056:2004年6月 第3週 アジサイの歌

天ふかく陽(ひ)の道ありぬあぢさゐの
     露けき青の花群(はなむら)のうへ

                  高野公彦
 梅雨の季節がまたやってきた。梅雨は嫌う人が多いが、私はまんざら嫌いでもない。湿度と降雨にアジアの湿潤を実感するからである。梅雨を代表する花といえばアジサイだろう。アジサイは6月という近代短歌の歌枕と結びついて、短歌ではよく登場する花である。漢字では紫陽花と書き、短歌では「あぢさゐ」と表記されることが多い。

 ものの本によるとアジサイは日本固有の植物で古くから自生し、万葉集にはアジサイを詠んだ歌が2首あるという。しかし短歌によく登場するようになるのは近代短歌の時代を迎えてからであり、特に戦後になってからだそうだ。

 『岩波現代短歌辞典』によれば、明治時代にアジサイを詠んだ歌には、即物的な花の形や色に焦点を当てたものが多く、特に何かの心情を託した歌は少ないという。次の宇都野研の歌はずばり形と色の変化に着目したものであり、与謝野晶子の歌はアジサイの花を花櫛に見立てたものである。

 球形(たまがた)のまとまりくれば梅雨の花あぢさゐは移る群青の色に 宇都野研

 紫陽花も花櫛したる頭をばうち傾けてなげく夕ぐれ  与謝野晶子

 アジサイの歌として有名なのは次の歌である。しかし、ここではアジサイの藍色という色彩に言及されているだけであり、この歌の眼目はむしろ下句の「ぬばたまの夜あさねさす昼」で、古風な枕詞をあえて連ねることで昼夜の交代から時間の変化を感じさせる仕掛けになっている。

 あぢさゐの藍のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あさねさす昼 佐藤佐太郎

 アジサイの他の花にない特徴としては、やはりその丸く咲く球形花序という特殊な形と、色彩が変化するという点であり、この点に着目した歌が多くあるのは自然と言えるだろう。

 美しき球の透視をゆめむべくあぢさゐの花あまた咲きたり 葛原妙子

 昼の視力まぶしむしばし 紫陽花の球に白き嬰児ゐる

 紫陽花のむらがる窓に重なり大き地球儀の球は冷えゐつ

 「幻視の女王」葛原は「球形」という形にこだわりがあり、球形花序を持つアジサイは特に好みの花だったと思われる。球形は幻視を誘う誘因であり、上にあげた3首でもその効果はいかんなく発揮されている。特に3首目では、アジサイの球形と地球儀の球とが重なるという趣向であり、葛原の球形への偏愛がダブルで現われているところがおもしろい。

 あじさいにバイロン卿の目の色の宿りはじめる季節と呼ばむ 大滝和子

 あじさいの色づく速さかなしみて吾のかたえに立ちたまえかし

 大滝の歌では特にアジサイの色に焦点が当てられている。バイロン卿の目の色が何色だったのか知らないが、おそらく透明感のあるブルーだと想像される。青または藍という表現ではなく、「バイロン卿の目の色」という措辞によって、一首に華やかさと象徴性と、一抹の悲劇性が付与されている。

 近代短歌において特に好まれたのは、アジサイの花にまとわりつくこの悲劇性という象徴的価値である。

 森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし 寺山修司

 寺山が15歳のときに作ったこの有名な歌には、色濃く現われている青春性と、それとは対照的なアジサイの「暗さ」が際立っている。同じ時期の「列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし」に見られるヒマワリの陽性とは逆である。ヒマワリが畑などの開けた場所に太陽を浴びて咲いているのとは異なり、梅雨どきの雨のなか下町の路地裏に咲くというアジサイがこの悲劇的なイメージの由来なのだろうか。

 60年安保闘争という戦後最大の社会史的事件は、短歌史にとっても重要な節目であるが、6月に咲くアジサイに決定的な象徴的価値を付与したと言ってよいだろう。

 色変えてゆく紫陽花の開花期に触れながら触れがたきもの確かめる 岸上大作

 あじさいに降る六月の雨暗くジョジョーよ後はお前が歌え 福島泰樹

 結句の「確かめる」という終止形が岸上らしさを強く感じさせる一首である。「触れがたきもの」とは自分の揺れ動く心だろう。福島の歌は、岸上への10年後の挽歌である。6月という月もまた現代短歌の季語となり、アジサイの叙情的価値を増幅している。この世代にとって、敗北感と悔恨にまみれた6月の雨はひたすら暗いのである。

 小池光によれば、アジサイは現代短歌ではもっともよく詠われている花のひとつであり、どんな歌集を繙いても一首くらいはアジサイの歌が見つかるという。しかし歌人のなかには、特に好んでアジサイを詠う人もいる。掲載歌の高野公彦もそのひとりである。掲載歌は地上にうずくまるようにして咲くアジサイと、天上を移動する太陽の軌跡とを対比させた、いかにも高野らしい遠近感のある歌である。他には次のような歌もある。

 みづいろのあぢさゐに淡き紅さして雨ふれり雨のかなたの死者よ 高野公彦

 あぢさゐの毬寄り合ひて色づけり鬼(もの)籠(こ)もらする如きしづけさ

 アジサイにかなたの死者を思い、その球形花序に鬼神が隠れていると幻視する。どうもアジサイにはこのような連想を誘うところがあるようだ。

 小島ゆかりもまた好んでアジサイを詠う歌人のひとりである。

 紫陽花にひねもす眠りゆふまぐれ猫は水色の眸(まなこ)を瞠く 小島ゆかり

 雨に濡れあぢさゐを剪(き)りてゐる女(ひと)の素足にほそく静脈浮けり

 影もたぬ妖(あやかし)われは歩み来て雨中に昏きあぢさゐ覗く

 ものぐらく花塊(かたま)れるあぢさゐを過りて杳(とほ)し死までの歩み

 1首目では、猫の見開いた目の水色とアジサイの花の色とが呼応して、ボードレールの万物照応のごとき世界が開かれており、短歌の醍醐味を感じさせる一首である。2首目の眼目は、花の色と女性の足に浮く静脈の対比であり、そこはかとないエロチシズムを感じさせる。3首目では自分を怪しい存在と見立てているが、その怪しさを際立たせているのがアジサイを覗くという動作であることは言うまでもない。ここでもアジサイは昏いのである。4首目はものぐらく咲くアジサイの花群と、その傍らを通り過ぎる私の歩みの対比が、死までの歩みという時間の流れを浮き彫りにする構造になっている。

 最近の若い歌人は、古典的短歌の花鳥風月とは切れた地平で作歌しているので、植物を歌に詠み込むことが少ないようだ。それよりも、「歯ブラシ」とか「ペットボトル」とか「シュガーレスガム」のようなコンビニで売られている日常用品の方がよく歌に登場する。もうしばらくすると、近代短歌の歌人たちがアジサイに与えてきた象徴的価値もなくなってしまうかもしれない。

055:2004年6月 第2週 盛田志保子
または、天性の修辞力が生み出すひと味ちがうニューウェーブ短歌

十円じゃなんにも買えないよといえば
        ひかって走り去る夏休み

           盛田志保子『木曜日』(BookPark)
 盛田志保子は『短歌研究』が2000年に行なった公募による短歌コンクール「うたう」において、「風の庭」50首で最高賞である作品賞を受賞した。当時、若干20歳。岩手県出身で、早稲田大学に学び、水原紫苑の「短歌実作」という授業に出たことが作歌のきっかけだったという。

 短歌コンクール「うたう」の審査員は穂村弘、加藤治郎、坂井修一の3人である。『別冊フレンド』と『ホットドッグ・プレス』に募集要項を掲載し、インターネットを介しての添削アドバイスというユニークな試みが奏功し、新聞の短歌欄の常連投稿者とはまったく異なる作者層を発掘することに成功している。ここに集った歌人たちは、のちに「うたう」世代と呼ばれることになった。天道なお、雪舟えま、天野慶、玲はる名などは、すでに短歌結社や同人誌のメンバーとして活躍していた人たちだが、その他にも枡野浩一の隠し球である佐藤真由美や、加藤千恵、杉山理紀、脇川飛鳥といったマスノ教関係者が多く含まれている。その他にも、よくよく投稿者一覧を見ると、石川美南(『砂の降る教室』)、佐藤りえ(『フラジャイル』)、飯田有子(『林檎貫通式』)、入谷いずみ(『海の人形』)、佐藤理江(『虹の片足』)、五十嵐きよみ(『港のヨーコを探していない』)といった人たちも応募していたのだ。そんななかで盛田は作品賞を受賞し、その後「未来」に入会している。『木曜日』は2003年に出版された第一歌集で、「歌葉」からオンデマンド出版という新しい形式で刊行された。

 「うたう」の選評でも盛田の言葉の選択における詩人としての才能を評価する声が高いが、上に名前をあげたニューウェーヴ短歌の歌人たちとは、作品の伝える体温がいささか異なるように感じられる。それはたとえば次のようなちがいである。いずれも「うたう」の投稿作品から引く。

 すきですきで変形しそう帰り道いつもよりていねいに歩きぬ 雪舟えま

 投げつけたペットボトルが足元に転がっていてとてもかなしい 加藤千恵

 ビール缶つぶす感じでかんたんにぐしゃっとつぶれる時もときどき 杉山理紀

 台風は私にここにいてもいいって言ってくれてるみたいでたすかる 脇川飛鳥

 ここにあげた短歌に顕著に見られる特徴は、「対象性の不在」であり、そこから論理的に帰結する「対象と〈私〉との距離の不在」である。対象がなければ私との距離もない道理ということだ。言い換えれば、「私ベタベタ」だと言ってもよいかも知れない。

 たとえば、「おもむろに夜は明けゆきて阿蘇山にのぼる煙をみればしずけき」(伊藤保)のように、一見したところ対象を詠んだ単なる写生歌にしか見えない歌においても、その根底には対象である阿蘇山と、まんじりともせず一夜を明かしてそれを眺める〈私〉とのあいだに、距離があり対峙がある。作者伊藤が19歳のときにハンセン氏病療養所に入所した最初の夜が明けた時の歌だという実生活上の背景を知らなくても、その距離のもたらす緊張感は感じられるが、背景を知ればいっそう明らかだ。阿蘇山の風景を詠んだ景物歌ではなく、作者伊藤の心の奥底に沈む悲哀と絶望を詠んだ歌なのである。しかし伊藤は心情をそのままに吐露するのではなく、〈私〉とは関係なく存在し、ときには〈私〉を拒絶する阿蘇山という外的対象を描くことで、一首のなかに対象と〈私〉を対峙させた。それゆえこの歌は対立と緊張感をはらんだ歌となり、そのなかに作者の心情を透かし見る短歌として成立しているのである。そしてこのような歌だけが、時代を越えて読む人の心に届く。

