第82回 柳澤美晴『一匙の海』

影重く垂らしてきみに逢いにゆく花に牙ある夕暮れ時を
                       柳澤美晴『一匙の海』
 柳澤の名を初めて目にしたのは、雪舟えまと同じく、『短歌研究』創刊800号記念臨時増刊の特集「うたう」(2000)だった。当時は苗字の「柳」が異体字だったが、歌集刊行を機に「柳」に変えたという。「GIRLIE」と題された連作にこんな歌が載っていた。
青年がうねらせる腰に尾は伸びて海を映した銀鱗閃く
割れそうな硝子の目をした少女在り腿に吸い付く蜥蜴磨けば
 爬虫類へのファンタスムを窺わせる語彙には秘めた暴力性が感じられるが、その一方で、後年の「硝子のモビール」に連なる透明感への希求もすでに潜在する。しかし、想像力だけで紡ぎ出した荒削りな歌という印象を否めない。当時大学4年生で作歌を始めたばかりだから無理もない。
 柳澤は「うたう」の翌年に未来短歌会に入会する。始めは岡井隆の指導を受けていたようだが、やがて加藤治郎門下に入る。2006年に「モノローグ」で未来賞を受賞、同年「WATERFALL」で49回短歌研究新人賞次席入選。その年の受賞は「カシスドロップ」の野口あや子。2008年「硝子のモビール」で歌壇賞受賞と順調に駒を進めている。その柳澤が第一歌集『一匙の海』(本阿弥書店 2011年8月)を上梓した。満を持しての感がある。跋文は彗星集主宰の加藤治郎。表紙にジョゼフ・コーネル風の箱のオブジェを配した小体な造本である。収録歌は2006年からの編年体で、それ以前の短歌は若書きとして切り捨てたものと思われる。短歌研究新人賞次席の「WATERFALL」も16首しか収録されておらず、相当な選歌の跡が見られる。選歌もまた歌人の芸である。
 加藤率いる彗星集は多士済々の若手集団だが、ニューウェーブ短歌の後衛として位置づけられ、ゆるやかな定型意識と口語という共通性がある。加藤は『短歌ヴァーサス』終巻号に寄稿した「ポスト・ニューウェーブ世代、十五人」という文章のなかで、ニューウェーブが短歌史上エポックとなった理由を三つ挙げている。1)革新という近代原理から自由になった 2)口語の定着 3)大衆社会状況の受容 である。加藤によればこのうち1)は前衛短歌によって達成されたが、2)と3)は課題として積み残された。そしてニューウェーブが2)と3)をクリアしたとき、近代短歌の革新性は終焉したという。
 しかし、ニューウェーブのレトリック主義の余波を受けて、「いかに言葉を流通させるかという方向に作家意識が変化した」(山下雅人)ことも事実であり、これは上記3)と密接に関係している。この方向を極端に押し進めたのは、ニューウェーブ後に登場した枡野浩一だろう。枡野は1968年生まれで、柳澤はちょうど10年後の1978年生まれである。柳澤らの世代はポスト・ポスト・ニューウェーブ世代に当たる。「やり尽くされた後で短歌という詩型の可能性をその外部に求めざるを得なかった」(加藤, op.cit.)ポスト・ニューウェーブ世代の後に続く柳澤らの世代は、短歌という詩型の可能性をどこに求めればよいのだろうか。彼ら・彼女らの最大の課題はそこにあったし、今もそこにある。
 ひとつの方向は『ひとさらい』の笹井宏之のように、言葉の詩的純化の方向へと舵を切ることだろう。
歯神経ふるわせながら淡雪でできた兎をゆっくりと噛む
まばたきの終え方を忘れてしまった 鳥に静かに満ちてゆく潮
 定型の持つ韻律という軸にではなく、言葉の純化・透明化によって無重力的ポエジーを発生させる笹井の方向性は、短歌を限りなく自由詩の岸辺へと打ち寄せてゆく。 
 では柳澤の方向性はどうかというと、誤解を恐れずに言えば、ある意味で近代短歌への回帰という側面が見えるのではないかと感じたのである。たとえば次の歌はどうだろう。
古書店に軒を借りれば始祖鳥の羽音のような雨のしずけさ
前髪の触れあわぬ距離にきみはいて無菌操作のあやうさを言う
火にかけたゼライス透けてくるまでの会えぬ時間を守りていたり
さびしさの骨格のごとく積み上げるセブンスターの細い吸殻
尖端の欠けてしまったピペットの春のひかりを束ねて捨てる
 一首目は雨宿りの情景だが、軒を借りるのがコンビニやファストフード店ではなく古書店であり、雨音が始祖鳥に喩えられているところに、ニューウェーブの好んだ都会的アイテムからすでに遠くにいることが推察される。二首目は相聞で、「前髪の触れあわぬ距離」に見られるおずおずとした清新さは、現代のあっけらかんとした性愛表現から遠く、ひと昔、いや、ふた昔前の男女の仲のようだ。三首目ではゼライスが透けるまでの時間で時間の短さを表現し、恋人に会いたいというはやる気持ちを抑える自制を示している。また、四首目では灰皿に積もる煙草の吸い殻が、五首目ではピペットの束が、それぞれ歌の核をなす中心的アイテムとして働いており、それらを中核として短歌が紡ぎ出されてゆく様は、近代短歌そのものと言ってよい。
 また歌中の〈私〉の位相と視点の統一性という点においてもそのことは言える。加藤治郎が試みている、意識の重層的審級に言葉を与えるような実験的語法は、柳澤の短歌には見られない。
 柳澤は同じく北海道に住む北辻千展や山田航らとともに「アーク・レポート」という同人誌を出している。第3号では「ゼロ年代を問い直す」という意欲的な特集を組んでいるが、そこに見られるのは短歌の過去に学ぼうという姿勢である。
 このことは歌集に収録された次のような歌からも窺うことができる。
塚本邦雄の訃報を告げる青年よシャツの格子のなかの棒立ち
数知れぬ針を詩史へと突き刺した評論家死す 北の果てにて
近代の目には涼しい青き火よ 茂吉─赤彦往復書簡
城戸朱理のブログの中で遠方に住む恋人と目が合う、まれに
紫外線ランプ点りぬ 永田和宏の半生を照らし続けしランプ
 一首目と二首目は塚本邦雄と菱川善夫へのオマージュ。四首目の城戸は評論集『戦後詩を滅ぼすために』で注目を浴びた詩人。五首目は理系の研究者である恋人のラボでの姿を詠んだものだが、細胞生物学者でもある永田が登場している。ニューウェーブ短歌やポスト・ニューウェーブ短歌には固有名が少ない。固有名はすでにある意味をまとっており、またそれだけで歴史への投錨点として機能する。ニューウェーブ短歌の「革新という近代原理からの解放」路線は、必然的に固有名の減少を招いた。短歌に固有名を入れるということは、肯定にせよ否定にせよ、歴史にたいしてあるスタンスを取ることを意味する。柳澤は近代に学び直そうとしているように感じられるのである。
 歌集の第III部には職場詠が多く見られるようになる。
常連の生徒数名 帰巣するように保健室に来るなり
青あざに湿布を当ててすり傷の消毒をして悩みを問えり
口つぐむ少女と向かいあう時を保健室への水圧強し
 どうやら作者は保健室の先生をしているらしい。「来るなり」の語法はいただけないが、保健室の先生にはふつうの教員とはちがった生徒との関係と役割があるのだろう。
 また父母も歌に登場する。
十字貼りされている箱に青年の父がもとめた思惟の葉がある
父に父のわたしにわたしの孤独棲むレモンの果肉をつつむ薄皮
夏の水やわらかし冬の水硬し白とうきびが母より届く
 作者は新しい職を得て、改めて家族を思い、北海道という風土に根ざして生きてゆこうとしているように見える。そのときに取られるスタンスは意外に古典的なのである。
 いかにも作者らしいと思えるのは、次のように短歌定型に賭ける決意を述べた述志の歌である。
定型は無人島かな 生き残りたくばみずから森を拓けと
光つつわれにつらなる詩語あれどうっすらひとの指紋をのこす
虚数いくつ連ねて書き継がれる史実 扉に釘の跡深くあり
一滴のまだしたたらぬ詩のために傷口はきよく保たれてあれ
 一首目は加藤も跋文で引用しているが、「定型は無人島かな」と言い放つ志はよしとすべきだろう。二首目は、まだ誰の手にも汚されていない詩語を求める決意表明。どことなく「真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり」という子規の歌を連想させる。三首目は短歌の歌ではないが、歴史の虚偽を見つめる目が確かである。
 いろいろ書いてきたが、本歌集の収録歌のなかで特に美しいと思えたものを挙げてみよう。
SUBWAYのサンドイッチの幾重もの霧にまかれてロンドンは炎ゆ
日々とは循環小数にしてうみにふるあわゆきのごとくきみとであわず
運命さだめにも模写はあるかなひる過ぎのカフェテリアにて待たされている
サイダーの泡のあおさのひとときを分かちあう冷えたからだかさねて
手首つかまれくちづけられている夜を蓮のようにひらくてのひら
札幌にふかく食い込む川ありて溶け出す刃物のようなかがやき
 一首目はロンドンの地下鉄テロを詠んだ歌らしい。相当手のこんだ修辞を用いている。SUBWAYはもちろん地下鉄のことで(地元の人は俗にtubeと呼ぶ)、それと同時にサンドイッチのチェーン店の名称でもあるので掛詞である。そして「SUBWAYのサンドイッチの」までが「幾重もの」を導く序詞になっている。「修辞ルネサンス」を標榜したニューウェーブ短歌の面目躍如というところか。二首目の循環少数とは、ある特定の数字列が無限に繰り返される少数のこと。循環小数の限りない反復と海に降る淡雪のイメージが重なって美しい。三首目、「運命」を「さだめ」と読ませるのは古風だが、「模写はあるかな」はたぶん既視感のことを言っているのだろう。いつものように恋人に待たされている情景。四首目、「サイダー」と「泡」と「冷えた」が縁語になっていて、一首の空気感を作っている。五首目、音数から言って「蓮」は「はちす」と読みたい。すると「蓮のようにひらくてのひら」は仏像を連想させ、弥勒菩薩のイメージが重なって美しい。六首目は故郷の風土を詠んだ歌だが、「溶け出す刃物」という喩に危ういムードが漂う。
 こうして見ると柳澤は、師である加藤治郎からニューウェーブ短歌の思想と手法を学び取り、自家薬籠中のものにして、そこから自分の歌を詠むべく近代短歌に学び直しているのではないかと思われる。そう考えると第一歌集『一匙の海』は何かの達成というよりも、何かへの出発と捉えた方がよいのかもしれない。

