第54回 『現代詩手帖』特集「短詩型文学新時代」

 『現代詩手帖』6月号が「短詩型新時代 詩はどこに向かうのか」という意欲的な特集を組んでいる。黒瀬珂瀾編の「ゼロ年代の短歌100選」と高柳克弘編の「ゼロ年代の俳句100選」も掲載されており、ここ10年の短歌界と俳句界を俯瞰するのに好適なアンソロジーとなっている。また岡井隆・松浦寿輝・小澤實・穂村弘の座談会、城戸朱理・黒瀬珂瀾・高柳克弘の鼎談、平田俊子・穂村弘の対談という豪華なラインナップに加え、多くの若手歌人・俳人・詩人の論考とエッセーが収録されており、読み応え十分な内容である。
 現代詩では短歌・俳句を短詩型文学と捉えて領域横断的に俯瞰することで、詩に活力を取り戻そうという動きがある。現代詩は自由詩で形式の約束事がなく、一方短歌・俳句は伝統的定型詩というちがいがあるので、ポエジーを発生させる回路が異なり、そこが詩の拡大につながるのだろう。また詩人のなかには俳句を作る人がけっこういて、清水昶のように本格的な句集を持つ人もいる。最初の出発点は新聞俳句の投稿だったという人も多い。今回現代詩の側からの提案でゼロ年代の短歌と俳句を俯瞰する試みが行われたのはおもしろいことである。短歌の側からの提案で同様の試みができないのだろうか。座談会で岡井は短歌界と現代詩の交流がほとんどないことを嘆いている。
 ゼロ年代はおそらく最初は批評の世界で使われ始めた用語で、2000年から2010年を指す。新世紀を迎えた2001年に9.11同時多発テロが起きたことは象徴的で、世界はグローバル化と液状化とが同時進行しているようにも見える。この10年間に作られた短歌と俳句にはそれがどのように反映されているだろうか。
 黒瀬は、戦後の第二芸術論を乗り越えるために提唱された土屋文明の「生活即短歌」と近藤芳美の「今日有用の歌」というアララギ戦略と、これに対抗する前衛短歌という流れがあり、それを引き継いで行く形で修辞の変革が起きたというのが昭和30年代から60年代までの様相だとまとめた後に、肯定するにせよ否定するにせよ共有されていたそのような戦後短歌の価値観が分散してきたのがゼロ年代の特徴だとしている。つまり戦後短歌のテーゼが共有されていた時代から一歩違う位相に突入したということである。このような認識を踏まえて黒瀬はゼロ年代を過渡期と捉え、新旧の価値観が併存していることを示すように選歌したという。発表年代順に並べられた100首の短歌は、確かに作者の年齢層もばらばらで、伝統的な文語定型もあれば完全口語の歌もある。
たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔
                 飯田有子『林檎貫通式』01年1月
おそらくはつひに視ざらむみづからの骨ありて「涙骨オス・ラクリマーレ」                      塚本邦雄『約翰傳偽書』01年3月
目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき
        穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し〈ウサギ連れ〉』01年7月
神はいづこぞ晴れわたりたる海境にちかちかと千の針降りやまず
                雨宮雅子『昼顔の譜』02年7月
 最初期から何首かを引いた。これだけでも歌姿の多様性に頭がくらくらするほどである。完全口語の飯田の歌、前衛短歌の技法をほとんど留めない塚本の歌、加藤治郎が「短歌の死」と形容した穂村の話題作、これぞ伝統定型という雨宮の歌。こうして並べてみると、互いにほとんど接点がないようにすら見える。一首一首は読んだことのある歌でも、10年間という切り口で年代順に並べることで初めて見えて来る歌の風景というものがある。その意味で興味尽きないアンソロジーと言えるだろう。
 同時に100首に選ばれた作者のなかに物故者が多いことにもいやおうなしに気づく。斎藤史、塚本邦雄、上野久雄、高瀬一誌、春日井建、前登志夫、中澤系、近藤芳美、笹井宏之、竹山広、森岡貞香らはこの10年間に亡くなっている。このうち中澤系と笹井宏之は若くして亡くなっているが、他は名実ともに戦後短歌の担い手であった人たちである。世代交代が進んだことで、戦後短歌という認識が薄れたと黒瀬が言うのもうなずける。
 短歌界の混迷と対比的に驚かされるのは、俳句界の盛況ぶりである。「ゼロ年代の俳句100選」の選句を担当した高柳克弘は、先頃句集『未踏』で第一回田中裕明賞を受賞している。この賞は惜しまれつつ2004年に45歳の若さで他界した田中裕明を顕彰するために創設された賞であり、清新な高柳の句集はまことに第一回受賞にふさわしい。高柳の選句は今の俳句界の全体的傾向を表しているわけではないが、形式の可能性を拡大した句、つまり従来の表現史に新しいものを付け加えたものを意識して選んだと述べている。
《蝶来タレリ! 》韃靼ノ兵ドヨメキヌ  辻征夫『貨物船句集』
わたくしに烏柄杓はまかせておいて     飯田晴子『平日』
揚雲雀空のまん中ここよここ     正木ゆう子『静かな水』
にはとりの血は虎杖に飛びしまま      中原道夫『不覺』
気絶して千年氷る鯨かな    富田拓也『青空を欺くために雨は降る』
台風がいすわるウィトゲンシュタインも  坪内稔典『水のかたまり』
 一見してベテランも若手も新しい俳句表現に挑戦していることがわかる。その多彩さは混迷からはほど遠く、読んでいて楽しい限りである。城戸朱理と黒瀬珂瀾との鼎談で高柳は、自分の上の世代は伝統的な結社中心で、下の世代は俳句甲子園出身が多く結社とは離れた所で句作しており、自分はその裂け目を繋ぎたいと抱負を述べている。また自分はあくまで俳句の表現史というものを意識したいと続けている。「表現史を意識する」とは、それまでの表現技法をただ踏襲するのではなく、また歴史性をまったく無視してゼロから始めるのでもなく、歴史性を踏まえた上で自分がそれに何を付け加えることができるかを考えるということである。何という健全でまっとうな態度だろうか。俳句の将来は明るい。若手を中心とした論考とエッセーでも、歌人に較べて俳人の方が表現に踏み込んだ文章を書いている。ここでもどうも短歌の方が劣勢なのだ。奮起してもらいたいものである。
 俳人のエッセーで特におもしろかったのは、1969年生まれの関悦史の「現代詩読者から俳句作者への漸進的横滑り」だった。最初は現代詩を作り短歌も作ったことがある関は、最終的に詩と短歌を放棄して俳句のみを作るようになったという。その理由として関は次のような俳句特有の生理を挙げている。
「俳句は自由詩に比べ、世界とむき出しで対峙せずに済ませることも容易に出来る。結社や師弟といった制度を引きずり、前近代的技芸の枠に引きこもれるからばかりではない。説話論的持続を最低限に減殺し、断裂・飛躍を呼び込む形式自体に『世界対私』という枠組みを明るみへと溶融させる契機があるからである。それを初心者向け教育法に仕立てたのが高濱虚子の『花鳥諷詠・客観写生』で、これはいわば出来合いの自我・感情を去勢・無頭化した上で詠み手の真の主体を『花鳥』の擬似世界へと開かせるカリキュラムである。わずかな例外を除いて詩人・小説家の俳句が陳腐なのはこれに相当する手続きを怠り、既成の自我にじかに語らせた『短い短歌』にしてしまうからだ。(…)大我なり他界なりへと主体が開けていれば良い。自我が直接対決しないことがそのまま世界への向かい合いとなり得る回路もこの形式にはおそらくある」
 さすがは第11回俳句界評論賞を受賞した論客である。用語・概念の自分への引き寄せ方の強引さに説得力がある。上の文章で関は、短歌が基本的に私語りであるのに対して、俳句は出来合いの自我をいったんカッコに入れた上で、花鳥の擬似世界へと開く回路を用意しているという。関の言う花鳥の擬似世界とは、永田和宏が短歌創作における「虚数世界」と呼んだものとおそらくは同じものである(『表現の吃水』所収「虚数軸について」)。だとすれば短歌もベタな私語りであるはずもなく、新たな〈私〉への回路をその形式の裡に秘めているはずである。しかし関も言うように、短歌においてそれをなし続けるためには「作者の側に断固たる世界観とそれをリアライズする修辞を組織し続ける執念が必要」だというのもまた、認めなくてはならない事実だろう。短歌と俳句とはそのあたりの生理が異なるということか。
 インターネット上では俳句批評のホームページやブログが花盛りだそうである。短歌はそれほどでもない。どうも俳句の方が隆盛を迎えているらしい。これから少し俳句に目を向けてみようと思いつつ、短歌も負けないようにがんばってほしいと、短歌応援団の読者としては考えてしまうのである。

