156:2006年6月 第1週 島田修三
または、露悪と自嘲の裏に死者の陰の揺曳する歌

純喫茶〈ミキちゃん〉出でたる路地裏に
   風太郎しんと尿(ゆまり)しており
       島田修三『晴朗悲歌集』

 島田が問題歌人であることは、短歌界では広く知られたことと想像する。短歌界とは付き合いがないので断言はできないが、十中八九そうだろう。島田のような短歌を作っていると、友人を失くしそうな気がする。それほど他に類を見ない過激な短歌なのである。その過激さは、第一歌集『晴朗悲歌集』(1991年)の冒頭から炸裂している。

 まことにも教師世界はアホくさく草生に寝れば草の香くさし

 女房のコブラツイスト凄きかな戯れといへ悲鳴ぞ出づる

 口笛にコロブチカ吹きゆく速足は離婚協議に勝ちたる講師ぞ

 〈道〉を逸れ〈義〉に悖りたる富貴にてあはれ大和はさ蠅なすクソ

 左翼とふ神学世界のコエダメゆ出るわ出るわヨシフの悪行

 職場である大学という象牙の塔を嘲笑し、家庭では妻を戯画化して描き、同僚を揶揄し、日本を呪詛し、左翼に毒づく。このような調子だから、読んでいて快哉を叫ぶことも稀ならず、川柳・狂歌を読むような痛快さを覚えることもあるが、次第に内臓に響いて来る。長時間ボディーブローを浴びたボクサーのような気分になるが、読後脳裏に残る作者のイメージは、土砂降りの雨に濡れそぼつ孤影悄然であり、フィリップ・マーロウのようにトレンチコートの肩がしとどに濡れていると言ったら言い過ぎか。

 島田は早稲田大学大学院で国文学を学び、さる大学で教鞭を取る万葉学者である。現在は学部長の要職にあるという。和歌・短歌の世界は専門分野であり、該博な知識に裏付けられた技法の冴えは尋常ではない。しかし、古典和歌は基本的に雅の世界であるはずなのだが、島田が作る短歌は雅と俗の奇妙な混淆であり、雅よりは大幅に俗に傾斜している。そしてそれは、現代短歌の置かれた状況に対する島田の現状認識に基づく意図的な戦略なのである。現代短歌文庫『島田修三集』の巻末に収録された散文「戦後短歌と現在」(初出「まひる野」平成7年1月)のなかで、島田は佐藤佐太郎・宮柊二・近藤芳美らの戦後短歌を耽読し技法を吸収しようとしたと回想し、続けてこう述べている。

 「しかし、これらを作歌当時のぼくがメッセージの水準で享受すると、当然のことだが、どれも後者のように醜くユガムのであった。ぼくは、こうした一見バカバカしい歌を作ることで、わが内なる《戦後》とわが外なる1980年の《現在》との遙かな距離をはかろうとしていたのだと思う。」

 文中の「後者」「こうした一見バカバカしい歌」」というのは、島田が戦後短歌の名作を基にして作った次のようなパスティーシュを指す。

 夕映えのおごそかなりしわが部屋の襖をあけて妻がのぞきぬ (原作)

 夕映えの厳粛きはまるわが部屋に入り来て女房が奥歯をせせる (島田作)

 純粋の国語も教へ育てむとおもふ幼子畳に匍ひつつ  (原作)

 純粋の国語知らざる父親のハナモゲラ語にぞ二人子わらふ  (島田作)

 戦後短歌を生み出した時代情況と、島田が置かれた80年代のバブル期の社会状況との落差の痛切な自覚が根底にある。島田は「時代を超えて変わらない価値」などというウソ臭いお題目を信じることができないのであり、逆にその落差を過剰な演技で増幅することが、真実の認識に至る道だと信じているのだ。だから、島田の短歌の基調となるトーンは怒り・自嘲・呪詛・揶揄・露悪であり、それはつまるところ「不機嫌」の短歌ということになる。それらがストレートに出た歌を挙げてみよう。

 鼻翼よりあぶらぬるりと滲ませてすれ違へるは論的タカハシ

 やがて来む死の日の孤独語りつつああこの朋よたまらなきデブ

 夕暮れを俺が俺へと帰るとき奥歯のうろより腐臭ぞしるき

 不機嫌は魔の憑るごとく来て去れば夕靄のなか陸橋を越ゆ

 健康を時代の義務とか説くファッショ死にぞこなひの昭和の資本が

このような悪口をたたきつつ、島田はせっせとニコチンを摂取し、中性脂肪を体内に蓄積し続けるのであり、その様もまた過剰に偽悪的である。しかし、このような面ばかりに気を取られていてはいけない。島田の短歌の特質をより細かく見てみよう。

 該博な古典の知識を持ちながら、古典の語法と世界観では現在短歌を作ることができないとの認識に立つので、島田の作る歌は古典の雅と現代の俗の混淆となる。それはまるで近代短歌という短歌史の途中の過程を省略したかのような奇妙な光景である。

 秋の気の紛れなければしみじみとゆくへ思ほゆぴんから兄弟

 人ひとり吊し上げたる宴果てて寒夜の雲ゆのぞく月しろ

 一首目は古典和歌のように始まるが、結句に至ってぴんから兄弟が登場する所で読み手は肩すかしを食らう。高雅の空に飛翔するかと思うと、俗に着地するのである。二首目は逆のコースを辿り、俗に始まりやけに古典的情景描写に回収されている。この違和感を作り出すことが島田の眼目なのである。

そして雅に俗を混入するために多用されているのが固有名である。

 例ふればちあきなおみの唇(くち)の感じああいふ感じの横雲浮くも

 つる姫なる漫画のヒロイン愛しけれ多く糞尿におよぶことなれど

 転落のぼろぼろの生にいま在るは清しきかなや一条さゆり

歌謡曲歌手のちあきなおみ、少女漫画の主人公つる姫、ストリッパーの一条さゆりなど、主としてサブカルチャーに属する固有名は、極めて有効に俗の記号として働く。

 このような固有名とはまた異なり、歴史上の人物を折り込んだ歌も多く見られるが、それらの歌は歌集の基調をなす「不機嫌の歌」とは肌合いが微妙に異なり、魅力的な歌群となっていることにも注目すべきだろう。掲出歌「純喫茶〈ミキちゃん〉出でたる路地裏に風太郎しんと尿しており」もそのひとつであり、読み込まれているのは小説家の山田風太郎である。「純喫茶〈ミキちゃん〉」という場末感もほどよく、路地裏に立ち小便するところが決然と戦争に背を向けわが道を行く風太郎とよくマッチしている。

 BVDのブリーフつけて血に濡れてかの日の川俣軍司いとほし

 夏目家の便所に滑り落ちしとぞ岩波茂雄という人物(ひと)ぞ変

 芥川龍之介なる〈苦しみ〉はギン蠅嚥みて自死せむとしき

 たましひは粛然として示現すなり死の三日前の秋聲の風貌(かほ)

 姉小路より蛸薬師へと歩みたれ中原中也と二度すれちがふ

一首目の川俣軍司は1981年に起きた深川通り魔事件の犯人で、逮捕されたときブリーフに猿ぐつわという異様な風体であった。「不機嫌の歌」の基調は否定であるが、これらの固有名の登場する歌はどこか肯定的である。

 80年代のバブル経済の時期に編まれた『晴朗悲歌集』は、浮か騒ぐ妙に明るい時代への呪詛に満ちている。しかしそれは単なる拗ね者の悪口なのではなく、1950年生まれの島田は戦後という時代を見つめているのである。島田の歌の背後には、死者の影が揺曳している。それは亡くなった父親を詠んだ次の歌に明らかである。

 復興といふ名の神話を担ぎつつ短躯のシジフオス戦後を生きたる

 兵であり再建者であり悪であり俺の中なる父すぐならず

 死はすでに優しき和解を奪へども戦後を負ひて父子まぎれなし

 招集されて兵として戦い、戦後は日本の復興に汗を流した父親。島田がこの父親の世代に自分を重ねていることは最後の歌からも読み取ることができる。死んだ父は昭和の死者たちの一人である。そして死者の影は至るところにある。

 炭酸のキックに蹴られ寒の夜をギネス飲みつつ死者をこそ思へ

 死者がまた死んでゆくかな夢見より醒めてしばらく神(しん)冷えやまず

 しんねりと暮色まつはり染みてゐむわが猫背にも背後の死者にも

 死を歌へば世界しづかによみがへる永劫回帰のかの夕べはや

 黄昏(くわうこん)の翳たまりゆく廊の果て死者か生者か杙のごと彳つ

 島田は常に「背後の死者」を感じているのだろう。悲憤のなかに底ごもる悲哀はそこに由来する。そして呪詛・悪口・自嘲の歌のおちこちに冷たい泉のように抒情的な歌が紛れ込んでいるのを発見するとき、私たちは島田の歌の本質を得心するのである。

 夾竹桃紅(こう)さえざえと咲く一樹けだかきものをわたくしは仰ぐ

 振りいでて夕べの雨の激しきにレニー・ブルースしんと聞こゆる

 辞書の上に日ごと埃の積もりゆくさばかりならむわが死の後も

 くちびるに冷えゆく脂ぬぐふときいま喰ひ了へしけものはにほふ

 大ばさみするどく研がれ置かれ在り眠られぬまま卓を灯せば

155:2006年5月 第4週 兵庫ユカ
または、状況の未決定性のなかに漂う世界

手の甲に試し塗りする口紅を
     白い二月の封緘として
      兵庫ユカ『七月の心臓』     

 第2回歌葉新人賞で次席に選ばれた兵庫ユカの『七月の心臓』が刊行された。歌葉新人賞は現代短歌を推進している荻原裕幸、加藤治郎、穂村弘が選考委員を務めており、新感覚の短歌を作る作者を世に送り出している。応募して来る人たちもそのような傾向の作風を持つ人が多い。兵庫もまたその一人である。