 このようなことを踏まえてもう一度上にあげた歌を見てみよう。雪舟たちの短歌は、心に感じたことをつぶやきのように言葉に乗せたものであり、何かの対象が詠みこまれていたとしても、その対象と〈私〉のあいだには距離がない。だから短歌を一首の屹立する詩として成り立たせる緊張感がない。「ペットボトル」や「ビール缶」は、〈私〉と対峙するものではなく、むしろ〈私〉の一部であり〈私〉と全面的に感情を分け合ってくれるお友達のようだ。「私ベタベタ」とは、こういうことを言うのである。

 また、これらの歌に共通する特徴は、異様なまでに突出した「今だけ」感だ。今の私の感情を、今だけ通用する言葉で表現するこれらの歌は「賞味期限の短い歌」であり、そうあることを自ら欲しているのである。なぜなら「今の私」は移ろいやすいものであり、別れた彼氏とよりが戻ったら、また「新しい私」になるかもしれない。だから「今の私」の作る歌は、今だけ通用する言葉でよいのであり、またそうでなくてはならないのである。

  しかし、盛田の歌を読んでみると、このような点において他のニューウェーヴ短歌の作者とは微妙な位相の差が感じられる。

 少女の目少女漫画に描かれて黒い闇にも見開きいたり 盛田志保子

 制服を知らぬ妹まっしろな小鳥と分け合いし日々の朝

 天を蹴る少女の足を引き戻すべく冬の日のブランコが鳴る

 かなしみは夜の遠くでダンスする彼にはかれのしあわせがある

 ぼたゆきの影ふりつもる青畳天命を待つなんて知らない 

 たとえば、少女漫画に描かれた少女の目が暗闇に見開いているという一首目は、心象風景のようでもあり、目を見開く少女は謎に満ちた対象として、見る人に挑みかけているようにも見える。またそれよりもいっそう位相の差を感じるのは、「天を蹴る少女の足」「ぼたゆきの影ふりつもる青畳」という工夫された短歌的修辞だろう。「地を蹴る」「ぼたゆきが降り積もる」ならば、それは事実をそのままに表現したものに過ぎない。それを「天を蹴る」「ぼたゆきの影ふりつもる」と表現したところに、対象を見据える表現者としての〈私〉の視線が感じられるのである。このように修辞によって対象を描くとき、対象は〈私〉から離脱して〈見られるもの〉となり、そこに緊張関係が発生するのである。短歌に修辞が必要な所以と言えよう。

 このことは『木曜日』収録作品を見るとよりはっきりする。

 秋の朝消えゆく夢に手を伸ばす林檎の皮の川に降る雨

 暗い目の毛ガニが届く誕生日誰かがつけたラジオは切られて

 見ぬ夏を記憶の犬の名で呼べば小さき尾ふりてきらきら鳴きぬ

 人生にあなたが見えず中心に向かって冷えてゆく御影石

 一首目「秋の朝」の甘やかな喪失感は、「林檎の皮の川に降る雨」という意表をつく表現によって対象化されている。二首目の「暗い目の毛ガニ」という秀逸な措辞とそれに続く句により、私を拒む不吉な世界が鮮やかに描かれている。三首目の「見ぬ夏」の未来へ向かうベクトルと、「記憶の犬」の過去へ向かうベクトルが一首のなかで交錯する表現も手がこんでいる。四首目は「中心に向かって冷えてゆく御影石」という表現にすべてがかかっている一首だが、人生にあなたが見えないという、それだけならばよくある恋愛の不全感を、「中心に向かって冷えてゆく御影石」と対象化したときに、その感情は読む人にもまた追体験されうるものとして一首のなかに定着される。

 私がこの歌集で最良の歌と感じるのは次のような歌である。

 廃線を知らぬ線路のうすあおい傷をのこして去りゆく季節

 息とめてとても静かに引き上げるクリップの山からクリップの死

 今を割り今をかじるとこんな血があふれるだろう砂漠のざくろ

 もちろんこの歌集には、若者特有の不全感や未発感も詠われている。世の中のルールの嘘くささをいささか幼い視点から詠う歌もある。

 藍色のポットもいつか目覚めたいこの世は長い遠足前夜

 非常灯たどりつけないほど遠く自分自身だけ照らす真夜中

 幻想よたとえば人と笑いあうこと肩と肩を溶かしあいつつ

 なまいきと書かれた通信簿うわの空の国へ行けっていわれた

 しかし、盛田は言葉を選ぶ繊細な感覚と、修辞を駆使した対象との距離の取り方において、なかなか侮りがたい歌人ではないかと思うのである。


盛田志保子のホームページ
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054:2004年6月 第1週 生沼義朗
または、失われた10年を生きる都市生活者に短歌的突出は可能か

ペリカンの死を見届ける予感して
      水禽園にひとり来ていつ

         生沼義朗『水は襤褸に』(ながらみ書房)
 なぜ私はペリカンの死を見届ける予感がするのだろうか。それはわからない。またなぜペリカンなのかも不明だが、ペリカンが大型の鳥だということはこの歌には重要なポイントで、これがもっと小型の鳥だったら歌の意味は変わるだろう。鳥が大型だということはより悲劇性を増すからである。一人で人気のない水禽園に来て、ぼんやりとペリカンの死を待っているという場面には、漠然とした終末感と状況にたいする無力感が漂っていて、このトーンは生沼の歌集を貫く階調のひとつとなっている。

 生沼は1975年生まれで短歌人同人。「ラエティティア」にも参加しており、『水は襤褸に』は第一歌集である。20歳から26歳までのあいだに作った短歌が逆年順に収録されている。20歳というと1995年だから、世はバブル経済が崩壊して「失われた10年」と呼ばれることになる期間が始まって間もなくということになる。地下鉄サリン事件と阪神淡路大震災の年として記憶されており、その年を代表する漢字は「壊」だったはずだ。生沼が短歌を作り始めたのがこんな時代だったということは記憶しておいてよい。

 『短歌ヴァーサス』に穂村弘が連載している「80年代の歌」は、短歌の世代論の試みなのだが、穂村はその中で80年代がいかに過剰の時代であったかをつぶさに論じている。

 空からはゆめがしぶいてくるでせう手にはきいろの傘のしんじつ
                   山崎郁子『麒麟の休日』

 わたくしが生まれてきたるもろもろの世のありやうもゆるしてあげる

 これらの歌にみられる「甘美でキッチュな傲慢さ」(穂村)は、80年代特有のものだ。今の若者が作った歌ならば、「世のありやうもゆるしてあげる」などと書くことができるだろうか。「空から夢がしぶいてくる」などと素朴に信じることができるだろうか。穂村は干場しおりの『そんな感じ』(1989)のあとがきも引用している。

 「銀の鎖をたぐるようにして、ブラインドを開く。窓鏡に映った自分から素早く目をそらせば、東京湾はまだ朝もやの中。
〈まぶしい〉
静まりかえったオフィスで、微かなつぶやきがきらきらと結晶になって響き渡っていった」

 ベイエリアと呼ばれて開発されていく東京湾岸を見下ろすオフィスは、一時期TVで流行ったトレンディー・ドラマのようだ。 若い人のために注釈しておくと、トレンディー・ドラマとは、おしゃれなオフィスを舞台に、登場人物が仕事そっちのけで恋愛ゲームに興じるという、バブル期を代表するドラマのことであり、石田純一あたりがよく出演していた。干場しおりの文章に充満する「キラキラ感」は、今振り返るとまぶしいほどである。思い出せば、80年代には渋谷のパルコと公園通りが話題になり、「消費の劇場性」が脚光を浴びた。時代のキーワードは糸井重里の「おいしい生活」という西武のコピーで、石岡瑛子は女性ボディービルダーのリサ・ライオンを起用した広告で注目されていた。強い女が強調され、女性用スーツに肩パッドが入っていた時代である。みんな肩で風を切っていた。私は当時大阪の電通に依頼されて、消費の記号学なんぞというやくざな講演をしていた。こんななかで俵万智の『サラダ記念日』は1987年に出版され、ライト・ヴァース論争が巻き起こったのである。

 ながながと回顧にふけったのは、生沼の短歌がバブル崩壊とともに始まった失われた10年世代の刻印をまともに受けているからにほかならない。生沼の歌集に溢れているのはまず、掲載歌にも色濃く滲み出ている終末感である。

 盛塩が地震(ない)に崩れる。神々ももはや時間を使い果たした

 日の丸は廃止にします。代案は落暉のなかにのたうつ蛇(くちなわ)

 ほろびゆく世界のために降りしきれ 墓地いっぱいのあんずのはなびら

 神々は時間を使い果たしたという感覚は終末感そのものであろう。生沼の目に日本という国は、落日のなかにのたうつ蛇として形象される。またほろびゆくこの世界は一面の墓地の様相を呈している。わかりやすいといえばそうなのだが、このような強い終末感は生沼の世代から顕著になり、現在20歳前後のエヴァンゲリオン世代までずっと継承されているのである。

 このような終末感と並んで、生沼の歌集に滲み出ているのは、東京というメガロポリスに暮す都市生活者の倦怠である。

 錆ついた銅貨のごとく太陽は曇天の空に吊り下がりおり

 都市に生(あ)れ都市に死すこと嫌になり枯れてしまった鉄線花あり

 弁当の烏賊食むほどに無力感増してゆきたり詰所まひるま

 東京をTOKIOと表記するときに残像のみの東京がある

 ここにはかつてトレンディー・ドラマに描かれたキラキラする都市、劇場として消費を刺激してやまない東京の姿は微塵も感じられないのである。

 生沼の短歌にはまた、「何かが汚れてゆく」という感覚を詠ったものも多い。

 少しずつ垢じみてゆく青春の象徴としてジェノサイド・コミケ

 ナウシカがかつて纏いし衣服さえ思想のなかにはつかよごれて

 指先に染みたる檸檬の香を嗅ぎて感傷ももはや思わざりしかど

 コミケとは、コミック・マーケットの略で、やおいマンガ同人誌を販売したり、愛好者がコスプレしたりするオタク文化の文化祭のような祭典である。ナウシカはもちろん宮崎駿のアニメ『風の谷のナウシカ』で、檸檬はやはり梶井基次郎だろう。生沼はその世代の青年らしく、アニメに代表されるサブカルチャーも、梶井基次郎のようなかつてのハイカルチャーも、同じ地平で短歌に詠う。村上隆の提唱する「スーパーフラット」はもうすでに目の前に実現しているのだ。村上らの仮説は、「おたく世代以降は世界の認識のしかたがちがう」「世界はおたく世代以降にとって、全共闘世代とは違ったふうに見える」というものである(永江朗『平らな時代』原書房)。ナウシカの思想もいつかは汚れ、レモンに仮託された青年の熱情も遠くなったというのは、生沼の年齢にしては老人じみているが、生沼の世代に蓄積された疲労感はそれほど深いということなのだろう。