第81回 小島なお『サリンジャーは死んでしまった』

なつのからだあきのからだへと移りつつ雨やみしのちのアスファルト踏む
             小島なお『サリンジャーは死んでしまった』
 確かに「夏の体」というのはあるかもしれない。汗をかきやすく、日に焼けていて、暑さに慣れて適応してはいるが、体の芯にだるさが残る。では「秋の体」とはどういうものだろうか。日差しかやわらいで日焼けが少し薄くなる。朝晩の涼しさに少し体がしゃんとする。新しい服が着たくなる。そんなところだろうか。
 初句から二句を平仮名書きにして読字時間を引き延ばし、二句目を増音することでさらに、夏から秋へのゆっくりとした時間の経過をイコン的に表現している。韻文である短歌ならではの表現手法である。下二句も「あめ・やみしのちの」「アスファルト・ふむ」と、2・6/5・2のほぼ対称なリズム配分が結句の終結感を支えていて、着地感が溢れている。日本では明治期に始まった道路のアスファルト舗装は、モダニズムの頃ならば都市詠の素材になったであろうが、平成の今日ではすっかり都市の風景の一部となり、短歌に詠まれても違和感がない。羨ましいほどの若さを感じさせる一首である。
 小島なおは1986年生まれで、コスモス短歌会所属。2004年に17歳で角川短歌賞を受賞していちやく脚光を浴びた。2007年に受賞作を含む第一歌集『乱反射』が出版され、取り上げようか迷っているうちに、第二歌集『サリンジャーは死んでしまった』が上梓された。おまけに『乱反射』が桐谷美玲主演で映画化されたという。歌集の映画化は中城ふみ子の『乳房喪失』以来らしい。おりしも角川『短歌』8月号でベテランの栗木京子が年少の小島にインタビューしている。いろいろ出そろったところで、小島の歌集を2冊まとめて見てみたい。
 17歳での角川短歌賞受賞はとにかく話題になった。それまで日経新聞の高野公彦の選歌欄に投稿していたようだが、歌歴半年程度での受賞は異例である。あらためてその年の角川短歌賞の選評を読み直してみると、審査員の小池光など、「かつてない才能が現れた」と手放しの褒めようである。今読み返してみても、若さを感じさせる清新な歌が多い。今回『乱反射』を通読して、次のような歌に注目した。
かたつむりとつぶやくときのやさしさは腋下にかすか汗滲むごとし
雨すぎて黒く濡れたる電柱は魚族のひかり帯びて立ちおり
水菜食みさらさらとわれは昇りゆく美しすぎる寒の銀河へ
パイナップル食べ終えた後のまぶしさよまあるい皿に五月のひかり
風見鶏日照雨に濡れてまわりおり少年の耳燃えている夏
平泳ぎのようにすべてがゆっくりと流れゆくのみ秋の浮力に
猫の眼にかすかな水の気配して冷蔵庫には梨二つある
過去のなき空間のごとく光りおり八月の朝のコンビニの中
まだ知らぬ世界があってただ今のわれのからだに夏満ち満ちる
 一首目は角川短歌賞応募作に含まれていた歌である。選評座談会では「17歳で腋下なんて言葉を知ってるものかね」と話題になった。この歌も最後の歌もそうだが、「世界に生きる〈私〉」の若い体感を感じさせる。ある時期にしか作れない「時分の花」だろう。二首目の電柱から魚へ、三首めの水菜から銀河への連想は、適度の詩的飛躍があり、また無理がない。なべて小島の短歌には、意味解釈に首をひねるような喩や飛躍がなく、言葉に無理な負荷をかけて、摩擦によって発光させようというような前衛的態度が見られない。よくも悪くも保守的なのである。このため言葉の使い方に素直すぎるところもあり、それが物足りなさを感じさせることもある。
 ここで四首目のパイナップルの歌を見てみよう。食卓に置かれた皿に盛られたパイナップルを家族みんなで食べ終えたあと、卓には空の白い皿だけが残る。白い丸皿には五月の光が輝いているという歌である。これを小池光の次の歌と比較してみよう。
夏至の日の夕餉をはりぬ魚の血にほのか汚るる皿を残して 『廃駅』
 小池の歌の舞台は夏至だから、本来ならば明るい光が溢れているはずだが、この歌は逆に陰翳に満ちている。皿に残った魚の血は、生きるということへの慚愧の象徴である。翻って小島の歌をあらためて見ると、小島の歌にはそのようなマイナス感情がまったくない。世の中に対して斜に構えたところもない。この「マイナス感情の不在」が小島の歌を明るくのびやかなものにしている。夏を詠った歌が多いのも、このことと密接に関係していよう。
 『乱反射』を通読すると、「永遠の夏」という言葉が脳裏に浮かぶ。どこか時間が停滞したような高校生活のさまざまな場面が詠まれていて、いつまでもこの時間が続くのではと錯覚させる。そんなところがある。
 しかし17歳で角川短歌賞を受賞するというのは苛酷な経験である。「若年の栄光は災厄である」という言葉もあるくらいだ。受賞からしばらくして『和楽』という雑誌の「母と娘で旅する」のような特集で、母の小島ゆかりといっしょに出ていたことがあった。ところが掲載された写真はすべて遠景で、おまけに娘のなおは全部後ろ向きに写っていた。明らかに「私はこんなものに出たくないのよ」とブーたれていたのである。カメラマンは困ったにちがいない。私はそれを見て、正直「こりゃ大丈夫かな」と思った。男の子ならここで確実にグレているところだ。しかしなおはその後、青山大学を無事卒業して就職し、IT関係の会社員になっても短歌を止めなかったようだ。その成果が第二歌集『サリンジャーは死んでしまった』となって世に出たことは喜ばしい。
 集中では次のような歌に注目した。
祈るごと膝をつきたる象の眼は石の優しき重さをもてり
鳩がふと飛び立ってゆくこの瞬間ときをこの幸福をいつか忘れる
足首まで水に浸かればゆっくりと老いゆくわれらの影は美し
噴水の広場に影は満ちあふれひとの群、犬の群まじわらず
各々の臓器抱えてすれちがう曇天重く垂れいる街を
いままでの罪の数など数えつつプラム食べれば濡れている舌
楽器など何ひとつ弾けぬてのひらに集まりやすしゆうべの風は
 いささか意表を突く歌集題名は、巻頭の「春風のなかの鳩らが呟けりサリンジャーは死んでしまった」から取られている。サリンジャーは永遠の青春小説『ライ麦畑でつかまえて』の作者であり、その死去は青春の終了と同義と捉えられているからある。
 第一歌集に較べて明らかに上手くなっている。同時に第一歌集にはなかった陰翳や光と影の対比が生まれている。また第一歌集では停滞していた時間が流れ出している。これには大学を卒業して社会人になったこと、祖父が認知症になり介護が必要になって、死を身近に意識するようになったことが関係していよう。次のような歌がある。
いもうととどちらが先に死ぬだろう小さな哲学満ちる三月
老いてゆくいのちのありてひるがえる祖父のずぼんが夏空へ跳ぶ
死に向かう時間を強く意識せよ祖父はいつかの獅子座流星群
 先に引用した歌に戻ると、人間が影と表現されている点に視線の深まりが感じられる。実体ではなく影と把握するのは、そこに時間が組み込まれているからである。影はいずれは消え去るものだ。また五首目にように、人間を臓器の器と表現するところにも、物事をさまざまな角度から把握する多面的視点が見られる。
 『短歌』8月号の栗木京子のインタビューでおもしろかったのは、母の小島ゆかりから「中途半端な気持ちで私の世界に入ってきてほしくない」と言われたというエピソードだ。なおは「母から言われた言葉のなかではいちばん心に響いて、ショックでした」と述懐している。親子と言えども技芸アートの道は厳しいのである。その言葉を正しく受け止めたのならば、今後もその道を歩いてゆくことができるだろう。

