173:2006年10月 第1週 飯田有子
または、枝毛姉さんの叫びは言葉の切実さを伝えるか

たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグ
       たすけて夜中になで回す顔
           飯田有子『林檎貫通式』

 現代短歌の「わからない歌」の代表としてよく引用される歌である。文節に従って切ると、4・7・4・10・4・11となり、全体で40音の大幅な破調になる。伝統的な短歌のリズムでこれを読むことは不可能だが、リズムがないわけではない。「たすけて」の4音がリフレインとして反復されていて、その間に7・10・11音の句が挿入されているので、全体としては単調増音傾向を示しており、悲鳴のような「たすけて」とあいまって、次第に高まる叫びのような印象を与える。しかし意味の面を見ると、「枝毛姉さん」「西川毛布のタグ」「夜中になで回す顔」の間には連関はなく、支離滅裂に見える。歌に意味はないと切って捨てるのではなく、あくまで歌に意味を汲み取る立場を守るならば、一見支離滅裂に見える言葉を並べるにはそれなりの意味があるのであり、その場合、意味は言葉の字義的レベルにではなく、一段階抽象して「支離滅裂の言葉を並べることの意味」というメタ言語的レベルに求めなくてはならない。その場合、このように意味的連関のない言葉を連ねるのは、「たすけて」という叫びの切迫性を強化するためだと考えられる。つまり、ここでは通常の「言葉の意味」ではなく、「言葉の強度」が記号的価値を獲得しているのである。

 飯田有子は1968年(昭和43年)生まれ。歌歴は長く、伝統ある早稲田短歌会に所属し、「まひる野」会員として当時は伝統的な短歌を作っていたという。その頃に作られた短歌を見てみたいものだと思う。私は『林檎貫通式』しか読んでいないので、もし昔の短歌を読んでいたらたぶんずいぶん異なる見方をしたかもしれない。現在は同人誌「かばん」に所属しており、『林檎貫通式』は2001年に、加藤治郎・荻原裕幸らの主宰する「歌葉」から出版された。現代短歌を代表するプロデューサーの手で世に出たのであり、良くも悪くも伝統的短歌と断絶した新しい短歌の代表格のように扱われるのは、デビューの状況からしてやむを得ない。本人の写真が『短歌ヴァーサス』第5号の表紙に使われている。『林檎貫通式』は漫画家ウメコの少女っぽいイラスト入りで構成されていて、意図的に少女らしさを前面に押し出しているのは演出だと思われる。そのことは後に述べるように、短歌の質と大いに関係するのである。

 さて飯田の短歌だが、『林檎貫通式』には伝統的な短歌のコードで理解し鑑賞できる歌もある。たとえば次のような歌群である。

 のしかかる腕がつぎつぎ現れて永遠に馬跳びの馬でいる夢

 女子だけが集められた日パラシュート部隊のように膝を抱えて

 にせものかもしれないわたし放尿はするどく長く陶器叩けり

 金色のジャムをとことん塗ってみる焦げたトーストかがやくまでに

 夏空はたやすく曇ってしまうからくすぐりまくって起こすおとうと

 足首をつかんできみをはわせつつおしえてあげる星のほろびかた

 カナリアの風切り羽ひとつおきに抜くミセスO.J.シンプソン忌よ

 一読すればわかるが、飯田は韻律の詩型としての短歌をよく理解しており、前衛短歌以後さまざまに試みられた技法的工夫も自分のものにしている。例えば1首目の4句「永遠に馬跳びの」は10音の増音だが、小池光も法則化したように、4句はもっとも増音破調が許される句である。どこか塚本邦雄の「少女死するまで炎天の縄跳びのみづからの圓驅けぬけられぬ」を連想させるものがあり、この連想は飯田の念頭にもあったかもしれない。内容的には永遠に馬跳びの馬に留まる悪夢のような恐怖感が夢として表現されており、取り立てて難解な所はない。2首目では「パラシュート/部隊のように」に句跨りがあり、これも周到に下句に配置されている。生理の始まった女子を対象とする小学校の保健の授業の場面が描かれている。ポイントはもちろん「パラシュート部隊のように」で、体育館の床に体育座りをしている様を表現しているのだが、それがまるでこれから敵地に夜間降下する落下傘兵のようだとされている所がミソである。3首目は初句の6音を除けば技法的に取り立てて言うべき点はないが、内容を見ると、上句の叙情と下句の叙景とが意味的喩として見事に呼応している。テーマは割とよくある自己不全感覚である。

 ここまでは比較的伝統的短歌に近いスタンスに位置しているが、4首目からはもう少し現代短歌風になっている。4首目では「とことん」「塗ってみる」と口語が使われており、「焦げたトースト」が象徴する喪失感を「金色のジャム」で糊塗する行為は、3首目の私のにせもの感と通底する。5首目では牧歌的な子供時代の明るい夏の情景のなかに、一抹の将来への不安感が表現されていて、よくできた歌である。6首目は腕立て伏せの姿勢をする相手の足をもって移動する体操の場面だろう。下句に言及されている星の消滅という宇宙レベルのマクロな現象と、上句の日常的な体操の場面との鮮やかな対比が歌の眼目である。7首目のO.J.シンプソンは、アメリカのプロフットボールのスター選手であり、1994年に元妻の殺害容疑で逮捕され裁判になったが、巧妙な法廷戦術の結果無罪の評決を得た。O.J.シンプソンは映画にも出演した著名人で、逮捕の一部始終はTVで中継され全米の注目を集めたが、その影で殺害された元夫人は忘れられて行った。元妻の名前がニコル・ブラウンだったということを記憶している人ももういない。飯田はこのように不当に忘却された人を歌に登場させていて、その選択は周到である。上句「カナリア」は人工的に作られた美声の鳥であり、短歌では夢と儚さのシンボルとしてよく詠われる。ここでは無辜の人の象徴である。カナリアの羽を抜くというのは残酷な行為であり、殺害され忘却されるという二重の不幸に見舞われたニコル・ブラウンの運命を暗示している。

 ここまで意図的に細かく飯田の歌の読みを書いてきたが、飯田は伝統的短歌の技法を踏まえ、前衛短歌・現代短歌の手法も熟知していて、なかなかよい歌を作っているのである。しかし、問題は上に引用したような歌が『林檎貫通式』を代表する歌ではなく、また飯田の代表歌とも見なされていないという点にある。『林檎貫通式』を代表するのは次のような歌である。

 ゆいごーん 春一番に飛ばすジェリーフィッシュアレルジイ証明書

 かんごふさんのかごめかごめの(*sigh*)(*sigh*)(かわいそうなちからを)(もっているのね)

 球体にうずまる川面いやでしょう流れっぱなしよいやでしょう

 生ごみくさい朝のすずらん通りですわれわれは双子ではありませんのです

 すべてを選択します別名で保存します膝で立ってKの頭を抱えました

 あれみんな空っぽじゃない? うたがいぶかい奴は卵屋にはなれません

 『短歌ヴァーサス』第5号の特集「新鋭歌集の最前線」で飯田の『林檎貫通式』を論じた荻原裕幸は、「この歌集が目指しているのは、そうした自己像の形成といった短歌らしさを根こそぎ落したときになお残る、もっとピュアな〈現在のことばのちから〉のようなものだと言えようか」と書いている。また上に引用したような歌について、「『林檎貫通式』が究極的に求めていたのは、帰路を断つようにして短歌らしさから遠ざかった以下のような作品ではないだろうか」とも述べている。つまり荻原は『林檎貫通式』に収録された歌のなかには、伝統的な短歌における自己像の形成 (「短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の ─ そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです」by 岡井隆)をうかがわせる歌もあるが、この歌集の価値は従来の短歌らしさと断絶している点にこそあると主張しているのである。そのとき荻原が価値を置くのは、「ピュアな〈現在のことばのちから〉のようなもの」である。

 ここで荻原の物の言い方に危険な香りを嗅いでしまうのは私だけだろうか。伝統的短歌と断絶しているということ自体がプラスの価値として評価されるのではなく、過去と断絶した結果、どのような新しい地平を示すことができたかによって評価されるべきだろう。荻原は明らかに前者の「断絶」に力点を置いてこの文章を書いている。後者の「新しい地平」については、「ピュアな〈現在のことばのちから〉のようなもの」と述べるのだが、これが果たして伝統的短歌の世界に対峙できるほどの強力な武器となりうるのだろうか。私はこの点について極めて懐疑的にならざるをえないのである。

 伝統的短歌の定型や韻律を否定し、「ピュアな〈現在のことばのちから〉のようなもの」に全面的に頼るということは、ひとりぼっちで31文字の詩型と向き合うということである。かつてキリスト教信者と神のあいだに位置して神と人を仲介していたカトリック教会を否定し、神と人とを無媒介的に直接向き合わせようとしたプロテスタントの宗教改革とその精神においてよく似ている。宗教は神と人の中間にある教会という場において社会化される。それと同様に、短歌は歌と人の中間にある様々な約束事や制度(結社もそのひとつ)において社会化される。社会化されない短歌は個人化されざるをえず、極端な場合には理解すら拒絶した孤独の叫びとなる。

