070:2004年9月 第4週 中澤 系
または、システムという鉄条網のなかで拡散してゆく〈私〉

天使(エンジェル)の羽ならざれば
    温み持つ金具を外したる夕つ方

        中澤系『uta 0001.txt』(雁書館)
 特異な歌集であることは、その表題からもわかる。「ウタ ゼロゼロゼロイチ ティーエックスティー」と読むのだが書名としては異例だろう。末尾のtxtはパソコンで文書を作製するときの「テキスト形式」を意味する拡張子である。装丁もまた異例といえる。メタリック・シルバーの金属的な表紙がかかっていて、机に置いたとき、スタンドの照明が表紙に反射してまぶしく輝き、表紙に印刷された文字が見えなかった。私はそれを見て「これだ!」と感じた。その視覚的印象と同じように、この歌集では言葉がハレーションを起こしているのである。それは中澤が言葉に過剰なまでの意味を担わせようとしたからなのである。

 作者の中澤系は1970年生まれ。早稲田大学では哲学を専攻している。それ以前の作歌歴は不明だが、1997年から「未来」に参加している。1998年の「未来賞」受賞作を中心に、1997年から2001年までの短歌を歌友のさいかち真が編集出版したのが本書である。年号にこだわるのは、後述するが時間が中澤にとって大きな意味を持つからだ。

 中澤系という名前はペンネームである。最初は中澤圭佐という本名で歌を発表していたが、途中からこの名前に変えたという。「系」という名前は、「渋谷系」「電波系」「癒し系」のように、ある傾向や集団をさす接尾辞として使われている。中澤系という名前を選んだということは、作歌主体としての〈私〉は中澤圭佐という個人なのではなく、ある傾向の束としてしか捉えることのできない「拡がり」だということを意図している。この「どうしようもなく拡散した自己意識」が、中澤の作歌の核である。周到なペンネームの選択からも伺い知れるように、中澤の短歌に対するアプローチは方法論的であり、そのことが中澤の短歌の性格を大きく規定している。

 では中澤の描く世界はどのようなものだろうか。

 手のなかにリアルが? 缶を開けるまで想像していた姿と同じ

 明日また空豆の殻を剥くだろう同じ力をかけた右手で

 意図なんかしたくはないさひるひなかフレンチフライのMくらいしか

 模倣だよ 一定の間隔を保ち自動改札機を出る人々

 駅前でティッシュを配る人にまた御辞儀をしたよそのシステムに

 終らない日常という先端を丸めた鉄条網の真中で

 類的存在としてわたくしはパスケースから定期を出した

 中澤の短歌の描く世界は、キーワードを抽出することでかんたんに理解できる (かんたんに理解できのは短歌にとってよいことだろうか)。一首目、どうしてもリアルさを感じられない日常のなかで、缶のなかにはリアルなものがあるかと期待するのだが、その期待は裏切られる。リアルなものはどこにもないのだ。二首目、私たちが生きている世界は、引き延ばされた日常であり、同じ空豆を同じ力で剥くのである。三首目、私たちがこの世界で選ぶことができるのは、マクドナルドでフレンチフライをSにするかMにするかくらいのものだ。私たちは世界のシステムに囲い込まれている。この認識は四首目へと続く。キーワードはもちろん「模倣」と「自動」と「一定」である。五首目は「システム」である。六首目の「終らない日常」は、現代社会について活発な発言を続ける社会学者宮台真司からの引用だろう。私たちは世界システムという鉄条網に囲われているのだが、トゲの先端は丸めて肌触りを良くしてあるので、私たちはなかなかそのことに気づかない。このような状況は当然、「個の喪失」を招く。七首目の「類的存在」とは、私が私ではなく類の一員としてしか把握されないという状況を表わしている。

 世界をこのように見れば、当然感じるのは無力感・不全感である。

 謂すでに細き骸となり果てたバッティングセンターにて空振りする

 ついに不発の炸薬なるか甘受する生活それも楽しきなどと

 開演の前に代役(アンダスタデイ)一人下手にて捕らえられたと言うが

 始発電車の入線を待つ朝霧に問ういつまでの執行猶予

 私たちはバッティングセンターで空振りするしかなく、世界を変革しようと仕掛けた炸薬も不発に終る。この世界という劇場で私たちは決して主役になることはできず、せいぜい代役が振られるにすぎない。まるで私たちは執行猶予の身の上なのである。

 いつの時代も青年は、既存の社会システムに疑いを持ったり反発を感じるものだ。また若者の矜持と無力感は表裏一体のものでもある。このような歌に表現された感覚は、例えば過去に石川啄木が感じた時代の閉塞感とどこがどうちがうのだろうか。確かに高度に複雑化した現代においては、過去に較べて撃つべき敵が見えにくくなっているということはあるかもしれない。同じ「未来」で机を並べていた高島裕と同じく、中澤には思想歌人という性格が濃厚なのだが、高島が連作「首都赤変」などで攻撃と破壊を幻視したのに較べると、中澤は「終りなき日常に囲い込まれた〈私〉」を自虐的に詠うことを、みずからの短歌の根拠としたように思える。だからこれは痛ましい歌集なのである。

 中澤の作る歌を読んでいると、短歌における言語の問題を考えさせる。基本的には口語短歌なのだが、なかに文語で作られた一連の歌が混じっていて、口語短歌の海のなかで孤立した島のように見える。掲載歌もこの一連から採ったものである。もう少しあげてみよう。

 双球にかひなは伸びて重力を支へる術もなき脂肪塊

 天球を突かぬ雨傘それぞれに起立させつつ急坂を征く

 舗装路(マカダム)のうへなるイコン踏みならす歌声とほく耳にしてをり

 掻き上げし黒髪刹那生るものは幻視宇田川町の路地裏 

 近代短歌の語法にのっとった作歌である。歌の元になった体験や出来事が仮にあったとしても、いったん短歌のなかに詠われると、それは事実という地平を離陸して喩という橋を渡り、言語の虚空間へと放り出される。歌の言葉はこうして虚空間にシリウスのように輝くのである。

 しかし中澤の口語短歌はまったく別のベクトルを志向していることに注意しよう。 

 靴底がわずかに滑るたぶんこのままの世界にしかいられない

 ハンカチを落とされたあとふりかえるまでどれだけを耐えられたかだ

 出口なし それに気づける才能と気づかずにいる才能をくれ

 小さめにきざんでおいてくれないか口を大きく開ける気はない

 ここには世界と直接触れようとする志向が濃厚である。おそらく中澤は、歌の言葉が喩を梃子として言語の虚空間へと送り込まれる回路では、自分と世界を救うことができないと考えたのだろう。中澤の口語短歌の言語には、世界への指向が過剰に担わされている。しかしこうして投げ出された言葉は、対象のつるつるの表面に乱反射してしまい、向こう側へと届くことがない。これが意味の過剰による言葉のハレーションとなっているのである

 しかしなかにはぎりぎりのところでその手前で止まっている歌もある。次の歌を含む風船の連作は、集中では珍しく焦燥感が希薄で、その分言葉が酷使されていない。

 幼な子の手をすり抜けて風船はゆらりとゆれて、ゆらりと宙へ

 その黄色き風船を手にすべきかは大いなる今日の問いかけにして

 風船はやがて空へと昇りゆく 救いにも似た黄の色を持ち

 また次のような歌では方法意識と言葉が均衡を保ち、美しい結実となっている。

 水風呂に沈む少年やわらかく四肢を胎児のごとくに曲げて

 ミートパイ 切り分けられたそれぞれに香る死したる者等の旨み

 このままの世界にぼくはひとりいてちいさなくぼみに卵を落とす

 吃水の深さを嘆くまはだかのノア思いつつ渋谷を行けば

 集中のこれらの歌よりも、ずっと上にあげた身を灼くような焦燥感と言葉のドライヴ感に満ちた歌の方が話題性があり、中澤の個性を代表する歌として長く伝えられるかもしれない。しかしそれらの歌は痛ましく読むのがつらい。私は集中にぽつぽつと点在する上にあげた四首のような歌を、中澤におけるひとつの達成と考えてあげたい。

 歌集末尾の歌は衝撃的であるが、それにはわけがある。

 ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ

 さいかち真の編集後記によれば、中澤は副腎白質ジストロフィーを発病し、現在は自分の意志すら伝えることのままならない状態だという。副腎白質ジストロフィーとは神経の鞘が壊れる病気で、2万から3万人にひとり、男性にのみ発現する遺伝病である。有効な治療法の確立されていない難病だという。解説に岡井隆が書いているように、発病してからの中澤の歌は急速に崩れていく。これもまた痛ましい。歌集末尾の歌は、キュブリックの映画『2001年宇宙の旅』で、人間に反乱を起こして停止させられるコンピュータのHAL9000が、素子を抜かれて狂いながら最後に歌うデイジーの歌を連想させる。そして「ぼくたちはこわ」でプツリと切れる唐突な切断が、作者中澤を襲った運命と反射しあって、『uta 0001.txt』を印象深い話題の歌集以上のものにしている気がするのである。

069:2004年9月 第3週 佐伯裕子
または、濃密な家族の物語から立ち上がるエロスと歴史性

我にまだ父ありたりし昨夜(きぞ)の皿
   デリシャスの果(み)は透きとおりたり

          佐伯裕子『未完の手紙』
 短歌のなかには、自分が主題を選ぶという姿勢で作られるものがある一方で、自分が主題に選ばれるのだとしか思えないものがある。その典型は人が避けることのできない病と死であろう。

 われの眼のつひに見るなき世はありて昼のもなかを白萩の散る 明石海人

 失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ  中城ふみ子

 今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅 小中英之

 ハンセン氏病を患い長島愛生園で生涯を終えた明石、乳ガン罹患を劇的に詠った中城、体内に不治の病を抱えて常に死を見つめていた小中。自分は病に選ばれたのであり、自らが作る短歌の主題もまたそれ以外のものではありえなかっただろう。短歌が人生と肉薄する瞬間である。

 佐伯もまたある意味で主題に選ばれてしまった歌人である。だから佐伯の歌集を通読すると、日々折々の歌が非常に少ない。機会詠も時事詠もほとんどない。佐伯の歌の背後には、むせ返るばかりの濃密な物語がある。直接にその物語に触れていない歌の背後にも、通奏低音のごとくにそれは響いている。これが佐伯の短歌に刻印された紋章なのである。

 佐伯の祖父の土肥原賢二は、東京裁判でA級戦犯として裁かれ、昭和23年12月23日に東条英機らとともに巣鴨プリズンで絞首刑に処された。刑死ゆえに遺骨はなく、護国寺にある墓の骨壺のひとつには、処刑前に遺書とともに本人から家族に送られた髪の毛と爪が、もうひとつには処刑された7人の戦犯のものがいっしょに混ぜられたわずかの遺灰が納められているという。1947年生まれの佐伯は、ひっそりと世を憚るように暮す戦犯の家で育った。処刑の前年に生まれた佐伯には、祖父の直接の記憶はないはずである。「くびらるる祖父がやさしく抱きくれしわが遙かなる巣鴨プリズン」という歌があるが、この時佐伯は二歳に満たないので、実際の記憶ではなく家族から聞かされたものだろう。しかし祖父の刑死は佐伯の精神形成に、巨木のような大きな影を落したのである。

 くびられし祖父よ菜の花は好きですか網戸を透きて没り陽おわりぬ 『春の旋律』(1985)

 祖父(おおちち)の処刑のあした酔いしれて柘榴のごとく父はありたり 『未完の手紙』(1991)

 池袋サンシャインビルの下ならむ刑場ありてそこに雪降る 『寂しい門』(1999)

 くさぐさの長き短き裁判の一つにて祖父が裁かれし庭 『現代短歌雁』57号(2004)

制作年代の異なる歌集と歌誌からの引用であることからもわかるように、佐伯は祖父の刑死を執拗に歌にしている。二首目は『現代短歌雁』56号特集「わたしの代表歌2」で佐伯自身が自分の代表歌としてあげている他、『岩波現代短歌辞典』でも『現代短歌大事典』(三省堂)でも佐伯の代表歌とされている。時代は少しちがうが、2.26事件に連座した帝国陸軍少将(予備役)斉藤瀏を父に持つ斉藤文と、似た境遇と言えるかもしれない。

 戦犯を出した家は戦後民主主義の世の中では肩身が狭い。戦後の土肥原家は、賢二の遺書の一節を「戦犯の子孫は生涯を黙して暮すべし」と解釈し、世間にものを言うことを怖れて暮していたという。息を潜めるような暮しを思わせる歌がある。