第80回 黒田瞳『水のゆくへ』

ひとつ水脈ひきて渡れる鳥の陰ちさくうかべてあしたの川は
                 黒田瞳『水のゆくへ』
 歌との出会いは〈われ〉と歌との純粋二項対立関係が理想だ。立ち寄った書店の書棚から、偶然性に身を任せて歌集を一冊引き抜くのがよい。また作者が未知の人で、個人情報が一切欠落していることが望ましい。読者の私は短歌の言葉のみに導かれて、未踏の世界に参入する至福を味わえるからである。
 しかし、なかなかこうはいかないのが現実だ。まず書店に歌集が置かれていない。またいらぬ知識ばかりが増えて私の読みを阻害する。げにままならぬがこの世の定めだが、今回取り上げる歌集についてはほぼ理想に近い。「ほぼ」というのは、2004年3月に本コラムの前身「今週の短歌」に書いた「レ・パピエ・シアンの歌人たち」で黒田の歌を4首引いているからである。従って厳密に言えば「お初」ではなく、再会ということになる。
 黒田瞳は「未来」に所属して岡井隆の選歌を受け、同時に同人誌「レ・パピエ・シアン」でも活動している歌人である。『水のゆくへ』は第一歌集。跋文は師の岡井。2001年から2010年までの10年間に作った歌が収録されており、かなりの歌数にのぼる。
 女性歌人、それも若い女性歌人の場合、第一歌集を読むと、恋人との出会いや別れ、就職、結婚や出産など、「女の一生」的な実人生の軌跡が手に取るように読み取れることがある。この実人生との密着度の高さが、同じ短詩型文芸でも俳句との違いであり、また現代詩や小説など他ジャンルと現代短歌を分かつ大きなメルクマールとなる。「言葉の引き寄せ方」において、現代短歌は異彩を放つのである。
 しかし、もっと解像度を上げて短歌の世界を眺めると、このことがすべての短歌に当てはまる訳ではないことも了解される。〈私〉と言葉の距離は歌人によって相当に異なる。それと同時に言葉の「透過度」と「反射率」もさまざまである。言葉を観察者の〈私〉と世界を隔てる一枚のガラスに喩えてみよう。透過度が高く反射率が低いと、ガラスは限りなく透明になり、向こう側に広がる世界が忠実に〈私〉の網膜に投影される。ガラスは世界の有り様をそのまま〈私〉に伝達する。逆に透過度が低く反射率が高い場合、ガラスの存在感が増すと同時に、向こうにある世界は〈私〉に見えにくくなる。〈私〉の網膜に映ずるのは世界ではなく、ガラスに反射する光の戯れである。図式に堕すことを恐れず言うと、おおむね前者は「人生派」の歌人、後者は「言葉派」の歌人ということになる。実際にはその両極の間に無数の中間的度合いが存在することは言を俟たない。
 さて、黒田の歌集は人生派と言葉派の中間値よりもやや言葉派寄りで、短歌言語の透過度はかなり低く、反射率はやや高めである。岡井の跋文から作者が音楽科の教師をしていることは知れるが、収録された歌のなかには職場詠の類がほとんどなく、歌のみからはそのことを窺い知ることはできない。では黒田の歌の照準はどこに合わされているのだろうか。
みなぎらふものを封じて果の熟るる子の頭のほどの固さと思ふ
くだつ夜の階くらく踏みはづしたなうらに受く何のはなびら
春ははた若きのみどの洞にさすあはき蔭かも目つむりて聴く
ひとつこと拾はむとしてあまた捨つ我等おびただしう捨つふりかへることなく
秋のいを腹太うして動かざる諦念の泥しづかに澄めり
 描かれている事象はいずれも取るに足らぬ些事である。例えば一首目ではそれは熟した果実を目の前に置いているという事実であり、二首目では暗い夜の階段を踏み外したときに、手のひらに何かの花びらが落ちたという体験である。従って素材(=テーマ)の比重は限りなく低い。翻って歌の眼目が事象を目の前にした時の心の動きかというと、それもおそらく違う。歌の眼目は心情描写にもない。一首目のポイントは「みなぎらふものを封じて」という事象の知的解釈と、「子の頭のほどの固さ」という見立てにある。事象が〈私〉に見せる相貌と、その逆方向に立つ〈私〉が事象に注ぐ眼差しという二重の関係性のなかから言葉が立ち上がる。いや、今少し精確に言えば、この二重の関係性のなかで立ち上がる言葉の彼方に〈ゆらゆらと見えてくるもの〉こそが歌における〈私〉なのである。〈私〉が先験的に存在し、歌がそれを表現するのではない。
 黒田の歌には直裁な感情の吐露や現実の裁断というものがないが、その理由は歌に先立つ外的な〈私〉が限りなく少ないからである。黒田はそれに代わって事象と言葉の往還のなかから丹念に言葉を紡いでゆく。これは短歌定型に相当な信頼を置いていなければできない業である。黒田が文語、それも上代語を好んで用いることにもそれは現れていよう。
およびもてやはらになぞるみほとけのまなぶたに浮くあはき木のあや
さにはにはゆふぐれの風くちなはの綺羅うち捨てられてそよげりはつか
北辺に降りみ降らずみ降るしぐれかなしき人のわたる荒磯は
みづうみにあはくさしだすただむきのこの世にあれば桟橋と呼ぶ
いつかまた溺れ谷へと還る都市 光のほさきしばしとどめよ
うつそみはただにかなしゑたまづさの陰もなければゆく風に問う
 一首目は平仮名表記を前面に押し出して韻律の効果を高めた一首。「および」「やはら」のo-o-i、a-a-aという母音の配列や、「あはき」「あや」の頭韻が和語の滑らかな印象を生んでいる。御仏も飛鳥・天平時代の仏像かと思われる。三首目の「降りみ降らずみ」、四首目の「ただむき」、六首目の「うつそみ」「たまづさ」など、古語の語彙や語法が好んで用いられているが、これが結果として言葉の透過度を低めている。四首目は特に印象に残る歌で、前後からこの湖は琵琶湖だとわかる。ちなみに「ただむき」は腕のこと。この世とあの世の境界が淡く、王朝風の夢幻すら思わせる歌である。
 これらの歌を見ても、黒田が短歌の歴史性と共同性を信じて作歌していることがわかる。大辻隆弘は時評集『時の基底』で穂村弘の脱歴史意識に触れて、穂村は自分だけの神を信じ、自己と定型とを垂直の表現によって結びつけようとするわがまま派だと断じた。この言に従えば、黒田のスタンスはわがまま派の対極にある。このように短歌言語の共同性を踏まえてその上で表出される〈私〉は、以外に揺るぎないものとなっている。それは実人生において作者が意志強く潔く生きているからだろうと思われる。
 下に引く初めの三首のように恋愛においても、また残り四首のように父親の病と母親の死去という大きな出来事を前にしても、作者のこのような態度は変わらない
ひむがしの君想ふときたましひのあはきかたちよ放物線は
二日逢ひひとひをかけて還るなり君のこだまを確かめむため
飲みほせば別れとならむカフェオレの君の論理にうべなひながら
肺いまだみづきて濁るたらちをの昏迷つづく三晩を経ても
病み臥せる父のきびすのあをめるを湯もて浄めり懺悔のごとく
混濁のいまはのきはの母よべば泪のわけをやはらに問ひぬ
きよめ塩踏みてもどれるちちのみの父を朋とし生く明日より
 黒田の短歌を読んで感じたもうひとつのことについて触れておきたい。それは〈私〉と不即不離の関係にある〈時間〉である。斉藤斎藤は「短歌ヴァーサス」11号(2007)に寄稿した「生きるは人生とちがう」という評判になった文章のなかで、若手歌人たちの短歌における〈今〉至上主義について論じている。斉藤は「本を持って帰って返しに行く道に植木や壊しかけのビルがある」という中田有里の歌を引用し、次のように分析する。この歌は現在から過去を再構成したものではなく、〈今1〉─〈今2〉─〈今3〉のような今の連続から構成されていて、この〈私〉のそのまんま加減に敬虔な迫力を感じる。中田の歌には人生がなく、すっぱだかの〈生きる〉しかない、と。
 斉藤の分析はおそらく若手歌人の作歌姿勢の核心を突いているのだが、翻って黒田の短歌を眺めてみると、若手歌人の〈私〉と〈今〉の直列配置とは対極的な位置にあることがすぐわかる。黒田の歌にはほとんど〈今〉がなく、時間の流れすら感じられないことが多い。比較的動きが感じられる「暮れやすき街のそこひにともる灯の魚影にも似て濃くあはく揺る」のような歌を見ても、そこには近代短歌の措定した観察主体としての〈私〉は希薄で、それと連動する〈今〉感覚も限りなく薄い。どこか一幅の絵画を見ているような印象があり、時間は絵の背後に溶解するかのようである。それは黒田が近代短歌の〈個別性〉よりも古典和歌の〈共同性〉により心を寄せているためだろう。反時代的と言えば言えるのだが、反時代的というのもまたひとつの個性である。人は我が道を行くしかない。
 最後に本歌集では他の歌とやや傾向の異なる歌にも触れておこう。
史書ふかく眠りし龍と思ひしが日々喚ばはれて濁る二筋
さかしまに木を歩ませばいく千の夜世わたらむよそびら反らせて
 一首目は「バベルの蒼穹そら」という一連に納められている歌。二筋とは古代文明を育んだチグリス河とユーフラテス河のことで、アメリカ軍によるイラク侵攻を詠んだ時事詠である。時事詠の時として陥る底の浅さに比較して、歴史の厚みに想いを馳せているところに個性がある。二首目は2004年にも引いた歌だが、MIHO MUSEUMU(ママ)との詞書があるので、美術展を見ての属目だろう。MIHO MUSEUMは滋賀県甲賀市の山中にある驚異の私立美術館。見た美術作品に刺激されてのことだろうが、幻想的光景が印象的である。

