年少の頃、句作か作歌の洗礼を受けているという共通点があると指摘している。それが、現代詩の特徴である吃音的性格を決定したのではないかという見方にはギクッとするものがある。

 その指摘の当否はさておき、高橋睦郎にはいくつかの句集と歌集があるのだが、そのほとんどが贈呈用の僅少部数私家版なので、なかなか入手することができない。しかし、句歌集『稽古飲食』が昭和62年に第39回読売文学賞を受賞したのをきっかけに、不識書院から普及版が出版され、多くの人の目に触れるようになった。掲載歌も同じ句歌集からである。前半は句集、後半は歌集という凝った構成の句歌集であるが、前半の俳句と後半の短歌の醸し出す世界がまったくちがうのがおもしろい。

 前半の「稽古」に収録された俳句が描くのは次のような世界である。

花のなき床には飾れ炭二三

双六を
 振りふりて上がれば京や雪ならん

ふるさとは盥に沈着(しづ)く夏のもの

ななくさや落ちて暗渠の水のこゑ

西脇順三郎逝く
 茗荷の根濡らしてすゑは忘れ川

捨靴にいとどを飼ふも夢の夢

 別の句集からも好きな歌を引いておく。

遅き日のまぼろしなりし水ぐるま 『旧句帖』

みちおしへいくたび逢はば旅はてん 『荒童抄』

 調べはあくまで美しくたおやかで、高雅かつ典雅風流の世界である。小林恭二が『俳句という遊び』のなかで、高橋の俳句世界を次のように読み解いている。曰く、「高橋が俳句を作るとき、そこには外的世界に求められるモチーフというものはなく、言葉がすべてである。上質の言葉を発見しそれを研磨しおえた時点で作品は完成する」と。なかなかに鋭い指摘である。こうして作り上げられた俳句の世界は、言葉だけで作り上げられた夢のように美しいものとなる。

 しかし、句歌集『稽古飲食』の後半「飲食」(おんじき) になると、その世界は一転し血と殺戮の支配する荒々しいものである。それは、テーマが生き物を殺して体内に摂取するのに他ならない、人の日常の「飲食」だからである。

うちつけに割つてさばしる血のすぢを鳥占とせむ春立つ卵

不死を病み永久(とは)癒ゆる無き汝に獻(まつ)る須臾にし腐(くた)る飯(いひ)と酒(くし)とを

腐(くた)りつつ馨る玉葱少年の指(おゆび)觸れなばおよびしろがね

死に到る食卓遙(はろ)か續きゐていくつかは椅子二脚をそなふ

にがだま胆嚢ひとつ肉の闇深く蔵せば歡語は盡きず

 どうやら高橋が捉えた飲食のテーマとは、竹林で賢人が飲みかつ食らいつつ歓談する類のさわやかな一夜ではなく、体内の闇に肉を取り込む人間の業のごとき営為であるようだ。そこには次のような作者の孤独もまた反映している。

いろくづの腸(わた)の醢(ひしほ)を古猫とあるじのわれと一皿に食ふ

飲食を置きて向き合ふ一人だにあらざれば言ふこは家ならず

 短距離走者と長距離走者とでは、走るときに用いる筋肉の質が異なるという。それと同じように、俳句と短歌とでは、同じ短詩形式であっても、言葉を繰り出すときに使う「筋肉」がちがうのだろう。17文字の俳句に比べ、31文字の短歌は文字数が多いぶんだけ、「外的世界に求められるモチーフ」が入り込みやすくなる。このちがいが、「稽古」と「飲食」の世界の質の差となっているのではないだろうか。俳句とちがって、高橋の短歌は、「美しい言葉を発見してそれを磨き上げる」だけでは構成されない過剰を内蔵しているようだ。

