146:2006年3月 第1週 鹿野 氷
または、〈虚〉と〈実〉の逆転は喩を経由して

天地のちとおもしろきいそうろうと
      この身思えば手足鮮し

          鹿野氷『クロス』
 作者についての個人的情報をまったく持たずに歌集を読むとき、歌の背後から当人の肖像が少しずつ立ち上がって来る。それは大理石の塊から徐々に人のかたちが表われて来るようでもある。歌集を読むことにはそんな楽しみもある。掲出歌の作者である鹿野氷については、その筆名の喚起する詩的イメージ以外には、結社「月光」「原型」に所属し、『B-BOY 平成歌物語』、『SIZUKU』、『LOVE&PEACE』、『小歌劇』などの著書がある歌人という以外には、その経歴を知らない。歌を読んで私が思い描いたのは、少女期から病弱で、そのためもあり本を読んで空想に耽ることを楽しみとしていた女性というイメージである。掲出歌の「天地のちとおもしろきいそうろう」という自己規定も、このようなイメージに沿うものに思えて来る。「いそうろう」とはここでは無用の者という意味だろう。

 鹿野の歌集『クロス』を通読して考えさせられたのは、短歌における〈想像力の含有率〉ということである。本多稜『蒼の重力』のように、ある時は海外の高峰に登山し、ある時は南洋の海原にスキューバダイビングするという活動的な人生を送る人は、眼の前に次々と新しい風景が展開して飽くことがないだろう。本多の作る歌もその活動性を如実に反映して、力動的かつバラエティーに富む内容となっている。しかしそれほど活動的でない人は、生活の些事を導火線として想像力の糸を紡ぐことで自分の世界を構築してゆく。鹿野は後者のタイプであり、その特徴は語法に表われている。

 一滴の精油に思う東欧の朝露に咲くわがための花

 漂着の瓶のラベルに記されていずや転生その果ての名も

 溺死せし若き神父が呑まれたるワインの色か海の夕映え

 忘れられしアリアもあらな去勢歌手もその名を書きしアルノの水に

 湾めぐる夜行列車にもたれあう人いて愛とも別離前とも

 一首目は上に述べたことを象徴するような歌である。「一滴の精油」は香水だろう。化粧するときに体に付けた香水の一滴がこの歌の題材のすべてであり、作者はそれを核として歌の中心に置き、遠く東ヨーロッパのどこかの国に咲き香水の原料となった花を思っている。結語の「わがための花」の力強い断定が作者の顔をくきやかに浮かび上がらせる。二首目は、現実に海で漂着した瓶を拾ったというわけではなく、すべては想像の産物だと考えたほうがよい。「漂着した瓶」に封入された手紙というのは、いたく想像力を刺激するイメージであり、子供の頃に心を躍らせて読んだ海賊物語によく登場するアイテムである。ここでは封入された手紙ではなく、瓶に貼られたラベルが焦点化され、転生物語へと架橋されている。三首目の現実の要素は「海の夕映え」であり、そこからいつの時代にか溺死した神父という物語が紡ぎ出される。後に触れるが、第四句までは結句を導くための喩であり、序詞と見なしてもかまわない。作者の想像力は羈旅歌において一際翼を得るが、未知の風物を眼にしての感性の拡大ゆえであることは言うまでもない。四首目はルネサンスの古都フィレンツェを流れるアルノ河の水を見て、カストラートと忘れられたアリアに思いを馳せており、「ア」音の連続が心地よいリズムを生み出していることも見落としてはなるまい。五首目はナポリ湾あたりを思い描いてもよいが、夜行列車の二人連れを見てその二人の愛が極点を迎えているのかそれとも消える寸前なのかと考えているのである。いずれもイメージの鮮やかな歌である。

 鹿野はこのように些細な景物を導火線として想像を紡ぎ出すことを好んでいるのだが、それはおそらく生来の心の傾きのなせる業だろう。その感性は鋭く、ときに危うさを感じさせるほどであり、自らも平穏な日常の中に危うさを嗅ぎ取るのである。

 夕立のあかるさの中少女とうあやうきものが柵を越え来る

 大理石(マーブル)に生まれんとする人型のあらたなる悲の予感のごとし

 瑠璃うすき器むざむざ多角なる砕けやすかるかたちに生まれ

 香水瓶に彫られし繊き人魚らもなべてかすかに鬱含むらし

 枝型のフロントグラスの罅にさえ冬は微細に切り込めるらし

 一首目は柵を越えて来る少女に危ういものを見ており、それは夕立と柵を越えるという行為によって表象されている。二首目は大理石の彫刻が題材で、生まれ出て来る人体にすでに悲の予感を感じるところに一種の諦観がある。三首目も多角形のガラス器を見て砕け散る場面を想像しているのである。四首目の香水瓶に彫られた人魚、五首目のフロントグラスの罅もまた、震えるような繊細な感覚を物語っている。

 鹿野における想像力の優位は、短歌語法としての喩の優位として実現されているという点に注意しておこう。歌集を通読して見られる喩の多用は、80年代後半に始まった加藤治郎の言う「修辞ルネサンス」を通過した故というよりは、むしろ鹿野の本来的感性に由来すると考えたほうがよいように思う。次に引いた歌は喩の優位が特に強く見られる例である。

 風の為す千の孤児なるひとつとてわが胸に来し桜花びら

 いくたびか仮に埋めしみずからを掘り出すごとくくるしみは来る

 忘却とう恵みの彼方にあるものを誘うがごとく金木犀香る

 夏よりの憎悪のやり場得しごとくやおらわが病む奥歯のひとつ

 砂あげて夏は水着の女優などまろばせし記憶持つごときベッド

 一首目では、「風の為す千の孤児なるひとつとて」までが散る桜の花びらの喩であるが、実体と喩の関係を〈実〉と〈虚〉の関係と把握するならば、ここでは明らかに〈虚〉の占める割合のほうが大きい。二首目でもやって来た苦しみの実体は明らかにされず、「いくたびか仮に埋めしみずからを掘り出すごとく」という喩の喚起する意味とイメージによってその欠落が喩的に補填される構造になっている。三首目では「金木犀香る」のみが〈実〉であり余は〈虚〉であるが、歌の重点は明らかに〈虚〉に置かれている。五首目はさらに極端で、結語の「ベッド」以外はすべて〈虚〉であり、一首のほとんどが喩から成り立っているという具合なのである。

 歌のなかに〈実〉と〈虚〉を配分し、ダブルイメージを作り出して一首の奥行きを倍加させる技法として喩は大きな役割を果たす。しかし鹿野の短歌においては、喩の投影する〈虚〉こそが作者にとっての〈実〉ではないかと思えるほどに、そのイメージは鮮明なのである。

145:2006年2月 第5週 小泉史昭
または、虚実皮膜のあわひに世界を照射する歌

ヤマト糊のたましひ失せて初恋の
      秘蔵写真が剥がれ落ちたり

         小泉史昭『ミラクル・ボイス』
 初恋の秘蔵写真というから昔の写真だろう。昔は厚紙の重いアルバムに糊づけして写真を貼り付けていた。使ったのがヤマト糊というこれまた懐かしいチューブ入りの伝統的な糊である。糊の効力がなくなったことを「たましひ失せて」と表現したところがこの歌の眼目である。デジタルカメラで撮影してパソコンのスライドショーで写真を見る現代と比較すると、情景自体がセピア色を帯びて見える。時代の流れに乗らず、むしろそれに抗う姿勢がこの作者の持ち味である。

 小泉史昭は1993年(平成5年)に「ミラクル・ボイス」で短歌研究新人賞を受賞している。その年の同時受賞は「陸封魚 – Island fish」の寺井淳であった。小泉と寺井という短歌巧者が並んで受賞し、ふたりとも口語ライトヴァースからは距離のある文語定型歌人であることもおもしろい。『ミラクル・ボイス』は1996年刊行の第一歌集で、塚本邦雄が跋文を寄せている。作者あとがきには、「事実」と「虚構」の二面性に惹かれるものがあり、自分にとっての短歌とは真実らしい嘘を語ることだと述べられているが、この表白から逆照射して考えれば、掲出歌の光景も実際に作者の身に起きたことというよりは、何かを核として創作された出来事だろうと想像される。核はたぶん「ヤマト糊」だろう。

 虚実皮膜という作者の信条から推察されるように、この歌集には写実に基づくリアリズムの歌というものがなく、どの歌にも何かの仕掛けが施してある。言葉は心情の忠実な記号であるよりは、虚実皮膜の世界を構築するレンガ材料として用いられている。たとえば次の歌を見てみよう。

 [1] 塀の中のマナーといふにあらざれど安倍譲二氏のフォークさばきは

 [2] 脂つこい茂吉の歌の匂ひする土用丑の日うなぎ屋の前

 [3] ミレー展みて人並みに涙せりつねあらそひの種まく人も

 [4] 沢庵にのこる歯形の三日月が冴えてこころの中天暗し

 [5] ブルース・リー「死亡遊戯」に斃れたる後の替へ玉の名を知らざりき

 [6] 愛に飢ゑゐし記憶の視野にふりしきる雪よ林檎の歯形錆色

 [7] 身の置きどころなき三階の鉄の扉を叩けりきまぐれに秋風(しうふう)が

 [1] の安倍譲二は1987年に刑務所生活を活写した『塀の中の懲りない面々』で作家の仲間入りをした人であり、上句はこの経歴を踏まえている。フォークさばきが上手だとすれば、それは服役経験の故ではなく、裕福な家庭に生まれ日本航空のパーサーをしていたためだろう。[2] は斎藤茂吉が無類の鰻好きだったことを踏まえている。鰻の脂っこさと茂吉の短歌に時に見られる執拗さを対比したもの。[3] はもちろんミレーの名作「種まく人」を踏まえており、常日頃争いの種をまく人もミレーの名作には涙するという皮肉が込められている。[4] は何かを踏まえているわけではないが、沢庵に残る三日月形の噛み跡を蝶番のように上句と下句のあいだに配置し、「こころの中天」へと繋げる技巧が心憎い。[5] は香港のアクションスターのブルース・リーが映画「死亡遊戯」の撮影中に死亡し、映画の残りは替え玉を起用して撮影したという逸話に基づいている。もちろん替え玉俳優はクレジットにも名前が出ず、その後忘れ去られたのだが、その様があわれだと言っているのである。[6] は誰でも知っている北原白秋の歌が下敷きになっているが、「雪よ林檎の香のごとく降れ」と清新な抒情を詠う本歌と異なり、林檎には変色した歯形がついているという下げ落ちである。[7] の「三階」は「三界」のもじりで、仏教用語では「欲界」「色界」「無色界」をさす。それをマンションの三階という日常卑近な場にスライドさせたところがこの歌の眼目である。

 作者の歌の作り方は、言葉を組み立てて虚実皮膜の世界を作り上げ、そこに現実世界を捻る皮肉と微量の毒を混入するというものであり、塚本風の言い回しを用いれば「一首の苦みは絶後」ということになる。尾崎豊のように校舎のガラス窓を割って回るがごとく世界に徒手空拳でぶつかって自らも血を流すような青春の青さからはほど遠く、虚実皮膜の世界というフィルターを中間に仕掛けそれを通して世界を眺めているため、その距離の取り方が大人の余裕となって現われている。しかし一方では、そのように虚実皮膜の世界というフィルターを介在させているために、「世界と直接向き合っていない」という批判を受けることもあるだろう。だが物事は世界がそうであるようにそれほど単純ではない。