第79回 雪舟えま『たんぽるぽる』

目をあけてみていたゆめに鳥の声流れこみ旅先のような朝
               雪舟えま『たんぽるぽる』
 私が雪舟えまの名を初めて知ったのは、2000年(平成12年)という区切りのよい年に刊行された『短歌研究』誌の創刊800号記念臨時増刊号「うたう」だったと思う。今から11年前に発行されたこの号は、現代短歌を俯瞰するために参照することが不可欠な雑誌となった。加藤治郎がよく「うたう」以前と「うたう」以後という言い方をする所以である。穂村弘・加藤治郎・坂井修一が審査員となった「うたう作品賞」という企画が、それまで歌壇に縁のなかった短歌作者を掘り起こしたのだ。そこには電子メールというインターネット媒体を用いた作歌指導というこの企画の方針が関係している。受賞したのは盛田志保子「風の庭」だったが、入選作に雪舟えまや佐藤真由美が名を連ね、候補作には天道なお、秋月祐一、天野慶、石川美南、加藤千恵、赤本舞(今橋愛)、柳澤美晴、玲はる名らが居並ぶ壮観である。
 「うたう」は新しい短歌作者の輩出というだけに留まらず、現代短歌における文体の変容という点でも画期的であった。それは同号の特別座談会での穂村弘のキーワード「棒立ちのポエジー 一周まわった修辞のリアリティ」によく表されている。この座談会よりも「みぎわ」22号(2004年)に穂村が寄稿した「棒立ちの歌」という文章の方が簡潔にまとめられているので、そちらを参照すると、穂村は概ね次のようなことを述べている。
 80年代に登場した中山明、紀野恵、大塚寅彦らは文語を含む高度な修辞を駆使し、短歌言語という非日常的な言語にリアルな思いを乗せることができたが、彼らを最後にそのような作者は絶滅した。例えば「わたくしにあらぬおみなご引き連れていづこにおはす水晶の夏」という紀野恵の歌では、個人の想いに対して「うた」が上位のレベルにある。ところが若い作者においてはその関係が逆転している。例えば「たくさんのおんなのひとがいるなかでわたしをみつけてくれてありがとう」という今橋愛の歌では、一首全体が〈私〉の想いそのもので、それがそのまま「うた」になっている。これが「棒立ちの歌」である。一見散文的に見えた俵万智の歌でも、句またがり、対句、序詞、体言止め、比喩など、「うた」を成立させる工夫が必ず含まれていた。ところが若い作者にはそのような修辞上の工夫がなく、〈私〉の想いと「うた」のレベルが急速に平準化している。その理由は「うた」以前の問題として、自己意識がフラット化しているためで、若い世代にはそれ以前の世代に見られた気取り、衒い、生意気さ、形而上的志向といったものが見られない。よく言えば最初から地に足がついているのである。
 「うたう」で明確に前景化されたこの自己意識のフラット化と〈私〉の想いと「うた」のレベルの平準化という傾向は、あれから11年経過してますます進んでいるように見える。その傾向は今回取り上げる雪舟えまの歌集にも顕著に見ることができるのである。
 雪舟は1974年札幌生まれ。北海道では小林真美名義ですでに活動していたらしく、跋文で松川洋子が雪舟の札幌時代のことに触れている。1997年「かばん」入会、すでに述べたように2000年の「うたう」作品賞で入選、2009年に短歌研究新人賞で次席。ちなみにこの年の新人賞受賞者はやすたけまり。『たんぽるぽる』は雪舟の第一歌集で、「たんぽぽがたんぽるぽるになったよう姓が変わったあとの世界は」という歌から題名が採られている。結婚して姓が変わった違和感を詠んだものである。帯文は東直子、穂村弘が朝日新聞の6月26日の書評欄で取り上げて褒めている。
 やすたけまりの歌集「ミドリツキノワ」にも言えることだが、『たんぽるぽる』の基調をなすのは女子的世界観に染め上げられたメルヘンで、正直言ってオジサンにはキツい。
おんなじパックに入れてよかったね、きょうだいらしいあさり二つは
雨の中うさぎに雨を見せにゆくわたしをだれも見ないだろう
どの恋人もココアはバンホーテンを買いあたしの冬には出口がない
死だと思うアスタリスクがどの電話にもついていて触れない夜
春雷は魂が売れてゆく音額を窓におしあてて聞く
 しかしその点は当面無視することにして、短歌としての造りを見てみよう。「うたう」以後の若手歌人に共通するのは、一)緩い定型意識 二)平仮名の多用 三)喩の少なさ 四)区切れの不在 だろう。
 まず一)だが、概ね定型に準拠しているものの、型としての意識は低く、その結果として句割れ・句跨りも少ない。句割れ・句跨りは強い定型意識があって初めて修辞として成立するからである。例えば掲出歌「目をあけてみていたゆめに鳥の声流れこみ旅先のような朝」を見てみよう。三句目までは定型だが下二句「流れこみ旅先のような朝」は15音でうまく区切れない。同じことは引用したほとんどの歌について言える。
 二)は今さら言うまでもない。
 三)はやや評言を要しよう。加藤治郎は80年代後半に始まったニューウェーヴ短歌を「修辞ルネサンス」と呼んだ。写実に基礎を置く近代短歌が否定した枕詞・序詞・掛詞・言葉遊びなどを復活させたという一面があるからである。ニューウェーヴ短歌を特徴づけるのが修辞だとすると、穂村が棒立ちの歌と呼んだ「うたう」以降の若手の短歌の特徴は修辞の不在である。なかでも喩が少ない。上に引いた雪舟の五首はランダムに選んだものだが、喩らしきものは五首目の「春雷は魂が売れてゆく音」しかなく、これすら喩かどうか定かではない。喩が少ない理由は、若手歌人は「ヒリヒリするような切実な想い」を短歌によって表現しようとしているため、喩は想いのストレートな伝達の障害となるからである。喩は言語表現として意味が圧縮されているため、解凍と解読を必要とし、ストレートな伝達には向かない。
 四)もこの点と深く関係する。区切れは歌の内部空間に広がりを付与し、また永田和宏が「問と答の合わせ鏡」と呼んだ内部構造を形成するために不可欠なのだが、若手歌人にはそれが邪魔なのである。それは「想いのストレートな伝達」を最重要視しているからだ。吉田弥寿夫はかつて、「内容が統一的であり、しらべにも切れがない方法は、モノローグ的発想であり、集団から阻害(ママ)された単独者のもの」と述べた(『雁』4号)。この評言が実によく当てはまるではないか。
 こうひとくくりにするのが乱暴であることは承知の上で言うが、若手歌人の短歌に不足しているのは何だろうか。それは「〈私〉の想い」に向き合うのと同じくらいか、それ以上の熱情をもって、「言葉」に向き合う姿勢ではなかろうか。定型という便利な器に乗っかって「〈私〉の想い」を述べようとすると、流れにプラスチック製のボートを浮かべたように、するすると抵抗なく下流へと下ってしまう。もちろんするすると下ってはいけないのである。それはあまりに安易な道だからだ。短歌定型という急流に逆らって上流へと這い登るくらいでなくてはならない。それは定型を問う姿勢である。
 なかはられいこ『脱衣場のアリス』巻末に収録された座談会で、穂村は次のような発言をしている。穂村は「えんぴつは書きたい鳥は生まれたい」という中原の句をよいとする意見に反対し、それより「五月闇またまちがって動く舌」「開脚の踵にあたるお母さま」の衝撃力の方が勝っているとする。その理由は「えんぴつ」は初めから持っていた世界観を表現したに過ぎないのに対して、他の二句はフォルムの要請というか、定型で書いて来てその中でつかみ上げた言葉であり、そこには認識の更新があるからだという。
 ここには傾聴すべき意見がある。穂村の言うことを私なり変奏すると次のようになろう。物性物理に固有振動数という概念がある。どのような物体にも自然に振動させた場合に持つ振動数というものがある。物体にその固有振動数を与えた場合、共振という現象を起こして強く振動する。ところが固有振動数からかけ離れた振動を与えても、あまり大きな振動を起こさない。地震が起きたときに建物のよって被害の大きさが異なるのは、建物の固有振動数が異なるからである。
 この概念を比喩的にずらして、言葉にも固有振動数というものがあるとは考えられないか。「ごはんを食べる」と「決議を採択する」は振動数が異なる。前者は日常的場面で用いられ、後者は公的場面で用いる。混在すると「ごはんを食べてから、決議を採択する」となって、明らかにおかしい。また「自転車」と「走る」はよく似た振動数を持つので、同時に用いられやすい。一方、「洗濯機」と「宇宙」はかけ離れた振動数を持つため、並べて用いられにくい。
 詩の言葉の発見とは、使い古された言葉の振動数帯を離れて、あえて異なる振動数の言葉を連接することで新奇な美を創り出すことである。だからそれは事前に持っていた世界観を言葉で表現することではなく、定型と格闘するなかで、自分にとっても思いがけない言葉の組み合わせを発見することである。
 「うたう」以降の若い歌人たちに欠けているのは、このような意味で言葉に向き合う姿勢ではなかろうか。読む者の認識を更新する歌を作ってもらいたいと思うのである。
 雪舟の歌集をきっかけに書き連ねて来たが、もちろん雪舟の短歌のすべてが「うたう」以降の若手歌人の陥穽に陥っているというわけではない。集中では次のような歌に注目した。
ジャンヌダルクのタイツの伝線のごとき流星に遭う真夜のごみ捨て
わたしの自転車だけ倒れてるのに似てたあなたを抱き起こす海の底
傘にうつくしいかたつむりをつけてきみと地球の朝を歩めり
硝子戸にぶつかる燕 忽ちにインクにもどりそうなつばめよ
苦しげに水を漏らしている機械抱きたい夏の入り組む道で
わたしたち依りしろのよう花火へと向かう人らに心あかるむ
 一首目には明らかに定型意識が働いている。また「ジャンヌダルクのタイツの伝線のごとき」までが流星にかかる枕詞的な喩で、下句の本体よりも喩が前面に出てくるおもしろさがある。ちなみにジャンヌダルクはどんなタイツを穿いていたんだろう。二首目では、「わたしの自転車だけ倒れてるのに似てた」で切れるのか、それとも「あなた」に連体修飾句としてかかるのかわからず、わからないのが瑕疵とも言えず、意味とイメージがたゆたう所がかえってよい。それが海の底のゆらゆらするイメージとよく符合している。三首目「傘にうつくしいかたつむりをつけて」は17音だが、5・7・5にうまく切れないので定型からは外れている。しかし傘についたかたつむりという極小と地球という極大の組み合わせが詩を生む。四首目はガラスにぶつかった燕がインクに変化するという見立ての歌だが、「もどりそうな」と言っているから、燕は元はインクだったということになる。これもイメージの美しい歌である。五首目の機械は詞書から故障してばかりの洗濯機ではないかと推測されるが、そう取らずともよい。上句はやり場のない苦痛の喩と取ってもよい。この歌には珍しく句切れがあり、上句の喚起する不思議なイメージを、下句の具体的な場面設定が受け止めるという短歌的構造になっている。六首目の「依りしろ」とは、神や霊などが憑くものを言う。「わたしたち」は依りしろのように魂が浮遊したような状態なのだが、花火見物に出かける人波に混じって自分を取り戻すというくらいの意味だろう。
 いろいろと書き連ねたが、歌人は第二歌集で決まるというのが小池光の持論である。今後の活躍に期待したい。

第78回 佐久間章孔『声だけがのこる』

近代を希望のごとく抱きとめて舵手は深みに沈む何度も
            佐久間章孔『声だけがのこる』 
   佐久間章孔さくま のりよしは1948年生まれで、「未来」「月光」所属。1988年(昭和63年)に「私小説8(曲馬団異聞)」で第31回短歌研究新人賞を受賞している。ちなみに前年度の受賞は荻原裕幸と黒木三千代、その前の年は加藤治郎で、1990年(平成2年)は西田政史と藤原龍一郎である。昭和から平成へのちょうど変わり目にニューウェーブ短歌がどっと世に出て注目された時代に当たる。経済はバブル景気の絶頂期で、ディスコのジュリアナ東京がしきりに話題になった頃だ。そのような時代背景に改めて置き直してみると、佐久間の短歌のトーンは時代の明るさと反比例するかのように重くて暗い。「希望のごとく」と述べているのだから、当然近代は希望などではなく、操船を委ねられた舵手は逃れようもなく近代を抱きとめるのだが、その重みに絶えられずに沈んでゆくのである。この歌はまぎれもなく思想詠であり、作者の視線の赴くテーマが時代であることを物語っている。そしてこの歌の重いトーンは、自分が時代に取り残されるという自覚が生んだものだ。本歌集が昭和から平成への変わり目である1988年に刊行されたということは大きな意味を持つだろう。
 栞文で岡井隆は佐久間の短歌を評して、「今の時代には珍しい、男性の思想歌だ」と述べている。また福島泰樹は佐久間の短歌は歌物語であり、その文体は口語文脈一人称饒舌話体だと断じている。いずれも的を射た評言と言えよう。しかし、いずれの言葉も佐久間の歌の独特の空気感には届いていないように感じられる。たとえば次のような歌である。
あかねさす虚無によろしく 銀行の番号札を貯めておくから
普遍的観念の逆襲をこそ企まんポップなコピーの比喩する街で
モダン・ラブそのかなしみの乳房さえ記号のうみの0のさざなみ
保養地の言葉遊び人あなぐらむびと 差異というあるかなしかの年金暮らし
帰属せよと海に誘われ……殻のないこの牡蠣の身をええなんとしょう
おりぼんでこの首くくってくださいな村はぼんやり戦後もぼやり
 おおむね定型によるこれらの歌は口語で書かれているが、この時代のニューウェーブ短歌のポップでライトな口語とは位相が異なる。わざと現実と言葉との間に距離を設定し、すべてを喩でくるむ手つきのなかに自嘲と呪詛が微量の毒のように混入されている。その理由はこれらの歌のなかに見いだすことができる。「ポップなコピー」とは、たとえば糸井重里が西部百貨店のために作った「おいしい生活」であり、「記号の湖」や「言葉遊び人」や「差異」は当時流行したニューアカデミズムがもてはやした記号学を思わせる。作者は祝祭的様相すら見せていた時代のポストモダン的状況に強い違和感を感じているのであり、これらの歌は時代の状況を揶揄する歌である。佐久間は時代に流されない「普遍的観念の逆襲」を企むのではあるが、翻って我が身を振り返れば自分は「殻のない牡蠣の身」にすぎない。今まさに終わりを告げようとしている昭和という時代と抱き合って心中するしかないのである。
 上に引いた最後の歌は注目される。佐久間は口語文体の影響を村木道彦と平井弘から学んだと述べているが、この歌の「村」と「戦後」は明らかに平井の語彙である。
倒れ込んでくる者のため残しておく戸口 いつから閉ざして村は
村々にひとときうつり 還りたきものら斃れておりしテレビは
                       平井弘『前線』
 したがって佐久間の短歌があぶり出すのはもう一つの「前線」であり、孤独な思想兵としての佐久間は昭和という時代の殿艦よろしく退却戦を戦っているということになる。
おれたちにゃもう船がない武器もない倉庫みたいに軽いぞこころ
かごめかごめ輪になっておどれぼくたちに刺されたものが還り来るまで
 村木と平井から口語文体を学んだという佐久間だが、村木のゆるやかな抒情性や平井の下句のリズム破調が生む粘着性はどこにもなく、佐久間の文体はときに都々逸のようでありときに戯れ歌のようで、下手をすると俗な流行歌にまで接近する。しかしこれはおそらく意図的な選択で、こうした文体が押し上げる〈私〉は世の中に対して斜に構えた無頼な拗ね者という感じになる。
 では佐久間が時代の何に対して抗っているのかというと、それは次のような歌が示してくれるだろう。
いちどだけあの黄の花が咲いたとさ轟々と行く近代の辺に
戦後史の一断片の名にかけてかがり火を焚く九月があれば
混乱のポルターガイスト党大会ぼくも負けずに椅子投げてみた
寝返ればみとこんどりあがゆれるのだもう目覚めるな君たちはもう
かの夢が人を噛むこともない街の時代ときを患うひとりになるさ
生涯が歳月が沈む海である 徒党を組みしことの結末
 徒党を組んでかがり火を焚き、近代に辺に黄色い花の実現をめざすというのは、言うまでもなく「かの夢」と詠われた革命幻想である。三首目の党大会とは、日本共産党が武装闘争路線を捨てた六全協のことだろう。その結果として作者が引き受けた身の上とは次のようなものとあいなる。
さくらあわれ韻律あわれ負け組はせめて無頼の破調口語左派
 さて、ここで立ち止まって考えてみなくてはならないのは、このような佐久間の歌の内容は事実であり、歌の一人称は佐久間自身かという問題である。これはどうやら疑わしい。佐久間はあとがきに次のように書いている。「そうだ、虚構の一人称というかたちで一首の臨場感と、中壮年の覚めた視線を両立させよう ! そうすることで同時代を気分ではなく認識の韻律で語ろう。十分に懐かしく情緒的であやふやなフォックス・トロット、アナーキーの後ろ手がそっと手渡す近代を弔うための花束」。
 つまり佐久間がこの歌集で展開したのは、「歴史のほんのはずみ一つで、そう在ったかもしれない架空の物事」であり、「すべての不在のもの達のために、懐疑と郷愁のカクテルを捧げ」ることが作者の目的なのである。つまりは歌集一巻全体が巨大な喩だというわけである。福島泰樹が栞文で述べている「歌物語」というのも、このことに他ならない。
 戦後短歌が寺山修司によって「虚構の私」を手に入れ、80年代のニューウェーブ短歌が修辞を復活させたとはいえ、佐久間のような歌の作り方は他に類を見ない。あとがきで佐久間はまた次のようにも語っている。「口語定型の歌が頻出するのは、文語定型のかっこいいリズムによる露骨な自己救済を回避したからだ。そしてそこにこそ歌が四十歳であることの意味を私は見つけた、といまは思いたい」。48年という団塊の世代のど真ん中に生まれ、おそらくは左翼運動で挫折を経験し、40歳で歌壇デビューという遅れて来た青年である佐久間にとって、最も難しいのが現実(=日常)との間合いの取り方である。一巻全体が喩という作りや戯れ歌のような口調による口語短歌は、この問題に対する佐久間なりの解答に他ならないのである。
男とは蛋白質の気まぐれの夕焼色したひとつの祭具