016:2003年9月 第1週 村木道彦
または、せいしゅんに立ちふさがるマシュマロと緋の椅子

ふかづめの手をポケットにづんといれ
   みづのしたたるやうなゆふぐれ

        村木道彦

 村木道彦は1965年に、『ジュルナール律』掲載の「緋の椅子」連作10首で歌壇に衝撃的なデビューを果たした。『ジュルナール律』というのは、中井英夫が編集責任の「A5版8頁という薄っぺらい」頒値50円の短歌雑誌で、7号まで出版されて消えたのだが、短歌ファンのあいだでは伝説的に語られている歌誌である。資金を提供したスポンサーは、京都にある精華大学の学長も務めた文化人類学者深作光貞である。

 意外に思われるかも知れないが、京都は短歌とゆかりの深い土地だ。その理由のひとつとして、京都大学教養部(当時 現在の京都大学総合人間学部)のドイツ語教員であった高安国世の主宰する歌誌『塔』が、数多くの俊英を輩出したということがあげられる。『塔』は現在では、やはり京大教授の永田和宏が主宰しており、指折りの有力な短歌結社である。ちなみに、永田の夫人は河野裕子で、その子は歌壇賞・現代歌人協会賞を受賞した永田紅である。血は争えない。また高安の影響下で京大短歌会が結成され、ここからも吉川宏志ら多くの歌人が出たことも特筆に値する。

 もうひとつの理由は、他ならぬ深作光貞の存在である。自身歌人である深作は、実作よりも現代短歌の陰のフィクサーとして活躍し、いわゆる前衛短歌の発展に大きな貢献をした。岡井隆が精華大学教授に迎えられたのも、深作の推挽を抜きにしては考えられない。また現在東大教授である社会学者上野千鶴子も短歌を作る人だが、東大に移る前は精華大学に勤務しており、上野が作歌を始めたのも深作の直接の影響によるものだろう。その深作の最大の貢献とされるのが、自腹を切っての『ジュルナール律』の創刊と、その編集を黒鳥館主人・中井英夫に一任したことである。

 さて、村木の「緋の椅子」連作10首であるが、これほどに人口に膾炙し、あちこちで引用される短歌も珍しい。なかでも「緋色の椅子」の一首は、村木の代表歌とされている。

 するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら

 めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子

 水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうたえるただ麦畑

 黄のはなのさきていたるを せいねんのゆからあがりしあとの夕闇

 唯一の歌集『天唇』収録の他の連作からも引用しよう。

 黄昏 (こうこん)のひかりみちたり 時計店 無数に時はきざまれながら

 せいしゅんはあらしのごときなみだとも いわんかたなく夏きたりけり

 ものぐさに砂踏みゆけば馬が居る うまのにおいのごときゆうぐれ

 ややよごれているガラスごしみはるかす金のむぎばた 銀の憂愁

 あくまでもマシュマロのように軽い口語の使用、柔らかな印象を生み出すひらがなの多用、「するだろう」に見られるような斬新な区切れ、また歌全体に充満する若さに伴う倦怠感と憂愁、村木の歌のこれらの特徴は、その後現代短歌に燎原の火のように拡がることになるライト・ヴァースの元祖というのが定説となっている。その調べのなめらかさと愛唱性は際立っている。

 サラダ短歌の俵万智は、「村木道彦の作品に出会ったとき私は、もうすっかり「ハマってしまった」という状態だった」(『短歌をよむ』岩波新書)と述懐しているが、俵に限らず多くの人が村木の調べに「ハマって」しまう。麻薬のような魅力があるのだ。短歌がまだ古典文芸であった当時、これほどまでに若い人を惹き付ける要素を散りばめた短歌が世に出たことは奇跡に近い。

 村木を世に送り出した中井英夫が、その当時のことを回想した文章がある(「遠い潮騒-「ジュルナール律」のこと」現代歌人文庫『村木道彦歌集』)。それによると、次の号に新人作品を特集することになり、麻布にあった深作のマンションに、村木を含む5人の新人を集め、あらかじめ寄せられていた作品の手直しを頼んだという。作者に改作を命じたり、自分で短歌の並びを変えたりする中井にとっては当然の作業であった。ところが5人のうち、村木の寄せた「緋の椅子」連作10首だけが完璧な仕上がりで、手直しの余地はなく、他の4人が作り直しを命じられて呻吟するあいだ、村木ひとりはすることがなく部屋の中をうろうろしていたという。このとき村木は若干22歳で、慶応大学に通う学生であった。だから、「緋の椅子」連作10首は最初から、今あるままの形で存在していたのである。中井は「深作の情熱に導かれて突如として現われた美しい亡霊」と書いているが、無理もないことである。

