199:2007年4月 第4週 杉森多佳子
または、泉下に師を呼ぶ文学的孤児

ガーゼ切り刻みたるごと散るさくら
    わがてのひらのまほろばに来よ
     杉森多佳子『忍冬(ハネーサックル)』

 今年は桜が開花してから低温傾向が続いたので、花が長持ちして例年よりも長く花を楽しむことができた。いつもならソメイヨシノが散ってから、4月中旬頃に開花する京都の御室の桜も、あまり時間差なく満開を迎えた。掲出歌は桜を詠んで「ガーゼ切り刻みたるごと」と形容していて美しい。ガーゼというと、小池光の「いちまいのガーゼのごとき風たちてつつまれやすし傷待つ胸は」という歌が思い浮かぶが、繊細さと傷付きやすさの記号として短歌で用いられることがある。しかしガーゼを切り刻むという表現に痛ましさと残酷さが感じられ、作者が心に深い傷を抱えていることを思わせる。切り刻まれたガーゼのような桜の花びらに「わがてのひらのまほろばに来よ」と呼びかけている所に、作者の思いの深さが感じられる歌である。

 杉森は1962年生まれで、中部短歌会に所属し春日井建に師事し作歌を始めている。春日井が泉下の人となったのを機に、中部短歌会をやめて「未来」に移り、加藤治郎の指導を受けているという。『忍冬(ハネーサックル)』は2007年に出版された第一歌集で、跋文を加藤が書いている。歌集題名の「忍冬」は、「ニンドウ」または「スイカズラ」という和名の植物から採られている。花に蜜があり和名の「スイカズラ」(吸い葛)も英名の honeysuckleもそこに由来する。「身動きのとれない辛さに耐えながら過ごした日々」への思いを常緑で冬を越す植物に託した題名だという。

 現代短歌の貴公子・春日井建の逝去は多くの人に悲しみを残した。杉森も例外ではなく、この歌集には師であった春日井に寄せた歌が多く収録されており、さながら挽歌集の趣すらある。その思いは真摯で悲しい。

 一滴のしずくとなりてつばめ翔ぶ青の密度の深まる五月

 少年が白球を追う空の果て 圏外という表示が点る

 コクトーの阿片に溺れる人生を疼痛として受けとめる夜

 悲しみをこの夕空にに放つなら紫陽花色に変わる日輪

 この連作は師へのオマージュであり、跋文で加藤が指摘しているように、1首目は春日井の「青海原に浮寝をすれど危ふからず燕よわれらかたみに若し」を、2首目は「白球を追ふ少年がのめりこむつめたき空のはてに風鳴る」を踏まえている。白球を追う少年は春日井であり、春日井が空のかなたに去って、後に残された弟子の携帯電話には圏外の表示が無情に点るのである。阿片はモルヒネとして末期癌患者の苦痛緩和に医療的に用いられている。また4首目が春日井のどの歌を踏まえているかは言うまでもない。

 作者は30代の半ばに、夫君が病を得て入院を繰り返すという辛い経験をした。夫を看病する自分を正岡子規を看病する妹の律に重ねて生まれたのが次のような連作である。

 入院の夫の付きおり病む子規を看取り続けし妹のように

 うっすらと色の褪せたる病衣干す せつなしわれと子規の妹

 鶏頭の赤さが零す黒き種子そのこまかさを心に蒔けり

 獺祭忌に妹としてささげよう拙き歌とあたたかきココア

 庭眺め眺めつくして死を待てり百年前の子規のまなざし

3首目の鶏頭は、当然ながら子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」という句につながる。4首目の「獺祭忌」は子規の忌日の名称。獺はカワウソである。作者は自分と夫の関係を子規と妹の関係に重ねることにより、期せずしてアララギ派の源流へと思いを馳せたことになる。もちろんここでは自らの境涯を律のそれと二重写しにすることが眼目なので、「写実」という短歌技法が焦点化されているわけではないが、病床の子規とその歌業に思いを馳せることで、作者と短歌の関係にもまた微妙な変化が生じたにちがいない。跋文で加藤も書いているように、そこに結社の磁力があるのだろう。春日井という直接の師、また子規という100年前の短詩形文学の改革者へのまなざしは、とりもなおさず過去へのまなざしである。「師に学ぶ」ことを通じて「過去に学ぶ」のであり、ひいては「過去に連なる」という感覚が生じる。杉森の歌集を読んでいると、作者が必死でその糸をたぐり寄せているように感じられる。

 この感覚は近年登場した若い歌人には希薄なものだ。若い歌人の大部分は、〈私〉と短歌形式とが直接に向き合うという構図が一般的であり、〈私〉がひとりで一行の歌に向かいあっているような心細さがある。これは短歌における一種の原理主義であり、教会と司祭の仲介を否定し、私が直接に神と向き合うとしたプロテスタントの考え方と似ている。しかし、杉森はそうではなく、泉下の師を呼び、また100年前の子規に思いを馳せることにより、自らの立ち位置の次元を拡大しえていると言えるだろう。歌集を一読して次に引くような歌が印象に残った。

 読み上げる死者の名と名は繋がれて鎖となりぬ九月の空に

 秋冷を運び来る雨見上げれば刃こぼれのごと身にかかりたり

 湯の中にさくら漬浮くしずけさに薄暮ひろがる人から人へ

 ゆうぐれに結語を書きて発ちゆかんブロンズレッドに染まりゆく文字

 捨て印のごとき口づけ交わしおり水没の街を記憶するため

「捨て印のごとき口づけ」や「湯の中にさくら漬浮くしずけさ」のような喩も魅力的で、言葉の堅さ(抽象度)と柔らかさ(感情度)のバランスがほどよく、やや前者が勝っている歌である。文体的には倒置法が効果的に用いられ、また言葉の堅さを調整するため漢字と平仮名の配分も意図的に勘案してある。

 しかし杉森のほんとうに作りたかったのは次のような歌ではないだろうかと思う。

 見下ろせばオープンセットのごとき街役を降りたい一日始まる

 いつかしら この雨音を聴いたのは わたくしを消す降り方をする

 足首から冷えてせり上がる悲しみをたたえてわれは水のレプリカ

 水のなき夏の池めく駐車場ひとり降ろされ風になるわれ

 春の空突き上げてゆくさびしさの尾にとどくまで香水振れり

 すぐ上にあげた歌群と比較して、〈私〉と私の感情がより直接的に言及されている。ここでは短歌は〈私〉を表現するための手段であり、〈私〉を盛る器である。しかしひとつ前にあげたような歌群においては逆に、短歌という短詩形式が〈私〉という場を通過することで実現されているように見える。前者の場合、短歌は〈私〉の道具であり、後者の場合は〈私〉が短歌の道具なのだ。このどちらの回路に重点を置くかによって、歌人の歩む道は大きく異なるだろう。「手にならす夏の扇とおもへどもたゞ秋かぜのすみかなりけり」という後京極良経の名歌を口ずさむと、私の中では軍配は後者に大きく上がる。

 『忍冬』を読む限りでは、杉森のなかではこの両方の道が鬩ぎ合っているようだ。第一歌集の上梓が呼び水となって作者の歩む道に変化が生じるのかどうか。気になるところである。

198:2007年4月 第3週 棚木恒寿
または、薄くメランコリーを含んで自己を見つめる歌

ブイ揺れて取り残さるる夏蝶を
     喩となす前に君に差し上ぐ
        棚木恒寿『天の腕』

 ブイとあるので海の風景だろう。夏の海と蝶の取り合わせは青春の風景である。作者は歌人なので、この光景を喩として歌の素材にしようとするが、その前に「君」と呼ばれている女性に捧げるというのである。短歌という文芸に関わる人間と生身の現実との微妙な関係性が背景にあり、清新な抒情という言葉がぴったりの歌である。このような歌を青春時代に作り得た歌人は幸福と言えるだろう。

 作者は昭和49年(1974年)生まれで、高校生の時に教員であった玉井清弘の影響で短歌を作り始めたらしい。田中槐の高校では村木道彦が国語の教師をしており、大松達知の高校には奥村晃作がいたというから、出会いというのは恐ろしい。私も高校時代に国語の苫名康先生という方のおかげで文芸に開眼した。高校生の心はまだ可塑性に富んでいるので、先生の影響力は大きい。私は大学の教員をしているが、私なりに学生の人生の進路を変えるような教師でありたいと思っている。棚木はその後、当然のように「音」短歌会に入会し、現在は滋賀県の高校で数学の教師をしているという。棚木の高校からも将来の歌人が生まれるのだろうか。『天の腕』は2006年に上梓された第一歌集。栞文には京大短歌会の先輩である島田幸典吉野亜矢内藤明が寄稿している。

 棚木と同世代では、1975年生まれに生沼義朗、永田紅、笹公人がおり、1973年生まれには玲はる名、佐藤りえがいる。この世代の人たちは大学に入学する18歳前後にバブル経済がはじけソ連が崩壊するという歴史的大事件に遭遇し、その後の「失われた10年」を青春時代として生きている。いま名前をあげたなかでは、永田はその経歴から、笹はその作風からやや異質だが、その他の歌人の作る歌には程度の差はあれ「失われた10年」の影が差している。棚木の場合はどうだったのだろうか。京都の大学の理工系学部に学び、卒業して高校の教師としての日々を送る。『天の腕』に収録された歌を読むと、京都という風土のせいか、時代の落す影は薄く、自分の立ち位置を原点とする比較的狭い日常をていねいに掬い上げる歌風の歌が多い。