第77回 古東哲明『瞬間を生きる哲学』

森(現実)は見えない。見えているのは木々である。落葉であり、小道であり、木漏れ日である。つまり存在者(もの)である。小道を辿って森の奥へわけ入ったとしても、事情はかわらない。視界が、また別の木々にとって代わるだけのことだ。つまり、森(現実)はつねに逃げていく。
              古東哲明『瞬間を生きる哲学 〈今ここ〉に佇む技法』 
 このコラムは現代短歌のコラムのはずなのに、最近は短歌に関係のない本ばかり取り上げるとお叱りを受けそうだが、今回は短歌に深く関わる話題なのでご勘弁いただきたい。古東哲明の『瞬間を生きる哲学 〈今ここ〉に佇む技法』(筑摩選書)である。
 古東は1950年生まれの哲学者で、広島大学総合科学研究科教授。京都大学文学部の哲学科出身なので、私と同じ時代に同じ所で学んでいたことになる。ひょっとしたらキャンパスですれ違っていたかもしれない。生年から計算すると、大学受験が1969年になる。この年は大学紛争がピークを迎えて、東大の入試が中止された年だ。そういう時代の空気を肺一杯に呼吸した人であることが、本書に濃厚に反映されている。
 古東が本書で企てたのは哲学の永遠の課題である時間論で、その核心は〈瞬間〉を巡る考察である。なかんずくなぜ〈瞬間〉は私たちの手から逃げ去るのかという問題である。私たちは過去・現在・未来という時間の3分法に慣らされており、過去から未来に向かって一直線に流れる線的な時間概念を装填されている。しかし、この線的時間は主題化され概念化された時間イメージにすぎず、ほんとうに生きられた時間ではない。トルストイも言うように、あるのはただ「無限に小さい現在だけ」である。私たちが過去と呼ぶものは(現在の)記憶にすぎず、未来は獏たる(現在の)予測にすぎない。親密さとざらざらとした手触りをその属性とする私たちの生において、私たちに与えられているのは今この〈瞬間〉(=全き現在) だけである。手を伸ばしてリアルに触れることができるのはこの〈瞬間〉しかない。森を歩いていて風が頬をかすめる瞬間、街で美しい女性とすれ違った瞬間、アイデアが閃いて問題が解けた瞬間である。そのとき私たちは濃厚な生のリアリティーを実感し、現実と融即状態になる。生にじかに手を触れた感覚のことである。
 だが私たちは〈瞬間〉を生きていない。その理由は3つある。まず社会化された存在としての私たちは、今のためではなく明日のために生きているからだ。たとえば私は今何をしているか。この原稿を愛用のMacBookで書いている。それは週明けに橄欖追放を更新しなくてはならないからである。私は二日後のために現在を生きている。これは現在の忘失に他ならない。遊んでいる子供に「宿題をしなさい」と叱る親は、今ではなく未来のために生きることを強いているのだ。
 次に〈瞬間〉はその属性からして不断に過去化され、生きられたとたんにセピア色の過去の色彩を帯びる。〈瞬間〉とは未然が既然へと変貌するポイントである。水道の蛇口から水が出るところをイメージしてみよう。スローモーションで撮影すると、蛇口から出る水流の尖端が見えるはずだ。尖端は水と空気の境界を成している。さて、この境界は水に属するか、それとも空気に属するか。境界は水と空気が接している面だから、いずれにも属さない。同様に現在の〈瞬間〉は過去にも未来にも属さない時間軸上の特異点だ。つまり現在とは、未来が過去へと流れ込む滝の落ち口のようなものであって、本来幅を持たないのである。これが現在の捉え難さの第2の理由である。
 古東が最も力を入れて論じているのは、私たちに〈瞬間〉を捉えることを困難にしている第3の理由、現在の存在論的忘失構造である。これを理解するためには、逆に現在の瞬間を生々しく生きている状態を考えてみるのがよい。時間を忘れて遊びに没頭している子供は現在を生きている。終電に乗り遅れるほどに恋人との逢瀬に夢中になっている時もそうだ。上質のミステリー小説を頁をめくるのももどかしく読んでいる時もまた、現在を生きていると言えるだろう。いずれも無我夢中、忘我の境地である。
 このとき何が起きているか考えてみよう。目の前の遊び、顔を触れ合わせている恋人、ミステリーの筋だけが私の意識を占め、世界 (=現実)はすっぽりと抜け落ちている。焦点化された存在 (=遊び、恋人、ミステリー)だけが私の意識を塗り上げ、残余は意識の外へと外部化される。では焦点化された存在、例えば恋人が私の意識によって対象化されているかというと、そうではない。恋人は私と顔を触れ合わせているのであり、対象化に必要な距離というものが存在しない。私と恋人は混然合一の忘我の至福に酔い痴れているのである。生きていることも(=私という意識)、生きられていることも(世界=現実)、すっぽりと抜け落ちてしまっている。古東は次のように言う。
現実の脱去(隠蔽)こそ、現実の生起(現出)の積極的な前提をなすというべきだろう。つまり、見失われることを代償にしてはじめて、現実は生き生きと起動できる。あるいは、対象像となることを拒絶され、けっして顕現的な視界には登場できない〈現出の失策〉こそが唯一、現実が〈現出する〉仕方だということになる。現実生起(現出・了解)と現実脱去(隠蔽・忘失)とは、たがいに切断不可能な同時錯合現象。その現われが同時に闇である夜のように。
 また古東の引用するブロッホは次のように言う。
生きて在るという事実は、まさに生きている事実ゆえに感じられない。(…)直接的に存在するものとして、〈いま〉は瞬間の闇のなかにある。存在の事実性と〈いま〉ぼくたちがそのなかにある瞬間とは、知覚されない。
  つまり〈今ここ〉という現実は、露顕しないことがその唯一の現れ方だという逆説的な存在論的構造を有しているのである。〈今ここ〉は知覚されず、それを十全に味わいたければ我を忘れてそれを生きるしかない。
 では私たちは、主題化され対象化された〈今ここ〉に出会うことは決してできないのだろうか。古東はそんなことはないと言う。対象化された〈今ここ〉の現出こそが芸術の目的であり、私たちが芸術に喜びを感じる理由もまたそこにあるというのだ。本書の後半はプルーストの『失われた時間を求めて』や詩歌文芸を縦横に渉猟してそのことを論じているのだが、ここで古東の本を離れて短歌のことを考えてみよう。
 極めてリアルに対象を描写した絵画を見て、私たちはよく「まるで本物みたい」という。18世紀フランドル画派の静物画には、まるで本物のように瑞々しいブドウやレモンが描かれている。ではそのような絵画を見て私たちはどうして美しいと感じるのだろうか。「本物みたい」ならば、本物の現実を見ればよいではないか。なぜ現実にではなく、現実をリアルに描いた絵画に美を見いだすのだろう。
 それはリアルな写実絵画が、現実には決して捉えることのできない〈今ここ〉を画布に定着しているからである。私たちは美術館で絵画の前に立つとき、画布の隅々まで時間をかけて舐めるように味わうことができる。その間、画布の絵はどこにも行かずに留まっていてくれる。私は不可能なはずの対象化された瞬間の現出に立ち会っているのである。
 いや、それはおかしいと思う人がいるかもしれない。動く対象ならいざ知らず、ブドウやレモンのように動かない静物ならば、現実においても私たちは時間をかけてそれを見ることができるではないかという反論が予想される。しかしそれはまちがっている。
 アイカメラを使って実験すればすぐわかるが、私たちは視線をごく短時間しか固定しておくことができず、視線は絶えず視野の中を移動している。目を支える頭も常にぐらぐらしている。また時間とともに周囲の明るさも変化し、私たちの集中力も低下する。だから私たちは静止した現実のあらゆる細部を均等に時間をかけて見ることができない。
 写実絵画の画布に定着されているのは、単に静止した現実ではない。それは画家の〈視線込み〉の現実である。画家の〈今ここ〉という瞬間に見えている現実の姿を、画家の視線を塗り込めた形で描いているのである。私たちが現実をリアルに描いた絵画に美を感じるのは、決して露顕しないはずの〈今ここ〉が、画家の手によって対象化され主題化された姿で顕現していることに感動するからである。だから描かれているのはほんとうはブドウやレモンではない。〈今ここ〉である。その美しさと豊饒さに触れて私たちは感動するのだ。
 同じことが短歌や俳句のような短詩型文学にも言える。
曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径
                        木下利玄
水の音つねにきこゆる小卓に恍惚として乾酪チーズ黴びたり
                        葛原妙子
夜と昼のあはひ杳かに照らしつつひるがほの上に月はありたり
                        河野裕子
家ひとつ取り毀されて夕べにはちひさき土地に春雨くだる
                        小池光
ゆるやかに死にゆくものと卵もつものありて明るき朝の水槽
                        横山未来子
 例えば木下の短歌はほぼ100%写実である。曼珠沙華が咲く秋の田園風景のなかに道が一本通っている様を描写したもので、どこにでもある風景にすぎない。しかしその風景が適切な措辞によって短歌定型の中に定着されたとき、作者の〈今ここ〉が生々しく現出する。この短歌を読む読者の私は、現実の生においては決して手を触れることのない、対象化された〈今ここ〉の露顕に立ち会うのである。
 本来ならば瞬間の闇に沈んでいる〈今ここ〉に直接手を触れることは、〈永遠〉に手を触れるのと同じである。なぜならば〈今ここ〉は、露顕されることなき開示という存在様式で一瞬一瞬の内部に存在しており、その存在様式は今も、100年後も、1万年後も同様である。写真や絵画について、「一瞬の光景を永遠に定着した」と言うことがあるが、より正確には、一瞬を定着したからこそ永遠に触れたと言うべきである。これは有限な生とともにこの世に放り出された私たちにとって、死に対する部分的勝利である。
 古東の本書は、短歌を読んでなぜ大きな喜びを感じるのかという私が前々から抱いていた疑問に、このような形で間接的に答を与えてくれるようだ。