 [8] 韋駄天のやうに時代を駆け抜けしエリマキトカゲのその後をしらず

 [9] 大観展真つ正面の三題の「霊峰富士」にふる酸性雨

 [10] 光琳派もどきの梅に鶯がこころゆくまで微温的なり

 [11] ポインターそこに座したりしかすがに胸糞わるきその忠義面

 [12] 手に職をできることなら金輪際涸れることなき水芸を手に

 [13] 空車てふむなしきくるまを呼び止めつ次のわれらの防御線まで

 [14] 春霞たなびく遠(をち)の山並とむらさき競ふ掌のシガレット 

 [15] ビニ本の封印かたし 春灯のおよばざるわれのこころの闇

 [16] むらぎもの値「時価」とかきさらぎの割烹に吊るし切りの鮟鱇

 [17] 生ビールもわれの心も「冷えてます」朱夏革命の兆しなければ

 [18] ルーズソックス 国の綱紀と軌を一にして真少女のあしもと紊(みだ)る

 主に痛烈な皮肉と社会批判を込めた歌を引いてみた。[8] のエリマキトカゲは1984年に自動車メーカーのCMで人気を呼び、その後急速に忘れ去られた珍獣である。持ち上げては捨て去るマッチポンプのような消費社会への皮肉が込められている。横山大観の描く富士山にも降る酸性雨、花鳥風月に安住する微温性、犬の忠義面も作者の皮肉の餌食となる。[12]はリクルートスーツに身を固めて就職活動に奔走する若者を詠んだもの。[14]には「国際喫煙デー」という詞書が添えられている。もちろんそんな記念日は存在しない。実際にあるのは「国際禁煙デー」(5月31日)である。[15]は「こころの闇」という最近よくマスコミで用いられる大仰な表現を、隠れてビニ本を購入する自分の姿に当てはめることで脱神話化しようとしている。鮟鱇の吊し切りを詠んだ歌は多いが、[16]では鮟鱇の肝と「むらぎもの」を枕詞とする「心」の値とを同時に詠み込んだ点がおもしろい。このような歌にあっても小泉の言葉を操る手つきは練達で破綻がなく、必死で作ったという感じがまったくしない。掛詞・序詞など和歌の技法も駆使して言葉を扱う手つきに大人の余裕が感じられる。

 かといって小泉は虚実皮膜の盾に隠れて矢を放つばかりではない。私が好きな次のような歌には、技巧に溺れることなく現実の些事を弾機として立ち上がる上質の抒情がある。

 [19] 超音波めがね洗浄器のなかの水にもそつと春が来てゐる

 [20] 韓国産松茸飯にほんのりと電気炊飯器ジャーが秋の香

 [21] 物差しではかるたましひ一寸にいくらか足りぬ皿の白魚

 [22] 茶碗蒸しに銀杏ひとつづつ載りて無為に過ぎゆくそれぞれの秋

 [23] 酢につかる生牡蠣の身のモノトーンなど薔薇色の夢見ざりけむ 

 [19] は超音波めがね洗浄器のようなマイナーなアイテムに春の抒情を感じさせた点が秀逸。[20] は韓国産松茸という所に高価な国内産を買えない庶民の哀感があり、その香りがほのかに電気釜に移るというところが泣かせる。小泉が使う「たましひ」という語は、[21]のようにしばしば物質化されている。ここでは春を告げる白魚である。[23]は白と黒の牡蠣の身の色をモノトーンと表現し、外見に似合わず極彩色の夢を見ているかもしれないという想像が楽しい。

 いかに飄逸に振る舞い寸鉄をきかせた言葉を吐こうとも、小泉の歌人としての本質は次のような歌に表われているように思われるのだがどうだろうか。

 鎮魂歌(レクイエム)すなはちおのが魂をしづめむとして夜の水中花

 薄氷に足を滑らせたる不覚しかうしてわれ世紀をまたぐ

藤原龍一郎の駆使するギミックほどではないが、小泉のような歌のスタンスは〈私〉のリアルを重視する短歌界ではあまり評価されないかもしれない。しかしその苦みの混じる味わいと大人の風合いは抜群である。近く第二歌集をまとめると聞く。今度はどんな虚実の世界を展開してくれるのか今から楽しみだ。

144:2006年2月 第4週 山田富士郎
または、神の不在と世紀の悪意に耐える日常

さんさんと夜の海に降る雪見れば
   雪はわたつみの暗さを知らず

     山田富士郎『アビー・ロードを夢みて』
 美しい歌だ。この歌については加藤治郎の委曲を尽した読みが評論集『TKO』にあり(『山田富士郎歌集』〔砂子屋書房〕に採録)、私が付け加えることはさしてない。「さんさんと」と美しく煌びやかさを感じさせる初句から始まり、夜の海に降る雪が提示されるが、下句は転調して暗いイメージに変わる。海は「わたつみ」と古語に言い換えられると同時に、その相貌を一変させて歴史性を帯びる。「わたつみの暗さ」とは歴史性のほの暗さの謂である。雪は海水に触れるとそのはかない生命を終える。だから雪はわたつみの暗さと決して混じり合うことがなく、無垢性の表象として霏霏と降る。海上に降る純白の雪と、その下に横たわる海の暗さの対比がこの歌の眼目であるが、それと同時に「雪はわたつみの暗さを知らず」と感じている隠れた〈私〉がその背後にある。〈私〉は雪の表象する無垢性に参与していないからこそ、雪に注ぐこのような眼差しが成立するのである。二句と四句が八音の破調だが、ほとんどそれを感じさせない強い言葉の流れがある。

 山田富士郎は1950年(昭和25年)生まれで、詩と俳句を経て短歌に辿り着いた歌人である。1988年に角川短歌賞を受賞。第一歌集『アビー・ロードを夢みて』(1990年)で現代歌人協会賞を、第二歌集『羚羊譚』(2000年)で短歌四季大賞と寺山修司短歌賞を受賞している。この二冊の歌集の異色なところは、いずれにも長い後記が付されており、山田の短歌観を述べる評論となっているという点である。短歌自体にはあからさまな批評はなくむしろ抑制された筆致であるだけに、雄弁な後記との対比が目を引く。山田には『短歌と自由』という評論集があり、歌作だけでなく短歌をめぐる批評的考察にも優れた資質を発揮している。私は『短歌と自由』を先に読み、後から歌集を読むという逆の行程を辿った。そのためか『アビー・ロードを夢みて』は80年代の都会的抒情歌集の相貌を備えているにもかかわらず、読んでいて山田の方法意識につい目が行ってしまうのである。

 先にも述べたように、山田は詩と俳句を経て短歌を形式として選択したという経歴を持つ。『アビー・ロードを夢みて』の後記に、「現代詩と俳句の匂いを消し去る」ことを自分の作歌の戒律としていると書いているが、詩的圧縮の技法を現代詩と俳句で鍛錬したことは明らかである。

 南風に海ひろがれば石垣のすきまより出で蛇は輝く

 むごき夏を永久にと吊しおきたりし麦藁帽子朽ちて落つとふ

 電話回線しきりに花を降らすゆゑねむれぬ真昼 鰐にならうか

『アビー・ロードを夢みて』冒頭から数首を引いた。一首目は南風の吹く穏やかな海の情景に始まる歌だが、結句に至って登場する蛇は単なる景物のひとつではなく、詩的言語の圧がかかっている。二首目の夏と麦藁帽子の表象する青春性は寺山を連想させるが、「むごき夏を永久に」にもずいぶんと言葉を引き算した詩的圧縮がかけられていて、生み出された虚が反転して呼び出す連想空間の広がりが大きい。三首目では電話回線が花を降らせるという連辞結合関係に、詩的飛躍を強引に言葉に定着させる技法を見ることができる。短歌は三十一音の短詩型だから言葉を節約するのは当然だが、上に引いたような例には単なる言葉の節約ではなく、意図的に意味の真空地帯を作り出すことで一首の飛翔性を高める意図が見られる。

 山田の短歌を語るとき、その社会批評性が前景化されることが多い。ちなみに藤原龍一郎と島田修三は山田とほぼ同年齢であり、ふたりとも時に露悪的な社会性を短歌に盛り込むことで知られている。山田がこの二人と同世代であることは単なる暗合ではありえず、ここから短歌における世代論へと展開することもできるが、それは本意ではない。

 日本のパンまづければアフリカの餓死者の魂はさんで食べる

 死にも選択の幅ひろがりし世紀とぞドラッグの死ラーゲリの死

 日本は何にでもなる日本は子供のこねる粘土のやうに

  「国旗」に寄す
 立つてゐろ二年か三年すはだかで御子様ランチのライスの上に

 厠(し)が前に置かるる西瓜のやうであり哀しむべきか社会党を

 技術批評はつひにエコールをこえざらむグランドピアノの下の猟犬

山田は基本的に精神のリベラリストであり、教条主義的硬直性と思想的無節操を批判するとき舌鋒は鋭く、時に短歌の枠をはみ出してしまう。最後の歌は技術批評に終始する歌会への批判で、グランドピアノは結社の重鎮で猟犬は忠実な手下なのだという読みは、岡井隆が寄せた『アビー・ロードを夢みて』の跋文でようやく理解したがこれも辛辣である。

 しかしながら特に『アビー・ロードを夢みて』を読んで感じるのは、山田の作り上げる短歌世界の多面性であり、「山田の世界の本質はこれだ」と言い切ることの困難さの多くはこの多面性に由来する。ここでは今まであまり試みられてこなかった切口から入り込んでみたい。それは歌集題名の謎である。

 「アビー・ロード」は言うまでもなくビートルズが1969年に出したアルバムのタイトルで、横断歩道をメンバーの四人が一列になって歩くカバー写真は、その後何度も換骨奪胎され引用された。このタイトルはEMIスタジオがあったロンドン北部の St. John’s Wood の通りの名前に由来する。カバー写真が撮影されたのもスタジオの目の前の横断歩道で、ここは今でも日本人観光客が多く訪れる名所になっている。加藤治郎は「このタイトルは不可解である」とし、「一巻のキーワードではない。ビートルズ云々は、周辺の一挿話に過ぎないのだ」と結論している。確かにこの歌集には上に引用した「まだ死なないなんて」を初めとして、「鮭のぼり始めし河をけふも越ゆもうビートルズを聴くこともない」など、ビートルズを詠んだ歌が数首あるが、全体として大きなウェイトを占めているわけではない。しかし、「アビー・ロードを夢みて」は歌集題名であるだけでなく、一章の題名としても、章のなかの歌群の題名としても使われており、入れ子構造になって三回登場する。単なる挿話にしては露出が多いのである。

 アビー・ロードがどこにあるかはビートルズファンなら誰でも知っている。問題はアビー・ロードがどこへ続くかである。ヨーロッパの都市の道路に地名が付けられているとき、それはたいてい到着先を示している。たとえばロンドンに Oxford Street という道路がある。どうしてロンドンにオックスフォードの名を冠した道路があるかというと、その道をずっと行くとオックスフォードに通じているからである。パリに Avenue d’Italie や Porte d’Italie があるのも、そこがイタリアへの出口となる通りだからである。だからアビー・ロード Abbey Road は「僧院へと続く道」を意味するのだ。