 そうすると個的次元においてみずからが価値を置きうるものは、発語の切実さとピュアさしかなくなる。「私の感情はこんなに切実」と、「私の言葉はこんなに嘘がない」のふたつである。切実な感情を抱き言葉の嘘を嫌うのは青春の特徴であるから、「ピュアな〈現在のことばのちから〉」を保持するのは若者の特権ということになる。『林檎貫通式』の表紙がセーラー服の少女のイラストで、歌集全体に飯田の実年齢よりも若い少女の演出が施されているのはこのために他ならない。穂村弘の『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』の場合は、作者である穂村自身が少女を偽装するには無理があるので、架空の少女まみからほむほむへの手紙という体裁を取っているが、目的は同じである。

 しかしながら言葉のピュアさなどというものを頭から信じないオジサンの目から見ると、「発語の切実さ」を担保するために幼年偽装するのは「いかがなものか」と思う。それでほんとうに世界と向き合うことになるのだろうかという気がしてならないのである。

 

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172:2006年9月 第4週 佐藤雅通
または、永遠の少年性

休日の鉄棒に来て少年が
   尻上がりに世界に入って行けり
        佐藤通雅『水の涯』

 少年が校庭の鉄棒で逆上がりの練習をしている。わざわざ登校日を避けて休日に来ているのは、クラスで自分だけ逆上がりができなくて、人目のない休日に一人で練習するためである。何度か試みるうちに、ようやく逆上がりができるようになる。それを「世界に入って行けり」と表現している。成長過程にある少年にとって、逆上がりができるようになるという些細なことであっても、それは世界に入って行くひとつの重要な階梯なのである。教師をしていた佐藤らしい観察であり、定型を遵守する作風には珍しく、下句が10・7という大幅な破調になっている。四句目の「尻上がりに世界に」はいきおい速度を上げて読むことになるが、そのリズムが逆上がりのスピードをミメーシス的に表現していて、成功した破調のよい例だろう。短歌においては破調すらシニフィアン (意味するもの) として働くのである。

 1943年生まれの佐藤には、第一歌集『薄明の谷』(1971年)を始めとして、第八歌集『予感』 (2006年) まで8冊の歌集がある。今回は、第一歌集『薄明の谷』完本の他、第二歌集『水の涯』、第三歌集『襤褸日乗』、第四歌集『アドレッセンス挽歌』からの抜粋を含む砂子屋書房刊行の『佐藤通雅集』を読んだので、佐藤の初期歌篇を中心に見たことになる。

 佐藤の歌の大きな特徴はその「少年性」である。この場合「少年性」とは、少年の眼と心の瑞々しさを失わないという意味であるが、失われた象徴的少年期に固着するという意味でもある。『薄明の谷』冒頭の「少年期抄」は、作者10代から20代初期に作られた歌だが、年齢的に少年を脱してそれほど間がない時期において、もうそのことは言えるのである。

 爆笑する中にて我も笑わんとすれば苦しきものが喉にこみあぐ

 すべてみな許容したき心もつ冷気の中に夕日沈むとき

 ひそかなる殺戮とげし野の朝にわが童顔をさらして歩く

 わが内より喪われゆくもの 恍惚と彫像めいて火の前に立つ

 凡愚の周囲への異和感と孤独感、きりきりと差し込むような自意識、その反面、無垢性を年齢とともに喪失しつつあるという危惧などの、10代の少年期に特有の内的感情の葛藤が、達者な手法で短歌に定着されている。〈社会化されてゆくことへの怖れ〉は青春短歌の普遍的なテーマのひとつだが、佐藤の特徴は、やがては平準化されてゆく周囲との異和や対立を、解消せずに内的に抱え込むことで自我を確立しようとした点にある。佐藤が少年期に固着し、何度も短歌に詠む理由がここにある。この葛藤こそが佐藤の歌のエネルギーなのである。

 シュプレヒコールはるかに聞こえる図書館に今日も埋めゆく「透谷ノート」

 あかされている敗退を覆いつつ人ら群れいるみぞれの構内

 憤り黙すすべなく上り来し屋上の隅に孔雀ふくれる

 鬱したるまま過ぎて行く青年期ならんか食卓に葡萄すきとおる

 拒絶しつつ孤立しつつわが視野にむしろすがしも朝の樹木は

 権力に背きゆきつつわれらかく清しくなれる肩・まだら雪

 60年安保闘争の直後の1961年に東北大学に入学し、学生運動を経験するが、指導層の観念性に異和を感じてやがて離れる。上に引いた歌はその頃の作だろう。キャンパスに響くシュプレヒコールを聴きながら、一人図書館に透谷ノートを書き綴る孤立感が佐藤の拠る場所である。佐藤は短歌人会に入会するが、それは「どこよりも権威がなく」「学割があり」「何だかむずかしい歌がいっぱいあった」からだという。しかしやがて脱会し、個人誌『路上』を創刊して現在に至っている。

 『薄明の谷』(1971年)でスタートを切った佐藤の歌人としての歩みを見ると、時代は変わったという感を深くする。小池光は、「70年頃に短歌をやっているということは恥ずかしいことだった」という意味の発言している(『現代短歌の全景』河出書房新社)。同じ頃に短歌と出会った藤原龍一郎も同意しているので、世代に共有された感覚なのだろう。『薄明の谷』には歌集としては例外的に長い自序が付されており、その中で佐藤は一時短歌を捨てようとしたことがあると告白している。その理由は、「旧物の典型みたいな形式にすがりついているのはぶざまに思われたし、現代における存在意義がはなはだ疑わしかったから」だという。また「『自分は短歌に魅力を感じる人間だ』と宣言することは、科学的合理的風潮の前にあってははなはだ弱々しい歌のこころに居直るに等しく、日本的なものを不当におおいかくしていた近代のつぎはぎ文明に宣戦布告するに等しかった」と続けている。

 つまり佐藤には二重の葛藤があったということになる。ひとつは上にも述べた〈社会化されてゆくことへの怖れ〉を核とする周囲との異和と対立であり、もうひとつは短歌という「旧物の典型みたいな形式」を「科学的合理的風潮」の時代にあえて選択するという対立である。しかしすでに述べたことではあるが、この葛藤こそが佐藤の歌のエネルギーなのであり、息の長い歌作を支えた基盤である。しかるに現代にあっては、「短歌をやることが恥ずかしいこと」だと感じさせる時代の圧はなく、〈公的状況〉と〈私的状況〉の対立もまた雲散霧消した。山田富士郎は『短歌と自由』のなかで、「1970年頃を境に、公的状況が私的状況に優先するかのように見える時代が完全に終わってしまった」と的確に指摘している。このような時代の歩みのなかでは佐藤の歌は、沈潜と鬱の度合いを深めるしかないのだが、事実そのとおりに展開しているように見受けられる。

 このような佐藤の歌であるから、純粋な叙景というものはなく、景物を詠んでもその背後には葛藤する〈私〉が重く沈潜している。

 月明かり乏しき駅は幻にあらずや雁の逆しまに落つ

 ダリア畑で昼間捕えし黄揚羽のさむざむとしてはつなつは来る

 薄暮 狼のように橋渡ればあおむけのまま売られる自転車

 地震過ぐる水田にあれば眼の廃いて難民のごとき歩みはするも

 蜻蛉の羽のきららに一日充つわが裏にして素枯れたる墓地

 『薄明の谷』の「Kへ 十年後の返歌」と題された連作のKは岸上大作であり、「R どこへ行った」という連作のRは歌を捨てて失踪した岡井隆のことである。

 市街戦へしぶきして行く暁のK眼鏡の奥の何とかぼそき

 病むものの辺にかえらざるDr.R されば吐血のごとき霜月

 また『襤褸日乗』に「向日葵は空高々と領したる若くして汝は父を逝かせし」という歌があるが、これは「倒れ咲く向日葵をわれは跨ぎ越ゆとことはに父、敗れゐたれ」という小池光の歌への返歌であり、「〈脱出〉はつひに成らざる水際に立ちて燿ふペンギンの胸」は有名な塚本邦雄の歌を踏まえており、「商店を通りすがひて硝子戸を磨く中年あれは樽見か」は福島泰樹の「樽見 君の肩に霜ふれ 眠らざる視界はるけく火群ゆらぐを」にこと寄せた歌である。佐藤がどのような歌人を視野に置いて作歌していたかをうかがわせる。

 前衛短歌からイメージ的喩の技法の影響を受けつつも、佐藤の作歌は端正な定型であり、短歌の韻律を熟知した歌の作りには狂いというものがない。なかでも次のような抒情的の歌の瑞々しさがとりわけ印象に残った。

 軟水にバラ洗われていたりけり批判書一つ書かんあかつき

 蝶一つ大麦の畦越えしゆえわれは研ぎつぐ白き剃刀

 ダリア畑でダリア焼き来し弟とすれちがうとき火の匂うなり

 ひたひたと渚に燃ゆる馬見えて 秋 遠国の死者にまじれる

 夜半ながら起きて一杯の水を飲むある係累を断つ思ひにて

 夕暮は病をもてるもののとき茱萸売りの声海より来たる

 しかしながら、佐藤の短歌を特徴づける「少年性」を最もよく表しているのは、次のような歌群であろう。

 生きている不潔というや村一つ水引草のあたり風立ち

 生きてゐることもあるひは徒労かとかの日汚れて電車にありき

 表現は退路をわれに許さざる冷たき飯に湯を注ぎたる

「生きることは汚れることだ」という悲しい断定が佐藤の心の奥底にある。それがまた佐藤を教育論や童話研究へと押しやる動機ともなっているのだろう。

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171:2006年9月 第3週 佐竹彌生
または、孤絶の詩心は死の影を歩む