 この歌集にはもうひとつ目立つトーンがある。都市生活者の神経症的現実と、それが高じて精神を病むことへの怖れである。

 金属音重くしずかに響くとき内在律は狂いはじめて

 過ぐる日々に神経叢は磨り減ってまぶたの裏に白き靄立つ

 躁鬱の境目に居る 脳幹に白黴びっしり貼り付くごとし

 地中へと埋めてやれば何か出てくるかも知れぬ千のハルシオン

 ハルシオンとは睡眠導入剤の商品名である。蛇足ながら、前まえからハルシオンという薬の名前は美しいと思っていた。ここまで書いて来て、これは何かに似ていると思い始めたが、藤原龍一郎の短歌の描く世界と似たところがあるのだ。藤原の短歌も徹頭徹尾都市生活者の歌である。また、藤原の短歌の世界には、リドリー・スコット監督の映画『ブレード・ランナー』の描く近未来のようにいつも雨が降っているのだが、生沼の短歌にも雨と水がよく詠われているのはおもしろい共通点だ。

 初夏の東京の空切り裂かれ襤褸となって水は落ちくる

 砂と血と汗に汚れたアポリアを洗い流せる水はあらぬか

 あまりにもあからさまゆえ怖れたり雨に濡れたる路上の石榴

 雨というアイテムばかりに頼りいる自分を捨てよと声が聞こえる

 ヒートアイランド化したメトロポリスに暮して、汚れを洗い流してくれる雨と水を待望する。余りにわかりやすい謎解きのような気もするが、まあそういうことなのだろう。「路上の石榴」は現代版の檸檬に他ならない。フランス語では石榴と手榴弾は同じ単語である。疲労感に苛まれる現代の青年にも、手榴弾の爆発を夢見ることがあるということだ。ただし、梶井の描いた青年のように爆発を夢想して丸善の店先にそっとレモンを置くのではなく、路上に不意打ちのようにころがっている石榴を怖れるというところに時代の差が感じられる。

 ただし生沼の短歌が全部、上に解析したような座標に回収されるというわけではない。こんな現実を抱えつつも、生沼が短歌に託しているものは抜き差しならぬものに思える。次のような歌に注目しよう。

 泡立ちし緑茶のごときせつなさは晩夏の午後に不意に兆せり

 浅きから深きへ睡りがうつるとき夜の汀のにおいが籠る

 晩秋のみどりの部屋に天球儀を回しているは女男(めお)にあらぬ手

 人の死が人語の死へとなるときに礼服のごとく飛ぶ揚羽蝶

 生沼の短歌の言葉遣いは時に生硬で、「あまりにもあからさま」なことがあるが、上にあげた歌などは、「あからさま」の地平を脱して普遍的な象徴の領域へと昇華されているように思う。よい歌である。ただし、それがいかなる方法論によっているのか、たぶん生沼自身もまだ気づいていないのではなかろうか。栞に文章を寄せた小池光は、「生沼義朗はとりわけ平たさにあらがって相当もがいている、という印象を持ってきた」と述べている。スーパーフラットと化したこの世界のなかで、いかにして短歌の言葉を突出させるか。これはなかなかむずかしい課題である。生沼がこの第一歌集でその答に到達したとは思えないが、答を模索して呻吟しているのだろう。栞文で花山多佳子も小池光も、異口同音に「出発の歌集」と評しているのは、そのあたりに理由があると思えるのである。

生沼義朗のホームページ

053:2004年5月 第4週 小林久美子
または、〈私〉のかなたから思いがさらさらと降り落ちて来る歌

さまよえる夢のおわりを棄てるとき
     飛沫があがる砂嘴 (さし) の向こうに

           小林久美子『恋愛譜』(北冬舎)
 掲載歌は描かれた情景に具体性がなく、どんな情景を描いているのかよくわからないのだが、わからないながらも心に迫って来るものがある不思議な歌である。「さまよえる夢」とは何か。寝て見る夢ではなく、不可能な希求という意味だろう。『恋愛譜』という歌集題名を勘案すると、遂げられない恋愛感情にちがいない。叶わなぬ思いを抱いてさまよっていたのだが、遂にあきらめて断念することになった。夢の終わりを棄てるのだが、その夢は形象化されて、放り投げると小石を投げたときにように、川のなかに飛沫があがるのである(ちなみに「飛沫」にルビは振られていないが「ひまつ」ではなく「しぶき」と読む方がいい)。全体がソフトフォーカスのかかった遠い情景のように、意識の中天にぼんやり浮かび、そこからさらさらとせつない気持ちが垂れ落ちてくるような美しい歌である。

 小林久美子は1962年生まれ。「未来」所属で、「未来」の結社内同人誌『レ・パピエ・シアン』の編集発行人でもある。すでに第一歌集『ピラルク』(砂子屋書房,1998)があり、『恋愛譜』は第二歌集にあたる。新仮名遣いで基本は口語だが、「はなれたり」とか「黄金いろなり」のように、主として結句に文語が少し混じるという混合文体で書かれている。しかし、専門家からは叱られるかも知れないが、歌の作り方において文語か口語かということは、それほど本質的な問題かという気もする。口語ライトヴァースの火付け役となった俵万智の短歌と比較してみると、問題なのは文語か口語かではなく、〈私〉と〈世界〉の関係性の定義であることがわかる。俵の短歌も口語だが、詠われた内容や描かれた情景は極めて明確なのである。

 思い出の一つようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ 『サラダ記念日』

 愛人でいいのと歌う歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う

 さみどりの葉をはがしゆくはつなつのキャベツのしんのしんまでひとり 『かぜのてのひら』

 一首目「思い出の」では、麦わら帽子のへこみ(=対象)を眺める〈私〉がいて、私にはそれにまつわる夏の甘酸っぱい思い出がある。〈対象〉である麦わら帽子と〈私〉の関係はとてもわかりやすい。二首目「愛人でいいの」では、歌を聴いている〈私〉がいて、「言ってくれるじゃないの」は〈私〉の心に湧いた感想だから、ここでもその関係は明確である。三首目「さみどりの」でも、はがしているキャベツの葉と、そのとき〈私〉が感じている孤独感が、〈対象〉とそれが表象する〈心情〉、つまりソシュール流に言えばシニフィアンとシニフィエの関係を構成しており、これまた驚くほどわかりやすい。俵の歌の特徴は、単に文体が口語だという点にあるのではない。歌中における〈私〉の位置どりがはっきりしていてブレがなく、〈私〉と〈対象〉の関係性もまた明確なところにある。ここまでわかりやすくなければ、あれほどのミリオンセラーにはならなかっただろう。

 翻って小林の短歌を眺めると、俵のような作歌態度とは言わば対極的な地点に成立している歌であることが感得される。試しに次の歌を見てみよう。

 ほそく長くかすかに揺れるしろい崖 わたしがあなたの記憶に落ちる

 遠くに立っていただいたのはよく視たいからだったのに しずかな径で

 はぐれるということを得る荷をすべて下ろしおわった船はひそかに

 これらの歌には、命題を構成する「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「どのように」「なぜ」という5つのWとひとつのHが決定的に欠落している。あえて状況に具体性を持たせていないのだ。一首目の「しろい崖」は現実の風景というより心象風景と取るべきなのだろうが、私とあなたという人物のみは特定されているものの、「私があなたの記憶に落ちる」が何を意味するのか不明である。二首目では「立っていただいた」という待遇表現があるので、立つ主体は「あなた」であることがわかるが、なぜよく見たいと遠くに立ってもらうのか、さっぱりわからない。三首目はもっと難解で、荷物を下ろして身軽になった船がはぐれることを得るというのだが、「いつ」も「どこで」も「なぜ」も宙ぶらりんのため、理詰めの解釈は不可能となっている。

 このように小林の短歌では、「5つのWとひとつのH」の具体性が欠落しているが、その結果何が起きるだろうか。「5つのWとひとつのH」という媒介変数と相対的に定位されるはずの〈私〉が浮遊し始めるのである。なぜなら〈私〉とは、対他的には関係性の網の目の交点としてのみ定義される存在だからである。しかるに小林の歌には関係性を具体化すべき媒介変数が欠落している。だから歌のなかの〈私〉は、糸の切れた風船のように、読者が捉えようとしてもふわふわと手を逃れてしまうのである。〈私〉がブレない俵の歌と比較すると、そのちがいがよくわかるだろう。

 では短歌における修辞という地平で考えたとき、この〈私〉の浮遊はどのような効果を発揮するのだろうか。歌われた思い、例えば「失恋の悲しみ」は、本来ならば歌のなかに定位された〈私〉に凝縮する形で読者に感得される。ところが〈私〉が定位されず浮遊していると、思いもまた凝縮することなく歌のなかを浮遊することになる。その結果、〈私〉が感じている感情や思いだけが、言葉のかなたからひたひたと伝わって来ることになる。『不思議の国のアリス』でチェシャ猫が消えたあとに、笑いだけが中空に残るようなものである。言語による伝達という点から見れば、これはある意味で高度なテクニックと言うべきだろう。小林はこのような語法において、実に巧みなのである。

 だから小林の短歌には、写生による鋭い現実観察とか、ぴしっと決まった比喩のように、歌の輪郭をくっきりさせるものがない。また心情をそのまま吐露するような激しさもない。ふわふわと漂うような淡い印象の歌が多いのはそのためである。このことは語彙の選択にも反映していて、「そっと」「しずかに」「かそけき」「ひそかに」のような語彙が多く、また降る雪はドカ雪ではなく「あわ雪」で、雨も豪雨ではなく静かな雨なのである。