 『アビー・ロードを夢みて』と『羚羊譚』からキリスト教に関係する歌を拾い出してみよう。

 基督教徒山田富士郎しまらくはキリストの肉食はず

 海の紺またおごそかに深まりぬ信仰宣言(クレド)の階を昇りゆくひと

 マラリアの発熱よりもすみやかに信仰は去りイエス親しも

 プリンみたいにふるへる家はあるのだが心が貧しい神父みたいだ

 山田タノわが祖母にして伯父一夫戦中に死せる基督教徒

 夏空のふかき青より降りきたる血のにじむ羽聖書にはさむ

 耶蘇教の墓は松林のうちにあれどわが骨灰は海にまかなむ

 ビルの間に密雲しばし垂れさがる水曜が来る灰の水曜日

 これを見ると山田の一族はキリスト教の家系だったことがわかる。山田自身も一時は自らをキリスト者と規定していたことがあり、その後信仰から遠ざかったようだ。一首目の「キリストの肉」はミサ聖祭で信者が拝受する聖餅(ホスティア)で、告解をして罪の赦しをまだ受けていない信者や、信仰にゆらぎのある信者は拝受を遠慮する。また最後の歌に登場する「灰の水曜日」 Ash Wednesday は、四旬節の始まりとなる水曜日で、もともとは罪の赦しを乞うため樹木を燃やした灰を信者の頭にかけたことに由来する。だからこれらの歌から浮上する意味の層とは、「信仰からの離反」と「罪」を軸とするものになる。このことを踏まえて今一度歌集題名『アビー・ロードを夢みて』を振り返ってみると、そこにはビートルズに代表される60年代の無垢の青春性への憧憬が直示的意味として表象されていると同時に、その裏面には「僧院へと続く道」を歩まんとして果たせなかった慚愧が隠されているのではないか。また山田の姿勢に見られる倫理性はここに由来するのではないだろうか。山田の歌にときどき謎のように登場する蛇にもまたキリスト教の影が濃く、悪魔の化身と知の開祖という両義的役割を付与されているように思える。

 この倫理性から流れ出て来る歌集の主調は、神の不在とそれに取って代わろうとした近代の神話の無効性であり、世紀の悪意に耐える日常である。

 自らの足をあらひて悲しかり呼ぶべき神をわれは持たぬを

 火を放て燃やし尽くせといふごとき純白の蛾時計にとまる

 レーニンの落としたバトンかつさらひスターリンは殴る同志(タワリシチ)の頭

 鉄を噛むごときくやしさ口中に満ちたればああ生きのびるのみ

 横ざまに地に倒しあるくろがねの階(きざはし)に雨今日も昨日も

 メルカトル図法のグリーンランドこそ魂蒼きわが墓場なれ

『アビー・ロードを夢みて』の冒頭は「TOKIO」と題された連作であり、不眠都市東京を舞台にこのような心情が展開されるとき、世紀末の都市的抒情歌集としての相貌を呈するのだが、その根底には山田の骨太の思想的骨格が横たわっていることを見過ごしてはなるまい。

143:2006年2月 第3週 松村由利子
または、残酷と母性の鳥女は私

くりかえし繰り返す朝わたくしの
    死後も誰かが電車に駆け込む

          松村由利子『鳥女』
 たまに東京に行き電車に乗ると、強い違和感を抱くことがある。混み合った電車で人々は視線を合わすことを避け、徹底的に他人に無関心である。混んだ車内で隣の人と肘を付き合わせる距離に立ちながら、徹底的な〈孤〉の群として地下の闇のチューブを運ばれてゆく様は、都市東京の日常でありながら異常な光景である。私はどうしてもこれに馴れることができない。掲出歌も通勤電車のひとコマを詠んだ歌であり、勤め人ならば誰でも一度は抱いたことのある感想だろう。〈私〉はメガロポリス東京の1200万住民の一人であり、いつでも代替のきく社会の歯車にすぎず、〈私〉の死後も何事もなかったかのように日常が続いてゆく。これは震えが来るほどの真実である。「くりかえし繰り返す朝」というリフレインが、アイコン的に日常の無限反復を表象している。

 松村由利子は1994年に短歌研究新人賞を受賞し、1998年に第一歌集『薄荷色の朝』を上梓して注目された。『鳥女』は2005年刊行の第二歌集である。松村は毎日新聞社の記者を経て現在は同社の管理職に就いているキャリアウーマンである。インターネットで検索すると、短歌よりも新聞の署名記事関連のヒットが多いくらいだから、その道では名を知られたジャーナリストなのだろう。『鳥女』には「働く女性」としての夢と希望と蹉跌の全部が盛り込まれている。そういう意味で極めて個人的な歌集と言える。

 誰もみな背骨を立てていることのかなしくもあるミルクスタンド

 気がつけばミントキャンディがりがりと噛み砕きおり会議の後に

 何千足の履き潰されしパンプスの山越え女は役職に就く

 予定稿のろのろと書く画面には国内初の臨界事故死

 反戦の行為ならねど料理記事書く同僚のやや羨しかり

 これらの歌は広義には職業詠ということになるだろう。佐佐木幸綱がどこかの対談で、昔は短歌の担い手として工場労働者や農業労働者の層が存在したが、今では状況が変わってしまい、そういう場からの出詠が少なくなったという趣旨の発言をしていた。例えば昭和22年の『人民短歌』には次のような歌がある。

 乾燥炉のかな錆匂ふ炉蓋とり今日の作業をはじめんとする  林麟道

 木枯しのふき荒ぶ夜の汽車の旅安けくあれと車軸取換ふ  滝田晃聖

 粉末炭吹込風車のかそかなる唸りを聞きつつ汗を拭きたり  中津賢吉

 産業構造と社会の変化に伴いこのような汗の匂うような歌は少なくなった。高度成長と第三次産業へのシフトの結果、労働者のホワイトカラー化が進行したためである。しかし見かけは変わっても仕事の現場で人が感じることにはそれほどちがいはないのかもしれない。村松の仕事場は、事件の一報を合図に殺気立ち怒号が飛び交うような場所であり、またサラリーマンに付き物の人事異動や出世競争がある会社のひとつでもある。サラリーマン短歌と言えば長尾幹也が有名だが、村松や長尾の短歌はある意味で上に引用したような労働歌の直系の子孫だとも言えるのである。

 作者には子供がいるが家庭はない。自分のそのような状況と子供を詠んだ歌もたくさん収録されている。

 月一度新幹線に飛び乗りて子に会いにゆくレプリカの母

 母はこんないびつな鳥を作りたり粘土も人も手に負えぬまま

 カルピスのギフトセットが届く夏そんな家族もつくりたかったが

 ガラス越しに手を振り合える母と子のいよいよ遠き水泳教室

 自分を「レプリカの母」と感じてしまう気後れ、粘土細工で鳥を作るのがうまく行かないように人との関係を築くことができなかったという後悔、子供の成長とともに母子の距離がだんだん遠くなるという淋しさなどが詠われている。上に引いた職場詠にも言えることだが、作者の眼目は自分の置かれた状況を短歌という器で表現することにあるので、それほど修辞的技巧は凝らされてはいない。

 憧れの部分は主として恐竜の闊歩していた古生代に向かっている。

 ミルク色の霧たちこめる朝まだき羊歯も私も白亜紀を恋う

 今よりも世界美しかりし頃クジラの祖先陸を歩みき

 私たちどうして海を出たのだろう失くした鰭をプールで恋うも

 不思議なことだが、女性には水との親和性と並んで古生代へと想像力で直結する傾向があるようだ。男性歌人にはあまりそのようなことがない。

 女性の視点から男性を眺める次のような歌もある。

 キッチンに光あふるるこの朝もどこかで女が殴られている

 鶴となり狐となりて女らはついに子を捨てて旅立ちにけり

 男らは言葉少なに飲み食いし新幹線は獣舎のごとし

 したり顔にイラクを語るこの人も雌雄異体の種の一つなる

 作者はいわゆるフェミニスム論者ではないが、男性をこのように批判的視点から見る歌は個人的体験と並んでジャーナリストとしての経験から出たものでもあるのだろう。

 作者がリアリズムから離れて飛翔するのは歌集題名にもなった「鳥女」の連作においてである。

 わたしくの顔を見つけて立ち止まる幻視の画家の「鳥女」像

 鳥女きろりとまなこ光らせてまだまだ飛べぬふりせよと言う

 わが胸に長く羽ばたかざる鳥の黒き羽毛の抜けやまぬ夜

 くらぐらと口を開けたる沼の辺に鳥女赤き目をして立てり

 「幻視の画家」とは小山田二郎のことで、歌集のあとがきに小山田の「鳥女」を見たとき、これは私だと思ったとある。小山田の絵について論じられる「臆病さと残酷性」「寛容さと嫉妬深さ」を自らのことと感じたという。

 小山田二郎 (1914-1991)はシュルレアリズムに傾倒し幻想的な絵を残した画家で、晩年は世間との関わりを断った孤独のなかで過ごしていたため世に知られることが少ない。私はずっと前に小山田の「ピエタ」という絵をポスターで見て衝撃を受け、それ以来気にしていた画家なのだ。2005年に東京ステーションギャラリーで開かれた待望の回顧展は見に行くことができなかったが、その折りのカタログは手許にある。村松は小山田の「群舞」という絵を歌集表紙に使っているくらいだから、相当小山田に傾倒しているのだろう。

 小山田はフリーダ・カーロと同じように「痛い」画家である。心に鋭い痛みを感じることなくその絵を見ることができない。孤独と煩悶とが強烈な色彩を伴う幻視として形象化されてキャンバスに噴出している。鳥女像に自己を仮託して詠われた上の引用歌は、それまでのリアリズム基調の職業詠とはまったく異なる地平から撃ち出された歌に見える。その地平とは誰も立ち入ることのできないほの暗い内面である。職場での仕事や同僚や上司・部下らとの相関において把握された〈私〉を〈関係的私〉と呼ぶならば、鳥女像に村松が見た〈私〉は〈絶対的私〉である。〈関係的私〉は職場の異動や身分の変化によって動くが、〈絶対的私〉はそのような外的状況によって動かないものである。村松はこの〈絶対的私〉の発見によって歌の新たな根拠を見いだしたのではないか。「動くもの」ではなく「動かないもの」を詠むことで、村松の歌に新たな展開がもたらされるのではないか。そのように思えるのである。

142:2006年2月 第2週 桑原正紀
または、光と闇の陰影深く生を詠う歌

いま我は生(よ)のどのあたり とある日の
     日暮里に見し脚のなき虹

         桑原正紀『月下の譜』
 まぎれもない中年の男の歌である。中年男でなければ「いま我は生のどのあたり」などとつぶやいたりしない。青年はみずからの若さを信じて疑わない。初老の年齢にさしかかった人は、あとは人生の坂を下るだけと知っている。その中間に挟まれた中年は中途半端な期間であり、ふと行き惑うということが起きる。あとがきによれば、この歌集は作者の43歳から47歳までの歌を収録しており、実年齢の実感に基づいた歌であることがわかる。

 上二句が作者の想いで残り三句が叙景になっている。一字空けは二句切れを明示するための工夫だろう。この場合、下三句が上二句の「短歌的喩」(像的喩)として働き、意味を支える内的構造を持つ。では喩の中心となる「脚のなき虹」が暗示するものは何だろうか。作者には虹を詠んだ歌が他にもある。

 ははそはの母をはふりし野辺のはてあぢさゐ色の冬の虹たつ 『火の陰翳』

 梅雨のまの空にかかれる淡き虹、周平の佳き短篇のごと   『月下の譜』

 時雨すぎしなぎの木の上ひとはけの残虹ありぬ人を愛さむ

 一首目は作者30歳のときに享年69歳で亡くなった母親の弔いを詠んだ歌である。冬の虹は淡く、それは身罷ったばかりの母親の生を象徴するように見える。二首目は虹が作者の傾倒する藤沢周平の短篇になぞらえられている。三首目では虹が「人を愛さむ」というつぶやきを導き出す契機として表現されている。これを見ると虹は生の表象として比定されていることがわかる。