 掲出歌は収録作品のなかでは従来の短歌的コードに比較的寄り添った作品である。口紅を手の甲に試し塗りするのだから、隠された〈私〉は女性、しかも若い女性であり、作者自身と同一視してもよいほどだ。「白い二月」は季節から雪や吐く息を連想させる。二月を封緘するというのは、二月に別れを告げるというほどの意味だろう。歌集では「わたしにわたしが」と題された章に配置されているが、連作と呼ぶほど緊密な意味的関連性はなく、前後の歌から意味を補填することはできない。かと言って外部からの意味の補填を必要としないほど一首が屹立しているわけではなく、逆に外部へと溶解してゆく意味の淡さがある。

 ここに挙げた特徴、すなわち作者自身と同一視してもよいほど等身大の〈私〉と、一首の意味的屹立の弱さ、そのアンチテーゼとして一首の外へと意味と感情が溶解してゆく傾向と、その言語表現的対応物である平仮名の多用は、近年の歌人、特に女性歌人の作る短歌に共通する特徴である。他の歌も見てみよう。 

 遠くまで聞こえる迷子アナウンス ひとの名前が痛いゆうぐれ

 ポップコーンこぼれるみたい 簡単に無理だって言う絶対に言う

 使い方まちがわれてる駒のようにだれもわたしと目を合わせない

 朝焼けを見たことがないどんなことして生きてきたのだろうわたしは

 おもいでは常に夕暮れあのひとのはちみつ色の誤字を匿う

 一首目は遊園地の情景か。短歌には「ひと」と書いて特定の人物を指す修辞があるが、ここではそうではなく単に他人という意味だろう。「ひとの名前が痛いゆうぐれ」という下句はなかなか美しいが、表現されているのは漠然とした理由のない孤独感だろう。二首目の「ポップコーンこぼれるみたい」はいかにも現代的なライトヴァースの口語的表現である。短歌に会話体を導入すると、誰が話しているのかを示す必要性が生じ、その処理が技術的問題となる。「簡単に無理だって言う」の主語が〈私〉なのか誰か他人なのかが未決定で、そのため意味の浮遊感が生まれている。この浮遊感が作者の意図したものならか、それとも技術的未熟さから来る発話主体の非明示が生み出してしまったものなのかは不明だが、いずれにせよこの歌に見られる「状況の非決定性」は、まるで量子力学におけるシュレディンガーの波動方程式のように、結果的に確率論的世界像を生んでいるようだ。三首目は比較的意味のはっきりした歌であり、「使い方まちがわれてる駒のように」という直喩も所を得ている。しかし表現されているのはこれも淡い疎外感である。四首目は、「朝焼けを見たことがない」というささやかな発見と、下句の人生全般に関わる省察との不釣り合いが短歌的磁場を生んでいると言えるかもしれない。五首目では、「あのひと」という具体的人物が登場し、世界に〈私〉しかいないそれまでの自閉的世界とは異なっている。しかし、「はちみつ色の誤字を匿う」は意味がよくわからない。

 上に引用した歌に較べて、次のような歌にはそれぞれ感心させられる所がある。 

 もう雪はふりましたかという下書きが残る四月の寒い弾倉

 穂を垂らすかたちのわたしの幾つもの体言止めのけだるい実り

 必然性を問うたびに葉は落ちてゆくきみは正しいさむいさむい木

 あすゆきをふらせる雲を指している結膜炎の気象予報士

 ながれだす糸蒟蒻を手で受けてこれがゆめならいいっておもう

 日が暮れてからの空気も春らしくティースプーンを溢れるみりん

 ふるい詩の中の一字を滲ませる苺か毒か判らぬように

 折ればより青くなるからセロファンで青い鶴折る無言のふたり 

 一首目、上句の口語的文体から下句の名詞の連射への流れが心地よく、謎めいていながら背後に日常の〈私〉を超えた物語を感じさせる。二首目も「~の」の連続がリズムを作っており、短歌を詠んだメタ短歌である。三首目は「きみ」と呼ばれている人を「さむい木」に喩えている。「なぜ」という必然性を問うことが生命を削ることになるという認識が、短歌的喩のなかに過不足なく表現されている。四首目は「結膜炎」にポイントのすべてがある歌。五首目は「ながれだす糸蒟蒻」がポイントが高い。確かにパックから取り出した糸コンニャクを手で受けようとすると、水といっしょに流れてしまうことがある。もちろん「取り返しのつかないこと」の喩である。六首目も感心したのは、「ティースプーンを溢れるみりん」で、春の日の緩んだ空気と、金色に光りねっとりとティースプーンに盛り上がる味醂はよくマッチする。七首目は「苺」の字と「毒」の字が似ていることから発想した歌だろう。指に水か何かを付けて意図的に滲ませるという行為は、悪意とも取れるが、詩の意味を未決定にしておきたいという意志の発露とも取ることができる。八首目は青いセロファンで鶴を折ると、青をいっそう青くすることができるという点に、孤独な希求を感じることができるだろう。現代短歌で「青」が何を象徴するかは別のところで論じたことがある。

 描かれた世界の淡さや、状況の未決定性、言い差しで終わりがちな語法は、兵庫の短歌の欠点というわけではなく、おそらく作者か意図したものだろう。結果として生まれた歌の形は、伝統的な短歌の持つ形式と意味の両面にわたる凝集性とは無縁なものとなっている。このような歌の世界を受け入れるかどうかは、好みが分かれるにちがいない。私はなかなか悪くないと思うのだが。

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154:2006年5月 第3週 笹原玉子
または、意味が外部へ溶解してゆく物語性

十指とふこの十全なかたちのゆゑに      
     かなしみのくる秋の食卓
        笹原玉子『われらみな神話の住人』

 世に難解な短歌というものがあるが、それとは別に不思議な短歌というものもまた存在する。笹原の短歌はその代表格であり、師の塚本邦雄は「良質の不可解」と断じたという。どれほど不思議かは実際に笹原の歌を見てみればわかる。

 色鉛筆が折れてばかりゐる春がくる いつそあつまれやはらかきもの 『南風紀行』

 鶴の骸は折鶴を折るやうに 思ひ出はハンカチを畳むやうに

 乙女達が花冠を編みをはるころ丘は陸よりしづかにはなれる

 ひと夏の蝶の骨もてつくらるる首飾りして最後の恋を

 雪が舞ふ よこたはりゐる父の手に識れるかぎりの蝶の名を書く

第一歌集『南風紀行』(1991年)から引用した。写実からはほど遠く、かといって心象風景でもなく、一首全体が夢想の断片か物語の一片のごとき観を呈している。近代短歌の方程式である叙景と叙情の対位法、もしくは永田和宏の言う「問いと答えの合わせ鏡」の構造はこれらの歌には皆無であり、読者は一首の中のどこを繋留点として全体の意味を構築するべきか判断できず、いわく言い難い宙吊り感覚に捕われる。そう感じたとき読者はすでに笹原の言葉の魔術の術中に墜ちているのであり、解釈過程における宙吊り感覚が生み出す意味の空白に、ポエジーがするりと滑り込むという仕掛けなのである。

この仕掛けを実感するために、写実派の吉川宏志の歌と比較してみよう。

 うすあかきゆうぞらのなか引き算を繰り返しつつ消えてゆく鳥  『海雨』

吉川の歌に夢幻的要素は皆無である。夕暮れ時、電線に留まっている鳥が一羽また一羽と塒に飛び去る光景を詠んだ歌で、歌意は解説の要もないほど判明である。私たちは歌の言葉が立ち上げる世界像と、現実に私たちが体験により知っている世界像のあいだに、安定した対応関係を確認する。こここに意味の宙吊り感覚はない。では吉川の歌のどこを味わうべきかと言うと、作者が現実に目にしたと思われる鳥が一羽また一羽と飛び去る様を「引き算を繰り返しつつ」と表現した所にある。しかるに笹原の歌を前にしたとき、このような解釈過程を辿ることはあらかじめ拒絶されているのであり、そのような歌の造りにどうしても馴染めない人がいることは当然予想される。吉川の歌も笹原の歌も、言葉によって組み上げられた心的世界であることは同様なのだが、それが現実世界(と私たちが信じているもの)との対応関係へと誘うのか、その回路を意図的に遮断するのかのちがいが、言葉に対するふたりの歌人の態度の差なのである。

 第二歌集『われらみな神話の住人』(1997年)でも笹原のこのような作歌態度は不変であり、それは笹原の歌人としての生理そのものなのだろう。

 その踝から濡れてゆけ 一行の詩歌のために現し世はある

 白馬(あを)にまたがり野を焼きはらふいもうとは異教徒だった、断髪の

 霧の日に振ればはつかに鳴りはじむカランコロンとそんな空函

 われらみな神話の住人。風の鎖につながれてそよぐ岸辺の

 この髪だ、きみのからだでみづうみのにほひもつともしてゐるところ

 秋を汲まばや旅人よ深井には今日をいのちの蛍火の群れ

 骨組みのいとやはらかき身をもてばみんなみの風、風の一枚

一首目の「一行の詩歌のために現し世はある」という断言は、芸術至上主義の言挙げであり、第二歌集の巻頭に置かれたこの歌は、作者の信条表明と受け取ることができよう。

 笹原の短歌で特徴的なのは、短歌定型へと凝縮して収斂するよりも、定型の韻律から逃れ去ることで、一首を詩の世界へと開く態度が顕著に見られることである。笹原にとって短歌とは、おそらく「一行の詩」なのであり、一首の核へと内的に収斂してゆく凝集性が希薄である。それよりも、セピア色のインクが紙に滲んでゆくように、一首の外へと広がる詩的世界へと意味を溶解させようとする力学が働いているように思える。このことは次のようなタイプの歌に顕著に感じられる。