今日よりは蝶の受胎の日に入りぬ
      寒青葱の水染む緑
       佐竹彌生『天の螢』

 佐竹彌生は1933年(昭和8年)に鳥取県に生まれ、文芸誌「青炎」「鴉」「菱」などに所属し、第一歌集『雁の書』(1971年)、第二歌集『天の螢』(1977年)、第三歌集『なるはた』(1983年)の3冊を残して、1982年に50歳の若さで亡くなっている。中央に出ることなくずっと鳥取県で地方歌人として過ごしたようで、そのためか話題になることは少ない。試しにインターネット検索してみたらごくわずかしかヒットしなかった。WEB書店の図書検索を除けば、佐藤通雅の『路上通信』に佐竹が作品を発表した号と、『塔』に江戸雪が佐竹論を書いた号くらいである。それを除けば、藤原龍一郎が『短歌の引力』に収録された時評のなかで、砂子屋書房の現代短歌文庫で『佐竹彌生集』が刊行されたのを取り上げて、「現代短歌史上に確かな足跡を残している歌人の業績を一望できるようにまとめてくれた」と評価しているくらいで、それ以外に佐竹に言及した文章に接したことがない。もっともこれは私が歌壇にくらいためかもしれない。

 佐竹が第一歌集『雁の書』を上梓した1971年とはどんな年だっただろうか。1969年には東大の安田講堂陥落により大学紛争終結、1970年には三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺し、大阪万国博覧会に日本中が浮かれた。1972年には田中角栄首相が日本列島改造論を発表している。長く「中央公論」の編集長を務めた粕谷一希は、69年の大学紛争の終結と70年の三島割腹事件を契機として、日本社会と文壇の構造は変化し、それとともに日本人の精神構造もまた変化したと指摘している。また、吉本隆明によれば、第三次産業の従事者の人数のほうが第二次産業よりも多くなり、日本が大衆消費社会にシフトしたのは1972年頃だという。 日本にとっては大きな結節点であったわけだ。そんな時代の潮流のなかにあって、佐竹の『雁の書』はひっそりと世に出た。時代の激動から超然とした歌集のたたずまいを考えればそれもまたやむをえない。その超然ぶりは次のような歌を見ればすぐにわかる。

 中空にこころを奔れ 響り出づる黄玉のごと檸檬の香ちる

 花の哭 雫となりし心にてふときかむとすひるがほのかげ

 擁かれねば焔の髪となすことのあらざらむけさ玉蟲の髪

 玉鉾の唐黍道(もろこしみち)を過ぎむとしあふるる悲痛こゑほそめ呑む

 血の鐘の鳴るにぞ秋の爪の上にいのちの泪きらきらとあり

 目つむれば海の歓呼も消えさりてわが骨かぞふほどのかそけさ

 高度経済成長の果実を享受して大衆消費社会への道を歩み始めた70年代の日本において、このような短歌は確実に「反時代的」である。桑原武夫の「第二芸術論」を待つまでもなく、短歌はその身内に近代文学ではないものを内包しているが、佐竹のように源氏物語と王朝文学に深く傾倒している場合には、その「反時代性」はさらに極まるのである。

 このような状況に直面したとき、歌人の採る態度は大きくふたつに分かれるだろう。ひとつは、「反時代的で何が悪い」と開き直って、短歌の内包する前近代性を前面に押し出すまではせずとも、それに何らかの価値を付与することで、短歌の命脈をつなごうとする態度である。もうひとつは、短歌という詩型そのものを時代に合うようにリニューアルすることで、「反時代性」を超克しようとする態度である。もっとも歌人の多くはこの二極のあいだで揺れ動き、どちらとも言えない灰色領にいると思われる。

 しかし、佐竹の場合はそのような切口で考えるのは妥当ではあるまい。時代を超越して自らの歌の世界に没入し、ひたすら詩心を研ぎ澄ますことに専念していたと見られるからである。佐竹の短歌の世界を特徴づけるのは、「ここにこうして存在することの不可思議」と「命のおののき」である。

 螢火をおさへしふとも汝がたまを抑ふとおもふ硬き夏の手

 睡魔乗る車輪かがやき顕在のわれと昆虫轢かれてゆけり

 夕顔の花ともなりて後になり前(さき)になりわが夕ぐれの死者

 銀扇を折りまたひらく心ちして日のさざなみのゆく秋を見る

 ふる雪の何處にか覗く 白白とガーゼの絹を透る眼の光(かげ)

 降りて行く泉の底ひ映りたる貌より汲みし一人の他者

 満天の夜ぞらの星をひとつくぎりくらき鳥籠に星を飼ふなり

 夜の竿にほのかにひかる鰈あり雪の夜ふけて魚の身は燃ゆ

 流麗な文語と頻出する古語は、佐竹の王朝文学への傾倒を物語るが、それだけに目を奪われてはいけないだろう。たとえば、一首目「螢火を」や四首目「銀扇を」などは典型的な王朝風だが、二首目「睡魔乗る」や五首目「ふる雪の」などは近代詩の香りがする。事実、佐竹は短歌と並んで詩作も行なっていたらしい。そう知って読み直すと、二首目「睡魔乗る」の表現の斬新さは、横光利一らの新感覚派を思わせるものがあり、短歌と現代詩の交錯のなかから誕生したものだとわかる。

 短い年譜によれば佐竹は山中智恵子に傾倒したとあるが、現代詩との交錯という点では、どこか浜田到に近いものが感じられる。

 ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ  浜田到

 紋白蝶死にし少女のなか漂ふにゆふひの蘂を僧院かかぐ

 白昼の星の光にのみ開く扉(ドア)天使住居街に夏こもるかな

 浜田の天上的幻視の抒情はリルケの形而上的詩世界への傾倒によるものだが、佐竹の短歌にも、可視と不可視の不思議な混淆があり、自らの内部への沈潜を通して、存在の深みへと測鉛を垂らすような所がある。上に引用した歌のなかの五首目「ふる雪の」に見られるガーゼの絹を透過する視線や、七首目「満天の」に見られる非在の鳥籠に星を飼うという幻想などは、特に浜田との親近性を感じさせる。病弱だったせいか、歌の至るところに死の影がさしているところも、浜田とよく似ているのである。

 また短歌の技法的特徴としては、近代短歌のセオリーである写実によらず、幻視を伴う詩的圧縮を多用することで、可視の現実を超えて形而上的世界に迫ろうとする志向が強く感じられる。この点においても佐竹と浜田は魂の同質性を感じさせるのである。

 現代の若い歌人が佐竹の短歌を読んだら、どのような感想を抱くのだろうか。現代短歌の大きな流れとなりつつある日常語によるライトでポップな歌の言葉と佐竹の駆使する詩的言語は、まったくといってよいほど位相を異にする。現代の歌を読み慣れた目で佐竹の高踏的な歌を見ると、きっとテンションが高すぎると感じるだろう。しかし逆に佐竹の歌の言語のボルテージと火花が飛ぶような詩的圧縮を感受した目で現代の歌を読むと、その言語のあまりの平板さと日常性に驚いてしまう。そして短歌は確実に変質したとの感を深くするのである。

 佐竹の短歌の世界は孤絶の世界であり、歌人自身がそれを望んだふしがある。孤絶の世界に参入することは容易ではなく、また危険なこともあろう。しかし佐竹の歌は詩的言語の位相とはいかなるものかを教えてくれるのであり、大衆消費社会の到来を告げる70年代の初頭にこのような歌集が出版されたことには意味がある。それがたとえ反時代的という意味であるとしても。

170:2006年9月 第2週 伊津野重美
または、病の彼方にどのような抒情を奏でるか

文鳥の胸の真白をかきやれば
   暗紫(くらむらさき)の肉の色もつ
        伊津野重美『紙ピアノ』

 小鳥を飼ったことのある人ならば経験することだが、確かに羽毛は白くても、その奥にある体の色は赤黒く血の色をしていて、「ああ生物なのだ」と実感させられる。しかし、ふつう人は小鳥の鳴き声や愛らしい外観を愛でるのであり、羽毛を掻き分けて肉の色を確かめたりはしない。対象がこちらに向けて提示している外見の奥を見ようとするには、それなりの内発的な動機がなくてはならず、この歌の作者にはその動機がある。それは自らの宿命的な病患であり、体内の患部に意識が過度に注がれるがために、目に見えている世界のさらに奥を探らねばいられないのである。

 『紙ピアノ』は伊津野重美(いつのえみ)の第一歌集だが、この歌集はいくつかの点で特異な歌集である。まず写真家の岡田敦による写真とのコラボレーションという体裁を採っており、作者を撮影した写真が織り交ぜてある。といってもポートレートのたぐいではなく、作者は海辺や花野や草原に遠く小さく写っているにすぎない。「あとがき」で作者は、「短歌と声と身体が一つになって、私の世界を表現する媒体となっていた」ために、歌集に写真を入れることが必要だと考えたと書いている。ということは、短歌と写真のコラボレーションといっても、短歌の表現の可能性を広げるためとか、短歌と写真を並置することでジャンルを横断する相乗効果を期待してといった動機ではなく、「歌集の中に私が視覚的に存在する」ことが重要だということを意味する。仮にこれを「〈私〉の露出」と呼んでおく。なぜ「〈私〉の露出」が必要なのだろうか。それは歌集に収録された歌を読み、その過程において読者の脳裏に積分的に析出される〈私〉では十分ではなく、「生身の〈私〉」が歌の意味作用に不可欠だと感じられたからだろう。「生身の〈私〉が歌を支える」というのは過激な思想である。全身を歌の意味作用の担保として差し出すというのはまた、危険な思想でもある。それは住宅顕信や種田山頭火たちの辿った道へとつながるからである。伊津野がこの方向を選ぶのは、伊津野にとって短歌がお稽古事でも趣味でも余技でもなく、それによって自己の存在を世界において支えている支点であり、その意味において伊津野は「全身歌人」だからである。作者は短歌の朗読活動を続けており、その方面でも評価が高いようだが、自ら舞台に登って生身で短歌を朗読するのはまことに「全身歌人」にふさわしい。