 ワイパーの弧形の町を去りゆけり疫病神と彼ら呼びにし

 黙(もだ)シツツユケと手紙に遺(のこ)されてわれらひと生の言語障害

 さまざまな書きようのなか憐れなる族(うから)と記事にありき淋しさ

 寄るほかはなき族(うから)なり食卓の酸ゆき匂いのなかに点さる

 だから歌人としての佐伯が選ばれた物語とは、一族の血の物語なのである。残された勝ち気な祖母、父と母そして妹が共に暮す家は歌集では麝香の家と呼ばれている。「人びとのいのちの恨みが籠もっているから、仏間には麝香に似た香を焚きしめていた」ためである。家は濃密な物語を塗り込めて静かに発酵し朽ちてゆく。

 夜を狭くおし黙りたるいっさいは息となりゆき家発酵す

 家朽ちよ朽ちよと思うぬばたまの夜の玻璃戸に桜ふぶけり

 花の日は花降る庭に遊びたる家族逆光のなかにたたずむ

 佐伯が一族の物語の呪縛から解放されたように感じたのは、母親が死んで家を取り壊したときだという。

 わが家を壊す朝に散りたまる玻璃あり青き空を映して

 止まりたる時を立ちいし太柱今日きさらぎの風にくずるる

 このように濃密な物語を作歌の背景としていることから、佐伯の短歌の特徴がいくつか出て来る。そのひとつは連作の重要性である。前衛短歌のように一首の屹立性を重んじる作歌態度では、連作という構成主義はさして重要性を持たない。他の歌と孤絶して一首を立ち上げることが重んじられるからである。しかし佐伯のような大きな歴史を背景とした物語は、一首に閉じこめようとすると、どうしてもはみ出してしまう。短歌は31音の短詩形式であり、また31のなかには意味から見れば捨て音節があるので、伝達できる意味量にはおのずと限界がある。この不利を補うために連作が重みを増すのである。

 佐伯の連作題名には魅力的なものが多い。「闇にみる夜」「父の素足」「腐敗の庭」「麝香の家」「蕁麻の庭」「緋のダリア」など、いずれも物語性に富む題名である。ふつう連作には題名とは何の関係もない自由詠が混じっているものだが、佐伯に限ってはそういうことが少ない。このように短歌が濃密な物語性を喚起するという特徴は、語法も詩想の汲み上げ方もまったく違うので比較にはならないが、寺山修司の短歌と共通すると言えるかも知れない。寺山の短歌もまた背後に物語を強く感じさせ、それが若者が一度は罹ると言われる寺山病の原因ともなっている。

 と、ここまでが佐伯の短歌の表の物語である。佐伯の短歌は公式にはこのように理解され、短歌辞典などにもこの線に沿った解説と解題が掲載されている。作者自身の手になる歌集のあとがきやエッセーもまた、このような解釈を誘導するように書かれている。この公式の解釈にはもちろんまちがっている点はどこにもない。しかし、私が強く惹かれるのは、佐伯の短歌の底を流れている歴史と深くからみあった官能性なのである。あるいは官能性から捉えた歴史性と言ってもよい。

 過去の家族の生活と家とを回想する歌は、まるで全体がセピア色に染まった戦前のフランス映画か、サラ・ムーンの写真のように、甘くせつない雰囲気を湛えている。殊に次の三首目などはまるで映画のワンシーンを見ているようだ。支那絹のショールは、奉天特務機関長だった祖父の贈り物なのだろう。

 毒だみの花のいきれに湿りたる白き素足をもて余したり

 落ちぶれて売りたる銀の燭台が置かれてありぬ床の広きに

 支那絹の花のショールをとりだせば祖母の喀きにし血のあと仄か

 バンヤンの蔭なる琥珀の肌いろを母はかすかに卑しみていつ

 家族の場面ではいまだほのかな官能性は、父を恋う一連の歌になるとずっと色濃く現われる。

 玄関の西日明るしポマードのにじむ帽子が匂いはじめる

 ポインセチアの花より赤く散りにけり父がマントにはらうこな雪

 ああ空の何処も見えぬ父の背に負われてふかく血の博ちあえり

 父の籠りわれに添寝のおしころす唄より淋し息の匂いは

 「ポマードのにじむ帽子」が理解できる世代も限られるかも知れない。佐伯の父の世代の人は外出のときには必ず帽子をかぶっていた。だからしばしば帽子は父の暗喩なのである。上にあげた歌では、殊に三首目と四首目に強い官能性が認められる。父の背に負われてふたりの心臓の鼓動が共振するという父娘の一体感、添寝する父の吐息を間近に感じるというエロティシズムは、血の濃さをはるかに越えて濃厚である。

 佐伯の短歌の顕著な特徴は、これらの歌に見られる官能性が個のレベルに留まらず(それならば相聞歌に終始しただろう)、家族を巻き込んだ歴史に投射されるという視座を得たことにある。次の歌を見てみよう。

 花のふる窓辺にもたれファシズムの影を落していかなる我か

 英霊へ夏柑一顆放りあげてずぶ濡れの眼のなかの青空

 肉たるむハイカラーこそ光りいよ身を緊めて見し天皇もあわれ

 指先を湿らせて繰る〈パル判決書〉にジャムのごときが赤く凝りし

 歴史その勝ちたる者の証なる金の背文字は光らせておく

 宵待草(よいまち)の花咲きたれば顕ち巡る〈戦後〉を断(き)りし有刺鉄線

 明日壊さむ廊下に居間に灯を点す自刃前夜のエロスのひかり

 一首目は、私には拭いきれない戦前のファシズムの影が染みついているという、戦後生まれの自己に澱む歴史性の認識を示す。二首目は戦時中は英霊と讃えられ、戦後は語られなくなった戦死者へのオマージュである。昭和の歴史は天皇に収斂するが、三首目はハイカラーの首の肉がたるむという老いた天皇を見ている。四首目のパル判決書は東京裁判の判決である。判決書に透かし見る赤色はもちろん幻視であるが、それは家族の物語に繋がるだけに現実感がある。四首目は父親の書斎に並ぶ本を詠んだものだが、勝者が敗者を裁いた東京裁判において、敗者の立場に立たされた者の弁である。五首目ははっきりと戦後民主主義の日本を問う歌となっている。

 佐伯には三島由紀夫を詠んだ歌が数首あるが、注目すべきは上の六首目である。ここには明日壊される予定の家という家族の記憶を象徴するものと、明日自決する人間とを重ね合わせる視点がある。戦後を総括することになる家の取り壊しに、死を希求する激しいエロスが混ざり合う。ここに他には見られない佐伯の短歌世界の魅力がある。

 このように佐伯の短歌は、一族の血の物語を深く内包することで、結果的に昭和という時代を鋭く問う短歌となった。また歴史と時代を外部から観念的に捉えるのではなく、細部に宿る官能性という角度から捉えているという点に、短歌ならではの現実把握があることも注目すべきだろう。上にあげた三首目の、ハイカラーにたるむ肉という視点が、短歌にできる現実への切り込み方である。重く身内に籠もる昭和という時代を官能的に詠うことで、佐伯の短歌世界は一家族が歴史に翻弄された物語という事実の地平を離れて、鋭い射程を持つ形象として結実することになった。その成果はもっと評価されてしかるべきだろう。私は佐伯の歌を読んでいて、どうしても佐々木六戈の次の歌を思い出してしまうのである。

 昭和史を花のごとくにおもふとき衰へはいつも花の奥から

 最後に『現代短歌雁』57号(2004)掲載の「鳥」と題された連作から佐伯の最近の歌を数首あげておこう。

 それがまだ木であった日の電柱の根もとに小さな落ち鳥のいて

 博物館の帆柱となる始祖鳥に冷えしガラスの目は嵌まりいん

 電線の鴉赤かり追放の記憶の蕾ひらきゆくとき

068:2004年9月 第2週 地名の歌

行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に
       雪降るさらば明日も降りなむ
               山中智恵子

神田川流れ流れていまはもう
       カルチェラタンを恋うことも無き
               道浦母都子

不易糊(ふえきのり)賣りゐるよろづ屋があるはうれし
       太秦和泉式部町(うづまさいづみしきぶちやう)
               塚本邦雄

 上の三首の歌に共通するのは、いずれも地名が詠み込まれている点である。「鳥髪」は出雲国は簸之川上流の船通山の古名で、実在の地名である。記紀神話では素戔嗚尊が天上から追放され、初めて降り立った土地だとされており、山中の歌では生きるすべての悲しみが凝結する場所と表現されている。「神田川」は東京の学生街を流れる川であり、南こうせつを中心としたフォーク・グループ「かぐや姫」の往年のヒット・ソングのタイトルでもある。「カルチェラタン」はパリ5区の学生街で、1968年の学生運動の舞台となった。「太秦和泉式部町」は、京都市右京区の太秦(うずまさ)に実在する町名。太秦は平安遷都の以前から、渡来系の秦氏が住んでいた古い土地である。

 上の三首では詠み込まれた地名が、歌の意味作用にとって欠かせない働きをしている。まず「鳥髪」という地名を構成する「鳥」も「髪」も、短歌の世界では重く意味を備給されている語で、それが結合した「鳥髪」には一種異様なまでのイメージ喚起力がある。それだけではない。この歌は記紀神話を背景とし「鳥髪」を入り口として古代へとワープすることで、現在と古代とが重層する世界を作り出している。この意味作用は「鳥髪」という地名なくしては実現することが難しかっただろう。

 道浦の歌では、「神田川流れ流れて」に複数の意味が託されている。神田川の水が流れるという字義通りの意味、神田川の水が流れたのと同量の時間が経過したという比喩的意味、そしてフォーク・ソング「神田川」のメロディーが巷に流れたという意味である。この歌で表現されているのは、かつては学生運動に参加した自分も年齢を重ねて遠い所にやって来たといういささか安易な感慨だが、学生運動の「ガ」の字も言わずにそれを間接的に表現することを可能にしているのは、ここでもまた地名の持つ喚起力である。

 塚本の歌は、もう文房具屋で見かけなくなった不易糊が売られていたという嬉しさと、和泉式部町という地名を見つけたときの嬉しさとを一首のなかに並べたという、ただそれだけのものである。塚本の歌に登場するのはほとんどが実在の地名で、天使突抜や空鞘町など創作としか思えないものも、実在の地名である。この歌のおもしろさもまた、和泉式部町という地名の発見がなくては成り立たない。

 永田和宏は、最近の若い女性たちの作品に固有名詞が極端に少なく、特に地名が少ないという興味深い指摘をしたことがある(「普遍性という病 – 読者論のために」『喩と読者』所収)。永田の文章はもともと『国文学』昭和58年2月号に掲載されたものだから、ここで言う「最近」とは1983年から見ての最近である。永田は科学者らしく、「最近の若い女性たちの作品」を『短歌現代』58年3月号の「30代歌人の現在」に収録された24名の女性歌人の作品に限定したうえで、より年長の女性歌人、同年代の男性歌人を比較集団として統計調査し、その上で「最近の若い女性たちの作品」には固有名詞の出現率が低いことを確認している。

 他の集団と比較して、昭和58年当時の若い女性たちの作品に固有名詞が少ないという、統計的に有意な偏りを説明する仮説として、永田はふたつの可能性を指摘する。

 ひとつは若い女性たちの短歌が、想像力のみによって構成され、「いつ」「どこで」「何を」「誰と」といった〈事態の個別性〉を必要としていないという可能性である。この道を突き進むと「想像力の自家中毒」に陥ると永田は警告している。ただし、歌人を乱暴に「言葉派」と「人生派」に二分すれば、「言葉派」の人たちは言語によって / のなかで喚起される想像力を梃子として作歌するのだから、「想像力のどこが悪い」という反論も可能だろう。

 もうひとつの可能性は、短歌の胚珠となった歌人個人の体験の〈事実性〉が故意に隠蔽されていることが、固有名詞減少の理由だとするものである。なぜ体験の〈事実性〉を隠蔽するのか。それは重要なのは〈事実〉ではなく、事実の奥に潜む〈真実〉だというテーゼが信じられているからである。素朴リアリズムから脱却するには、事実の具体性・個別性よりも、真実の抽象性・普遍性を志向するのは当然のことである。しかし永田はこのような態度にも潜む危険性を指摘し、それを「普遍性という病」と呼んでいる。「想像力の自家中毒」と「普遍性という病」が相乗作用を起こすと、「ある日ふと気がつくと、どれもこれも似たりよったりの抒情の、ヴァリエーションばかりを読まされている気にもなる」という訳なのである。

 永田の立論はなかなか刺激的だが、ここではその議論の妥当性を吟味するのは控えておこう。それより問題にしたいのは、「最近の若い歌人の歌には固有名詞が少ない」という事実認識の方である。というのも永田が今から20年前に行なった検証は、現在でも有効であるのみならず、ますますその傾向に拍車がかかっているようにすら思えるからである。