 孤児がうつくしいのは遺された骨組みから空が見えるからです  『南風紀行』

 みんなみのましろき町はあかるくて目隠などして遊んでゐます

 月桂樹のしたでルカ伝を読むことが夏期休暇の宿題です

 そのかみの私の星は三分の光の洪水に溺死しました  『われらみな神話の住人』

 ここはくにざかひなので午下がりには影のないひとも通ります

 主に「です・ます調」で書かれているこれらの歌には、もはや五・七・五・七・七の短歌韻律はなく、まさしく一行詩となっている。内的リズムによる凝集性がある場合には、短歌の意味は一首の内部へと収斂するが、それがない場合には意味は逆に拡散する傾向がある。そうすると上のような歌は、唐突で尻切れとんぼの散文であるかのごとき相貌を呈するのだが、文脈による意味の充填があらかじめ拒まれているため、読者は語られていないより大きな詩的世界の断片だと理解せざるをえない。「一首の外へ広がる」というのはこのような意味形成過程をいうのである。より短歌的韻律を備えた歌群のなかに、上のような一行詩が織り交ぜられている。そうすると従来の短歌文脈で読める歌すらも、その韻律的凝集性に疑いが生じてくる。読者は今までの短歌文脈で読んで来た歌もまた、実はその本質は一行詩ではなかったかと感じるてしまうのである。

 『われらみな神話の住人』の栞に文章を寄せた井辻朱美は、笹原短歌における用言の多さと速度感を指摘した。用言の多さは体言止めの少なさの裏返しであり、体言止めが一瞬の光景をあたかも一幅の絵画であるかのごとく定着するのに適した文体であるのにたいして、用言による結句は一首に物語性を帯びさせ、時間の流れを感じさせる。井辻が指摘した速度感はここに由来する。

 では笹原は何の物語を語りたいのか。それはおそらくシェラザードのように千夜一夜語っても語り尽くすことのない「〈私〉と世界の物語」であろう。笹原にとっては、写実によって世界の一隅を切り取って提示することで世界と〈私〉の関係性を暗示するという手法はまどろっこしいのであり、いきなり主体的立場から「〈私〉と世界の物語」を語ろうとするのである。これは大胆不敵な試みと言わねばならない。笹原の歌が描く世界に参入することができるのは、作者自身が認可した人に限られるだろう。しかしお墨付きを得てその世界に足を踏み入れた人は、シェラザードのように倦むことなく、百億の昼と千億の夜にわたって、星々の誕生と消滅の物語を語る人の声を聴くことになるのである。その世界の住人はおそらく不死だろう。それは物語なのだから。

153:2006年5月 第2週 中川佐和子
または、日常に鋭く自己意識を挟み込む歌

ひと息にキリマンジャロを飲みいるは
      先ほどはつか怒りし咽喉(のみど)

         中川佐和子『海に向く椅子』
 コーヒーは明治時代になってから輸入され普及した飲み物だから、近代短歌とともに歩んで来たと言える。飲食(おんじき)の歌にはしばしばコーヒーが登場するが、銘柄となるるとモカとキリマンジャロに人気があるようだ。
 ふるさとの訛なくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし  寺山修司 
 君去りしけざむい朝 (あした)  挽く豆のキリマンジャロに死すべくもなく 福島泰樹 
「モカコーヒー」も「キリマンジャロ」も6音で、助詞をひとつ添えると7音になり、短歌に収まりやすい。寺山のモカ珈琲は都会の洗練された風俗の記号であり、また福島のキリマンジャロにはヘミングウェイの影が揺曳している。コーヒーは嗜好品であるだけに、象徴的意味作用を担いやすい記号なのである。ちなみに福島の歌では「挽く豆の」が枕詞のように働いているところがおもしろい。
 さて掲出歌だが、ついさっき人に怒っていた自分が、今はほっこりとキリマンジャロを飲み干しているという自己意識の歌である。何ということもない日常の風景に、鋭い自己意識を滑り込ませるところに、中川の短歌の真骨頂がある。その意味で中川の代表歌ではないが、中川の作歌意識をよく示している歌だと言える。リズムもまた心地よい。
 中川の名が注目されたのは、朝日歌壇賞を受賞した「なぜ銃で兵士が人を撃つのかと子が問う何が起こるのか見よ」という天安門事件に触発されて詠んだ歌によってである。セレクション歌人『中川佐和子集』の解説で、時事短歌は「批評に至らない表面的な感情の吐露に終わってしまう無惨さ」に終わることが多いと藤原龍一郎が書いているとおりだが、中川のこの歌はその無惨さから逃れることのできた稀な例として記憶されている。  中川は河野愛子の歌に導かれて短歌の道に入り、1992年「夏木立」50首により角川短歌賞を受賞、第一歌集『海に向く椅子』(1993年)、第二歌集『卓上の時間』(1999年)、第三歌集『朱砂色の歳月』(2003年) と着実に歌人としての歩みを続けている。
 セレクション歌人『中川佐和子集』を通読して気づくのは、純粋な叙景歌が非常に少ないということである。中川の眼差しはいやおうなく人とその生に向けられている。
 フロアーをtoe (トー) にて押して立つことの一本の錐ひえびえとせり
 わが髪を触るてのひら幼きにわれの奥処のノブを回せり
 青芝に玩具の船が置かれあり樹蔭は形を変えつつ及ぶ
 わが母のひとりのときの顔を見し擦れ違いたる車の中に
 父と子のペアの騎馬戦きおいつつ背に子を負うゆえ「父」たりし父か
 「ウルトラのはは」にあらねばひとまずは家庭の平和のために米磨く
 1首目はクラシックバレーの練習のひとコマだろう。片足のトーで立つ自分の姿勢を錐に喩えていて、「ひえびえとせり」の結句に集中する自己意識がある。2首目は子供を詠った歌であり、子供と接する時に密かに開かれる「奥処のノブ」がやはり自己意識を表している。3首目は人が登場しない叙景歌なのだが、玩具の船はこの場に不在の子供を連想させ、移ろう木陰は時間の流れを感じさせ、何よりも光景を観察している〈私〉の自己意識が鋭く感じられる歌である。4首目は偶然すれ違った自動車のなかに、一人の時の母親の顔を見たという内容の歌で、肉親の中に他者の姿を発見するという着眼が光る。5首目は夫と子供を詠んだ歌で、夫を眺める眼差しの冷静さが印象的。6首目は一家の主婦である自分を詠んだもの。ウルトラマンは地球の平和を守るが、主婦である自分はまずは家庭の平和を守るのだという自覚のささやかさが主題である。
 セレクション歌人『中川佐和子集』に収録された「情念と時代・社会との交差点にて」という文章のなかで、中川は「わたしが求めてきたのは、日々の暮しに追われながら、暮らしに影を落とす時代・社会であり、自らの情念と社会の推移その交差点において、生きているわれを捉えたいということである」と述べている。人とその生のあり様に、社会と時代とが関わって来るという認識が、自分の作歌の基盤だということだろう。このようなな視座から作られる社会詠が比較的多いことも中川の特徴かもしれない。
 押し黙りいるうち終わるたたかいか俯く空しさわれは知るのみ
 地下鉄のサリン事件をかろうじて夫は逃れし何かが違う
 半世紀青酸カリを捨てざりし父に兵士の日が帯電す
 足がなく死のあることに慣れてきて見えぬ怖さに あふがにすたん
 これらの歌もさることながら、子供を詠んだ歌に印象に残るものが多い。
 母はみな強(したた)かなれよなまなまと子の生まれ落つる刹那を知れば
 さす傘に子を引き入れて叱るとき地上に母と子のみとなりぬ
 子が育ちゆくとき数多の戸の中にふたたび開かぬ戸を持つらしき
 おしなべて枯れ色のなか金蛇を掴みいる子の踝ひかる
 やどかりを子は手に載せぬその後ろ海はひかりの破片刺しいつ
 子をふたりこの世にのこす幸いを鬼火のごとく想いいるかも
 1首目は「なまなまと」というオノマトペが印象的。3首目、成長とは当初は無限にある可能性をひとつひとつ捨ててゆくことだという認識が痛い。6首目は「鬼火のごとく」という表現の激しさに驚かされる。出産と育児は、一人の人間の生をまるごと引き受けることであり、女性歌人にとっては歌の生まれる場所なのだろう。
 中川の歌は情念のみに流されることなく、事柄の認識に常に自己意識を鋭く挟み込むところに、〈私〉と言葉の緊張関係が保たれていると言えるだろう。最後に好きな歌を2首挙げておこう。
 風を目に知らしめながらさくらばな虚空をはげしく流れ出でたり
 大岡川渡らんとして花合歓の想いをわずか差し挟みおり

152:2006年5月 第1週 古谷智子
または、都市に注ぐ視線は時に時間を超越して

水瓶の形に水はひつそりと
      置かれてゐたり秋の門辺に

         古谷智子『ガリバーの庭』
 以前にも書いたことだが、本のタイトルに私は特に好みがある。歌集でも一見して惹かれるタイトルというものがあり、古谷智子の第一歌集『神の痛みの神学のオブリガート』というタイトルもそのひとつであった。タイトル中の『神の痛みの神学』とは、北森嘉蔵のキリスト教神学の著作の題名であり、「オブリガート」は音楽用語で、省略して演奏できないパート、あるいは主旋律に沿う伴奏的副旋律を意味する。もともとはイタリア語で「義務づけられた」「是非もない」を意味する過去分詞に由来する。「神の痛みの神学」という形而上学的意味作用の濃密な言葉と「オブリガート」という音楽用語の結合から生じる化学反応は、詩的連想を呼び出して止まない意味の膨らみを生み出している。またこのタイトルからは、作者のキリスト教と音楽への傾倒をも窺うことができよう。