第53回 一ノ関忠人『帰路』

わが居間の鏡にむかひひとり踊る狂へるにあらず狂はざるため
                 一ノ関忠人『帰路』
 時刻は家人の寝静まった深夜だろう。居間の鏡に向かって一人踊る。狂人のごとき振る舞いに見えるが、そうではなく自分を狂気から守るためだという。作者は重病に罹り、いつ終わるとも知れぬ療養生活を余儀なくされている。絶望したり自暴自棄になる時もあろう。そんな時に自らを押し止めるために鏡に向かって踊る踊りは、さぞやひょうげたものにちがいない。集中屈指の鬼気迫る歌である。
 一ノ関忠人は國學院大學に学び岡野弘彦に師事した歌人。『帰路』(2008年 北冬舎)は、『群鳥』『べしみ』に続く第三歌集である。後記によれば、一ノ関は2005年9月に悪性リンパ腫を発症、突然入院を命じられ長い療養生活を送ることになる。『帰路』はこの療養生活のあいだに作られた作品をまとめたものである。題名の『帰路』は、「此ノ生ノ帰路愈茫然タリ」という蘇東坡の詩から取られたもの。いつまでも往路と信じていたら、もう帰路を歩いていたという思いが籠められている。
 療養と短歌といえばすぐに子規が頭に浮かぶが、一ノ関もそのことを意識していて、次のような歌を作っている。
わが病牀六尺の歌頭髪の脱毛始まれば笑ふほかなし
一畳ほどのベッドがわれの栖なりおとろへたれどわれ此処にあり
病牀六尺こそ我が世界のすべてという境遇に心ならずも置かれた作者にとって、歌の持つ意味を改めて噛み締めた日々だったにちがいない。本書には短歌以外に、長歌と独吟による連歌に加え、幼い娘に読み聞かせたと覚しき童話風の散文詩も収録されている。
 一ノ関はもともと万葉集以来の和歌の伝統を踏まえた古格漂う歌を作る歌人だが、悪性リンパ腫という命に関わる病を得たことにより、自分と歌の距離がさらに縮まったのではないかと思われる。「死と短歌は不可分のもの」という短歌観を持つ作者なので、にわかに死が身近に迫るものとして意識されることで、〈私〉と歌が不即不離の関係に立つことになったのであろう。自ら望んだことではないものの、そこに反復することのかなわぬ生の一回性が濃厚に漂うことになったのは事実である。そのような地平から立ち上がる歌はことごとく絶唱である。
右脇よりドレインに抜ける濁り水わが胸に棲む夕やけの色
断崖に立つはわれなり覗き込む淵は色なくぞつと寂しき
点滴の針より落つるひとしづくふたしづく命の水のごとしも
内視鏡に胃の腑さぐられゑづくなりわが秘めしものあばかれゆかむ
やがてこの髪も抜け険しき表情にわが笑むときは子よ近づくな
 病を得たやり場のない怒り、療養の淋しさ、絶望感などを盛る器として、文語定型の持つ力を感じさせる作品である。内なる深淵を覗き込むような歌とならんで、病床からわずかに見える風景を詠んだ歌もある。
きのふよりけふ稲の穂の重く垂れ刈りしほ近し窓に見てをり
新館の屋上に二羽のセキレイが秋の日を浴びきらめきて見ゆ
ベランダの小さき水盤に雀二羽あたり窺ひしばしして去る
やがて太りゆく月しろもなほ寒き姿に青き空わたりをり
杖つきて立ち止まりあふぐ青き空いつもの時間に飛ぶ一機見ゆ
 いずれも情景を素直に詠んだ写実的短歌であり、作者の病気を思わせるような語句は一切ない。にもかかわらずこれらの歌が集中に置かれたとき、心に染み入るような重い意味を持つのはどうしてだろうか。一首目の「きのふよりけふ」により、作者は毎日窓外の稲田を見つめていることがわかる。五首目の「いつもの時間」も作者が毎日同じ空を見ていることを示している。これらはすべて作者が同じ場に縛られていることを暗示する。二首目のセキレイと三首目の雀の歌もまた、作者が狭い空間に縛られていることを表すと言ってよい。たとえふだんから見慣れた光景であっても、自由を制限された境遇から改めて眺めると、そこに自ずから自由への希求の念が込められるのだろう。しかしこれらの短歌の読みが提起するものはそれだけではないようだ。
 『現代短歌の全景 男たちの歌』(1995年 河出書房新社)の座談会で、小池光が「おもむろに夜は明けゆきて阿蘇山にのぼる煙を見ればしづけき」という歌を引いて、このような歌がポンと出されたとき、どのような読みが成立するかと問いかけている。歌意は明らかで歌そのものの中に意味はありそうで実はない。作者の伊藤保が19歳でハンセン病療養所に入所した最初の夜に作った歌だという背景に置かれたとき、全然違う歌が出て来る。それが短歌の内部構造だと小池は言う。何かを受けて返すという構造が短歌の内部論理であり、何かとの落差で詩型が成り立っていると小池は続けている。
 これは長歌に対する反歌として和歌が成立したという歴史的経緯にその深源を求めるべきかもしれない。伊藤の歌の場合、受けるのは自らが置かれた境涯であり、返された歌の写実的風景は受けたものを地とすることで、初めて図として成立するということになろう。上に引いた一ノ関の写実的な歌が、描かれた風景を超えて何かの意味を放射するものとして読むことができるのも、小池の言う「受けて返す」という詩型の構造が発揮されているからと考えられる。
 療養生活でのささやかな喜びを詠んだ歌もまた同じ構造に基づくことは言うまでもない。
アンパンの臍噛みなにかうれしくて妻と語りぬ冬の夜の部屋
心地よくわれは聞くなりコトワザのたぐひ唱ふる子の声のリズム
賜はるはぶんたん表皮の黄色の輝り春よ早く来よ飛ぶやうに来よ
ふつうアンパンの臍を噛んで喜ぶようなことはしない。そんなことが嬉しいのは病気という境遇に置かれているからである。短歌や俳句のような短詩型はその短さゆえに、大きなことを詠みづらく小さなことに向いている。小さなことの喜びが十全に歌われた歌である。
 歌集最初の章は「2005/9/17」と病気の告知を受けた日付のみから成り、作者にとってのこの事実の重みを物語っている。『群鳥』で挽歌に冴えを見せた作者は、本歌集で療養歌に新境地を開いたと言ってよい。一日も早い快癒を願うばかりである。

第52回 尾崎まゆみ『明媚な闇』

うちがはにこもるいのちの水の色の青条揚羽みづにひららく
               尾崎まゆみ『明媚な闇』
 アオスジアゲハは羽全体が黒で、その中央に鮮やかなパステルカラーの青緑色の帯をまとっている。掲出歌はその帯の色を体内の水の色と見立てて表現した。「ひららく」は古語でひりひり痛いの意。羽を打ち飛ぶ様を、体内に抱える水に痛い思いをしていると見立てたものと読む。「ひららく」には蝶がひらひらと舞い飛ぶイメージが重ねられている。「うちがはにこもるいのちの水の色の」までは青条揚羽を導く序詞で、その調子も古典的で今様を思わせるゆったりとしたリズム感がある。三句六音の破調も手伝って、短歌定型の様式性が強く感じられる歌となっている。
 『明媚な闇』は昨年(2009年)末に上梓された尾崎の第五歌集。尾崎については本コラム「橄欖追放」の前身の「今週の短歌」で2003年7月に取り上げている。2005年に塚本邦雄が泉下の人となってからは、尾崎は魚村晋太郎林和清と並んで玲瓏の中心的歌人として活躍している。『明媚な闇』は「短歌研究」に連載した短歌を中心に、ほぼ編年体で構成された歌集である。
 あとがきに書かれているように、この歌集は作者の居住する神戸とその前に広がる瀬戸内の海を主要なテーマとしており、主題性が濃厚に感じられる。
水にまじはるひかりの春のすこし甘い苅藻川てふ風のかよふ道
瑠璃色の鵯越をまつすぐに空のふかみへ落ちてゆくなり
藻塩焼き残りし「枯野」海底にしづめてひびく潮のさやさや
時の道ときにつながる大観寺無量光寺の源氏稲荷に
 モダン都市神戸は古事記・万葉集を始めとして、伊勢物語・源氏物語・平家物語などの物語の舞台として、歴史の刻印を深く留める土地でもあり、その意味で神戸は「土地の精霊」(genius loci)に満たされた場所である。尾崎は土地の精霊に導かれて現在に過去を読み込む手法で歌を作っており、一首に物語の記憶を注入することによって、短歌言語と詩想の豊饒さを実現することに成功している。
 テーマ批評的に分析するならば、本歌集に最も頻繁に登場するのは水と光と闇である。なかでも闇は歌集題名に現れていることからもわかるごとく、現在の作者の心の有り様を端的に表現するものと思われる。
記憶には明るいはうと暗いはう、生きてゐるわたくしが思へば
水仙の芽は小指ほど暗闇をいだきては伸びあがるかたちに
からだ沁みとほるひびきはあたしから足首までの暗闇
ものを見るときのくらさにはなびらの散る雲母きららなす時の切れ端
空響くアレグロの風はたはむれに明媚な闇をふきぬけてゆく
 光と闇は生まれながらに双生児であり、光あれば闇ありまた闇あれば光がある。一首目を見れば尾崎の闇は主として記憶に由来することが知れる。遠くは1995年に阪神地方を襲った大震災の記憶であり、近くは師の塚本邦雄の逝去の痛みである。この世に人として生きる以上、光と闇をもろともに抱えねばならないという思いが作者にあり、それが歌となって迸る。三首目下句の減音破調が独特のリズムを生んでおり、また四首目の「雲母なす」と五首目の「空響く」が枕詞的に使われている点も注目される。
 師の塚本邦雄は前衛短歌の旗手から古典和歌の世界へと華麗に転身して見せたが、尾崎のまた古典への傾倒を深めているようだ。それは本歌集では頭韻による連作に見られる。例えば「ひいやり剥がす」と題された連作では、冒頭に「さつきまつ花橘の香をかげば昔の人の袖のかぞする」という古今和歌集の歌が引用され、この歌の31文字から始まる歌が連作として構成されている。ただし最後の歌は「す」で始まり「る」で終わるので、合計30首による連作となる。いかにも新古今風の言語技法である。また第一歌集『微熱海域』、第二歌集『酸っぱい月』に散見された破調・句割れ・句跨りの前衛短歌的技法による個性的なリズム感も本歌集では影を潜め、塚本が開発した初句七音の歌はときおり見られるものの、古典調の流麗なリズムが全体を覆っている。
みづに文字書くように掻く真昼間のプールに水のからだ浮かべて
皮膚いちまい隔ててきつつ馴れにしはじんわり沁みるみづの揺らめき
さねさしさがを音にくづした超絶といはれる指のためのシャコンヌ
ひとすぢのひかりはがねの感触の来てやはらかく指にまつわる
白真弓春の弓張ありあけのあはく光を曳きて帰らな
 一首目の「書く」と「掻く」の言葉遊び、二首目の「きつつ馴れにし」の業平からの引用、三首目の本来は相模に掛かる枕詞「さねさし」、四首目の「ひとすぢ」「ひかり」「はがね」のh音の連続、五首目の「春」に掛かる枕詞の「白真弓」、「真弓」「弓張」の同音連続などの技法によって、言葉が日常言語の地平を離れて歌物語と古典和歌の歴史的地平へと押し上げられてゆく。読者は言葉のひとつひとつの曲がり角を曲がるたびに、日常的意味を超えた言葉自体の放つ光に触れる思いがする。
 歴史性を離れた歌群のなかでは、水泳やダンスをテーマとする身体性に基づく歌をおもしろく読んだ。「情熱の冥き」と題された歌群から引く。
薔薇の花びらの揉みあふ廃園に情熱の冥きつちふまずあり
わたくしのからだをまとふ骨はあり薄くひろがる肌にまみれて
初めてのステップを踏む人魚姫切りさかれたるやうな足首
ひかりを舐めて移る翳りをうしろへと摺り足シャッセ流れて締める足首
尾鰭またたゆたうやうにふうはりと立つ足首の先のふたひら
 何の説明もなく一首目を読んだら、歌意を取るのに苦労することだろう。上句「薔薇の花びらの揉みあふ廃園に」にとりたてて意味はなく、イメージ喚起のために置かれているのであり、「情熱」を導く長い序詞と見なしてもよい。「つちふまず」でダンスが詠まれていると知れる。二首目は体の中に骨があるという関係を逆転し、骨が体をまとうと捉えた点がおもしろい。ただ「まみれる」の使い方はどうだろうか。三首目はダンスのステップを陸に上がった人魚姫の足取りに喩えた歌。四首目でも「ひかりを舐めて移る翳りを」は序詞的な置かれ方をしており、本歌集では尾崎は短歌の様式性を強く意識しているようだ。五首目は足先を魚の尾鰭に喩えた歌。ほとんど意味がなく短歌定型のみが虚空に自立しているかのごとき趣があり、作者の重んじる所が見えるような歌である。「たゆたう」「ように」「ふうわり」のu音の連続が柔らかくゆったりしたリズムを作り出している点も見逃せない。
 最後に装訂に触れると、担当したのは今までに数々の美しい本を世に送った間村俊一。表紙装画は上ラインラントの画家の手になるLittle Garden of Paradise (1410年頃)という素朴な絵で、高い壁に囲まれ花が咲き乱れ小鳥が歌う楽園図である。拙宅のすぐ近くに恵文社一乗寺店という京都で最もユニークな書店のひとつがあり、ときどき「美しい本」というミニフェアを催すことがある。電子書籍の黒船襲来が叫ばれるこの時代に、美しい本をデジタル的にではなくアナログ的に手にすることは、人の世に数少ない喜びのひとつである。