 掲出歌の虹には脚がなく途中で途切れている。その不安定な状態は、中年という半端な人生の時期とよく呼応しており、また序詞的に虹にかかる「とある日の日暮里に見し」という修飾句のなかの日暮里という地名の呼び出す意味作用もまた中年にふさわしい。これが六本木とか銀座のような華やかな流行の中心地では話がちがってくる。ちなみに掲出歌は、季刊現代短歌『雁』56号「わたしの代表歌2」で桑原自身が代表歌としてあげており、『現代短歌事典』(三省堂)の桑原の項目を執筆した影山一男もこれを代表歌としているが、そのことはあとで気づいたことである。

 桑原は1948年(昭和23年)生まれの団塊の世代である。國學院大學在学中に影山一男の知遇を得て、その縁で奥村晃作・高野公彦と知り合い、コスモス短歌会に入会している。第一歌集『火の陰翳』はコスモス新鋭歌人シリーズの一巻として1986年に出版されている。歌集に『白露光』(1992年)、『月下の譜』(1996年)、『時のほとり』( 2002年)があり、季刊現代短歌『雁』55号が桑原の小特集を組んでいる。『雁』の特集に文章を寄せた木畑紀子は桑原の短歌に見られる「光と闇」を、吉川宏志は「鋭い観察眼」を、中川佐和子は「都市生活者」としての側面をそれぞれ取り上げている。また全員に共通する認識として、桑原の短歌における師宮柊二の強い影響を指摘している。

 第一歌集『火の陰翳』は題名の示すように、光と闇の交錯する世界を描いて強い印象を残す。

 幾つもの掌(て)のごとき葉に見え隠れ無花果は赫き肉ひらきおり

 闇の中より砂利を踏みつつ現はれて線路工夫らまた闇に消ゆ

 暗き路地抜け出でしとき目を襲ひ驟雨のごとし花舗の裸灯は

 蝋燭の炎(ほ)ととのひの時折を乱れてふかき闇を揺らしぬ

 たっぷりと血や臓物や悪心をしまひてくらし人間の胴

 光と闇の交錯はカラヴァッジオのようなバロック絵画を連想させるが、バロックは本来「動とよじれ」を身上としており、桑原の「静と沈潜」の世界とはかなり異なる。私が連想したのは高島野十郎の絵の世界である。高島は好んでローソクの絵を描いた孤高清貧の画家で、ほとんど世に知られていない。私は久世光彦の『怖い絵』という本で高島の名を知った。キャンバスの中央に燃える一本のローソクだけを描いた絵には不思議な味わいがあり、生涯にわたってローソクや烏瓜の絵ばかり描いていたという偏執性も預かって、忘れることのできない絵のひとつである。上に挙げた桑原のローソクの歌は、木畑紀子も指摘するように、宮柊二の「一本の蝋燃やしつつ妻も吾も暗き泉を聴くごとくゐる」という歌と遠く呼応する歌であろう。しかし当時みずからを「鬱の器」と規定していた桑原にとって、ローソクの淡い光とその周囲の圧倒的な闇は、孤に鬱屈した心象を仮託するにふさわしい歌題と映っていたにちがいない。

 私は桑原の歌集を全部読んだわけではなく、『月下の譜』のみを通読し、その他の歌集はアンソロジーを読んだに過ぎないのだが、『火の陰翳』のような闇と孤独に身を浸すような詠風は徐々に変化を見せたようだ。木畑紀子は、第一歌集に身辺に題材を採ったものが多いのがふつうだが、桑原は逆で歌集を重ねるにつれて素材が身近になると指摘している。確かに『月下の譜』には次のような身近な題材をもとにした歌もある。

 歓迎のレイつぎつぎと取り出だす箱に記せりカリフォルニア産と (ハワイ旅行)

 何の霊か棲める気配にひそひそと雨ふりしづむ東京地裁  (勤務校の訴訟)

 一戦を交じへしのみに達川は西部の打者の癖見抜きしと  (広島カープの野球試合)

 千万の仮想譜思へば一局の棋譜さんらんと星座のごとし  (将棋の対局)

 出くわせる牛におどろき跳びのきし大松達知都会つ子なり (中国旅行)

 吉川も「闇のなかに光が差してきたようだ」と桑原の詠風の変化に言及している。しかしながらこの変化は、光量の増加とか身辺に素材を求めるようになったというような表層的な変化ではあるまい。桑原は一種の「覚悟」のような境地に到達し、そこから反転して「軽み」を体得したように思える。それと同時に小さな命の証を愛しむ眼差しが強く感じられる。 

 いのちとは漏刻ならむ最終のひとつしづくをかなしみおもふ

 反転のきかぬ砂時計身にもてばさらさらに愛しその金の砂

 春雨にけぶる公園を濡れて行く一匹の犬 生の典型として

 頬ちかく吐かれし息のほのけきをよみがへらせてほうたる火(とも)る

 うすら氷に鎖されし湖(うみ)のあをき水そのしづけきにこもる少年

 一首目、人の命を水時計に譬え、その最後のひと雫に思いを馳せている。二首目もよく似た歌で、体内に持つ砂時計は命の比喩にほかならない。「その金の砂」という結句に愛しさが感じられるとともに、遠い師脈の北原白秋を思わせる。三首目は口語脈の強い歌で、技巧的な桑原にしては素直に詠んだ歌に見えるが、野良犬を生の典型として把握するところに桑原の到達した境地が垣間見える。四首目は「ホ」音の連続が歌全体にかすかな息のような印象を与えている。ホタルもまた命の表象であることは言うまでもない。五首目では「うすら氷に鎖されし湖のあをき水」までが序詞として美しいイメージを醸成している。

 桑原の歌の作りの巧みさは第一歌集『火の陰翳』から際立っているが、翌年1987年のサラダ現象を機にライトヴァースが流行し、また加藤治郎らのニューウェーブ短歌が注目を集めたこともあり、ややその陰に隠れた感は否めない。しかし『月下の譜』収録の次のような歌を見ると歌の作りの手堅さは明らかである。

 手囲ひにライターを擦る男ゐて頭上おほいなる夏の雲湧く

 黒髪をすべり逃れしヘアピンが電車の床に灯をかへしをり

 雨かぜに晒さるるなきコンコースを行く人らみな濡れし傘もつ

 一首目、手囲いの中の暗さと空の雲の明るさが鮮やかに対比され、またライターを擦る男には物語性が強く感じられる。二首目の床に落ちたヘアピンの輝きや、三首目の乾いたコンコースを行く人が濡れた傘を持つというおかしさをすくい上げる目には、鋭い観察力を見ないわけにはいかない。

 最後に特に印象に残った歌を三首あげておこう。

 ただよひてゐたる未生の言葉らも今はしづけく白水に帰す 『白露光』

 はつかなるえにしのありてこの猫と朝の閻浮の水わかち飲む

 摘みきたる桔梗いちりん手向くれば墓碑のおもてのかすか明るむ 『時のほとり』

141:2006年2月 第1週 観覧車の歌

 今回の「観覧車」のようなお題特集を書くときには、めざす単語を含む短歌を探して歌集を何冊も当て所もなく渉猟するのだが、そうしているとおもしろいことに気づく。単語の含まれ方に歌人によって明らかに差が見られるのである。名詞の多い人と名詞の少ない人がいる。たとえば藤原龍一郎や生沼義朗は名詞が多い。

 歳月は蜜の香火の香新宿の地の底林檎劇場(シアター・アップル)ありて  藤原龍一郎

 可視光線不可視光線絡まりて日曜の銀木犀を照らしぬ  生沼義朗

名詞が多いと漢字が多くなり、動詞の数は少なくなる。藤原の歌では「あり」一つ、生沼の歌では「絡まる」「照らす」の二つである。探しているお題が名詞のときには、こういうタイプの歌人の歌集を探すとヒットすることが多い。逆に名詞が少ないのは江戸雪や東直子である。

 どうしてこの人なんだろう もつれたる風草の辺にともにしゃがむよ  江戸雪

 いつまでもですます調で語り合うわたしたちにも夏ふりそそぐ 東直子

名詞が少ないと漢字の数が減るのは当然として、動詞の数が増えるかというと必ずしもそうではない。「どうして」のような疑問詞や話し言葉的表現が増えることがあるからである。

 また歌に含まれている単語の種類にも歌人によって大きな偏りがある。山・河・草・鳥など自然物の割合が他を圧している歌人もいるかと思えば、都市を背景とする人工物ばかりが登場する歌人もいる。両者が歌に描き出す光景は対照的である。

 濃きいろに黙す夕ぐれ戦ぐもの耳立てて待つ巣穴の狐  百々登美子

 エンジンの焼ける匂いを嗅ぎながら湾岸環状線へ突っ込む  谷岡亜紀

また登場する単語の意味レベルもさまざまである。「空」「坂」「橋」「岸」のように、どこにあってもおかしくない普遍的な普通名詞ばかりを使う歌があり、それとは逆に固有名を頂点とする具体性と土着性に富む名詞を使った歌もある。

 ゆびひとつ触れることない慎重さ保って雨の坂を見おろす  小林久美子

 そのうちに行こうといつも言いながら海津のさくら余呉の雪湖(うみ)  永田和宏

 普遍的な普通名詞を多用する歌は非人称的であり、歌の味わいは散文詩に近づく。具体性に富んだ名詞を使った歌は人称的であり、個人へと収斂する読みを誘う。

 さて、本日のお題「観覧車」である。ものの本によると観覧車の起源は17世紀ブルガリアに遡るとされている。18世紀のロシアでは農奴が回す人力観覧車が貴族を楽しませていた。電力による観覧車は1893年のシカゴ万国博覧会のものが最初であり、設計者の名を採って今日でも英語では観覧車を Ferris wheel と呼ぶ。日本では1907年の東京勧業博覧会のものが最初で、のちに浅草に移設されたという。1907年というと明治40年だから、それ以前の短歌では実景としての観覧車が詠まれたことはないことになる。短歌では新しい景物なのである。

 観覧車といえば遊園地に設置されているものとほぼ決まっている。最近では大阪の梅田ビル街とかロンドンのテムズ河畔のように、遊園地ではない市街地に作られたものもあるがあくまで例外に留まる。したがって観覧車が喚起する意味として考えられるのは、まず遊園地の愉しさというものだろう。

 観覧車回れよ回れ君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)  栗木京子

有名なこの歌では遊園地で一日を過ごす男女のカップルが詠まれていて、観覧車が通常呼び出す意味を踏まえている。しかし主題となっているのは、男女の恋における温度差であり、女性の方の片務的な想いの深さを思わせるように観覧車はゆっくりと回転している。

 観覧車のぼりゆきたるたまゆらを秋に傾くふたりの錘り  辰巳泰子

この歌でも男女ふたりが観覧車に乗っている。ところが下句「秋に傾くふたりの錘り」の解釈は微妙である。「ふたりの錘り」が男女の関係の均衡・緊張をさしているとして、「秋に傾く」を「秋の方向へと傾く」と仮に解釈するならば、秋は英語でfallだからこれは恋心が冷えてゆく歌だということになる。どうもそのように解釈した方がよいと思えるのは、遊園地での観覧車の愉しさを詠んだ歌は皆無であり、逆に観覧車が何かの衰退・凋落の喩として用いられている歌が多いからである。おお、歌人というのは何とネガティヴ・シンキングの人種であることか。

 観覧車ひとつひとつの筺がしまうものは見えざり会者定離など  梅内美華子

 この歌もまた観覧車のゴンドラに共に座っている人も、一回転が終わって降りればまた別れる定めということが詠われている。「会者定離」は仏教用語であり、回転する観覧車がまるで輪廻の車のように見えてしまうのである。