 『神の痛みの神学のオブリガート』が上梓されたのは1985年(昭和60年)のことである。前年には紀野恵が『さやと戦げる玉の緒の』で、中山明が『猫、1、2、3、4』で歌壇デビューを果しており、同年には仙波龍英の『わたしは可愛い三月兎』が、2年後の1987年には俵万智の『サラダ記念日』が出版されてある。ライト・ヴァースが注目を浴び、バブル景気が目前に迫っていた時代なのである。軽みが称揚されるそんな時代に、『神の痛みの神学のオブリガート』という重量級の意味作用を持つタイトルを自分の第一歌集に付けようとした作者の意図を思うと興味深い。

 『神の痛みの神学のオブリガート』はもはや入手困難で、私は『第一歌集の世界』(ながらみ書房)というアンソロジーで抜粋を読むことができたにすぎないが、確かな短歌語法に基づく魅力的な歌が並んでいる。

 いづこより吾は来たると問われゐて春の無明の夢たぐりゐる

 永遠なるを問はば言葉と言ひくるるこのたまゆらの夕餉の酔ひに

 光速の及ぶかぎりを宇宙とふ漠たる悲哀のみなもととして

 円錐曲線試論少年パスカルの孤心するどく研がれしならむ

 「知の人」と「情の人」という乱暴な二分法を適用すると、短歌における「知の人」の代表格は香川ヒサだが、古谷の歌にも事柄の知的把握を基盤とする抒情というスタンスが感じられる。「永遠」「宇宙」「光速」などの生活世界に還元されない硬質な語彙が形而上的世界への関心を示しており、4首目のパスカルの歌などは「スバルしずかに梢を渡りつつありと、はろばろと美し古典力学」という永田和宏の歌を連想させ、文科系的発想に理科系的な世界を接続していて注目される。経歴を見ると古谷本人は文科系だが、ご主人が理科系の研究者のようで、そこからの影響かもしれない。数学などの抽象思考を舞台とする抒情は、坂井修一に例はあるものの、現代短歌では未だに未開拓の領域であることはまちがいない。

 『現代短歌大事典』(三省堂)の古谷の項目を執筆した同じ中部短歌会の大塚寅彦は、「第二歌集以後は知的な感性によって都市生活の中のさまざまな事物の本質を描き出してゆく」と書き、代表歌に「交差点に塞き止められし人の群むれの中にて群をみてをり」という第二歌集『ロビンソンの羊』の一首を挙げている。大塚がこの歌を選んだのは、群集の中の個という視点から、個から群集を眺めるという視点へと、一首の中に視点の転換があるからだろう。ちなみにタイトルの「ロビンソン」は孤島に漂着したロビンソン・クルーソーだろうし、第四歌集『ガリバーの庭』はスウィフトの『ガリバー旅行記』から取られており、この選択に作者の嗜好が窺える。それは微少な生活世界に自己の視野を限定することなく、時に時間と空間を超えた世界にまで視線を彷徨わせ、歌に物語的遠近法を付与したいというスタンスだと考えられる。

 『ガリバーの庭』には都市詠が多く含まれており、『都市詠の百年 街川の向こう』という著書もある作者にはかねてより関心の深いテーマのようだ。

 急(せ)き走る車が一瞬街角のショーウィンドーを飾りて消えぬ

 都庁舎の外壁あはき電飾に照らされ春の海ゆく母艦

 帰路遅き街頭に立つ透明な電話ボックスに電話鳴りゐる

 カーブミラーに映らぬ一台車体低く唸りて都心の闇に消えゆく

 一冊の分厚き都市論かかへゆく夕べ地下街の雑踏を縫ひ

 硬質の肌光る馬ジェラルミンの鬣(たてがみ)を梳く都心の雨は

 山下雅人の『世紀末短歌読本』を貫くテーマもまた「都市」であるが、山下の視線は廃墟としての都市に注がれており、また地方から東京へと移住した離郷者という重い視座からの発言である。これに対して古谷には離郷者という視点はなく、もっぱら共時的な都市の風景を一瞬の角度から切り取った歌が多い。なかでも上の一首目や四首目のように、全貌を俯瞰することのかなわない大都市の隠れた一角に着目して定着した歌が、作者の視点の有り様を表しているように感じられる。藤原龍一郎もまた東京の下町生まれという出自を押し出した都市詠を多く詠んでおり、様々な角度から切り込むことのできる都市詠は、現代短歌の大きなテーマだと思われる。

 『ガリバーの庭』には、夫の発病と手術、高齢の舅の介護、被爆者であった実父の死など、人生の後半において人が否応なく経験する大きな出来事を詠んだ歌も多く収録されている。これらの歌もまた人がその中を過ぎゆく時間の厚みを感じさせるものではあるが、私は一読して次のような歌に心を惹かれた。

 肩触れ合ひ歩む街中テロリストの面輪やさしく紛れてをらむ

 水中を出でし快楽(けらく)の一刻をとどめて魚の腹に傷あり

 臓器みな透きみゆるごとし循環器病棟出でて歩む人混み

 この街の上空に見えぬ磁場あらむいつまでも弧をえがく鳩群

 一首目は地下鉄サリン事件を受けて詠まれた歌。テロリストの面輪は人混みの中で優しいに違いないとする把握の仕方に作者の視座がある。二首目は水から出る喜びとその結果裂かれた腹の対比に生の無惨が感じられる。三首目はレントゲン写真を見せられて病棟を出たときの印象。四首目は都市詠に連なる一首だろう。

 そして掲出歌「水瓶の形に水はひつそりと置かれてゐたり秋の門辺に」はこの歌集の中では最も印象深く、様々な事件に見舞われた作者の時の流れの中で、時間の流れをすり抜けて永遠の世界に一歩入り込んだような印象を残す。短歌には現実の瞬間の定着と、永遠の形象世界への参入という、逆の方向性を持つベクトルが働きうる。現実の人称的世界とそれを超えた非人称的世界と言い換えてもよいのだが、その往還とせめぎ合いにこそ短歌のダイナミスムがあるように思えるのである。

151:2006年4月 第2週 小塩卓哉
または、日常を詠うのがよいのだバカボンのパパ

留守番の妻の声聞くつまらなさ
    辻褄合わせのメッセージ入れる

          小塩卓哉『樹皮』
 掲出歌がこの歌集を代表する歌という訳ではない。小塩の歌集を読み進むうちに、ピントをどのあたりに合わせて読めばいいのかよくわからなくなったのである。読書には「ピント合わせ」もしくは「焦点深度」というものが確かにある。ピントを合わせて読まなくては内容を十分に理解できないし、それ以上に著者のスタンスに共感することができない。最後まで読み終えて巻頭に戻り、もう一度並んだ歌を見て行くと、掲出歌のあたりにピントを合わせて読むべきだろうという一応の結論に立ち至ったのである。

 自宅に電話すると妻の吹き込んだ留守録メッセージが流れる。それがつまらないという。妻の声は毎日自宅で聴いているので、この上留守録メッセージで聴くには及ばないからだろう。しかしメッセージだけ聴いて電話を切るのもためらわれる。留守録メッセージの再生、ピーッという発信音、用件の録音という流れが浮世の仁義として定着しているからである。だから単に辻褄を合わせるためだけに、特に必要のない用件を誰も聴いていない受話器に話すのである。「妻」「つまらなさ」「辻褄」と繰り返される「つま」のリフレインが軽快なリズムを作り出している。歌のテーマは、英雄でもなく犯罪者でもない平凡な市民が送る日常生活の中で、ふと感じる違和感でありひっかかりである。それを世界の不条理や人間の運命などと大上段に振り被らずに、どこか都々逸を思わせる飄逸なリズムのなかに詠うというのが、小塩のスタンスなのだろう。

 小塩卓哉は1960年(昭和35年)生まれで「音」「ノベンタ」同人。『樹皮』は第一歌集『風カノン』に続く第二歌集である。「緩みゆく短歌形式」により第10回現代短歌評論賞を受賞している。また海外移住者の短歌を論じた『海越えてなお』という著書もあり、評論の分野でも活躍しているようだ。

 『樹皮』で特に印象深いのは次の歌である。

 韻律に殉ずる気など我になく散文の野に放つ歌虫

「六月二十一日(日) 大辻隆弘『抱擁韻』批評会。彼は言う『短歌的文体に殉じたい』と。」という日記風の詞書が付されている。大辻もまた小塩と同じく評論でも活躍する論客であり、大辻が「短歌的文体に殉じたい」と言い放つとき、その歴史意識と近代主義批判を考えるとこれは大辻の credo (信仰告白)なのだが、小塩はこの信条を共有しないと宣言しているのである。そして小塩は歌虫を「散文の野に放つ」という。評論「緩みゆく短歌形式」を鑑みると、小塩は韻律と短歌的抒情へと収斂してゆく短歌観を否定していて、より緩んだ散文的な短歌へと向かう方向性を持っているようだ。事実、『樹皮』の中には相当緩んだ形式の歌が散見されるのである。