 村木の歌が伝説的に語られるのは、このように世に出た経緯にのみよるものではない。村木はその後作歌をやめ、いわゆる「歌のわかれ」をしてしまったので、なおいっそう「緋の椅子」が白鳥の歌のように聞こえるのだろう。村木が短歌をやめた理由については、自分で語っているインタピューがある。

「それから後がいけませんね。野心も入る、気負いもある、無駄なファイトもある。それから駄目になります。不思議ですね。(…)歌というものがほとほとつまらなくなってやめたんです」(『短歌往来』第3号)
華々しくデビューしたスターが陥るスランプである。村木を世に送り出した中井自身が、次のような手厳しい批評をしている。

「4月号に「おうむ」6首、6月号に「風たつや」8首と引き続いて発表したもらったものの、「緋の椅子」の輝きはすでになく(…) 輝かしい香気は「緋の椅子」を限りに四散した」(「遠い潮騒 -「ジュルナール律」のこと」現代歌人文庫『村木道彦歌集』)
中井が村木に言ったという、「君はショート・ランナーだ」という言葉が、すでに村木の未来を予見していたのかも知れない。

 長い沈黙ののち、村木は1989年にふたたび作歌を再開している。再び歌に戻ってきた村木が作るのは次のような歌である。

 壮年に春は深しも翔けのぼる雲雀を蒼天の冥きに吸われ

 傷口をこころにもてばガラス戸の雨滴は花のごとくひろがる

 晩年へなべては迅し雨脚も傘もひとらも傾きてゆく

 生くるとは疲労に重ぬる疲労なり「広告求む」という広告塔

 村木のデビュー作「緋の椅子」は、「絶対に、永遠に、二十歳の歌」(正津勉)であった。しかし、人はいつまでも二十歳でいられるわけではない。静岡で高校教員としての人生を送りながら、作歌を再開した村木の短歌に、坂道をころがり落ちるように歳を重ねる人間の苦みばかりが目立つのも、また無理からぬことである。

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015:2003年8月 第3週 夏の歌

 もう立秋を過ぎたので、暦の上では秋だから、歌人も秋の装いを整えなくてはならないのだろうが、それは暦の上だけのことである。京都では8月16日の大文字の送り火が終わると、夏がこれで終わったと言い合う習わしだが、まだ日中は35度を越える暑さである。というわけで、今回は夏の歌を取り上げてみることにする。

 通り雨たちまちすぎてあさがほ
     紺のほとりに髪洗ひおり
             辺見じゅん

 これは盛夏ではなく初夏の歌だろう。歌全体に漲る爽やかさは、けだるい午後の盛夏ではなく、爽快な朝を持つ初夏の印象が強い。朝顔の紺色が洗っている髪に移るかのごとくである。
 東京の下町には路地に朝顔が多い。京都では絶えて見られない習慣である。朝顔は突然変異が起きやすく、さまざまな色と形を楽しむに好適なのだという。外来種のヘブンリー・ブルーは、まるで造花のようにまっ青な花を一日中咲かせており、しかも9月末ころまで花が見られる。歌に詠まれた花にまつわる季節感も、今昔の感がある。

 ひろしまと書けばすなわちその文字燃ゆ
            野田 誠

 もともと8月の盂蘭盆は祖先の霊を迎える行事であり、夏は死者の記憶と結びついている。山口県の三隅町という町に住んでいた私の祖父が亡くなったのは、ちょうど盂蘭盆の時期であった。通夜の途中に表に出ると、道から川に向かって点々と松明が灯っており、祖霊を迎える火に見送られて祖父の霊が始源に帰って行くのかと思った。8月は原爆と終戦記念日の月であり、夏は死者を思う季節なのである。掲載句は一度読むと忘れることができない句。書くだけでその文字がめらめらと燃え上がるほど、その記憶は鮮烈である。