 二人分の孤独を乗せて後戻りできぬ高さを観覧車越ゆ  十谷あとり

 本来ならば楽しいはずの観覧車が「二人分の孤独を乗せて」ということは、心を通じ合わせることのできない二人なのだろう。観覧車が後戻りできない高さを越えることは、二人の関係の修復が不可能なことを暗示している。

 ここまでは二人で観覧車に乗っている歌である。しかし次の歌はいささか趣がちがう。

 百年も夜がつづいてゐたとおもふ観覧車のいただきに着くころ  林和清

 雨にけぶる観覧車にて録音は見えざるものをあれこれと言ふ  真中朋久

 林の歌は恋人が二人で観覧車に乗っている情景ではない。連作「ルミナリエ」中の歌であり、「また百年夜がはじまるルミナリエの祈りが街を埋めつくしても」という歌と呼応している。ルミナリエは阪神淡路大震災の犠牲者を追悼し疲弊した地方経済を活性化するために始められた行事である。だから「観覧車のいただきに着くころ」には深い悲しみから一応は脱した慰藉が感じられる。

 真中の歌も男女の恋人が乗る観覧車ではないだろう。強いて言うならば幼い子供と乗っているのだろうか。録音のアナウンスが誇らしげに説明する景観と、雨でそれが見えないという現実の乖離がこの歌の眼目である。

 観覧車に乗っているのではない視点から作られた歌もある。

 限りなく羽毛降る午(ひる)海浜の大観覧車の解体進む  谷岡亜紀

 埋立地の地霊を具象するものは青海埠頭の大観覧車  生沼義朗

 第三の男はぼくでありきみだ大観覧車骨組みあらわ  加藤治郎

 谷岡の歌はどことなく世の終わりの風情を匂わせていて、観覧車の解体という物寂しい光景がそれを強化している。生沼の歌はまぎれもない都市詠である。鈴木博之の好著『東京の地霊 (ゲニウス・ロキ)』でも縦横にに論じられているごとく、歴史のある場所には地霊がある。京都のような古い町では、住民は地霊の上で暮らしているようなものだ。しかし埋立地は新しく生まれた地面であり、歴史を背負っていないため地霊がない。代わって地霊の代理をするのは、休日の小市民の娯楽のシンボルとしての観覧車というわけである。

 観覧車というとキャロル・リード監督の名画『第三の男』を思い浮かべるのはある程度以上の年代の人だろう。オーソン・ウェルズの演技とアントン・カラスのチターの音楽が記憶に残る。加藤の歌はこの映画を踏まえている。戦後の混迷の中を生きる第三の男と、骨組みが剥き出しになった観覧車に、今の時代を生きるわれわれを重ねているのだろう。

 かくもネガティヴな回路で捉えられている観覧車だが、ホジティヴな憧憬の対象とされる歌もないわけではない。

 寝ねし子をうつせる夜の車窓には遠く灯の輪となる観覧車  吉浦玲子

 ディズニーランドからの帰りだろうか。一日遊んで疲れた子は車内で寝ている。子供が映った車窓には遠くに観覧車が見えている。観覧車は光の輪として描かれており、いましがた子供と乗ってきたものであっても、遠くから改めて眺めれば美しいものとして描かれている。

 ビル抱く暗き淵よりせりあがり観覧車いま光都を領(し)れり  沢田英史

 私が見つけた観覧車の歌のなかでもっとも美しい歌である。都会の暗がりから上昇する観覧車は、イルミネーションに照らされた不眠都市の輝きを圧するようにその上に君臨する。観覧車は暗き淵からの浮上を希求する現代人の憧憬の形象化に他ならない。

140:2006年1月 第4週 一ノ関忠人
または、連綿たる和歌の伝統のなかで男の述志を詠う歌

多武峰もみぢしづかに燃ゆるいろ
    たまゆらあそべ父のいのち火

          一ノ関忠人『群鳥』
 掲出歌は「大和國原」と題された連作のなかの一首で、作者が病を得た父親とともに奈良に旅した折りの歌であるが、その後亡くなった父親への鎮魂歌となっている。多武峰は中大兄皇子と藤原鎌足が大化改新の談合をした歴史的場所で、紅葉の名所として知られている。歌枕とまでは言えないにしてもそれに近い。だから「多武峰」に「もみぢ」と続くのは、古典和歌の没我的な共同体的美意識を拒否し、個の発想を重んじた近代短歌のテーゼからすれば、まっさきに批判されるべき陳腐さということになる。作者はもちろんそれを十分に承知したうえでこのように詠っているのであり、ここには短歌定型とは何かという問題に対するひとつの明確な姿勢があると考えてよい。個の浮遊と戯れ、口語とライトヴァースの氾濫を苦々しく思う作者は、あえて時代の趨勢に逆らっているのである。

 一ノ関忠人は1956年(昭和31年)生まれ。中学二年生のときに三島由紀夫の割腹事件があり、残された辞世により短歌という形式を意識するようになったという。國學院大學に学び岡野弘彦に師事し、大学院では折口信夫を研究している。第一歌集『群鳥』(1995年)、第二歌集『べしみ』(2001年)、セレクション歌人シリーズ『一ノ関忠人集』がある。

 その経歴から容易に想像されるように、一ノ関は短歌というものを明治の和歌革新以来100年の歴史を持つものとしてではなく、万葉以来1300年の時間の降り積もった文学形式と見なしている。このため現代歌人のなかにあっては例外的に古格の漂う歌風を持つ。文語定型こそ短歌の本道という信念に基づくものである。しかしその古き器に盛る内容が近代短歌を潜り抜けたテーマとなっていることは言うまでもない。そうでなければ現代において短歌を作る意味がない。現代短歌の作者がややもすれば極私的〈私〉への視野狭窄に陥りがちなのとは異なり、一ノ関の抱えた大きなテーマは「時代」、それも昭和という時代である。『群鳥』はさながら父親への鎮魂歌集の観を呈しているが、一ノ関がここまで父親に拘るのは肉親としての情もさることながら、一ノ関の父親が昭和元年に生まれ昭和という時代の終焉とともに生を終えたという象徴的意味合いを持っているからに他ならない。

 一ノ関が拘泥する主題に添って見てみよう。まず目に付くのは死と踵を接する生への不安と怖れを詠んだ歌群である。

 いのち濃き鶉の胸毛むしりたりあかねさす雲なだるる夕べ

 夕光のまぶしき道におもひをり泥中蓮のくれなゐのいろ

 熟しきつたるぶだうの匂ひわが部屋に充ちたり死者の影さす夕べ

 一番星見つけたる子も死のはうへゆるやかながら歩み近づく

 鶉の生命が反照したような夕焼け、泥にまみれた蓮の紅色、生命の横溢するブドウと死者の影。生は死を前提として成立しており、死は決して生の終着点ではないという認識がここにはある。浄土真宗の宗門改革に命を削った清沢満之の言葉を借りれば、「死もまた我等なり」なのである。

 現代短歌において男歌は述志の歌となる傾向があるが、一ノ関もその例外ではない。心に滾るものを詠んだ次のような歌がある。

 昭和ヒトケタ父より享けし血脈のたかぶりてわれも馬賊たらむか

 ひそかなる動亂ありぬわが卓の柘榴わづかに爆ぜたるのみの

 子の兜あやめにかをる五月闇劇しきものをわれは戀ひをり

 昔むかし戀に死にける男ありきカフェ・カプチーノ咽喉灼く熱さ

 述志はかなきか世紀末越えむとしつつ熟柿のにほひ

 昭和一桁生まれの父の血に大陸に雄飛した馬賊の幻影を見る一首目。夜の食卓にはじけるザクロに密かな動乱を期待する二首目。子の成長を願う端午の節句の武者飾りにまで暗く激しいものを希求する三首目。昔物語に恋に死んだ男を思いつつ、自分はカフェ・カプチーノなどというこ洒落た軟弱な飲み物を飲んでいるという四首目。ここには時代の流れに身を投じて自らの生を燃焼させたいとする強い願いがある。

 がしかしである。現代短歌における述志の歌はことごとく志の不発を詠うよう宿命づけられている。これの世にもはや満州のごとき新天地はなく、革命の幻想も夕映えのかなたに去ったからである。すると次のように声低く我が身を振り返る歌になる。

 臆しつつ生きゐるならむ燻製卵いぶせき黄身に咽喉むせかへる

 多摩川の堰こす水のたぎついろ眞旅するなきわれが見てゐる

 われに似るさが持つ者をはぐくめる妻をひそかに憎みゐるなり

 子をなして流離かなはず橋ゆけば橋の彼岸に石神笑ふ

 退轉と言はばいふべし乳母車押しつつ底ぬけに青き冬空

 武器をとることなき腕に子を抱けり激情はかく馴らされてゆく

 作者は定時制高校の教師となり、結婚し二子を得て家庭人として市井に暮らすことになる。そんな微温的な暮しのなかで燻製卵にむせる一首目。万葉の時代や西行のように眞旅することもなく、通勤電車に揺られて多摩川を越える自分を詠う二首目。自分に似た子孫を残すおののきを詠う三首目。流離の思いにかられつつかなわぬ自分を詠む四首目。自らの境遇を退転と自嘲する五首目。これらはまぎれもなく述志の歌であると同時に、日常のなかでの自己の不完全燃焼を詠う歌であり、その味は獣の肝のように苦い。

 かくして心をはるかな時空に遊ばせて身を燃焼させた人物たちに思いを馳せるとき、歌は挽歌の趣を深くすることになる。

 毛(マオ)と呼ぶ男、長身のゆらぎ立ち晩夏の河の夕暮るるなり

 能登の海にまぢかき砂丘これの世にくるしみし父子の墓うもれ立つ

 さらさらに男さびしき憂國忌夕べ鳥鍋に脂きらめく

 繁り濃き櫻のふる木に縊れたる北村透谷のぶらぶらの屍

 毛沢東を詠んだ一首目は『群鳥』屈指の美しい歌である。「長身のゆらぎ立ち」という身体描写に続く下句の連なりは「晩夏」=「挽歌」の連想をも誘って、革命という理想の色褪せた現代を凝視する。二首目は折口信夫と春洋父子の墓を訪ねる歌で、一ノ関は折口を通じて日本的なるものを学び、自らを「世に馴れぬ国学の徒」と呼んでいる。三首目は美的幻想の中の天皇に殉じた三島由紀夫を詠んだもの。四首目は革命的ロマンチズムを追求し25歳で縊死した透谷である。すでに書いたことだが、一ノ関は三島の残した「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜」という辞世に接して短歌という文学形式を意識したというから、印象的な事件だったわけである。高度経済成長と大阪万博に浮かれていた日本人にとって、切腹と辞世などという前近代的制度がひょっこり顔を出した異様な事件であったが、その意味は戦後民主主義と経済成長のなかで深く問われることもなく、一奇人の愚行として忘れ去られた。一ノ関はそれに拘り続けたわけだ。