 宿痾のために学校にも行けないような時期があり、危篤状態に陥ったこともあるという作者にとって、病苦が呪詛の対象であることは当然だろう。特に歌集の前半にはネガティヴな感情が噴出する歌が並んでおり、読んでいてやや重苦しい印象は拭えない。

 真っ直ぐに育つ美し人を指し我責む母よ 冷たき春に

 骨までも灼き尽くすとうひかりにも灼き尽くせない病根をもつ

 炎天のオルゴールから崩れ出る狂って明るい「愛の挨拶」

 頽れる身を受け止める人もなくただ音立てる貝の死に殻

 毒汁のごとふつふつと怨み沸く血の濁りもつ吾の面(つら)昏し

 死に鳥の墓標となりて紫陽花のその身を赤く変じてゆけり

 病に苦しむ作者の眼に映るすべての形象が、病と死の喩として歌を構成している。浜辺を覆う貝殻も赤く咲く紫陽花も凶相において捉えられているのは、作者の心情が万象を浸しているからである。世界は観察者としての〈私〉から独立して外部にあるのか、それとも感覚で捉えている〈私〉の内部にあるのかは、古くから哲学で議論されてきた問題だが、こと短歌に関してはそれははっきりしている。世界とは「〈私〉の眼に映じた世界」であり、それ以外のものではない。

 短歌と病気は昔から縁が深い。「療養短歌」という言葉もあるくらいだ。脊椎カリエスを患った正岡子規を始めとして、結核にかかった小泉千樫や木下利玄や相良宏、ハンセン氏病の明石海人や、近くは上田三四二と小中英之も病気に苦しんだ。またこれら有名歌人でなくても、病床にいて短詩型文学としての短歌に自己表現と慰藉の手段を求めている人は今でも大勢いるだろう。病気と縁の深い文学形式など、世界中探しても短歌以外には見あたらない。短歌の誇りとすべきことである。

 愚かしき乳房など持たず眠りをり雪は薄荷の匂ひを立てて  中城ふみ子

 目覚むれば病臥のわれをさしのぞくかぼそき朱のみづひきの花  上田三四二

 氷片にふるるがごとくめざめたり患(や)むこと神にえらばれたるや  小中英之

 自らの病は伊津野にとって取り組むべき大きなテーマであると同時に、伊津野の短歌を限定する要因としても働くことに注意しておこう。病気への呪詛、父母への怨み、死への怖れといったネガティヴな感情が伊津野の歌を駆動していることは疑いない。まことにやむをえないことである。しかし同じように死と隣り合わせに生きた全身歌人であった小中英之の次のような歌を見てみよう。

 枇杷の木は死臭の花を終りたり夏ふたたびのみのりのために  『過客』

 患むことはわたくしごとにて窓からの木立に蛇のしづかなる日よ

 海よりのひかりはわれをつつみたりつつまれて臨終(いまは)のごとく眼を閉ず

 くちばしに鳥の無念の汚れゐて砂上に肺腑のごとき実こぼす

 枇杷の花に死臭を感じるのは、小中の内的感情が投影されているからであるが、下句は来年の稔りを祈る静かな感情で締めくくられている。また二首目には、自分の病気と世界とを意識的に切り離す態度がある。切り離して眺めればそれは穏やかな世界なのである。小中にはこのように自分の病気を歌において昇華せしめんとする態度が顕著であり、そうして到達した抒情の透明度は他に類を見ない。

 伊津野の歌を読んでいると、詠われた心情の切実さに打たれはするが、次第に息苦しくなってくる。吐露される心情のあまりの濃厚さゆえである。その点、次のような歌はやや趣を異にする。

 手のひらに記憶してゆくしんしんと眠れる人の頭蓋のかたち

 ユモレスク高らかに弾く 草上の遂げ得ぬ思いに紙ピアノ鳴れ

 身に深く沈め持ちたる骨盤は二枚のやわき翅を広げて

 汗ばんだ幼女の体抱きとめる時たしかに過去の夏の香がした

 輝ける空に心をつなぐため季節はずれのサンドレス選ぶ

 彗星の微光のごときヴェール曳き一足ごとに妻となる友

 一杯のグラスの水をユーリチャスの鉢と吾とで分け合う夏よ

 ここには病を背景として持ちながらも、世界へと差し伸べる手がある。特に二首目は歌集題名ともなった「紙ピアノ」という語句を含む歌で、「紙ピアノ」とは、その昔、ピアノが高価で一般庶民に手が出ない楽器であった頃、運指の練習に使われた鍵盤の模様を描いた紙のことである。紙ピアノはあくまで本物のピアノの代用品であり、鳴ることはない。音は出ないと知りながらもユモレスクを演奏するという行為には、絶望のなかにあってなお光へと向かう姿勢がある。重苦しい歌の並ぶ歌集を読み進んで、上のような歌に出会うと救われたような気がする。

 小中英之は宿命としての病気と連れ添う人生において、自らと切り離すことのできない病気という断面を通して世界を見つめることで、療養短歌を超える抒情の世界に到達した。伊津野も表現者ならば、病の彼方にあるものを目ざすべきだろう。

伊津野重美のホームページへ

169:2006年9月 第1週 酒向明美
または、眼差しは現象を超えて抽象のかげりへ

どうしても現象(フェノメノン)に目がゆきさうだ
     枇杷がゆさゆさ陽を孕むだから
           酒向明美『ヘスティアの辺で』

 わかりそうでわかりにくい歌だ。上句の意味は明瞭である。「どうしても現象に目が行ってしまう」というのは、われわれの感覚で捉えられる形而下の世界に捕われがちだということだ。現象の反対は本質であり、作者は形而上の世界にほんとうは目を向けたいと願っている。でも枇杷の揺らぎに象徴される自然界の煌めきが、作者の視線を現象世界に招いてしまう。おおよそこのような意味かと思われる。女性歌人のなかでは珍しく思弁的な歌風であり、現実を組み換えて抽象に至ろうとするその方法論は、ときに歌意の晦渋さを招きながらも注目される。また掲出歌の結句におまけのように付け加えられた「だから」が破調を生み、予定調和的コーダを破壊しているのもおそらく意図的なことなのだろう。

 作者の酒向明美については、金沢在住で結婚して男の子が二人いることくらいしか知らない。「未来」と同人誌「レ・パピエ・シアン」に所属していて、『ヘスティアの辺で』は2000年に上梓された第一歌集である。題名の「ヘスティア」はギリシア神話の竈の女神で、あとがきに「ひとつの場所にとどまるという生き方に、迷いのない叡智をみる」と著者自身が書いている。「凍豆腐つゆふふませて溺れをるのっぺら世帯のヘスティアの辺(べ)で」という歌があり、「辺」には「ベ」とルビが振ってある。「厨辺」(くりやべ)と同じことだろう。

 女性歌人の場合、恋愛・失恋・結婚・出産・離婚といった女の一代記的人生の里程標がそのまま歌に詠み込まれていることがおおいのだが、酒向の場合、そのような実人生的要素は非常に少ない。そういった要素はまずふるいにかけられて、存在の抽象度を高められてから、歌を構成するパーツとして登場することを許されているのだろう。

 入り日待つ一瞬のためにある埠頭ほほづゑついてわたしは生きて

 肉体の崩ゆる日よりもなほうつろ生きたあかしの灰の軽さの

 わすれ水さがしゆくべし薔薇酔(ゑ)ひの覚めやらぬきぞまたはあした

 パール・グレーの鈍きひかりの横溢に喪の夏はありと粛粛きたりぬ

 流されて汽水に沈みし思想かな旗はみぎはへひるがへるみぎへ

 まつたきフォルム林檎を食めば疵あらぬわが歳華の酸ゆさしたたる

 いずれも純粋の叙景でもなく純粋の叙情でもなく、言葉を梃子として「凡庸な現実」を一段階上がろうとするかのごとき語法である。日常生活で何かハッと気づいたことがあり、それを歌にしたというものではない。だからこういう歌の解説はとてもむずかしい。たとえば三首目、「薔薇酔ひ」は薔薇の香りに酔うことであり、感覚的陶酔を表しているが、それがまだ覚めないうちに「わすれ水さがしゆくべし」とあり、陶酔と覚醒の交代が詠われていると思われるのだが、それが何かの具体的体験を指しているとは考えにくい。言葉の差し出す意味の純度が高められているそのような使い方だろう。 