 君の言うほど僕は大人じゃない 蹴上がりがまだできないままだ

 パンダ舎まで父と私を駆けさせたものを今では思い出せない

 ぼっとしてちゃいけない呼び出しの二回目までに電話を取れと

音数が合っている歌でも定型短歌を収斂させる内的韻律は不在であり、散文的文体にかなり近寄っている。

 短歌界の部外者である私がここで不思議に思うのは、それでは大辻の批評会での発言をきっかけに、大辻と小塩の間で短歌をめぐる論争が起きたかというと、どうもその気配はないという点である。篠弘の労作『近代短歌論争史』を繙くまでもなく、近代短歌は論争を梃子にして発展・展開してきた。戦後にも前衛短歌をめぐる論争が起きたが、最近はあまりそういう話を聞かない。現代短歌は「論争不在」状況が続いているのである。これはよいこととは思えない。「カンタン短歌論争」とか「念力短歌論争」なども起きてほしいものだと思うが、大辻と小塩の短歌観の相違は短歌定型そのものに関するものであるだけに、一層事態は深刻だと言えよう。

 話を小塩の短歌の日常性に戻すと、それは次のような歌によく現れている。

 妻が熱出して伏すゆえ厨房に夕餉のメニュー考えており

 周富徳みたいにやってとせがまれてフライパン振るチャーハンが降る

 もう遅刻するなと言うために呼びたるに悠然と来てピアスが光る

 真新しき名札を胸に頭下ぐ慣れぬ事務職頭も慣れぬ

 竹の皮ずんずん脱いでゆくごとく娘等はみな足長くなり

一首目は妻が熱を出して伏せった日常のひとコマ。二首目はその続きで、周富徳は有名な中華料理のシェフである。三首目は教師としての日常から、四首目は職場が変わり事務職に就いてのエピソードである。これを見てもわかるように、小塩の歌の題材は家庭・家族・職場から採られていて、相聞と挽歌のないのが特徴となっている。もちろん日常の中にも死はころがっているのだから、死を詠んだ歌がないわけではない。

 君らまだ死に遠き道歩みいるが死は足裏(あなうら)にひったりと付く

 教師として生徒に語りかけているという設定であるが、死はもとより逼迫したものではない。相聞と挽歌の不在は象徴的である。韻律の力が最も発揮され、短歌的抒情が昂揚するのは、相聞と挽歌においてだからである。日常に拘り相聞と挽歌を作らないというのがもし小塩の意識的選択であるとすれば、それは小塩の「短歌的文体に殉じない」短歌観に基づいているのだろう。

 一読者としての私の感想を言わせていただければ、見も知らぬ他人の日常を歌で読まされてもおもしろくも何ともない。これは現在の短歌が作り手中心で展開しており、「短歌読者論」が不在であることとも関係していよう。『樹皮』のなかで印象に残ったのは次のような歌であるが、ここには短歌的韻律が健在なのである。

 食卓にキーウィは立たず口中に酸味湧き来る金曜の朝

 嗅覚の研ぎすまさるる夕べには酢の匂いする人を厭わん

 あああきのそのふところのふかくしてくちにふふめるままのほおずき

 どうやってキリンは寝るのと子が問いぬ子を守るため眠らぬ父に

 忘れられゆくべき果実子らに頒く二十世紀の皮剥き終えて

 壮年の我に流るる電流をそっと放ちぬ地下鉄の闇に

150:2006年4月 第1週 八木博信
または、ヴァーチャルな神話的空間で残酷さと美しさを詠う

廃されし管制塔まで書きに行き
     詩を放つとき世界は眠り

         八木博信『フラミンゴ』
 歌集の巻頭歌である。管制塔というから空港だろうが、もはや廃港となってがらんとした無人の空間に静寂と光だけが充満しているのだろう。そこに行って詩を書いて放つという。管制塔から詩を記した紙を風に放つこともできるし、電源が生きているならば航空無線で送信することも考えられる。いずれにせよそうして〈私〉が詩を放つとき、世界は眠っているのである。〈私〉が詩を送り出すのは世界の眠りを覚ますためか、はたまた世界を眠らせるためなのか、そのあたりは判然としない。しかし、広い空域を管理するべき管制塔は世界を統べる塔の喩であり、その高みから詩を放つというのは、ある種の志を感じさせる。やや作者に引きつけて解釈すると、作者自身の述志とも取れなくはない。「書きに行き」の措辞に甘さがあるが、一首全体が立ち上げる世界は魅力的である。

 八木博信は1961年 (昭和35年)生まれで「短歌人」所属。「琥珀」で平成14年度の短歌研究新人賞を受賞している。『フラミンゴ』(フーコー)は1999年発行の第一歌集である。八木にはこの他に、句集『弾道』(弘栄堂書店)、詩集『デジタルハート』(新風舎)があり、短歌・俳句・現代詩を越境して往来している人のようだ。

 あとがきに、「十代の後半短歌開始時から既に私の歌句には、身辺雑記的なものはあまりなく、虚構と創作が多くを占めていました」とあるように、八木の歌には生活詠や日常詠は皆無であり、言葉を素材として立ち上げる文学空間の中に美と残酷と抒情を現出せしめようとするのである。その意味において〈虚構の私〉を詠った寺山修司との精神的近親関係は深く、また私性の拡大を図った前衛短歌と一脈通じる所もある。

 八木の抱えるテーマは何だろうか。それは虚構の物語性の強いアイテムが散りばめられた現代の神話的空間を創生し、その中で生の残酷さや傷つけられた個の哀しみを詠うことだと思われる。

 追尾型魚雷に気づくとき遅し原潜レナの優しき乳房

 南より怪獣は来る蛾に騎って歌う僕らのザ・ピーナッツ

 シミばかりある背の女抱くとき激しく弾けよクロード・チアリ

 壁紙の剥がれて匂いたつホテルカリフォルニアの接着剤が

 地下室のメッサーシュミットお昼寝の園児が夢で帰るババリア

 八木が立ち上げる神話的空間の素材の多様さは驚くばかりである。一首目の「原潜レナ」の出典は不明だが、二首目は映画化された懐かしい怪獣モスラ、三首目は日本に帰化したギタリストのクロード・チアリ、四首目はイーグルスの名曲ホテルカリフォルニア、五首目は第二次大戦の戦闘機の名機メッサーシュミットが登場する。

 かつて吉川宏志は、アララギ短歌で植物がよく取り上げられたのは、「作者と読者のあいだで、植物を通じた繊細なコミュニケーションが成り立っていた」からであり、「植物を〈写生〉することは、このコミュニケーションを成立させる基盤であった」と論じたことがある(『塔』1996年3月号)。これに倣って言うならば、八木の短歌に頻出する固有名は、作者と読者の間である種のコミュニケーションを成立させる基盤となっていることになる。それはいかなるコミュニケーションか。結社という閉じられた人的空間の内部でのみ成立する了解や、短歌的伝統という歴史的土壌を基盤とする了解に対する信頼が崩れた現代において、作者と読者の間で「ああ、そうだよね」的コミュニケーションが可能なのは、映画や芸能や音楽を包含したゴッタ煮的に猥雑な都市伝説の集合である。だから八木は多くの人が聞いたことのあるアイテムを取り上げて換骨奪胎し、本来それが置かれていた文脈とは異なる文脈に投げ込むことで異化効果を生み出し、読者とのコミュニケーションを担保するのである。しかしそこに成立するのはもはやアララギのような「繊細なコミュニケーション」ではありえず、しばしば暴力的でショッキングなコミュニケーションとなる。

 本来それが置かれていた文脈や歴史性を剥奪する手法は、次のような歌に特に強く現われている。

 成熟を拒絶したまま老衰のピーター=パンの勃起が止まぬ

 半眼の肺魚に目撃されながら斧振り下ろすラスコリニコフ

 奴隷船に拉致されながら待っている書かれるときをクンタ=キンテは

 ダンカンを殺してきたる手を洗うマクベス新宿西口便所

 風俗街を駆け抜けてゆくジョギングで後ろ姿の西行法師

 まるで世界文学全集のような光景が展開するが、ピーター・パンは老衰し、マクベスは新宿西口便所で手を洗っている。このように元の物語を離れ、本来の文脈から抜き出されて別の文脈に置かれると、そのアイテムは異化され神話化される。それが特に強く感じられるのは五首目の歌で、西行法師が吉野の桜吹雪の下を歩くという本来の文脈から引き剥がされて、歌舞伎町の風俗街を走らされることで、異化された虚構の神話的空間が生まれるのである。ちなみに固有名の氾濫は「短歌人」の先輩に当たる藤原龍一郎の特徴でもある。

 喪しあれやこれやを初秋のたとえばボニー&クライド

 首都高の行く手驟雨に濡れそぼつ今さらハコを童子を聴けば

 しかし藤原において固有名は、ノワールの香りのする都市的抒情を醸成する要素であるのに対して、八木においてはひたすら神話化された空間を形成するのである。このヴァーチャルな都市空間を漂うのは、次のような人物たちである。

 暴食と吐瀉繰り返す恋人のためにコンビニ閉じないでくれ

 鮫のように奪ってしまえ万引きの少女が逃げる楕円の街へ

 オートバイ後部座席で愛をいう少女小鳩を殺したばかり

 螺子をきる少年のなか造られているか機械仕掛けの家族

 出来たてのスケートリンク傷つけるため美しき少女のエッジ

 爆竹で子猫を殺す午後寒く今夜は塾に来るのか少女

 過食と拒食を繰り返す恋人、万引き少女、小鳩を殺した手で愛を囁く少女、機械仕掛けの家族を持つ少年など、八木の投影する神話的空間に登場するのは、いずれも傷ついた者、または傷つける者であり、両者は等価である。歌舞伎町を駆け抜ける西行法師と万引き少女が違和感なく同時に存在する空間が八木の世界であり、歌を読み進む読者はそのような仮想空間に引きずり込まれることになる。

 このような神話的空間の住人として〈私〉が詠われるとき、〈私〉もまた無垢ではありえず観察者の立場に留まることもできない。ただし、次の歌に詠われている〈私〉はもちろん現実の作者ではなく、構築された神話的世界に参入した〈私〉であることは言うまでもない。