 一ノ関にとって昭和元年生まれの父親が過去の人ではないのと同様に、昭和という時代もまた容易に総括することを許さない時代なのである。

 ながらへて戰後を生きるくやしさを繰り言として父や老いたる

 ことしの死者おもひ獨り酒に酔ふ昭和六十九年暮れたり

 昭和日本紀 たとへば父の生と死をかたればすなはち戦争におよぶ

 おびただしき血が流れこの百年の日本紀書かれなば記述惨たり

 朕と呼ぶこゑのひびきにひれふして泣きたるや乳の銀縁眼鏡

 抑揚の乏しきこえ聲に帝國の滅びを告げしより半世紀

 昭和は天皇と戦争と夥しい死者の時代であり、戦後民主主義の昭和はそれを正しく総括していないとの思いがこれらの歌にはある。だから64年で終わったはずの昭和は、平成の世になっても一ノ関のなかでは終わってはいない。これほどまでの昭和という時代への拘泥は、戦犯の家庭に生まれ「祖父(おおちち)の処刑のあした酔いしれて柘榴のごとく父はありたり」と詠んだ佐伯裕子、また「昭和史を花のごとくにおもふとき衰へはいつも花の奥から」と美しく詠う佐々木六戈に類例を見いだすのみである。〈兄たちの世代〉という設定によって戦後という時代に鋭く問いかけたのは平井弘であったが、一ノ関は〈父たちの世代〉を測鉛として昭和という時代に問いかけるのである。

 そんな一ノ関の思いは当然ながら、生者とともにあるよりは死者とともにあることのほうが多い。

 いさぎよき生のあはれをおもふとき空のふかみをわたる鳥影

 うら若き父たちよこの冬空のふかきに入りてかへらずなりぬ

 おほははの髪うつくしうふかれ立つ夜の廊のむかう亡き祖父笑むや

 セレクション歌人シリーズ『一ノ関忠人集』に収録された散文のなかで、一ノ関が辞世や死刑囚の歌に思いを寄せているのはこの証であろう。一ノ関は「死と短歌は不可分のもの」とする短歌観を持ち、短歌について「日本語の原点、原罪としての短歌に、その可能性を探る」(『現代短歌100人20首』邑書林)という信条を吐露している。歌という文学形式の夜の底に沈んでいる澱のごときものに目を向ける若手歌人は数少ない。その意味において一ノ関のスタンスは独自であり、叙景歌・挽歌・羈旅歌に加えて父を悼む長歌まで作る手法の幅広さと手練れ振りは、スーパーフラット的平板さが目立つ現代短歌シーンにおいて注目に値するのである。

139:2006年1月 第3週 梅内美華子
または、感官に映し出された世界の抒情

みつばちが君の肉体を飛ぶような
      半音階を上がるくちづけ

           梅内美華子『若月祭』
 若い女性の短歌の場合、相聞にその力が発揮されるのはごく当然といえる。愛恋の喜びと苦しさは人を強く揺り動かす。そこに感情の波動が生まれ歌が生まれる。梅内の掲出歌もまた恋の歌であり、それもくちづけの歌である。くちづけの陶酔を蜜蜂のぶんぶんいう羽音と半音づつ上昇する音階に喩えて、性愛の高揚感を歌にしている。おもしろいのは「みつばちが君のまわりを飛ぶような」ではなく「肉体を飛ぶような」となっている点だろう。「君のまわりを飛ぶ」ならば単なる音の喩としてしか働かない。しかし「肉体を飛ぶ」というやや突飛な表現を選択することで、羽音が肉のなかから立ち上がるような印象を与え、性愛の身体性を表現することに成功している。このような一見強引とも見える喩は、当初から梅内の文体的特徴として指摘されてきたところである。

 梅内美華子は1970年(昭和45年)に青森に生まれ、11歳のときから短歌を作っていたという。同志社大学に入学して第5次京大短歌会に参加している。第5次京大短歌会といえば、それまで休眠状態であったのを九州から出てきた吉川宏志が再興した時期で、京大短歌会黄金時代のひとつである。歌誌「かりん」所属。1991年に「横断歩道(ゼブラゾーン)」50首で角川短歌賞を受賞している。第一歌集『横断歩道(ゼブラゾーン)』(1994年)、第二歌集『若月祭』(1999年)、第三歌集『火太郎』(2003年)がある。

 角川短歌賞を受賞した「横断歩道(ゼブラゾーン)」には、今では有名になった次のような歌がある。

 階段を二段跳びして上がりゆく待ち合わせのなき北大路駅

 空をゆく鳥の上には何がある 横断歩道(ゼブラゾーン)に立ち止まる夏

 生き物をかなしと言いてこのわれに寄りかかるなよ 君は男だ

 一首目「待ち合わせのなき」に焦点化される青春の軽い虚ろさ、表題ともなった二首目の横断歩道(ゼブラゾーン)に形象化される青春のまだら模様の陰翳、三首目の結句の断言が示す若い男女の新しい関係性、このような要素が、サラダ現象以降のライトヴァースの波に洗われた短歌界において、新しい女性の感性を表現する短歌として歓迎されたのである。木漏れ日のような光と影はあっても、自我の浮遊感や不全感はここには見られない。青春特有の迷いはありながらもぴんと伸ばした背筋があり、現代の若手男性歌人の多くが自我の未決定性に悩んで眉根に皺を寄せているのとは対照的である。

 体感を基軸とする歌は『横断歩道(ゼブラゾーン)』のひとつの特徴である。

 釣糸のごとく降りくる蜘蛛はひかり雨上がりたる匂いを揺らす

 われよりもしずかに眠るその胸にテニスボールをころがしてみる

 ゆるま湯のごとき話に首を振るパルメザンチーズ舌に溶かして

 ラベンダーの香を焚きつつ汗ばみてゆく肉体を蔑していたり

 われの何を壊さぬように撫でいるか髪に触るる手湿りていたる

 一首目の雨上がりの匂い、二首目のかたわらに眠る人のかすかな吐息、三首目のパルメザンチーズの味、四首目のラベンダーの香り、五首目の髪を撫でる人の湿った手触り。こうして見るとわかるように、男性歌人が往々にして観念的な世界把握の方法を選択するのとは対照的に、梅内の歌の根底には皮膚的体感を通じて世界と接するという感覚が顕著である。

 川野里子は「かりん」2000年4月号に「世界をあばく感官」という文章を書き、そのなかで梅内の短歌世界を次のように総括している。

 「もし、『若月祭』を注意深く読むなら、九十年代以後おそらく最も新しい表現の方向が示されていることに気づくだろう。そこには身体感覚という世界把握の方法が息づいており、輪郭を失いつつある世界に潜り、沿って捉え、また暴いてみせている。その最も深いところに官能を伴ったエネルギーが隠されていることは見逃せない。」
 川野は梅内を河野裕子と比較し、河野が登場したとき「全身の感官を開いて世界を感受するような言葉とその新しさ」にみんな驚かされたという。篠弘の言うところの「体性感覚」である。梅内はその点において河野と共通するところがあるが、ちがいがあるとすればそれは、「河野と異なるのはどこか命の循環などの全体性をあきらめたところから出発せざるを得ない、もっと見えにくい世界に向かって感官を開かざるをえないという時代の宿題をかかえていることだろうか」と続けている。川野ならではの鋭い指摘であり、私には何ら付け加えるものがない。

 梅内の体感エネルギーはしばしば定型の枠を打ち破るためか、『横断歩道(ゼブラゾーン)』には破調の歌が多く、定型意識の緩さが指摘されることもままある。

 マニキュアの爪の吸われてしまいそうな牡丹は狭庭に大きすぎたり

 明るく話すことに疲れている昼に喉を冷たくおちるカフェ・オ・レ

 われらいつまで花火を眺めておれるのかギムレット黄砂のごとく揺らめく

 口語と文語の配合に稚拙さの残る歌もあるが、第一歌集特有の清新さがそれを補って余りあるというところだろう。このように世評の高い第一歌集であるが、たんねんに読むとよくわからない歌もある。

 わが知らぬ君の恋ほど明るくて木星の目を恋いつつ眠る

 炎天の下へとびだすまでの胸水濁りいてその水憎し

 ざりざりと耳含まれて笑いおる男 一気に食べてしまえず

 「わが知らぬ君の恋」はわかるが、なぜ「木星の目」なのだろう。どうもここには作者だけにわかる意味の飛躍があるようだ。二首目の「炎天の下へとびだすまでの胸」も意味が取りずらい。三首目になると正直かいもくわからないのである。若さゆえの筆の走りというべきだろうか。それとも読むこちらの感覚が鈍いのか。

 第二歌集『若月祭』になると歌の作りはぐっと落ち着きを増す。感覚の横溢が定型を突き崩すような歌は少なくなり、その分だけ定型意識が強くなったと見受けられる。

 風立ちてマロニエとわれをあばくときじっと動かぬ皇居の森は

 夏の風キリンの首を降りてきて誰からも遠くいたき昼なり

 ティーバッグのもめんの糸を引き上げてこそばゆくなるゆうぐれの耳

 給油所に赤く灯れるアポロンの横顔の先に春はひろがる

 いつかわれ雪食らう子を追うらむかあめゆき鼻に降りかかりたり

 冬の椅子恋と呼ばざるわれらいて長くそこより見ている裸木

 すべて字余りの句を含んでいるが、定型のリズムを壊すようなことはなく短歌的にうまく回収されている。「昼食べしバルチックカレーなつかしく夏の孤独は胃の腑のかたち」のようにうまくまとまった歌がある一方で、「あやつれぬ心か男 竹箒しばらく持たぬ手には長かり」のような歌もある。どちらに作者の心がストレートに出ているかといえば、もちろん後者の方である。『若月祭』を読んでいると、梅内はどちらの傾向の歌を作りたいと思っているのか、わからなくなるところがある。作歌技術が向上すれば短歌的にまとまった歌が多くなるが、その反面ストレートな感情が表現されている歌は減ってしまう。ここには大きなジレンマがある。

 第三歌集『火太郎』は読んでいないのだが、『現代短歌最前線 上巻』〔北溟社〕に『若月祭』以降の雑誌に掲載された歌がある。

 結界は空にもありややぶれたる桐のビロードの花をひろいぬ

 白鳥はいつしか白きKEYとなり鈍色の湖に差されていたり

 語るべき一本の芯見えぬ昼ほのおを盛りてドラム缶燃ゆ

 秋の皿掬いあげれば水影の揺らめくなかに青き鰭消ゆ

 夕水のほたる呑みしか君が母ほのかにともりわれを待ちおり

 口語が減り文語の比重が高まっていると同時に、青春の日常と相聞から次の段階に踏み込んでいる様が見て取れる。それと平行して、川野が指摘した「身体感覚という世界把握の方法」もまた、歌の表面からはきれいに拭い去られている。それに代わってどのような方法論を獲得してゆくのか、これが梅内の課題だと思えるのである。

138:2006年1月 第2週 市原克敏
または、呻吟しつつ虚空に神を求める歌

落下する骨と螢と石ころと
    見ているわれとモナドと神と

           市原克敏『無限』
 日常的現実はこの歌のなかにはいささかも詠われていない。「骨と螢と石ころ」は確かに現実の実在(の概念)であるが、その三者相互間に何らの連関もなく、「ホネ」「ホタル」の頭韻がかすかな音的架橋として働いているものの、それはこの歌においては挿話的でしかない。この歌は「~と」で等位接続された項目が並ぶという異色の構造を持っているが、上句と下句の間に明らかな断絶がある。上句の「骨と螢と石ころ」は落下するところを「見られている」側であり、下句の「われとモナドと神と」はそれらの落下物を「見ている」側である。作者には「抛られたる一ヶはわれの骨となり一ヶはとおく砂上をあそぶ」という歌があり、好んで自らの肉体を「骨」として表象する発想が見られるから、上句の「落下する骨」は重力の支配を受ける形而下的肉体をさすのだろう。「螢」は昔から死者の魂の表象として短歌に現われているので、「骨」を肉体と取ったついでに「螢」を魂と解釈し、ここに心身二元論を見ることもできるかもしれない。「石ころ」は〈私〉と関係のないこの世の事物の代表である。一方、見ている方の「われ」は、何とライプニッツが構想した究極の単子であるモナドと神の側に立っている。つまり、この世界の生成流転を超時的視座から俯瞰しているのであり、この「われ」は形而上的認識主体しての〈私〉にほかならない。〈私〉は肉体と魂と認識主体の三様に分裂している。