 もっともなかには輪郭のはっきりした歌もある。

 みずうみのあおいこおりをふみぬいた獣がしずむ角(つの)をほこって

 屠られるのを待つ馬がうつくしい闇へ吐きだす口中の青

 ひっそりと砂浴びをして去りし鳥 砂のくぼみに夕陽溜まれり

 一首目は季刊『短歌Wave』2003年夏号の特集「現代短歌の現在647人の代表歌集成」で、アンケートに答えて小林本人が代表歌3首を選んだ中に含まれているので、本人としても自信作なのだろう。いずれも姿かたちの美しい歌だが、ここにも上に述べた小林の歌の特徴は現われている。

 集中でちょっとおもしろいのは、ポルトガル語の歌と日本語の歌とをならべた連作である。

 あお そある ど しの あんちご ぺそあす ぱさん ふぁぜんど しなう で くるす

 きょうかいの ふるびたかねが なりだすと ひとはよこぎる じゅうじをきって

 小林はブラジルのサンパウロに住んでいたことがあるらしく、ブラジルの風物やインディオの暮しを詠んだ歌もある。日本語の歌もひらがな表記で、会津八一の歌のように分かち書きされており、どことなく童話風の趣があるが、ポルトガル語をひらがな表記すると、芥川龍之介の短編「れげんだ あうれあ」のようにキリシタン伴天連風の歴史性と寓意性を感じさせておもしろいのである。小林の言葉への強いこだわりを示しているように感じられる連作である。

 栞に文章を寄せた大辻隆弘によると、小林は「深い声でゆっくり話す女性」だという。そんな本人の個性が歌集に収められたどの歌にも感じられる。これほど本人の個性で塗り上げられた歌集も珍しいのではないだうか。

もういくつか美しいと思った歌を引いておこう。

 深い河わたるとき手を取ったのはあなたではないと気づき目覚めぬ

 橋の影をくぐり寄る魚うっすらと楕円にのびて陽のなかにでる

 バスが発ちさってしまった夢にさめ泥水が澄むまでを待ちおり

 水死するうつくしい魚そこしれぬほどふかまった愛の不在に

小林久美子のホームページ「直久

052:2004年5月 第3週 桝屋善成
または、煮崩れて沈む大根を見つめる腹に来る短歌

落胆はうすかげの射す目に顕ちて
      煮くづれをして沈む大根

          桝屋善成『声の伽藍』(ながらみ書房)
 桝屋はたぶん1964年生まれで、『未来』『レ・パピエ・シアン』同人。『声の伽藍』は2002年に出版された第一歌集である。岡井隆が行き届いた解説を書いている。「古いなつかしいタイプの文学青年」で、「古風といへば古風だが、格調ある短歌をつくる」と評し、「印象としては地味である。手堅いのであつて、奔放ではない」と続けている。なるほど結社の主宰者は会員の特徴をよく見ているものだ。

 昨今流行している口語・文語混在文体の絵記号を駆使したニューウェーブ短歌など、いったいどこの世界のことかと思わせるほど古典的な文語定型短歌で、確かに岡井の言うように格調ある歌ばかりである。新古典派の代表格と目されている紀野恵も文語を駆使するが、紀野には「白き花の地にふりそそぐかはたれやほの明るくて努力は嫌ひ」のように、肩すかしを食らわせるように日常的語法を混ぜたりする遊びと、軽さを感じさせる才気がある。これにたいして、桝屋の短歌には軽さや遊びを思わせる要素が少なく、どこまでも重厚で「腹に来る短歌」なのである。男性歌人の作る短歌には、程度の差こそあれ、どうも共通して重くて「腹に来る」傾向がある。イマ風のノリは「ブンガクを気取らない」「ジンセイを賭けない」というスタンスなのだが、桝屋は超然と流行を無視して、文学としての短歌に「人生を賭ける」姿勢を取るのである。桝屋の短歌が腹に来る理由はここにある。

 『短歌ヴァーサス』第3号の荻原裕幸と加藤治郎の対談で、ふたりはなかなかおもしろい発言をしている。加藤千恵、杉山理紀、盛田志保子らの若い女性歌人に共通する特徴は、モチーフに生活の匂いがしないことだが、男性歌人のなかには「日常べったり」で書いている人がいて、モチーフ的に変化に乏しく「不景気」に見えてしまうというのである。もっとはっきり言えば「ビンボー臭い」ということだろう。そう言えば、ニューミュージックと呼ばれた荒井(松任谷)由美が登場した時にも、「生活の匂いがしない」と手厳しく批判されたものだ。その少し前までの主流は「生活の匂いのする」四畳半フォークソングだったからだ。30年の時を隔てて、同じような現象が生まれているのだろうか。女性はひたすら軽く華麗でファブリースしたように生活臭がなく、男性は地を這うような不景気という構図である。もっともいささかも不景気を感じさせない黒瀬珂瀾のような人もいるが。

 断っておくが桝屋の短歌が不景気だという訳ではない。しかし、モチーフとしては作者の日常から汲み上げたものがほとんどで、このような作歌態度は『未来』の伝統である。桝屋の短歌をいくつか見てみよう。

 色のない夢ばかりみし手にのこれ今朝摘みとりしローズマリーの香

 ひと刷けの落暉の雲のむかうには夕星光り鳥の訃をきく

 狂気へといたる畏れを抱き初むアンモナイトの断面幽か

 月の海喚起力冴えひろごりぬロールシャッハテストのごとく

 最初期の歌群から意図的に選び出したものだが、これらの歌は日常の生活実感から生まれたものというよりは、「短歌という特殊な文学を作る」という強い意識のもとで作られたものに見える。モチーフは想像力から生み出されたもので、作者の日常生活に根を持つものではない。だから歌のなかに〈私〉を感じさせる要素が少ないのである。

 しかし、歌集のなかで4つの時期に分類された歌群を年代順に読んで行くと、このような初期の作歌傾向は急速に姿を消してゆく。代わって目につくようになるのは、次のような歌である。

 河豚刺しの歯ざはりしまし愉しみて薄くうすく鬱の削がれぬ

 今年もまた柚子湯につかるよろこびを臘梅などをながめておもふ

 飲み会のさそひを断り家居して火難ののちの茂吉を読みぬ

 土手脇に首のねぢれた自転車がこゑを失ひ捨てられてあり

 最初の歌に比べてずっと〈私〉を感じさせる要素が増えている。「河豚を食べている私」「柚子湯につかっている私」「茂吉を読んでいる私」が明白であり、歌の重心が〈私が目にしている光景〉から、〈光景を見ている私〉へと移行し、さらには〈何気ない行為に物思う私〉にまで移動していることがわかる。作者の視線が内向きに変化しているのである。

 これがさらに進むと、「手許を見つめる歌」とでも呼びたくなるような鬱屈を滲ませた歌に出会うことになる。冒頭の掲載歌もそのひとつである。落胆を象徴する煮崩れた大根が煮汁に沈んでゆく様を眺める視線は、決して世界に向けられてはいない。次の歌もそうだろう。

 為すことのなべてをさなく蔑されて魚の鱗をゆふべに削がむ

 ひんがしに打ち据ゑられに来し旅の夜半に蕎麦湯を一人のみたる

 焼き蟹の身のはぜをりて名声の壊れやすさの見ゆる思ひせり

 この苦みもまた短歌の味わいであり、さらに言えばオジサンにしかわからない味である。子供の好きなオムライスやアイスクリームではなく、涙とともに食べるサンマの腸とかサザエの肝や熟成しすぎた青黴チーズの味だ。これはこれでひとつの境地であり、桝屋はこの境地を深化しつつあるように見える。

 桝屋の歌にもうひとつ感じられるのは、静かな怒りと祈りである。

 永遠(とことは)に非戦闘員としてわれ在るや まなこ深くに沁めよ蒼穹

 広き額わたれる鳥の影もなくああ射干玉のミロシェビッチよ

 オムライスの胴を匙もて抉るとき非戦闘地帯とふ言葉をぐらし

 一首目は歌集末尾の歌であり、この場所に配置したのは桝屋の祈りである。三首目だけは『レ・パピエ・シアン』2004年3月号から採った近詠だが、静かな怒りがある。市井の人として静かに日常を暮す人の短歌に込められた祈りは、華やかな文学運動に身を投じる才気とは次元の異なるものだが、読む人の心を打つという点においてどちらに軍配が上がるか、答は人それぞれだろう。私は祈りの方をとりたい。


桝屋善成のホームページ「迷蝶舎

051:2004年5月 第2週 石川美南
または、世界を異化し続けるアヤシイ短歌

カーテンのレースは冷えて弟が
    はぷすぶるぐ、とくしやみする秋

         石川美南『砂の降る教室』
 いやはや大変な才能を持った人が現われたものだ。同人誌『レ・パピエ・シアン』の「今月の一首」で紹介されていた石川美南の数首の短歌を初めて見て「ン?」と思い、歌集を買って一読し感心してしまった。最近の若い人の短歌の例に漏れず、口語と文語の混在した言葉遣いで何気ない日常を詠んでいるので、最近流行のライトでポップな短歌かと思ったらそれはまちがいである。この人にはそこに還元できない何かがある。栞文を書いた水原紫苑はそれを「石川美南の怪しさ」と表現しているが、確かにそうなのである。

 どれほど怪しいか、特に怪しそうなのを何首かあげてみよう。

 わたしだつたか 天より細く垂れきたる紐を最後に引つぱつたのは

 隣の柿はよく客食ふと耳にしてぞろぞろと見にゆくなりみんな

 始業ベル背中に浴びて走りにき高野豆腐の湿る廊下を 

 茸たちの月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして

 噂話は日陰に溜まりひやひやと「花屋は百合の匂ひが嫌ひ」

 夕立が世界を襲ふ午後に備へて店先に置く百本の傘

 窓がみなこんなに暗くなつたのにエミールはまだ庭にゐるのよ

 石川は1980年生まれ。あとがきには短歌を作り始めて7年とあるから、逆算すると16歳の高校生の頃から作歌をしていたことになる。特定の結社には所属していないが、早稲田の水原紫苑の短歌ゼミで学んでいる。2003年に東京外国語大学を卒業していて、ホームページには就職活動に題材を採った歌が掲載されているので、首尾よく就職していれば社会人になりたてという若い人なのである。