 わが薄き血と肉暖まれ冬の朝日を受けている売血所

 マリア像美しければ自涜の夜思い出すかな俺も牧師も

 テレクラの少女の唄うエルビスが俺まで届く公衆電話

 社会的適応できぬまま今日も自伝を書かんコクヨ履歴書

 歌集に親族を詠んだ次のような歌もあるのだが、これもまた家族詠と見なすことはできず、やはり入念に作り上げられた仮想世界での家族の姿である。八木はここでかなり抒情の方向に向かっているが、寺山修司の世界との親近性を指摘することもできるだろう。寺山もまた虚構の家族を詠ったことは周知の通りである。

 空ばかり見ていた父よ癌進む者は翼を持ちたきものか

 思うところのものにはなれず妹の出ているアダルトビデオは観ざる

 教師たる姉の幸遠ざかるときわれの暗算いまだに遅し

 今日も職なき叔父豆を煮詰めおり貧しき思想濃くなるばかり

 手術用鋏をくれし医者という母と男の失恋らしき

 ふつうはここまで大胆にヴァーチャルな神話空間を立ち上げたりはしないのだが、その手法において八木は一面では笹公人の念力短歌 (引くサービス精神) に通じるところがあり、また小泉史昭の虚実皮膜 (引く言葉の水芸) にも近い地点にいると言えるかもしれない。いわゆるニュー・ウェーブ短歌とは一線を画したこれらの歌人たちの方向性は注目される。それは修辞による〈私〉の押し上げ方のひとつの方向を示しているからである。なぜか全員男性ばかりなのだが。

 それ自体がレプリカントのようにいささか作り物めいた印象を残す歌のなかにあって、次のような歌群は従来の近代短歌のコードで読み解くことができる抒情性を備えていて、これはこれでなかなか美しい。

 新しき恋を語れば口紅に汚されているコーヒーカップ

 吹き荒ぶ海に落とした長靴に書かれてありしただ僕の名が

 コーヒー豆挽く音遠くコクトーのひとふでがきのような言い訳

 寺町に愛育てつつ北向きの窓開けて見る一面の墓

 シャボン玉昇りゆくかなチェリーナの皮膜のなかにわが息臭く

 セメントで固まる軍手火に投ずわれを呼ぶその手型のままに

 あとはただ海渡るだけ半島の自動演奏ピアノに寄れば

 特に五首目など美しいと思うのだが、チェリーナって何だろう。六首目も歌意はよくわからないままに、「半島」と「自動演奏ピアノ」というアイテムの結合にはいたく想像力を刺激するものがある。

 ちなみに八木の俳句は次のようなものらしい。

 金星の支配逃れて俺滅ぶ    『弾道』

 猟師なら通草黙せるまま食べる

 わが足下深く地球の汽笛鳴る

 俺も走る虎になりたき夜明け前

 流鏑馬の射る矢が残す同位角

 短歌に較べて俳句はより瞬発力と才気を必要とする詩型のようだから、八木のような資質は俳句に向いているかもしれない。

 近作からもいくつか引いておこう。『短歌人』2005年8月号より引く。

 ストリッパー憲法記念サービスデー音叉のごとき両脚をあげ 

 滅びゆくものは右へと旋回す戦艦大和面舵いっぱい

 空港をめぐるデルタに千人の致死量の毒しみだすカエル

 首と首うちあう麒麟の目はやさし愛とはもっとも戦いに似る

 『フラミンゴ』に較べればヴァーチャルな神話空間的性格は薄くなっているが、これが八木の新しい方向性なのかどうかはまだわからない。その才気に注目して見守りたいものである。

149:2006年3月 第4週 後藤由紀恵
または、日常の時間の中に沈潜する歌

母という永遠の謎ふくふくと
     空豆を煮てわれを待ちおり

        後藤由紀恵『冷えゆく耳』
 自分を産み育てた母ですら、畢竟心の底まで理解できるわけではない。人間の相互交通性の限界がこの歌の主題だが、この歌の魅力はひとえに「ふくふくと空豆を煮て」の部分にあることは明らかだろう。「ふくふくと」という擬態語は空豆がふっくらと美味しそうに煮える様を表現するが、微妙に母親のふっくらした体型にもかかっているようだ。この多重性と未決定性が歌の意味作用にとって貴重なものである。「空豆を煮て自分を待っている」という描写には、残酷なグリム童話の一節のような不気味さが漂っている。同居する娘と母の関係はなかなか複雑なのである。

 後藤由紀恵は1975年(昭和50年)生まれで「まひる野」所属。2003年に角川短歌賞次席となり、2005年に第一歌集『冷えゆく耳』でさいたま市が主宰する現代短歌賞の第6回目の受賞者となった。ちなみに現在までの受賞者は、梅内美華子、小守有里、渡英子、松本典子、河野美沙子と全員女性である。

 後藤の歌集を一読しての感想は、生活意識のリアルな反映という「まひる野」の伝統に添いつつ、現代において自己と生活から遊離しない短歌だというものである。その分、短歌定型の革新とか修辞の冒険という派手さがないことを残念に感じる向きもあるかもしれないが、それは欲張りと言うものだろう。主題の捉え方、主題を表現するための言葉の自己への引き寄せ方、そして一首のなかへの言葉の収め方は巧みで無理がない。作歌の現場での悩みはあれども、〈生活と歌〉の幸福な関係が成立していることが歌を通して感じられる。

 後藤の歌の主題は、同居する両親と祖母から構成される家族という舟なのだが、巻頭に置かれているのは次のような相聞である。

 声のみに君を知りゆくこの冬の栞とならんわたくしの耳

 われを指さぬひとさしゆびに君がさす空より花のように降る雪

 ぬばたまの髪をかざりて花となる声を聴かせよ低きその声

 でもきっと同じではない肩を寄せきれいと言いあう月のかたちも

 女性にとって恋は永遠の主題だが、流れるような調子の三首と並んで、冷静に恋のゆくえを見つめる四首目のような歌があることも注意しておきたい。恋の希求を詠い上げるには文語調が適しているが、反省は「でもきっと」と始まる口語調になっているのもおもしろい。

 『冷えゆく耳』の大きな部分を占めているのは家族詠であり、なかでも高齢となり認知症の傾向を示す祖母を詠んだ歌に注目しないわけにはいかない。

 終わりゆく祖母の時間の先にある死はやわらかく草の匂いが

 最後までおみなでありしかなしみは眠れる祖母の耳としてある

 「家に逝く」理想に今も日本の女らするどく追い詰めらるる

 笹舟のような家族よ祖母というかろき錘を垂らしつつゆく

 うつくしき母はまぼろし男らよ母の襁褓をまつぶさに見よ

 迷いゆく祖母のこころに触れることふいにおそろし春のゆうぐれ

 子を産みて育て働き痴れてゆく女とは淋しき脚に立つもの

 家族は笹舟のように流れに翻弄される存在であり、介護を必要とする祖母が錘として把握されているところに作者の沈着な眼差しがある。また作者は老いゆく祖母の介護を通して、「日本の女」を見つめている。このような意識が引用した最後の歌として表現されている。その眼差しは当然ながら、結婚・出産という人生コースを歩まない自分へと投げ返されるのである。

 眠る子はたしかな錘 母となりし友はしずかに岸を離りて

 立ち枯れの葦なびきたる川の辺に妻にも母にもならぬ身を置く

 産むものと産まぬものとが集まりてペンギンの顔をして笑いあう

 子を産んで母となった友人との距離感、〈子あり組〉と〈子なし組〉の間に生じる秘やかな壁という微妙な意識をこのように掬い上げるとき、歌は最も後藤に寄り添うものとなるのだろう。

 家族詠を離れても、日常の些細な感情の揺れを掬い上げるという後藤の歌の性格は変わらない。

 簡潔に死は刻まれて議事録の余白に春の雪ふりつもる

 時給にて働くわれを気軽だと評するひとの細きネクタイ

 プリットとヤマトのりとの差異のほど事務員として過ごすまひるま

 ふいに目の前より消えしボールペンほどの日常に慣らされており

 一首目は事務職として勤務する大学で、死亡により除籍となる学生を詠んだもの。事務職員としての自分と人とが「プリットとヤマトのりとの差異」ほどしかないという認識は冷徹であり、この認識の鋭さが歌を支えている。

 後藤の歌の手法は基本的には戦後短歌の骨格をなしたリアリズムである。しかしなかにはリアリズムの枠から微妙に外れている歌もあり、そんななかにおもしろい歌がある。

 日の暮れに何もつかめぬ両腕の幾千本の空より垂れて

 「北へゆく」ことに焦がるる春の午後パルコ八階で見るプラネタリウム

 靴下の左右まちがえ雨の午後笑わぬ歯科医としばし向き合う

 ゆうぐれの上から夜は降りてきてわたくし以外のひとを隠しぬ

 まなぶたにみどりのこどく滴らせシーラカンスのように眠りき

 遠き世に馬として添うこいびとの背骨のあたりに春風の立つ

 一人称で生きているような顔をして指紋だらけの銀のドアノブ

 一首目の空から腕が垂れているというのは、現実の風景ではもちろんありえず心象風景だろう。二首目の「北へゆく」は現実の北というより精神の北方であり、パルコという都市風俗の象徴としての固有名詞の選択も効果的である。三首目は現実にあったこととも解釈できるが、それ以上に寓話的な物語性がありおもしろい。四首目はリアリズムではあるのだが、夜が私以外の人を隠すという発見に、世界のなかにおける〈私〉の特異点としての性格がよく表現されている。〈私〉は〈私〉の視線から隠すことはできないのである。五首目はこれだけ読むと謎のようだが、映画『グラン・ブルー』で描かれたダイバーのマイヨールの死を詠んだもの。珍しく「みどりのこどく」と平仮名書きした表記に、伝説のダイバーを神話的世界に眠らせようとする作者の配慮が見える。六首目と七首目はリアリズムよりも想像の方が勝っているのだが、このような方向性の歌ももっとあってよいようにも思える。