 日常生活の喜怒哀楽と徹底的に切断された観念的な短歌である。作者の市原は「僕の歌はメタフィジカルな歌だと言ってほしいんです」と語っていたそうだから、これは意図されたものなのである。日常生活の塵埃と無関係な宇宙的短歌というと、SFファンタジー系の井辻朱美が頭に浮かぶが、内容はまったく異なっている。市原の短歌を特徴づけるのは〈私〉と神をめぐる肺腑を絞るような煩悶であり、これは井辻には無縁なものである。

 市原克敏は1938年(昭和13年)に生まれ、木村捨録との出会いを通じて林間短歌会に入会し、その後同会編集人を長く務め、1997年に創刊された『短歌朝日』の編集にも参加した。歌歴は長いが歌集は遺歌集となった『無限』一冊のみである。市原は2001年に急性骨髄性白血病を発症し、闘病の末2002年5月3日に永眠している。『無限』は跋文を寄せた村山大和により編集出版されている。巻末に賤香夫人の筆による闘病記が付されているが、一個の人間が死へと向かうあり様を描いて余すところなく、読んでいて慄然とする。

 『現代短歌大事典』〔三省堂〕には「作風は、思索的色合いが強く、抒情は硬質である」とあり、代表歌として「なおもがく廃馬に似つつ〈永遠〉が暗き銀河に溺れていたり」があげられている。確かに市原の短歌は思索的・哲学的であり、それは市原が若い頃キリスト教に触れ、それ以来〈神〉を思い続けてきたからである。市原の思索的傾向は次のような歌によく現われている。

 存在の雲の方へと白鳥が旅をしているクォーククォークと

 遠ざかる粒子一個に遠ざかる星としてあるわれはおそらく

 そこに夜を小石のようにいま落とす待つコスモスの輝く瑕へ

 一首目のクォークは物質を構成する究極の粒子の名で、この歌では白鳥の鳴き声に擬せられている。雲に向かって白鳥が鳴きながら飛ぶという情景に、「存在」と「クォーク」という存在論的語彙がかぶせられることで、白鳥は実体を喪失してひとつのイコンと化し、一首は形而上的問いかけの歌として立ち現れる。市原のこのように〈私〉と宇宙という次元のまったく異なる存在を強引に対置する発想は、二首目にも十分に見て取れよう。三首目は集中でも屈指の美しい歌だと思う。「コスモスの輝く瑕」とは謎めいた表現だが、ここでは地球のことと解釈しておきたい。地球は青く輝く生命の満ちる星だが、それはまた人間の欲と暴力によりコスモス(=宇宙 / 調和)を乱す瑕でもある。そこに小石のように夜を落とす主体は超越者以外ではありえず、落とされた夜は人類への呪詛のようでもある。ここには「人は何故かくあるのか」という市原のうめくような問いかけが結晶していると言えよう。

 超越者として全能の神を信じようとするとき、信仰の前に立ちはだかる最大の疑問は、「人生にかくも苦しみが多く、地上に殺戮が絶えないのはなぜか」という疑問である。幼い子供を凶悪な犯罪者に殺された親は、「この世には神も仏もいない」と叫ぶだろう。もし神が善で全能であるならば、「どうして神は何とかしてくれないのか」という疑問を抱くのは人の性である。市原にとっての神もまた、ただ善であるだけの超越者ではない。

 十字架の雨を切る音ひりひりと下ゆく人ら夢裂かれつつ

 師よ弟子に神への祈りを祈らせよ祈りを祈る意味の無意味を

 なんぜんの神過ぎゆくも愚かなる神を問う神いまだ渉らず

 日もすがらひろばに立ちて神を待つ遅刻をわびる声など雲に

 なにごとも自力に非ず他力なりと弥陀の企み血の海照らす

 十字架の下を歩み行く人々の夢は無惨に切り裂かれ、祈りつつも祈りの無意味も同時に痛いほど意識されている。人に辛苦を強いる神は愚かな神かも知れず、広場に待てども神は現われない。どこかゴドーに似た不条理な実存的状況に人間は置かれているという認識がここにはある。驚くのは市原は次のような一見すると冒涜とも取れる歌も作っていることである。

 ゴルゴタにいやいやながら吊されよメシアよ君はズブの素人

 いやらしい女に逢うこそわが望み弾むこころにあの世が弾む

 そうならば神は女の方がいい女ざかりのからだがロゴス

 これを見ても市原の神への想いが決して一途な帰依ではなく、屈折し煩悶するものであったことがわかるだろう。

 『無限』を論じて次の一連を取り上げないわけにはいかない。それほど衝撃的な歌なのである。

 9841237ヘテ人を焼きわれは数うるかくのごとくに

 9152348アモリ人を撃ちわれは数うるかくのごとくに

 9263451カナン人を追いわれは数うるかくのごとくに

 9374562ペリジ人を侵しわれは数うるかくのごとくに

 9485673ヒビ人を滅ぼしわれは数うるかくのごとくに

 9516784エブス人を奪いわれは数うるかくのごとくに

 9627815ユダヤ人を呪いわれは数うるかくのごとくに

 9738126アラブ人を殺しわれは数うるかくのごとくに

 「われはショアーなり」と題された連作で、1996年11月に作られている。「ショアー」とはヘブライ語で「殲滅」を意味する。旧約聖書「ヨシュア記」によれば、モーゼに率いられてエジプトを脱出したユダヤの民は、モーゼの後継者ヨシュアを頭としてヨルダン川を渡る。旧約の神はヨルダン川の向こう側の土地をユダヤの民に与えることを約束し、その地に住むすべての民を殲滅せよとヨシュアに命じる。ヘテ人・アモリ人などはこうして滅ぼされた民族の名前である。市原は一連の最後にユダヤ人とアラブ人の名前を付け加えている。現在のパレスチナ問題の原因は、西欧列強の植民地的野心とサイクス・ピコ協定に代表される二枚舌外交であることは疑いを容れないが、市原の目には血で血を洗う争いはもっと歴史の長いものと映っている。ここには人間の奥深い業があると同時に、「殲滅せよ」と叫ぶ神への疑いをも見てとることができるだろう。羅列された無意味な数字が殺戮の無意味さを物語っている。

 市原の歌の多くはこのように、黙示録的世界観と宇宙論のあいだをさまようがごとき趣の歌で、日常の情景を詠んだものは少ない。しかしなかには次のような歌もある。

 わがゆびの影をいぶかる蜘蛛といる蜘蛛に流れる時間の外で

 ゆきずりの真昼の丘に木を怖るしたたるものの緑より濃く 

 当つる刃に桃若やぎてけぶらえる生毛そよぐも青らむ皿に

 見下ろせばひしめく墓の波の秀のひとつひとつに方代が乗る

 一首目では蜘蛛に流れる時間とヒトである自分に流れる時間の非共役性が主題である。二首目では「緑したたる」という慣用表現を分解し、「緑」から「したたるもの」を分離したところに観念性が色濃い。三首目は青い皿にのった桃を詠んだものだが、単なる静物ではなくどこかに危機の意識が潜在している。四首目はなかなかおもしろい歌で、方代はもちろん山崎方代のことである。「見下ろせばひしめく墓の」は喩とも序詞とも取ることができる。

 足もとに蟻が見えればわれまたぐ時折りわれを何かがまたぐ

 市原にとって神とはこの歌に詠まれているように、「〈私〉をまたぐもの」として把握されていたのかもしれない。入院し死を目前に控えていた市原は、「神は遠きが故に我信ず」とメモ帳に記したという。『無限』一巻は市原と「遙かな神」との内的対話と闘争の証として、われわれの目の前に置かれている。

137:2006年1月 第1週 正岡 豊
または、前衛短歌の後衛は透明な抒情へ

きみがこの世でなしとげられぬことのため
    やさしくもえさかる舟がある

             正岡豊『四月の魚』

 正岡は1962年(昭和37年)生まれで、十代の頃から早熟振りを発揮して短歌を作っていたらしい。歌集『四月の魚』は1990年にまろうど社から刊行されたが、すぐに入手不可能になり、歌壇でもそれほど話題にならず幻の歌集と化した。『短歌ヴァーサス』第6号 (2004年) が誌上歌集という異例の形で『四月の魚』を復刊し、荻原裕幸の選による歌集刊行以前の歌45首を添えて再び世に出ることとなった。

 「四月の魚」はフランス語の poisson d’avril (ポワソン・ダヴリル)の日本語訳で、4月1日に魚をかたどった紙切れをこっそり人の背中に張り付けて興じるフランスの習慣から来ている。いわゆるエイプリル・フールなのだが、BBC放送が真面目な顔をしてデタラメなニュースを報じるイギリスなどとはちがって、フランスではこの日に嘘をつくという習慣はない。poisson d’avril の起源は定かではないが、魚はキリスト教ではイエスのシンボルのひとつであり、おそらくはキリスト教以前に遡る生命と春の再生を祝う行事に由来するのだろう。

 掲出歌は現代の口語短歌の特徴のひとつである平仮名と漢字の意識的な配合 (多めの平仮名と少なめの漢字) により、全体として淡い透明な印象を与える歌である。「きみ」という二人称が使われているが相聞歌ではなく、「ぼく」との関係もまた短歌からきれいに拭い去られている。「きみがこの世でなしとげられぬこと」とは何かは明かされず、またそれが「やさしくもえさかる舟」とどう関係するのかも語られない。しかし、「この世でなしとげられぬこと」という否定の相における世界の把握、「もえさかる舟」という破壊と消滅のイメージによって、静かな諦念と喪失感が一首から滲み出る、そのような歌の作りになっている。しかし、抵抗のない読後感と平易な語り口に騙されてはいけない。初句「きみがこの世で」の7音の破調と、下句「やさしくもえさ / かるふねがある」の句跨りを見てもわかるように、正岡は前衛短歌の語法を我がものとし、それを口語脈で実現しようとしているのである。

 正岡の短歌の個性は次のような歌によく現われている。

 [1] 夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ

 [2] みずいろのつばさのうらをみせていたむしりとられるとはおもわずに

 [3] もうじっとしていられないミミズクはあれはさよならを言いにゆくのよ

 [4] ネル・フィルターひたされている水にわが朝日がうつるP・K・ディック忌

 [5] 生きてなすことの水辺におしよせてざわめきやまぬ海螢の群れ

 [6] 天像は冷えゆく秋の枯草の虚空に浮かぶわが月球儀

 [7] 薔薇とその季節を生きてもろともにほろぶ時間の水際に立てり

 [8] クリーニング屋の上に火星は燃ゆるなり彼方に母の眠りがみえし

 『四月の魚』に収録された順番どおりに並べたが、一見してわかるようにうしろの歌ほど文語脈で上に行くほど口語に変化している。だから作歌時期は下ほど古く上ほど新しいのではないかと考えられる。だからこちらも順番を逆にして論じてみよう。

 最後の[6]~[8]は「天象街」と題された連作に含まれていて、この一連は完全に文語定型となっている。「天象街」はもちろん造語だが、浜田到の「天使街」を連想させ、浜田と同様に天上的幻想を交えた美的昇華を強く感じさせる作風である。[6]は秋の空に浮かぶ月を詠んでおり、秋の名月とくれば古典和歌の共同的美意識にたやすく回収されそうな歌題であるが、月球儀は本来月を模したものであるのに、実物と模型の関係を逆転し、空にかかる月を月球儀と見立てることで古典和歌の地平から軽々と身をかわし、それに「わが」と所有形容詞を冠することで、作者の署名落款を墨痕鮮やかに残している。