 ひたぶるに注ぐうつはになりたくて身の裡深くくぼみを彫らむ

 人はなぜ温もりのある懐を求める裡なる世界を有ちて

 冬空がラピスラズリになだれ込む突然言うから薄目をあけた

 スリットゆ生まれたる恋は待つのみのわたしを追ひ越し交差点(スクランブル)過ぐ

 やはらかにふかくひろごるたなごころあはれをみなの美徳とされつ

 ここにあげたのは恋の歌、あるいは女という立場から詠んだ歌だが、やはり具体性は乏しく、心情の吐露よりも自らのなかに疑問を持って問いかけるという姿勢が勝っている。作者にとって歌とは心情の表現であるよりも問の器であり、言葉を入念に選び磨くという作業を通して、自分を取り巻く現実を抽象のレベルへと押し上げたいという願いが込められているようだ。この方向がさらに進むと「夏椿咲(ひら)くかたへにそと置きてうつし身はすずしきこの世の嘘」と詠った照屋眞理子の境地に近付くのだが、ここまで行くとそれは『玲瓏』の世界になってしまう。もともとはアララギの流れを汲み、写実を基本とする結社「未来」だが、所属する歌人の歌風の振幅は大きく、酒向のような指向を持つ歌人が「未来」にいるということもまたおもしろいことである。

 最後に印象に残った歌をいくつかあげておく。

 月齢を増しつつをらむ提供の臓器しづかに外さるる夜の

 てぶくろの十指にあまるせつなさをこぼしつつ行く思案橋まで

 月面にひとの足型標されて白兎の至福とはにほろびぬ

 うつくしき錯誤ひとつを与ふること謀りてほどかるカサブランカは

 母たらず死にゆく母にどことなく肖るわが鎖骨冷えて久しき

168:2006年8月 第5週 岡崎裕美子
または、書き割りのような戦場を生きる身体感覚の歌

いっせいに鳩が飛び立つシグナルの青
     あの部屋にブラウスを取りに
          岡崎裕美子『発芽』

 ふつうなら岡崎の代表歌としては、歌集の帯にも印刷されている「したあとの朝日はだるい自転車に撤去予告の赤紙は揺れ」を選ぶところだろう。しかし最初は付箋を付けていなかった上の歌を選んだのは、話題になった「したあとの」の大胆な性愛表現よりも、上の歌の方が岡崎の美質がよく現われていると思ったからである。

 上句「いっせいに鳩が飛び立つシグナルの青」は、交差点の信号が青になり自動車が発進して鳩が飛び立つ光景だろう。しかし、たくさんの鳥が飛び立つ光景は、ヒッチコックの名作『鳥』を待つまでもなく、危機意識や災厄の前兆としての象徴的価値を持っており、上句はどこか危機を孕んだものとして読める。そして一字空けを挟んで下句「あの部屋にブラウスを取りに」が続くのだが、「遠・親」を表す指示詞「あの」で指されているのは、歌のなかの〈私〉と誰かが共有した体験を過ごした場所である。その部屋にブラウスを取りに行くというのだから、たぶん置き忘れた自分の服を取りに行くのであり、同時に恋人との別れを暗示している。上句と下句との間に意味的連関はなく、一字空けがその無関係性をだめ押ししているが、ここには上句と下句の間で成立する短歌的喩がある。だから岡崎は見かけ以上に現代短歌のコードに忠実に則って歌を作っているのであり、さすがは岡井隆の弟子なのである。

 岡崎裕美子は1976年生まれで、「未来」に所属し『発芽』(2005年)は第一歌集。あとがきに高校生の頃から短歌のようなものを作っていたとあるから、たぶん投稿歴があるだろうと探してみたら、『短歌研究』2000年の臨時増刊号「うたう」作品賞に応募していた。投稿歌の多くは『発芽』に収録されているようだ。

 さて、岡崎の短歌世界の特質だが、上にも書いたように、大胆な性愛表現が見られ、あとがきを書いた岡井隆はそれを「ときには掌篇小説のように」と評している。

 蜜よりももっとどろどろした時間確かめもせず君を味わう

 交わってきたわたくしを抱くあなた キャベツのようにしんと黙って

 Yの字の我の宇宙を見せている 立ったままする快楽がある

 しかし性愛表現といえば、すでに1986年には林あまりの 『MARS☆ANGEL マース・エンジェル』が先行していて、短歌の世界ではすでに経験済みである。

 しろっぽい目の妻のこと嬉々として話したあげく抱こうとするのか

 性交も飽きてしまった地球都市したたるばかり朝日がのぼる

 林の歌集の背景には80年代のフェミニスムの台頭と、石岡瑛子とリサ・ライオンに象徴された強い女という時代の雰囲気がある。一方、岡崎にはそのような志向はかけらもなく、林の歌にあった激しく相手を求める男女関係もない。岡崎の歌は同じ性愛を詠っても、どこか淡く投げやりで、相互交通がなく一方的なのだ。

 体などくれてやるから君の持つ愛と名の付く全てをよこせ

 豆腐屋が不安を売りに来たりけり殴られてまた好きだと思う

 平行線上に非常ベル見えていてされるがままになって傾く

 初めてのものが嫌いな君だから手をつけられた私を食べる

 一首目は激しい愛の希求というよりも、捨て鉢感覚が先行する。二首目の上句はおもしろいが、殴られて好きだと思うのは自己愛が不足していはしないか。三首目も恋愛においてあくまで受動的であり、四首目では自分を男の好きな食べ物になぞらえる感覚に驚かされる。80年代のフェミニストなら決してこのような言い方はしないだろう。

 この印象は次のような歌を見ると一層強まるのである。

 こじあけてみたらからっぽだったわれ 飛び散らないから轢いちゃえよ電車

 鳴らぬもの集めてまわる男いてそのトラックにわれも乗りたし

 「渡辺さんですよね」と言われてその日から渡辺さんとして生きている

 なんとなくみだらな暮らしをしておりぬわれは単なる容れ物として

 自分はからっぽだという強い感覚が、電車に自分を轢けという自己破壊衝動として溢れた出す。二首目の「鳴らぬもの」とは、壊れた鳩時計やオルゴールのように、本来鳴るものが鳴らなくなったという意味と解する。ここにも自分はどこかが壊れていて鳴らないという感覚がある。三首目の歌が表しているのはずばりアイデンティティーの希薄さだろう。四首目にも自分を単なる容れ物として把握する凹感覚が見られる。これらの歌に共通して感じられるのは、自己意識の希薄さと投げやり感なのである。

 この感覚はどこかで見たことがあると思っていたら、次の歌に遭遇した。

 通夜のあと告別式の時間まで転がって読む岡崎京子

 そうだ。この感覚は岡崎京子のマンガにただよう空気とどこか似ているのだ。93年から94年にかけて発表された『リバーズ・エッジ』に登場する高校生達。ゲイでいじめられっ子の山田君と、モデルで過食と嘔吐を繰り返す吉川さんが、河原で偶然見つけた人の死体を宝物にしているという物語。作者の岡崎の言葉を借りれば、「あらかじめ失われた子供達。すでに何もかも持ち、そのことによって何もかも持つことを諦めなくてはならない子供達。深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場」を生きる子供達。岡崎の短歌の醸し出す雰囲気は、このマンガの空気感とよく似ている。

 焼けだされた兄妹みたいに渋谷まで歩く あなたの背中しか見ない

 いずれ生む私のからだ今のうちいろんなかたちの針刺しておく

 さいあくだあと吐くように鳴るシャッターを下ろすもうすぐ川を越えるの

 「焼けだされた兄妹」は岡崎京子のマンガの主人公であってもおかしくないし、岡崎の主人公もまた「さいあくだあ」と叫んでいる。「川を越える」というところに、東京近郊に住み電車で通う郊外生活者の感覚がある。二首目の針はたぶんピアスのことで、針をさすことによってかろうじて確認される身体感覚もおそらく短歌の世界では新しいが、小説の世界ではすでに『蛇にピアス』でお馴染みだ。

 このように岡崎裕美子の『発芽』は短歌の技法的にとりわけ新奇な試みを行なっているわけではなく、むしろ現代短歌のコードに乗っているのだが、短歌に歌われた世界、とりわけ〈私〉の自己感覚は極めて現代的だと言ってよいのである。この自己感覚は声高な主張と数の力で世の中を変えてきた団塊の世代の人達にはわからないだろう。「もっとしゃゃきっと生きろ」などと説教されかねない。1973年生まれの佐藤りえや1975年生まれの生沼義朗らの団塊ジュニアあたりの世代感覚にいちばん近いだろう。もちろんすべてが世代論に還元されるわけではなく、岡崎の短歌に表現されている身体感覚は注目されるのであり、その推移はもう少し時間をかけて見守る必要があるだろう。

167:2006年8月 第4週 便器の歌

 もともと和歌は雅の世界であり、至高の美をめざすものだったが、明治になって近代短歌が成立すると、人間の生活に関係するものすべてを素材とするようになった。そこには明治時代に大きな影響力を持った文学思想としての自然主義も関係している。蒲団を抱えて泣く例のアレですね。というわけで歌の世界には登場しにくかった便所も短歌に詠われるようになった。とはいえそれほど数があるわけではない。先ごろ上梓された労作『現代短歌分類集成』(おうふう)には、5首が収録されている。

 蒸しむしと暑き昼なり厠にて大きなる蜘蛛をたたき殺しぬ  川田 順

 セザンヌをトイレに飾るセザンヌはトイレに画きしものならなくに  岩田 正

 同じ家の中でも書斎や台所を詠った歌はたくさんあるので、劣勢はいかんともしがたい。ちなみに『現代短歌分類集成』の分類項目は曲者で、「台所」は立項されておらず「厨」が見出し語になっていたりして油断がならない。川田の歌は昔風の汲み取り便所の雰囲気が濃厚で、岩田の歌は表現も「トイレ」となっていてマンションの白いトイレを思わせる。おのずから時代の変化が反映されている。便所というと、短歌ではなく俳句だが、寺山修司の「便所より青空見えて啄木忌」という句が頭に浮かぶ人も多かろう。場所としての便所ではなく、物体としての便器の歌となるとさらに数が少ないが、ないわけではない。そこには短歌の表現領域をひたすら拡大しようとしてきた現代歌人たちの汗と涙が感じられるのである。