 検閲にむかし残業ありしかな採点にわれは魅了されゆく

 メモ用紙置きて去りにし一人居て朝顔の花に載るほどの文字

 急いて食む駅のカレーの黄はあわれ揺れてるだろうわがのどぼとけ

 こおり水注がれて立つ魔法瓶しばしば生を帯ぶる音せり

 すこやかにわが数式は伸びゆけり教室に生徒(こ)のおらぬ時間は

 家族のために水汲みにゆく太郎居ず次郎静かに眠る五限目

 追い詰めし追い詰められし寂しさに水漬くなりわが内の蒼鷺

 逆年順に配された歌集の始めには、教師としての日々に題材を得た歌が多く並ぶ。1首目は、生徒の答案を職員室で遅くまで採点しながら、いつの時代かの検閲官に思いを馳せている。そこには採点に検閲に通じる何かを感じる心の傾きがあるが、採点は決して苦役ではなく作者を魅了するものである。2首目のメモ用紙を置いて行ったのは生徒だろうか。「朝顔の花に載るほどの」という増音を感じさせない喩が美しい。3首目は駅の立ち食いカレーの光景だろう。確かに安食堂のカレーは黄色く、作者はそれをかき込んでいる自分を意識している。5首目は生徒のいない教室の黒板に数式を書いているのだろう。高校の先生もなかなか大変な仕事のようで、6首目は授業中の生徒の居眠り、7首目は作者をしばしば襲うらしい鬱屈の気分を詠んでいる。一読してわかるように、どの歌もあくまで端正な文体で、言葉を操る確かな修辞力に支えられており、あえて名付ければ「抒情と含羞の歌人」と呼べるかもしれない。

 もしかしてトマトの糖度に比べつつ受け入れたのか君のからだを

 落されしサンドイッチの耳のごと夕暮れは来る君抱きし後

 モンキチョウあるいは葩(はな)の影過ぎてローマ字協会ビル壁しろし

 疲れざる靴を購めてのちふかく靴の進化をかなしみにけり

 学帽は路上に置かれたるように旧世紀より残りぬ 空へ

 かまきりの斧の弱さに気づくかな少年が向きを変うる時の間

 短歌の修辞の中心は言葉の取り合わせであり、何と何を取り合わせるかで映像の衝撃力や喩の新鮮さが決まる。棚木の歌には取り合わせの妙味を感じさせるものが多くある。たとえば1首目の「トマトの糖度」の喚起する神経に届く甘美さ、2首目の「落されしサンドイッチの耳のごと」という喩の巧みさ、3首目の「モンキチョウ」と「ローマ字協会」の配合などがそれである。特に「モンキチョウ」と「ローマ字協会」の取り合わせには深い魅力を感じるが、それは蝶の飛ぶ様とローマ字の字体、とりわけ筆記体との間に、形態上の類似があるからだろう。このような喩を一度経験すると、蝶が飛ぶ様がまるで空間にローマ字を綴っているように見えて来る。4首目は足が疲れないという触れ込みのハイテク靴を購入し、そののち靴の進化を哀しむという歌だが、靴という日常的で具体的な事物が歌の中で存在感がある。5首目では、今や絶滅危惧種になった学生帽の喚起する昔と今という時間軸の懸隔に、路上と空という空間軸の懸隔が重ね合わされており、不可思議な魅力がある。6首目は、少年が世界の秘密に触れる瞬間を定着した美しい歌。怖いと感じていたカマキリの斧が実はそれほどの脅威ではないという発見は、少年が大人への一歩を踏み出す瞬間であり、1首全体がひとつの喩となっている。

 次のように静謐ななかにうっすらと諦観とメランコリーの漂う抒情的な歌はなかなか美しい。

 下降して底(そこひ)に届くひとひらよ水槽のごとく景ありにけり

 水際には死ぬために来し蜂の居てあわれわずかにみだりがわしき

 水色の郵便受けに萩なだれ静かに圧してくる高気圧

 曲がりたる自転車の鍵をポケットにせんだんの小花咲くところまで

 溜められし雨水に残る死のにおい凡庸のわが庭に撒かるる

 雄ごころのうすく流るるわが体夕焼けのなか階を下れり

 作者は「失われた10年の影を曳きつつ、ここまで青春に決着をつけられずにきた」と述懐し、「本書によって『若さ』に訣別したいと思う」とあとがきで決意を述べている。京都はなかなか青春と別れることができない街である。しかし第一歌集を世に問うことで、作者は新たな一歩を踏み出しただろう。棚木の大人としての日常から、今後どのような歌が生まれるのか期待したい。

197:2007年4月 第2週 有沢 螢
または、内にあるみづかねの変色を見つめる歌

身のうちにみづかねといふ蝕あるを
  思ふゆふべの『テレーズ・ディケイルー』
       有沢螢『朱を奪ふ』

 著者の有沢螢という名前が本名か筆名か知るすべはないが、いずれにしても美しい名である。「沢の螢」は美しさと同時に命の明滅のはかなさを感じさせる。吉岡生夫の労作『あっ、螢』(六花書林)でも示されているごとく、古来から螢は歌によく詠まれてきた。あとがきによれぱ、著者は6歳から短歌を作っているという。もし本名だとすれば、歌を詠むべくこの世に生を受けたのかもしれないという考えがふと頭をよぎる。

 掲出歌の「みづかね」は「水銀」のことで、水銀は有毒の金属である。日本では古くは水銀の硫化物である辰砂が、朱色の顔料である丹(に)の原料として用いられてきた。だからこの歌の「みづかね」は、歌集の「朱」と微妙に呼応している。『テレーズ・ディケイルー』はフランスの作家モーリアックの代表作の小説。モーリアックはカトリックに深く根ざした作家で、人間の原罪の闇を描く作品が多く、『テレーズ・ディケイルー』は夫を毒殺する妻の物語である。掲出歌はしたがって、テレーズが心に巣くう闇に蝕まれて遂に夫を毒殺するに至ったように、作者が自分の心の中にある水銀のような毒を覗き込んでいるという歌である。水銀の光沢ある銀色と、その向こうに僅かに透ける朱色が歌に色彩を与え、「身のうち」「みづかね」の「み」音の連続がリズムを生みだしている。この歌に見られるキリスト教への傾斜と、自らの内なる闇を凝視する姿勢は、作者の歌の底流をよく表しているのである。

 有沢は第一歌集『致死量の芥子』を刊行後、「さんざん躊躇った末」に「短歌人会」に入会し、『朱を奪ふ』(2007年)はそれ以後の歌をまとめた第二歌集である。岡井隆、小池光黒瀬珂瀾が栞文を寄せている。作者についての情報は乏しいが、断片的記述から、高校の教員(おそらく国語)をしていて、キリスト教徒であり、幼少時に病気から寝たきりの生活を長く送ったことがわかる。歌集題名の「朱を奪ふ」は論語から取ったらしい。「切先の鋭きメスを選ぶ女医われのうちなる朱を奪ふため」という歌があり、病を得て手術で身体の一部を切除する喩として用いられている。

 『朱を奪ふ』にはさまざまな題材を詠んだ歌が収録されているが、中でも人の死に関係する歌が目につく。近代短歌のメインテーマは生老病死であるから、それ自体は異とするに当たらない。特徴的なのは死そのものを詠むのではなく、死と触れたときの心の変色を詠んだものが多いということだ。

 友の死を伝へる電話鳴る前にふと静寂がわれをつつめり

 マンダリン・ホテルから身を投げし時レスリー・チャンの目に入りし夜景

「死にたまふ母」しか思ひ浮かばない電車の旅のながき夕暮れ

「肺癌だ。こんな手紙でごめんね」と事務封筒の宛名のみだれ

 祖母の骨素手でつかみし幼子のゆび薔薇色に火照りて見ゆる

 ランドセルの影倒れたりパリ・コミューンに逝きし少年兵のごとくに

1首目は友人の訃報を伝える電話が主題で、電話が鳴る前にフッと心が冷たくなったという不思議な体験を詠んでいる。2首目は自殺した香港の映画スターの死の場面を想像しているのだが、1首全体が隠れた「のやうな目の前の夜景」にかかる喩となっているのだろう。3首目は母親の病気の折りの歌。4首目は病気を告げる友人からの手紙だが、宛名の乱れは差出人の心の乱れであり、その乱れは受取人にもそのまま伝わっている。5首目は親戚の葬儀の場面。ここでも眼目は少年の指が光っていたという事実ではなく、それを薔薇色の火照りと見た自分の心の翳りであるようだ。銀器は美しく輝くが、その輝きは空気に触れて黒く変色してゆく。人の心も同じで、身近な人の死に出会うことで心の一部が黒ずんで変色する。銀器の曇りは磨けば元の輝きを取り戻すが、心に生まれた変色は消えることがない。有沢は人の死を契機とするこの心の曇りをていねいに掬い上げて歌にしている。そのせいだろうか。上に引用した最後の歌のように、道路でランドセルを背負った子供が転んだだけのことで、パリ・コミューンに死んだ少年兵を思い浮かべるほどなのである。

 この心の変色は、冒頭に述べた自らの内なる闇を凝視する姿勢とも関係していよう。それは「今日の私は神の御心に沿うか」と問う宗教的態度から来るのだろう。作者はこのようにことさらに闇に惹かれているようである。これが「みづかねといふ蝕」である。

 ふたり乗りの絶叫マシーン 落ちてゆく闇の深さを甘受している

 葛きりの店ほのぐらく身のうちに冷たき蜜の闇ながれこむ

 その闇の深さをはかりより深き闇もつひとに惹かるるならひ

1首目は遊園地の絶叫マシーンが表面上は主題であるが、下の句に至ってその表面上の主題は明らかに何かの喩に転じている。余談ながら、このように字義通りの意味がいつの間にか喩へと相転移するところに短歌の言葉の妙味がある。2首目は京都の名店鍵善を詠ったものなのだが、作者が闇という語を扱う手つきは他の歌と変わらない。3首目は場面のはっきりしない歌だが、作者が闇に惹かれていることを明確に語っている。