 にくしみよかなしみよいまゆうやみを
   しろき夏衣(なつい)のかぜのはらみよ
             村木道彦

 5・7・5・7・7の定型を守っているのだが、どうしても破調の歌に見えてしまう不思議な歌である。「にくしみ」「かなしみ」「ゆうやみ」「かぜのはらみ」と、「み」の音でたたみかけるようなリズムを作っている。内容もよくわからない不思議な歌だが、白い夏服が風をはらんでいるというのは、美しい光景である。この場合、どうしても女性の白いワンピースでなくてはならない。ウエストには薄いブルーのベルトがいいだろう。ああ、しかし夏服という言葉も死語になってしまった。街を行く若者は、おしなべてストリート・ファッションで、カーゴパンツにTシャツか、タンクトップかカミソールである。白いワンピースに麦藁帽子という服装は、もう回想のなかにしか存在しない。タンクトップやカミソールでは、風ははらまないのだ。

 あれは火だと忘れるほどに冷酷に
     みどりが散ってゆきたる花火
              井辻朱美

 夏の花火を詠んだ歌は多い。花火はたいていの場合、華やかさとはかなさの両面をもつものとして把握される。試みに『岩波現代短歌辞典』の「花火」の項を引くと、次のような歌が載っている。

 音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪われている 中城ふみ子

 ゆがみたる花火たちまち拭ふとも無傷の空となることはなし 斎藤 史

 くらぐらと赤大輪の花火散り忘れむことを強く忘れよ 小池 光

乳ガンで若くして死んだ中城の歌には、華やかなるべき花火から疎外された自身の生がある。斎藤の歌は、花火を空につけられた傷と見る特異な感覚がある。斎藤の歩んだ人生の無縁ではなかろう。小池の歌は、一瞬の花火と長の記憶とを、二重の否定で結びつけているところに、力強さが感じられる。

 落葉を重ねるようにシャツ脱げば
      雨の残香部屋中に満ちる
              天道なお

 作者は『短歌研究』800号記念企画「うたう作品賞」に入選した若い歌人。タイに旅行したときの連作のなかの一首である。この入選で注目され、天野慶、脇川飛鳥とともに、携帯短歌「テノヒラタンカ」に参加している。いわゆる「マスノ一派」の歌人である。ホームページは http://tenblo.seesaa.net/
 熱帯地方の夏の午後に来るスコールの雨だろう。その雨に濡れたシャツから、雨の匂いがする。こういう感覚的な短歌に私は弱いのである。「濡れた髪拭わぬままに横たわる夜半の憂いは水の香帯びて」もよい。

 暑ければ夕方ちらと思ふのみ
    用あらば文たまへ青(ブルウ)の
             紀野 恵

 徳島の姫・紀野には夏の名歌が多い。けだるい夏の午後には、好きな男のことを考えるのさえおっくうである。少し涼しくなった夕方に、ちらっと考えるだけである。用があれば手紙をくれという、実に高飛車な女性の態度だが、これが紀野の基本的なトーンである。「青」に「ブルウ」とルビを振るのだが、これは英語のblueでなく、フランス語のbleuでなくてはなるまい。

 紀野には夏の歌が多いので、もう一首。

 夏の水玻璃にあふれてあふことの
       希れなる人に蜜を手渡す
             紀野 恵

 玻璃に溢れる冷水を思い浮かべるだけで消夏になろう。玻璃の器は江戸切り子か、はたまたラリックのアール・ヌーポーの器か。そこに満たす水は、どうしても北山の奥、龍神の住まう貴船の水源の水でなくてはならぬ。