第51回 嵯峨直樹『神の翼』

君の着るはずのコートにホチキスを打てば室内/ひどくゆうぐれ
                   嵯峨直樹『神の翼』
 嵯峨は1971年生まれで、中学生の時に短歌に出会っている。岩手県の旧渋民村の宝徳寺で遊座英子に短歌の手ほどきを受けたという。宝徳寺は石川啄木の父が住職に任ぜられて一家で住んだ寺である。嵯峨は啄木の故郷で短歌と出会ったことになる。進学した高校の国語の先生が村木道彦だったという田中槐のケースにも驚くが、嵯峨も短歌と出会うべくして出会ったということだろう。無縁の衆生である私などには想像することすら難しい。短歌が嵯峨の肉体に食い込む様が目に見えるようだ。嵯峨はその後「未来」に所属して岡井隆に師事し、2004年に「ペールグレーの海と空」で第47回短歌研究新人賞を受賞している。『神の翼』は受賞作を収録し2008年に刊行された第一歌集。跋文は岡井隆が執筆し、栞文は「未来」の先輩格の加藤治郎と穂村弘が文章を寄せている。ニューウェーブの血脈を意識しての人選と思われる。ペールグレーのグラデーションをなす表紙に白い翼が浮き上がる装幀も美しい。
 読み進むうちに何かおかしいという感覚が、遠くでかすかに鳴っている目覚まし時計のように執拗について回る。歌集半ばあたりまで読み進んで気がついた。嵯峨の描く情景の切り取り方が独特なのである。たとえばこうだ。
あかい紐引くと闇夜に包まれた 髪の毛先が頬をくすぐる
胸もとに冷たい鼻を感じれば雨のはじめのしずくを思う
通販の下着モデルのトルソーで慰めた手がつり革つかむ
長髪にかくれて小さなキスをするあたたかな息ちかく感じて
幸福を探り続ける左手が細い煙草を箱から抜いた
半そでのむきだしの腕と触れ合えば君は確かに僕ではないが
一首目の髪の毛先、二首目の鼻、三首目の手のように、身体の部分が断片化されて提示され、持ち主である人間の全体が見えないのである。このことは四首目以下にも言える。「キッチンに淡い光が差し込んで姉は野菜の水滴はらう」のように、カメラを引きで写して全身が見えるように描いた歌はむしろ少ない。まるで暗闇から身体の一部だけがぬっと現れるようである。たとえば次のような歌と比較してみればその相違は明らかだろう。
弟よ電車にあればワイシャツに光あふれて青年となる
                      佐藤通雅『薄明の谷』
ぶつぶつと言いて自転車漕ぐ男過ぎゆけば背に子どもが居たり
                      吉川宏志『西行の肺』
作者の視線は他者としての人間全体を把握しており、それは視覚的把握に留まらず、歌の〈私〉と対象との心理的距離や関係性にまで及んでいる。私たちが日常行う他者把握はこういうものであり、「家族」「近所の人」「職場の同僚」「見知らぬ人」などの関係性を常に含む。ところが嵯峨の短歌においては、他者が断片化されているのみならず、関係性もまた剥奪されており、上に引いた歌に登場する髪や鼻や手の持ち主と〈私〉の関係が明らかでないだけに、いっそう不穏な印象を与えるのである。
 この描写法の源流がニューウェーブ短歌にあることは、まずまちがいなかろうと思われる。
ほそき腕闇に沈んでゆっくりと「月光」の譜面を引きあげてくる  
                          加藤治郎
海からの光がとどくひややかな雨がおさえるわたくしの舌
 ニューウェーブ的語法の最良の果実のひとつと思われるこれらの歌において、腕や舌などの身体部位は自立性を付与され、そのことが全身から成る総体的人間の重みからの解放と、それに基づく感覚的語法の確立を可能にしたのである。嵯峨はこのニューウェーブ短歌の語法を学び自分の物としたのではないか。
 この語法は嵯峨の短歌から滲み出る世界観と双生児の関係にある。
髪の毛をしきりにいじり空を見る 生まれたらもう傷ついていた
午前1時の通勤電車大切な鞄ひしゃげたままの僕たち
海へいく道路の脇の自販機で買ったコーラはまだぬるかった
街じゅうの監視カメラに注視されて撰ばれてある恍惚とする
僕たちは過剰包装されながら受け入れられておとなしくなる
赤んぼの頃から俺のおしっこはおむつを宣伝するために青い
 一首目から三首目に表現されている漠然とした不全感、四首目から六首目に表現されている自分たちを取り巻く不可視のシステムと無菌社会。「僕たち」や「俺」を主語とする歌のほとんどは、このような現実認識を表明している。先に指摘した身体の断片化と関係性の喪失は、このような世界観と不即不離の関係にあるだろう。思想は語法を生み、語法は思想に形を与えるという点から見れば、嵯峨の語法は選ばれるべくして選ばれたものとも言える。
 しかし短歌が抒情詩であるという観点から見れば、嵯峨の思想と語法はどちらかと言えばぬるい抒情につながることもまた事実である。
霧雨は世界にやさしい膜をはる 君のすがたは僕と似ている
霧雨の降りしきる路 終バスは名前の消えたバス停に着く
三月のビニール傘にわたくしをころさぬほどの雨降りそそぐ
 嵯峨の短歌の中ではよく雨が降っているのだが、その多くは霧雨であり決して強い雨ではないのが特徴的である。短歌によく雨が降る歌人に藤原龍一郎がいるが、藤原の雨はもっと鋭く肺腑を抉る強い雨である。
油膜浮く運河の水面打つ雨の「夜の淫らな鳥」や言葉や  
                   藤原龍一郎『花束で殴る』
六月の雷雨自虐へとなだれこむわが日々を撃つわが日々を撃て
 ラテンアメリカ文学の名作ドノソの『夜の淫らな鳥』や現代短歌の歌枕である六月に思いを馳せる藤原の抒情は、全身を振るわせるような激しい抒情である。これと比較すると嵯峨の短歌が押し上げる抒情は、どうしてもぬるいと感じられてしまう。おそらく嵯峨はそのことを意識しており、自分たちの世代はぬるい抒情しか持てない世界に生きているのだと言いたいのかもしれない。
 嵯峨の短歌のもうひとつの特徴は、垂直方向の偏愛である。
ペットボトルの空気の球を垂直に上げながら飲むミネラルウォーター
垂直に合わせた羽を微動させ葉の先端にとまる紋白
上からの指示で降りゆく 経血のぬるく滴るような世界へ
上昇とともに抱き合う密室の階数表示を片目に見つつ
夕立に潤いながら垂直のマリアは密かにねじれはじめる
人群れて白き階段登りゆく 空にキリンの首折れている
 垂直方向に上方が理想や憧憬の方向で、下方が転落と失意の方向なのはわかりやすい比喩である。おもしろいのは嵯峨の短歌に水平方向の移動がほとんど見られないことである。常々、地理的想像力を言い、故郷からの遁走によって自己を解放し実現しようとしたのは寺山修司であった。垂直方向の移動は同じ場所に留まっての憧憬であるが、水平方向の移動は出自からの離脱であり空間的解放である。嵯峨の短歌に水平方向の移動が少ないことが、行き場のなさをいっそう強調しているように思え、読んでいて胸ふたぐような息苦しさを感じるのである。