 言うまでもなく地名は、和歌においては歌枕として数多く歌に詠み込まれてきた。試みに『歌枕歌ことば辞典』(笠間書院)をひもとくと、なかにはおびただしい地名が収録されている。そして吉野といえば桜、宮城野といえば萩、竜田川や小倉山といえば紅葉というように、地名はそれと結びつく美的概念の記号として駆使された。小池光は地名という〈実〉が概念という〈虚〉をさす記号となったと述べているが、そのとおりである。古典和歌はこのようにして共有された美意識を場とする〈虚〉空間として展開されたのである。

 明治になって短歌の革新運動が起きたとき、真っ先に否定されたのが歌枕であったのは当然のことだ。短歌がそれまで共有されていた美意識の場を離れて写実の地平に降りたとき、〈虚〉以外の何ものでもない歌枕は否定されざるをえない。しかしだからといって短歌から地名が消えたわけではない。写実を通しての個の表現となった短歌において、地名は個と結びつくものとして生き残った。斉藤茂吉の最上川、佐佐木信綱の大和、佐藤佐太郎の蛇崩がよい例である。

 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも 茂吉

 ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲 信綱

 蛇崩の道の桜はさきそめてけふ往路より帰路花多し 佐太郎

 『現代短歌雁』34号は「地名の喚起力」という特集を組み、近代と現代短歌に詠み込まれた地名を並べている。小池光『現代歌まくら』もまた、歌枕は現代の短歌でもしぶとく生き残っているという視点から編まれた好著である。おそらく短歌という定型の文学形式そのもののなかに、地名という〈実〉を〈虚〉の空間へと絶えず誘い出す契機が内在しているのだろう。

 しかし改めて感じるが最近の若い歌人の短歌には地名が少ない。サンプルとして取り上げるのは気が引けるが、試しに佐藤りえの『フラジャイル』のなかで地名が詠み込まれている歌を探すと、見つかるのは次の4首にすぎない。(念のため断っておくが、地名の有無と短歌としての優劣には関係はない。また佐藤の『フラジャイル』は優れた歌集であり、私の好きな歌がたくさんあるので付箋だらけである)

 きらきらに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる

 神様が降りると聞いた雨雲の切れ間の空に抱かれる渋谷

 コンビニを探す真夜中核直後なのか人無き西新宿は

 後ろ手にコートを脱いで話し出す遠きワルシャワの春のこと

 「美しが丘」はいかにもありそうな郊外ベッドタウンで、「光が丘」でも「つくしが丘」でもいっこうにかまわない。個という次元で考えても、ここでは地名にもはや〈虚〉への喚起力はない。残りの「渋谷」「モスクワ」にも同じことが言えるだろう。ただし「西新宿」だけには、「核直後」と共鳴する未来都市=廃墟の意味作用が認められる。同じモスクワでも塚本邦雄の次の歌では、どうしてもモスクワでなくてはならない必然的な理由がある。それは社会主義の聖地として、かつて多くの知識人が希望を託した土地から立ちあがる意味作用である。ここでは地名は歌枕であり、私たちを〈虚〉へと誘う喚起力を保持している。

 暗渠の渦に花揉まれおり識らざればつねに冷えびえと鮮しモスクワ

 佐藤りえの短歌を改めてこのような視点から読み直してみると、具体的な地名は意図的に消されているのではないかと思えて来る。例えば次の歌などどうだろう。

 かくはやく流れる川を眺めおり 向こう岸から手を振らないで

 朝焼けの街をわずかに消え残る水銀灯を数えて帰る

 声をあげて泣くことがもう難しい商店街をアリアがよぎる

 「かくはやく流れる隅田川」ではないのだ。「朝焼けの高円寺」でもなく、「天神橋筋商店街」でもない。単に「川」「街」「商店街」でしかない無名性は、作者の意図したものだろう。もし「かくはやく流れる隅田川」としたら、歌に詠まれた出来事は特定の地点に個別化される。「川」の無名性はこの個別化を忌避する担保として働いている。だから地名の無名性は故意なのだと思う。これは果たして永田が20年前に指摘した「想像力の自家中毒」あるいは「普遍性という病」という診断が当てはまる現象なのだろうか。どうも微妙にちがうような気がするのである。

 短歌は31文字の短詩型なので、一首で完結する意味を盛り込むには限度がある。だから古典和歌では本歌取り・掛詞・歌枕のような装置を発明して、一首の歌をそれまでに詠まれたすべての歌が構成する広大な「短歌空間」という場に置いて味わうという技法を開発した。いいかえれば歌枕は、外部から意味が流れ込んで来る蛇口である。しかし近代短歌の革新運動を経て、前衛短歌の時代を迎え、「一首の屹立性」が重視されるようになると、この蛇口は邪魔になる。外から意味が流れ込んで来ては具合が悪いからである。では蛇口を閉めましょうということになる。歌枕に代表されるような意味の喚起力のある地名が現代短歌に少ないのは、このような背景があるからだろう。

 では例としてあげた佐藤りえのような短歌はどうか。私は前衛短歌とはまた少しちがう意味で、佐藤たちの短歌も「一首の屹立性」をめざしているのだと思う。ただし、塚本の短歌のように、屹立することによって強烈な意味作用の磁場を放射することを目的としているのではない。今の若い歌人は例外なく内省的である。いや、内省的という言葉は少しそぐわないので、〈ワタシ的〉と言い換えておこう。〈ワタシ的〉とは自分の心・自分の感覚をなによりも重視する心性をさす。〈ワタシ的〉心性の持ち主にとって、短歌は言うまでもなく自分の心を盛り込む器である。一首が100%自分の心でなくてはならない。そこに異物があっては〈ピュアなワタシ〉は表現できない。だから外から流れ込む意味作用の喚起力を持つ地名や固有名は、異物として排除されるのである。お出入りを許されるのは、ワタシのお眼鏡にかなったアイテムだけである。このような〈ワタシ純度100%〉のモルトウィスキーのような傾向を極端に強めているのが、例えば加藤千恵の『ハッピーアイスクリーム』だろう。

 まっぴらなまっぴるまにも立っている赤いポストはいつもの場所に

 昼休み友達がくれたポッキーを噛みくだいてはのみこんでゆく

 投げつけたペットボトルが足元にころがっていてとても悲しい

 加藤の言葉の選択は実に巧みで感心するが、これらの歌は私の愛するラフロイグにも劣らぬ〈ワタシ純度100%〉である。ちなみに『ハッピーアイスクリーム』に地名はひとつもなく、さらには固有名は「小沢健二」と「キディランド」のふたつだけという事実が、〈ワタシ純度100%〉の財務省酒税局品質保証である。

 さて、ここからは「オジサンの説教」めくので恐縮だが、〈ピュアなワタシ〉というのは幻想であり、〈純度100%のワタシ〉は必ず痩せ細ってゆく。〈ワタシ〉を育てる栄養は〈外部〉から来るのであり、それは〈ワタシ〉にとって本質的に異物だからである。〈ワタシ〉のお眼鏡にかなったアイテムにしか出入りを許さないようでは、〈ワタシ〉の成長に必要な栄養素は摂取できない。だから若い歌人たちも自分の短歌に地名や固有名を詠み込むことで、〈ワタシ〉の外部と通底する回路を短歌の意味作用に組み込んだ方がよいのではないだろうか。

 最後に地名ではないが固有名が詠み込まれた代表的現代短歌をひとつあげておこう。若くして亡くなった仙波の代表歌であり、一読して忘れることのできない秀歌である。

 夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで 仙波龍英

067:2004年9月 第1週 林 和清
または、異界と自在に交通する想像力は痩せ知らず

白壁の一本の罅たどりつつ
    いのちのやぶれ目を見てゐたる

       林和清『木に縁りて魚を求めよ』(邑書林)
 我流の素人短歌評論を書いていて楽しみなのは、一冊の歌集からどの歌を冒頭に挙げようか、あれでもないこれでもないと迷う時である。なるべくならその歌人の作歌傾向を代表する歌を挙げたい。しかし、自分が好きな歌はそれとはちがうこともある。楽しい迷いであり、時間が過ぎるのを忘れてしまう。今回挙げた歌は、詩想や歌のしらべの点で、集中で必ずしも私がいちばん好きな歌ではないが、作者の歌づくりの根源を表わすと思われることから選んだ。白壁に一本ひびが入っているのを見ているというだけの歌であり、難解なところはどこにもない。しかし、そのひびが「いのちのやぶれ目」であると見る視点がこの歌の命である。そしてこの歌を十分に味わうためには、次の歌と遠く遙かに呼応していることも知らなくてはならない。壁に消える光は命の光なのである。

 真萩ちる庭の秋風みにしみてゆふひのかげぞ壁に消えゆく 永福門院

 林和清は1962年(昭和37年)京都生まれ。『玲瓏』会員で、第一歌集『ゆるがるれ』で第18回現代歌人集会賞を受賞している。『木に縁りて魚を求めよ』は第二歌集。林は佛教大学国文科で中世和歌を専攻した国文学徒だから、古典の知識は豊富で、なかでも永福門院を中心として研究しているという。永福門院は京極派の歌人であるが、京極派は二条派に押されるようにして衰弱した。だから永福門院の歌は滅びゆくものの歌である。ボッチチェリやルドンの絵を見てもわかるように、主流を外れて滅びゆくものはみな美しい。

 林の短歌を特徴づける感覚をひと言で言うならば、それは「異界との交通」だろう。「異界」とは、私がここでこうして生きている世界ではない世界をさす。時間軸においては、それは過去であり未来である。輪廻転生においては、それは前世であり来世となる。異界はとりわけ死者の暮す世界である。林の短歌は、このような異界との交通感覚を基に成立しており、その交通を可能にするのはしばしば日常の現実に生じたわずかな「裂け目」である。だから掲載歌の白壁にできた「いのちのやぶれ目」は、林がそこを通じて異界と交通する入り口なのだ。この歌集でしばしば睡眠と覚醒、そして夢が詠われていることも、これで理解できる。夢占や夢枕に立つなどの言い伝えからもわかるごとく、夢は最も身近な異界への入り口である。

 わが半身うしなふ夜半はとほき世の式部のゆめにみられていたり

 炭酸水のどいらいらとくだるとき覚えのなき記憶よみがへる

 前の世は濃みどりの藻のみなぞこに眠りゐしわれ さるにても鯉魚

 まくなぎの霞のむかうはらからのひとり立つわが知らぬ者なれど

 先をゆく仄しろき足袋ふたひらを追ひて見知らぬ棟に入りたり

 一首目、自分が眠っているとき、自分ははるか昔の式部が見る夢だという。現在と過去とは等価交換の関係にあり、夢と現もまた入れ替わる。世界は「胡蝶の夢」であるという思想は荘子の昔からある。この世は巨大な亀または魚が見ている夢に過ぎないという思想もある。短歌は世界の認識を表現するものであり、林が捉える〈現実〉とは決して「今・ここ」に狭く限定されるものではなく、異界と交通するものである。二首目、炭酸水を飲む時に蘇る「覚えのなき記憶」とは、前世の記憶に他ならない。このことは、自分の前世は水底に眠る鯉だったという三首目にいっそう明らかである。三首目、「まくなぎ」とは夏の季語である小さな羽虫のこと。霞の向こうに立つ顔もはっきりせず、自分が知らない兄弟とは、異界から出現した者に他ならない。五首目、白い足袋をはいて前を行くのは、たぶん女性だろう。私はそれを追いかけるようにして、見知らぬ建物、つまり異界に入り込んでゆく。「足袋ふたひら」とだけあって、足袋を履いている人の顔も姿もはっきりしないところが、いっそう異形感覚を強めている。まるでひらひらと飛ぶ二頭の白い蝶に誘われているかのようだ。

 次の歌にはもっとはっきりと死者が登場する。

 死者が来てゆふぐれを食ふ気配せり目には水揺るるのみなれど

 門灯のさゆらぐあたりわれよりも体温たかき死者が来てをる

 秋の塩きららの撒きて喪のひとは急にひかげる面輪をもてり

 しかし、ここに暗さや怖れはまったくない。手招きして自分を誘う異界や死者は肉親のように親しいものであるかのようだ。なぜだろうか。それは林が京都という町で生まれ育ったからではないだろうか。少なくとも林自身はそのように認識している。『現代短歌最前線』(北溟社)の自選200首に添えた「京都時間のベクトル」という文章のなかで、林は次のように書いているのである。

 「京都に生まれて、いまも住みながら、やはりここは不思議なところだなと思うことが、しばしばある。時間が、重層構造をなして存在しているのが見える。いまこの瞬間にも、過去の時間が重なりあってひしめいている。京都が存在しつづける価値は、時間の認識のしかたを示唆してくれることだろう。京都では、現在より過去の力のほうが大きいと思うことがよくある。」