 もし水原の言うとおり石川の短歌が怪しいとするならば、その原因は理論的にはふた通り考えられる。歌を作る主体としての石川が怪しいヒトだからか、短歌に詠まれた世界が怪しいからかである。怪しさのよって来たる根拠を、〈主体〉の側に求めるか〈客体〉の側に求めるかということだ。歌から読みとる限り、石川本人にはまったく怪しいところがない。極めて健全でまっとうであり、文学青年(少女)にありがちな自虐的なところがなく、自己演出もない。舌にピアスをしたり、カミソリでどこかを切ったりする気配のない人である。

 オジサンの目から見れば、青年期の文学がそのエネルギーを汲み出す泉は次のいずれかである。その一〈自我への懐疑〉。適用例:「私は何ものか」「ほんとうの私はどこにいるのか」、よくある結末:インドかネパールに旅立つ。その二〈世界のなかで自己が占める位置に対する不全感〉、適用例:「どこにも自分の居場所がない」「私はこんな世界に生まれて来るはずではなかった」、よくある結末:夜中に学校中の窓ガラスを叩き割る。その三はその二の裏返しで、攻撃性が世界に向けられた場合である。適用例:「オレを正当に扱わなかった世界に復讐してやる」 先週取り上げた〈暗い眸をした歌人〉高島裕の短歌には、この世界憎悪が強く感じられる。その四は恋愛で、これは説明不要だろう。青春期にもっとも魂を揺り動かすのは恋愛体験である。ところが石川の短歌には、上に列挙したどれにも該当するものがない。

 それでは理由を客体の側に求めるとして、世界が怪しいかどうかは、一概に決められるものではなく、見る人の視線に依存する。だから石川の短歌の怪しさは、ひとえに石川が世界を怪しく見る視線のなかに存在することになる。その謎を解く鍵は歌集のあとがきにある。深夜、東海道線の列車に乗っていると、ぬるりとした空気が車内に漂い、前に立つ人のうしろには犬の尾のようなものが見え、隣に座っている人の手には鱗のようなものが光っていて、自分にもたれかかって眠る人の顔がいつのまにかトドの顔になっているという文章である。石川はこんな風に世界を見るのが好きなのだ。これはつまり〈世界を異化する感覚〉である。石川の短歌は、作者のまなざしによって異化された世界を描いているのである。石川の短歌が怪しいのはここに理由がある。

 上にあげた歌をもう一度見てみよう。一首目の「天より細く垂れきたる紐」とは何だろう。何かはわからないが読者は「やってしまった」感とともに宙ぶらりんに残される。二首目、早口言葉の「隣の客はよく柿食う客だ」を言い間違えると、こんなにシュールな世界になる。石川が好む「異化」による世界の転倒は、この歌に遺憾なく発揮されていると言える。三首目は学校風景を詠んだ歌だが、廊下に高野豆腐とは比喩としても奇抜である。ほんとうに高野豆腐が落ちていたらもっとすごい。四首目は「完全茸狩りマニュアル」と題された連作のなかの一首で、この連作は石川の異化作用がとりわけ強い。茸が月見をしているというのはメルヘン調の童話的でまあいいとして、自分がそこに招かれており、しかも自分に毒があるというのは、完全な主客転倒である。五首目、近所の噂話としても「花屋は百合の匂ひが嫌ひ」というのはどこか変である。ちなみにこの歌は「日陰に」「ひやひや」の語頭の「ひ」の繰り返し、「百合」「匂ひ」「嫌ひ」の語末[i]音の連続が心地よいリズム感を作り出している。六首目、古本屋の店先に百本の傘はどう考えても異様である。七首目は水原も特に好きな歌としてあげているが、このメルヘン風を装った怖さはどうだろう。それにエミールって誰だ? 

 石川の短歌のもうひとつの特徴として、言葉と擬音語のきわめて意図的な使用がある。これを押し進めると、次のような言葉遊び的短歌になる。

 はらからがはらはら泣きて駆け戻るゆめよりさめて歯の奥いたむ

 恋人を連れて歩けるひとを見しみしみしと染みてくる空のいろ

 にこにこと笑ふばかりの兄上はにまめにまいめお別れにがて

 掲載歌もくしゃみの擬音を「はぷすぶるぐ」としたことに面白みがあるのは言うまでもない。こういう歌を見ていると、永井陽子の「べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊」を思い出してしまう。永井が作るのも見立てとウィットに富む短歌だったが、石川の短歌世界はどことなく永井の歌の与える感覚に通じるところがある。言葉なんかどうでもいいから世界と関わりたいというのではなく、〈世界を見るプリズム〉として言葉を大事にする態度があり、時には見ていたはずの世界の影が薄くなって言葉だけが中空に残るという感覚である。

 もちろん集中には、言葉遊びでもなく世界の異化でもなく、次のようないかにも短歌的な短歌もあり、これはこれでなかなか美しい。

 いづれ来る悲しみのため胸のまへに暗き画板を抱へていたり

 梨花一枝春ノ雨帯ビ ゆふはりと忘れゆきたる人の名ありき 

 花びらの残骸積もる路地ありて真昼ちひさき古書店に入る

 ところでなぜ世界を異化して眺めるのだろうか。動機にはふたつあるように思う。〈遊戯としての異化〉と〈自己防衛としての異化〉である。前者は異化して眺めることによって現われる世界の異相を楽しむ感覚であり、後者は世界をあるがままに見るのが怖いので異化して見ることで自己を防衛する態度である。石川のホームページの「就活を詠む」にある「玉ネギにすこし似てゐる社長にてネギが説明してゐる社風」などを見ると、買手市場の就職戦線での自己防衛という動機も少しはあるのかなとも思うが、基本的には石川は「そう見える」ことを楽しんでいる。それがこの歌集の明るくのびのびとした印象につながっているのだろう。自己の内部に鬱屈して屈み込む歌が一首もない。

 人生の猶予期間である学生時代を卒業し、社会人になった石川がこの先どのように世界を異化して眺めるのか、なかなか楽しみなことではある。そう思わせてくれる第一歌集だ。

石川美南のホームページ

050:2004年5月 第1週 高島 裕
または、首都赤変を幻視する遅れて来た思想歌人

撃ち堕とすべきもろもろを見据ゑつつ
        今朝くれなゐの橋をわたらな

      高島裕『旧制度(アンシャン・レジーム)』
 高島は1967年生まれで、「未来」に所属して岡井隆に師事している。富山から京都に出て、立命館大学で哲学を学ぶ。東京に住んでからは職を転々として短歌を書き続けているらしい。『旧制度(アンシャン・レジーム)』は第一歌集。既に第二歌集『嬬問ひ』、第三歌集『雨を聴く』を上梓している。

 この歌集に収録されている連作「首都赤変」は、1998年の短歌研究新人賞選考会で候補となったのだが、その時推したのは塚本邦雄で、後に藤原龍一郎が時評で好意的に取り上げたという。岡井隆、塚本邦雄、藤原龍一郎と名前を並べてみれば、どのような歌風の歌人か伺い知れるというものである。ここに福島泰樹の名前を加えてもよい。高島はその期待を裏切らない、現代には珍しい「思想歌人」なのである。

 話題になった「首都赤変」から引いてみよう。

 蔑 (なみ)されて来し神神を迎えへむとわれは火を撃つくれなゐの火を

 空ふいに赤変したり神神はなほ黙しつつ中天に佇ち

 銃声の繁くなりゆくパルコ前間諜ひとり撃たれて死にき

 森の上 (へ)にふと先帝の顕ち給ふ苦悶のごとく微笑のごとく

 飢ゑはつのり指揮はみだれつつコミューンは己が内よりくづれ初めにき

 断片的な言葉を拾ってつなげて見れば、どうやら近未来の首都東京に勃発するアナキストの武装蜂起からその崩壊までを描いたものらしいと読みとれる。しかし、「先帝」が森の上に現われたり、神が登場したり、その提示するイメージは重層的で単純ではない。首都が炎に包まれて破壊される様子は、どことなく『新世紀エヴァンゲリオン』や大友克洋の『AKIRA』を思わせるところもある。

 巻末に置かれた岡井隆の解説には、高島は「暗い眸をして、わたしの前にあらはれた」とある。暗い目をしているのは、身内に出口のない情念を秘めているからである。その情念は高島の歩んで来た思想的来歴と無縁ではなかろう。次のような歌がある。

 代々木駅過ぎて一瞬くれなゐの旗なびく見ゆ涙ぐましも

 つづまりはわが望みたる冬なれば気高く靡け不可能の旗

 かくして、高島は自らの思想の果てに、蜂起と破壊を待望し幻視する。集中に頻出する単語は、「地震」と「火の雨」である。若者は災厄による破壊を熱望するのである。

 いなむしろ獅子のごとくに少女らが踏み住く首都に地震(なゐ)、地震を待て

 斃 (たふ)れてなほ機銃掃射は君に降る臓腑を穿つ雨よ火の雨

 熱く激しく思想を詠う短歌は、60年安保闘争と70年代の大学紛争を契機として多く作られた。岸上大作、岡井隆、福島泰樹、三枝昴之、道浦母都子ら思想を詠った歌人は、政治的闘争の渦中に身を置いていた。そこには確かに短歌の「同時代性」があった。これに対して1967年生まれの高島は、〈はるかに遅れて来た思想歌人〉である。だから高島は蜂起と体制転覆をヴァーチャルに幻視することしかできない。高島の短歌が、革命を夢見る青年の熱い血潮をまっすぐに詠うものではなく、終末感の漂う苦く屈折したものになるのはこのためである。また『新世紀エヴァンゲリオン』や『Akira』の世界とどことなく似ているのも、高島の描く世界が現実の体験から構成されたものではく、あくまで想像力が生みだしたヴァーチャルなものであるためなのだろう。

 高島の短歌に日常性は希薄であり、自らの思想と情念を詠うことが主眼なのだから、写実的要素は少ない。とはいえ短歌は〈私性の文学〉である以上、自己が投影されないということはない。

 屈まりてガム剥がしゐるときのまをやさしき脚のあまた行き交ふ

 洗剤といへどブルーの清しきををりをりは見つ棚を仰ぎて

 夏刈りし坊主頭の伸びゆくは刑期満ちゆくごとし、触(さや) りて

 母上は萎みたまひぬ厨着の白おほらかに遠き日はあり

 最初の三首は清掃作業員として労働している日々を詠ったものであり、最後の一首は故郷に帰った時の歌である。いずれも姿の美しく破調の少ない歌となっている。高島の短歌は、モチーフの特異性に比較して、短歌技法としては文語定型で古典的といってもよい作りである。