 集中でも心を打たれるのは病床にある弟を詠った歌である。

 「希死念慮」と診断されしおとうとを見舞へば背後に鍵かかる音

 二輪草毒もて咲くとおとうとの指さす花の白きかそけさ

 真夏日の小樽オルゴール工房に入りて消息消えしおとうと

 「希死念慮」とは自殺願望が懸念されるという意味で、見舞う作者の背後に鍵をかける音が響くところに冷徹な現実がある。3首目はどこかメルヘンのようでほんとうに起きたこととは信じられないが、「寺山修司の嘘を愛す」という趣旨の歌もあるので、詩的虚構かもしれない。その他にも次のようなおもしろい歌がある。

 中井英夫の本ひもとけばこともなく金魚の味に言及したり

 セピア色の画面の中にかつて見し山口二矢の刃の動き

 フラフープの円にみづからとらへられ緊縛されゆく少女のからだ

 私も中井ファンの一人だが、金魚の味の話は知らなかった。山口二矢(おとや)は社会党党首の浅沼稲次郎を1960年に暗殺し、刑務所で自殺した右翼青年。フラフープは1958年に大流行した遊具。どんぴしゃり映画「Always三丁目の夕日」の世界であり、懐かしさを禁じ得ない。その他、印象に残った歌をあげてみよう。

 白金の坂の下なる帽子屋に西日のほかに入るひともなく

 絽の単衣 執念(しゆうね)き蛇の目をしたるひとに会ひたり納涼茶会

 午前五時 天使翔びたつ気配して街の塑像に酸性雨ふる

 そら豆がくつくつ笑ふ鍋の底はじけるまへのざわめきに似て

 胡桃割る音かちりと響くときゆるしの予感家を満たせり

 テニヲハが省略さるる手話の恋きり捨てられしためらひの数

 カルナバル 死者たちはいつ帰るのとささやく声す広場よぎれば

 おそ秋の石畳ゆく影ふたつ薔薇科の罪にとらへられたり

 清正公(せいしやうこう)の夜店にひらく水中花母をしばしば見失ひたり

 以下は蛇足だが、栞文を書く歌人がその歌集を読んで、どんな歌を取り上げるかにはいつも興味を惹かれる。岡井は「ホワイトボードひとつ買ひきてみづからに伝言を書く母の晩秋」をまずあげて、なんでもないようで深みのある現実があると評している。小池は「パンティーストッキングで首をくくりし小説家鈴木いずみの生の加速度」を引いており、いかにも小池の選択と感じさせる。また、集中に「デビルマン群れ飛ぶやうな大茜ひたに地上のわれを囲へり」という歌があり、黒瀬はきっと引用するだろうと思っていたら、予想どおりだった。歌を選ぶというのも立派な批評行為であり、おのずから個性が滲み出る。

 上に引いた有沢の歌では、歌に織り交ぜられた「帽子屋」「天使」「そら豆」「水中花」などの語彙が、字義どおりの意味という現実のくびきを脱して、詩的浮力によってなかば虚の空間に浮遊して、無人称的な虚的意味を帯びる様相を垣間見ることができる。充実した読後感の残る歌集である。

196:2007年4月 第1週 大谷雅彦
または、発光する自然に中に自己を沈潜させる歌

苦しみて花咲かすべし夕闇の
     なか垂直に木蓮光る
       大谷雅彦『白き路』

 大谷が1976年(昭和51年)に第22回の角川短歌賞を受賞したとき、まだ高校生ということで話題になったという。高校生でありながら文語を駆使した文体と静謐な内容におおかたは喫驚し、選考委員の一人の片山貞美は「歌がどうも明治時代に帰っているようなところがあるんですね。(… )汚れていない。これは今の世の中ではちょっとめずらしいんじゃないか」と評したという(『短歌』平成16年10月号の特集「角川短歌賞50年のすべて」)。新聞でも大きく報じられ、この頃から短歌賞の受賞が社会的事件として取り上げられるようになった。しかし大谷は「短歌人」に拠りながら歌作を続けるも、1995年に『白き路』を上梓するまで歌集を持たなかった。角川短歌賞を受賞した「白き路」は歌集巻末に収録されている。

 かなかなとしみ入るこゑをあげながら杉生の中に蝉ひそみをり

 谷あひのもろ田をわたる水の音はけふ里人の壺にありたり

 水近き匂ひがありて幽かなる馬のひづめの音のみ聞ゆ

 確かに高校生が作るにしてはあまりに正調古典派で、老成感すら漂う作風である。しかしそれより驚くべきは、20年の長きにわたって大谷がその作風をほとんど変化させていないという点にある。

 『白き路』は勅撰和歌集の部立にならい、「春」「夏」「秋」「冬」「戀」「雑」という構成を採っており、「挽歌」を欠くが、あとがきに「歌集全体がひとつの挽歌である」と記されている。ここにも大谷の古典志向がよく現れているが、それは単に構成上のことではない。通読して私が強く感じたのは、歌のをちこちに漂う「湿り気」である。大谷が歌に詠む題材は自然、なかでも樹木と花であり、それは東アジアのモンスーン気候に位置する日本の湿潤な自然である。

 樹の中を水のぼりつつ冷えてゆく泪のごとく花ひらきたる

 さくらばな水にうつりてうすあをし言葉をしまふ夕暮れに似て

 さみだるる夜の湍ちをのぼりこし螢をすくへ歌のはじめに

 湖に生るる雲あつかりき明るめる底ひかすかに雪をふふめる

 やはらかに柳しだるるゆふまぐれ花咲きてのち人はありしか

 水底に水なきごとく陽は差して魚浮かびつつしばし華やぐ

これらの歌のどれにも溢れんばかりの湿潤な自然がある。地には水溢れ、空より雨・雪が降り、樹木はたっぷりと樹液を湛えている。それは欧州のような乾燥し厳しく人を拒む自然ではなく、人を包み込み人と融合する自然である。このような自然の中への自己溶解を通じて自己浄化を希求する態度は、古典和歌の時代から歌という器を用いて行なわれてきたことである。この態度から生まれるのは葛藤と煩悶の短歌ではなく、観照と慰藉の短歌である。

 自己浄化を希求する視線の先にあるのは、あるがままの自然ではない。視線に捉えられたというまさにその一点により、自然は知覚者の心に映じた自然となる。そして大谷の視線が捉える自然は、自らの光で発光する自然である。

 ふりしきる三月の雨一切の光を閉ぢて櫻樹てるを

 夜となりて時雨重なる菜の花の黄のかぎりより光湧きくる

 きざはしのかなたに光りゐるものを花と呼びたるあなたのために

 降りしきる朝の時雨に打たれつつ森あり徐々に光りはじめぬ

 光りつつわれの渚に降る時雨かそけく降れば人見つらむか

『白き路』は「光の歌集」と呼んでもよいくらいに、発光する自然に満ちている。この自然に見入るとき、作者の自己の輪郭はぼやけてゆき、言葉を失うのである。

 合歓の花咲きさだまりて夕べふかし輪郭あはき言葉を放つ

 雲みちて雲明るめるはるかなる空にかへさむ人も言葉も

 大谷の短歌を論じるとき、三枝昂之が「規範としての定型詩 ― 短歌表現の現在性をめぐって」と題された文章で行なった厳しい批評に触れないわけにはいかない(『現代定型論 気象の帯、夢の地核』所収)。三枝は「なぜ今短歌形式を選び取っているのか」という根源的問いかけを基盤として、「安保粉砕とか、東大解体とか、革命的恋とか、そんな言葉が一つ一つ風化していって、何のデコボコもない言葉の情況の中で、歌人たちが言葉を歌に高めようとして使う短歌の定型を、どのように使っているか」という情況論的問いかけを発する。そして次の3首を引用して、「詩人の詩的力量と史的体験の一回性がびったりと結合されて成立した作品」であると高く評価する。

 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す  宮柊二

 装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている  岸上大作

 運動部・民青・明日・機動隊 旗棹のさき尖鋭に研ぐ  福島泰樹

そして三枝は大谷の「白き路」の巻頭2首を引用し、次のように評している。

 あらくさの最中に光る泉あり春のひかりの在処と思ふ

 白樫の枝に崩るる残雪のかそけくなりて春たつらしも

 「ただただ見事な短歌的措辞と、ただただ見事な短歌的秩序である。ここには歴史的な時間の切れっ端が全くないだけではなく、生活とか日常性とか、作者の思想の独自性とかも見事に消し去られて、定型詩短歌のモデルコースとしての自然観と定型観とその措辞があるばかりである。」

 なかなか厳しい批評である。三枝は続けて「ある絶対的な規範を短歌に見出して、その定型観や自然観の中に自己を溶解してゆくという光景」は、「時代との軋轢を喪ったとき、歌人はこのような形で短歌に敗れはじめた」ことの徴候だと断じている。

 三枝がなぜここまで激越な言葉で大谷の短歌を批判したかを理解するには、いささかの歴史的回顧が必要となろう。三枝がこの文章を『かりん』に掲載したのは、1979年(昭和54年)1月である。三枝らが関わった新左翼を中核とする学生運動は、1970年に実質的に終息し、1972年の連合赤軍浅間山荘事件で息の根を止められる。その後、青年の政治離れが急速に進行し、もう足音が聞こえていた大衆消費社会の物質的豊かさの中に自己の在処を見いだす時代を迎えるのである。三枝の短歌をめぐる本質論的問いかけとそのいらだちは、このような時代背景を抜きにしては十分に理解できない。三枝の議論の中心にある「短歌が時代と切り結ぶとき優れた作品が生まれる」という思想は、それ自体が時代の刻印を受けた思想である。やがて短歌は80年代に入って修辞の復活とライト・ヴァースの時代を迎え、多様な方向へと拡散してゆくのである。

 確かに三枝の言うように大谷の短歌は「時代と切り結ぶ」短歌ではなかったかもしれない。それは自己への沈潜の短歌である。しかしそれから30年の年月を経て振り返ってみると、短歌定型に拠り自己へと沈潜する態度もまた、別な意味で時代の刻印を受けていたようにも見えるのである。