 時間が降り積もり、天神さん(菅原道真)やお大師さん(空海)が町衆のなかに生き続けている京都では、異界や死者は遠く恐ろしいものではなく、すぐそこにある親しいものだ。この世と冥界とを往還したという小野篁のような人までいる土地柄である。歌人は知らず知らずのうちに、異界との境界に引き寄せられるのだろうか。

 荒神橋の凍霜の夜にいきづける百合鴎くれなゐのいきぎも

 鴨川に懸かる荒神橋は、京都に住む歌人には馴染み深い地名だろう。岡井隆を中心として最近まで開かれていた「左岸の会」の前身は「荒神橋歌会」と称した。荒神橋は荒神口に懸かっている。荒神口は洛中から洛外に出る7つの口のひとつで、ここから志賀街道が伸びている。人も知るように、出口・入り口は異界との交通の場所である。

 林は「京都時間のベクトル」のなかで、日本画家・上村松篁の描く鳥の絵は、忠実な写生でありながらナマの動きではなく、絵のなかに仕留めきったとでもいうような静謐な美を見せているという。鳥は絵のなかで生命に溢れながら、同時に死のベクトルをまとっている。生のベクトルと死のベクトルの危うい均衡、それが一瞬と永遠をつなぐ架橋になると結論する。松篁の絵に仮託した林のこの文章は、この上ない自歌解説ともなっていることに気づかされる。「生のベクトルと死のベクトルの危うい均衡」、それはしばしば日常のなかにふと生じる微かな〈揺らぎ〉を契機として表現される。上にあげた死者の歌に詠われた水面のわずかな揺れ、門灯のかすきな瞬き、このような微少な〈揺らぎ〉に心を留める感受性が林の歌の入り口であり、その〈揺らぎ〉をワームホールとして「生のベクトルと死のベクトルの危うい均衡」へと想像力を飛翔させるのが林の歌の技量である。だからこの歌集には、日常の〈揺らぎ〉が予感として満ち満ちている。

 天使の裸体ころぶす卓にひとはりのグラスの水はゆれやまずけり

 柔らかくくろく土ある園のすみに茸ののぴる音を聞きたり

 声あぐるほどの予感は満ち来たり合歓うすくれなゐのひとけぶり

 昏昏とねむる夢見るまくら辺のヒヤシンスみづに根を延ばしをり

 白壁のひびのようなかすかな〈揺らぎ〉を入り口とする〈異界〉との往還は、〈今・ここ〉(hic et nunc) に縛られることのない振幅と奥行きのある〈私〉の表現を、林の短歌において可能にした。これは考えてみる意味のある問題である。なぜなら現代短歌は、近代短歌の切り開いた道である「個の表現」としての短歌を追求するあまり、〈個の個別化〉と〈日常の断片化〉の道に踏み込んで、「〈私〉の痩せ細り」現象を招いているからである。

 折しも今年度の短歌研究新人賞が発表された。受賞者は1971生まれの嵯峨直樹、受賞作品は「ペールグレーの海と空」である。

 髪の毛をしきりにいじり空を見る 生まれたらもう傷ついていた

 「残酷な優しさだよね」留守電の声の後ろで雨音がする

 午前1時の通勤電車大切な鞄ひしゃげたままの僕たち

 この先は断崖 声を涸らしつつ叫ぶよ何をたとえば 愛を

 ここに表現されているのは、〈今・ここ〉に拘禁されて一歩も動くことのできない〈私〉である。「生まれたらもう傷ついていた」と自分を感じるひ弱さ、「大切な鞄ひしゃげたまま」という無力感、そのような感受性も短歌は表現することができるが、「〈私〉の痩せ細り」は覆うべくもない。残念ながらここに決定的に欠けているのは、〈私〉を世界に向かって開く契機である。その契機はイラク戦争や9.11テロのような「大事件」である必要はない。林の歌を読めばわかるように、日常のかすかな揺らぎも十分な契機となりうるのである。

 最後に『木に縁りて魚を求めよ』から白眉と思われる歌を挙げておく。いずれも林の感性の住む時空の広がりを感じさせてくれる歌である。

 死の側の水田のひかりわが刻のすぎゆくさまを月に見られて

 刃当つればおのづと割るる甘藍にみなぎるものををののきて見つ

 肌うすき者へ驟雨のつぶて来る死の前脚の垂るる空より

 一首目はすごい。「死の側の水田」とは、幽明の境界を越えた向こう側だから、これはあの世から世界を見ているのだ。想像力を梃子として実現される視点の重層性である。このような視点を持ちうる〈私〉が痩せ細ることは絶えてあるまい。

066:2004年8月 第4週 佐藤弓生
または、自己表現としての近代短歌の呪縛から自由に

風鈴を鳴らしつづける風鈴屋
  世界が海におおわれるまで

佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』(沖積舎)


 今では見なくなったが、江戸時代には屋台に風鈴を積んで売り歩く商売があったらしい。風鈴と朝顔は江戸の都市文化の風物で、関西にはあまりない。掲載歌に詠まれた風鈴屋は、どことなくこの世のものではないようである。世界が海に被われるまで風鈴を鳴らし続けるのだから、永遠の生命を生きるか、あるいはそれに近い存在であろう。一首を流れる決して暗くはない終末感と、次第に強く鳴り響くように思える風鈴の音とが共鳴しあって、叙景でもなく抒情でもない、独特の夢幻的世界が作り出されている。

 掲載歌は歌集の表題が採られた歌であり、佐藤の代表歌と見なしてよいだろう。『短歌WAVE』2003年夏号の特集「現代短歌の現在 647人の代表歌集成」では、佐藤は掲載歌に加えて次の二首を自分の代表歌としてあげている。

 ぼんやりと街のはずれに生えている水銀灯でありたいわたし

 こなゆきのみるみるふるは天界に蛾の老王の身をふるうわざ

 佐藤弓生は1964年生まれ。「かばん」を拠点として活動している。唯一の歌集『世界が海におおわれるまで』は2001年に出版されている。詩集と英国小説の翻訳があり、歌集に収録された職場詠を見ると会社勤めもしているようだが、あまり歌のなかで自分を語らない人なのでよくわからない。この「自分を語らない」というのが佐藤の短歌の特徴でもある。

 荻原裕幸は『短歌ヴァーサス』4号の連載のなかで、近代短歌は手短に言えば「自己像を描くことによる自己表現としての短歌」だが、90年代を迎えて状況が変化したと述べている。荻原のいう自己表現としての近代短歌とは、例えば次のようなものである。

 ペシミズムにまたおちてゆく結論にあらがひて夜の椅子をたちあがる 木俣 修

 たたかひを終りたる身を遊ばせて石群(いはむらが)れる谷川を越ゆ 宮 柊二

 桃いくつ心に抱きて生き死にの外なる橋をわたりゆくなり 築地正子

 表現が直接的であったり、隠喩を用い暗示的であったりする手法の差はあれ、これらの短歌の中には明確に結像する「自己像」がある。それは、「心が暗い方向に傾斜する〈私〉」であったり、「戦争に疲弊した心を抱える〈私〉」であったり、「生を抱えつつ死の観念におののく〈私〉」であったりする。〈私〉の位相はさまざまであるが、いずれにしてもこれらの短歌は「自己表現」だと言ってまちがいない。明治時代の和歌革新運動の結果、短歌はそれまでの共有された美意識に基づく花鳥風月の世界から離れ、近代的自我を表現する器となった。佐佐木幸綱のことばを借りれば、普遍性・抽象性・集団性から、個別性・具象性・個人性へと移行したのである。その結果として近代短歌は、上にあげた三首にも色濃く滲み出ている孤独感を引き受けることになった。

 21世紀を迎えた今でも、短歌の裾野を形作る人たちの短歌観は変化していない。新聞の歌壇に投稿されるおびただしい数の短歌は、「自己像を描くことによる自己表現としての短歌」という近代短歌のセオリーをいささかも疑っていない。

 背に花火聞きつつ帰る抱いた子の重さも今日の思い出として 船岡みさ

 またひとり癌に倒れし友ありて同窓会の夏さむくなる 吉竹 純

 疎開児の袋に蝗わけくれし顔もおぼろなひとりの少年 林 理智

 2004年8月16日の朝日歌壇から引用した。近代を特徴づけるのはデカルトあたりを嚆矢とする「自我への信仰」である。どのような経験をくぐっても疑えない自我の一貫性は、近代の産物である。しかし、荻原は90年代あたりから、短歌の世界においてこの状況が変質したという。代わって目に付くようになったのは、枡野浩一の短歌に代表される「作家の自己表現でありながら、同時に読者が自分のことばだと錯覚するような場所で共感を誘発する文体」だという。これは「コピーライト短歌」である。もうひとつは、「東直子に見られるような、読者の側の自在な補完によってはじめて『自己像』が成り立つ文体」だとする。これは「何かが欠けている文体」と言える。埋めるべき情報のスロットがいくつか埋まっていないで、不飽和状態なのである。荻原は出版されたばかりの『短歌、WWWを走る』(邑書林)のあとがきでもほぽ同じ趣旨の文章を書いているが、こちらで指摘されているのは「自己像が何らかのかたちで明確に結んでしまうことを拒むような文体、もともと世界から断片化されている短歌の記述をさらに断片化するような記述」だとしている。こちらはポストモダンの「リゾーム的文体」とでも言うべきか。明治以来百数十年を経て、「近代的自我の一貫性」はそろそろ空洞化してきたようなのである。

 佐藤弓生もまた短歌の中で自己像を明確に結像させることに、あまり関心がないようだ。佐藤の短歌の文体は、荻原の分類したなかの二番目の文体に近い。確かに佐藤の短歌は、補完すべき情報が欠けている「不飽和文体」の代表選手である東直子や小林久美子の文体と、どこか共通するところがある。

 いつまでも薬はにがいみどりめくめがねの玉をみがきにみがく

 押しこんでぎしぎしかけたかけがねがひかるたとえば春の砂場に

 いくとせののちあけがたにくる人は口にみどりの蝉をふくんで

 いささか恣意的に選んでみたが、これらの歌に「明確な自己像」を探すことは不可能であるし、そもそもどのような情景が詠われているのかすらはっきりしない。しかしここにはリズムがあり、そのリズムはまぎれもなく短歌のリズムである。「みどりめくめがね」「みがきにみがく」の「み」と「め」の交替と連続、「かけたかけがね」の「かけ」の連続が生み出すリズム感は耳に心地よい。かつてヴァレリーは詩論のなかで、ことばによる意味の伝達が終って目的を遂げたその果てに、なおもそのことばを耳にしたいと願う欲望が詩の発生であると論じたが、その意味からすればここにはまぎれもなく「詩」がある。しかしこれは「近代的自我の表現」としての短歌とは相当にちがう位相で、詩と美を生み出そうとする短歌文体だと言わなくてはならない。今までの短歌理論や短歌批評は、このような新しい文体を正当に分析してきただろうか。

 佐藤の短歌は上にあげた三首のように、意味朦朧としたものばかりではない。

 白の椅子プールサイドに残されて真冬すがしい骨となりゆく

 みずうみの舟とその影ひらかれた莢のかたちに晩夏を運ぶ

 秋の日のミルクスタンドに空瓶の光を立てて父みな帰る

 さくらんぼ深紅の雨のように降るアルトの声の叔母のお皿に

 牛乳瓶二本ならんでとうめいに牛乳瓶の神さまを待つ

 てのひらに卵をうけたところからひずみはじめる星の重力

 一首目、プールサイドに放置されたプラスチックの白い椅子が冬の陽を浴びて、動物の骨のように見えるという情景は、夏と冬という正反対の季節の対比のなかに、生と死があざやかに視覚的に対比されている。二首目、鏡のように静かな湖に浮かぶ小舟と水面に映るその影は、水面を対称軸としてたしかに開いた豆の莢のように見える。発見の歌であり、静かな晩夏の印象が美しく、私の特に好きな歌である。三首目、駅のホームのミルクスタンドだろうか。通勤途中のサラリーマンが、牛乳を飲み干して、空になった瓶をそのままにして去ってゆく情景である。人の去ったミルクスタンドに光が立っているという描写が秀逸であり、神なき世界にささやかに立つ小さな神のような趣きすらある。四首目、さくらんぼが皿に降るというのはわかりにくいが、さくらんぼを水洗いした叔母さんが皿に勢いよく盛りつけているのだろうか。「深紅の雨」と「アルトの声」の取り合わせがポイントだろう。五首目、また牛乳瓶の歌だが、二本並んで神様を待つというのは、ベケットの不条理演劇の名作『ゴドーを待ちながら』が下敷きにある。ここにもまた神なき世界のかすかな終末感が漂っていて、印象に残る歌である。六首目、「卵の歌」のところでも引用した歌だが、卵の凸と手のひらのくぼみの凹の照応から、アインシュタインの重力場理論へと飛躍する発想が秀逸で、極小の卵と極大の星との対比が宇宙論的視野の広がりを感じさせる秀歌である。