 巻末の解説で岡井隆は高島に直接語りかけるように、三つの注文をつけている。そのうちのひとつ、「思想は、必ずしも、思想用語や散文的なメッセージによつて言ひ表はされはしない」という苦言は、岡井の口から出たものだけに重いものがあると言えよう。三枝昴之『うたの水脈』によれば、岡井が短歌においてめざしたのは、「高次の認識次元から、逆過程をたどって感性的な認識次元に下降し、感性言語を一つ高い次元から新しい秩序にまで再組織することによる、感性的な表現方法」だからである。難解な表現になっているが、誤解を恐れずに解説すれば、「思想を思想の生硬な言葉で詠うのではなく、感性の言葉に置き換えて詠うのが短歌としての行き方だ」ということだろう。このような方法論から産み出されるのは短歌史に名高い岡井の次のような歌である。

 海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ 『朝狩』

 岡井のこのような方法を三枝は「思想の感性化」と呼び、これによって「一国の政治に関する大テーマも、眼前のありふれた一本の樹のたたずまいも、台所に沸き上がる牛乳の表情も、すべて地続きの修辞学」にすることが可能になり、第二芸術論も戦後も踏み越えて現代短歌になったと断じている。岡井が高島に注文をつけたのは、高島の歌の多くがまだ〈思想の歌〉の次元にとどまっており、十分に短歌的感性の地平に降りていないことを指摘したのだろう。私は、高島の第二歌集『嬬問ひ』、第三歌集『雨を聴く』はまだ未読なのだが、高島は岡井のこの助言を自らの作歌に取り入れ、さらなる成長を見せたのだろうか。

 最後に高島にとって短歌とは何かを垣間見せてくれる歌をあげよう。

 どこまでも追ひかけてくるヨノナカに擲つ桃の甘き炸裂

 古来、桃には呪力があるとされ、記紀にはイザナギノミコトが黄泉の国から逃げ帰ったときに、追ってきた黄泉軍に桃の実を投げつけて撃退したというエピソードがある。高島にとって短歌とは、ヨノナカに向かって投げつける呪術性を帯びた手榴弾なのであり、高島はそれがいつか炸裂することを夢想するのである。ここでは桃に高い象徴性が付与されている。桃の連想が働いて、加藤治郎の秀歌を思い出した。

 フロアまで桃のかおりが浸しゆく世界は小さな病室だろう

 世界についてこのように語り得る文学形式は、短歌を措いては他にはあるまい。それは思想を語りつつも、第一義的には読む人の感性に訴えかけるからである。高島が投げた桃の実が、多くの人の心のなかで炸裂することを願うとしよう。

 

 追記

 高島は現在は「未来」を脱会して、故郷に戻り個人誌を拠点に活動しているということだ。

049:2004年4月 第4週 佐藤りえ
または、壊れ物としての世界に生まれた午後4時の世代

わたしたちはなんて遠くへきたのだろう
        四季の水辺に素足を浸し

           佐藤りえ『フラジャイル』
 佐藤りえは1973年生まれ、短歌人同人。『フラジャイル』(風媒社)は2003年暮れに刊行された第一歌集である。1987年の『サラダ記念日』以後、短歌を作る女性が急激に増加したが、プロフィールによると佐藤は10代の頃から短歌・俳句・詩を書き始めたとある。『サラダ記念日』が出版されたとき佐藤は14歳だったわけだから、影響を受けなかったはずはない。しかし、俵の口語定型短歌とはまた異なる独自の世界を作り上げることに成功した歌人である。『フラジャイル』はとてもよい歌集である。

 批評には対象に即した言葉があるはずだ。どんな対象でも自由自在に料理することができる批評の言葉というものはない。もしそのように振る舞う言葉があるとすれば、それは批評の皮を被った教条主義でありドグマチズムである。批評の言葉というものは、ある基準を外から作品に当てはめて批判し評定するものではなく、鍾乳洞を懐中電灯ひとつで探検する洞窟学者のように、まず作品世界のなかに手探りで分け入るものでなくてはならない。

 佐藤りえの『フラジャイル』を一読して私が感じたのは、新しい感性と表現が作品として結実したとき、既存の批評の言葉は古くなった通貨のように無力であり、新しい批評の言葉の出現を待たなくてはならないということである。私は佐藤の短歌を強い共感を持って読んだが、その共感の質を表現するのに適切な言葉を捜しあぐねている。

 永田和宏は『表現の吃水』(而立書房)所収の「『問』と『答』の合わせ鏡 I」(初出『短歌』昭和52年10月号)のなかで、後によく知られることになる次のような短歌の性格づけを述べた。問題にされているのは、短歌のなかで詠まれた対象とそれを詠む主体との「関係性の定理にあたるもの」である。言い換えれば、主体と対象がどのような関係に立てば、短歌として成立すると言えるのかだ。題材にされているのは「退くことももはやならざる風の中鳥ながされて森越えゆけり」という志垣澄幸の歌である。

「『退くことももはやならざる』という上句は、その時点で作者を表現行為へと促した自己認識、つまり問題意識である。それを内部状態と言ってもよいが、広い意味でここでは『問』と言い換えて差しつかえなかろう。即ち作者は『退くことも…』という『問』をもって、その『問』を支える対象を外界に求めたのであり、下句は言わば上句に対する『答』であるとも言い得る」
 つまり、一首のなかに「問」と「答」が併存しているということである。例歌では上句が問、下句が答だが、その順番は逆でもよい。作者は短歌のなかで、自分で問いかけ自分で答えるというふたつの役目を果たすことになる。永田が注意を喚起するのは、問に対してあまりに安直な答を与える危険性である。同じく志垣澄幸から「硝子越しに五月の海を磨きつつ遠くなりたる青春おもふ」という歌を引き、上句による対象の問にあまりにつじつまの合いすぎた答を与えたため凡歌になったと断じている。永田は続けて次のように言う。

「一首における『問』と『答』のこのような合わせ鏡構造こそ、この詩型発生以来の基本的構造なのであり、『問』の拡散性をいかに『答』の求心力によって支え得るか、『答』の凝集性をいかに『問』の遠心性によって膨らませ得るか、という点にこの定型詩の生命があると言い得よう」
 私たちがよく知っている短歌らしい短歌には、確かにこのような合わせ鏡の構造が見てとれることが多い。

 殷殷と鬱金桜は咲きしづみ今生の歌は一首にて足る 塚本邦雄

 生きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ 山中智恵子

 塚本の歌では、「殷殷と鬱金桜は咲きしづみ」が外界の対象の提起する問であり、「今生の歌は一首にて足る」はそれに触発された主体の側からの答である。答を「ブーメランのように」(永田和宏)できる限り遠くへと飛ばし遠心性を付与することで、歌が安易に着地することなく、読者の心に飛び込むものとなる。山中の歌では、「ここ鳥髪に雪降る」が対象の投げかける問であり、残りが主体の提示する答という構造と言ってよいかと思う。

 確かにこのような構造を持つ歌は、短歌としての姿がびしっと決まっており、また問に対して答を提示しているから、読者の心に不全感を引き起こすことが少ない。背筋のピンと伸びた日舞のお師匠さんの舞いを見ているようだ。

 しかしながら、永田がもはや四半世紀前に提唱した「主体と対象の関係性の定理」を、「決まり過ぎている」と感じる歌の作り手が増えてきたのではないだろうか。その証拠に河野裕子は、「完結性のある格調高い歌が気恥ずかしくなってきた」(『体あたり現代短歌』)と述懐している。また村上きわみは、私がご本人からいただいた電子メールのなかで、「大きな物語を腐葉土のように踏みしめて立つ歌に惹かれながらも、一方ではそれをどこか疑わしく思っている」と、自分が抱くアンビバレントな感覚を表現し、「自分のなかで80年代から90年代にかけて大きな物語が失効したように感じている」と続けている。これはなかなか考えさせられる言葉である。確かにもし「大きな物語」が失効したのなら、永田が提唱した「問と答の合わせ鏡」を基本構造とする「決まり過ぎた」定型詩としての短歌という性格付けもまた、ハイパーインフレ経済下の紙幣のようにその効力を失う可能性があるからである。

 長々と上のようなことを書き付けてきたのは、佐藤りえの作る短歌のなかにもまた、この点をめぐるブレあるいは逡巡が見られるからだ。

 廃屋のアップライトを叩く雨すべてはほろぶのぞみのままに

 夜の卓をなにかの虫がいっしんに渡るわれなどあらざるごとく

 青空のどこか壊れているらしく今日三度目の虹をくぐれり

 永田の図式を適用するならば、「廃屋のアップライトを叩く雨」は外界の対象が提示する問で、「すべてはほろぶのぞみのままに」はその問を基点として主体が引き出した答である。一首の詩としての成立は、ひとえにこの問と答の取り結ぶ緊張関係に存する。「夜の卓をなにかの虫がいっしんに渡る」と「われなどあらざるごとく」の間にも同じ関係がある。「今日三度目の虹をくぐれり」は事実の提示で、「青空のどこか壊れているらしく」はそれを踏まえた主体の答である。このような歌群は永田の図式にすんなり収まる。オジサンにもわかりやすく共感しやすい歌である。佐藤は現代の歌人の例に漏れず、文語・口語混在文体の作家だが、「永田の定理」の成立する短歌は文語で作られていることにも注意しておくべきだろう。佐藤は意識的に文体と方法論を選択的に用いているのである。

 しかし、次のような完全口語歌はどうだろうか。

 北東にほろびを知らせる星が降るなんて予報じゃ言ってなかった

 こなごなになってしまったいいことも嫌な思いも綺麗な粒ね

 一人でも生きられるけどトーストにおそろしいほど塗るマーガリン

 春の河なまあたたかき光満ち占いなんて当たらないよね

 傷つけることを言いたいセロファンをくっつけたままねぶるキャンディ

これらの歌に「問と答の合わせ鏡」を見いだすことは難しい。例えば4首目の、「春の河なまあたたかき光満ち」(ここだけ文語でブレがある)を外界の対象の提示する問だと一応仮定しても、そこから「占いなんて当たらないよね」という答がどのようにして導かれるのかわからない。また問と答の間にどのような緊張関係があるのか答えることは難しいだろう。