 ベダルきゅうと下げるやいなやTOTOの初雪色にあふれだす冬  十谷あとり

 ひとおらぬときしも洩るる朝かげに便器は照るらんかその白たえに  島田幸典

 便器から赤ペン拾うたった今覚えたものを手に記すため  玲はる名

 十谷の歌では、便器は代表的衛生陶器メーカーでロックバンドの名前にもなったTOTOと換喩的に表現されている。下句の「初雪色にあふれだす冬」は、水流が泡立つ様子と外の冬景色を重ね合わせているのだろう。島田の歌のポイントは、大袈裟なまでに古歌の語法をパスティーシュしているところにあり、その古語法と便器という素材との懸隔感が歌を成立させている。一方、玲の歌では便器は詠われる対象というよりも、もう少し作者の内的世界に関係する物象として把握されている。理由のよくわからない切迫感とせつなさを浮上させるために、便器は効果的なアイテムとして使われているのである。若い歌人の歌には、理由のよくわからないせつなさを表現しているものが多く見られる。玲の歌もまたその系譜に連なるものとして読める。だからここはどうしても便器でなくてはならないのだという意味で、理由のある便器の歌なのだ。

 つややかな便器がほつり陽をあびてまずしい広場の泉のそばに  小林久美子

 あたたかな便座に腰かけて両の掌をひざにはさみておりつ

 ろざりあは べんざにすわり なきじゃくる くちいっぱいに ものをおしこみ 

 小林には便器の歌が多い。好みの素材と思われる。小林独特の童話のような催眠的リズムで紡ぎ出される歌のなかで、便器は暖かく人を座らせて受け容れるものとして把握されているようだ。正の価値を付与された便器の歌としては出色のものと言えるだろう。

 抗菌仕様の便器から立ちあがって走れ! 聖なれ! 傲慢であれ!  早坂 類

 真夜中の二十ワットに照らさるる便器の白をしばし見おろす  浜名理香

 十戒につけ加へたきいましめぞ便器に立ちて説教するな  山田富士郎

 洋式便器ずらりとならぶ会議室疑ひもなく腰かけてゐる

 早坂の歌では抗菌仕様の便器は人を拘束するものとして捉えられているようだが、便器でなくてはならない必然性があまり感じられない。浜名の歌は極めて即物的に便器を詠っていて、即物的すぎてコメントのしようがない。山田の歌は一風変わっている。ロンドンのハイド・パークあたりに行くと、日曜の朝、道行く人に演説している人を見かけるが、たまたま便器に立って説教していた人がいたのだろうか。それにしても十戒に付け加えたいとは激しい怒りようである。山田は「世界はかくあるべきだ」という倫理性の高い歌人なので、このように怒るわけだ。山田の2首目はたぶん夢の光景だろう。「便器に腰掛ける」という行為の秘私性が夢の中の異和感を演出している。

 通庸のひまごの家でとまどひぬ西洋便器をまへにしてしまひ  仙波龍英

 極東製西洋便器に腰おろす水無月はるか霊界をおもふ

 通庸とは三島通庸(みちつね)で、幕末の薩摩藩士から明治政府の内務官僚となり、子爵にまで上り詰めた人。土木県令とまで呼ばれた人だったから、通庸の曾孫の家も立派な洋風建築だったのだろう。しかし私生活においては仙波も負けないほどの資産家の息子だったから、西洋便器にたじろいだとはちょっと考えにくい。2首目では便器に座って霊界に思いを馳せていて、便器が異界との交通機関のように捉えられている。そういえば、人気スクリーンセーバーのフライング・トースターのもじりで、空飛ぶ便器というのがあったと記憶している。ちなみに、この歌の前に詞書きのように「全長が十米ものキタミミズ羽帽あたりに棲むといふ恐ろし」という謎のような文言があり、注に「『スクラップ学園』(吾妻ひでお著)による」とある。『わたしは可愛い三月兎』にはおびただしい詞書きと注が付されており、誰か解読してくれないかと思うほどである。

 今日からはあげっぱなしでかまわない便座が降りている夜のなか  穂村 弘

角川『短歌』2006年1月号に発表された「火星探検」のなかの一首で、亡くなった母親への挽歌である。小用を足した後には便座を降ろしておいてくれと母親から常日頃言われていたのだろう。母親が亡くなった今ではもう降ろす必要がないのだが、それでも便座が無駄に降ろされているところに痛切な喪失感があり、便器を詠った歌のなかでは最も心を打つものとなっている。今までの穂村の歌とは感触が異なる点も注目されるのである

166:2006年8月 第3週 なみの亜子
または、吉野山中に新たな私を立ち上げる歌

われのみが内臓をもつやましさは
    森の日暮れの生臭きまで
         なみの亜子『鳴』

 略歴と歌集の栞の情報によると、作者は1963年生まれで、コピーライターとして活躍していた人らしい。「塔」短歌会に所属し、同人誌『D・arts』で評論に健筆をふるい、2005年には「寺山修司の見ていたもの」で現代短歌評論賞を受賞している。『鳴』は第一歌集で「めい」と読む。

 短歌には、作者の人生行路と不即不離の関係に立つものもあれば、作者の実人生を直接には反映しないものもある。前者は「人生派」であり、後者は「芸術派」「コトバ派」を旗印とする。歌集の構成に当たっては、前者は編年体を好み、後者は歌の制作年代に関係なく歌集一巻を緻密に構成することを好む。これらすべては作者と歌の関係に由来する。

 なみの亜子の『鳴』を一読してまず感じるのは、作者の人生行路を抜きにしてこの歌集を読むことはできないということである。なぜなら、作者は都会生活を捨てて、奈良県の吉野の山中に移住するという決断をしているからである。歌集は5章に別れているが、1章から4章までが移住前の歌で、5章が移住後の歌であり、両者の間で歌の質におおきなちがいがあるのである。前半からいくつか歌を引いてみよう。

 ゆっくりと紙飛行機を折るように部屋着をたたむあなた アディオス

 着て逢えばきまって雨になるシャツの 壊れ始めはこんなに静か

 もうあかんと言ってしまった女子トイレ角(かど)つきあわせタイルの並ぶ

 死ぬときもひとり 小型の掃除機の背筋を伸ばして立っている部屋

 雨音に気づいたのはきみ夜明け前細くサッシを開けて抱き合う

 不倫中ほどには結婚したくなくラップされてる秋の日向よ

 片方の靴ばっかりを売る男それを値切れる男に歯のなし

 きみはもうオレのかたちになったんか疑似餌(ルアー)見せ合うときの間に

 一首目、「アディオス」はスペイン語で「さようなら」だから、これは男との別れの歌である。歌全体がかもし出す雰囲気はあくまで都会的な男女の恋愛風景だろう。二首目も別れの歌で、下句の「壊れ始めはこんなに静か」にかすかな諦念が感じられる。三首目は職場におけるストレスを詠んだものだろうか。四首目は働いてひとりで生きて行く女性の決意が詠われている。五首目になると、作者は新たな愛に出会う。同じ愛かどうかはわからないが、六首目を見ると結婚して家族のいる男性との不倫関係を経た恋愛であることが知れる。一首跳んで最後の歌では、恋愛対象である相手の男性と渓流釣りに出掛けていて、やがて結ばれる幸福感が滲み出ている。

 というように、歌集前半の歌を眺めて行くと、都会で働く女性の感情生活を中心とした歌が並んでいて、恋愛の喜びと悲しみや孤独感が大きな位置を占めている。やや異色なのは先ほど跳ばした七首目で、天王寺界隈というディープな大阪の風景を詠んだ歌群である。このラインもなかなかおもしろいと思うのだが、おそらく作者にとってこの方向性の歌は単なる通過点に過ぎないだろう。吉野移住後の歌は次のように変化する。

 南天の赤き実のみが免れて雪の積もりのひたすらなるを

 みずうみの底へあなたは先にゆき待つべしぬるき岩礁として

 活け墓は一度しずかに陥没す人のようやく身を逃れる日

 唱えつつおばあら暗き振動体となりゆくさまを 覧娑婆訶(おんらんそわか)

 驟雨あらば 昨夜殺せしむかでよりたちくるものの濃ゆき土間なり

 作者を取り巻く風景は一変する。雪深い山里で、つい最近まで土葬が行なわれていて、昼でも暗い茅葺きの家のなかから、老婆達の唱える真言密教のマントラが響いて来る。このような生活風土の変化と連動するように、歌集前半で詠まれていた都会的恋愛風景は、二首目の歌のようにおだやかに自然と融合するかのごとき情感の表現へと変わるのである。

 風土の変化は作者の感性の変化を招来せずにはおかない。掲出歌「われのみが内臓をもつやましさは森の日暮れの生臭きまで」を見ると、深閑とした山の木々に囲まれて、「われのみが内臓をもつ」という認識に至り、生臭さの幻臭を感じるまでに至る。新たな環境に置かれた作者の感性の変化が、自己認識の方向へと歌を押し上げている様が手に取るように感じられる。歌集の白眉は隣り合う次の歌だろう。