第50回 藤島秀憲『二丁目通信』

金柑は小鳥のために捥がずにおく ひよどり、君は遠慮せよ
                藤島秀憲『二丁目通信』
 この歌集でいちばん受けた歌がこれである。私はマンション住まいだが、幸いかなり広いテラスがあり、家人がプランターでいろいろな植物を育てている。冬になると食料の乏しくなった山からヒヨドリとメジロが餌を求めて飛来する。リンゴやミカンの切れ端を木に刺しておくと、目ざとく見つけて寄って来る。わが家では声も姿も愛らしいメジロが人気なのだが、メジロが食べていると決まって乱暴者のヒヨドリがやって来てメジロを追い散らす。ヒヨドリは食いが荒いので、立ち去った後には何も残らない。だからヒヨドリには少し遠慮してほしいのである。誰しも同じ思いなのだと感得した。
 藤島秀憲は「心の花」所属。2005年に「二丁目通信」で短歌研究新人賞候補になり(その年の受賞者は奥田亡羊)、2007年に第25回現代短歌評論賞を「日本語の変容と短歌 ─ オノマトペからの一考察」により受賞している。第一歌集『二丁目通信』は2009年の出版で、さいたま文芸賞短歌部門で準賞を受賞。藤島は「短歌研究」の時評欄も書いており、短歌実作と評論の両方ができる歌人である。
 本歌集を繙くと、例えば次のように母親の介護と死、認知症の父親の世話、自身の失業と離婚など、重いテーマの歌がずらりと並んでいる。
介護用トイレに母の残しいし尿を捨てたり葬儀の後を
風呂場にて裏返しして洗うなり父の下着という現実を
ロッカーとデスクの抽斗空にする作業をまたもしているわれは
ピータンの好きな女になっていた 前妻もいる赤い円卓
 ここから跋文を寄せた佐々木幸綱のように、この歌集は読みようによっては介護歌集とも読めるという感想が生まれる。確かにそのような読み方も可能であり、また年老いた親の介護という現実が厳しいものであるのは疑いない。しかしその一方で、この歌集を単純なリアリズムに基づいて人生の不如意を詠ったものと取るのは危険だろう。そのヒントはあとがきにある。あとがきで藤島は、自分は三丁目に住んでおり、二丁目に住んでいる〈われ〉は三丁目の私とそっくりであると書いている。そっくりではあるが同じではない。二丁目と三丁目のちがいが現実と虚構の間の虚実皮膜であり、藤島の文芸の核心はそこにある。また藤島はこの点について極めて意識的な歌人なのではないかと思うのである。
 この歌集には夥しい固有名が登場するのだが、藤島の文芸を理解する手かがりになる人名が二つある。
コーヒー代節約二ヶ月ついにわが開く『山崎方代全歌集』
一生を晩年として過ごしたる小中英之を読んでいる 秋
 山崎は先の大戦で負傷して右目はを失明、左目の視力もほとんどなくなり、復員してからも定職と家庭を持たず、無用者として生涯を過ごした。「手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る」などの山崎方代の歌と藤島の歌の親和性は明らかである。また小中英之は若い頃から宿痾を抱え、死神と同道するがごとき生を送った歌人である。「雨期の花舗『末期の眼』にて眺むれば赤道直下航く船の見ゆ」のように、自らの死を見据えた透徹した文体を持つ。小中にとって自分の生は常に晩年であり、「俗世から退いて身を持する者のもつ頑なさとはかなさを、鎧のように身にまとっていた」(『過客』の辺見じゅんによる追い書き)という。山崎も小中も自ら選んだものではない事情によって人生から降りた人である。藤島は山崎と小中の二人の境涯に親しいものを感じ、自分を同類の者に擬することによって歌の根拠を確かめようとしているのではないか。介護や失業などの厳しい現実を歌に詠みながら、過度に深刻に陥らない軽みを感じさせるのは、この藤島の立ち位置に理由があるものと思われる。
ライオンズマンション脇の舗装路の止まれの〈まれ〉に雪凍てており
何百回夢に訪れくる母か納豆に醤油をかけすぎと言う
仏壇に苺六粒供えしが一時間後は三粒になりぬ
縁側の日差しの中に椎茸と父仰向けに乾きつつあり
あおむけの蝉のごとくにもがきおり今宵のわれはこむらがえりに
 藤島が好んで歌に詠むのは大事件ではなく、例えば一首目にある道路のペイントの止まれの〈まれ〉に雪が凍結しているというような、徹底して日常のどうでもよいような些事である。目線を低くし、日々のトリビアルな出来事に拡大鏡を当てるようにして、ペーソスとユーモアをまぶしながら詠むのが藤島の手法なのだ。だからこれらの歌の〈われ〉は等身大かそれよりやや小さめに描かれているが、決して現実の藤島ではない。
 藤島の短歌のもう一つの特徴は、歌の中に物語が塗り込められていることである。跋文で佐々木は啄木の手法を継承・発展させようとしていると指摘しているが、直近の手本は寺山修司だろう。
老婆ふたり暮らす家より泣き声と笑い声どっと起こる春宵
漢文の教師の家の日の丸がのたりと垂れてしずかな旗日
傘立てに三本の杖 おじいさん二人が「きょうの料理」見ている
首のない男女が金を受け渡すシャッター半分下ろされた店
 これらの歌に詠われている光景は妙に具体的で、まるで掌編小説のようなドラマを内包している。例えば一首目で老婆二人が暮らす隣家から泣き声と笑い声が起きるとは、一体いかなる事件が起きたのかと考えてしまう。また三首目では、老人二人に杖が三本と数が合わないところがミソで、残りの一本の持ち主はどこへ行ったのか。見ている番組が「きょうの料理」というところに不穏な気配がある。四首目でシャッターを半分下ろした店で金を受け渡ししている男女はただならぬ関係だろう。いくらでも想像が膨らむのである。歌に物語を織り込むのは、例えば福島泰樹や笹公人のように、ふつう浪漫の回復を目的とするのだが、藤島の場合はちょっと違っていて、虚実皮膜の異空間である非在の二丁目を立ち上げるためではないかと思われる。このことは固有名を詠み込んだ歌にも言えることである。
ああ行ってしまったバスに揺られていんマルヤマ人形店の広告
綱吉は出るか出ないか話し合うカーブ・ミラーの下の女生徒
お祭りの日だけ近所の人になる二軒となりの大泉さん
肩こりを叩くにちょうど手ごろなり かどや純正ごま油の壜
 ラッセルの指示理論によれば固有名は記述の束であり、背後に大量の意味を内包している。固有名には意味がずるずると付いて来る。「マルヤマ人形店」や「かどや」がどんな店か読者にはわからなくても、そこには意味を含んだ空間が形成され、物語が誘因されるのである。
 藤島が好んで数字を詠み込むのも他の理由からではない。
駐車場まで四十七歩なり五十二キロの父を背負えば
二本立て映画に二回斬られたる浪人は二度「おのれ」と言えり
伊右衛門のペットボトルとともに浮く鴨の三羽と白鷺の二羽
白鳥はあまり遠くを見ずに飛び年金手帳の厚みは二ミリ
銀行の二十五日の列の中十秒ごとに二歩ずつ進む
 数字は具体性を帯び、地を這うようなリアリティーを生む。しかしながら偏執的とも思える具体性への嗜好は、アララギ的生活即歌のリアリズムをめざしたものではない。現代絵画のハイパーリアリズムがかえって魔術的夢幻性を実現するのと同様に、これらの数字もまた虚実皮膜の異空間である非在の二丁目を作り上げているのである。
 一読してすっと意味の通じる平易な口語短歌の見かけの裏に、周到に仕掛けられた文芸装置がある。見かけに騙されてはいけないのである。

第49回 杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

晴れ上がる銀河宇宙のさびしさはたましいを掛けておく釘がない
                 杉崎恒夫『パン屋のパンセ』
 杉崎恒夫は1919年生まれ。1982年に前田透の「詩歌」に参加、2年後の1984年に不慮の事故で前田が急逝したため「詩歌」終刊とともに「かばん」に参加、爾来25年にわたって最長老会員として「かばん」に短歌を発表してきた。1987年に第一歌集『食卓の音楽』を上梓して以来歌集の刊行がなく、「かばんブックス」の企画で第二歌集を編集中の昨年永眠されたという。享年90歳。ご冥福をお祈りしたい。第二歌集『パン屋のパンセ』は井辻朱美・高柳蕗子ら「かばん」会員の編集により、2010年4月に刊行されたばかりである。井辻朱美・松村由利子・穂村弘が栞に暖かい文章を寄せており、杉崎が周囲から愛された人物であったことがわかる。メルヘン風の町並みを描いたカバー絵も歌集の中身とよくマッチしている。
 歌集題名は「パンセパンセパン屋のパンセ にんげんはアンパンをかじる葦である」という歌から採られている。「パンセ」は17世紀フランスの哲学者 Blaise Pascalの残した断章録だが、フランス語ではごく普通に使う「考え、思い」という意味の語である。パスカルの「人間は考える葦である」を「にんげんはアンパンをかじる葦である」とひねるところに、作者杉崎の権威を嫌い市井の生活を暖かく見る目が感じられる。杉崎は三鷹にある東京天文台(旧国立天文台)に長く勤務したという。掲出歌は天文台勤務という職業とつながりのある歌だが、平明な口語短歌のなかに透明な詩情を滲ませる杉崎の作風をよく表している。
 収録された歌は編者たちの手により春夏秋冬の四季の順番に配列されている。恋の部こそないが、勅撰和歌集の部立と同じである。春の部からいくつか引いてみよう。

観覧車は二粒ずつの豆の莢春たかき陽に触れては透けり
爆発に注意しましょう玉葱には春の信管が仕組まれている
高貴なるムスカリ・ボトリオイデスは伯爵家のような長き名をもつ
噴水の立ち上がりざまに見えているあれは噴水のくるぶしです
濁音を持たないゆえに風の日のモンシロチョウは飛ばされやすい
滄海に自在のくじらを泳がせて地球は春の軌道をめぐる

 観覧車のゴンドラと豆の莢、玉葱と手榴弾、噴水と踝の例が示すように、杉崎の目線は日常的事物の中に「おや、これは」と呟く発見を見いだしている。このささやかな見立てが成功したとき、そこにメルヘンのような詩的世界が立ち上がる。井辻朱美は栞文のなかでこれを「杉崎マジック」と呼び、その本質は初期化されたまっさらなフレームを作ってその中に事物を配置することによって、世界が独立浮揚するというプロセスだと分析している。確かに杉崎の短歌は歌の〈外部〉を感じさせず、ひとつひとつが独立の小世界のようだ。例えば一首目を例に取ると、切り取られた四角いフレームの中に2基ずつ対になった観覧車のゴンドラと降り注ぐ陽光だけが静かにあり、それ以外の物の気配がない。また二首目は話しかけるような口語口調なので、ふつうはそこに話し手がいるはずなのだが、実際に受ける感じはまるで絵本の1ページのようだ。これは絵本の語りであり、そこに話し手はいない。杉崎は過剰な〈私〉を消去することで、まるで物が中空にボツリと浮かんでいるような静謐な画面を作り出している。
 過剰な〈私〉を消去すると書いたが、だからと言って杉崎が世界を眺める目線がなくなるわけではない。例えば次のような歌には、日常ふと感じる寂しさやふとした疑問などが、詩的昇華を経て表現されている。このつぶやきのようなユーモアもまた杉崎の魅力である。