195:2007年3月 第5週 森本 平
または、悪意というモラルで世界に向かう歌

ルサンチマンのかわりに夜空へ放ちやる
      ぼくらのように美しい蛾を
            森本平『モラル』

 森本のような歌人の場合、「代表歌」という概念があまり意味を持たないので、掲出歌を選ぶのに困る。しかし、それを裏返せば、どの歌を選んでもかまわないということになり、気が楽になる。2003年の『短歌WAVE』で森本は、掲出歌と並んで「手を伸ばせども指の透き間をすり抜けるあの夏色の空を忘れず」と「丹頂の白きのみどを持つひとよ天啓として声あらしめよ」の2首を自分の代表歌として挙げている。また2004年の『現代短歌雁』の特集では、「倦怠は揺り籠である まぎれなく水平線のエッジが光る」という歌集『橋を渡る』からの一首を挙げている。これらの歌だけを見ると、森本という歌人は何て抒情的な作風の人だろうと思うかもしれないが、それはまったく誤った印象なのである。なにしろ現役の高校教員でありながら、「口答えばかりしやがるあのコムスメ今度宿直室で犯そう」などというトンデモない歌を堂々と作る人なのである。

 森本自身も自分の歌のトンデモなさをよく意識していて、第3歌集『モラル』を出版したときも、「こんなものは歌じゃない」「おまえなど歌をやめろ」「草葉の陰で祖父が泣いているぞ」などの「暖かい励ましのお手紙を多数頂戴した」と自分で書いている。ちなみに、森本の祖父は万葉学者・歌人で駒澤大学教授であった森本治吉、母は槇弥生子だから、三代続く歌人の家系なのである。どんな分野でもそうだが、三代目というのは辛い立場だろう。第1歌集『空を忘れず』(1989年)、第2歌集『橋を渡る』(1994年)、第3歌集『モラル』(1997年)、第4歌集『個人的な生活』(1999年)に続いて、セレクション歌人『森本平集』(2004年)に第5歌集となる『ハードラック』を収録、第6歌集の『町田コーリング』が2006年に刊行されたばかりである。『森本平集』の略歴欄に、第6歌集は逝去したジョー・ストラマーの追悼歌集『クラッシュ(仮題)』になるはずだと書いていたが、見事に外れたわけだ。

 セレクション歌人『森本平集』を責任編集した谷岡亜紀が、「悪意というモラル」と題された森本平論を巻末に寄稿している。私などよりもはるかに森本のよき理解者である谷岡ならではの行き届いた歌人論である。「いかに時代と向き合い、時代を反映するか」という一点に絞られるのが森本の創作意識であり、森本の認識する世界の現実とは、「日常化、矮小化、俗化、個別化したリアルな悪意の現実性」に他ならないとする論旨である。それがしばしば「残酷だ」「汚い」「差別的だ」との悪評を被る歌作につながるというわけである。実際のところ、『森本平集』から比較的穏当なものを選んでみても次のような歌が並んでいる。

 かく愛は夕餉の中で頽れる手乗り猫の串焼き味噌付き

 横たわる姿勢のままで裂きしゆえ立ち上がらねば腸はこぼれず

 どことなくくさやを思わす匂いにて一夜干しせし少女を食めり

 公園で乳房をさらしキューピーをあやす女の口よりよだれ

 「現代の社会が病んでいて残酷である」というのがリアルな真実であるのなら、それを包み隠さず短歌に反映させるのが誠実さであり、時代の狂気をそのまますくい取る作品があるべきだというのが森本の信念なのである。いかなる信念を持つことも個人の自由に属するので、この信念に文句をつけるのは不当というものだろう。言うまでもないことだが、森本の作る短歌を好むかどうかもまた個人の自由である。

 そんなことより、『森本平集』を読んでいて「おや」と感じたことに触れてみたい。2001年に死去した仙波龍英の死を悼む「三月兎の死 ― 先駆性への墓標」と題された文章の中で森本は、80年代の後半に話題になったライト・ヴァースの代表的作家として加藤治郎と俵万智の名ばかりがあげられることに異義を唱えて、仙波こそ日本におけるライト・ヴァースの嚆矢として再評価されるべきだと論じている。短歌に何を盛るかという主題意識と、現実を見据える目線において、森本と仙波には確かに共通する点がある。仙波の『わたしは可愛い三月兎』を今読むと、ライト・ヴァースと呼ぶには余りに重い文体と主題に驚くが、それより目に付くのは付された夥しい註と詞書きである。たとえば、「ヨット上にらみをきかすここのつがファンキー族の姉とをとこに」の中の「ファンキー族」には、「昭和35年にあらはれた軽薄な若者達の呼称」という註が付されており、その他にも「メリナ・メルクーリ」「赤木圭一郎」「渡邊マリ」「草加次郎」など昭和30年代の風俗と事件に関するたくさんの註がある。夥しい註で話題になった作品といえばすぐ頭に浮かぶのが、田中康夫のデビュー作『なんとなくクリスタル』(1980年)、略称「なんクリ」だ。仙波がこだわるのが歌集刊行時の1985年ではなく、自分が少年時代を送った昭和30年代の風俗であり、一方、田中は大衆消費社会を迎えた70年代後半の進行中現在の風俗だというちがいはあるものの、なぜたくさんの註が必要なのかという理由は共通している。それは「短命ですぐ消え去る運命にあるもの」(ephemeral)を作品に取り込んだからである。

 しかしながら、仙波と森本には決定的なちがいがある。『わたしは可愛い三月兎』の跋文で小池光は、なぜ仙波が「ぺらぺらのかんなくづのような、今日流行り明日には滅亡する、はなはだ『俗悪な』ものたち」を短歌に詠むのかと問いかける。そして、仙波の思い出は流行とともにあり、流行を思い出すことなくワタシを思い出すことができないのであり、自分とまわりに明確な一線を引けず、両者が互いに滲み合っているというのがその理由だと断じている。言い換えれば、現代の大衆消費社会を先取りするような例外的境遇に育ち、仙波の〈ワタシ〉が〈ephemeralなもの〉に支えられ、それと不可分なかたちでしか形成されなかったということであり、仙波の短歌に漂う悲劇性はそこに由来する。仙波の唐突な死はその悲劇性を完成させたようにすら見える。しかし今日仙波の短歌を改めて再読すると、〈ephemeralなもの〉と不分離であるという〈ワタシ〉のかたちを内的に生きたという点において、読者である私たちはある感動を覚えるのであり、またそこに現代を先取りする先駆性を見ずにはいられないのだ。森本は「ライト・ヴァースの先駆者」として仙波を再評価することが目的で小論を書いたのだが、実は仙波が先駆者であったのは、上に述べたような「〈ワタシ〉のあり方」においてである。

 一方、森本はどのようなスタンスで〈ephemeralなもの〉に向かっているのだろうか。

 太陽に手紙を出そうバカボンのパパよりもっとこれでいいのだ

 ゼラチンは揺れつつ崩れ 生涯を現役のまま馬場の逝きにき

 ほされいるTシャツ蒼く揺れており岡田有希子の十三回忌

 明日よりは晴耕雨読で過ごさんとさらば哀愁のエリマキトカゲ

 ほほえみは何も救いはしないのだから松田聖子なんて嫌いだ

 森本が〈ephemeralなもの〉を扱う手つきは軽いようでいて、実は軽くはない。言葉から滲み出る悪意と呪詛と攻撃性は、作者が「醜悪な現実」と見なすものに立ち向かう姿勢をことさらに露わにしてしまう。振り上げたこぶしばかりが見えてしまう。そして逆説的ながらも、向こう側に見えるはずの「醜悪な現実」が、作者の振り上げるこぶしの陰に隠れてしまうことがある。なぜこうなるのだろう。仙波とのちがいはどこにあるのか。

 それは仙波が〈ephemeralなもの〉や時代の「醜悪な現実」を一方で厭悪しながらも、それと不可分なかたちで自分を形成したものとして、愛おしく思わずにはいられなかったからではないか。仙波は「醜悪な現実」を憎むと同時に愛したのである。そのとき、ephemeralなぺらぺらの現実を詠うことは、自分の半身を詠うことに他ならない。「ぺらぺらの現実が自分の血となり肉と化している」という自覚がそこにある。

 ナナ、つばき、菊水、のり子と続く路ゆけば秋風この身から立つ

 並んだ固有名は新宿ゴールデン街の飲み屋で、「どの店も狭い」となくてもよいような註が付されている。このどうでもよい細部がぺらぺらの現実を担保している。そして秋風はゴールデン街から吹いて来るのではなく、仙波自身から立ち上がるのだ。これが仙波が獲得したスタンスである。そして森本と仙波のちがいもここにあると思われる。

 森本の歌は谷岡が明快に分析してみせた方法的意識に基づいて作られているので、連作意識が強く一首の独立性が低い。そんななかでも読んでいて、「あっ、これはいい」と思う歌がないわけではない。

 反抗すゆえにわれある黄昏(こうこん)のこうこんなるは空のたまゆら 『空を忘れず』

 ジェラス・ガイ 暑さで閉ざす眼裏に光まみれの燕が見える  『森本平集』

 ゼラチンは揺れつつ崩れ 生涯を現役のまま馬場の逝きにき

 窓ごしに棕櫚を見ておりカフェオレを飲む間に消える淡き性欲

 鼻唄はなぜかパヴァーヌ ドライ・ジン越しに眺める世界は揺れて

 役立たずな気分の夜はコンビニでしあわせ印の桃缶を買う

 これらの歌は、自分の内部にある「ぺらぺらの現実」を静かに見つめるスタイルの歌であり、そんなときには私も共感できるのである。

194:2007年3月 第4週 石井辰彦
または、音楽的実験を追求する現代短歌のゆくへは

一掬(イツキク)の記憶を愛す。忘却は
  祝(ほ)ぐべき人間(ひと)の習慣(ならひ)なれども
       石井辰彦『全人類が老いた夜』

 石井辰彦は現代短歌シーンにおいては特異な作家と言ってよかろう。その特異さはこの歌集の題名にも現れていて、『全人類が老いた夜』というような題名は歌集の題名としてはあまり見られないタイプのものである。短歌の祖先である和歌の中核をなす主題であった花鳥風月とは完全に切れており、それは石井が近代短歌を跳び越えて現代短歌作者たらんとしているからである。この題名と同じタイトルの連作が巻頭に置かれており、この夜とは2001年9月に起きたアメリカ同時多発テロの夜のことであると知れる。

 窓といふ窓を(急いで)開けよ! ほら、天翔(あまがけ)る悪意を視るために

 隈もなく世界は霽れて…… 澄んだ目の・なんて・邪悪な・殉教者・なの?