 最近の作品も見てみよう。『かばん』2004年7月号から。

 水に身をふかくさしこむよろこびのふとにんげんに似ているわたし

 虚空からつかみとりては虚空へとはなつ詩人の手つき花火は

 淹れたての麦茶が澄んでゆくまでを沈める寺に水泡立つ見ゆ

「虚空からつかみとりては」は、「虚空を一閃して花束を掴み出す」と言った中井英夫を思わせる。佐藤も詩人の営為をそのように理解しているのだろう。「沈める寺」は、ドビュッシーの楽曲の題名だが、私の好きな日本画家・智内兄助の仏画のような連作の題名でもある。

次は『短歌、WWWを走る』から。

 秋天の真青の襞にひとしずく真珠くるしく浮くまでを見つ  題「浮く」

 もくもくと結び蒟蒻むすびつつたましいすこしねじれているか  題「蒟蒻」

 エヴァ・ブラウンそのくちびるの青きこと世界を敵と呼ぶひとといて  題「敵」

 まよなかにポストは鳴りぬ試供用石鹸ふかく落としこまれて  題「石鹸」

 ひともとの短歌を海に投げこんでこれが最後のばら園のばら  題「短歌」

 三首目のエヴァ・ブラウンはヒトラーの愛人だから、「世界を敵と呼ぶひと」はヒトラーその人をさす。四首目「まよなかに」は背筋がスッと冷えるような気がして、特に印象に残る歌である。だいたい真夜中にポストに投函されるのは不吉な知らせである。それが実は試供用石鹸という日常的で無害なものなのだが、下句の「ふかく落としこまれて」によって異次元にワープしている。石鹸をポストに深く落しこむことには、何か深い意味があるように感じられてくる。佐藤はこのような言葉の使い方が非常にうまい。それは言葉を日常的意味作用とは別の次元で把握しているからである。優れた詩人はみなそうなのだが。

 近代短歌のセオリーである「自己像を描くことによる自己表現としての短歌」を追求している歌人は、近頃あまり元気がないようだ。それは『短歌ヴァーサス』3号における「男性歌人を中心とする〈不景気な感じ〉」という荻原裕幸の発言が指摘していることでもある。生沼義朗『水は襤褸に』のような登場の仕方をした人を読んでいても、「この先いったいどこへ行くのだろう」という不安を感じてしまう。そこへいくと、自己像を描かない佐藤弓生のような短歌には、不思議と不景気感もなく、先細り感もない。ある意味で近代短歌の呪縛から自由な地平から詩想を汲み上げているからかもしれない。

佐藤弓生のホームページ

065:2004年8月 第3週 三枝浩樹
または、青春の光芒を放つ短歌の行く末は孤独な歩行者か

透視図法の焦点となるかみしみの
      かなたにくらく森がにおえり

            三枝浩樹『銀の驟雨』
 短歌には「家族性」という、他の芸術には見られない特徴があるようだ。短歌に親しむようになった理由として、父または母が短歌を詠む人だったという家族的理由があげられることがよくある。例えば、加藤治郎の場合、もともと母親が短歌を作っていて、加藤治郎が歌人になると、兄と妹も歌を作るようになり、父はしかたなく短歌評論を始めたそうだ。一家総出である。永田和宏と河野裕子夫妻、その子永田紅のケースもある。

 これはなかなか面白い問題である。父子(母子)相伝による技芸といえば、歌舞伎・狂言のような高度の身体的修練を必要とする伝統芸能を除くと、造形芸術の分野では、やはり長期間の技術的修練が必要な画家・彫刻家にいくつか例を見いだすことができる(高村光雲と高村光太郎、上村松園とその子・孫など)。しかし、文芸の世界ではあまり例がないのではないだろうか。親が小説家で、その子もまた机に向かって物を書く親の後姿を見て育ち、長じて自分も小説家になるという例は少ない。親が詩人で子も詩人という例もあまりない。もちろん、森鴎外と茉莉、幸田露伴と文、太宰治と津島佑子、中上健次と紀の例はあり、皆無というわけではないが、その他にあまり例が思い浮かばない (なぜかみんな娘なのも興味深い点である)。

 関川夏央『本よみの虫干し』(岩波新書)は、明治以来の文学をめぐる時代情況と、とりわけ文学の経済的側面に焦点を当てた好著だが、関川流思考を援用すれば、文芸の世界で親子相伝がない理由は自明である。十中八九は食えないからだ。親が食えない小説家で、子供の頃から貧乏を強いられて育った子供が、自分も小説家になろうと考えるはずがない。

 しかしこの理論では解明できない問題も残る。詩人の場合である。小説家とは異なり、もともと詩だけで食べている人は少ないので、詩人は実社会で職業を持っている。たとえば清岡卓行はプロ野球のスコアラーであり、吉岡実は出版社に勤務していた。だから詩人の場合、経済的問題が親子相伝の否定的要因となる可能性は低い。にもかかわらず、親も詩人で子も詩人というケースは稀だ。

 このちがいはおそらく詩と短歌の文芸としての特性に由来している。詩の「孤独性」と短歌の「公共性」の相違である。詩は夜中にひとりで孤独に言葉を彫琢する過程から生まれる。詩とは詩人が世界に向けて放つ孤独な発語である。しかし短歌は、少なくともその発生においては「座」の文学であり、その名残は結社という主宰を頂点とする人の輪に残っている。短歌は人前で披露され、その場で評価されるものであり、孤独な発語ではない。これが短歌の公共性を支え、その開かれた性格が、短歌の「家族性」の理由となっているのではないだろうか。

 しかし、最近この短歌の「家族性」は危うい。現代短歌が「孤独性」を深める傾向にあり、現代詩との境界線が薄らいで来たからである。これは案外重要な問題で、文芸としの短歌の本質を変容させかねない問題だと思う。

 世はインターネット時代を迎え、短歌の「家族性」に替わって最近目につくのは「(擬似)友達性」である。若い女性によく見られる、「○○ちゃんの短歌ホームページ見ました。とってもカワイイ♥♥。私もこんな短歌を作ってみました」というノリである。この「(擬似)友達性」が、短歌の文芸としての本質に何を付け加えるのか(何を削減するのか)、私にはまだわからない。

 ほんの前置きのつもりが長い枕になってしまった。三枝浩樹の父は窪田空穂門下の歌人で、兄の昂之もまた歌人である。三枝もまた家族性歌人なのだ。歌人としては、歌集も多く、怜悧な批評家として知られる兄の昂之の方がよく知られている。兄の昂之も弟の浩樹も、ともに1960年代という政治の季節に短歌的出発を行なったという点で、深く時代の刻印を受けた歌人である。昂之は1944年生まれで、早稲田大学に入学し2年生のとき1966年に早大闘争が起きた。政治の季節にまともにぶつかったことが昂之の短歌を刻印した。浩樹は1946年生まれだから兄より2歳年下で、1965年に法政大学に入学している。第一歌集『朝の歌』に収録された歌が作られたのは1964年から1973年までで、政治の季節の昂揚と終息に正確に呼応している。だから『朝の歌』は時代の歌であり、この時代の空気を吸った人間にとっては、心の痛みなくしては読むことのできない歌集である。

 一片の雲ちぎれたる風景にまじわることも無きわれの傷

 透明な朝の光だ 傷ついた窓をあけいまは眼をみひらかん

 はかなさを美へとすりかえるいっしゅんの虚偽を射よ 杳(くら)き眼光もて

 スペインへ ! わが思想的昂揚へ ! ’69年冬の窓あけながら

 ああされど 火中(ほなか)に立ちて問うこともせず問われるままに過ぎゆきつ

 優しさを撃て 隊列のくずされてゆく一瞬の真蒼な視野

 ここには時代を撃つ姿勢と並んで、時代から受けた傷を自己の核として詠う姿勢がある。「虚偽を射よ」「優しさを撃て」「わが思想的昂揚へ !」という高らかな呼びかけと平行して、「問うこともせず問われるままに過ぎ」る姿勢への自己批判と悔悟とが共存していて、時代の波に引き裂かれる痛ましい青春がくきやかに描かれている。ここには、希望・夢・迷い・挫折といった、青春を彩るものすべてがある。青春の光のなかでは傲慢ですら美しい。

 関川夏央は、「短歌はやはり『青春』を表現するときもっとも力量を発揮するジャンルなのかとも思う」と書いた(『現代短歌そのこころみ』NHK出版)。三枝浩樹の『朝の歌』はまさに青春の歌集である。関川はそれに続けて、「しかし、あざやな光彩は持続しにくい」と付け加えることを忘れてはいない。あざやかな青春の歌集を持った歌人は、例外なくこの重い課題と向き合うことになる。

 『朝の歌』を一読して、ここには現代短歌がほとんど失ってしまったひとつの特質があると感じた。それは「他者への真摯な呼びかけ」である。

 純子、君のため書きしるすレクイエムの火のかなしみをふりしずめつつ

 ああソーニャ、霜おく髪の孤独より失意よりわれを発たしむなかれ

 60年代は集団と大衆の時代であり、他者との連帯が信じられていた。「手をつなぐ」こと、「呼びかける」ことが意味を持っていたのである。それがいかに幻想であれ。青春の精神の昂揚を定着する形式としてだけでなく、短歌はまた「呼びかける」形式として好適である。短歌から相聞と挽歌を除いたら何が残るかと、誰かがどこかで述べていたが、相聞と挽歌はともに「呼びかける」ことを本質としている。ふたつの違いは、呼びかける相手が生きているか死んでいるかの差にすぎない。もちろん相聞と挽歌では、それと相関的に逆照射される〈私〉の位相には違いはあるが。三枝の歌には「呼びかけ」がある。それは三枝が歌を生み出した地点には「他者」があるということを意味する。しかし現代短歌の多くはこの「よびかけ」という短歌の根底にあったはずの特性を失ない、孤独な「つぶやき」になってしまった。そう感じるのである。

 第二歌集『銀の驟雨』以降、三枝はキリスト教受洗をひとつのきっかけとして、急速に内省的傾向を深めてゆく。その主調音は内省を通じての自己省察である。三枝の好みの言葉を使えば、「自己の内に深く降りてゆく」作業である。その過程から生まれる歌もまた美しく私たちを打つ。

 あやめざるこころのなかへひきかえす夏のゆうべの火のほとりより

 南天の実のかたわらを過ぐるとき杳(とお)き悲傷の火のにおいくる

 告げなむとして翳る舌 灯のなかにわれらしずかな死をかさねあう

 雨の午後しずかに昏れてうつうつとむらさきの葡萄ジャムを煮つむる

 『朝の歌』で多用された「朝」「青空」という語彙は少なくなり、代わって「夕暮れ」「黄昏」と「雨」が頻出するようになる。第三歌集『世界に献ずる二百の連祷』でもその傾向は加速されてゆく。『朝の歌』で詠われた「青空」は、もはや痛みを伴う回想のなかにしか存在しない。

 喪失というくうかんを知りし日の青空 いまもわが内に棲む

 鳥のためかなしみのため鳥籠を買いて戻れる雨の夕暮

 神よいかなる諸力のもとにつかのまの光芒としてあゆむわれらぞ

 三枝が一貫して歌に詠み込む対象に「樹木」がある。三枝は「木の歌人」と呼ぶのがふさわしい。しかし対象としての木の詠み方その種類も、時代とともに変化している。

 日常の視界のかなた何ゆらぎつつあらん ひと群の樅そよげるを 『朝の歌』

 崩おれんばかりあわあわとせるゆうべいっぽんの樹の戦ぎにむかう

 風がふたたび閉じてしずまるゆうぐれをあかるくさむく銀杏こぼるる 『世界に献ずる二百の連祷』

 夕映えを支うるごとき樫の木の黒き塊(マッス)あり西はかなしも

 おのずから散るを見守りていたりけり友のごとしも庭の櫟は 『歩行者』

 ゆく人も来る人もなしひもすがらこまかなる葉をこぼすからまつ

 『朝の歌』でよく詠まれているのは、樅の木とポプラである。どちらも北方の樹木であり(北方の精神性)、空へと高く屹立する。この空の高みを目指すゴシック的特性が、青春の昂揚とよく似合う。またその詠まれ方も、一首目では樅の林は日常性のかなたに揺曳するものの象徴であり、二首目では心萎える自己を鼓舞するものの象徴である。いずれも極めて観念性の強い詠まれ方である。