気付きたる日よりさみしいパンとなるクロワッサンはゾエアの仲間
選ばれしものはよろこべシャボン玉をふくらましいる空気の役目
ゆっくりと桜を越ゆる風船に等身大の自由あるなり
駅前にたつ青年が匕首のごとく繰り出すティッシュペーパー
目の前を時計回りにめぐりいるもと回遊魚のまぐろのにぎり

 一首目のゾエアはエビやカニの幼生のプランクトンのこと。ある日ふと、三日月型のクロワッサンはゾエアと同じ形をしていることに気付く。その日からクロワッサンがさみしく感じられるというのである。二首目ではシャボン玉をふくらましている空気にも、喜ばしい役目があると言い、三首目ではふわふわと飛ぶ風船に自由を感じている。こんな所に杉崎の生活信条や一種の述志を読み取ることもできる。四首目は街頭のティッシュペーパー配りの手つきが、まるで道行く人に匕首を突きつけているようだと、その押しつけがましさを感じている。五首目は回転寿司の歌。「もと回遊魚」には思わず笑ってしまった。回転寿司の歌と言えば、小池光の「回転の方向はそれ左回り穴子来て鮪来てイカ来て穴子」などの一連の歌があるが、杉崎の歌もこれと並ぶ佳作と言えよう。
 次はいささか機知を働かせた歌。

コバルトのとかげ現れ陽を返すÇセ セディーユのお前のシッポ
わが胸にぶつかりざまにJeジュとないた蝉はだれかのたましいかしら

 セディーユというのは、フランス語でcの文字の下に付くニョロとした記号のこと。とかげの体がCの文字のように曲がり、尻尾がセディーユの形に見えるのである。記号と言えば、「丈たかき斥候ものみのやうな貌をしてフォルテが杉に凭れてゐるぞ」という永井陽子の歌があるが、ともに形に着目した機知の歌である。二首目のje はフランス語の一人称代名詞。蝉の鳴き声がje「私」と聞こえるのである。杉崎はよく蝉を歌にしており、夏の短い期間やかましく鳴いて命を終える蝉を愛おしんでいたようだ。「仰向けに逝きたる蝉よ仕立てのよい秋のベストをきっちり着けて」という歌も集中にある。
 次の歌は自分の死に思いを馳せたものだろう。

ビオラには二つの∫字穴がある一つは死んだぼくにあげます
ぼくの去る日ものどかなれ 白線の内側へさがっておまちください
星空がとてもきれいでぼくたちの残り少ない時間のボンベ

 一首目についてご子息の杉崎明夫さんが、父親は若い頃に結核を患って肺が片方機能しないことを明かし、この歌は動かない自分の肺を詠んだものに思えてならないと書いている。二つある∫字穴が左右一対の肺臓に見えるからである。二首目や三首目に見られる死への思いにも激しさは微塵もなく、静謐な思念と思いやりに溢れている。
 「バゲットを一本抱いて帰るみちバゲットはほとんど祈りにちかい」と詠む杉崎にとって、短歌とは一種の祈りであり、薄暗さを増す夕暮れに一本の蝋燭を点すような行為だったにちがいない。それにしても高齢になるまでみずみずしい詩心とやわらかい目線を保ち続けたのは驚くべきことである。杉崎の短歌を読んでいると、歳を取るのも悪いことばかりではないと思えて来る。またそんな杉崎の思いを受け止め続けた短歌というささやかな詩型も、あらためて愛おしいものに思えるのである。

第48回 高山れおな『荒東雑詩』

七夕や若く愚かに嗅ぎあへる
        高山れおな『荒東雑詩』
 新暦の七夕はまだ梅雨の最中で、暑さもさほどのことはなく、雨が多くて夜空に銀漢を拝むことも稀である。ここはぜひ旧暦でなくてはならない。旧暦7月ともなれば、暑さは厳しさを増して、室内でじっとしていても汗が噴き出す。掲句はこういう日本の気候を背景に読むべきだろう。ただし七夕は秋の季語である。伝承では七夕は牽牛と織女の年一度の逢瀬の日。その伝承と二重写しのように、若い男女が逢い引きをしている。嗅ぐのは体臭と汗の匂い。場所は冷房もない狭いアパートがよろしかろう。句のポイントは「愚かに」。こう言い切れる作者は確かに中年である。若い頃の性愛の深さと愚かしさを言い当てて、間然とするところがない。
 私は俳句の世界に暗いので、高山れおなという俳人は、名前の響きから女性だとばかり思いこんでいた(付記参照)。ところが実は男性で、しかも高山れおなは俳号ではなく本名だという。世界はまことにワンダーに満ちているのである。略歴によると、高山は1968年生まれ。1993年に同人誌「あに」に参加し、第一句集『ウルトラ』でスウェーデン賞を、第二句集『荒東雑詩』で加美俳句大賞を受賞している。角川の『現代俳句大事典』によると、「豈」は1980年に摂津幸彦・大本義幸・藤原月彦らが創刊した同人誌だという。「豈」は「あにはからんや」と言うときの「あに」を漢字で書いたもの。藤原月彦は藤原龍一郎の俳名。摂津幸彦は私の憧れの俳人で、沖積舎版の『摂津幸彦全句集』も愛蔵している。1996年に急逝したのが惜しまれてならない。高山は摂津の薫陶を受け、「豈」が輩出した俊英の一人である。句集から読み取ると、どうやら写真関係の出版社勤務のようだ(注1)。『現代俳句100人20句』の編集委員から作句信条を求められ、高山は「和歌無師匠只以旧歌為師」と定家の言葉を引用してこれに当てた。「和歌ニ師匠ナシ タダ旧歌ヲモツテ師トナス」と読み下すのだろう。先人の残した歌だけが私の師だというのだ。潔い態度である。
 掲句は「七夕や」で一句切れがあり、季語も含まれているので、見かけ上は有季定型句である。句集も新年・春・夏・秋・冬と季節の部立てで構成されている。しかし本句集に収録されている句は一筋縄ではいかない。高山は伝統的な有季定型を否定はしないものの、言葉と言葉の軋み合いから発光する言語の美を追究する前衛俳句とも親和性がある自在な句風のようだ。高山はかねてより、「俳句の本質は何か」を問う俳句本質論は俳句にとって有害無益だと論じており、その自由な態度は本句集にも現れている。私が一読して得たのは、俳句とは「出会いがしらの文芸」だという感想である。本句集にもさまざまな人や物との出会いがある。例えば次のような人との出会いの句はどうだろう。
菜採須児なつますこわらふ水玉の恒河沙
犀省二河馬稔典とわかくさ食ふ
荒星のふるさとあらむ歌姫に
 一句目には、草間彌生がフランスから勲章をもらい、その授与式に出席したとの詞書がある。草間は1970年代からハプニングなどの前衛芸術活動を展開、その後アメリカに渡ってオキーフの知遇を受けた芸術家である。トレードマークは毒々しいまでの水玉模様で、瀬戸内海に浮かぶ直島の埠頭には草間の制作した水玉カボチャが鎮座していて、人気がある。恒河沙ごうがしゃは数の単位で10の52乗、ひいては無限の意。「水玉の恒河沙」は詩的転倒で、無限に増殖する草間の水玉模様をさす。「菜採須児」は万葉集冒頭の雄略天皇の歌から。水玉模様の服を着て授与式に出た草間の様子が、無邪気に笑まう乙女のようだったのだろう。句が生まれる契機は眼前にある草間本人だが、そこから万葉集の過去へ飛び、さらに恒河沙によって無限の宇宙へと飛翔するような飛躍感が大きい。俳句の妙味のひとつに、17音の狭隘な容れ物にどれだけ大きな時空間を抱え込めるかという点があるが、大きな広がりを感じさせる句である。こういう句が出会いから生まれるところにまた面白味がある。
 二句目は奈良東大寺を訪れた際の句。省二は写真家の大竹省二だろう(注2)。稔典はネンテンさん、こと坪内稔典。写真家と俳人に同行した仕事の旅行のようだ。大竹省二と坪内稔典が犀と河馬に擬せられ、「わかくさ食ふ」により一座に動物園のごとき茫洋とした雰囲気が現出する。「わかくさ」はもちろん奈良の若草山と響き合う。集中には「たんぽぽのたんのあたりが麿ですよ」の句があり、これは坪内の「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ」という句を踏まえたものである。このように高山の俳句は眼前の景を詠む写生句ではなく、先人の残した膨大な俳句空間を自在に渉猟し、過去の作品と響き合う作りになっている。読む方も句とともに時空を超えた文芸空間に導かれる。それを読み解くのが楽しい。もっとも、句の背後に何かありそうなのに、こちらの知識と想像力が限られているため、読み解けない句も少なくはない。 
 三句目は椎名林檎のコンサートに行った人から、下克上バッジなるものをもらった折りの句。荒星あらぼしは凍てつく冬の夜空に光る星の意で冬の季語。椎名林檎のエキセントリックな歌と下克上という言葉が生み出した連想だが、すぐに「荒星や毛布にくるむサキソフォン」という摂津幸彦の句が思い出される。冬の星座と音楽に響き合うものがあるのだろう。
 このように一句ごとに鑑賞しているといくら書いても終わらない。印象に残った句をいくつか引いてみよう。
日へみなぎる大陸の沙鬼房逝く
永き日の歪める真珠バロックを吐く妻であれ
貝寄風に目のあけられぬ蒙塵や
無着陸告天子からなみだ降る
六月の空おんがくのやうに降る
王の死の午後かと思ふほほづき市
金魚玉舐めて味なきむかし哉
八月や我に霊式戦闘機
底紅や人類老いて傘の下
 一句目の鬼房は、2002年に亡くなった俳人の佐藤鬼房。「毛皮はぐ日中桜満開に」の句がある。三句目の「貝寄風かいよせ」は、陰暦2月20日頃に吹く西風。この風で寄せられた貝殻を拾い集めて、大阪の四天王寺で聖徳太子を祭る造花を作るという。四句目は三橋敏雄への挽歌で、告天子こくてんしはヒバリの別称。7句目の金魚玉は、夜店で買った金魚を入れる球形のガラス容器で、今ではもう見なくなった物を惜しむ挽歌。8句目はもちろん零式戦闘機と掛けた戦死者を偲ぶ歌である。底紅は中心部が赤いムクゲの花。摂津幸彦の7回忌の折に作られた句である。どうも挽歌に印象深い句があるように思えるのは、私の個人的嗜好のせいか。
 折しも『短歌研究』2月号が、「五七五+七七ではあるけれど」と題して、短歌と俳句を比較する特集を組んでいる。座談会の参加者は、短歌と俳句の両方を作る藤原龍一郎、江田浩司、奥田亡羊と、俳人の櫂未知子。座談から短歌と俳句の生理のちがいがあぶり出されておもしろい。櫂はたとえば今日満開の桜に出会ったとして、その景色に対する敬意が季語だという。すると季語以外の部分に櫂未知子の〈私〉が入るのかと問う藤原に、櫂はそういう意識がないと答えている。「この場所で今私が作った」その私が櫂でなくてもかまわないのかと重ねて問う藤原に、櫂は「いっこうにかまわない」と断定している。続けて、句はある日天から降って来るもので、自分以外の人に降って来てもいいのだという自在さである。おしなべて歌人の方が〈私〉の表現に固執する傾向があり、俳人は切って句の大きさを実現するので〈私〉を表現しない。「短歌の七七の未練がましさが好きだ」という藤原の発言は、このちがいをよく表していると言えるだろう。歌人の未練がましさと比較して、俳人のいさぎよさが際だつように思える。
 詞書が多用されているのが『荒東雑詩』のひとつの特色で、言わないことを以て良しとする俳人には珍しい多弁の印象がある。その詞書のなかには短歌も混ざっていて、「桜桃の種吐きつのる黙深く、善を求めて悪をなすべし」「守るべきひとつだになき白昼の氷いちごをつつく四、五人」などがあるが、どこか歌人の作る短歌と肌合いがちがっているところがまたおもしろい。これでもかと力む歌人にたいして、力が抜けているとでも言うのだろうか。『荒東雑詩』はそんなことまで考えさせてくれる。
【付記】
 今日の午後にでもこの文章をサーバにアップしようと考えていたまさに本日5日、朝日新聞朝刊の歌壇俳壇欄の俳句時評の担当が五島高資から高山れおなに交替になるという記事が掲載された。略歴と写真があり、確かに高山は男性であることを確認した。高山はなかなかの論客と聞く。これから時評を読めるのが楽しみである。
(注1) 高山は「芸術新潮」の編集者とのこと。
(注2) 省二は大竹省二ではなく、句集『鯨の犀』のある岡井省二のことだと、高山ご本人からご指摘をいただいた。曖昧な推測で物を言うと怖い。お詫びして訂正する。