014:2003年8月 第2週 高野公彦
または、夜の中へと身を浸す裸形の生命者

白き霧ながるる夜の草の園に
    自転車はほそきつばさ濡れたり

           高野公彦『汽水の光』
 1941年生まれの高野の短歌は、同世代の他の歌人の歌とともに、「微視的観念の小世界」(篠弘)と批判されたことがある。「小さい私的な思念をよりどころにして」、美しいが小さくまとまりがちであり、「時代にたいする歴史的感覚を喪失しがちだ」という趣旨の批判である。篠はもちろんリアリズム短歌の視座から、批判の意味をこめて「微視的観念の小世界」と形容したのであるが、私にはこれはむしろ褒め言葉のように聞こえる。処女歌集『汽水の光』の跋文で、大岡信が「意識の夜の中へ身を浸して」おり、「内面へのかがみこみが著しい」と表現したその短歌の資質は、すでにこの時点で十全に発揮されていると言えるだろう。若い時に近親者の死を多く経験し、般若心経に親しんだという高野にとって、「すべての人間は死といふものに向かつて時間の座標の上をゆつくりと (しかし確実に) 移動してゐる裸形の生命者」(『地球時計の瞑想』) にすぎないとする認識が、歌の随所に通奏低音のように響いている。

 少年のわが身熱をかなしむにあんずの花は夜も咲(ひら)きおり

 精霊ばつた草にのぼりて乾きたる乾坤を白き日がわたりおり

 あきかぜの中のきりんを見て立てばああ我といふ暗きかたまり

 小池光は、高野の歌のエッセンスは「見立て」にあり、歌の中に俳句が一句潜んでいるというおもしろい解釈を出している(『街角の事物たち』五柳書院)。確かに掲載歌では、公園に忘れられた自転車が、翼を閉じてうずくまる鳥に見立てられている。鳥は翼を閉じて休息しているようにも見え、また濡れた翼はもう二度と羽ばたかないようにも感じられる。

 高野の見立ての極みは、次の代表歌に見られる。

 ふかぶかとあげひばり容れ淡青(たんじょう)の空は暗きまで光の器

 ここでは、ひばりが舞い上がる空が上下反転されて、ひばりを入れる容器に見立てられている。それを「光の器」と呼んだところがこの上なく美しいのはもちろんだが、空を上下反転するダイナミックな空間構成もまた見事と言えよう。このような空間構成の力業は、「精霊ばつた」では、草にとまった小さなバッタとゆっくり移動する日輪という、異常に拡大された遠近法的対比として現われている。まるで望遠カメラを使ったようなこの遠近感覚は、次の歌に顕著である。まるで宇宙空間に浮かぶ地球を人工衛星から眺めているような感覚がある。

 みどりごは泣きつつ目ざむひえびえと北半球にあさがほひらき

 次の歌は本来の意味の見立てではないが、見えないはずのものを見る感覚が新鮮である。

 夜の暗渠みづおと涼しむらさきのあやめの記憶ある水の行く

 あやめを活けた花瓶の水か、あやめの花が咲く水辺を通って来た水か、とにかく水にあやめの記憶が残るという見方は新しく清冽である。ちなみに、「水の歌」のところで触れたが、ここにも「みづ」「水」と、かなと漢字で二度同じ語が反復されている。短歌を読むと歌から歌への連想が湧くのだが、これまたついでに書いておくと、暗渠と花の取り合わせは、どうしても塚本邦雄の次の歌を連想させずにはおかない。

 暗渠の渦に花揉まれをり識らざればつねに冷えびえと鮮(あたら)しモスクワ

013:2003年7月 第4週 穂村 弘
または、真夜中に菓子パンをほおばる爆弾犯

夏空の飛び込み台に立つひとの
    膝には永遠のカサブタありき

             穂村 弘
 穂村が初めて短歌と出逢ったのは、札幌の旭屋書店で偶然に手にとった『國文學』によってだという。その中に塚本邦雄の次の歌があった。「輸出用蘭花の束を空港へ空港へ乞食夫妻がはこび」穂村はこの歌に脳を直撃されるような衝撃を受けたという(『短歌』角川書店、2002年10月号)。当時、漠然と「言葉の呪的機能」について夢想を巡らしていた穂村は、言葉がその呪的機能によって世界を変えてしまうということが現実に存在することを知った。この原体験から穂村の短歌観は発している。評論集『短歌という爆弾』(小学館)の冒頭にある「絶望的に重くて堅い世界の扉をひらく鍵、あるいは呪文、いっそのこと扉ごと吹っ飛ばしてしまうような爆弾」としての短歌という発想は、この原体験の直接の申し子なのである。