 リアリズムの生命線は、現実の風景の中にいかに透徹した視線を潜りこませられるかであり、それと相対的に観察者としての自己をいかに純化していくかであろう。

 すでに死をのぞみし若さ持たぬゆえきりきりと巻く秋の糸巻

 いずれ死すわが頭の型にへこみたる枕を撫でるはつなつの風

 このような歌を見ると、後藤は年齢に似合わず事物の奥へと沈み込むような視線を持っていることがわかる。この視線がさらに研ぎ澄まされていったとき、どのような歌が今後生まれて来るのか期待したい。

148:2006年3月 第3週 山田消児
または、「僕たち」の位相

ざわめきは遠く聞きつつ街を出る
  内耳にふかき海を湛えて

       山田消児『アンドロイドK』
 古典和歌の時代と異なり、明治以来の近代短歌の根底には一人称としての〈私〉があるというのが共通の理解である。たとえ一首のなかに「我」という文字が含まれていなくても、短歌一首は〈私〉による観察、または〈私〉の表出として読むというのが共有された読みのコードとして定着している。岡井隆は、「短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の ― そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです」というよく知られた定義を下した。近代短歌の自然主義的〈私〉観に対抗する形で、寺山修司の〈私〉の拡散、前衛短歌の虚構の〈私〉などが提唱されたが、これらも短歌に顕われた〈私〉と、実生活における、もしくは作者としての〈私〉との距離と異同が問題にされたのであり、その位相はさまざまでありながら、ただ一人の〈私〉を想定する点においては変わりないのである。つまり一首の背後に想定する〈私〉は一人であり、それが原則ということになる。

 一首のなかに複数の〈私〉が存在する場合があるだろうか。すぐ頭に浮かぶのは直接話法による引用である。

 「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの 俵万智

 「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」 穂村弘

 この場合には一首のなかで対話が成立しているか、他の場における対話を再現しているのだから、発話者としての〈私〉が複数存在することに何の不思議もない。発話者の交代により時系列的に〈私〉が複数現われているのであり、〈私〉が同時的に複数存在しているわけではない。

 山田消児の『アンドロイドK』(深夜叢書社)を読んでいて、集中に「僕たち」「僕ら」という一人称複数形が使われている歌がいくつか含まれていることに気づいた。このことについて少し考えてみたい。

 「僕」「私」「吾」は一人称単数形の人称詞である。「僕たち」「私たち」などは一人称複数形とされているが、実はそんなものは存在しないということに注意すべきである。「一人称複数形」というのは文法の便宜的呼称にすぎない。「一人称」とは発話主体の言語的記号である。発話主体はその定義上、常に単数でしかありえない。例外的に複数化するのは、シュプレヒコールで大勢の人間が「われわれは勝利するぞ」などと同時に唱和する場合に限られる(このとき本当に発話主体が複数化するかという点については疑問があるがここでは触れない)。二人称や三人称の複数は現実に存在する。私が「あなたがた」と言うとき、私は複数の(潜在的)共発話者に向かって話しているのだから、二人称複数は現実のものである。三人称複数についても同じである。一人称のみが常に単数であり、一人称と他の人称とのこの非対称性はもっと注目されてしかるべきだろう。一人称は常に〈孤〉なのである。

 では、一人称がその内奥に保有するこの〈孤〉性ゆえに、私の発話は常に孤的性格に彩られているのだろうか。そうではない。私が発話主体として振る舞うとき、一人称の〈孤〉性を対話の共同性へと放出するがゆえに、私の発話は孤的性格を免れるのである。私が発話するとき、その発話は他者へと向けられている。私の発話は共発話者によって回収され、隣接する次のフェーズでは共発話者が「私」を名乗って私に発話を返す。言語はこのように発話者と共発話者との相互性の内にのみ顕現する何物かである。発話者と共発話者とが、同時発話・ユニゾン・構文の継承などのさまざまな手段を駆使して、複雑な織物のように会話を織り上げてゆく様は、近年の会話分析によってその詳細が明らかにされている。

 では短歌に現われる「僕たち」「僕ら」という「一人称複数形」は何の記号なのだろうか。結論から先に言うと、それは何らかの基準に基づいて画定された社会的「小集団」の記号である。

 四年前、原っぱだったねとうなずきあう 僕らに特に思いはなくて  早坂類

 歌に即した状況的解釈においては、この歌の「僕ら」は、新しく建物が建ち自分たちが遊んでいた原っぱを失った子供の小集団を指すが、もう少し解釈のレベルを上げると、それは土着的ルーツを喪失し浮遊する都市生活者という社会階層をも指すだろう。早坂は屹立する孤的〈私〉を詠うよりも、「僕ら」という代名詞を梃子として、「小集団」に漠然と共有された都市的気分のなかに自己を溶解させる手法を好んで使うのである。このとき早坂は好むと好まざるとにかかわらず、小集団の「代弁者」となる。「僕ら」は代弁者の言語的記号なのである。

 『アンドロイドK』所収の山田の歌を見てみよう。

 いまはただ見てるだけ 皆と一緒に生きられなかった僕たちだから

 潔い手つきにいつも手を引いて僕たちは誰も裏切らなかった

 信ずれば救わるる神の御言葉を聴くとき僕ら瞼をふさぎ

 さしのべるために右手を較べ合うたぶん僕たちはさしのべるから

 まだ終わりそうもないから僕らは撃つ壁にかならず追いつめてから

 山田もまた「僕たち」という人称詞によって代弁者たらんとしているのだが、それはどのような社会的小集団の代弁者なのか。上に引用した歌だけからはすぐにはわからない。山田の他の歌では比較的明確な歌の背景も、「僕ら」が登場する歌群では故意にかと疑われるほど輪郭がぼかしてある。次のような歌を見てみよう。

 子供だから嘘は吐(つ)けない破裂した風船ガムが口を塞いで

 対人恐怖症のこの子は追いつめて楽しむテレビゲームが好き

 やさしいね どうせきみより先に死ぬ蝶をお空に放したりして

 始めからなかった 世界拒みたる少女の瞳に映らぬものは

 少女のまま眠れる薄き胸の扉開いてみれば コワレカケテル

 人間のかたちを真似て僕はいた 紅うすき日暮れに生まれ

 口を塞がれて話せない子供、対人恐怖症の子供、世界を拒む少女、壊れかけている少女などが登場人物であり、その傾向は明白だろう。この流れは、巻末に収録され歌集の表題ともなっている「アンドロイドK」と題された連作へと収斂する。

 弱ケレバ誰デモヨカッタ 強くない僕がはじめてささえるために

 はじめてだったからいくたびもいくたびも生き返らないように殺した

 バモイドオキ 僕だけのための神だから僕だけのために僕が名づけた

 ねじ一本自ら抜けば心持たぬアンドロイドのように壊れた

  「バモイドオキ」から明かなように、1997年(平成9年)に起きた酒鬼薔薇聖斗と名乗る犯人による神戸小学生殺人事件が題材となっている。山田が「僕たち」という人称詞によって代弁者になろうとしているのは、自己の不全感と世界との不調和から心の闇を抱え、社会的逸脱を犯した青少年なのである。彼ら、彼女らは、アンドロイドのように描かれている。酒鬼薔薇聖斗はのちに「少年A」と呼ばれたが、表題の「アンドロイドK」のKはおそらく神戸の頭文字のKだろう。

 ここで「僕たち」の位相をもう一度考察してみると、作者である山田自身は「僕たち」が指示する社会的小集団に所属しているわけではない。だからこの「僕たち」は偽装であり、山田はそれが指示する小集団に成り代って詠っているのである。では山田の〈私〉はどこにあるのか。それは「心を病んだ青少年」=「僕たち」という偽装を組み立てた主体として、歌の表面にもその背後にも見えない形で存在するしかない。それは理論的にその存在を要請されるにすぎない〈私〉であり、歌の背後の極めて抽象的な審級に占位するのである。

 寺山修司が短歌に大胆に虚構を導入して私性の拡張を図ったとき、リアリズム陣営からは非難の大合唱が起きたが、虚構された〈私〉は現実の寺山の内部にあった欲求や抑圧を投影したものであり、その意味においては寺山の〈ほんとうの私〉と無縁なものではなかったと言える。少なくとも虚構された〈私〉は現実の〈私〉と同位の階層に属している。しかし山田が試みた偽装の「僕たち」は、一首を屹立させる〈私〉の代替物として短歌の核に成りうるものだろうか。仮構された「僕たち」の内面性は〈私〉の切実さとして引き受けられるものだろうか。そこにはどうしても限界があると考えざるをえない。それはまた読者の立場からするならば、短歌的言語空間に展開された言葉の河を遡り、韻律の波に揺られて喩の橋を渡り、最終的にどのような源に到達したときに、一首の意味の輪が閉じられたと判定するかという受容の問題でもあるのだ。