第76回 菊池孝彦『声霜』

しろき円をたもちて皿は暮れなづみ卓は卓として四方へとがる
                    菊池孝彦『声霜』
 夕暮れの室内の風景だろう。皿と卓があるので、家族が食事を摂るダイニング・キッチンと思われる。卓の上に置かれた白い丸皿は、その円形を保っているという。当然だろう。見ているうちに丸い皿が四角くなるなどということはないからである。テーブルは四角形で四隅が尖っている。それはよい。しかし「卓は卓として」とは何か。卓が卓ではないものとして在るということがありうるのか。
 どうも「あるかもしれぬ」と作者は考えているふしがある。それは作者が「存在の偶然性」という考えに捕らわれているからである。世界が現在在る姿で在ることに、どれくらいの必然性があるのだろうか。「もし恐竜が絶滅していなかったら」とか、「もし織田信長が本能寺で暗殺されなかったら」という歴史上のifもその中に含まれはするが、ここで言う必然性とはもう少し根源的なレベルのものを言う。
 目の前に湯飲み茶碗があるとする。使い込まれた茶碗は手に馴染み、内側には茶渋が付き、その形は見慣れた日常である。しかし茶碗をじっと見つめていると、だんだん奇妙な物に思えてくることがないだろうか。なぜこいつはこんな変な形をしているのだ、とふと思うと、茶碗の存在が異質なものとして迫ってくる。この茶碗は私とは関係なくこの世に絶対的に存在する。そう考えると突然奈落に突き落とされたように感じる。次の歌はそのような印象を詠ったものと思われる。
午睡より覚めきらぬわが網膜に映ず 部屋中の「物自体」
   半覚半睡のぼんやりした頭も手伝って、見慣れた物が絶対的存在として迫ってくる瞬間である。これはとても哲学的な歌なのだ。菊池はサルトルの小説『嘔吐』の主人公アントワーヌ・ロカンタンと近いところにいるのである。
 菊池孝彦は1962年生まれで、1989年より「短歌人会」所属。巻末の略歴にはこれだけが記されている。これ以上略すことができないほど短い略歴で、作者が自己を語ることを好まないことをよく示している。『声霜』は2010年刊行の第一歌集。栞文は香川ヒサ、米川千嘉子、小池光。栞文を香川に依頼しているのは、作者が自分の作風をよく認識していることを示していよう。香川もまた「テーブルのグラスがグラスであることの証人としてわれ在りたぶん」のように自己を排した哲学的な歌を作るからである。「声霜」は作者の造語で、この世に産み落とされた自分の精神のスイッチを入れたのは母の声であったろうとの思いを、「星霜」すなわち時間の流れと組み合わせたものである。
 自己を語らぬはずの作者があとがきではずいぶん多くを語っているが、師と仰ぐ高瀬一誌への思いと並んで次のように述べている。小池は『バルサの翼』のあとがきに、「ぼくは歌を〈作って〉来たのである。歌をうたったのでも、詠んだのでもなく、歌を作ったのである」と書いたが、自分はそれに倣って「私は歌を〈書いて〉来たのである。歌をうたったのでも、詠んだのでもなく、歌を書いたのである」と明記したいと。
 これはどういう意味だろうか。ふつう短歌の世界では「歌を詠む」と言う。「うたう」と言うこともある。それは短歌の先祖の和歌が韻律詩であり、声に出して詠じられたからである。またそれは短歌に自分の感情の揺れを表現するからでもある。感情は歌として声となって表出する。菊池が「歌を書く」と明記するのは、このすべてを否定する立ち位置から短歌を作ろうとしているからである。簡潔に言えば「自己の感情を詠わない」ということであり、自己表現としての短歌から遠く離れるということでもある。
 だから次のような歌が最も菊池的な歌だということになる。
宇宙塵も地球の塵もなひまぜに吹かれをり風つよき西より
存在の基準はどこにもあらざれば「たった一人」は揶揄のごとしも
堆き過去と未来に挟まれてセルロイド製下敷きのごとき現在
足跡はすでにいくつもしるされぬ曙光にひかりゐる路地の霜
ぽつねんと窓に映りし「われ」といふ者のまなざしわれを問ひかく
 一首目はただ西風が吹いているというだけの歌である。しかしその風には宇宙塵も地球の塵も混じっているとするところが、認識の歌を成立させる。二首目、私たちはよく「たった一人」言うが、一人と判定する基準はどこにあるか。私は一人でいるとき〈私〉といるのではないか。私は〈私〉から決して逃れることはできない。〈私〉とは自己意識である。だから「たった一人」とはまるでからかわれているようだという歌である。三首目、山のように積まれた本に挟まれた薄っぺらい下敷きのようなものが現在だという歌。菊池の認識の眼差しは主に三方向に向いている。〈物自体〉と〈私〉と〈時間〉である。そのいずれもが哲学上の深遠な謎を構成する。この歌は時間の歌で、私たちは現在に生きているが、決して現在を捉えることはできないという趣旨だろう。四首目は、夜明けの路地の霜に人の足跡がついているというだけの叙景歌だが、こうして並べてみると、どうしても深読みしたくなってしまう。事物の描写の背後に闇のごとき謎があると読めてしまうのである。菊池の意図がそうなら話は別だが、これはいささか困ったことかもしれない。五首目は三方向のうち〈私〉に眼差しが向いた歌。窓ガラスに映った私が私に対して「おまえは何ものだ」と問いかけるという設定はありふれているが、作者の興味をよく示してはいる。
 菊池の眼が〈私〉に向いたとき、先の五首目のような純粋な存在論的問いかけを押し上げることもあるが、ときに菊池は存在論的呪詛に傾くようだ。自分の出生を呪う気持ちのことである。
あかあかと夜は明けそめて日日にわが賜る生といふ災厄
世界にたった一人といふもこの街の破片のごとく歩みゆきたり
味噌汁に豆腐ぷかぷか生と死の虚実皮膜に照るゆふあかり
わたくしの出生届受理されしその時天眼てんげんは緑暗せり
微熱はらみてうすらさむきを机に向かふわれに生きたがらぬ部分見ゆ
 「私たちは故なくこの生に投げ出されている」いうのは、極めて実存主義的な考え方である。その悔しさが一首目や二首目に色濃く投影されている。三首目の豆腐は「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」という久保田万太郎の名句を思わせる。四首目の「天眼」は仏教用語で、すべてを見通す仏の眼をいうらしい。
 しかしながら菊池の眼が〈私〉を志向するとき、最も鋭く前景化するのは〈私〉の捉え難さだろう。次のような歌がそれをよく示している。
橋わたり来し白昼やわたくしを怪訝におもふそれも「わたくし」
このわれに従きくる影よをりあらばわれをこそ引き摺って行かれよ
盗人のごとく我が家に入り来ぬ寝息の傍をゆらめきながら
自己否定 否定さるべき自己が在るといふ誤謬もうつくしきかな
炎天の路上 過去形・現在形・未来形のボクらかぎろふ
 〈私〉と〈私という意識〉の二重性は一首目や二首目に明らかである。橋を渡っているのが私なのか、それともそれを怪訝に思っているのが私なのか、禅問答のようであり、深い哲学的主題でもある。獣が美しいのはこの二重性を持たないからだ。三首目のゆらぎにすぎない私や、否定すべき自己がないという認識も、同じ問題意識から来ていることは言うまでもない。四首目は時間軸に投影したときの〈私〉の多重性を詠ったもの。
 短歌に対してこのような立ち位置を選択すると、必然的に名歌・秀歌・絶唱から遠く離れてしまうことに注意しておこう。明治以来の近代短歌は、古典和歌の共同性と抽象性を捨てて、自我を具体的に詠う文芸となった。これは明治期における〈個〉の確立という国家レベルの目標と軌を一にする。しかし「自我の文芸」は「自我」の存在を前提とする。〈私〉がなければ〈私〉を詠うことができないのは自明である。〈私〉の存在に疑念を射かける菊池には、従って〈私〉の絶唱はあらかじめ禁じられているのである。くぐもった声でつぶやくような歌が多いのはこのためだと思われる。
 このように菊池の主題は〈物自体〉と〈私〉と〈時間〉なのだが、これらをない交ぜにすると必然的に私たちの前に立ちはだかる最大の謎である〈生〉と〈死〉へと辿り着く。これらはまた近代短歌の王道といえる主題でもある。
ひとりづつせんぐりせんぐり欠けてゆくその「順番」といふを思へり
体内といふなべて暗闇死してのちほの明るめり四肢の尖端さきより
あかときに誰がための流星ほししやうといひ未生みしやうといへる夢のあはひに
暗き通路の出口は知らず終端のほの明るきは出口にあらず
 先ほど菊池には絶唱は禁じられていると書いたばかりだが、多少訂正しなくてはならないかもしれない。上に引いた三首目など、語の斡旋といい韻律といい、十分絶唱と呼ぶ資格があるからである。しかしその拠って来るところは感情ではなく認識である。
 最後に歌を「書く」ことにこだわる菊池の述志の歌を引いて終わるとしよう。「短歌人会」には小池光や藤原龍一郎や生沼義朗のような男歌の伝統が脈々と流れているが、どうやら菊池ものその一端に連なる歌人のようだ。
びつしりと結露せる窓 短歌てふ「こころざし」朝のきららにかざ