 爆弾犯は下宿の四畳半に閉じこもり、なるべく隣人と顔を合わせないようにして、孤独に夜ごと爆弾製造にいそしむ。彼が通うのは近所のコンビニであり、そこで買うのは甘い菓子パンばかりである。エッセー集『世界音痴』(小学館)を読むと、このような爆弾犯のイメージと穂村の実生活は、あまりかけ離れてはいない、いやむしろピッタリすることがわかっておもしろい。勤め帰りにスーパーに寄って、割引シールの貼られたトロの刺身のパックを手にとり、「俺の人生はこれで全部なのか?」と叫ぶくだりは、涙なしには読むことができない。

 塚本邦雄の短歌に衝撃を受けて作歌を始めた穂村が作るのは、しかし次のような歌なのである。

 サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

 ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は

 「酔ってるの? あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

 ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり

 最近の穂村は次のような歌まで作るようになった。『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(この歌集のタイトルからして相当なものだとおわかりだろう)から引用する。

 目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ ほんかくてき

 天才的手書き表札貼りつけてニンニク餃子を攻める夏の夜

 整形前夜ノーマ・ジーンが泣きながら兎の尻に挿すアスピリン

 巻き上げよ、この素晴らしきスパゲティ(キャバクラ嬢の休日風)を

 舌出したまま直滑降でゆくあれは不二家の冬のペコちゃん

 かくして山田富士郎のように、穂村を「短歌界のM君」と呼ぶ人まで現われるようになった(『現代短歌100人20首』邑書林に所収の「「歌壇」の変容について」)。M君とは、1988年から89年にかけて、猟奇的な幼児殺人事件を引き起こした宮崎勤のことである。山田が言いたいのは、幼児的全能感を肥大させたまま大人になり、社会化されなかった自我形成において、M君と穂村には共通する点があるということだろう。ずいぶんな言われようである。

 もっとすごいのもある。石田比呂志は、自分の作歌生活40年が穂村の歌集の出現によって抹殺されるかも知れぬという恐怖感を語り、「本当にそういうことになったとしたら、私はまっ先に東京は青山の茂吉墓前に駆けつけ、腹かっさばいて殉死するしかあるまい」と述べている(現代短歌『雁』21号)。今どき「腹かっさばいて殉死」とはすごい。つまりは石田は穂村の短歌を、「頭から」「完全に」否定しているのである。

 おもしろいのはこのエピソードを紹介しているのが穂村自身だという点だ。「一読してショックで頭の中が白くなった」とは書かれているものの(『現代短歌最前線 下』北溟社)、石田比呂志の激烈な批判に、穂村は反論しようとしない。むしろ自分の歌のなかに、いやおうなくはだかの自分が現われているということを、ややあきらめを込めて認めている。穂村のなかで何かが壊れていると感じるのは、このようなときである。

 とはいえ、『短歌はプロに聞け』(本の雑誌社)で、沢田康彦主宰のFAX短歌会「猫又」に投稿される素人短歌を添削する穂村の批評は冴えている。また、言葉がピシリと決まったときの穂村の短歌には、確かに本人が爆弾と呼ぶほどの起爆力があるのもまた事実なのである。

 ねむるピアノ弾きのために三連の金のペダルに如雨露で水を

 卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピン抜けば朝焼け

 限りなく音よ狂えと朝凪の光に音叉投げる七月

穂村弘のホームページ
http://www.sweetswan.com/0521/syndicate.cgi

012:2003年7月 第3週 水の歌

つつましき花火打たれて照らさるる
   水のおもてにみづあふれたり

        小池 光

 まだ梅雨が明けないが、気温はもう初夏である。夏が来ると水を感じる。夕立が来て、ほてった道路に雨が落ちると、少し日向くさい水の匂いがする。船のデッキを洗うと、木と水の混じった匂いがする。夏の思い出は、水の記憶と結びついている。

 水は地球上でもっともありふれた多量に存在する物質であり、私たちの体の70%は水でできている。水は私たちの外にも内にも等しく存在するのである。短歌でも水はさまざまに詠われていて、印象に残る歌が多い。