147:2006年3月 第2週 小高 賢
または、壮年を詠う近代主義者

ポール・ニザンなんていうから笑われる
    娘のペディキュアはしろがねの星

            小高賢『本所両国』
 私の愛唱歌のひとつである。若い人のために解説すると、ポール・ニザン (1905-1940)はフランスの作家で、共産党で活動するが独ソ不可侵条約に反対して離党し、党から裏切り者の中傷を浴び、後に戦死している。『アデン・アラビア』などの著作は1960年代後半に翻訳紹介され、全共闘世代によく読まれた。当時の長髪の若者の憧れの星だったわけだ。小高は1944年(昭和19年)生まれだから、全共闘世代の中核を構成する団塊の世代に属しており、多感な青春を政治の季節に送った一人である。娘はもちろん「ポール・ニザンって、誰?」世代に属するわけだから、父親の時代錯誤を笑っている。「しろがねの星」はかつての政治的理想を連想させるが、それが今では娘のペディキュアの模様と化している。この落差を見つめる視線がおかしみとなっている。世代間の断絶と同時に小高のテーマのひとつである「家族」につながる歌と言えよう。

 歌人としての小高の経歴はいささか特異である。第一歌集『耳の伝説』(1984年)のあとがきに詳しく書かれているが、講談社の編集者として馬場あき子に出会って意気投合し、その縁で岩田正・三枝昂之と知り合う。「歌だけはやりたくない」と言っていた小高が馬場の勧めで「かりん」創刊に参加し、短歌を作り始めたのが1978年頃である。34歳の出発は歌人としては遅いが、このことが小高の短歌の性質を規定した。社会人としての分別を備えた年齢になってから短歌に手を染めたため、ややもすれば自我の肥大と自己陶酔に陥りがちな青春短歌という階梯を飛ばして歌の世界に参入したのである。このため小高の歌は最初から、社会と自己を見つめる大人の冷静な視線に貫かれている。

 労働の傍注のごと夕映えの舗道の桝目かぞえて帰る     『耳の伝説』

 一族がレンズにならぶ墓石のかたわらに立つ母を囲みて

 的大き兄のミットに投げこみし健康印の軟球(ボール)はいずこ

 娶らざるグリム兄弟兄のこと草のいきれに咽びていたる

 夜のそこいに沈みゆくごと風聞けば父の巨きな耳の伝説

 青き葉を卓に並べるさびしきかな子はあきないを知りはじめたり

 小高の短歌の発想の場は、職場と家族と歴史上の人物との想像上の対話だが、それは第一歌集においてすでに明らかである。大きな福耳を持ちながら小さな死を死んだ父はすでに不在の存在として影を落としている。家族写真に写っているのは母のみと詠う二首目に漂う視線は大人のそれである。兄とのキャッボールに戦後の昭和を回想し、グリム兄弟の兄の運命に思いを馳せ、知恵をつける子供に社会人としての父の眼差しを注ぐ。どこにも青春の陶酔と錯誤はない。過度の思い入れを排して対象を見つめる視線が、健全な生活者であり、丸山真男に私淑する戦後の近代主義者である小高の特質である。

 小高の短歌は抽象的な観念に傾斜せず、歌に詠込まれた地名などの具体性がその手触りを保証している。

 壮年の本郷菊坂炭団坂夏に埋めおくことばさがせり  『耳の伝説』

 なまぐさき銀杏を踏む力こめて夕焼け前の行人坂よ

 よりそいて弁慶橋に繋がるる薄日を積みし秋のボートは

 みず溝によどむ真昼間向島の鍍金工場(めっきこうば)のくれないの旗

 東京の下町である本所生まれの小高が詠込むのはやはり親しんだ下町の地名が多い。また『耳の伝説』には東京の坂が多く登場する。森まゆみの『鴎外の坂』は森鴎外が住んだ場所にある坂と鴎外の文学者としての歩みを関係づけて論じた佳作だが、坂が人生の暗喩であることは言を待たない。『耳の伝説』の底を流れているのは「壮年の歩み」の自覚であり、人生を坂と観ずるのもまた青年期には絶えてないことである。

 投企(アンガージュ)わが語彙を去りいくばくやいよよ尖りし月見上ぐれば

 わが言葉待ち迎えいる狡猾な顔あり憎む午後の会議に

 壮年の超ゆべき暗部にたまりつつ麦の匂いす夏の小雨は

 小高が父親や祖父に思いを馳せ、歴史上の人物と想像上の対話を試みるとき、そこには歴史的連続の意識が強く働いている。

 透谷の享年二十五歳風塵の春の生活(たつき)をわれは抱けり   『耳の伝説』

 父の眼の背向(そがい)にせまりくるごとき秋壮年の眼(まなこ)もてみる

 夜半に読む「仰臥漫録」さむしさむし足あり手あり生きつづくるは

 夕暮れがアジアのはてに降りそそぎ妻を娶らぬ賢治思ほゆ

 中里介山死せる戦中十九年生をうけたりわれは本所に  『家長』

 家族論――その父の座に漱石もわれもすわりぬ日日不機嫌に

 鴎外の口ひげにみる不機嫌な明治の家長はわれらにとおき

 祖父があり父があって私がいるという家族における歴史的連続性、漱石がなろうとした一家の長として自分もまた同じ悩みを抱くという共感がここにある。

 せいねんのぬけがらのごとひとがたはぷーるさいどにぬれのこりたり 『家長』

 珍しく青年を詠ったこの歌で小高は平仮名で「せいねん」と書く。村木道彦は甘やかに「せいねん」の歌を詠い、小池光もまた「ひとり聴く潮騒さみし春の湯に泡たてあらふせいねんの髪」と青春の感傷を詠んだ。このようなニュアンスをこめて平仮名で「せいねん」と書くことは今ではもうできない。それは、少年から思春期を経て青年になり、やがて壮年を迎えるという、社会的に共有された年齢区分が崩れてしまったからである。モラトリアムという用語もすでに懐かしくなった現代においては、青年期と壮年期の境界は限りなく曖昧になり、青年期は引き延ばされ、その終端は灰色の領域に沈んでいる。夏目漱石は49歳で没しているが、人口に膾炙した口ひげをたくわえた写真の顔は、とても今の同年齢の人物のそれではない。明確な年齢区分が消失すると同時に、壮年になって甘酸っぱく回顧する青年期もまた消滅した。私たちはただだらだらと歳をとる時代に生きているのである。

 年齢区分の消失というこの現代的現象が、歴史という縦糸の連続性の自覚を蒸発させたことに注意すべきである。祖父がいて父がいて、自分もまた父の年齢を迎え一家の長となり、昔父が座っていた居間の指定席に座る。この連続性が壊れるということは、自らも歴史の流れのなかにいるという内的実感が消失するということである。小高の短歌を読んでいて痛切に感じるのは、〈自分は歴史的存在である〉という小高の自覚であり、それは小高の世代の人間が持つことができるものであった。小高の近代主義的人間観はそこに由来する。同時に痛切に感じるのは、このような連続性の意識は、加藤治郎や穂村弘らのニューウェーブ短歌の旗手らが遂に持つことができないものだということである。彼らに非があるわけではない。生まれ落ちた時代がそうさせるのである。「僕たちはつるつるのゴーフルだ」とつぶやく穂村が「せいねん」と書くことを想像することができない。この意味で小高の第一歌集『耳の伝説』、第二歌集『家長』を現在読み返すと、どこか懐かしさすら覚えて懐古的気分に捉えられるのである。

 小高の最新歌集『液状化』(2004年)を一読しての正直な感想は、残念ながらネガティヴなものであった。歌が平板化している。

 としふればふりむくたびに増ゆる死者夏の木の間の影と連れ立ち

 東京の雨たっぷりと注がれて蟇(ひき)三匹の路地の横断

 ほしいときかならず消えて見つからぬ糊のゆくえを追う夫婦にて

 辞めること前提なれば抵抗のかたちとしてのながき沈黙

 エレベーター今朝は各停香水のつよきおみなのうしろに立てり

 明日からの閉店セール妻と娘は他人の不幸なれではなやぐ

 年老いた母親の介護と死、長年勤務した出版社の退職がこの歌集の背景となる大きな事件である。小高の短歌はもともと生活に眼差しを注ぐもので、難解なところはまったくない。しかし『液状化』に収録された歌は、実人生における事件の大きさに見合う修辞を獲得していない。どうしてこうなったのだろうか。

 山田富士郎は「夢のありか」(『現代短歌雁』27号)という文章のなかで、同世代の歌人と比較しての小高の特徴として、前衛短歌の影響の不在と、韻律や短歌定型への関心の薄さを指摘している。同じ世代の永田和宏や三枝昂之が執拗なまでに短歌定型への考察を展開しているのにくらべて、小高は文学形式としての短歌という形式そのものを論じることがない。それはおそらく小高の拠る近代主義的人間観と生活者としての健全さのなせる業である。小高には短歌定型という魔に魅入られたというところがまったくない。小高にとって短歌は「意味を盛る器」であり、意味の含有量をゼロに近くしても鳴り響く器ではない。だから定型の可能性を探る実験や修辞の試みによって定型を革新しようという姿勢はもともと薄い。

 『耳の伝説』や『家長』で小高が代表歌となる良質の歌を作ることができたのは、歌を作る場である職場・家族・社会と作者とが緊張関係をはらみ、それが作歌の圧力となってプラスに働いたためである。職場・家族・社会から逆照射されて浮上する〈私〉は、明確な像を結び修辞の基点として歌の核となる。ところが、歌を作る場である職場・家族・社会からの圧力が下がった時、場から逆照射される〈私〉の像も同時にぼやけてしまう。〈私〉と場の力学はおおよそそのような位相にあると考えられる。

 ぼやけた〈私〉を再び明確に結像するには、修辞の力による他はない。加藤治郎の近作が『短歌レトリック入門』(風媒社)であるのは象徴的以上の意味がある。現代においては修辞の力によってしか〈私〉を浮上させることはできないと加藤は考えているのである。小高の近作が平板になっているのには、このような事情が働いているのではないだろうか。それはまた「近代」の賞味期限が切れたということでもあるのだ。