第75回 小池民男『時の墓碑銘』とジョゼフ・コーネルについて

美しき脚折るときに哲学は流れいでたり 劫初馬より
                  水原紫苑
 最近、心に残った二冊の本がある。その一冊は、小池民男『時の墓碑銘(エピタフ)』(朝日新聞社 2006)という。小池は朝日新聞の記者・論説委員で、一時期天声人語も担当していたことがある。この本は2005年から06年にかけて朝日新聞の断続的に連載された文章を一冊にまとめたもの。私は小池の書くものを新聞連載時から愛読していた。そのスタイルは、現代史のなかで発せられた警句や詩の一節を冒頭に掲げ、それにまつわるエピソードやその句が私たちに問いかける意味などを、新聞記者として世界中を駆け回った体験と、古今東西の書物の渉猟によって浮き彫りにするというものである。ひとつひとつは決して長い文章ではなく、単行本にして2頁半程度、字数にして約1500字にすぎない。やってみればわかるが、1500字で読む人の心に何かを残す内容の文章を書くというのは、並大抵のことではない。文章は短ければ短いほど書くのが難しい。全人格と全教養を傾注して呻吟することなしに書けるものではない。
 本書で小池が引く句はさまざまなジャンルに及ぶ。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)、「絶望は虚妄だ、希望がそうであるように」(魯迅)、「此人等信念もなく理想なし」(東郷茂徳)などの思想家・政治家の残した言葉が多いのは、著者が新聞記者なので当然と言える。だがそれと並んで詩歌・文芸からの引用も多く、詩歌をめぐる随想にも味わい深いものがある。例えば「幾時代かがありまして、茶色い戦争ありました」(中原中也)の「茶色い戦争」の意味がはじめて分かったというエピソードが書かれている。ある酒の席での音楽評論家・吉田秀和の「それは中国大陸の大地や砂塵のことです」という指摘によるのだが、吉田はこれを中原の下宿に泊まった時に本人の口から聞いたという。中原中也といえば、作品が国語の教科書にも載る歴史上の人物とつい考えてしまうが、生身の本人を知る人がまだ生きていることに軽い驚きを覚え、自分と歴史が繋がっていると少し感じる瞬間である。
 なかには「テレビカメラはどこかね」(佐藤栄作)のように、その愚かさによって人の記憶に残った句もあるが、引用された言葉のほとんどは天空に輝く星辰のようだ。なかでも私の心に残ったのは、北米最後のインディアン(ネイティブ・アメリカン)のイシが死の間際にささやいた言葉「あなたは居なさい、ぼくは行く」である。イシはヤヒ族の最後の生き残りで、ある日人前に現れて保護され、サンフランシスコの人類学博物館の中で5年間の残りの人生を生きた。その記録は人類学者D・クローバーの妻T・クローバーの著書『イシ 北米最後の野生インディアン』(岩波書店)に詳しい。ちなみにクローバー夫妻の娘が長じてSF作家のアーシュラ・ル・グィンになったことにも、そこになにがしかの因縁を感じてしまうのである。
 小池の文章の主題の多くは、世界を覆う暴力と死と人間の愚かさに関するものだ。決して心躍るものではないが、深夜に一節ずつ読むと心に食い込む。小池が最後の連載を書いたわずか22日後に食道ガンで死去したことも、本書に異様な重みを与えている。まさに一冊の書物が著者の墓碑銘となったわけだ。記者たるもの、以って瞑すべしと言うべきか。
 ちなみに冒頭に掲げた水原の歌が引かれているのは、テンポイントやキーストンなど悲劇の競馬馬を回想した味わい深い文章の中である。
 もう一冊は一年も前なので最近のものではなく、展覧会の図録だから本ですらない。昨年(2010年)の4月から7月まで千葉県の川村記念美術館で開催されていた「ジョゼフ・コーネル×高橋睦郎 箱宇宙を讃えて」という展覧会の図録である。ジョゼフ・コーネル(1903-1972)は、裕福な商人の家庭に生まれるも父親が破産して一家は没落、ニューヨークのクイーンズにある小さな木造家屋に住んで、織物会社に勤務しながら自宅の地下室で作品を作った芸術家である。いや、芸術家と呼べるのかどうかもよくわからない。町を歩いては古道具屋や古書店に入り浸り、そこで買い集めた写真の切り抜きや、浜辺で拾った貝殻などを、手製の小さな木箱に入れたのがコーネルの作品だからである。アメリカのシュルレアリスムの元祖とされることもあるが、実際の作品は中学生の図画工作レベルのものだ。しかしそこには不思議な魅力があり、人を惹き付けるものがある。川村記念美術館2Fの展示会場に上がると、「この世あるいは箱の人」と題された高橋睦郎のコーネル讃が壁一面に書かれている。展示作品にもひとつひとつ高橋睦郎の詩が添えてあり、観覧者はそれを手に取って見ることができるという趣向。薄暗い会場には「ピアノ」というコーネル作品に仕込まれたオルゴールの音楽が低く流れていた。
 展示設計と図録を手がけたのは高橋睦郎と縁の深い半澤潤という人である。文字は活版印刷で、8頁の折ごとに小口を切らず袋とじにするフランス装。紙は手触りのある厚手の紙で、活字もやや不揃いで掠れがあり、全体に古書のようなレトロな雰囲気が充満している凝った装丁である。ショップには小口を切るペーパーナイフまで販売されていて、私も必要ないのについ買ってしまった。展覧会を紹介する単なる図録ではなく、それ自体がジョゼフ・コーネル×高橋睦郎のひとつの作品であり、物としての存在感が強烈に漂うところが只者ではない。ひとつひとつ手作りなので多く作ることができず、展覧会の会期半ばで完売したらしい。知り合いの編集者でコーネル愛好家の人が会期の後半に行って買えず、悔しがっていた。
 展覧会を見終わり、バスとJRを乗り継いで本郷の定宿に戻って間もなく、かねてより療養中の母が亡くなったと連絡が入り、急ぎ京都に戻った。そのため私にとって忘れられない展覧会となったのである。

第74回 長谷川櫂『震災歌集』

人々の嘆きみちみつるみちのくを心してゆけ桜前線
               長谷川櫂『震災歌集』
 東日本を襲った大震災の直後から、新聞歌壇やインターネットには震災短歌が多く寄せられた。大きな出来事は人の心を動かし、心の動きが歌を生み出す。関東大震災の時にも震災短歌が生まれ、先の大戦の後にも戦争短歌や原爆短歌が生まれた。それは歌の生理からして自然な成り行きだろう。
 俳人の長谷川櫂が歌集『震災歌集』を緊急出版した。俳句と短歌の境界を越えて行き来する人はいなくはないが、今まで短歌を発表してこなかった俳人がいきなり歌集を出すのは異例だろう。震災の夜から荒々しいリズムで短歌が次々と湧き上がってきた、という述懐がまえがきに見える。なぜ俳句ではなく短歌だったのだろう。本書は慟哭と憤怒の書である。大きな出来事に遭遇して嘆き悲しみ、事に当たった指導者たちの不手際や無能を目の当たりにした著者は、体温が上がったのだ。体温が上昇したときに俳句は作れない。俳句は低体温の文芸だからである。普段より赤みを増した血液が動脈をドクドクと打つときには、短歌という詩型が召喚される。俳句は言葉を手裏剣のように的に当てる片道通行の文芸だが、短歌は虚空に投げ出した言葉がブーメランのように弧を描き、手許に戻って自分の心を反照する文芸である。震災の夜に長谷川のなかに短歌が溢れ出たのは、このような経緯によるものではないだろうか。
津波とは波かとばかり思ひしがさにあらず横ざまにたけりくるふ瀑布
夢ならず大き津波の襲ひきて泣き叫ぶもの波のまにまに
乳飲み子を抱きしめしまま溺れたる若き母をみつ昼のうつつに
かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子ありはらからあるを
夥しき死者を焼くべき焼き場さへ流されてしまひぬといふ町長の嘆き
 歌集冒頭から引いた。日本人のみならず世界の人が息を呑み、涙に打ち震えたあの光景を、長谷川は雅語を交えた文語定型のなかに定着している。長谷川は単に自らの嘆きと怒りを歌にぶつけたのではあるまい。ここには未曾有の惨事を記録して後世に伝えようという意思が感じられる。そのことは著者が、「死ねる子を箱におさめて親の名をねんごろに書きて路に捨ててあり」という窪田空穂の震災短歌を集中で引用していることからも推察される。このことは『震災歌集』という直截なネーミングを見てもわかるだろう。
 出来事が余りに大きすぎると、それを三十一字に納めることが困難となる。だから引用した一首目のように、集中には字余りの歌が数多い。ところが読んでいて、字余りがまったく歌の瑕疵とは映らない。それは読者の私が震災の悲嘆に感応して言葉の向こう側に行ってしまったからではなく、字余りが作者の心から溢れ出たものの様をそのままに表しているからだろう。いや、というよりも、三十一字に納められなかったという事実そのものが、大きな重みを持って迫って来るからだと言うべきかもしれない。ここには形式の持つもう一つの意味が潜んでいるようにも思われる。
ラーメン屋がラーメンを作るといふことの平安を思ふ大津波ののち
ゲーセンに子どもがあふれてゐることの平安を思ふ大津波ののち
かかる瑣事に今までかまけてゐたるかとはたと驚く大津波ののち
 短歌連作では引用歌のように同じ結句を持つ歌を並べることがある。その機能を詮索することは他日に期するとして、私は読んで「ああ、これは連祷 (litanie)なのだ」と感じた。連祷とはキリスト教のミサ聖祭で、司祭の唱える祈りに詠隊が決まった文句を繰り返す祈りの形式である。同じ結句の反復は寺院の堂宇に響く声明のごとき鎮魂の祈りなのである。これもまた短歌という言葉の有り様が可能にする重みとして受け取るべきだろう。
 長谷川は言葉のプロなので、震災と津波に接した個人的な慨嘆には終わらない。
その母を焼き死なしめし迦具土の禍々つ火の裔ぞ原発
火の神を生みしばかりにみほと焼かれ病み臥せるか大和島根は
新年をかかる年とは知らざりきあはれ廃墟に春の雪ふる
たれもかも津波のあとをオロオロと歩くほかなきか宮沢賢治
鶴となり白鳥となりはるかなる東国へ還れ防人の魂
 最初の二首は、現代科学の粋を集めたはずの原発の惨状を、古事記にこと寄せて詠んだもの。三首目は大伴家持の歌を本歌とし、四首目は宮沢賢治、五首目は柿本人麻呂が下敷きになっている。原発は果たしてプロメテウスの火かと自問するとき、時空を超えて古事記の神話的世界が現代に甦る。また東国に思いを馳せれば、宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』が脳裏をよぎり、奥の細道を歩いた芭蕉や、万葉集の防人の古事が思われるのである。私たちは言葉の世界に生きているが、その言葉は当然ながら現代の言葉だけではなく、過去に放たれた膨大な言葉でもあるのだ。
 歌集には慟哭だけでなく、憤怒もまた満ちている。
原発をかかる人らに任せてゐたのかしどろもどろの東電の会見
おどおどと首相出てきておどおどと何事かいひて画面より消ゆ
国ぢゆうに嘆きの声はみつといへど政争をやめぬ牛頭馬頭のやから
大津波襲ひしあとのどさくさに円買ひあさる餓鬼道のやから
 このような歌が優れた歌となり得ないことは、著者も百も承知の上である。「そんなこと、お前に言われたくない」と言うだろう。しかし長谷川はそれを承知で作っているので、そこにはやむにやまれずということに加えて、「この醜態を記録しておきたい」という願いがこもっているのである。
 このように本歌集は時事詠に分類できるのだが、時事詠に収まらない心打つ歌も少なくない。いくつか引いておこう。
みちのくのとある海辺の老松は棺とすべく伐られきといふ
被爆しつつ放水をせし自衛官その名はしらず記憶にとどめよ
如何せんヨウ素セシウムさくさくの水菜のサラダ水菜よさらば
日本列島あはれ余震にゆらぐたび幾千万の喪の灯さゆらぐ
みちみてる嘆きの声のその中に今生まれたる赤子の声きこゆ
 最後に不思議な歌を一首引く。
嘆き疲れ人々眠る暁に地に降り立ちてたたずむ者あり
 このたたずむ者とは誰か。人の悲惨を哀れんだ神だろうか。それはわからないが妙に心に残る歌である。