 ところが歌に詠まれる木の種類も針葉樹系統は少なくなり、銀杏のようなふつうの街路樹や樫の木が登場する。また銀杏や樫は自らの心象の投影ではあるが、もはや初期の歌のような観念性はない。これが2000年に出版された第五歌集『歩行者』になると、樹木はもはや心象の投影ですらなく、より具体性を帯びて親しい友のように詠われている。

 『朝の歌』のあとがきに、「即物感と抽象感覚に充ちみちた歌を、というのが、かねてからのぼくの希求してきたところであった」と書いた三枝も、歳を重ねるにつれて、青春の観念性が洗い落とされ、より具体的にまた平明に身の回りの事物を歌にするようになる。

 秋の陽を日すがら浴びて育ちたる柿の実ならん食めば甘しも 『歩行者』

 むらさきのすずしき花の揺れいたり紫苑の庭と今日より呼ばん

 『朝の歌』に描かれた〈私〉と世界の厳しい対峙にひりひりするような感動を覚えた者には、〈私〉を自然に溶け出させるようなこの歌境は、物足りなく感じられるかも知れない。『歩行者』の歌境と修辞は、まるで大正・昭和初期の近代短歌への逆行ではないかとも感じられる。しかし、関川も書いたように、青春の光芒は一瞬にして去る。あとに残されるのは長い残りの人生である。観念性を洗い落した後に、なおも歌を作り続けようとすれば、市井に生きるひとりとしての境涯を詠む他はない。『歩行者』はひとり孤独に歩む人で、そこにはかつての他者への「呼びかけ」はもうない。三枝の歩みは、青春時代にあまりに光輝に満ちた歌集を持ってしまった歌人の困難さを象徴しているように思われる。それと同時に、『朝の歌』のように一瞬の光芒を永遠に定着したような歌集を生み出したあの時代から、私たちは何と遠く来てしまったのだろうという感慨を禁じることができない。今の時代に「青春歌集」を生み出すことは、ほとんど不可能なことなのである。

064:2004年8月 第2週 島田幸典
または、眼前の小さな手触りにこだわる歌

たましいを預けるように梨を置く
       冷蔵庫あさく闇をふふみて

         島田幸典 『no news』(砂子屋書房)
 掲載歌は2002年に刊行された著者の第一歌集『no news』の巻末歌である。歌集の構成に腐心する歌人は、歌の配列に工夫を凝らす。なかでも巻頭歌と巻末歌は、歌集の始まりと締めくくりを受け持つ歌だから、自信作を配することが多い。著者も掲載歌になにがしかの思い入れがあるのだろう。もっとも『現代短歌雁』56号の「わたしの代表歌」では、島田は同じ歌集の「首のべて夕べの水を突く鷺は雄ならん水のひかりを壊す」を代表歌としてあげている。

 掲載歌の「ふふむ」は古語で「含む」と書くが、木の芽がつぼみの状態である意と、現代語の「含む」の意とがある。冷蔵庫は闇をその内部に含んでいるのだが、それはたんに中に闇があるというだけに留まらない。その闇は、木の芽が春雨を浴びて膨らむように、時間の経過とともに膨張し浸食し溢れ出すのである。しかし、私は自分の魂を梨の実のように冷蔵庫の闇に預ける。それが私たちの生の有り様だからである。この歌のポイントが「あさく」にあることにも注意しよう。まだ闇は深くはないのである。このかすかな諦念と静かな表現が歌人・島田幸典の持ち味である。歌の姿に無理がなく、言葉の連なりがなめらかな点もまた特筆に値しよう。

 歌集『no news』で2004年に第47回現代歌人協会賞を受賞した島田幸典は、1972年(昭和47年)生まれで、今年32歳になる京都大学法学部の助教授である。専門は比較政治学。ホームページには、「英独両国を中心として、国家構造(国制)の形成・発展・変容を、遠く中世から現代に到るまで、比較史的に考察している」とある。私の勤務する京都大学には永田和宏その人ありと知られているが、法学部にこのような優れた歌人がいることは、ごく最近まで知らなかった。

 山口県で高校生活を送っていた島田は、すでに中学時代から短歌を作っていたらしい。高校生の時、九州で「牙」を主宰する石田比呂志が選者を務める新聞の短歌欄に次のような歌を投稿している。高校生らしからぬ、すでに短歌の結構を心得た作であり、静かな歌という体質はすでにこの頃に定着していたのか。

 海べりの駅に夜汽車は停まるらし沖の水面に漁り火見えて

 石田は山口県の柳井まで赴いた折りに、前途有望な高校生をあろうことか酒場に誘い出し、「歌人を志す男が酒がのめなくてどうする、酒と悪行なくして何の修行じゃ」と迫ったという。島田はこの無頼への誘いはやんわりと遠ざけて、京都大学法学部に無事合格し、京大短歌会に所属する。だから島田は、石田比呂志→永田和宏という一風変わった師筋を持つ歌人なのである。(このあたりのエピソードは関川夏央『現代短歌そのこころみ』による)

 島田の短歌のまず目に付く特徴は、確かな措辞に裏付けられた端正な歌の姿と、決して荒げることのない静かな声である。静かすぎる声と言ってもよい。

 冬の気をあつめ李朝の青磁あり唇うすき佳人思えり

 梅林を破線のごとく言葉継ぎ過ぎりつ花の喘ぐ重さに

 中庭を吹き惑う風花散ると見えしは風の白日夢かは

 見破ってほしい嘘あり花陰にまさりて暗き葉ざくらの影

 故郷近くなりて潰せるビール缶の麒麟のまなこ海を見るべし

 時代はちがうが、福島泰樹の「樽見、君の肩に霜降れ 眠らざる視界はるけく火群ゆらぐを」のような腹の底から噴き上げる情熱、あるいは高野公彦の「たましひを常飢ゑしめてかの冥き深き淵よりのがれむとする」のような自己のほの暗い内面への下降沈潜、はたまた阿木津英の「産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか」のような、カッコ良すぎるほどの高らかな思想宣言に類するものは、島田の短歌世界のどこを探しても見あたらない。だから人によっては島田の短歌を一読したときに、淡く薄い印象しか持ち得ないという感想もありうるだろう。事実、歌集評のなかにはそのような感想も散見される。

 一方、ニューウェーヴ短歌のプロデューサー加藤治郎は、島田の『no news』は「問題歌集だ」と言う。どこが問題歌集なのだろうか。『no news』は「底知れぬアナーキーな歌集」であり、「大正期の自我の確立から、戦後のリアリズム、前衛短歌を経て、体性感覚(篠弘)、高野公彦の闇の領域の獲得からニューウェーブの情報化された自我まで」という「短歌史のフィールドからは、手付かずの位置にあり」、島田は「短歌のサンプリングをやっているのだ」という仮説を提案している。(http://www.sweetswan.com/jiro/naruo2.cgi) 加藤の仮説は刺激的なものではあるが、具体例に基づいた分析がないので、現時点ではその妥当性を判断することができない。

 加藤は同時に、島田の短歌には「感覚的に生々しい、あるいは闇を抱えた〈私〉が、出てこない。そこがすこし物足りない」とも述べている。こちらの方はよくわかる。「闇を抱えた〈私〉」とは、若い世代で言うと、例えば「過ぐる日々に神経叢は磨り減ってまぶたの裏に白き靄立つ」と詠った生沼義朗、「いまや過去を切断すべし梅雨空の裂けて眩しき紫陽花断首」と詠う高島裕、はたまた「廃屋のアップライトを叩く雨すべてはほろぶのぞみのままに」と詠う佐藤りえあたりがすぐ頭に浮かぶ。生沼が浮上させるのは、都市的現実に囲繞された神経症的〈私〉であり、高島の押し上げるのは、自らの生きる時代と絶交した思想的流竄者としての〈私〉、また佐藤が描くのは、バブル崩壊後の大衆消費社会のなかで行き場を失った午後4時の〈私〉である。確かにこういった歌人たちの作る短歌と島田の短歌を較べてみると、「歌によって押し上げられる〈私〉」の位相が異なっていることに気づくのである。

 では島田の短歌の根底にある〈私〉とはどのようなものだろうか。

 朝夕に往き還りする舗路(しきみち)を散る山茶花はしずかに汚す

 昼ふけの踊り場ふかく蔵(しま)われし春のひかりの返されていつ

 白桜は灯火のいろに移ろえり元の花街、ちいさき稲荷

 プロセイン史に戦いの記述ひとつ終り湯を沸かす、瓦斯のかすかな匂い

 これらの歌を読んで気づくのは、歌人としての島田の眼差しが注がれるのが、毎朝起きて通勤電車に揺られる日常の〈私〉の周囲で起きる「微細な揺らぎ」「静かな移ろい」だということである。一首目、毎日の通勤で通る道路に山茶花の花が散っているという微細な日常の変化。二首目、場面は勤務先の大学か、階段の踊り場に溢れる春の光。三首目は白い桜の花びらが灯火を映して色を変えるという、これまた微少な推移。四首目、政治学の論文を書き終り、ガスを点けるとかすかにガスが匂うというだけのこと。これらの歌に不在なのは、たとえば路上に散る山茶花の花を見て私が抱いた「感慨」や「思い」である。

 認識はすべからく〈客体〉と〈主体〉との相互作用であり、短歌表現もまた〈叙景〉と〈叙情〉を軸として成立する。短歌に詠まれた情景は、その情景の表現を鏡として、それを見る〈主体〉を照らし出す。こうして否応なしに〈主体〉が照らし出されることによって、詩としての短歌的抒情が成立する。しかし島田は、日常の「微細な揺らぎ」「静かな移ろい」を描写しながら、その情景が送り返すはずの〈私〉を提示しない。だから読者は、島田の短歌は「控え目でおとなしい」「印象が淡い」という印象を抱くのである。

 私は歌集題名の『no news』を見たとき、もう少し何とかならないかと感じた。それは小池光の『日々の思い出』という題名を見た時の第一印象とよく似ている。しかし、歌集に収録された歌を読み、あとがきの「『目新しいことひとつない(ノーニューズ)』青年期であったが、そのありふれた事柄でさえ、的確にコトバで捉えたと実感できる瞬間はごく稀にしか訪れない」というくだりを読んで、得心するところがあった。

 これは小笠原賢二の次のような言葉と、遠く呼応するように思われる。

 「現代歌人たちは、のっぺらぼうに広がる時空を前に、辛うじて定型によって自らに根拠を与え続けざるを得ない。その空しさに日々耐え、充足させようのない渇きをとりあえず満たすために、強迫的に歌わざるを得なくなった。平和と豊かさのなかで爛熟した時代の、シーシュポスの神話を身をもって実践さぜるを得ないのである」(「同義反復という徒労」『終焉からの問い』所収)

 島田が日常の身の回りの「微細な推移感覚」に拘泥するのは、時代論的にはこのような背景があるのではないだろうか。このような認識を踏まえて見れば、三枝昂之の次のような評は正鵠を射ているように思われて来るのである。

「島田の歌に虚無があるのではない。むしろ逆で、眼前の小さな手触りに心を傾けることが世界へ触手を伸ばすことに繋がるといった悲観も楽観もない強い意志がそこにはある。それが文語表現の凝集力を伴った説得力になっているところに、島田の新しさがある」(三枝昂之「青春歌の風向き」『短歌年鑑』平成16年度版)

 永田和宏は島田を評して、「老成している」と述べたそうだ。青春の昂揚を歌わず、「眼前の小さな手触りに心を傾ける」のは、確かに生活圏の狭くなった老人の眼差しにどこか似ている。また加藤治郎は、「制御不能な破れたものが浸出したとき、定型との対話が始まるのではないだろうか。島田幸典を注視したいと思っている」と述べている。島田の上手すぎる定型の措辞が、制御不能になる時が来るのだろうか。それもまた楽しみなことである。

 最後に一首あげておこう。便器がこのように美しく詠われたことはかつてなかろう。これもまた「眼前の小さな手触り」の一例であることは言うまでもない。

 ひとおらぬときしも洩るる朝かげに便器は照るらんかその白たえに

063:2004年8月 第1週 魚村晋太郎
または、修辞的技巧のかなたに垣間見える虚無を立ち上げよ

罎の内側から見ると恋人は
    救世主(メシア)のやうに甘く爛れて

        魚村晋太郎『銀耳』(砂子屋書房)
 歌集の題名は「ぎんじ」と読む。中華料理の食材として、また漢方薬として珍重される白木耳を乾燥させたものをいう。銀耳を甘い砂糖液で煮たデザートは、歯ごたえが楽しく、私も愛好する一品だ。「銀耳」という漢字には強いイメージの喚起力があり、中国音「インアル」もまた美しい。集中にある「中華スープの銀耳(しろきくらげ)が生えてゐる場所をある日の憧れとして」から採られたものである。作者魚村はこの銀耳30首で2001年に第44回短歌研究新人賞次席に入選している。イメージの喚起力の強い漢字へのこだわりと、掲載歌の初句・二句の大胆な句跨りから容易に推測されるように、魚村は塚本邦雄の主宰する「玲瓏」会員である。