 掲載歌には水という言葉が二度出てくる。短歌で同じ言葉を繰り返すときには、一度目は漢字で、二度目はひらがなでというのが作歌の常套手段である。繰り返しによる単調さを避けるためであろう。しかし小池の歌では、漢字とかなのちがいにはもう少し深い意味があるようだ。『岩波現代短歌事典』でこの歌を取り上げた加藤治郎によれば、漢字の「水」は「闇のなかで意識の奥に後退していた水」で、かなの「みづ」は「花火に照らされたとき、はじめて眼前にリアルに」現われた水だという。場面はたぶん花火をしている河原か何かであり、目の前が川だとは知っていても、暗いので見えないのだ。「水」はそこにあることを私が知識として知っていたものであり、概念としての水である。しかし、花火の光が照り映えることにより、そこに目に見えるものとして「みづ」が現出する。光を反射することで、はじめて自らの存在を開示するという水の性質がそこにある。それを「水のおもてにみづあふれたり」と表現するのが、小池の短歌技法の冴えである。

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 他界より眺めてあらばしづかなる
      的となるべきゆうぐれの水

                 葛原妙子

 あちこちで引用される「幻視の女王」葛原の代表作のひとつである。水原紫苑は、水はいのちの源、生の証であり、自分がこの世に存在する事実を映し出す鏡であるため、死の国の魔手か狙う恰好の標的となると読み解いている。小池は、雨上がりの水たまりを見ているだけの歌だと、そっけない。作者自注によれば、フライパンの底に水が溜まっているのを見て思いついた歌だということだが、そこから「他界より眺めてあらば」という発想を引き出すところが、幻視の女王たるゆえんである。

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 水につばき椿にみづのうすあかり
     死にたくあらばかかるゆふぐれ

             松平修文『水村』

 偶然だがこの歌でも水は二度、それも漢字とかなの順番で現われている。おまけに椿も同じように二度登場し、今度はかな・漢字と逆の順番だから、いっそう手が込んでいる。水と椿が漢字とかなを交代しながら交錯するところに、音だけでなく視覚にも訴えるリズム感が生まれる。作者の松平は日本画家・美術評論家で、幻想的歌風を得意としているが、掲載歌には少し退廃的なはやり歌のような趣があり、一読すると忘れられない味わいがある。また上の句の「うすあかり」は、久保田万太郎の絶唱「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」を思い出させる。松平には水を詠んだ歌がたくさんあり、気に入りの題材だったらしい。自身の歌集の題名も『水村』である。そういえば、荒川洋治の詩集にも『水駅』というのがあった。『水村』からいまいくつかの歌を引く。

 水の辺にからくれなゐの自動車 (くるま)来て烟のような少女を降ろす

 床下に水たくわへて鰐を飼ふ少女の相手夜ごと異なる

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 背にひかりはじくおごりのうつくしく
         水から上がりつづけよ青年

         佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』

 この歌では水は松平の歌のように人を死に誘うものではない。プールから上がる青年の背中に煌めく水は、青年の生命力を輝かせるものである。水は器の方形に従うというが、場面によって死の象徴とも生のシンボルともなる。人は水から上がり続けることはできないのだが、この歌のようにそう命令されてしまうと、まるで録画の同じ場所を何度も再生して見ているような錯覚を起こすところがおもしろい。

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 最後にこれも美しい水の歌を。ここでも水という言葉が二度使われていて、ここまで来るととても偶然とは思えない。水にはそのような歌い方を誘う何かがあるのだろうか。

 水風呂にみずみちたればとっぷりと
        くれてうたえるただ麦畑

              村木道彦『天唇』

水風呂が一杯になり、外には夕暮れの麦畑が拡がっているというそれだけの光景を詠んだ歌だが、静かな童話的とも言えるリズム感が残す印象には忘れがたいものがある。名歌と言えよう。この歌は村木の歌壇デビューとなった『ジュルナール律』第3号(1965)に掲載された「緋の椅子」10首に含まれていた歌である。