第47回 森井マスミ『ちろりに過ぐる』

『ちろりに過ぐる』と〈私〉の四つの位相
 以前にこのコラムで取り上げた評論集『不可解な殺意』の著者森井マスミの第一歌集『ちろりに過ぐる』が今回の歌集である。著者の紹介は重複するので省く。最近では珍しいクロス貼りの重厚な造本で、表紙には黒を背景として悠然と泳ぐ鯉の絵がある。栞文は藤原龍一郎・尾崎まゆみ・吉川宏志・加藤治郎。帯文には藤原の栞文の一節が引かれている。後記・奥付から裏表紙の価格表示に至るまで旧字で統一されており、高い美意識を感じさせる。本コラムではパソコンの制約上、旧漢字をすべて再現できないことをご海容いただきたい。
 歌集題名は集中の「(世間よのなかはちろりに過ぐる)待つといふ長すぎる時間さへも、ちろりに」にあるが、「ちろりに過ぐる」は室町時代の小歌を集めた閑吟集から取られている。「瞬く間に過ぎてしまう」の意だが、「ちろり」には「短い時間」の他に、酒の燗をつける金属製の容器の意味もあり、「燗をつけるくらいの短い時間」でもある。題名が閑吟集から取られていることは、「引用」が森井の方法論の根幹にあることを雄弁に示している。
 本歌集は結社誌『玲瓏』と詩歌文芸誌『GANYMEDE』に発表された作品を収録しているが、巻末に付せられた初出一覧からわかるように、歌集の構成は編年体でも逆編年体でもなく、意志的かつ演劇的に構成されている。この事実も森井の姿勢をよく表していることに留意しておこう。また内容を一読して驚かされるのは、表現形式の多様さである。通常の短歌に加えて、俳句作品と河内音頭まである。どう見ても栞文で吉川が述べているように、「非常に異色な問題作」なのである。どこがどう問題なのだろう。
 第III部に収録された初期作品を引いてみよう。
黒海の塩ひとつまみアーティチョーク嘘ふつふつと鍋底にゆれ
ゆくへ知らざる夢くくるとき 沈丁の花散りやまぬ黙の坩堝に
いくたびかいのち澄む夜のちりつばき にほふうつつに夢の縦傷
かへりみざれば乳白の過去なべて死を喚びさます潮の紺青
 いかにも師の塚本好みの語彙と美意識によって紡ぎ出された歌である。栞文で玲瓏の先輩である尾崎が書いているように、森井は「塚本の言語感覚を完璧に受け取り、完璧に制御している」のである。おそらくは完璧すぎるほどに。しかし、塚本短歌の語彙の強度と強靱な美意識を支えているのは、塚本の強烈な個性と戦争体験である。師が持つものを弟子は持たない。また背景となる時代も異なる。塚本の時代に成立した〈私〉は、現代では同じ文脈では成立しがたい。ならばどうするか。森井は新しい〈私〉を探しに出発するのである。そのとき演劇研究者である森井が採用したのは、本歌取りを超えた引用と換骨奪胎という手法なのだ。
 第I部に収録された「白桃の芯」は三島由紀夫『近代能楽集』の「班女」を下敷きにした自由な変奏である。また『死の棘』日記は島尾敏雄、「ひかりごけ」は武田泰淳を下敷きにしている。おまけに「白桃の芯」冒頭の歌「約束は秋、といふのに手にならす扇の骨はきしきし冷えて」は、後京極藤原良経の「手にならす夏の扇とおもへどもたゞ秋かぜのすみかなりけり」の本歌取りである。三島の「班女」がそもそも能の古典演目を元に作られた戯曲であることを考えると、まるでマトリョーショカのように幾重にも入れ子にテクスト関係が結び合わされていて、クリステヴァの言う「間テクスト性」intertextualityに満ちた言語空間を構成していることがわかる。さて、このような言語空間に置かれた次のような歌を読むとき、読者はいったい誰の声を聴くのだろうか。
ガラス窓鎖して夜から逃げ出して舟なき島にひとを思ひぬ
置いてきたビニール傘の白銀にだれかの指がふれた気がする
 「白桃の芯」はいちおう「班女」の主人公花子に成り代わって詠むという設定になっているのだが、思考動詞「思ひぬ」感覚動詞「気がする」の主語=主体を確定することは難しい。三島の『近代能楽集』自体が古典空間と現代とを往還する構造になっており、森井の歌における主体の〈私〉は幾重にも折重ねられた言語空間の中で反射し反響し、それを求めようとしても幻のように逃げ去ってしまう。
 栞文「シミュラークルの挑発」でこのことを問題としたのが吉川である。吉川は森井の方法論の根底には、短歌で従来言われてきた〈私〉が本当に存在するのか疑わしいという挑発が込められていることを認めた上で、本歌集を読む読者は困惑し、共感することが難しいと批判的に述べ、これに対抗する立場から次のように書いている。
 森井マスミは、作者の経歴(年齢・性別・生活環境など)を超越した〈私〉を仮構的に作りだそうとするのだが、短歌の〈私〉には、もう一つ別の面があって、作品の韻律や視点が生み出す〈私〉も存在するのである。
 