第73回 松村正直『短歌は記憶する』

 大学の中庭に面した研究室から眺めていると、強い風にあおられるように桜の花びらが木を離れて空高く舞い上がり、光りながらひらひらと落ちていく。眺めていて飽きることのない光景だが、それ見る気持ちの中には震災の犠牲者を悼む想いがいくぶんかある。今年の桜がいちだんと美しく感じられるのはそのせいかもしれない。
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 『早稲田短歌』40号の巻頭に新会長就任インタビューが掲載されている。長らく会長を務めた佐佐木幸綱が、2008年の定年を機に会長職を辞することになった。早稲田短歌会は予算を伴う正式なサークルなので、どうしても会長が必要らしい。まず内藤明に頼もうということになったが、内藤がすでにちんどん研究会 (何の研究会だろう) の会長なので兼務できないことがわかり、数年前に早稲田大学の文化構想学部に教員として着任していた堀江敏幸に白羽の矢が立ったという。堀江といえば「熊の敷石」で芥川賞を受賞した作家であり、面識はないが私と同じ仏文業界の人間である。これには驚いた。早稲田短歌会は新人会員がひきも切らず入会していると聞く。新会長を戴いてのますますの発展を祈りたい。
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 さて、今回取り上げるのは歌集ではなく、松村正直の評論集『短歌は記憶する』(六花書林 2010年)である。松村はすでに歌集『駅へ』(2001年)と『やさしい鮫』(2006年)を上梓しており、大所帯の結社「塔」の結社誌の編集長を務めている。本書は松村の最初の評論集で、同人誌「D・arts」や「路上」「塔」などに掲載された文章が収録されている。油の乗りきった働き盛りを感じさせる活動ぶりである。
 歌人のなかには短歌を作ることに専念し、歌論を書かない人もいる。しかし明治の近代短歌成立以来、歌論と短歌実作が車の両輪のごとく併存してきたことは周知の事実である。現代短歌を牽引してきた三枝昂之、永田和宏、小池光といった歌人たちの仕事においても、歌論は重要な位置を占めている。その理由はおそらく、近代においては (まして現代においては) 何人も無自覚的に歌人であることができないからだろう。現代の歌人は「今なぜ短歌を作るのか」「短歌とは自分にとって何か」という問題を抱え込んでしまっている。だからその問いに答えようとすると、必然的に歌論を書かねばならないのだ。
 松村の歌論へのスタンスは、『短歌は記憶する』という本書のタイトルがよく示している。短歌にはその歌が作られた時代が刻み込まれており、その意味で時代の記憶装置である、とする短歌観である。だからこの評論集には、第三章にいささかの歌人論が収録されてはいるものの、一人の歌人の作品世界に深く分け入って、その美学と作風を詳細に論じるというスタイルの歌論はない。本書の中核を成すのは、第一章「時代と短歌」と第二章「戦争の記憶をめぐって」である。
 第一章「時代と短歌」には、「サブカルチャーと時代精神」「ゴルフの歌の百年」「短歌に見る家屋の変遷」「仁丹のある風景」の4つの文章が収められている。松村がこのようなテーマに立ち向かうときのスタンスは、「短歌は時代を記憶する。人々の記憶をなまなましく封じ込めている。だから、短歌を読むことによって、時代の持つ雰囲気がまざまざと甦ってくるのだ」というあとがきの言葉に象徴されている。では、このようなスタンスから繰り出される手法はどのようなものか。それは、その時代についての文献を可能な限り渉猟し、忘却された些細な事実を丹念に拾い出すという手法である。これは考古学者か文献学者の方法に他ならない。
   たとえば「サブカルチャーと時代精神」でその例を見よう。松村は、「ああ夕陽 明日あしたのジョーの明日さえすでにはるけき昨日とならば」という藤原龍一郎の有名な歌を取り上げ、TVアニメ化された原作の劇画のタイトルは「あしたのジョー」と「あした」が平仮名表記なのに、藤原の歌では「明日」と漢字表記になっている齟齬に着目する。しかもこの歌が後にアンソロジーや現代短歌文庫の藤原龍一郎集に収録されたときには、表記が原作どおりの「あした」に直されている。これは単なる誤記の訂正だろうかという疑問を梃子に、松村は探偵よろしく推理の隘路に入り込むのである。そして短歌の製作年代を手がかりに、藤原の歌の源流には「明日のジョー昨日の情事蓮の花咲いてさよなら言いしひとはも」という福島泰樹の歌があり、さらに、1970年によど号をハイジャックした赤軍派の「我々は”明日のジョー”である」という宣言にたどり着くのである。
 また「短歌に見る家屋の変遷」では、「鏡なすガラス張窓影透きて上野の森に雪つもる見ゆ」など、子規の歌にガラス窓を詠んだ歌が多いことに注目する。そしてこのガラス窓は、1899年(明治32年)に弟子の高浜虚子らによって据え付けられたものであること、国産ガラスは明治36年に初めて製造されたので、当時は輸入品しかなく高価なものであったことを探り出す。子規が喜んでガラス窓を詠んだ歌を多く残したのには、このような事情があったのである。ガラスはもとはビードロ、あるいはギヤマンと呼ばれており、ガラスという言葉自体も明治時代になって普及した新しい言葉だったという。短歌を時代の記憶装置と見る松村の短歌観がよく発揮された探索だ。
 なかでも私が楽しんだのは「仁丹のある風景」で、琺瑯看板でお馴染みの仁丹のヒゲ男の顔は、京都の町名表示板には必ず付いていたものだ。この文章で松村は、仁丹の野立て看板の減少から説き起こし、製造元の森下仁丹の歴史や広告戦略に触れ、昔の短歌にいかに仁丹の広告塔を詠んだものが多いかを明らかにしている。今では見られないが、昔は天を突くような巨大な仁丹の広告塔があったらしい。町歩きと建築探偵が趣味の私には、仁丹の広告がかつて日本の風景の一部を形作っていたことは、とりわけ興味深く感じられる。その名残りは京都の町名表示板に残る仁丹のヒゲ男として、今でも見ることができる。
 仁丹と戦争との関わりは、第二章「戦争の記憶をめぐって」への橋渡しの役割を果たしているだろう。第二章で松村は、短歌に詠まれた軍馬がたどった運命、靖国神社、終戦記念日、ヒロシマなど、戦争と短歌の関わりという難しい問題にも切り込んでゆく。街歩き好きの私には「サンシャインビルの光と影」がとりわけ興味深かった。池袋のサンシャインビルが先の大戦の戦犯が勾留・処刑された巣鴨プリズンの跡地に建設されたということは知っていたが、松村の調査はここでも周到で細かい。隣接した小公園がかつての刑場で、そこにひっそりと記念碑が建っていることは知らなかった。
 『塔』2011年3月号に谷村はるかが本書の書評を書いている。あるトピックをめぐる短歌を集めてそこから見えて来るものをあぶり出す松村の手法を、谷村は「輪切り手法」と呼び、その調査の周到さは認めているものの、おおむね批判的立場に終始している。谷村の論点は二つある。その一は、本書における松村の短歌の読みが外堀から埋めるような読み方で、短歌の内実に迫っていない浅い読みだという点。その二は、松村がしばしば「日本人」を短歌の読みの枠組みとしていることで、もっと根源的な「人間」を枠組みとすべきだという批判である。
 いずれも一見するともっともな批判で、谷村と同じ土俵で反論することは難しい。しかし松村の土俵は谷村と同じではない。批判その一について言うと、松村の本書における関心事は短歌の読み自体ではなく、短歌と時代との関わりである。そこから「輪切り手法」が生まれたのだから、谷村の批判は、「そんなことに関心を持つな」と松村に言うに等しい。その二についても似たことが言える。私たちはもちろん人間として生きているのだが、同時に日本人としても生きており、それ以外に、会社の社員だったり、町内会の役員だったり、はたまた誰かの愛人として生きていたりするのである。以下のもろもろを省略して、いちばん大きな枠組みだけで生きろと言うのは不当である。短歌がその他もろもろの細部を掬い上げるのに適した詩型であることは、多くの人が認めるところではないか。
 松村は結社誌「塔」でずっと「高安国世の手紙」を連載している。結社「塔」の創設者であった高安が残した手紙をたんねんに読み解く作業だが、そこでも松村の関心の中心は時代との関わりである。「塔」の2010年12月号の年間回顧座談会で、大辻隆弘はこの松村の連載に注目し、高安が戦争にノータッチだった理由の一つがドイツ文学専攻だったからだと書いたことに言及している。なるほどと納得させられる指摘で、もし敵国だったフランス文学専攻だったら弾圧され、ノータッチではいられなかっただろう。戦後になって桑原武夫が「第二芸術論」を著して俳句や短歌などの伝統詩型を攻撃したのは、桑原がフランス文学専攻だったことと無関係ではない。
 しばしば言われることだが、真実は細部に宿る。『短歌は記憶する』はそのことを改めて教えてくれる書物である。蛇足ながら造本の良さも印象に残る。