 「罎の内側から見る」というあり得ない仮想の視点への想像力による移動、メシアというキリスト教用語の喚起する世紀末の匂い、そして「恋人が甘く爛れている」という終末的快楽の暗示。魚村の構築する短歌の世界は、このように選ばれた言葉が織りなす交響曲のようなイメージの世界であり、その鍵は抜群の修辞の力だと言ってよい。

 包丁に獣脂の曇り しなかつた事を咎めに隣人が来る

 ゆつくりと人を裏切る 芽キャベツのポトフで遅い昼をすませて

 人間の壊れやすさ、と思ひつつ炙られた海老の頭をしやぶる

 核心に触れない 服を脱ぐやうに洋梨(ペアー)をむいてゐるひとの指

 パエーリヤに口開く貝 物分りのいい恋人の舌がつめたい

 いささか恣意的に集中より何首かあげたが、ここには魚村の作歌技法の特徴がよく出ている。その第一は二句切れが多いことである。三枝昴之『現代短歌の修辞学』(ながらみ書房)所収の討論において、塚本邦雄は自分の短歌の特徴として、「二句切れが多い」「第五句が一音足りない」「初句に字余りが多い」の三点をあげている。実例を見てみよう。 

 日常にわれら死す 夏ひばり火の囀り耳の底に封じて (二句切れ)

 あたらしき墓立つは家建つよりもはれやかにわがこころの夏至 (第五句一音欠落)

 聴きつつ睡るラジオの底の夏祭りそこ曲がり紫陽花を傷むるな (初句字余り)

 だから魚村に二句切れが多いのは、塚本の修辞を綿密に研究した結果なのである。

 上にあげた魚村の短歌のもうひとつの特徴は、「叙景表現」と「情意表現」の切断である。一首目、「包丁に獣脂の曇り」は肉を切った脂の曇りが包丁に残るという叙景で、残りの「しなかつた事を咎めに隣人が来る」は出来事の叙述ではあるが、一首の意味の重心はこちらにあり、濡れ衣を着せられた〈私〉の困惑が当然想像される。ところが、「包丁に獣脂の曇り」という叙景表現と三句以下は、一字あけによって切断されており、ここには期待される短歌的喩の関係が不在である。しかし、この不在は読みの多様性を生む。包丁に残る獣脂の曇りは、実は私が犯した犯罪の痕跡かもしれない。また時系列を逆転し、濡れ衣を着せられたことで、私に殺意が芽生え、それを受けて包丁が曇ったのかもしれない。このように、二句切れによる宙吊り感に加えて、「叙景表現」と「情意表現」を意図的に切断することによって、作者はその切断面に新たな意味が生成されることをめざしているのではないかと思える。

 二首目でもやはり、「ゆつくりと人を裏切る」という前半と、「芽キャベツのポトフで遅い昼をすませて」のあいだは一字あけで切断されて、しかもごていねいに倒置されている。三首目「人間の壊れやすさ」は内心の思いであり情意表現であるが、三句以下の「と思ひつつ炙られた海老の頭をしやぶる」は、その思いを受け止める常識的な喩とはなっていない。つまり、短歌の韻文としての基本構造を、「問」と「答え」による「合わせ鏡の構造」に求めた永田和宏の定理をいかにずらした地点で短歌を成立させるかという試みが、魚村の作歌の中核を成しているのではないかと推察される。

 これに比べれば、四首目と五首目はもう少しわかりやすい。「服を脱ぐやうに洋梨(ペアー)をむいてゐるひとの指」は叙景表現でありながら、「核心に触れない」という相手 (女性であろう) の蛇の生殺しのような態度の喩として成立している。また、「パエーリヤに口開く貝」は叙景としても読めるが、三句以下を導く単なる修辞的喩としても読める。

 韻律の点でも魚村の修辞力は発揮されている。

 夜明け 林檎の歯型みるみる鮮やかになりて恋敵の秘密知る

 子らは父を仕留めにでかけ薄ら陽の路上にランドセルが置きざり

 一首目は三音初句切れと見るとあんまりなので、ここは一字あけによる視覚的効果と、韻律的切れをずらしていると見るべきだろう。二首目でも、初句「子らは父を」は一音増、「路上にランド / セルが置きざり」という句跨りがあり、前衛短歌の修辞を十分に自家薬籠中のものとしていることがわかる。

 さて、では魚村がこのような抜群の修辞力を駆使して作る短歌が描こうとする世界とはどのようなものか。これがいまひとつはっきりと結像しないうらみが残るのである。

 「蠅はみんな同じ夢を見る」といふ静けき真昼 ひとを待ちをり

 どれが私の欲望なのか傘立てに並ぶビニールの傘の白い柄

 冥途の土産なき身の丈を夜行バスの座席に預けつつ冬の旅

 ぼくたちは失敗のあとを生きてゐるポットにティーの葉ををどらせて

 注文した通りのピッツァが届くだろう悪役が死をたまはる頃に

 一首目に漂っているのは、並列化された世界にたいする漠然とした倦怠感のようだ。この感覚は二首目にも顕著で、傘立てに並ぶビニール傘がどれも似ているように、自分の欲望すらも並列化されている。三首目は自分には冥途の土産がないという達成感の欠落。四首目はもっとはっきりしたペシミスムと終末感が漂う。五首目、TVドラマで悪役が定石通りに死ぬまでのわずかな時間のあいだに、注文通りの宅配ピザが届くというのは、意外な展開のないシステム化された日常を詠っているようだ。

 1965年生まれで、バブル経済の最盛期に成人を迎え、今年で39歳になる魚村にとって、撃つべき相手とは何か。これはむずかしい課題である。荻原裕幸と穂村弘はともに1962年生まれだから、世代的には魚村もニューウェーヴ短歌に与してもよい世代なのだ。魚村の抜群の修辞力の陰に隠れてしまっているが、魚村も「ぼくたちはつるつるのゴーフルだ」と書いた穂村と、世界観の点ではそれほど違わない地点にいるのかも知れないと感じてしまうのである。

 歌人は短歌によって世界の認識を語る。そのなかに否応なく認識する主体としての〈私〉が浮上する。魚村の短歌には、まだ滲み出る苦い〈私〉が希薄なようだ。撃つべき相手を認識したとき、魚村の〈私〉も相関的に立ち上がるだろう。

 最後に集中特に印象に残った歌をあげておこう。

 失意にも北限はあり雨中(あまなか)を荷主不明の百合の貨車着く

 かつて天動説 傾ぐオリオンを蹴り上げて少年筋斗切る

 神戸ルミナリエ 鎮魂の灯につながりて彼方に原子炉の火黙せり

 肉挽き器(ミンサー)を溢るる挽肉(ミンチ)かなしみは悲しむひとを容(ゆる)しやすくて

 死ではない終はりを持つてゐるひとがありの実を剥く皮をたらして

ぬばたまの鴉は生と死のあはひにて声高く啼く──大塚寅彦の短歌世界

 大塚寅彦が1982年に「刺青天使」30首により短歌研究新人賞を受賞したのは、若干21歳の時である。繊細な感受性が震えるようなその端正な文語定型短歌は、とても20歳そこそこの青年の手になるものとは思えないほどの完成度を示している。それから20年余を経て、口語ライトヴァース全盛の現在となっては、もはや遠い奇跡のようにすら感じられる。穂村弘は、大塚の「をさなさははたかりそめの老いに似て春雪かづきゐたるわが髪」を引いて、「このような高度な文体を自由に使いこなす若者は彼らを最後に絶滅した」と述べた(『短歌ヴァーサス』2号)。ちなみにここに言う「彼ら」とは、大塚、中山明、紀野恵の三人をさす。大塚はこのように文芸において早熟の人なのである。そしてこのことは、大塚の短歌に深い刻印を残しているように思われる。

 1985年の第一歌集『刺青天使』を代表すると思われる二首がある。

 烏羽玉の音盤(ディスク)めぐれりひと無きのちわれも大鴉を飼へるひとりか 

 翼痕のいたみを忘るべく抱くと淡く刺青のごとき静脈 

「烏羽玉の」は「黒」にかかる枕詞だから、古風に音盤と書かれたレコードは、黒光りするLPレコードか、ひょっとするとSPレコードかもしれない。「大鴉」はもちろんエドガー・アラン・ポーの長詩 Ravenで、Nevermore と陰気にリフレインを響かせたあの鴉である。「われも大鴉を飼へるひとり」とは、自己の内部に鴉に象徴されるものを秘めているということだろう。それは自らの内に刻印された運命としての資質であり、大塚の詩想の源泉でもある。大塚には他にも鴉の歌があるが、『ガウディの月』所収の「選ばれて鴉となりし者ならむゆらりと初冬の路に降り来て」にも明らかなように、自らを宿命によって選ばれた者であるとする密かな矜持がある。これは『刺青天使』において特に強く感じられるように思う。

 右にあげた二首目は、歌集の題名にもなった歌である。「翼痕」とあるのだから、何ゆえか天使が羽をもがれてこの地上に堕されている。浮き出す青い静脈が刺青のように見えるという歌だ。地上に堕された天使は、天上的特性と地上的特性を併せ持つ両義的存在である。天上と地上のあいだで引き裂かれている天使は、この世に生を受けて生きている不思議と不全感の喩として、歌集全体を紋章のように刻印している。それは集中の次のような歌に明らかである。

 いづくより得し夢想の血 をさなくてみどり漉す陽に瞑りてゐき

 わが鳥のふかき飛翔を容るるべく真冬真澄の空はあらむを

 せいねんの肉体を持つふしぎさに 夜半の鏡裡に到るときのま

 いつの頃からか宿った夢想の血、地上にあって青年の肉体を持つ違和感、自らを堕天使と思いなす感覚、これは文芸において早熟な若者が抱きがちな魂の影である。ランボーの塔の歌を、ラディゲのペリカンを、三島由紀夫の貴種流離幻想を思い出すがよい。客観的に見れば確かに青年のナルシシズムである。しかし、このような魂の影は文芸の胚珠であり、そこから次のような美しい歌が生まれる。

 みづからの棘に傷つきたるごとし真紅の芽吹きもつ夏薔薇は

 花の屍ににじむつきかげ いもうとの匂ひ百花香(ポプリ)のうちにまじりて

 ところが、自らを羽をもがれた天使に仮託した青年の矜持と幻想は、第二歌集『空とぶ女友達』、第三歌集『声』、第四歌集『ガウディの月』と読み進むにしたがって、だんだんと薄れて行くように感じられる。かわって目につくようになるのは、世界と自分とのかすかな違和感を詠んだ歌と、倦怠と孤独を感じさせる歌である。

 天使想ふことなく久してのひらに雲のきれはしなす羽毛享く

 倦怠を肝(かん)のせゐとし臥しをればジョニ赤の男(ひと)卓を歩めり

 炙かれゐたる魚の白眼うるみつつ哀れむごとしわが独りの餉

 地上に長く暮していると、天使を思うことも少なくなる。天上的特性が薄れて、地上的特性が優位を占めるようになる。天使といえどもこの汚濁の世に生きれば、否応なく日々の塵埃にまみれるのである。かわって表に顔を出すのは、早熟の代償としての老成である。次のような歌に注目しよう。

 モニターにきみは映れり 微笑をみえない走査線に割かれて

 秋のあめふいにやさしも街なかをレプリカントのごとく歩めば

 育ちたるクローンに脳を移植して二十一世紀の終り見たし

 モデルハウス群しんかんと人間の滅びしのちの清らかさ見す

 SF界の鬼才フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を映画化した『ブレード・ランナー』に登場する人造人間レプリカントのように街を歩く私。ハウジングセンターに人間が滅亡した未来を幻視し、恋人はもはやモニターに映し出されるヴァーチャルな存在にすぎない。『現代短歌最前線』(北溟社)上巻の自選100首に添えられた文章は「2033年トラヒコ72歳」と題されている。AIに生活全般を世話されている72歳の老人になったトラヒコの物語である。この設定は意味深長と言わねばならない。

 この短文を読んで、小松左京の『オルガ』というSF短編を思い出した。舞台は人間がサイボーグ化により200歳もの長命を獲得した未来社会である。しかし人間はその代償として生殖能力を喪失している。主人公の老人は公園で思い切って見知らぬ婦人にいっしょにオルガを飲まないかと誘う。婦人は顔を赤らめるが承知し、ふたりは喫茶店でオルガを飲む。オルガとは長命の代償として失った性的快感の代替品なのである。喫茶店の外を見ると、そこにはヒトという種が迎えた晩秋の荒涼とした風景が広がっているという、なぜか心に残る物語である。