 最新歌集に『西行の肺』というタイトルを付けたことからわかるように、最近の吉川は歌の中に響く声や息づかいという身体性に重きを置く立場を採っている。その吉川から見れば森井の作り上げた言語空間はシミュラークルとしか思えないのであり、そこに本当の短歌の〈私〉は立ち上がることがないと考えている。
 吉川の発言をもう少し広い文脈に置いて考えるために、いささか図式的になることを恐れずに言うと、短歌の〈私〉にはざっと見回して少なくとも四つの位相があるように思われる。
 第一は歌中に直接的に〈私〉が登場する場合である。「我のみが初日にこだわる獄庭に太陽サンなど拝む者あらずして」(郷隼人)では、〈私〉は人称代名詞「我」と明示的に表現され、また「あらずして」と判断する主体としても働いているわかりやすい〈私〉である。一人称歌のほとんどがこれに当たる。
 第二は言語表現における視点が作り出す〈私〉である。『短歌ヴァーサス』11号に斉藤斎藤が書いた「生きるは人生とちがう」が論じているのは、このタイプのいささか手のこんだヴァージョンだが、これをなぞる形で言うと、「私」には「私は身長178cmである」というときの客体用法と、「私は歯が痛い」と言うときの主体用法の二種類の用法があり、現代短歌の〈私〉はこの複合体だと斉藤は言う。その上で、「飛ぶ雪の碓氷をすぎて昏みゆくいま紛れなき男のこころ」(岡井隆)の上句は主体用法の〈私〉で、下句は客体用法の「岡井隆」であり、全体として一首は「岡井のわたし」になっていると結論している。この場合、上句の「飛ぶ雪の碓氷をすぎて昏みゆく」が視点を含む言語表現になっているのだが、視点の置き方には無限と言ってよいほど様々なヴァリエーションがある。たとえば「もちあげたりもどされたりするふとももがみえる/せんぷうき/強でまわってる」(今橋愛)は性愛の場面を詠んだ歌で、仰臥する女性側に固定された固定カメラのような視点である。このように視点を固定するとよりシャープな〈私〉が形成されるかというと実は逆で、斉藤の言う「ななめ後ろから私を写すアングル」が少なくとも近代短歌には必要なようだ。なぜそうなのかという問に十分に答える用意が今の私にはない。ただ、考えられるのは、〈私〉とは関係概念であり、その擁立には他者を必要とするのではないかということである。「私」は他者を孕むことで初めて〈私〉としてくきやかに輪郭を獲得するのではないか。逆説的ながら、純度100%の私は〈私〉として立ち上がることができないのではないだろうか。
 第三は永田和宏の有名な「問と答の合わせ鏡」の反照力学によって浮上する力動的な〈私〉である。「退くことももはやならざる風の中鳥ながされて森越えゆけり」(志垣澄幸)を引きながら、上句の問の拡散性と下句の答の求心力がはらむ緊張関係が一首を成立させると永田は論じた。これを斉藤風にアレンジすると、「退くことももはやならざる」が客体用法の私で、「風の中鳥ながされて森越えゆけり」が主体用法の〈私〉の反映ということになろう。しかし永田はここでは、問をできるだけ遠くに飛ばし、それを答によって再び回収する作者の力仕事の強度に焦点を当てて、それを「緊張関係の中に懸垂された一回性の発見」という張り詰めた言葉で表現している。
 最後の四番目は今までのように歌の中に構造的に作り出される〈私〉ではなく、吉川流に言うと「ふと感じられる」〈私〉である。ある言い回し、ある比喩、ある韻律の背後に生々しい人の存在を感じることがあり、その有り様は一様ではなく、また予測もできない。吉川が「身体性」という概念でくくろうとしている〈私〉である。たとえば、「つきぬけて虚しき空と思ふとき燃え殻のごとき雪が落ちくる」(安永蕗子)という歌では、四句の「燃え殻のごとき」の八音が作り出す急かされるようなリズムに生々しい声を聞く思いがする。
 さて、では森井の歌集に話を戻すと、多様なテクストの換骨奪胎を重層的に組み合わせた森井の言語空間に見いだされる〈私〉があるとするならば、それは今まで述べてきた四つの類型のどれにも該当しないことは明らかである。森井のテクストには演劇性が濃厚に感じられるが、同じ演劇性でも寺山修司が短歌で駆使した「〈私〉の犯罪性」とも異なる。森井の〈私〉はテクストの重層性の燦めきのなかに反射し拡散するかのようでもある。
 森井は評論集『不可解な殺意』のなかで次のように述べており、自らの試行の解説と取れる。
 そして、文学を支える基盤である「私」自体が、近代的な「私」からボストモダン的な「キャラクター」へと移行していく中で、こうした状況を食い止める可能性を探るとすれば、前者を機能として構造的に回復していくか、後者に方法としての批判性を見い出すか、そのいずれかによるほか方法はないであろう。文学を成立させていた基盤そのものが、すでに瓦解している現状を、もうそろそろわれわれは、現実として受け止めるべきである。(「文学の残骸 ─ オタク・通り魔・ライトノベル」)
 江田浩司万来舎のホームページに書いた評論で森井の歌集を取り上げ、上に引用した箇所を引き、「規範的な短歌批評」に対抗して森井の試みを擁護する論陣を張っている。森井は「玲瓏」で江田は「未来」という結社のちがいはあるものの、江田もジャンルを横断する試みを続けていて、森井と立ち位置は近い。しかし、その江田も森井のテクストの孕む危険性を認めない訳にはいかないと言う。森井の試みがポストモダン的なシミュラークルの戯れ、表層の遊戯と見なされてしまう危険性である。それは森井の意図からは最も遠い受け取り方だろう。
 そう断った上で、さて、森井は本歌集で行った試みによって、新しい〈私〉を立ち上げることに成功しただろうか。この問に即答することは難しい。栞文を書いた歌人たちの受け止め方も様々である。劇という方法で新しい〈私〉を発見したと評価する尾崎を除いて、藤原も加藤も言い回しは異なれども、「その意欲と試みを高く評価し、今後を見守りたい」という意味の、栞文的な結び方で終わっている。確かに今の段階ではそれ以上のことを言うのは難しいだろうと私も感じる。このコラムを書いていて最も腐心するのは結びの文だが、今回に限ってはうまく結べない。森井の試みがそれだけ重みを持つものだという証左と見なしておきたい。

第46回 永田淳『1/125秒』

ブーストを立ち上がらせつつ走りゆく前にも後にも時間はなくて
                     永田淳『1/125秒』 
 掲出歌には「ターボタービンにてエンジンに過給することをブーストと呼ぶ」という詞書がある。自動車でもオートバイでもエンジンがあれば当てはまるが、ここは作者の愛するオートバイの話だろう。下句の「前にも後にも時間はなくて」は、空間的にも時間的にも解釈できる。空間的に解釈すれば、オートバイを駆る〈私〉の前方にも後方にも時間は存在せず、疾駆する〈私〉が実感している〈今〉だけが時間だ、という意味になる。また時間的に解釈すれば、〈私〉の前方にあるのは未来で、後方にあるのは過去だが、それらは〈私〉にとって時間と呼ぶにふさわしいものでなく、〈私〉の実感する〈今〉だけが時間だ、という意味になろう。前段の解釈は異なっても後段の解釈は同じである。歌が表現する疾走感を背景に浮かび上がるのは、強い〈今・ここ〉(hic et nunc)感覚である。この感覚が一巻の通奏低音のように響く歌集と読んだ。
 永田淳は1973年生まれ。永田和宏の子息で、「塔」編集委員。短歌関係の出版社青磁社社主である。『1/125秒』はずいぶん遅い第一歌集で、昨年度の第35回現代短歌集会賞を受賞している。自著の編集はしにくいせいか版元は自社ではなく、俳句出版のふらんす堂。栞文はコスモスの高野公彦、未来の大辻隆弘、塔の松村正直の三人が書いている。高野は優しさのなかに異能を秘めた作者だと評し、大辻は茫洋としたのびやかさを言い、松村は些細に見えることの奥にある何かを捉えていると述べている。確かに三人の指摘はもっともなのだが、私が一巻を通読して最も強く感じたのは「時間」の重みだった。このことは珍しい歌集題名にも現れている。たぶん「ひゃくにじゅうごぶんのいちびょう」と読むこの題名は、カメラのシャッター速度を表していて、「印画紙に残されし1/125秒ほどの過去を君は好めり」という歌から採られている。人生の長さから見れば須臾の瞬きに等しい1/125秒で定着された光景を愛おしむ歌である。それ自体は取り立てて目新しい感想ではないが、作者が自分をまず時間の流れにある存在と捉えていることがうかがえる。
 集中の時間に関係する歌を見てみよう。
横断歩道渡りて煙吐き出せば同時進行の前世もあるべし
またヤゴの憂鬱に戻りゆくのだろうアキツは巨き顎持ちて果つ
午後三時数多の手首にぶら下がる時間と時刻神田神保町
東シナ海を今し抜けゆく台風の針路の東の夜に佇ちおり
 一首目は不思議な歌である。前世とは自分がこの世に生まれる前の生で、過去に属するものである。しかし歌では同時進行の前世とされており、字義通り解釈すればSFのパラレル・ワールドのようになる。日常にふと時間の穴に落ち込んで、別の生を生きているような気になる瞬間を詠んだものだろう。二首目はトンボの死を詠んだ歌。トンボが死んで幼生のヤゴに戻ることは本来は起こらないことだが、ここには種として循環的に流れる時間意識がある。三首目は電車の吊革を握る手にはめられた腕時計の歌だが、「時間」と「時刻」のちがいに注目したい。「時刻」はたとえば「現在午後三時」と表現されるように、現在時点においてしか成立しない。一方、「時間」は「もう二時間待っている」のように幅のあるもので時刻とは独立で、腕時計の時針はこの両方を表しているのである。考えれば確かにそうなのだが、改めて指摘されるとハッとする。また時刻は万人に共通のものだが、時間はそれを抱える一人一人によって異なることにも留意すべきだろう。四首目に時間は明示的に表現されてはいないものの、海上を進む台風によって強く暗示されていることは明らかである。「夜」にかかる「東シナ海を今し抜けゆく台風の針路の東の」という長い連体修飾句が、啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣き濡れて蟹と戯むる」と同じようなズームイン効果を生んでおり、最終的に到達するのは「佇ちおり」の隠れた主語である〈私〉が位置する〈今・ここ〉なのである。
 この時間意識はどこから来たものか。青春を過ぎて30代に入った作者が、「もう俺もジーンズの似合わないオジさんになったか」と感じて生まれたものではないようだ。集中には確かに次のようにやや甘さを含む過去への惜別の歌がある。
ただ海を見に行きたかりし夏として記憶のうちに留めておかな
永遠とは十代の修辞 名も知らぬ少女にあくがれいたる文月
数時間走らば海のあることをそこで逝かしむる時のあることを
 しかしこの気分は一巻の主調音ではなく、他の歌に見られる時間意識を説明するものでもない。作者の時間意識はむしろ次のような歌によく現れている。
驟雨きて驟雨は去りてまだ浅き春の夕暮れ暮れ残りたり
いつ知らず静かな春の雨となるずっと昔も同じ匂いに
潰れずに死にたる秋蚊を掌に載せて流しに捨つるまでの数歩
遮断機の撓りの先の触れ合わず揺れ止む前に上がり始めき
 最初の二首は時間の流れを抱えた歌で、たまたま両方とも雨の歌である。驟雨が来て止むまでの間、また雨の降り出しに気づくまでの間という比較的短い時間が含まれており、その動的変化に歌の眼目があると読んでもよい。しかしこれらの歌から否応なく浮かび上がるのは、流れる時間のなかにある人間である。それはつまるところ、人間が時間的存在であることに由来するのかもしれない。三首目と四首目は時間の流れではなく、〈今・ここ〉感覚の突出した歌である。晩秋の蚊は哀れ蚊と呼び季語ともなっているが、潰すまでもなく死んでしまった蚊を捨てる短い時間に〈今・ここ〉感覚が溢れている。四首目では降りた遮断機の左右の棒が揺れているために、触れ合うことなくまたすぐ上がり始めるまでの短い時の間が詠まれており、やはり〈今・ここ〉感覚の歌と言える。
 近代短歌は明治期の短歌革新を経て〈私〉を表現する詩型となったが、永田の歌にある〈私〉とは、特別な思想を持ったり特殊な経験をした〈私〉や、修辞に工夫を凝らして言語空間に楼閣を築こうとする〈私〉でもなく、「今ここにいる」という感覚に根ざした〈私〉なのだろう。「今ここにいる」ということは誰にでも当てはまる普通のことである。したがって永田が詠むのも、たとえば「アオリイカの目玉の大きなることを子らと言いおり鮮魚売り場に」のように、家族を中心とする普通のことになる。
 そんな集中でやや異色なのが、「誰も言わぬ」と題された三首のみの連作である。
金雀児の葉末を半月過ぎりゆく隣家の鳩が二度鳴きし時
一様の暗がりならず石階の手摺の根元に開く夕顔
誰も言わぬ日照雨が降りぬ京都北郵便局の隣りの路地に
 永田の歌に難解・難読語句は少ないのだが、珍しく金雀児エニシダ石階いしばしは辞書を引くはめになった。日照雨そばえは歌人好みの語なので、知らない人はいないだろう。この三首は永田の普通の歌の詠み方からすると、ずいぶん修辞を凝らした歌となっている。「難読語を用いる題詠」にでも出詠したのだろうか。そんななかでも一首目と三首目には特に〈今・ここ〉感覚を強く感じる。
 最後に私が特に好きな歌を一首挙げておこう。
今朝われら羽を持たざるもののごと清々しただ水溜まりを越ゆ
 私は「われら」に弱いので、ついこういう歌に丸を付けてしまう。この歌のおもしろさは、「羽を持たざるもののごと」と敢えて表現する矛盾にある。人間にはもちろん鳥や天使のような羽はないので、空を飛ぶことができない。天空の高みを目指して飛翔することができないのである。そのような人間の境涯を「羽を持たざるもののごと」と逆説的に表現し、続けて「清々し」と断じるところに作者の矜恃がある。永田は「ただ水溜まりを越える」という日常的行為と〈今・ここ〉に大きな価値を置いているのだろう。