 深く息をすい込むときに少しだけさざめく森のありなむ我に

 立ちおれば藻におおわれし沼なりきわたしのなかに沈みおる靴

 ある夜は羽蟻おびただしき卓の上わたしひとりのものを咬む音

 一首目は自分の体の中に森の存在を感じているのだが、その想像上の森は周囲に拡がる現実の森と秘やかに呼応している。二首目も外と内の呼応であり、身体の中に沼を感じているのだろう。三首目ではふだん意識しない咀嚼の音を、絶対的静寂のなかで見いだしている。歌集前半に見られた淡い喪失感や疎外感覚は、歌集後半では影を潜めてしまう。それらは厳しい山国の風土の中に静かに溶解し、生と死が露わに見える新しい環境が作者の新たな〈私〉を浮上させているのである。歌は風土と切り離すことができないという事実を今更ながらに思い出させてくれる歌集である。

165:2006年8月 第2週 加藤治郎
または、部分的意識に言語を与える歌人

くあとろとやわらかくなるキーボード
       ぼくらの待っているのは津波
           加藤治郎『ハレアカラ』

 現代短歌を語る上で加藤治郎の名前は外すことができない。だから加藤治郎について論じることはとても難しい。現代短歌シーンを駆動している大きな力に、加藤治郎・荻原裕幸・穂村弘のトリオがいることは誰しも認めるところだが、加藤は他の2人とはちがって「未来」という伝統的な結社に所属しており、選歌欄を任せられている。また『TKO』『短歌レトリック入門』といった評論集もあり、作歌と評論の両面で活躍している歌人なのである。ということは、加藤の視野には正岡子規に始まる明治以来の近代短歌とアララギの歴史がそっくり収められているのであり、加藤がいかに人を驚かせるような新しい歌を作ったとしても、それは一時の思いつきによるものではなく、短歌の歴史を踏まえたひとつの試みなのであり、だからこそ論じにくいのである。

 試しに掲出歌を見てみよう。初句「くあとろと」でいきなり驚かされるが、おそらくこれはイタリア語の数字の「4」(quattro)だろう。枕詞のように置かれているが、「くあとろ」の「とろ」が「とろとろ」という擬態語へと架橋され、次の「やわらかくなる」を連想的に導く仕掛けになっている。キーボードが柔らかくなることは現実には有り得ないので、読者はダリの超現実主義絵画でくにゃくにゃになった時計のようなイメージを思い浮かべる。夢の中の出来事なのかも知れないし、単なる印象を誇張して形象化したのかもしれない。「春のオラクル」という連作の中の一首で、この連作には「なにもうむことのできないコマンドのあるひ苺をあらうゆびさき」「オラクルのようなゆうばえ沈黙にふさわしきものなきぼくたちに」などの歌が並んでいる。「オラクル」とは神託のことであり、「ぼくたち」は神託を待っているのだが、並んでいる歌が醸し出すのは漠然とした不発感である。僕たちは津波を待っているというのだから、激しい破壊を希求しているのだが、くにゃくにゃになったキーボードが象徴しているように、津波は来ないのだろう。ちなみに次に置かれている連作は「ツナミ」と題されており、主題的に緊密に関連していることがわかる。

 『短歌レトリック入門』で加藤も書いているように、明治以来の近代短歌のテーゼのひとつに古典和歌の修辞の否定がある。枕詞・序詞・掛詞などの修辞的要素は写実に無縁の虚飾として否定された。ところが1980年代の後半に始まるニューウェーブ短歌は「修辞ルネサンス」の観を呈するほど、埋もれかけた修辞を復活させた。加藤もその牽引車の役割を果たしているのであり、意味を漂白された「くあとろと」の枕詞的使用は加藤が駆使する修辞のささやかなひとつの見本にすぎないのである。

 加藤は『TKO』のなかで、

 言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ラン!

のような記号短歌だけが取り上げられて一人歩きしたのは「痛惜に堪えない」と述懐している。また「ねっここでしちゃおっふゆの陽はほそくフロアにしろいお墓を映す」のように大胆に口語を取り入れた歌群が話題になることもあるが、口語短歌は80年代のライトヴァース以来広く浸透しており、加藤一人のものではない。加藤の歌の独自性はどこにあるのだろうか。こう思案するるとき注目されるのは次の歌である。

 ウシロカラ画像ヲノゾキコムママノつめたい髪は頬に触れたり 『昏睡のパラダイス』

 この歌の特異性は上句と下句の激しい断絶にある。カタカナ書きされた上句は、パソコンに向かっている子供の意識を表しており、口語の使用とカタカナ書きがそれを表象している。ところが下句は一転して文語で書かれており、視点は子供から抽象的な第三者へと転調している。加藤はこの一首のなかで複数の視点を強引に混在させているのであり、それぞれの意識に対して異なる言語を割り当てているのである。つまりこの一首は意識のポリフォニーなのであり、これは今まで誰も試みなかった手法と言えるだろう。近代短歌には、「一首の歌は一貫した意識と視点から作られなくてはならない」という暗黙の了解事項がある。加藤のように複数の意識を混在させるのは、明らかにこの近代短歌の了解事項への意図的な挑戦なのである。

 加藤は第二歌集『マイ・ロマンサー』のあとがきに、話題になった連作「ハルオ」について次のように書いている。

「ハルオは、二十代後半のSEであり、詩人である。以前私は、社会状況と自分とのインターフェースとして、ザベルカとかチャップマンといった人物を抽出した。ハルオは”私自身”がインターフェースになったものだと言ってよい。」

 加藤が短歌の中に登場させるハルオやザベルカやチャップマンといった人物は、インターフェースとして位置づけられている。インターフェースとは、〈私〉と外界との接点であり、その特徴はひとつに限定されないという点にある。外界が呈する側面の数だけインターフェースがある。これは「多面的な〈私〉」を前提とし、結果として「複数の〈私〉」を産出する。前衛短歌は「虚構の〈私〉」を演出することで、短歌の中に劇性と多様性を導入することに成功したが、インターフェースが媒介する「多面的な〈私〉」はこれとはまったく位相を異にするものだと言ってよい。どこがちがうのだろうか。

 藤原龍一郎は「ギミック」という言葉をよく使う。gimmickとは、「手品師のトリック、(いかさまな)仕掛け」を意味する。お台場でラジオのプロデューサーというメディアの最前線で働き、夜な夜な六本木に出没する男というイメージの方が、平凡な中年サラリーマンというよりは、読者に興味を持ってもらえる、と藤原はどこかで発言していた。これは広い意味においては「虚構された〈私〉」と理解してもよいだろう。藤原はこのようなスタンスから、藤圭子について語り、日活ロマンポルノについて、プロレスについて饒舌に語るのである。藤原のギミックはこのように、〈私〉の全身を意図的にある色に染めようとする営為であり、その特徴は頭から爪先までの「全体性」にある。

 これに対して加藤のインターフェースの特徴は、その「断片性」にある。どのインターフェースを取ってみても、短歌作者としての加藤の〈私〉を全体的に代表するものにはならない。加藤は次のようにはっきりと述べている。

「人間にいろいろな意識があることは自然で、それがシンプルに反映されればいい。歌集をまとめるプロセスで、ある傾向の作品を除去することは簡単です。たとえば、文語を選んだ意識を取除き、口語の作品だけでまとめることも可能です。でもそうしないで、いろいろな文体があることをうまく組織して、逆用できないかと考えるわけです。先ほど論じていただいた「ハルオ」が、歌集『マイ・ロマンサー』全体のプロトタイプになっているように思います。複数の意識にそれぞれ固有の文体というか、言語体験を貼りつけること。」(三枝昂之『現代短歌の修辞学』)

 このような加藤の方法論から次のような歌が繰り出されるのである。

 ぎんいロノパグヲオモえばさみドリノユメノナかでモネムルキみのめ 『ハレアカラ』

 ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷ乱暴なママのスリッパうれしいな して

 オルガンが燃えつつ河におちてゆくぎゅんなあぎゅんぐ耳がつめたい

 ねばねばのパンドエイドをはがしたらしわしわのゆび じょうゆうさあん 『昏睡のパラダイス』

 きれまからとどくひかりはかあさんのスカートのようぼくは駆け出す

 一首目の文体は文語だが、平仮名と片仮名を句跨り的に混在させることで、結果的にキメラ的な意識を実現しようとする実験と見なせるだろう。

 二首目や五首目は、意図的に幼児語を使っている歌である。この幼児擬態については、現代短歌『雁』48号の企画した加藤治郎小特集に「時間は無垢か」という文章を寄稿した永田和宏も着目している。加藤の短歌に「恥ずかしいまでの幼児語が頻出する」事実を、永田は加藤が抱いている「無垢な時間」への憧憬に由来すると結論している。だがこれはあまりに単純すぎる解釈だろう。永田は加藤の用いる「インターフェース」という用語に注目し、それを〈私〉の問題と結びつけて論じているにもかかわらず、加藤の歌に巧妙に仕掛けられた「意識の複数性」に思い及んでいない。加藤がよく用いる幼児語もまたあるインターフェースから生み出されるものであり、加藤は意識のその審級に対して幼児的意識にふさわしい言語を与えているにすぎないのである。

 三首目の「ぎゅんなあぎゅんぐ」のようなオノマトペを加藤はよく使っているのだが、このようなオノマトペもまた明確に言語化できない意識の深層レベルに対して付与された言語形式と見なすことができる。