I thought of those September massacres… とは、口遊(くちずさ)むには、辛き詩句

 人類の過失の歴史。それのみが真実かも? と惟(おもひ)みるかも

 空港も未来も封鎖。だつて、全人類一気に老ゆる夜(よる)、だぜ

 なにもかも潰(つひ)えて落ちよ。人類の静かに恐怖する真夜中に―

 一読してわかるように、歌の主題は同時多発テロが世界に撒き散らした恐怖とそれを継起とする世界の崩壊の静かな予感であり、特に難解な所はない。おおむね定型を遵守しながら時折破調を交え、文語・旧かなを基調としつつ時に口語が顔を出すというのも、現代の短歌作者に多く見られるパターンである。石井の短歌が特異なのは、通常の句読点だけでなく、丸パーレンや中黒や疑問符・感嘆符、三点リーダーや長ダッシやルビなど、考えつく限りの印刷記号を方法論的に短歌の構成要素として取り入れている点にある。読みの与えられない記号を短歌に取り入れる記号短歌は、1980年代のニューウェーブ短歌で数多く試みられ、やがて飽きられたのか姿を消した。石井の場合、単に目新しさからさまざまな印刷記号を取り入れたのではなく、短歌についての極めて方法論的考察に基づいていることは、評論集『現代詩としての短歌』を読めばわかる。

 石井がこの評論集のなかで提起している問題には次のようなものがある。

・現代短歌は古典和歌の韻律という財産を受け継ぎながらも、独自のリズムを探求すべきである

・現代短歌は抒情詩の複合体としての叙事詩である連作短歌をめざすべである。

・現代短歌は句読点を含めて記号の使用に積極的であるべきだ。

・詩は音楽をめざすのであり、現代短歌もまた音楽的実験を試みるべきだ。

・短歌は一行の詩である。詩は朗読されるべきものであり、短歌もまた朗読されるべきである。

 石井はこのような主張を展開するにあたって、主として西洋の古典詩学や現代音楽や写真や舞踏など事例を縦横無尽に引用し、しばしば衒学的な膨大な注を付している。その使用概念のほとんどが舶来のものであるため、ときおり「西洋かぶれ」と呼ばれることがあるとは石井自身の述懐である。上に並べた石井の主張の全部を検討することはできないので、記号の使用と韻律の問題を取り上げて考えてみたい。

 評論集『現代詩としての短歌』のなかの「主張する記号」で、石井は釋迢空の次の短歌を引用し句読点の効果を述べている。

 かたくなに 子を愛で痴れて、みどり子の如くするなり。歩兵士官を

 石井によれば、一字アキ→読点→句点と徐々に拡大する休止の連続が、作者の高まる心情を音楽のクレッシェンドのように表現しているということである。また自作を引用して

 「人間(ニンゲン)を賣る店ばかりにぎはへる(街」を炎がつつむ日を待ち)

では「 」と( )の両方に跨る「街」という語が、二重の帰属関係によって二倍の意味的重量を持つとし、

 ふたりづれの天使は邑(まち)の男たちに(實は!)輪姦(まは)されき。といふ傳承(つたへ)

では、パーレン内の(實は!)は耳元で囁くように、しかし感嘆符がついているので鋭く読まれることが期待されていると述べている。

 実に周到な配慮で感心するほかはないが、一読した印象はそれほど効果が上がっているのだろかうという懐疑的なものに留まる。迢空の歌では、意味は別として表記上では句読点よりも一字アキの方が断絶が深いように感じられる。また(街」の二重の帰属も、言われてみれば確かにそうも見えるが、「人間を賣る店ばかりにぎはへる街」と「街を炎がつつむ日を待ち」が別人の言説とも思えず、二倍の意味的重量の効果が私には感じられない。そして最後の(實は!)の読み方についての石井のコメントは、はからずも石井の短歌観を暴露しているのである。

 それは上に挙げた石井の主張の最後にある「短歌は朗読されるべきだ」という点に関係する。石井は積極的に短歌の朗読会を開いて自らの主張を実践しており、(實は!)についてのコメントは、明らかに朗読されるときの読み方の指定なのである。つまり、句読点や括弧や感嘆符・疑問符など石井が多用する印刷記号は、メロディーを構成する音符の他に作曲家が楽譜の余白に記入するクレッシェンド記号 (<)やフォルテ(f)やピアノ(p)や Tempo rubatoなどのリズム指示と同じように、「短歌を朗読 (演奏)するときには、このように読んで (演奏して) くれ」という作者の指示なのだ。ここまで自分の短歌の読まれ方に細かい指定をした歌人はいないだろう。

 しかしこのような態度にはいささか問題があると言わねばなるまい。大きく分けてふたつの問題を指摘できる。第一は、「作者はそこまで読みの方向性を拘束できるのか」という問題である。作者はもちろん作品の創造者であり、作品にたいして著作権を持つわけであるが、作品はこの世に生み出された瞬間から作者の手を離れて公共のものとなる。作者の手を離れなくては作品は作品たるを得ない。ここに創作をめぐる深い逆説がある。作品が作者の手を離れた瞬間から、読みは読者 (受容者) のものである。作者による自作解説が喜ばれない理由はここにある。〈読み〉とは意味解釈のうねる過程そのものであり、それは一種の〈共同幻想〉である。したがって、石井が自作に施す読みの指定は、作者から読者への過剰な介入なのである。そのために、うねうねとした行きつ戻りつの過程を経るのが常態である〈読者の読み〉のなかから作者の顔が立ち上がるのではなく、作者が歌の横から顔を出す結果を招いている。これは望ましい状態とは思えない。

 第二の問題は、石井が短歌における韻律やリズムの重要性を力説しているにもかかわらず、多用される印刷記号が読者に読みの過程における内的韻律の形成を阻害しているという点である。たとえば上に引いた「ふたりづれの天使は邑の男たちに(實は!)輪姦されき。といふ傳承」という歌から句読点と記号を除去し、ついでにムリ読みのルビも仮名にしてみる。

 ふたりづれの天使はまちの男たちに實はまはされきといふつたへ

原文と改作とを比較してみれば、改作の方が短歌本来の内的リズムが読んでいて無理なく心の中に流れることがわかる。音楽におけるクレッシェンド記号やフォルテ記号は演奏者のためのものであり、聴衆のためのものではない。短歌の読者は演奏者ではなく聴衆の立場にある。だから演奏指定記号は聴衆の音楽の受容の妨げになるのである。

 また次のような実験的作品を見れば、石井が短歌にたいしてどのようなスタンスを取っているのかがほの見えてくるだろう。本来はルビが振ってあるのだが、技術的理由により再現できないのをご容赦いただきたい

 えいいう えいいう  ぐんしう
 人間は人間を刺す〈人間はただ見る〉いつも〈世界〉は〈舞台〉
 
はいいう はいいう  くわんきやく        〈舞台〉は〈世界〉

最後の「〈世界〉は〈舞台〉」と「〈舞台〉は〈世界〉」は、線路が二股に分岐するように書かれているのだが、これも再現できない。石井がここで試みているのは、観客が同時に俳優となるような多層的な演劇のアナロジーである。単線的な歌の読みに飽きたらず、多層的・多岐的な意味形成を試みているのだ。

 石井は伝統的な短歌のあり方を痛烈に批判し、現代短歌は世界的文脈のなかで考えなくてはならないと説く。その主張はもっともなことである。しかし、短歌形式拡張の可能性を実験する時に石井が用いる手法は、20世紀において現代詩や現代音楽で試みられた手法の借用である。そして現代詩がその試みの果てに吃音的な袋小路状況に陥ったこと、また現代音楽が調生を解体して無調音楽となりいつのまにか溶解したことを見ると、果して石井の試みが豊かな果実を生み出すのかどうか、考え込んでしまうのである。

 最後に本質的な問がひとつ残った。石井は評論の冒頭に必ずと言っていいほど「短歌は一行の詩である」と繰り返している。ほんとうにそうだろうか。私はこの断定の内容に懐疑的である。もっと議論されてしかるべき問題であろう。

193:2007年3月 第3週 池田はるみ
または、数々の仕掛けを施した短歌の玉手箱

あふぎつつ泥濘ゆけば空のまほ
    水のきはかと思(も)ふひかりあり
         池田はるみ『奇譚集』

 かねてより探していた『奇譚集』が古書店より届き、包みを開いて驚いた。何という版型なのか知らないが、縦と横の寸法がほぼ同じで、子供向けの絵本のような厚紙を使った表紙にオレンジ一色の装幀なのだ。短歌の歌集としては破天荒な造本と言ってよい。栞が岡井隆・秋山律子・小池純代の3人の鼎談というのも珍しい。おまけに巻末には皇室系図と古代アジアの地図が添えられており、これまた異色である。