 [7]は「薔薇」「季節」「時間」と、押しとどめようもなく流れ去るものを並列し、最後に「水際に立てり」とすべてを一人称で受け止めることで、時間という誰に取っても等しく流れるものを〈私〉が引き受け、それによって世界の定めを鮮やかに浮かび上がらせている。中山明の「歳月は餐をつくして病むもののかたへに季節(とき)の花を置きたり」という歌をどことなく連想させる歌である。

 [8]はクリーニング屋の上に輝く火星という意外な取り合わせがまず目を引く。火星大接近の時期ならば地球からも大きく見え、また赤い星だから燃えているようにも見える。ここまではやや幻想的匂いはするものの叙景であり、下句は一転して「彼方に母の眠りがみえし」と回想調の個人的述懐に移行している。この語法はとても前衛短歌風であり、後でも触れるように菱川善夫が「辞の断絶」と呼んだ塚本邦雄の語法を彷彿とさせ、不思議な感覚を呼び覚ます歌となっている。

 [5]では海螢が詠まれているが、海螢は水辺に押しよせることはあっても、ざわめくことはない。ざわめいているのは〈私〉の心であり、海螢は心像の喩である。生きることの迷いを海螢に事寄せて詠うこの語法は驚くほど古典的である。

 ここまで見た段階で言えることは、正岡が前衛短歌以後の語法を確実に吸収して自家薬籠中のものとしており、それと平行的に歌の背後に立つ〈私〉が明確に見える歌を作っていたということである。例えば[5]の歌には海螢を見つめる〈私〉が確固として存在し、その〈私〉は多少のずれはあるものの作者自身と重ね合わせて読解してもまちがいではないと了解される、そのような〈私〉である。

 しかし正岡の作歌態度は大きく変化を見せたようだ。上に引用した歌群を上へと遡ってみよう。[4]ではネル・フィルターが水に浸されているというのだから、コーヒーを淹れた後である。朝日が差しているのだから朝食の風景と考えてよい。P・K・ディックは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』などの作品で知られる米国のSF作家である。するとP・K・ディックの忌日に朝食のコーヒーを飲んでいる情景ということになるのだが、もうここに来ると歌の背後に立つ〈私〉の輪郭は、「わが」という所有形容詞があるにもかかわらず、その位相が判然としないものに変容している。[6]の「わが月球儀」の「わが」の力強さと比較してみればその差は明らかである。

 そして[1]~[3]の最初の3首である。これらの歌には「いつ・どこで・誰が・何を」したかという具体的記述が意図的にかつ徹底的に拭い去られている。いかなる現実の出来事や場面や人と人との関係性からも遊離して、これらの歌は取り返しのつかない喪失感・別れの気配・悲劇の予感といった漠然とした感情だけを言葉のかなたに浮かび上がらせる、このような作りになっている。これらの歌の透明感と詩性は圧倒的であり、電脳短歌イエローページの別室「e短歌salon」で2001年5月1日から20日までの間に開かれた『四月の魚』のネット批評会でも、[1]~[3]の傾向の歌が多くの人から支持されていた。上に引用した[5]~[8]の傾向の歌よりも[1]~[3]のような作りの歌を好きな歌として挙げていた人が多かったのである。それが正岡の歌人としての個性として高く評価されているということだろう。

 その評価に異論はない。また正岡のこのような歌がとても美しいこともまた事実である。しかし、もう少し長い短歌史的観点から見てみると、私はそこに一抹の危惧を感じないわけにはいかないのであり、以下その危惧を中心にして書いてみたいと思う。

 [1]~[3]のような歌の作り方は、正岡以外にもかなりの数の今の歌人に見られるひとつの流れである。伝統的短歌結社に所属せず、同人誌とインターネットを活躍の舞台とし、現代詩とゆるやかに接続している歌人にこの傾向が強い。その代表格として早坂類の名をあげておこう。

 ぼんやりとしうちを待っているような僕らの日々をはくらかす音楽(おと)

 いとおしく思いますから歯並びの美しいことなどなど全部

 わたくしは当て所無く祈りをし わたくしは走る ひとりの朝に

 早坂の短歌にもまた「いつ・どこで・誰が・何を」したかという具体的情報は決定的に欠落しており、「想い」だけが充満している。作者が何らかの想いを抱いくきっかけとなった出来事や情景が現実に存在していたとしても、それらはきれいに拭い去られて言葉から滲み出すような孤独な想いだけが差し出されて読む人に届けられる。このような歌の作り方は早坂だけでなく、玲はる名・佐藤りえ今橋愛・飯田有子・雪舟えま達の若手歌人に共通した手法であり、また『ラスト・トレイン』の中山明にすでにその先蹤を見ることもできよう。ちなみにネット上でのみ存在する中山の第三歌集『ラスト・トレイン』の歌稿が編まれたのは1991年のことであり、正岡の『四月の魚』刊行の翌年であることに、時代の符合を感じないわけにはいかない。

 ながれてゆく風景の色 ぼくはただあなたのゆめをみてゐるだけだ

 いつかきた夢の坂道 よそよそしいふりをしてゐるきみの家まで

しっぽの先まで餡が詰まった鯛焼きのように、一首全体をひとつの想いが満たしていて、何首も続けて読むと息苦しくなるほどである。頭の天辺から足の先まで「一首全体がひとつの想い」というこのような歌のあり方が、とりもなおさず私に危惧を覚えさせる原因なのだ。

 ここで短歌史をひもとくと、戦後の第二芸術論の流れに位置する臼井吉見は「短歌への訣別」(『展望』昭和21年)のなかで「短歌形式が今日の複雑な現実に立ちむかふ時、この表現的無力は決定的であるがそれよりも重要なのは、つねに短歌形式を提げて現実に立ちむかふことは、つねに自己を短歌的に形成せざるを得ないとういふ事実である」と断じ、その論拠として宣戦布告の時と無条件降伏の時に歌人たちがほとんど見分けのつかない歌を作っているという事実を指摘している。

 一億の民ラジオの前にひれ伏して畏さきはまりただ声をのむ  (開戦時)

 大きなる時に会いつつ はふりくる勇みの涙 のごひにのごふ (終戦時)

臼井たちの「短歌滅べ」という短歌滅亡論に対して塚本邦雄らの前衛歌人が採った戦略は、歌のなかに異質のものを持ち込むことで短歌的韻律に流れない抵抗感を作り出す工夫と、菱川善夫が「辞の断絶」と呼んだ次のような語法であった。

 壮年のなみだはみだりがはしきを酢の壜の縦ひとすぢのきず

笠原伸夫が「勦滅的前衛短歌論」(『短歌』昭和41年)という文章で、この塚本の歌の「を」という助詞の係り方が曖昧であり、「あいまいな辞の定着力からくる上句と下句の関係は、あいまいなイメージを構成するものでしかないだろう」と批判したのを受けて、「あいまいさを招かざるを得ぬ詩句の構成と辞の用法のうちにこそ、塚本の詩法の存立の本質はのぞき得るもののようにおもわれる」と菱川は切り返し、続けて「一個の人間の内にある矛盾と対立の意識こそ、かかる辞の断絶の技法を支える基底であろう」と書いた。(「実感的前衛短歌論 – 『辞』の変革をめぐって」『短歌』昭和41年、後に『現代短歌美と思想』に収録)

 暗渠の渦に花揉まれをり識らざればつねに 冷えびえと鮮しモスクワ

 暗渠に浮かぶ花とモスクワのあいだには本来何の関係もない。しかしこのように意味的に断絶した上句と下句が一首のなかで喩的関係を取り結び、そこに歌の外部へと打ち出される批判力が生まれる。このように一首のなかに意図的に抵抗感と折れ目を作り出すことで、「短歌的抒情」に流されて「つねに自己を短歌的に形成せざるを得ない」という短歌滅亡論からの批判に答えようとした、前衛短歌の修辞的意義がおおむねこのように総括されているのは、よく知られているところである。短歌定型という詩型について執拗な考察を重ねている永田和宏の言葉を借りるならば、「自己否定の回路はいつでも開いた状態のまま、表現の可能性を探る」(「自己否定の回路」『喩と読者』所収)という認識が、短歌という形式と修辞そのものに働きかける必要があるということなのだ。

 ここまでの考察を踏まえて正岡や早坂の短歌をもう一度見てみよう。 

 みずいろのつばさのうらをみせていたむしりとられるとはおもわずに  正岡

 ぼんやりとしうちを待っているような僕らの日々をはくらかす音楽(おと)  早坂

  平仮名を中心に作られたこれらの歌は透明感に溢れている反面、一首のなかに抵抗感も折れ目もなく、初句から結句までがひとつの水の流れのように読み手に受容される。ここには辞を断絶させることによって、〈私〉が短歌的抒情に満たされることを決然と拒否し、世界に対する批判力を歌に与えようとした前衛短歌の面影はない。このように一首全体がひとつの想いに充満している短歌は、世界に対して閉じられているのであり、それは結局のところ作者自身に対しても閉じられているのである。このような餡の詰まった鯛焼きスタイルの短歌には、まるで申し合わせたかのように〈他者〉が不在であり、一様に孤独なつぶやきのような表情を湛えているのはこのためである。この種の短歌が作者自身に対しても閉じられているのはなぜかというと、他者不在の孤独な空間からの発語ののちに、作者が次にどこに行けばよいのかがまったくわからないからである。

 正岡豊は『四月の魚』を上梓したのち、「歌のわかれ」をしてしばらく短歌から遠ざかっていた。中山明も『ラスト・トレイン』を白鳥の歌として短歌と訣別してしまった。この二人が「歌のわかれ」を選択せざるを得なかったという事実は、作者自身が自らを他者の希薄な空間に閉じこめてしまったと感じたからではないかと思えてならないのである。

 ニューウェーヴ短歌のプロデューサー格である荻原裕幸は、正岡豊と『四月の魚』を評して、次のような的確な俯瞰を示している。

「たとえば、山崎郁子、早坂類、東直子、それから男性歌人で言えば穂村弘。1990年代の短歌の世界に広がっていった彼らの作品には、生きる切なさの核を、そこだけとりだして見せてくれるといった、独特の共通感覚がある。この感覚は、正岡豊にも通じるものがある。」
 「生きる切なさの核を、そこだけとりだして見せてくれる」とは言い得て妙である。しかし「そこだけ取り出した」切なさは、いわば雑菌にまみれた現実とは切り離されて純粋培養された切なさである。人も知るように純粋培養された無菌環境では、人間は自家中毒するか自己免疫疾患に陥る危険と隣り合わせなのだ。第二芸術論があれほど激しく批判した「短歌的抒情」に、歴史の溝を軽々と越えて再び回帰してしまうおそれがないとは言えない。

 正岡の短歌がそうだと言っているのではない。『四月の魚』に収録された歌は文体も多様であり、固有名の活用、詞書きの効果、隠された引用など、ここでは論じることができなかった様々な工夫が歌に施してある。そういった全体像を見なければ公平を欠くのは明らかである。しかしながら、『四月の魚』が優れた歌集であり、最初の出版からすでに15年が経過しているにもかかわらず、現在でもなお現代短歌に刺激を与えることができる歌集であることを十二分に認めた上で、敢て上に述べたような危惧の念を覚えたことを書き留めておかなくてはならないと感じたのである。