 四首目はオウム真理教事件に題材を採った歌である。教団の広報担当だった上祐史浩は、「ああいえば上祐」と揶揄されたほど雄弁で、女性ファンまで出現した。「ねばねばのパンドエイドをはがしたらしわしわのゆび」は上祐本人の喩であると同時に、序詞的にも機能しており、結句の「じょうゆうさあん」を導いている。「じょうゆうさあん」は女性の歓声の直接話法的引用だが、これもひとつの意識に割り当てられた言語と見なすこともできる。

 このように「複数の意識」が仕込まれた加藤の歌が指示しているのは、「断片化された〈私〉」であり、どれひとつとして〈私〉の全体性を志向しているものはない。これは極めて現代的現象であり、短歌に「一貫した〈私〉」しか認めない歌人には容認しがたい歌の解体と映るかもしれない。

 加藤はこのように「現代において短歌に何ができるか」と鋭く問いかけて自ら実践しているわけだが、その多様な試みはいずれどこかに収束してゆくのだろうか。第五歌集『ニュー・エクリプス』では上に取り上げたような実験的作品は少なくなり、故郷の鳴尾を詠んだ鳴尾日記には、次のような古典的写実の歌も並んでいる。

 幼子はホースを夏の樹に向ける水の届かぬさまはたのしも

 第六歌集『環状線のモンスター』が7月25日に刊行されたばかりである。この歌集はまだ見ていないが、加藤の歌は新たな展開を見せているのだろうか。

164:2006年8月 第1週 早坂 類
または、静かな透明感のなかに世界が遠ざかる

さりげなくさしだされているレストランの
      グラスが変に美しい朝
   早坂類『風の吹く日にベランダにいる』

 早坂類の第一歌集『風の吹く日にベランダにいる』は、1993年に河出書房新社から出版されたが、長らく入手不可能になっていた。このたび『短歌ヴァーサス』第9号誌上で復刻されたのは喜ばしい。このような誌上復刻には著作権を持つ作者以外に、出版社からも許諾を取らなくてはならないが、現代短歌のプロデューサー荻原裕幸の尽力あっての企画である。

 『風の吹く日にベランダにいる』は当初、河出書房新社による「(同時代)の女性歌集」シリーズの一巻として世に出た。初期の同シリーズでは、俵万智『かぜのてのひら』、道浦母都子『風の婚』、林あまり『最後から二番目のキッス』、李正子『ナグネタリョン』、太田美和『きらい』が1991年から刊行されている。早坂の歌集と時期を同じくして出版された第二シリーズには、沖ななも『ふたりごころ』、松平盟子『たまゆら草紙』、井辻朱美『コリオリの風』、干場しおり『天使がきらり』がある。河出書房新社のような大手出版社が歌集を手がけたのは、もちろん1987年のサラダ現象がきっかけであり、従来の歌壇以外の場所に歌集読者を掘り起こそうという意図によるものである。だから歌集としては例外的な初刷部数だったようだ。今では考えられないことである。表紙にも作者のオシャレな写真が添えられていて、従来の歌集のイメージよりもポップなものになっている。

 サラダ現象を受けての短歌バブルと、世の中を覆ったバブル経済末期の時代のムードに最もよくマッチしていたのは干場しおりの『天使がきらり』だろう。早坂の『風の吹く日にベランダにいる』も、収録されている歌を単語レベルで拾ってみると、消費経済を謳歌した時代背景が透けて見える。あくまで透明で軽やかなイメージの「アクリルの風」、「湘南」「道玄坂」「茅ヶ崎」「竹下通り」などのオシャレな地名、「リチャードと呼ばれていた奴」「クレープを焼く僕ら」「ライムソーダ」などのポップでライトなアイテムがあちこちに散りばめられている。ところが歌をよく読んでみると、その意外な暗さに驚かされるのである。一見明るく見えるのは次のような歌である。

 生きてゆく理由は問わない約束の少年少女が光る茅ヶ崎

 トーストを握ったまんま眠りこむ茅ヶ崎少女のシングルベッド

 ティンパニの音がかすかに鳴っている夢に出てくるみたいなカフェ

 秋空の絹層雲はたかくひろくクレープを焼く僕らの上に

 草を見に行こうよと言ったね まなざしが春のコーラによみがえっている

 彼方から見ればあなたはオレンジの光の森のようではないか

 しかしよく見れば一見明るい歌の背後にも、忍び寄る寂しさと虚無感が透けて見える。茅ヶ崎に遊ぶ若者たちは、「生きてゆく理由」への問いかけをあらかじめ封印しており、刹那の現在のみを生きる。それは未来がないということだ。トーストを握ったままの少女が眠るのは、わざわざシングルベッドと表現されている。また三首目に登場するカフェの描き方には、どこか離人症的な現実との懸隔感が感じられる。離人症の症状には、自分の存在感が希薄であるとか、自分と世界の間に透明なベールがかかっているように感じるとか、自分の意識が体から抜け出して外から自分の行動を見ているような気がするなどのものがあるという。早坂の歌に特徴的なのは目の前の現実との懸隔感であり、この感覚は四首目の高い秋空にも、六首目の彼方から眺める描き方にも感じられるのである。このため一見すると明るい歌の中にも、どこかしんと静まりかえったような寂しさ・切なさを感じさせる所があり、それが早坂短歌が若い人たちに人気がある秘密だろう。

 このような特徴を持つ早坂短歌の最良の部分は次のような歌である。

 四年前、原っぱだったねとうなずきあう僕らに特に思いはなくて

 ぼんやりとしうちを待っているような僕らの日々をはぐらかす音楽(おと)

 そらいろのセスナがとおく飛んでいてそればかりみているゆうまぐれ

 そしていつか僕たちが着る年月という塵のようなうすいジャケッツ

 カーテンのすきまから射す光線を手紙かとおもって拾おうとした

 ふと僕が考えるのは風のまま外海へ出たボールのことだ

 空っぽの五つの椅子が海沿いのホテルでしんと空を見ている

 これらの歌を読んでいると、「みずいろのゼリーがあれば 皿のうえにきままきまぐれのみつるゆうがた」と詠んだ村木道彦をつい連想してしまう。村木の短歌は徹底して青春の歌であり、早坂の短歌もまた過剰なまでの青春性を帯びている。若い人は村木の歌にハマる時期があるというが、早坂の歌にも若さを引きつける同じような強い磁力がある。

 その一方で早坂には次のような歌もある。

 閉ざされた体に黒く穿たれたのぞき穴から空を見ている

 にじみ出る汗でこの世を汚します僕の海辺は真っ赤な海です

 〈越えがたい死魔の領域〉という沼に生い茂ってゆけ夜の羊歯類

 しらじらという空の様子は死んでゆく肉の臭いにすこし似ている

このような自己の内の暗い辺土への傾斜には驚かされるが、歌集巻末に添えられた異例に長いあとがきに述べられている17歳の時の家出のエピソードを読むと、なるほどと納得するものがある。家と学校が代表する「不自由なチューリップ畑」から逃げ出すべく家出して鳥取砂丘まで行ったが、そこにあったのは風と誰も乗っていないリフトと遙かに見える海だけだったという。この無人の砂丘が早坂の原風景である。歌が暗く寂しいのは無理もない。

 短歌界での早坂の評価は定まってはいないようだ。『短歌ヴァーサス』第9号に荻原裕幸が「悲鳴の気配」と題して早坂短歌の受け容れにくさについて寄稿している。短歌はその短い詩形ゆえに省略的にならざるをえないが、その際、表現される全体の核となる部分を摘出し、残りの部分は読者の想像に任せるというのがふつうの手法である。一方、早坂の歌では逆であり、テキストの外に表現の核となる部分をはみ出させてしまい、決めどころになる部分を欠いているにもかかわらず、読んでいると泣きたくなると荻原は書いている。これはどういうことだろうか。比較的世代の近い歌人の歌と比較してみよう。

 冷蔵庫の上に一昨日求めたるバナナがバナナの匂いを放つ 吉野裕之『空間和音』

 貝柱スライスされて卓にありその他の臓器既に洗はれ  大津仁昭『異民族』

 吸い終えたたばこ灰皿に押しつけて口惜しそうな夏の唇  武田ますみ『そしてさよなら』

早坂の短歌との質感の相違は明白だろう。歌が描写し提示する素材は、香るバナナであり貝柱の刺身であり君の唇であり、それらは歌の中心に確実にある。作者はその素材をある見方で、ある角度から、ある修辞を用いて言語空間に定位し、それによって作者である〈私〉が反照的に照射される。描写される素材は31文字の一首全幅を占めており、余白はない。これに対して早坂の歌の欠落感はずっと大きい。

 特別なことではなくてスリッパの片方ずつをゴミの日に出す

 海沿いにひるがえっているTシャツとただ吹くだけの風の一日

「スリッパの片方ずつをゴミの日に出す」という日常の行為が詠われていて、当然ながら読者は「どうして両方一度にゴミに出さないのか」という疑問を抱くのだが、この疑問はあらかじめ「特別なことではなくて」という意味のない措辞によって封印されている。二首目においても、もともと風はただ吹くだけなのだが、それをわざわざ「ただ吹くだけの風の一日」と表現することにより、過剰ではなくむしろ欠落が生じている。「テキストの外に表現の核となる部分をはみ出させてしまう」という荻原の言い方ももっともなのだが、それよりも目立つように感じられるのは上にも述べたどこか離人症的な現実との懸隔感なのである。しかし、そのことがかえって早坂の短歌に読者が容易に共感できる入り口を与えているとしたら、それはそれで考えてみるべき問題ではないかという気もするのである。