 池田はるみは1948年(昭和23年)生まれ。『奇譚集』に収録された「白日光」で1985年に短歌研究新人賞を受賞している。「未来」会員。『奇譚集』は1991年刊行の第一歌集。異色なのは何も造本だけではなく、収録された短歌もまた他に類を見ない肌合いのものである。現代短歌は、口語短歌の隆盛・ライトヴァースの流行・記号短歌の試みなどを経たあと、ほぼ「何でもアリ」の世界を生きているが、そんななかでも池田に比肩しうるものは見あたらない。TVのグルメ・レポーター彦摩呂のお約束のキメ科白を借用すれば、「短歌の玉手箱やァ~」なのである。そしてこの玉手箱の構造はなかなかに複雑なようだ。たとえば巻頭の「むすび松 有間皇子・囁」と題された連作には次のような歌が並んでいる。

 信号を無視してとばす 地上にも天にもおれを結ぶものなく

 エンジンのいかれたままをぶつとばす赤兄(あかえ)とポルシェのみ知る心

 縊らるる。天より下る皇子といへサンドバッグのやうな重さや

 「大兄のサアセカンドカーのボルトをサアゆるめておいた」と下司のささやき

 有間皇子は父・孝徳帝崩御のあと、政争を避けんがため佯狂の日々を送るも、蘇我赤兄の奸計により捕縛され19歳で刑死した。背後に中大兄皇子の陰謀があったと言われている。有間皇子は尋問されたとき、「天と赤兄と知る。吾もはら知らず」と答えたと伝えられる。そんな古代史の悲劇の主人公である有間皇子が、エンジンのいかれたスポーツカーを疾走させるという設定で歌は作られている。有間が現代の無軌道な若者に置き換えられることで、古代史の悲劇の上に現代的な疾走感・躍動感が塗り重ねられ、そこに重層的な意味の風景が現出していると言ってよかろう。池田の短歌はこのように、本歌取りではないものの、何か下敷きになる歴史上の素材を換骨奪胎して構成されている。弁当箱を開けて中身を食べ切ったら、実は箱は二重底になっていて、底を開いたらまた別の空間がそこにある、といった具合なのである。たとえば歌集前半の「松」シリーズは「中大兄皇子・偲」「間人皇后・瞳」「建内宿禰宜・謀」など、古代史に登場する人物が詠んだ歌という体裁を採っている。第二部の東南亜細亜奇譚は、澁澤龍彦の『高丘親王航海記』を下敷きにしているようだ。また短歌研究新人賞を受賞した「白日光」も、「みづくみのをんなどれいとうまれたるかむなぎわれのひと世かたらむ」と、巫女の語りという体裁を採っている。ただしこれは単に歴史に素材を採った歌というわけではない。また福島泰樹のイタコ風「成り代り短歌」のように、死者に成り代ってその無念を詠うというのでもない。作者の素材の扱い方はもっと複雑で、どちらかと言えば意味の重層性に基づく遊びに近いのではなかろうか。

 このことは『奇譚集』に収録された歌の文体の多様性にも現れている。池田は折口信夫の唯一の女弟子といわれた穂積生萩(なまはぎ)の許で古典を学んでおり、古典の知識と古語を操る能力は抜群なのである。だから作ろうと思えば次のような正統古典調の歌も難なくできるのだ。

 たゆたひて沈みゆく髪 母王は海人ゆゑに水の御言(みこと)持ちてむ

 夏うづき瑞鳥とふがあらはれて垂直に指す うすずみの天

 おとうとの媛よぶこゑの透みとほりくぐもりわらふ夏の夕べに

 夕されば花も眠らむ時待ちて恍と咲きつつあどけなかりき

かと思えば次のような滑稽調の歌も散見される。歯切れのよい口調で、気っ風のよさを感じさせる。

 「むかしかの聖(ひぢり)おはしてうどん好き芸ありうどん鼻にて喰らふ」

 許しますなどといつてはやらせたる超絶技巧めちやめちやに好き

 ローソンに買ひにやつたが最後にてあのぐづをとこ二度と戻らぬ

さらに次のような口語の会話調の歌や、現代風俗を詠み込んだもある。上に引いた「大兄のサア」もこの部類に入る

 なべて世の憂きが好きなの とり分けてをとこの心のにんぴにん風

 おとうとはいつもそうだよ知らぬ間に乗りたがる兄(え)のモーターボート

 六本木踏み鎮めゆくすてつぷは ロックと呼べる後妻(うはなり)がわざ

 このように池田の歌は、古典の素養に裏打ちされながらも、1980年代に展開された現代短歌のさまざまな試みを咀嚼吸収し、それを自在に取り入れた所に成立している。池田の遊び心は所属する「未来」の指導者である岡井隆にまで及ぶのである。

 水中に鳥のあそびをしてゐるはうたびとRyu。そとのぞきたり

 ばら抱いて湯に沈めるもよく見えぬこんこんと夢ねむし眠しよ

 Ryuは「隆」の音読みで、この歌も岡井の本歌のいずれかを下敷きにしているのだろう。二首目は岡井の「薔薇抱いて湯の沈むときあふれたるかなしき音を人知るなゆめ」の換骨奪胎である。それを「よく見えぬ」と言い放つとはなかなかのものだ。池田の歌にしばしば辛辣な批評が込められていることにも注目してよい。

 さて、このように本歌取り・換骨奪胎・古代と現代の重ね合わせ・多彩な文体の駆使などを特色とする池田の短歌だが、ここで問題になるのは池田の〈私〉はいずこにありやということである。池田の短歌が〈私性〉の歌、すなわち自己表現としての近代短歌の枠に入らないことは自明である。この問題につついて栞の鼎談のなかで秋山律子は、「私性とか、岡井さんがおっしゃった近代的な自我と結びつけるのはおもしろくないですね。(…)物語の中に『私』があって、その『私』はなにが起ころうが、なにを言おうがいいという、そういう感じです。(…) そしてその外側に池田さんの『私』がいる」と述べており、おそらく真相はこのあたりが近いと思われる。

 聞くところによると池田の最新歌集は、カバーが二重になっており、それを広げて重ねると風呂敷として使えるのだそうだ。ここに池田のサーヴィス精神の発露がある。足を運んでいただいた以上は、何かお持ち帰りいただかないと申し訳ないというのは大阪人特有のサーヴィス精神である。おそらく『奇譚集』を構成する歌の複雑な入れ子構造もまた、池田の遊び心とサーヴィス精神が作り出したものである。歌集と歌に箱根名物のからくり箱のようなさまざまな仕掛けを施しておく。読者はその仕掛けをひとつひとつ解いてゆくことで楽しむことができる。おおむねこのような事情ではなかろうか。すると池田の〈私〉は複雑に仕掛けを施した歌に対して、俯瞰的位置にいることになる。神は自らの創造した世界の内部にではなく、それを外から眺める外部にいる。神は世界に含まれないのだ。それと同じように、池田の〈私〉は歌の外側にいることになる。だから歌の内部に作者の〈私〉を探しても無駄である。ひょっとするとこれはポストモダンと立場が似ているかもいれない。ポストモダンもその手法は過去の様式の引用とコラージュであり、ポストモダン的〈私〉もまた遊戯する〈私〉だからである。しかしこの連想はいささか先走りすぎだろう。読者は『奇譚集』に池田が仕掛けた数々の謎を楽しめばよいのである。そしてまた集中には次のように心に沁みる歌まであるのだから。

 かがみゆらゆらりとゆれてまぼろしのふるさとそこに桃あることも

 はまぐりのやうなくちづけ あそびとは死にゆく者とこのしづけさに

192:2007年3月 第2週 高橋みずほ
または、縦軸の時間のなかに言葉の奥底を追求する歌

石段の段の高さに刻まれて
 降りてゆきたり手に抱え持ち
      高橋みずほ『フルヘッヘンド』

 『フルヘッヘンド』は2006年に上梓された高橋みずほの第二歌集である。歌集題名の「フルヘッヘンド」はふつうの人には、セパタクロー(タイの球技)とかナーベラーヌプシー(沖縄のヘチマの煮物)などと同じように意味不明の単語である。あとがきに種明かしがあり、杉田玄白らが翻訳した『ターヘル・ナトミア』(解体新書)で語義推定に苦労したオランダ語であることがわかる。「堆(ウヅタカシ」すわわち「盛り上がり」という意味で、この「フルヘッヘンド」なる語を歌集題名に選んだことからも、作者の高橋がいかに「意味の病」から自由であるかがわかる。

 高橋は1954年(昭和32年)生まれ。加藤克巳の「個性」で作歌を学び、2002年に今井恵子吉野裕之と歌誌『BLEND』を創刊。第一歌集『凸』(1994)と、セレクション歌人『高橋みずほ集』(邑書林)がある。『フルヘッヘンド』には親交のある美術評論家の針生一郎が栞文を寄せているが、栞全部が一人の文章というのも珍しい。おまけに針生は文章を書くのに苦吟しているのである。私ももし、あらかじめセレクション歌人『高橋みずほ集』で第一歌集『凸』を読んでいなかったら、途方に暮れたにちがいない。なにしろ『フルヘッヘンド』には次のような歌が並んでいるのである。

 細道は細道へとぶつかっていずれ線路に合う形する

 裏口を開け放した蕎麦屋に動く指あり一列の卵

 確かに現れるエスカレーター人もち上げる高さがありて

 店なかに服吊られ店なかに靴が積まれて川端長屋

 青栗の毬のなかへと霧雨がおちてゆく子のつまさきの

 どの歌も定型からいくらか外れており、起承転結がはっきりしない。歌を構成する言葉のどのレベルで受け止めればよいのかわからず、途方に暮れるのである。しかし第一歌集『凸』を読んだ目で『フルヘッヘンド』を読むと、作者の重心の移動を感じることでわかってくることがある。立ち位置が変化したことで、どのような場所に立っていたか、そして今どのような場所に立とうとしているかを計測することができるからである。『凸』から歌を引いてみよう。