第45回 短歌における読みについて Part 2

 大学ではこの時期、学部の卒業論文と大学院の修士論文の提出時期を迎えて、大変なことになっている。なかなか論文を書いてくれない学生の尻を叩かねばならず、年末から論文指導の面談を重ねる日々が続く。なかには思い余って「私はどうすればいいんですか」と叫び、泣きながら研究室を飛び出して行く女子学生がいたりする。先日も研究室で面談していたら、様子がおかしくなり、「トイレに行っていいですか」と言って出て行ったきり、1時間も戻って来ない学生がいた。寝不足と緊張から昏倒して、トイレで気を失っていたのだという。私が学生を失神させるほど苛烈な批判をしたわけではないので、念のため断っておく。
 こんな日々なので、とても落ち着いて歌集など読んでいられない。というわけで、前回に続いて「短歌における読みについて」のPart 2である。決して手抜きと思わないでいただきたい。というのもおもしろい本を読んだからである。月本洋『日本人の脳に主語はいらない』(講談社選書メチエ 2008年)である。著者は東京電機大学工学部の教授で、人工知能の専門家だという。専門外の脳科学と言語学に乗り出して本書を書いた動機は、英語やフランス語では I love you. / Je t’aime.のように、私 (I, je)や君 (you, te)などの人称代名詞が必須であるのに、日本語では「好きだ」のように代名詞を用いないのがふつうなのはなぜかという疑問に答えるためである。著者の主張を手短かにまとめると次のようになる。
 日本語話者と英語話者とでは、母音の脳内処理に半球差がある。日本語話者は母音を左脳で処理するが、英語話者は右脳で処理する。一方、自他の区別を司る部位は右脳にあり、英語話者が母音を処理する部位に近い。このため英語話者は母音を処理する際に、自他の区別を司る部位が活性化する。これが人称代名詞の義務的使用の理由である。
 母音の脳内処理に関する部分は実験に基づいているが、それを言語に結びつける論理には内挿法 (interpolation)や外挿法 (extrapolation) が駆使されていて、この結論をにわかに信じることはできない。しかし本書前半で紹介されている脳生理学的実験によって得られた結果は、とても興味深いものなのである。
 しかしこれが短歌における読みとどう結びつくのか。それは「私たちはなぜ短歌を読めるのか」という疑問につながるからである。ここで首を傾げる人がいるかもしれない。日本語ができて文法と語彙を理解している以上、短歌が読めるのは当たり前ではないかと思うのがふつうだからである。しかしちょっと待ってほしい。「短歌が読める」とは、単に語の個々の意味を文法規則に従って統合し、文意を理解するということではない。一例を挙げる。
沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ  斎藤茂吉
 よく知られた有名な歌で、歌意に難解な所はない。〈私〉が黙ってブドウの房に降る雨を見ている情景が詠われている。ブドウが実っているのだから季節は秋である。表面の字面だけを解釈すればそうなる。だがこの歌は、先の大戦の敗戦時に山形に疎開していた茂吉が、祖国の敗北に言葉を失った様を詠んだものであり、降り注ぐ冷たい秋の雨とブドウの黒い色とが、茂吉の悲愁と孤独を表現しているのである。そこまで読まなくてはこの歌を読んだことにはならない。しかしなぜそう読めるのか。それが問題である。この問に明確に答えた論考を私は知らない。
 月本が手際よくまとめているように、言語の意味理論には今までにおおきく分けて3つの考え方がある。第一は、「言葉の意味とはその言葉が指示する対象である」という理論である。たとえば、指さしながら「この犬」というとき、その意味は指された犬だというものである。これは言葉はモノの代用だとする古くからある考え方に基づいている。スウィフトの『ガリバー旅行記』には、言葉を使うかわりに、相手に伝えるのに必要な物を大きな袋に詰め込んでよろよろ歩く人が描かれている。現代の代表的な意味理論である真理条件意味論はこの部類に入る。第二は、「言葉の意味とはそのイメージである」という考え方である。たとえば、「犬」という語の意味は、それを聞いたときに私たちの脳裏に浮かぶイメージだというものである。この意味=イメージ説は、20世紀になって分析哲学に激しく批判されたが、いまだに根強く残っていて、最近の認知意味論はこの新ヴァージョンと言えるだろう。第三は「言葉の意味とはその用法である」とする理論で、代表選手はウィットゲンシュタインである。この理論は「おはよう」とか「こんにちは」などの意味を理解するには便利である。たとえば「おはよう」の意味とは、午前中にその日初めて人と会ったりすれ違ったりする状況の集合と定義できるからだ。
 しかしいずれの理論に拠っても、上に引いた氷雨の降り注ぐブドウを理解するには難点があることに注意したい。「百房の黒き葡萄」は私たちの目の前にないのだから、「百房の黒き葡萄」の意味とはこれだと指し示すことができない。また1945年に戻って山形の金瓶村にほんとうにブドウがあったかどうかを確かめるすべもない。だから第一の理論で短歌の読みは説明できない。第二のイメージ説の問題点は、どうして見たこともない情景をイメージできるのかがうまく説明できないという点にある。私は百房の黒いブドウに氷雨が降り注ぐ情景を一度も見たことがない。しかしその意味はよく理解できる。これはどうしたことか。第三の用法説の問題点は、「おはよう」とか「ありがとう」などの語用論的語句はうまく説明できても、「犬」のような実体語の説明に難があることである。「犬」の意味とは「犬」という語が用いられる状況の集合であるという定義は、納得しがたいだろう。また日常の実用を離れた文芸の場合、「百房の黒き葡萄」の用法と言われても、そんなものはないとしか答えようがない。私は自分では一度も用いたことがないからである。
 では私たちはなぜ表面的な字面を越えて歌の意味を理解できるのか。そのヒントが月本の本に書かれている「仮想的身体運動」という現象に隠れているように思う。私たちは指や腕などの身体器官を動かすとき、まず脳の運動野の対応する部位が活動し、次に指や腕に神経パルスを送る。指や腕の筋肉は神経パルスを受け取って伸縮して目的の動きをする。ところが近年の脳研究によれば、実際に指を動かさなくても、指を動かす動作をイメージしただけで、指を司る運動野が活動することが明らかになったという。このことは運動以外の活動でも起きているらしい。たとえば「猫」という単語を聴いて猫を頭の中でイメージするときは視覚野が活動し、眼球を仮想的に動かしている。想像上で視ているのだ。数字を頭の中で読み上げるときには、運動野と聴覚野が活動し、舌と耳を仮想的に動かしているという。想像上で発音し聴いているのである。月本はここから、言語の意味とは脳内イメージであり、それは仮想的身体運動であると結論づけている。
 もしこれが正しければどういうことになるか。意味の理解とは感覚・刺激のように何かを受け取るという受動的なものではなく、脳内の仮想的身体運動を伴う能動的なものだということになる。赤ん坊の身体運動の発達は、環境からの刺激に対する反応として組織化される。泳いだことがない人は、水に落ちても泳ぐという身体運動をうまく実現できない。泳ぐ練習を繰り返すことで、必要な身体運動を組織化する。いったん組織化が完成すると、泳ぐ動作をイメージしただけで、脳内の泳ぎに関係する運動野が活性化する。ミラーニューロンの発見により、泳いでいる人を見ただけでも同じことが起きることはほぼ確かだと考えられている。
 このことが「共感」と「共有」に通じると考えてもおかしくはない。私たちが短歌を読むとき、単なる字面の意味の理解を越えて、描かれた情景をまざまざと視る思いがするとき、ほんとうにその情景を「視ている」のである。ただし、その情景は現実に目の前にあるのではなく、脳内に起きた仮想的眼球運動として実現する。しかし、情景が目の前になくとも実際に視た時と同じ脳活動が起きるのならば、実際に視ているのと同じことになるではないか。ここからさらに大胆に一歩踏み出して、短歌に描かれた情景によって触発された感情を作者が感じているとき、その歌を読む読者もまた、その感情に関わる脳の部位を活性化していると考えてもおかしくはない。これが「共感」であり、「感情移入」として知られている心理の基盤であると考えられる。
 月本の仮想的身体運動意味論でも説明できないことはまだまだ多く残っているが、もしこれがなぜ私たちは字面の意味の理解を越えて短歌を読むことができるかを解明してくれるとしたら、それはとてもおもしろいことではないだろうか。