 新しい感性と表現が作品化されたとき、既存の批評の言葉が効力を失うと感じるのはこのような時である。ここには永田が提唱した「問と答の合わせ鏡」の緊張関係はないとかんたんに考える方がよい。もしも永田の図式がほんとうに定型短歌発生以来の「定理」だとすると、佐藤のような歌人はそのような定理から自由な地平で歌を作ることを選択したのである。

 では佐藤の作る上のような歌で読者に求められていることは何か。それは短歌に込められた感情に対する理屈抜きの「全的共感」ではないだろうか。「一人でも生きられるけどトーストにおそろしいほど塗るマーガリン」を例に取ると、「一人でも生きられるけど」はおそらく失恋を意味する。だが失恋するとなぜトーストに恐ろしいほどのマーガリンを塗るのか、関連づけの手掛かりとなるものは一切提示されていない。それでも「ああ、そうそう、そういうことってあるよね」と共感する読者がいれば、この歌は向こう岸に何かを伝えることに成功したと言える、そのようなスタンスがこのような歌の前提にあるのではないだろうか。

 やや大上段に振りかぶって論じれば、「大きな物語」が失効した現代にあって、私たちに残されているのは「小さな日常」である。しかし小さな日常は、限りなく細分化し断片化し個化する。だから共有化することが難しい資源なのだ。そのような状況にあって、歌で掬い取ることができるものが呼び起こす共感もまた、自分を中心する狭い範囲を出ることがない。「問と答」の緊張関係を推力として、答を「ブーメランのように」遠くに飛ばすことを頭から方法として否定している。そのように思えるのである。

 佐藤の歌集を批評しようとして、方法論についての議論に終始してしまった。歌に詠われた内容・感覚に目を転じると、私が特に目についたのは「キラキラ感」である。佐藤の歌には光に関係するものがよく出て来る。

 ピンボール月の光をはじきつつ出口はないけれど待っている

 キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる

 偽物の光であれば包まれるアミューズメントパーク、夕凪

 できたての舗装の上にきらきらと弔いの硝子屑は光れり

 暗闇に天つ光が動いたらそこは世界の夜の海辺よ

 これらの歌に充満する「出口なし」感覚、郊外ベッドタウン美しが丘、アミューズメントパークを彩る偽物の光、舗装したての道路に散乱する弔いの予兆の光は、キラキラ感の背後に横たわる闇をいやおうなく思わせ、佐藤の世代が抱え込んだ絶望の深さを思ってしまう。「絶望」というのは言葉としてちょっと重すぎるのだが、他にどう言えばいいのかわからない。岡崎京子の『リバーズ・エッジ』で河原の死体を眺める吉川こずえさんや、『pink』の自宅でワニを買うOLユミちゃんと、どこかで共通する「気分」と言ったほうがよいだろうか。

 社会学者・小倉千加子が少し前の朝日新聞の記事に書いていた言葉が忘れられない。小倉がインタヴューした女子高校生は、「あたしたち、ずっと午後4時の気分なんですよう」と言ったというのである。佐藤はもちろんもう女子高校生ではないが、この「午後4時の気分」は、バブル経済が崩壊し、大きな物語が失効した佐藤の世代にも共有されているのではないだろうか。『フラジャイル』は「壊れもの」という意味であり、郵便小包の表に押すスタンプだが、「壊れもの」なのは生身の人間であると同時に、私たちが暮している「世界」でもあるのだ。

佐藤りえのホームページ

048:2004年4月 第3週 佐々木六戈
または、立ったまま逝く燃える椿の覚悟かな

一輪の直情として切花は
    立ち盡くすなり莖を焼かれて

               佐々木六戈
 本を手に取って、何の気なく読み始めたら止まらない、そんな経験は誰にでもある。しかし歌集でそのような経験は珍しい。邑書林から刊行が始まった「セレクション歌人」シリーズの『佐々木六戈集』を読み始めて、私は読み止めることができなかった。家で読み、研究会に出かける阪急電車のなかで読み、ホームのベンチで読んだ。騒音も話し声も気にならなかった。読了し、名醸ペトリュスの赤ワインの古酒を飲んだ後のようにぼうっとし、そして飲み過ぎると肝臓だけでなく脳にまでも副作用を及ぼす遅効性の毒薬を飲んだような気分になった。佐々木の歌の世界から立ち上る空前絶後の苦み、時空を越えた衒学、肺腑を剔る挽歌、ゆらめく鮮やかな色彩に、私は酔ってしまったのである。

 歌人としての佐々木は異色づくめだ。巻末の自筆略歴と藤原龍一郎の解説によれば、佐々木は1955年(昭和30年)北海道生まれ。1982年頃、詩人鷲巣繁男の歌集『蝦夷のわかれ』を読んで作歌を開始、92年俳句結社「童子」入門、現在同誌編集長とある。つまり、詩人の歌集を読んで俳句結社に入り、その編集長が2000年第46回角川短歌賞を受賞したのである。何という曲折に満ちた道程だろうか。だから佐々木は短歌結社には無所属で短歌の師もいない。にもかかわらず、佐々木は最初から完成された歌人として希有な登場をしたのである。

 佐々木は1997年 (平成9年)5月30日の深更、「紙魚の楽園」50首を一気に書き上げ角川短歌賞に応募、佳作に入選している。本人の弁によれば、「歌人佐々木六戈は一晩で誕生した」のである。それを読んだ選者の一人馬場あき子は、「この人は新人としてではなく歌人として遇しなきゃいけない」とまで述べたという。私はかねてより黒瀬珂瀾氏から、「佐々木六戈というおもしろい短歌を作る人がいますよ」とのご教示を受けていた。その佐々木の第一歌集が基本的にはアンソロジーである「セレクション歌人」シリーズの一巻というのは、これまた異色のデビューということになるだろう。

 佐々木の織り上げる短歌世界に頻繁に登場するのは、草木、特に花、そして死者である。

 昭和史を花のごとくにおもふとき衰へはいつも花の奥から

 伏してなほ流るる花の矜持とも水底を向く反面も花

 たなごころ寒の椿の火の玉をふたたびは遭はぬ餞として

 わたしではなく一木の緘黙を花にもまして歌とおもふぞ

 ここに詠われているのは静謐な花鳥風月ではない。火の玉のように燃え上がる花であり、その閉ざされた奥底に昭和史を幻視する花である。この心像の重層性と象徴性は、塚本邦雄や岡井隆らの前衛短歌が開拓した技法である。いや、技法ではなく思想である。それは〈思想の感性化〉(三枝昴之)であり、また〈人型をなして来る思想〉(馬場あき子)とも言えよう。だから佐々木の短歌には日常詠も職場詠もまったく見られない。この徹底した選択は佐々木の次のような認識に基づいている。

 「それは現代短歌の作者が作中の〈われ〉にどんなドライブをかけても、もはや〈かれ〉の読者に届くとは限らないのに似ている。歌人が思うほど、読者は作者のつまらない起居に興味など持たない。そんな時代だ。(中略)〈われ〉は遠くまで来たのだ」

 これはある意味で、かつてロラン・バルトが軽やかに言い放ったのとは異なる意味での〈作者の死〉である。集中に「私が死んでいる」という歌がよく見られるのはこのためだと思われる。

  〈私〉(わたくし)が死んでゐるから畦道を運ばれて行く小さき早桶

  私とは他人(ひと)の柩に外ならず或いはわれが死してよむうた

 ではなぜ佐々木は死者にこだわるのだろうか。

 偉大だった父たちの死よ掌(て)の上の硝子の球の中に雪降る

 樹下にして顯(た)つ死者たちの俤を冬の蕨の花に比(たと)へて

 國男忌の空は涯無し わたしにも神戸に叔母がゐる心地する

 ジャン-ポール・さるとりいばらえにしだのジャン・ジュネが同じ命日

 忘れをる人の名前は無か夢か憶ひ出せない虫明亜呂□

 しつかりと操縦桿を握り締め平家螢に跨がつて来よ

 セブンティーン愛機を降りてけふの日の澁谷の街の若きに雑じれ


 かつて平井弘は歌集『前線』のなかで、太平洋戦争に散華した若者たちを「兄たち」と呼び、「子をなさず逝きたるもののかず限りなき欠落の 花いちもんめ」と哀悼した。時は移り1955年生まれの佐々木にとって、それは「父たちの世代」である。しかし時間の経過は関係がない。佐々木は次のように述べている。

「『時』というものは過ぎ去ることがないものである。いうなれば、それは降り積もる。『今』の檻の下に」

 時は過ぎ去るものではなく降り積もるものであるということは、「現在という時点が帯びている歴史性」の認識と言い換えることができよう。佐々木の歌に夥しい過去の死者の固有名が登場するのはこのためなのである。ややもすれば佐々木はこの固有名の羅列のために、衒学・韜晦の誹りを受けることがあるようだが、それは誤った見方と言えよう。佐々木にとって死者の固有名の行列は、自らの思想の過去帳であり、現在という視座の不確定性を何とかして確かめるためのランドマークなのだ。

 同じく固有名だらけの短歌を作る藤原龍一郎が解説を書いているのは偶然というには出来すぎの感もあるが、佐々木と藤原とでは短歌の中の固有名が持つ意味合いが微妙に異なることに注意すべきだろう。藤原において固有名は、マッチポンプのようにせわしない抒情を作り出す手段であり、マスコミ業界の最前線にいる作者が詠う現代を醸し出すのに必須の構成素である。それはメトロポリスの高層ビルの壁面をスクリーンとして映し出されるホログラムとしての現代の抒情である。だから藤原の視点はあくまで現代を詠うことにある。ところが佐々木にあっては、現在はそれほどまでの重要性を持たない。現在とは過去の時間が降り積もった結果であり、現在の根方を掘るとそこには土のなかから過去が顔を出すからである。上にあげた「セブンティーン」の歌は、かつて太平洋戦争末期に特攻基地があった知覧を訪れて作られたもので、「愛機を降りるセブンティーン」とは特攻に散華した少年兵である。少年兵が渋谷センター街の色とりどりのファッションに身を飾った少女たちに入り交じるという幻視が示すように、佐々木の視座においては過去と現在が交錯するのであり、言ってみれば過去と現在とは等価交換の関係にある。「過去はお前の隣に座っている」と耳元で囁かれているようだ。そこに藤原とはまた異なる鋭い批評性があることは言うまでもない。

 佐々木の短歌において特筆すべきは、練達の奇術師を思わせる自在な言葉の駆使である。その指からは水晶玉演技のように次々と言葉が繰り出される。圧巻は「アードルフ・アイヒマンの為の頭韻」と題された連作で、短歌の五句すべてが「あ」から始まる五十音の頭韻を踏むというアクロバットを実現している。