 咲きかけの隙間に入りたる夏風の形となりて花びらの立つ

 樹にあたる風を散らす葉の揺れを集めて幹の伸びてゆく先

 電線が埋め込まれてしまう街空の刻み 放たれてゆく

 そがれつつ風はサッシの隙間から人工音に変えられてくる

 壁の線横に流れるものだけが速度のなかで消されずにある

 壁かけを外したあとの薄汚れ取り残したる鋲にとめられ

 坂道の半ばの墓場からきざまれている海がみえる

 セレクション歌人『高橋みずほ集』には、谷岡亜紀が周到な評論を寄稿している。谷岡は、高橋の歌に字足らずの破調が多いことに着目し、一回性の文体で現実を掬いとろうとしており、その根幹は視覚を中心とする感覚的表現であるとする。また高橋の歌は認識の歌であり、その多くは時間認識に関係し、きわめて方法論的意識のもとで作歌されていると結論づけている。高橋の短歌の本質を剔抉した明解な論旨である。基本的に谷岡の分析に賛同しつつ、変奏を加えることで高橋の短歌の立ち位置を考えてみよう。

 高橋の短歌が時間認識に重点を置いていることを明らかにする手掛かりがふたつある。ひとつは動詞の多さと、起動相の述語の多さである。たとえば上に挙げた2首目「樹にあたる」を見ると、「あたる」「散らす」「集める」「伸びてゆく」と1首のなかに4つも動詞がある。一般に作歌心得として1首に動詞はせいぜい3つまでと言われており、その心得に照らせば動詞過剰の歌である。動詞は「出来事」を表し、出来事は時間の中で生起する。だから動詞は歌の中に時間の流れを作り出す。高橋が動詞を多用する理由はここにある。また起動相(inchoative)とは、「~しはじめる」という動作・状態の開始を表すアスペクト表現をいう。3首目の「放たれてゆく」と4首目の「変えられてくる」の「ゆく」「くる」という複合動詞語尾がそれである。これらの動詞語尾は「変化」と「推移」を表す。もう少し歌語的に表現すれば、「移ろい」と「過ぎゆき」を表すと言ってもよい。いずれも時間の流れを前景化するものであることは言うまでもない。しかし、「Aの次にBが起きる」とか「AだったものがBになる」という時間推移は、出来事レベルの時間である。高橋はこれを事柄の展開に関わる「横軸の時間」と呼んでおり、高橋がめざす時間にはもう一つあることは後述する。

 次に谷岡が指摘する感覚的表現という点だが、これは師の加藤克巳にその深源があると見てよかろう。

 ざくろの不逞な開口 沈黙の白磁の皿にのけぞっている 『球体』

 あかときの雪の中にて 石 割 れ た

 西洋のさまざまな芸術運動に深い関心を示し、短歌においてそれを表現しようとしたモダニストの加藤の短歌においても視覚の優位は紛れもない。情景を説明的に描写するのではなく、むしろ表現を削ぎ落すことで感覚的印象をざっくりと定着しようとするその手法は、吃音的で前衛俳句に近づくことがある。上に引用した高橋の歌でも、「坂道の半ばの墓場からきざまれている海がみえる」などは前衛俳句の香りがする。

 このような手法から帰結する特徴として、上句と下句の照応の不在と、それと深く相関する表面上の〈私〉の不在を指摘することができる。永田和宏が「問と答の合わせ鏡」と呼んだように、伝統的な短歌においては上句=問に下句=答が応答する (またはその逆)という照応関係、あるいは上句=叙景に下句=抒情 (またはその逆)という応答において一首の完結性を担保し、その照応関係の結節点として抒情の主座たる〈私〉を浮上させるという構造があった。ところが高橋の短歌においては、たとえば「不確かに寄せる力というがまな板の豆腐のゆがみの線にある」(『凸』)を例に取ると、頭から一気に読み下す形になっており、上句と下句の照応という構造がない。そのため照応関係を支える結節点としての〈私〉もまた表面上は見えなくなっている。高橋の短歌は、読者が作者の〈私〉の位置に想像上身を置くことで得られる安易な感情移入を峻拒するのである。

 空間に線を引きつつ遠景をなお遠ざけて雨の町

 暮れた空金槌音はとまらずに木を組みつつ空間を割る

 空間認識をテーマとする歌を2首引いた。これらの歌からも明らかなように、高橋の歌に登場する景物は作者の内的感情の相関物(もしくは象徴)ではまったくない。そのようなレベルに歌意を汲み取るダイアルの波長を合わせても、聞こえてくるのは空電のみである。唐突な連想だが、高橋はきっとモンドリアンの絵が好きなのではないか。空間分割と色面の配置から成り立つ構成主義的なモンドリアンの絵は高橋の短歌と共通点があるように思う。

 では高橋の短歌は何をめざしているのか。「縦軸の時間」と題された散文(初出『BLEND』No.5)において、高橋は子規と牧水の短歌を素材として、事柄の展開を追う「横軸の時間」とは異なるもうひとつの「縦軸の時間」の存在を指摘している。

 つるむ小鳥うれたる蜜柑おち葉の栴檀家をめぐりて夕陽してあり 牧水

 「つるむ小鳥」「うれたる蜜柑」「おち葉の栴檀」ひとつひとつに焦点を当てることで時が生まれ、それは言葉の奥に畳まれている時間だという。韻文はこの縦軸に生まれる時間のなかで育まれるものであり、事柄主義的理解によって言葉の襞に畳み込まれた時空間を見落としてはならないと高橋は説く。高橋の言わんとするところを十分に理解しているかどうか心もとないのだが、私の理解したのは次のようなことである。私たちの日常言語や散文の言語の目的は意味の伝達にあり、そこで重要なのは「AだからBだ」という論理関係と、「Aが起こりBが起きた」という出来事の継起関係である。これが「横軸の時間」である。水平方向に時間軸がイメージされているので、時間の進行する方向が横軸になる。横軸の時間は論理と説明の支配する領域である。これに対して時間軸に垂直に交わる縦軸の時間とは、いわば言葉の内部に重層的に降り積もったイメージの集積体である。たとえば「桜散る」を例に取ると、「風が吹いたから桜が散る」という因果関係の説明や、「桜が散るから私は悲しい」という感情表現へと移行することなく、「桜散る」という単体の表現それ自体の奥に仕舞われているイメージということになる。それを事柄主義的な理解に回収するのではなく、それ自体として歌のなかにひっそりと置く、これが高橋のめざしていることではないだろうか。栞文を書いた針生が呻吟の末に、『凸』の認識論から『フルヘッヘンド』の存在論へという図式を描いて見せたのも、このような事情と無縁ではなかろう。事柄の連鎖へと回収されずにそのものとして有るというあり方は、確かに存在論的色彩を帯びるからである。

 冬木立空に向かいて手を放つ ままに途切れた  『フルヘッヘンド』

 竜の描かれてある襦袢の藍の深みは裾元薄れ

 まな板に死にて目をむく魚の遠い海色透きて鱗

 これらの歌では意図的に短歌の韻律をずらし、字足らずの破調を形式として選択しているが、これもまた言葉が事柄の連鎖へと回収されるのを阻害し、言葉がそれ自体の奥から輝くことを願ってのことと考えられる。

 もしこのような読みが的を射ているとするならば、高橋のめざす道はなかなか険しいものと言わなくてはなるまい。針生も栞文のなかで「作者の意図や方法論がわかったということと、作品に魅惑されるということのあいだには、大きな距離があってその距離に苦しんでいる」と述懐している。高橋の短歌は読む人に高度な読みを要求する。その意味で読む人を選ぶと言えるかもしれない。しかしそれもまた歌人の選択であることは言うまでもない。

高橋みずほのホームページ 蓑虫の揺れ 

191:2007年3月 第1週 辺見じゅん
または、歴史のほの暗い闇から立ち上がる血族の歌

花々に
眼のある夜を晩年の
父あらはれて
川渉りゆく
    辺見じゅん『闇の祝祭』

 短歌を多行書きにする場合、縦書きだとよいのだが、横書きにするとどうも様にならない。インターネット上のホームページの制約ゆえご勘弁いただきたい。『闇の祝祭』は1頁2首、すべて多行書きという異色の歌集である。ただし掲出歌のように、初句、2・3句、4句、結句と4行になっているものと、上句・下句の2行書きとが混在している。ブックデザインはかの菊池信義。「造本全体に配慮をいただいた」とあとがきにあるので、おそらくは対角線を基本とした歌の配置も助言によるものだろう。贅沢な造りの歌集である。

 「花々に眼のある夜」とは、オディロン・ルドンばりの幻想的風景で、その高い幻視性ゆえに現実ならざる世界へと誘う入り口となる。「晩年の父」は角川書店の創業者角川源義(げんよし)。父の後を襲って角川書店社長になった角川春樹は実弟。源義は折口信夫の弟子で『河』を主宰する俳人であった。辺見は第3歌集である『闇の祝祭』で現代短歌女流賞を受賞しており、歌集以外にも最近映画化された『男たちの大和』(新田次郎文学賞)などの多くの著書がある。

 辺見の歌の特徴として誰もが挙げるのは、父親の色濃い影である。たとえば次のような歌が並んでいる。

 炎天の野の駅はるかパナマ帽/若き父なれ清きまぼろし

 この夕べ/ふるき頁に書き込みの/朱は父なりき創(きず)のごとしも

 死のきはも馬兵なりしよ日盛りに/父のたてがみ濡れて光るも

 かなかなの啼くゆふまぐれちちのみの/父に手紙を書きてゐたるも

 書き沈む父の背中に沼ありて/この世あの世の万燈会かな

思慕の念溢れる父恋いの歌であり、幻想の父親は常に懐かしい姿として現われている。源義と春樹のあいだには父子の確執があったようだが、娘であった辺見には父は異なる姿で映っていたようである。辺見の歌の根底には、血族の血と故郷という人間にとって根源的な要素が色濃く流れていて、それが歌の色彩を決定している。