 文芸の世界で早熟は栄光であると同時に災厄でもある。穂村弘が「高度な文体を使いこなす若者たち」の一人として名をあげた中山明は、第二歌集『愛の挨拶』以後短歌の世界から距離を置き沈黙して久しい。最後の歌集『ラスト・トレイン』は中山のホームページ翡翠通信で読めるのみであり、そこに収められた歌には透明な惜別感が充満していて、胸が痛いほどである。これにたいして大塚は、第一歌集を見事に刻印した早熟の代償として、早すぎる老成を自ら選択したように思えるのである。

 第四歌集『ガウディの月』には、それまでの歌集にはあまり見られなかった作者の日常の出来事に題材をとった日常詠・機会詠が多く収められている。

 独りの荷解く夜の部屋の新畳にほへば旅のやうな静けさ

 職場出て芝に憩へばくちなはの陽の沁みとほる蛻のわれは

 うすべににこころ疾む日やひいやりと弥生の医師の触診を受く

 親の死、姉の入院と手術、また自分自身の手術、先輩歌人永井陽子の死、転居と、人生の節目となるような出来事が続いて起きたことがここに作用しているのは明らかである。しかし、それだけがこのような歌風の変化の原因とは思えないような気がするのである。私はここで「方法として選択された老成」という言葉を使ってみたくなる。その意味するところは、より日常の些事に拘泥することで、地上的特性が優位を占めこの世に生きる自分の身辺のなかに静かに抒情を歌うというほどのことである。『ガウディの月』に収められた歌の中にしばしば顔を出す諦観と疲労感は、このような短歌に対する態度と無縁ではないだろう。もちろんこのような態度からも美しい歌は生まれる。それは次のような歌であり、これらを読むとき私たちのなかには、静かだが深く心に刺さるものが残されるのである。

 蜻蛉は透き羽にひかりためながらわがめぐりを舞ふ死者の軽さに

 わがめぐりのみにゆらめき世界より隔つる冬の陽炎のあり

 湖にみづ倦みをらむ明るさをめぐりてあればいのち淡かり



『短歌』(中部短歌会)2004年7月号掲載

062:2004年7月 第4週 喜多昭夫
または、あくまで目線低く「ズムルケ感」にあこがれる歌

水の面にはなびらはのり
   はなびらの運ばるるゆゑみづぞ流るる

          喜多昭夫『夜店』(雁書館)
 掲載歌は作者の故郷であり、現在も住まいのある金沢の桜を詠ったものである。水面にはなびらが流れるゆえに水が流れるというのは論理的には誤謬だが、短歌的には真実である。普段は水の流れを意識しないゆるやかな水流でも、その面に桜の落花があると、動きがよくわかり、ああこんな溝のような川でも流れているのだなと気づかされる。喜多昭夫の『夜店』は、短歌は世界を詠うのではなく、世界の〈認識〉を詠う文学形式であることをあらためて教えてくれる歌集である。

 掲載歌は姿形も韻律も流れるように美しい歌だが、歌集『夜店』を代表する歌とは言い難い。むしろこの歌集では少数派に属する。多数を占めているのは次のような、まったく趣のちがう歌である。

 紫電改といふいかめしき名前もつ育毛剤ありがたく振る

 どこからが頭なのか分からねどなでなでしたきこの大海鼠

 そのむかしバス停近くの看板に水原弘は殺虫剤(アース)を持ちたり

 地味といふことをいふならなかんづく切手の裏に付着せし糊

 眉にやや力を込めてうな重のたれ少なきを嘆く妻はや

 次の世はどさんこに生れ競はずに愉しみ駆けよサイレントスズカ

 手首には真白きテニスバンド巻き伏目がちなるリスカをとめご

 掲載歌のように美しく、いかにも短歌的な歌も作ろうと思えば、巧者の喜多ならばいくらでも作れるのだ。しかし、喜多の目指すラインはちがっている。上に挙げた歌群を特徴づけるのは、韻律的には「トーンの低さ」であり、主題的には「目線の低さ」である。詠い上げるのではなく、変な言い方だが「詠い下げる」ことを目指していると思える。

 一首目、紫電改というごたいそうな商品名の育毛剤を自分の頭に振る作者は、どうしようもなく中年男である。喜多は1963年生まれなのでまだ40歳だが、薄毛が進行しているのだろうか。二首目のすぐ前には海鼠になりたいという歌もあるので、海底にうずくまる海鼠は作者の自己像である。三首目のバス停近くの看板は、今では懐かしい琺瑯看板だろう。水原弘が「黒い花びら」を歌って第1回レコード大賞を受賞したのは1959年のことだから、喜多はまだ生まれていない。だから「そのむかし」は現実の記憶ではなく、偽装された記憶であり、喜多は描く自己像は実際よりも年寄りなのである。四首目は「地味尽くし」の連作のなかの一首。切手の裏の糊という、文字通り日の当たらない存在をわざわざ取り上げていて、作者の「目線の低さ」を象徴する。この歌集には妻を詠った歌が多いが、五首目はその白眉。たれの少なさに眉に力を込めて嘆くというところに、おかしみと日常の些事へのこだわりがある。六首目、サイレントスズカは、圧倒的強さを誇りながら、1998年11月1日、府中競馬場で開催された天皇賞レースで、第三コーナーを曲がったところで骨折し、薬殺された悲劇の競馬馬である。生まれ変わったらのんびり暮らせと詠うこの歌は、だから挽歌である。七首目のリスカは、リストカットの略で、思春期の少女に多い自傷行為。作者は高校教員で、カウンセラーの研修を受けた折りのことを詠んだ歌もあるので、これは職場詠ということになろう。

 歌集のなかに「こころがけ」という連作があり、これは作歌の心得を歌にしたものである。

 才能は歌殺すゆゑ才八分くらゐにとどめ歌ふこと大事

 ふだん着のこころで歌ふこと大事あとはなあんにも考えるなよ

 「才八分」で「ふだん着」が信条だから、変に肩に力の入った歌は作らないという決意表明なのだ。「目線の低さ」のよって来る処である。

 喜多にはすでに『青夕焼』『銀桃』という歌集があり、『夜店』は第三歌集だという。私は例によって歌壇に昏いので、今までの歌集は読んだことがないのだが、『夜店』は注目されているらしく、あちこちに書評が載った。今井恵子は『歌壇』2004年5月号の「最近、おもしろい歌集を読みましたか 私の見つけた名歌集」という特集で『夜店』を取り上げ、「負性の肯定」という言葉で語っている。「表通りからはずれた路地の暗がりで、声もあげずに埋没していってしまうような感情や意識」を取り上げて肯定するという作者の目線にその特徴を見いだしている。確かにそうなのだが、それでは上に挙げた歌群が結像する「海鼠になりたいと思いながら育毛剤を頭に振る〈私〉」がこぼれてしまう。また今井は、「路地裏の小さな感情や意識は、人間の普遍へとつながり膨らむのである」と結んでいるが、本当に喜多はそんなことを目指しているのだろうか。「ふだん着」が信条の喜多が、「人間の普遍」など目指すはずがない。

 中部短歌会の『短歌』2003年11月号には、岡嶋憲治の長文の書評がある。岡嶋のトーンは苦言であり、かつて「青空にレモンの輪切り幾千枚漂ひつつも吾を統ぶ、夏」のような秀歌を残した喜多が、『夜店』では「調子が落ちて」「若々しさやエネルギーが失われて」おり、「『青夕焼』の切り開いた地平からの後退」だと断じている。私は『青夕焼』『銀桃』を読んでいないので、大きなことは言えないのだが、本当に岡嶋の言うとおりなのだろうか。『夜店』のトーンの低さや、どこか腑抜けたようなズルズル感を、「後退」とのみ断じていいのだろうか。

 この問題を解く鍵は、中部短歌会の『短歌』2004年7月号に掲載された喜多自身の文章「ぽっかりと口ひらく 香山ゆき江歌集『水も匂わぬ』を読む」にあるようだ。喜多は最近読んだ歌集で「スゴイなあ」と思ったものとして、高野公彦『渾円球』、前登志夫『鳥総立』、馬場あき子『九花』と並んで、無名の香山ゆき江『水も匂わぬ』を挙げている。「名歌集」ではなく「スゴイなあ」と思った歌集という所がポイントである。喜多は香山の次のような歌を引用して褒めている。

 まむしのような目をして夫が手招くに気合いを入れてわれの近づく

 錯乱の夫の眼はどんよりと底力ありわれはたぢろぐ

 わたしより視線はなさぬ遺影なり右に左に動いてみるが

 照れくさき顔して夫の逝きしより一回忌来てわが厚化粧

 喜多は香山ゆき江を評して、「この歌人は人道主義に陥らない」で「ただあるがままに受けとめる」、人だとし、「やっぱり生。生がいい。このズルムケ感がたまらなくいいのだ」とまとめている。

 「批評とは畢竟自己を語ることである」と喝破したのは小林秀雄だが、人の歌集の評価はそのまま己に還ってくる。喜多が香山ゆき江の歌集に贈る言葉は、喜多自身が自分の歌集で目指している境地に他ならない。「ズルムケ感」とは、表面を取り繕うことなく皮膚を晒しているということであり、また剥がれた皮膚の下から血を流しているということでもある。この「ナマ感覚」が、現在の時点での喜多が短歌に見いだしている「リアルなもの」なのだろう。「リアルでないもの」は、「作り物」「お体裁」「人道主義」「トーンの高さ」である。喜多はだから、「トーンの低さ」と「目線の低さ」を徹底することで、「リアルなもの」を掴めと主張しているのである。これを岡嶋のように、「『青夕焼』の切り開いた地平からの後退」と、一方的に断定されては、作者の立つ瀬がなかろう。私は個人的には、喜多の言う「ズルムケ感」が今の短歌にとっていちばんよいものとは思わないが、喜多がそのような境地に惹かれる理由は理解できるし、それが岡嶋の言うような「後退」だとも考えない。ある意味でそれは喜多の作歌態度の「深化」とも言えるからである。散見した書評には、このような解釈を前提として書かれたものは見られなかった。喜多が『夜店』で示した姿勢は、「現代の短歌にとってリアルなものとは何か」という重要な問題に繋がるものなのに、残念なことだ。

 喜多が『夜店』で実践して見せた「目線の低さ」と「裸丸出しの自己像」(もちろんこれも演出のひとつである)が、岡嶋から「後退」と否定的評価をされてしまうのは、喜多のような姿勢がひょっとしたら短歌の生理とは相性が悪いためかもしれない。というのは、伝統的和歌は祝祭的出自を持っているし(宮中の歌会始に続く伝統) 、山下雅人が言っているように、「短歌はすべて挽歌である」というところがあるからだ(福島泰樹の短歌を見よ)。祝祭の晴れがましい場に「ズルムケ感」は闖入者のようにそぐわないし、挽歌はその生理としてなべてトーンが高い。

 これに関しては、『夜店』のあとがきに長谷川櫂への謝辞があって、おやっと思った。喜多は俳句と近いところにいるのであり、私が知らないだけで句作もあるのかもしれない。いやあるにちがいない。そう思って見れば、『夜店』に収録された歌には、俳句・川柳・都々逸の調子の歌がある。

 たとえば次の坪内稔典の俳句と比較してみたらどうだろう。

 春の坂丸大ハムが泣いている

 桜散るあなたも河馬になりなさい

 がんばるわなんて言うなよ草の花

 春の蛇口は「下向きばかりにあきました」

 河馬は坪内お好みの自己像であり、喜多の海鼠と通じるところがある。俳人にはこのように、プロメテウス的に高い処を目指すのではなく、諧謔と軽みをまぶして自分を低くする態度がある。また草の花や水道の蛇口などに寄せる視線は、徹底的に日常的で低い視線である。だから喜多の『夜店』のトーンの低さは、作者の俳句的世界認識の型に由来するのかもしれないのである。

 最後に、短歌的修辞と喜多の考える「リアルなもの」とのバランスが均衡していると思われる歌をあげておこう。これらは私には十分に美しいものと思えるのである。

 目薬の目に落つるまで飛行せり春の一日の最終便か

 睡蓮の蕾思ひて夕暮れの大観覧車に一人乗り込む

 卓上にありて遙かなサンキスト・レモンに緑の刻印はあり

 風受くることなきままに常しへに帆をあげてゐるボトルシップは

 砂丘(すなおか)に膝折りたたみ腹這ひていかなる神も持たず駱駝は

 煮えてゆく小豆の粒のやはらかさ死までの時間あとどのくらゐ

 側溝の泥にまみれてくれなゐの都こんぶの小さき箱あり