 あ行から「あ」
  あのときはあらんかぎりの愛をもてあんなことをあくせくとアイヒマン

 か行から「く」
  口惜しく蛇(くちなは)喰らふ暗闇の草迷ふ屈葬の硝子の夜(クリスタル・ナイト)

 さ行から「そ」
  その髭をゾーリンゲンで剃りながら総統をこそそれと信じた

 歌集の帯の背には誰が書いたか「大人の気迫が醸す風韻」の文字が見える。私には「風韻」というより「覚悟」という文字が見えた。添えられた歌人の写真を見ると、髪をダックテールに纏めた風貌はまるで古武士を思わせる。短歌に漂う裂帛の気合いは、おそらく俳句の修練によって会得されたものだろう。同じ邑書林から「セレクション俳人」シリーズで『佐々木六戈集』が刊行されている。藤原も解説に書いているように、「セレクション歌人」を読んだら「セレクション俳人」の方も読まずにはいられない。

 最後に私がいちばん気に入った歌をあげよう。佐々木の覚悟をよく示す花の歌であり、読者諸賢はその毒がゆっくりと脳血管に回るのを味わわれるがよい。

 完璧の珠玉ぞ燃ゆる椿ゆゑ立つたまま逝け水のおもてを

047:2004年4月 第2週 入谷いずみ
または、自然を一杯に抱いた等身大の短歌

リバノールにじんだガーゼのようだから
       糸瓜の花をあなたの頬に

           入谷いずみ『海の人形』
 入谷はずっと「いりや」と読むのだとばかり思っていたが、奥付を見直したら「いりたに」と読み仮名が振ってあった。1967年生まれ、「かばん」会員。『海の人形』は入谷の第一歌集で、題名は吉田一穂の童話集から取ったと後書にある。栞には、入谷の大学時代の恩師である鉄野昌弘、高柳蕗子、萩原裕幸が文章を寄せている。

 どこかで名前を見たような気がすると思っていたら、『短歌研究』が募集した第21回現代短歌評論賞の候補作品にノミネートされていた。「近代における『青空』の発見」という評論である。『短歌研究』2003年10月号に抜粋が掲載されている。選評で岡井隆が、候補作の評論と歌集の「かばん」風の歌とのあいだにあまりに懸隔があるので驚いた(笑)と述べている。

 『海の人形』は第一歌集だけあって、作者の人生の歩みがそのまま反映された構成となっている。徳島の自然溢れる田園地帯に生まれ、大学入学とともに上京し、東京女子大学で国文学を学び、大学院を出て高校教師になる。その間に出会いがあり、失恋があり、結婚する。そのような軌跡が折々に詠んだ短歌として配列されている。読者はまるで作者入谷の人生の歩みを追体験するように読み進むことができる。

 「かばん」は穂村弘・東直子・井辻朱美などが拠る同人誌で、基本的には口語短歌路線だが、実際にはいろいろな傾向の歌人が混在している。同誌では短歌作品はすべてゴチック体活字で印刷されているのだが、これはけっこう痛い(*追記参照)。穂村の『短歌という爆弾』(小学館)に至っては、短歌作品だけでなく、本文も含めて全部ゴチック体で、読んでいると目がくらくらしてくる。字体は短歌の印象を左右する。私は字体が気になる方で、ワープロ専用機からパソコンに移行したとき、いちばん嬉しかったのは様々な書体のフォントが使えることだった。中山明の短歌をいくつかホームページから取得して印刷したときには、縦書きにして正楷書体で印字した。中山の短歌には楷書体か教科書体がよく似合う。入谷の歌もゴチック体が似合う歌とは思えない。『海の人形』はもちろん明朝体で印刷してある。

 入谷が「かばん」に寄せているのは次のような歌である。おおむね「かばん」風と言えるだろう。

 ため息をつけば緋色の魚散る水の向こうにあなたを探す

 あめ色のまねき猫なり傾いて東京の空を招いていたり

 隅田川ひしひしと潮満ちてきて「昔男」が見た都鳥

 夕映えのホテルの「ル」だけ灯されて遠吠えのようにやさしいサイレン

 しかし『海の人形』に収録された作品はもう少し多様であり、作者の多面性を垣間見せている。歌集前半は故郷徳島で過ごした子供時代の思い出であり、純然たる口語で詠われている。

 わたしたち寝てもさめてもカブトムシみたいに西瓜ばかり食べていた夏

 廃校舎ひらきっぱなしの蛇口からなにも流れず夕焼けている

 早稲の香は車両を満たし単線の列車が海に近づいてゆく

 しかし、歌集なかほどになると突然文語旧仮名短歌に移行する。入谷は大学で古事記を研究した国文学徒であり、古語と古文の知識はもともと豊富なのだ。

 すつぽんの骨をかちりと皿に吐きゑゑなまぐさき我が鬼女

 黄泉比良坂(よもつひらさか)越えさりゆけばあるらむか男子(おのこご)住まぬ国の恋ほしき

 エビカヅラ食めば思ほゆタカムナにまして偲はゆ返されし黄泉醜女(よもつしこめ)らその後のこと

 したがって『海の人形』の大部分が口語で作られているのは、作者入谷の意図的選択である。ではなぜ一部分だけ文語で作られているのだろうか。

 文語になっているのは「蛇苺」と「葦原醜女」と題された連作である。こんな歌がある。

 細き鼻つぶらな瞳わが持たぬうつくしき顔描き飽かぬかな

 不思議なり醜女の話美女よりもくはしく今に残せる『古事記』

 夢見る頃を過ぎても自意識は解けず 空をしばつてゐるエビカヅラ

 途中に挿入された散文がこの歌の背景を語っている。作者は自分の容姿に自信がないらしく、コンプレックスを抱いているのである。幼いころ鏡を見ていると、ご尊父に「女の子は鏡を見るんでのうて、本を見て、きれいになるんぞ」と言われて叱られたという。偉いご尊父である。ご自身も教師だったのだ。しかし、女の子はそれでも鏡を見ることを止めない。入谷が自分の抱えるコンプレックスを詠うときにだけ、口語を捨てて文語短歌を作っていることは、なかなかに意味深長だと思えるのである。

 それは〈短歌と思いの距離〉に関係しているのではなかろうか。穂村は「八〇年代の終焉とともに若者たちは非日常的な言語にリアルな想いを載せるということが出来なくなったようだ」(『短歌ヴァーサス』2号)と指摘している。つまり、文語定型は80年代以後の若者にとって、日常的な等身大の〈思い〉を盛る器としては相応しくないものになってしまったということなのだ。〈短歌と思いの距離〉が大きすぎるのである。入谷が自分のコンプレックスを詠うときだけ文語にシフトするのは、その裏返しである。つまり〈短歌と思いの距離〉が大きいために、自分のコンプレックスを生々しくなく歌にすることができ、それによってコンプレックスを悪魔祓いしたいという密かな願望が隠されているのである。歌集の帯文には「古代と現代を往還する歌集」と書かれているが、誤解もはなはだしい。入谷は古代と現代を往還しているのではない。文語文体と口語文体を意識的に乗り換えているのである。そしてこの乗り換えは、短歌という器に盛り込む内容と自分の距離に相関しているのである。

 『海の人形』所収の口語短歌は、現代の他の若い女性歌人の短歌と同じく、日常の折々にフッと皮膚感覚として捉えられたささやかな印象を歌にしたものが多い。しかし、中には異色の歌がある。

 銀色のトレーに盛られみずみずと母の子宮は無花果に似る

 ひらかれし母の子宮に弟と私のいた痕(あと)が残れり

 傷痕がたしかに二つであることをふと確かめて後ろめたい

 もうひとりいたような気がしたけれど 窓をくぐってくる草いきれ

 誰でも子供時代に、自分は本当にこの家の子なのだろうかという不安を抱いたことがあるだろう。作者はたまたま、外科手術を受けた母親の摘出された子宮に自分の出自を確認し、疑ったことに後ろめたい気持ちになった。「もうひとりいたような気がしたけれど」とは、幻影の兄弟であるが、この歌にはもう少しで『顔をあげる』時代の平井弘の短歌を思わせるようなトーンがある。誰もが自分の母親の子宮を目の当たりにするわけではないので、素材の珍しさだと言われればそれまでなのだが、集中特に印象に残った歌群である。ちなみに無花果は聖書ではキリストの呪いにより不毛性のシンボルなのだが、入谷はそこまで意識していただろうか。

 他に印象に残った歌をあげてみよう。

 防空壕草いきれしてえごの花空より降りぬ犬と我とに

 つぎつぎに白粉花の咲くように人を愛せりなつの百夜を

 わが影に燕入りたり夕光(ゆうかげ)に折れ曲がるわが胸のあたりに

 このカーブ曲がれば夏は終るのかGがかかっている胸のうえ

 溶け出した目を押さえつつまた一人岡部眼科にくる雪だるま

 三人官女のみの雛(ひいな)飾られる夕暮れだれも人形めいて

 それぞれに読みどころのあるよい歌だと思う。しかし、歌集全体としては、軽く触れればほろほろと崩れるケーキのように、淡泊な印象であることは否めない。甘さを抑えた軽いシフォン・ケーキであり、みっちりと生地の詰まった味の濃い、たとえばザッハ・トルテのようではない。塚本邦雄の呪詛と諧謔、福島泰樹の慟哭と悔恨、寺山修司の演技と逃走といった、過去の歌人たちが示してきた胸ぐらを掴むような強い印象がない。下手に服用すると中毒を起こすような毒がないのである。

 よく短歌は〈私(わたくし)性の文学〉であると言われることがある。もしそうならば短歌のちがいは端的にそこに盛り込む〈私〉のちがいである。塚本や福島の世代と入谷の世代の差は、塚本や福島の世代が自分の体を被っている皮膚という境界を越えて、自分を取り巻く社会あるいは国家という〈社会的関係性〉までをも詠うべき〈私〉と捉えたところにある。一方、入谷が属する若い世代にとっての〈私〉はずっと縮小していて、体を被う皮膚という境界を余り出ないのである。〈等身大の私〉とはそういうことだ。これが若い世代の感受性なのだが、果たしてそれでよいのだろうかと、ふと感じてしまうのである。

 追記
 こう書いたのが聞こえたのかどうか、「かばん」は2004年4月号からゴチック体表記をやめて、明朝体になった。