 わが頬の/あたりに痣のかがよふは/母よ夜火事をとほく見しかや

 おとうとの/地図降りこめて父なるは/標的なりや/戦ぎあるべし

 樹木より耳さとくしておとうとの/眩しきかぎり母といふ海

 蒼穹のこの地に五月晴るる日を/いもうとの逝くはただに明るし

 おとうとよ/旅にしあればかぎりなく/眠れる額の蒼くかがよへ

 血族を詠んだ歌を拾ってみた。辺見に母を詠んだ歌は少なく、父親の圧倒的影響下に育ったことを伺わせる。1首目は集中に少ない母の歌。2首目と3首目は弟の春樹を詠んだ歌だが、姉の目から見ても弟と父との確執は明らかだったようだ。弟に注ぐ眼差しは暖かい。4首目はおそらく自死した異母妹を詠んだ歌。このように辺見の歌の根底には、血のほの暗い色が流れているのである。それは戦後民主主義の明るい近代とは異なる肌合いであり、民俗学的素養を武器に自らの血の根源へと遡行しようとする辺見の態度は、反近代主義と呼んでもよいだろう。辺見の父方の故郷は富山で、故郷の伝統と祭に題材を得た歌も多い。

 ふるさとの古井に水の動かねば/祖母の小櫛のくらきくれなゐ

 越後路は雪のまほろばはろばろと/わが形代のとほき夕映え

 一脈の血のくらがりにさざめくは/夜の谷間の山櫻かな

 いづくにか牲の祭りの桃実り/河口に近き空燃えてをり

 水音の闇ほどきゆく坂町に/風の祭りのはててゆきけり

 雪ふれば秘色のやうなとんど火に/異類の妻のみごもりてゐる

これらの歌に登場する「古井」「櫛」「形代」「山櫻」「桃」などの語彙のどれをとっても、呪的意味をたっぷりと帯びており、私たちが生きている現代とすでに忘れ去られた古代的世界とのあいだの転轍器として作用する。

 しかし何といっても辺見の歌が暗い磁力を帯びるのは、死者を詠った歌においてである。3首目や4首目は、『レクイエム・太平洋戦争』などの著書のある辺見が、南洋に散った学徒兵に寄せる鎮魂歌である。

 花終へしみどりをぐらき物の根に/逝きたる者らささめきやまず

 みんなみに骨洗ふをみな並びゐて/陰(ほと)のくらきにしろく月射す

 手つなぎの学徒兵きみは還らざりし/夕づつの邑あをくつゆけき

 みんなみのニューブリテン島の螢の樹/遺書に記して二十一歳なりき

 ひとすぢの/水のくらきを離れきて/いのちの嵩の/朴のしら花

 たましひの遊びすぎたる夜の明けを/螢火うすく草に濡れゐつ

私たちは命によって過去の死者とつらなるという意味において、命を詠うことと死を詠うことは同じことである。短歌は相聞と挽歌において魂を揺さぶる力をフルに発揮すると言われているが、辺見のこれらの歌を読むとそれが一際重く実感されてくる。そして、そのことは短歌という歴史の重みを背負った短詩形式の奥深い所に根差すのではないかと思えてならない。

190:2007年2月 第4週 本多忠義
または、意味の陰圧により外部へとつながる歌

この世には善はないって言い切った
     きみの口からこぼれるアイス
          本多忠義『禁忌色』

 「禁忌色」という単語は広辞苑に採用されていないが、一般にはふたつの意味で使われているようだ。ひとつは美術の分野で「混ぜ合わせると濁った汚い色になるので避けるべき色の組み合わせ」という意味で、もうひとつは古代に身分の高い人だけが身につけることができ、身分の低い人には禁じられていた衣服の色という意味である。後者は「禁色」として辞書に収録され、三島由紀夫の小説の題名にもなった。本多忠義の歌集の題名は、「泣きながら夢を見ていたあの空が混ぜてはいけない色に変わって」という歌があるので、前者の意味で使われているのだろう。「禁忌」とはタブーのことであり、「犯してはならないもの」「触れてはならないもの」である。その根底には「畏れ」の感覚が横たわっている。本多の歌集にもまた畏れの感覚が溢れているが、それはおそらく生への畏れなのだろう。

 本多忠義は1974年 (昭和49年) 生まれで歌誌「かばん」に所属している。養護学校の教員をしている人だという。もともと詩を書いていた人らしく、二冊の詩集があるようだ。『禁忌色』は2005年に刊行された本多の第一歌集で、解説を「かばん」の先輩である東直子が書いている。「かばん」は「詩歌」に所属していた中山明らが、前田透の突然の事故死により「詩歌」が解散した後に創刊した同人誌である。前田夕暮・前田透の系譜を引くので、もともと口語律・自由律に親和性がある。そんな「かばん」に拠る本多の短歌は定型の枠は守っているが、ほぼ完全な口語短歌となっている。

 冬が来る前にいつかの坂道であなたに触れて僕は壊れた

 ありふれた激しい雨に邪魔されて口笛はまた「レミ」でかすれる

 何色の雲なのだろう夕暮れに遠く泣きだす声が聞こえる

 ブランコもうんていも同じ水色に塗り直されている夏休み

 標的を外れた孤独な弾丸が行くあてもなく刻む夕凪

 もう二度と子供の産めない君を抱く世界は思ったよりも静かで

 花びらが何枚あるか数えてるきみに解(ほど)かれてゆく春の日

 本多の描く歌の世界は静かな喪失感に満ちている。一首目の結句の「壊れた」が象徴する世界がどこかで壊れてゆく感覚、二首目の初句「ありふれた」が物語る世界のフラット感、四首目の「水色」が志向する透明で純粋なものへの希求、こういったものが会話調に接近する口語脈に載せて詠われている。この喪失感やフラット感覚は、90年代以降に短歌シーンに登場した若い作者に共通して見られる。この感覚は口語脈にとても載りやすく、逆に文語脈では表現しにくい。現代の口語短歌において静かな喪失感やフラット感覚が詠われることが多いのは、団塊ジュニア世代以降の人たちのあいだでこのような感覚が共有されているという世代論的背景もあるだろうが、口語脈の選択という方法論による部分もあるのではないだろうか。

 本多の短歌をきっかけに口語短歌の問題を考えてみたい。「口語の短歌はどこか間延びしたものになりがちだが、その弊を免れる方法の一つに〈ねぢれ〉の導入があるだらう。ねぢれは、言葉の組織にアクセントを与へる有効な破格表現である」と高野公彦は述べている (『うたの前線』)。この言葉を引用した加藤治郎は、「こでまりをゆさゆさ咲かす部屋だからソファにスカートあふれさせておく」という江戸雪の歌を引いて、この歌が醸し出す柔らかいエロスは「あふれさせておく」という微妙な修辞にあり、高野の言うねぢれというよりゆるやかな撓みだとした(『短歌レトリック入門』)。「ねぢれ」や「アクセント」や「撓み」は、自然な言葉の流れを塞き止めて方向を変える修辞を様々に表現したものである。

 31音の定型詩である短歌において韻律を重んじるならば文語に軍配が上がる。おなじ「背」でも「せ」「せな」「そびら」と複数の読みが可能で韻律に載せやすい。音数調整が自在にできるからである。また現代語の大きな欠点は文末表現の乏しさで、下手をすると「学校へ行った」「弁当を食べた」のように「~た」が連続する小学生のような文章になってしまう。その点、文語には「き」「けり」「ぬ」など1音節か2音節の助動詞が豊富にあり、文末終止の多彩さにおいても現代語より優れている。したがって韻律を重視し凝集力のある歌をめざすのなら、どうしても文語脈を選択することになる。高野が「口語の短歌はどこか間延びしたものになりがちだ」と述べたのは、このような事情をさしている。それゆえ口語脈を選ぶならば、一首が屹立するような凝集力のある歌ではなく、フラットに歌の外部へとつながっているような余白感のある歌をめざすことになるのは当然の成り行きなのである。

 魚(うを)食めば魚の墓なるひとの身か手向くるごとくくちづけにけり  水原紫苑

 もういくの、もういくのってきいている縮んだ海に椅子をうかべて  東 直子

 一例を挙げたが、一首の独立性では抜きんでている水原の歌と並べてみれば、東の口語脈の歌は意味的欠落は明白だろう。「もういくのってきいている」のが誰であるのか、誰が「もういく」のかは語られないまま余白へと落ちてゆく。また「縮んだ海」が何かの喩であるとしても、それを解明する鍵は隠されている。どこからともなく声が聞こえて来て、それがある情感を醸し出している、そのような作りになっているのである。このような作り方は、修辞的には「意味の陰圧」の技法によっていると言えるだろう。「陰圧」とは、密閉された容器の外部より内部の圧力が低い状態をいう。内圧の低さが圧力が補填されることを求める吸引装置となり、容器に小さな穴があいたら外部から空気が流れ込むのである。東の歌に見られる意味の空白感覚はこのようにして生まれる。本多の歌にも同じような意味の陰圧が観察される。

 ポケットで震えはじめる携帯が教える後戻りはできないって

 真夜中のチェーン着脱場でしか取り交わせない約束がある 

 1首目の「後戻りはできない」がいったいどのような状況をさすのか不明であり、また「真夜中のチェーン着脱場でしか取り交わせない約束」もある切迫した感じは伝わるものの、その内実は語られていない。読者は「ある感じ」を心に抱いたまま取り残される。このような歌の作り方は、本多がもともと詩を書いていたことと関係があるかもしれない。詩はふつう一行で完結するものではなく、多くの行がまとまってひとつの詩編となる。本多の歌を読んでいると、より大きな詩のなかから一行を切り取って来たようにも見えるのである。このような歌の作り方が口語短歌を豊かにするものなのか、それとも逆の効果をもたらすものなのかはにわかに決めがたい。しかし伝統的な文語脈の短歌の根幹であった内的韻律を解体する方向に向かうことだけは確かだろう。